やがて蜘蛛が織り直す

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梗 概

やがて蜘蛛が織り直す

 ある帝国の辺境の大草原に蜘蛛闇という底の見えない裂け目がある。蜘蛛闇では屍織しおりと呼ばれる人々が機織蜘蛛と共生している。彼らは屍体から血を抜き、脳や心臓や筋肉の繊維を七つ道具で綺麗に剥がし、蜘蛛に与える。食後に蜘蛛が糸を吐くと、織り手の屍織は蜘蛛に乗り、八本の手を操って織物を作る。屍織は屍体由来の糸から記憶や経験を読み取る。
 少年トウが糸伝いに家に戻ると、近くの網に投げ込まれた生首を見つけた。初めて屍体解きをした。同世代の織り手のリャンが来て、外套を織って感嘆した。こんなに糸の質が良いのは解手の腕が良いからだ。その一言から、初対面のふたりは親友になった。外套を纏うと美しい風景や詩歌が浮かんだ。首は外界の皇帝の弟のものだった。外に憧れ、ふたりで最高の織物を作り広めようと約束をした。

 文人、仙人、人形遣い、トウは投げ込まれる様々な屍体を糸にし、リャンは縦糸、横糸、粘液を巧みに組み合わせ、自在に織って、時に屍体から学んだ。腕を上げたふたりは長老シザに認められた。酷い喧嘩もしたが、認めあっていた。トウの解きは繊細で、元の屍体の持つものを良く保つと誰もが認めた。
 ある日、屍体だった兵士と共にリャンが来て、織り直して動くようにしたと言った。兵士は少数民族シュウ族の話をし、また動かなくなった。シザが無闇に屍体を動かすなと激昂した。見覚えのある秘密の部屋で、ふたりはたくさんの遺体と蜘蛛の死骸を見せられる。かつてのシザの織り直しの試行の跡だった。ふたりは禁を破り続けた。
 織り直した鳥を、糸をバネに発射してシュウ族の町へ行く。リャンの織物の質感と見せる情景に人々は感動し、盲目の姫ミサにも気に入られる。トウも屍体解きの技を見せるが、人々に畏れられ、自分にはこれしかないと卑屈になる。
 リャンはミサと恋仲になる。贈るスカーフを織りたいと相談され、トウは初対面のときの外套を解き、他の糸と共にリャンに渡した。

 数カ月後、シュウ族の屍体が大量に投げ込まれる。地上へ上がると、皇帝が兵を引き連れていた。皇帝はミサの首を転がし、スカーフを織った者の処刑を宣告する。ミサは皇帝に嫁ぎシュウ族を守ろうとしたが、かつて処刑された皇帝の弟の詩歌を吟じ、皇帝の逆鱗に触れたのだという。
 呆然とするリャンに代わり、トウは名乗り出て、刻まれて蹴り落とされる。
 皇帝の命で屍織は帝国に奉仕させられ、誰一人蜘蛛闇から出られなくなった。 トウは目を覚ます。ショックで言語能力を失ったリャンに直されていた。傍らのシザがふたりの出自を語る。ふたりは元々屍体で、若き日のシザに織られた。トウはリャン由来の糸で、リャンは蜘蛛と人の死骸を元にした。
 出たい者はおれたちを信じてくれ。トウは人々に告げ、来た者を解き、蜘蛛に食わせた。最後に自分で自分の身体を解いて食わせ、それをリャンが一枚の大きな織物にした。シザがリャンを織り直し、蜘蛛に変えた。
 織物はリャンと共に宝箱に詰められ献上された。船に乗り皇帝の元へ運ばれると聞き、残されたシザは海の上でリャンが織り直すさまを想像した。

文字数:1275

内容に関するアピール

出なければならないにしろ、能動的に出るにしろ、故郷を出るという行為の動機(とそれに対する周囲の理解)が大事だと思いました。

禁を破ってコミュニティが’滅ぶ系の話が個人的には好きですが、そういう話だとどうしても動機が薄くなるので(ホラーというジャンルだとそれでいい気もしますが)、憧れる故に外に出たいという動機の意味が物語の経過とともに変わっていく設計にしました。

また、ヒトの身体のままただ逃げるのではなく、ひねりをくわえられないかなと考えました。

実作では蜘蛛とヒトの共生の様子や、屍織の織物を通じて経験(様々なスキルなど)が得られるところなどをいい感じに描きたいと思っています。

※ボツネタとして「わたしはブラックホールで生まれた」から始まる小説も考えましたが…どうにもこうにも出られなそうだったのでやめました。

文字数:353

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やがて蜘蛛が織り直す

1.

 機織蜘蛛に乗るための資質がまるでないことは痛いほどに知っていたけれど、まさか振り払われて一番下の網まで落ちるとは思ってもいなかった。少年が墜落しつつある地の裂け裂け目には、上から七層もの靭やかで頑丈な蜘蛛の網が貼られている。時折、よく晴れた日に光が深くまで届くと、白い網が亀裂めいっぱいに貼られているのと、何匹もの機織蜘蛛が縦糸をひょいひょいと華麗に上り下りするのが見えることもあるけれど、ほとんどの時は漆黒の闇の湧き出す泉に見える。
 だからそこは外からは蜘蛛闇くもやみと呼ばれ、中に住む人々、屍織も蜘蛛闇と呼んでいる。
 屍織の少年は朦朧としていた。視界は闇に満たされている。このまま死ねば、機織蜘蛛はおれの屍体を喰いに来るのだろうか。墜落の衝撃で身体が痺れて動かない。いっそこの第七網にもかからずに、闇の底に落ちていたなら、蜘蛛に頑なに避けられるだけでなく、網の方にまで避けられる男だったと皆に記憶されただろうから、その方が名誉だったかもしれない。こんな風に中途半端に引っかかるよりマシだったようにも思えた。
「トウ。よかった。第七網にかかってなかったから、ここにいなかったらもう二度と会えないんだって、わたし覚悟してた。でも、蜘蛛に避けられてるのは知ってたけどさ、網にも避けられてるのかなってぐらい下まで落ちたじゃん」
 少女が蜘蛛に乗って降りてきて、トウに言った。フゥア、人が気にしてることをずけずけと言うなよ。トウはそう返そうとしたけれど、口が僅かに動くだけで、思うように声は出せなかった。
 トウの真上から別の糸が垂れ落ちてきて、八本の細長い脚がトウの身体を身体を掴んだ。鉤形の節の幾つかが皮膚を突き破って、温い血が滲むのを感じた。
「じっとしてて、凄腕の織り手の彼が第一網まで引き上げてくれるから」
 動物の脂を練り込んだ糸灯いとあかりに照らされる横顔をトウは知っていた。同世代で一番早くから蜘蛛に乗る資質を認められた男、リャンだ。おれなんて、資質を測る糸見 いとみに何度も失望せられているというのに、リャンはどんな蜘蛛でも乗りこなすと褒められている。リャンの名前を聞くだけで、卑屈な気持ちになるのに、そんなやつに助けられるなんて。
 地上に葬られた屍体を拾ってくるだけなら、そんな必要なかったのに、調子に乗って蜘蛛に乗ろうとなんてしなければよかった。いつものように蜘蛛闇の淵から屍体を蹴り落として、第一網にかけるだけでよかったのに。トウは釣り上げられながら、落ちる瞬間のことを思いだした。
 街の方からやってきた男が幼い女の子と一緒に、双手いっぱいの朱い花を屍体に手向けていた。蜘蛛闇の淵近くの岩陰から、祈る様子がよく見える。男は屍体を蜘蛛闇に落とすつもりだったが、彼の袖を掴んだ女の子の潤む瞳を見て止めた。
「どうしてお父さんは、こんな目に合わなければいけなかったの?」
「皇帝の機嫌を損ねてしまったからだ」
「それは、お母さんと同じお墓に入れないくらい悪いことなの?」
 男は誰かに聞かれてはいないかと辺りを見回した。人々は蜘蛛闇までやってきて、一帯を支配する帝国の中で弔うことを禁じられた者たちを葬った。謀反人、罪人、敵国の民、脱走兵、棄てられる様々な者たちの屍体は、帝国にとっては穴に棄てるべきごみだった。
「帝国ではそういう定めになっている。君のお父さんの無実を証明できなかった僕を許してくれ。さあ、手を合わせて、祈ろう」
「こんな暗い所。お父さんがかわいそう」
 男は女の子の涙を拭ってから、屍体の首元に深く残った絞首刑の跡をそっと撫でた。首が折れて即死だっただろう。苦しまないで死んだだろう。それは屍体の鮮度にとっても都合がいいことだ。トウはそう思いながら、岩陰でふたりが立ち去るのをじっと見守っていた。
