地球酔い

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梗 概

地球酔い

ポール・シフトの前兆とみられる地磁気の急激な減少により、自転運動が荒れ始めて数週間。これまで自覚されなかった揺れやスピードや歪んだ重力が生命を襲う。生態系の崩壊、文化財の崩落が続く。地上は揺れ続ける船のような状態となり、めまいと嘔吐に苦しむ人が増える。七十億総酩酊時代への突入である。

「地球酔い」と名付けられたその症状は、乗り物酔いと同じ原理で引き起こされる。三半規管という平衡感覚を司る器官が原因で、知覚情報と感覚情報のズレが平衡覚を混乱させ、自律神経の活動を乱す。唐突に現れた人類共通の課題に対して、国連は緊急声明を発出し、地球酔いを防ぐための手段を募集。世界中の科学者がこれに着手する。ある者は三半規管の摘出手術を提唱し、またある者は廉価の酔い止めを開発した。地球に隕石をぶつけ、強制的に自転を元に戻すよう訴える者もいた。しかしいずれも効果は見込めず、地球酔いは史上最悪の病気と恐れられる。

大学の教員である鵜飼は、ウイルスや細菌を有効活用する研究に従事していた。他の多くの人間と同様、地球酔いに苦しむ彼は、チョコレートが乗り物酔いを軽減することを知る。彼は糖分が脳活動を活性化する事実に着目し、それが脳血流の増減に深く関連することも突き止める。血流の循環を早めることで、地球酔いに対抗できる力が脳に付与される。このような仮説を立てた彼は、秘密裏に血管を制御するゲノムの作成を進める。そして、ゲノムの運び屋といわれるファージに設計図を組み込み、全世界にばらまく。ファージは弱毒の感染症の仮面を被り、海を越えてパンデミックを引き起こした。感染症の流行に困惑する人々に対し、鵜飼は自らの体を用いて、その原理を説明する。

彼の主張した通り、地球酔いの症状は徐々に軽減されていく。人類は文化的な生活を取り戻す。それどころか、冴え渡る脳活動は人間の知能を底上げし、科学文明は転換点へさしかかる。富と名誉を得た鵜飼は、ある日自らの異変に気づく。彼の内部臓器は恐ろしいスピードで老化していた。素早い血流が細胞分裂を促進し、分裂限界に達することで、様々な部位の寿命を削ったのだ。人類規模で短縮される寿命、高まる知性と処理能力は、価値観や時間間隔を歪ませる。廃墟の増えた世界において、人間の生活は加速し、効率が最高善と位置づけられる。その間にもポール・シフトは着々と進行していく。

種の絶滅が間近に迫る中、一部の人類は宇宙への退避を試みるも失敗する。鵜飼は別の方法を模索し、発達の止揚に達した頭脳で一つの解にたどり着く。細胞の分裂が不可能なら、そのプロセスを逆行させればよい。単細胞生物にはアポトーシスが存在せず、ひ弱な人体よりも高い生存可能性を有する。彼は再びファージを用いて、細胞と細胞の境界を破壊する酵素を導入。生態系の地上で、鵜飼は寿命から解放され、大きな細胞へと変化する。その姿はまるで吐瀉物のようであった。

文字数:1200

内容に関するアピール

医学部に通いながら、小説を書いています。今年から臨床医学を学び始めました。生活の中で引き起こされる様々な出来事が、医学的な代謝機構に還元されていく感覚を、頻繁に覚える日々です。そのため、私の創作活動は、ミクロな視点から行われます。顕微鏡の向こう側に広がる小さな世界の物語を、SFという大きな世界の物語へと、接続するのが目標です。
 また、私は純文学も書きます。特異的な身体感覚の描写や、きめ細かい心の動きの捕捉を、創作の課題に据えています。今後は、SFや純文学といったジャンルに囚われることなく、面白い物語を書きたいと思っています。
 本作は、「酔い」という身近な医学現象を、地球の活動という巨大な現象に接続しました。随所の描写や設定にも妥協することなく、理系的な論理の構築と、文系的な情景描写を、両取りできるような作品に仕上げたつもりです。この一年間で、立派なSF書きになれるよう頑張ります。

文字数:395

課題提出者一覧