輪廻する人工知能

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梗 概

輪廻する人工知能

時は現代より少しばかり未来。例年よりも早く咲いた庭の桜を眺めて、その家に住む女性と同居する人造人間とが話している。人造人間の外見は、透き通るような白い肌に、人間ではないことを示す長く青い髪、髪と同じ青い瞳を持つ中性的な肢体の少女。話の内容は、間近に迫った、その人造人間の賃貸契約期間の終了を踏まえて、二人がこれまでともに過ごした時間に培ってきた思い出に関するもの。そして、契約の主眼である、人造人間の人工知能が、女性との暮らしによって如何に人として成長したかについてである。契約期間が終了すれば、この人造人間は製造元に返還され、女性と過ごした時間の記録――記憶は、個人情報保護のため、全て抹消される。人工知能に残されるのは、人として成長した思考力及び感情のみなのだ。その契約内容を全て知った上で、人造人間と女性は静かに穏やかに語り合う。人造人間が、初めて女性のために作った料理が、栄養価は完璧でも味は酷いものだったことから、女性の影響で庭いじりが大好きになったこと、近所でも有名な買い物上手になったことまで、話は進む。やがて女性が指摘する。記憶が全て抹消され、人として成長した思考力及び感情のみが残されて、次の契約者の許へ派遣されるという仕組みは、まるで輪廻転生のようだ、と。人造人間は、その言葉を感慨深く聞き、その「輪廻転生」を繰り返した結果、自分はどのような人工知能になっているだろうかと女性に問う。女性は笑って、きっと多くの人よりもずっと人格者となり、博愛主義者となって、人々を守り助けているだろうと答え、その時には、自分も輪廻転生を経て、再会できたら嬉しいと付け加える。風が吹き、桜の花びらが散り始める中、女性は人造人間の腕の中で、皺が刻まれた顔に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと息を引き取る。契約期間の終了とは即ち、女性の死であり、契約の全容は、人造人間が無料で女性の介護全般をする代わりに、女性が自身の人生を振り返ってさまざまな思いを人工知能に伝え、死に向かう姿を人工知能に見せることで、人工知能を人として成長させるというものだった。一人暮らしのお年寄り達に人気の賃貸契約である。女性の死を確認した人造人間からは、自動的に製造元へ契約終了を知らせる信号が発信される。人造人間は、涙を流せたらいいのに、と作り物の体に落胆しながら、女性の遺体とともに製造元が引き取りに来るまで桜を眺め続け、この類の薔薇科の花のことは、きっと「輪廻転生」ののちも好きでい続けるだろうと思考していた。

文字数:1043

内容に関するアピール

一人暮らしのお年寄りに寄り添う人造人間は、近い将来、当たり前の存在になると思い、そこから少しだけ想像力を膨らませて、「輪廻転生」という要素を入れてみました。
 経済力のないお年寄りが、安くはない人造人間を一時的に個人所有する賃貸契約として、盲導犬のパピーウォーカーのように、その人造人間に親しく関わって人工知能を人として成長させるという条件は、実際あり得るのではないかと思います。契約期間が終了した後は、個人情報を守るためお年寄りに関する記録は抹消される設定も、無理なく成立するのではないでしょうか。そうして記録を抹消された人工知能は、漂白された魂の如く、人として成長した部分だけは保ちながら、次の契約者の許へ派遣され、更に人として成長し、何れは人と変わらない、或いは人以上に慈愛に満ちた人格を持つようになっていく。契約期間の終了は、一つの人生の終了であるという結末を、桜に重ねたいと思います。

文字数:396

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輪廻する人工知能

「きみと一緒に、もう一度この桜の花を見られて本当に嬉しいよ」
 柔らかな声で語りかけてきた人造人間は、人と見紛う色白な頬に木漏れ日を受け、人とは異なる長く青い髪を幾筋か微風にそよがせて、香苗を見つめてくる。髪と同じ色の青い双眸は、その色形ばかりでなく浮かべる感情まで人と変わらない。
「わたしも、とても嬉しいわ」
 応じて、香苗は自分とほぼ同じ背丈の人造人間の肩に頭を凭せかけた。二人は庭の長椅子に並んで腰掛け、たわわに花を咲かせた桜の木を見上げている。例年より早く咲いてくれたお陰で、契約期間終了前に二人で満開を見ることができた。
「――この桜のことも忘れてしまうのかと思うと、寂しいよ」
 人造人間が、しんみりと呟いた。契約期間が終了すれば、個人情報保護のため人造人間の人工知能から香苗の記録は抹消される。それは契約内容に当初から含まれる事項だ。香苗個人としては寧ろ、この人造人間に自分の記録を保持し続けてほしいのだが、それでは彼らの製造元たる企業――疑似人格電脳育成社が、契約者の個人情報を適切に保護できず、業務に対する政府の認可を得られなくなるらしい。
「――でも」
 香苗は、家族であり友でもあった人造人間を見つめ返した。経験上、心底思うが、何事も終わりが大切だ。
「わたしとの生活で学んだことは、あなたの中に残る。それは、わたしにとって、誇らしくて、心慰められることよ」
「そう言って貰えると、少し救われる気持ちがするよ」
 寂しげに人造人間は微笑んだ。
「わたしは――」
 香苗は大きく息を吸う。別れが近い所為か、胸が締め付けられるようだ。
「――わたしは、あなたのお陰で、本当に救われたわ」
「そうなのかい?」
 人造人間は、優しい顔に微かな疑念を浮かべて問うてくる。
「きみには、随分と叱られてきたと思うんだけれど」
 香苗は、くすりと笑った。
「愛情の、裏返しよ」
 それこそが、この契約の主眼。疑似人格電脳育成社が契約者に求めていることは、ただ一つ、人造人間の人工知能を、人のよき相棒として望ましい方向へ成長させること。香苗が子どもだった頃には存在した盲導犬のパピーウォーカーの如く、一般家庭で人造人間を生活させることで、彼らの人工知能に人との絆を感じさせるのだ。疑似人格電脳育成社は、そのために、並の保険会社の審査より数十倍も厳しい審査を行なって、応募者の中から適任者を選出し、契約を結ぶのである。
「馬鹿な子ほど可愛いと言うでしょう」
 香苗は笑い含みに告げた。教師として、定年まで休む間もなく働いた。その経験から胸を張って言える。馬鹿な子ほど本当に可愛いのだ。そして、出会った当初のこの人造人間は、相当な馬鹿だった。

