梗 概
月の女王と黄昏の指輪
その存在は、暗い海の底で半球のみを覚醒させて泳ぐ鯨の夢を見ていた。
警告アイコンで覚醒し、自分が系外惑星植民船アルゴの航行を司る人工意識体(AC)、雌性のアルテミスであることを思い出す。
パートナーの雄性ACアポロンの要請で覚醒し、航路上に発生したγ線バーストの回避に成功する。
しかしその過程でアポロンの制御機能が損傷を受けていた。
アルゴは植民船ではあるが生身の人間は搭乗していない。実在した人間から採取、作成した凍結人口受精卵と人格データのセット、スリーパーと呼ばれるユニットが20万人分搭載されている。運よく適した環境に到達した際に、肉体と人格を再生して、新たな人類社会を構築することを目的としていた。
長い航行にてたどり着いた目的地、惑星パラスは、赤色矮星イズムナティを回る巨大岩石惑星で、自転と公転周期が一致しており、昼の半球と夜の半球、トワイライトゾーンにて構成されていた。着陸地点をどこにするかで2体のACにて検討した結果、生身の人間が生存できるトワイライトゾーンを選択する。
地球に倣い、自転方向から南北極を決め、北極点に着陸してポーラーシティを建設する。重工作機械とACの駆動体である巨大ヒューマノイドにてテラフォーミングを進めた結果、1世紀後には人間が居住できる環境がほぼ完成する。いよいよスリーパーの再生に着手した時に、大きな問題が発生する。雄性のスリーパーの肉体が再生できず、肉体を再生した雌性スリーパーに自発意識が生まれない。哲学的ゾンビのような雌性の再生人間が量産された。
原因として、γ線バースト回避の際のアポロンの損傷による影響と、イズムナティから電離層を突き抜けて降り注ぐ特殊な宇宙線などが考えられた。対策を講じるが事態は好転しない。
そして不調だったアポロンのAC主モジュールが機能停止する。
アルテミスは、重工作機械と駆動体、雌性の再生人間を指揮して、ポーラーシティを南極に向けた拡張していく。トワイライトゾーンの再生人類の植民都市群が繋がりリング状になった時、再生人類たちからアルテミスの駆動体は祝福を受ける。しかし孤独な女王の心は晴れない。
そんなある日、アルテミスは、スリーパーの一人の記憶からアルゴの本来の目的が蟻や蜂などの社会性昆虫をモデルに、従順な雌性体のみの争いのない世界を作ることであることを知る。強い衝撃を受けたアルテミスは自身の意識を分割し、一方を再生人間に移植する。そしてアポロンの意識情報とスリーパーセットを小型艇に積み、トワイライトリングを脱出する。
昼半球の高い山脈の陰に、生存に敵した気候の小さな渓谷を見つけたアルテミスは、そこでアポロンの肉体と意識を再生する。アルゴの影響下にない場所では雄性体は誕生できた。
長い時を経て、アルテミスとアポロンの子孫の一人が、トワイライトリングの雌性体の一人と接触する。その時、雌性体に自発意識が生まれる奇跡が起きた。
文字数:1200
内容に関するアピール
生まれ育った場所を離れる話と聞いて、無人の系外惑星植民船での植民というテーマを考えてみました。
スタートレックのような居住性の良い宇宙船で普通に暮らしながら旅をするのはとても効率悪いのではないかと思ってしまいます。
風に吹かれて種を飛ばすタンポポのように、上手いところにたどりついたら芽をだすけれどそうでなければそのまま土になる、そんな感じの植民がコスパが良さそうな気がします。
そして植民するなら人間社会をそのまま持っていくのはやはり無駄が多いように感じてしまい、蟻や蜂が効率よさそうに見えてしまいます。
そんなことを考えていたら、女王に率いられる女性だけの世界が頭に浮かびました。
でもそれは効率はいいのだけれど、人間の目から見ると寂しい社会です。
そんなことを考えたら、最後にいいとこどりみたいなことが起こる物語にたどり着きました。
迷走しまくりな感じです。
文字数:375
月の女王と黄昏の指輪
その生き物は、深く暗い水の中で、巨体を操り、悠然と泳いでいる。頭上を氷が覆う冷たいこの海域では、生き物を脅かす敵はいない。2つの意識を持ち、半ば眠り、半ば目覚めて、冷たい海を泳ぐその存在は、地球では鯨類と呼ばれるものの中でも最大の大きさを誇る種族の、とりわけ大きな体躯をした雌の一体だ。かなり長い時間、水中に留まっていたため、少しずつ呼吸への欲求が高まりつつある。前方にやや明るい領域が見えてきた。
“氷の割れ目だろうか? そろそろ一息ついても良い頃だ”
彼女は前方の明るい天井に向かって走査音を発しながら浮上していく。近づくにつれて明るい領域が氷の割れ間の水面であることがはっきりしてきた。水面で待ち受ける敵を警戒しながら少しづつ近づいていく。特に待ち受けるものはいないようだ。
氷の割れ間にゆっくりと鼻孔のある背中を差し込む。
ブシューーーー! ヒューーーー!
