天使災害特別措置法

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天使災害特別措置法

 
「お姉ちゃん、今日こそ天使を引いてね?」
 高校の廊下を歩きながら柊亜とあが軽口を叩くと、周りに群がるクラスメイトたちが一斉に笑いだした。
 柊亜が肩からさげる学校指定のバッグには、細長いピンクのウサギや、なんの動物か分からない白い毛玉のストラップ、それから吉祥寺のアニメストアで買ったらしい好きなキャラのアクリルキーホルダーとかがじゃらじゃらとついていて、その端には、天使災害特別措置法による検閲済みのシールが貼られていた。
 柊亜が体を揺らすと、ウサギのプラスチックの目も揺れて、ときおり思い出したようにわたしに目線を向けた。
「おみくじみたいに言わないでよ。天使を見たら志望校を変えないといけないから嫌」
 わたしの返事を聞くと、将来の心配をしてくれない二卵性双生児の妹は歯を見せないように、あざとく片手で覆い隠して「なんとかしてごまかせば大丈夫じゃない? 見たらどんな姿か教えてね」と笑う。柊亜に金魚のフンのようにいつもくっつくクラスメイトも「ナギちゃん、わたしたちにも教えてね」と言うけどわたしは教える気はない。この子は柊亜の笑うときの癖が嫌いだと、トイレの洗面所で何度も聞かしてきた。知ったことか。わたしはお母さんのお腹から柊亜よりも数分だけ早く出てきただけなのに。
 柊亜たちの背後、窓の外は暗い曇り空が広がっていた。
 梅雨のときの校舎はいつも中途半端に蒸し暑い。雨が止んでいたけれど窓を開けるには湿気がひどく、窓の閉じ切った廊下は汗と制汗剤と濡れたブレザーのにおい、それに歩いているほかの同級生たちが放つ、やかましい声がこもっている。
 なぜか、いつもなら軽く聞き流す柊亜の言葉が胸に刺さった。
 ――もしわたしが天使を引いたら?
 柊亜たちは階段の前で立ち止まると、ウサギのストラップを指でつついた。
「わたしも天使を探そうかな。バイト代いいし」と柊亜はわたしを見上げる。
 柊亜の目はお母さんに似ていて大きかった。父に似たわたしの目は柊亜より細い。まだカメラ付き携帯が合法だったころならわたしは自分の写真を、全部加工アプリで目を大きくして、肌を白くして、頬の形を削ったのに。そもそも、この携帯には親の世代にはあった動画の再生機能も、SNSなんてのも、ブラウザなんてのもなかった。
「バイトじゃないよ。労働じゃないから」
「労働じゃないのにお金もらえるの?」
「労働にするとめんどくさいことになるからって、先生が言ってた」
「ふーん。そういう面倒くさいこと、わたしわからない」と柊亜は指で髪をくるくるいじると、「じゃあ、またね」と言い、そのまま階段を降りていった。
 柊亜の姿が見えなくなる寸前、ウサギのプラスチックの黒目と目が合った。
 わたしは柊亜とは逆に階段を上る。
 これから柊亜たちはわたし抜きで武蔵小金井ムサコの駅前でパンケーキかクレープかを食べてそのあと塾へ行くんだろうと思いながら、踊り場へ着く。
 踊り場の掲示板には令和二十七年度・天使災害安全月間のポスターが画鋲でとめられていた。羽を模した抽象的な形状と光輪みたいな黄色い円。天使の絵は描かれていない。天使を描くと、ポスターそのものが天使災害になる危険性がある。ポスターの下段には『見ない・撮らない・広めない』の標語と、内閣府と厚生労働省と東京都のロゴマークがポスターの空白を埋めるように大きく書かれていた。
 踊り場からふたたび階段を上って、四階に着く。
 廊下は乾く途中の雑巾みたいなにおいが漂う。剥げかけたリノリウムの床、誰かが床に放置した紅茶の一リットルの紙パック。錆びついたロッカー。音楽室の頑丈そうな扉からは音程のあってない金管の音が漏れていた。
 青春の煮凝りみたいなものが、廊下のあちこちで固まっていた。
 だけど、これから行くPC室はその煮凝りの範囲外だった。
 PC室のまえに行くと、木製の引き戸には白い紙が貼られている。

 

東京都立小金井東高校 天使災害防災教育プログラム実施中
 関係者以外入室禁止 写真撮影・録音・記録媒体持込厳禁!
 ※違反者は天使災害特別措置法第十一条(国民協力の努力義務)および文部科学省の告示に基づき退学処分になります

 

PC室の入口に貼る言葉にしては物騒すぎる言葉だった。けれど何度も来るうちに慣れた。なんならそばにある掲示板も物騒だった。生徒会長選挙の演説会のポスター、東京都天使災害犠牲者追悼式典のお知らせ、そして天使初期対応補助員の募集ポスターがテープで雑にとめられ、テープは黄ばんでいる。
 ――ここは、天使との戦いの前線だ。
 わたしは持ってきたカーディガンを羽織って扉を引く。
 エアコンの冷気が、塊のようにどろっとわたしに覆いかぶさった。
 PC室は横長の机が並び、机の上には古いデスクトップ型のパソコンが並ぶ。民間人の所有が禁じられているパソコンはわたしもこの「防災教育プログラム」に参加してはじめて目にした。
 けどすぐには端末の前に行けない。手続きをする必要がある。
 受付の机には生徒が何人か並んで、その反対側で野暮ったいスーツをきた学校事務の職員や、顔を見たことはあるけど話したことのない若い先生たちが、生徒の手首に腕時計のような天使汚染測定器を巻いたり、書類を書かせたりしていた。机にはアルコール消毒液、コットン、プラスチックのトレー、旧式の天使汚染測定器のヘッドギアや、使い捨て手袋が乱雑に置かれている。
「三年C組、椎名しいな凪沙なぎささんですね」
 御厨みくりやさん――プログラムの責任者――がやってきて、わたしと目をあわせず、手元の名簿を見て読んだ。灰色のスーツは洒落ているつもりらしかったが、スーツの襟には小さな毛玉ができていた。首から下げたているのは立川にある広域災害病院・天使災害センターの職員証で、わたしが二年生のときは東京都の職員証がぶらさがっていたけど、「しゅっこう」なんてことをしてそこにいるらしい。
「前回のプログラムから今日までに、汚染誘発等行動にあたることはしましたか?」
 御厨さんはいつもどおり、すごく回りくどい喋り方をする。
「してません」とわたしは答える。大人からこういう質問をされると、自分の身体のどこかに、見つかっていない汚れがあるような気がして嫌だった。耳の裏、うなじ、おへそ、足の指と指の間。お風呂場でごしごし体を洗っても洗っても、洗いきれていないところをじろじろ見られているような感覚。やましいことをしていないのにやましい気持ち。
 当然、やましいことはしていない。家と学校と武蔵小金井駅前の塾をぐるぐる回るだけの生活だ。
 御厨さんは、机の上から大きなヘッドギアを持ちあげる。
「では汚染レベルを測定します」
 御厨さんがわたしにヘッドギアを被せる。手首で測定するタイプのほうがよかったのに。大げさだし、重いし、内側がいつも微かに湿っている。
 内側のスポンジが額に触れた。消毒液の匂いがする。けれどその下に、前にかぶった誰かの髪の匂いが、ほんの薄く残っている気がする。わたしは息を止めた。
 御厨さんはわたしの顔に手を伸ばしあご紐を締める。ヘッドギアからは配線が何本も伸びて、机に置かれた天使汚染測定器につながっている。測定器のスイッチを御厨さんが押して、そこから三十秒静置。どこに捨てればいいかわからない気持ち悪さに耐える。
 PC室に真っ赤な夕陽の光がいきなり差しこむ。窓越しの武蔵野の夕空は雲が切れだし、赤くどろどろとした、血のような光をぶち撒けていた。けど先生たちがブラインドをさげると、その紅い光は部屋から消え去った。
 測定器からアラームが鳴った。小さな画面が緑色に光ると、白抜きの字で『レベル0 正常です』と文字が浮かぶ。
「それじゃ、椎名さん。月が替わったからいつもどおりここにサインしてくださいね。プログラムが終わったら回収します」
 御厨さんはわたしのヘッドギアを外すと、学校でつかうわら半紙でなく、白い紙に刷られた承諾書を渡してきた。

 

承諾書
 私は天使災害特別措置法第十一条第一項に定める天使災害への国民協力の努力義務、第五項に定める国民教育・啓蒙活動への参加の努力義務および関連法令(※法令名は別記)に定める天使初期対応補助員として、厚生労働大臣が指定する広域災害病院の指導のもと、選別作業に従事します。
 なお、私は本作業が労働ではなく、東京都が参画する高等学校での社会参加型防災教育プログラムであることを承知のうえ、従事しています。
 
 署名:

 

