砂漠のしきたり破るべからず

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梗 概

砂漠のしきたり破るべからず

夜明け前、オオバコは水筒の水を全て砂漠にぶちまけた。何もせずそれを見守るシャゼンは、昨夜すでに水を飲みきっている。

無限に続く砂漠にオオバコとシャゼンが迷い込んで数週間が経った。この砂漠には神々が住んでいる。砂漠に点在する石碑には、神々が課す奇妙なしきたりが書かれていて、旅人がそのしきたりを守れば水や食物といった賜物たまものが与えられる。二人はしきたりを守り賜物を得ながら、茫漠としたこの砂漠で何とか生きながらえていた。

ヌガルパのしきたり: 夜明けの瞬間、飲み水持つべからず。しきたり守ればその日雨が降る。ヌガルパの怒り買うべからず。

ヨクチャムのしきたり: 眠る身体を無防備にするべからず。砂に円を書いて陣を作って眠るべし。目覚めたならば砂を掘れ。陣の中に果物が埋まっている。

その日二人は砂漠を進む。水筒の中身をふとシャゼンが覗き見ると、なんと空だと思っていた水筒に水が入っていた。意図せずしてヌガルパのしきたりを破ってしまったシャゼンは雨を得られず、怒ったヌガルパは自らの化身である尖兵を砂漠に送り込む。追跡劇の末シャゼンは尖兵に連れ去られ、しきたりを守っていたオオバコは見逃される。

一人砂漠を進むことになったオオバコは、ナズという旅人に出会う。ナズは、南に砂漠の牢屋がありそこにシャゼンが捕まっているだろう、と言う。オオバコとナズは共に南へ向かう。道中オオバコはナズの知っているしきたりを教わる。

オポエッテイのしきたり: 砂漠を横切る牛は捕まえるべからず。果物を与えて見逃すべし。さすればその後同様の牛が二匹現れる。それらの牛は自由にすべし。

ヨクチャムのしきたりで得た果物をオポエッテイのしきたりに使えることに、オオバコは気付く。二人は互いの知っているしきたりを組み合わせ、効率的に賜物を得ることをはじめる。やがてしきたりを組み合わせる行為は、悪用と言えるほどにエスカレートしていき、オオバコとナズは砂漠を縦横無尽にかけまわる。南の牢屋についた二人は、しきたりの悪用によって衛兵を翻弄し、シャゼンを救い出す。

三人は砂漠の出口があるかもしれない東を目指す。しかし東にいくら進んでも出口がない。あきらめかけた時、打ち捨てられた舟を見つける。舟の船首にはしきたりが刻まれていた。

砂漠のしきたり: 過去を思い出すべからず。砂漠のしきたり破るべからず。

三人は砂漠に迷い込む前の記憶がなかった。
「ここに船があるってことは昔は海だったのかもしれない」
「よく思い出せないけど、海があった気がする」
「砂漠に過去を思い出させよう。きっとそれが砂漠を脱出する方法なんだ」

三人は今まで覚えたしきたりを使って、ヌガルパのしきたりを繰り返し、何度も雨を降らせる。膨大な量の雨が降り、砂漠は海となる。砂漠のしきたりを破った三人は舟に乗り込む。遠くにかすかに陸地が見えた。舟は陸地を目指して進む。

文字数:1182

内容に関するアピール

自分が得意なことは何かと考えてみたら、「常識を悪用して社会を挑発すること」だと思ったので、守らなくてはいけないルールを悪用する話を書くことにしました。

奇妙で妖しい民話的な世界設定とカードゲームやボードゲームの無限コンボ的なおもしろさを冒険物語で表現しようとしています。

裏テーマは水の動態です。水が水筒に残っていたせいでトラブルに巻き込まれ、雨が降るおかげで砂漠を脱出することができます。

「書いた文章を読んでもらうこと」と「読んでもらえる文章を書くこと」の両方を学びたいです。一年間よろしくお願いします。

文字数:251

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砂漠

電車の扉が開いていた。また知らない駅で目が覚めてしまった。自分の足がだらしなく投げ出されていることに気が付いて、こうは慌てて座り直したが、車両の中にはもう誰もいない。扉が開いたままになっているのを見ると、終点まで来てしまったということなのだろう。やりきれなさと情けなさとで、こうはゆっくりとため息をついた。寝汗の伝った首筋が、少しだけ気持ちが悪い。眠ったまま電車を乗り過ごしてしまうのは人生でもう何度目なのだろうか。そのせいで失敗した思い出がいくつもある。時間を見るためにスマホを取り出したが、充電切れのようで電源がつかない。運の悪さに唖然として、ああ、と力の抜けた声を出しながら天井を仰ぎ見る。車両の蛍光灯の明るさが寝起きの目には痛い。スマホの充電が切れて時間が見られないこと以上に、連絡が来てもそれを確認できないことが不安だった。Twitterのフォロワーからメッセージが来ていても返信することはできないし、職場から緊急の連絡が来ることもある。無視をしていると思われたくはない。仕事なんてどうでもよかったが、職場の人間に後からとやかく言われるのは嫌だった。どうしてこういう日に限ってモバイルバッテリーを持ってきていないのか、自分を恨んだ。なぜか今夜は暑い。

地下鉄のホームには人影がなかった。電車が止まっているのだし、終電はもうないのかもしれない。ホームにある案内板で路線図を確認すると、聞いたこともない路線の、聞いたこともない駅にいることが分かった。駅の名前は「無津」と書かれている。はっきりとは分からないが、どうやらここは東京ではなさそうだ。タクシーを拾って帰ろうかと思っていたが、遠くまで来てしまっているのであれば運賃が高くなりそうだ。給料は安い。無駄に使える金はない。朝まで待って始発で帰るしかないのかもしれない。ひとまずは、ほんとうに終電が終わっているかどうかを駅員に尋ねてみよう。

