カオスポートの囚われ人

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梗 概

カオスポートの囚われ人

近未来の香港。九龍城区の啓徳空港は再び空港として利用されているが、拡張が繰り返されて奥部が迷路になっており、混沌空港カオスポートと呼ばれている。そこでは必要最低限の人間と無数のロボットたちが働いており、ロボットは空港の中で自動誕生し、代替わりをしている。

空港に置き去りにされた子ども・璃璃リ-リ-は、ロボットに保護され育てられた。彼女は空港で過去の廃棄物の欠片や落とし物を拾い、夜ごとに絵やコラージュを創り、小さな世界を構築している。     
 ある日璃璃は、落とし物の中にIDチップを見つけ、持ち主のアンディと出会う。空港に不法滞在しているアンディは、乗換でカオスポートに立ち寄ったが、国籍のある新興国が他国に侵略されて飛行機が飛ばない。その上パスポートに制限がかかり、空港から移動することもできないという。

空港の人間の職員は、よそ者のアンディを追い出したいが、避難民になった彼を追いやる場所がない。
 璃璃とロボットは、アンディに寝床や食事を提供する。アンディはお返しとして、璃璃に知識を与え、ロボットの機能を拡張し、より広範囲なネットワークへの接続方法等を共有した。

アンディは語る。彼は、この国で生まれた時には親がなく、農村戸籍とされ、本来は移動も叶わなかった。そして苦学によって新階級のエンジニアの職を得、技能によって新興国で永住権を取得したのだと。
 璃璃はアンディに親近感を持つようになり、人間の中ではアンディにだけ自分の作品を見せる。アンディは璃璃に、一度捨てた漢字名を教える。

アンディの住む新興国の紛争はいったん収まり、パスポートの効力も復活する。一方、国籍もパスポートもない璃璃は移動できない。彼女は、寂しいながらもアンディを送り出そうとする。しかしアンディの胸の内として、璃璃を置いて去ることはできない。

空港の人間の職員は、アンディを早く追い出そうとして、誤って大怪我を負わせる。アンディは特殊な体質で、カルテがある新興国に移送して最新の医療措置を行う必要がある。しかしアンディは、問題を起こした以上は再びここには来れないが、璃璃が一緒でなければ移動しないと告げる。

そのままではアンディが死ぬと嘆く璃璃。ロボットは璃璃に、彼女の創った作品を新興国のアーティスト支援団体に見せ、かつてアンディがやったように永住権を申請することを提案する。ロボットは、アンディの与えた情報収集能力や解析力により、璃璃の作品の価値を理解するようになっていた。
 かつての璃璃は、空港の外に移動することも、作品を他者に見せることも怖かったが、親友のロボットが認め、アンディが幅を広げてくれた作品世界を自分で認めるべきだと思い、支援団体に作品を開示する。

結果、璃璃は永住権を認められ、新興国へ移住できることになる。彼女は空港を発つ日、自分の作品がいったん完結したと感じ、次の作品世界の構想が浮かぶ。

文字数:1199

内容に関するアピール

この話では、主人公の璃璃が生まれ育った場所はカオスポート、離れる方法は自らの技能(アート)です。

作家の中には、自分のためだけに作ったり、散逸防止のために人目につかないように制作する人もいます。その場合、見る目のある人が見つけない限り、作品が世に出ることはありませんが、作家本人や身近な人は価値に気づけないことも多く、過去には消えてしまった作品も多数あると思います。

作中では、アンディから与えられた機能を元に、ロボットたちが璃璃の作品の価値を見つけます。過去であれば見出されなかった価値を、新しいテクノロジーで発見します。

作品世界に浸ることに満足していた璃璃は、アンディとの関わりで外の世界と接触します。また彼女にとって空港を離れることは、初期作品をいったん完結させることでもあります。

生まれた場所を生まれた後の力で離れ、生まれた場所の意味を主人公の中で変えていく話にしたいと思います。

文字数:392

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混沌空港カオスポートの囚われ人

欧州東端に位置するオストランド共和国の首都国際空港は、気鋭の建築家の手による設計で、飛び立とうとする鳥を思わせる形状だ。
 銀白色にきらめく外観から空港内に目を移すと、内装は化学特殊ガラスや超高強度リノリウムなど、最新鋭の素材で構成されているのが見て取れる。
 内部空間では、箱のような形状の清掃用GIGeneral Interfaceや、人に近い形だが、額の認証マークで機械だと見て取れる最新の人間型ロボット、HIHuman Interfaceなどが静かに動き回っている。GI・HIたちの休みない管理のおかげで、空港はちり一つなく、ごみの類はGIがすぐさま拾得物として片付けていく。床も壁も天井も清潔で、ぴかぴかに磨き上げられている。
 空港中央のロビーから、アジア方面の飛行機が発着する搭乗口方面に移動すると、動く歩道Autowalkの通り道に、国立現代美術館のポスターが貼られているのが目に入る。
 ポスターには、美術館の常設展の名である『混沌空港カオスポートの小さな世界』というタイトルが印刷されている。ポスターの写真に使われているのは、小さなカードが張り巡らされている展示室をバックに、こちらをまっすぐ見つめる女性のポートレートだ。彼女の隣には、子どもくらいの大きさの、白い旧型のHIが控えている。そしてポスターの右隅には、オストランド語と中国語で、「私たちは、アートの力でどこでも行ける」というメッセージが記されている。

1.
 香港の九龍ガウロン城区の、海に向かって突き出ている土地に、啓徳カイタック空港がある。
 啓徳空港は、建設時、英国と中国の治外法権だった九龍城塞の一部を取り壊したことから、空港全体に九龍城塞の猥雑な空気が持ち込まれた。また、建設員に九龍の住民が多かったことから、空港と九龍城塞との間に秘密の地下道が違法で作られた。地下道は見つけ次第取り壊されたが、数日後には別の地下道がつくられた。
 空港や九龍のトップが数か月単位で変わる中、啓徳空港の地下構造は混沌を極め、地下道には居住スペースのほか、屋台や神々を祀る廟、休憩所や小さな店などが立ち並ぶようになり、九龍城塞の一部が空港地下に移植されたような風情になった。啓徳空港の地下街の存在は、いわば公然の秘密となり、空港は、揶揄と畏れをもって、混沌空港カオスポートと呼ばれるようになった。
 やがて九龍城塞は取り壊されるが、九龍城塞の雰囲気が残る啓徳空港と、九龍城塞の写しである空港地下街は残った。香港が完全に中国へ譲渡され、人々の生活形態が変わる中、空港地下街の人口は減っていった。 
 ある時期、空港には、人間型ロボット、HIが大量に導入された。小学校高学年の子どもくらいの大きさで、人型を模した白い体をし、額の大きな認証マークと愛嬌のある目鼻を特徴とするHIのうちの一体は、地下に潜る「入口」の付近で、助けを求めるような泣き声を聞いた。人間には聞こえない小さな声を認識したそのHIは、入り口と地下へ続く道を発見した。そして置き去りにされて泣いている赤ん坊を発見し、そっと抱き上げたのだ。
 HIの白く柔らかい樹脂は、人肌程度に温かい。赤ん坊は泣きやみ、相手の表情のない顔を、つぶらな瞳でじっと見つめた。HIが赤ん坊の白いおくるみをめくると、鮮やかな紅の刺繍で「璃璃リーリー」と書かれていた。

