もつれ地獄縁起のフォトグラム

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梗 概

もつれ地獄縁起のフォトグラム

追跡者ヘル・チェイサー”は、日本中の山々を旅し、時折現れる地獄の亡者を撮影し、生計をたてる写真家たちのことだ。
“地獄”というのは、日本で有史以前から見られる現象である。時折、日本のどこかの山脈が死出の山と重なると、罪にあえぐ亡者の姿を数分の間だけ顕現させる。
この地獄については、多くの仏典によって解釈が行われてきたものの、近年までは不明瞭なままだった。
だが、一昔前と異なり、映像技術の飛躍的向上によって、地獄の解像度は遥かに上がり、現代では亡者の顔が判別できるほどに鮮明になってしまった。
更に、地獄と現世は時間軸にズレがある。そのため、罪を犯す前の亡者の姿も現れることがある。
故に、追跡者が上げる写真は犯罪捜査に利用され、たとえ罪を犯して無くても犯罪者同然の扱いをうける。同時に人々は、今日も自分の姿がないことに安堵する。現代技術は、生きる人々と地獄との距離を、歪んだ形で狭めてしまった。

ナラカは、子供の頃、暴力を振るう両親から、妹を置き去りにして逃げ、今では追跡者として生計を立てている。
十代の頃、ナラカは自分と同じ亡者の姿をみた。その地獄は、肉親を殺すと必ず墜ちる阿鼻地獄。地獄の沙汰は絶対だ。いつか自分を捨てた家族を殺すことになるその運命を、彼女は受け入れていた。
だがある日、山で撮影を続けるナラカのもとに、記者だという恵那という女性が取材にやってくる。ナラカと瓜二つの恵那は、ナラカの妹だった。
ナラカは戸惑う。昔に見たあの亡者の姿は、自分でなく、実は恵那であったのであろうかと。

追跡者たちは、地獄の瘴気で身体が少しずつ獣に異化している。ナラカも既に過去の面影がなく、恵那はナラカを肉親だとは気づかない。
ナラカは幼い恵那をあの家庭に置き去りにした過去を、ずっと引け目に感じていた。しかし、恵那はナラカに付き添い、次第に親密になっていく。
更に恵那から、すでに両親が亡くなったと言われる。親族は恵那だけ、つまりナラカが先に恵那を殺さねば、恵那があの地獄に墜ちるということだ。
だがナラカは恵那を手にかけることはできない。しかし、恵那を殺さねば、いつかナラカは恵那に殺され、彼女を地獄行きにしてしまう。ナラカは苦悶し続ける。

「ナラカさん、ここから飛び降りて」
取材の最終日、山頂で、恵那はナラカを崖から自殺するよう強要する。自殺者の逝く先は黒縄地獄。こうすれば、恵那はナラカだけを地獄に堕とせると考えたのだ。
理由を問うと、ナラカが昔撮影した亡者の写真に恵那の夫がおり、その写真によって彼は犯罪者扱いされ、ふたりの生活が破壊された、その復讐だと話す。
緊迫した空気の中、突如頭上に巨大な阿鼻地獄が現れる。嵐が起こり、ふたりとも崖から振り落とされる。
山林の茂みに転がり落ちるが、ナラカも恵那も絶命寸前。すると、山頂から地獄がゆっくりと這い寄り、恵那を包み込もうとする。地獄は、恵那が殺したと判じようとしているのだ。
恵那を守るため、ナラカは決意し恵那を殺す。
すると地獄が恵那から離れ、ナラカの方に這い寄ってくる、ナラカは死ぬ間際に安堵する。今度はちゃんと、妹を地獄から救えたのだ。

文字数:1288

内容に関するアピール

今回のお題について、究極の生まれ育った場所から離れる行為は、死後の世界に旅立つことと思いました。そこで、地獄をテーマとし、定められた罪があることを前提として、生きている世界を離れる方法である、『死にかた』を中心に据えて物語を動かそうと思いました。
SFらしいガジェットはでてきませんが、地獄がはっきりと見える、実際とは明らかに異なる仮定を入れた世界で、人々はどのような社会を形成し、どのように行動するのか?を考えるのも、ひとつのSFの醍醐味かなと思って書きました。
 実作では、実際に文献として存在するさまざまな地獄を踏襲しつつ物語沿うように解釈し直し、ふたりの姉妹の内、どちらが地獄に旅立つのか、最後までわからないようバランスをとりながら、作品を書いていきたいと考えています。

文字数:337

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もつれ地獄のフォトグラム

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# 0
 ナラカは子供の頃から、災害を見るのが大好きだった。
 台風のニュースや地震や知らない国の戦争の様子、なぜだかそういう”何かが破壊されている状況”にたまらなく興奮する奇妙な少女、それが彼女の生来のさがだった。
 次第に母親は彼女の事を気持ち悪がり、そうした動画はできるだけ見せないようにしたが、それでも密かに見続けた。
 東南アジアを襲うハリケーン、津波が押し寄せる街の風景、密林を覆う山火事から避難する人々の様子、普通の感性なら目を覆いたくなるような動画を興味津々で見続ける幼少期を過ごした。
 勿論、あの、地獄の光景を捉えた山々の写真も。
 たまに外出を許されたときには、執拗に図書館や本屋を回り、著名な画家の描いた地獄絵や、歴代の写真家たちが捉えた地獄の写真を見て回った。
 彼女にとって、地獄は極上のエンターテイメント、押し込まれた欲求を開放する、一種の娯楽ポルノとして消費し続けた。
 そんなナラカを母は気味悪がり、疎い、囲い、次第に束縛するようになった。そうした見るものの自由すら得られない生活に限界を感じた中学の時、ついにナラカは、家を飛び出し、”追跡者ヘル・チェイサー”となった。
 この世に現れる、本物の地獄を捉えるために。

# 1
 3月2日、時刻は明朝午前4時。朧雲おぼろぐもが空を巻き取るように積み重なっている。雨の気配はなく、稜線から顕になる太陽から伸びると、朝霧によって迎え入れられた日暈ひがさが、綺麗な光の輪を象り山嶺を彩色する。山頂から見える景色は、神々しさすら感じる、見事な情景だった。
 だが、山の頂に集まる人々が構えるカメラは、空の景色に向けられず、シャッターが切られる音すら生じさせてはいない。指をボタンにかけたまま、何時間も微動だにしないでいる。まるで、野生動物でも相手取っているかのように。
 しかし、かれらが相手取っているのは、俊敏に動く動物ではなく、数百年経っても動くことのない、広大な山々だ。
 太陽の織りなす絶景の下、自分たちが位置している山から一番近くにある、ひとつの山をもう何時間もずっと注視している。普段ならば、山脈を形成する断片でしかない、無名の山に。
 しかし、この時だけは、この山の姿は他と明らかに一線を画していた、尾根の途中に隆起した瘤のようなその山は、今だけは陰鬱な灰色のベールに包まれていて、他の山々と一線を画し、山頂は一切の祝福から見放されたかのような、不穏な膜で閉ざされていたからだ。
 そのとばりで覆われた山に最も近い、聖山の頂上から、”追跡者ヘル・チェイサー”の集団の全員がカメラのスコープを向ける。数カ月ぶりの、”地獄”の到来を、皆が今か今かと待ち構える。
 大気には果実が腐ったように甘く据えた匂いが、少し乾いた山の空気に混じって漂っている――地獄の瘴気の匂い。数日前から現れたその瘴気は、次第に濃度が高まり、あともう数刻で、地獄の本体が現れることを予告していた。
 追跡者のひとりである、ナラカも愛用のカメラを構え、瘴気が粘膜から侵入しないようにと、軍でも採用されているタイプの防毒マスクを装着し、標的を待ち構えるスナイパーのように、向かいの頂上をファインダー越しに睨む。現れるはずの、異界の光景を、今か今かと待ち構える。
 緊迫した空気の中、まるで鉄を腐らせたような血生臭さが、ナラカの歪んだ形の鼻先に触れる。同時に、目の前の山が噴火したかの如く、爆ぜた。
 山を覆う膜に一閃の切れ目が走り、暗雲が漂っていた山が、一気に赤黒い色に染まる。山の中にいるすべての動物の内臓はらわたを一度に裂いてぶちまけたような光景が、目の前に突如広がり始める。
 それとほとんど同時に、野太い声が谺した。
『出たぞ!おい、今回のは等活地獄だ』
 地獄の種類は色から判別できる。淀んだ赤ならば、地獄の第一層にある等活地獄。すなわち、殺生を犯した者共が落ちる地獄だ。
 調整器アジャストメントを手動で調節しピントを合わせると、罪人達が獄吏に刀や鈍器で寸断されて、責め苦にあっている様子が、レンズを通して伝わる。無数の亡者が乱雑に犇めき合い、無造作に凝集し、押し潰され、すぐに蘇る姿が、数分の間に幾度も繰り返される。
 実際には、厚くなった瘴気に媒介され映し出された幻でしかないにも関わらず、まるで目の前に本当に地獄が現れたかのように、悍ましい光景が繰り広げられる。何度見ても、吐き気を催したくなるほどにグロテスクな世界。
 だが、同時に、それと相反するような官能的な刺激が、ナラカの脳髄の中で擽るように湧き出てくる。その高まりが臨界に達したところで、ナラカは構えたカメラのシャッターを押す。
 瞬間、ナラカの奥深くで膨れ上がった情欲が、ぱちんと張り裂けた。