改札へと上るエスカレータが止まっているので、こうは仕方なく階段を登った。改札の窓口から中を覗いてみるが、駅員の姿はどこにも見えない。すいませーん、と語尾を伸ばして呼びかけてみるも返事はなく、うまくいかないことが降り積もっていくようで、こうの視線ははだんだんと垂れ下がっていった。諦めて改札を出て、地上出口へと向かう。通路の脇にある自動販売機の明かりが落ちているのが気になった。早く家に帰ってスマホを充電したいとこうは思った。いつもこうは歩くのが速いが、今日はそれにもまして速く歩き、そのせいなのかさっきよりも暑さが増している気がした。出口の階段を登っていると、床の隅に橙色の砂がたまっているのが目についた。登るにつれて砂の量が増えていく。踊り場で階段を折り返し、出口から空が見えたが、景色が何か変だ。空が昼間のように明るい。電車の中で朝まで寝てしまったというのだろうか。それに階段に積もっている砂の量が妙に多い。どうなっているのか確かめたい気持ちが湧いてきて、こうは階段を登る足をさらに早めた。

階段を登り切って地上に出ると、景色の全てが見間違いだとこうは思った。道路も建物も街もなく、ただ一面が橙色の砂で覆い尽くされた砂漠があった。地下鉄出入り口の床まではタイルが貼られているのだが、その先に本来あるであろうコンクリートの地面はなく、タイルがぷつりと途切れて砂になっている。しゃがみこんで触ってみると、積もった砂が指先にあたって温かい。こうは顔を上げてもう一度あたりを見渡したが、やはりどこまでも橙色の砂丘が続き、それ以外は何も見つけることができなかった。真上から照り付けてくる太陽がにわかに暑い。後ろを振り返ってみてもどこまでも砂漠が続いていた。本物の砂漠を見たことはなかったが、サハラ砂漠だとかそういう景色だとこうは思った。

鳥取には砂丘があるらしい。あまり知られてはいないが、青森にも砂丘があるのだと聞いたことがある。しかしどちらの砂丘もこれほど大きなものではないだろうし、それに日本にある砂丘は全て海岸沿いにあるはずだった。ここは砂丘といったこぢんまりとしたものではなく明らかにそれよりも巨大な砂の地域で、地平線まで延々と砂が広がっていて海は見えない。こんな場所が日本にあるのも、こんな場所に駅があるのも、電車を寝過ごしたせいでこんな場所にやってくるなんてことも、ありえないことだろうとこうは思った。寝てしまったといっても、せいぜい数十分から数時間のはずだった。一体ここはどこなのだろうか。砂漠の中を歩くわけにもいかず、駅の中に戻ってここがどこなのか駅員に聞いてみるしかなかった。

階段を降りようとすると、地下鉄出入口の頭上に、神社に飾られているようなしめ縄がかけられていることに気が付いた。駅の中が宗教的に特別な空間であるかのような扱いに、こうは少し不気味な感じを覚えた。

ふと、砂の上に大きなものが落ちる音がした。吊るされていたサンドバッグが床の上に落ちたときのような音だ。音の方に顔を向けると、200メートルほど先に黒くて大きな塊が見える。岩だろうか。塊に目を凝らすと、なんとそれは左右に大きく揺れた後、いきなり縦に伸びあがった。伸びあがったのではなく、立ち上がったのだとすぐに分かった。塊は岩ではなく生き物だった。距離感が掴めず正確には分からないが、体長はおそらく数メートルほどあり、巨大な猿のような見た目だった。しかし何かが猿とは違う。その生き物はこちらを見て、猿のように二つの足と二つの腕を使って走りだし、ものすごい速さで向かってきた。

こうは身の危険を感じて駅の中へ逃げ込もうとしたが、タイルの上に積もる砂に踏み込んだ足が滑り、うわっと叫び声を上げながら転んでしまった。肘から上を叩きつけるような形で転んでしまったせいで、痛みと痺れで腕が動かせず、立ち上がるのに時間がかかる。その間にも猿のようなものは速さを増しながら近づいてくる。あっという間にこうの目の前に立ちはだかったそれは、腕を振り下ろしてこうの体を地面に叩きつけた。上半身に衝撃と痛みが走って鈍い声が出る。こうは恐怖とパニックと痛みの中、その生き物の顔を仰ぎ見た。全身に長く黒い毛が生えており、姿は大きな猿のようだったが、顔は縦に長く、目は左右についていて、まるで牛や羊のようだった。化け物はそのまま巨大な手のひらでこうを掴んで砂に押しつけ、こうは身動きが取れなくなってしまった。体を左右に振って逃れようとするが、化け物の手のひらは固く、少しも体を動かすことができない。押さえつけられている腕の太さを見て、このまま殺されるのかもしれないとこうは思った。いまだにパニックの中にいたこうだったが、体が動かないとあって化け物の姿をまじまじと見ることになった。雲が一つもなく太陽が照り付ける空の下で、化け物の大きな顔が覆いかぶさっている。化け物の太い首まわりには奇妙なネックレスがかけられていた。それは駅の出入口にかけられていたのと同じようなしめ縄だった。あの駅とこの化け物は何か関係があるのだろうか。こいつは野生にいる生き物ではないのだろうか。そういった疑問がこうの頭の中にもたげた。さらに奇妙だったのは、化け物の胸元に石板のようなものが埋め込まれていて、そこに文字が刻まれていることだった。正体不明の大きな化け物に襲われ、由来不明の知性の影が見え隠れし、こうの疑問と恐怖はさらに膨らんだ。次の瞬間さらなる奇妙がこうを襲った。