璃璃は空港地下街で育った。彼女が赤ん坊のころは、心ある老人が少しだけ残っていて、どこからか食糧を調達してくれる一体のHIと共に、彼女を育ててくれた。読み書きなどの基本的な教育は、HIが補完してくれた。しかし老人たちは亡くなり、地下街からは人影が消えていき、やがて璃璃を残して誰もいなくなった。
 地上部から地下街へ潜るには、複数の「穴」からダストシュートのような坂を下る。地下街の正面入り口には、かつての九龍城塞から持ち込まれた大砲が据えられ、壁には深紅の提灯や色あせた看板、蛍光色の布などが飾られている。路地は昼でも薄暗いが、夜空に似た深い青色の電球が断続的に点滅した。
 住民が去った後の地下街の小部屋には、紙の切れ端や家族の写真、肖像画がついた紙幣や山水画が印刷された切手などが残されている。璃璃は昼間のうちにそれらを拾い集めて小さな革のトランクに入れ、夜な夜な眺めるのが日課になった。
 そして彼女は、拾得物を眺めているばかりではなく、それらで作品をつくりはじめた。最初は拾ったキャンバスを使ったり、手近な板を利用していたが、やがて段ボールをタロットカードくらいの大きさに切り、支持体にすることを覚えた。
 カード大のボール紙に、拾ったものを貼ってコラージュにしたり、絵を描いたりして作品にしていく。一通り作ったら、樹脂やニスを塗って乾かし、光沢と強度を高めて完成させる。作業は真夜中に行い、翌日、納得のいくものだけを部屋に飾る。創作に打ち込んでいると、自分が小さな世界の主になったような気がした。
 璃璃は、昔の老人たちから聞いた話や、残された写真などからかつての九龍城塞を想像しながら作品をつくった。写真で見る九龍の建物は、壁面を色とりどりのバルコニーが覆い尽くしており、家によって個性が異なる鳥籠に見えたし、話に聞く建物の内部は、自然光が差し込まない代わりに蛍光灯で照らし出され、ピンクやグリーンなどの壁が鮮やかだった。 
 隙間を行き交う人々、建物の間からさしこむ貴重な光、部屋から路地にあふれだした生活感など、知らないはずの風景を幻視し、手の中で再現する。小さなカードは遠い昔の情景を復活させ、九龍の息吹を顕現させていく。
 璃璃は、夜ごと作業にふけった。夢の中で繰り返し探索する九龍城塞は、どんな現実の風景よりも、限りなく懐かしい。年中蒸し暑い部屋の中、緩い風を送る扇風機を回し、しょっちゅう音が途切れるラジオを聞きながら、秘密の匂いがする創作に没頭した。

ある晩、拾得物にハサミを入れていると、小さな冊子が出てきた。表紙は濡れており、中の頁がくっついている。そっと剥がすと、璃璃の作品と同じくらいの大きさのカードが挟まっている。璃はカードをHIにスキャンさせた。するとHIの腹面モニターには、オストランド語、パスポート、と記載されている。写真を見ると、璃璃と同じ黒目に黒髪の男性だった。三白眼ぎみの瞳が、じっとこちらを見つめている。
「これ、なくしたら、飛行機に乗れない?」
 HIに尋ねると、白い機体は小さく頷いた、ような気がした。
 面倒なことになったと思いつつ、カードを挟んで本を元の場所に戻そうかとも思ったが、その日は拾得物が多い日だったし、恐らくその本は、地上部から何かの拍子に地下街に落ちてきたものに思えた。
 璃璃は地上部に出てみることにした。普段はカモフラージュされている「穴」のハッチを開けて地上部に出ると、人々がごちゃごちゃと行きかう中、箱型の清掃用GIが器用に動き回っているのが見える。
 地上部に出た時は、乗客や一般の職員に見つかっても問題ないが、管理警備局の人間に捕まらないようにする必要がある。もっとも小柄ですばしっこく、この空港の構造を知り尽くしている璃璃は、捕まったことはなかった。
 璃璃は、影のように忍び歩きをしながら、トランスファー飛行機の乗り換えで待機中と思しき、ベンチで寝ている客の顔を確認していく。一通り確認したが、写真の人物らしき人間は見つからない。
 地下に戻ろうかと思っていた時、古びた樹脂のベンチで寝返りを打っている人物が目に入った。髪と髭が随分伸びてはいるものの、写真の人物のように見える。璃璃は相手を見下ろした。
 そもそも人と話をするのは久しぶりだし、知らない人に話しかけるのは怖い。躊躇していると、目の前の顔の目がぱち、と開いた。小さめの黒目は、暗がりの中でも光を帯びている。相手は璃璃をじっと見て言った。
「誰だあ?」
 軽快で、どことなく剽軽な話し方だったが、緊張で気持ちが強張っていた璃璃は飛びのいた。
「そんなに怯えないでくれよ」
 身を起こし、ぼりぼりと頭をかく相手に、璃璃は少し離れた場所からパスポートを提示する。
「ん? よく見えないから、こっちに来てくれよ」
 隣のベンチをばんばんと叩きながら、相手は手招きしてくる。
 璃璃は遠巻きにパスポートを提示し続けたが、相手はそれに反応せずに手招きを続ける。璃璃は仕方なく、ひびの入った隣のベンチに座った。

