ダナの航路

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梗 概

ダナの航路

豪華客船の船員として生まれ育ち、一度も陸に上がったことのない少年ダナ。夜は空の星々を見て過ごすダナ。ある日ダナは一人の乗客から宇宙の存在を教えられる。宇宙は無限に広く、月には人間が立ったこともあるらしい。それ以来ダナは宇宙へ行くことを夢に見て、宇宙飛行士を目指すために船をおりる決心をする。船長はダナが地上に降りることを許さない。船長はダナを船でただ働きをさせるために育ててきたからだ。ダナは船がフランスに寄港したときに隙をついて逃げ出す。
地上をさまようダナは警察に保護され、児童養護施設に送られる。
ダナは、慣れない地上での生活、国籍がないことによる社会からの阻害、就学経験のなさからくる圧倒的な不利を猛烈な勉強量と好奇心ではねのけて成長する。

大学を卒業したダナはフランス国立宇宙研究センターで働きながら宇宙飛行士になることを狙っていた。
ついに宇宙飛行士の募集が開始され、ダナは試験に応募する。
圧倒的な知識と、閉鎖環境での活動の適性によってダナは見事宇宙飛行士に合格する。

国際宇宙ステーションの月版である月周回衛星ミムスでのミッションが決まったダナは宇宙船に乗って月へ向かう。

月までの途中、デブリによって宇宙船が破損し、船外活動による修理が必要になる。クルーであるジェイコブとミンミンが修理に向かうが更なる不運なデブリの衝突によってジェイコブとミンミンは船体からはじき飛ばされてしまう。キャプテンの制止をふり切り、ダナは自分の命をかえりみずに有人機動ユニットを装着して救助へ向かう。ジェイコブは衝撃によって気絶したが、運良くミンミンがジェイコブをキャッチし、二人は固まって移動していた。宇宙空間の中を高速で進む2人へ追いつくために、ダナは推進剤を大量に噴射する。1時間かけて二人に追いついたダナだったが、残された推進剤の推力では船に戻れないことをダナは頭の中で計算していた。しかし三人ではなく二人なら戻れる。ダナはミンミンに有人機動ユニットを押しつけて、二人が宇宙船へたどり着くことを祈ってせめてもの推力に二人を蹴った。ダナは蹴った反作用によって二人から離れ、宇宙空間の闇の中に消えていった。

船で生まれ、船から降りたダナは、大地も地球という大きな乗り物の一部であることに気がついた。ダナは地球を離れたが、やはり宇宙船という乗り物に乗っていた。今、ダナは全ての乗り物から降り、そして乗り物の航路ではなく自分だけの航路を進んでいる。もうすぐでダナは死ぬかもしれないが、ダナは満足していた。

文字数:1042

内容に関するアピール

生まれ育った場所から離れる、というのを「船から降りる」という主題で考えてみました。

文字数:41

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ダナの航路

ダナが生まれる日の朝、ダナの母親は間近にせまるはじめての出産の不安をまぎらわすために、無謀にも船内カジノのルーレットマシンで50万ドルを黒に賭け、見事的中させて二倍の100万ドルを手にした。この100万ドルでいきおいがついたのか、その日の夕方、彼女に陣痛がおとずれた。彼女は船内の医務室へと運ばれ夫が付き添った。夜遅くになってダナは産声を大西洋に響かせた。ダナは豪華客船の中で生まれためずらしい赤ん坊になった。ダナの名前は、ダナが生まれる一年以上も前、つまり妊娠したことが分かるよりも前に決めてあった。それはダナの母親が、はじめての子供が生まれるときには誕生祝いとして赤ん坊に鹿の像を送ろうと考えていたことがきっかけだ。鹿の像を赤ん坊に送るなんてことはなんともおかなしな話だったが、しかし彼女は実物大の大理石の鹿の彫刻を赤ん坊に送ることに決めていた。というのも彼女の家系はとにかく鹿に縁があったからだ。食べ物がなくて苦しんでいた先祖の元へ鹿が現れ、それを鉄砲で撃って食糧としてなんとか冬を越すことができたという言い伝えがあるし、彼女の祖母が森で迷ったときに鹿に導かれて助かったこともある。鹿の像はいわば赤ん坊のためのお守りだった。像を作るならば早めに用意したほうがよいだろうということで、彼女は注文するために早速彫刻家に電話をかけた。彫刻家は生まれてくる赤ん坊の名前を象に彫るかと彼女に尋ねた。彼女が「ええ、お願いします」と答えると、今度は赤ん坊の名前は何というのか彫刻家は尋ねた。彼女はそのとき赤ん坊には名前をつけるものだという習慣について、なぜなのかすっかり頭の中から抜け落ちてしまっていて、思ってもみなかった質問にあわてふためいてしまった。名前が決まったあとに彫ってもらえばいいものなのに、とにかく早く赤ん坊の名前を答えなければいけないという焦りにかられ、男と女のどちらで生まれたとしても名乗れる名前をとっさに考えた。彼女は電話口で次のように叫んだ。

「ダナ、赤ん坊の名前はダナ!」

そうして夫のあずかり知らぬところでダナの名前が決まった。実際にはダナは男の子として生まれた。少なくとも両親にはそう見えた。

ダナの両親の財産管理を任された家事使用人兼マネージャーのニコラスという男が一緒に船に乗っていた。注文していた鹿の像はトラックで大切に港へ運ばれ、船が港に停泊している間にニコラスがダナの両親の客室に運び込んだ。そうして鹿の像に見守られながら、ダナと家族の新しい生活がはじまろうとしていた。しかし、ダナが生まれて一ヶ月もしないうちに、ダナの母親と父親はダナを船に残したまま船を降りてどこかへと消えてしまった。ニコラスはダナの両親と連絡をとることができず、「これはほんとうに大変なことが起きた」と何度も声に出しながら失踪届を提出した。しかしダナの両親はついに見つからなかった。ダナの両親がいなくなった理由はそれからも誰にも分かることはなかった。ダナに残されたのはニコラスと鹿の像だけだった。