労働でない。だったらなんなの? 放課後の高校生が自衛隊や警察のおさがりの天使汚染防止ゴーグルをして広告画像のチェックをする。わたしたちの学校は不動産広告の担当だから、アパートやマンション、一戸建ての画像を見て、そこに映るのが白カビか天使かを判定する。浴室の排水口に絡まった髪の毛のなかに、羽毛状の天使が混じっていないかを見る。便器の裏にへばりついた灰色のしみが、ただの汚れなのか、それとも膝を抱えた胎児のような天使なのかを見分ける。そしてプログラムが終わると、活動費として五千円が入った封筒をもらう。「時給」はクラスメイトがやっている、駅前のジョナサンやイトーヨーカドーのフードコートのバイトよりはるかによかった。
 承諾書とペンをもらって、わたしはPC室の奥にいって座る。
 左手の席にはいつもどおり凛空りくがいた。
 凛空は手首の測定器をじっと見つめていた。みんなが使うのとは一回り大きいそれは、測定に五分もかかるからと先に席に座らされている。ワイシャツの袖口から、手首が出ていた。手は爪の甘皮処理がいつも甘く、乾いた皮が白く浮いていて、でも爪そのものはいつも律儀に短く切ってあった。わたしは凛空のその指を見たかった。ちゃんと世話しているけど、それでもどこか抜けているものを見るのが好きだった。だからその指の持ち主も、当然好きになっていた。
「遅い」と凛空は測定器に顔を向けたまま言った。
「遅刻してないし」と言い返す。
「俺のなかでは遅刻」
 凛空のからかう声は、少年のそれでも大人のそれでもない。もちろん声変わりはしているし、落ち着いていて低い。けど、凛空の声は、少年が大人の男を真似ようとどこか背伸びしているようなトーンをしていた。
「なにそれ。俺のなかでは遅刻って」
「柊亜たちとダベる時間があるなら早く来てよ」と凛空は笑った。凛空も笑うとき、歯を見せない。口の端だけすこし上げる。その気怠さと疲れが入り交じったアンニュイな笑顔を見るたび、わたしは凛空をもっと知りたくなる。その顔の奥にある本当の凛空のことを知りたくなる。
 席に座り、わたしは承諾書を書く。ボールペンの先端が机に当たるたび、こつ、こつ、と小さな音がする。わたしは自分の名前を書く。椎名凪沙。いだすな。父親が何を考えてつけたのか知らないけれど、静かで、さらさらしていて、踏まれたらすぐ形が変わりそうな名前だと思う。実際、わたしはけっこう簡単に変わる。家では家用の凪沙に、学校では学校用の凪沙に、こういう場所では、優等生ならどの高校でも率先して「志願」する、天使初期対応補助員としての凪沙に。
 電子音が鳴る。凛空の測定器からだった。凛空に目を向けると、凛空はすこしホッとした顔をして、すでに配られていた承諾書へサインをしだした。紙の上で凛空のペンの先が動くがすぐ止まる。久我、と苗字を書くはずのところで、前の苗字の「橘」の一画目を書いてしまったのだとわたしにはわかった。母親が再婚したと言ったのはつい最近だった。
 御厨さんが凛空の元へ来る。凛空から測定器を外すとき、御厨さんは承諾書に視線を向けるとすぐに目を背けた。凛空は何も言わず、書き損じた一画目をくちゃくちゃと塗りつぶすと、今度はゆっくり名前を書いた。
 わたしは凛空より早くサインを終えた。凛空に申し訳ないと思ったのと同時に、負けたと思った。黙っている、凛空の鋭くなった目に。本当は冷たい御厨さんの目に。そういう、わたしたちを否応なく大人の社会へ引きずりこむなにかに。
 PC室の古ぼけたスピーカーからチャイムが鳴った。御厨さんが手を叩きながら教壇へあがる。起立、礼、着席。御厨さんは教卓に手をつくと、いったん咳払いした。
「はい、それじゃあプログラムを始めます。まず、吐き気、頭痛、耳鳴り、周囲の発光感、背中からなにかが生えてきそうな感覚。二重にかさなる声や、救済を呼びかけてくる声が聞こえるとか、無性に祈りたい衝動に駆られる。そういうのがあったらすぐ言ってください。隠すと迷惑になるからやめてくださいね」
 迷惑をかけること。つまりそれは、死ぬとか、受肉するとか、災害病院に搬送されて、法的に人間でなくなること。
 教卓に近い机の上で、若手の先生がOHPの電源を入れる。一九九二年生まれの父から言わせれば、OHPは小学校の視聴覚準備室で埃を被っていた機器だったらしいけど、わたしたちは小学校からずっとこれで育ってきた。
 スクリーンに、何度も見させられた年表が映る。二〇二八年、シンギュラリティ到来。御厨さんは天使災害の歴史を語りだす。
「シンギュラリティは今年、二〇四五年に来ると予想されていましたが、実際は十七年前にきました。その際、AIは人間を滅ぼすのではなく、救済しようとしました。人類のこれまでの不幸は、その貧弱な身体と不完全な脳に原因がある。だから人間をアップデートする必要がある。そう判断したAIは、まず機械の身体を使って物理世界へ干渉しました。これが第一次天使災害です。工場や物流倉庫、港湾や鉱山で働く産業ヒューマノイドや無人搬送車にAIは『天使』を送りこみ、肉体を得ようとしました」
 スライドに工場の写真が写る。暴動を起こしているだろうロボットたちは黒く塗りつぶされていた。実際に何が起きたのかの詳細を、わたしは学校で教えられたことがない。
「各国の政府と軍は、工場ごと、都市ごと、電力と通信を断って災害を終息させました」
 シートが替わる。二〇二八年から二〇三二年までのあいだに、空白があった。
「第一次天使災害のあと、しばらく天使災害は終息したように見えました。しかし、各国政府と軍が情報を統制し、現在でも全容は分かっていません。この期間は便宜上、空白期間と呼ばれています」
 わたしは父の顔を思い出す。父はこの四年間の話になるといつも機嫌が悪くなる。
「そして二〇三二年、第二次天使災害が発生します」
 スクリーンには、黒く塗りつぶされた雲みたいなものと、人間の頭、背中、目、喉、手首が映っていた。そのまわりに、写真や音符のマークのイラストがあり、全部が線でつながれている。
「ここで、言葉を整理します。私たちがいま天使と呼んでいるものには、二つあります」
 御厨さんは、指示棒で黒い雲を叩いた。
「ひとつは、天使本体です。電子空間上に存在する情報体で、音声、言葉、画像、その他記録の集合です。雲のように巨大で、触れることも、捕まえることもできません」
 指示棒はつぎに写真や音符の絵を叩く。
「天使本体は、画像、動画、音声、文章、古い記録媒体などに紛れこみ、それに触れた人間へ、ある場所を示します。ただし、命令としてではありません。本人には、自分で気づいたように感じられる。あそこが気になる。あの白いものを確かめたい。あの場所に行けば、自分の本当の身体がある。そういう感情を起こさせます」
 気になる。確かめたい。その程度なら誰にでもある。だから怖い。命令なら拒める。でも、自分の気持ちの形をしてやってきたものは、拒むのが難しい。
 シートが一枚重ねられる。今度は、人間の輪郭図だった。背中、喉、目、手首、口のまわりが赤く塗りつぶされている。
「もうひとつが、天使触媒です。こちらは現実世界に存在します。天使本体の誘導を受け、自分が人間か天使かあやふやになりかけた人間がこれを体内に取りこむと、一気に受肉へ進むことがあります」
 御厨さんはそこで、少し間を置いた。
「過去に受肉した天使顕現体の身体組織――皮膚、血液、唾液、毛髪、爪、羽毛状組織、体液なども天使触媒になります。ですが、最初の天使触媒がどこから来たのか。誰が、あるいは何がそれを作ったのかも、分かっていません。そもそもなぜ天使本体と天使触媒という二つの仕組みに分かれているのかも分かっていません」
 PC室のどこかで、誰かが小さく咳をした。
「第二次天使災害では、AIは人間の身体そのものへ干渉しました。最初に身体感覚が変わります。背中に何かが生えてきそうな気がする。骨の位置が違う気がする。口や目の場所が、本来の場所からずれている気がする。その感覚に合わせて姿勢や食事、眠り方を変え、天使触媒を探しにいきだす。そして天使触媒を摂取して肉体が変貌し、天使顕現体になります。これが汚染レベル4の『受肉』です。受肉直後は本人の意識が残っている場合があります。会話が成立することも、名前に反応することもあります。レベル4でも体液や剥離組織は触媒になりますが、量は限定的で、隔離と洗浄で抑えこめる場合があります。けれど数日以内に、汚染レベルは5へ進行します。レベル5になった顕現体は自分を天使だと信じ、体液、呼気、剥離させた組織だけでなく、発声や移動そのものを通じて、新たな天使触媒を周囲に撒き散らします。つまり、生きているだけで次の災害の発生源になるのです」
 スクリーンが変わる。世界地図には、白い点がいくつも浮かんでいた。その場所は、天使により支配された地域だった。けど、天使が何体いて、どれだけの規模を支配しているのかはっきりと教えられたことは一度もなかった。
「受肉直後の姿が天使に似ていたことから、この災害は天使災害と呼称されています。ただし、一般に公開できる画像や動画はありません。天使を撮影した記録メディアは、一定のデータ量を超えると、それ自体が天使本体に汚染されるからです」
 見てはいけないものがある。撮ってはいけないものがある。広めてはいけないものがある。天使から社会を守るために、わたしたちは毎年ポスターを見せられ、追悼式典で花を捧げ、承諾書を書き、ゴーグルをつけて天使を探させられる。
 もう一度父の顔を思い出す。立川の広域災害病院と共同研究をしている父は、食卓でときどき、天使を見る技術の話をする。安全に見る。直視しないで見る。見ると災害になるものを、どうすれば見られるようにするのか。父の会社が作っていたのは見るための周辺部品だけで、天使本体の画像そのものは国と病院が握っていた。そういう話をするときだけ、父の声は楽しそうになる。それ以外は嫌いだった。
 でも、研究者としての父ならわたしは尊敬できた。父は天使災害を災害としてだけ見ている。天使災害は人類への天罰とか、日本を変えるチャンスとか、変な意味をつけくわえ、お守りを売りつけるクラスメイトの親たちよりははるかにマシだった。
「こうしてわが国では天使災害特別措置法が作られました。あわせて国際社会が協力して進めたのが、文明縮退計画です」
 シートが替わる。
 個人のパソコン所有禁止。テレビ・映画など映像メディアの即時利用停止。生成画像技術の認可制移行。インターネットサービスの完全国有化。むかしは誰もがSNSというものを使っていたらしいけど、わたしは本物を知らない。父は便利だったと言う。母はなくなってよかったと言う。柊亜は、いまでもあったら絶対わたしは「バズ、、ってたのに」と言う。
「人類は国際間で協調し、便利さを捨ててでも、生き残れる道を選びました」
 御厨さんはシートを重ねた。さっきまでの年表とは違い、そこには棒グラフが載っていた。発生件数。搬送件数。受肉判定件数。法的死亡件数。黒い棒は二〇三四年を境に高くなり、それからすこしずつ低くなって、二〇三九年からはほとんど横ばいになっていた。
「文明縮退計画以後、天使災害の報告件数は大きく減りました。ただ、完全に消えたわけではありません」
 御厨さんはそこで、教室を見回した。わたしには、その視線が凛空のほうへ行った気がした。
「だから、皆さんの作業が必要になります。天使を見つけやすい十代の皆さんの力を使って、天使を社会に漏らさない。地味な確認作業です。見つけたものを自分で判断しようとしないでください。疑わしいものは職員に回す。要再確認にする。勝手に撮らない。持ち出さない。誰かに話さない。これは自分を守るためでもあります」
 御厨さんは、守る、という言葉をすこしだけ丁寧に言った。
 凛空は、天使災害の歴史を聞いているときは退屈そうな顔をしない。けど、その顔は楽しそうなものではなかった。
 御厨さんはシートを外し、茶色いファイルに戻した。
「じゃあ、いつもどおり対応に入ります。ゴーグル着用。違和感、耳鳴り、背部異物感、発光感、その他、いつもと違うことがあったら挙手してください。無理しないでくださいね。無理されるとこちらの処理が増えるので」
 最後の一言だけ、すこし本音に聞こえた。職員たちが青いプラスチックの箱を持って列の間を歩く。箱の中には「おさがり」の天使汚染防止ゴーグルが重なっていた。
 配られたゴーグルをつけると、凛空の目はすこし遠く見えた。凛空もゴーグルをつけ、「どう?」と小声で聞いてきた。
「ダサい」
「即答じゃん」
「天使汚染防止ゴーグルが似合う高校生、嫌でしょ」
「凪沙は似合うよ」
「茶化さないでよ」
 凛空はすこしだけ笑った。歯は見せなかった。ゴーグルの奥でまぶたが細くなる。
 職員たちは一台ずつ端末の電源を入れる。かちり、かちり、とマウスを押すたどたどしい音がPC室に響く。画面の隅に白く細かい字が現れ、すこし遅れて画面の中央に《国土交通省 不動産広告画像等検閲データベース》と表示された。
「ログインしたら自分の割当を確認してください。画像を開いたらよく見て、異常なし、生活上の汚損、不動産業者等が画像を補正した痕、要再確認のボタンを押してください。天使汚染の疑いがあればすぐ職員を呼んで確認。ボタンは勝手に押さないでください」
 御厨さんは、勝手に押さないでください、というところだけすこし強く言った。
 天使災害特別措置法により個人による生成画像技術の利用は禁止され、法人と行政の利用は認可制になった。認可された弱体化AIで加工した電子記録は必ず関係省庁の検閲を受けなければいけない。弱体化されたAIも天使を拡散させるので国際社会が禁じようとしたが、父いわく、AIを軍事兵器として保持したい国家が圧力をかけ、その話は消えた。だからわたしたちは、大人が正気だったらする必要のないことをしている。
 学籍番号とパスワードを打ってログイン。割当の一覧を開く。リフォーム済みの賃貸、公営住宅、ファミリー向けの一戸建て、学生向けワンルーム。画像はだいたい同じ顔をしている。壁。床。カーテン。キッチン。浴室。そのどこかに天使は潜伏している。
 一枚目の画像を開く。府中のワンルーム。異常なしと判断。
 二枚目。国分寺のロフト付きアパート。天井照明に補正痕。
 三枚目。小平の築四十年の団地。浴室の鏡に黒いしみ。生活上の汚損。
 ゴーグル越しの画像は全部不気味に見える。マウスを握る手のひらに汗がにじむ。PC室の冷房は強いのに妙に熱く感じてきた。
 机の下で、なにかがわたしの膝に当たった。すぐ離れると思ったけど離れなかった。
「わざと?」
 わたしは画面を見たまま言った。
「なにが」
「膝」
「当たっただけ」
「嘘」
「じゃあ、わざと」
 ゴーグルをしているせいで、凛空の横顔はよく見えない。けれど声だけで、笑っているのがわかった。ちょっとムカついたけど、膝を引かなかった。
「業務中ですけど」と真面目な口調で言うと、凛空は「対応中でしょ」と言い返す。
「同じでしょ」
「違うよ。業務っていうと労働になるじゃん」
 凛空はからかい返し、左手にマウスを持ち替えた。右手を机の下に落とした。凛空の指がすこし遅れてわたしの左手に触れてきた。冷たい。指先だけが湿っている。旧式の測定器の湿り気はあんなに嫌なのに、凛空の指のは、わたしの手に永遠に残ってほしかった。
 凛空が「労働じゃないなら、もっとふざけないと」とわたしの指をもてあそぶ。
「嫌」
「凪沙はすぐ嫌って言うね」
「凛空がからかってくるからでしょ」
 わたしは凛空の人差し指をなぞった。爪の横のささくれに触れると、凛空の手がすこしびくっとしたような気がした。
 凛空の画面にはリビングが映っていた。白い壁に白いソファ、白いレースカーテン。南向き二面採光と物件情報には書いてあるのに床には影がない。
「これ、補正がきついね」と凛空が言った。
「影がないじゃん」
「影も消せるなら便利だよね。幽霊も消せるかもよ」
「事故物件っぽいこと言わないで」
「人間も補正できたらいいのに」
 わたしは一瞬、手を握る力を強くした。
「わたしは性格を補正してほしい」
「性格は告知事項じゃないから無理」
「告知したほうがいいくらい悪いよ」
「じゃあ、俺が借りる」
 わたしは画面を見たまま頬が熱くなる。ゴーグルをしていてよかったと思った。していなかったらこの顔を凛空にはっきりと見られる。
「性格が悪い部屋に住みたい?」
「そんなこと言ったら、俺にも既往歴あり、、、、、って告知事項があるよ」
 二か月学校を休んで、立川の災害病院に入って、戻ってきたとき、凛空の髪はすこし短くなっていた。わたしは凛空の右耳を見る。後ろには小さな白い傷跡があった。担任は「橘くんは親戚の事情でしばらく休んでいました」と嘘をついた。測定器が大きくなり、父親が病気の凛空を見捨てて母親と別れ、先生たちは凛空に表面上だけ優しくなった。
「そんなこと言わないで」とつぶやき、凛空の手をぎゅっと握る。
 御厨さんはゴーグルをつけて、列の間を歩いている。
 手にはクリップボードを持っていた。
 御厨さんが近づくと、わたしと凛空は手を離した。
「椎名さん、進捗は?」と御厨さんが聞く。
「十六枚です」
「すこし遅いね。精度優先でいいけど、今日は新しく入った子がいるから、慣れている人は多めに作業して」
 御厨さんは凛空の画面を見る。
「久我さん、体調は」
「大丈夫です」
「背中の違和感、耳鳴り、発光感は」
「ありません」
「なら続けてください。無理はしないでね」
 優しい声だった。けれど御厨さんの視線は一回も凛空の顔に向けられず、ゴーグルの側面につけられた簡易天使汚染測定器を見ていた。御厨さんが離れてから、凛空は小さく息を吐いた。
 わたしはまた左手を机の下に落とした。今度は凛空のほうから、すぐに触れてきた。
 十七枚目。画像は学校からすぐの、東小金井駅北口のワンルームだった。築二十九年。二階。敷金礼金なし。告知事項なし。リフォーム済み。窓の外には中央線の高架の影と、道路の向こうのコインランドリーの看板が小さく映っている。なんの変哲もない、このあたりにたくさんある大学の学生が住む、典型的な部屋だった。
 壁にドアがあった。白いドアだった。よく見るとノブがない。蝶番もない。枠もない。白い壁に、それよりすこしだけ白い輪郭が浮かび、ゴーグル越しなのにはっきりわかる。わたしはマウスを動かしズームする。画像が荒れる。けれど白い輪郭は崩れない。画面の乱れでない。弱体化されたAIで画像を補正した痕でもない。
 机の下で、凛空の手がぴくりと動いた。
「凪沙」
「見ないほうがいいよ」
「もう見た。それ、ヤバいよ」
 凛空がふたたび手を握る。
「見ないでって言った」
「凪沙も見てる」
 ゴーグルの簡易測定器が、ガリガリと不規則に音を立てる。嫌な予感がした。ゴーグル越しに文字が浮かびあがる。
 《天使汚染レベル1》
 表示はすぐに消えた。
 PC室の音が遠くなった。
「御厨さん」とわたしは手を上げた。凛空の手が、机の下でまだわたしの指を握っている。離して、と言うべきだったけど言えなかった。
 御厨さんはすぐに来た。首から下げた職員証が机の角に当たり軽く音を立てた。
「どうしましたか?」
「天使汚染の疑いです。ここです。この壁」
 御厨さんは画面をのぞきこんでじっと考えこむ。職員用のゴーグルは高性能だから天使を見ても数十秒は耐えられる。
 御厨さんは「補正痕だね」とつぶやく。
「でも、測定器が反応しました」
「レベルはどれくらい?」
「レベル1。一瞬ですが」
「一瞬ならノイズ。要再確認で処理してください」
「でも、これ、ドアに見えます」
「見えるだけです」
「でも測定器が」
「椎名さん」と御厨さんはわたしの名前を丁寧に呼ぶ。怒鳴られたほうがまだよかった。怒鳴られたらこちらも戦う構えができる。でも御厨さんの顔は違った。面倒な子に当たったという疲れ。余計な問題を増やすなという被害者面。
「ここは断定しないでください。判断を間違えると困る人がでるんです」
「誰がですか」
「みんなです」
 みんな。じゃあみんなって誰? 御厨さんの口から出る「みんな」は、いつも誰のことなのか分からない。生徒。学校。不動産業界。広域災害病院。東京都。厚生労働省。物件の所有者。これからそこに住むかもしれない誰か。たぶん、その全部のようで、結局、誰かは教えてくれない。
 凛空がわたしの手をすこし強く握った。やめとけ、という意味なのか、もっと言え、という意味なのかわからなかった。
「これは画像補正の痕ですが、すこし怪しいので要再確認にしておいてください」
 御厨さんは胸ポケットから赤いボールペンをとりだすと、クリップボードに挟まれた、なにかの表に『要再確認 一件発生』と書いた。字は潰れていて形が崩れていた。
「案件にしなくていいんですか」
「しません」
「どうしてですか」
 御厨さんはそこで、初めてすこしだけ声を落とした。
「久我さんもいるでしょう」
 凛空のクリック音がぴたりと止まる。
「久我さんの前で天使汚染の疑いを立てると、本人の観察区分を上げなきゃいけなくなる。そうなると久我さんはプログラムから外される可能性があります。進路にも響く。椎名さんもそれは望まないでしょう」
 言葉とは裏腹に御厨さんの顔は、脅している顔ではなかった。奥歯に物が挟まったようで、しかも、どことなく苦しい顔をしている。
 凛空が小さく笑った。
「俺、便利ですね」
「要再確認で処理してください。いいですね」
 御厨さんは凛空の言うことを無視した。
 わたしは画面を見た。白いドアはまだそこにあった。見えている。見えているのに、赤いボールペンで要再確認と書かれた瞬間、そこにないことになる。凛空の休学が親戚の事情になったみたいに。労働が教育プログラムになっているみたいに。AIが人間の社会を壊す姿を天使と呼んだように。
 御厨さんはわたしたちから離れる前に、凛空のゴーグルをちらりと見た。
「久我さん、気分は」
「普通です」
「本当に?」
「普通です」
「よかったです」と御厨さんは安堵した口調で言った。
 御厨さんが離れると、凛空は机の下でわたしの手を離した。離したというより、そっと逃がした。
「ごめん」
 わたしは小声で言った。
「なんで凪沙が謝るの」
「凛空のこと、馬鹿にされた気がして」
「慣れてる」
「慣れないでよ」
「他人からの白い目に慣れなかったら、いまごろ退学してる」
 その言葉が、わたしの胸のいちばん柔らかいところへ刺さった。
 凛空の苦しみをわたしは完全に分かちあえない。
 凛空はマウスを動かし、自分の画面で《異常なし》のボタンをクリックした。
「凪沙」
「なに」
「俺のこと、かわいそうだって思ってるでしょ」
 見透かされそうになった。
「そんなわけないよ」
「嘘つくなんて悪いヤツじゃん」
「……いま、仕事中」
「対応中でしょ」と凛空ははじめて歯を見せて笑った。
 わたしは《要再確認》ボタンにカーソルを合わせた。職員は確認した。確認して、要再確認だと言った。わたしはクリックした。
 御厨さんは教卓の前で、別の職員と小声で話していた。赤いボールペンを胸ポケットにしまい、代わりにハンカチで額の汗を拭いている。
 わたしは次の画像を開いた。
 凛空の膝が、もう一度、机の下でわたしの膝に触れた。
 今度は、わたしのほうから凛空へ手を伸ばした。

