惑星トルクワァン

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梗 概

惑星トルクワァン

子育てもひと段落し人生に何か煮え切らないものを抱えた中年女性・中野恭子は、SNSのスピリチュアルな投稿に惹かれて、港区とは名ばかりの築五十年はくだらないビル、薄汚れた地下に向かう。

“トルクワァンの記憶たちは自らの意味を求めて、時間と空間を駆けめぐります。記憶に触れると、空間が立ち上がり、時間が動き出し、「世界」が生まれます。記憶の「世界」は、目の前にある現実「世界」に疲れ果てているあなたをきっと救い出してくれることでしょう。”

【惑星トルクワァン】、それは過去現在未来にわたる人々の記憶の集合体であり、ここではその記憶に触れる神秘的な体験ができるらしい。

受付の美しい青年に導かれた暗闇の奥で、リクライニングチェアに横になり、満点の星、魅惑的な香りと音に包まれた空間の中、心地よい昂まりを感じた恭子は、ついにトルクワァンの記憶に触れる。
しかし機器のトラブルで体験は中断されてしまう。蛍光灯の白々しい光に照らし出されたそこは、単なる小汚いビルの一室に過ぎず、騙されて悦に入っていた自分の情けなさに耐えられなくなった恭子はその場で泣き出してしまう。受付の青年が慌てて慰めにくるも、明るいところで見ると思ったほど美しくなく、ますます哀しくなるだけだった。

そんな彼女に、同じ回で体験に参加していた佐伯愛実が声をかける。愛実は、数多くのスピリチュアル系セッションに参加しており、【惑星トルクワァン】は機器のトラブルさえなければ、高価なだけあって「かなりよくできていた」と話す。恭子は愛実の話に戸惑いながらも、愛実が自分を励まそうとしてくれているのだと思い「いい社会勉強になった」と返す。しかしその後も愛実は恭子に、記憶に触れられたか、と【惑星トルクワァン】を信じているかのような質問を続ける。恭子は、触れた記憶の内容を話すものの、愛実があまりにも素直に羨ましがるので、怖くなって早々に立ち去る。

帰宅後、恭子は【惑星トルクワァン】からメールを受け取る。
これから約三十年後、ひと塊りの体験記憶を採取する技術が確立するらしい。安価で簡単なコレクター(採取器)が普及しはじめると、人々は写真や動画のように、記憶を保存するようになる。さらに長い時が経ち、地球での生活に見切りをつけたある人物が、人々の膨大な記憶とデジタル化した自分の脳を積み込んだ人工衛星を打ち上げる。この衛星が【惑星トルクワァン】だというのだった。
「未来からなんの役にも立たない記憶が送られてきても、誰にも見向きしてもらえなかった」から、過剰な演出をしてしまったことを詫びると同時に、触れた記憶は本物であること、そして【惑星トルクワァン】は、もう人間がいるかどうかも分からない地球の周りを今も回り続けていることが綴られていた。

最後まで読み終わらぬうちに、恭子はメールを捨てた。

文字数:1162

内容に関するアピール

これまでは現代日本を舞台に日常を切り取るような小説しか書いたことがありません。同じような設定の中にSF的要素を入れてみてまず初めに感じたのは、登場人物たちからの怪しいものを見る目つきでした。本来はそういった小説内外からの違和感を払拭するために世界を構築していくことがSF小説を書くことだと思うのですが、今回は自己紹介ということなのでこの視線をそのまま使って「現実世界でオカルトにされてしまうSF的設定」を書いてみました。

記憶は、記録とは違い、時代や場面、当事者や受け手の気持ちに合わせて形を変えながら更新保存されることこそが本質のような気がします。もし惑星トルクワァンがあれば、きっと記憶を更新する場を求めると思うのです。それは私自身が小説を書くだけでは満足できずに、この講座へ参加した理由とも似ています。長く孤独な時間を過ごしてきた記憶たちをめぐる、おかしみと哀しみを描ければと思っています。

文字数:397

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惑星トルクワァン

青色が、違うように思われて恭子は首をかしげた。

鏡の中には、ワンピースを前へあてる自分の姿がある。義母からもらったものの中で唯一正直に気に入った、青色のレース生地。それを生地屋の仕立てコーナーへ持ち込んで、裏地は店にあるものの中から選んだ。夏に一枚で着られる半袖のワンピース。五十をこえて緩やかなくびれを保った恭子の体にぴたりと添い、ちょうど膝頭を隠して途切れる。このワンピースを身につけると心が躍る。細い胴囲に体をねじって挿し入れ、小さな袖口から、白鳥が羽を広げるように腕を出す。バックファスナーをあげる時にあらわになるうなじが熱を帯びているのがわかる。肩まで下ろした髪は耳にかけ、パールのピアスをつけ、合わせて買った白いパンプスとハンドバッグをまとう。