ダナの母親があの日ルーレットであてた100万ドルは大金だったわけだが、実のところダナの両親にとっては、はした金だった。というのもダナの両親は大成功した個人投資家で、金というものは投資した株式会社や債権が自動的に増やしてくれるものだったからである。ダナが乗っている豪華客船は客室一つ一つにオーナーがいる、いわば分譲の豪華客船だった。部屋の一つをダナの両親が所有していたのでニコラスとダナはその部屋に住み続けることができた。

ニコラスは書類仕事をまかせればすばらしくできる人間ではあったが、人生を生きるにおいてはすごくへんてこな人間だった。水をいつでも飲むために専用のボトルとホルダーを作って胸のポケットから垂れ下げさせていたし、寝返りをうつのを怖がって眠るまえにひもで手足をベッドの四隅にしばったし、階段を登るときは勢いをつけるために必ず両膝の裏を手のひらで叩きながら登った。そんなニコラスが何を思ったのか、ダナの両親からもらっていた報酬をほとんど注ぎ込んでダナの客室のとなりの部屋を買い、自分も客室のオーナーになった。それから地上にいた妻と犬とを豪華客船に呼び寄せると、ダナを正式に育てるために養子として迎え入れた。

ダナの船の上での人生はこうしてはじまった。豪華客船で生まれた赤ん坊というのはめずらしいことだったが、さらにめずらしいことにダナは10歳になっても船を降りたことがなかった。ダナを育てたニコラスとその妻フランが船を降りることはなかったし、それにならってダナも船から降りようとは思わなかった。まわりの人達に理解されることはほとんどなかったが、ニコラスとフランが船の上で暮らし続けることを選んだのは、地上にいる虫というものがきらいだったからだ。船の上にはほとんど虫が入ってくることはなく、ニコラスとフランは人生の中ではじめて安らいだ気持ちで暮らすことができた。

船はイギリス船籍でイギリスの住所があてられていて、ダナが暮らすのに法律的には問題がなかったし、学校はオンライン通学で通えた。それにダナは巨額の遺産を相続していたから豪華客船での生活には困らなかった。ダナは“ゆれる大地”の上の暮らししか知らなかった。

豪華客船の中にはいろいろなものがある。ショッピングモールかと思ってしまうようなアーケード街、公園、遊園地、大小合わせて70のレストランやカフェ&バー、ショーが行われる四つのシアタールーム、映画館、ウォータースライダー付きのアトラクション施設、プールは子供用と大人用に分かれていてランニングするためだけのデッキもある。それに船員と乗客合わせて七千人の人間が乗っていた。

船の針路は客室オーナーたちの投票によって決まる。船から提示された七つの航路の中から、少人数のオーナーによって組織された理事会が三つにしぼり、そこから全オーナーが投票をすることで行き先が決まる。ダナは投票権を持っていたが、話せるようになるまではニコラスが代わりに投票を行なった。二票分の投票権があり、ニコラスは得した気分だった。

船の中でのダナの遊び方は、いろんな場所をほっつき歩いていろんな人に話しかけることだった。ダナはとにかく質問をした。どこから来たのか、仕事は何をしているのか、どうしてそんな服を着ているのか。髪の編み方や、メガネをかけるときに右手を使うのか左手を使うのかまで質問した。しつこすぎて話を途中で打ち切られるのがしばしばだった。今やほんとうの親のように接するようになっていたニコラスとフランだったが、その遊びを注意しつつもほんとうに止めるようなことはしなかった。ダナは客だけではなく船員にも話しかけて、どんな仕事をしているのかを尋ねた。船員たちがダナを見ると、何か質問をされるのだと思って喜んだ。自分達の仕事について興味を持ってもらえるなんてことはほとんどなかったからだ。甲板長や船員の食事を作るコック、どうやって知り合ったのかは不思議だが客室エリアにほとんどくることがない機関士や機関員なんかとも仲良くなった。ダナは船が港に停泊すると、双眼鏡を使って陸地をのぞきこんだ。陸地には大地にくっついた建物がたくさん建っていて、車という乗り物がたくさん走っていた。豪華客船全体がダナの遊び場だった。

ある日、ダナは船内の映画館でおもしろいとも退屈だとも言い切ることのできないそのちょうど中間のようなアニメーション映画を見ていた。豪華客船の中で上映される映画というのはほとんどがそんなものなのだ。映画のエンドロールが終わって劇場の明かりがつくと、ダナのとなりに座っていた太った男が劇場を出ようといきおいよく立ち上がった。すると男のズボンのポケットから腕時計が飛び出してマットが敷かれた床に落ちた。ダナは腕時計をひろってあげようかと、反射的にかがむ体勢をとった。しかしそこでダナは一瞬迷った。というのも映画を見ている最中にこの男がポップコーンを食べる音がやたらとうるさくて集中できず、男のことをよく思っていなかったからだ。どうするか迷ったダナは男の背中を見た。大柄で太っていて、まさにポップコーンをばくばく食べそうなやつだとダナは思った。男の左手に視線をうつすと腕時計を二つも着けている。ポケットから落ちた腕時計と合わせて三つも持ち歩いているということになる。どうしていくつも腕時計を持ち歩く必要があるのか。今まで変わった乗客をたくさん見てきたダナだが、持ってる時計の数が変わってる人に会うのは初めてだった。この男は一体何者なのかとダナは思った。ダナはそのことが気になって、理由を尋ねるために仕方なく腕時計をひろい、男を呼び止めた。