2.
 男はハーマン・ライと名乗った。
 もともと中国の出身だったが、高度技術者として他国に移住し、永住権を獲得して今の名を得たのだという。彼が住んでいるオストランド共和国は、軍事政権時代に凄惨な人種差別を行った過去があり、今は歴史を反省して多くの移民を受け入れているそうだ。
 璃璃が自分の名前を告げると、彼は呟くように言った。
「きれいな名前じゃねえか」
 璃璃はかぶりを振る。
「名前の話は好きじゃない」
「でも、誰かがつけてくれたんだろ」
 取りなすような言葉。璃璃はむっとして顔をあげた。
「私は名前以外、何も持たずに生まれた。そのせいで、ここしか知らない」
「自分が持つものは、自分で探すもんだ」
 そう言って屈託なく笑うのと同時に腹が鳴る。グーというような可愛らしいものではなく、飛行機の轟音のような音である。
「まともな食事ができてなくて。食いもんを探そうとすると、職員に追いかけられてね」
 ハーマンは飛びかかってくるジェスチャーをした。緊張がほぐれた璃璃は、思わず小さな笑い声をあげた。
「警備局員に目をつけられたんだ。じゃあ、食べ物があるところに行こう」
 璃璃は告げた。二人が足を踏み入れたのは、空港の隅にある食堂街である。食堂街と言われるのは、小さな街のようになっているためで、ここでは中国とその周辺国の多種多様な料理を食べられる。職員向けの場所ではあるが、位置を知っていれば一般客も入ることが可能だ。
 店の外にいても、内部の熱気と湯気が漂ってきて、フルーツや魚などの匂いが入り混じる、生臭いような甘い臭気が充満している。頭にぶつかりそうな高さの場所や通路脇、店頭など、あらゆるところに看板が置かれ、ぶらさがっている。文字は漢字だが、字の下に食べ物のイラストが描かれているため、何を売っているのか大体分かる。
 聞いたところ、ハーマンは金なら持っているというが、この先何があるかわからないので、なるべく安いものがいいだろう。美味い方が食いたいな、などと呟くハーマンを尻目に、璃璃はラーメン鉢が描かれた店に入った。
 店内に立ち込める分厚い湯気を払いながら、プラスチックの風呂用と思しき椅子に座ると、簡素な机の上にラーメン鉢が置かれた。澄んだスープの中には、白くて細い麺、魚のすり身のボールと白ネギ、緑の香草とライムが入っている。このライスヌードルは、クエティオウ、河粉ホーフェン、など、さまざまな呼び方があるが、ベトナム風にフォーと呼ばれることが多い。
 璃璃はスープをすすった。あっさりした出汁に、甘いすり身がアクセントになっている。璃璃がゆっくり味わっていると、ハーマンはあっという間に食べつくしていた。ハーマンがもう一杯、というと、店員は何も言わずに再び鉢をどんと置く。それも流し込むと、彼はひと心地ついたように溜息をついた。
「やっと落ち着いた、ありがとな」
 そうは言っても、背が高く、がっちりした体形のこの男が本気を出せば、あと数杯はいけるのだろう。彼は水の入ったコップを手に持ち、所持していたカプセルを飲み下した。
「ここに、ずっといるの」
 璃璃が尋ねると、相手は顔を曇らせる。
「ずっといたくはないがな。でも、出発できない理由があってね」
 首を傾げる璃璃に、ハーマンが告げた。
「オストランドで政変があって、パスポートが無効になっちまった。中国政府は、オストランド人を入出国させないという判断をしている。だから俺は空港から出られないんだが、国に戻る飛行機もなくてね」
 じゃあここから動けないのか、と呟く璃璃に、ハーマンは苦い顔をした。
「そうさ。混乱が解決するまでここにいるしかないんだが、警備局の職員が意地悪でね。ここにいてはいけねえ、でも戻る方法もないと無茶苦茶をいう。もっとも今戻っても、軍事政権下では、元外国人の俺は困ったことになりそうだがね」
 ハーマンは肩をすくめ、天をあおぐ仕草をした。
「いずれ解決するなら、ここで生活すればいい」
 璃璃がそう告げると、ハーマンは目を見開く。
「ここで? どうやって?」
「私、ずっとここで生活してる。ハーマンの今の状況は、私が生まれてから置かれている環境と同じ」
 璃璃は、空港の地上部を案内した。この空港の様相は、利用客の目線では分からない。
 まず金策から教えた。利用客の荷物を運ぶと、お金をもらえることが多い。この国の通貨は持ち出せないので、帰国する客にそのことを告げると、全額もらえることもある。飲食店のごみ出しをすると、小銭や日用品などをもらえることもある。金策が途絶えた時は、新鮮な機内食が廃棄される場所に行けばいい。
「金は、さっきの食堂街以外だと、空港内で使えるのか?」
 ハーマンの問いに、璃璃は告げた。
「使えるけど、空港内のお店は高い。食堂の人に言うと、必要なものは売ってくれる。空港のお店の二十分の一くらいの値段で買える」
 空港で水道は使えるが、そういう場所で水浴びをするわけにいかないので、空港の職員が使う給水所へ行く。二十四時間水が出るとは限らないが、バケツで貯水してある分は自由に使ってよい。給水栓を勢いよくひねると出るが、壊れることも多いので注意する。
 空港内では、椅子で寝ていても問題になることはほとんどないが、HI・GIの充電場所であれば、人間が一人二人寝転んでいても目立たない。警備局員はたまにしか来ないので、注意される可能性もほとんどない。
「一通り生活できる環境が揃ってんだな」
 溜息をつくハーマン。璃璃は最後に中庭へと案内した。
 ここは九龍城塞時代の歴史的建造物がそのまま移設される予定だったのが、その建物が抗争で燃やされたため、計画が頓挫して空地になった場所である。
 空港は空に出発する場所ではあるが、建物から見えるのはガラス越しの空である。だから生の空を見ることができるここは貴重だ。
 璃璃は空を仰ぎ見る。その日は灰色がかった水の色だった。大気汚染のせいで真っ青な空を拝めることは稀であるし、煙草や煙管、その他の怪しげな甘い香りを発する煙で霞んでいることも多いが、それでも広い空と、行きかう飛行機の姿を堪能できる場所だ。
 植木のそばで老女が二胡アルフーを奏ではじめた。弓の水平な動きは朗々と、時に深々と音を響かせる。音によって空気が澄み、胸が開かれるような気がして、璃璃は大きく息を吸い込んだ。
「こんな場所があるんだ。連れてきてくれて、本当にありがとうな」
 むきだしのコンクリートブロックに腰掛けながら、ハーマンは璃璃に告げた。

