糸は赤い、糸は白い

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梗 概

糸は赤い、糸は白い

Mycopathy:マイコパシー
 共生型菌類の菌糸を脳に植え、胞子門と呼ばれる器官から放出する胞子で近くにいる相手と交歓する。テレパシーほどの精度はなく、感情や雰囲気が伝わる程度。全ての菌種で交歓可能だが、近似種の方がより受け取れる情報密度は高い。エビデンスはないが、近似種同士はパートナーとしての相性も良いと言われている。菌種のマークとロットを鎖骨付近に刺青し判別する。

 上野音緒はカタログを見ながら、ひたすら悩んでいた。植菌種を決めなければいけない。
 両親はアシベニイグチだ。派手さはないがいいきのこだ。今年もそれなりの人が選ぶだろうから、出会いの確率も増える。でもそんな消極的選択でいいのか。決まったと思っても次の瞬間気持ちが揺れる。
 だけど父と母が無言でふっと胞子を交わしているさまは羨ましい。言葉にしなくてもわかってくれる相手がいるのはどんな気持ちなんだろう。

 その日も音緒は学校帰りのファストフード店で宿題の合間にカタログを広げていた。
「あ、それ気になってた」
 背中から声をかけられる。
 振り返ると同じ年くらいの中学生女子。近くの私立校の制服を着ている。
「ごめん。わたしも今超悩んでてさ。同じきのこ見てたから、思わず声かけちゃった。わたし、トクエ・コウコ。コッコって呼んで」
 コッコは新しい菌種から古い菌種までよく知っていて、その日から放課後同じ店に集まっては、きのこについて話し合うようになった。コッコといるのは他の誰よりも居心地が良かった。

 ある日、男子二人に声をかけられる。音緒は及び腰だが、コッコがダブルデートの話を受けてしまった。カラオケボックスで迫られ嫌悪感に耐えきれなくなった音緒は逃げ出してしまう。
 追いかけてきたコッコに、自分はおかしいのかもしれない。誰かと付き合ったり、その先に進むことを考えると気持ち悪いし怖いしイヤだ。コッコとならイヤじゃないのに、そんな自分も気持ち悪い、と勢いに任せて言ってしまう。コッコも自分の気持ちがわからなくて、あの二人を使って試したかった。ようやくわかった、わたしは音緒がいい、音緒といたい、と告白する。手を繋ぎ、キスをする二人。
 運命の相手、この先二人は胞子で繋がれ、思考を融合させ生きていく。痺れるような、溶けていくような幸福感。同じきのこを選ぼう、この先ずっと一緒にいよう、そう約束を交わして、移植の日を迎えた。
 だが、選択を前に音緒は迷う。この先一生、コッコといたい。でももし胞子を交わして、お互いを深く知って合わないことがわかってしまったら。言葉より態度より直截で嘘のつけないマイコパシーでは思考がそのまま伝わる。だからこそ一緒にいられる。だからこそ一緒にいられないかもしれない。
 約束のきのこはムラサキナギナタタケ。淡い紫色の夢のように美しいきのこ。
 移植を終え、待合室でコッコを待つ音緒。出てきたコッコの鎖骨をじっと見る。

文字数:1199

内容に関するアピール

 きのこが好きで、死んだら菌葬されたいと思っている。菌糸にゆっくりと分解されながら巨大なネットワークに吸収されていくことを考えると、今から思考が溶けそうになる。
 でも反対に、人とわかり合うことは怖い。わかりあえないかもしれないことがわかるのが怖い。

 中学生の時にとても仲の良い友達がいた。毎日何時間も電話して、学校でも休み時間のたびに手紙を交換した。こんなにわかりあえる相手はいない、自分は同性が好きなのかもしれない、と幸せと不安との両方に震えていた。
 中学校以来、その友達とは会っていない。どこで何をしているかも知らない。100%だった関係が、いきなり0になった理由を今では思い出すことができない。
 その思い出に、きのこの胞子がくっついて、こんな話が生まれた。

 「一般に家屋内の空気中には500-1000/㎥個程度の『生きた』真菌が浮遊していると考えられている」

文字数:382

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糸は赤い、糸は白い

糸は赤い、糸は白い

 

 糸は赤い、糸は白い

 

                        2022/05/09 柿村イサナ

 しらしらしらしら……

 誰かが笑っているような、軽い軽い雪が降るような、昇るような降るような音。

 しらしらしら……

 これは襞の隙間から、管孔かんこうから、胞子たちが飛び立つ音。小さな小さな胞子が密やかに触れあいながら空気を捉え、世の中に放たれていく。昇りゆく、降りゆく、胞子たちの笑い声。

 地面の中からも、さりさりくちくち、音が聞こえる。これは菌糸の伸びゆく音。落ち葉を抱え、死骸を抱き、木の根に寄り添い、細い指のような菌糸を伸ばしていく。ため息をついて子実体しじつたいが伸び上がる。傘を広げ、頭をもたげる。

 しらしらさりさりくちくち。

 いっぱいの音。みんな同じことを言っている。

 この胞子と菌糸の先、世界を渡った先にいるあなたに、会いたい。

 目を覚ました音緒ねおは汗びっしょりだった。冷えたパジャマが貼り付いて気持ち悪い。朝ご飯の前にシャワーを浴びて着替えちゃった方がいいかもしれない。

 枕から頭を起こすと、布団の上から薄い冊子が滑り落ちた。こんな夢を見た原因だ。またカタログを見ながら寝落ちしてしまった。手を伸ばして拾い上げ、暗記するほど眺めたページを閉じる。

 『マイコパシー 共生菌きょうせいきんの選択と手順』

 きのこの種類のページだけ抜き取って、自分でホチキスで綴じた薄い冊子。この時期になると、学校中みんなお守りのように持って歩いている。

 制服と替えの下着を持ってバスルームに行く途中、ママがリビングから顔を覗かせた。

「音緒ちゃん、今朝はコーヒーにする? 紅茶?」

「ん~、コーヒーかな。あ、やっぱ嘘、紅茶。ミルクと、あと茶色いお砂糖入れて。茶色い方ね」

 今朝はカロリーと甘いもののチャージが必要だ。

「もぅ、音緒ちゃんが茶色いお砂糖ばっかり使うから、白い方が残っちゃう。味は変わらないと思うんだけどなぁ」

「パパのコーヒーに入れちゃえばいいじゃん」

「パパ、甘いの飲まないもの」

 煮物に使うかぁ、とのんびり呟きながら、ママが引っ込んだ。

 ずっしり湿ったパジャマを脱いで洗濯物入れに放り込んだ。鏡に映った自分の体が気恥ずかしくてすぐに目をそらす。太った気がする。いつも太った気がしている。脂肪で内側からどんどん膨らんでいくみたいで気持ち悪い。