「我が胸の石碑を読み上げよ」

何が聞こえたのか一瞬分からなかった。この大きな化け物の、牛のような顔の口が開いて、その中からその音が鳴っていたのだ。しゃべったのだ。この化け物は人間の言葉を話すことができる。聞き間違いではない。実際にこいつは生きていて、しゃべっている。化け物に言われたとおり、胸に埋め込まれている石板をよく見ると、襲われた状況の中では落ち着いて読むことは叶わなかったが、そこには文章が書かれていた。

夜明けの瞬間、飲み水持つべからず。さすればその日雨が降る。

「声に出して読め」と化け物が言った。こうは緊張してかすれた声でそれを読み上げた。

「よあけのしゅんかんのみみずもつべからず……、さすればそのひあめがふる……

「今日は人間に二人も会えて気分がいい。くれぐれも我が言いつけ守るべし」

化け物はそう言い残してこうを押さえていた手を離し、砂漠の中へと走っていった。正体不明の化け物がいる人智を超えた世界に迷い込んでしまったのだと、こうは思った。

あの化け物が気を変えて戻ってくる前に逃げたほうがいい。あれほど大きかった黒い姿は、既に砂漠の遥か彼方で小さくなっている。体の痛みは残っているが、いまだ恐怖で震える足をなんとか動かし階段を降る。電車を乗り過ごしたせいでこんな目に遭うとは散々だ。いや、はたしてほんとうに電車を乗り過ごしただけなのだろうか。何かが変だ。寝る前……、電車で寝てしまう直前は何をしていたんだっけ? 記憶が海底に沈んでしまって浮かび上がってこないかのように、何も思い出すことができない。そもそもどこの駅に自分は向かっていたのだろうか。仕事帰りだったのだろうか。

大葉こう、二十五歳。自分のことは覚えていた。それに家族や職場のこと、Twitterのフォロワーのことも覚えているが、電車に乗る前後のことだけがすっぽりと記憶から抜け落ちている。なぜこのことに今まで気が付かなかったのか。自分が情けなくなったこうは、恐怖から抜け出した反動でみじめな気持ちになり、階段を降りながら静かに涙を流した。もしかしたら自分は無能な人間なのかもしれない。そういつも感じていたが、記憶がなくなってしまうほどに無能な人間だったのだ。せめてスマホの充電があればTwitterに書いて吐き出せるのに。こんな体験を一人で抱えることはできない。早く家に帰りたかった。

駅構内にはやはり人影がない。改札の窓口を覗いて何度も呼びかけてみるが誰も出てはこなかった。仕方なくこうは職員用の扉から駅員室に入ることにした。不審に思われても仕方がない。今は緊急事態なのだ。押して見ると扉は簡単に開いた。駅員室の中を見るのははじめてだったがよくある事務室のようで、机と椅子とキャビネットが並べられている。すいません、誰かいますか、と声を上げながら中を歩いて見るが、やはり誰もいない。地上は砂漠になっていて変な化け物がいるし、駅の中には誰も見当たらない。何かが起きているに違いなかった。寝ている間に核戦争が起きて、街が砂漠になってしまったのかもしれない。しかし核戦争が起きたからといって街が砂漠になるなんてありえるのだろうか。それに街が消えてしまって、電気はどこからやってきているのだろうか。駅の中に明かりがついているのもおかしい。馬鹿馬鹿しい考えだと思ってこうは思いつきを却下するが、何か大事が起きているのには変わりがなかった。このまま家に帰れない気がして不安な気持ちになってきた。そうしてこうは、体の痛みと疲労から、駅員室の床に倒れ込み、そのまま眠りこんでしまった。

体を揺すられている感覚がした。あの化け物に掴まれた感触がよみがえり、こうは慌てて飛び起きた。すると目の前にいるのは化け物ではなく、知らない女がしゃがみ込んでこちらを見つめている。こうは女を睨んで身構えた。

「よかった、生きてて。死んでるかと思いました。驚かせてすみません。」女はそういって両手を上げ、危ない人間じゃありませんというふうに、手のひらをこちらに見せた。女の顔は砂まみれで日焼けをし、髪が汚れて固まっていた。よく見ればこうと女は同じぐらいの世代だった。服装も汚れてはいるが普段着といった感じで駅の職員ではなさそうだった。こうは体の緊張を解いた。

「ここはどこなんですか? 助けてください」こうの声は寝起きでかすれている。

「ごめんなさい、私もどこか分からなくて。ここで人に会ったのははじめてなんです。家に帰る方法が分からなくて、何日も砂漠を歩きまわってここについたんです。それに私、多分この砂漠に来る時の記憶がなくて」

「え、私もそうなんです。さっき電車で目が覚めたら、この駅にいて。あ、名前を聞いてもいいですか? 私は大葉です」

「大葉さん、私は芦屋です」

「芦屋さんですね。そういえば、あの化け物は大丈夫でしたか? さっき、大きい黒いのに襲われて、何とか逃げたんですが、本当に怖かった」

「あれには私も会いました。言いつけを教えてすぐにどこかへ行きましたが」

「言いつけ……、言いつけって? あの化け物も言ってました。あの化け物って何なんですか?」

「何なのかは分からないけど、今日会ったのとは別の化け物にも一回だけ会ったことがあるんです」

「あいつの他にもいるなんて。あんなのに二回も会ってよく無事でしたね」

「あいつらは私たちを食べたり殺したりするわけじゃなさそうなんですよ。胸の石に書いてある言いつけを私たちに守らせたがっているみたいなんです。それに言いつけを守ると、桃が手に入るし」