「この闇は深いけれど、闇の向こうはきっと光に満ちている。闇の底は帝国じゃない。向こうへ抜けたら自由があるんだ。明るく息苦しい街よりかは、いい所に違いないよ。さあ、行くよ。お別れだ」
 ふたりが去るのを見届けたあと、トウは物陰から飛び出した。服装から察するに、屍体はそれなりに裕福な帝国市民のようだった。兵士の屍体に比べれば随分珍しいから、うまく解いて喰わせれば蜘蛛も歓ぶだろう。一匹でも自分のことを気に入ってくれる蜘蛛が現れれば、蜘蛛を乗りこなす道もわずかながら見えるかもしれない。その道は今はまるで閉ざされているけれど。珍しい屍体があるならば、わざわざ地上まで屍体探しをしに来たかいがあった。
 屍体にねばねばと糸を引きよく伸びる横糸をくくりつけて、自分の身体と結ぶと、トウは淵に立って闇に向けて跳ぶ準備をした。膝を曲げて手を振りかぶった。頭の後ろから差す光をたよりに、第一網の中で特に網が濃いところに狙いを定める。第一網が破れても、第二網が受け止めてくれると分かっていても、跳ぶ前はそれなりに気が立ってしまう。
 命綱として糸のもう片方を岩にくっつけるつもりだったのに、タイミング悪くフゥアに声をかけられてしまった。フゥアは蜘蛛の背に乗っていた。トウ以外の同世代の者たちはみんな、屍織のならいとして、蜘蛛に乗る練習をはじめている。
「トウ。この子で吊り下げれば楽だよ。わざわざ跳ばなくたっていい」
「フゥア。なんだよ。お前も乗れるようになったのかよ。先を越されちまった」
 闇の淵からフゥアを乗せた蜘蛛が上がってくるなんて思わなかったから、トウは声をこわばらせた。
「ちょっとだけね。織り手みたいに八本の脚を自由に動かすのは全然無理」
「屍体を掴んで吊り下げるくらいなら、おれにだってできる」
「止めなよ。糸見で散々だめな結果出てるじゃん」
 うるせえな。そう言ってすぐ、トウは蜘蛛の脚をよじ登った。この蜘蛛もおれのことを嫌がるだろう。おれは一度も蜘蛛の背に乗れた試しがない。たとえフゥアのおまけでも、少しでも乗ることができればいい。ささやかな祈りを込めて、蜘蛛の腹に生えた薄毛を掴もうとした。
 祈りの手は空振りした。蜘蛛が勢いをつけて裂け目へと跳んだ。フゥアが悲鳴を上げるのと、トウがしくじったと思うのはほとんど同時だった。
 トウの身体は跳ね上げられ、仰向けに青空を見ながら墜落をはじめた。無茶の挙げ句、勝手にライバル視しているリャンに第七網から引き上げられている。
 第一網に戻ると長老のシザが待っていた。シザはトウを抱きしめると、骨ばった手で彼の身体のあちこちを撫でた。
「シザ。おれはもう大丈夫だ。頭が重いけど、体の痺れもとれた。口も聞ける」
「トウ。今度わたしの部屋に来なさい。渡すものがある」
「なんだよ突然。それよりおれが蜘蛛に疎まれてる理由、教えてくれよ。シザなら分かるだろ」
 シザは答えずに去った。何度聞いても、わたしにも分からないことがあると答えるだけだ。屍織の中でも一番に年長のシザは肌の皺も白髪も目立つ老体だったけれど、知識でも蜘蛛の操り方でも蜘蛛闇を引っていた。そんなシザに分からないことがあるなんて、とトウは思った。少しくらい、調べるのを手伝ってくれたっていいのに。
 せっかく見つけた屍体はどうなっただろう。トウは気になって、縦糸を伝って第二網へと降りた。第二網は他の網よりも厚めに張られていて、足を運ぶ度に跳ね返りで身体がふわりと浮くように感じられて心地よい。中程に円蓋が吊られている。一番高い所で人間十人分くらいの高さがあって、そこから足元まで硬質な網壁あみかべが降りている。数百本の縦糸が第一網に繋がっていて、広い天井を上から吊り上げている。
 天井の上には何匹も機織蜘蛛がいて、お腹の好かせているやつは口をわしわしと動かしている。円蓋の中のあちこちで、屍織が屍体に手を入れて、蜘蛛に食べさせて糸に変えている。
「トウ。お前、織網おりあみになんか来てないで、部屋に戻って安め」
「おれの屍体はどこだ?」
「あっちの端で血抜きが終わるところだ」
 指差されたところはトウにとってはいつもの場所だった。織網の端に座って、屍体が蜘蛛の糸に変わり、蜘蛛の糸が織り上げられる様を見ているのがトウは好きだった。
 いつもの場所からは織網の全体がよく見える。解き手ほどきての仕事も、織り手おりての仕事も。蜘蛛に乗る資質がない分は、見て盗むことで補おうとずっと思っていた。トウが座りすぎて尻の場所にへこんでいる場所に、先客がいた。フゥアだった。フゥアはトウの代わりに、運んできた上級市民の屍体が血抜きされる様をじっとみていた。
 屍体は壁網にしっかり貼り付けられている。開かれた胸に嵌っていたはずの肋骨はすでに外されて、網の下へ棄てられている。晒された小振りな心臓に灰白の糸が通されていて、解き手がその先を指で操っている。指を弾くと、心臓は打たされ、斬り落とされた手足の指先から血が滴り落ちる。
「血抜きなんて言うから、吸い取るのかと思ってた。随分時間がかかるね。やらないとどうなるの?」
「血の匂いがすると、蜘蛛が嫌がって食べない」
 心臓の糸を抜きながら、解き手の男がトウにかぶせて口を開く。
「蜘蛛さま方は美食家だからな。ただ肉を切っても喰わないし、糸状にしないとだめなんだ。同じような屍肉ばかり食わせてると飽きて喰わなくなる。あいつらの美味しい不味いの感覚は分からないけれど、不味いのを食わせると駄目な糸ばかり吐くようになる」
 解き手は道具箱を開くと、ふたりに見せつけるように七つ道具を順に並べた。針刀しんとう大刀だいとうこう、棍、糸巻、鋏、摘子てきしの七つ。トウはフゥアに名前を教えた。
「七つ道具を使って切り開いて、肉を糸に解いていくんだ。肉の糸にも種類がある。力糸りきし験糸けんし記糸きし想糸そうし景糸けいしとかね。肉の記憶がぶっ壊れないように丁寧に解かないといけない。こいつが得意なのは、たしか景糸だ」
「こいつ呼ばわりするな。トウ。相変わらず生意気だな。ああ、俺は景糸が得意だ。こいつが見たものは肉の記憶に残ってる。その肉の記憶を、蜘蛛に喰わせて糸に変える。すると蜘蛛の糸に、景色の記憶が残るんだ。音の記憶の残る音糸おんしなんてのもあるぞ。音糸は耳に多いが、おれはそいつを解くのは苦手だ。この屍体は服装を見るに上級市民だろうな。珍しい、糸から帝国の街の様子がよく分かるかもしれない」
 解き手が針刀を手にとって、屍体の眼を剥きはじめると、トウが身を乗り出した。
「おれにもやらせてくれよ」
「駄目だ。自分の七つ道具を持ってやっと入門だぞ。それにトウ、お前本当は織り手になりたいんだろ」
 トウは黙って、膝を抱えて座りなおして珍しく虚ろな目をした。
 悪かった。そう言ってトウの肩を叩いてから、解き手は屍体の顔を解き進めた。その解き手が屍体から景糸を解く技は屍織の中でも一流で、トウは何度もその様子を見ているが、見て盗めるほど単純ではなかった。
 けれど、今日は違った。目が異様によく見える。自分の目ではないかのように。見様見真似で手付きを真似ていると、空想の中では屍体の顔を完璧に解くことができた。ただの真似ではなかった。トウの空想は、気づくと目の前の解きを追い越していた。目を使いすぎたのか頭が割れるように痛んだ。
 景糸に解かれた屍肉を糸巻きに巻きつけると、円蓋の天井からするすると蜘蛛が降りてきた。糸巻の先端の糸の切れ端を加えると、わしわしと口を動かして、するすると啜った。幼子が夢中で麺をすする様に似ていた。
 よほど食事を気に入ったのか、蜘蛛は織網にとんと降り立つと、八本の足を別々にひくひくとさせて小刻みに網を揺らして震えた。それからすぐに、白色でよい光沢をした細い糸を吐き出した。隣の間から織り手がやってきて、蜘蛛に乗ると組紐くみひもを織り上げた。
「トウ。この組紐、お前にやる。あとで智織ちしきの間にしまっとけよ。織る方は花形で煌めいて見えるが、解き手も悪くないぞ。まあ、何にせよ、まず七つ道具を手に入れろ」
 トウは頭痛に耐えながら、フゥアに支えられて自室へと戻って、寝床の網にくるまって眠りの泥濘に沈んだ。組紐の景糸が、トウに帝国の町並みを見せた。高い楼閣の上から広場が見える。広場の人の波が、蜘蛛の子のようにわらわらと動き回っていた。