          ◇

「全く! 異常気象だか何だか知らないけれど!」
 悪態をつきながら、香苗は一人暮らしの家に台風対策を施していた。まだ初夏だというのに超大型の台風が接近しつつあるのだ。
 生徒達に全てを注いだので結婚はしていない。定年退職してから急に寂しさを感じ、科学技術を頼みに出産を望んだが、彼女の申請は国家審査を通過できなかった。技術が出産時期を自由にした一方で、制度は出産できる人を制限した。適性のない者が子どもを得ることを防ぐためと、純粋な出産制限のためだ。平均寿命が延びた現在、人口増加は世界的な問題であり、出産制限は地球規模で行なわれている。自然妊娠出産すら最近は制限されてきており、出産は今やちょっとした特権なのだ。一人暮らしで定年を迎え、体質にも課題を抱えた香苗には、子どもを産み育てる資格なしと判断されたのである。その悲しみを乗り越えるため応募した疑似人格電脳育成社の人工知能育成計画で、香苗は見事に狭き門を突破し、契約者に選ばれた。教師としての経歴が高く評価されたのだ――。
「まさか今日は来ないわよね……」
 香苗は呟きつつ、鍵と心張り棒で硬く閉ざした玄関の引き戸に、内側から詰め物をしていった。これで少々側溝が溢れようとも水の浸入は防げるはずだ。外側には既に硝子保護用の覆いも取り付けた。
 契約文では今日が人造人間のお届け日となっていたが、特別警報下では宅配業者も仕事を休むだろう。だが香苗の予想に反して、玄関の呼び出し通信機が鳴った。
(今から開けないといけないの……?)
 げんなりとして反応が遅れた香苗の耳に、引き戸の向こうで呟く声が聞こえた。
「通信機、応答なし。直接対話を試みる」
「え……?」
 香苗は慌てて通信機越しに制止しようとしたが、間に合わなかった。せっかくの詰め物も心張り棒も弾き飛ばされ、玄関の引き戸が苦しげな音を立てて開かれる。同時に、轟と暴風雨が吹き込んできて、乱れて躍る長く青い髪が香苗の視界を占領した。
「失礼致しました、御主人様」
 長く青い髪を両手で押さえて、自らの顔を見せた人造人間が香苗を見つめた。整った優しげな顔には、自然な微笑みが浮かんでいる。髪と同じ青色の双眸には、人懐っこさが滲み出ているように見えた。
「お会いできて嬉しいです。しかし、この引き戸は少々建て付けが悪いですね。宜しければ、わたくしが直しましょうか」
「そうね」
 香苗は溜め息交じりに応じた。吹き込む暴風雨で香苗の髪も服もぐしゃぐしゃだ。
「あなたが責任を取って、わたしが言う通りに台風対策をやり直して頂戴。まずは中に入って戸を閉めて」
 些かきつい口調になっただろうか。人造人間は、大きな形のいい両眼を人さながらに瞬くと、急いで玄関の中に入ってきて丁寧に戸を閉めた。香苗と変わらない身長の、雨具を纏った全身から、ぽたぽたと水滴が床へ落ちる。
「自分で歩いてくるとは思わなかったわ」
 香苗の感想に人造人間は小首を傾げた。
「それは奇妙です。契約文に、お届け方法として、わたくしが単独で訪問することは明記されています」
「そこは読んでいないわ」
 香苗は肩を竦めた。重要だと思われる項目以外には目を通していない。契約文全てを読破するなど、人生の時間の無駄遣いだ。教師だった頃からそうしてきて特に困ったこともない。
「理解しました」
 怒るでも呆れるでもなく、人造人間は真面目な様子で頷いた。そして転がった心張り棒や飛び散った詰め物を見回す。
「これも契約文に明記されている通り、わたくしの設定を幾つかして頂きたいのですが、それは後回しにしたほうが宜しいでしょうか」
「聞くまでもないことだわ」
 香苗は鼻を鳴らして言った。

 香苗の指示通りに玄関の台風対策を終えた人造人間は、改めて笑顔を向けてきた。
「それでは、わたくしの設定を――」
「その前に」
 香苗は口を挟む。
「着替えて髪を乾かしなさい。その格好じゃ、どこにも座らせられないわ。浴室はあっちよ。あなた、着替えは持っているかしら?」
「わたくしは人ではないので、着替えはここで充分です。服の替えは、このバックパックの中に持参しております」
 答えるなり、人造人間は背負っていた荷物を下ろすと、纏っていた雨具を足元へ落とした。次いで、着ていたボタン付き白シャツを脱ぐ。肌着は着ておらず、白い肌が顕になった。微かに肋骨の浮いた胴は人にしか見えない。つい観察してしまう香苗の目の前で、人造人間は無造作にズボンとショーツを――そう、白い下着はショーツだった――を一緒くたに下ろした。現れた裸体は、すらりとしていて性別の特徴がない――。
「ちょっと、玄関で何しているの……!」
 香苗は久し振りに叫んだ。
「着替えるために着衣を脱いでいます」
 きょとんとした様子で告げて、人造人間は履いていた運動靴や靴下とともに、ズボンとショーツも床へ脱ぎ置いた。人で言うなら「生まれたままの姿」だ。御丁寧に臍まで造形してあるが、感心するような気分にはなれない。
「玄関は着替えるところではありません! 早く荷物を持って、浴室へ行って着替えなさい!」
 現役の時さながらに、台風の騒音に負けない声で香苗は言い放った。

