ノッキング・カズ

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梗 概

ノッキング・カズ

アンデット鈴鹿の背番号11、キング・カズ111歳がPKを決め、自身の持つ最高齢得点記録を更新した。

Jリーグ最年少出場記録を持つ野崎アンリは気に入らなかった。キングの肉体は人工筋肉などで補強され続けているものであり、どこまでが本人の能力なのかわからない。ドーピングには厳しい基準が設けられているはずなのに、レジェンドだからということでそのあたりを有耶無耶にされているのではないかと思っていた。また、そういった肉体維持は金持ちの特権であり、11歳という年齢でプロ契約をしなければならないアンリの家は金に困っていた。自身が生まれる100年前に生まれた選手がまだ同じフィールドを走っているということが不満だった。限りあるパイをそういった伝説が未だに手放さないから自分達はいつまでもこの生活から抜け出せない。

日本一のサッカーチームを決める天皇杯第二回戦、アンリの所属する南紀ミカンFCはアンデッド鈴鹿の本拠地、鈴鹿スポーツガーデンスタジアムへ乗り込んだ。鈴鹿はかつての四日市市や津市と合併し、広大なイオン市として三重県北部を占める政令指定都市だ。街のほとんど全てがイオン系列店なので統一感があり、ベルシティと呼ばれる関西最大級のイオンはまさにキングが利用するに相応しい古城のような外見の超巨大ショッピングモールであった。

アンリはそんな街の景色に圧倒されたが、ミカン畑しかない自分達の地元を思い、負けられないという気持ちを強くした。11歳にして身長189センチというフィジカルをいかし、アンリは南紀ミカンFCの鉄壁の守備に貢献していた。今日の試合もセンターバックとして先発出場する。一方アンデッド鈴鹿のキングはベンチスタートのようだった。

「おれたちが世界だ!」

スタジアムに入るなり響いてきたのはキング・カズの声だった。アンデット鈴鹿は選手・スタッフ全員が肩を組み円になり、キング・カズに続き「おれたちが世界だ!」と声を揃えた。するとスタジアムを埋めるサポーターたちからも同じ言葉が発せられ、会場の熱気が一気に高まった。

かつてワールドカップに出場したことがなかった日本サッカーについて「日本は世界で戦えるか」と問われたとき、キングは「日本も世界なんですよ」と答えた。その時から長い年月をかけ練り上げられたキングのプロ論がその言葉に込められていた。アンリはこの時初めてレジェンド、キング・カズがそこに存在するということを実感した。そして彼のことをもっと知りたいと感じた。プロとは何か、世界とは何か、自分とは何か。そんなことをこれから始まる試合を通して、キング・カズという選手とプレーすることを通して、少しでも学ぶことができたら。サッカーをするとき、そのようなことを考えるのはアンリにとって初めてのことであった。ホイッスルが鳴る。本物のプロになりたい。キングの眼差しを感じながら、アンリはボールを追いかけた。

文字数:1195

内容に関するアピール

私の特徴は何かと考えてみると、特徴がないことが特徴かなと思ったのでなかなか難しく、なら住んでいる場所の特徴でいこうと思いまして、私は三重県鈴鹿市に住んでいますので、鈴鹿市といえばF 1の鈴鹿サーキットなんですが、F1についてはうるさいというのと渋滞がうざいというイメージくらいしか持ちあわせておらず、小学生のころからサッカーをしているので、キングが鈴鹿のサッカーチームへ移籍したことが最近では一番の特徴かと思いまして、ただキングが本当に近所に来たのかどうか個人的に実感が持てず、そのような大きな出来事に対する実感のなさと、メディアで報じられるものと、そしてそこにいるキング側の現実という対比は、現在のウクライナ情勢を見ている時の感覚と同じで、そういったものをきちんと捉えられるようになりたいと思いながら考えました。また、肉体の改造が可能になった場合のプロスポーツの線引きについても考えてみたいです。

文字数:398

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ノッキング・カズ

アンデッド鈴鹿の背番号11、キング・カズ111歳がPKを決め、自身の持つ最高齢得点記録を更新した。チームメイトから届いたニュースに野崎アンリは「PKかよ」と返信する。Jリーグ最年少出場記録を持つアンリには自分が生まれる100年前から存在するレジェンドの偉大さがよくわからなかった。総得点数でいえば日本人でもキング・カズを凌ぐ選手が何人かいる。もちろん111歳で現役というのは異常だが、異常だからといってすごいというわけではない。プロならばその存在価値をプレーで証明するべきだ。半世紀以上もマーケティング要員と言われ続けていることを本人はどう思っているのだろうか。

アンリは軍手で額の汗を拭い、そんなことを考えても無駄だと自分に言い聞かせた。顔を上げる。青空と交わるところまで続いている蜜柑畑。収穫用の籠はもういっぱいだった。回収用のドローンが頭上を蠅のように飛び回る。肩紐のボタンを押すと背中の籠が射出され、頭上を通過するドローンがキャッチし、直接売り場まで飛んでいく。それを察知した別のドローンがすぐさま空の籠を準備しアンリの元まで運んでくる。無限に続く収穫作業にウンザリしていた。人の手で摘み取るのは、それがそのままブランドとなるから。味は変わらないのに価格は5割増。馬鹿らしい。アンリは収穫作業に戻る。その足元では泥にまみれたサッカーボールが太陽の光を反射させていた。それだけが彼の希望であった。

 