2.

 シザから七つ道具一式を与えられたとき、トウはその場では喜んで見せたが、部屋に戻ると滲んで血の味がするくらい唇を噛み締めた。解き手への入門を意味するそれは、織り手としての失格を意味していた。シザが失格だとはっきりと言わないのが、却って残酷だとすら思えた。
 解き手たちは新人に技を教えようとトウを呼びに来たが、トウは無視して毎日眠って過ごしていた。貴重な石頭牛の骨を削って作られた七つ道具の箱も部屋のもらったその日から天井に吊るしたままだった。
 ここ一ヶ月、どろりと起き出してやることと言えば、糸見いとみだった。吐かれたての糸を垂らして、下から火を付ける。糸見されるものは糸の真ん中を掴む。火と糸の変化によって、屍織としての資質を測る。
 けれど問題は、蜘蛛の糸が必要だということだった。トウはなぜか蜘蛛に避けられるから、糸見のための新鮮な糸を手に入れるのすらままならない。
「トウさ。七つ道具もらったんだから観念しなよ。それに、そのうち資質が目覚めるかもしれないじゃん」
 結局、フゥアに頼りきりだった。フゥアも毎日のように、結果の変わらない糸見につきあわされて、呆れ気味だった。はじめは真剣に慰めていたけれど、最近は棒読みで適当に慰めの声をかけるだけだった。
「解き手の腕が悪いと良い糸が作れないんだから、解き手だって生み出すんだよ。それに、いつか蜘蛛に乗れるようになるかもじゃん。糸見はこれで最後、明日からはわたし以外に頼みなよ」
 フゥアは手を高く上げて、吐きたての糸を足元近くまで垂らす。トウは石を打って、先端に小さな火を灯す。それから、糸の真ん中あたりをつまんで、指先に力を加える。トウが糸を掴んで二つも数えないうちに、掴んだところが溶けて切れた。火は床に落ちてすぐに消えた。その結果はもう見飽きていて、ため息の代わりに自嘲気味な笑みだけがこぼれた。
 墜落するまでは、もう少し火が消えてしまうまで間があったというのに。
「その顔、二度としないで。とにかく、明日からわたしは来ない」
 どうして自分に蜘蛛が寄り付かないのか。かつて蜘蛛闇の歴史に、そんな屍織が存在したことはったのだろうか。トウは第三網にある智織の間に赴いた。
 途中でごすんごすんと音が聞こえて網が揺れた。第一網も第二網も、視線を向ける所のどこにも兵士の屍体がかかっていた。途中で新しいのが投げ込まれると、またごすんと網が揺れた。戦火が日に日に激しくなっているらしかった。シザは兵士から音糸おんし記糸きしを解かせて、短套たんとうを織らせた。それを羽織ったフゥアは、大きな砦が陥落する様と見て、弓でたくさんの兵士が射殺いころされる断末魔を聞いて青ざめた。震えながらトウのところ来て、一晩そばに居させてくれるように言って、トウは寝床を譲り、その日は壁際にうずくまって眠った。
 八角蓋はっかくがいの形をした智織の間には、屍織が織ってきた外界の物事や物語、歴史書が収められている。白濁した半透明の長い反物に色とりどりの糸で歴史をしるす文字が刺繍された歴史書は、動物の骨を軸に巻かれて天井から所狭しと吊り下げられている。灯糸の火で透かすと影ができる。トウもフゥアも、幼い頃はそれで歴史を学んだものだった。
 近頃の織物は入口近くに集められている。これまでにシザが織り上げてきた短套もいくつも吊るされて、ゆったりと揺れている。子供たちに何を教えるかはシザが決めている。一番に学ぶのは帝国と戦争の恐ろしさだ。
 司書たちが天井の蜘蛛に合図して書物を運ばせている。
「歴史上、蜘蛛のよりつかない屍織が存在したかを調べてほしい」
「トウ。だいぶ前に依頼されて、色々と記述を探してはいるのですが、まだ見つかりません。そもそも、ある時期よりも昔の歴史は、数が少なくて見つけるのが難しいのです。昔のことなら、シザが一番知っているから、彼に聞くのが一番でしょう」
「シザははぐらかすんだよ。何か隠しているのかもしれない」
「それと、この前貸し出した糸見大全、そろそろ返してもらえますかね?」
「あれも知りたいことは載ってなかった。解き手と織り手、両方の資質をもつことがあるか知りたかったんだ」
「シザは両方できますよ。ここ十年以上、織網にいるのは見たことがないけれどね。シザの織物は肉の記憶を長い時間残すから、ここに保存するのは彼の織物がいいのだけれど。屍織の技術が落ちていることに、彼は頭を悩ませてるみたい。シザから聞いたけど、トウ、あなたは同世代で一番早く七つ道具をもらったそうじゃないですか。期待されているのですよ」
「違う。織り手として見限られただけだ」
 トウは目を伏せて智織の間の奥へと足を運ぶ。自分の手で書物を探したかったのだ。けれど、高い所につるされた巻物をとる術はなかった。天井の蜘蛛はみなはけてしまった。古い外套を身につけると、帝国王都の光景が浮かんだ。現皇帝と皇帝の弟が机に座り詩歌を学んでいる。凛とした顔立ちの弟が詩歌を吟じ、兄の方は恨めしそうに筆を置いた。兄弟ともども、目の下に帝国国章の三本線の入れ墨が入っている。
 シザが王都に使える従者の屍体から記糸を巻いて織らせたものらしい。新しい織物に比べると、古い織物の方が遥かによく肉の記憶を残していた。最近の屍織が織った物は、すでに糸が艶を失いだめになって、何の景色も知識もかりたてない物もあった。司書に告げると、司書は悲しそうな顔をした。
 これは景糸が駄目になって、これは知糸が駄目になっている。織物が傷んでいるところを指し示していると、司書に目が良くなったのかと問われた。トウ自身は気づいていなかったが、織物に何の糸が織り込まれているか、前よりもはっきりとわかるようになっていた。肉の記憶が失われたいとは、トウの目には色すら違って見えた。
 呼んでもフゥアが来なくなり、糸見をすることもなくなると、腐っているのにも限界が’訪れた。七つ道具の箱を開いて見るだけ見てやろうと、のそのそと寝床を這い出た。
 ごすん。と頭の真上で音がして、部屋の網が大きく揺れた。日に日に投げ棄てられる屍体が増えている聞いた。けれど、自分の部屋に落ちてくるとは思ってもいなかった。
 男の首が天井にかかっていた。赤い貴石を繋いだ冠が額をぐるりと一周している。鋭利な刃物の一振りで斬首されたのか、断面はすごく綺麗で標本のようだった。閉じられた目には苦悶の跡ひとつない。右目の下に見覚えのある三本線の入れ墨があった。戦場に立てられた帝国旗と同じ紋章だ。詩歌を吟じたあの皇帝の弟の首であるように見えた。
 トウは七つ道具の箱を開けた。壁網をよじ登り、針刀で天井を割いて首を取った。座り込んで王弟の首を抱いた。鼻筋の整った横顔はひどく美しかった。トウの心臓は高く打った。こんなに綺麗な首は見たことがない。屍体はただの物ではあるけれど、こんなに美しい物がどうして棄てられなくてはならなかったのか。
 おれの手で解こう。他の誰かにさせて台無しになるくらいなら、おれの腕を試そう。
 七つ道具を身体に括り付けると、トウは一ヶ月ぶりに織網へ降りた。
 首をやるのは本当に難しいぞ。それよりこっちを手伝え。他の解き手の声は彼の耳を素通りした。織網のいつもの場所に首を運んで、七つ道具の中で一番大きな大刀を振り上げて深く息を吸った。ほんのひととき、躊躇いで手が止まった。解くことすらうまくいかなかったら、おれはどうなってしまうだろう。そう思うと手が震えた。
 向こうで見覚えのある織り手が織物を織っているのが見える。同世代の中で一番の織り手のあいつだ。おれは織ることはできない。だから、こっちはこなさなきゃ話にならない。
 大刀を振り下ろすと、頭蓋は胡桃みたいにぱっくりと二つに割れた。薄灰色の脳を指で着くと思ったよりも柔らかくて、握ればそのまま潰れてしまいそうだった。手のひらで一周撫でて、指先で皺をいくつもなぞると、弱そうな場所に目星がついた。皺にこうを差し込んで釣り上げて、針刀をゆっくりとはわせると、ぷるんと揺れながらそれは切れて、いくつかのかたちに分かれた。
 ひとつひとつの大きさは小振りな柑橘くらいの大きさになった。トウは親指と人差し指で摘子をそっと挟んで、深く長い息を吐くと、ぬめっとした小振りで灰色の物体をそっとつまんだ。知糸、景糸、想糸に記糸、湿った肉から糸を剥がしていく。どの糸とどの糸が絡み合い、ひとつひとつどうすれば解けるのかがはっきりと見えた。
 脳のすべてを解き終わると、糸巻きの数は二十にもなった。どっと重たい疲れを感じたトウは大の字に寝転がると、その日織網にいた解き手全員に取り囲まれているのに気づいた。みんな信じられないという様子で目を丸くしていた。糸巻きを手にとって、巻かれた脳の糸があまりにも美しいのを見て目を見合わせた。それから小さく拍手をした。
 拍手と称賛の声をぼんやりと聞きながら、トウはやわらかい眠気に飲み込まれた。拍手が止んで、小刻みに網が揺れるのを感じた。好物の脳が解かれたのを察した蜘蛛たちがひとりまたひとりと織網に入ってきて、糸巻きを口に運んでしゅるしゅると勢いよく食んだ。
 脳の糸が本当に美味しかったのか、蜘蛛たちはみんな天井に向かって美しく艷やかな灰色の糸を吐くと、糸に身体を預けて八本の脚をだらしなく伸ばして、振り子のようにぶらぶらと揺れた。揺れながら。織網の中に山程の糸を吐いて、眠ったように動かなくなかった。
「これはすごい。こんなにきちんと肉の記憶が糸に残っているのをはじめて見た。この想糸なんてどうだ。織らずとも触るだけで屍体が織った詩歌が浮かぶようだ」
 リャンが感嘆の声をあげた。リャンは糸をより集めて珠を作ると、天井から吊り下がって眠る蜘蛛の脚をくすぐって目覚めさせた。前足をよじ登り背中にまたがると、小刀で小さく傷をつけて、傷に指を入れて蜘蛛を操って、あっという間に短套を織り上げた。
「トウも信じられない技を見せたが、リャン、お前も流石の腕前だな」
 解き手のその称賛の言葉にはにかみながら、リャンは織りたての短套を羽織って目を閉じた。
「王都の宮殿が見える。柱は金彩と銀彩で飾られて、天井には六枚の灰銀色の羽を持つ巨大な鳥が描かれている。あれはなんという鳥だろう。楽隊の調べがなんと朗らかなことか。みんなもあとこの短套を羽織るといい。誰かが屋上に登って、帝国を一望しながら詩歌を詠もうとしている」

 吾が生は夢幻の間、遠く望んで時にまた為す、なべては皆同じくするを尊ぶ、独り卓然として覚り、なにゆえ塵なる地に縋る

「トウ。みんながあなたを褒め称えてる。リャンもあなたと話したいって、起きれる?」
 フゥアが指し示した方向に、一匹の蜘蛛がいる。背中にリャンが乗っているようには見えなかった。
「顔を合わせるのは初めてだね。リャンだ。よろしく」
「なんだ。蜘蛛が話しているのかと思った。どこから話してるんだ?」
「失礼。皆みたいにまたがるんじゃなくて、蜘蛛の上に寝転がってる。だからそこからだと見えないかもね。怠け者なんだ、僕は」
「トウも最近はだいたい寝てばっかりだったから、似た者同士ね」
「こんなに質のいい糸は初めて見た。僕ら織り手はただ、蜘蛛の脚に従って糸を組み上げているだけだからね。悪い糸を使えば、犬も食わない襤褸が織り上がるだけなんだ。この短套を羽織ると、まるで僕が帝国の王宮にいるかのように感じられる。解き手の腕があまりにもいいから、肉の記憶が傷ついて消えてしまうことなく、蜘蛛の糸まで残っているんだよ。いい加減な肉を食わせた悪い糸とはまるで違う。良すぎるんだよ。君の糸は」
 べた褒めの言葉に驚いて、持ったままだった摘子を落としかけた。トウは返す言葉を見つけられなかったが、リャンが手を伸ばしてきたのでぎこちなく握り返した。
「トウだ。よろしく」
「トウは見たくないだろうけど、リャンの糸見は昔からすごいんだよ」
「フゥア。糸見は見せ物じゃないよ」
「そう言わずに、やってみせて」
 フゥアが糸を垂らして火を灯した。リャンははにかみながら糸の真ん中をつまんだ。火は一瞬、大きく燃え上がったが。糸を燃え登ってくることはなかった。しばらくの間燃えたあと、糸ごと大きく伸びて床について、消えた。
 リャンが手を離すと、火の消えた糸は鉄のように固くなっていた。壁の網に突き立てられるくらいに。
「これが織り手の才能か。この短套もすごい。まず肌触りからして、全然違うな」
 ケウは受け取った短套を羽織って、布地の滑らかさを感じながら、立ち上がる帝国の華やかな光景に見とれた。それから、それから、おれも糸見をすると言って、フゥアにもう一本糸を垂らさせた。
 見飽きたとの同じように、指で摘んだその瞬間、糸は真ん中ですっと切れて、床に落ちて火を消した。おれのはこんな風だ。自虐的にトウが笑うと、フゥアは目を伏せたけれど、リャンは目を輝かせた。
「解き手の才覚に溢れていると、糸に触れるだけで切ってしまうんだな。君の糸はいつなら手に入るかな? 僕は毎日だって、この糸を使って織物をしたい。蜘蛛たちも、君が解く肉なら歓ぶだろうね」
「毎日いる。いくらでも解くさ。おれが役に立てるなら」
 トウは力を込めてそう返した。冷静さで顔を固めていたけれど、本当はあのリャンに認められて跳び上がるほど嬉しかった。
 その日から毎日、トウとリャンはふたりで山程の織物を織った。織網で寄り添って、近くでお互いの技を見せあった。放っておくと二人で話し続け、フゥアを呆れさせた。市民と兵士の顔を剥いで景糸をとって、切り落とした脚から解いた験糸けんしと合わせて、長い敷布を作り、その上に寝転がった。
 帝国各地の街を歩く様がありありと目に浮かぶ。活気に満ちた市場も、その地面を踏みしめる足の感覚も。朝から晩まで寝転がっていても飽きないほど、掻き立てられる情景は豊かだった。
 異国で作られた美しいモザイク張りの美術品が、王都の市場で人々に称賛されたり、隊商に買われて帝国各地を巡ったり、宝物庫に納められるのを見た。
 蜘蛛闇の外は戦争ばかりの恐ろしいところだと教わっていたけれど、未だ見ぬ町並みや人々の賑わいはあまりにも魅力的だった。
「いつか外の世界に行こう。王都へ行って、おれたちの素晴らしい織物を見せつけよう」
「行こう。僕らの織物を屍織でない人々はどう思うのか、感じてみたいね。知らない屍体に僕たちの技が通用するか、見てみたいとも思うんだ。見せつけなくても、いいとはおもうけれどね」
 ふたりはたびたび、外に行き高め合おうと約束をした。トウはリャンの織る手付きを見て、他の織り手から遥かに卓越しているのを感じた。リャンに何度もどういうことを考えながら織っているのかと聞いたが、リャンは蜘蛛と繋がって、思うままに織っているだけだと答えた。反対に、リャンもトウに解き方をよく聞いた。トウはその度に何が見えているかや、どう考えているかを答えてリャンを感心させた。
「蜘蛛が肉の記憶をどう味わっているかを感じているのはリャンだけだ。それにあいつだけが、どんな蜘蛛にも乗ることができる」
 他の織り手が言うのを聞いて、トウはいつからそうなのかとリャンに訪ねた。リャンは気づいた時からだと答えた。おれは蜘蛛に疎まれている。リャンは蜘蛛に好かれている。前に例がないほどに。なんだ、似た者同士じゃないか。
 そう思ってトウは安心した。
 お互いの高め合いがどこに向かうのか。ふたりは毎日心を踊らせた。向かう先で禁に触れて、シザを激昂させることになるとは思ってもいなかった。
 それでも、親友として共に過ごす日々は何にも代えがたくて、織網に笑いが絶えることはなかった。

3.