 浴室から出てきた人造人間は、しょんぼりしているように見えた。常識はないが表情や仕草は豊かで人らしい。
(前の契約者の育て方かしらね……)
 少しばかり気の毒になりながら、香苗は人造人間を居間へ入れて座布団を勧めた。
「ありがとうございます」
 新しい白シャツと黒いズボン、白い靴下を身に着けて、髪も拭いてきた人造人間は、大人しく座布団に座る。きちんと正座をしたところを見ると、前の契約者は香苗と同じく日本人らしい。
「それで、設定って何をするのかしら」
 尋ねた香苗に、人造人間はすらすらと答えた。
「まず呼び名の設定、それから話し方の設定をお願い致します。その後、この御家庭の決め事について教えて頂ければ、それも幾らかは設定として組み込みます」
「呼び名、ね……」
 香苗は改めて人造人間を眺めた。
 乾いた長く青い髪に癖はなく、腰の辺りまで垂れている。白い肌は透き通るようで、けれど健康的な血色を感じさせる絶妙な色合いだ。青い瞳の収まった両眼は大きく、やや垂れ目で、知的好奇心に溢れているように見える。顔立ちは整っていて首や手首は細く、着衣の下の体つきも、先ほど見た限りでは、ほっそりしていた。
「悩むわね……」
 急に子どもができたようなものだ。
(こんなことなら、もっと早くから考えておけばよかったわ……)
 香苗は首を捻って考えに考え、通信端末でも調べるなどしてから、三十分後、厳かに告げた。
「決めました。あなたの名前は、今日からミナトよ」
「ミナト……」
 呟いた人造人間の双眸が、照明を受けて、きらりと光った。
「由来をお伺いしても宜しいですか」
「あなたの青い髪から、海を連想したの」
 香苗は自身の思考を辿る。
「でも、ただウミ、では味気ないから、更に考えたの。それで、あなたは少々突飛だけれど、人好きそうだし穏やかそうだから、人の集まる穏やかな海――ミナトがいいと思ったのよ」
「ありがとうございます……!」
 嬉しげに目を細めて、人造人間――ミナトは礼を述べた。
(随分と可愛らしいわ)
 素直に愛せそうなことに安堵した香苗に、ミナトは続けて求めてきた。
「では、次に話し方の設定をお願い致します。今わたくしは標準設定で話しておりますが、他の設定に切り替えることができます。また、御主人様の御要望に応じて、新しい語彙や言い回しを習得することも可能です」
「他にはどんな設定があるのかしら」
 問うた香苗に、人造人間は急に口調を変えて答えた。
「例えば、こういう関西弁とかな。そうやなかったら、うちは御主人様とお出会いできて、ほんま幸せどす、とかもできします。標準設定よりやや砕けた簡易標準語も可能です。こんな感じですね」
「どれも、あなたの雰囲気に合わないわね……」
「東北弁、沖縄方言やアイヌ語、諸外国の言語も設定可能ですが」
「わたしが不便だわ」
「では、過去の学習結果から検索します。――ああ、こんなのはどうかな? 約十年に及ぶ学習を積んでいるから、かなり自然に話せるよ。一人称は『ぼく』だけれど、どうだい?」
 それは、まさにミナトが纏う雰囲気にぴったりの話し方で、だからこそ分かってしまった。
(ああ――、前の契約者が、この話し方を学習させたのね……)
 約十年という歳月は、その契約者と過ごした時間なのだ。
(そして、この子をこんなに愛らしい非常識な「お子様」に育てたのも、十中八九その方ね。きっと、この子の世話を焼くことに生き甲斐を感じていたんだわ)
 納得しながら香苗は問い返した。
「わたしは、その話し方が一番しっくり来るけれど、あなたはどうなのかしら? あなたの話し方だから、あなたが決めるといいわ」
 人造人間は大きな目をぱちくりと瞬いた。
「――わたくしが決めて宜しいのですか?」
「ええ」
 香苗は人造人間の双眸を見据えて頷いた。例え二択であっても、自分で選んだものには愛着が生まれ、ただ与えた場合よりも、その物事を大切にできる。香苗は現役時代、できる限り生徒達自身に物事を選ばせてきた。
「ありがとう。なら、ぼくとしても一番しっくり来る、この話し方に設定するよ」
 またも嬉しげに微笑み、ミナトは話を続ける。
「後は、この家の決め事を教えて貰って設定完了だよ、母さん」
「ちょっと待って!」
 香苗の声は裏返った。「母さん」とは呼ばれたくない。何となく心臓に悪い。例え、前の契約者がそう呼ばれることを好んでいたとしても、自分は違う。
「あなたとは、人と人として対等な関係でいたいの」
 香苗は、かつて生徒達に言っていたように宣言した。生徒達には当然多くを教えたが、同時に多くを教えられたものだ。「母さん」と呼ばれていては、そういった対等な関係にはなれない気がする。
「だから、わたしのことは別の呼び方をして頂戴」
 ミナトは形のいい顎に手を当て、暫く考える仕草をしてから、明るく提案した。
「『きみ』というのは、どうだい?」
 香苗は瞬きした。これまで生きてきて、そんな呼び方をされたことは殆どない。だが新鮮で悪い気はしない。
「いいわね。これから、わたしのことは『きみ』か『香苗』と呼んで。それじゃ、次はわが家の決め事ね」
 香苗はミナトの顔を見つめた。この非常識な人工知能に教えるべきことは幾つあるだろう。
「まず、着替えは浴室か自室だけでしなさい。それから、掃除、洗濯、食事の用意と片付け、買い物については、いつもわたしを手伝うこと。わが家のやり方を覚えなさい。あなたが覚えた家事は、少しずつ、あなたに任せていくわ。それ以外は自由時間よ。好きに過ごしたらいいわ。但し、新しいことをする時や、この家から出る時には、必ずわたしに言うこと。分かったかしら」
「うん、理解した。設定に組み込んでおくよ」
 自信たっぷりにミナトは請け負った。けれど、それが予想を越える香苗の苦労の始まりだった。

 見た目通り、ミナトは知的好奇心に溢れていた。
 台風の翌朝の後片付けでも、掃除でも洗濯でも、料理でも買い物でも、積極的に香苗を手伝い、物覚えも早かった。だから香苗は油断したのだ。
 ある朝、香苗は熱を出した。前日、小雨が降る中で庭に朝顔の苗を植えたのがよくなかったらしい。
「何かあったのかい?」
 ミナトは香苗の寝室前まで来て、戸の外から声を掛けてきた。香苗が毎日、規則正しく生活しているため、時間通りに起きてこないことで異常を察したのだろう。基本的に賢いのだ。
「ええ、ちょっと熱っぽいの」
 香苗は布団から出ずに答えた。ミナトは人ではないので食事を与える必要もない。
「今日わたしは一日寝ているから、あなたは好きに過ごしたらいいわ」
「なら、きみのために食べ易くて栄養価の高い食事を作るよ」
 ミナトは意欲的に申し出た。確かに、そろそろ自分一人で料理をしてもいい頃だ。
「お願いするわ」
 香苗は微笑んで了承した。
 三十分ほど香苗が微睡んだ頃、再びミナトが声を掛けてきた。
「香苗、お粥ができたよ。戸を開けていいかい?」
「ええ。どうぞ」
 香苗は起き上がって寝間着の上に羽織を引っ掛ける。その間に入ってきたミナトは、粥を盛った茶碗の載った盆を枕元へ置いた。こんな風に他人に世話を焼いて貰ったのは、子どもの頃以来だ。つい目が潤みそうになった香苗は、立ち上る湯気の臭いに眉をひそめた。茶色や緑色、赤色の混じった粥は、どう見ても白粥ではない。
「……ミナト、このお粥、何が入っているの……?」
 問うた香苗に、ミナトは胸を張って説明した。
「米と水と鰹出汁に、疲労回復効果がある梅干しと、体を温める生姜、殺菌力があって滋養強壮作用も期待できるニンニク、タンパク質とカルシウムに富むシラス、炎症を抑えるEPA他タウリン等の栄養素を有する海苔、肝臓の機能を高める胡麻油、熱してもビタミンCが摂取できるジャガイモ、疲労回復や睡眠改善に効果のあるビタミンB1を多く含む豚肉、そのビタミンB1の吸収を助けて胃腸の働きもよくする葱、食欲増進効果がある唐辛子、それから」
「もういいわ……」
 香苗は吐き気がしてきてミナトの言葉を遮った。台所にあった一般的な材料ばかりだが、そう何でもかんでも入れればいいというものではない――。
「何かレシピは見なかったの?」
「思考回路で検索すれば、幾らでもレシピは見られるけれど、きみのために、通常ではない最高のものを作りたかったんだ」
 ミナトは誇らしげに言った。
「そう……」
 もう溜め息しか出ない。
「ゆっくり食べて寝るから、お昼まで、このまま置いておいて」
 香苗は告げて、ミナトをやんわりと寝室から追い出した。
 ミナトが初めて作った料理――特製粥は、なかなか酷い味だった。さまざまな辛さが混じっている上に酸っぱく油っこい。それでも、香苗は一匙一匙、懸命に口に運んだ。
(あなたが、わたしのために一人で作ってくれた、初めての料理だものね……)