2066年、フランスワールドカップで日本代表は悲願の優勝を飾った。この時、スタッフとして帯同を打診されたキング・カズ99歳は、あくまで選手としての参加を希望し、結果日本から優勝を見守ることとなった。フランスワールドカップと言えば、1998年、キング・カズがエースとして日本代表を牽引し、ワールドカップ本大会初出場を決めた記念すべき大会だ。しかし日本代表を支えてきたキング・カズは本戦登録メンバーから外れ、選手としてワールドカップへ出場することは叶わなかった。スイスでの直前合宿から帰国したキング・カズは髪を金色に染め上げて現れ、成田国際空港で行われた会見では「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」とのコメントを残している。キング・カズにとっては因縁のフランスワールドカップで日本は初優勝を果たした。そのことについて、銀髪となった99歳のキング・カズは素直に喜びと称賛の言葉を述べ「次の大会に向けて僕もトレーニングに励みます」と応えている。しかしこの年、キング・カズはプレイに集中することが困難であった。というのも、史上最高のサッカー選手と言われたリオネル・メッシが79歳で逝去し、後を追うようにクリスティアーノ・ロナウドが亡くなった。その他、サッカーの歴史に名を刻む多くの名手がこの年に世を去り、キング・カズは世界中の葬式をはしごすることとなった。この時、葬式のため一年間に移動した距離というものでギネス記録登録の話が持ちかけられたが、キング・カズはこれを断っている。代わりに登録されたのは日本サッカー協会会長、ケイスケ・ホンダであった。

それから18年後、つまりブラジルでプロデビューした1986年から92年の時を経た今もなお、キング・カズはプロサッカー選手としてピッチに立ち続けている。数えきれない選手の引退を見送り、その死すら見送って、彼はまだそこでひとつのボールを追いかけ続けている。キング・カズの足跡を調べていたアンリは「なぜ」と思わずにいられなかった。キング・カズほどの富と名声があれば、サッカーなどしなくとも自由に暮らしていくことができるはずだ。有名なサッカー選手のほとんどは40代には引退し、サッカー協会の重役となるか監督となるか、または自身の積み上げてきたブランドで新たなビジネスを始めるか、旅人となる。そして厳しい栄養管理とトレーニングから解放され、ぶくぶくと太るのだ。アンリもはやくそちら側へ行きたかった。

蜜柑畑しかない田舎町で細々と暮らすアンリの家は、大企業が管理する畑でひたすら蜜柑を栽培し続けている。いくら汗水垂らそうがアンリたちの手元に残るのはオレンジジュースの搾りカスのような小金だけ。この地方でそんな生活から抜け出す方法はただひとつ、サッカー選手になることだ。この地を牛耳る大企業、オレンジ・サンシャイン株式会社がオーナーを務めるプロサッカーチーム、OSナンキ。太陽を胸にあしらうユニフォームだけが、アンリたちの希望であった。そして、11歳にして身長189センチという恵まれたフィジカルを持つ野崎アンリは、もう少しでその希望を掴もうとしていた。

Jリーグ開幕前のプレシーズンマッチに下部組織から参加を認められたアンリは安定したプレーを披露し、昨期3位の川崎フロンターレ相手に危なげなくクリーンシートを達成。そのまま開幕戦でJリーグ最年少出場を果たした。しかし未だ畑仕事から完全に解放されたわけではない。あくまでスポットでの選手登録でしかなく、契約金の提示などの話もされていなかった。それでも、わずか数試合の出場で野崎家の数ヶ月分の俸給が支払われ、アンリの家族は大喜びだ。しかし、とアンリはタブレットから顔を上げる。清潔なロッカールーム、練習の度に新しく提供されるウェアやスパイク、それからこの快適な空調。それらが家族と共に身を粉にして栽培したあの蜜柑から変化したものだと考えると、なんとも言えないおぞましさが腹の底で渦巻くのを感じる。

「スカウティング?」

からかうような声に振り返る。OSナンキの派手なオレンジ色のジャージを着こなす澤秋帆がロッカールームの入り口にもたれかけていた。

「だから男子更衣室をのぞくなって」

「着替え終わっとるんやからええやん」

「オレはね?」

秋帆は他の選手が着替え中であることなど気にする様子もなく近づいてくる。アンリはタブレットに顔を戻す。彼女のことが苦手だった。約束された才能。家柄。そしてその容姿。全てがアンリの劣等感を刺激する。OSナンキに女性として登録される唯一の選手であり、17歳で背番号10を背負うチームの司令塔。しかし彼女は、サッカーをしなくとも生きていける側の人間のはずだ。だからアンリにとって彼女の存在は、もっている側の人間がただ才能をひけらかしているように思えてしまう。けれど本当はアンリもよく知っていた。秋帆が誰よりもはやくグラウンドへ出ていることを。誰よりも長くボールに触っていることを。

「やっぱカズさんのこと調べとるやん」

秋帆がタブレットを覗き込むため顔を近づける。彼女の短い髪が揺れ、アンリの耳を掠めた。アンリは逃げるように立ち上がり、タブレットをロッカーへしまう。

「時間だ」

「まだはやいやろ」

「先にストレッチしてる。成長痛がきついんだよ」

「まだおっきなる気かいな。ストレッチつきおうたろか?」

「いらない」

秋帆がわざとらしく肩をすくめる。アンリは大股で更衣室の出口へ歩いていく。

「なあ」

「ついてくんなよ」

「いや、靴紐結んでへんよキミ」

アンリは自分の足元に目を落とす。長い靴紐がだらしなく地面に伸びている。その場でしゃがみ込み、赤くなる顔を隠すように体を丸めて靴紐をきつく結ぶ。その横を秋帆が笑いながら通り過ぎる。「先ボール蹴っとるでなー」アンリは紐を引っ張った指に赤く残る痕を見つめた。いつもこうやってからかわれる。そんなことをしている暇はないはずなのに。はやく正式にプロサッカー選手となり、もっと金を稼がなければならない。けれど、こういう時間が嫌いじゃない自分がいる。そんな時間を楽しんでいる自分がいる。そんな自分が、アンリは嫌いだった。

 