 ふたりが出会った日に織り上げられた短套は、王弟の短套と名付けられた。シザが見ても完璧な仕上がりだったから。珍しい物だし、残すべき質であるから、智織の間に収めるようにトウに何度も言ったけれど、トウはいつかそうするとだけ言って、灯糸のひかりが一番にあたる部屋の真ん中にそれを吊るして大切にしていた。
 トウは次々と屍体を解きながら、自分の目をどう使えばいいかを学んでいった。どんな屍体でも、どういう糸に解いていけばいいか、その構造を見抜くことができた。その目は資質の一つだとリャンはよく褒めた。とはいえ、トウの目が万能なわけではなかった。
 正しい解き方が見えるということは、逆に言えば、どう解くと壊れるかも見えてしまうということだった。普通の解き手にはそんなものは見えないから、完璧に解けるどうかは気にしないのだけれど。トウは思い切りが悪かった。全部の肉を正しく、肉の記憶に何の傷もつけずに解こうとするから、時間ばかりがかかった。
 解くのに時間がかかればかかるほど、解いた屍体は新鮮さを失って、蜘蛛たちは興味を示さなくなるのだった。
「トウ、君は物事の言いぶりは粗雑なのに、解くことに関しては神経質すぎるんだ。僕は織るとき、何も考えちゃいないよ。もっと肩の力を抜いた方がいい」
 リャンの真っ直ぐな物言いには慣れていたから、言われて苛立つようなことはなかったけれど、ぐうの音も出なかった。それに、王弟の短套のような質の織物はあれから二度と織れていなかった。あの時のように解くことに没頭しながら、完璧に解ききることはできなかった。正しく解かなくていいと思えば思うほど、集中することはできなくなった。
 わざわざ蜘蛛に頼らなくとも、このまま織ることもできるのではないか。
 七日近くかけて解き終わった肉を明かりにかざしながら、トウは思った。すでに夜半過ぎで、多くの灯糸は消されていた。織網には闇がうだり満ちていた。リャンの部屋に行って呼ぶと、四度目の呼びかけで目を覚ました。他人に眠りを邪魔されるのが嫌で、五重にした網を繭のようにして眠っていたリャンは機嫌が悪かった。
「蜘蛛に食わせずに、この糸をそのまま織るのはできないか?」
「できないことはないけれど」
 天井で眠っていた蜘蛛を呼びつけて、リャンは蜘蛛に乗り込んだ。蜘蛛の背中を両手で包んで、ほとんど眠りながら肉を織った。やがて朝が来るころ、一枚の長套ちょうとうができた。リャンは蜘蛛に乗ったままで動かなかった。長套を羽織って第四網の真ん中あたりを歩く。長套は色こそよいけれど、蜘蛛糸で織ったものと何もかもが違っていた。肌に触れるたびにそれはわかった。何の肉の記憶もなかった。蒸発して消えてしまったかのように。屍体が見た風景も、思いも、何も呼び起こされなかった。あれほど正確に解いたというのに。
 蜘蛛はあの腹の中で、何をしているというのだろう。それが何であっても、蜘蛛の手を借りなければ織物作りがままならないのは明白だった。おれひとりでは、どれだけ正確に解こうとも、良い織物を作ることはできないのだ。
「次織ったやつをくれるって言ってたじゃん。それ、欲しいんだけど」
 蜘蛛に乗ったフゥアがやってきてそう言うと、トウは生返事をした。結局、長套をフゥアが持ち帰る成り行きになって、これが間違いの元だった。
 一週間ぐらいすると、毛を逆立てた猫のようなフゥアが織網にやってきて、衣装棚の中身が台無しになったと金切り声を上げた。トウとリャンを自分の部屋まで引っ張っていくと、フゥアは衣装棚の中を指差した。
 煮詰められた泥の底のような悪い匂いがした。
 長套は腐敗して液状になり、彼女の服全てを汚して駄目にしていた。
「悪い。おれが解いた肉をそのままリャンに織らせたんだ。蜘蛛なんていなくても織物が作れるんじゃないかって思ったんだ」
「自信過剰だね。機織蜘蛛がいなきゃ屍織は屍織でいられないって、小さい頃に習ったじゃん。常識だよ」
「常識を疑いたくなることもある。とにかく、おれのせいだ。ごめん」
「常識っていうかさ、僕は頼まれた時、ちょっと考えてこうなるとは思ってたんだ。ただの肉で織っても腐るだけってこと」
 休憩中に引っ張り出されて眠たそうなリャンは不機嫌そうな声でそう口走って、火に油を注ぐことになった。
「分かってたなら、止めればよかったじゃん」
 フゥアはそれからひと月近く、リャンと口をきかなかった。あの時は眠かった。だから説明するのが面倒だったんだ。リャンは悪びれもせずそう言って、織網に戻ると蜘蛛に乗って横になった。近頃はこうやって蜘蛛に乗っている方が落ち着くんだ。と言って眠ろうとするのを、トウが質問をして止めた。
「ただの肉織っただけだと、どうして腐るんだ?」
「そりゃあ。肉からとしか言いようがないよ」
「蜘蛛の糸は腐らないだろ」
「ごめん。冗談だ」
「もしなにか、理屈があるなら教えてくれよ」
「僕らは糸状の肉を啜っても肉だとしか思わないだろ。せいぜい腹を壊すのが関の山だ。でも、蜘蛛は違う。肉の記憶を味わってる。味わって、腹の中で粘液に包んで溶かして、糸に変える。そうすると腐らなくなるのさ」
「なんで蜘蛛は、おれたちのためにそんなことしてくれるんだ」
「なんでって、僕は蜘蛛じゃないからそんなことは分からないよ。でも僕たちのためじゃないだろうね。多分だけど、美味しいものだから保存しておきたいんじゃないかな」
「でも、糸に変えて織物にしても、肉の記憶が消えてしまうこともあるだろ? あれは腐ってるんじゃないのか?」
「あれは腐るのとは違う。織り方がまずいんだ。景糸が見せる風景も、験糸に触ると感じれる誰かの指先の技も、ひと続きになっているか、似た記憶がまとまっていると意味を持つんだ。だから、織るときに、てんでばらばらの肉の記憶を近くに結ぼうとしても、肉の記憶は失せてしまうか、少しの間は残っても、そのうち意味をなくして消えてしまうよ」
 言い終わると、リャンは大きなあくびをして、蜘蛛を操って壁網をよじ登って天井へ消えてしまった。天井なら誰にも邪魔されないと思ったのだ。
 残されたトウは運び込まれた屍体を解き、古株の織り手に手渡した。織り手は蜘蛛にまたがって、たどたどしく脚を動かして、ひと続き織って、頭を抱えて少し悩み、またひと続き織ってをゆっくり繰り返した。どの織り手もそうで、リャンが言うように考えずに蜘蛛に任せて織っている織り手は一人もいなかった。
「リャン。お前、織り方も乗り方も他の織り手と違うけど、どこで習ったんだ?」
 仲直りのため組紐を贈ろうとフゥアを呼んだ時、トウは気になってそう聞いた。
「別に、気づいたらこの乗り方をしていただけだ」
 蜘蛛の背中に大きめの傷をつけて深く手を入れて抱くように乗るから、足元からリャンの姿は見えず、蜘蛛自体が言葉を喋っているようにすら見える。
「リャンには生まれつきの資質があるから、教えられなくてもできるんじゃない? でも、習ってもその乗り方にはならないと思う。ほんの少し加減を間違えるだけで蜘蛛は嫌がるから、傷はできるだけ小さくつけろって習うよ。蜘蛛を傷つけるのは、そもそも良くないと言われてるし」
「じゃあ僕は、みんなの前で堂々と掟破りをしていることになるね」
「そうは言ってないじゃん。でも、わたしにはその乗り方はできないと思う」
「試してみればいい。フゥア。君にもできるよ」
 フゥアは蜘蛛の上に呼ばれて、リャンに場所を譲られた。ぱっくりと開いた傷から中の
透明なぬめりが見える。ぬめりの中に手を入れるように言われて、フゥアは戸惑いを隠せなかった。こうすればいい。そう言って、リャンが左腕を肘の辺りまで入れた。蜘蛛の脚を二本動かしてみせた。 
リャンは楽しそうだった。フゥアは安心して、リャンを真似て、自分の腕を傷に沈めた。
 ぬるり、ざらりという感触がしたあと、ごりっと指先が何かに当たったように感じた。自分だったら痛そうだな。そう思ったときには手遅れだった。
 しゃあ。しゃあ。きぃ。きぃ。きぃ。きぃぃぃぃぃ。
 聞いたこともない甲高い声を出して、蜘蛛が頭側の四本の脚を跳ね上げた。脚は激しく振り下ろされて、足元の網が高く跳ねた。振り落とされたフゥアは網の上で高く跳ねて、意志とは無関係に斜めに跳んだ。蜘蛛はねばついた横糸の束を吐き出して、フゥアをがんじがらめにした。フゥアは哀れな羽虫のようにもぞもぞと動いたか、呼吸すら苦しいのか、動きは弱々しかった。
 蜘蛛は獲物の前にゆっくりと近づいて、再び耳を切り裂くように啼き蠢いた。
 怒っている。
 トウは一歩も動けずにいた。はじめての蜘蛛の怒りの姿に呆然と見入っていたけれど、我に返ると冷静な自分に気がついた。恐怖を手玉にとって、自由に抑えこめた。七つ道具の大刀を手に取って、一歩また一歩と蜘蛛に近づいた。おれは戦える。不思議と怖くなかった。
 リャンはまだ蜘蛛にしがみついていた。フゥアのもがきが弱々しくなっていくのを見ながら、体の向きを直して、傷に片手を突っ込んだ。蜘蛛を止めようとしたが、駄目だった。
 蜘蛛は脚の付け根に狙いを定め、深く噛みちぎった。
 フゥアの口は粘る糸にほとんど塞がれていたけれど、漏れ出すくらい大きな悲痛な叫びが響いた。
 助けるためには、やるしかない。
 振りかぶられたトウの大刀を細くとも精悍な腕が制した。
 シザだった。
 シザは蜘蛛の脚にしがみつき、老体とは思えない素早い身のこなしでよじ登った。
「退け。降りろ」
 シザが怒鳴り、リャンは蜘蛛から網の上に転がり落ちた。
 シザは傷に両手を突っ込むと、指先でぬめりを優しく撫で回した。ごりっとした感触がする場所を探しだしたあと、手を握って力を込めた。蜘蛛はシザの手になり、怒りに任せてフゥアを襲うのをぴたりと止めた。
 フゥアの自由を奪っていた粘りを大刀と針刀で剥がし、口の中のを鉤を突っ込んで掻き出した。咳き込み小刻みに息をするフゥアは引きちぎられた脚の痛みに顔を歪ませた。どくどくと知が流れ出て、真っ赤に濡れた網の下に垂れ落ちている。
「トウ。上の網にかかっている屍体の脚を解け。早くしろ。一刻も早くな」
 言われるがままに解こうとするが、刹那、手が止まった。脚には様々な種類の糸が絡み合っていて、急いで解こうとすれば、どれかの肉の記憶を棄てなければいけなかった。止まれば止まるほど、フゥアが苦しむというのに。歯を食いしばり声を殺したと思ったら、息を大きく吐いて、我慢できずにか細く痛い痛いと枯れそうな声で叫ぶのが聞こえる。
 トウは息を飲んで、針刀で験糸以外を裂きながら糸巻きに収めた。験糸以外を捨てると決めると、験糸には薄っすらと色が着いているように見えた。巻き終えたそれを食らうと、蜘蛛は糸を吐いた。シザは両手を蜘蛛の傷跡に深く沈め直して、足を動かした。
 トウが息を吸って吐く頃には、千切れかけたフゥアの脚は縫い直されていた。
 リャンにそっくりだ。いや、逆だ。機織蜘蛛を操るシザの姿は、リャンの蜘蛛の乗り方とほとんど同じだった。
「リャン。蜘蛛を痛めつけるなという掟を忘れたのか」
「フゥアにもできると思ったんだ。蜘蛛が痛がるなんて思わなかった」
「お前の乗り方を普通の乗り手が真似るのは無理なんだ。お前ができるのは、お前の資質によるものだ」
「でも、シザはリャンと同じようにできてたじゃねえか。だったら、フゥアにもできる可能性があるって考えるのは、別に変な話じゃねえだろ?」
 リャンは悪くない。トウはそう言おうとしたが、うまく言葉にできなかった。
「トウ。お前は目がいい。よく見ているな」
「蜘蛛がおれたちを喰おうとするなんてのも、初めて見た。教えられもしなかった」
「機織蜘蛛も生き物だ。異質なものが入ってきたら抗おうとする。当然の理だ。怒らせなければいい。今日起こったことは本当に特別なことなんだ。だから、覚えている必要はない。傷つけるなという掟の方を必ず守れ。次やれば、その時は誰かが喰われるかもしれぬ。リャン、お前も反省しろ」
 シザは辺りの者にフゥアを運ぶように言うとその後は何も言わずに立ち去った。
 一週間ほどでフゥアは回復した。つかった験糸は脱走した帝国兵士のものだったから、脚を喰われる前より脚が早くなり、よく跳べるようになったとフゥアは喜んだ。それでも、リャンとの間にはわだかまりが残ってしまって、トウとリャンが’入るところにあまり姿を見せなくなった。
「脚を見せてくれ。僕はシザがどういう技を使ったか知りたいんだ」
「いいけど、そのかわり、シザがわたしにしたみたいに、技がわかったら、あなたも誰かを助けてあげて」
 フゥアの脚と、怪我をした日の記憶を頼りに、リャンは怪我や傷の縫い方を学んだ。翼に傷を追って蜘蛛闇で休まざるを得なくなった渡り鳥を捕まえてきて、縫いを試すこともあった。糸が必要になるとその度にトウは呼びだされた。大きいものも小さいものも問わず怪我を直していると、屍織みんなからふたりはよく感謝された。

