いつかふたりで

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梗 概

いつかふたりで

メイは、生まれ育った田舎町で非常勤介護職をして、30歳を超えた。高校からの付き合いで、仕事してはすぐやめる彼氏とだらだら続いている。気晴らしに旅行に行く金もなかったが、仮想旅行に行こうと思った。Vトリップともいわれ、さまざまなランクがあるが、上のクラスは実際に行くより安いにせよ高額で現地で、ちいさなロボットが動く視覚聴覚、簡単な触覚を、接続されて体験する。同じシステム同士であれば、お互いに設定したアバターで交流できた。ほとんどの都市で台数は制限されていた。
 1年がかりで金をためたメイは、何度かの抽選ののちパリのVトリップを数日分購入し、休みの日ごとに、街歩きを楽しんだ。
半年貯めた金で、つぎは香港を試した。夕方の公園で、具合の悪そうな老人を見る。現地ではただのロボットでしかないメイにはなにもできない。Vトリップの中年男性のアバターが通りがかる。ロボットは大型で、実際に現地でやりとりのできるクラスだった。若い女性のアバターであるメイから事情を訊いて、老人の具合を確かめ、連絡先をききとって家族を呼んだ。アバターはビーと名乗り、なぜ自分で何もしないのかしかりつける。自分のクラスでは何もできないとの釈明にビーは謝り、時間をあわせていっしょに街を見ようと提案する。
 ビーは、自分のことは言わないが、メイにチャージしてクラスを上げ、ふたりで店に入ったりカフェで談笑したりする。中年男性のアバターや所持金の多さとうらはらなビーのところどころみえる幼さに、メイはちぐはぐさを覚えつつ、姉のような気分で遠慮なくビーをたしなめる。ビーも楽しそうであった。
 数日分のVトリップもおわり、ビーは、つぎにもまた一緒にいこうと、アカウントを交換する。
 彼氏がメイに金をたかるようになる。アカウントの維持会費が払えず凍結された。隠れて金をためてアカウントを回復すると、ビーから何度も連絡が来ている。メイは、とうぶんVトリップも出来そうもないといって、メイは自分の年齢や状況を明かした。
 ビーは黙って聞いて、接続を切る。メイは気落ちするが、その後、ビーから、サンフランシスコ行きの航空券が届く。彼は医療センターの、20歳初めの患者だった。
 10代なかばからネットウェアを売り富を持っていたビーだが、交通事故で両親を失い自分も治療中に免疫不全をおこして隔離室から出られなくなった。外に出られずVトリップが楽しみの生活で、しかしメイには本当の旅行をプレゼントして実際に会いたいと思ったのである。
 隔離室では、職員や医師はビニルで全身を固めている。ビーの生活にはやや不便だったが、中に生身で入るためには多くの処理と時間がいるのである。ガラス越しに話をして一度はセンターを出ようとしたメイは戻って、自分が中に入ってあなたを介護してあげるわと提案した。うれしいけれど一度はいると、めったに出られないんだよと驚くビーに、外にならふたりでまたVトリップで出られるわと、メイは微笑んだ。

文字数:1226

内容に関するアピール

一時期ラブロマンス物の映画ばかり見ていて、自分もやってみたいとどこかで思っていたにちがいありません。なんか甘いものができてしまいました。
 ふつうの男女の心の交流だとかえっておかしいので、疑似的な、姉と弟の感じにしてしまいました。
 お題としては故郷から去る話ということですが、メイさんは当面もとの町に戻る気はないだろうと思います。Vトリップで様子くらい見に行くかもしれません、ビー君といっしょに。

文字数:197

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いつかふたりで

戸口で物音がしたので、メイは浅い眠りから目覚めた。
「お母さん、また遅いんだから」
 ぼんやり思いながら気配を伺っていると、メイの部屋の前を通ってリビングまでその気配が動いていった。
 しばらくして気配がそこから動かないので、下着で寝ていたメイは、すり切れたトレーナーの上を肩からかけて部屋を出た。メイの三畳ほどの部屋はもともと納戸で、リビングはもうすこし広く明かりは薄い。テーブルに母親の座り込んだ影が見える。
「おかえり」
 リビングに入りながら声をかける。壁に寄せた狭いテーブルの前の椅子に座り込んだ母親がゆっくりメイを見上げた。
「このままじゃいけないねえ」
 またか、とメイは思った。
「魂をきれいにしないとねえ」
「だからお母さんは自分のお給料をぜんぶあげてるんでしょ、それで救われるならいいじゃない」
「あんたが心配よ、私は」
 心配な人に心配されてもなあ、と思いながら、メイは答えた。
「私のことは私が考えるからね。「会」で食べてきたんでしょ、シャワー浴びて寝たらどう」
「あんたは私をわかってくれないねえ」
 五十なかばの年齢に似合わないフリル付きワンピースを着た小柄な母親はゴムのような顔色で、うつむいたままメイにうめいた。
 メイはリビングの横の四畳の部屋の戸をあけて明かりをつけた。
「お願いお母さん、私は明日も早いの」
 リビングのむこうの狭いベランダとのあいだのガラス面に、すこし太った背の低いメイの顔が写っている。黒っぽいジャージのところは、ベランダの粗い手すりを通してむこうのアパートの通路面がみえている。腰よりも下には洗濯物が干されている。
 三十過ぎで、ちょっと疲れやすくなっている。はやく寝てしまいたかった。

早朝。リビングから出て狭いベランダの洗濯物を回収する。かってはベランダ干しは禁止されていたらしいが誰も気にしない。メイはそれでもなるべく低いところで干すようにしていた。八階建てのアパートの七階であった。むかいのアパートもおなじ形でいくつも並びさらに左右に伸びる。一帯が古くてときどきエレベータが止まる。エレベータなしで地上といききするのは少しつらい。
 メイと母親の暮らすこの部屋には洗濯機はない。二階下の洗濯機で洗ってもらうのである。時間を予約して、あがったら金と引き換えにもらいにいく。脱水はされても乾燥はされていない。洗面台や浴室で洗うより当然金はかかるがそれぐらいの楽はしたかった。
 朝もっていき仕事帰り洗い上がりを受け取る。夜中通して干して翌朝回収するのである。天気が悪いと部屋に干す。アイロンもない。少々しわがよっても気にしなかった。
 タオルや下着のしわをすこし引っ張りながら抱え込みメイは下を見下ろした。
人間並みの大きさの裾のひろいこけしのようなものが建物と建物のあいだを動いていた。そこにメガネをつけた若い男が寄って行き、親しげな素振りで話しかけた。こけしはそのまま動き出してアパートの向こうに去っていった。
 話しかけていた男はメガネを外し、肩をすくめて建物に入っていった。