「これ、落としましたよ」

「ああ、ありがとう。気がつかなかったよ。映画、おもしろかったね」

「そうですね、とてもおもしろかったです」ダナは早く腕時計のことを聞きたかったのでてきとうに相槌をうった。

「その腕時計、どうしていくつもつけてるんですか?」

「え? ああ、内緒だよ。簡単には教えられないね、それじゃあ」そう言って男は劇場から出て行ってしまった。男を追いかけて後をつけようとしたが、劇場を出ようとする人たちにまぎれて男はすぐに見えなくなってしまった。劇場の入り口にいるスタッフに、さっき通った太った男を知らないかと聞くと「いちいち客のことは覚えてられないよ。それに、覚えていたとしても他の客のことは教えられない」と言われた。

人に質問をして、答えがすんなり返ってこなくてもあきらめないのがダナだった。

その日の夜、部屋に帰ったダナはニコラスに映画館で出会った太った男の話をした。

「それなら、外交官だろう。自分の国と相手の国の時間をつねに知ってなきゃいけないからな」とニコラスは言った。ドッグがダナの足元に近づいてきて「そうだ」と言わんばかりにうなずいた。「ドッグ」はニコラスが連れてきた犬の呼び名で、ニコラスは名前もつけずにただ「ドッグ」とだけ呼んでいるのでダナもそう呼んでいる。ダナが生まれたときは子犬だったドッグも今や老犬だ。「”ガイコウカン”はみんな時計をいくつもつけてるものなの? それともいつものニコラスの”推測”ってやつ?」ダナはドッグの頭をなでている。「実のところ外交官の知り合いはいないし会ったこともない。だから推測だと言わざるをえないな」「なんだ、”推測”なら”確度”は低いね。ちゃんと確かめないといけない」「それもいいけど、あまり他の客の迷惑になるようなことはやるんじゃないぞ、ダナ」「オッケーだよニコラス。そうだ、ニコラスはコーヒーと紅茶どっちが好き?」「なんだ、淹れてくれるのか?気が利くじゃないか。紅茶がいいな」「ううん、これはただの質問。ただ気になって聞いてみただけ」ニコラスはあきれた顔をした。その日のうちにダナは”ガイコウカン”の意味を辞書で調べた。

それからダナはあの太った男にもう一度会うために毎日船内を歩き回った。ダナは頭の中で計算をすることが好きだったので、どれだけの速さで何時間歩けば船内を一周できるのか常に考えながら歩いた。エレベーターに乗る時にかかる時間を計算するために船の高さを知る必要があったので、甲板長に聞いて船の全体図を見せてもらったりもしたこともある。

ダナはあの太った男が映画好きなのかもしれないと考えて、映画の上映時間が終わって人が出てくるのを見張ったりもした。しかし男にはなかなか会うことができなかった。男はほんとうに外交官で、外交官というのはあまり船の中を出歩かないのかもしれないとダナは思った。男を探すことに飽きはじめたある日の夜、ダナはデッキに出て腕を手すりに預け星を眺めていた。「やあ」と後ろから大人の男の声がしてダナのとなりに並んだ。ダナは、星の並びを見ながらどうしてそういう並びになっているのかについて考えていたので「やあ」とだけ返事をして顔を動かさずに空を見上げつづけた。「この前腕時計を拾ってくれた子だよね」と男が言った。ダナは星を見るのをやめて男の顔を見た。あの太った男だった。男の腕を見ると腕時計が三つ着いている。この偶然を逃すわけにはいかない。ここで質問に失敗すればもう永遠に答えは聞けない気がした。「あなたの職業は外交官ですか?」とダナは聞いた。「いいや、外交官ではないよ」質問に失敗したとダナは思った。男は目線を上に上げて何かを考えているようだ。「そうだ、思い出した。君はぼくが腕時計をたくさん持っている理由を知りたがっていたんだったね」男は声を出さずに笑った顔をした。「君の予想は少しだけ当たっている。時計を三つも着けているのは色んな国の時間を知る必要があるからだと君は考えているんだろう、それは合っている。でも外交官ではない」もう一度だけ質問のチャンスがありそうだった。ダナは質問を考える時間稼ぎのために星を見るふりをして空を見上げた。空には月が浮かんでいる。男もダナと同じように空を見上げた。「偶然だな。一つはあそこの時間だよ」男は月を指差して言った。

「月の時間?」思いがけず答えに近づいているような気がしてダナの声は大きくなっていた。

「そう、月の時間だ。もっといえば月で働いている人たちが使っている時間だ」男は一番肘に近い腕時計の文字盤をダナに見せた。

「月で働くってどういうこと?」ダナは宇宙についてよく知らなかった。オンラインの授業で宇宙のことを習ったことはあったが、それは別の世界の物語のようなものだと思っていて、宇宙が実際に行ける場所だとは考えていなかった。

「月には月面基地もあるし人工衛星もあるんだ。そこで人がたくさん働いてる。もうすぐすれば、もっとたくさんの人が月に行くだろう」ダナには言葉の意味はよく分からなかったが、空の上に浮かんでいる月には人がいるらしいことだけは分かった。だけど