 海で泳いだ日のような手足の重さとどんよりした気持ちは、いつもより温度を上げたシャワーを浴びているうちに消えていった。威勢の良いシャワーの音が、耳の奥に残っていた密やかな音も洗い流していく。お気に入りの香りのアウトバストリートメントを髪に揉み込む頃には、夢の気配はすっかり消えていた。

「おはよう、音緒」

「おはよ、パパ。ママ、わたし、ベーコンいらない」

「え~もう焼いちゃったのに」

 甘いミルクティーに卵、せめて少しでもカロリーカットのための八枚切りの食パン。わたしのお気に入りの朝ご飯を食べていると、ママが目の前の席に座った。ベーコンをつまんで囓っている。たぶん、わたしが権利放棄したやつだ。

「音緒ちゃん、きのこ、決まった?」

「ん~まだ。昨日の夜はアイタケって思ってたけど、朝起きたらやっぱりザラエノヒトヨタケも捨てがたくて」

 どうせなら、シエロブルーの美しいソライロタケとか、名前も可愛いニオイコベニタケとか選びたかった。でも人と相性の良いきのこは種類が決まっているから仕方ない。その中でも、小さい半透明の日傘状の繊細なザラエノヒトヨタケや、ヒスイ色のアイタケは人気が高かった。

「焦ることはないけどさ、方向性だけは決めとかないと。植菌しょっきんレポート、見た?」

「見てる。めっちゃ見てる。でも決まらな~い」

 植菌レポートはどこかの広告代理店が毎年発表している、去年の人気ランキングと今年の流行予想だ。それによると今年も去年と同じ、タマゴタケ独走。やっぱりきのこっぽい見た目と、赤からオレンジにかけてのつるんとしたグラデーションの美しさ、テングタケ系なのに美味しく食べられる、というのが強い

「無難に行くか、珍しいとこ狙うか。でも狙いすぎてもなんかかっこつけてるみたいでダサいしさ。難しいんだよ」

 パパとママが顔を見合わせる。あ、交歓こうかんしてるな、とすぐわかった。表情が柔らかくなって、少しだけ目が虚ろになる。本当は見えないけれど、空気が胞子できらきらしているみたいになる。朝から仲いいな、とちょっと呆れる。でも、羨ましくもある。

 絶対的に理解し合える相手、言葉にしなくても気持ちの通じる相手がいるって、どういうものなんだろう。

 そんなことをのんびり考えていたら、バスを逃しそうになって、慌てて家を飛び出た。

 最初は感染症だと思われていたらしい。

 実際、スエヒロタケやヒトヨタケの胞子が肺に入りこむ真菌感染しんきんかんせんは時々あったし、カビの胞子によるコクシジオイデス症では毎年何人か死んでいる。メキシコの地方都市で流行った感染症も、当初は綿花工場で輸入綿花に付着した菌を吸い込んだからだろうと思われていた。

 従業員たちが言葉を使わずに意思疎通をしだすまでは。

 最初の兆候は生産効率が上がったことだった。ミスが格段に減り、作業効率が良くなった。管理者は頭をひねったが、従業員の習熟度が上がったのだろう、と深くは考えなかった。数週間後、関連会社の視察が入った。

 当時部長職だった男性が「気づいた時、ぞっとした」と語るドキュメンタリー番組を見たことがある。従業員たちが言葉も交わさず、目線も合わさず、まるで繰り返し練習した振り付けのように完璧に連携している。背後に手を出せば、そこに必要な部品が差し出される。一つの生き物のように、全員が同期して動いていた。従業員たちはその時のことを「何も考えていない。歩く時にいちいち右足を出すとか、左足を出すとか考えない。そんな感じ。何も考えずにやっていた」と。

 これはさすがにおかしいのではないか、と騒ぎになった。新聞やテレビが面白半分で駆けつけ、ネットを通じて世界に広まり、本格的に検証することになった。

 診断の結果、ほぼ全員が同じ真菌に感染していた。確かに少し前に、咳や紅斑を伴う軽い風邪のような症状が流行っていた。とくに治療もせず自然に治ったので誰も気に留めなかったが、これが真菌感染だったらしい。呼吸器から入りこんだ胞子は、脳に達し、脳幹を中心に球状体となり、シナプスを覆うように糸状体しじょうたいを発達させていた。

 きのこには、大きく分けて腐生菌ふせいきん共生菌きょうせいきんがある。共生菌はまた寄生菌きせいきん菌根菌きんこんきんにわかれる。腐生菌は落ち葉や倒木、生物の死骸などを分解し栄養を吸収する。寄生菌は植物の根や他の菌類などに寄生する。冬虫夏草など生物に寄生する菌もある。

 菌根菌は糸状体を特定の植物の根に着生させ、菌根を形成して共生する。

 従業員の脳幹から見つかったのは、この菌根菌らしいと分析の結果わかった。地上植物の実に8割が菌根菌と共生関係にある。菌に満たされた世界で、人を次の宿主とするのは必然の進化だったのかもしれない。

 シナプスを根と見なし、微量な炭素化合物を摂取する代わりに脳の発達を促す。感染した従業員たちはいずれも大脳皮質が通常より肥大していた。この新種の菌は脳根菌のうこんきんと名付けられた。

 同じ頃工場で流行していた頭部白癬とうぶはくせんも、この脳根菌によるものだった。共生関係にある従業員たち、いずれも頭皮に同心円状の脱毛が見られる。大きさは2㎝ほど。後頭部付近に一つだけ、ないしは稀に二つ。皮膚糸状菌の集団感染かと思われたが、通常の治療を施しても改善されない。詳しく局部を調べたところ、脱毛部分にごくごく微細な襞様の組織が形成されていた。襞の中には胞子を作り出す担子器たんしきがあった。

 脳根菌はシナプスを流れる電子インパルスを細胞外電位信号として受け取る。この情報を乗せた胞子が頭皮の担子器より排出され、周囲の同じ感染者の担子器を通じてとりこまれ脳の樹上突起に到達すると、感情が共有される。

 こうして感染者は共感能力、エンパシーを得ていた。

 綿花工場で改善したのは作業効率だけではなかった。従業員同士のトラブルもまた著しく減っていた。貧困地区に建てられた工場では喧嘩や揉め事が絶えない。食堂や更衣室などで頻繁に傷害事件や乱闘が発生していた。感染以来、事故や事件の発生数はほぼ0だ。相手の感情を受け取れるようになった結果、理解と共感が生まれやすくなった。どうしても相容れない主張がある者同士は、自然と距離を置くようになる。脳根菌による緩やかな環境コントロールだ。

 Mycopathy:マイコパシーと名付けられたこの能力によって人は新たな段階に進化した。

 今、この社会に生きる殆どの人間は人為的にマイコパシーに感染し、共感能力を手に入れている。ごく稀にマイコパシーと適合しない者もいる。生きていく上で支障はないが、社会の感情ネットワークから疎外され、孤独と失意を味わうことになる。