電動二輪車に乗って出る。アパートの群れのはずれに道路に面して簡単な連棟があり、テナントのひとつがメイの登録する介護事業事務所であった。
 前にせまい駐車スペースがあり電動バンはもう出てしまっていた。スペースに二輪車を入れ込むと怒られるので道路の歩道脇においた。隣の簡易販売所で稲荷寿司のパックを買った。事務所に挨拶の声をあげながら入りすぐ横の収納庫をのぞき込む。
「装具、お願いしてたんですけど」
「田中さんすまない、そのあとほかに行先ができて」
 中年の、髪を刈りこんで介護作業服の中背でやせた所長はメイに首を振った。
 狭い事務所は入口のすぐに半透明なパーティションがあり、むこうにデスクトップ端末のおかれたデスクがひとつある。そのわきに所長は立ったまま端末をちらっと見た。
「はあ」
「横山さんがもっていってね」
 六十歳ほどの所長は済まなさそうでもなく言った。
「わかりました」
 今日の出張介護は独歩が困難な依頼者を入浴させなければならない。腰と膝の強化装具をあてにしていたのだが最近なにかとその四十歳くらいの女性職員の都合が優先される。所長も職員も家庭があったが、そういうことなんだろうとメイは了解した。
 夕方まで三軒を回ることになっていた。すべてそのあたりのアパートである。
 老人女性の医院への受診に付き添い、その女性を自室にもどしてリビングでお茶をもらい稲荷寿司を食った。時間内に一緒に食事するのはゆるされている。
 つぎの部屋では感染症にかかったあと動作能力の極端に落ちた女性に食事をさせ、ベッドわきの便器をきれいにした。午後の後半は苦手な老人男性だった。入浴介助するあいだ手を使って自分の性的な処理をしてくれと頼むのである。最近は金額を提示するようになっていた。
 それもなるべく平然とした顔でやりすごして自宅に直帰し、納戸の自分のスペースでタブレットから業務報告を入力していると、リビングから声がきこえた。
「そんなこと言わないでおくれよ」
 またやってるんだろうと思いながら入力を最後までしてしまう。そのままぼっとしていると納戸の戸が開いた。
「メイ、お兄ちゃんが困ってるらしいよ」
「どうしたの」
「またお金がいるんだって」
「うちにはないじゃないの」
「おまえなんとかならないかい」
「私の分はここで私たちが暮らすだけで精いっぱいなの、お母さんがもらってる補助金とか、レジでもらうお金はもうぜんぶお母さんが使ったらいいんだから、そっちでできないの」
「補助金はここの家賃じゃないか、もっと安いところにいけないのかい」
「ここより安いところなんてまともじゃないわ」
「だって魂が救われないの」
 いつものやりとりでメイは黙り込んだ。自分の魂を救って兄にいい顔をする、両方満たすのは贅沢過ぎないか。しかしここで争うと金切り声をあげて叫ぶのでメイは黙ってきいていた。しばらく母親は自分のことを理解してくれないとメイに泣き言を並べて、リビングに去った。モニターが起動し大きな音で日本のどこかで行われている行事のことをレポーターが語る声がきこえてきた。それが見たかったわけではないらしく、音はどんどんプログラムごとにかわっていった。
 メイはどこでもいいからここでもないところの風景が見たいと、タブレットをいじった。
[ Vトリップエキストラになりませんか ]
 いきなり広告が飛び込んできた。

Vトリップはこの数年に急成長した、旅行にいった気にさせてくれるネットワークシステムのサービスだった。
 無料体験コースからはじまる。これはゲームと同じで有名な都市や観光地をモニター中に再現し、方向を指示して動き回るだけのものである。
 有料コースになると、その地にカメラとマイクのついたロボットが動きそれを遠方でモニターを見てプレーヤーが体験することになる。自分でライブカメラを動かせるようなものだ。Vトリッパー同士はその場でコミュニケーションをとることもできる。互いの視野には相手のアバターが出るように設定できる。
 モニターではなく全周視野ヘッドセットをつかうこともできた。臨場感は増すが当然金が余計にかかる。
 さらに金を出すとロボットから現地の人に対して会話などのアクションを起こすことができる。
[ Vトリップエキストラになりませんか ]
 この広告は、現地側のひとがそれ専用のメガネをかけてこのロボットにかぶったプレーヤーのアバターをみて相手できるよう、現地エキストラを募集しているのである。エキストラとやりとりしたいVトリッパーが信号を出すと、近所にエキストラがいたらシグナルが鳴る。
 移動や滞在の費用が掛からないVトリップは、手早く現在形の現地を自分のプランで楽しみたいというニーズに合った。高価いプランもそう簡単に旅行できない事情のある富裕層が使用するものだった。犯罪や掏摸の標的になるリスクもない。
 受け入れ側の都市としてそう多くの変なロボットにうろうろさせるわけにもいかない。ロボットごとに登録料が払われるとはいえ、観光地でのロボット受け入れ数は制限されていたし、ロボットに入られては困るというエリアも設定されていた。観光客に見せたくない住民も見られたいと思わない地域はどこにもある。だからエキストラになったところでなかなか稼ぎにはならない。
 Vトリップそのものの広告ではなくエキストラの募集が来たということに、メイは苦笑した。端末の使用情報が広告に反映する設定は切っていなかったのだが、Vトリップに課金するプレーヤーではなく、エキストラとして働く側と自動的に認識されていたということだからである。
 説明をみる。簡単な話で、登録すると登録料と引き換えに眼鏡式のヘッドセットが来る。ヘッドセットを返せば金は戻る。近所にVトリップの登録観光客がいたら通知が来る。現地人としてフレンドリーに交流しろ、満足度によってポイントがたまるよ、というのである。プレーヤーの方にはエキストラを相手するたびに課金があり、つまりはそうしてでも旅行気分を味わいたい金のある層むけであった。
 ロボットというのはベランダから見たこけしのようなもので、あの相手をしていたのがエキストラだった。このあたりは日本のむかしの都市近郊団地群がのこった地域として、産業遺跡とされていたが、実際には建て替えの金もなく古いまま放置され、多くの居住者への家賃補助は治安対策だった。犯罪をおこせば補助は切られ追い出される。最低限の補修しかなされない。
 こんなところでもたまに観光客がくるのである。観光客がくると安いものだったが登録施設の管理組織にはVトリップ会社からチャージが払われた。半分以上が行政の保護を受けた者の住むこの団地で、収入可能性のあるロボットの立ち入りを拒否するわけにはいかなかった。
 メイは、外を動くときは余裕がないことも多い。エキストラの募集の説明をみるのは途中でやめた。Vトリップのサイトのトップに戻り、自分の収入では本当の旅行なんてできそうにないけれどこれくらいはできるんだろうかと、あらためてVトリップそのものについて見始めた。