 地獄。
 その”自然現象”は、日本で有史以前から観測されてきたという。
 もっとも古く、体系的にまとまった書物として有名なものとしては、千年以上前に比叡山の僧、恵心僧都源信が撰述した、”往生要集おんじょうようしゅう”がある。その本の主たる内容としては、名の通り、念仏によって到達する極楽について説いた指南書だ。
 だが、その書物の冒頭にある、”厭離穢土おんりえど”において、源信は六道輪廻の悲惨さを説いている。
 等活、殺生の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 黒縄、偸盗の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 衆合、邪淫の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 叫嘆、飲酒の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 大叫嘆、虚言の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 炎熱、邪見の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 大炎熱、姦淫の罪を犯した者が墜ちる地獄。
 そして、地獄の最下層、無間地獄。五逆と呼ばれる最大級の罪を犯した者がたどり着くとされる、最大級の地獄。そこに堕ちた者は無限に近い年月の間、想像を絶する責め苦にあうとされる。
 無論、その罪の対応と記述がすべて事実かどうかはわからない。伝説を除いて、確実に地獄の姿を伝えた者など、この世には存在しないのだから。
 だが死んだ人間が、地獄に苦しむ人々が存在することは、誰しもが認めるところだった。特に、技術が発展した現代に置いて、その存在を疑うものなど誰もいない。
 日本の山中でどこからか突如瘴気が湧き出し、その濃度が次第に高まり最大に達した時、山中に罪にあえぐ亡者の姿が数分の間だけ映し出される。地獄がまるでホログラフィのように、生々しく目の前に地獄が像を結ぶのだ。
 その地獄を日本に住む人々は太古の昔から執拗に追いかけ続け、かれらは地獄を眺め、写し取り、芸術として昇華させてきた。
 平安時代初期に書かれたとされる最古の説話集”霊異記”には、『六道をうつした』と記された箇所が認めれ、更に高僧によるものでは最古の伝奇集、”日本高僧伝要文抄にほんこうそうでんようもんしょう”には地獄画に対する確かな記述が残っている。地獄の光景は、この国に住む人々を魅了してきたのだ。
 だが、極めて毒性が強い地獄の瘴気に、生身の人間が近づきすぎるのはあまりにも危険、同時に近づいたところで、虹や蜃気楼と同じように、何も象りはしない。故に、近代までは、数キロも離れた遠くの山から、朧気ながらに地獄を眺めるに留まっていた。
 当然、遠くから肉眼で見ても、人の顔がはっきりわかるほどではなく、一つの毛糸玉のように絡み合った亡者のひとりひとりを見分けることなど不可能だった。
 だが、平成以降、地獄の姿を鮮明に撮影する写真技術が現れ出す。大まかな地獄の光景だけでなく、遠くからでも苦しむ亡者の顔を識別可能なほどの解像度で映し出すことが可能なまでの技術が。
 加えて地獄の出現を予測する警報システムが山々に張り巡らされると、むしろ地獄を避けるのではなく、そこに商業的な価値を見出し、危険を厭わず近づいていく者共が出現した。
 ”追跡者ヘル・チェイサー”と呼ばれる者たち。かれらは地獄の景色に魅せられた写真家、または醜聞を求めてたかる蝿たちだ。
 地獄に映る地獄の亡者の姿は現代に生きる人々が最も多く、時間が過去になるほどに指数関数的に少なくなっていく。まだ生まれていない者の姿は映さない。
 追跡者はその亡者の姿を専用のカメラで撮影する。そして、罪を犯した人々の姿を切り取り、亡者をもう一度世俗に流し込む――たとえそれが、現世の時間軸では、まだ罪を犯していない人間の姿であったとしても。

 タイミングよく曙光の直下に現れた今回の地獄は、光芒をいっぱいに吸ったまま、一切吐き出さない。その光と闇のコントラストによって、目の前には超常的な光景が現れていた。
 ナラカは、その神秘的な景色を一滴たりとも逃さぬようにと、絞りを調節し、地獄のその景色を切り取る。ダイナミックさを存分に活用した構図を画角の中に描いてから、シャッターボタンを押す。
 だが、他の追跡者の装備は、もっとも焦点距離が長い超望遠レンズ。広角用のレンズを装着している者はナラカ以外には皆無。
 それでもナカラがまず最初に地獄を撮るのは、自分の矜持のためだった。醜聞を求めるパパラッチのような人間では決してなく、自分は地獄を題材にした芸術写真家であるのだと、そう思い込むためのルーティーン。
 そうして満足のいく一枚が取れたら、写真家としての自分を奥底にしまい込み、周りが使っているのと同じレンズを取り出す。素早くカメラにセットすると同時に、先程までの気持ちをすぐに切り替える。周りの商売敵に負けぬようにと、地獄の中で苦しむ亡者の顔を撮影し続ける。
 ひとりにつき三枚。それだけの枚数を取れば、その姿を一意に絞ることができ、”商品”として流通させられる。勿論、ノイズを除去し解像度を上げる画像処理は不可欠。だから、他の同業者になるだけ出し抜かれないよう、より亡者の姿を鮮明にするため、撮影した画像はすぐさま、衛星通信で地上に控えている相棒である、はかりに自動的に送信される。
 ナラカは先ほどとは打って変わって、どこまでもシステマティックに、淡々と焦点を合わせて撮り続ける。リズミカルに最小限の動作で、あくまで無感動に。先程までの写真家としての思いは捨て去り、今はただ日銭を稼ぐための行為だと割り切って。
 私の仕事は、地獄で苦しむで罪人の罪を、もう一度現世に連れ帰ること、亡者の抱えた罪ごと、”写真”という函の中に乱雑に密封してから、改めて人の目に触れさせるようにする、下世話な仕事だと。

 地獄は、あなたの罪の所在を絶対に詳らかにする。
 地獄の時間は、現世と違い恐ろしく甚大なスケールで流れる。故に、此方と彼方では、時間の流れ方に歪みが存在する。
 だから、地獄には未だ罪を犯す前の罪人の姿も、はっきりと現れてしまう。
 結果として現代において、科学、技術、文化、経済の発展が――より正確に言うならば、映像技術と、ネット経済の発達によって、地獄と現世を異常なまでに接近させた。文明の進歩が、地獄との距離を歪んだ形で狭めてしまったのだ。二十年程度のわずかな間に、過去数千年の間にはなかった形にまで。