 些細なすれ違いから生じる犯罪や、離婚件数が減った。暴力的な思考や差別的な言動は、共感によって緩やかに均され、誰もが穏やかで満たされた人生を送っている。

 人類と菌類の愛と平和の共存だ。

「もーあみだくじでいーじゃん」

 休み時間もカタログを眺めてうんうん言っている音緒を、いち早く選択を終えたクラスメイトたちが茶化す。

「音緒、悩みすぎだって」

「えー、でもひなみが決めた理由もちょっとどうかと思うけど」

 クラスメイトの信田しのだひなみはアイドルにはまっていて、早々にそのアイドルと一緒の菌を植えると決めていた。

「それ、あとで後悔しない?」

「じゃあ、音緒はさんざん今悩んで決めたら、10年後に後悔しないって言える?」

 ひなみが容赦なく切り込んでくる。

「……言えない、かも」

「だったら悩んで決めても、即決しても、どっちでもいいじゃん。それに、あたしはシューゴと同じ胞子吸ってるだけで幸せだもん」

「わかるー。くっつく可能性、ちょっとでも上げられるならなんでもするし」

 きゃいきゃいと盛り上がる女子達は、迷いのない目をしている。みんなが夢中になっているアイドルは音緒も嫌いではない。つるんつるんの肌で、キレッキレのダンスで、エモい歌詞で歌われたら、音緒だってときめく。でも、みんなみたいに一生好き、と言い切れるほどではない。きっとみんなだって、一生好きなわけじゃない。でも今、この瞬間だけでも、確信を持って言い切れる強さが羨ましい。

 盛り上がった勢いでカラオケに行って推しメドレーやろう、と言いだしたみんなについていく気になれず、音緒はそっとフェイドアウトした。

 ファストフード店で宿題を広げ、一応やっているふりはしても全く進まない。気がつくとカタログを見ている。

 植菌が行われるのは、脳がある程度発達してから。第二次性徴後が良いとされている。

 ひなみの言葉を借りれば「タダでさえ悩み多い年頃だって言うのにアホか」だ。研究の結果、移植できる脳根菌の選択肢は増えた。違う菌種でもマイコパシーに差異はない、というのが公式な見解だが、同じきのこの方がペアリングが成立しやすいらしい、という噂も根強い。選ぶきのこによって、髪型のように社会に自分がどう見られたいかも決まる。だからどのきのこにするかは一大事なのだ。

 表から見えるわけではない。ただ、植菌を受けた者は、鎖骨にきのこを示す頭文字とロットナンバーを入れることになっている。

 両親の脳根菌はベニハナイグチ。華やかさはないけれど堅実でいいきのこだ。今年もそれなりの人が選ぶだろうから、出会いのチャンスも増える。だが、そんな消極的選択でいいのか、かといって下手に珍奇さを求めるのも恥ずかしい。決まったと思っても次の瞬間気持ちが揺れる。

「あーもう決まんなーい、決まんないないナイアルラトホテップ~」

 後ろでぶはっと吹き出す音がした。やばい、と思って振り返ると、同じくらいの年頃の女の子が盛大にコーラを吹き出していた。

「あ、ごめんなさい! つい口から出ちゃって」

「ナイアルラトホテップはないわ……びっくりした」

 ばたばたと紙ナプキンであちこちを拭いてから振り返ったのは、同じ年くらいの女の子だった。すぐ近くの私立の制服を着ている。すっきりしたジャンパースカートにちょっと変わった形の襟のブラウスが可愛い。

「あーだめだ、ポテト逝った」

 コーラでべしょべしょになったポテトを持ち上げて、女の子が笑う。

「あ、ごめん、わたしおごる、買ってくるよ」

「いーよ、もうそんな食べたくなかったし。あーでもさ、席、そっち行って良い? ここ座ってらんないし、他の席埋まってるし」

「う、うん」

 まごつきながら、荷物とトレイを持って移動してくる女の子をそっと盗み見た。ちょっと人目を引く容貌の子だった。長めのボブは顔周りがふわっと巻いてあって可愛い。髪の毛の甘さときりっと強めの眉毛が良いバランス。音緒より少し背が高いだけなのに、手足が細くて背が高く見える。

「トクエ・コウコ」

「ひょっ」

 手首の骨を細くていいなぁと見ていたので、とっさに変な声が出た。

「徳川の徳に、江戸の江に、家康の康で徳江康子とくえこうこ、です。歴史大集合みたいな名前でしょー。だからコッコって呼んで」

「あ、えっと、コウノ・ネオ。上下の上に、野原の野、あと音と、糸偏に人の方の者」

「あー前も見たことあるかも。よくここにいるよね?」

「うん、ここ割と広いし。柱の陰の席だと、あんまり店員さんから見えないから、長居できるしさ。あと、ポテトの塩加減が好き」

「おお、同じ! カリカリが多くて良いよね、ここのポテト」

 言われて思いだし、慌てて自分のポテトを勧める。コッコは屈託なく 口に放り込んだ。

「で、何がナイアルラトホテップ?」

「あー、きのこ。きのこ決まんなくて」

「それはナイアルラトホテップだわ」

「とく……コッコはもう決めた?」

「まだ。まじ悩んでる。音緒、候補ある?」

「ザラエノヒトヨタケか、アイタケ。でも他のも無限に悩んでる」

「おお、お目が高い! ザラエノ、儚い感じがいいよね~。アイタケのあの色もさ、青磁みたいで綺麗だし」

「コッコは?」

「もういっそシロオニタケいってみようかと。強くない?」

「ドクツルタケ行っちゃえば?」

 デストロイエンジェール!で声がハモる。コッコはきのこに詳しくて、話し方のテンポが良くて、あっという間に仲良くなれた。あだ名呼び最短記録だったかもしれない、と家に帰って寝しなに気づいて小さく笑った。

 それから放課後は何となくあの店に集まるようになった。きのこはいつまでたっても決まらなかったけれど、コッコと話しているのは楽しかった。

 コッコの通う私立の挨拶がごきげんよう、なこと。

 学校では猫を被っているから一人称が「わたし」だけど、音緒の前だと「あたし」になること。

 父親は開業医、母親はウェブデザイナー、三歳上の兄とミッチャムと言う名前のキジトラ猫がいること。

 お返しに音緒も自分のことを話す。言葉はつるつると糸を手繰るように出てくる。学校ではトロい方だと思われている。考えながら、ゆっくり話すからだ。言葉の意味と形を手探りして、ぴったりくる一言を探し当てたい。でも、音緒がその一言を見つけた頃には、飛び跳ねるように話す同級生たちは、あっという間に先に行っている。コッコもポンポン話すけれど、飛んでいった先で音緒を待っていてくれた。戻って来て手を貸して、特別探しにくい言葉を一緒に見つけてくれたりする。コッコと話していると、間違っても良いし、戻って来てもいい。

