梗 概
少女は真空とキスをする
西暦2200年。火星生まれのセレナ・カウル、18歳。職業、危険行為系インフルエンサー。
人類の99%はベーシックインカムで暮らし、わずか1%だけが働いて裕福になれる時代。AIがあらゆる娯楽を生成し、人間の創作物は歴史的名作の反復消費に追いやられた。芸術家はほぼ存在せず、セレナは99%側に生まれて、働かずに生きていく予定だった。
そんな時代に唯一、AIに代替されないコンテンツがある。生身の人間が命を賭ける——危険行為系インフルエンサーだ。22世紀半ばに開発された配信システムにより、視聴者は配信者の五感をリアルタイムで追体験できる(ただし主観的な感情・思考は技術的・倫理的理由で転送されない)。死ぬかもしれない他人の体験を、安全な部屋から味わう。これがAI時代に残された娯楽だった。
冒頭、セレナは宇宙空間で「息止めチャレンジ」に挑む。1000mのアンビリカルケーブルの先、自撮り用ドローンが回る中、彼女は肺の空気を限界まで吐き出し、宇宙服のヘルメットを開ける。肺に1気圧の空気を残せば、真空に触れた瞬間に肺が内側から爆発する。肺を空にして、脳に残った酸素だけで戦う。有効意識時間は最大15秒。セレナは最初の3秒以内にシャッターを切ると決めていた。
唾液が舌の上で沸騰する。ドローンの位置調整に手間取り、判断が遅れ、意識が落ちる。緊急回収システムが作動し、セレナは一命を取り留める。
セレナがこの仕事を始めたきっかけは、3年前に死んだ先輩インフルエンサーのプリヤだった。プリヤは25歳、宇宙エレベーター外壁を素手で登る配信中に事故死した。落下中の数秒、彼女は満足げな表情を見せ、心拍数がわずかに低下した。視聴者には主観が転送されないため、その満足の理由は謎として残った。セレナはその謎に憑かれて、同じ世界に飛び込んだ。
事故後、セレナは危険行為への恐怖を抱える。だが恐怖を抱えながら配信を続け、ついにプリヤと同じ宇宙エレベーター外壁よじ登りに挑む。配信は順調に進む。セレナはプリヤと同じ場所、同じ高さに到達する。
その時、別の要因で事故が起きる。セレナは外壁から落下する。
落下中、セレナは死を受け入れる。最期にカメラに何かを残そうとして気づく——配信が切れている。事故の衝撃で機材が止まっていた。誰にも届かない。
この瞬間、セレナはプリヤの満足げな表情の理由を理解する。プリヤは死の直前、カメラが回っていることを確認できた。自分の最期が記録され、視聴者に届くと知って安心していた。それだけだった。悟りでも、達観でもない。「収録できていてよかった」という、ただの安心。
セレナはプリヤの救いには届かない。だが落下しながら、彼女は思う——「私の人生は、もう無茶苦茶にできた。それで十分」。
セレナは何も残そうとしない。最後のキメ顔も、声も、何も。セレナは何にも救われずに、時速200kmで地面に激突する。
文字数:1191
内容に関するアピール
『AIの発達により、人間に最後に残される仕事は「責任を取ること」になる』という言説をしばしば目にしますが、本当にそうでしょうか。もっと人間特有のコンテンツがあるのではないか? そんな疑問から着想を得ました。
AIには人生がありません。だとすれば、人生がめちゃくちゃになるリスクを負うタイプのインフルエンサーは、「責任を取る」仕事よりもずっと強いのではないでしょうか。
今回は、宇宙でインフルエンサー活動を行う者がいたらどうなるかという仮定のもと、宇宙空間で自らヘルメットを脱ぐ少女を主人公にした物語を書きます。月でゴルフをしたアラン・シェパードの延長線上にいる人たちを、魅力的に描きたいと考えています。
文字数:299