「枠を増やしてくれるのはいいけれど、単価がちょっと下がるよ」
 所長が言った。
「就業支援として、人数が大切なんだ、ひとり当たりの仕事がふえたら、雇用人数が減るから、補助金も減らされる」
「総額が増えるなら私はいいです」
「大丈夫かい、田中さんは間違いが少ないから入ってくれるのはいいんだけど」
 お願いしますといって、メイは事務所を出た。車のない駐車スペースの事務所側の車止めブロックに、事務所でお湯をもらったカップ麺をおいて二十歳くらいの新人職員が地面に胡坐を組んでいた。徹夜明けの朝飯らしい。所長がでてきて、そんなところに座り込んで食わないでくれよと言った。新人の男子は、なんでそんなことを言われるんだろうという顔で所長をみあげた。
 この人も長続きしないだろうと思いながら、メイは今朝の現場に向かう。ナースの補助の予定で見下す態度をとられるので気が重かった。
 増やした仕事は夜まで食い込むことが多い。
 家に帰ると昼間ずっとレジ係をしている母親が、魂のためだのお兄ちゃんがだのいっては金を欲しがる。
「私も、ちょっとくらいきれいなものを見てもいいはず」
 メイは、Vトリップの無料ツアーのあと、五分のテストコースで、深夜のパリのオレンジ色の街灯に照らされたひとのいないオペラ通りを見て、その気になってしまったのだった。

半年ほどで一日分の金はたまったので、やっとアカウントを登録した。
 パリは競争率が高い。有名な観光都市ほど、Vトリップのロボットの数は絞っている。
 申し込みの後さらに半年待ってやっと順番がまわってきた。
 Vトリップの有料ツアーできるアカウントは維持費がかかる。ツアーを申し込むと安くはなるが「待ち時間で稼ぐ」といわれ評判はあまりよくなかった。自分の順番はつねに自分のページで更新されていくのを確認できる。待ち人数ゼロに近くなったところで実際の予約時間を設定する。
 一日分は十八時間で、母親のいない時間にあてて六時間づつ三日にわけて予約した。母親はメイがなにかを楽しむのを嬉しそうに見ることはなかったし、メイ自身モニターを独占したかったのである。その三日はVトリップの後夕方からの現場が続くことになった。
 お昼は休むからと朝母親を送り出し、リビングのカーテンを閉め切った。薄暗い中で、ふだんは手元のタブレットでつながるVトリップのマイページを壁のモニターに映し出す。
 ツアーはエッフェル塔の下から始まった。早朝まだ薄暗い中をモニターの右上に表示される地図を見ながら歩くのである。このためにヘッドホンも新品ではないが探してきた。ところどころにオレンジの街灯が立ち、アスファルトに面したアパルトマンのそばの細い道は石畳もある。たまにしか車は通らない。
 耳をすませながらメイはモニターを見続けた。空がゆっくり明るくなりざわめきが増える。子連れで歩く太った男、犬を連れたコートの女性。ツアーの紹介にあったのとまるっきりおなじように、長いパンの入った紙袋を抱えた女性もいた。
 ときおりVトリッパーをみかけた。設定を入れると、画面には使用者がロボットに乗せたアバターが見えた。本人画像らしいもののほかキャラクター化されたもののことのもあった。メイも、自分の齢にあわせた地味なキャラクターをのせている。Vトリッパーにはエキストラらしいものと楽し気に話すものもいた。
 メイからも、周囲のVトリッパーに対してはシグナルが出せて現地でやりとりもできるものなのだが、それはしなかった。
 現地の昼前モンパルナスからカルチェラタンに降りる頃にその日のツアーは終わった。
 メイのコースは安いもので、見て聞くだけ、こちらからアクションはなく、さまざまな人種からなる街行く人々は、こちらの存在がまったくないようにすれ違っていく。それがメイには心地よかった。
 つぎの日はノートルダムドパリから始まった。放火で焼失し復旧されたという尖塔を見上げ、バスティーユ広場からサンドニに寄って、オペラ通りに回る。最終日はルーブル界隈からコンコルド広場、凱旋門をへて、シャイヨー宮からエッフェル塔を眺めた。