「前世、あたしたち、おんなじ菌糸だったんじゃない?」

 頬杖をつきながら、コッコがふいに言った。

「そうかも。だから、言葉が通じるんだね」

「あのさぁ」

 珍しくコッコが言いよどむ。

「あのさぁ、イヤだったら良いんだけどさ」

 ポテトに目を落として、ねじねじと摘まんでいる。

「おんなじ、菌種にしない?」

「え、やだ、そうじゃないつもりだったの?」

「うっそ、ほんと?」

 パッと顔を上げると髪がフワンと揺れて、その中からぴっかぴかの目が音緒を見つめていた。

「だってずっと一緒に選んでるじゃん。それに今でさえこんなに話しやすいんだもん。おんなじきのこにしたら、もっと楽しいしと思う」

「嬉しい、音緒、大好き!」

 直球で投げ込まれた言葉に息が止まるかと思った。

「うん、わたしもコッコ大好きだよ」

 大丈夫かな、声震えてないかな、変な間が出来てなかったかな。コッコはいつもすごいボールを投げ込んでくる。音緒のお腹の真ん中にあたったボールは、うずくみたいな不思議な痛みを残した。

 積もった葉っぱ。朽ちて、砕けるその隙間。

 菌糸を差し込み、ゆるめ、こじ開ける。

 太い主根、細いヒゲ根。地面いっぱい、みっしりと。

 菌糸を沿わせ、まとわり、忍び込む。

 満ちて充ちて、いっぱいに埋めて。交歓交換、喜びと満足と。

 伸びて伸びてその先へ。どこまでも菌糸を、指を伸ばして、その先へ。白いわたしの糸をあなたに伸ばす。

 生理が始まった。コッコの言葉が当たった痛みは、そのままお腹の底に居座り、子宮をぐわぐわ動かして、内壁を剥がして吐き出し始めた。

 ぐずぐずとしたお腹の痛みはインプラントに鎮痛剤を出して貰えば治まったけれど、体の重みとむくんだ足のだるさ、着替える度に鼻につく匂いが気持ち悪い。自分の体が自分のなんの断りもなく変わってしまったようで、ショックだった。

 2日だけ学校を休み、その後も学校の委員会や家の用事が続いて、コッコに会えたのは2週間近くたってからだった。その間もアプリで話はしていたけれど、久しぶりに顔を見たら、またしてもお腹がきゅうっとなって慌てた。あれ、もしかして生理ってこんなすぐ来るの?

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「だよね」

「むかつく。痛いし、気持ち悪いし、熱っぽいし、お腹下すし、機嫌悪くなるし、全部纏めて、むかつく」

 それでも昔に比べたら楽になったんだよ、ってママは言う。昔はホルモン量をコントロールしたり、鎮痛剤の自動投与ができるインプラントがなかったからね、って。でもインプラントが生理に介入できるのは、生理が始まって一年後。体が安定してから、ってことらしいけど、それまであと10回以上、この最悪な時期に耐えなくちゃいけない。

「子供なんていらないから、残りの人生から生理免除して欲しい」

 一気に言ってばんとテーブルに突っ伏す。後ろ頭をコッコが躊躇いがちにふわふわと撫でた。コッコの指は薄荷糖みたいに白くて細い。その指が髪の間を滑っていく。

「植菌したらさ、そーゆー痛いのとか嫌なこととか、半分貰うよ」

 コッコはまだ生理が来ていない。細くて体重も軽いので、他のみんなより少し遅いのかもしれない。苦しむわたしをメッセージ越しに気遣ってくれていたけれど、この痛みや苦しみをコッコは知らないんだ、と思うと寂しかった。わかりあえないことができてしまった。でも、言葉が埋められない2人の間をマイコパシーなら繋げてくれる。

 マイコパシーでは痛みそのものは伝わらないけど、痛いと思う気持ち、苦しいと思う気持ちは伝わる。苦しんでいる人に周囲の人が穏やかに投げかける優しい慰撫の気持ちは、笑気麻酔のように苦しみを和らげてくれる(だから医療関係者やエンパシーを受け入れたくない人は、一時的に胞子の活動を鈍くする休菌薬を飲む)。ターミナルケアの人に寄り添って、穏やかに旅立てるようにお手伝いする専門職もあった。

 薄荷糖の指が、お腹の中の痛い嫌な気持ち悪い場所をすうすうと撫でてくれる。そう考えると、これから何十年も続く生理の痛みが我慢できそうな気がした。

「ふふ、あれじゃん。喜びは2倍、悲しみは半分」

「そ。病める時も、健やかなる時も」

 しゅわしゅわとなんか湧き上がってくる。なんだこれ……なんだこれ! 動揺して、慌てて、パニックになって、突っ伏したまま頭の上のコッコの手をぎゅっと握った。コッコの手がわたしの指と絡まる。なんだかあまりにふわふわして気持ちが良くて、一生このままでいたいと本気で思った。

 なのに邪魔が入った。

「すんません」

 誰に誰が話しかけているのかわからなくて、ちらっと目を上げる。テーブルの横にズボンの足が見えて、慌てて起き上がった。ときどきこのファストフード店で見る男の子2人だ。わりと背が高めで、わりと顔がいい。うち1人はアイドルのシューゴにちょっと似てるな、って思ってた。耳の後ろのあたり、とか。

「あのさ、いつもここに2人いるじゃん? なんか気になってて」

「俺たちも2人だし、せっかくだから話しかけてみっか、って」

 わーめんどくさい、と警戒しながら断ろうとしたのに、コッコが

「あ、うん、いーよ。一緒座る?」

 とあっさり答えてしまった。愛想が良いのも問題だと思う。

 2人は飴田悠椰あめだゆうやと、茂澄海智しげすみかいちと名乗った。さっそくコッコがユウヤ、カイチと親しく呼び始める。明るい短髪でちょっと垂れ目で背が低いのと、目にかかるくらいの長い黒髪に猫背の一重と。シューゴに耳が似ているのはカイチの方。でも、近くで見るとそんなに似てない。なぁんだ。

 コッコはやっぱりずっと前から友達だったみたいに2人に話しかけている。音緒はなんだか機嫌が悪くて、ずっと黙っていた。だけど2人は、音緒は気後れして無口なんだと思いこんであれこれ気を遣ってくれる。もう今日は帰ろうかな、なんだかイヤな気持ち、とぼんやりしていたら話がどんどん進んで、今度カラオケに一緒に行こうという約束が出来ていた。

 帰り道、スマホにコッコからのメッセージが入る。

「今日まだ具合悪かった? 大丈夫? ゆっくり休んで」

 その後に「甘いもの食べちゃえ」とにやりと笑う悪魔の顔文字。うん、も、ううん、も打てなくて、指がずっと彷徨っている。でも既読がついているのに返事に時間がかかってたら、本当に具合が悪いと思われるかも。言葉を幾つも幾つも選んで捨てて、一言だけ打ち込んだ。