4.

 縫う技は飛ぶのに使える。リャンのその発想をトウが本当に信じられたのは、実際に蜘蛛闇から外へ飛んで出た日のことだった。蜘蛛闇の遥か東、帝国の手が及んでいないという山の麓の村へとふたりは飛んでいた。
 手が及ばないことはいつでも征服されることの裏返しだった。本当に敵対する勢力と帝国との戦争は、日に日に激しさを増しているようだった。
 蜘蛛闇に放りこまれる屍体は兵士ばかりになっていた。どうやら肉の記憶の味に飽きちゃったみたいだ。リャンが言うように、トウが兵士を解いても、蜘蛛はそれほど食べなくなり、蜘蛛糸の量も減り始めていた。重い屍体が投げ込まれる度に空いてしまう各々の層の網の修理もままならないほどだった。
 そんな中、浅黒い肌の屍体が投げ込まれたのをトウは見逃さなかった。脳と目玉をぐりぐりと回し、景糸と想糸を解いて蜘蛛に喰わせた。蜘蛛糸を使ってリャンは襟巻を一つ織った。
 屍体はシュウ族のものだった。彼らは蜘蛛闇の遥か東に見える山脈の麓に住んでいる。襟巻はシュウ族の街を出て、帝国王都に至るまでの長い旅の様子をふたりに見せた。街に到着するごとに、シュウ族の姫宛に帝国の様子を記す手紙を送った。王都に入ると王城へ忍び込んだ。けれど、見つかって、屋根によじ登って走り出した所を弓で撃たれて死んでいた。死ぬ間際、彼は美しい姫の姿を見ていた。
「偵察役の屍体だ」
 珍しいシュウ族の屍体だと聞いてやってきたシザは、いつになく嫌そうな声でそう言った。
「東の山まで歩いて行くとどれくらいかかるだろうね。僕はあの美しい街を見てみたい」
 リャンが言い、トウが考えていると、シザが声を荒げた。
「お前たち、外に人間に見られてはならないという掟を忘れるな。掟を破れば、フゥアが食い殺されそうになったときのように、屍織全員を危険にさらすことになる」
「なんだよ。見つかっても。どこの誰かわからないうちに逃げりゃいいだろ」
「お前たちが今織ったのは偵察役だ。屍織の技がなければ、見聞きしたものを生きて語らせるのは難しい。生者は真実を語るとは限らない。屍織は屍体に真実を語らせることができる。それは外の人間からすると特異な技だ。それを忘れるな」
 シザはそう言うと、外にでるなよと念を押した。
 リャンは毎日襟巻をして眠りについて、シュウ族の街を訪れる夢ばかりみるようになった。シュウ族の街に行ってみたいと、事あるごとに口にするようになった。
 けれど実際問題として、シュウ族の街は遠すぎた。
 月の美しい夜、密かに地上に出て東に向かって歩き出したことがあった。青白い月明かりに照らし出される山並みは一向に近づかない。代わり映えのしない草原の草花の上を歩く二人を月がぴったりと追い掛けて、その場で永遠の足踏みをさせられているかのように思えた。やがて月は沈み、夜が明けた。
 歩いても歩いても、一向につく気配はなかった。欠片すらなかった。
「あの街は遠すぎる。まずは西にある帝国の街に行こう。王都に比べると全然小さいけれど、活気はあるはずだ。あっちなら、すぐにつくだろ」
「僕はシュウ族の姫をひと目見てみたいんだ。今は、帝国の街に行くのはそんなに興味がない」
「街で人々に織物を見せつけようって約束しただろ」
「見せつけようなんて言った覚えはないし、帝国の街じゃなくたっていい。帝国の街は活気はあるけれど、人々の顔つきは不安そうに見えるんだ。未来に怯えているような感じがする。シュウ族はそれに比べると、目が輝いているように見えるんだ」
「行ける距離じゃない。だいぶ長い間外に出ないとならない。シザが許すはずはないから、行ったらもう戻れないぞ」
「僕には考えがあるんだ。でも、一人じゃできない。トウ、君の助けが必要だ」
 リャンは第一網から第七網までをくまなく回って、落ちた猛禽の屍体を探してきた。腐り始めた古いものからまだ温かい新しいものまで合わせて六羽しか見つからなかった。思ったよりも少ない。リャンはため息をついたけれど、諦めたわけではなかった。
「翼を解いてくれ」
「織物から肉の記憶を読み取って、飛び方を身に着けようってことか? リャン、でも、おれたちには翼がない。鳥の肉の記憶なんて、感じることはできても、肝心の身体がついていかない」
「僕の背中に翼を織ってやればいい」
 トウは驚いて口を開けたまま呆けていたが、すぐにその案の穴を見抜いた。
「リャンが蜘蛛に乗るんだから、リャンの背中に織るのは無理だろ」
「だから、トウ。君の背中を貸してほしい」
「ばかいえ。リャン。お前の腕は信用してるけど、どうなるか分からないのにいきなりするのはごめんだ」
 フゥアの時みたいに、なるかもしれないだろ。そう言おうとして止めた。前にした失敗のことを言い出したらきりがないと分かっていたからだ。
「なら、一旦糸だけ吐かせてくれ。兵士で試そう」
 トウは猛禽を針刀で切り開いて、肉の記憶の絡まり方をまじまじと見た。複雑さは人間と同じくらいだったから、同じように解けそうだと思った。鉤で掛けて引きずり出し、針刀で切って解くと、糸巻四つ分ほどの験糸が解けた。一番形が良いものは解かずにそのままにした。
 蜘蛛に傷をつける小刀で兵士の背中を裂いて、背中の肉に猛禽の羽を押し当てて縛り付けるようにした。蜘蛛に横糸を吐かせて継ぎ目を押し固めた。屍体の背骨と翼の骨に穴を開けて糸を通し、体の外に出した。右の糸を引けば右の翼が、左の糸を引けば左の翼が羽ばたくようにした。
 手付きは見事だ。けれどところどころ不格好で、幼子の工作のように無理をしている。こんな継ぎ合わせのものが飛ぶはずはない。
ところが、羽ばたかせると、屍体の身体は浮き上がり飛び始めた。トウはあっけにとられた。リャンに織れないものはあるのだろうか。
「ああ、駄目だ。肉の記憶が喧嘩して、解けてはじめた」
 リャンが悲しそうにそう言った瞬間、猛禽の翼は兵士の背中から剥がれて落ちた。験糸は継ぎ目から次々と解けてしまい、ひらひらと舞ってあちらこちらの網に引っかかり、きらりと輝いた。落ちてきた糸と翼、それから兵士の背中の継ぎ目を、リャンはしばらく観察して、指で突ついたり、蜘蛛の足でいじったり、トウから針刀を借りてほじくったりした。
「下手くその織物と同じだ。肉の記憶をどうやったってうまく並べられない。鳥と人じゃ肉の記憶同士が遠すぎて、喧嘩して消えてしまう。どうやって織っても勝手に解けるだけだ」
 試すしかないか。そう言ったリャンは何日も部屋に籠もりきりになった。深く眠り続けているのかと思うほどで、呼んでもほとんど反応しなかった。シュウ族の街の話をすることもなくなって、それなら帝国の街へと歩いて行ってみようと。地上に出て遠目に距離を確かめ終わった頃、トウはシュウに呼ばれた。
 部屋につくと面食らった。帝国兵が近づいてきたからだ。
 正確には、さっき棄てられたばかりの屍体だった。戦いの場にいるときのように俊敏に動くことはできなかったけれど、歩いたり座ったりは、その辺の屍織と同じようにできるようだった。
 そればかりか、目を合わせ、話すことだってできる。
 「織り直した。動くようにしたんだ。脚を斬り落とされてたから。まるっと作り直した」
 リャンは言った。その手に持った長套は七割方が解かれている。
「おれはなぜここにいる。東を攻めよと命令を受けた。しかし、俺にはシュウ族の血が入っている。だから逃げた。弓で射られた。それで、ここはどこだ」
「ここは蜘蛛闇だ。あんたは脱走したあと、棄てられたんだよ」
「あの大地の裂け目に。ならばやはり、おれは死んだのか」
 二、三歩歩くと、兵士は動かなくなった。手を降っても指で突いても反応しなくなった。その他大勢と同じ、ただの屍体に戻ったのだ。
「織り直したって。お前、籠もってこれをずっとやってたのか?」
「違う、これは副産物だよ。鳥と人はうまく織れなかった。肉の記憶が遠すぎたからだ。じゃあ近かったらどうなるか? 試してみたくなった。君が兵士から作った蜘蛛糸と、智織の間からくすねてきた織物を解いた糸を合わせた。全部が帝国兵の糸ならば、上手く織れると思ったんだ。でも、まだ腕が足りないね。彼は止まってしまった。彼がシュウ族の出なのが邪魔をしたのかもしれない」
 織り直せば、屍体を動かすことができる。
 それなら、屍体になっても甦れるということじゃないか。
 シュウは歴史上の王族たちの中に、死んで埋葬されるときに復活の準備をする者たちが入るのを思い出した。腐りやすい部位が覗かれ、包帯で巻かれ乾かされることも、永久凍土に埋められることもあった。この技があるならば、王族たちの備えは正しかったことになる。
「リャン、この技は、外の世界の王族たちは喉から手が出るほど欲しいはずだ。おれたちがこの技を持っていると言えば、彼らを自由にできるかもしれない」
「でも、そのためには、もっと技を磨かないと。屍体を蘇らせるには程遠い。兵士と文人や、別の街の者同士でどうなるかとか、試さないといけない」
「その必要はない」
 手持ち灯糸を持つ手が部屋の入口に現れて、細く精悍な腕の影がおどろと壁網に映った。
「背中を割かれた屍体と、猛禽の翼が打ち捨てられて入るのを見つけた時、お前たちだと思ったが、諦めると思って放っていたのが間違いだった。織り直しの技を自分たちで見出すとは。だが、色々と試す必要はない。答えはすでに出ている。織り直しは非常に難しい。今からそれを見せよう。トウ。リャン。ついて来なさい」
 第七網の端の小部屋には、真下に向かって縦糸が伸びていた。屍織の誰もが第七網より下は地の底で、闇の果てだと思っているだろう。ごく僅かな者のみが知る秘密の領域だった。
 伝っていくと卵型に網が張られていて、中の螺旋階段を降りると、空気が突然冷えたのを感じた。そこは土壁の中の小部屋だった。シザが灯糸から火を移し、壁の灯りを点けていく。
 息を飲みすぎて、呼吸が止まった。止めざるを得なかった。
 おびただしい数の人骨が積み重なっている。
 おびただしい数の蜘蛛の死骸が人骨の隙間から姿を見せている
 おびただしい数の動物の骨が散らばっている。
 土壁に幾つも並べられた布飾りが灯火の揺らぎの中、黄金に輝いていた。
「屍織の歴史にすでに、織り直しも、異なる生き物をつなぎ合わせることも刻まれている。これはすべて、失敗の痕跡だ。蜘蛛の糸は決して腐らない。そこまではよい。しかし、織り直して零から腐らない身体を作ることは不可能だ。そこまで精緻に、壊れないように肉の記憶を並べることはできないのだよ。異なる生き物同士も同じだ。どこかに限界がある。それ故に、ごくまれにしか上手くいかない。歴史上、成功したのは数えるほどだ」
「どうしてこれを秘密にするんだ。おれには分からない。この技を高めればいい話じゃないか」
「トウ、お前のように、織り直しを外に持ち出そうとする者がいるからだよ。誰もが永遠を手に入れたがる。権力を持つものは特にそうだ。かつて屍織は蜘蛛闇に潜んでなどいなかった。各地で別々に暮らし、屍体を買い、蜘蛛と共に織物を作り、生業にしていたのだ。ある日、帝国に目をつけられ、屍織は捕らえられた。抵抗するものはみな殺された。狭い村に閉じ込められ、王族以外の屍体を織ることを禁じられた。いつも貰えていた屍体を突然もらえなくなる。すると、どうなるか分かるか?」
「近くに食えるものがあるなら、なんでも喰うだけだ」
「そのとおりだ。生き物は皆そうする。機織蜘蛛が屍織を食べないのは、共に生きようと誓っているからではない。食い飽きて、飽き飽きしているのだよ。何万人もいた屍織は次々に喰われた。生まれたばかりの赤子も喰われた。蜘蛛にとっては、新しい味の方が好ましい。屍織の数はみるみる減った。喰われてみな糸になった。糸を持って、地の裂け目に逃げおおせた者がごくわずかだけいた。投げ込まれる屍体に、愛する者や友を織り直そうとしてみな、失敗した。屍織は蜘蛛闇に潜み生きることを決め、織り直しは禁じられた。禁を破るものは、屍織の未来のために消さねばならない」
 トウ。リャン。だからお前たちを。
 その声が耳に届かないうちに。ぶわっと粘ついた横糸が吐きかけられて、トウもリャンも壁に叩きつけられた。横糸の塊はもう一度吐き出され、二人の身体を完全に拘束した。フゥアが襲われた日のことを思い出す。鼻、口に粘り気のある糸が絡み詰まる。息が苦しい。殺される。網の隙間から見ると、蜘蛛に乗ったシザがそろりそろりと近づいている。
 手には頭蓋を割るための大刀を携えている。まず確実に殺される。頭蓋を割られる前に窒息するかもしれない。シザが大刀を振りかぶる。涙を流している。
 トウは目を閉じて、かろうじて動く両手のひらを壁につけて、最後の抵抗をした。
 身体は動かなかったけれど、手に土壁と別の、滑らかな織物の感触を覚えた。
 大刀が振り下ろされ、がりんと強く嫌な音がした。