メイは、また金をためてVトリップのツアーに出ることにまったくためらいがなかった。ただし金がかかるのでアカウントは停止した。維持料金を払えばそこから再開してくれるのである。
 旅行に行った実績ができたせいか、Vトリップエキストラのためのメガネが「プレゼント」と称して送られてきた。
「あなたのような旅行者を、今度はあなたがもてなして、ポイントをためましょう。フル充電ですぐにも使えます」という触れ込みがパッケージに入っていた。これはアカウント停止と関係なく使えるが、アカウント代に使うとポイントがお得になる。現地人とやりとりできる高額ツアーのために運営側も努力しているのである。機体番号は登録されており返金対象にはならない。
 かけられる金や時間をいろいろ考えて、メイはつぎのツアーをサンフランシスコにした。パリよりずっと安い。アメリカの町は市中を徒歩移動するかたちのVトリップには向かない。数少ない例外がサンフランシスコである。
一日分を稼ぐのに冬から春先までかかった。パリほど申し込みも多くなくて数か月で順番が来た。
 こんどはこちらに母親のいない時間帯は現地の夕方からあとである。
 仕事を午後に振って、母親が出て行ったあとすぐに接続する。フィッシャーマンズワーフからツアーを始め、きつい坂をロボットを動かすには特別料金がいるのでそれは避けて、コロンブス通りに入った。むかし映画でフォルクスワーゲンがくるくる走った坂は遠目に見て、ややはずれを通って南下した。
 夕方の中華街界隈はひとも車も多い。相変わらずすべてに無視され、ゆっくりと暗くなる中画面は動いていく。地面はゴミも多く埃っぽいようだ。小さな間口にアクリルのショウケースをたてて揚げ物を売っている。食べてみたいと思った。現地に行かないとどうしようもないことがあるのは仕方ない。彼女は、食わずに済んでよかったものがあることはまだ理解できていない。
 ゆっくり西に向かう。人影は少なくなる。ケーブルカーのある通りに向かおうと角を曲がると、薄暗い建物の壁になにかがうずくまっているのが見えた。うめき声が聞こえる。
 近づくと、粗末ではない上着を着た男性の老人が胸を押さえていた。
 仕事が介護であるから自分自身がそこにいれば体は動く。それだけに何もできない叫び声も上げられないことにメイは一瞬途方に暮れたが、近くにVトリッパーがいないかシグナルを出せることに気づいた。
 シグナルといっても自分がそこにいるということを発信できるだけである。気が向けばVトリッパーが反応してくれる。ほかにできることはない。
 誰も通らず車もない。空は暗い。
「何かあったんですか」
 耳に声が響いた。ロボットが坂をおりて近づいてくる。
 アバターを見ると背の高い、初老のアジア系の男性である。言語は英語だが自動翻訳されて耳には日本語が入る。
「ごめんなさい、倒れてる人がいて、どうしたらいいかわからないの」
 メイが倒れている老人を指す。やってきた男のロボットから受光機が伸びて老人をのぞき込み、マジックハンドもそちらに伸びる。かなり高価なオプションである。
「お願い、これ、救急を呼んだ方がいいと思う」
 受光機やハンドが元に戻った。
「私がこのひとをみても仕方ないし、呼べる人を探した方がいいな」
 エキストラを呼ぶ設定にしたらしい。向かいの建物の上の方の窓が開いてエキストラ用メガネをつけた若い男が見下ろして声をかけた。ロボットは返事しすこしやりとりがあったあと、窓が閉まった。
「バリーです」
 男のアバターはメイに向かって今気づいたように名乗った。
「あ、、メイです」
 日本人設定になっていて、この言葉でアバターはお辞儀をした。
「日本人ですね、すぐお辞儀をする」
 バリーのアバターは胸を張ったまま言った。
「あなたはエキストラと」
「しゃべれないの。安いツアーだから」
 まえのボンネットに ambulance が逆文字に描かれた救急車が坂を上がってきた。若い男が戸口からやってきて隊員と話をする。隊員は老人を収容し救急車は去って、若い男はエキストラ用メガネのままバリーに向いて、good job だと言った。
「このレディが気づいたんだ」
 若い男はメイに間に合ったようだと笑いかけた。コミュニケーションのとれるツアーでないメイは、アバターを頷かせ続けるしかなかった。

カリフォルニア通りに出ると、ケーブルカーが走っている。夜がやや更けても車は多い。
「日本人のVトリッパーと話するのは久しぶりです」
「少ないんですか?」
「どうでしょう、日本人かどうかは見ただけじゃわかりませんからね、たまにやたら元気で距離感のない方がいるけれど、ほかは自分から動いてこないようなのでわからないんですよ、極端な国民性と私は認識しています」
 ゆるゆると西に向かって動きながら、二人はとりとめもなく話をした。ヴァンネス通りを、南に曲がりながら、向こうの角のステーキハウスをバリーのアバターは指した。
「あそこ、なかなか美味しいんですよ」
「あなた、このあたりのご出身なの?」
「そうです、住民です」
 なぜ住民がわざわざロボットを使って街を歩くのか、年寄りで体も動かないのかもしれない。
「昔からある店なんですか?」
「古いみたいですよ、私は親に連れられてたまに行きました、中華街の出身でしてね」
 そうなの、と口の中で答えながら、二台のロボットはゆっくり動いていく。メイの画面には通りの景色が動いていく。
「あなたはこういうツアーをよくするのですか、実際の旅行は」
「貧乏なのよ、お願いだからそこまで言わせないでよ、今日の分だってもうじきおわりなんです、あと二回分でこのツアーはおわり」
「私はあなたのおかげで病人に手助けすることができた」
 モニター画面のむこうにはオペラハウスが見えている。手前のシンフォニーホールも、とっくに閉まっている。
 バリーは景色を見渡してから言葉をつないだ。
「あと二回は、私にエスコートさせてください」
メイはあっけにとられた。
「私が社会に貢献できた、恩返しです」
 アメリカの金持ちの老人は華僑でもこんな考え方をするのか、それとも何か狙いがあるのか、単に暇なのか。
 Vトリップはそれなりに身元照会の厳しいシステムである。実際に高価なツアーに乗っている人物が自分をだます理由がわからなかったし、互いに遠方のロボットで何ができるとも思えなかった。
 旅先で、まったくそれまでつながりのなかった人物と時間を共有するといってもたかだか二日二回だけでもあり、受けても大丈夫だろうと思ったメイはアカウントナンバーをバリーに開示した。アバターの端っこに表示はされているのだが、実際に連絡につかうにはそれなりの手続きがあるのだった。