「チョコ一口だけねー」

 クラスメイトと話す時みたい。コッコなのに。鼻の奥がぎゅっとなって、涙と鼻水が一緒に出てこようとしている。

「めんどくさ、自分、ほんとめんどくさい!」

 ヤケになって鼻をかんだら、ヒリヒリした。夜はチョコレートじゃなくて、ママの作ったチキンカツを山盛り食べてやった。このところ音緒があまり食べないことを気にしていたママは喜んでいたけれど、胸焼けがずっと残って気持ち悪かった。

 意外なことに、ユウヤとカイチと遊ぶのは悪くなかった。

 最初はコッコへの当てつけのように無理して明るく楽しんでいるふりをしていたけれど、ユウヤたちのノリが良くて気楽に話せる。そんな音緒をコッコはにこにこと見ている。 歌がうまいのは、ユウヤの方だった。カイチだったらもう少しシューゴっぽくて推せたのにな、とがっかりする。

「音緒ちゃんてさー。最初と印象違うね」

「あの時は、ちょっと寝不足で」

「そっか。急に話しかけちゃったから警戒されてるんかと思ってた。良かったよー、今日普通で」

 普通かぁ、これがこの2人の見ている普通のわたしなんだ、そう思ったら気が楽になった。学校の男子と違って、この2人の前でなら新しい音緒でいられる。失敗しても、もう会わなければいい。2人が見ている明るくて快活で乗りの良い音緒が楽しくて、さらにはしゃいだ。普段歌わない歌も、飲まない炭酸も、新しい音緒ならチャレンジできる。

 トイレから戻ってきたユウヤが、音緒の隣にどさっと座る。距離が近い気がして、お尻をにじらせて離れた。ユウヤがこっちを見て、にっと笑って詰めてくる。ふれ合った腿の布越しに熱が伝わってくる。今のユウヤの顔の意味がわからず、困惑したけれど、新しい音緒はそんなこと気にしないように思えて、動けなかった。

 コッコとカイチは難しいラップのある曲を一緒に歌っている。カイチがミスる度、ユウヤがヤジを飛ばす。気がついたら、音緒の後ろの背もたれにユウヤの手が回されていた。今ここで避けたら、嫌がっているように思われるかもしれない。新しい音緒はそんなことしない、こんなの普通だから。気にしていない顔で、ユウヤを見て笑った。ユウヤも笑い返して、その手が肩に回されて、ぐいっと力が入って、顔が……

 思い切り顔を下げたら、おでこがユウヤの口と顎にガツンと当たった。そのまま勢いで立ち上がって、おでこを押さえたままカラオケボックスを飛び出した。

 ユウヤの歯が当たって、おでこが切れているかもしれない。でもそれよりも、唾液がついているような気がして気持ち悪くてたまらない。早く洗いたい、でも早く遠くに行かないと追っかけてくるかも。おでこを押さえたまま、半泣きで走り続けた。

 息が切れた頃に、ちょうど小さな公園に行き当たった。水飲み場で思い切り顔を洗う。こすってもこすってもおでこの痛みと気持ち悪さは消えなかった。ハンカチも何もかも、というかバッグ毎カラオケボックスに置いてきたことに気づいて、びしゃびしゃの顔のままベンチにへたり込んだ。

 ポケットで何かが震えている。スマホだ。立ち上げるとコッコからだった。

「いまどこ?」

「わかんない、公園、どっかの」

「そこにいて。すぐ行く」

 本当にすぐに来た。全力で走ってきたらしく、髪の毛がぐしゃぐしゃだ。音緒を見つけるとつかつか目の前まで来て、しゃがんで顔を覗き込む。

「何された?」

「な、なんにも。あ、ううん、たぶんキスされそうになって、それで、パニクって、あの」

 コッコが大きく息をつく。それからハンカチを取り出して、音緒の顔を拭きはじめた。

「そんなことだろうと思った。もう大丈夫だよ、あいつ、とうぶんそんなこと出来ないから」

「なに?」

「前歯折った」

「え?! わたし? おでこで?」

「違う違う。あたし。あたしが折った。マイクで殴って。ついでにカイチも殴った」

「な、殴っ……ええええええ」

 ぐいぐい顔を拭いていた手を止めて、コッコがうつむく。

「ごめん、あんな奴らとカラオケなんか行ったから。音緒が無理してるのわかってたのに、ごめん」

 わかっていてくれたんだ。それが嬉しくて、音緒はにやけそうになる唇をきゅっと結んでうつむいた。コッコが焦って手を握ってくる。

「本当にごめん! あたしが悪かった。音緒、怒ってるよね? ごめん、ごめんね……」

 コッコが泣いている。どうしよう、コッコを泣かせてしまった。

「違うの! コッコは悪くない、悪いのはわたしだから」

 コッコが泣くのを止めたくて、もつれる言葉を必死に押し出す。

「わたし、たぶん、おかしいんだと思う。最初はうまく出来てると思ってた。でもあんまり近くに来られて、くっつかれて、そしたら気持ち悪くなっちゃって……男の子と手を繋ぐこととか、キ、キスとか、怖くて、気持ち悪くて、イヤなの」

 気づいたら音緒も泣き出していた。せっかく拭いてもらったのに、また顔がぐしょぐしょになってしまう。でも言葉は今度はもつれて絡み合って口からずるずる出てきて止められなかった。

「コッコがユウヤやカイチと付き合ったらどうしよう、って思って怖くて。わたしは付き合えない、無理。でもそしたらきっとコッコに忘れられちゃう。どうしよう、コッコと一緒にいたいの。コッコが好きなの。コッコとなら、手を繋ぐのも、キスするのも気持ち悪くないのに」

 言っちゃった、きっと引かれる、わたしこそ気持ち悪いって思われる。頭の芯がじんじんと痺れる。もう取り返しがつかない。自分でお終いにしちゃった。怖くてコッコの顔が見られない。

「ふふ」

 あれ、コッコ笑ってる……?