ある蒸し暑い日、璃璃が食堂街に行くと、せっせと立ち食いをしているハーマンがいた。
「フカヒレかと思ったけど、そうじゃなかったぜ。ちくしょう」
 璃璃が見ると、彼が食べているのは碗仔翅ウンザイチーである。
「それはそもそも、春雨を入れて食べるもの」
 璃璃の指摘にハーマンは、うまいからいいけど、と言いながら、咖哩魚蛋ガリーユーダンを購入した。甘みのあるフィッシュボールにカレー味をつけたおやつだ。
璃璃は雪花冰シュエホアビンを注文した。雪のようにふわふわしたかき氷の上に、小さな粒の残るスイカジュースをかけてもらう。少し溶けた氷を舌にのせると、体に籠った熱がすっと冷めていくような気がした。
 璃璃はハーマンの髪や髭を見た。かなり伸びてきている。彼がこの空港に留め置かれて数か月になる。オストランドの戦乱は収まることはなく、飛行機も出発できないままだ。
 食後、ハーマンはポケットから何かを取り出した。その手元を見ながら、璃璃は尋ねる。
「何?」
 視線に気づいたハーマンは、苦笑しながら告げる。
「薬だ。俺の体には生まれつき、ウイルスがいてね。薬を飲んでれば、発症を抑えられる。たくさん持っとくようにはしてるが、そのうちなくなるから、それまでには国に帰らないとな」
「この国では、手に入らない?」
 璃璃の言葉に、ハーマンは首を横に振って告げる。
「許可証がいるし、手続きがすごく大変だ。それにここだと、簡単にうつる病気だと思ってる人も多いから、あんまり知られたくねえんだ」
 そう言いながら、ハーマンは溜息をついた
「だからこれは内緒だ。ところで璃璃も、内緒にしてることはねえか。ずっと璃璃についてきてたHIを見ないが、あいつはどうした」
 その言葉に、璃璃はうなだれる。最近、HIの動きが遅いことに気付いていた。そのため地下街に置いていたが、今は完全に停止してしまった。
「動かなくなった」
 それを聞いて、ハーマンはすっと立ち上がった。
「修理する。俺はエンジニアだ。案内してくれ」
 今まで、この空港の地上部しか知らない人間を、地下街を案内したことはなかった。地下街という、璃璃にとって聖域になっている場所を侵されたくない。しかしHIは地下街にいて、動かないHIをここに連れてくることはできない。
 璃璃は、最後に地下街から出ていった住人のことを思い返した。
 その住人は母子で、璃璃は娘の方と年が近かった。そのため幼少時は一緒に遊ぶこともあったが、次第に避けられるようになった。そしてある日、母親が璃璃の部屋に無断で立ち入っていることがあった。勝手に入らないで、と怒る璃璃に、彼女は捨て台詞のように告げたのだ。
――パスポートも戸籍もないあんたは信用もないし、ずっとここにいるしかないくせに。
 石つぶてのような言葉が、脳裏に甦る。
 その時ハーマンは、彼女の顔を覗き込んだ。
「なあ、まだ俺を信用できてないのは分かってる。住んでるところに案内するのは抵抗あるだろう。でもHIが動かないんだろ? あいつは璃璃のことばっかり追ってるいい奴だ。自分を守ってくれる奴は、大切にしろ」
 その言葉は、まっすぐだった。
 ハーマンは、自分のことを話してくれたし、璃璃のことを頼ってくれた。客観的に考えると、璃璃は警備局に居場所をばらす危険もあったのに。
 裏切られるのが怖くて、信用したい人間を信用しないのは愚かだ。
 璃璃は、立ち込めていた疑念を取り払う。
 ハーマンの手を取り、空港西端のゲートのカーペットに隠れているブロックを横にスライドした。すると人一人が入れるくらいの穴が開く。璃璃はハーマンを先に入らせ、後から蓋を締めた。ひたすら前に進むと、急に勾配がきつくなる箇所がある。そこに身を投げると落下し、冷たい床の上に落ちた。
 地下街の通路は半分闇が支配していたが、目が慣れるといろいろなものが見えてきた。
 頭上の電線は、断続的にぱちぱちと火花と散らす。入口にある大砲や正面奥にある廟、立ち並ぶ獅子や龍の石像は違う世界に属するようだ。路地に入り、「城塞チャンジャイ福利会フーリーフェイ」と書かれたえんじ色の看板をくぐると、老人たちの憩いの場だったのか、道に碁盤や骰子シャイツが無造作に転がっている。骰子は硝子でできているようで、光を受けるときらきらと輝いた。
 九龍城塞にかつてあったという龍津路ロンジンルーを模した道は狭く、ハーマンはリュックを手に下げ、体を横にしないと通れない。目の前に迫る壁面には、織姫や牽牛、花々、赤が退色して黒ずんだ金魚の絵などが幼いタッチで描かれている。恐らく壁の奥には、親が働いている間に子どもを預けていた部屋があるのだろう。
 ハーマンは魅入られたように、周囲をうっとりと見回している。錆びついた柵や狭い路地の壁に触れた衣服が黒く汚れているが、全く意に介していない。
「こいつは……歴史に名高い九龍城塞が、そのまま移植されたみてえだな」
 そう呟くハーマンに、璃璃は首を傾げて告げた。
「私は九龍城塞があった時代を知らない。でも、以前ここにいた人は、そこに住んでた」
「だからか……この啓徳空港は、九龍の亡霊がいるから混沌空港カオスポートと呼ばれてるって聞いた。九龍の猥雑さを残しているから、その名がついたのかと思ってたけど、秘密の地下街があったんだな」
 ハーマンは感慨深そうに言った。璃璃は黙って彼を自分の部屋に導いた。粗末で薄い扉を開けると、中には動かないHIがいる。ハーマンはリュックから道具を出し、HIの白いボディを開いて青光りしている内部配線などを見た。
「バッテリーが切れただけだ。でも、内部はだいぶガタが来てるな」
「治せそう?」
 尋ねる璃璃に、ハーマンはにっと笑って言った。
「動けるようにするのは、わけないさ」
 璃璃が安堵すると、ハーマンは改めて部屋を見渡した。
 内部はなにもかも古びている。緩い風しか送らない扇風機も、光のささない窓にかかる紅のカーテンも、低い天上も、どこか淀んでいる。そんな中、壁際のカードだけがじんわりと輝いているようだった。そしてハーマンの視線はカードに集中していた。
「これは璃璃が作ったのか?」
 カードに近づきながら尋ねるハーマンに、璃璃はこくりと頷いた。
「はじめて見るのに、ずっと前に見たことあるような……どんな画材を使ってるんだ? 油絵具とか?」
「そういうものがある時は、運がいい時。ヨードチンキや胡桃を削って染料にしたり、赤レンガを削って色を出したりしてる。あと、光沢を出すために、上にニスとか、それがなければ樹脂と油を混ぜたものを塗ってる」
「トランプ、いや、タロットカードの大きさくらいだな」
 璃璃はトランプの模様も、タロットの意匠も好きだった。カードを作り始めた頃は、それらを参考にした時期もあったが、次第に璃璃独自の柄になっていったのだ。
「九龍城塞の写真を見たことがある。中央の通路からアパートの正面を見たパノラマだったんだけど、部屋の窓やバルコニーが、それぞれこのカードに見えるよ。九龍で息づいていた空間の一つ一つが、ここに閉じ込められている」
 カードの中には、先ほど通ってきた地下街の混沌が、懐かしい過去の空気が籠っている。
 ハーマンはその幻想の世界を、いつまでもじっと見つめていた。

3.
 璃璃が地下街で収集スカベンジャーしているのを知ると、ハーマンも気づいたものを取っておいてくれるようになった。
 地上部の拾得物は、地下のものと雰囲気が異なる。職員たちの配給券、異国の食べ物のラベル、見たことのない文字や文様が書かれた切符など、今いる人間の活動を示すものが多い。
 色鮮やかで雑味のある切片は璃璃の感覚を刺激し、彼女はそれらから、九龍城塞の雰囲気とは違う作品をつくるようになった。昼の明るさや人々の賑わいを感じさせるカードは、璃璃の部屋の隣室に飾り、地上部の作品として空間を彩った。
 璃璃は、地下街の作品部屋と地上部の作品部屋を分けるようになり、地下街の作品部屋は九龍ガウロン小房シャオファン、地上部の作品部屋は明的ミンデー小房シャオファンと呼ぶようにした。古めかしくて謎に満ちた九龍小房の作品と、鮮やかで人間の体温を感じさせる明的小房の作品は、どちらもこの空港の欠かせない構成要素だった。
 ある日のこと、ハーマンが地下街に降りてきて、璃璃のHIの機能を拡張したいと告げた。
「こないだ見たら、内部がだいぶ古くなってたから」
 部品とかどうするの、と璃璃が尋ねると、ハーマンは胸を張る。
「集めておいた。あと、ここ地下街に、電気屋の残骸があると思うんだ」
 二人が探すと、ひどく狭い龍津路ロンジンルーと、水道管から断続的に水が噴き出している龍城路ロンチァンルーが交わるあたりに、ひときわ散らかっている部屋があった。鮮やかなピンクの床に、ネジや金槌、電球や導線、巨大なモニターなどが大量に転がっているところから、電化製品や工具などを扱う店だったのだろう。
 璃璃がハーマンにHIを預けたところ、数日後、彼はHIを従えて璃璃の部屋にやってきた。
「見た目は変わってないけど、搭載してる基盤プログラムが古すぎたから、中身のスペックを上げて、プログラムを新しくしておいた」
「よくわからない。それでどうなる?」
 璃璃が尋ねると、ハーマンは苦笑して言った。
「今まで答えがなかった質問でも、答えられるようになるのさ」
 ハーマンによれば、古いHIは、ユーザの手によって情報を更新しており、璃璃のHIもそのタイプだった。しかし最近は、世界各地に分散する量子コンピュータと、それを統括する超高度AIを参照して行動パターンを決めるのが一般的で、状況によって行動に個性を出すのだという。
 ハーマンはHIをぽん、と叩いて言った。
「あと音響部分が壊れてたから、喋れるようにしたよ。これで発声も問題ないし、録音の精度もぐっと上がったはずだ」
 ハーマンの言葉に、HIはとびきり澄んだ声で告げた。
「こんにちは、璃璃」
 璃璃が、今更声に出されても変な感じがする、と訴えると、ハーマンは音声をオフにし、情報は全て腹面のモニターに出力されるようにした。
「機能を使用するか否かは自分で判断できるけど、声はデフォルトでは出さないようにしとくか。あとこいつ、名前をつけてやったらどうかな」
 ハーマンの提案に、璃璃は目を丸くした。
「そんなこと、考えたことなかった」
「中身を見たら、璃璃のデータがほとんどだった。名前くらいあげても、ばちはあたるまい」
 その言葉を聞いて、璃璃は首をひねった。
「うーん、明るく光るから、明明メイメイとか」
 その時、璃璃が口にした「明明」と言う単語に、HIの腹部が青く反応したのだった。