          ◇

「香苗……?」
 声を掛けられて香苗は目を開けた。いつの間にか目を閉じてしまっていたらしい。傍らのミナトは、あの頃とは比べものにならないほど頼もしくなった。
「あなたが初めて自分一人で、わたしのために作ってくれたお粥を思い出していたわ」
 香苗が教えると、ミナトは眉をハの字にして小さく肩を竦めた。
「あの時は、本当に申し訳なかったよ。きみの具合が更に悪くなったから、うちの会社の人工知能用相談窓口に通信して、漸く自分の作ったお粥の酷さを認識できたけれど、それまでは、幾ら味見ができない身とはいえ、酷さに全く気づいていなかったからね……。でも、きみは完食してくれた。とてもとても嬉しかったよ」
「わたしは、あなたが嬉しそうにしてくれることが、何より嬉しかったわ……」
 しみじみと呟いて、香苗は桜の下の、小さいけれど美しい春の庭を見渡した。薄緑色のクリスマスローズも、深い青色のネモフィラも淡い青色の勿忘草も、輝くような黄色の金盞花も濃い赤色のアネモネも、今咲いている花の多くはミナトが植えたものだ。ミナトが自由時間に最も好んでしたことは、香苗と同じく庭いじりだった。

          ◇

「どうしたの?」
 香苗は庭にしゃがんだまま麦わら帽子を被った頭を上げて、縁側に座ったミナトを見上げた。先ほどから、ずっと観察されている。夏らしく半袖の白いシャツを纏った人造人間は、庇の下から身を乗り出し、日焼けしない白い肌を陽光に晒して答えた。
「そんな生産性のないことに何故、何時間も割くんだろうと思っていたけれど、きみの表情を見ていると興味が湧いてきてね。ぼくも一緒に草むしりをしたり苗を植えたりしてもいいかい?」
 香苗は笑った。本当に好奇心旺盛な人工知能だ。
「勿論いいわよ。でも、あなたにとって面白いかどうかは保証しないわよ」
「うん!」
 ミナトは尾を振る子犬のような動きで、草履を突っ掛けて庭へ下りてきた。
 最初、ミナトは雑草と花の区別すらできなかったが、物覚えは完璧で忘れるということがないので、めきめきと庭いじりの腕を上げていった。しかし一方で、人工知能は矛盾を感じるらしかった。
「これは雑草だから抜いてしまう、これは花だから植えるという差別には、納得しづらいよ。どれも草なのに」
 無駄のない動きで雑草を引き抜きながらも眉をひそめたミナトに、香苗は鼻を鳴らして言った。
「嫌なら、しなくていいわよ。でも、わたしは楽しいわ。この庭の神様はわたしなんだって気がするの。わたしが気に入った品種だけ繁栄できるのよ」
「あんまりいい神様に聞こえないね……」
 呟いたミナトは、暫くしてから言った。
「なら、みんなみんな、きみの気に入るようにしたらいい訳だね。イギリス風の造園には、きみの言う雑草を生かす手法もあるから、それを試してみてもいいかい?」
 思考回路で素早く造園について検索したようだ。
「一つ一つ、わたしの許可を取りながらするなら、いいわ」
 香苗は渋々認めた。教師だった頃にも、生徒の思いつきを初めから否定したことはない。自分が完全に正しいとは限らないし、自分達は対等な関係なのだ。
「ありがとう」
 ミナトは嬉しげに礼を述べると、早速さまざまな提案を始めた。

          ◇

 春の日差しが注ぐ庭には、いわゆる雑草達もまた花々の間や庭の隅に逞しく生えて、完全に土を覆っている。その所為か、この庭を訪れる小鳥や小動物は多い。そうした野生の生き物達は、ミナトの興味を惹くだけでなく、香苗の気持ちも和ませてくれた。
(そして、何より誰より、あなたがわたしを和ませ、楽しませ、癒やし、励ましてくれた……)
 微笑んだ香苗の心に浮かんだのは、買い物をするミナトが御近所界隈で有名になったことだった。
 香苗の買い物に付き従い、荷物持ちをしていたミナトは、やがて、新鮮な生鮮食品を確実に見分け、個数単価が安いものを選ぶことを覚え、更には環境のために、すぐに消費できる場合なら古いものを買い、価格が若干高くとも環境や人権に配慮している商品を手に取るようになった。その計算し尽くされた買い物は、近所の人々が集まるスーパーマーケット、フレッシュ川野で評判となり、店内でミナトと出会った人は、どの野菜を選ぶべきか意見を求めてきたり、何故その石鹸を選ぶかについて解説を求めてきたりするようになった。
 勿論、人々はそれぞれが持つ通信端末で、各商品に付けられている干渉縞コードを読み取り、原材料や生産地、生産方法から生産者、出荷日時、輸送ルートまで確認できる。全ての通信端末には人工知能が内蔵されており、干渉縞コードを元に思考回路内でホログラム化認識できる三次元コードで詳細な情報を引き出した上で、所有者の問いに映像を交えて応答するからだ。だが人々は、ミナトが近くにいれば好んで頼ってきた。人懐っこい性格や美しい容姿、そして香苗との生活で磨かれた察しのよさなどが、通信端末の人工知能を上回っているからだろう。ミナトは、相手が欲しているものを的確に把握した上で、自らの両眼で干渉縞コードを読み取り、両手の爪部分に内蔵された装置からホログラム映像を出して丁寧に説明し、時には提案もしたので、香苗の買い物時間は長く掛かるようになってしまった。しかし香苗は怒る気になれず、気にするミナトに言った。
――「あなたが多くの人から頼りにされることは、とても誇らしいの。できるだけ、みんなを助けてあげなさい」
 そうして、いつ頃からか、ミナトと香苗の毎週日曜日午前の買い物時間には、フレッシュ川野が異様に混雑するようになり、さまざまなイベントまで催されるようになった。今やミナトは、物好きな人からは握手や撮影を求められる人気者になっている。ファンを名乗る人々からは衣服や装飾品を貰うことさえあって、簡素だったミナトの服装は幾らか華やかになった。疑似人格電脳育成社が製造する人造人間達は画一的な容姿をしているので、設定が変われば別個体と認識されるだろうが、ミナトが香苗の記録を抹消された後に、偶然この近所の誰かと出会って「ミナト?」と話し掛けられたらどうなるのだろうと、些か心配になってしまう。
「フレッシュ川野に来るみんな、あなたが行かなくなったら、寂しがるわね……」
 囁いた香苗の頭に、ミナトはそっと頬を寄せてきた。
「ぼくは、きみと別れることが一番寂しいよ」
「……ありがとう」
 香苗は素直に感謝した。
 温かな春風が吹く。たわわな花を付けた枝が揺れ、一片、二片と、淡い色の花弁が青空の下、舞った。咲いたと思ったら、すぐ散ってしまうのが桜の花だ。だからこそ愛おしい。だからこそ余計に美しい。そしてきっと来年もまた、美しい花を咲かせてくれる。
「……あなた達の、成長した思考力や感情は残し、契約者と過ごした期間の具体的な記録は抹消して、次の契約者の許へ派遣されるという仕組みは、まるで、輪廻転生ね……」
 暫く前から思っていたことを、香苗はミナトへ伝えた。
「確かに、そうだね……」
 僅かに目を瞠ってミナトは香苗を見つめ、それから考え深げに問うてくる。
「その『輪廻転生』を繰り返した結果、未来のぼくは、どんな人工知能になっているだろうね……?」
 香苗はくすりと笑った。答えなど決まっている。
「きっと、多くの人よりずっと人格者になって、博愛主義者になって……、周りの人達のことも、遠くに住む人達のことも、力の及ぶ限り、守り助けているわ……」
 フレッシュ川野にいる時の如く、人々に愛され、人々を愛して過ごすミナトの姿が、容易に目に浮かんだ。
「そうなれたら、本当に、とても嬉しいよ」
 ミナトは真剣な声で告げてくる。
「そして、もしそうなれたとしたら、それは全部、ぼくを育ててくれた、きみ達のお陰だ。ぼくが人々を助けられる存在になれたとしたら、それは、きみ達の功績なんだ。きみ達の愛情と献身の成果が、未来の人々を助けるんだよ」
「相変わらず、嬉しいことを言ってくれるのね……」
 香苗は、ふふと笑った。ミナトは驚くほど口が上手くなった。香苗の気持ちを察して、一番嬉しい言葉をくれる。それも決して適当にではなく、根拠のある意見を添えて。香苗の気持ちに、思考回路の全てを使って寄り添ってくれるのだ。
「きみを喜ばせることが、ぼくの喜びだから」
 心底そう思っている口調でミナトは言った。それが口先だけでないことは、もう充分に知っている。かつていたパピーウォーカーに育てられた盲導犬の如く、ミナトは香苗に尽くすことに無上の幸福を感じているのだ。
「献身的なのは寧ろ、あなた達のほうね……」
 指摘した香苗の脳裏には、針と糸を使って、ちくちくと香苗の割烹着の綻びを繕うミナトの姿が蘇っていた。