つまり、お気に入りの一着なのだ。このワンピースとそれを取り巻くものことについて恭子はすみずみまで記憶している。なのに今、目の前にある姿は違うもののように思われた。

こんな青色だったかしら。もっとこう、嘘つきみたいな色だったと思うんだけど。

クローゼットの白熱灯を見上げてから、自然光でも明るい玄関へ降り、下駄箱の姿見を前にしてみるが、やはり別の服のように見えた。

記憶違いかしら。でもこの服に限って、そんなことあるかしら?

ふと玄関脇の窓が目の端にチラついて、見ると、みかんが一つあった。特に大きくも小さくもない、普通の温州みかん。吹き抜けの高い天窓から飛ぶ槍のように真っ直ぐ差し込む夏の光は、穏やかな温州みかんには不似合いだった。

ハウスみかんかしら・・・

最近みかんを買った覚えも、もらった覚えもなかったが、みかんの橙はワンピースの青と対をなして美しく、恭子はその出どころについての考察を忘れしばし見惚れた。みかんのつややかさはもはや気高いといって良かった。適度な水分を思わせる張りに、甘さが口に広がる色、突起は出過ぎないけれどみかんらしい存在感を示している。

本来は緑色の皮に降り注ぐのであろう夏の光が、冬の凛とした寒さをまとった橙の上で時間を融解させていく。

小さな手が伸びてみかんを掴み取ると、それを大きな手の元へ持っていった。
「食べたいの?」
女の子が媚びるように頷くと、男が満足げにみかんを受け取り、傷一つない美しい皮に躊躇なく不恰好な親指を捻じ込む。薄い皮が乱暴に剥がされていき、出てきたみかんはまだ薄皮だらけだ。
「はい、どうぞ」
女の子にそのまま差し出されたみかんを見て、頭に血が上っていくのがわかる。

薄皮はちゃんと剥いてあげて、って何回言ってると思ってんの!

でも今日は日曜日。千葉まで家族三人で牧場に来ている。娘が半年間、ねだり続け夫がようやく重い腰をあげてレンタカーを借りて来ることができたレジャーだ。だから叫び出したい気持ちを恭子は押さえている。でもどうしてそんな楽しい日に、私が我慢しないといけないの? あの人がちゃんと薄皮を剥けばいいんじゃないの? 悪いのは私なの? 違うでしょ、私の話も娘の行きたいところも食べられないものにも全く関心がないくせに、気まぐれに「娘のおねだりに応えてあげる父親」になることで薄っぺらい承認欲を満たしてるこの人が悪いんじゃない!

今まさにそう叫び出さんとした恭子の目の前を漆黒の球体が右から左へ、惑星の軌道を描くようしてに通りすぎていく。突然のことに体が硬直すると同時に、ぎゃーん! という娘の鳴き声で我に返る。夫の手の中にあったみかんがなくなり、手のひらはぬらぬらと白い液体で濡れていた。顔をあげると、隣で柵から首を伸ばした白い馬が前歯を剥き出してまさにみかんを噛みしだくところだった。馬の口から吹き出したみかんの飛沫を三人で浴び、娘はさらに大きな声で泣き叫んだ。

ハウスなんかじゃない、あのときのみかんだわ。

あの日、娘はお気に入りのマフラーをつけていた。白いマフラーだったからみかんの汁の色が落ちなかったのだ。

どうりでこんなに美味しそうなのね。ハウスじゃあ、こうはいかないもの。

彼女がみかんに手を触れようとしたとき、結婚以来三十年休みなく時を刻み続ける鳩時計が鳴いた。
「あら、大変。遅れちゃうわ」
そういうと恭子は素早い動きでハンガーからワンピースを剥ぎ取り、身につけていく。それは熟達した無駄のない作業であった。脱いだ服がたたきにずり落ちていくのも気にせずに、彼女は作業を続ける。