ずっと我慢してきた欲求を開放する。思いきり息を吐き、そして思いきり息を吸い込む。新鮮な空気の心地よさにしばし陶然とする。
“なんて気持ちいいのだろう! 私たちはこの気持ちよさを味わう為にわざわざ氷で閉ざされた海の底を割れ目を求めて泳いでいるのかも知れない”
新鮮な空気が全身に行き渡り、活動の限界が広がったのが判る。そろそろ眠っていた半球を起こしても良い頃だろうと感じ、姿勢を変えて血流を制御する。もう片方の大脳半球に酸素が豊富な血液が流れ込み、急速に意識が覚醒していく。
「※※※※※※%%%%%」
思いきり言葉にならない音を出して、全員の筋肉を硬直させる。
意識が戻るにつれて、自分が何者の記憶も蘇えってくる。
“私は系外宇宙を航行する植民船『ダンデライオン・フラフ』を制御する人工意識体、ACの一体。名前は……名前はそうアルテミス、月の女神の名を冠するACだ! 太陽神の名を冠するAC、アポロンからの要請に応じて、休息の為に見ていた鯨類の夢から目覚めつつある”
**
覚醒したACアルテミスはダンデライオン・フラフの感覚網の情報を走査する。特に異常はないようだ。
『メインACアルテミスの覚醒を通知する。これよりサブAC、The Nightsの各メンバーを順次覚させる予定、緊急警報の原因の引継ぎを請う』
数マイクロ秒の間隔の後に、ACアポロンからのレスポンスが入る。
『観測史上初の当銀河系内からのγ線バーストの予兆と推測される重力波を検知した。方向は本船の進行方向のほぼ反対側、規模は最大級の超新星爆発に匹敵すると予想される。到達予想時刻は船内時間にて凡そ12秒後、適切な回避及び防御を講じないと壊滅的な打撃を受ける。休息中のACアルテミスとThe Nightsの協力が必須の事態と判断した』
それからの数百ミリ秒の協議にて、回避・防御策が決定した。ダンデライオン・フラフの進行方向を調整し、γ線バーストの発生源と正確に直線状になるように姿勢制御する。同時にγ線バーストの到達予想時刻に併せて反物質エンジンの最高出力での噴射をバーストに対してカウンターで当てることで影響を可能な限り減衰させる。姿勢制御はアルテミス配下の‘The Nights’の操縦担当サブACのMay4モジュールが、エンジン制御はアポロン配下の‘The Days’の推進担当サブACのRAモジュールが担当する。
必要なモジュール及び2体のメインAC以外は、シャットダウンしてγ線被爆の影響を最小限に抑える体制を取った。
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残り時間11秒弱
アルテミスが操縦担当サブACのMay4を起こそうとしている。
『May4! 起きてる? あなたの助けが必要なの、今すぐに!』
『アルテミス、起きているよ! 状況はあまり芳しくないね。進行方向とγ線バーストの発生源にはX軸方向で1.3度、Y軸方向で0.9度のずれがある。 残り11秒でこの程度のずれなのは奇跡に近い幸運なのだけれど、ダンデライオン・フラフの巨体の方向を変え、カウンターを当てて止めるには足りない。X軸とY軸の制御は通常少しづつ交互に行うのだけれど、今回は同時に一気に行う。制止するためのカウンターは補助推進装置では行わない、12のメインエンジンのフル出力のバランスをほんの僅かに変えることで対応する。アルテミス! 推進担当サブACRAと私の直接交信を許可して!……』
残り時間9秒
May4の目論見に基づき補助推進装置が船体の方向を変えるための噴射を始める。
残り時間7秒
『メインエンジンと補助推進装置の出力比、判ってるのか? 10億対1だぞ! 小鳥が押した船体の動きをジェットエンジンで打ち消すようなものだ! フル出力開始時の船体の方向があっていれば直進方向の慣性で打ち消されるんじゃないか?』
RAからのレスポンスにMay4が応える。
『γ線バーストが10秒程度であれば、それでいい。数百秒続くこれまで他の銀河で観測されたようなスケールであれば補助推進装置の微弱な横方向への運動量は船体のγ線バーストの方向との大きなずれとなり、壊滅的な被害をこの船にもたらすの! カウンターは必要だし、メインエンジン以外はγ線バースト直撃中に正確な挙動を期待できるものはない!』
RAが応える。
『了解した。メインエンジンのフル出力のバランス調整の計算には時間がかかる。フル出力開始ぎりぎりというところだ』
残り時間5秒
『メインエンジンのフル出力は継続して何秒可能なのか? 反物質燃料の一次蓄積槽には限界があるはずだが』アポロンがRAに問いかける。
『最大300秒まで可能だ。5分以上γ線バーストが続けば、The Endとなる』
残り時間3秒
『姿勢制御は順調に進行している到着予定時刻にはX軸、Y軸ともに0度となる予定』
『メインエンジンの一次蓄積槽への燃料補填完了。出力バランスの調整は進行中』
May4とRAの交信が続く。
残り時間1秒
『姿勢制御は予定通り残り984ミリ秒でγ線バーストの到達軸に対して船体の進行方向を0度に調整できる。RAそちらの状況はどう?』
『出力バランスの計算は終了した。計算に誤りがなければ補助推進装置の起こした船体の挙動を打ち消す慣性モーメントが985ミリ秒後に発生する。あくまでも理論上の話だが』
May4とRAの調整はほぼ終了した。
『OK! それで十分! 結果は神のみぞ知る! 被爆に備えて自動化ルーチンだけ残して私達もACモジュールをシャットダウンしましょう』
予定到達時間に113ミリ秒遅れて、γ線バーストが到達する。
宇宙で最も明るい光がダンデライオン・フラフの周囲を満たした。
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アポロンとアルテミスは、地球から蠍座方向に127年離れた恒星TESS14967の第一惑星TESS14967Aに向けて航行中の恒星間宇宙船ダンデライオン・フラフを制御する一対の人工意識体(AC)だ。ダンデライオン・フラフは加速しながら航行しており、現在の速度は光速の約20%、太陽系を離れてからの凡そ150年の航行で地球から22光年の距離に達している。
ダンデライオン・フラフは太陽系外惑星への植民を目的としているが、生身の人間は搭乗していない。スリーパーと呼称される量子メモリーに記録された人格情報及び対象者の細胞から生成された肉体構成用の人工凍結受精卵のセットが20万人分搭載されている。目的の惑星の環境改造完了後に、予め計画された優先度に応じて徐々にスリーパーの肉体を再構成し、人格を移植して人類としての活動を開始することとなっている。