「音緒、ごめん。百万回くらい謝る」

 コッコがうつむいている音緒の頬に手を当てて、ぐいっと上に向けた。否応なくコッコと視線が合ってしまう。今の自分は絶対ブスだから、見られたくなかった。顔をうつむけようとする音緒と、絶対そうさせまいとするコッコで、ほっぺが大きく歪む。このままだとますますブスになる、と気づいて、音緒は抵抗を諦めた。ほっぺたに添えられたコッコの手はひんやり気持ちよかった。

「あのね、あたしもなの。あたし、自分の気持ちがわからなくて、音緒の気持ちもわからなくて。あの二人使って試した、ごめん」

 コッコの目が笑うように泣くように歪む。

「あたしは音緒が好き。音緒といたい。音緒ともっと、色んなことしたい」

 コッコの顔が近づいてくる。髪が顔を撫でる。唇は額に触れた。

「消毒」

 にこっと笑う。音緒の頬も耳も熱くて、コッコの手が火傷するんじゃないかと思った。

「あの、もしかしたら、口にも触ったかもしれ、ない……」

「嘘?! あいつ、前歯だけじゃなくて全身の骨ぶち折ってやれば良かった!」

「駄目だよ、コッコ、捕まっちゃう!」

「じゃあ、しない。でも、消毒はする」

 コッコの唇が、今度は間違いなく音緒に唇に触れる。甘くて柔らかくて、幸せだった。でも、レモンやイチゴって言うより鳥刺しみたいな感触だね、と言ったら唸られた。

 ようやく見つけた。あなたを見つけた。 

 一つになる喜び、混じり合う幸せ。胞子を振りまき、菌糸を繋ぎ、爆発して拡散して隅々まで満たせ。

 あなたはわたし、わたしはあなた。

 ユウヤとカイチの2人はもうお店には来なかった。もう一回会ったら、今度はトレイでぶん殴る、とコッコは息巻いているけれど、音緒的にはトレイ越しにでも触りたくない。

 2人は変わらず勉強をして、きのこの選択に悩んで、時々こっそり手を繋いで、もっと時々キスをした。

 音緒はコッコの家に遊びに行って、猫のミッチャムに渋々撫でることを許された。

 コッコは音緒の家にお泊まりに行って、張り切ったママお手製のチキンカツを大量に平らげてみせた。

 授業中にふいにコッコの睫の影や爪の形なんかを思い出して緩む口元を教科書で隠したりする。コッコも同じように、音緒のことを考えていてくれたらいいな、と思う。

「ね、これどう?」

 いつもの店でいつもの席で。コッコが図書館で新しく借りてきたきのこの図鑑を開いて見せてきた。ポテトを囓りながら覗き込んだ音緒は思わず息を飲んで、ポテトを気管につめそうになる。夢のような色だった。

「ルリハツタケ……?」

 カサはむっくりと丸く、波紋のような模様がある。びっくりするのはその色だ。瑠璃の名前の通り、とてもきのことは思えないような美しい紫がかった青色をしている。

「ラクタリウス・インディゴ、ベニタケ科チチタケ属、つまり、菌根菌だよ」

 コッコが得意そうに言う。音緒はうっとりと裏返したルリハツタケを見ていた。柔らかな襞が放射状に伸び、表にも増して鮮やかで幽遠な色を見せる。

「スカートみたいだね。わたしたちの制服みたい」

「駄目だよ、中見せちゃ」

 コッコが笑う。でも、そうだったらいいのに。わたしたちがスカートの中に隠し持っているのが、こんな密やかで夢のような色だったらいいのに。赤い血の色ではなく。

「これ、とってもいいね」

「ベニタケ系だから、マイナーだけど。どうする?」

 脳根菌の中では、ハラタケ目テングタケ科が一番種類が多い。誰でも知っている真っ赤なカサに白いポチポチのきのこの王さまベニテングタケや、つるりとした朱色の可愛らしいタマゴタケ、真っ白で美しいけれど猛毒のドクツルタケなど、メジャーどころが揃っている。マイナーなきのこを選ぶと、もしかしたら、ただの「もしかしたら」だけど、出会いの機会が少なくなるかもしれない。

「ううん、いいよ。たくさんの知らない人より、わたしにはコッコがいるから」

 むしろコッコが他の人と出会わないよう、マイナーなきのこを選びたい、とはさすがに言わなかった。時々自分のストーカー気質が怖くなる。

「決めちゃおうか」

 コッコの白い指がルリハツタケの写真の縁を撫でる。視線を交わすと、2人の間を銀色の胞子が繋いだような気がした。

「病める時も、健やかなる時も」

「死がふたりを分かつまで」

「夢みたい」

「幸せだね」

 コッコの瞳は、早くもルリハツタケの色に染まっているみたい。

 三回目の生理の副産物は、腹痛と溶けるような眠気だった。音緒の体は片っ端から生理の症状を試してみることにしたのか、毎回違うカードをよこす。

 朝から起き上がれず、またしても学校を休むことになる。うとうとしながら鎮痛剤が効いてくるのを待っていたら、部屋のドアが控えめにノックされた。

「音緒、甘いの、飲むか?」

 午前中リモートにしたパパだ。どうしても出社しなくちゃいけなかったママの代わりに家に残っていていてくれたんだと思う。何となく気恥ずかしくてどちらも体調のことは口に出さない。

「ん、飲む……ミルク7で」

 暫くすると、パパがそっとドアを開け、マグカップにたっぷり入れたミルクコーヒーを持ってきた。大好きなバニラマカダミアの香り。音緒がまだ小さかった頃、両親が飲んでいるコーヒーをどうしても飲みたいと大泣きしたことがあった。パパはある日、デカフェのフレーバーコーヒーを買ってきた。温めたミルクにほんのちょっぴり、風味付け程度にコーヒーを加え、お砂糖をたっぷり入れた飲み物「甘いの」は音緒の大好物になった。年と共に少しずつコーヒーを増やし、今ではぎり4割まではいける。

 マグカップを受け取り、両手で包む。湯気の中に鼻を突っ込むと、香りだけでもお腹の痛みが和らぐようだった。

「あのさ、パパ、マイコパシーってどんな感じ?」

 所在なげに立っていたパパに話を振ってみる。

「言葉で説明するのは難しいなぁ」

「みんなそう言う」

「じゃあ、なんとかやってみる」

 パパが音緒の手からマグカップを受け取り、机に置く。音緒の手を広げさせ、頬を包むようにして支える。

「どうだ?」

「え……あったかい、ね」

 戸惑いながら音緒は答える。マグカップで温まった掌から、ほんわり頬に熱が伝わる。

「これがマイコパシー。で」

 今度は人差し指を頬に当てる。

「こっちが、普通のコミュニケーション。ダイレクトに伝わるけれど、あったかさとかはわかりにくい。こんな感じだよ」

「わかったような、わからないような」

「だよなぁ」

 苦笑しながら、マグカップを渡してくれる。

「じゃあママと喧嘩することとかないの? 意見が合わないな、とか」

「意見はそれぞれだよ、別の人間だからね。でも大きくずれることはないかな」

「ふーん。パパとママはさぁ、最初に会った時、運命の相手だ!とか思った?」

 パパが考え込む。ゆっくり言葉を探して喋るパパと音緒は似ていると思う。

「パパとママは大学の同級生だった。でも最初に会った頃、ママは他に付き合っている人がいてね。そりゃもう熱々で。ずいぶん羨ましかったよ」

「それだけ? パパ、ママのこと好きじゃなかったの?」

「その頃はまだ友達だっただけ。でも、ママとその恋人は上手くいかなくなってしまった。その人に、他に好きな人ができたらしい。その人にもどうしようもなかったんだろうね。でも、恋人の心が自分から離れていくのを感じていたママはとても苦しんで、悩んで、ぐちゃぐちゃだった」