「桃? どういうことですか?」

「大葉さんは食べ物は持ってますか?」

「何も持ってないです。でも、お金なら持ってるので、自動販売機で買うから大丈夫ですよ。通路にあった自動販売機、パンとかも売ってるみたいだし」

「さっき調べましたけどあの自動販売機は使えなかったです。水道の水も出ませんでした」

「え、そんな」

「私が言いつけで手に入れた桃を差し上げます。今日の分は一個しかないんだけど」芦屋は背負っているリュックを降ろして、中から桃を取り出してこうに渡した。「いいんですか? ありがとうございます」こうは渇きと疲れから何も疑いもせずに、その桃に皮ごとかぶりついた。

「言いつけで手に入れたってどういうことですか?」

「信じてもらえないと思いますけど、あの化け物たちが教えてくる言いつけを守ると、その通りになるんですよ」芦屋はそう言って、机の上の職員が仕事で使っていたであろうノートに何かを書き始め、こうに見せた。

眠る身体を無防備にするべからず。砂に円を書いて陣を作って眠るべし。朝目覚めたならば砂を掘れ。陣の中に果物が埋まっている。

「私がはじめて会った化け物に教えてもらったのが、この言いつけです。これの通りに寝る前に砂に円を書くと、寝て起きたら砂の中に桃が埋まってるんです。その桃はこの言いつけで手に入れたんですよ」

「信じられません。それで桃が手に入るなんて」

「私もよく分からないんですけど、でもほんとうです。そのおかげで一週間も砂漠を歩いてこられたんですから」

そして芦屋はもう一度ノートに書き込みをした。

「それでこっちがさっき会った化け物の胸に書いてあった言いつけです」

夜明けの瞬間、飲み水持つべからず。さすればその日雨が降る。

それはたしかにこうが見たものと同じだった。そういえばあの化け物が人間に二人あったと言っていた気がする。それが芦屋のことだったのだろう。

「あんな化け物に襲われながら、芦屋さんはよく文章を正確に覚えてましたね」

「ええ、記憶力だけは昔からいいんです。あれ、でもここに来る時のことは覚えていないのに。おかしいな」

「これ、ほんとうに雨が降るのかどうか確かめたほうがよさそうですね。桃以外にも飲み水があったほうがいいでしょう。あ、でも、雨が降っても入れ物がない」芦屋はあたりを見回し、職員が使っていたであろうリュックを開けて、中から水筒を見つけた。「しょうがないけど、これ使いましょう。リュックも借りちゃいましょう。私は水筒持ってきてるんで」

「その荷物はどこから持ってきたんですか?」

「私、目が覚めたら公営住宅の部屋みたいなところにいて、それで外に出てみたら砂漠だったんです。だからその部屋から勝手に色々持ち出したんですよ。そういえば大葉さんは、電車で目が覚めたらここにいたって言っていましたよね。線路がどこかに通じているんじゃないんですか?」

「あ、そうかもしれない。断言できないですけど」

こうと芦屋は駅員室を出てホームに降りた。ホームにはこうが乗ってきた電車がいまだにあって、始発を永遠に待っているかのように思えた。線路の先に行くにはホームを降りるしかない。駅に電車は止まっているので別の電車がやって来ることはないと頭では分かっていたが、電車がやってきて轢かれるてしまうのではないかという思いが浮かんで、こうは腰がひけていた。しかし、ホームの端まで来ると芦屋は躊躇せずに線路に飛び降りた。一週間も砂漠を歩き続けて顔も服装もぼろぼろになっているほどだから、芦屋はたいていのことは怖くなくなっているのかもしれないとこうは思った。

「大葉さん降りられますか?」芦屋が手を差し伸べてきた。こうは一旦ホームの端に座る格好になり、芦屋の手を掴んでずり落ちるように線路に着地した。駅の外につながるトンネルは薄暗くなっていて遠くまでは見えなかった。こうと芦屋は足元を探るように慎重にトンネルを歩き始めた。 50メートルも歩かないうちに、暗がりの中、目の前に突然壁が現れた。線路は壁のところで途切れている。芦屋は壁に穴が開いていないかを両手で触って確かめた、トンネルの片方の壁からもう片方の壁まで念入りに確かめて、穴は空いていないことが分かった。「こっちは元々行き止まりなのかもしれません。反対側も見てみましょう」芦屋の声は不安を隠すかのように引きつっていて高くなっていた。不安は的中し、反対側ももう片方の線路の両端も、全部で四箇所のトンネルを確認したが全て同様に壁で行き止まりになっていた。線路はどこにも通じていないのだ。

ホームに登ったこうは膝に手をついた。「どうしてこんなことを。わざわざ線路を塞ぐなんておかしいですよ。駅員もいないし」

「もしも、この駅の隣駅が無事なんだとしたら、この線路が伸びてる方向に地上から歩いていけば、隣駅に着くんじゃないですか?」と芦屋は言った。その通りかもしれないとこうは思った。しかし、この駅だけが特別にこの砂漠の中に存在しているような気もしていた。確かめる術はなく、行ってみるしかなかった。「そうかもしれません。砂漠を歩いて隣駅まで行ってみましょう」

旅立つことにした二人は駅の中から使えそうな道具をかき集めた。駅員室から持ち出したリュックには職員が仮眠用で使っていた毛布などを詰め込んだ。

線路が続いている方向が地上ではどちらの方角なのかを確認する必要があったが、地図を見ると駅はおおむね長方形をもとに構成されていたので、太陽の位置から推測して東西方向に進めば良いことが分かった。駅の案内板を見てもなぜかこの駅以外の駅名が書かれていなかったので、どちらが隣駅なのかは分からなかった。とりあえずこうと芦屋は東へ進むことに決め、砂漠の中を歩き始めた。