 現れてからわずか半刻ほどして、地獄は消え去った。
 ベルトに備え付けた瘴度計の示度を見れば、極値を超え今は着実に下がり始めている。薄い大気の中、大きく深呼吸してから腰に巻き付けたドリンクホルダーからボトルを取り出し、マスクに備えてある経口用のフィルターから水を注入し飲む。薄くなったとはいえ、瘴気の濃度は閾値を下回ってはいない。だから、顔を瘴気から守るマスクはまだ外せない。
 ナラカは確実に撮影できたといえる亡者の数はユニーク数で35人。このうちどれだけ買い手がつくものかはまだわからない。
 一息ついた後、山岳用の携帯端末で相棒のはかりに連絡する。
「どう、今回は幾らぐらいになりそう?」
 一瞬のノイズが走った後、「ちょんまち……このレタッチだけ……まず終わらせてから」と雑音混じりで耳元に高い声が響く。スピーカーで会話しているのか、遠くから飼い犬の声も混じっている。議の飼っている犬は枯れたような声色だから、通信が悪い電話越しでもよくわかる。
 暫しの間、その犬の特徴的な声以外は一向に届かない。黙ったままの議に苛立って催促しようとすると、突如、端末から早口がきこえてくる。
「んー、ちょっとびみょいな。とりあえずサンプリングした感じ、著明な人物はいない。政治家や経済人、芸能人のような、醜聞に繋がるレアモノは見つかんなかった。モチロン、過去の有名人も一切なし」
 «蜘蛛の糸スパイダーズ・ウェブ»は、買い手と売り手のマッチングサイト。つまり、追跡者が捉えた亡者の写真を、蜘蛛の糸のユーザーと照合し、売買を仲介するシステムだ。醜聞を気にするような著名人ならば、売値を釣り上げる事ができるし、既に死んだ人間の姿でも、歴史に名を残す人間ならば、コレクターや歴史家に高く売れる。
 かれらは蜘蛛の糸において、二番目に重要な買い手。一回あたりの売上ならば、もっとも期待できる層だ。
「また?最近、有名人の姿、少なくない?」
「まあ、たしかにね。一昔前は、汚職した議員やクスリをやってる芸能人がわんさかいたってのに……ので、後はいつもどおり、«蜘蛛の糸スパイダーズ・ウェブ»に登録して、無名の奴と照合してからが勝負かな」
 追跡者にとって、一番層が厚い売り手は、普通の一般人だ。
 地獄がここまではっきりと見えてしまうことがわかった時、まず普通の人々が考えたのは、『自分はその地獄の中にいることになるだろうか?』だ。
 未来の自分は果たしてに墜獄すること無く、安寧の場所にたどり着けるのだろうか?
 だが、地獄に姿がないからといって、必ずしも自分が天国に行けると決まったわけじゃない。地獄はただ気まぐれに罪人の姿を見せるだけ。
 だから皆、蜘蛛の糸に自分のプロフィールを登録し、万が一、地獄にいる亡者と自分が一致した際に、蜘蛛の糸プラットフォームを通し、通知がいくように設定しておく。そうして皆、今日も自分の姿が地獄になかったことに安堵する。
 しかし、もし地獄に堕ちている写真が撮られた場合、その人は『自分が罪人だとは、せめて、誰にもバレたくない』と考えるだろう。普通の人間ならば、他人が自分の恥部を、自分が知らない間に見られ、広がってしまうことなど耐え難い。
 そこで追跡者は、そうした人々の心につけ入り、罪が露わになった者には高値で写真の売値を叩きつける。
 人々は、今日も自分の姿が地獄にあらわれなかったことに安堵し、同時に追跡者は地獄に現れた者に秘密を売りつける。そうして、需要と供給が生まれ、市場が形成されている。
 だが、追跡者たちが、危険を冒してまで地獄を執拗に求めるのには、儲かる以上の理由がある。それは、他人の絶対に隠しておきたい秘密を、好きなだけ窃視できるから。
 地獄は人間の本性を、これでもかと暴露していく。その支配的な眼差しを得ることが、追跡者にとっては金銭以上に、なによりの欲動を生み出すのだ。
 だけどナラカにとっては、亡者のことなどどうでも良かった。だから、そんな下卑た衝動でカメラを構える同業のことが不思議でならない。
 他の追跡者はなぜ、あんなにも美しい地獄自体ではなく、ただ苦しむ亡者に夢中なのか、十数年地獄を追い続けた今でも、どうしても理解できないでいた。
「……訊いてる?」電話越しから詰るような声が飛んでくる。
「ごめん。なに?」慌てて返すと、議はあからさまな声で返してくる。
「あー残念だったね。亡者のうち、半分ぐらいは先手を打たれてるっぽい。蜘蛛の糸の登録段階で弾かれてる」
 蜘蛛の糸には、しっかりと秘密の希少性を守る仕組みが備わっている。秘密を買い取る仕組み上、複数の追跡者が同じ人物の写真を売ることを禁止せねば、システムとして成立しないからだ。だから、二重登録を防ぐため、蜘蛛の糸では、画像判定アルゴリズムに”同じ人物”と判定されると、その写真は登録されない仕組みになっている。つまり買取が可能なのは、一番最初にアップロードした者だけ。だから、追跡者たちは我先にと地獄の亡者を収める。
 加えて、蜘蛛の糸特有の幾多のフェイク判定ロジックによる品質担保がなければ、誰も本物だと信じない。だから蜘蛛の糸以外にあげられたとしても、地獄の写真には商品価値はない。
「だ、か、ら、さ、最初の一枚をキメてる暇あったら、ひとりでも多くの亡者を撮れって」議はいつものように、ナラカの一枚目の写真を撮ることにケチを付ける。「なんでいっつも、貴重な最初の一枚をわざわざ引きで撮るのさ?」
「現地でリスク背負ってやってんのは私なんだから、好きにしてもいいでしょ」誤魔化すように言うと、相棒からまた機関銃のような言葉の羅列が飛んできた。
「あたしが言いたいのは、中途半端がよろしくないってことなの。亡者なんて顔が判断できりゃいいんだし。だいたい、地獄の景色なんてわざわざ今でなくても、どうせあんたは……」
 そこで、議は急に話を止める。議に変に気を使われるのが気持ち悪く感じ、ナラカは淀んだあとを皮肉交じりに引き継いでみる。
「そうね、どうせ、私はもうあといくらかも生きたら、結局、地獄に墜ちるんだし」
 語気を強めて返し、向こうが一瞬言葉に詰まったのを見計らってナラカは電話を切る。
 少し遠くをみると、追跡者の何人かが、自分の荷物を弄り、ビニールに入った白い何かを取り出している。中に入っているのは、人型に切り取られた紙の人形、人形代ひとかたしろだ。
 彼らはぞんざいに紙束を掴むと、狙いも定めずに山頂から麓に向かってぶちまける。山の旋風に吹かれ、知らぬ名が書かれた、人を象った形の紙吹雪があたりを舞う。地獄が閉じゆく間際の毎度のお決まりの儀式。
 人形代は、古来より行われている、地獄に堕ちないため、穢を払うためのまじないの一種だ。紙に自分の名前を書き、自身の代わりとして地獄に放り込むことで、罪を肩代わりしてもらえると言われている。
――そんなことをしても、意味なんかないのに。
 地獄への因果は絶対なのは、画像技術が進み、因果関係の統計が取られるにつれ、はっきりと判明したことだ。地獄に現れる亡者の姿から、何千人もの因果を分析すると、誰一人として、罪を犯さなかったものはいない。おそらくは有史以来、誰からも地獄からは逃れられていないのだろう。
 ナラカは、手頃な岩を見つけると、そこに座って一息つく。浅く息をしただけで、山の上の冷たい空気が肺にひゅっと入りこむ。
 そして、カメラのストレージに保存されている、一枚の写真を開く。十年以上前、ナラカがまだ十代の駆け出しの頃に撮った地獄の亡者の写真。
 見る角度によっては嗤っているようにも見えるその女の顔は、ナラカの本来の姿と完全に同じ。
 ナラカは昔、追跡者として生きていくと決めてからすぐの頃、自分と同じ亡者の姿をファインダー越しに見つけた。
 その際に現れた地獄の名は、最下層の阿鼻地獄。往生要集によれば、無限に等しい時間、想像を絶するような苦悶の中に陥る地獄だという。
 ナラカの記憶にあるうちで、その地獄に墜ちる理由があるとするなら、たったのひとつ。母を殺したことだけ。
 計測器で空気の濃度を計測し、安全域に達したことを確かめ、マスクを外す。長時間付けたままでも皮膚は乾いたままだ。
 汗腺が潰れた皮膚に、凍てつく山の空気が染みる。一面に瘡蓋かさぶたが張り付いたような皮膚、鼻は火傷でも負ったかのように赤黒く爛れて、膚はどこも痘痕で汚れている。たとえフルフェイスのマスクで防備しても、数年の間ずっと執拗に地獄を追いかけ続ければ、少しずつ皮膚を蝕み、沈殿して細胞を侵食し、最終的には焼け焦げたかのように様変わりしてしまう。
 特にナラカは瘴気の影響を極端に受けやすい体質なのか、他の追跡者と比較しても身体の損傷は特に酷い。まだ三十にもならないにも関わらず、まるで全身が火で焼かれたかのように黒ずんでいる。
 しかし、たとえどんなに変わり果てたとしても、ナラカは地獄を捉えて離さないと決めている。
 あの美しき地獄を遠くから眺め、写し取ることができるのは、今生きている間だけしか許されない、生者の特権なのだから。