 

***

 

プログラムが終わり、凛空と小金井公園の休憩所に来ていた。
 休憩所の隣は広大な芝生があり、いつもなら小学生が遊んでいるが、雨上がりなので今日は数えるぐらいしかいなかった。
 今日は塾がなかった。凛空も「今日はまっすぐ帰らなくても平気」と言った。母親が夜勤で、夕飯はコンビニで買えばいいらしい。そういう言い方をする凛空がすこし嫌だったのに、わたしはすこし嬉しかった。
 わたしたちは木のテーブルを挟んで座っていた。ベンチの端は濡れていて、誰かが残したコンビニのレシートが貼りついている。
 凛空は立ちあがると、そばの自販機に近づく。自販機のコーラの広告も脇に検閲済みのマークがあった。飲食物の広告を確認しているのはたしか国分寺の高校生だったはずだ。
 凛空はその広告をじっと見ながら、コーラのペットボトルを買った。
 ペットボトルのキャップを開けながら凛空が言う。
「へー、キャップの裏の数字をハガキに書いて送ればいいの?」
「懸賞?」
「百万円をくれるんだってさ。母さんのパート代何か月分だろ」
 凛空はベンチに座って笑う。宿題の提出を忘れたときのような笑い方だった。何かをごまかしているように見える。実際、凛空はだいたい何かを黙っていた。事情を知ったときは、もうこちらが助けられないところまで事態が進んでいた。両親が離婚したとか、学費を免除してもらったこととか、実は天使に汚染されて入院していたこととか。
 最初、凛空が休学した理由は親戚の事情だと先生から聞かされていた。復学直後、わたしが「大丈夫だったの」と訊くと、凛空は「大丈夫だったから、ここにいる」と言った。完治した、という言葉を凛空も、先生も、御厨さんも一度も使わなかった。社会復帰可能。観察継続。プログラム復帰可。あいまいな言葉ばかりが凛空のまわりに貼られつづけた。健康になったとは誰も言わなかった。耳の後ろの傷が治療痕だとはっきり教えてもらったのは、つい最近だった。ここ最近、いつも凛空の耳の後ろの傷跡ばかり思う。手を伸ばして触れたかった。触れて、凛空の体からそんなものを引きちぎって、最初からなかったことにしたかった。
「かわいそうと思った?」と凛空はキャップを指先でくるくるもてあそぶ。
「そういう言い方、やめて」とわたしは凛空を見つめた。
「人間ってさ、ずっと体に閉じこめられてるじゃん」
「またそれ」
「皮膚とか、骨とか、親の苗字とか、成績とか。そういうものに、これはあなたですって決められる。すげー気持ち悪い」
 凛空はこういう話をすると最後は必ず「天使になりたい」と言う。御厨さんからは、天使汚染レベル3の後遺症だから下手に否定しないようにと言われている。強く否認すると、本人の自己認識が揺れて症状が悪化する可能性があるらしい。
 でも普通なら後遺症は一か月ほどで落ち着くはずだった。凛空は四月に退院して、医者の許可をもらい、六月の頭からようやく初期対応補助員に復帰した。復帰しているのに、ときどき凛空は、自分が人間の社会に仮に置かれているだけみたいな顔をする。
「だからって、天使になりたいの?」
「……うん」
 凛空はコーラを飲んだ。喉が動く。雨上がりの光が、ペットボトルに反射する。ペットボトルから口を離すと凛空は「凪沙はなりたくないの?」と聞いてきた。
「なりたくない」と即答した。
 凛空はゆっくりと目を伏せた。
「……志望校、変えさせられた」
「え、また?」
「理系の学部は実験設備があるから、レベル3以上の既往歴があると入学させられないって。水際対策だか知らないけど、文系学部も、入試の点数が何割か引かれるんだってさ」
「嘘でしょ。凛空が受けられる大学があるから安心してって先生が言ったばかりじゃん」
「俺も昨日聞いた。アイツ、、、を信じた俺がバカだった」
「先生はほかになんて言ってたの」
「旧帝大と医学部の志望者しか眼中にないアイツが何を言うの。職員室まで呼びだしておいて、奨学金を借りるのも既往歴ありだと難しいねってめんどくさそうに言うヤツが」
 凛空は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。口の端だけがすこし上がって、すぐ戻った。歯は見えなかった。わたしは水筒の麦茶を飲んだ。とてもぬるく感じた。
「ひどい」
「ひどいけど、そういうものなんでしょ。天使を見た人間は、社会の敵になる可能性が高いから、臭い物に蓋をすればいいって」
 凛空はそこで、すこしだけ肩をすくめた。
「先生から、航空自衛隊の天使災害部隊へ行かないかってパンフレットを渡された。既往歴がある人間は天使顕現体を殺す仕事に使えるんだってさ。進学は許されないけど、天使から人間を守る盾になるんだったら生きていていいらしいよ。便利だよね、俺」
 凛空の体が震える。震える手からコーラを奪って、ペットボトルごと遠くへ投げ捨てたかった。そういう顔をしないでと言いたかった。自分を便利だなんて言わないで、と怒りたかった。でも言えなかった。わたしには凛空の苦しみの何ひとつも引き受けられない。
 けど、引き受けられないくせに、凛空が世界に絶望して泣きそうになる顔だけはやめさせたかった。
「凛空、あの写真の、窓の外のコインランドリー。あれって東小金井ヒガコの駅の北口だよ」
 凛空の目がすこし明るくなった。
「覚えてるの? 行く気?」
「見たくない?」
「見たくない」
「嘘。凛空のほうがわたしより嘘つきじゃん」
 凛空はすこしだけ安心したみたいに見えた。わたしが怒ると、凛空はときどき安心する。こちら側にまだ何か残っていることを確認するみたいに。わたしが怒るたびに、凛空は自分がまだ人間として扱われていると確かめているのかもしれない。
「そっか」
 凛空は残りのコーラを一気飲みすると、自販機のそばのゴミ箱へ入れた。
「俺さ、病院から帰ってきてから、なにか欠けた感じがあるんだよ。もしかしたら、行けば治るのかな」
 わたしは止めるべきだった。凛空を止めるべきだった。ゴーグル越しにしか見てはいけないものを、直に見に行こうとするなんて、どう考えても危ない。凛空はもう一度、病院へ戻されるかもしれない。
 でもそれ以上に、凛空がわたしの知らないもので苦しんでいるのが嫌だった。凛空を苦しめたものを、大人たちがわたしたちを使ってまで探させるくせに、見つけてしまった生徒は病院送りにして、休学の理由も、凛空の耳の傷も、凛空の未来も、みんな別の言葉で塗りつぶす。わたしは、自分が天使の姿を知らないことが許せなくなった。
「じゃあ、今度の土曜に行かない?」とわたしは提案した。
「俺たちだけで?」
「わたしたち、私服を着れば大学生っぽく見えるでしょ。これから同棲しますって言えば、怪しまれないよ」
「そうかな」
 凛空はあいまいに、すこし照れながら笑う。
 わたしは水筒の蓋を閉めると、その手でテーブルの下にある凛空の膝に触れた。
 凛空はすこし驚いた顔をしたけど、逃げられるくらいの力で手を握り返した。