砂漠を歩き続け、すぐにこうは違和感を覚えた。目に見えている風景よりも、砂漠がもっと巨大で恐ろしい存在であるかのように感じられたのである。芦屋は既に何日もこの砂漠を歩き続け、その恐怖を理解していた。こうは己の存在の小ささに慄き、何も言わず黙って歩き続けた。熱風が体の内側に入り込み、ゆっくりと人間の中身を暑さの中に引きずり出しているかのようだった。こうと芦屋は一緒に歩いてはいたものの、精神的にはそれぞれが孤独だった。一度でも歩みを止めればもう進むことはできない。隣駅が見えないことは二人とも気がついていた。しかし元の駅に戻って反対側の方角を探してみようとは二人とも思わなかった。砂漠は物事を諦めることを身体で理解させようとした。砂漠が精神を変容させ、退廃させて劣化させ、大切な何かを奪い去っていった。ただ歩き続けるための間延びした時間が、喜びや快楽や楽しみといったものたちを消し去って、生きる意味を縮退させる。空に輝く太陽が絶対的にこの場を支配し、砂を踏みしめる音だけが延々と響いた。しかしこうと芦屋にはその音が聞こえていなかったかもしれない。自己の意識が溶け出して空間と己との区別がつかなくなっていたからだ。

日が落ちて夜になり、暑さが去ってこうと芦屋は意識を取り戻した。

「これからどうしましょうか」こうは久しぶりに声を出した。

「ここから戻ったとしてもあの駅に戻れるとは限らないし、このまま真っ直ぐ行った方が砂漠の端に出られると思います」

「そうかもしれませんね。私、疲れました。もう眠りたいです」

「寝る前に、体の周りに砂の円を描いてくださいよ。朝になったら桃が食べられますからね」

こうは芦屋に言われた通りに体を囲む大きな円を砂に指で描き、リュックから毛布を取り出して眠りについた。夜は空気が冷え、何度となくこうは目が覚めた。

夜明けの瞬間。空が白んでくるこの瞬間、砂漠はまるで海の底のようだと目を覚ましたこうは思った。砂丘によってできる影のひだが、揺れる水面から差し込む光に似ている。こうは砂の上に座り、遠くの砂丘から太陽が登ってくるのをながめた。隣では芦屋がリュックを枕にして寝ている。夜の間に吹きつけた砂で体がほとんど隠れそうだった。眠る前にこうと芦屋が砂の上に描いた円は、砂漠に吹く風のせいですでに消えている。こうは座ったまま砂の中に指を差し込んでみると、芦屋の言った通り桃が埋まっていた。こうはそれが当たり前のことかのように驚かなかった。桃についている砂を払ってリュックの中に入れると、太陽の方に向き直る。もうすぐ日が明け、太陽は直視できないほど熱く輝き、こうたちを苦しめることになる。しかし今だけは暗闇を照らしてくれる光に安らぎを感じ、こうは夜明けを見つめていた。明かりが差してくると、芦屋が目を覚まして体を起こした。こうと同じように芦屋も砂を掘り返し、砂の中から桃を取り出した。

「いまだに砂の中から桃が取れるのは慣れませんよ。寝てる間に誰かが埋めてたりして」芦屋が寝起きの鼻声で言った。「眠る身体を無防備にするべからず。砂に円を書いて陣を作って眠るべし。朝目覚めたならば砂を掘れ。陣の中に果物が埋まっている」こうは昨日芦屋に聞いた言いつけをわざとらしくそらんじた。「こんなので桃が手に入るなんて変ですよね。子供の頃に親に言われる言いつけみたい。夜に口笛吹くと蛇がでるぞ、みたいな」

「あ、私のところは蛇じゃなくて泥棒でした。でも、口笛が鳴ってる家は人がいるわけだから、口笛が鳴ってない家にこそ泥棒は入ると思うんですけどね」

芦屋は食べるかどうか迷っているように桃を見つめている。灼熱の昼間になるまで喉を潤すことができる桃は取っておくべきだとこうは思ったが、何も言わないことにした。

「あんな化け物みたいなのがいるし、言いつけとかいう変なルールみたいなのがあるし、ここは現実じゃないのかも知れないですね。死んだ後の世界とか」

「死んだ後の世界ですか。うーん、どうなんでしょう。断言できないですね」

「こうさん、その断言できないっていうの口癖ですね。昨日も言ってました」昨日までは大葉さんと呼んでいた芦屋だったが、いつの間にかこうさんと呼び始めていた。

「正確なことを言わないといけないですし……

「そういえば、今私たちは水を持っていないわけだから、昨日の化け物が言う通りなら今日は雨が降るわけですよね」

「全然降りそうな天気じゃないですけど、昨日みたいにずっと晴れてるのは辛いから、降るなら降ってほしいですね」

どんどん明るくなっていく空を二人は眺めた。完全に太陽が出る前に二人は歩き出すことにした。

砂漠をいくら進んでも隣駅に着かないことは一日目の段階ですでに分かっていたので、そのまま砂漠を歩き続けるしかなかった。一日目と同様に砂漠に対する奇妙な恐怖を抱きながら二人は進んだ。こうは桃を食べずに取っておいたが、砂漠の恐怖の中で食べる気分にはならなかった。

太陽が天頂を少しすぎたあたりになって、にわかに進行方向の地平線から雲が立ち現れた。雨が降る予感に二人は立ち止まった。暑く照りつける太陽が消えただけでも嬉しいことだったが、すぐに雨が一滴落ちた。言いつけは本当だったのだ。