# 2
「お母様は、自分のご意思がまだ明瞭な間に、医療チームと合意文書をまとめられ、今後の、自らの命のありかたについて決めておられました」
 三年前、自分の姿を地獄で見つけてすぐのこと。医者が母の尊厳死リビングウェルの意思が記された大量の書類を見せてきた時、ナラカは、ああ、これだったのだと、自身の運命に深く納得することができた。
 訪れたのは怒りでも悲しみでもなく、よくできた物語を読み終えたような、ひどく得心がいったような気持ちだけ。
 母が意識も無い寝たきりの状態にあったと人づてに訊き、散々悩んでから彼女の入院している病院を訪れた際、ためらいがちに医師がそう説明してきたのだ。
 病名は複雑な専門用語の羅列で定かではなかったが、脊髄を少しずつ蝕み、次第に身体の自由が失われ、最終的には、脳も復元不可能なまでに破壊する難病だったという。
 案内された病室のベットに横たわっていた母。十数年ぶりの邂逅。呼吸器が着けられ、ただ鼓動を動かすだけの抜け殻になった彼女の身体をナラカは一瞥する。シワだらけになったその顔を見ていると、子供の頃からずっと感じていた思いが再び顔を出す。
――最後まで、似ていない親子。
 その病状を説明してから、担当医は責任の所在を明らかにするための、何十枚もの用紙をクリーム色の事務机の上に広げる。母が自分が二度と目覚めず、機械に繋がれる様になった場合に備え、残された家族――ナラカに、命のスイッチを切ってくれるように希望する、一式の書類。
「無論、ご家族様のご意思を第一に配慮しますが」 
 当然、ナラカはその決定を断ることもできる。むしろ、医者もそう望んでいるかのようだった。
 人の運命を決定づける日本の地獄と、西洋の自由意志が前提となって生まれる基本的人権の理念パッケージは、当然ながらひどく折り合いが悪い。
 だから法の面でも建前上、地獄の存在は否定されていた。行政も、書類の上では、竜巻や火山の噴火と同じように、人に害を与える自然現象の一つとしか取り扱っていない。だから、追跡者のようにあえて危険を犯して山に登る者たちに警告こそ出すものの、権力を行使してまで、止めることはしない。
 故に、発せられる瘴気を国は災害としては認めつつも、映る景色の存在は蜃気楼と同じような散乱現象として、ひとつの自然現象の域がでないものと片付けている。
 だが勿論、実際の人の感情は、そのように簡単に地獄を退けることはできない。現場で働く医師にとって、『誰が殺したか』は、自分の死後に関わる、深い問題なのだ。
 ナラカに拒否をしてもらうためなのか、彼女の身体活動を停止させるための最後の処置は、ナラカの手に託されることになると、医師は説明する。
「手続き上、決まっておりますので」と、医者は早口で説明したが、そもそも、その手続きを決めたのも、かれら自身だ。
 尊厳死が行われた場合、果たしてどのような地獄に墜ちるのか。残念ながら人と罪が結び付けられるようになった今においても、確固たるデータは存在しない。
 本人の意思とはいえ、万が一にも人を殺める措置をすれば、死後、どのような罪を背負うことになるかは、まったく定かではない。少しでも人を殺す意思が介在する以上、杓子定規に判定されれば、もっとも深い地獄に墜ちると判じられる可能性があることは否めない。
 特に親類の死に携わった場合、五逆の罪の一つに数えられ、阿鼻地獄に墜ちることすらありえる。どうなるかは、今現在まで、まったくの未知数だった。
「サイン、どこにすれば良いんでしょうか?」
 だが、ナラカにだけわかっていた。自分がこの罪を背負い、地獄に墜ちることになるのことを。
 その上で、この気弱な医師の期待を折ってまで、母の願いを叶えるのだと。
 むしろこのような運命であったことに、ナラカは安堵のほうが大きかった。堕ちてしまうというのならば、せめて人様に迷惑をかけない形がよい。
 一週間後、行政から派遣された代理人と、複数人の医師の立ち会いのもと、医師に言われたとおりに、延命装置のスイッチを切った。

 物心ついたときから、母はずっとなにかから逃げているようだった。
 子供頃に過ごした部屋から見る光景は、混合してあやふやな記憶としか残っておらず、反対にいつでも引っ越せるからと言う理由からか、部屋の中は、最低限の必需品以外は置いてなかった。だからどこに越してもほとんど違わず、無味乾燥な空間だったことだけはよく覚えている。
 幼い頃の記憶は、定かではない。自分が気づいたときには、既にその特徴のない部屋で生活していた。
 父親の姿は、一度も見たことがない。
 そして母と自分は、本当にどこまでも似ていない人だった。容姿だけでなく、性格も。
 彼女には情緒が不安定なところがあり、その振り幅はナラカが大きくなるにつれ増していった。ナラカが災害の報道や地獄の写真に目を奪われていると、叱咤に加えて、手を出すことも少なくなく、最後には涙とともに懺悔を吐露する。そのお決まりの流れは、ナラカが成長すればするほど、エスカレートしていった。
 だから、このように執拗な準備まで拵え、ほとんど前例のない尊厳死を選んだのは、自分を捨てたことを母が恨んでのことだろう。大量の書類は、あるいは呪いなのかもとも考える。

 母が亡くなった後、彼女が住んでたアパートの少ない家財ををすべて処分し、あとは大家に鍵を引き渡すだけだと思ったところで、備え付けの棚の間に挟まっていた櫛の存在に気づく。
 手を伸ばして拾ってから見つめ、少し悩んで、せめて形だけでもの弔いとして、母の残した形見として残すと決める。母との繋がりとして、この傷んで埃を被った小さな櫛ぐらいがちょうどいいだろうと。
 持ち帰ったところで別に自分に待っている運命が、何一つ変わるわけではないけども。