夕方からの仕事は深夜すぎまでかかり、翌朝母親を送り出した後マイページをあけてメイは驚いた。ポイントプレゼントがありました、ツアーのグレードをあげられます、という通知が来ていたからである。
 時間通りにツアーに入ると、目の前にバリーのアバターがあった。
「つきあってくださってありがとう」
 何故自分がが礼を言われるのかメイにはさっぱりわからなかった。
 高校を、母親の奨学金使い込みのせいで中退するまではメイにも同級生の彼氏がいたが、つきあってやる、というばかりだったからである。行為も乱暴だった。あれは彼氏というものだったのか、メイは不思議に思うこともあった。
 あまり相性のよくない兄は、そのころ一緒にいた父親が大学を卒業させた。しかし、使い込みの理由を母は「魂の浄化」と言い張り、その儀式と称するものの過程で母親と父以外のあいだにできたのがメイであることがわかって、両親は離婚してしまった。積み立てをずっと使いこみ、最後の止めが奨学金だったわけで、そんなに前からやっていたことだから、弁解の余地もなかった。
 離婚後、父親は収入が少ないながらも兄には援助したが、メイとは会おうともしなかった。金遣いの荒い兄は母親にもいろいろねだり、そのしわ寄せはいつもメイに来た。
 男女関係というもの自体に、メイはいい印象を持っていなかった。ロボットを介して話をする方がずっとましだった。
「こちらこそありがとうございます」
 メイのアバターはまたお辞儀をした。
「口調で、お辞儀の角度がかわりますね」
 バリーは、真面目な顔で指摘した。
「そう、心がこもってないとアバターもちゃんと動いてくれないの」
「設定強度を変えると、ちょっと大げさにやってくれますよ」
「こっそり偉そうにしたいときに困るから、このままでいいわ」
 メイは頷き、二台のロボットは、昨日の終了点であったオペラハウスから動き始めた。気楽な感じで話しているが、翻訳は「丁寧度」をあげているから、バリーからきこえている日本語と同レベルの英語の会話になっている筈である。
 メイは、おそらく年輩であろうこの人に話をなるべく合わせるようにした。日ごろやっていることでもあって苦痛ではなかったが、どことなく仕事の延長のようになってしまっているのは自覚していた。
 通りを南下し、そこからまた西へ向かう。ロボットの移動可能な坂をつかわなければならないが、バリーは地理をよく把握していた。広い芝生でダウンタウンのよく見える公園を通り過ぎ、ずっと昔にあったヒッピームーブメントの中心だったという通りを通った。なぜか家具屋が多くショーウィンドウには Futon という文字が躍っていた。
「あれ、フトンって」
「日式の、カバー付きブランケットですね、もともと日本語の筈です」
 景色を見ながらとりとめもなく会話し、北上した。低層の木造家屋が並び、公園の一部が見えた。
 相手が年寄りとは思いながら、嫌な印象を与えないよう気を付けて、メイは自分の日々の介護の話をした。バリーは笑ったり感心したりした。
「いまはシンフォニーホールで、コンサートシーズンなんですよ」
「クラシックコンサート、大昔、学校からいったわ」
「大昔ですか」
「あなたにとってはそうでもないかもしれないけど。十五年前にはハイスクールから一度いったの、子供の時にはバイオリンが習いたかったけど、英会話にいかされたわ、それもこれも、幻みたいね」
 そのあたりの子供より、お勉強も好きだったことを思い返した。父親も褒めてくれた。今は顔も見てくれない。
「明日はシンフォニーにいってみますか、ロボットでも入れるオプションがあるんですよ」
「勿体ないわ」
 モニターを見ながらメイは首を振った。
「ロビーとか幕間とか面白そうだけど、シンフォニー自体は配信でいいの、優先順位よ、絶対いけそうもないような場所を、こうやって景色を見ながら動くのがいいのよ、どんなに動いたって疲れないんだから。話し相手をしてくれて本当にうれしい」
 空はもう薄暗い。西からの風に乗って濃霧が流れてくる。
 丘の多いサンフランシスコの高台を器用によけた道筋で、二台のロボットはプレシディオを超えて、海辺に来た。
 金門橋の脚が見えた。道路面あたりは霧で隠れている。
「独立記念日はここから花火が見えましてね」
 日はどんどん暮れる。二台は金門橋の歩道まで上がり、暗い中をソーサリート側に橋を渡って展望台に向かった。霧は晴れていた。金門橋を抜けた道路はプレシディオの緑地帯に消え、左側の遠くに街の明かりが見えていた。

 翌日の機体は、さらに高価いオプションのついたものであった。より軽い小さな躯体で脚が四本のうえに丸い本体があって受光素子は上に伸びていた。すべて小さく縮小することで乗り物にも乗れるのである。BARTやバス、路面電車にはその収容スペースの用意されているものがある。タクシーであれば問題ない。ケーブルカーだけはダメだった。
「こんな高価なオプションなんて、これから先一生無理ね」
 メイはモニターでまわりをみわたした。画質もいい。
 出発点は今回もオペラハウスの前である。
「今日は乗り物からです」
 バリーは歩道から道路の脇へ行く。黄色いタクシーが用意されている。ロボットは方向を指示するだけでうまくタクシーに入り込んだ。
 ツインピークスにあがると鉄塔に西からの光がかかっていた。霧が吹きあがっていった。展望台からダウンタウンを見る。ビルがならび、その周囲に、町がひろがっている。
「これでも歴史のある町でしてね」
「私のところもよ」
 メイは、自分自身のことをほとんど話してこなかったことに気づいた。
「私の住んでるのは、日本の、京都というところでね」
「歴史のあるところとききますよ」
「違うのよ」
 メイは少し笑いながら続けた。
「その南の外れに、むかしできた新興住宅の、高層アパートの並んだ団地があってね、手入れする金がないもんだから、産業遺跡という名前で残して、貧乏なものを住ませてるの、私もそこにいるの」
「そこで生まれたんですか?」
「違うわ、むかしは父や母と兄で、そこに近いけれど普通のところに暮らしていたし、勉強も好きだったけど、母がちょっと外れた人で、変なものを信じちゃったのよ。私はいないほうがいい人だったみたいね、父には捨てられたし兄はあてにならなくて、高校を途中でやめて、母と一緒に引っ越して、ずっと介護の仕事よ、私の住むあたりで若ければそれが一番回ってくるの。高校も通信教育でやっと資格だけはとったのよ」
 バリーが何も言わないのでアバターは表情を変えなかった。
「母の面倒は私が見なくちゃいけない、めぐりあわせで、仕方ないのよ、」
 仕方ない、を、翻訳がバリーにどう伝えたのかはわからない。
 タクシーは山を下りる。夕方からはじまったのでもう薄暗い。
「こちらにも、一種の産業遺跡がありますよ」
 タクシーはさびれたちいさなショッピングモールに入った。通販が一般化して高級品はダウンタウンにのみ店を出し、モールに物を買いに来る人は激減していた。
「むかしは本当ににぎわっていたそうです」
 実際にみたことがないような口ぶりであった。こんなところまでは来なかったのかもしれない。
「それでも、アウトレットとしてまとめ買いするひとはいましてね」
 空きテナントの多いモールの端に少し大きい建物がある。標的のマークがついていた。中は明るい。二台は自動ドアをあけて入り込んだ。
 こちらにずらっとレジが並び、むこうがわに日用雑貨や安い服などがずらっと並んでいる。大きなカートに山のように服を積んだ太ったひとたちが、人種を問わず並んでいた。
「ありがとう、もういいわ」
 メイは、近所のスーパーを見ている気分になった。取って返して、通常のモール部分に入ったが、テナントは半分しか埋まっていない。
「この町の記念に何か差し上げますよ」
 出費してもらうことにすっかり麻痺していたメイは、それでもあまり高価なものはと思い、サンフランシスコの建物のレゴブロックを選んだ。アカウント経由で送ってくれるということだった。
 タクシーは住宅地の中を通る。起伏が強いが、モニターをみているだけなので特に何も感じない。
「このへんは上下してよく酔いましたよ」
 バリーがぼそっと言った。
「私の父は運転が粗くて」
「ご健在なの」
「もう死にましたね」
 そのまままた黙ってしまった。あまりいい話題ではなかったのかとメイはすこし後悔した。
 そのままタクシーは町を回り、モニターには夜の町が窓越しにみえていた。ダウンタウンはあっというまに暗くなりひとの姿も消えた。タクシーはいったんベイブリッジを渡り、オークランドへ渡る途中の島の展望台からとってかえした。二台はとりとめなく話をして、ツアーの時間のおわりがきた。
「また、いっしょに回りませんか、ここでも、ほかの町でも」
「暇もお金もないから、いつになるかわからないわ」
「余裕ができたら知らせてください、アカウントを通してやりとりできたら嬉しいですよ」
 断る理由もない。
 メイは丁重に礼を言い、アカウントを通してまた連絡すると言いおいて接続を切った。