「水筒準備しましょう。あと毛布も広げた方がいいかも」と芦屋が言った。

「毛布?」「濡らして後で絞れば水が手に入るでしょ? 水筒のこんな小さい口じゃ全然集まりませんよ」

たしかにその通りだとこうは思って、リュックから毛布を取り出して砂の上に広げる。水筒の蓋を開けて雨が中に入るのを待つ。やがて、雲がさらに暗くなったかと思うと本格的に雨が降り始めた。それは恵みの雨という呼び方がふさわしかった。暑さでほてった顔を冷たい雨が冷やし、癒しの雨でもあった。こうと芦屋は水筒を掲げて雨が集まるのを待った。不思議なことに雨が降る量に比べて水筒の中に溜まっていく水の量が明らかに多かった。まるで水筒をめがけて雨たちが集まっているようだ。

「芦屋さん、私の水筒もう満杯になりました」こうは水筒のかさを減らすために口をつけて水を飲んだ。一日ぶりに口にする水分に生き返るような心地だった。「私の方ももう満杯です」芦屋もこうと同じように水を口にした。二人が水を味わっているとすぐに雲の間から光が差し込み始め、雨が止んで晴れ渡った。水筒がいっぱいになったこと空が知っているようだった。毛布は濡れたまま砂がついて泥になってしまい、水を搾るのも一苦労だったが、晴れてからはすぐに乾いてほとんど役に立たなかった。

こうと芦屋はその後も東に向かって同じように歩き続けた。駅を出てから四日目の昼に、地平線に砂ではない何かが見えた。遠くからだと地面が汚れているように見えた。進行方向からはずれてしまうが、何があるのか確かめるために向かうことにした。

近づいてみると無数の船が砂の中に突き刺さっているものだった。小さいボートから大きな漁船まで大小様々な船がいろいろな角度で船体の一部を砂に埋めている。

芦屋に袖を引っ張られた。「こうさん、あれ、あの化け物」芦屋が一つの船を指差すと、以前見たあの化け物より一回り小さいのが突き刺さった船によりかかって座り込んでいた。こちらに気付いているように見える。

「新しいやつですね。今まで見たのと顔が違うから」と芦屋が言った。こうの足は自然と化け物から逃れる方向に向いていたが芦屋に呼び止められた。「言いつけを教えてもらった方がいいかもしれないです」こうは足を止めて大きく目を見開いた。持っていなかった発想だった。たしかにこの砂漠を進んでくるまで、あの化け物たちから教えられた言いつけは、私たちにとってなくてはならいものだった。しかしそう簡単にいくのだろうか。「でもあの化け物に殺されないとは限らないじゃないですか」「まあそうなんですけど、賭けですね。このまま砂漠を歩き続けてもどうしようもないですし」ただ歩き続けても何も見つからず、いつまで経っても砂漠を抜け出すことができない焦燥感を抱いていたのは事実だった。こうは化け物の方を振り返って鼻からゆっくり息を吸い込んだ。「なら、行ってみましょう」

近づいてみると化け物の腹部の毛には血がこびりついていて、大きな怪我をしていた。こちらを見つけても追いかけてこなかったのはそのためだったのか。何が起こるか予想がつかないため、ゆっくり近寄る。化け物はこちらを見ている。

2メートルほどのところまでに近づいた時、化け物は口を開いた。「砂漠を出る方法を教えよう」こうと芦屋は相手の真意が掴めず黙っている。「わたしはもう動けない。このままでは死んでしまうだろう」四角柱に寄りかかっている怪物は、両の手のひらで自身の腹を指した。そこには以前は何かが埋め込まれていたかのように四角く穴が残り、肉がえぐれて血がついている。おそらくこうが一匹目に見た化け物と同じように、体に言いつけが書かれた石の板が埋め込まれていたのだろう。それが奪われたと化け物は言っている。「誰に奪われたんですか?」不用意に芦屋が声を出したのでこうは芦屋を睨んだ。「別の動物だよ」まるでこの化け物が自分を普通の動物だと言っているかのように聞こえた。「君たちは知らないだろうけど、ここは動物が神になるための場所で、神になるためには他の動物を殺して勝ち残らないといけないんだ」「神になる?」芦屋が声を出すたび化け物になにかされないかとこうはソワソワした。

「そう、神になるんだ。知ってるでしょ? 神」こうはまるで人間であるかのように話すこの化け物のことが気に入らなかった。化け物は体をほとんど動かせないようで、話し続けながらも顔はこちらに向けずに中空を見ていた。

「神になるには信心が必要だ。体に埋め込まれた石碑の言いつけを守らせるんだ。君たちみたいな砂漠に迷い込む人間が用意されて、言いつけを守らせたら信心と力を得て強くなり神に近づく。言いつけが砂漠で役に立つのはそのためだ。守ってもらわないと意味がないからね。守ってもらえるような言いつけをそれぞれの動物が授かるんだ。でもどんな言いつけを授かるかは自分では選べないけれどね」こうと芦屋は話の結論がどうなるのかという緊張から、表情を変えずに話を聞き続ける。「わたしは戦いで他の動物に石碑を奪われた。体が一つも動かせない。神になれないまま死んでいくんだ。そして君たちはこの砂漠からは出られない」こうは話の不可解さに黙っていることに我慢できなくなり、ついに口を開いた。

「この砂漠から出られないって、端まで辿り着けば出られるんじゃないですか?」なぜだか化け物に対して丁寧語を使ってしまったことで自分自身に違和感を覚えた。

「端はない。この砂漠は無限に続いている」

「無限て、そんな。ここはどこなんですか? 無限ならどうやってここに連れてこられたんですか?」

「それはわたしにも分からない。この砂漠の外のことは知らない。他にも迷い込んだ人間を見たことはがあるが、全員外には出られないのだろう」

「砂漠を出る方法を教えるってさっき言ったけど、それなら私たちだって出られないでしょう」

「そうかもしれない。わたしが君たちに教えようとしているのは、わたしが神から言い付けられた言葉だ。人間には教えるなと言われたが、多分そこに砂漠から抜け出す秘密が隠されているからじゃないかとわたしは考えている。もう死ぬんだと思ったら急に言いつけを破りたくなってね」