ハーマンが住環境を気遣ってくれるおかげで、璃璃のもとには情報が増えた。地下街の住人がいなくなってからは、気まぐれのように映る国内放送とラジオ、接続が途切れがちなネットでなんとかしていたが、ハーマンが手入れしてからは、いずれもしっかりと視聴できるようになった。璃璃はラジオがお気に入りで、夜な夜な放送されるニュースに耳を傾けると、語彙が増えていくような気がした。
 ある夜更け、ラジオのニュースで、オストランド共和国、という単語が耳に入ってきた。 ハーマンが住んでいる国だと思い至った璃璃は、ニュースに聞き入った。興奮気味のアナウンサーは、オストランドの政変は収まり、軍側のクーデターは失敗、政権は元に戻りつつあると言っていた。
 璃璃は明明と共に地上部へ出た。欧州方面の飛行機が出るロビーの付近で、人々の嬌声が聞こえてくる。髪や白髪、金髪や赤毛。スーツのサラリーマンから清掃の制服を着た人。出自や立場がさまざまな人々は、メガホンやクラッカーなどを持って騒いでいる。中には食堂街からきたと思しき白いエプロン姿の人もいて、彼らは双喜紋の入った赤い旗や、色とりどりの団扇を振っていた。
 辺りはアルコールとあらゆる食べ物の匂いで充満していた。パブリックスペースのテーブルは、積みあがった蒸篭、真っ赤なドラゴンフルーツや黄色いマンゴーなどが入った皿などでごちゃついている。テーブルに寄りかかって寝ている人もいて、混沌空港カオスポートの名を冠すにふさわしい饗宴だ。
 そうした賑わいの中心にはハーマンがいて、もみくちゃにされている。璃璃が恐る恐る近づくと、ハーマンは周囲に目配せをして人込みを離れ、璃璃に向かってきた。
「俺の国に平和が戻る。警備局の奴らが来る前に、いっぱい祝ってくれ」
 ビールの匂いがぷんぷんする。璃璃は酔っ払いが嫌いだったが、その日は大目に見ることにした。
「国交も復活して、パスポートも有効になるんだね。おめでとう」
 そう告げると、ハーマンは璃璃の手を取って言った。
「ああ。どこへだって行けるようになるんだ」
 璃璃はその手を放して、小さな声で呟いた。
「じゃあ、もう会えなくなるんだね」
 璃璃は、自分がどこにも行けないことを思い出してしまった。胸が痛むと共に、羨ましいという感情が沸き上がる。
 そのまま振り返らずに地下街へ降りた。青緑色の照明が、龍津路の狭い道を照らし出す。龍城路の水たまりが光の加減で鏡のように作用し、無数の九龍を顕現させる。
 地上の喧騒が幻だったかのような静けさの中、璃璃は奥へ進んだ。体を縮めながら奥まで進むと崩れた階段が見える。そこを這うようにして上ると、大人一人がやっと入れるくらいの空間があり、錆びた金網の貼られた小さな四角い穴があった。璃璃は明明を階段に残してその穴に入り込んだ。
 ここは地上では滑走路の少し外にあたる場所で、地下街で唯一地上の光が差し込む場所だった。かつて地下街にいた老人たちの一人に教えてもらったのだ。
 璃璃が覗くと、その日は比較的汚染が少なく、穴の形に切り取られた青い空が見えた。
 涙が頬を伝っていく。自分は取り残される、その思いで視界が滲む。
 嗚咽が漏れるたびに、地上への境界である金網を握り締める。
 尖った針金が手に刺さる。流れる血に構うこともなく、迫りくる飛行機の銀の機体に焦がれる。
 その夜、璃璃は、こぼれる涙も気にせずに、カード製作に没頭した。普段は細かい絵やコラージュを凝らすが、一色だけで埋め尽くした作品もつくった。
 朝になり、璃璃は昨夜のカードを改めて見た。自分のささくれて淀んだ心が投影されているような気がして、衝動的にゴミ箱へと投げ入れた。そんな中、一枚だけ掌にくっついたカードがある。それは目の覚めるような青の、空を投影した作品だった。
 彼女はそれを取り上げて、部屋の片隅にそっと置いた。
 
 ハーマンは、一向に出発する気配を見せなかった。オストランドで元の大統領が返り咲き、飛行機が飛ぶようになっても、準備すらしていないのだ。ある日璃璃が尋ねると、ハーマンは頭をぼりぼりと掻きながら言った。
「ちょっと気になることがあってね。空港警備局の権限が増えたらしい」
 それは良くないニュースだ。
「なんでも奴らは、地下街を潰そうとしてるらしいぜ」
「そんな……」
 顔を曇らせる璃璃。
「九龍城塞を取り壊す時、国は強引なやり方を取ったっていう。ここの地下街は、九龍に住んでいた人が流れ込んできたっていう経緯があったから、同情もあって今まで大目に見られてた。でも世代交代も進んだし、体制側の警備局員には、そういう感情はないんだろう」
 璃璃は、接触を避けている警備局員たちの、遠目からも表情の乏しい顔を思い出した。
「あの地下街が消えちまうのは残念だ。でもそれ以上に、璃璃のことが心配なんだ。住む場所がなくなっちまう」
 ハーマンが言うと、璃璃は考えながら告げる。
「私はパスポートも戸籍もないから、空港から出られない。だから警備局の人も、それ以上のことはできないと思う」
 璃璃のその言葉に、ハーマンは首を横に振り、それっきり黙ってしまった。
 その日の拾得物を手に璃璃が歩いていると、制服を着た二人組が、こちらに向かってくる。見れば警備局の職員だった。
 この空港の入り組んだ構造は、彼らよりも知り尽くしている。璃璃はすぐそばに地下街につながる通風孔があることを思い出し、孔の手前のくぼみに飛び込んだ。埃によるくしゃみを必死に我慢しながら、明明にくぼみの前に立ってもらう。
 二人組は、璃璃が身を潜めている場所に近いベンチに座った。ひとしきり仕事の文句を述べた後、一人がふと呟いた。
「例のオストランドのホームレス、なかなか帰らないな」
 ハーマンのことだ。璃璃は耳をそばだてた。
「飛行機は飛んでるし、確かパスポートは有効だった。単に金がないのかな」
「どうでしょうね、ここが気に入ったのかもしれない。彼はもともと中国の出らしいですよ、漢民族じゃないらしいですが」
 低い声で話す職員たち。璃璃は身動きできない。
 漢民族ではない? ハーマンはそんなことを言っていなかった。
 どの民族に属するのか。それは五十六もの民族を擁する広大なこの国で、学校に行くにしろ職を得るにしろ、人生の節目で示さなければならない最重要事項の一つだ。 
「相手でもできて、離れられないんですかね」
「それなら向こうで結婚すればいいだろう、配偶者ビザは出るだろうし。相手がここから離れられない理由でもあるなら別だが」
 二人のうち、上司らしき局員の言葉が耳にこだまする。ここから離れられない、それはまさに自分のことだ。璃璃は心臓の鼓動が上がらないように祈った。
「だとすれば、相手がいなくなればいいんでしょうかね。あ、でも、ここから出られないのか」
「空港を非合法で出ていく奴なんて、ごまんといるだろう。まあ、我々はたまに捕まえて、袖の下をもらうわけだが」
「そのためには、本人にお金があるか、お金を持ってる知り合いがいる必要がありますね」
 そう言うと二人組は立ち上がり、低い声で笑いながら去っていった。