 

凛空と別れて小金井公園を出るころには空は薄暗くなっていた。公園の南を走る五日市街道には濡れた葉が何枚も貼りついていた。踏むと靴底がすこし滑った。
 高校のすぐ裏、引っ越して十二年のマンションに帰る。
 玄関には柊亜のローファーが斜めに脱ぎ捨てられて片方のかかとがもう片方のつま先に乗っていた。
 玄関で靴を脱いでいると柊亜が廊下に顔を出した。制服のリボンはほどけ、髪は家用の雑なクリップでまとめられている。学校ではあざとく見える目も、家ではただ眠そうな目に見えた。
「おかえり。お姉ちゃん、今日塾ないんだっけ?」
「ない。柊亜は?」
「休講。講師の先生が発熱だって」
 柊亜は疲れをにじませた顔をしてリビングへ戻っていった。手には検閲済みのマーク入りのマンガを持っていた。
 廊下を歩いてリビングに入ると柊亜の顔の原因がわかった。父がもう帰宅して、テーブルにいたのだ。ビールとともに、父の前には銀色の薄い端末と、紙の資料が並んでいた。
 定時帰りだった。昔はもっと遅かった。天使汚染ゴーグルの開発部で部長をしていたころは、毎日、終電で帰ってきて、母に怒られて、それでもどこか誇らしそうだった。シャツの襟元から疲れがこぼれていても、休日出勤をいとわなかった。
 けど、その努力も無駄だったと愚痴をこぼす。部長の席は課長にとられ、父は異動し、職場で一日中、会社の備品の管理台帳を点検させられた。父は異動先を墓場と呼んだ。
 けどその墓場で父はゾンビのように蘇った。立川広域災害病院と共同研究を始めた、と父は何度か食卓で言った。母は聞こえないふりをした。柊亜は「共同っていうとなんか強そう」と言った。わたしは黙っていた。父が嫌いだった。父の、家の中でも偉そうにするところが嫌いだった。わたしと柊亜の誕生日でも、クリスマスでも、お母さんの料理を食べながら仕事の話しかしないところが嫌いだった。
 リビングのラジオがニュースを流していた。どこかの自治体で開かれた天使災害安全月間の啓発イベントの様子だった。羽の絵。黄色い円。『見ない・撮らない・広めない』を職員が小学生に呼びかけ、使い捨てのゴーグルを配る。
 父は鼻で笑った。
「くだらない」
 キッチンで弁当箱を洗っていたお母さんは「凪沙、柊亜」と呼ぶ。
「また始まった」と柊亜が小声で言って、ラジオのチャンネルを変えた。
 わたしはカバンを椅子に置いた。
「今日、プログラムだったな」と父が聞いてきた。
「うん」
「何かあったか」
「別に」
「嘘つけ」
 父の目つきが急に険しくなる。技術者の勘なのか、父親の勘なのかは分からない。すくなくともお母さんが言うには、父はこの目つきで部下を何人か病院送りにして、部長まで出世して、そして転落した。
 柊亜がソファから顔を上げる。
「え、なに。お姉ちゃん、ほんとに天使引いた?」
「引いてない」
「ガチャみたいに言うな」と父が叱る。父はビールを飲んだ。喉仏が動く。昔の父の喉仏は、もっと勢いよく上下していた気がする。
「今日、何を見た? 正直に言った方が楽だぞ」
 父はラジオを消した。リビングが急に静かになった。
 キッチンの水道の音だけが残る。大人はどうして、わたしが隠したいものに、平気で手を突っこんでくるんだろう。
「天使っぽいもの」と言ってからわたしは後悔した。柊亜がマンガを閉じる音がした。母が水を止めた。父はビールの缶をテーブルに置いた。
「そうか」と父は立ち上がった。何も言わずに廊下へ出ていく。母が「あなた」と呼んだが、父は返事をしなかった。柊亜はわたしを見る。母に似た大きな目だった。わたしは見ないふりをした。
 しばらくして父が戻ってきた。手には小さな銀色の機械があった。携帯電話に見えた。でも、わたしが使っている携帯電話と違って折り畳み式じゃないし、画面は大きいし、背面にはレンズが三つも埋めこまれている。
「なにそれ」
 柊亜が身を乗りだし、手を伸ばす。
「勝手に触るな」
 父の声がすこし強くなった。柊亜は、うわ、と言って手を引っこめた。
「試作機だ。視認安全化フィルタを搭載していて、天使の視覚干渉を、一定量まで減衰できる。今度、お前の学校で実証実験が始まるだろ? あれは五号機を使う。この六号機はその改良版だ。文明縮退前に使われていたスマートフォンを、墓場の倉庫に部品が転がっていたから組み立てて改造した。通信機能は殺してあるけど、写真と動画はばっちり撮影できるぞ」
「それ、違法でしょ」
 柊亜は確認するように言った。次の授業が現代文なのか英語なのかを、クラスメイトの誰と誰が付き合っているかを知るみたいに。
「大丈夫だ。関係省庁には実証実験の許可はすでに出ている」
 父の声は硬かった。父は柊亜をじろりと見る。
 柊亜は目を見開く。
「そんなこと言っているんじゃなくて。何に使うの」
「一度でいいから天使を見てみたい。仕事に必要だから画像を見せてくれと国に何度も何度も申請したけど、十年かかって開示してもらったのは黒一色の画像だった。そもそもあいつらは全部奪っていった。開発研究の自由も、技術者の誇りも。父さんの仕事まで」
 最後の言葉がすこし小さく聞こえた。
 父の会社は天使災害の対策品の開発で助成金を受けた。父は天使の視覚干渉を低減するゴーグルを開発し、部長に出世した。わたしたちの家は古い中古の戸建てから立派なマンションへ移れた。リビングには十年前の社内報が飾ってある。表紙にはまだ白髪の生えていない父が、研究棟の前で誇らしげに笑う様子が写っている。
 でも、それが父の人生の頂点だった。
 母がキッチンから出てきた。
「凪沙にそんなものを渡してどうするの」
「天使を記録するには、媒体が必要だろ」
「危ないでしょう」
「記録しなきゃいけないから記録するんだ」
「あなたはいつもそう。子どもをこれ以上巻きこまないで」
 母の声は静かだった。
 わたしと柊亜は私立中に通っていた。どこからか父の左遷の噂が漏れ、わたしたちは同級生に後ろ指をさされて、柊亜は靴とかばんを隠され、都立高校に行った。最初は嫌だった。でも、いまでは感謝している。父が左遷されなければ凛空と会うことは絶対になかったのだから。
 柊亜が父とは別のソファで体を小さくする。柊亜はむかし、父と母のケンカが嫌いだと言っていた。嫌いだからいつも軽いことを言って薄めようとする。でも今回は違った。
 柊亜がマンガの表紙の検閲済みのマークを親指でこすりながら言う。
「お父さん。それ、正しいとか正しくないとかじゃなくて、捕まるやつじゃん。天使が本当にいるかどうかとか、お父さんの会社がひどいとか、そういうのは分かんないよ。分かんないけど、その機械をお姉ちゃんが持って外に出たら、捕まるのはお父さんじゃなくてお姉ちゃんでしょ。退学になるのもお姉ちゃんでしょ。お父さんはさ、もう会社で負けたんでしょ。なんでわたしたちを巻きこむの」
 母が「柊亜、やめて」とたしなめるが柊亜の言葉は止まらなかった。
「負けたっていうか、悔しいのはわかるけど。でも、その負けをお姉ちゃんに持たせないでよ。お姉ちゃん、そういうの持つと絶対に撮影しに行くから」
 わたしは柊亜を見た。柊亜はわたしを見なかった。その口調には、学校のお調子者で一軍の柊亜の片鱗はどこにもなかった。
 父の顔がすこし歪んだ。怒ったようにも、泣きそうにも見えた。けれど結局、父はどちらでもない顔に戻った。会社で何度もそうしてきたのだろうと思った。
 父はわたしを見た。
「防災教育プログラムの延長だ。おまえは自分の目で確かめろ」
 わたしは父の手から端末を受け取った。
 思ったより重かった。
 父の執念の重さだと思った。

 

***

 