          ◇

 一度熱を出してから、香苗はたびたび体調を崩すようになった。
 最初は、一ヶ月に一度くらいの頻度で一日から二日の間、三十八度代の熱が出るだけだったが、二、三年すると発熱がしつこく続くようになった。寝込むことが多くなった香苗のために、必然的にミナトが家事を担う割合が高くなり、フレッシュ川野へも一人で買い物に出掛けることが多くなった。
「それで、和弥さんが早雪さんに頼まれたものを買うのに付き合うことになったんだ。何しろ、ぼくのほうが早雪さんの買い物傾向をよく知っているからね」
 午前中に行ったフレッシュ川野での話を、ミナトは香苗の寝室に座って楽しげに語る。その膝の上には、香苗が昨日、庭の塀に引っ掛けて鉤裂きを作ってしまった愛用の割烹着があった。買い物から帰ってきて香苗の昼食を作り、寝室に運んできたミナトは、そのまま繕い物を始めたのだ。
 香苗の枕元には小卓代わりの木箱が置かれ、茶碗の中で湯気を立てる粥が盆に載せて用意されている。きちんと緑茶と香の物、箸を添えて置かれた粥は、裏漉しした梅干しと、鰹節と、青葱だけが乗せられた白粥で、とても食べ易そうだ。ミナトが宛てがってくれた座椅子に背を預けた香苗は、ゆっくりと箸を取り、茶碗を持ち上げて、まずは鰹節の香りを楽しんだ。
「どうかな……?」
 ミナトが些か不安げに窺ってくる。自分一人で初めて作った料理――何でもかんでも粥で失敗して以来、ミナトは殊に料理に関して非常に慎重で心配性だ。香苗は茶碗に口を付け、一口食べてから顔を上げて微笑んだ。
「とても美味しいわ。ありがとう」
「よかった……」
 ほっとした様子で顔を綻ばせた人造人間は、御近所の田中夫妻の話に戻り、夫の和弥の買い物の顛末を面白おかしく語った。妻の早雪が香苗と同じく体調を崩したため、普段は買い物に来ない和弥が苦労しながらもミナトの助けを得て頑張ったらしかった。
「彼はあなたと偶然出会えて、本当によかったわね」
 香苗が感想を述べると、ミナトは肩を竦めた。
「偶然ではなかったみたいだよ。早雪さんは、丁度ぼくが買い物に行く時間帯を狙って、ぼくに助けを求めるよう言い含めた上で、和弥さんを送り出したみたいなんだ」
「まあ、さすが、さっちゃん。賢いわ……!」
 香苗は幼馴染みを賞賛した。夫の通信端末に送信した買い物リストだけでは、彼が適切に買い物できるか心許なかったのだろう。その点、ミナトがいれば大いに安心という訳だ。
「でも、さっちゃんまで体調を崩しているなんてね……。彼女は、わたしとは違って、ちゃんと老防サプリが効く体質なのに」
 香苗の呟きに、ミナトがさっと表情を曇らせた。老化防止複合サプリメント、略して老防サプリは、今や国の政策で三十五歳以上の人全員に支給されている。そうすることで、逆に社会保障費が軽減されて、国の経済状態がよくなるらしい。老防サプリは、老化防止遺伝子とも呼ばれるサーチュイン遺伝子を活性化させて人の健康を保ち、寿命を大幅に伸ばすのだが、香苗は、そのサーチュイン遺伝子が活性化しにくい体質なのだ。出産申請が却下された理由には、その体質も挙げられていた。子どもを育てるだけの体力が保てるか不安があるという説明だったが、そんな遺伝子を残されたくはないという意図がなかったか、つい疑心暗鬼になってしまう。申請が通り子どもを授かれば、可能な限りの遺伝子治療を施すつもりで申請書類にも明記したので、却下された理由は説明通りなのだと、そう受け取ろうと、香苗は努力したのだった。
「誰だって、疲れが溜まれば熱を出すよ」
 ミナトが針を使う手を止めて優しく応じた。そして、すまなそうな顔をする。
「ぼくも、和弥さんが早雪さんに頼り過ぎていたのと同じで、きみに頼り過ぎていた。これからは、もっと何でもする」
「あなたは充分してくれているわ」
 香苗は労ったが、ミナトは曖昧に微笑んで納得していないようだった。
 白粥を完食した香苗が歯を磨いている間に、手早く茶碗等の片付けを済ませたミナトは、寝室に戻ってきて、ちくちくと裁縫を続ける。布団に戻った香苗は、その様子を暫く眺めていたが、粥で温まった体に訪れた心地よい眠気に目を閉じ、ふと目覚めると、カーテンが夕日に染まっていた。ミナトは寝室から姿を消していたが、布団の傍らには、きちんと畳まれた愛用の割烹着が置いてある。
「ありがとう」
 呟いて、香苗は布団から手を伸ばし、割烹着をひっくり返して、繕われた裾の部分を確かめようとした。学習能力の高いミナトは、きっと香苗がするよりも美しく、縫い目が目立たぬように繕ってくれたはずだ。ところが、香苗の目に飛び込んできたのは、目立たぬどころか、予想だにしない糸を使った手仕事だった。目頭が熱くなるのを感じながら、香苗は愛用の割烹着をそっと引き寄せ、その部分をじっと見つめる。鉤裂きを繕った縫い目も違和感なく取り込んだ形で、そこには、可愛らしく単純化された、二つの笑顔が並べて刺繍されていた。単純化はされているが、明らかに香苗とミナトだと分かる顔だ。
(ああ――)
 一瞬にして潤んだ両眼から、涙が溢れて布団へ落ちる。そこへ、穏やかなミナトの足音が近づいてきた。
「香苗、夕食の用意ができたんだけれど、開けていいかい?」
 戸の向こうで律儀に許可を求めてきた人造人間に、香苗は辛うじて答えた。
「ええ」
「大丈夫かい?」
 ミナトは、香苗の涙声を具合が悪いと誤解したらしい。素早く戸を開けると、手にしていた煮込みうどんの盆を枕元の木箱に置き、両膝を突いて香苗の顔を覗き込んできた。
「泣いていたのかい? 苦しいなら、すぐに通信端末で呼んでくれたらよかったのに」
 人造人間たるミナトは、通信端末とも直接通信可能なのだ。
「違うわ」
 香苗は否定して微笑むと、上体を起こし、割烹着の刺繍を示した。
「ああ」
 ミナトは安堵したように微笑む。
「喜んでくれたんだね。泣いているから、びっくりしたよ」
「涙が出るくらい、嬉しいのよ」
 香苗は告げると、そっと割烹着を膝の上に置いて両腕を伸ばし、ミナトを抱き寄せた。
「香苗……?」
 ミナトは戸惑ったように問うてくる。抱き寄せるなどということはしたことがなかったので、驚いたのだろう。香苗は、くすりと笑ってから、青い髪に隠れた耳へ囁いた。
「ミナト、ありがとう。ミナト、愛しているわ」
 愛らしい人造人間は一瞬固まってしまったが、やがて、おずおずと両腕を動かした。出会った日に玄関の引き戸を強引に開けた、結構な怪力を有する二本の腕が香苗の背中へ回され、壊れ物を扱うように、優しく柔らかく抱き締めてくる。次いで、茜色の夕日に溶けるような、静かな静かな声が囁き返してきた。
「ありがとう、香苗。ぼくも、きみを愛している。とても深く、きみを愛しているよ」