全てを身につけて鏡の前に立つ。やはり記憶の中のイメージとは何か違う気がする。けれど、これはこれでいいような気がするし、毎年出すたびにそう感じるような気もした。光の加減はもちろん、自分が年を経て変わっていることもあるだろうし、知らないうちに流行に影響されているのかもしれない。彼女はそう考えて鏡に向かって頷くと、ワンピースの記憶は更新された。
「先ほどまでのこだわりをあっさり捨てて目の前のものを取ることができるのがうちの妻の美点だ」
恭子の夫は、酒が入るといつもそういった。
「遠くのことや、見えないもの、よく分からないものにこだわる人はよくないよ。目の前に確実にあるものを迷わず取れる人、共に生きるならそういう人を選びなさい。それが一生幸せに暮らす秘訣だよ」
彼はいつも、若者たちにそういって聞かせるのだった。

 そんな幸せな家を出て、いくつかの電車を乗り継ぎ、恭子は山手線の内側にある閑静な住宅街の中を歩いている。

片側二車線の車道の両側に銀杏並木の続くメイン通りには、大きめのおにぎりくらいの犬やちょっとした軽自動車くらいの犬たちがはつらつと歩き、ジョギングする人びとの靴は皆たまたま今日合わせておろしたかのように白い。人や犬、路面店のテラス席で談笑する人々とすれ違うたび、恭子の脈は速くなり、顔の筋肉が硬直してゆく。

大通りから一本入ると、大きな個人邸や、古さはあるものの管理のゆき届いた低層マンション(メゾンと読むのかしら・・・)、こだわりの設計がなされた小さなビルなどが続く。その中でひときわ一般的な、そのせいで周囲から浮いている薄汚れた煉瓦風タイル張りの建物がスマートフォンの地図の赤印と重なっているのを確認すると、恭子は我慢できずに口を開いた。無意識に深呼吸をしようとしたのだが、硬くなった上半身が邪魔して深く呼吸することができない。口を開けているのに鼻で呼吸をしながらビルへ近づいていく。

通りからそのまま地下へ続いている薄暗い階段の脇に、郵便受けがあった。アルミでできた均等な八つの四角い箱が2×4で壁に並んでいる。それは昔、彼女がまだ「新婚さん」と言われていた頃に暮らしていたマンションを思い起こさせた。

そっくりだわ。

実際、この郵便受けは彼女の暮らしていたマンションのものと同じメーカー、同じ規格の商品だった。けれど設置された場所、使用してきた人々、環境、年数を異にして今ここにある郵便受けは、彼女がかつて暮らしたマンションの郵便受けと全く同じものであると同時に全く別物でもある。そんな郵便受けを前にして恭子は遠い記憶に思いをはせる。

新居に引っ越して一番に頭を悩ませたのは、郵便受けにどんな表札をつけるか、ということだった。玄関扉脇につける表札は、夫の上司が結婚祝いとして、黒曜石に鈍い金を名の彫りに流し込んだものをくれた。明るい日の光を反射する白く華やかな大理石が届くとばかり思っていた彼女は、開いた包みからブラックホールのような黒の濃淡が不穏に渦巻く石が現れて愕然とした。こんな陰気なものを家の入り口に飾らなければない侮辱に耐えきれず、夫が寝息をたてる横で声を押し殺し、三つの夜を泣いて過ごした。そして四日目の朝、突然、この郵便受けに重要な意味付けがなされた。

本当の表札はこれだったんだわ。

アルミの郵便受けの側面、まだ空っぽの名札入れに触れて若き恭子は思った。

だって、我が家の場所を確認するためにお客様が初めて目にするのはこれなんだもの。

図書館の手芸コーナーに通い詰める一週間の構想期間と、常連客になるのに十分な手芸店通いと夜更かしの一週間を経て、彼女は完璧な表札を作り上げた。白いレースと、パステルカラーのチェコビーズで彩った小さなパッチワークに、壁の煉瓦の色と馴染む茶色の糸で刺繍をした、小さな幸せのしるし。訪問者は、階段の手すりに手をかけて壁に並ぶ郵便受けを目で追う。そしてその一つに目を留めて、小さく微笑むのだ。ああ、あの幸せ者たちのおうちは302号室というわけか。階段を上り、扉の前に立っても、もうあのおどろおどろしい色の石を確認する必要などない。人々はあの郵便受けを見たときから、この扉の先にどんなに幸福な景色があるか十分に分かっているのだから。