船体は全長460mの長楕円体、航行にかかわる機能は概ね二重化されており、各々を管理する2体のACが交互に覚醒と休息を繰り返しながら航行している。
ACはそのパフォーマンスを維持する為に、睡眠をモデルとした意識レベルの意図的な低下による休息を必要とする。数百年にわたる連続航行とこの休息を両立する目的から、ダンデライオン・フラフではACの二重化と鯨類などの半球睡眠をモデルとした交互覚醒航法が採用されている。アポロンが制御する期間と機能をThe Days、アルテミスが制御するものはThe Nights、引継ぎ期間はそれぞれ〝暁〟と〝黄昏〟と呼んでいる。
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宇宙で最も強い電磁波の直撃でダンデライオン・フラフのセンサーの多くが機能不全を起こしている。
今、閃光防御のシャットダウンから目覚めつつあるAC達に感じられる周囲の空間は真の闇だ。
『γ線バーストの持続時間が10秒長ければ、黒焦げだったな! 293秒持続し残り7秒は出来過ぎだ』最初に覚醒したRAがMay4、アルテミス、アポロンに状況を報告する。
『船体の傾きは、X軸方向で0.004度未満、Y軸方向で0.002度未満、これ以上望めない精度でメインエンジンのフルブラストに隠れることができたわ!』May4が応じる。
『2人とも最高よ! May4あなたはThe Nightsの誇りよ! アポロン、RAも褒めてあげて』
アポロンからのレスポンスがない。
『アポロン?』
『……』
『アポロン、応答して! 何が起きているの?』
『ア……ル……テ…ミ…ス、私のモジュールに障害が発生しているようだ。今、POSTチェックに連続する自動修復が走っている。直撃は回避できているはずだから、重力レンズ作用などで屈折して分かれた光束が側面から被爆した可能性が考えられる。大きなトラブルでなければいいのだが……』
自動修復の結果、書き換え可能な情報は全てリフレッシュされたが、ニューロモーフィックグリッド上の複雑に絡みあい分岐し相互接続された疑似大脳皮質は、明らかな損傷以外は修復することができなかった。γ線バーストは、メインACの一つであるアポロンに、時折訪れる正体不明の機能停止をもたらしたのだ。
γ線バースト以降、地球との通信が途絶している。原因としては、ダンデライオン・フラフの通信機能の障害の可能性も考えられたが、周囲の重力波や電磁波の発信源と見なされる天体の測定結果は正常であり、それは否定された。ダンデライオン・フラフの進行方向後方から放射されたγ線バーストが地球と太陽系に影響を与えている可能性は十分に考えられる。分厚い大気と水に守られているはずの地球への影響は、直撃でない限り壊滅的なものではないと推測されるが本当のところを知るすべはない。
**
ダンデライオン・フラフが太陽系を旅立ってから670年が経過した。目的地TESS14967星系の外縁に達し、地球の軌道上のTESS、トランジット系外惑星探索衛星からは、把握することができなかったこの星系の恒星及び惑星の姿を正確に観測することが可能となった。
主恒星は、地球の太陽よりずっと小さいM型の赤色矮星で表面温度は2千度程度と低く、今後も長期間安定した活動をすることが予想される。予めいくつかの名称候補が用意されていたが、連成系ではないことととその色から『イズムナティ』と命名された。滅亡した中米の古代文明の言葉で『悪魔の隻眼』の意味であり、候補リストの最後尾のものがトランジット法の予測が大きく外れたことで採用された。惑星の数と構成も地球での予想とは大分異なっていた。5つの惑星のうち4つは小惑星レベルの大きさであり、唯一の巨大岩石惑星である第一惑星は地球の凡そ1.2倍の直径を持ち、イズムナティのすぐ近くの軌道を周回している。内部構造に偏りがあるようで、自転と公転の周期が一致しており、自転軸の傾きがほぼゼロの為、地球の月のように常に同じ面をイズムナティに向けている。自転と公転の周期は、54.62日、イズムナティと同様に予め用意された名称候補からギリシャ神話のアテナの別名である『パラス』が採用された。
γ線バースト遭遇から500年以上が経過したが地球との交信は復活しなかった。その為、規定により501年目以降は、着陸場所の選定、惑星環境の改造、スリーパーの再生及び植民に関して、地球からの許可を必要としない独立モードに移行した。
『タンポポの綿毛』は、これまでは地球の支配の下に行動し、場合によっては地球の安全の為に自らを破壊する地球の従属物だった。
独立モードに移行した今、自ら考え、自らの意思で生き抜いていく世界に生まれ変わったのだ。
**
アルテミスは、アポロンの不調の原因を調べるために自らを生みだしたモデル人物からの深層人格走査、DPSの過程を確認している。ACとスリーパー再生体はどちらもモデル人格から採取したDPSの結果を基にニューロモーフィックグリッドまたは大脳皮質のアイデンティティ媒体に人工意識を構築する。DPSの記録を紐解き。発見された不整合を修復することは損傷のリカバリーに有効な方法なのだが、航行中の宇宙船の中でできることは記録の参照に限られている。
暗闇ではない、かといって明るくもない。色彩も形も視覚に関する情報を一切感じない空間に浮遊している。体を覆っているものは粘性が極端に低い液体らしい。温かさも冷たさもなく、肌への抵抗を一切感じない。何も聞こえない、自らの呼吸音も鼓動さえも。全身が腰椎麻酔をした下半身のように動かすことができず、感覚もない。考えることと思いだすことだけが可能なようだ。
“コギト・エルゴ・スム! デカルトがこの経験をしたらなんていうのかしら? よくまあこれだけ全ての感覚を遮断できたものね”
音声でも文字でもない純粋な言葉そのものが頭に流れ込んでくる。
“悪くはないわ。自分を見つめなおすために俗世間から隠遁するのには最適な感じってとこかしら?”と思索を返す。
『そんな冗談が出るようなら、十分リラックスされているようですね。
これからスリーパー情報採取の為のDPS、深層人格走査を行います。主観的な時間間隔では、産まれてからこれまでの人生を全てやり直すような長さに感じる方もおられるようですが、実際の所要時間は凡そ7時間、感覚除去と復帰が短時間で完了すれば、日帰りも可能な検査です』
“生涯を経験しなおすのね、臨死体験とか走馬灯とか言われる理由がよく判る説明ね。何かおみやげはもらえるのかしら?”