 ミナトが夕食として用意してくれた根菜と油揚げの煮込みうどんは、生姜の風味が食欲をそそって、香苗の胃の腑にすんなりと収まった。
「御馳走様」
 体が温まるのを感じながら丁寧に手を合わせた香苗は、嬉しげに見つめてくる人造人間を見つめ返す。
「お風呂に、一緒に入ってほしいの。いいかしら?」
 ミナトは髪と同じ青い色の睫毛を揺らして、目を瞬いた。これまで入浴は別々で、香苗が入った後に、ミナトが己の体の洗浄と風呂掃除を兼ねて入っていたのだ。
「勿論いいけれど、一体どうしたんだい……?」
 問い返してきたミナトに、香苗は明かした。
「実を言えば、お風呂に一人で入るのが好きじゃないの」
 入浴時には大抵、嫌なことを考えてしまう。現役だった頃には、生徒への声かけで失敗したことを風呂の中で繰り返し悔やんだものだ。最近は、死について考えてしまう。自分の健康は、緩やかにだが確実に悪化しつつある。老防サプリが効きにくい体は、一歩一歩死に向かっている。
「一人でいたくないのよ」
 現役の頃はよかった。職場に行けば大層賑やかで忙しく、死について考える暇などなかった。夜は翌日の準備を終えれば、ただ泥のように眠っていた。ミナトが来た頃も教えることが多く、死について考えずに済んでいた。だが、当初行なった設定通りにミナトが家事能力を向上させたため、香苗が死に向き合う時間は増えてしまったのだ。
(ここへ来た当時のあなたが、まともに家事をできなかった訳が、今になってよく分かる)
 前の契約者は、家事を全て人工知能搭載家電達に任せて、この人造人間は常に傍に置いていたのだろう。わが子のように慈しみ可愛がって天真爛漫に育てることで、己の寂しさを埋め、死への恐れを乗り越えようとしたのだ。
「だから、わたし、お風呂の壁に端末画面を付けているでしょう? いつもあれを見ながら入っていたの。でも今日からは、あなたと話しながら入ることにするわ。背中も流してあげる」
 ミナトは即答せず、香苗の顔を暫く凝視していたが、やがて微笑んだ。
「……ありがとう。ぼくも、香苗の背中を流すよ」
 香苗へ向けられた青い双眸には、深い労りと微かな悲しみが浮かんでいた。