「今度双眼鏡で見てみる」とダナは言った。

「双眼鏡じゃ見られないね。月はずっと遠いんだ」それを聞いてダナは少しがっかりした。「そういえばその時計、イギリスの時間と同じだね」とダナは言った。今この船はアメリカ大陸へ向けて大西洋を横断している。タイムゾーンを横切れば船の中で使う時間も変わる。ダナは時間が切り替わることには慣れていて、タイムゾーンごとの時刻もよく分かっていた。「イギリスの時間と同じなのには理由がある。宇宙で活動する人たちはロンドンにあるグリニッジ天文台と同じ時間を使うことになってるんだ。でもそろそろ、月専用の時計を使おうって話も出てるみたいだけどね」男がすらすらものごとを教えてくれるので、この男がはじめは時計について教えてくれなかったことが単なる意地悪だったのではないかとダナは思いはじめた。

「あとの二つの時計はフロリダと、この船がいるところの時間だよ」男は左腕につけている腕時計を順番に指差しながら言った。「フロリダってどこ?」「アメリカの東海岸さ。ぼくがよく働いているところだね。君はどこの国から来たんだい?」

「この船で生まれて、ずっとこの船に住んでるよ。それに船から降りたこともないんだ」

それを聞いた男は、気まずそうな顔をして少し黙った。こういうことはダナにとっては慣れっこだった。

「えーっと、そんなことありえるんだね。船を降りたいとは思わないの?」「うーん、分かんない。双眼鏡で覗けるし、インターネットで調べれば街の中も見えるよ」とダナは言った。男はいまだ何と言えばいいのか分からないという顔をしていた。

男は何かを思い出したかのように「そうだ、部屋に戻らなくちゃいけないんだった。もしよかったらだけど、この時計を君にあげるよ」男は月の時間の時計をダナの目の前に差し出した。船を降りたことがないことを男が憐れんでいるのではないかとダナは疑って、気分がよくはなかった。しかし、受け取らないのも男が得をするようで腹が立つので、その手ひらから時計を受け取った。「じゃあね、またどこかで」と言って男は立ち去った。男が行ってしまうと、憎たらしい気持ちはどこかへと消えて、もっと男から色んなことを聞いてみたかったという名残惜しい気持ちにダナはなった。それからダナはしばらく月を見上げていた。双眼鏡でも見ることのできない景色が宇宙にはある。ダナはふと、月に行ってみたいと思った。さらに火星や金星、木星にも行けるんじゃないかと思った。そして、どうして男がいくつも腕時計をつけていたのか、男の職業は何だったのか、それを聞くのを忘れていたことに気がついた。しかしダナが男に会うことはそれ以降なかった。ダナはその日、貰った腕時計を大切に引き出しにしまい、寝る前に宇宙船のことを調べ、自分が宇宙船に乗って旅をするのを想像しながら眠った。想像の中のダナの左手には、もらった月の時間を示す腕時計がつけられていた。

その日からダナが船の中を歩き回る時間が減っていった。そのかわりに本を読んだりインターネットで調べる時間が増えた。宇宙について知るためだった。

ダナはときどき、顔も覚えていない母と父がどうしていなくなったのかを考えることがある。生まれたばかりの自分を船に置いてどこかへと行ってしまうなんて、なんともおかしな話だと思った。母と父が船から降りてどこかへ行くのを想像してみても、想像できないことにダナは気がついた。なぜならダナ自身が船から降りたことがないからだった。宇宙へ行くためにはまず船を降りる必要がある。

船の上で雨が降ることは地上とは少し違う。上から小さい水滴が降ってきて、大きな水溜まりの中に着地する。風が強ければ波が荒れ、船に揺れが伝わる。ダナが乗っているプライム・タイム・オブ・ザ・シーズ号は、高性能なスタビライザーによって揺れが抑えられているので、揺れのせいでグラスの中の飲み物がこぼれるようなことは数年に一度しかおこらない。それに、今降っている雨はいつにもまして穏やかであった。船は南アメリカ大陸と南極大陸との間を航行していて、ちょうど南大西洋から南太平洋へと切り替わるような場所だった。

今日、ダナは朝から客室の中を行ったり来たりしていた。ソファに飛び乗ったり飛び降りたり、本を開いたり閉じたりしてずっとそんな調子だった。そしてダナは閃いたかのように客室を出てカジノへと向かった。カジノに入るとき、ダナはカジノの中を指差しながら入り口にいる警備員に向かって「15分」と言った。

子供はカジノには入れないことになっていたが、ダナはカジノのディーラーやスタッフと仲良くなっていたので短時間遊ぶことはしぶしぶ見逃されていた。カジノで遊ぶためには金をチャージするためのカードが必要だ。ダナは普段はニコラスからカジノ用のカードを借りていたが今日は違った。あの日ダナの母親が100万ドルを手にしたときに使っていたカードが部屋の衣装箱にしまってあり、今日、ダナはそのカードを持ち出していた。ダナが向かう先にはダナの母親が遊んだまさにあのルーレットマシンがあった。ダナが生まれた日に母親が50万ドルを無謀に賭けたことをダナは知らない。それなのにも関わらず、ダナは偶然にも、母親が遊んだのと同じルーレットマシンにカードを差し込み、そして母親が稼ぎ出したその全額100万ドルを同じように黒に賭けていた。機械からボールが射出されてルーレットの円周をぐるぐると回る。ダナはこのルーレットの結果に、とある決心を賭けていた。ダナが欲しかったのは200万ドルという金額ではなく、自分を後押ししてくれる運命的ないきおいだった。ダナは固唾を飲んでボールの行く末を見つめた。赤に入りそうだったり黒に入りそうだったりを繰り返して、やがて、ボールは見事黒のポケットに入った。ダナは二倍の200万ドルが入ったカードを機械から引っこ抜くことも忘れ、ガッツポーズをしながら走ってカジノを飛び出し、ニコラスとフランがいる客室へと向かった。ダナは客室扉を開けるとニコラスとフランに向かってこう言った。「宇宙飛行士になる。大学に通わなきゃいけないんだ。だから陸に降りて学校に通うよ」ダナがカジノでルーレットをしたのはこのことを言い出すことが不安だったからだ。ルーレットで黒に賭け、あたったらニコラスとフランにこの話を打ち明ける。ダナはそう決めていた。