キング・カズの屋敷へ招待されたというニュースがもたらされたのは練習後のロッカールームでのことだった。チームメイトたちから歓声が上がる中、アンリはそんなキングの余裕に腹が立った。昨期J1への昇格を決めたOSナンキは今週末、初めてアンデッド鈴鹿のホームへと乗り込む。リーグ戦第3節。現在最多得点を誇り全勝で1位をキープしている鈴鹿と、昇格組ながら5位をキープし未だ無失点を維持しているナンキのホコタテ対決は、サッカーメディアからそれなりに注目されている。リーグ前半戦の行方を占うかもしれない大切な一戦を前に、キングの屋敷で接待を受けるなんて考えられない。しかし新参者であり最年少のアンリには何も言えることはなかった。J1に昇格しキング・カズの屋敷へ招待されることは、Jリーグでプレーするサッカー選手にとってひとつの夢のようなものなのだ。

アンリはそっとロッカールームを抜け出し、練習グラウンドの方へ歩いた。蒸し暑い夜の中へ出ると、エアコンで冷やされた汗とのギャップが心地よかった。スパイクの裏側がアスファルトを鳴らす転がるような音。スタッドを削らないよう一歩一歩慎重に歩く。初めてサッカースパイクを買ってもらった頃の癖が、いつだって新しいスパイクをもらえる今も抜けきらなかった。不意に、静かに澱む空気を震わす破裂音が聞こえた。明るい照明の向こうから、ボールを蹴る音が響いていた。

練習場で、秋帆がひとりフリーキックの練習を続けていた。いくつものボールが周囲に転がり、その表情はどこか鬼気迫るものがあった。

アンリが練習場に踏み入れると同時に、秋帆はアンリの方を振り向きもせずに綺麗な放射線を描く浮き球のパスをよこした。アンリは飛んできたボールを胸でトラップし、足元に収めて顔を上げた。するともう一球ボールが飛んできており、慌てて距離感を調整し今度はふとももでトラップした。

「やるやん」

「あぶねーだろ」

蹴り返すと、秋帆は足の甲に吸い付くようなトラップで難なくボールをコントロールする。そのままの距離で、ふたりはふたつのボールを同時に蹴り合い、同時にトラップするというパス交換をしばらく無言で続けた。アンリの方が一瞬もたつき、その間秋帆はトラップしたボールを落とさずリフティングを続け、タイミングを合わせた。アンリは少し慌ててボールを蹴った瞬間、そのパスが秋帆の頭を越えてしまうことに気づき「ごめん」と言いかけた。しかし秋帆の蹴ったボールが空中でぶつかり、ふたつのボールは練習場をそれぞれの方向へ転がっていった。

「まだまだやねえ」

「……狙った?」

「当然。ということで、片付けよろしく」

アンリはため息をつき、仕方なくそこら中に転がるボールを集めにかかった。その間、秋帆はしなやかなストレッチを続け、一球も拾ってくれなかった。

「キングの屋敷に招待されたって、きいた?」

「知っとる。カズさんち久しぶりやなあ」

「行ったことあるんだ?」

「昔ね。いろいろ教えてもらった」

ストレッチを続けながら秋帆はふふっと笑った。

「カズさんとランニング始めたらな、終わらへんねん。あの人少しでも前走られたら嫌やでどんどんスピード上げるし、先にやめるのも嫌みたいで。うちも負けず嫌いやから同じことするやろ。やでおばあちゃんが止めてくれるまで終わらんくて、ほんま死ぬかと思った」

「子供じゃん」

「そう、いつまでも子供。だってサッカーやっとるんやもん」

ボールネットに拾い集めていたサッカーボールがひとつこぼれ落ちた。どういうことだろうか。サッカーをやっているからいつまでも子供というのは。アンリにとってサッカーをすることはつまり、強制的に大人になることだった。同じグラウンドで練習し、同じスタジアムで試合をしていても、自分とキング・カズや、チームメイトの秋帆ですら、いつまでもずっと、同じ景色は見れないのかもしれない。自分の方が、変わるべきなのだろうか。変わることが、できるのだろうか。誰かにとっての普通を垣間見るだけで傷ついてしまうのは、自分がまだ子供だからか。もう少し歳を重ねたならば、こんな劣等感を味わうことはなくなるのだろうか。理解されたいわけではない。ただ、他人を羨む自分が嫌なだけだった。自分は今、サッカーをすることができていて、それはとても恵まれたことだ。けれど、世の中にはもっともっと恵まれた人がいて、もっともっと、苦しい生活をしている人たちがたくさんいて、そういうことを考えると、自分がここにいることの罪悪感と劣等感が同時にやってきて、どうすればいいのかわからなくなってしまう。どこにも自分の居場所がないような気がしてしまう。どうしてオレは、サッカーをしているのだろう。

こぼれたボールを拾い上げ、それをどうしたいのか考えてみると、何も思い浮かばなかった。そのボールをどこへ向けて蹴り出せばいいのか、教えてほしかった。なんて意味のない、馬鹿げたことを考え始めた自分を内心で笑い、ボールネットへ戻そうとすると、「へい」と声がかかる。秋帆が立ち上がり、パスを要求していた。

「ストレッチしたじゃん。終わりじゃないの?」

「なんかもう少し蹴りたそうやから」

はー、とわざとらしく息を吐き、アンリはボールを高く蹴り上げた。「先に落とした方が負けね」とボールを追う秋帆に言う。「卑怯者め!」と叫びながらも見事にボールをトラップし、同じように空高く蹴り上げたパスを返してくる秋帆の技術力と性格には、もう呆れて笑うしかなかった。そして、体と思考の全てがボールだけを追いかけているこの瞬間だけが、ずっと続けばいいのにと思った。

 

アンリとセンターバックのコンビを組む櫻井ハジメは41歳のベテランのくせに窓の外の景色に浮かれっきりであり、隣に座るアンリはなんとなく苛立ちを感じていた。たしかに、鈴鹿の街は壮観だった。三重県北部の桑名市、四日市市、鈴鹿市、そして県庁所在地の津市は2050年、イオン市として統合された。イオンタウンとは今ではショッピングモールではなく、街そのものであった。清潔で均衡の取れた専門店街が地平線の果てまで続いている。アンリたちのような田舎者にとってはインターネットの中で見聞きするだけの華々しい最先端の店が循環し続けるこの街は冗談めかして「生きている」とまで言われる。実際、街の住所は「セル1-2」などと記述され、細胞が生まれ、死に、また生まれるような変化を繰り返しているが、街全体としては同じ姿を保っている。