4.
 璃璃は数日間、地下街に籠った。警備局員たちの、ハーマンがこの国の大半を占める民族、つまり漢民族ではない、という言葉がひっかかっていたのだ。
 なぜ彼は黙っていたのだろう。璃璃は考えながら、人影のない地下街を一人歩いた。自分の影法師やカーテンのゆらめき、壁のシミなどを見かけると、ハーマンではないかとどきりとした。ぽたぽた垂れる藍色の水滴や、小動物の鳴き声、薄茶色になったビニールの立てる音に、誰かの痕跡を感じ取った。
 昔はこんなに誰かのことが気になることはなかったし、一人で充足していた。
 物思いを断ち切るために、九龍小房で作品づくりをはじめると、扉を叩く音がする。開けるとハーマンが立っていて、心なしか顔色が悪いようだ。
「なんで上に来ねえんだ?」
 そう尋ねるハーマンに、璃璃はかぶりを振り、警備局員のやりとりを伝えた。
「以前、この国の出身だって言ってたよね。なんで民族のこと、黙ってたの?」
 尋ねる璃璃に、ハーマンはうなだれて言った。
「隠してたわけじゃねえ」
 そう告げると、ハーマンは語った。
 彼はもともとこの国の少数民族として生まれた。そのため政府は、人生のあらゆる局面において冷遇してきたという。
「少数民族を優遇する政策が、国から出ているんじゃないの?」
 璃璃が尋ねると、ハーマンは珍しく、唇を曲げて皮肉な表情をして答えた。
「表向きはな。でも入口の浅い部分だけ解放してるだけだ。実際は要職には就けないし、民間では大っぴらに差別されることはざらだ。差別に罰則を与えられることもねえ」
 ハーマンの母親は、妊娠前、免疫不全を引き起こすウイルスに感染した。そのウイルスは母子感染するもので、複数の合併症を引き起こす可能性があった。一生薬を飲み続ければ発症することはないが、薬の値段が高くて十分な量を購入できず、母親はハーマンを優先して薬を与えたために発症し、早くに亡くなった。
 勉強ができたハーマンは苦学して大学に入り、オストランドに留学してエンジニアになった。そして留学先で永住ビザを取得し、中国の永住権は廃棄したという。
「この国では、進学も就職も不利だった。俺はたまたま運が良くて海外に渡れたけど、ずっとここにいたら薬も不足して、とっくに死んでたさ」
 ハーマンは溜息をついた。
「この話をしていなくて、すまん」
「ハーマンが生まれたのは、どのあたりなの?」
 璃璃の言葉に、ハーマンは空中に中国の地図を描く。
 とてつもなく広い大地のうち、下部のちいさな一点がこの空港だ。
 ハーマンは地図の中で、上部の一部分を囲む。
「俺が生まれたのは、内モンゴル自治区。都市で言えば、昔の宮殿がある瀋陽に近いところだ。俺はダウール族といって、モンゴル系の生まれになるけど、多分いろいろミックスされている」
 璃璃は、そう告げるハーマンの、よく日焼けして、さまざまな国の特徴が入り混じった顔を見つめた。
「故郷は放牧で生計を立てていた。品質の良い織物は高い値段で輸出された。やがて過放牧のせいで砂漠化が進んで、今や故郷は砂の中さ。一度死んだ土地を生き返らせることは難しい。故郷の者の多くは複数の言語を話せるが、故郷の言葉は話せねえ」 
 ハーマンは思い出しながら話を続ける。
「故郷での俺の名前は、公羊玲クーヨウレイっていう。もともと羊を飼う家系だったんでね。羊は霊獣で吉祥を示す動物で、うまく飼えなかったのは人間側の都合だ」
 そう告げると、ハーマンは少し遠い目をしたが、気を取り直したように璃璃を見る。
「元の名前はもう使えないが、自分の中のルーツとして大切にとってある。だから秘密だぞ」
 ハーマンは、人差し指を立てて口の前に当てた。そのしぐさに璃璃はくすりと笑い、小さな声で告げた。
「ありがとう。名前を大切にしてるんだね。私、赤ん坊の時に置き去りにされたんだけど、おくるみに『璃璃』って書いてあったんだって」
 璃璃が言うと、ハーマンは少し間をおいて告げた。
「璃璃のことを守るためだったのかもしれん。実際、警察に呼ばれた時、親が子どもをどこかにゆだねて自分だけ捕まることは、よくあることだ」
 ハーマンの言葉には実感がこもっていた。璃璃は意表を突かれる。
「その『磨くと光る玉』という意味の名前は、璃璃のことを想う人がつけてくれたものだ。実際、璃璃は、言葉の抑揚も表情も、どんどん豊かになっていく。これからもっと輝くだろうさ」
 何と言えばいいのか分からなかったが、璃璃はただ嬉しかった。ハーマンの言葉をずっと噛みしめていたかった。
 彼は、おもむろに顔を上げて言った。
「この話をなんで今までしなかったのか、自分でもよくわからない。もしかすると、璃璃に言うことに躊躇があったのかもしれん」
 言葉の意味が分からなくて、璃璃はハーマンの顔を見る。
「俺、自分は恵まれてないって思ってたけど、同じ境遇の人たちが周りにいた。でも璃璃は、最初から一人だったよな」
 ハーマンは周囲を見渡した。無数のカードの一つ一つは、九龍の建物にひしめく生活空間だ。現物の九龍城塞は消えてしまったが、水汲みの音やお喋りの声、麻雀牌のたてる音、小鳥の奏でる鳴き声など、人々の痕跡はカードに示されている。
「だけど璃璃は、こんなにも素晴らしいものをつくっていた」
 ハーマンの言葉は、璃璃の気持ちにすっと染みわたった。
「……ありがとう」
「ものは、使われなくなった時に一度死に、忘れ去られた時に二度目の死を迎える。璃璃は作品にすることで、九龍が永遠に死なないようにしたんだ」
 その言葉に、璃璃も作品を見やる。
 自分を取り囲むカードたちに、守られているような気がする。
「あと、俺が関わることで、この繊細な世界を壊すことを恐れていたのかもしれん。璃璃が大切にしている世界に、土足で入っていくような気がしちまったんだ」
「そんなことない。ハーマンからもらったもので、私はもう一つの世界をつくった」
 そう告げると璃璃は、ハーマンを明的小房の方へ導いた。
 九龍小房が地下街だとすれば、明的小房は空港の地上部を体現している。明的小房のカードには、璃璃とハーマンが初めて会ったベンチ付近のパンフレット、食堂街で拾った瓶の蓋、中庭に落ちていた煙草のケースのラベル、欧州に向かうロビーに置かれたポストカードなどが素材として使われている。見ているだけで、人々の熱や活動が伝わってくるようだ。
 カラフルで力に満ち、雑然としたエネルギーを放つそれらのカードを見て、ハーマンは目を輝かせ、暫くその場を動かなかった。
「ここにあるカードは、ハーマンがくれた拾得物で構成してるんだよ」
 璃璃が告げると、ハーマンは破顔した。
「九龍城塞の半世紀に渡るカオスは消えちまったが、この啓徳空港は今も続くカオスだ。璃璃の作品は、二つの浮遊するカオスが混在する、この混沌空港カオスポートそのものだな」
「これを見せられて良かった」
 璃璃がそう告げると、ハーマンは感慨深そうに呟く。
「俺はアートのことは分からねえ。でも璃璃の作品は、この場所のエネルギーを創造性に昇華する、唯一無二のものだと思う」
 嬉しくて、璃璃は手を握り締めて下を向いた。言葉を噛みしめていたかった。
 傍らの明明も、腹部を青く光らせる。するとハーマンは、明明の頭に触れて呟いた。
「このカードを評価するのは、人間だけじゃなくて、明明みたいなHIも加わってくのかもしれんな」