 

 屍織一人に機織蜘蛛一匹を連れて逃げるのは、明らかに数が多すぎた。帝国兵に射られて、屍織は次々と倒れて置き去りにされる。屍織が減りすぎて、気づくと蜘蛛の数が十倍になっていた。蜘蛛は腹を空かせ、ひとりまたひとりと屍織を食らった。闇夜の中食われながらも、声を出すと帝国兵に見つかる。それ故、食われるものは必死で耐えるか、他の者に喉を掻き切られた。少年シザも、何人もの喉を掻き切った一人だった。兄も妹も蜘蛛に喰われて死んだ。
 虚ろな目をした少年シザは、どうしてこんな目にあわなければならないのかと闇に問いかけた。帝国が悪いのか、蜘蛛が悪いのか、はたまた屍織の存在が悪いのか。星一つない闇は答えなかった。風を鳴らすだけだった。風のあと、蜘蛛が忍び寄るのを感じた。暗闇の中に、三百も四百も蜘蛛の脚がうごめく気配を感じた。
 覚悟して目を閉じると、シザの師が後ろから彼を抱いた。誰が悪いのかと師に聞くと、師は彼の頭を撫でた。誰が悪かろうと、生き延びろと答えた。
 師は口笛を吹きながら闇夜に駆け出した。大刀が幾度も振り下ろされる音が聞こえた。一撃必殺。一振りごとに蜘蛛が一匹千切れて飛んだ。声を出すこともなく。朝日が登ると、師は骸になっていた。物陰に屍体を引きずり込んで解いた。蜘蛛を殺しすぎた匂いが漂っているのか、蜘蛛はどんなに腹をすかせても近寄ってはこなかった。
 シザは蜘蛛に乗り込むと無理やり解いた師を食わせ、蜘蛛糸を糸巻に巻いて、皆と共に逃げた。糸巻をかざすと、どんな蜘蛛も後退りした。
 師が蜘蛛よけの糸となって、屍織はみな地の裂け目まで逃げ込むことができた。

 

 大刀は壁に叩きつけられて、壁の織物は切れ、トウの右手から離れて落ちた。
 シザは鋏で糸を切った。解放された二人に駆け寄ると抱きしめた。そして、わたしにはできない。わたしにはできない。わたしにはできない。と三度言った。
 トウは切れ落ちた織物を見た。シザと共に帝国から逃げた誰かの糸で織られたのだろうと思った。シザが乗っていた蜘蛛は、トウと目が合うと部屋の外へ逃げ出していった。おれからは血の匂いがしているのだ。トウは理解して、ひとりで頭を垂れて頷いた。
「誰が悪いわけでもない。生き延びろ。だが、今日のことは誰にも話すな」
 シザはそれだけ言って、ふたりを残して立ち去った。
 翌日、ケロッとした顔でリャンが来た。手には猛禽の屍体を持っている。トウの方は落ち込んでいて、昨夜からほとんど眠れていなかった。帝国の街を見ることも、シュウ族の街へ行くことも、諦めた方がいいのだろう。おれは一生、蜘蛛闇で屍体を解きながら暮らすのだ。寝床に転がりながらそんなことを考えていた矢先だった。
「猛禽だけで翼を織れば良いんだ。何も翼を生やす必要はない。猛禽が十分集まり次第、シュウ族の町へ行こう」
 思えば、生きろと言われただけで、何も禁じられてはいなかった。
「おれたちを運べるだけの翼を作るのに、どれだけの糸が必要か。猛禽が落ちてくるのを待っていたら何年もかかる気がするな」
「昨日の部屋、人骨にまぎれて山のように猛禽や石頭牛の骨があったけれど、あれの糸はシザが隠し持っているのかな。僕がシザの部屋に忍び込もうか」
「古い物が残っているとすれば、まず智織の間じゃねえか」
 智織の間には古い猛禽で織られた織物があった。しかも景糸、験糸、考糸ごとに別々の一枚の長套になっていた。相当に昔のものであったけれど、どれをまとっても鳥が見た景色、飛ぶ時の骨の動かし方。草原でねずみを狩る時の思考を明晰になぞることができた。長套に触れながら、トウはシザの顔を思った。こんな風に肉の記憶が残るのは、シザが織ったものだからだろう。第七網の下の部屋で大量の骸と向き合って織り直しを試みていたのは、おそらくシザだったのだろうと思った。
 長套を解く。縦横に組まれて’織られた糸を順に解いて一本の長い糸に戻していく。リャンはその間、蜘蛛に履かせた横糸で猛禽の骨を押し固めて、トウとリャンが両腕を広げたくらいの大きさに組み上げた。織物を解いた糸を猛禽の屍体を解いた糸と一緒にリャンに渡すと、リャンは蜘蛛とひとつになって、猛禽の翼を織ることに没頭した。
 織り上がるとそれは、上下に羽ばたいてリャンの身体を簡単に持ち上げた。
 行こう。
 リャンが手を差し伸べる。トウはその手をしっかりと掴んだ。掴むときは少し不安だった。それでも、身体が空中に引き上げられると、織りたての翼がひどく頼もしくなった。第二網と第一網を順に抜け、空高くへ羽ばたくと、大草原に開く蜘蛛闇の裂け目は眠そうな眼に見えた。暁に白む空の下、東の地平線から太陽が顔を出していた。黄色に染まる山並みの麓に、シュウ族の小さな街が見えた。
 町の入口に立ち、リャンはかつて織ったシュウ族の偵察役の組紐を取り出して腕に通した。掻き立てられる街のイメージは、目の前に実際にある美しい街と全く変わらなかった。求めていた場所に到着したことが嬉しくて、リャンは朝の清涼な空気を割いて駆けていった。

5.