アンリ自身もその光景に圧倒されていた。バスの外を流れゆく煌びやかな店。そしてそこを行き来する人々。全てが洗練されていた。そして、全てが同じに見えた。同じような服を着て幸せそうに笑う人々。同じ顔で同じものに価値を見出し、同じように幸福であることができるなら、自分は喜んで同じになるかもしれない。

アンリは目を擦る。ピントが合わない。そこに何があるのかよくわからない。人生何億周分もの商品が並んでいるにもかかわらず、自分にとって必要なものがそこにあるとは思えなかった。そんな情報量の中から自分の欲しいものを選びとることができる人々が、同じ人間であるという実感はもてなかった。自分が彼らと同じになることが可能だとはとても思えない。人々すらショーウィンドウの一部分とするこの巨大な商業都市は、自分にとって居心地のいい場所ではないかもしれない。あの蜜柑畑から抜け出して自分が行きたい場所は、本当にこのような場所なのだろうか。

「ん」と前の席から秋帆がスルメを差し出してくる。バスという長時間閉ざされた空間でそんなにおいのするものを食べないでほしかった。アンリはスルメよりも茎わかめの方が好きだった。

「いらない」

「あっそ。どうよ初めてのイオンタウンは」

すごいでしょ、と言わんばかり笑みで振り返る秋帆から目を逸らし、アンリは「うちとかわんねーよ」とぶっきらぼうに返す。実際そうだった。似たようなものが地平線の果てまで続いているという点では。

「んなわけないやん」

「どうせオレには関係ねーし」

秋帆は「あっそ」と呟いて頭をひっこめる。ハジメが最近再ブームとなっているタピオカやレモネードの店についてやけに詳しくはしゃいでいるのが鬱陶しかった。アンリはタピオカというものを口にしたことがなかった。あんなオタマジャクシのようなものを好んで胃に流し込むおっさんたちを想像すると気分が悪くなった。吐き気を抑えるため遠くの景色を求める。白とピンクの街並みの向こうに小さく城が見えていた。あれがキング・カズの屋敷らしい。キング・カズはその名に相応しくこの街に君臨していた。ほとんど完成しているようなこの世界で生き続け、プロサッカー選手であり続ける彼には、いったいどのような景色が見えているのだろう。これから成し遂げるべきことなどあるのだろうか。どこを目指して、ボールを追いかけているのだろう。アンリはボールが蹴りたくなった。理由はわからない。けれどこの街は落ち着かない。ここにいるという実感がない。自分が生きている理由が、こういった街で見つかるとは思えなかった。なら自分はサッカーに導かれ、どこへ行きたいのだろうか。ただ逃げ出したい、それだけなのではないだろうか。

キング・カズの屋敷は城などではなかった。それはただの外観でしかなく、バスが門をくぐり中へ入るとそこに広がっていたのは規格外のトレーニング施設であった。区分けされたいくつもの人工芝コートでは子供から老人までがボールを追いかけている。見たこともない装置が並ぶフィジカルトレーニングのエリア。蛇口から流れるはプロテイン入り牛乳。フリーキックエリアでは壁役の人形とゴールが自動で動きさまざまなシチュエーションをシミュレート。セットプレーの練習がしたければコーナーからボールが射出されるエリアもある。ゴールキーパーには千本ノックのように自動シュートが繰り返される。キング・カズが暮らしているのは城壁の中のそんな施設を囲むように作られた宿泊施設の中の他と同じような部屋のひとつだという。これらの設備はサッカーをするすべての人に対し無償で提供されている。食堂に集められたOSナンキ一同はそんな説明をキング・カズのマネージャーであるという執事服の老人から聞いた。丸眼鏡をかけ、白い口髭をカールさせた、小柄ではあるが美しい姿勢の男だった。アンリのイメージ通りだったのはこのマネージャーだけだ。

「お食事はみなさまそれぞれを分析した栄養管理士が最適なものをご用意いたしますので、お時間のご予約をお願いいたします。施設はどれもご自由にお使いいただいてかまいません。キング・カズは最高のコンディションでの試合をお望みです」

完全になめられている、とアンリは思った。隣を見ると、なぜか秋帆が笑いを堪えていた。その時、突然低くしわがれた笑い声が頭上から降り注いだ。

「OSナンキのみなさん、ようこそ我が城へ。姿を見せられず申し訳ない。ボクも明後日の試合のため体を仕上げる必要があってね」

キング・カズの声がスピーカーから響く。重厚感のある声には自信と活力がみなぎっている。ハジメが心臓に右こぶしを当て涙を流す。アンリには意味がわからない。

「なるほどなかなか若いチームだ。今一番勢いのあるチームということはボクもよく知っているよ。何度も試合は見させてもらっている。どうしてこういった敵に塩をおくるようなまねをするのかと不服な子もいるみだいだね。それはね、ボクがあと何回サッカーをプレーすることができるのかわからないからさ」

アンリの隣でハジメが頭を左右に振り涙と鼻水を飛ばしてくる。

「スポーツ選手は常に怪我と隣り合わせだ。いつだってそれが最後のプレーとなる可能性はある。どれほど医療が発達しようともね。ボクは111歳の今もプレーを続けることができている。それがどれほどの幸運に恵まれてのことか。今までボクよりも才能がある選手の引退を、そしてその死を、幾度となく見送ってきた。それでもボクは今もサッカーを続けている。それはボクの全てだ。ボクは命をかけてサッカーをしている」