翌日、璃璃は地上部に出てみたが、ハーマンの姿が見当たらない。念のために地下街を探してみたが、彼の気配はなかった。手がかりを得ようと、食堂街へ赴いた。ここは一日中賑わっている。赴いたのは昼下がりで、プラスチックの椅子に座ってお喋りに興じる店員たちや、遅めの食事にありつく作業着姿の男たちの姿などが見えた。
 璃璃が腰かけている椅子の近くに職員がやってきて、煙草をくゆらせた。見れば清掃GIを管理する清掃管理人である。璃璃がおずおずと、オストランドの空港長期滞在者を探していると告げると、清掃管理人は少し考えながら言った。
「そいつなら多分、医務室にいるよ」
 清掃管理人は璃璃を医務室へ連れていってくれた。白いベッドが並ぶ一番奥に、ハーマンが横たわっている。璃璃が枕元に赴くと、彼は顔を向けた。
「うーん、見られたくなかったな」
 そう言って見せてきた笑顔に、璃璃はほっとしながらも尋ねた。
「どうしたの? 具合悪いの?」
 璃璃の問いに、ハーマンは一瞬暗い表情を見せる。
「大したことねえ。警備局員に追いかけられた時、足をぶつけて出血したんだが、血が止まらなくて。ちょっと休ませてもらっていたのさ」
 ハーマンの顔を見ると、顔色がひどく悪かった。ベッド脇の机には、さまざまな色のカプセルがある。璃璃はそれを見て、ハーマンに持病があり、定期的に薬を飲む必要があること、またこの国では手に入りづらいことを思い出した。
「ねえハーマン、オストランドに戻らないの?」
 璃璃が告げると、彼は迷いの表情を浮かべながら口を開いた。
「俺のパスポートは、警備局のデータの中で、ブラックリストに入ったみたいだ。だから一度出たら、この空港には暫く来られないかもしれん。不法に滞在していたからなあ」
 ハーマンはそう言うと、璃璃に向き直った。
「俺は、璃璃を置いていくことはできない」
「私のことは気にしないで。ここで生きていけるから」
 璃璃が告げると、ハーマンはかぶりを振る。
「初めて会った時のことを覚えてる。璃璃は、何も持たずに生まれたせいで、ここしか知らない、と言ったんだ」
 璃璃が何も言えずにいると、ハーマンは向き直った。
「本当は、ここから出たいんだろ? 平気なふりをしていても、不公平だと思っているんだろ? 璃璃は自分の世界を切り開いてきたけど、最後の目的、ここから出ることは果たせずにいる。俺はそれがもどかしい」
 璃璃は首を横に振り、下を向いて小走りで医務室を出た。
 涙がこぼれるのを見られたくなかった。

地下の明的小房に走って戻った璃璃は、暗めに落とした照明の中でうずくまっていた。
 ハーマンのあの様子では、璃璃が、今の状況で満足している、自分を置いて去っていい、と言ったところで、その言葉を鵜呑みにすることはないだろう。
 本音を言えば、ハーマンと一緒にオストランドへ行きたい。外の世界を見たくてたまらない。叶うことのない憧れを抱えているのは辛いから、あえて気づかないふりをしてきた。でももはや、その気持ちをなかったことにすることはできなかった。
 ふと、彼女の手をぎゅっと握ってくる手があった。
 柔らかくて優しい感触。手の主、明明がこちらを見つめている。
 視線を上げると、明明の腹部が点灯している。
――サウンドをオンにしてください。
 璃璃が言われた通りにすると、澄んだ声が響き渡った。
「外に出たいのでしょう。あなたの作品を使いなさい、璃璃」
 その言葉に、璃璃は驚いて相手に向き直った。
「喋れるのは知ってたけど……」
「今は音声で話をさせてください」
 そう告げると、明明は作品に指を向けた。
「オストランドの入国管理局と人権団体に作品を提出するのです。いつかアーティストビザが下りれば、オストランドに住むことができます」
 その言葉に、璃璃は目を見張って言った。
「作品ってカードのこと? 私はアートの専門教育を受けていないし、偉い人に受け入れられるとは思えない」
 璃璃の言葉に、明明は首を横に振る。
「私はずっとあなたの作品を見てきました。この混沌空港カオスポートを体現しています。過去と現在の混沌を創造力に変えることは、アートにしかできないことです」
 ずっと作品を見てきた、という明明の言葉。
 璃璃は、その時、震えるような温かい感覚を覚えた。
 ああ、自分はずっと一人だと思っていた。でも、そうではなかったのだ。
「勇気を出して。かつてハーマンがそうしたように。あなたの作品によって、新しい可能性を見出せる人がいるかもしれない。ハーマンのように」
 そう言いながら、明明の手は一点を指し示す。
 璃璃は相手の手の先をじっと見た。
 欧州の端、アジアとイスラム諸国に隣接するオストランドへ向かう飛行機の切り抜きが貼られたカードが、部屋の入口付近に飾られている。
「この世界には、あなたのような境遇の人がたくさんいます。彼らが優れた作品をつくっても、日の目を浴びる可能性がほとんどなかった。でもHIが情報を獲得し、人とコミュニケーションを取ることができるようになれば、作品を評価するのは、人でも、私のようなHIでも可能です」
 HIは璃璃をじっと見つめながら告げた。
 璃璃には、相手の眼差しが、いつになく熱を帯びているように感じた。
 分かっている。それは自分が、明明の言葉を熱く受け止めているせいだ。
「誰かに守られて強くなることもできるし、誰かを守るために強くなることもできる。私はそれを、あなたを通じて知りました。今度は、自分で自分の作品を認め、価値を守ってください」
 璃璃は実感する。
 そう、自分は明明に守られていた。そして新たなものを守ろうとしている。
 カードにおさまっている小さな飛行機を見て、大きく息を吸い込む。
 今まで、自分の作品を見られるのは怖かった。だからハーマンと明明にしか見せていなかった。その作品を、彼女のことをずっと見つめてきた明明が素晴らしいと評価してくれたのだ。
 璃璃は、明明の小さな手をぎゅっと握り、強く頷いた。白く柔らかい樹脂は、初めて抱かれた時と同じように、人肌程度に温かくて心地良かった。