「ほんとうの話かどうか信用ならないですねえ」芦屋はこの化け物が襲ってこないと油断しきっていて、撫でるような声を出した。

「信じなくてもいいさ、それに本当に出られるかどうかは分からない。なんだかその言葉で砂漠を出られるんじゃないかとわたしが思っているだけさ。その前にまずわたしのお腹にあった石碑に書かれていた言いつけを君たちに教えよう」すると化け物は今まで話していた声とは別のとても低い声を出した。

「砂丘の頂上に果物を埋めて水で濡らせ。昼は日没に、夜は夜明けになる」

「そんなの言いつけでもなんでもないじゃん」と芦屋はつぶやいた。それを聞いていた化け物は「言いつけだから守れ」とぶっきらぼうに言った。

芦屋は、私に任せてといった感じでこうに目配せをしてこう言った。「忘れないうちに砂漠から脱出する方法も教えてください」

「君たちを騙しはしない」化け物はそう言って静かに息を吸い込んだ。

「過去を思い出すべからず。砂漠の言いつけ破るべからず」声が二重に聞こえる不思議な話し方だった。「お前たちは過去を忘れようとしたからここに迷い込んだんだ。そうだろう?」

たしかにこうと芦屋は砂漠に来る直前のことを覚えていなかった。しかし、過去を忘れようとしたかどうかなんて分からなかったし、この化け物にそう言われたこともムカついた。

「過去を思い出せば砂漠から出られるってことですか? そんなことで砂漠から出られるなんて信じられないです」

「期待はずれだという顔だな。その通りなのかもしれない。しかしわたしから伝えられることはもうない」顔を一切こちらに向けない化け物がこちらの顔を見えているとは思えなかった。

「分かりました。言いつけは教えていただいてありがとうございます。それじゃあ、失礼します」こうは芦屋の背中を抱くようにしてそそくさとその場を立ち去った。

化け物から離れて二人は歩きながら考え込んだ。「殺されないだけましでしたね。よく分からない言いつけも教えてもらったし」化け物と話している時もそうだったが芦屋はいまだにのんきだった。「あの化け物の言うことを信じるなら人間に危害を加えることはなさそう」「でも私が最初に化け物に会った時は、地面に押し付けられて体を掴まれたりしましたよ」「それはたしかに大変だったと思いますけど、現に殺されてはいないわけですよね?」「まあその通りですね」「これからどうしましょうか。砂漠が本当に無限なのかどうかにしても、このまま東に向かって進み続ければ確かめられると思うんですが」こうは芦屋の意見に賛成し、当分の間は東に進み続けることになった。

しばらく歩いてこうは化け物に教えられた言いつけのことを思い出した。

「そういえばさっきの言いつけってどんなのでしたっけ?」

「“砂丘の頂上に果物を埋めて水で濡らせ。昼は日没に、夜は夜明けになる”ってやつですね」

「芦屋さんはやっぱり記憶力がすごいですね」

「褒めてくれてありがとうございます。普段はあんまり褒められないから」芦屋はそう言って恥ずかしそうに風で砂が吹き付ける顔を拭った。

「どうなるのか試してみましょうよ」

「そうですね」

こうと芦屋は近くの砂丘を登って頂上に着くと、こうは持っていた桃を砂の中に埋めて水をかけた。すると驚くべきことに、視界に広がる全ての砂という砂が沸き立つように揺れはじめ、頭上にあった太陽が急に動き出して凄まじい速さで地平線の向こうに沈み、たちまち砂漠が暗くなった。

こうと芦屋は驚きのあまり口を開けたまましばらく何も話すことができなかった。

「なんなんですか、これ。夜になっちゃいましたよ。言いつけとかおまじないとかそういうレベルじゃないですよ」

「桃が埋まってたり、雨が降るのも不思議でしたけど、いきなり夜になるのはもっと不思議ですね。ここが普通の世界じゃないっていうのはやっぱり本当なのかもしれない」

こうがもう一度水をかけてみると、地平線の上に浮かんでいた月がどんどん登って天頂を過ぎ去って地平線の向こうに落ちると、反対側から太陽が登って朝になった。こうと芦屋は太陽と月がぐるぐると動くのをやはり口を開けて眺めた。

「これ繰り返したら、ちょうどいい気温で歩けるんじゃないですか? 暑くなったら夜にして冷やしたりして」こうは思いつきを言った。

「それはそれで便利そうですけど、私は桃と雨の言いつけがどうなるのか気になります。円を書いて眠って、朝に変えて、砂を掘ったら桃があるんですかね。私試してみますよ」

「でもそんなにすぐは寝れないでしょ?」

「多分目を瞑るだけで大丈夫なんです。私大葉さんに会う前に、夜が寒くて眠れなかったことがあるんですけど、朝起きたらちゃんと桃は埋まってましたから」芦屋はそう言って砂に円を書くと、円の中で目を瞑った。「どうぞ、水かけて朝にしちゃってください」

こうは砂に埋めた桃に水をかけて一旦夜にすると、もう一度水をかけて朝にした。昼夜が目まぐるしく変わった。芦屋は目を開けると砂の中を掘った。すると砂の中には桃があった。

「これ繰り返せば桃がいくらでも手に入りますね」これで食料が限りなく手に入る。思ってもみなかった言いつけの効力だった。

「次は雨も降るかどうか試しましょう」「でも、夜明けの瞬間に水を持ってちゃだめなのに、その後桃に水をかけなくちゃいけないですよね? それってできないですよ」「夜明けが来る直前で水を空中にまけばいいんですよ。そしたら夜明けの瞬間は水を持ってないのに、桃には水がかけられる」芦屋は自信満々で気取るように話した。「それで、試しましょう」