今思えば、あんな安っぽいマンションに黒曜石、ましてや大理石の表札なんて、場違いにもほどがある。でもあのときの私にとっては世界を揺るがす一大事だったのよね、と恭子は小さく笑って、今、目の前にある八つの郵便受けの表札を指でたどる。手書きの紙切れ、テプラで作った小さなシール、名刺に部屋番号をマジックで書き加えたもの。どれも片手間に作ったものばかりだった。そして、ちょうど彼女が躍起になったのと同じ、左端の郵便受けの上で指を止めた。

〈惑星トルクワァン〉

 黒い紙に金色で書かれたその表札に、恭子は再び身を固くした。よく見れば、黒と見えたものは、宇宙の写真らしく、星や銀河と思われる白い点がいくつも浮かんでいる。あの石の表札の闇色が思い出された。彼女は胸を押さえて、下り階段の先にある暗がりを見下ろした。

「緊張しているだけよ。大丈夫。心配ないわ」

 不安がる娘にいつも決まってかけてきた言葉を自分にも言い聞かせて、足を一歩前に進めた。

 外壁と同じ煉瓦張りの地下の廊下は薄暗かった。均等な間隔で意匠の異なる小さな吊り照明が黄色く弱い光を放っている。廊下の先は白熱灯の光が重なり合って靄がかかり、歩いていると異世界へ誘われるようだったが、ふと床に目を落とすと、黒いガムがこびり付き、もう何十年もそこにあり続けているような靴下が片方落ちていて、彼女は目を背け、前だけを見て歩いた。

 入り口はすぐに分かった。SNSにあった古い地球儀が、スタンドライトに照らされていた。

〈これは地球儀ということも出来ますが、正確には地球儀ではありません。これはトルクワァンのメモリーです。〉

 屈んで見ると、確かに陸の形が見慣れた地球儀とは違っていた。海を表す青い面が広く、その上にはトルクワァン文字と思われる優美な曲線がそこかしこに舞っている。海には大きな宇宙船が浮かび、そして。ああ、と彼女は吐息を漏らした。白馬のようにたなびく鬣と、凛としたライオンのような尾。締まった四肢はエルメスのように逞しく、頭に真っ直ぐ延びた一本の角はなんびとも寄せ付けない気高さをまとう。ユニコーン。球の隅で半身をのぞかせるこの美しい生き物の全てを見たいと彼女がトルクワァンのメモリーに手をかけるとと同時に、ギギギ、と大きな音が静かな廊下に響いて、彼女は驚きのあまり、尻餅をついた。音はメモリーからではなく、扉からしていた。彼女が見つめる側で、扉は音をたてながらゆっくりと開いていった。そして、十センチほどの隙間が出来たところでそれは止まり、奥から声が聞こえた。

「ようこそ、惑星トルクワァンへ」

 部屋へ踏み入れた彼女を、タキシード姿の若い男が迎え入れた。暗闇の中、一つだけ灯る受付の赤いランプに照らされたその男の精悍な美しさを、メモリーの上を舞っていたユニコーンに重ね、彼女はうっとりした。

「驚かせてしまって申し訳ありません」

 男は上品な微笑みを浮かべて言った。

「いいえ、私が悪いんです。地球儀・・・メモリーに触れようとしたから」

「触っていただいて構わないんですよ。あれはあなたの魂でもあるのですから」

 男は彼女の名前を尋ねながら、手元のマウスをカチカチと動かした。それから右手に銀色のリボンを持って左手を差し出す。なんのことか分からずに立ちすくむ恭子を見かねたように男は受付を出て、彼女の前に立つと、その右手を無邪気な慣れ慣れしさで持ち上げた。少々乱暴に思えるほどの手つきで手首に銀のリボンを結ばれながら、彼女はここが暗くて本当に良かったと思った。

「ごめんなさい、私・・・」

 恭子が見上げると、男も恭子を見ていた。百八十センチはあるだろう。彼女は昔から長身の男が好きだった。

「やっぱり、ユニコーンは背が高いのね」

 彼女が言うと男はそれには答えず、リボンを結び終えた彼女の手首を軽く手にしたままいった。

「先に、いただいてもよろしいですか?」

 なんのことか分からず、男を見つめていると、男は眉を少ししかめて

「お代の方を」

 と続けた。あっ、と小さく声をあげて恭子は慌てて鞄に手を差し入れた。

 支払いにスマートでない人々のことを、恭子は日頃からとても軽蔑している。あれは安いだの、高いだの、お酒の席で声高に論じ合う男たちや、ランチで行くカフェやビストロで、誰が払うかで伝票の奪い合いをしている女たちを見ると虫唾が走る。自分が買うと決めたもの、払うと決めたものは、文句を言わず何気なくスマートに支払うべきだ。お金は愛と同じ。そこかしこにあふれているけれど、そんな簡単に話題にしたり、ひけらかしたり、値踏みしたり、奪い合ったりするものじゃない。しとやかに、秘密裏に、本当に欲しいものに、惜しみなく注ぐものだ。恭子はそう信じている。だから男に、ユニコーンのように美しい男に、「お代を」なんて下品な言葉を使わせてしまった自分が恥ずかしくてたまらなかった。事前に金額を包んできた封筒を急いで差し出すと、男は恭子の手を離してわざとらしいほど恭しくそれを受け取った。