「うわぁ……それは、辛いと思う。で、どうしたの?」

「相手をぶっ飛ばした」

「え?」

「1週間くらい休菌薬を飲んで、気持ちを整理して、別れることを決めて、それでも収まらない気持ちの分、って言って、手持ちの本の中で一番分厚かった心理学の教科書を相手にフルスイングで、こう」

 パパが野球の素振りのように、手に持ったエア本をエア相手に叩きつける。なんだろ、この既視感。

「で?」

「で、相手はごめん、って言って、それからはなるべく大学の中で会わないように気をつけてた。学部が違ったのは幸いだったね」

「で、パパは?」

「ぼくは……」

 パパがもじもじする。これはなかなかレアな光景。

「ぼくは、たまたまママがフルスイングした所を見ていて。なんだこの人は、ってびっくりして、そこから気になるようになって。ぼくが気にしていたら、ママも自分を気にしている人はどんな人だろう、って気になって。で、菌種も同じだったから、お付き合いをすることになった」

「運命じゃん」

「運命、なのかなぁ」

「じゃあさ、もしマイコパシーがなかったら、ママとパパは付き合ってなかったと思う?」

「意地悪なこと聞くね。付き合っている、と思いたいけれど、わからないね。ママとその彼は別れるだろうけど、ぼくとの出会いはどうかなぁ」

 怖い怖い、危うく音緒は生まれてこないところだった。マイコパシーさまありがとうございます。

「大丈夫だよ、音緒もいつか特別な相手と出会える」

 ちょっと意地悪したくなった。

「もう出会ってるかも」

 パパは絶句して、目をそらして、頭の後ろの襞の所を掻いて、もじもじして、それから何とか言葉を絞り出そうと口を開け閉めした。ちょっとやりすぎたかも。

「冗談だよ。それにもしそんな相手がいても、心配するようなことにはならないから」

「そうか」 

 もう一度、呻くようにそうか、と言うと、パパはそそくさと部屋を出て行った。

 コッコとのこと、いつか言えるかな。パパもママもコッコのこと気に入っているから、喜んでくれると良いな。

 

 もうすぐ。

 もうすぐ。

 繋がる。

 わたしたちの植菌ができるようになったのは、それから五ヶ月後のことだった。なかなかコッコの生理が始まらなかったのだ。

 その間に クラスメイトたちはどんどん植菌を終え、鎖骨の植菌印を見せびらかしあったり、これ見よがしにうっとりと虚ろな目をする子が多くなった。シューゴと同じ菌を植えた信田ひなみは嬉しそうに「まんがいち!」と言いながらテレビ局やライブハウスの出待ち入り待ちに通っている。

 両親には心細いから友達と一緒に行きたい、あんまり時間がかかるようなら1人でも行くから、と説明しておいた。それで貰った猶予が半年だった。ぎりぎり間に合った、と二人は胸を撫で下ろした。

 でも待ちかねていたコッコの生理は音緒よりも重かった。いつものファストフード店に這うようにして現れたコッコはゾンビみたいな顔で「まじ舐めてた」と呻いている。音緒は先輩ぶって、充電式の湯たんぽをプレゼントした。

「今週末」

「大丈夫? も少しあとでも良いよ」

「ここまで待ったんだよ。今週末! それに、それまでには終わるでしょ」

「ようやくかぁ」

「ようやくだね」

 コッコがクマの浮いた目で笑う。外だったけど、音緒はコッコの手を取った。ひんやりした細い手が、力を込めて握り返してくる。絡めた指と指から白い糸が伸びていくのが見える気がした。この先ずっとすっと、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、2人を繋いで、包んで、一つにする糸が。

「わたし、コッコがいればいいや」

「音緒、時々過激だよね」

「コッコは? わたし以外の人、いる?」

「家族と、ミッチャムはいて欲しいな」

「そういうんじゃなくて」

「わかってるよ。でも、正直に言うと、子供は欲しいかも」

「え、そうなの?」

 どうやって?とか、誰と?とか、言うべきでない言葉が頭の中を流れていく。それと、わたしだけじゃ駄目なの?というガリッと引っかかれるような痛み。

「なんかさ、自分として生まれた以上、そこは押さえておきたい気がする。生理も無駄になっちゃうし」

「生理、わたしはなくてもいいのにな」

 不意にユウヤの顔が近づいてきた時のことを思い出し、飲み物を取るふりをして手を離した。繋いでいた部分に熱が籠もって汗ばんでいて、それを結露したカップに押しつける。

 コッコと手を繋ぐ時、コッコとキスをする時、いつも音緒はこのままひとりの人間になれたらいいのに、と思う。肌が触れているのが気持ちよくて、溶け合って、くっついて、ずっとうとうとと微睡むような幸せの中に浮かんでいたい。

 コッコはそうではないの?

 生理も、出産もいらない。誰もいらない。ここに、音緒とコッコの中に入ってきて欲しくない。あの時のユウヤの熱や体の存在感や重みや匂いが生臭く迫ってくるようで心臓が跳ねる。

「音緒、どうした? 大丈夫?」

「う、うん。なんかまだ体の調子、良くないみたい。今日は帰る」

「送っていく?」

「大丈夫、平気。コッコの方が体キツいでしょ?」

 トレイの上に食べかけのポテトやペーパーナプキンを乗せ、コッコの心配そうな目を遮るように持ち上げる。

「ごめんね。家帰って休んでる。だって今週末までに体調整えなきゃ。コッコも帰ろ」

 何でもない顔で笑ってみせる。コッコに触らなくてもいいように、両手でしっかりトレイを握る。

 白い糸を伸ばす。この糸をあなたの中に入れたい。

 あなたの糸が伸びてくる。この糸をわたしの中に入れたい。入れたい。入れたくない。しっとり冷たい柔らかい糸がわたしを探している。伸びてくる。隙間を見つけて、差し込んで、ゆるめ、こじ開けてくる。やめてやめて開けないで入らないでわたしの中に。白い糸がわたしを埋める産める。満足感に震えながらわたしの内側いっぱいに満ちて充ちて満ちて充ちて満ちて充ちて満ちて充ちて

 特別知覚拡張接種センターは、きのこハウスというやたら軽い愛称で呼ばれていた。

 事前の健康診断の結果や希望する植菌種を記載した書類を纏めたファイルを握りしめ、音緒とコッコは待合室にいた。

 先ほど、インプラントからの忌避ホルモンを止めた。30分ほどすれば影響がなくなり、植菌が可能になる。その間、待合室でチャカチャカ切り替わる音を消したテレビの画面をただ見ている。