# 3
「ヨソがいるぞ」
 夜明け前の比叡山の入口あたりで誰かがボソリと呟く声がどこからか聴こえる。”他所ヨソ”は追跡者の隠語で、追跡者以外の者たちのことだ。
 追跡者は自衛のため、基本匿名で活動をしている。自分のプライバシーを詳らかにするこの商売が、同時に人様から恨まれる商売であることを十分に理解しているからだ。
 故に、追跡者の身元を明らかにしようとする下世話なジャーナリストも、時々現れる。”ヨソ”がいるだけで、いつも以上に追跡者の間に、気色ばった空気が立ち込める。
 他の追跡者と違って、ナラカは他所について誰かは特段気にせず、淡々と山道を進む。しばらく獣道のような道を登ると、目の前にいやに目につく登山者が現れた。
 潜水に使うようなボンベを背負った追跡者の姿。機械で瘴気を吸引しているのだろう。労力を考えると、今の相場だと手間に明らかに見合わないのではないか。
 ナラカが生まれる前までは、瘴気を使った実験は様々な研究機関で行われ、追跡者にとっては良い小遣い稼ぎになったらしい。噂に訊くものの中には、人体実験のような倫理に明らかに反するものまであったという。
 だが、結局のところ、未だに瘴気はなにかという問題に答えは出ていない。
 その理由は再現性のなさだ。有機物と少量の無機物によって構成されていることだけは判明してはいるものの、成分分析にかけると、結果はその時々で大きく変化した。まったく同じ環境条件、同じ場所からサンプリングした瘴気の試料を使い、同じ刺激を与えても、その応答は、まるで万華鏡の模様のように、まったく違う様相を見せるのだ。
 実験での再現性のなさに嫌気が指した研究者の一人は、半分冗談で語る。
『地獄の瘴気はまるで生物のようだ。人間に寄生するガス上の生き物だと仮定したほうが、まだ多少なりとも納得できる』
 今に至っても、瘴気について、未だその殆どの仕組みがわかっていないに等しい。人工で再現する手順も、どうやって地獄を映し出すのかも、どうすれば無害化するかも、いずれも不明。
 勿論、どのようにすれば、地獄から逃れることができるのかも。
 科学的手法ををせせら笑うかのような、玉虫色に変化する結果に辟易したのか、地獄の科学研究は今においてはほとんど行われていないという。故に、危険を犯して研究機関に卸しても、昔ほどの高い値はつかない。
「そんなの、今どき買い手がつくの?」ナラカは興味本位で先行する追跡者に尋ねてみる。と、男は嗄れ声で「ま、いろいろ、用途があるんさね」と意味深に返してきた。
「たとえば?」妙にもったいぶった言い方に、つい剣呑な口調で返すと、振り返りざまに髪留めの烏の羽根を小刻みに揺らし、相手は応える。
「瘴気はやりようによっちゃ、精神の高揚をもたらすんだと。つまり、麻薬クスリと同じだな。俺はやったことがないが、常習者によれば、適度に希釈して皆で吸い込むと、他では味わえない一体感を催させるらしい。一緒に吸った奴らが全員同じ景色、同じ感覚、同じ記憶になって、まるで同じ運命を背負っているかのような感覚に陥るとな」
 地獄の姿を映し出す媒介である瘴気、僅かながらに判明しているその一部の作用は、人の精神に影響を与える効果を与えるということ。
 とはいえ、このことは大昔から既にわかっていたことだ。だから、写真技術が生まれる近代に入る前まで、地獄など実は存在せず、山のあるなんらかの毒性の植物の影響で、登山者に幻覚を見せているだけという説も有力だった。
 そうした効能があることから、一時的なスリルを味わいたいと考えるバカが世の中にいるのも、まあ、ありうる話だとナラカは思う。そういうやつらは得てして、好奇心がすこぶる強い。だから、それなりの高値で捌けるのかもしれない。
 とはいえ、軽く見過ぎだ。素人が地獄の物質を舐めてかかると、当然痛い目にあうことになるだろう。
 瘴気の濃度が高いと、色素が皮膚と皮膚の間に入り込み沈着する。そして、細胞の活性を妨げ、焼け焦げたかのような跡を残す。長年瘴気に当てられてきた、ナラカや、他の追跡者のように。
 烏の飾りを付けた男と無言のうちに別れる。登り始めてから一時間程度経てば、それなりに疲労が溜まってくる。少しペースが遅くなったところで、追跡者の何人かが、下卑た笑いを伴いながら、後ろを通り過ぎていく。
 彼らは去り際、気になる言葉を残していく。
『下であのヨソが随分よたよたと歩いていたぞ。顔を覆わないまま歩いていたんじゃ、瘴気にアテられて、まあ当然だわな』
 その話が気にかかり、やや嗜虐的な思いを秘めつつ、下に向かって望遠鏡代わりにカメラを向けてみる。数十キロ先の亡者の姿を撮ることができるレンズは、たとえ灰色の霞がかかった中でも、明瞭に、噂の他所ヨソを捉えることができた。
 話に訊いたとおり、顔を露出させて、覚束ない足取りで歩いている。小柄なシルエット、おそらくは若い女性。大学生が肝試しがわりにやってきたのか、あるいは最近良く見るようになった動画配信者のような奴らだろうか。
 ナラカはさらにカメラの倍率をあげ、顔を見定める。
 その顔を見た瞬間、先程までの加虐心が一瞬で冷める。反射的にシャッターを押す。
――誰?
 そう思ってからすぐにナラカはすぐ荷を解き、カメラ一式をその場に放り、転がるように坂道を戻る。
 暗闇の中、先程確認したあたりを探索すると、茂みに彼女がうつ伏せになっているのを発見する。まだ現れる前だから瘴気の濃度は低いものの、生身のまま長時間摂取していれば、身体に影響を与えてしまう。慣れていない者にとってはなおさらだ。
 彼女をそのまま茂みに寝かせ、容態を確認するため、身体を調べる。一通りは夜間に登山をするための準備はしているようだが、湧き出る瘴気に対する対策は、何もしていないに等しい装備だった。
「すいません……お手間を……」枯れた声で彼女がナラカにお礼を口にする。瘴気が気管まで侵入しているのか、声を出すだけで辛そうに目を細め、一言発するごとに涙を流す。
 ナラカは舌打ちをしながら、相棒に連絡を取る。「今回はバラシで。別用ができた」
 議の怒り声が飛んでくる前に、素早く通信を切断する。今回ばかりは、議に説明しようもない。なぜなら自分ですら、この事態にまだひどく混乱しているのだから。
 切ると手早く緊急用の酸素スプレーを取り出し、応急処置を行う。容態が安定したところで予備の簡易マスクを装着させてから、彼女を持ち上げて肩を預け、引きずるように山を降りる。カメラは仕方ないと、日が出たら改めて回収することに決める。
 一歩踏み出すと、硬化樹脂でできたマスクがぶつかってしまってひどく歩きづらい。衝撃でズレて瘴気が侵入しないよう、もう片方の手で、彼女のマスクを必死で押さえつけながら、まだ仄暗い山中を進む。
 道中、目を覆うレンズから、じっと満身創痍の彼女の容姿を覗き込む。切れ長の目尻に、やや浅黒い皮膚、薄い唇――
 やはり見間違えではない。まったくの一緒だ。
 ナラカが彼女を、助けた理由は同情などでは、決してない。
 理由は、その相貌がまったく同じだったからだ。
 瘴気の影響で顔が歪み、醜悪な姿になる前の、自分自身の素顔と完全に。

# 4
「だ、か、ら、さ。そんなやつ、置いてきゃ良かったんだって」
 今回の撮影に失敗した旨を、議に赤裸々に報告すれば、予想通りに罵詈雑言を浴びせてきた。最初だけならばまだしも、あれから一ヶ月も経ったというのに、議は事あるごとに未だに地獄を逃したことを詰ってくる。
 一応、人命救助のために諦めたとは説明したものの、そんな理由で納得してはくれなかった。数ヶ月に一度のシノギを不意にしたから当然といえば当然だが、そろそろ忘れてくれてもよいのにとナラカは思う。

『このたびは、ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした』
 救助してから数日後、無理やりに尋ねられた住所のもとに、彼女から綺麗な手書きの文字で礼の品と礼状が送られてきた。文を見るにどうやら後遺症も残る傷跡もなかったようだった。
 その内容を読み込むと、つい住んでいる場所の地獄が現れたから、興味本位で近づいてしまったらしいとあった。登山が趣味の彼女は、一度地獄を間近で見てみたかったのだと。
『本来ならば直接お会いしてお詫びさせていただければと思うものの、今回は手紙にて、ご容赦ください』
 手紙にはそう書かれていたが、定住先を持たないナラカにとって、むしろ手紙の方がありがたい。
 それに、情報が揃わないままで、自分にそっくりのあの女、恵那にもう一度会うのは、どうしても避けたかった。