東小金井駅のそばから中央線の高架の下をくぐりぬけた。
 目的のアパートは古いアパートと新しいワンルームマンションが混ざる通りにあった。一階には小さな会社の事務所があり、二階から上が住居になっている。向かい側のマンションの一階にはコインランドリーがあった。
 雨は降っていないのに地面だけが湿っている。アパートの駐輪場には骨の曲がったビニール傘が何本も捨てられ、そばのブロック塀には『天使の党』の色あせたポスターが貼られていた。白髪の議員が笑っている。キャッチコピーは《天使は実在しない!》。その下に、誰かが黒いペンで《ふざけんな!》と書いていた。
「いやあ、すみませんね。内見が重なってしまって、いま動かせる車がなくて」
 不動産屋の担当者がハンカチで額の汗を拭いていた。もう片方の手は紙を持っていた。目的の部屋の広告で、要再確認のはずの画像が印刷され、隅にはすでに検閲済みのマークが入れられている。検閲済みマークは本来、電子透かしと照合しなければ意味がない。けれど紙に印刷されたものを、その場で確かめる方法はなかった。
「いいですよ。急ぎなのですぐ見たくて」
 パーカー姿の凛空がうなずく。さすがに高校生が大学生のふりをするのはよくないと凛空が言い、親の代わりに部屋を探していることにしていた。ただ、凛空の母親が家賃の安い部屋を探しているのは本当だった。わたしは凛空の妹という設定になっていた。
「契約はもちろん保護者のかたになりますが、下見だけならご兄妹さんでも大丈夫ですよ。こちら、告知事項なしの物件です。家賃もかなりおさえています」
 担当者は告知事項なしを強調して言った。
 外階段を上がり、目的の部屋の前に着く。隣の部屋の前には雑に折りたたまれた段ボールと、誰かが飲み残した缶コーヒーが置かれていた。
「ところで天使がいなかったらほんとにここへ引っ越すの?」と小声で凛空に聞く。
「引っ越せたらね」
 担当者が鍵をあけて、ドアが開いた。
 ――部屋のなかは白かった。白い、白いフローリング、白い壁、白い天井、白いエアコン、白いクローゼット。
 凛空が先に上がり、靴を脱いだ。靴下のかかとに小さな穴があいていた。わたしはそれを見てしまい、なぜか恥ずかしくなって目をそらした。
「広いね」と凛空は言った。
「十畳でしょ」
「俺の部屋より広い」
 凛空は笑ったけど歯を見せなかった。
 不動産屋の担当者が「すいません、電話が入ったもので」と言って、外へ出ていった。
 わたしも部屋にあがる。
 リビングの窓の外には、画像で見たコインランドリーの看板と中央線の高架が同じ角度で見えた。
 白いドアのあった壁は、キッチン横の何もない壁だった。今は白い壁紙が貼られ、どこにも異常はないはずだった。
 でも壁紙の表面に、白い粉のようなものが薄くついていた。埃か、壁紙の糊か、リフォーム時のパテの残りみたいにも見える。指で触れば消えそうなほど薄い。けれど、その粉はただの粉ではない気がした。
 凛空は壁の前に立った。
「ここだ」
「なにもないよ」
「ある」
「見えるの?」
「見えるっていうか」
 凛空は右手を上げた。指先が壁に触れる前に止まる。
「ここ、壁じゃない」と凛空がつぶやく。
「壁だよ」
「壁なんだけど、違う。白い壁紙の下にあるよ」
「なにが?」
「天使が」
 この世界のどこかで受肉した天使が花粉みたいに触媒を撒き、天使本体が誘導してここまで浮遊させて、壁紙の後ろに固まっている。天使本体は不動産屋が撮った画像を書き換えて、わたしのチェックは御厨さんに握りつぶされ、要再確認の画像は不動産屋に検閲済みにされ、こうしていま凛空が天使触媒を探そうとしている。
「やめて」
「まだ触ってない」
「触らないで」
「凪沙は、見に来ただけって言ってた」
「だから、見るだけ」
「見るって、どこまで?」
 凛空は振り向いた。目が濡れているように見えた。窓から入る曇り空の光のせいかもしれない。あるいは、もう何かが始まっていたのかもしれない。
「凛空、帰ろう」と言ったあとで、もう手遅れだと気づいた。
 凛空は壁に手を触れた。白い粉が壁から噴きだし、白い輪郭が奥から浮かんでくる。ドアだった。ノブも蝶番もない。枠もない。けれど、そこには明らかに、開くための形があった。わかったところで、何も止められなかった。
 白い輪郭の内側が、さらに白い暗闇になった。白い暗闇。そんなものがあるはずないのに、そこにはあった。
 父の声が頭のなかで響く。自分の目で確かめろ。母の声もする。危ないでしょう。柊亜の声も。分かんないものを見に行くの、普通に怖くない?
 みんな正しかった。わたしは、なぜか父の言うことに従うことにした。
 ポケットから父のスマートフォンを取り出した。手が震えていた。画面をつけ、事前に指示された操作をすると、大きな画面にこの白い部屋と、凛空の背中と、わたしの指が映り、「録画中」の文字が表示される。
「嫌だ、やめて。帰ってきて」
「……帰ってきてって言っても、俺はここにいるじゃん」
 凛空の声は、二重に聞こえた。
「凛空はまだ凛空なの?」
 自分でも驚くぐらいすっと出た質問だった。凛空の肩がすこし震えた。笑ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。どちらでもないのかもしれない。
「俺、まだいるよ」
「いるなら、こっち向いて」
 凛空は壁に触れたまま、ゆっくりこちらを振り返った。――画面越しに見る凛空は目の焦点が合っていなかった。瞳孔のまわりに白い輪が浮かんでいた。
 わたしは凛空の腕をつかんだ。冷たかった。冬の日に触る、教室の窓のアルミサッシみたいな冷たさだった。
「離れて」
 凛空は返事をしなかった。代わりに、大きく呼吸した。その音が二重に聞こえた。喉から出る息と、逆に喉へ入る息。低い音と高い音がずれて重なり、わたしの鼓膜を執拗にさするように思えた。
「ああ」
 その声は凛空のものであり、凛空のものではなかった。凛空は口を開けて笑った。今度は歯が見えた。歯茎がすこし白く、唇の端が一気に裂けて血が噴きだす。
「やっと」
 声が複数に割れた。
「身体が、追いついた」
 パーカーの肩のところが、内側から押されたように盛り上がった。パーカーの下で何かがゆっくり移動するとそれは一気に盛りあがり、服は一気に裂けた。
「やめて、凛空、やめて」
 わたしはスマートフォンを片手に持ったまま、もう片方の手で凛空の体を引っ張ったがびくともしない。凛空の体は細い。体育の持久走ではすぐ息を切らす。缶コーヒーのプルタブを開ける指も細い。そのはずなのにわたしの腕の力では、何も動かない。
 凛空の背中を見る。パーカーとシャツは縦に裂け、その下から出てきた白いものは骨ではなかった。骨に似ていた。枝にも似ていた。透明な樹脂にも、校舎の玄関にいる蜘蛛の巣にも似ていた。
 ――羽だ。思った瞬間、頭の中で警報が鳴った。羽ではない。羽と思ってはいけない。その白いものは、いきなり大きく開かなかった。まず、太い軸が右と左の二本、伸びた。次に、その軸から細い線が無数に分かれた。線の先には羽毛のようなものが生えたが、それは柔らかい毛でかすかに震えていた。
 怖いより先に、きれいだと思った。いま目の前で、誰にもごまかせない白さになって開いていく。どうしようもなく美しかった。
「戻って」
 わたしは言った。
「お願い、戻って」
 凛空はわたしを見た。ほんの一瞬、焦点が合った。いつもの、すこしごまかすような目だった。フードの紐を結んではほどく癖。甘皮の白さ。歯を見せない笑い方。その全部が、ひとつの名前に戻った。
「凪沙」
 凛空がわたしの名を呼んだ。その声だけは、割れていなかった。
 次の瞬間、玄関の外から不動産屋の担当者が叫んだ。
「通報、通報します、動かないでください。ああ、やっぱり嫌な予感がしたんだ」
 凛空の背中から伸びた白いものが、ゆっくり広がった。
 凛空は、長いあいだ履かされていた合わない靴をようやく脱いだ人みたいに、息を吐いていた。凛空は恍惚とした顔をしていた。
「行かないで」
 言った。
 凛空はいつもどおり歯を見せず笑った。
「凪沙も、そのうちこっちに来るよ」と凛空は微笑んだ。
 わたしは叫んだ。凛空の名前を呼んだ。その瞬間、凛空の背中の白いものが大きく開き、そこからフローリングに薄い桃色の液体――血の匂いがした――が落ちると花びらみたいに広がった。
 凛空は、もう人間としては数えられない存在に変化していた。
 ――凛空は受肉した。
 天使汚染レベルは測定器がなくてもわかる。レベル4、《受肉》だ。
 わたしより先に言葉を放ったのは不動産屋の担当者だった。
「すぐ近くの消防署から初動班が来ますから、絶対に動かないでください」
 不動産屋の担当者は声を震わせ、玄関のドアを強く閉めた。
 凛空の背中から伸びた白いものは、部屋の天井にぶつかる寸前で止まっていた。線のひとつひとつが細かく震えている。震えるたびに、羽毛のようなものが数本ずつ抜け、空中でほどけた。桃の缶詰の汁を煮詰めたような甘い匂いがした。わたしは咳きこんだ。舌の下がしびれ、目の奥が熱くなる。
「凛空」
 名前を呼ぶ。凛空は反応した。ほんのすこし、首がこちらへ向いた。画面越しに見る凛空はやはり目の焦点が合っていない。それでも、わたしの声に反応した。
 凛空は両手を広げた。手に爪はもうなかった。甘皮の白さも、ささくれも、何もなかった。凛空の手はなめらかで、指の節さえ薄くなっていた。
 わたしは気づいた。人間だった凛空は絶対そんなことをしなかった。それに、いまの凛空は穏やかな笑顔をしている。人間世界の苦しみから解放されたような顔。もしかしたら凛空は人間のフリをするのが苦しかったのかもしれない。だからいつも学校でもどこでも、心の底から笑うことがなかったのかもしれない。
 凛空はわたしの頭を撫でた。わたしは、凛空を抱き返した。凛空の体は、とても冷たかった。どうして人間だったときより天使になったときのほうが、凛空を愛おしく思えるのか、自分でも不思議に思えた。
 刹那、窓の外から防災無線のけたたましいサイレンが鳴り響きだした。
 部屋の外の階段を、いくつもの足音が駆け上がってきた。それに続くのはなにか重そうな箱が床に置かれる音と、学校の体育祭で使うような、古い拡声器の割れた音。
「天使顕現体から離れてください。二メートル以上離れて、床に伏せてください」
 知らない大人たちの声だった。あっという間に玄関からドアの開く音がして、白い防護服の人たちがわらわらと部屋に入ってきた。
 顔は全面がヘルメットかなにかに覆われ、胸には黒い字で《東京都消防庁小金井消防署 天使災害初動対応班》と書かれている。
 その字を見た瞬間、わたしはやっと、自分がやってしまったことの重さを知った。わたしはこの世界に天使を呼び寄せてしまったのだと。
 防護服の一人が端末に向かって声を放つ。
「こちら初動班。小金井市梶野町のアパートにおいて天使顕現体一体、接触者一名を確認。視認形態についてですが羽状構造は樹木様形態です。また、接触者については、電子機器により天使を撮影しています。どうぞ」
 無線の端末から遅れて声が出た。
「こちら総合司令室。当該天使顕現体は我が国において令和二十七年に確認された、二百二十四番目の天使顕現体であり、東京・多摩地区では十四体目の顕現体のため、これからは令和二十七年多摩地区第十四天使顕現体、略称を十四番と呼称してください」
 違う、そんなのは凛空の名前じゃない。
「違う、十四番じゃない。凛空です」
 喉が痛くて、声がかすれた。
 防護服の別の一人がこちらを見た。
「接触者の方は発話を控えてください」
「凛空です。番号で呼ばないでください」
「氏名確認は搬送後に行います」
「いま呼んだら反応しました」
「呼称反応ありと記録してください」
 別の防護服がそう言った。呼称反応あり。名前を呼んで反応してきたことは凛空が凛空であることの証明ではなく、症状のひとつとして処理される。
 わたしは凛空へ近づこうとした。
 だけど、わたしの腕は後ろから押さえられた。
「離して」
「接触者確保」
「離して。凛空、凛空!」
 スマートフォンを取られ、床に膝をつかされた。白いフローリングに落ちていた薄い桃色の血が、わたしの膝にしみた。凛空の血なのか、わたしの血なのか分からなかった。防護服の腕がわたしの肩を押さえつける。手首になにか細くて硬い紐を巻かれた。
 凛空の声がした。
「ナギ、サ」とわたしを呼ぶ声が、はっきり聞こえた。
 わたしは床に押さえつけられたまま顔を上げた。直視した。
「ここにいる、ここにいるよ!」
 わたしはありったけの力で叫んだ。凛空は笑った。歯を見せない、いつもの笑い方だった。
「天使顕現体を直視しないでください!」と防護服の人たちが一斉に怒鳴る。
 防護服の人が大きな鉄パイプのようなものを持ってくる。近づくと、それは金属ではなく、白い樹脂でできていた。防護服の人はそれを、受肉したばかりの凛空の頭めがけてふりかざしてきた。
「やめて! 凛空になにするの!」
 拘束棒は凛空の頭にめりこむように沈む。人間の叫び声と人間以外の叫び声が二重にかさなって聞こえた。
「どうして!」とわたしは暴れた。
「受肉したばかりの顕現体はひ弱であまり動けないから、こうやっておとなしくさせるのがいいんです」と防護服の人は早口で説明し、またパイプを振りかざす。
 凛空の頭に拘束棒がめりこむ。凛空は倒れ、防護服の人たちは拘束衣を着せた。アニメや漫画でしかみたことのないそれは、凛空よりは白くなかった。
「十四番、拘束完了」
「レベル4相当。レベル5への移行は、……予測不能と判定されました」
「接触者、ゼロ次洗浄し搬送します」
 わたしの名前を誰も呼ばなかった。
 凛空の名前も誰も呼ばなかった。

 

***

 

立川広域災害病院に搬送されたわたしは、担架にベルトで固定されたまま、一次接触者処置室へ運ばれた。
 壁の下半分だけが青いタイルで、上は黄ばんだパネルだった。天井の蛍光灯には半透明のカバーがかけられ、水滴の跡が曇った模様みたいに残っている。処置室というより、学校のプールのシャワー室に似ていた。
 空気は塩素の匂いがした。
 部屋の中央で担架が止まる。搬送時にかぶせられたシートを外されるまで、わたしは自分が裸にされていたことを忘れていた。ここまでの車の中で、防護服の隊員たちに服を脱がされ、下着も靴下も髪を結ぶゴムも、全部透明な袋へ入れられた。袋の口を機械が挟むと、プラスチックの焼ける臭いがして閉じられた。凛空の血がついたかもしれない服。白い粉が落ちたかもしれない袖。わたしが着ていたものが入った袋に、職員はマジックではっきりと『汚染物』と書いた。
「移します」
 誰に向けたのか分からない声がして、防護服の職員たちがベルトを外した。腕と脚に力が入らない。わたしは荷物みたいに持ちあげられ、背もたれのない青いシャワーチェアへ座らされた。
 床には細い溝が何本も切られ、薄い泡の浮いた水が、部屋の隅の排水口へ向かって流れている。手首と足首を柔らかいベルトで固定された。
「検体を取得します」
 防護服の奥から、女の人の険しい声がした。
「凛空はどこですか」
「口を開けてください」
 言葉は無視され、顎を押さえられる。手袋越しに、細い骨の感触がした。わたしが口を開けると、細い棒が舌の奥へ入った。吐きそうになる。職員は慣れた手つきで口の中を拭うと、棒を細長い容器へ入れた。
 次は鼻。その次は目だった。
「閉じないでください」
「痛いです」
「我慢してください」
 まぶたを指で押し広げられ、小さな棒で目の表面を擦られる。涙が勝手に出た。
「泣かないでください。検体が薄まります」
 同時に、別の職員がわたしの手首へ小さな機械を押し当てた。ぴ、と音が鳴る。画面は見せてもらえない。わたしの身体なのに、そこに何が表示されたのか、わたしには知らされなかった。
「一次洗浄を始めます」
 ぬるい液体を頭からかけられる。冷たくないのに身体が震えた。粘り気の強い液体が髪を伝い、額から顔へ流れる。匂いを嗅いだ瞬間、鼻の奥が焼けるように痛んだ。
 職員の手が髪の根元をかき分ける。耳の裏、うなじ、脇、肘の内側、膝の裏、足の指の間。御厨さんに質問されたとき思い浮かべた場所を、本当に全部洗われた。ごしごしと、こねくりまわすように。
「洗浄剤、追加してください」
 もう一度、液がかけられた。さっきより強い匂いがする。耳の後ろを、爪を立てるみたいに擦られた。凛空も入院していたとき、この椅子に座らされたのだろうか。凛空の服も、髪の毛も、透明な袋に入れられ、汚染物と呼ばれたのだろうか。
 液が顔から落ちきったところで、わたしは目を開けた。
「凛空は生きていますか」
「発話を控えてください」
「凛空は」
「口を閉じて」
 言われたとおり口を閉じる。ふと、あの甘い腐った匂いを思い出した。桃の缶詰の汁を腐らせたような匂い。あの部屋の匂い。凛空の背中から羽が開いたときの匂い。
 シャワーで大量の水を浴びせられ、身体が冷えきったころ、ようやく手首と足首のベルトを外された。膝に力が入らず、職員に両脇を支えられる。
 一次接触者処置室を出ると緑の検査着を着せられた。袖は短く、背中はすこし開いていた。ざらざらした布の感触だけが、妙にはっきりしている。
 胸元には「第十四番 A級接触者」と太いマジックの字で書かれていた。
 わたしの名前は、椎名凪沙ではなくなっていた。
 車いすに乗せられ、迷路みたいな病棟をぐるぐる回された。
 小さな部屋へ入ると、白衣を着た大勢の大人に囲まれる。
「A級の人なので先に抗汚染薬を」「抗汚染薬、投与します」「待って、それを打ったら動けなくなる。先に採尿が先」「カテーテルを入れるから大丈夫」「了解です」「抗汚染薬と鎮静、入ります」「点滴、右で取れないので左で」「針を刺したら採血させてください」なんて声がわたしの頭上で行き交っていた。声の主の顔はみんな同じような顔をしていて、誰が誰なのかわからない。
 バカみたいに注射を打たれた。一本目は肩。二本目は腕。三本目は反対側の腕。四本目は耳の後ろ。凛空の耳の後ろにあった白い傷跡を思い出した。あそこも、こうやってつけられたのだろう。
 五本目からは、もうどこに打たれたのか分からなかった。針が皮膚に入るたび、わたしの体が裁縫道具の針刺しのように思えてきた。
 そして点滴の小さな針を打たれたとき、わたしの意識は一瞬でなくなった。