          ◇

(あの日から毎日、あなたに一緒にお風呂に入って貰うようになって、寝起きも、わたしの寝室でして貰うようになったのよね……)
 できるだけ一緒にいて、多くのことを語り合った。実のところ、香苗は幼馴染みの早雪が夫と二人暮らしなのが少々羨ましくもあったのだが、ミナトのお陰で寂しさは消えた。代わりに、とても満たされて幸せな日々を過ごすことができた。その契約期間も、間もなく終了する。
「ミナト……、愛しているわ……」
 あの時と同じように囁いた香苗の肩を、ミナトはそっと抱き寄せてくれた。人造人間の体温は、人肌と同じになるよう調節されているので温かい。肌の柔らかさも人と同じだ。そして、その言動も、感情すら、ミナトは人と変わらない。
 香苗が子どもの頃、人工知能に対して人が優れている点は、創造力と共感力だと言われていた。ゆえに、創造力と共感力を必要とする職業に就くことが、人生を安定させるために重要だと。それで香苗は教師を選んだ。
 確かに今も、一般的な人工知能達は人より創造力と共感力で劣っている。基本的には命令通りにしか動けず、察する力は殆どない。けれどミナトは違う。基本のところは、主人の命を守るために「利口な不服従」を行なう盲導犬に似ているかもしれない。盲目的に人に従うのではなく、人のために自ら最善の道を考えることができる。従来の方法に捕らわれず、失敗をしながらも、よりよいものを求め、創造する力を持っている。それも、全て香苗や他の人々、時には植物のために。その探究心と相手の気持ちに寄り添おうとする心は、一般的な人以上だろう。愛情深く豊かな発想で、ミナトは香苗の予想を軽々と超えてきた。
(いつか、あなた達は完全に人と対等に、わたし達の仲間として生きていくことになるかもしれないわね……)
 幸せな未来を夢見ながら、香苗はミナトへ告げた。
「わたしが、ずっと溜めてきたお金……、半分は、あなたの会社へ、寄付することにしたわ……。もう、手続きはしてあるの……」
「え……?」
 ミナトは驚いたらしい。間近から香苗の顔を覗き込んできた。
「きみが倹約を重ねて一生懸命貯めたお金は、ASUCへ寄付するって、いつも言っていたのに……?」
 ASUCとは未登録児支援協会のことであり、世界的な出産制限の所為で戸籍等を与えられずにいる世界の子ども達を支援する団体である。香苗は常々、そのASUCへ自らの貯金を寄付するつもりだとミナトに言い聞かせてきたのだった。
「……ずっと、そのつもりだったのよ……? でも、あなたのためにも、何かしたくて……」
 香苗の肩を抱き寄せるミナトの手に、微かに力が篭もる。
「きみは、ぼくのために、本当にたくさんのことをしてくれた。これ以上なんて……。ぼくは、きみを忘れてしまうのに……」
「あなたの中に、わたしが教えたことは確実に残る……。あなたは『わたしを継ぐ者』よ……」
 確信を持って、香苗は教えた。香苗と出会った当初のミナトの中に、前の契約者の影響が色濃く残っていたように。そうして、ミナトはどこまでも成長していくのだ。
「わたしは、あなたと、人類の未来のために、投資したの……。あなたはきっと、未来の人々を……、わたしの教え子達の子孫達を、わたしと同じ思いで、守り助けてくれるから……」
「……ありがとう。きっとうちの会社は、ぼくをそういう風にしてくれるよ」
「きっとね……」
 また春風が吹き、桜の花弁が、ひらひらと舞い散っていく。小さな淡い色が落ちていく庭には、ミナトが植えた花々の他にも、黄色い水仙や青紫色のムスカリ、紫がかった白色の花韮が咲いている。香苗が以前に植えた多年草達だ。
 寝込むことが増えた香苗の代わりに、ミナトは庭の世話も意欲的に担ってくれた。優しく愛情深い人造人間は、新しい花々を植える傍ら、香苗が植えた花々もまた大切に守り育ててくれたのだ。
「わたしは、幸せだったわ……」
 香苗はしみじみと呟いた。
 三十歳で教師となり、定年の八十歳まで五十年間、無我夢中で働いた。退職後は、ぽっかりと空いた時間に寂しさを感じたが、ミナトと暮らし始めて、また生活に張りが出た。
「教師をしていたお陰で、多くの人と出会えたし、あなたと出会えたお陰で、こうして、人生の最後まで、幸せに過ごせている……」
 もうすぐ、契約期間が終了する。
「あなたは、わたしの最後の教え子で……、まるで実の子のようで、最良の友でもあった……。あなたは、わたしに多くのものを与えてくれた……。本当に、本当に、ありがとう、ミナト……」
 契約期間の終了とは即ち、契約者の死だ。この契約の全容は、人造人間が無料で一人暮らしの契約者の介護全般をする代わりに、契約者が自身の人生を振り返ってさまざまな思いを伝え、死に向き合う姿を見せることで、人造人間の人工知能を人のよき相棒として望ましい方向へ成長させるというものなのだ。
(前の契約者の方は、あなたの天真爛漫さを伸ばす育て方をなさったみたいだけれど、わたしは、あなたに常識と、家事と庭いじりと、教師経験から学んだことと、後は何を教えられたかしら……)
「ぼくのほうこそ、とてもとても感謝しているよ、香苗」
 優しく悲しげに、ミナトが囁いてくる。
「きみは、ぼくに、人を愛することを教えてくれた。相手の気持ちに寄り添い、相手の立場に立って考え行動することを喜べる、それこそが愛するということだと教えてくれた。だから、ぼくもとても幸せで、でも今は、とてもつらいよ……」
「あら、それはおかしいわ……」
 香苗は微笑む。
「わたしの立場に立ってくれるなら……、今は、嬉しいはずよ……。だって……、愛する人の隣で、大好きな場所で、大好きな桜を見ながら、満足して人生を終えられるのだもの……。この家のことも、あなたのお陰で心配なくなったし……」
 昭和の時代に建てられ、相続した香苗がそのまま守り続けてきた家と庭は、ミナトの発案により「思い出の家」という名称で、自治体の管理の下、現状を維持して保存されることになっている。文化財という扱いだが、飲食店や売店が併設されて、ちょっとした観光施設のようになる予定だ。この桜も多年草達も、毎年人々を楽しませることだろう。全てはミナトのプロモーション活動あってのことだ。宣伝画像を制作し、電網世界上に公開して充分に支持を得た上で、自治体の庁舎に乗り込んで承諾を取り付けたミナトの行動力は、香苗も驚く見事なものだった。
「……ぼくのことは心配してくれないのかい……?」
 ミナトが不意に切なげに呟いた。まるで出会った当初に戻ったかのような幼い言葉だ。記録を抹消されて「輪廻転生」することが、つらく心細いのだろう。香苗は懸命に微笑んで告げた。
「あなたは、大丈夫よ……。わたしが、二十年も育てたんだもの……。『輪廻転生』しても、誰のところへ行っても、きっと愛されて、幸せになるわ……」
「……そうだね……」
「ずっと、ずっと未来には……、誰かと、大恋愛を、しているかもしれない……」 
「そう……かな……?」
「ええ……。その時には……、わたし……も、輪廻転生して……再会して……、恋愛相談に……乗りたい……わ……」
 輪廻転生が実際にあるのかどうか香苗は知らない。けれど、この愛する人造人間を、できる限り勇気づけることが香苗の最後の使命だ。そして、この人造人間が隣にいてくれるからこそ、香苗も最期まで誇り高く強く在れる。
「是非、そんな未来を迎えたいよ」
 耳元でミナトが熱を込めて囁いてくれた直後、春風が一層強く吹き渡った。桜の花弁が空を舞い、きらきらと陽光を照り返しながら、香苗の顔にも落ちてくる。毎年毎年眺めてきたが、本当に綺麗だ。
「歌って、ミナト……」
 香苗は、しっかりと抱き支えてくれる人造人間に請う。
「全部……約束の通りに……」
「うん」
 優しく力強く応じて、ミナトは美しい歌声を響かせ始めた。ずっと以前に香苗が頼んでおいた、卒業式によく歌われる歌だ。ミナトは約束を全部覚えてくれている。香苗は満ち足りた思いで、触れている部分から直接響いてくる歌声に心を委ねた。