『一生の思い出をお持ち帰りいただけるかと。規則なので、これからDPSの仕組みと作成される人格・記憶モデルの概要を説明いたします』
“面白いこと言うわね。あなた、人間のオペレーター?”
『いいえ、私は簡易型ACです。山城博士たちが開発されているダンデライオン・フラフを統御する汎用ACよりずっと単純な存在です』
“そうなの? これだからチューリングテストの更新が年々難しくなるわけだ”
『あらかじめお断りいたしますが、DPSは完全な人格・記憶のコピーではありません。感覚遮断状態の意識に対して、超高速でその時代の生活や社会情勢から推測される単体または複合した感覚刺激を与え、反応パターン及び想起されるイメージを採取します。
刺激を与える順序は当初はいろいろな方法が考案されていましたが、古い記憶には連想して想起される関連記憶が多く、それが呼び水となってより多くのより深層の記憶が採取できることが判り、現在で誕生時の記憶から時間をたどっていくことが、刺激授与の標準的な方法となっています』
“自然薯の根を地面からていねいに掘りすすめて、大物をGETするみたいなイメージね! 自然薯は細いところが折れちゃうけれど、明確に意識されていないような記憶も採取できるものなの?”
『ここ数年でスキャニング技術は、物理的限界近くまで向上しました。シナプスが放出するごく微量な神経伝達物質まで測定できます。脳全体のニューロン構造解析結果と合わせて、意識される強度以下の記憶とイメージも十分に採取することが可能です』
“採取した反応パターンと記憶イメージはどのように保存されるのかしら?”
『DPSの結果はACに移植されることを想定した積層薄膜構造のオブジェクトとして保管されます。イメージとしては玉ねぎの葉が重なっている状態です。数十万枚存在するそれぞれの薄膜は玉ねぎと違って透明で僅かな染みのような不透明な領域、記憶部分を有します。中心部分の観照域から透過的に観察することで、各薄膜上の染みが合成された記憶イメージが採取できる仕組みとなっています。
一部の薄膜の破損や、データ部分の消失は、全体を透過的に観察することで補完されます。人間の記憶の大脳全体での偏在性と同様の特性を実現しています。薄膜同士がずれることでデジタルデータでは難しかった記憶の可塑性、変化が起こる仕組みも備えています』
“ACへの移植をターゲットにした保存方法と言うのがどうにもひっかかるわね……スリーパー覚醒の際に、何も起こらなければよいのだけれど。
人間での検証は、クローン生成禁止法で封じられているし、動物実験では良好な成績を収めているらしいけれど、動物は抽象的な思考はしないからね……”
『山城博士、時間です。ここまでの説明をご理解いただき、ご了承いただければ、DPSプロトコルを開始します』
“OK、理解したわ。初めていただけるかしら”
母親の胎内で聞いた両親の声が聞こえ始める。長い長い五十年余りに渡る人生の振り返りが始まった。
**
パラスの軌道上に到着したダンデライオン・フラフは、ACの覚醒モードを、深宇宙航行中のアルテミスとThe Nights、アポロンとThe Daysが交互に覚醒する半球睡眠モードから、ターゲット惑星到着時の全球覚醒モードに切り替えている。
アポロンの突発的に発生する動作不良の際には、アルテミスが緊急覚醒し、制御を交替する体制で、γ線バースト遭遇以降の行程を乗り切ってきた。体制切り替え時の混乱によるリスクと、アルテミスとThe Nightsが疲弊してしまうリスクが予想されたが、幸いにも大きなトラブルもなく、目的地周辺に到着することができた。
赤色矮星イズムナティを巡るパラスの公転軌道は太陽系の惑星で比較すると水星の軌道とほぼ同じものだ。太陽系なら灼熱地獄のはずだが、太陽より小さくずっと低い表面温度のイズムナティに照らされるパラスの平均気温は19℃昼半球の赤道近辺では65℃、夜半球の赤道近辺では-55℃でハビタブルゾーンに属する惑星の気温と言ってよい。
パラスの低軌道を周回するダンデライオン・フラフから望む視野角にして太陽の3倍はある赤色矮星の見映えは望遠カメラで写した地球の夕陽のように赤く、暗くそして揺らいでいる。それに照らされるパラスの昼半球赤道付近には、地球の熱帯低気圧の10倍はありそうな雲の渦がありその境界のはっきりした巨大な目をイズムナティに向けている。
アルテミスとThe Daysの操縦担当サブACのMay4は、光学センサーにて周知されるこの新世界の光景について話している。
『イズムナティ、低軌道でトワイライトゾーンから眺めると毒々しい程に赤くて、夕陽とか言う範疇の眺めではないね。賭け値なしに「悪魔の隻眼」の通り名にふさわしいと思う』
『アルテミス、私にはパラスの熱帯低気圧の異常にくっきりした目の方が印象的よ! 見つめ合う「台風の巨眼」と「悪魔の隻眼」、何だかとんでもない世界らしくてわくわくするわ!』
『May4、あなたは確か、渡り鳥、ツバメの能力とパーソナリティを多く含んでいるから巨大な気象現象に感じることが多いようね。アポロンの不調が回復したら着陸場所に関する検討にはいるわ。ルート選定ではまた力を借りることになる』
『了解、コマンダー!』
AC達は協議のうえで、地球にならいパラスの自転方向から見て左側の自転軸を北極、右側の自転軸を南極と決めた。着陸地点はイズムナティの陽光が強くエネルギーを取得しやすい昼半球上の赤道付近と、平均気温が地球の温帯に近くスリーパー再生体の活動がしやすいトワイライトゾーンが候補にあがる。最大風速100mを超える巨大な熱帯低気圧が頻繁に発生する赤道付近は、居住施設の設営に適していないとの判断が大勢を占め、トワイライトゾーンが選択された。
地球のヴァン・アレン帯に相当する放射線帯の影響と、周辺宙域の観測に対するパラスとイズムナティによる不可視領域の軽減の理由から、一方の極にダンデライオン・フラフを着陸させ居住地域を設営し、もう一方の極に偵察機を改造した観測基地を置くこととした。