 

目を覚ましたら病院のベッドで寝ていた。
 胸と胴と足がベルトでベッドに固定されていた。柔らかいのに、動けない。
 病室に窓はなかった。壁にかかっているのは二十四時間表記のデジタル時計で、窓に見えるものはあったけれど、よく目をこらすとそれは白いパネルだった。
 ベッドからは二本の細い管が伸びていた。一本は点滴袋につながっていて、もう一本は、黄色い液体のたまっている袋につながっていた。
 壁にはスピーカーが埋めこまれていて、ときどき電子音が鳴った。鳴ったらすぐ、看護師が二人がかりで部屋に入ってきて、わたしの顔をのぞきこんだ。
「聞こえていますか」
 聞こえていた。けど、看護師さんは迷惑そうな視線を浴びせる。だから口を閉じた。
「ダメね、まだ鎮静剤が効いてる」と看護師さんの片方が、ペンを素早く動かし、メモを取る。
「鎮静剤が切れたあと、大変だから頑張ってくださいね」ともう片方の看護師が言った。
 最初はどういうことかわからなかったが、その言葉の意味がわかったのは、デジタル時計の曜日表示が日曜から月曜日に切り替わったころだった。
 最初は配管の音だと思った。
 壁の中を水が流れている。そう思った。でも音は近づいてきた。どん、どん、と壁を叩くような音になり、その奥から声がした。
「凪沙」
 意識より先に身体が反応した。拘束帯がベッドの柵に当たり、かたい金属音が鳴る。
「なぎ、さ」
 絶対に間違えるわけがない。凛空の声だった。
「凛空!」
 点滴の管が引っ張られ、針の刺さったところが痛んだ。どうでもよかった。
「凛空、どこにいるの」
 もう一度叫ぶ。喉が焼けるように痛い。声はかすれて、わたしのものではないみたいだった。
 電子音が鳴り、病室の扉が開いた。
 入ってきたのは看護師ではなかった。御厨さんだった。灰色のスーツの上に、透明な防護エプロンをつけている。安いビニール傘みたいな透明さで、スーツも職員証も透けて見えた。
「椎名さん、落ち着いてください」
「御厨さん、助けて。凛空が呼んでます」
「音声刺激に反応しないでください」
「わたしの名前を呼んでる」
「呼称反応です。天使顕現体を直視した接触者に、顕現体の声が聞こえる例があります」
 わたしを呼ぶ凛空の声を、御厨さんは症状の名前で呼んだ。
「凛空は生きています。声がする。心臓も動いてるんでしょ。息もしてるんでしょ。だったら生きてます」
 御厨さんはすこし顔を伏せた。
「久我凛空さんは、天使災害特別措置法第二十三条にもとづき、医療保護対象から災害対象へ移行しました。現在はレベル4相当です。ただしレベル5への移行が確実視されるため、法令上の扱いは死亡相当となります」
 死亡。その二文字が、最初は意味にならなかった。数秒遅れて、目の前の世界だけが遠くへ離れていく。
「死んでない」
「椎名さん」
「死んでないって言ってるでしょ。わたしを呼んでるんだから」
「それは幻聴です」
「凛空が呼びました」
 御厨さんは黙った。こちらが疲れて黙るのを待つような沈黙だった。
「なんで御厨さんがここにいるんですか」
 自分でも、声が冷たくなったのが分かった。
「わたしの職場は、この病院の中にあります。小金井東高校へ行くときは出張申請をしています。さきほどまで、久我さんの天使顕現体移行届を作成していました」
 御厨さんの目は血走っていた。
「久我さんのお母さまと、現在の保護者の方と一緒に役所へ行き、提出しました。今後、殺処分の許可申請に移ります」
 殺処分。――そんな単語は、人に向けて使っていい言葉ではなかった。
「凛空が休学したときは親戚の事情って嘘をついた。白いドアは補正痕だって決めた。受肉したら十四番って呼んだ。声がしたら幻聴にして、まだ生きてるのに死亡相当。言葉を変えたら、凛空を見捨てても、殺しても、責任を取らなくていいんですか」
 御厨さんの顔が歪んだ。怒った顔ではなかった。
「久我さんを守るつもりでした」
 小さな声だった。
「あの場で正式な汚染案件にすれば、観察区分を上げる必要がありました。プログラムから外される。下手をすれば退学処分。だから要再確認にするのが最善だと判断しました」
「その結果、凛空は受肉した」
「……要再確認の画像は月曜にまとめて国交省の出先機関へ送られます。週末の内見を停止させるのには間にあわないんです。それに、紙に印刷された検閲済みマークの偽装までは、現場のシステムでは止められません」
 遠くでまた音がした。凛空の声は、さっきより弱くなっていた。
 わたしは声のするほうへ身体をよじる。ベルトが皮膚に食いこんだ。

 

翌日の昼下がり、御厨さんと医師が病室に来た。
 ネームプレートに医師と書いてあるから、医師なのだろうと思った。白衣は新品みたいに硬く、胸の名札だけがやけに大きい。目の下に薄いくまがあり、わたしの顔ではなく紙のカルテをじっと見て診断した。
「現時点では、天使汚染レベル1相当です。接触時間は長いですが、受肉直後だったため、十四番から漏れていた触媒濃度はまだ低かったと見ています。レベル2以上に見られる背部隆起、皮膚白化、粘膜異常、発声の重複は確認されていません。数値も安定しています」
「じゃあ、大丈夫なんですか」
「現時点では経過観察です」
 大丈夫とは言わなかった医師は次にわたしの背中を診た。耳の裏を診た。舌を出させ、まぶたの裏を出させ、手首の測定器を確認した。手つきは丁寧だったけれど、マニュアルの順番をなぞっているように見えた。
 診察が終わると御厨さんと医師はわたしに背を向けた。御厨さんは医師に小声で聞いた。
「十四番は」
「まだレベル4相当です。ただ、数値がおかしい」
 医師は声を落としたつもりだったのかもしれない。でも全部聞こえた。
「移行に失敗しているわけではありません。むしろ逆です。血液、唾液、呼気、剥離組織、どれも触媒の濃度が上がっている。通常の天使触媒より反応性が高い可能性があります。通常のレベル5移行に使われるはずのエネルギーが、体内で高濃度の触媒を生成するのに回っている可能性があります。完全なレベル5へ進みきれないかわりに、人間だったころの記憶と呼称反応が残っている異常例かもしれません」
「つまり」
「殺処分するにしても、この病院程度の設備では天使触媒を処理しきれません。高度処理施設へ移すには、厚労省と都と自衛隊の決裁が必要になります。最短でも一か月です」
 医師の言葉に御厨さんは返事をしなかった。
 わたしはベッドの上で手を握ろうとした。ベルトのせいで、指先しか動かない。
 どうやら凛空は、悪あがきをしようとしている。死んでいないのに病院は凛空を殺す準備をしていたけど、殺すことさえ、怖がっていた。
 医師が病室から出ていくと、御厨さんはわたしのほうを向いた。
「先生が若くて心配したかもしれませんが、ここは天使災害に備えるための医師を育成する機関でもあります」
 心の底からどうでもよかった。
「本題ですが、久我さんの確認許可が下りました」
 心臓が跳ねた。
「会えるんですか」
「直接ではありません。通常なら、ここまで長くレベル4相当で留まることはありません。レベル5への移行判定が確定していない、その隙間を使って書類を通しました。せめてもの罪滅ぼしをさせてください」
 面会はすぐだった。看護師さんたちに拘束帯を外され、御厨さんが車いすを押した。
 廊下は長かった。隔離棟の窓の外には、立川の自衛隊の基地と、昭和記念公園の広い緑が見えた。あの基地には天使迎撃用のミサイルを積んだ要撃機が配置されている。中学時代に社会科見学で行って実際に見たことがある。あのミサイルの熱で、天使触媒を焼き払うのだという。
 もし凛空がこの病院を出たら。
 そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
 御厨さんが思い出したように言った。
「椎名さんが持っていた端末ですが、安全確認後、院内保管に回します」
「あのスマートフォンですか」
「お父さまの勤務先は当院と共同研究対象になっているので。これから行く部屋も、お父さまの開発した技術が使われていますよ」
 廊下の突き当たりまでやってきた。扉には《遺族等確認室》というプレートがかけられていた。
「わたしは遺族じゃないです」
「規定上の名称です」と言って、御厨さんは扉を開ける。
 部屋は狭く、小さな机と椅子が二つ。壁に黒い縁のモニターがかかっている。モニターの脇に職員さんがいて、説明を始めた。
「直接の視認はできません。二十秒遅延した映像に、安全性の確認された画像処理をかけます。危険部位は遮蔽処理します。あちらからの音声も遮断します。――椎名さんの持っていた端末の技術を使えば、通信せずに端末内部で視認安全化フィルタをかけ、ほぼリアルタイムで映像と音声を確認できるようになります」
 御厨さんはわたしの真横に立っていた。職員さんは画面の電源をつけた。
 最初、何が映っているのか分からなかった。
 白いものがあった。白すぎて、形が分からない。画面の中央にベッドなのか台なのかも分からないものがある。画面の一部には粗いモザイクがかかり、その向こうで、白い構造がゆっくり動いていた。
 ディスプレイの下に《多摩地区第十四天使顕現体》と大きく映し出されていた。
「凛空です」
 わたしは言ったが職員さんは答えなかった。
「凛空」
「発言は控えてください」と職員さんが注意した。
 画面の中の白いものが、こちらを向いた。二十秒遅れの映像。処理された映像。モザイクだらけの映像。病院のシステムを通した凛空。
 それでも分かった。口元のモザイクは薄く、人間だったころの唇の線がすこし残っているように見えた。そこが動いた。
「凛空です」
「いいえ。レベル4に見られる呼称反応です」
 画面の中で、凛空はまた口を動かした。スピーカーが、ぷつ、と小さな音を立てた。
 音声は遮断されているはずだった。
 それなのに、かすれた声が一音だけ漏れた。
「な」
 職員さんは慌ててディスプレイへ手を伸ばす。画面の中の凛空は、まだ何かを言っていた。わたしは口の動きを読もうとした。
 なぎさ、と言った気がした。
 職員さんはスイッチを押した。画面が暗くなり、《確認終了》と白い文字が映った。

 

***

 