「いいんじゃない」とフランは言った。ニコラスは内心では驚いていたのだが、紅茶をカップに注いでいる途中だったので、慌ててこぼさないようにまずはお茶を注ぎおえた。そしてカップに口をつけながら「そうか、よく分からないが応援しよう」と言った。ドッグは顔をダナのほうに向けもせず、片耳をあげて話だけを聞いていた。ダナの顔中に笑顔が広がった。そして、200万ドルが入ったカジノのカードを取り忘れていたことに気がついてダナは慌ててカジノへと走っていった。

それからの話は早かった。ニコラスはイギリスのロンドンにいる妹に電話をかけてダナの面倒を見るように頼んだ。イギリスに入港するタイミングで通学しはじめられるように、学校にも連絡して入学の手続きをした。ダナがいつ戻ってきてもいいように、ダナの客室はそのまま残されることになった。

ダナが船を降りるという話はすぐに船内に広まった。船員たちが話すその話題は、船のデッキで一休みする移動中の海鳥やエンジンルームのすみにまぎれこんだ羽虫も聞くほどだった。

船がゆっくりと太平洋を渡って、さらにゆっくりとインド洋を渡りイギリスに北上するまでにたっぷり半年がかかった。その間、ダナは待ちきれない気持ちと、船の生活を離れる名残惜しい気持ちの両方でいっぱいだった。

ダナが船を降りる一週間前、船の行き先を決めるための投票があった。もはや自分の行き先にはならない投票だったが、ダナは最後の記念として、北極の流氷が見られるコースに投票した。

ダナが船を降りる日は、何か特別なことが起こるわけでもなかった。ダナはニコラスとフランと鹿の彫刻とドッグにそれぞれお別れのあいさつを言った。タラップへ向かうときにすれ違う船員たちにも手を振った。

はじめて船を降り、その足ではじめて大地を踏みしめると、揺れることがないだけでほとんど船の上と同じだな、とダナは思った。ダナは、大地というのは、とてつもなく硬いものかと想像していたのだ。

*

「今や人類は、その活動の範囲を月だけではなく火星にも広げようとしていた」宇宙飛行士のイシタは公的な文章でそのような表現を使うのを止めた。宇宙における活動が人類全員の総意であるかのように受け取られてしまうのではないか、という指摘があって「今や人類は」という部分を「今や国際宇宙局では」という文言に変更することにしたからだ。

この数十年で月面基地の中にはいろいろなものが増えた。六千人が暮らす居住区、地球と月とを行き来する宇宙船のターミナル、病院、地球上の大学や民間企業が出資した300を超える数の実験施設、LED照明を使った植物農場、水や廃棄物を再利用するための化学施設、その他月面とは思えないようなほどたくさんの細々とした施設があった。

今、月軌道宇宙港を出発した火星行きの宇宙船バキユーラ号には八人の宇宙飛行士が乗っている。火星基地建設プロジェクト発足直後、七人でもなく九人でもなくきっかり八人なのには理由があると、のちに船長となるイシタは予算審議委員会で発言した。

「七人では動かせる手の数が少なく、九人では船内が狭くなるからであります」

会議に参加した何人かのメンバーはその発言を聞いてこらえきれずに笑い出してしまった。船の設計もはじまっていない段階で、九人という数字には何の根拠もなく、イシタの発言はほとんど意味の分からないものだった。それなのにもかかわらずイシタがそんなことを言ったのは、できるかぎりプロジェクトの予算を確保するためだった。宇宙飛行士一人につき予算の額は大きく増える。いざとなれば宇宙飛行士を減らして宇宙船の製造などに予算を回すことが可能なため、予算を決める段階においては宇宙飛行士の数を多めに申告しておくことにこしたことはなかった。しかし予算審議委員会で予算の見積もりを報告することを任されたイシタは、建前の理由をつけるということがとてつもなく下手な人間だったのだ。本来は宇宙飛行士のイシタだったが、この時ばかりはなぜか政治的な役回りを任されていた。イシタはその実直な真面目さを評価されていたが、そのせいで滑稽な振る舞いになることがしばしばであった。しかしどういうわけか、この予算審議委員会でもその実直さが好印象を招いたのか、イシタが希望した額の予算がつくことになった。

八人という人数は建前の人数だったわけだが、実際の宇宙船にも八人が乗ることになった。イシタはプロジェクトへの深い理解を認められて、船長として着任した。バキユーラ号のミッションがうまくいけば、火星での基地建設が大きく前進する予定だった。

今、バキユーラ号のイオンエンジンによる船の加速が止まった。数週間に渡って発生し続けていた船の後方への重力が消え去り、船員たちは再び無重力へと体を任せた。

「あとは火星までまっすぐですね」と操縦室でジェイコブが言った。まっすぐというのは正確な言い方ではない。今火星がいるところにまっすぐ向かおうとすると、船が着くころにはそこには何もない宇宙があるだけだ。火星に到着するためには、太陽を回る火星の公転を予測して、未来の火星がいるところに向かって直進しなければいけない。火星は宇宙の中を高速で移動している。火星に到着する日の予測が一日でもずれれば、宇宙船は宇宙の中に置き去りにされてしまうだろう。