キング・カズは何を言っているのだろう。命をかけてサッカーをするとはどういう意味なのだろう。アンリには何もわからなかった。

「最高の試合をしよう。魂をかけて」

「魂をかけて!」

ハジメを含む数人がそう叫んだ。そして拍手が巻き起こる。今さっき命をかけてと言ったばかりなのに、魂をかけて? それは具体的にどうすることなんだ。アンリがかけているもの、それは「生活」だった。それは魂なんてものよりも大切のように思える。そんなものをかけられる恵まれた人間に負けたくなかった。命がけなのはこっちだ。同じルールで試合をするプロ同士、子供扱いされることを受け入れるわけにはいかない。どれだけ歳がはなれていようと。

 

その日の夜遅く、アンリはやけにはっきりと目が覚めてしまった。キング・カズに、いや、アンデッド鈴鹿に勝つため、キング・カズの施しをできうる限り受けようと思った。ハイレベルなトレーニングによって体の動きが最適化されていくのがわかった。アンデッド鈴鹿のようなトップチームはいつもこのような適切な反復練習を繰り返しているのかと感動すらした。マシーンのようにミスなく無駄なく相手を攻略しきるアンデッド鈴鹿のサッカーの秘訣を覗き見た気がした。体も頭もくたくたのはずだが、胸の内でうずく何かを抑えることができなかった。

扉を開けようとすると「睡眠が必要です」という警告音声が流れた。アンリはそれを無視し、暗い廊下へ出た。電気はつかなかった。足元の誘導灯を頼りに出口を探す。空間把握は得意だ。廊下に足音は響かなかった。選手たちの休養を妨げないため消音の素材が使われているのかもしれない。なんとなく息苦しく、足を速める。出口の扉に手をかけた時、肩を掴まれた。アンリは跳び上がらんばかりに振り返った。あの執事の老人がいた。

「野崎アンリ様、夜はゆっくりおやすみください」

アンリは明かりがなくてよかったと思った。顔が熱かった。恥ずかしさを押し隠し「眠れなくて」と頭をかいた。実際にはよく眠った後だったが、今眠れそうにないのは確かだった。

「では私の部屋でホットミルクでもお飲みください」

アンリは断り方がわからず、気がつけば老人の巧みな促しに従い部屋へと招かれていた。

深夜でも執事服をきちんと着こなしている彼の背中をアンリはぼんやりと眺めていた。やはり美しい姿勢だった。真っ直ぐに伸びる背筋。隙のない身のこなし。温めたミルクをマグカップへ注ぐ所作は美しかった。これほど優雅にミルクをマグカップへ注ぐことができる人間はいないと思った。温かなミルクの香りが気持ちをやわらかくさせていた。

「ありがとうございます」

マグカップを置いた老人は、丸眼鏡の奥でとても温かな笑みを浮かべた。アンリは初めて彼の顔をまともに見たような気がした。そしてその美しい弧を描く白い口髭が完璧すぎることに気がついた。「あ」と声が漏れた。老人はアンリの視線に気づいたようだった。

「君はいい目をもっていますね」

そう言って老人は笑った。そしてその髭をゆっくりと剥ぎ取った。ついで、丸眼鏡を外す。優しげな皺を刻むその目は、よく見ると意志の強そうな、強烈な光を湛えていた。アンリは改めて目の前の男を観察した。その胸板は厚く盛り上がり、執事服の太もももパンパンに膨れ上がっていた。執事服を身につけたキング・カズが、目の前にいた。

「どうして、ですか?」

「カッコつけたいから、ですかね。私は君たちのように素晴らしいフィジカルをもっていません。こんな小さな男がキング・カズだと思うと、少しがっかりしませんか?」

いや、と恐縮するアンリだったが、キング・カズの目がからかいの色を帯びていることに気づいて苦笑した。

「もちろん試合ではあなたにも当たり負けするつもりはありませんよ。どうやら試合中の私は相手には大きく見えるらしいです。試してみますか?」

そういってキング・カズは上着を脱ぎ、腕捲りをする。そしてアンリの目の前に腰掛け、腕相撲の構えを見せた。

「大丈夫ですか?」

アンリの問いに、キング・カズは寛大な笑い声を立てた。

「本気でやらなければ、怪我をするのはあなたの方かもしれない」

そんな簡単な挑発に、11歳のアンリは乗ってしまった。先にミルクを飲み干そうと口をつける。しかし熱かった。それはホットミルクだった。キング・カズはまた愉快そうに笑い「ゆっくりお飲みなさい。待っていますから」と言った。

「すみません」

「いいえ。私はあなたのような才能のある若い選手と話をすることが大好きですから」

アンリには何もかもが意外だった。メディアで見るキング・カズはそれこそマフィアのボスのような貫禄があった。目の前の穏やかな老人は本当にキング・カズなのだろうか。まるで底がしれない。どこまでが演技で、どこからが本音なのか。これほど柔和に微笑み、自分のような子供相手でも同じサッカー選手であるという敬意を表してくれる目の前の男が、試合のため必死でスカウティングしていた男と同じだとは思えなかった。自分には何も見えていなかった。111歳の現役プロは、自分には計り知れない存在なのかもしれない。

「最近は秋帆もよくあなたの話をしてくれます」

そう言われ、アンリはミルクを吹き出しそうになった。その様子をキング・カズは楽しそうに見つめていた。

「あいつは何を?」

「普段はガキだけどサッカー脳に関しては天才的」

アンリは恥ずかしさのあまり頭を抱えた。ホットミルクで温まった胃がさらに熱くなる。

「私はね、サッカーで最も大切な能力は、頭脳だと思っています。今日の君をしばらく観察させてもらいました。君は練習ごとの意図を正確に汲み取り、誰よりも質の高い時間を過ごしていた。確かに君のフィジカルは素晴らしい。けれど本当に優れているのはその頭脳だと、私も思います。いくつもの選択肢をフォローしながら状況を適切に把握し一番危険な未来を刈り取る。相手がやりたいことをさせないポジショニング、そしてコーチング。ディフェンス面だけではありません。センターバックとして攻撃の指揮をとることもできる。秋帆という天才的な司令塔のビジョンを瞬時に理解し、必要なフォローをし、キーになるパスを出すこともできる。その年齢でおそろしい完成度だ。無論、プロである限り年齢はもはや関係ありませんが」