 小一時間ばかり議の愚痴を訊いてから、本題に入る。
「それで、検査の方は?」今回電話をかけたのは、別に議の怒りのはけ口になるためでは決してない。
 議は写真の加工だけでなく、もろもろの雑事を引き受けてくれる。あまり表立ってはやれないことも、議は詮索せずに要件を受けいれて、手配を整える便利屋。その辺の距離のとり方が適切だからこそ、今までうまくやってこれたのだ。もっとも、それだけの手間賃は払っているのだから、特別に礼を言う筋合いは無いのだけど。
 今回、ナラカが依頼していたのは、遺伝子検査だった。
「はい、結果」
 ナラカをなじるのにも飽きたのか、議はすぐに携帯のショートメールにPDFを送ってくる。「他人である確率は数十兆分の一。つまり、同一人物である可能性が極めて高いね」
 議に送りつけたのは、それぞれ別人の毛髪。一つは自分の、もう一つは、恵那を解放する際にそっと頂いてきた毛髪を送った。
 やはり、彼女は整形などのたぐいではなく、真に血の繋がりがある人間。
――どころか、完全に一緒ということは、つまり私と双子ってこと?
では――「”もうひとつ”の方は?」
 さっきとは違って、自然と声が裏返る。自分が無意識に結果を拒んでいるのだと自覚する。
「はい」と、議はナラカの声色の変化を気にかけず、先程と同じ形式のPDFを送ってくる。中身は殆ど一緒。
 ただし一箇所だけ”DISCORDANCE不一致”の一文を除いて。
「なにかの間違いでしょ」うっかり、縋るような声を出してしまう。
「それはないよ」だが議はにべもなくそう応える。「検査元は、信頼できるところだ。それにこういった依頼、存外に多いもんで、こっちも慣れているんだよ」
 言葉に詰まる。頭が真っ白になる。
 議に依頼した、もう一つの遺伝子検査の対象は、母の形見である櫛に残っていた、あの毛髪。
 櫛についた髪の毛が別人のものだったのか?いや、あの色と髪質は明らかに母のものだったはず。
 ナラカの頭の中で、考えが発散し続ける。つまり、ずっと一緒に過ごしたあの母親は、まったくの他人だったということか。それと真反対に、今まで全く存在を知らなかった妹だか姉だかが、私には存在する。
 長く過ごしたまったく似ていない赤の他人と、初めて会った、自分と完全に同じ人間。
――でも、やはり明らかにおかしい。だとすれば、”勘定”が、まったく合わないじゃないか。
 ナラカの背負ったはずの業の総量は、阿鼻地獄に相当するもののはず。
 だが、ただの殺人ならば、五逆の罪に数えられるほどに重くはない。せいぜい、等活地獄が関の山だろう。
 実際に血の繋がりが無くとも、育ての親だから?いいや、それもまたおかしい。今までの地獄に関する統計データからすれば、罪の計量として最も重要になってくるのは育ちよりも氏、血の繋がりだ。
 実際、昭和52年に起きた、”御殿場町一家殺傷事件”で自身の三世代にわたる家族全員を快楽目的で手にかけたにも関わらず、堕ちた地獄は炎熱地獄だった。反面、平成21年に起きた、”上野公園殺害事件”では、路上で白昼堂々、自身を捨てた父親だけを殺めた犯人には、阿鼻地獄の沙汰が下っている。
――だとしたら……
 議との電話を切ると、ナラカは震える手で、蜘蛛の糸のページを開く。自分の姿を捉えた地獄の写真は、既に昔に登録されてるはず。
 戦慄で震える指を動かし、山中で盗み撮った恵那の写真を別端末から蜘蛛の糸に登録しようと試みる。
 ローディング画面でくるくると回転するUIが暫し展開された後、赤い文字で失敗リジェクトと画面に表示された。
 つまり、自分の姿だとずっと思っていたあの阿鼻地獄の亡者の写真は、自分と恵那どちらの可能性もあるということ。
 小さく息を飲み、畏れてた事実を受け入れねばとするが、どうにも考えが纏まらない。ナラカは、これからの毎日ずっと答えがない疑問に苛まれ始める。
 この写真に写っているのは、どちらなのか。
 罪を犯し、地獄に招かれるのは、ふたりのうち、果たしてどちらになるのかと。

# 5
『今度の休日、山登りをご一緒頂けませんか?』
 夏頃、恵那が出会ってから定期的に送ってくる手紙に書かれていたのは、休日の遊びの誘いだった。ナラカにとって登山は生活の一部と言ってよく、重い撮影機材を運ぶ必要もないならば、なお容易い。
 ただ、恵那が提案した山は、決してハイキングで行けるような生易しい山ではなかった。彼女がどうしても登りたいと書いてあった山は、飛騨山脈の北部、立山連峰の一部を形成する剱岳だったからだ。
 北アルプスに隆起したその山塊は、永らくの間、日本地図の最後の空白地帯だったほどに、登頂が困難な山のひとつとされている、今現在においても、上級クライマー向けの山。休日のレジャーで登るというには、いささか過酷な山だ。
 当然、ナラカは幾度か別のより初心者向けの山を提案した。いくら自分が付いているとはいえ、たった二人ではリスクが高すぎる。
 しかしそのたびに恵那は「大丈夫ですから」と返してきた。楽観的なのかなんなのか、地獄の吹き出した山になんの対策もせず登ったりと、準備に万全を期す自分とは大違いだと思う。なぜ同じ遺伝子なのに、ここまで性格が違うのか。
 不安に思いつつも、ナラカは恵那ともう一度会い、関係について今一度突き止めたいと思っていたのもまた事実。電話で「無理と判断したらすぐ下山すること」と念押しし、結局登ることに決めた。

「ナラカさん、どうもお久しぶりです!」
 麓で恵那はナラカに気づくと、顔を上げ笑顔で応えてきた。自分の醜い顔を向けても、一切嫌な顔をせずに、朗らかな顔を向ける恵那。登る前に脅すつもりで山の怖さを伝えようと思っていたが、こうも柔らかい表情を向けられては、言うべきことも言いにくい。
「ちゃんと家族には、今から向かう場所を伝えてある?」
 車で登山道の入口まで向かう途中、それとなく恵那に家族について問う。すると、少し困った顔で恵那は応えてくる。
「施設で育ったもので、育ての親はいますが、残念ながら、自分の安否について、伝えるべき身寄りはいないんですよ」
 あえて赤裸々にそう語るのは、変に気を使われたくないからだろうか。ひょっとしたら自分に母がいたように、向こうに父がいたのかもと考えてはいたが、どうやらそうではないらしい。
 その答えに、ナラカは悟られぬよう、深く深く息を吐く。
 これではっきりした。もしも私が恵那を殺せば、すべての運命が一つにつながる。唯一の肉親である彼女を殺せば、私はあの地獄に墜ちるのだろう。
――あるいは、その逆か
 そうでないとすれば、ナラカは恵那に殺され、彼女のほうが地獄に墜ちる。地獄の写真に写る外見は、ナラカと恵那、どちらであるかの判別はつかない。だから、どちらの可能性も均等にある。
 殺すのと殺されるの、現世において一瞬の痛みを与えるのと、死後、永遠の痛みに彼女を陥らせること。自分の血の繋がっている、この愛らしい女性を守るためには、果たしてどちらを選ぶべきなのだろうか。

 山道に入って少し登れば、すぐに山道は本来の険しさを取り戻してきた。登山道の途中には水場もなく、整備されているのは最初だけで、後はずっと覚悟していた以上に激しい山道が続く。剱岳は足だけで登れるような生易しくはなく、身体全体を使って道を切り開く登攀とうはんの技術が必要だった。
 立山杉とブナの合間を這いながら進み、恵那の先を行くナラカは、事途中途中で、木の根を伝って登る恵那に「大丈夫?」と声をかける。そのたび恵那は周りに飛ぶヤブ蚊を払いながら「まだ大丈夫です」と返事をする。彼女の山に慣れているという言葉に嘘は無く、息を細かく吸いながらもペースを保って登り続けている。
「なんで、この山に登ろうって行ったの」途中、ナラカが改めてそう尋ねると、恵那は「この山にどうしても、登ってみたかったんですよ」と応える。「ほら、大昔のお坊さんみたいに」
 剱岳のファーストクライマーは誰か。
 不可能と言われた山に、明治時代に本峰の登頂に成功した測量隊は、山頂に残された錫杖を見て、自分たちが初めて頂上を制覇したのではなく、はるか昔、千年ほど前に登頂に成功した者がいることを悟った。
「平安時代の人がひ弱な装備で、なんでこんなに厳しい山を登ったと思いますか?」恵那が背中越しに問いを投げかけてくる。疲れているだろうに、妙に遙々とした声音で。
「さあ、検討もつかないね」夏の照射に当てられたせいで、焼けるように身体が火照る。
 ナラカの淡白な返事に狼狽えることなく恵那は言う。「ひょっとしたら、何かが変わると思ったのかもしれませんね。ナラカさんにもありませんか?論理では説明できない、儀式めいた強烈な体験をすれば、それだけで、なにか救われるものがあるんじゃないかと思ったことは?」
 ナラカは聴こえないふりをし、なるべく余計な体力を使わぬようにと、努めて無言を貫く。皮膚が焼けて汗腺が絶えたナラカは、代謝による温度調整がうまくできない。本来ならば、気候が急激に変化しやすい夏の登山は不向き。身体に熱が籠もり、体力を無駄に消耗させる。
 そのためか、すこし気分が悪い。