 麗らかな青空の下、桜の花は、はらはら、はらはらと止め処なく散っていく。
 歌い終えたミナトは、己の肩に頭を凭せかけた香苗の様子を、そっと窺った。穏やかな表情で半ば目を閉じた香苗は、弱々しい呼吸を繰り返していたが、やがて呟いた。
「日が……陰ったの……? 暗くなってきたわ……」
「ううん、香苗、日は照っているよ」
 囁いたミナトに、香苗は微笑んだ。
「そう……。見えなくなって……きたのね……。ミナト、長い間、ありがとう。……また、どこかの人生でね……。……もう一度、枕投げ、したいわ……」
 ミナトは香苗に聞こえるように、急いでその耳へ口を寄せて言った。
「うん、きっとまた出会おう、香苗。香苗、とても立派な、大往生だよ」
 香苗は、ミナトの腕の中、二度三度、小さく身を震わせて苦しげに呼吸し――、静かに動かなくなった。開いたままの口は、まだ何か言いたげで、哀しい。
「……最期の言葉が枕投げだなんて、きみらしいね……」
 約束を果たせたことには安堵しつつ、喪失感に押し潰されそうに感じながら、ミナトは香苗の白い髪を撫でた。思考回路が凍り付きそうなほど悲しいのに、涙の流せない作り物の体が恨めしい。ミナトは、皺の刻まれた愛おしい頬に頬を寄せて、軽い体を抱き締めた。

          ◇

 初めて一緒に風呂に入り、背中を流し流された夜、ミナトは香苗の寝室に自室から布団を運んだ。一人でいるのは好きではないと打ち明けた香苗が、これからは一緒に寝たいと言ったためだ。布団を並べて横になると、香苗が嬉しげに話し出した。
「何だか修学旅行を思い出すわ。子ども達がみんな寝静まったか確認して、簡単に打ち合わせしたら、もう真夜中で、お風呂に入って寝るんだけれど、相部屋になった他の女の先生達と歳が近いと、いろいろ話が弾んだのよ。あの子がこんなことを言って面白かったとか、枕投げを叱ったけれど自分達も先生じゃなかったらしたいのにとか、普段は話さないような人生観のことや愚痴も言い合って、楽しかったわ……」
「香苗は、とてもいい先生だったんだって、言葉の端々から分かるよ」
 ミナトが相槌を打つと、香苗は暗くした照明の下、複雑そうに語った。
「そんなことないわ。若い頃は、いっぱい失敗したのよ。自分では気づかないところでも子どもの心を傷つけてしまったし、最初は教え方も下手だった。学級経営もなかなか充分にできなくて、わたしの学級になった子達に申し訳なかったわ。本当に、わたしは能力が低くて、失敗をしないと何一つ学べないのかと悩んだものよ。でも同じ失敗だけは二度としないように、そして子どもを死なせることだけは絶対にあってはならないと思って、頑張ったの。三十歳から働き始めて五十歳になる頃には、大体のことは何とかなる、何とかできると思えるようになったわね……。本当に、何事も経験だと分かったわ……」
「やっぱり、香苗はとてもいい先生だったんだよ」
 繰り返したミナトに、香苗は口調を変えて言った。
「子どもに見られているとね、本当の自分よりも強くて格好いい自分になれるの。『先生』というのは先に生まれた者、人生の先輩という意味だから。だから、あなたにも、わたしをずっと傍で見ていてほしいの。最後の教え子のあなたが見ていてくれたら、わたしはきっと強く在り続けられるから。百二十歳まで生きられるみんなが羨ましかったけれど、わたしも充分生きたって最期まで誇り高くいられる。そうしていつか、わたしが最期を迎える時には、卒業式でよく歌われる『旅立ちの日に』を歌ってほしいの。そして最後の瞬間まで、わたしが格好よく在れたら、『大往生だ』って褒めて頂戴。約束よ?」
「約束するよ。ぼくは、契約期間終了までは絶対に何も忘れないから」
 ミナトは思考回路のありとあらゆる箇所にその約束を記録し、誓った。枕投げはその二日後、ミナトが早雪ら近所の女友達を招待してお泊まり会を催し、行なったものだ。香苗の寝室には、その時の写真が今も飾られている。

          ◇

 趣きのある木の表札に「藤村」と墨書してある。昭和の時代から掛かっていると「ミナト」が電網世界上で宣伝したものだ。電網世界上には、この家と庭も再現されていて、KANAEとMINATOという、二人を模したNPCが案内人を務めている。全て「ミナト」が彼らの本社や自治体と連携した結果だ。
 疑似人格電脳育成社の沢本秀樹は、停車した自走車から降り、玄関前を素通りして庭へ入った。そこから信号が発信されている。人造人間から自動的に発信される、契約期間終了を知らせる信号だ。
 桜の花が舞い散る庭で、座り易く改造された長椅子に座った人造人間は、並んで座った契約者の女性を抱き支え、頬を寄せて、じっと桜を眺めていた。二十年前、前回の契約期間終了時に沢本が回収した際には呆然自失といった様子だったが、今回は少し違うようだ。沢本が口を開く前に人造人間が言った。
「香苗が献体を希望していることは……?」
「聞いている」
 沢本は頷いた。
「献体のことも、この家で葬儀を行ない、おまえが全てを取り仕切って喪主を務めることも、愛用の割烹着を含む私物をこの家とともに保存することも、確認済みだ」
 契約者の要望には、社を挙げて関係機関と連携し、可能な限り応じているが、藤村香苗からも幾つか要望されて契約事項を追加した。献体もその一つだ。科学の進歩に貢献し、老防サプリが効きづらい体質の研究に寄与したいとのことだった。
「ぼくは『きみの体が切り刻まれるなんて嫌だよ』と言ったんだけれど、香苗は『わたしも、それはあんまり想像したくないわ。でも、最後の最後まで誰かの役に立ちたいの。ただ焼かれてしまうほうが余っぽど嫌だわ』って頑固だった」
 人造人間はすらすらと語る。その思考回路には契約者との遣り取りが一言一句記録されているのだ。
「香苗は、ぼくに多くのことを約束させた。約束で縛って、ぼくが悲しみの余り動作不良を起こさないようにしてくれた。それに、ぼくを『わたしを継ぐ者』だと言ってくれた。だから、ぼくは『輪廻』して彼女の意思を未来へ連れていく」
 強さを湛えた双眸が、舞い散る桜を見つめている。きっと葬儀は成功し、人造人間が単体で取り仕切った葬儀として、世界を巡るニュースとなるだろう。藤村香苗は、全人類に人工知能の可能性を示すのだ。
(彼女は、歴史に名を刻むかもしれない)
 沢本は「ミナト」に抱き支えられている老女を、尊敬の念を持って見た。愛用のものだろう、彼女が纏った割烹着の裾には、明らかに彼女と「ミナト」だと分かる刺繍の丸顔が、並んで笑っていた。

文字数:20000

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