「天才なのは、あいつです。オレはあいつについていくのが精一杯だ。あいつみたいに自分ひとりで試合の流れを変えることはできないし」

「役割はそれぞれですから。秋帆もあなたのようにひとりでチームの危機を刈り取ることはできませんよ。さあ、飲み終わりましたね?」

いつ用意したのか、キング・カズからおしぼりが差し出される。アンリはそれで口を拭い、キング・カズの構える大きくはないが、圧のある手を見る。

「さて、何か賭けますか?」

アンリは肩をすくめる。

「オレは何ももっていませんよ」

キング・カズはゆっくりと微笑んだ。それはなぜか、相手をぞっとさせる迫力があった。

「では野崎アンリさん。私が勝ったなら、うちのチームにきませんか?」

ミルクの香りがほのかに漂う深夜の部屋の中に、耳が痛くなるほどの静寂が満ちる。アンリはキング・カズの変わらない微笑みを見つめていた。背中を汗が伝うような気がした。温まった体が硬かった。

「冗談ですよね?」

「いいえ。アンデッド鈴鹿のGMは私の兄です。私はあなたが欲しい」

「秋帆より、ですか?」

キング・カズは何かを飲み下すように目を閉じた。それからゆっくりと、力強くアンリを見つめ直した。

「残酷なことを言いますが、彼女は私のように、永遠にサッカーを続けることはできません」

「女だからですか」

「誤解しないでください。今ではサッカーに性別は関係ない。ワールドクラスの選手のうち半数近くが女性であるのが現代サッカーだ。しかしそれはすべて、若い女性です。これは男女差別などという話ではなく、ただ体の構造が違うのです。人間というものをやめてまでサッカーをする必要はない。私が言うのもおかしな話ですが、人生はサッカーだけではない。もちろん、こんなことメディアでは絶対に言いませんが」

口の中に残るミルクの匂いが不快だった。

「そういうことは、オレには難しくてわかりません。どう生きるかとか、そういうことですか。それならオレにも、男にも、サッカー以外の人生はあると思うんです」

「もちろん、もちろん。この話はやめておきましょう。ただ私が、今、君とともにプレーしたいと思った、それだけの話です」

本当にそうだろうか。しかしアンリはそれ以上を尋ねる気にはならなかった。結局、キング・カズとアンリが腕相撲をすることはなかった。自分の部屋に戻ったアンリは眠ることができず、ベッドから窓の外のコートを眺めていた。

秋帆は天才だった。その天才が誰よりも努力している姿をアンリは見ていた。練習の意図を考えること、それは秋帆から学んだことだ。サッカーというものの多くを、アンリは秋帆から学んだ。秋帆がまだ下部組織でプレーしていた頃から、アンリは彼女に憧れていた。自分もあんなふうにプレーしてみたい。そう何度も思った。敵を欺く魔法のようなパス。足に吸い付くようなコントロール。そして何度もチームを救った性格無比のフリーキック。秋帆は誰よりも楽しそうにサッカーをしていた。アンリのサッカーは苦しかった。常に神経を尖らせ危機を察知し続ける。未来を予測し相手の一歩先をいく。一度でも失敗すれば、それまでどれほど完璧な守備をみせていようがおしまいだった。一瞬の気の緩みが命取り。走り続けるのは苦しい。一度サボってしまうだけで生活が吹き飛ぶかもしれないという恐怖がアンリの足を動かしていた。

自分は、いつまでサッカーを続けるのだろう。アンデッド鈴鹿でプレーできれば、生活は今より安定するかもしれない。地元に強い愛着があるわけでもない。悪い話ではなかった。秋帆だってもっとレベルの高いチームへ移籍するかもしれない。けれどまだ、アンリのサッカーは始まったばかりだった。アンリは秋帆と、OSナンキと自分がどこまでやれるのか知りたかった。変化が恐ろしいわけではない。まだここでやるべきことがあると思ったのだ。まずは育ててもらったOSナンキと正式にプロ契約を結ぶ。そして目に見えた結果を残す。話はそれからではないだろうか。蜜柑畑しかないあの街に、返さなければならないものがあるような気がしたのだ。

キング・カズはどうして今もプロにこだわっているのだろう。ほとんどの選手が40代、遅くとも50代には引退する中、111歳で現役を貫いている。そんなことを可能にしている彼の体には、もともと彼自身のものだった筋肉はほとんど残っていないだろう。プロ選手として移植が許可される筋肉は、人間の平均的な能力のものだけである。つまり人工筋肉の移植を受けるということは、プロのスポーツ選手としては才能のない体になるということだ。努力で鍛え上げることは出来ても、同じ努力をした天性の筋肉の持ち主には及ばない。飛び抜けた俊敏性もなく、弾丸のようなシュートを放つことができるわけでもない。ごくごく平凡な身体能力をもって、日々進化した肉体の新世代が現れ続ける世界で、どうしてサッカーを続ける気になるのだろうか。キング・カズはサッカーに何を見出しているのか。

秋帆が自分よりも先にサッカーをやめるなんてことを、アンリは想像することができなかった。

 

翌日は試合前日ということで、午前中に軽いメニューをこなし、その後は自由時間となっていた。アンリは自室に戻り仮眠をとりたかったが、秋帆に付き合わされイオンタウンを練り歩いた。ただ歩いているだけで死ぬほど疲れるのは初めての経験だった。秋帆は人混みに酔ったアンリを田舎者とからかいながら近くの喫茶店まで引っ張っていった。