「確かにいただきました」

 男のなんのてらいもない先ほどと変わらない笑みに、恭子はほっと胸をなで下ろした。

「だいたいみなさんお揃いになっていますから、そろそろ始まると思います」

 男の指示に従い、恭子は靴を脱ぎ、鞄や上着を預けて身軽になった。

「では参りましょう。我々の故郷、惑星トルクワァンへ」

 何も見えない真っ暗な廊下を、男の手引きだけを頼りに進むのは奇妙な安心感があった。ストッキングの足裏に触れる赤いラグのふかふかが全身で感じられる。感覚が研ぎ澄まされているようだった。

「もうトルクワァンにかえっていくみたいよ」

「それは素晴らしい。記憶の神髄へ、触れることができるかもしれませんね」

 少し広い空間に出たような感覚がして、男が立ち止まり、小さな声で「こちらにお座りください」といって、恭子の手をいすの肘掛けに導いた。手探りで、座面にだいたいの目星をつけて腰掛けたが、背もたれがあらかじめ深く倒されていて、何気なく体を預けようとした恭子はすとんと倒れて小さく声をあげた。しかしもう男は去ってしまっていたようで、その声に反応する者はいなかった。声の余韻を持て余しながら、体を小さく揺すって革張りの深く沈む椅子に納めてしまうと、静けさの中で目を瞑ったり、開けたりを繰り返した。景色はほとんど変わらなかった。

 闇。私の大嫌いな、闇。それは私の外側にあるものだと思っていたけど、実は私の中にもあるものだったのね。こんなに安心する闇もあるなんて知らなかったわ。やっぱり故郷の闇だからかしら・・・?

〈あなたは今、どこにいますか?〉

〈あなたは今、いつにいますか?〉

〈あなたは今、だれにいますか?〉

 しずかな声が聞こえる。魂に直接響いてくるような、不思議な声。

〈惑星トルクワァンは、途方もない昔に死に絶え、途方もない未来に生まれます。今は存在しない、ともいえますし、今この場こそがトルクワァンだともいえます。〉

 難しくて意味はよく分からないけど、とても神秘的な感じがして、それはきっとトルクワァンのことだ、ということだけは分かる。

〈惑星トルクワァン。その記憶は、様々な時代の様々な場所で生きてきました。地球の過去を例にすれば、アレキサンダー王、レオナルドダ・ヴィンチ、ナポレオン、ベートーヴェン、アインシュタイン、それに赤シャツ隊のガリヴァルディもトルクワァンの記憶にあります〉

 過去の偉い人もみんなトルクワァンに記憶を眠らせている。

〈トルクワァンの記憶はなんなのか。今日はその謎を解き明かしにいきましょう。〉

 彼女は頷く。けれど、もうその身体は動かない。彼女の意識が頷いている。

〈はるか五百光年前、私たちはコレクターを手にしました。コレクターは記憶を閉じ込めることができました。それまでは、記憶は忘れしまうもの、無くしてしまうもの、色褪せてしまうものでしたが、コレクターの登場によって記憶は閉じ込められた瞬間から動かない、そうhomevideoのようなものになりました。トルクワァンにはたくさんの記憶がありました。歴史的に記念すべき日の記憶、名もなき人の日常の記憶、少年が覚えた円周率に殺人の記憶。トルクワァンの人々はどんな記憶も分け隔てなく大切にし、定期的に取り出しては触れて、その記憶を生かし続けていました。どんな記憶も、それひとつだけでは意味をなしません。記憶は誰かに思い出されたり、触れてもらうことで初めて存在できるのです。そして人の中にあるいくつもの記憶が結びつくと、空間が立ち上がり、時間が動き出し、「世界」が生まれます。「世界」には意味があります。〉