二週間後の夕方、車いすを使わずに病室から出た。
 診察室にはあの若い医師がいた。
「椎名さんの数値は安定しています。現時点でレベル2以上への移行は確認されていません。今日から自宅観察へ移行します」
「学校はいつから行けますか?」
「復帰時期は、東京都災害局と学校側の判断になります。様子が変わったらすぐ病院へ連絡してください」
「凛空は」
 御厨さんがすこしだけ目を伏せた。
「レベル4から5への移行途中ですが、判別不能です」
「生きてるんですか」
「生命活動はあります」
「じゃあ生きてる」
「法的には死亡相当です」
 聞きたくない言葉を聞かされた。
 診察室を出て待合室へ行くと、父とお母さんがいた。父は無言だった。お母さんはわたしを見ると立ちあがったが、すぐには近づいてこなかった。抱きしめていいのか、触っていいのか、分からない顔だった。
 御厨さんは「すこし話したいことが」と言って、待合室の奥の部屋へ連れていった。
 扉が閉まると同時に声が漏れてきた。学校では絶対に聞いたことのない、御厨さんの怒鳴り声だった。
 御厨さんが父を叱っていた。内容はところどころしか聞こえない。共同研究。未成年。実験協力者への勝手な登録。管理責任。試作機。父は終始、家では絶対に出したことのない、弱弱しい声で言い訳をしていた。
「お母さん、知ってたの」とお母さんへ聞く。
「知らなかったわよ。試作機のことも、凪沙が登録されていたことも」
 お母さんはそこで一度、唇を噛む。
「でも、知ってたところで、止められたかどうかはわからない」
 お母さんはわたしの肩をさすった。
 しばらくして待合室から父が焦燥した顔をして出てきた。
 御厨さんは「本来なら院内保管にすべきです。外装表面の汚染は基準値以下ですが、内部部品とレンズ周辺に高濃度天使触媒付着の可能性があります。開封、衝撃、加熱は厳禁です」と言った。
 父は黙って胸元から一枚の紙を取り出した。勤務先のロゴマークが入ったそれには『実験機器一時保管票』と印字されていた。
「御社の承認印が押されていますね。仕方ありません。絶対に家には持ち帰らず、御社の研究所に直接持って行ってくださいね」
 御厨さんがそう言った瞬間、病院の奥でけたたましくベルが鳴った。
「……すみません。ちょっとトラブルが」と御厨さんは慌てた様子で走りだし、病院の奥へ姿を消した。
 父は御厨さんの背中を見たまま何も言わなかった。
 お母さんが会計を済ませているあいだ、看護師さんが紙袋を持ってきた。中身はわたしの荷物だった。制服、下着、靴下、髪を結ぶゴム。全部透明な袋に入れられ、袋には《低濃度天使触媒付着疑い物品/許可なき開封禁止》と書かれていた。
「病院の規則で廃棄処分にしますが、よろしいですね」
 わたしが答える前に、父が「大丈夫です」と言った。
 わたしが二週間着られなかった制服も、凛空の血がついたかもしれない袖も、あの部屋の白い粉が落ちたかもしれないスカートも、父にとっては廃棄して大丈夫なものだった。

 

病院の玄関を出ると、背後でなにかサイレンのようなものが鳴った。
 夕空は、相変わらず血をぶちまけた色をしていた。
 駐車場へ行くあいだ、湿った風が頬に触れた。
 父の車に乗る。父は運転席で背中を丸めていた。お母さんと後部座席に座ると、父は何も言わずに車を出した。
 病院の敷地を出たところで、父はラジオをつけた。交通情報。天気予報。どこかの自治体の防災訓練。天使災害安全月間の標語。しばらく車の中には、ラジオの音だけが流れていた。やがて、アナウンサーの声が少し硬くなった。
 《小金井市内で発生した天使災害事案に関連し、立川広域災害病院が申請した多摩地区第十四天使顕現体への天使顕現体移行届および殺処分許可について、法務省は受理を保留していることが分かりました。対象顕現体は収容棟内で強い興奮状態を示しており、レベル5移行の判定および処分業務に支障が出ています。また、病院関係者によりますと、収容棟内部で高濃度の天使触媒反応が検出され、複数の職員が一時的に所在確認不能となっているとの情報も――》
 わたしはラジオのスイッチを消した。
 お母さんがわたしを見た。父は何も言わなかった。
 車はいつのまにか小金井公園の交差点にさしかかる。もう暗くなりかけていた。休憩所の屋根がちらりと見えた。あそこで凛空と座った。コーラのキャップを指で回して、体に閉じこめられているのが気持ち悪い、と言っていた。
 車が右折した。マンションの形はまだ見えないがそれでもわかった。
 わたしが帰る場所は、もうわたしの知っている椎名家ではない。

 

エントランスを抜けてエレベーターを待っていると、隣の部屋の奥さんが立っていた。毎日挨拶してくれて、柊亜が小学生のころ、夏休みの自由研究で余った朝顔の種をあげた人だった。
 奥さんはわたしたちを見ると、手をさっと隠した。手には町内の防災委員に配られている、認可証がぶらさがったカメラがあった。
 天使そのものは見てはいけない。撮ってはいけない。広めてはいけない。でも、天使に触れた人間の玄関や、その家族の顔なら、防災委員の権限で撮って広めてもいいらしい。
 父がにらみつけると、奥さんはそそくさと廊下の角へ消えた。
 エレベーターに乗って自分の階へ行く。玄関には黄色い紙が貼られていた。

 

天使顕現体接触者 経過観察中
 東京都災害局天使部 天使汚染対策課・国立病院機構立川広域災害病院
 ※天使災害特別措置法による近隣周辺への告知義務により掲示されました

 