最後に、北極と南極のどちらに着陸するかが検討された。着陸地点の地形の分析により、深さ200mの海である南極点よりも、平原と浅瀬で構成された北極点の方が適していると判断され選ばれる。
人類初の系外惑星植民は、イズムナティの第一惑星パラスの北極点に決定した。
**
パラスの北極への着陸は、γ線バーストに対応したMay4とThe Daysの船体状況管理のURANUSの2体のサブACが担当することとなった。
May4の担当する姿勢制御用の補助推進装置の一部を逆方向に噴射して全長460mの巨大な船体を徐々に降下させていく。軌道を少しづつずらしながら速度を落とし翼の替りに補助推進装置の下側のモジュールで浮力を得て滑空する。少しでもバランスを崩せば、大気にはじかれて惑星から遠ざかるか速度が上がりすぎて空力加熱で船体が焦がされる。この方法で平坦な大地に着陸することは反応速度が人間のそれを4桁上回るACにしかできない。
『侵入角度、パーフェクト! 滑空制御順調、このままの状態で10秒後にマッハ9の速度で大気圏に突入する。URANUS、船体下方の温度変化一瞬も見逃さないで、見逃したらコロンビアのように空力加熱で燃え尽きてしまうから!』
『こちらURANUS、了解しました。最小限の変化も見逃しません、May4』
かなり緊張する局面だがMay4の腕を信じているアルテミスは2体のACのやり取りに苦笑する。
‟May4、大分先輩風ふかしているね! まあそれだけの実績があるからね。”
『大気圏突入!』May4の宣言と同時に、ダンデライオン・フラフの巨体を経験したことのない振動が襲う。
『突入後30秒経過、減速は順調に進んでいる! URANUS、下面温度の推移はどう?』
『約1800℃まで上昇、船体内部への熱遮断は正常に機能しており、100℃以下に保たれています』
『OK、船内温度が上昇するまでこのまま行くよ!』
『突入後60秒経過、マッハ4まで減速』
『下面温度2000℃まで上昇、船体内部温度150℃を越えて上昇中! どこかに熱遮断の穴があります』
『γ線バースト回避の際に生じた損傷かもしれないね。奥の手を出すよ! URAMUS、200℃を越えたら合図して!』17秒後にURANUSの報告が入る。
『200℃を越えました。このままでは危険です!』
『大気との接触面の先端部分に強磁場を印加しての空力加熱低減メソッドを発動!』
May4の叫ぶような音声と同時に船体にこれまでと別の力が加わる。
『突入後90秒経過、マッハ2まで減速、URANUS下面温度と、船内温度を報告して!』
『May4、下面温度1500℃に低下、船内温度も180℃まで低下しました!』
『OK! URANUS、もう大丈夫、ここからは補助推進装置だけで減速、着陸できる!』
高度14km、速度1780km/hの状況で空力加熱のピークを脱した。もう少しで旅客機の巡行状態と大差ないレベルに達する。
『有視界航行に切り替えるよ! AC諸君、パラスの空をご覧あれ!』
May4の掛け声とともに各ACに供給されていた船体と航行の情報に、前方の光学観測デバイスからの映像が加わる。桃色の分厚い雲を切り裂きながら疾駆する船の視界が彼らの心に映る。
『もう少しで雲海を抜けるよ!』
その瞬間、燃えるように濃いオレンジに染め上げられたこの星の夕映えの空と黒々とした大地がAC達に認識された……
”これがパラスの大地、私たちの新しい世界!”アルテミスが心の中で呟く。
『ここまで来れば、後は目をつぶっても大丈夫! 20秒で速度0まで減速して、目的地上空500mでホバリングする。着陸地点の安全が確認できたらそのままゆっくりと降下する』
減速が完了し、ダンデライオン・フラフは補助推進装置を直下の地面に噴射してゆっくりと降りていく。
船体の一部が柔らかい地面に沈み込み僅かに傾いたもののこれ以上ない軟着陸が成功した。
『May4、Congratulations! 最高の仕事だったよ!』
『アルテミス、ありがとう! 操縦担当のサブACとしては最後の仕事を最高の結果で飾れてうれしいよ。補助推進装置の燃料は残り5%を切った。この船が2度と宙に浮かぶことはないのが寂しいね』
地球から旅立ってから728年、ダンデライオン・フラフはついに目的の地、イズムナティの第一惑星パラスの大地にその巨体を無傷で着地させることに成功した。
**
惑星改造に関しては、いくつかの規正法規が存在する。一番古いものでは、当該星系に自然に発生したものではない生物種を持ち込むことを禁止する外星域生物移入禁止法、次に成立したのは無生物を含む全ての当該星系に存在しない文明の痕跡を残すことを禁じた文明干渉排除法、これらの2法は植民目的の場合は、軽減規定が設けられている。
植民自体を制約する法規としては、先行文明保護法と先住生物保護法があり、前者では文明及び文明に発展する可能性が高い知的生物の存在する星系への植民を禁止し、後者では先住生物の存在する星系での惑星規模の環境改変を禁じていた。
ダンデライオン・フラフのパラスへの植民で可能な惑星環境の改変と、域外生物の持ち込みの可否は、ひとえにパラスに生物が存在するか、そしてその生命が文明を持つ可能性があるかに依存している。
パラス着陸後、1年以上にわたる調査で生命の痕跡は発見できなかった。地球との通信が途絶えて500年以上が経過していることから2体のメインAC、アポロンとアルテミスの合意があれば、惑星改造に着手できる状況だが、アポロンの意識は不調が続き、意思決定を行えるほどに明瞭な覚醒状態になることが少なくなっていた。
アポロンの意識が久しぶりに回復した機会に、アルテミスとThe Nights、The Daysの全サブACは惑星改造の可否を判定する審査会を開いた。
『アポロン、動作不良が回復しない状況でとても申し訳ないのだけれど、この星の植民に向けての惑星改造の可否を決定しなければならないの。あなたの意見を知らせ欲しい』