 シュウ族の人々が屍織を見るのは初めてのことだった。それでも、全く怯えることはなかった。水烟草屋にたむろする老人たちが旅人を暖かく迎える習いがあるとふたりに教えてくれた。子どもたちも物怖じせず好奇心旺盛で、町外れの簡単な物見塔の傍らに隠しておいた翼を見つけ出すと、鳥のおばけだと言って話題にし、何人かの腕白小僧が勝手に空を飛んで騒ぎになった。リャンが事情を説明すると、教師だという大人がやってきて、勝手に触らないようにと子どもたちを諌めてくれた。
 帝国兵が攻めてくる。トウは人々にそう伝えた。けれど、彼らは動じなかった。シュウ族は争いを好まない。争うくらいなら屈服して、残すべきものを伝承していくことが大切だと考えているようだった。戦いの訓練をするものもいるけれど、ほとんどは義勇兵で、帝国軍のような正式な軍隊は持っていないらしかった。
 帝国の街のように大きな市場はなかったけれど、街の中心部には広場があり、商店がいくつも立ち並んでいた。街の人々に案内されてそこに行くと、いつの間にか人だかりができていた。どこから来たのか、どうやって来たのか。何のために来たのか。蜘蛛闇と屍織について根掘り葉掘り聞かれた。
 機織蜘蛛、屍織、それから織物についての話をすると、人々は興味深そうにした。リャンは鞄から幾つもの組紐を取り出して触らせた。シュウ族から織った組紐は腕に通しっぱなしだった。リャンが持ってきたその他の組紐は帝国の文人から織ったもので、触れると風雅な光景を岩絵の具で描く様や、舞台で舞う幽玄な踊り子の姿が脳裏に湧き上がるものだった。
 触れた者たちはみんな感嘆の声を上げた。
 見えた風景の美しさに合うシュウ族の歌を見つけてきて、口ずさみ始めた。弦楽が高らかに奏でられ、組紐に触ろうとする者が次から次へと現れて、リャンもトウももみくちゃにされた。広場は新年の訪れを祝う祭りの様に賑わった。
 他にもないのかと聞かれ、トウは帝国兵士から織った襟巻きを差し出した。凄惨な光景を見た者たちはみんな神妙に顔を強張らせ、何人かは腕を組み口を結び、目を潤ませる者もいた。
 広場の騒ぎは街の一番高台まで響き渡っていた。高台から女性が一人、従者に手を引かれて歩いてきた。女性が近づくと、人の波は二つに割れた。急ぐことなく、遅すぎることなく、優雅な足取りは山間から街に吹き抜ける緩やかな風と同じ速さだった。左右に別れた人は皆、彼女の姿を見ていた。手を合わせて拝むものもいた。頭を垂れて敬意を示すものもいた。
 彼女を見て、リャンは口を結んで、目を見開いて石のように固まった。トウはリャンが地面に落とした組紐を拾って、鞄にそっと押し込んだ。
「旅の方、どうしてこんな辺鄙な場所へ?」
 朗らかな声で、姫はそう聞いた。
「織物を通じて、僕たちはこの街の存在を知りました。のどかで美しい街を見てみたくなったのです。それに、僕は君をひと目見てみたかった。僕はリャン、こっちはトウ。ここから西の蜘蛛闇から、翼を使って飛んできました」
「わたしはミサと言います」
 ミサが深く礼をすると、周りのものから事情を聞いて、従者が続けた。
「ミサ様。この者たちは屍織と言い、糸を織ることで世界を記録するそうです。この組紐をお触りください。盲いた者の多い、我々シュウ族の文字に近しいところがあるかもしれません」
 手渡された組紐を指先で撫でると、ミサは微笑んだ。
「ここではない深い山の中で、大きな滝の音が聞こえる。咲き乱れる桃の花の中で、誰かが一人釣りをする音がして、それに多分、ほのかなお酒の香りがします」
「帝国を逃れた文人から織った者だそうです」
 人を織る様をリャンが説明すると、ミサは深く頷いた。
「それなら、あなた達の蜘蛛闇に棄てられた屍体に、シュウ族を知る者がいたということになりますね」
 ちょうどその組紐をとリャンが言いかけたのをトウが制した。トウが従者に目で合図すると、従者は小さく頷いて、二人を丘の上の屋敷へと招いた。ミサを見るまでは気にもとめなかったが、街中にミサとおなじ様に手を引かれて歩く人がいた。文字は全て石か木に彫られ、指でなぞる者たちがいた。ミサの屋敷の前の衛兵も、盲目の者とそうでない者が一人ずつ組になり、声を掛け合いながら見回りをしていた。
「シュウ族は半数が盲いて生まれてきます。この街で暮らす分には困ることは殆どありません。交易や外交では不利になることがあります。他の国は、誰もが見える前提で来るのですから。そういう時は、見える者が前に立ち、盲いた者を助けます。外に出て世界のことを知り、街に持ち帰るのも見える者の役割です」
 ミサは広間にふたりを通すと、広い壁の前でとうとうと話した。壁には巨大な木板が等間隔に掲げられている。木版にはシュウ族の角張った文字が繊細な手つきで刻まれている。角もけばのも全てヤスリで落とされ、上質な油が塗られている。初めて見て触れる者にも、それが特別な意味を持つことが分かる。
 恐る恐る木板に触るふたりに、従者がシュウ族の長の歴代の肖像だと語った。シュウ族ならば誰でも文字をなぞるだけで族長たちの生き様を感じることができるという。
「一番右がミサ様のお兄様です。帝国の動きが慌ただしかった三年前、帝国一体をの様子を知るために街を出ました。お互いにあれほど尊敬しあっていたのに。ミサ様はずっと心配なさっていて、かつてよりもだいぶおやつれになってしまいました」
 リャンはシュウ族の組紐を鞄の中で握りしめた。ミサに差し出すべきか、しないべきか。トウはリャンの腕を押さえた。真相を知ることは、必ずしも救いにならないと思ったからだ。
「トウ。離してくれ。このめぐり合わせは、誰が悪いわけでもないだろう」
 トウは言われた通りにして、リャンは組紐を差し出した。
 その日、丘の下の広場まで、兄の名を叫んで鳴くミサの声が聞こえたという。ミサは組紐を何度も握り返した。帝国王都で兄が矢に倒れるのも背かずに何度も感じた。涙が枯れてしまうまで、リャンはミサに寄り添った。トウは一人壁によりかかり、ミサに寄り添うリャンを見ていた。
 兄の死を隠さなかったことで、リャンはミサに信頼された。シュウ族はみな屍織の技を気に入った。触れて感じることに彼らは慣れていたし、盲目の者たちも織物を通じて世界のことをより深く知ることができるとみな喜んだ。
 トウとリャンは蜘蛛闇とシュウ族の街を行き来した。特にリャンは、トウを誘わずに一人で足繁く街に通った。智織の間から貴重な歴史書を持ち出して、シュウ族の歴史書とミサと一緒に毎晩読み比べたりした。リャンはシュウ族の言語を学びたいと言って、ミサは喜んでそれに応じた。代わりに織り方を教えてほしいと言った。蜘蛛に乗れるのは限られたものだけだとリャンが伝えると、一緒に乗ればいい。蜘蛛に触れてみたいと彼女は言った。
 リャンは触れて感じるシュウ族の言語を織物の織り方に取り入れることができると感じ始めた。反対に、ミサの方は、シュウ族の言語に織物の技を取り入れられないかと思い始めた。ふたりは一緒に研究書を作ろうと約束をした。
 そんな日々がすぎるなか、ミサに仕える楽隊の歌い手が亡くなった。シュウ族の人々は、彼しか歌いこなせない歌を残したがった。リャンは蜘蛛を連れて、トウと共に町へ赴いた。町の端で歌い手を織り上げる運びになった。
 人よりも遥かに大きい蜘蛛の姿を見て、見える人々は最初はひどく怯えた。喰われるのではないかと思ったからだ。悲鳴を上げて走り去る子供たちもいた。
 それでも、リャンに手を引かれてミサが現れると場の雰囲気は一転した。ミサはリャンと共に蜘蛛に乗って、人々に手を降って、朗らかに声を上げて笑ってみせた。まず盲目の人々が蜘蛛に近づき、脚を撫でて脚の細毛の手触りを感じた。それを見た見える者たちも蜘蛛を恐れることはなくなった。むしろ蜘蛛の周りに人だかりができて、感嘆の声が上がるほどだった。
 トウは七つ道具を並べて、その傍らに歌い手の屍体を置いた。
 トウが大刀を構えると、ざわめきが収まった。おれの技も見せるときだ。これがなければ屍織りの織物は成り立たないのだから。見せつけないといけない。
 大刀で首を撥ね、次の一撃で頭蓋を割った。脳から思糸と験糸を一気呵成に解ききった。他の糸は棄ててしまってよい。歌に関係ないのだから。針刀で喉と腹を切って、ざくざくと鋏を入れて骨から肉を剥がした。そこから解いた験糸を糸巻に収めると、脳の糸と一緒にして地面に置いた。肉の糸を見て、蜘蛛がそろそろと歩み寄ってくる。
 あれほど賑わっていた人々は、誰一人いなくなっていた。
 血に塗れた屍体の周りに臓物の匂いが立ち込めた。
 リャンは蜘蛛に糸を喰わせ、歌い手の短套を織り上げた。
 リャンは蜘蛛に横糸を吐き出させた。横糸をは屍体をすっかり包んでしまって、充満する紙の匂いをかき消した。
 歌い手の布はミサの館の玄関に掲げられて、人々は短套を肩にかけ、新しい歌の歌い方を覚えた。邸の前には毎日のように歌が響き渡った。織り手のリャンは尊敬されたが、トウには誰も寄り付かなくなった。おれには屍体の匂いがつきまとっている。蜘蛛にも人にも避けられる運命だ。これしかないのに、これでは誰にも受け入れられない。
「今度は帝国へ行こう。ここだけじゃなく、おれたちの織物は帝国でも受け入れられるはずだ」
 
「今はミサと時間を大切にしたいんだ。待ってくれ。僕はもう、シュウ族と一緒にいることに満足している。歌い手の織物を織って、みんな喜んでいたよ。ミサにもっと、最高の織物を送りたいんだ。だから君に、最高の糸を作って欲しい」
 結局はリャンは、おれの技を必要としているだけだ。それでも、おれの技は証明しなきゃならない。最高の糸を作らなきゃならない。これまでの最高をリャンに届けて、それでもう、終わりにしよう。
 トウは蜘蛛闇中に新しく投げ込まれた屍体から珍しいものを見繕った。人形使い。蛇使い。各地を旅する吟遊詩人を解いた。終始うつむきながら、淡々と解き続けた。部屋に戻ると、中央に吊るされた思い出の短套を手にとった。肉の記憶は消えることなく残り、王弟の過ごした麗しい日々、彼が詠んだ数々の詩歌が目まぐるしく頭を駆け巡った。
 リャンと出会った日。彼となら自分も皆に受け入れられると信じることができた。

 吾が生は夢幻の間、遠く望んで時にまた為す、なべては皆同じくするを尊ぶ、独り卓然として覚り、なにゆえ塵なる地に縋る

 王弟の短套を纏うと詩歌を詠む声が聞こえる。聞き終わり、自分でも口ずさんだたと、そっと脱いで置いた。針刀を手にして、丸三日寝るむることなく、王弟の短套の糸に宿る肉の記憶を反芻しながら解いていった。そしてそれを、なにも言わずにリャンに渡した。
 リャンは幾つもの夜会服を織り上げて、ミサが着飾るのを手助けした。
 ミサが美しかったとリャンから聞いた夜、トウは一人泣いた。

6.