たとえ失敗して水がなくなったとしても今日は桃があるからなんとか渇きはしのげる。まず芦屋が水を飲み切ってこうの水筒の水だけを残した。こうが桃に水をかけて夜にするのを芦屋は見守る。そしてもう一度こうが桃に水をかけ、地面の裏側で回っている太陽を頭の中で想像し、地平線の向こう側に姿を現す直前に、こうは桃の直上で水を空中にまいた。太陽が現れ朝になり、こうがまいた水は桃が埋まる地面に落ちた。すると太陽は再び動き出した。太陽が天頂を少し過ぎ去ったあたりで急に雲が現れ、空からプールの水をひっくり返したかのような量の雨が降った。こうと芦屋は一瞬でずぶぬれになった。

こうは水筒の中に雨を集めるのことを忘れていたが、一瞬で降った雨の多さに水筒はいっぱいに満たされていた。

「成功ですね」と芦屋が言って二人は満足そうに見つめあった。水と食料と暑さにはわずらわされることがなくなった二人は幾分安心した。眠る時はどうするかと言う話になったが、明るくて寝られないよりは暗くして寒い方が幾分ましだろうということになった。こうと芦屋は言いつけを使って十分な桃と水を手に入れることにした。途中素早く雨を降らせすぎて桃が濡れたままになり、昼と夜との変化が止まらなくなったので、あわてて芦屋が地面から桃を掘り返した。リュックに入っている桃が重くならない程度に桃を集め、二人は再び歩き続けた。

次の日、夜明け前にこうは目覚めた。薄明かりの中で砂漠の光景を見るたびに、海の底に似ているとこうは思った。空の奥の方に揺れる水面があって、空中は水で満たされ、魚たちが泳いでいる夢想の中でこうは漂った。

「海」こうが呟いた。「そうだ海だ」こうは芦屋の体を揺すって起こそうとした。

「芦屋さん、海です」

「海?」まだ目が覚めきっていない芦屋にこうは話す。

「私、海に行こうとしてた。何もかも嫌になって、海に行こうとして電車に乗ったんだ。全部、忘れようと思って。あの化け物が言ってた通りですよ」

「うーん、わたしも海だったか川だったかを見に行こうとしていた気がします」

「この砂漠は海だったんですよ」

「海だったってどういうことですか」

「なんで船が砂漠にあったのかずっと気になっていたけど元々は海だったんですよ。あの駅の名前も“無津”っていう名前だったけど、津っていう漢字は海辺っていう意味でそれがなくなっちゃったから“無津”っていう名前なんだ」

「この砂漠がもし海だったとして、それでなんなんですか?」芦屋は突然起こされたことに不満そうな様子だった。

「過去を思い出すべからず。砂漠の言いつけ破るべからず。あれは私たちが記憶を思い出すなっていうことじゃなくて、砂漠に過去を思い出させるなっていう意味ですよ。砂漠を海に戻すんです」

「海に戻す? どうやってそんなことできるんですか?」

「教えてもらった言いつけを使えばいいじゃないですか。埋めた桃を濡らしっぱなしにしたら昼夜の回転が止まらなくなったじゃないですか。あの時水筒を空っぽにしておくんですよ。そしたら雨がどんどん降り続ける」

「もしそんなことしたら私たちはこの砂漠で溺れちゃうじゃないですか」

「船に乗るんですよ」芦屋はこうの言葉で完全に目を覚ましたようだった。

「あの場所まで戻りましょう」

こうと芦屋は怪我をした化け物がいたところへと一日かけて帰ってきた。船がいくつも突き刺さっているのは見えたが、あの化け物の姿は見えなかった。

「あの船のところでしたよね、化け物がいたのって」

「いなくなってますね。もうすぐ死ぬって言ってたから、消えちゃったのかも」よく見渡してみても化け物はいなかった。

「あの船がちょうど良さそうですね」乗り込むために砂に刺さった船を引っ張り出す必要があったが、あまり大きい船は大分砂に埋まっていたので、小さくて浅く埋まっている船に目星をつけた。二人は船の周りの砂を手でかいて、引っ張り出そうとしたが深くまで砂を掘るのはなかなか大変だった。

ようやく船を引っ張り出した時には二人は体力的に限界でくたくたになっていた。

「ようやくですね。試しますけどいいですよね?」こうは芦屋に同意を求めたが、断られても止めるつもりはなかった。

「ええ、やりましょう」

こうが船の横に桃を埋め、水筒から水をかけて夜にした。そしてもう一度水をかけて朝になる直前、今まで何度もやったように空中に全ての水をまけた。太陽が高速で動き始め、土砂降りの雨が降って夜になった。砂が水で濡れている間にすぐさま同じ工程を繰り返す。すると砂に埋めた桃が濡れたままになり、何もせずとも昼夜が高速で変化し始めた。こうは水筒をリュックにしまい、昼になるたび雨が降った。足元の水かさがどんどん増していき、こうと芦屋は船に乗り込んだ。水かさはそれからもどんどん増していき、ついに船が浮き上がった。砂漠一面がこうが夢想していたような海になりつつあった。水平線に続くまで見えていた砂丘は今では隠れてしまい、並み立つ水面がどこまでも続いている。そうして水かさが元々は空だった場所まで到達し、砂漠は海になった。すると突然雨が止んだ。砂の中に埋めていた桃が水で洗われて砂から飛び出したのだとこうは思った。雲が晴れ渡り太陽が見えた。あれだけこうと芦屋を苦しめた太陽が、今では輝いて見えた。

「こうさんあれ」芦屋が海の向こうを指差した。遠くにかすかに陸地が見えた。こうと芦屋は船に載っていた櫂を掴んで漕ぎ出した。

舟は陸地を目指して進む。

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