「順調にいってるのは喜ばしいのですが、今まであれほど不便だった後ろ側の重力がなくなってみると、急に”移動中って退屈”って気分になってきました」管制室へ報告を終えたミンミンがおどけた口調で言った。「ミッションの最中によくそんなことを考えられますね。まだやることがたくさんありますよ」とジェイコブが言う。「等速直線運動は退屈なんですよ。宇宙飛行士なんて、ずっとアクセル踏んでるような人たちがなるものでしょ」「アクセル踏みっぱなしだと火星にぶつかりますよ、ミンミン。大事なのは加速ではなく正確な制御です」船長のイシタはミンミンとジェイコブの横でそのやりとりを笑顔で聞いている。

バキユーラ号は、一本の円柱とそれを取り囲むリングで構成された形をしている。円柱の底にはエンジンがあり、その隣には火星基地を建設するための建材が詰め込まれた貨物室がある。円柱のてっぺんは操縦室になっていて、円柱の中ほどがクルーのためのの居住区となっている。リング部分は数百本のワイヤーと一本の細長い回廊によって円柱と接続されている。リングを回転させることによって遠心力を発生させ、仮想の重力を生み出すことができる。火星までの旅行では長い期間の無重力状態によって乗組員の筋力の低下がおこる。火星に到着してはじめにやることがリハビリのための筋トレとなってしまうのを避けるため、クルーには重力下でのトレーニングが毎日義務付けられている。だから宇宙船にはカジノもプールもレストランもないがフィットネスルームだけはある。リングにはそのほかに、重力下でしか使用することができない実験機器や道具が搭載されている。リングの回転によって生まれる船体への反作用トルクを打ち消すために、小さい推進エンジンがついていて、いつも青い光を放っていた。

ダナが居住区の自室でおもしろいともつまらないとも言いがたい中途半端な映画を観ていると、船内スピーカーからイシタの声が聞こえてきた。

「ダナ、そろそろシフトの時間です。操縦室まできてミンミンと交代してください」ダナは映画を止め、操縦室に向かった。

ダナが豪華客船を降りて30年、宇宙飛行士になって5年が経っていた。ダナはあれからニコラスに用意してもらったロンドンの部屋で暮らしはじめ、慣れない地上での生活に苦労しながらも宇宙飛行士になるために熱心に勉強をした。学校の授業は退屈だったが、退屈な映画を観ているのだと思うことにしてやり過ごした。はじめは船で生まれ育ったということもあって珍しい目で見られていたが、ダナはそんな扱いをされることにもじきに慣れていった。大学を卒業したダナはイギリス宇宙局で働きながらも、宇宙飛行士になることを長い間狙っていた。世界中で宇宙開発が活発になり、どんどん宇宙飛行士が増えている時期だった。ダナは30歳のときにようやく宇宙飛行士の試験に合格し、それから4年の訓練期間を経て晴れて宇宙飛行士になることができたのだった。ダナは豪華客船で生まれた宇宙飛行士として話題になった。ダナの左手には、今でも太った男にあの日もらった時計がつけられている。それに加えてダナの船内服にはお守りのための鹿のワッペンが付いていた。

「船長、コーヒーと紅茶だったらどっちが好きですか」とダナは聞いた。「紅茶ですね。コーヒーは飲みません。どうしたんですか、私に持ってきてくれたんですか?」「いえ、気になっただけです。船長はどっちが好きなのかなって」イシタはあきれた顔をした。「冗談ですよ。はい」ダナは持ってきた二つのパウチ飲料を船長に見せた。「あれ、でもこれ、パッケージのラベルが剥がれていますよ、どっちがどっちだか分からない」ダナも自分の手の中のパウチ飲料を見た。「ほんとだ。両方剥がれてますね。運が悪いな」

すると、操縦室に突然警告音が鳴った。船体に何かが衝突したことを告げている。微小の隕石であれば船体の装甲板は耐えられるようになっているが、もしもある程度の大きさを持つ隕石があたれば船には穴が空いてしまう。

「管制室、船体に何かが衝突しました」とイシタは言った。操縦室の様子は常にカメラとマイクを通して月面基地にある管制室へと送られている。しかし月を離れて火星へと向かっているこの船からは距離がありすぎて、返答がくるまでに4分はかかってしまう。ダナは計器類や船外カメラをチェックして船体に損傷がないかを確かめた。船外カメラを巻き戻してスロー再生をしてみると、船の後ろで破片のようなものが飛び散るのが見えた。「イシタ船長、真後ろからやられてます。カメラからだと見えないですが、エンジンに当たったかもしれない」

イシタはボタンを押して船内に呼びかけた。「クルーへ、隕石がエンジンに衝突したかもしれない。カメラからだと損傷が確認できない。ミンミン、シフトが終わったところ申し訳ないですが、EVA―船外活動―でエンジンが無事かどうか確かめてきてもらえませんか。今からだとあなたが一番早くエアロックに行けると思います。ダナがアームでサポートします」スピーカーからは「了解です」と返答があった。船は高速で火星に向かっているが、加速度はゼロで宇宙には空気がない。今のこの船でEVAをするということは、何もない宇宙空間においては止まっている宇宙船でEVAをするのと変わりのない安全なものだった。

ミンミンは宇宙服を着て、エアロックから船外に出ると、ロボットアームに足を固定させた。ダナは操縦桿を握ってロボットアームを船の後ろ側にまわした。宇宙服の無線を通じて音声からミンミンの声が船内に聞こえる。

「船長、エンジン自体は無事です。ただ、冷却システムがあるところに穴が二つあいている。多分船体で一回跳ねて、もう一回当たったんだと思います。液体アンモニアが少しだけ漏れ出してます。すぐに問題にはならないと思いますが、急いで修理が必要ですよ」