 しばらく会うことができない。リャンがミサにそう言われてから、二ヶ月が経った。嫌われたのかとリャンは戸惑ったけれど、帝国からの使者が訪れ、ミサが王都に召喚されたことが理由だった。リャンが伝えた蜘蛛闇の場所へ、ミサは毎週手紙を送った。木に彫られた手紙をくくりつけられ、リャンの織った翼は蜘蛛闇に舞い降りた。
 一番新しい手紙にはリャンに贈られた夜会服を近々着ることになると記されていた。
 その日、揺れに敏感な子供は、蜘蛛闇が普段と違う揺れ方をしているのに気づいて目を覚ました。どんどんと規則的に踏むような揺れが遠くから蜘蛛闇へと近づいていた。
 第一網が大きく揺れた。
 新しい屍体かと思いトウが出向くと、真っ二つに切られた翼が投げ込まれていた。手紙の木板には赤い血がべっとりと突いていた。誰かが意図して二つに斬り、投げ込んだのは間違いなかった。トウは手紙を懐にしまうと、地上へ上がろうと縦糸を掴んだ。
 糸が何度も大きく揺れて、糸をつかめずによろめいて倒れてしまう。
 ごんごんごんごん。雪崩のように屍体が降ってきて、網が何度も揺れる。一度に十体もの屍体が重なったせいで、第一網は破れて、第二網も破れて突き抜けた。次から次へと放りこまれる屍体の肌はどれも浅黒かった。それらは皆シュウ族のものだった。
 立ち上がったトウが縦糸を掴んで登っていくと、蜘蛛に乗った手練の織り手たちが地上の異変を見に集まっていた。リャンも、それからフゥアもいた。
 王弟の目元に彫られた入れ墨と同じ三本の線の縫われた真紅の帝国旗が蜘蛛闇の入り口を取り囲んでいた。旗の後ろに整列した兵は五千をくだらないだろう。屈強な男たちに担がせた黄金の腰に乗って、皇帝が屍織が現れるのを待っていた。
 トウが地上に上がり切ると、地上に出た屍織は十人になった。
「祖父の代で逃げ出した屍織にこうやってまた会えるとは、何たる偶然か。父は血眼で貴様らを探していたぞ。死後に織り直されて、生き続けることを願ってな。病に伏せながら、貴様らを見つけ出すようにと惨めに懇願していたよ。本当に無様な死に様だった。私は命を永らえることには興味はない。今日の用はこれだ」
 皇帝は玉座の上から、浅黒い肌の女の首を投げ落とした。
 首はごろごろと転がって、リャンの乗る蜘蛛の足元で止まった。
 ミサの目と、リャンの目があった。リャンは蜘蛛から力なく落下して、草の上を這い進んでミサの首を抱いた。
「このシュウ族の姫は、私の前で弟の詩歌を詠んだ。おれの前であの憎き弟を思い出させたのが運の尽きだ。それどころか、この姫の夜会服に触れると、弟の見た光景が蘇るではないか。なるほどこれは音に聞く屍織の技術だと思い、シュウ族の者たちに貴様らの居場所を問いただしたが、知らぬなどと言うから、腹が立って兵の試し切りに使わせたぞ。姫の従者の一人が、姫と貴様らの誰かが手紙をやり取りしていると言うではないか。手紙を運ぶ妖しげな翼を追うのは正解だった。こうしてお前らを見つけ出せたのだから」
 皇帝は声一つなく震えるリャンを兵士に囲ませた。羽交い締めにされ、首に斧をあてさせた。
「弟を夜会服に織ったのは誰だ? 見たところそこで震える男が手紙の相手のようだが。織ったのはお前か? 不気味な蜘蛛を従えておるな。それか、他の者か? 名乗り出ろ、出なければ皆殺しだ。地に隠れても無駄だ。私は地の裂け目を埋めるように橋を作らせるぞ。それで貴様らは、永遠に闇の中だ。姫は本来悪くない。なにも知らないのに私の弟の詩歌など詠んでしまって、なんと哀れなことか。さあ、名乗り出ろ。誰だ。私は待つのが好きではない。早くしろ」
「おれだ」
 名乗ると、屍織はみなトウを見た。
 刹那、弓が放たれて、トウの右目を貫いた。
 そのあと、トウの二倍も肩幅のある屈強な男たちに体当たりされ、地に伏せた。
「できるだけ緩やかに殺せ。ゆっくり死ぬといい。おい。こいつらは屍体を解いたり織ったりするのが生業だそうだ。真似てみせろ。面白くやった者には褒美を取らすぞ」
 首に刀を当てられたまま、トウは胸を開けられて、肋骨を一本一本剥ぎ取られた。右足を根本から斬り落とされた。左足首は斧で押し切られて、骨が砕けた。首にあてられた刃が、少し、また少しと首と胴体の間の裂け目を広げていった。
「私は生きながらえることに興味はない。しかし。貴様らの技術は気になるところだ。死んでも蘇る兵士を織り直したり、虎と人を織り直して合わせたりも可能性があると聞いたぞ。さあ。兵たちよ、砦を作れ、屍織共ひとり、蜘蛛一匹たりとも逃してはならぬ」
 トウの身体は担ぎ上げられ、蜘蛛闇に投げ落とされた。網にかからずに闇に吸い込まれるのはごめんだ。トウは思った。他の屍体とおなじ様に、誰に気づかれなくとも、蜘蛛闇のどこかの網にかかって最期にしたいと思った。

7.

 蜘蛛の足が十六本、蠢いていた。
 目を覚ましたトウの目に、シザとリャンの蜘蛛の姿が飛び込んできた。
「蜘蛛闇はもう、帝国から逃れることはできんね。このままいいように使われて、蜘蛛が腹を減らすようなことがあれば、昔のように喰われるだけだ。でもわたしは、お前たち二人には、どうしても生きてほしいと思うのだがね」
「シザ。あなたはおれを織り直したんだろう。おれは、あなたの師匠からつくられた」
「どこかで見たのか? 智織の間にはそんな肉の記憶を収めていないはずだがね。まあいい。そうだ。わたしはお前を織り直した。師の糸を持って、失敗は許されないと緊張したよ。生まれたすぐ死んだきれいな赤子が棄てられた時、死んでいる所があまりにも少なくてな。直せると思った。成功するかはわからなかったが、お前は織り直され、成長する生きた屍体になった。お前の目と脳は師の糸で織られている」
「じゃあおれは、おれの才能だと思っていたものは、おれではなかったんだな」
「リャンの代わりにこんなにも痛ましく刻まれたのは、お前の勇気の資質によるものだと思うよ」
「ああ。でも、それは実際。おれのせいだったんだ。庇ったわけじゃない。なあ。リャン」
 リャンは一言も返すことはなかった。ミサを失い。言葉を全く失ってしまっていた。
「リャンもシザが」
「リャンも幼子の遺体から織った。お前の時うまくいったから、わたしは何でもできると錯覚していた。リャンのときは機織蜘蛛を解体し、足を糸にし、腹の中をほじくって肉を出し、そこからも取り出した糸を組み合わせた。それまで百人以上で失敗していたが、偶然、リャンはお前と同じように、動く死体となった。蜘蛛と人の間の子も動くことはあるのだ。しかし、理屈はわからぬ。こればかりは、理屈ではなく運命のようなものかもしれない」
「だったら、おれたちは今日まで、偶然生きてるってことだ」
「お前たち二人が成長する中、わたしは時折お前たちを深く調べた。どうやら、肉の記憶がうまくはまっているらしい。似た記憶さえ近くに並べば、肉同士はひとつづきに意味を持ち、お前たちのように動き回れるのだ。お前たちが止まることなく成長するのが、わたしは何よりも嬉しかったよ。だから、お前たちには生き続けて欲しい」
「出たい者を集めて外に出よう」
「わたしが逃げたように闇夜をさまようか? 無理だ。あのときとは比べ物にならないほど、外には兵がいる。砦ができたら、逃げるのはもっと難しくなるだろう」
「シザ。おれは織物になる。おれたちを皇帝に献上してくれ、立派な宝箱に詰めてくれたっていい」
「それでは、奴らの宝物庫で永遠に眠るか、途中で火に焼かれるだけだ」
「リャンがいつか来てくれりゃいい。一人なら。なんとか帝国の目を逃れられるだろう? おれたちは織物のままどこかへいって、リャンにいつか織り直して貰えばいい」
 シザはトウを抱きしめて、それから少し考えて答えた。
「わたしがリャンを蜘蛛にしよう。少し小さな子蜘蛛に織り直そう。それで宝箱に、一緒に入れてしまえばいい。トウ。お前の目をリャンにあげよう。そうすれば、宝箱の中で蜘蛛は自由に織り直せるだろう」
 トウがうなずくと、シザは続けた。
「だが、織り直しはほとんど成功しないぞ。ほとんど博打になる。少しの確率で、生き延びることができる遊びだ」
「大丈夫だ。シザ。あんたがこの暗闇に屍織を閉じ込めていたおかげで、たいていの屍織は広い世界のうち、実際には蜘蛛闇しか知らないだろ。全員蜘蛛闇のイメージを肉の記憶に持ってる。それだったら、一枚に織り上げて、それから解いて織り直すときも織りやすいはずだ。似通った肉の記憶を、俺たちはみんな持ってるのだから。でも多分、全部は織れない、肉の記憶が喧嘩するだろう。おれはこの目で見て、必要な糸を選りすぐる。おれたちみんなを屍織として織り直せるのに必要な肉の記憶だけをね」
 出たいものはおれを信じてくれ。トウが言うと、まずフゥアが来た。トウが出方を説明すると、相変わらず常識はずれの考えだね。とフゥアは笑った。トウはフゥアを大きい刀で斬り、首上と首下を順に解いた。織り手の技の記憶を持つ験糸、蜘蛛闇の風景が刻まれた景糸、屍織みんなで共有している記憶を持つ記す糸。希望するものはみなトウとリャンの腕前を信じていた。二人に怪我を織り直された者も多かった。時間のそれほど立たないうちに、半数くらいの屍織を解き終わった。
 解かれた肉をリャンの乗る蜘蛛が食べ、リャンは屍織みんなを一枚の大きな織物に変えた。王宮の広い応接間を埋め尽くしてしまうほどの大きさだった。
 トウはリャンと向き合って、懐から手紙を出した。ミサからの最後の手紙だ。
 トウはシザと協力し、自分で自分を解きはじめた。織り直した傷跡も縫い目をほどいて、帝国兵に斬られたときに戻った。これ以上斬れば一度死ぬというところで、なんて書いてあったんだとリャンに聞いた。リャンは答えられなかった。それでも笑いかけて。トウに向かってありがとうと口を動かした。
 トウが糸になり長い織物に足し加えられると、シザがリャンを解いて、一匹の小さい蜘蛛にした。シュウ族の記憶を持つのはトウとリャン二人しかいない。この肉の記憶は他の者とは遠すぎる。だから捨てるしかなかった。リャンの織り手の糸とトウの目の解し手の糸を混ぜて、小振りな機織蜘蛛を織り上げていく。
 一晩近くかかり蜘蛛を織ったあと、蜘蛛はきゅうと小さく啼いた。
 翌朝、シザは織られた布を丁寧に織り、宝箱に入れた。新鮮な肉片とともに、雲になったリャンを入れると、自らの手で皇帝へ献上した。蜘蛛闇を監視していた衛兵は喜んでそれを受け取り、早馬ですぐに運ばれると言った。
 馬に括り付けられた宝箱を見ながら、シザは織り直しが上手くいくことを願った。宝箱の中では蜘蛛が織物の端から端までを味わっている。蜘蛛の頭に、蜘蛛闇の日常が浮かんだ。屍織と機織蜘蛛が共生する様、解く様、織る様、智織の間で書物を運ぶ様子。揺りかごの様に宝箱が揺れるなか、蜘蛛は揺れに果てしない心地よさを覚えていた。

文字数:33016

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