いっしょに回るといってもすべて丸投げにするわけにもいかないし、そうしたくもなかった。基本的なツアー料金はまた稼ぐ必要はある。やりとりをする目的でそのあいだアカウントを生かしておくのも金がかかる。夢から醒めたようにメイは、また仕事に精を出した。
 アカウントを通してレゴブロックが届いた。さらに、シンフォニーのダウンロード鑑賞クーポンがバリーからやはりアカウントを通してやってきた。まめな人ねと思った。
 夜に仕事のない夕方、シンフォニーをモニターに出してレゴブロックを組み立てているところに、思いもよらない早い時間に母親が帰ってきた。
「お帰り」
 母親は返事もせず、ブロックに集中しているメイを見ていたが、やがてゆっくり口を開いた。
「それ高いもんだろ」
「もらいものよ、これぐらい組み立てさせて」
「そんな金があるのに、お兄ちゃんにはなにもないのかい」
 メイはため息をついてモニターを切り、ブロックを未完成なまま箱に放り込んだ。
「私がずっと働いて、そのあと魂がきれいになるように祈ってるのに、あんたはそんな贅沢なもので遊んで、贅沢なものをきいて」
 眉間の皺が深くなり、声が大きくなった。
 最近機嫌がいいから油断していた、しまった、とメイは悔やんだ。ブロックの箱をかかえて納戸に逃げ込む後ろから、私の魂のことを考えてくれないと母親が金切り声をあげた。
 収まりかけたころに、兄から連絡が母親に入った。金の無心で母親はまた納戸の前で叫び声をあげ続けた。
 次の日仕事から帰ると、レゴブロックの箱が消えていた。いつかはそうなるだろうと思っていたがあまりに早かった。一度は完成させたかった。
 その夜遅く母親が機嫌よく帰ってきて、ここの居住権を売る、といいだした。金は先払いですでにもらってしまい、登録もしたという。金の行先は訊く気にもならなかった。
「魂をきれいにするのよ」
 得々とした顔で母親は言った。うんざりした気分で翌日の仕事は拝み倒してキャンセルし、居住権はあらためて購入し、その代金はメイが分割で払っていく手続きをとった。余分な金はない。Vトリップのアカウントはまた停止した。
 さらに翌日日事務所にいくと、ちょっと化粧の濃い横山が腕を組んでメイを詰った。
「あなた、どういうつもりでやってるの」
 メイに性処理を頼む老人に、急に休んだメイのかわりに横山があたったのだった。メイは相手にしていなかったのだが、その老人は横山に、田中さんは金を払えばやってくれるのにと出鱈目を言ったらしい。真に受けた横山がメイを待ち構えていたのである。
「それは困るなあ、田中さん」
 所長も首を振りながら言った。
「私はそんなことしません、よくねだられますが断っています、最近は言わないからあきらめたと思ってたんですが、だから日報にもあげてませんし」
「嘘、いくらでやってあげてるのよ」
 噴きあがる横山をなだめて仕事に送り出し、所長はメイに向いてへんな笑みをうかべた。
「本当にそういうことはないんだね」
「ありません」
「金がほしくてそいうことをするなら、俺にいえばいい」
 一瞬何を言われているかわからなかった。息が詰まるほど腹が立って、メイはそのまま事務所を出た。後ろから所長が声をかけた。
「装具は持って行っていいよ」

残暑も過ぎ、朝は涼しい。
 魂がきれいになったと、母親は機嫌がいい。兄もここのところ連絡してこない。
 あと何年かけたら金が返せるのだろう、返し終わったらその時こそここを出よう、メイはそう思いながら、昨夜自分で洗って干した洗濯物を取り入れに、ベランダに出た。
 地上を見下ろすと、むこうから、Vトリップの、脚の細長い高価なバージョンのロボットが、ひょこひょこ動いてくるのが見えた。
 エキストラになったらちょっとでも金になるかもしれない、そう思ってメイは納戸に駆け込み、自分のものを入れた段ボールの隅からエキストラ用メガネをとりだした。ふつうは電源につないでおくものなのだが、さいわい容量ゼロにはまだなっていなかったようで、オンにするとエキストラ呼び出しのシグナルがなった。
 アパートの一階まで階段を下りて建物の裏にまわりこむ。さっきのロボットにはすでに数人のエキストラがやってきて、メガネごしに話をしていた。メイもメガネをつけた。
「バリーさん?」
 サンフランシスコのVトリップでみた、初老の背の高いアジア系の男性のアバターがあった。
 バリーはメイの声に気づくと、ほかのエキストラたちに礼を言って帰し、呼び出し設定を切った。
「アカウントのIDはメイさんですね、停止中の表示もある。またどこかにいけるかと楽しみにしていたのに、アカウントはずっと止まっているではないですか」
「お金が無くなってそれどころじゃないの、でも、切る前にひとこというべきだったわね、ごめんなさい、もうVトリップもできそうにないわ」
「お母さんですか」
「そう、でもいいの、これですべておわりにするから」
 バリーのアバターは黙っている。
「バリーさん、もう仕事の時間なの、ひょっとして私に会いに来たの?」
「そうです、いっしょに街を歩く約束でしたよ」
「今日はだめよ、これから仕事なの、だからもう」
「三日、このへんをうろついていたんです」
 去りかけたメイはまたロボットに向き直った。
「よっぽど暇なの?」
「暇とお金はあるんですよ」
 簡単に躱されメイは笑い声をあげた。
「あなたの実物がみられてよかった」
 一瞬にしてメイは落ち込んだ。容姿に一切手をかけず自信もない、三十超えた太り気味で背の低い女性の、あまりにも日常的な格好だった。
「アカウントはちょっとでも開けられますか?」
「二日くらいならなんとかするけど、なぜ?」
「また連絡したいんですよ、くわしくはそっちで。いまはお忙しいようなので」
 メイはロボットに手を振って部屋に帰った。すぐ出なければならない。