ミンミンの宇宙服のカメラから送られてくる映像では、たしかに船体の壁に穴が二つあいているのが見える。計器によれば船内の密閉は保たれているため、それについては不幸中の幸いだった。

「穴の距離が少し離れてますね。二人で作業したほうが早く修理できるでしょう。ダナ、あなたはロボットアームを二本同時に操作できますか?」「できません、船長」とダナは苦笑いで答えた。船長は緊迫しているこの場の空気をやわらげようと冗談を言ったのだとダナには分かった。しかしいつにもまして分かりづらい冗談だったし、それどころではないとダナは思った。「ミンミン、船体を溶接して塞ぎます。ダナ、一旦ミンミンをエアロックまで戻してください」とイシタは言った。イシタは続けて船内に呼びかける。「ジェイコブ、アルベルト、ウェイ、今の会話は聞いていましたか」「聞こえてます、船長」とジェイコブとアルベルト、ウェイが順に返事をする。「ミンミンとジェイコブにEVAで船体を修理してもらいます。アルベルトはアームでジェイコブを支援してください。ウェイはもう一本のアームで装甲板を二人の手元に運んでください」

ダナはミンミンをエアロックに戻した。ジェイコブが宇宙服に着替えている間、アルベルトとウェイが装甲板とアーク溶接用のケーブルをエアロック内に運び込んで溶接の準備をした。

五人がかりの修理作業がはじまった。ミンミンとジェイコブの足を固定した二本のロボットアームをぶつからないように船の後方まで伸ばし、さらにもう一本のロボットアームで装甲板を二人の元へ運ぶ。ロボットアームの操作については三人とも習熟していたので、なんの危なげもなく作業は進んだ。

穴が半分ほど塞がろうとしていたとき、突然画面の中のロボットアームが弾け飛んだ。何が起きたのかすぐには分からず船員たちは一瞬動きが止まった。しかし船長だけはすぐに反応していた。「管制室、EVA作業中にロボットアームに何かが衝突、アームが破損してEVA中だったミンミン、ジェイコブ、二名が船外へと投げ出されました」

信じられないほど不運なことに小さい隕石が再び船体に直撃し、ロボットアームを破壊したのだった。「ミンミン、ジェイコブ、反応してください」と船長は大声を出した。船外カメラを見ると船の後方で白い宇宙服が二つ固まっているのが見えた。ミンミンとジェイコブの宇宙服から送られてくる映像からは、二人が高速できりもみ状態で回転しているのが分かった。少しの間、スピーカーからはミンミンの荒い息遣いが聞こえるだけだったが、数秒ほど経つとミンミンから焦った声で返答があった。「こちら、ミンミン。船体から吹き飛ばされました。運良くジェイコブの足をキャッチして一緒にいます。体が回転してる! すごい勢いで船から離れています」

「ジェイコブ、聴こえますか? ミンミンと離れないでください」待ってもジェイコブから返答はなかった。おそらく気絶しているのかもしれなかった。ミンミンとジェイコブは今やどんどん船から遠ざかっていく。

休憩時間で休んでいたはずの残りの船員も、騒ぎに気付いて操縦室のまわりへと集まってきた。

「船長、エンジンを逆噴射させて二人に近づきましょう」とアルベルトが言った。

「軌道計算が狂って火星に辿り着けなくなります。宇宙の中で全員迷子になりますよ」とイシタは冷静に言った。

「そんな、見捨てるんですか? この船の速さに比べたら二人の速さなんてたいしたことないんだ。船の速度を少し落とすだけで彼らに追いつけるんですよ。船を後ろに戻すわけじゃない、少し減速させるだけです」

「冷却室の外壁が損傷している以上、エンジンをつけたらどうなるのか予測ができません。別の方法が必要です」

イシタとアルベルトが言い争っているあいだ、ダナはさっきイシタに渡しそびれた二つのパウチ飲料をしげしげと眺めていた。ラベルがついていないのでやはりどちらがコーヒーでどちらが紅茶なのか分からない。ダナは覚悟を決めると、片方の蓋を開けて口をつけて一気に飲み干した。ダナが飲んだのは紅茶(ブラックティー)の方だった。たとえダナがコーヒーの方を飲んだのだとしても、ダナはそれをブラック・コーヒーだと思ったことだろう。ダナにとっては、とにかく二つのうちのどちらかに賭けて黒(ブラック)が出るということが必要だった。ダナには船を飛び出す勇気が必要だった。ダナが豪華客船を飛び出すことを決めたときもそうしたのだから。

ダナは操縦室を後にして、宇宙服がある船室へと向かった。

「ダナ、何をしているのですか」とイシタがスピーカーを通して言った。「有人操縦ユニットを使えば二人に追いつけます。可能かどうか計算してください。すぐに飛び出せるように船外で待機します」とダナは言った。イシタは少し黙って答えた。「分かりました。私の許可が出るまでは待機してください」

ダナはエアロックで有人操縦ユニットを装着した。イシタの操作のもとエアロックが開くと、ダナは船外に出た。しかしダナは待機するのではなく有人操縦ユニットを操作して推進剤を噴射するとミンミンとジェイコブがいる方へと向かった。宇宙服の無線からイシタの声が聞こえる「ダナ、ただちに推進を止めてください。まだ計算が終わっていません。クルーを三人失うわけにはいかない」「計算が終わるのを待つことはできません、船長。それに、距離と速度の計算なら得意なんです、任せてください。絶対に追いついてみせる」宇宙空間の中を高速で進む二人へ追いつくために、ダナは有人操縦ユニットの推進剤を大量に噴射した。