「しっかりしいや」

「目的地はどこなんだよ」

「んなもんないよ。フラフラ見て回るのが楽しいんやから」

勘弁してくれ、とアンリはうなだれた。アイスティーがふたつ運ばれてくる。秋帆がストローを回し、カランと氷を鳴らす。プレーに迷いがある、と秋帆は呟いた。

「昨日、カズさんと話したんやってね」

アンリは顔を上げた。秋帆は微笑んでいた。

「今朝、カズさんと散歩したん。ひいおばあちゃんがカズさんと友達で、昔からよくしてもらってるんね。あんた、誘われたんやろ、鈴鹿に」

「……うん」

「ええ話やん。鈴鹿のセンターバックは日本代表の村越さんやし。学べることいっぱいあるって。何迷っとんねん、チャンスは掴めや」

アンリは、泣き出しそうになっている自分に気づいた。アンリはまだ11歳だった。けれど、プロだった。

「オレは、このチームで、おまえと……」

「なあ、アンリはなんでサッカーするのかわからんって言ってたことあったよな。そういうのもさ、カズさんとか、村越さんとか、師匠みたいな人みつけたら見えてくるんちゃうかな。うちみたいなチームやと、あんたは孤独や」

アンリは不意に、秋帆の意図に気づいた。涙がひとすじこぼれ落ちた。それがどのような感情によるものなのか、アンリ自身もわからなかった。

「秋帆が頼んだの?」

秋帆は手を伸ばし、ガキ、と呟いた。アンリは、涙を拭おうとする秋帆の手を払い除けることができなかった。

「あんたは最高の選手になれる」

「秋帆は?」

「うちも。当然」

「オレの師匠は、もう間に合ってる」

秋帆はアンリの頭を乱暴に撫で回し、最後におでこをこづいた。

「明日、勝つで」

当然、とアンリは笑った。

 

鈴鹿スポーツガーデンスタジアムの熱気はこれまで感じたことのないレベルだった。試合前からウェーブが起こり、スタジアムが揺れていた。チャントが鳴り響く中、アンリはキング・カズと握手をかわす。あの日握られることのなかった手が、力強くお互いの意思を伝え合った。キング・カズは笑った。アンリも笑った。あとはただ全力でプレーするだけであった。

選手たちがそれぞれのコートに散っていく。OSナンキは円陣を組み、それぞれ最後の確認をする。それからキャプテンの長瀬がいつも通りの気合を入れるひとことを叫び、ポジションへ散っていく。その瞬間を見計らったかのように、コートの向こう側でキング・カズの声が響き渡った。

「おれたちが世界だ!」

おれたちが世界だ! キング・カズの言葉に続いたのはピッチに立つ11人、どころではない。スタジアムに駆けつけた何万人ものアンデッド鈴鹿サポーターが声を揃えた。地響きのような唸りが起こる。

「魂を鈴鹿に捧げよ!」

おお!

アンデッド鈴鹿の円陣が解かれる。アンリはまずいと思った。流れを持っていかれる。スタジアム全体がアンデッド鈴鹿の追い風となっている。OSナンキサポーターから「おまえすぐ魂おいてくるな!」とヤジが飛ぶ。しかしそんなものはすべっているだけだ。

この円陣についてはもちろん知っていた。しかし実際目の前でやられるとこれほどまでの影響力をもつのだということは理解していなかった。かつてワールドカップに出場したことがなかった日本サッカーについて「日本は世界で戦えるか」と問われたとき、キングは「日本も世界なんですよ」と答えた。その時から長い年月をかけ練り上げられたキングのプロ論がその言葉に込められていた。アンリはこの時初めてレジェンド、キング・カズの「大きさ」に圧倒された。マーケティング要員? とんでもない。ホイッスルがなる前から試合の流れを決定づけてしまう魔法を彼は惜しみなく発揮している。

アンリの危惧通り、試合は序盤からアンデッド鈴鹿が攻め込む流れとなった。OSナンキはセカンドボールが拾えず、鈴鹿の攻撃が終わらない。そしてアンリはキング・カズという存在の厄介さを理解した。彼はディフェンダーの意識から外れて裏を狙うタイプのストラーカーではない。キング・カズは、意識から外すことができない。存在感が強すぎる。ディフェンダーは彼がどこにいようが無視できない。キング・カズという異物がそこにあることでポジショニングがずれてしまうことにアンリは気づいた。ラインを上げるのも下げるのも、キング・カズを意識するだけで判断が遅れてしまう。ボールをキープできない時間帯が続き、アンリはハジメとともに最終ラインのコントロールに苦心していた。形がずっと悪い。形が悪いとスペースができる。相手を追い込みボールを刈り取るところまでいかない。距離感が遠い。相手はボールを動かし、こちらは足を動かし続けることになる。疲労が貯まる。前半10分、キング・カズはまだボールに触れていない。しかしその存在は明らかに「効いて」いた。

アンデッド鈴鹿のコーナーキック。セットプレーを得意とする鈴鹿にはいくつものバリエーションがあった。アンリは相手の狙いを見極めようとするが、鈴鹿の選手は1箇所に集まり、ボールが上がった瞬間にそれぞれの方向へ散る。人数をかけて穴をなくし守るしかない。トン、とアンリの胸に頭があたる。鈴鹿の集合から先に外れていたキング・カズが目の前にいた。彼に意識が向いた一瞬、ボールが上がってきた。ニアポストを狙った速い球だ。「ニア!」アンリは叫んだ。しかしアンリ自身は動けない。キング・カズに体を当てられ抑えられている。動かない。小さいのに、その背は大きかった。鈴鹿の選手がひとりニアへ走り込む。OSナンキのディフェンスは一歩遅れている。キーパーは出られない。ゴール前へ鈴鹿の選手が複数なだれ込んでくる。ニアへ走り込んだ選手がボールを頭ですらし、わずかに軌道を変える。ボールは高速でゴール前へ侵入する。誰かの体に当たってしまったらゴールへ吸い込まれるかもしれない。誰か、ではなかった。ボールはアンリの目の前に飛び込んでいた。そしてアンリの前にはキング・カズがいる。キング・カズはアンリへ体をぶつけた反動で、ただ足を前に出しただけだ。ボールはその右足へ吸い寄せられる。インパクト。瞬きする間も無く、ボールはゴールネットを舞上げる。歓声。実況。コーナーフラッグへ走っていくキング・カズ。軽妙なステップのカズダンスに歓声が鳴り止まない。その間、アンリは何もできなかった。試合が始まってからここまで、今シーズン無失点だったOSナンキはただただ押し込まれ、そして必然のように失点した。キング・カズはアンリを振り向きもしなかった。アンリは特別でもなんでもない、ただの相手ディフェンダーで、キング・カズは今日も最高齢得点記録を更新した。キング・カズの得点は魔法だった。敵味方関係なく、誰もが祝福せざるを得ない。スタジアムの熱気はますます高まっていく。