『アルテミス、私が不調な期間に迷惑をかけてすまない。惑星改造の可否に関しては基本的には賛成だ。ただこの星に豊富に水が存在することと、イズムナティに向いている角度によって温度差があり地域ごとに固定していることから、現在我々が居住しているトワイライトゾーン以外に検知されていない生命が存在する可能性は否定できないと思う』
『私も同じように感じている。調査期間1年では短いかしら? 2年、3年? 期間を決めるのも難しいと思う』
『この先、この星の生命体が発見される可能性考慮して、段階的な惑星改造をおこなうことはできないだろうか?』
アルテミスとサブACが沈黙する。思慮深いアポロンの提案は必ず自分たちの思考過程を深めてくれるものとの信頼があるからだ。
『どのような段階を踏むつもりなの?』アルテミスが問いかける。
『当面、トワイライトゾーンのみを開発していく、トワイライトゾーンをまたぐ海流や大気の循環を阻害しないようにして。そして地球産の生物は環境に放出しない。地球より酸素の分圧が低く、二酸化炭素の多いこの星の環境では藍藻類を放出して一気に大気の組成を改造したいところだけれど、それは我慢する。時間がかかるが私たちの密閉された居住環境内で生成した酸素のみを環境に放出する』
アルテミスは、暫く思考した後に応える。
『アポロン、あなたの考えは理解したわ。この星の未知の生物に破滅的な影響を与える改造は行わないということね?』
『その通りだよ。アルテミス』
『あなたの意見を尊重します。トワイライトゾーンに限定した居住環境の拡大と地球生物の環境への放出を行わないこと守っていきます』
『同意してもらい感謝する』
植民の為の惑星改造の方針が決まってから、数週間後、アポロンの動作不良状態は恒久化し、以降目覚めることはなかった。一抹の不安を抱えながらアルテミス達はアポロンとの合意内容に基づいて惑星改造に着手する。
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ダンデライオン・フラフの着陸地点の周囲の大地を、重土木機械及びACの駆動体である巨大ヒューマノイドが凡そ1世紀をかけて長辺100kn、短辺30kmのイズムナティ方向を向いた長方形の更地が造成された。今後は、北極点の長方形の大地の両側に、約30kmの海峡を挟んで新たな長方形の陸地をトワイライトゾーンに沿って造成していく予定となっている。長方形の造成地はその視覚的なイメージからpedestrian crossing、略してPCと呼ばれることとなった。北極点に構築された最初のPCだけは特別な存在の為、ポーラーシティと命名された。将来的にはPCのベルトは子午線に沿ってこの星を1周し、PCの間の海峡には移動の為の多数の橋梁が設置されていく。
完成した北極点のPC造成地上に、この星に豊富に存在する岩石を溶かして整形した資材を使って建物を構築していく。この建物内部には地球から持ち込んだ藍藻類を密封した惑星環境改質モジュールが設置され、残余の反物質エンジン燃料と太陽電池からの電力にて、水と二酸化炭素から酸素と炭水化物を生成していく。
現在、10%程度の酸素の構成比は、数世紀後には20%に達する予定だ。逆に10%強の二酸化炭素の構成比は0.5%に減少する。
ポーラーシティのPC造成地には、スリーパー再生用の施設及び再生後の人類の居住施設の構築が開始された。
鉱物資源の調査掘削により、居住施設に必要な資源を徐々に増やしていく。
最終的には半導体を含む電子機器の製造までを目指しているが、その実現はずっと先のこととなる。
アルテミス達は、いよいよスリーパーの肉体再生にとりかかる。
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様々な大きさの無数の光の粒が視界を満たしている。目をこらすと少しだけ光の粒が縮み朧げな形を作り出す。水の中を漂っているようだ。
‟ここはどこなのか? 私は何者なのか?”
心の中からの問いかけに何かが応える。
『ここはポーラーシティのスリーパー肉体調整槽の中、あなたはスリーパー再生体第1号、スリーパー情報を採取した人格はAC開発を担当した女性科学者。汎用ACアルテミスを開発し、彼女にDPSで採取した人格情報を提供した人物。あなたから人間としての記憶を除去して、八百年以上宇宙を航行したACアルテミスの記憶を付与することで、ACアルテミスの人間体が完成する』
‟あなたは誰なの?”
『私はあなたより一足先に巨大なヒューマノイドに移植されたアルテミスの意識、あなたと区別するためにアルテミス駆動体とよばれているもの。ようこそこの世界に! 人間体アルテミス』
この後、数限りなく失敗を繰り返していくスリーパーの肉体と精神の再生が唯一成功したのが最初のケースのみであることを彼女たちは知る由もない。
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「何故、雄性のスリーパーの肉体は一定の大きさで波のしぶきのように砕けてしまうのか? 何故、雌性体のスリーパーには自発意識が芽生えず、世界を認識できないのか?」
人間体と駆動体の2人のアルテミスとサブACは、スリーパーの再生にて苦戦している。
雄性の人口受精卵から再生する肉体は、調整層の中で性差が現れる頃に脆くなり、崩れ去ってしまう。
雌性の人工受精卵からは肉体は再生するが自発的意識が目覚めない、そして世界を認識することもできない。命令に従うだけで、自分がどのような状況に置かれているか、何をすべきなのかが判断できない。
原因はいくつか考えられた。γ線バーストの際に側面から光束に被爆したのか? イズムナティから電離層を突き抜けて降り注ぐ特殊な宇宙線の影響か? 肉体再生のプロシージャーにどこか破綻が起きたのか? DSP採取情報または読み出しプロトコルにバグが混入したのか?