いまだ回転し続けているミンミンが言った。「ダナ、今すぐ船に戻って。今なら戻れる。あなたのミッションは火星にある。ここで命を落とさないで。船体も直す必要があるし、三人いなくなったらミッションが成り立ちませんよ」

「ミンミン、大丈夫。推進剤はたくさん積んである。それよりもジェイコブを離さないで」

ダナは船内カメラで二人が離れていくのを見たときに、画面の中の白い宇宙服のピクセルが小さくなって行く速度から二人の移動速度を推定していた。ダナが二人を助けるためには、まず二人に追いついて、二人をつかんで逆方向に推進剤を噴射して船まで戻らなければいけなかった。速度のあるものが逆方向に向きを変えるためには途中で減速をする必要がある。理想的にはその減速から再加速までをなめらかに行い、最小限の移動距離と時間で船まで戻るのが望ましい。ダナは何もない宇宙の中をただただまっすぐ進んだ。ダナが戻らないことをあきらめたイシタは、ダナが二人のもとにたどりつけるように方向をナビゲートした。

数十分かけて進み続けると、ようやくダナの目に二人の姿が見えてきた。宇宙空間には空気がないので、地球上で物を見るときのような遠近感が弱い。気がつけば二人の姿形はどんどん大きくなっていた。ついにダナは二人をキャッチする。しかし二人の回転に引きずられて、ダナの体も巻き込まれてしまう。パニックにならないようダナは冷静さを保ちながら推進剤をこまめに噴射して回転を止める。宇宙の中では方向の目印が少ないが、輝き続ける太陽が目印として役にたった。

「イシタ船長、ミンミンとジェイコブをキャッチしました」

「ダナ、ありがとう。だけどダナ……」

「知っています、船長。残りの推進剤では加速が足りず三人では船に戻ることができない」

ミンミンが悲痛な顔をしているのが宇宙服のシールド越しに見えた。船の中の船員たちが同じような顔をしているのがダナには想像できた。

「でも、二人ならば戻れます」ダナの言葉にミンミンが驚いた顔をした。「二人だとしても船までの距離がまだまだ足りないけど、船からもう一人がEVAで迎えに来てもらえればぎりぎり間に合います」

「だけどダナ、後の一人はどうするの」通信に乗ったイシタの苦しい声が聞こえてくる。

「ぼくが残ります。有人操縦ユニットはミンミンに預ける」ダナはそう言って有人操縦ユニットの装着を外しはじめた。

「ダナ、どうしてあなたを宇宙に置き去りにしなきゃいけないの」とミンミンは言った。それでもダナは着脱を止めない。

「ミンミン、実のところ船を飛び出したときにこうなることは分かってたんだ。二人を助けられるかどうかは一か八かだった。でも今なんとかぎりぎり間に合うことができたんだ」ミンミンの顔は何かを覚悟するように徐々に歪んでいた。ダナの声の中にはもう動かせない覚悟のようなものが聞こえたからだ。

「ぼくは豪華客船で生まれて、ずっと船の上で暮らしていた。ぼくが乗っていた船は少し変な船で、行き先を船の乗客が投票で決めるんだ。ぼくが投票した場所に行くことは一回もなかった。ぼくの趣味が悪かったのかもしれない。何も知らない子供だったからね。そしてそれから、勇気を出して船から降りてみたんだ。陸で暮らしはじめてしばらくするとあることに気がついた。大地だって、地球という大きな乗り物の一部だったんだ。地球の行き先は誰の投票もないけれど、ずっと太陽の周りを回ってる。ぼくがさっき船を降りて君たちを助けようとしたとき、本当に全ての船から降りられると思ったんだ。これはぼくが決めた、ぼくだけの航路なんだ。ぼくは満足してるよ」

ダナはそう言ってミンミンに有人機動ユニットを押しつけると、ミンミンとジェイコブが無事に宇宙船へたどり着くことを祈って、せめてもの推力にと二人を蹴った。ダナは蹴った反作用によって二人から離れ、宇宙空間の闇の中に消えていった。船にいたイシタは通信を使ってダナに呼びかけ続けていたが、やがて、通信は途切れてイシタの声はダナに届かなくなった。

*

二年後、火星基地建設ミッションを終えた宇宙飛行士たちが月面基地へ帰還して一ヶ月が経ち、ダナの追悼式が行われることになった。船長であるイシタをはじめ、バキユーラ号に乗っていた宇宙飛行士はダナをのぞいて全員が無事に帰還していた。ダナが事故によって亡くなったことはミッションが終了するまでの間は伏せられており、親族であるニコラスとフランでさえも知ることはなかった。ニコラスとフランはあのあともいろいろな豪華客船を乗り継ぎながらも海の生活を続けており、遠くからダナの活躍を応援し続けていた。ダナの訃報を知ったとき、ニコラスとフランは大いに悲しんだ。ダナの母親がダナのために作った鹿の彫刻はニコラスが預かっていて、船を移り変わっても大切に客室に飾っていた。

 

ダナの追悼式の日、会場に到着したイシタが自分の席へ向かうとき、知っている老人がいることに気がついて話しかけた。

「ホックニーさん、お久しぶりです」

「イシタ、久しぶりだね」

「宇宙飛行士を引退したのにまだそれやってるんですか?」イシタは老人の左手を指差した。「ああ、癖になってしまっていてね。死ぬまで外さないだろうね」

「そういえば、まさかホックニーさんもダナと面識があったんですね。ダナが宇宙飛行士になった時にはホックニーさんはもう引退してたから知り合う機会はないと思ってたんですが」

「ああ、彼が豪華客船に乗っていたころ、一度だけ会ったことがあるんだ」その老人の左手には腕時計が三つ輝いていた。

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