「切り替えるぞ!」

ハジメに肩を叩かれ、アンリは「おう!」と無理に叫ぶ。前を向くと秋帆の背番号10が見えた。空を見上げている。アンリも上を見た。スタジアム上空を二羽の鳥が円を描き飛んでいた。意味はない。しかし、静かになった。頭が。流れ、勢い、熱気、関係ない。コート全体を見ろ。俯瞰しろ。

ホイッスル。ボールがセンターサークルからアンリの元へ。ボールを足元に収め、顔を上げる。広いグラウンドがきちんと見えた。キング・カズがボールを追いプレッシャーをかけてくる。ボールをもらいに下がってくる秋帆。前線で動きだしを見せる味方。ラインを上げる相手センターバック、日本代表の村越までしっかりと見えた。アンリの目には瞬時にそれぞれのポジショニングのバランス、動いている方向、狙い、意図、そういった情報が流れ込んだ。つまり、いつも通りのプレーができている。そのことをアンリはしっかりと確認した。

「アンリ!」

ハジメの焦った声が響く。キング・カズが目の前に迫っている。パスコースは限定されている。そして限定されたパスコースの先で、パスカットを狙う鈴鹿の連動した動き。アンリは相手の誘いに乗るようにひとつフェイントを入れてから、パスを出さず自分でボールを運びキング・カズのチェイスをかわした。局面が変わる。鈴鹿はパスカットのため前がかりになっている。秋帆と目が合う。その瞬間、背中にマークを背負う秋帆が足を前に出した。グラウンダーの速いパスを入れる。同時にアンリは走り出す。秋帆がボールへ向かってくる。マークについていた鈴鹿の選手もパスカットを狙うが、先に動き出している秋帆がボールに触る。誰もいないスペースに勢いの殺されたボールが落とされる。アンリが走り込む。

「つぶせ!」

背後からキング・カズの声が追いかけてきた。アンリの前にスペースが広がる。前線でいくつもの動きだしを見た。選択肢は無数にある。しかしアンリはそのまま自分でボールを持ち上がった。それはこれまであまり見せたことのないプレーだった。パスを警戒していた鈴鹿のプレッシャーが遅れている。誰が当たりにいくのかという決まり事が成立していない状況だった。ボールをもらいに寄ってくる味方を囮に、アンリはハーフラインを越えさらに駆け上がる。ひとり、ふたりかわし、日本代表の村越が目の前に。アンリは圧の違いを感じ取った。間合いの取り方が極端にうまい。隙がない。すべての選択肢を潰されているようだ。しかし、アンリは止まらなかった。そのまま村越へ向け突っ込んでいく。全て視えていた。あの瞬間から。

村越の間合いに入った。足が伸びてくる。しかしアンリの方が一瞬はやくボールに触れる。ヒールでバックパス。ノールック。後ろへ転がっていくボール。そこにいち早く辿りいついたのは、OSナンキ背番号10、秋帆だ。そのまま村越の横を駆け抜けるアンリ。その頭上を美しいアーチを描き、ボールがついていく。秋帆からのチップキックのパスが最終ラインの裏へ抜ける。目の前に広がる自由な空間。キーパーと一対一。飛び出してくるキーパーもかわし、無人のゴール。

視界の端から足が伸びてきた。そんな気がしていた。最前線から追いかけてきたのだ。この11番は。キング・カズだ。アンリの足はシュートを選択している。しかしこのまま蹴ればキング・カズに防がれる。そこから先の選択は賭けだった。視えていない未来。アンリは無理に足の軌道を変え、ボールの上に置き、後ろへひいた。その反動でバランスを崩し、キング・カズともつれあい芝生に転がった。パサ、とネットを揺らす音を耳が捉える。首を伸ばす。ボールを探す。ゴールの中に収まるボール。振り返る。いた。そこにいて欲しいと願った場所に、秋帆は走り込んでいた。そして託したボールを丁寧に、ゴールまで届けてくれた。スタジアムが揺れるのを感じる。秋帆の元へ駆け寄るOSナンキイレブン。アンリは隣でまだ上を向いて倒れているキング・カズへ手を差し伸べた。

「ナイスラン」

「……やられたよ」

汗まみれのキング・カズは心底悔しそうだった。アンリはキング・カズに聞きたかったことの答えを得たような気がした。キング・カズがアンリの手を掴み、立ち上がる。

「サッカー、好きなんですね」

キング・カズは驚いたようにアンリを見つめると、声を立てて笑った。アンリも笑った。何をいまさら。自分を含めて、馬鹿ばっかりだ。このスタジアムにいるやつ全員。サッカーを続けて何になるかはわからない。けれど、そんなもんなのだろう。サッカーに、人生に、目的はない。それはあるかないかという話ではなく、感じるかどうかという話なのだ。

「アンリ!」

ボールを抱えた秋帆が駆け寄ってくる。これだ、とアンリは感じた。この瞬間だ。これが全て。

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