 やたら明るい照明も、壁に掛けられた抽象画も、安っぽい造花も、今日はなんだか気になる。PU合皮の椅子は腿がくっついているところがじっとり湿っていた。ロングスカートかパンツを履いてくれば良かった。

 音緒が緊張しているからか、コッコも言葉少なだった。

 植菌自体はすぐに終わる。頭部を固定し、部分麻酔をかけるのも、頭蓋骨に小さな穴を開けてプローブで胞子を満たした榾木ほたぎと呼ばれるカプセルを差し込むのも、機械が寸分の狂いもなく行ってくれる。極めて安全で、低侵襲な手術だ。さらに全ての過程には技師が立ち会い、顕微鏡下で見守っている。

 それでも音緒の手は冷たくて、呼吸が浅くなる。

「音緒」

 囁くようにコッコが呼ぶ。待合室には他に数名いるだけだったけれど、気軽なお喋りができる空気ではなかった。

「愛してる」

 息を飲む。好きだよ、とか、音緒可愛い、とか、何百回も何千回も言ってくれたけど、その一言は初めてだった。

「なんだよ、今、そんなこと言う?」

「ヤバい、なんかのフラグ立てた?」

 にやっと笑う顔に鼻の奥がきゅうっとなった。

「あたし、なんかここんとこ、音緒に対する答え、間違えてる気がする。不安にさせたよね、ごめん」

「ううん、わたしこそ。なんか、神経質になっててごめん」

 コッコが音緒の肩にもたれかかる。

「あのね、音緒が大好きだよ。会えて良かった。人生でこんなに早く、こんなに好きな人に会えるなんて奇跡みたいだって、いつも思ってる。だから、2人でルリハツタケ植えられるの嬉しいんだ」

「うん、わたしも」

「これからは音緒が辛い時や痛い時、もっと支えてあげられる。嬉しいことは二倍だし、悲しいことは半分だよ」

「うん」

「病める時も、健やかなる時も」

「「死がふたりを分かつまで」」

 囁きが重なる。お互いの頭をもたせかけたまま、静かに呼吸を繰り返す。

『上野さん、5番のお部屋へ。徳江さん、8番のお部屋へ』

 アナウンスに目を見交わし、立ち上がる。

 施術室には、ピンクの白衣を着た女性が待っていた。ファイルを渡し、最後の確認をされる。

「希望する植菌は、ルリハツタケね。いいきのこを選んだね」

 マスクで隠れていて表情は読みにくいけれど、安心できる穏やかな声だった。ちらりと鎖骨を見ると、西洋松露、トリュフの植菌印だった。眉毛も細いし、お仕事以外ではけっこうやんちゃな人なのかも。

「あの、ルリハツタケって選ぶ人いますか?」

「珍しいかなぁ。0ではないけれど、あんまりいない」

「あの、同じ菌だと、マイコパシーが強くなるって本当ですか?」

「あ~うん、そう言われてるね」

「言われてるだけ?」

「これは個人的な意見だけど、なくはないと思うよ。実際、菌種によって電気スパイクの活発度は違うし。同属、同じきのこの方が情報のやり取りがしやすいかもしれない。お友達と同じきのこにするの?」

「あ、はい。約束してて」

「聞くまでもないけれど、一生のことだからよく考えてね」

 当たり前だ。音緒は一生コッコといたい。愛していると言ってくれたコッコといたい。

でも、開いた口から言葉が出てこなかった。

(でも、ママとその恋人は上手くいかなくなってしまった)

(正直に言うと、子供は欲しいかも)

(その人に、他に好きな人ができたらしい。その人にもどうしようもなかったんだろうね)

(音緒、時々過激だよね)

(10年後に後悔しないって言える?)

(恋人の心が自分から離れていくのを感じていたママはとても苦しんで、悩んで)

 コッコを愛している。コッコを一生愛していく。でもコッコは? コッコの心が変わってしまったら? 胞子で繋がって、もっともっとお互いよく知り合って、底の底まで見えて、それで、それで……合わないことがわかってしまったら? 何となく不安で、何となく怖くて、見ないようにしていたことの蓋が開いてしまった。

 じわじわと目の端が暗くなる。そこに白い糸が滲んで伸びる。目の前にいる看護師さんは気がつくと菌糸の塊だった。菌糸に覆われた顔で、菌糸に満たされた眼窩で音緒を見ている。口を開くと煙のように胞子が飛びだした。飛び散った胞子が白衣や机やファイルに着地する。白い微粒子が表面を覆い、物の輪郭を浮かび上がらせる。それ以外は何もなかった。胞子の付着できる表面と、菌糸のはびこる内部と。目を向けると、壁に付着した胞子を透かして、人の形をした菌糸と、胞子で覆われただけの人の輪郭が見える。どこまでも見える。足下に目を向ければ音緒は宙に浮いていた。ビルの構造の向こうに見える地面は、菌糸で埋め尽くされている。植生の密度が見える。風の動きが見える。空気の温度が見える。

 音緒の目の前を飛ぶ胞子がちかりと光った。その隣も。その隣も。少し離れたところで。ちかりちかり、と光が伝播していく。あっという間に音緒の視界は発光する数兆の胞子で溢れる。光の濃淡が見える。濃淡はリズムになり、パターンになり、呼吸になり、会話になる。胞子のさざめきが圧倒的な濃度と密度で迫ってくる。その光の全ては繋がることの喜びを、充ちていく幸せを歌い上げていた。

 だけど音緒はそこにいなかった。音緒を覆った胞子は、風の流れで引き剥がされ去って行く。音緒の中に菌糸はない。音緒は黒点だ。菌糸と胞子に埋め尽くされたネットワークにあいた穴だ。喜びの中に、音緒の居場所はなかった。ぐるりを見回せば、隣の部屋のコッコもまた、黒い穴だった。

 胞子が瞬きながら流れていく。空虚な自分と比べて、目の前の人の形をした菌糸のなんと充溢していること。音緒ももうすぐ繋がる。コッコと胞子を交わし、言葉以上の『愛している』を伝えることが出来る。

(でも、ママとその恋人は)

(正直に言うと)

(自分から離れていくのを)

 胞子で結ばれれば。

「上野さん?」

 ぱちんと視界が切り替わる。

「どうする? 変更ない?」

 約束のきのこはルリハツタケ。まるでわたしたちのスカートの中のような、秘められた瑠璃の色。

 待合室で音緒はぼんやりと掌を眺めていた。気を抜くと盆の窪に貼られた小さなバンドエイドを触りそうになる。だから代わりに鎖骨の植菌印を撫でた。湿った皮膚と滑らかな骨、肉で埋まった体。菌糸も胞子ももう見えない。

「音緒!」

 8番の部屋から出てきたコッコが、音緒を見つけて顔を明るくする。

 その鎖骨を音緒はじっと見る。

 それから、自分の鎖骨から手を離す。コッコにも見えるように。

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