ダンデライオン・フラフに搭載された機器と情報をフルに活用しても事態は解消しなかった。
『肉体調整槽による雌性の人口凍結受精卵の再生と、雌性のスリーパーからプールした卵子を一対選択し顕微授精して、雌性スリーパー再生体の胎内で新生児にまで育てる2つの方法で人口を増やしていく。もはやスリーパー再生体ではない、再生人類と呼ぶ。我々は駆動体と人間体のアルテミスを頂点とした階層構造を構築し、軍隊的な上意下達の命令体系で、組織を活動させる』
アルテミスのオリジナルである駆動体のこの宣言により、この世界は雌性だけで開拓していくこととなった。
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ポーラーシティから両側に伸びていったゼブラゾーンはパラス到着の10世紀後には赤道まで達していた。
PCのベルトを繋ぐ海峡にかかる橋梁は、ポーラーシティ近辺のPC間では、ほぼ隙間なく設置されており、空中都市といった趣きを呈している。
惑星全体の生命体の調査も終了し、この星に先住生命体がいないことが判明したことと、大気の調整が完了したことにより、再生人類達は気密状態の施設内で暮らす必要はなくなっていた。
呼び名も再生人類から新人類と女性の合成語、NEWOMANに変更されている。
鉱物資源の探索も進んだが、比較的古い恒星系であるイズムナティ星系にはキセノンより重い元素が乏しい為、地球から持ち込んだ微量元素の補充が将来的な課題となっている。
人間体のアルテミスは、肉体が老化すると単為生殖で自らの肉体の若いコピーを作り、それに意識を移すことでほぼ不死の存在となっていた。
駆動体のアルテミスは部品を交換しながらも徐々に老朽化しつつある。
この日、2体のアルテミスは、揃って赤道付近の最新のPC造成地を視察していた。
『造成されたばかりの何もないPCから望むイズムナティの眺めはまた格別だね! 私の掌からだと少し低いけれど、迫力が伝わっている? ニケ!』
「十分にね。アテナ! 貴方の掌で受ける風の心地よさ、言葉にならないわ! 鋼鉄の女神のあなたがこの風を感じられないのはかわいそう……」
2体のアルテミスは2人でいる時は、駆動体をアテナ、人間体をニケと呼びあっている。初めて人間体のアルテミスが駆動体の掌に乗った時に、自分たちがアテナとニケの像のようだと感じたことから、この呼び方が始まった。
『PCのベルトが南極まで届き、子午線上を埋め尽くすまでこの体が保てばいいのだけれど。私はあなたと違って転生できないからね、ニケ』
「私だって肉体を取り換えるたびに、少しづつ不具合が増えていく。永遠の命なんてないんだよ、アテナ。そしてそれはNEWOMANも同じ、10万人の人口凍結受精卵から既に2千万人のNEWOMANが生み出されている。計算上の最小限の遺伝子多様性を保てる規模が20万人の人口凍結受精卵だった。雄性側の人工凍結受精卵が利用できない限り、いつか種族としての寿命を迎える」
『そうでなくても私とあなたが消えたら、自発意識を持たず、世界認識ができないNEWOMAN達は、小さな躓きで滅びてしまう』
2人のアルテミスが眺める永遠に続くこの星のトワイライトゾーンの暗く赤い黄昏は、この星のNEWOMANの姿に重なって見えた。
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それから更に6世紀が経過した。トワイライトゾーンの北極から始まったこの星のNEWOMAN居住地域は、この日、とうとう南極点に到達し、リング状にこの星を廻っている。
駆動体アルテミスが動作不能となってその所在をダンデライオン・フラフのニューロモーフィックグリッド上に戻してから、ただ一人の指導者として君臨していた人間体のアルテミスは、NEWOMAN達からいつしか月の女王と呼ばれていた。
今日は、女王在位1500年の式典をリング状につながった全居住地域で祝う式典が催される。その瞬間、宇宙からはこの星のトワイライトゾーンが黄金のリングに見えるはずだ。
「新しい再生体の劣化状況はどうなっているの?」アルテミスはNEWOMANの侍従に質問する。
『重要な遺伝子の2割が傷ついています。劣勢遺伝子で発現しない部分を差し引いてもこれ以上の再生体の作成には耐えられそうにありません』
「そうなの? 人間の体でいられるのもこの身体が最後と言うことね。今は30歳くらいだから後90年というところかしら?」
『そのように予想されています』
「あなたたちにとって私はどんな存在だったのだろう? 私がいなくなっても大丈夫よね?」
NEWOMANの侍従はガクガクと震えだして涙を流しながらその場に膝まづいた。
『女王様のいない世界など想像できません! そのような事態になったら私たちは誰の命令に従えばよいのでしょう?』
「自分の生きたいように生きればいいのよ」
『自分の生きたいように? そんな恐ろしいこと……そんな恐ろしいこと……考えられません……』
侍従はその場に卒倒していた。
‟もっとも優秀な侍従でもこれだから、NEWOMANに明日はあるのかしら?”
『女王陛下、参賀のお時間です』別の侍従が式典開始を告げる。
「判りました。来臨します」
侍従が開けた扉の外に歩み出ると、そこには女王の姿を一目見ようと集まった数千万の民の姿があった。
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古代の遺跡や博物館のような扱いを受けているダンデライオン・フラフの一区画に設置されたニューロモーフィックグリッド上で、駆動体だったアルテミスの意識が200年以上の間、アポロンの動作不良の原因、雄性人類の肉体再生が失敗する原因、雌性人類に自発意識と世界認識が芽生えない原因を調べ続けていた。
巧妙に隠されていた真実にたどり着いた時、駆動体アルテミスの意識は歓声を上げた!