 登り始めたときには雲もなくどこまでも真っ青だった空の景色は、夕方付近になると一転し、峰々は燃え広がるように赤く染まったあと、黒々とした紫色を一瞬だけ見せ、底が見えないような暗闇に移り変わった。
 雨が降る気配を感じ、ふたりはなるだけ歩みを速め、中腹を過ぎたあたりにある山小屋に今夜は滞在すると決める。
 不思議と山小屋には、ほかの登山者は誰もいなかった。夏のシーズンの時期であることを鑑みると、異様と言ってもいいほどに閑散としてる。
 建物に入ると、その壁の一角に、立山曼荼羅の屏風絵が飾られているのがわかる。
 大昔から、立山連峰はその険しさから地獄に喩えられてきた。この曼荼羅もその剱岳の厳しい景色を地獄に見立てて描かれたものだ。
 荷を降ろして一息つくと恵那は「どうぞ」と水筒に入ったお茶を差し出してくれる。道中、何度も差し出してきたものだ。妙にクセが強いハーブティーだったが、疲れた身体に染みる味だった。
 コップを渡しながら、曼荼羅を見て何か思ったのか「ナラカさんは、地獄についてどう思いますか?」と、出し抜けに恵那が言ってきた。
「なに、ひょっとしてなにかのインタビュー?」
「いやいや、ただの雑談ですよ」と彼女ははぐらかすように手を振るが、そういう割に、目が妙に真剣なのが気になる。「地獄を追い続けた、ナラカさんの考えが知りたくて」
「別に、特段思うことはないけれど」本心を隠して応える。
 一拍置いてから、冷たい声で、恵那が言う。
「ねえ、ナラカさん、罪は身体のどこに宿していると思いますか?」
 また脈絡もない質問。こんなにも、たくさんのことを尋ねてくる子だったのかと訝しむ。「どういうこと?」
 発する言葉に誘われ、ナラカが顔を上げ恵那の方を見てから、一瞬怯んでしまう。
 彼女の顔からは、朗らかな表情が消え、瞳孔が開いているのがわかる。何かがおかしい。まるで山の天気のように様変わりしている。とてもただの雑談とは思えない。「どこって……」
「例えば、脳?、心臓、それ以外の臓器?それともひょっとして血や骨とか?」妙な凄みを湛え、恵那は早口に喋りかけてくる。まるで、なにかに取り憑かれたように。「たとえば、記憶はただの情報なのに、臓器移植を受けた者に、提供された人の記憶が蘇る。そんな話、訊いたことありません?」
 臓器に記憶が残るという都市伝説は、よく耳にするオカルトの一種ではあるが――
「ましてや、地獄の瘴気は、わかっていることは少ないとはいえ、なんらかの”物質”であることは確認されてますよね。だったら、心ではなく、身体に宿ると考るのが自然では?」
 恵那の言葉は戯言だと一笑に付すことが、ナラカにはどうしてもできない。その真新しさを感じる仮説につい耳を傾けてしまう。
 果たして、罪は身体のどこに宿るんだろうか。
「だとしたら、いったいどうだというの?」勢いに押されないように、ナラカは強い口調で返す。
「ならば……臓器を移植するように、罪を名も知らぬ誰かに罪をなすりつけられるかもしれない、と考えられはしませんか?」
「そんなこと……」できるわけがない。そう反論しても、ナラカの意見などにはお構いなしに恵那は続ける。
「ねえ、ナラカさん。もしも、そんができるとしたら、犯した罪から――地獄から逃れられる術があるのだったとしたら、人はどこまで残酷になれるんでしょうか?」
 瞬き一つしない恵那に、ナラカはつい目を逸してしまう。早くこの時間が過ぎ去ってくれれば良いのにと願う。夏だというのに、やはり標高が高い山の夜はひどく冷える。さっさと毛布に包まって、明日の朝、何事もなかったかのように山を降りたい。
 身体の不調を気にしだすと、身体の末梢に痙攣するような感覚に気づく。温かいものを飲んだはずなのに、気分の悪さは悪化する一方だ。ひょっとしたら、風邪でも引いたのかもしれない。
 もう寝ましょう、そうナラカが言おうとした瞬間、被せるように屹然と恵那が言う。
「ナラカさん。今から少しだけ、外に出ませんか?」