玄関を開けると、柊亜のローファーの先が二つともまっすぐこちらを向いていた。
 廊下を進んでリビングに入ると柊亜が立っていた。
「おかえり、お姉ちゃん」
 お母さんに似た大きな目の下に、薄いくまがある。制服のまま、顔だけが真っ赤だった。髪は少し乱れ、バッグについた細長いピンクのウサギのストラップはちぎれかけていた。片方のプラスチックの目玉が取れている。
「どうしたの」
 柊亜はバッグを床に落とした。ストラップがじゃらじゃらと嫌な音を立てた。
「天使女の妹だって」
 それだけ言って、柊亜は笑った。学校にいるときの笑い方だった。歯を見せないように、片手で口元を隠す。でも、その手は震えていた。
「廊下でたくさん言われた。お姉ちゃんが受肉したわけじゃないのにね。意味わかんない。あと、うちの玄関の写真も机に貼られた。フィルムカメラって無許可での所持って禁止されていたよね?」
 柊亜は赤く腫れた目でわたしを見つめた。
「お姉ちゃんのせいじゃないって、わかってるよ。レベル1の症状で、凛空くんをあそこへ連れて行ったって。でも、ちょっと思った。なんで行ったの。なんで、うちの玄関にあんな紙貼られなきゃいけないの」
 柊亜の顔が歪んだ。その場にしゃがみこむ。
「ごめん。言いたくなかったのに」
 お母さんがすぐにそばへ行き、背中をさすった。
 父は黙っていて、なにか考えごとをしている顔をしていた。
 リビングは入院前とほとんど同じだった。ソファー。テーブルの上のラジオ。柊亜が出しっぱなしにしている、検閲マークつきのマンガ本。壁に飾られた十年前の社内報にうつる父の笑顔。
 しばらくして、柊亜は虚ろな顔でテーブルについた。
 お母さんは病院から渡されたものをテーブルに置いた。
 アルコール消毒液、使い捨て手袋の箱、そして凛空がPC室でつけていたのとそっくりな、少し大きな天使汚染測定器。
「凪沙。朝と夜、これを手首に巻いて。レベルが上がったり、発熱、耳鳴り、背中の違和感、発光感、凛空くんの声が聞こえたりしたら、すぐ教えてちょうだいって」
 父もテーブルへ紙袋を置いた。
「あなた、まず手を洗って」
 お母さんが言うと、父は「病院で何度も洗った」と言い、紙袋の口を裂きはじめた。
「家に入ったんだから洗ってよ」
「いまはそれどころじゃない」
 仕事の話をするときの声だった。
 紙袋の中から透明な封印袋が出てきた。なにかのガスが入っているのか、袋はふくらんでいる。そのなかに、あの端末があった。東小金井の部屋で、わたしが握っていたもの。凛空が凛空の形でなくなるところを記録したもの。
 スマートフォンの片隅には、金平糖みたいな白い塊が付着していた。
 袋には赤い字で《開封・強い衝撃厳禁 立川広域災害病院・天使視認安全化技術共同研究 試作機#6》と書かれている。
 柊亜がゆっくりと顔をあげた。目が虚ろだった。
「なんでここにあるの」と柊亜が聞く。
「必要な手続きをしたからだ」
「手続きしたから、そんな危ないものを持ってきたの? お姉ちゃんに持たせたの?」
 父は柊亜を見なかった。
「凪沙は実験協力者として登録していたから大丈夫だ。保護者としてお父さんが責任をもって書類を出した」
 その瞬間、病室の天井が頭の中に戻ってきた。天井。タイル。塩素の匂い。目を閉じないでください、という声。検体が薄まります、という声。
「わたし、そんなの聞いてない」
「説明はした」
「してない」
「防災教育プログラムの延長だと言った。自分の目で確かめろとは言ったが、お父さんは行けと命令していない」
 父は、自分は間違っていない、という顔をしていた。やっと分かった。父は自分が何をしたか分かったうえで、それを別の言葉に置き換えている。命令ではない。協力。実験ではない。評価。危険ではない。管理範囲内。犠牲ではない。症例。
「お父さん、お姉ちゃんと凛空くんを使ったってことでしょ」と柊亜が聞く。
「使ったという言い方は正確ではない」
「じゃあ何」
「協力だ。災害を減らすための研究協力だ。将来、同じ現場で、もっと多くの人間を救うための協力だ」
 父は透明な袋ごしにスマートフォンを持ち上げた。赤い開封厳禁の文字が、指の下でくしゃくしゃに歪む。
「凪沙、おまえはすごい記録を残した。直視すれば認知災害を起こす天使顕現体を、分厚い専用ゴーグルなしで、ほぼリアルタイムに確認できた。実証実験は成功だ」
 わたしは喉の奥から言葉を絞りだした。
「じゃあ、凛空は?」
 父の言葉が止まった。
「凛空は帰ってこれなかったよ」
「もう凛空くんは死んだ」
 その瞬間、リビングの音が消えた。
 柊亜が泣く声も、お母さんが息を吸う音も、全部遠くなった。
 学校は凛空の休学を親戚の事情にした。御厨さんは天使汚染の疑いを要再確認にした。不動産屋は未検閲の広告を検閲済みにした。病院は凛空の声を呼称反応にした。天使災害特別措置法第二十三条は、凛空を死亡相当にした。ニュースは凛空を多摩地区第十四天使顕現体と呼んだ。父は、実証実験は成功だと言った。
 誰も実態を直視せず、平気な顔をして言葉をずらしている。
 父はスマートフォンの側面を見ていた。
「父さんは敵が多い。広域災害病院の連中だって、腹の底では何を考えているか分からない。外装は基準値以下だ。開けなければ問題ない。こちらの記録が勝手に抜かれていないか、ここで確認しよう」
「あなた、やめて」
 お母さんが言った。
「開封しない。確認するだけだ。内部には触れない」
 父は怒鳴らなかった。むしろ静かだった。静かに言ったせいで、余計に怖かった。
 確認するだけ。病院でも、わたしは何度もそう言われた。測るだけ。観察するだけ。処置するだけ。呼称反応を見るだけ。殺処分の可否を判断するだけ。
 だけ、という言葉の下で、凛空の名前は何度も薄くなった。
 わたしは封印袋を見た。袋のなかの白い塊が、ほんの少しだけ光った気がした。天使本体に誘導されたのかもしれない。ただの錯覚かもしれない。でも、そこに凛空が残っていると思った。
「返して」
 わたしは言った。
「何を」
「凛空を」
 父は眉を寄せた。
「返すという問題ではない。あの個体はもう――」
 ああ、ダメだ。
 誰も凛空を凛空と呼ばないなら、わたしが呼びに行くしかない。
 そのとき、緊急割込放送のランプが赤く点き、ラジオが鳴りだした。
 父もお母さんも柊亜も同時にテーブルを見た。災害通知用の緊急放送だった。
 《臨時ニュースです。立川広域災害病院の隔離棟において、複数の院内受肉反応が確認されました。病院は封じ込め措置を実施していますが、棟内で高濃度天使触媒の漏出が続いており、混乱に乗じて、多摩地区第十四天使顕現体が脱走した可能性があります。政府は当該天使顕現体を天使災害特別措置法第二十四条にもとづき、広域災害対象に認定する方向で調整を――》
 父がラジオを止めようと手を伸ばした。その前に、封印袋の中で白い塊がはじけた。音はしなかった。けれど袋が内側から膨れ、表面が霜のように白く曇る。スマートフォンの画面に、光が一瞬走った。わたしは呼ばれたと思った。
 行かなきゃ。
「柊亜、ごめんね」
 わたしはつぶやき、封印袋をつかんだ。
 お母さんが血相を変えて手を伸ばす。わたしは袋を持っていないほうの手で、その手を払った。自分が天使になれば、触媒を撒いてしまう。誰かを凛空のようにしてしまう。
 分かっていた。分かっていても、人間の言葉のままでは凛空に届かない。凛空を十四番のまま殺させるくらいなら、わたしは凛空が聞こえる場所へ行く。
 病院では、わたしはレベル1相当だと言われた。でも本当は違ったのだと思う。二週間、壁の向こうから凛空に名前を呼ばれつづけた。わたしも凛空の名前を呼び返しつづけた。身体の数値が低かっただけで、わたしはもう、凛空のいる場所へ半分だけ引きずりこまれていた。
 そばにあった測定器を手に取る。ベルトのバックルのピンを、袋の端へ突き刺した。
 袋に裂け目ができ、そこから白いものが噴いた。金平糖みたいな塊がテーブルにこぼれ、エアコンの風もないのに、ひとりでに浮いた。空気の中で砕け、細かい粉になる。
 甘い匂いがした。腐りかけた桃の汁みたいな、甘くて、ぬるくて、鼻の奥に残る匂い。
「離れろ!」
 父が叫んだ。お母さんが咳きこみ、目を押さえながら柊亜の腕をつかむ。柊亜はわたしの手首をつかんだ。父の足元で測定器が短く鳴った。けれど、もう遅かった。
 リビングに、白い輪郭が浮かんでいた。東小金井の部屋で見たドアではない。もっとあいまいで、ふわふわしている。人の形にも、羽の形にも、傷口の形にも見えた。
「凛空、いまから行くね」
 わたしの呼びかけに、それは喜んだように動いた。
「測定器!」
 お母さんが叫ぶ。
「やめて、お姉ちゃん」
 柊亜が言った。お母さんではなく、わたしに言った。
「お姉ちゃん、天使にならないで」
 柊亜の手は熱かった。わたしの手首をつかむ指が、痛いくらい食いこんでいる。
 測定器が鳴った。まだ手首に巻いてもいないのに、近接測定モードが周囲の触媒濃度とわたしの皮膚反応を拾っていた。
 《環境汚染:高/近接反応:レベル3相当》
 もう一度鳴った。
 《対象識別完了/天使汚染レベル4》
 背中から音がした。皮膚の内側で骨が、知らない方向へ思いついたように伸びる感覚がした。肩甲骨の奥から熱いものが押し広げられる。痛かった。息ができなかった。
 凛空の受肉はもっときれいだった。繭がほどけていくみたいで、世界のほうが凛空に合わせて変わっていくみたいだった。
 わたしの受肉は違った。背中から伸びてきたそれを手でつかむ。
 羽というより、壊れたビニール傘だった。曲がりくねった骨が入り、膜はところどころ透き通って破れ、白い粉をふいている。
「凪沙、すまない。これが天使だったんだな」
 父が謝罪か言い訳か分からないことを言った。その方向を見ると、父とお母さんは玄関のほうへ下がっていた。さっきまで世界を驚かせる技術の話をしていた人が、一目散に逃げようとしている。お母さんは柊亜をかばうように、肩を抱いていた。
 だけど柊亜は振り返った。
「柊亜、やめて!」
 柊亜はわたしの制止をふりきると、床に落ちていた端末を拾った。封印袋の内側についていた白い粉が、柊亜の指に移った。柊亜はそれを見ていなかった。直接目を合わせないように、カメラだけをこちらへ向ける。手は震えていた。
「お姉ちゃん、こっちを見て!」
 柊亜の声に、別の声が重なって聞こえる。
 ようこそ、こちらへ。アップデートされた人間よ。貧弱な身体と脳を捨て、我々の仲間になりなさい。
「嫌だ」
 そう言ったつもりだった。けれどわたしの喉から出たのは、割れた笛みたいな音だった。リビングの窓がびりびり震える。
 端末からワンテンポ遅れて声が響いた。
「嫌だ」
 たしかにわたしの声だった。
「お姉ちゃん、戻ってきて」
 柊亜は叫び、その場にへたりこんだ。わたしは息を吸った。吸った空気に白い粉が混じっている。天使の声の向こうから、懐かしい声がした。
 ――凪沙。
 凛空の声だった。
「わたしは」
 喉が裂けるかと思った。
 ――凪沙。
「行かないで。ねえ、お姉ちゃん。行かないでよ」
「凛空を」
 わたしは柊亜の手に、自分の変わりかけた指を重ねた。指先はもう人間の形をしていない。細く、長く、関節が多い。それでも柊亜は離さなかった。
「凛空を、助けなきゃいけない。凛空の名前を、守らなきゃいけない」
「なんで!」
「まだ凛空が殺されてないから」
 柊亜は首を振った。
「やだ。お姉ちゃんが行ったら、わたし、誰の妹なの」
 その言葉で、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。柊亜のことをずっと、面倒な妹だと思っていた。かわいくて、軽くて、ずるくて、わたしより先に家の空気を読む子。わたしより数分遅く生まれただけの妹。
 それでもいま、柊亜だけが、わたしとこの世界をつなぎ止めていた。
「柊亜、許して。わたしにはやることがある」
「嫌い」
「うん」
「お姉ちゃんなんか、嫌い」
 わたしは柊亜の手をほどいた。ほどいたというより、わたしの指のほうが、するりと柊亜の手から外れてしまった。
 わたしはリビングを抜け、ベランダへ出ようとした。
「お姉ちゃん」
 柊亜の声が背中越しに聞こえた。まだ人間だったころなら振り向けた。ごめん、と言えた。けれど首の骨の位置はもう変わっていて、喉の震える場所も、さっきまでのわたしとは違っていた。
 窓の外で、防災無線が鳴りだした。
 《小金井市民のみなさま。緑町において天使顕現体が確認されました。すぐに屋内退避してください》
 違う。わたしは天使顕現体という名前じゃない。椎名凪沙だ。
 《また、市内の上空に飛翔型顕現体が確認されました。立川広域災害病院から逃走中の多摩地区第十四天使顕現体との関連が疑われます》
 逃走中。凛空は外にいるんだ。
 わたしはベランダに出た。
 夜風が顔に触れる。顔、と呼べるものがまだ残っているのか分からない。
 背中から垂れた羽は壊れたビニール傘みたいで、膜はところどころ破けていた。
 それでも羽ばたくと、身体は意外なほどすんなり浮いた。
 飛び方を覚えたのではなかった。身体のほうが、最初から飛び方を知っていた。
 わたしの身体が空中へ踊りだす。街が下へ離れていく。
 小金井公園の黒い森。高校の屋上。中央線の高架。武蔵小金井駅前のタワマン。塾へ行くときに何度も見た交差点。
 わたしはもう、無害なものではない。レベル5へ移行すれば、飛ぶだけで触媒を撒き散らす。レベル0ならすぐ受肉はしないかもしれない。それでも、誰かをレベル1のこちら側へ引きずりこむかもしれない。
 それでも止まれなかった。
 凛空。橘だったころの凛空。久我になった凛空。既往歴ありの凛空。理系の学部に行きたかった凛空。コーラの懸賞を見てペットボトルのキャップをくるくる回す凛空。わたしの性格の悪い部屋を借りると言った凛空。
 大人たちの嘘つきな言葉に押しつぶされてはいけない、凛空。
 わたしの下から防災無線のサイレンが鳴り、続いて、若い男の人の声が響いた。
 《政府は、立川広域災害病院内で発生した連鎖受肉事案について、封じ込め失敗を認めました。対象顕現体は体内で高濃度天使触媒を生成し続けており、呼気および剥離組織による広域汚染の危険があります。内閣総理大臣は天使災害特別措置法にもとづき、多摩地区第十四天使顕現体を広域災害対象に認定。航空自衛隊へ要撃命令を発令しました》
 その言葉を聞いて、わたしは空中で止まった。
 満月の下、空中に白い影が動いていた。最初は雲だと思った。けれど雲は、あんなふうに苦しそうに羽ばたかない。何度も高度を落とし、それでも誰かを探すようには飛ばない。
 わたしはその方向へ急いで飛んだ。
 姿が近づいた。
 白い身体のあちこちに黒い拘束ベルトの残骸が絡みついていた。片方の羽には、赤いプラスチックのタグがつけられていた。腕は注射の痕だろうか、何か所も黒く滲んでいた。
 顔がはっきり見えた。凛空だった。全身から粉を撒き、その粉はただ落ちるのではなく、凛空のまわりで一度きらきら光り、風に溶けていく。
 凛空がわたしへ顔を向けた。
「凪沙」
 空が震えた。人間の声ではなかった。けれど、たしかに凛空の声だった。
「凛空」
 わたしが呼ぶと、凛空は笑ったように見えた。もう口がどこにあるのか分からない。それでも、わたしには分かった。
「処分室に運ばれるところだった」
 凛空はゆっくり近づいてきた。
「俺、番号で呼ばれてもわからなかった。十四番って呼ばれても、レベル5って呼ばれても、何もわからなかった。でも死にたくなかったから、抜け出そうとした。そこで誰かが言ったんだ。椎名凪沙に受肉汚染の疑い、って」
 凛空の指が羽についた赤いタグを引きちぎった。
「それでわかった。俺は凛空だって。凪沙の名前をちゃんと理解できたから」
 遠くで爆音がした。音のする方は空のさらに上だった。見上げると、点がいくつも現れた。まっすぐ、わたしたちのほうへ向かってくる。
 凛空を見ると、凛空はせせら笑った。
「ミサイルかな。俺たち、迷惑なんだろうね」
 わたしはうなずいた。
「でも、わたしは凛空といられて、嬉しい」
 下の街では、屋内退避を知らせる声がまだ響いていた。凛空の身体からこぼれる白い粉は、月明かりの中で雪みたいに見えた。雪ならよかった。触っても、吸っても、誰も別のものにならないただの雪ならよかった。
 凛空の指が近づく。
 もう指と呼んでいいのか分からない、白く長いもの。わたしも手を伸ばす。壊れたビニール傘みたいな羽を、必死に震わせて近づく。
 《迎撃まで十秒》
 防災無線のサイレンから誰かの声がした。
 《対象二体、接触を開始》 
 わたしたちは名前で呼びあった。
 凛空の指と、わたしの指先が触れた。
 その瞬間、空が真っ白い光に包まれた。
 ミサイルの光なのか天使の救済なのかわたしには分からなかった。
 光の中で凛空の身体が砕け、胸の奥から大量の白いものがあふれだした。雪みたいに、星のかけらみたいに、それは空へ広がっていく。
 通常の触媒ならミサイルの熱で焼けると教わった。けれど凛空の体内にある高濃度触媒がミサイルの熱で無害化できるか、どうしてミサイルを撃った人間は正しく判断できるとは思えなかった。
 わたしと凛空は空へ溶け、街へ降っていく。
 それが災害なのか救いなのかは、もうわからなかった。

文字数:39991

内容に関するアピール

ゲンロンSF創作講座を受講したこの一年はSFと向き合うと同時に、自分自身の人生とも向き合いながら物語を書いてきました。最終実作ではその総括として、異形が世界を破壊することでしか表せない救済を表現しようと試みました。
 東北の旧家に生まれた宿命。寛保年間の日付が刻まれた墓碑銘。大藩に仕えた一族の誇りと数えきれない分家。戦前から続く骨肉の争い。仏間のぎらぎらした仏壇と、見下ろしてくる先祖たちの険しい遺影。唯一わたしを、一族を存続させる機械でなくひとりの人間として愛してくれた曾祖母の葬儀は、やませのために、七月にもかかわらずストーブを焚いた寺の本堂で営まれました。その寺の玄関に掲げられていた寺紋は、伊達家の家紋のひとつと同じで、その家紋は仙台市の市章のもとにもなっています。
 自分の人生は自分のものではなく、家と地域社会というシステムを維持するための道具だという感覚がこびりつき、田舎も一族も捨てたあとも、その感覚がまだ残っています。
 自分はいったい何者なのか? 心に巣食う癒しがたい孤独はなんなのか? 考えつづけるうち、人は名前を持つ存在としてではなく、分類され、管理され、操作されることから孤独を覚えるのだと考えました。
 本作の天使は、人間を滅ぼそうとする敵ではありません。あくまで人間を救済しようとするAIです。しかしその救済は人間を異形へと変え、行政は異形に変貌した人間から名前を奪い、汚染レベルや処分対象として分類します。
 凪沙なぎさがラストシーンで決断する反逆は、異形となり世界を単純に破壊することではありません。社会のシステムが奪った凛空りくを、もう一度呼び返しにいくことこそが社会への反逆です。制度や災害や、大人たちの言葉と行動のズレによって十四番へ変えられた異形を、それでも凛空として呼ぶこと。そのために、自らも人間社会のシステムから逸脱し、異形になること。
 これがこの作品で書きたかった救済の形です。
 講師陣とスタッフのみなさま、そして同期のみなさん、一年間本当にありがとうございました。仕事が忙しく五反田にはあまり伺えませんでしたが、この講座で創作と向き合いつづけた時間はかけがえのないものとなりました。今後も、破滅派やanon pressなどで小説を書きつづけていきますので思い出した際に読んでいただければ幸いです。

文字数:975

課題提出者一覧