三か月後、メイはサンフランシスコ空港にいた。
 バリーがアカウントに送り付けたものは、発着日時未確定の米国一週間滞在用の航空券と、アメリカの介護職の平均額一週間分の入金だった。日本の介護職の三倍はあった。休んでいるあいだの手当のつもりのようであった。
 なぜここまでしてくれるのかはもう考えなかった。気の合ったものにあうためだけに金を出してくれる金持ちがいるのだと思うようにした。メイの体そのものを手に入れるためにということならそこまでする意味はないと自分で思った。たんに実際にいっしょに街を歩きたいんだろう、約束通り。コンサートに行ってカフェでお茶をするのかもしれない。
 メイは母親に知られないよう、注意深く動いた。
 すぐに旅行できるものではない。年末年始にあわせて開けられるよう仕事のシフトをはやいうちから所長に頼んだ。いい顔はしなかった。母親には、ちょっと疲れがたまっているから正月くらいは仕事を入れないといって、安いものだったがおせちの注文までしてみせた。母親は贅沢とは騒がなかった。
 航空券はもちろん電子券であり、母親にみつかることはない。旅行かばんは小さめのボストンで、みえないよう段ボール箱にいれたまま中身を用意した。着替えだけである。
 パスポートそのものは、個人証明書に紐がついているから簡単にとれる。
 出発当日母親が寝ているうちに、お正月は留守にします、一週間したら戻りますと書き残し、一週間分のメイの給料分も母親の口座に放り込んだ。そのままどこかにやってしまうんじゃないかとも思ったが、考えること自体がもういいかげん嫌になっていた。困ったら兄にたよればいいではないか。
 出発の飛行機をまつうちに母親からしつこく連絡が来はじめた。そのうち兄からも来た。電子書類が入っているので端末の電源やネットワーク接続を切るわけにはいかなかったが、応答はしなかった。
 サンフランシスコ空港の入国ゲートをでると、MEIと大きく書いた白い紙をヒスパニックらしいずんぐりした中年男が掲げていた。エドと名乗った。お互いに自動翻訳のヘッドセットはつけている。
「ようこそ。ミスターウォンが、明日会いましょうと言ってた、ホテルに送るよ」
「ウォン?」
「ウォン、バリー‐ウォン」
 たしかに中国系のようだった。
「今日はゆっくり寝てくださいってさ」
 移動時間は短くなっても、時差はなくならない。

自動計測で衣装を用意するシステムが、ダウンタウンのホテルにはあったらしい、昼過ぎに、うすい花柄のウールの上下に、やわらかいピンクのコート、それに踵の低いハイヒールが部屋に届いた。アジア人に似合うスタイルで、出来はいいが派手なものではない。
 比べればたしかに、メイが家から用意した着替えは、「よそ行き」以前のものだった。
 夕方、オペラハウスの前でタクシーから降りると、ロボットがいたので、メイは慌ててエキストラメガネをつけた。おなじみのアバターがそこにあった。
「ようこそ。冬はオペラとバレエですよ、その前に食事を」
 本人がいないことに戸惑いながら、メイはロボットと連れ立ってオペラハウスのレストランに入った。賑やかな店内で近所の音楽学校の生徒たちがメイに給仕をし、合間にピアノにあわせて歌うのだった。ロボットはなにを食う訳もなく、アバターのバリーとメイはゆっくり話をした。
 オペラハウスでは、「くるみ割り人形」を観た。この時期の定番ということだった。二階のカウンターバーで幕間に軽くウイスキーも飲んだ。メイは酒に弱い方ではなかった。
 しかし、気は大きくなった。
 クラークから返してもらったコートはエスコートなしに自分で羽織らねばならなかった。シンフォニーホールの前に待つタクシーの扉を開けたまま、
「明日はどこへいきましょうか」
というロボットに、メイは応えた。
「バリーさん、私、こんなにして貰ってうれしいんですけど、ロボットのあなたにしかあえないなんて、そんなに動くのが不自由なんですか?ここまできたんだから、まず、本物のあなたにご挨拶がしたいの」
 アバターは表情を変えず、声だけがきこえた。
「ありがとう、でも、実物の私につきあってくれるより、ロボットの私と町の中をいっしょに歩いてくれる方がうれしいんだ」
「あなたの状態を知った方が、私もやりやすいのよ、バリーさん、私がどうしようもないところに住んでる大したとりえのない女だってことは、あちらにいってわかったでしょう、あなたのことを私が知らないのは、フェアじゃない」
 アバターは動かず、ため息だけが聞こえてきた。
「明日、ホテルに迎えをよこします」
 金持ちの年寄りのくせに押しに弱いわねと、メイは思った。