璃璃は、いつかハーマンと訪れた散らかり放題の電気屋から、性能が高いパソコンを持ち出して自室に据え置いた。巨大モニターのせいで青白い光が満ちる部屋で、オストランドの人権団体とアーティストビザに関して調べていった。
 オストランドは、過去の差別政策の反省と教訓により、自国民以外の人間の受け入れを積極的に行っている。政権的に不安定なところはあるが、身の上が不安定という意味では、どこへ行っても同じことだ。
 璃璃が、オストランドの人権団体と入国管理局に連絡すると、すぐに両方から連絡があった。曰く、作品を見せてほしい、璃璃はキャリアが足りないけれど、作品次第では学生ビザを発行して奨学金を支給する、その際はもちろん入国を許可する、とのことだった
 璃璃はネットや明明の提示する情報などを駆使し、オストランドで活躍しているアーティストの作品や、開催されている展覧会の様子なども見てみた。
――歴史的な犯罪や、差別の問題をテーマにした作品が多いですね。
 明明がモニター表示する言葉に、璃璃も頷いた。
「負の過去が創作の動機になるんだよね。それは分かる気がする」
――あなたの動機もそうなのですか?
「創作の動機はいろいろだけど、悲しみ、怒り、失望、そういった感情が、創りたいという欲求に繋がることが多いと思う。創作に没入している時は、自分をこの世に繋ぎとめられるんだよ、あんまりうまく言えないけど」
――芸術作品全般の中には、きれいな作品もありますね。
「そういうものは多分、きれいなものを置きたいっていう要望があってつくったものじゃないかな。そういうものも価値があるけど、オストランドで今受け入れられているのは、もっと切実なものだと思う」
 そう告げて璃璃は、静まりかえった地下街をひとしきり歩いてから、地上部に赴いた。少し一人になりたかったので、明明には地下街で待機してもらった。
 空港ロビーや食堂街の人込みに紛れて歩いた後、璃璃は中庭に赴いた。夕刻にさしかかる時間で、橙色の空の下、食堂街のエプロンをつけた老人たちが太極拳をしている。ゆったりとした音楽の中、「ハオ」「加油ジャヨウ」といった声がこだましていた。
 オストランドに提出する作品は、どういったものにすればいいだろう。
 何も思い浮かばなくて、中庭を囲む空港の建物を眺める。
 すると、地上部の建物も、九龍城塞のバルコニーよりは小さいが、瀟洒な出窓がたくさんあり、窓のそれぞれが籠のような形で、まるで空中に鳥籠が浮遊しているような様であることに気づいた。今まではここに来ると、空ばかり見ていて、過去の九龍と現在の空港のつながりに気づいていなかったのだ。
 璃璃は、庭の中央付近まで歩みを進め、古びた石畳に耳をつけてみた。
 一瞬、息が止まる。空気が静止したように感じる。
 人々のざわめき。老人たちの掛け声。飛行機が近づいてくる轟音。そして、地面のずっと内奥の方から聞こえる、とてつもなく深い音。
 かつて一万年王朝と呼ばれたこの国の、九匹の竜が見守るというこの場所の、混沌の歴史が放つ声。
 心は決まった。璃璃は、新作をつくるのではなく、この啓徳空港、すなわち混沌空港カオスポートを体現している九龍小房と明的小房の両方のカードを繋げ、過去から現在へと続くひとつらなりの作品にしようと決意した。

璃璃はハーマンに、オストランドへの移住を計画していることを伝えた。
「うまくいくだろう」
 そう言うと、ハーマンは破顔した。
「面倒なこともあるし、誤解もあるだろうけど、申請に関しては、自動翻訳してくれる音声チャットボットが分かりやすいし正確だ」
 そう告げると彼は、ポートフォリオも見せてほしいと告げた。なぜ、といぶかしむ璃璃に、是非ともオストランドに入国してほしいから、ダブルチェックするのは当たり前じゃねえか、と嬉しそうに告げた。
「俺の場合、就労ビザを延長しながら五年間滞在したら永住権をもらった。活動を続ける必要があるかもしれないけど、璃璃も滞在すれば、永住権をもらえるんじゃねえかな」
「そうしたら、パスポートも発行されるの?」
 璃璃の言葉に、ハーマンは微笑みながら答えた。
「もちろん。そうなったら、どこへでも行ける」
 璃璃の心は希望でいっぱいになった。そしてオストランドの人権団体と入国管理局から知らせが入り、受け入れる学校が見つかったからこの国まで来てほしいという連絡があった時、璃璃は真っ先にハーマンのもとへ知らせに行った。
 気だるそうに医務室のソファに腰かけていたハーマンは、高揚した璃璃の顔と、腹面を光らせている明明の姿を見て、破顔して告げた。
「聞かなくても分かるよ、おめでとう。オストランドに行ったら隅から隅まで案内してやるよ」
「ありがとう、でも、まだ引っ掛かってることがある」
 璃璃がそう言うと、ハーマンはいぶかしげな顔をする。
「なんだ? もう、障害はねえだろうと思ってたが」
「私が気にしているのは、ここから出る時のこと」
 璃璃は浮かない顔をして、以前通風孔のくぼみで耳にした、二人組の警備局員の会話を伝えた。するとハーマンも考えこむ。
 その時、明明が二人の服を引っ張った。

出発の日、オストランド行きの飛行機が到着すると、璃璃と明明とハーマンは搭乗口付近に向かった。周囲には職員たちが集まっている。
 ふと、ざわついていた周囲が静まる。静けさの源を見ると、警備局員がこちらに向かっている。二十人に満たない人数だが、黒っぽくて皺ひとつない制服は強力な威圧感がある。
 向かっていこうとするハーマンを手で制し、璃璃は彼らに向き直った。
「私は、オストランドに行きます」
 震える声を抑えながら、懸命に告げる。
「では、パスポートを見せなさい」
 相手の低い声には聞き覚えがあった。いつか通風孔のくぼみで会話を聞いた二人組のうち、上司の方のものである。
その声を聞いて璃璃は、今やるべきことを痛烈に実感し、明明に合図をする。
皆が応援してくれている、絶対に負けられない。
――空港を非合法で出ていくう奴なんて、ごまんといるだろう。まあ、我々はたまに捕まえて、袖の下をもらうわけだが。
――そのためには、本人にお金があるか、お金を持ってる知り合いがいる必要がありますね。
 よく響く声を、明明が再生する。以前聞いた、二人組の局員の会話だ。
 周囲が固唾を呑む中、璃璃は腹に力を入れた。そして、局員たちの顔をまっすぐに見た。
「これはあなたがたの会話です。賄賂を要求してますよね。私にも賄賂を払えって意味でしょうか?」
 さきほど話した上司の方の局員は、平静を保とうとしているようだが、動揺しているのが見て取れた。ざわついている局員の中には、顔面蒼白になっている者がいる。まだ年若いと思われるその青年は、恐らく二人組の部下の方だろう。
「これ以上邪魔をするなら、この音声を全世界に公開します」
 璃璃の言葉に、局員たちは顔を見合わせていたが、二人組の上司の方は、唇を噛んだ後、局員たちに手で合図し、くるりと背を向けて歩き出した。他の局員たちも慌てて後に連なる。
 その姿に、璃璃たちの味方の陣営には、ほっとした空気が流れた。
 ハーマンは璃璃に向かって小さく拍手しながら、耳元で囁いた。
「やったな。あの感じだと、叩けば他の奴からもホコリが出てくるだろう。もう手出ししてこないはずだ」
 璃璃は頷いてハーマンの手を取り、皆が拍手をする中、生まれて初めて堂々と搭乗口から出た。明明もどこか誇らしげな様子で後に従った。

璃璃とハーマンは、職員に頼んで、明明と共に搭乗前に地上へ下ろしてもらった。
 滑走路から振り返ると、空港の建物が、陽炎のように揺らめいて見える。
 璃璃は思った。今までは、この空港に閉じ込められているのだと思っていた。でも実は、守られていたのかもしれない。明明やハーマンがそうしていてくれたように。
 やがて職員に呼ばれ、明明と二人は飛行機に向かった。
 璃璃が飛行機のタラップを昇る。その時タラップが揺れ、手にしていた小さな革製のトランクの隙間から数枚のカードがこぼれた。
 赤や黒、臙脂に橙、黄色と緑。
 闇と光、夜と昼、過去と現在。影の気配と人の賑わい。この空港の二つの顔、地下街と地上部を象徴するカードが混在しながら風に遊ぶ。
 オストランドが正常化した時に璃璃が泣きながらつくった、青色のカードも見える。
 さあ、あれほど憧れた広い空へ。
 璃璃は、手を伸ばして捕まえようとするハーマンを制し、カードを空高く、自由に舞い上がらせた。   <完>

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