# 6
 闇の中の曠野。山々の間をに吹く風が、乾いたナラカの皮膚に突き刺さる。
 山小屋に灯るか細い明かりが、細石さざれいしが敷き詰められた斜面を朧気に照らす。視線を遠くに向けると鋭い石峰が月光に照らされていて、四方を巨大な化け物に囲まれているような気分になる。
 まるで地獄の入り口、賽の河原。息を鼻から吸い込むと、どこかに地獄の匂いを感じるようだ。勿論、錯覚に違いない。
 地獄が今いる剱岳に現れるようなことなどありえない。地獄は数ヶ月に一回現れるかどうかの稀有な現象だ。偶然遭遇する確率などゼロに等しい。
 にも関わらず、ナラカはあたりに、地獄の気配を感じずにはいられない。勢いに押され、恵那の言うとおりに外に出てしまったことを後悔する。
「悪いけど、やっぱり寒いから戻らない?」ナラカが叫ぶように恵那に語りかける。光の届かない遠くにまで進んでいる恵那は、闇夜にとっぷりと浸かっていて、既に姿が見えない。
 ナラカが語りかけてから少しして、目の前の暗闇が返事をする。
「ナラカさん、阿鼻地獄に自分と同じ姿があること、勿論、気づいてますよね」
 想像もしない言葉。ナラカは暫し沈黙して考えを整理してから、言葉を返す。
「ひょっとして、最初から、私が誰かわかってたの?」まさか最初に出会った時から、すべて仕組まれていたのか?
「ですよ。あまりにも相貌が違って見た目で見分けがつかなかったので、一か八か、身体を張ってあぶり出してやろうとおもったんです」無事うまく行って何よりでした。そう、未だ姿の見えない彼女は事無けに付け加える。
 返す言葉が見つからない。いやむしろ、今は何も言わないほうが良い。
 沈黙を貫き相手の出方を伺っていると、やっと暗闇から恵那が姿を現した。
 恵那は何も言わないナラカに不服そうに唇を歪め、山岳用の防風性のアウターに付けられたファスナーを引き下げて、ポケットから何かをスルリと取り出す。「これ、なにかわかります?」
――なんだ。白い……紙?
 ひらひらと恵那はその紙を弄ぶ。暗闇の中、白色の物体を必死に注視し、やっと正体がわかる。
「ひょっとして……人形代ひとかたしろ?」沈黙を貫くのを忘れ、つい声を出してしまう。
 その回答に、恵那は満足したかのように笑う「正解です。罪を肩代わりしてくれるという、人形代ですよ。私達もね。これとまったく同じ、罪を引き受けるための人形代、地獄から逃れるための人形なんですよ」
「うそ」ナラカは反射的に、つい反論する。「さっきも言ったけど、地獄から逃れられるわけがない」
 意外にも恵那は「そうですね」と肯定する。「地獄に現れた人は、絶対にどこかで罪を犯している。仰るとおり、これは百パーセント真実です」
「なら――」と反論しようとするナラカの声を、恵那が遮る。一歩一歩、ナラカとの距離を詰めながら。
「だけど、もし罪を犯しても地獄で観測される前ならどうでしょうか。地獄に観測される前ならば、まだ地獄から逃れる術はあるとは思いませんか?」
 否定しようと言葉を紡ごうとするが、脳は主人のナラカに反抗するかのように、頭の中でひとつひとつの事実を綺麗に繋げていく。
 なぜ、追跡者達の商売が法的に罰せられないのか。
 なぜ、近年になって急に政治家や芸能人の姿が地獄からいなくなったのか。
 それに、近年になってからピタリと止んだ、地獄の研究。
 急に瘴気の研究が下火になったのは、研究者たちが諦めたわけではない。むしろその逆、一定の成果を得たからではないのか。
「だとしても、一体どうやって?」
「言ったでしょ、私達は罪を拭き取るために設計された姉妹なんですよ」
 意味がわからない。作られた、とは何を意味するのか。
「そうですね……たとえば、小野篁、満慶や円能、地獄に魅入られた人を主人公にした言い伝えや説話や蘇生譚は、各地にさまざまな形で伝承されてますよね。ひょっとしたら、たまに出てくるんじゃないですかね。時代時代の一定の周期で、地獄と交信できる人」
「そんなの、ただの伝説でしょ」
「当然、残された伝説がすべて真実だなんて言うつもりはありませんよ。だけどね。そのすべてが作り話だとも言い難い。多くの世界宗教の説話の多くが語る奇跡に、元となった逸話があるのと同じように、たとえ尾ひれがついたとしても、かれらには、今にまで受け継がれるに値する、特別な素質を有していたんじゃないですか?」
「それが……?」いったいなんだというのだ。
「もしもかれらのような、地獄に選ばれた人間、罪のやり取りが可能な人間を、人工的に作り出す技術があるとしたら、どうでしょうか?」
 恵那から語られるのは、にわかには信じられない話。実現性も現実感もあったものではない。
 それでも、ナラカは、覚悟を決め、あえてその話に応じる。「そんなことができれば――」人間のやることは一つに決まってる。
 ナラカの答えに、恵那は「ですよね」と同意する。
「自分語りになって恐縮ですが、実際に私には小さい頃から、いろんな大人が訪ねてきたんですよ。その大人たちが私と儀式めいたやりとりをすると、あら不思議。そのあと、私と交わった人は、たとえ過去、どんな罪を犯していても、その後、地獄には一切現れなかったんです。偶然とは言えないぐらいに確実に。たとえどんなに、救いようのない人間でもね」
 滔々と語られる彼女の話を聞かされた時、ナラカの脳裏に脈絡もなくよぎったのは、病室で横たわる母の横顔だった。
 もしも彼女が言うことが真実ならば、私と恵那が、歴史に語られる人物のように、地獄を呼び寄せる素質をもって生まれるように、人工的な技術で、仕組まれたというのならば――
 自分の母は、私を育てることを託された保育士、あるいはひょっとしたらば、自分を生んだ代理母ホストマザーだったのではないか。母は、地獄に墜ちることを決定づけられた哀れな自分に同情し、私を連れて逃げたのではないか。
 だから母はいつも誰かから追われていると思い込んでいたのではないか。
 そして、残された恵那は、私の代わりに一人でずっと人々の罪を拭ってきた。
 一度考え出すと、さっきからずっと身体中に奔る悪寒が一層強まる気配がある。思考が纏まらなくなり、身体の深部体温が極端に下がる。低体温症かと思うが、すぐに違うと判じる。この感覚は、追跡者に成り立てのころ、何度も味わった感覚だ。
――あの飲み物。
「何を飲ませたの?」乾ききった唇を震わせて問う。あの出された飲み物にいったい何を混ぜたのか。
 近づいてきた恵那が笑う。少し目を離した間に、既に手と手が触れ合えるような距離まで近づいていた。
「地獄の瘴気をね。ほんのすこし、違和感がない程度に混ぜたんです。瘴気が人と人とを交絡させる作用があるって噂、どこかで耳にしたことありません?」
「そんなこと……」できるわけがない。だが、そう言いかけると同時に、追跡者の一人が言っていた言葉が頭の中に蘇る。
『適度に希釈して皆で吸い込むと、他では味わえない一体感を催させるらしい。一緒に吸った奴らが全員同じ景色、同じ感覚、同じ記憶になって、まるで同じ運命を背負っているかのような――』
「もっとも、普通の人が摂取したところで、少し錯乱したような感覚に陥るだけですけどね。ですが、私達の特質をもった人間が、瘴気を少しでも宿すと、それが呼び水になって、瘴気の中に溶けた罪が、より業の深い方に導かれていくんです」
 そこで、ナラカは、恵那の本当の目的を悟る。同じ人形代としての素質をもつ同士ならば、どちらか片側に罪を寄せ、一人が地獄から逃れることもできる。
だから――
「罪を私になすりつけるために、わざわざ山奥のここに呼び出したのね」
 自分が逃げた変わりに、あらゆる罪を押し付けられてきた恵那。彼女がナラカのことを恨むのは、確かに道理だ。
 だが、決死のナラカの言葉を、恵那はおかしそうに否定する。
「違いますよ、逆です」
「逆?」覚悟を決めていただけに、意表を突かれて変な声を出してしまう。
「そう、逆。私はむしろ、地獄を欲しているんですよ。恥を偲んでも独占したくなるほどに」
 恵那は、ナラカを指差して言う。「それはたぶん、ナラカさん、あなたと一緒。私達はどうしても、地獄に惹かれてしまうんです。たぶんそれが、人形代として生まれたさがなんでしょうね」
 狂ったような考えを当然のように語る恵那。だが、ナラカにだけは、どうしもなく恵那の思いを理解してしまう。
 あのファインダー越しに眺めた地獄の美しさ。あの世界を、他の人に渡したくないという、その気持ちだけは。
 恵那がそう言い終えると、突如、弛緩したようにぐったりと身体の力を抜いた――かと思ったら、突如恵那は目を大きく見開き、彼女の両腕を力限りに握ってくる。
「特に、自分と同じあなたには、絶対に手渡したくない。あなが身体にずっと溜めてた地獄、私にください」
 掴まれて接触した膚と膚の境界が、急に朧気になる。ナラカの身体中を蝕んでいた瘴気が、堰き止められた川の水が流れ出すように、恵那の方に移っていく。瘴気が自分たちに意思があり、よりよい宿主を見つけたかのように。
 流れが一旦出来上がると、古い地層が露われるかのように、ナラカの本来の皮の色が顔を出しはじめる。
 逆に、恵那の身体は汚されていく。だが彼女は、その瘴気の――地獄の到来に、満たされたような笑顔を放つ。
 ナラカの肉体から無理やり剥がされていく瘴気。裂けるような痛みを感じながら、ナラカは途切れそうな意識の中、また自分を育ててくれた母のことが頭をよぎる。
 変に自己犠牲的で、独善的で、妄想癖すらあった母。彼女との暮らしは本当に息が詰まった。
 だけど、母が彼女なりに、私の事を第一に考えてくれたことは、否定し難い事実だ。
 最後あえてナラカに尊厳死を選ばせたのも、あえて希釈された業を背負わせ、無垢な身体でなくせば、人形代としての価値をなくし、誰もナラカに興味を示さなくなる。そう考えでもしたのだろう。
 なんとも母らしい、稚拙な考え方だとは思う。
 だけど――
 気を尖らせ、ナラカは渾身の力で恵那の腕を掴みにかかる。突然蘇ったナラカに、一瞬怯む恵那。
 そんな恵那に構わず、ナラカは言う。
「ならお願い。あなたも地獄も、半分だけでも受け入れさせて」
 たとえ血はつながってなくとも、やはり私は、あの母親の子だと思う。なぜなら、自分なりの矜持をもって、手前勝手に恵那の事を救いたいと考えているのだから。
 母は図らずも、私に教えてくれたのだ。業を共有することは、ひとつの家族としての繋がりにもなる場合もあるのだと。
 ナラカがそう願うと、ふたりの間の瘴気が循環しはじめ、複雑な軌跡を描き、まるで嵐のように荒れ始める。
 私は、彼女の運命を知ってしまった今からでも、せめて恵那の罪を背負いたい。母と恵那、ふたりの業を身体に宿したまま、これからの残りの生をやり遂げたい。
 私と恵那、縺れあったふたりの間に、あの地獄の景色が、いつか迎えに来る前までは。

# 参考文献
日本人と地獄 石田瑞麿
地獄めぐり 加須屋誠
命は誰のものか 香川知晶
劒岳〈点の記〉 新田 次郎
激走! 日本アルプス大縦断 密着、トランスジャパンアルプスレース 富山~静岡415km NHKスペシャル取材班

 

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