翌朝ホテルにやってきたのは空港に迎えに来たエドだった。持ってきたいちばんましなものをメイは着て、乗り込んだ車はマーケット通りを、シティセンターから離れていく。ものすごい坂をあがり、エドは
「これがサンフランシスコだ」
といって、ものすごい坂を下りて左に曲がった。その先の高台に病院があった。
「メディカルセンターだよ、モフィットの方な、ここにお迎えが来るから」
 エドは車で去りメイが道路に面した五段ほどのひろい階段に足をかけると、色の浅黒いナースがおりてきて、田中さん、メイさんね、と日本語でいった。沖縄出身の米国人オニヅカであると名乗り建物のなかを先導した。
 エレベータであがると向うへ続く廊下にガラス張りの境界があって、
「Barry’s Corner」
と表示されていた。
「バリーって、ファーストネームじゃないのかしら、コーナーって」
「このほうが、Wang’s Research Center よりカッコいいんだそうです、私は名前は Wang のほうでいいと思うんだけど」
 ネームカードをオニヅカはメイに渡した。入口は近づくとガラス扉が開いた。ネームカードをつけてないと動かないわとオニヅカは後ろから言った。
 診察室か談話室のような、デスクのある四畳ほどの空間の椅子で少し待たされた。明るい色の髪を借り上げた背の高いヨーロッパ系の男性が白衣を着けて入ってきた。若々しいが人種が違うと年齢がわからない。
 対面の椅子に座りながら、ハイ、などといっているところに翻訳機が声をかぶせる。
「どうも、私がバリーの主治医のドクタークーンです」
「主治医ということは、彼は病気なのね」
「ここは彼が彼のために設立した研究治療センターで、彼自身がその対象のひとつなんです」
 医者はバリーにそう希望されたのでと前置きして、説明を始めた。十代なかばからネットウェアを開発しては売り富を持っていたバリーだが、交通事故で両親を失い自分も治療中に特異的な免疫不全をおこして隔離室から出られなくなった。
 彼は、富の一部をこのメディカルセンターに寄付し、免疫不全の研究室を設立するとともに、そのなかに自分の病室をつくってしまったのであった。
 ネットウェアの開発はいまも行っており、Vトリップもそのひとつで自分自身の願望から実用化したものだった。
 どう反応していいか、感心したらいいのか、メイにはさっぱりわからなかった。
「ご両親も一緒に無くされたっていうのは、もうずいぶん長くここに彼はいるの?けっこうなお歳なんでしょう」
 なにをいっているのだという顔で、医者はメイを見た。
「彼はまだ二五歳、事故にあったのは六年前です、そもそもそんな大昔にネットウェアはない」
 しばらく声が出なかった。
「じゃあ二十歳になるまえから、これだけのものをつくれることをしてきたの、天才じゃない」
「そう、天才ですよ」
 医者は立ち上がった。
「面会は、直接はできないのです、我々も直接の接触はしていない。ここからは実際にみたほうがいいでしょう」

メイたちのいる空間とガラスの隔壁でわけられた病室の、むこうのベッドに、つやつやした素材の上下を着た真っ赤な顔の男が座っていた。バリーである。
 完全遮断型の防護服を着た男が部屋の中を歩いていく。ナースのようである。壁の外から防護服に入り込み、背中側は外界につながったまま、進展ジャバラ素材でベッドまで進んでいった。
「いちいちすべて着替えるのは大変なんでね」
 医者が解説した。防護服の男はバリーを助けて、隔壁のすぐむこうの対面ソファに座らせた。ケロイドのような瘢痕のある顔は赤く腫れあがり、黒い眼がそのなかからこちらを見ている。髪はまばらである。いろんなひとを介護してきたメイにとって、それは、特に感慨ももたらさないものだった。
「やあ、メイさん」
「お姉さん、すっかりだまされたわ、寝たきりの老人かとおもったじゃないの」
「そんなふうに思ってるらしいことはわかったんだけどね、面白いから黙っていたんだ」
 どうやらバリーは笑っているようだった。
「いろいろありがとうね」
「ボクのためだよ、暇とお金だけはあるんだ、これでおわりにするとかいわれたら、それを止めないわけに行かないじゃないか」
 わからなかった。
「なによ、それ」
「これですべておわりにするとか、人生そのものを終わりにする覚悟にしかきこえなかったから」
 メイは力を抜いた。日本人に対する偏見じゃないのだろうかと、どこかで思った。
「そう思ったのね、翻訳が悪かったのかもしれないわ、ごめんなさい、母親が新しい借金をこさえたのよ、それを返しきったらもうあそこからは出ようと思ったの、お母さんも、お兄さんも、好きにしたらいいのよ」
「そっちだったのか、それはそれでよかったよ」
「いつになるかわからないし、暇もお金も無くなるから、Vトリップだって出来そうもないわ、最後に本当の旅行をありがとう」
 メイは笑ったが、咽喉がすこし詰まった。
「でも、あなたがVトリップの会社をやってるんだったら、わざわざあんなふうに探しに来ることなかったんじゃないの、調べたらあっという間でしょう」
「顧客の情報の私的利用はコンプライアンスに反するからね、そういうところはしっかりしないとあっというまにいろいろダメになってしまう」
 メイは少し感心した。となりで医者が微妙な笑い顔を浮かべた。
「ケアもすべて防護服がいるのね、大変じゃないの」
「人間はSPFにはできない、防護服なしで入れるわけにいかないのです」
 医者が言った。
「いや、隔離していろんなものをぶちこめば、バリーといっしょにいても大丈夫なレベルにもっていけるが、時間もかかるし、交代勤務にするにしても負担がでかすぎる」
「金を出せばできることでも、そのための個人の負担が大きすぎるからね、誰でもいいというわけでもないし」
 バリーも説明した。
「ボクの状態は今のところ落ち着いてる。なにかいいことがおこるかもしれない。そのうちまた外を歩けるかもしれない。そのために皆がんばってくれてるからね、ドクターには感謝してるんだよ」
 医者は目を伏せて頭を下げた。
「さて、今日はいっしょに美術館にでも行こうと思っていたんだ、そろそろどうかな」
 バリーはゆっくり立ち上がり、防護服の男に支えられながらベッドに戻っていった。枕元には全周視野ヘッドセットがあった。
 こちらでは医者が立ち上がり、メイも立ち上がった。
 センサーに反応するガラス扉を出たところでメイは立ち止った。そのまま振り返りあいたままの扉を走り戻って、病室のガラスの前に立った。ベッドに座ったバリーが、なんだろうとこちらを見た。
「バリー、仕事の相談があるの」
 仕事という言葉にバリーの背が伸びた。
「なんだい」
「私を雇ってくれない、この仕事は長いし、母のこさえた借金分を前払いにしてくれたら、あなたの生きてる間、この中であなたを助けてあげる」
 医者が戻ってきた。黙ってバリーとメイの顔を交互に見ている。バリーは医者に顔を向けた。
「それはうれしい提案だけれど、クリス、どう思う」
「中に、行動の自由度の高い介護者がいるのは重要だし、おなじ人がやってくれたらそれはとてもありがたいことだ。でも、めったに外に出られないんですよ、レディメイ」
「大丈夫よ」
 黙ってみているバリーに、メイは微笑んだ。
「また二人で、Vトリップすれば、どこにでもいけるわ」

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