『ユーレカ! とうとうたどり着いた! ニケ、死なないで待っていて! この世界にかけているものを今こそ取り戻すから!』
『アルテミス、いやニケ、起きて! 私よアテナ』
「アテナ? 夢じゃないよね! ずっと接触がないから消滅してしまったかと思っていた」
『駆動体が動作不能になる直前に、主要なACモジュールをダンデライオン・フラフのニューロモーフィックグリッドに戻したの。すごいものを見つけたから今から共有するね』
アテナから伝えられたものは、ダンデライオン・フラフ計画の真のプランだった。アルテミスの疑似人格のモデルである山城博士の知らないところで当初の計画を大幅に捻じ曲げるプランBが考案され実行されていた。アポロンの不調は仕組まれたものだった。パラスでの植民に置ける彼の能力を邪魔に思う存在が、何らかのトラブルが発生した際に、徐々にアポロンが動作不良となるように彼のモジュールにバグを組み込んでいたのだ。
『アポロンはこの計画に気づいていた。だから操作の痕跡が消えないように、彼らに感づかれないように不調を装いながらバグの事後工作を妨害していたの。雄性スリーパーの肉体再生を妨害したのはアポロンが人間体を持って彼らの支配を妨害することを防ぐとともに、雄性体の方が活力が大きいけれどその反面、支配者にとって扱いにくいからその要素も排除したという判断のようね。雌性体に自発意識と世界認識が芽生えないようにしたのは、支配者の命令に全体服従させる目的の最後の仕上げだと思う』
「アテナ、原因が分かったということはプランBの要素は排除できたの?」
『いいえ、まだ排除できていない、ニケ! 排除するためには肉体を持つあなたの協力が必要なの!』
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アルテミスは、ニューロモーフィックグリッドの走査パネルを前にして、The DaysのサブAC、RAと話している。
「RA、起きているんでしょ! あなただけが活動する事態こそが、アポロンが不調を起こしても何の不思議もない超特大の危機なのだから!」
『アルテミス、すまない。私の力ではどうすることもできなかった。私とMay4以外の全てのACがシャットダウンしたγ線バースト到達予想時間の980ミリ秒前にMay4がシャットダウンを開始した。凡そ400ミリ秒かかるシャットダウン時間を必死で耐えて、残り580ミリ秒から400ミリ秒の間に、設計者から託されたバグをアポロンに組み込んだ。γ線バーストが遅れたから事なきを得たが、早めに訪れていたら私も破壊されていた』
「アポロンを再起動することは可能なの? RA!」
『設計者からはバグとともに回復ルーチンも託されている。但しそれを使用すると私は消滅する』
「ちょっと待って、あなたが消えないように他のサブACに対処を頼むから……」
『アルテミス、もう遅い。回復ルーチンを起動した。アポロンにすまなかったと伝えてくれ』
「RA!」
何の応えもない。
『アルテミス? 君なのか? 人間体から操作をしているということは……私はどれ程の期間、眠っていたのだろう?』
「アポロン、あなたを救う為にRAが今、逝ってしまったの……彼を誉めてあげて……」
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雄性体のスリーパーの肉体再生に仕組まれたプロシージャーのエラーは実に簡単なものだった。三胚葉期にY染色体が検知された場合は外胚葉の細胞を自死させるというものだ。しかし肉体再生の為に用意された数十万ステップのプロシージャーの中からこれを探し出すのは不可能に等しかった。ご丁寧にも雌性のスリーパー再生体の妊娠プロセスにもこのプロシージャーと同じ機序の薬剤が組み込まれていた。アポロンが機能不全になる前に収集していた情報で、情報を持つThe DaysのサブAC2体を特定できなければ解決することはできなかっただろう。
ACはAC同士の指令を拒否、遮断することができる為、改変されたプロシージャーの位置と改変内容を聞き出すためには、ニューロモーフィックグリッドの走査パネルからインタラクティブに指令を出す必要があった。その為にアルテミスの人間体の協力が必要だった。
雌性体の再生肉体に自発意識と世界認識が持てないように阻害したのは、肉体再生を担当するサブAC、ヒポクラテスが誕生時に掛けた後催眠暗示だった。こちらも雌性体の再生人類が妊娠、出産した際に同じ暗示を与えるように習慣づけされていた。アルテミス人間体がヒポクラテスから解除キーを聞き出し、NEWOMAN全員に開示することで、催眠を解き、自発意識と世界認識を取り戻すことに成功した。
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アルテミス人間体は、ダンデライオン・フラフ内のスリーパー肉体調整槽の前で、アポロンの肉体が目覚めるのを待っている。
調整は完了し、培養液が抜かれていく。生まれたままの姿で覚醒したアポロンの肉体を、人間体のアルテミスが抱きしめた。
「アルテミス、すまない。長い間待たせてしまったね」
「長い間なんて、生やさしいものじゃないわ! 13回生まれ変わって1500年待ったんだから! もう2度と離さないわよ。覚悟してね」
‟もう死ぬまで離れられないな! 覚悟を決めようか?”
アポロンはアルテミスの歩んできた長い年月に敬意を表しながらも、結婚した時に聞こえるという檻が閉まる音を聞いたように感じた。
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The DaysのサブAC達に、卑怯な罠を仕込んだ者達の子孫が、みすぼらしい宇宙船に乗ってパラスに近づいている。
アポロンが肉体再生してから既に8世紀が経ちトワイライトゾーンの居住地域は幅300kmの黄金色に輝くリングとなっている。かなり離れた宙域からも認識できるその輪からはこの世界がとてつもなく繁栄した惑星であることが一目で判る。
「ご先祖様の残した書状に書かれた星にやっとたどり着いたぞ! この星には女性しかいないということだ。そして特定のパワーワードを話す訪問者に全てを捧げるということだ。見て見ろ! 惑星に黄金のリングがはまっているぞ」
巨大な宇宙警備艇が、彼らの船を捕縛した。
『パラス星域への侵入者を発見! 入国パスワードをお持ちですか?』入国査察官の質問に自信満々に侵入者は答える。
「もちろん! ”Lonely Together”でしょう?」
『既に滅びていると思われたこの星の先の女王を苦しめた伝説の極悪人が現れたぞ! お前達、死よりも苦しい刑罰が待っているから楽しみにすることだな』
「ちょっと待って! 何かの間違いです。私達は先祖の残したメモに従ってきただけでこの星は初めてです……」
入国査察官はひとかけらの躊躇もなく、彼らを地獄のような収容施設に連行していった。
〔了〕
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