 頭では全然意味が分からないけれど、何故か染み込んでくる。体が知っていることなのだ。

〈この辺りの詳しい話を知りたい方はソウルメディテーションをお受けください〉

 受けてみようかしら・・・体が感じる気がするわ。

〈とにかく、トルクワァンの人々はそんな「世界」を大切にしていました。しかしそんなトルクワァンの平和な日々も終わりを迎えます。豊かなトルクワァンは飢えてゆく世界の格好の餌食になりました。飢えた人々に、膨大な数の記憶の価値など分かるはずもありません。トルクワァンの人々は宇宙船に全ての記憶とその管理者であるユニコーンをのせたのです。ほら、ゆっくり目を開けてみてください。〉

 遠い昔の弦楽器のような、魂を揺さぶる、そう、泡から生まれたヴィーナスが奏でた音楽に誘われて、ゆっくりと目を開くと、恭子は無限の宇宙の中にいた。頭上には満点の星。ううん、違うわ。頭上だけじゃない、横にも足下にも、すぐそこにも。私は星々の中にいる。宇宙の中に漂っている。惑星トルクワァン。今そこからたくさんの記憶のせた宇宙船が旅立とうとしている。

〈宇宙船は時間と空間を旅しながら、さらにたくさんの記憶を集めてきました。 今日は皆さんにトルクワァンの記憶に触れていただきます。記憶の「世界」が持っている意味は、今、目の前にある現実「世界」の意味に疲れ果てているあなたを、きっと救い出してくれることでしょう。〉

 私の記憶、あなたの記憶、あの人の記憶。今の記憶、過去の記憶、未来の記憶。それらが繋がると嬉しくて、まったく関係ないと、なんとか繋がりのある部分を探して、最悪ねつ造して、それが私の生きている「世界」だと言い聞かせて生きてきた。

〈あなたが今から手にする記憶はトルクワァンの記憶です。トルクワァンの記憶は真っ暗闇の宇宙に浮かぶ星たちのよう。無限に広がる時間と空間の中で、なんの意味も持たずにただ浮遊し、死に絶える日をただ静かに待っていた記憶たちです〉

 惑星トルクワァンの記憶。静かな暗闇でただ一人、何光年というときを過ごしてきた記憶。もう大丈夫。私が思い出すから。もう寂しくなんかないのよ。

〈さあ、ゆっくりと潜りましょう。惑星トルクワァンの記憶へ〉

 不思議な香りがどこからともなく漂ってくる。彼女は安らぎと眠気の境目を見失う。瞼が重くなり、ゆっくりと目を閉じる。星々の姿が消えて、世界が闇に包まれてしまってももう、怖くなかった。なぜなら彼女は、宇宙の中にいるのだから・・・。

 とても心地がよかった。静かだけれど確かな興奮を感じる。マジックアワーの空に細い月。そしてその隣に明るい星が輝き、眼下には街のオレンジ色の光が散らばっている。青。地球のように青い色。ピンク色の服を着た女がこちらをみて微笑んでいる。胸が締め付けられる。小さな人形? 虫? 肉感のある塊がむずむずと動き、けれどそれに不快感はない。引き込まれていく。そしてまた心地よさが広がっていく。ピンク色の服を今度は下半身にだけ身につけた女がいる。乳房を出したままカーテンの向こうにいる。

 明るい光に、恭子は目を覚ました。蛍光灯の光に煌々と照らし出された景色は、気怠い身体の心地よさと不釣り合いだった。灰色が光る、ドーム状の天井が広がっている。重い上半身を起こして辺りを見渡すと、円形に十ほど並べられたリクライニングチェアの上で、恭子と同じように目をしばたかせながら身を起こす人々が見えた。恭子と同じ年頃と見える中年の女や、少し若い女、それからとても成人しているようには見えない、ふんだんにフリルのついたスカートを椅子に盛り上がらせ頭にもフリルをのせている若い女もいた。並んだ椅子の中央に無造作に置かれた球形のプラネタリウムからはカラフルな色のコードが無数に延びて、それらは黄土色のガムテープで床に張り付けられていた。さらに背もたれの横から顔を覗かせて後ろを見ると、入り口とおぼしき場所に天井からおろされた暗幕が、裾の長さを左右ちぐはぐにして、だらしなく床にだぶついていた。

「どうしたんですかね?」

 隣の三十代半ばくらいの女が、恭子に向かって言った。

「さあ・・・」

「ありえへんわ、せっかくいい感じになりかけてたのに台無しや。お金、返してもらおかな。ここ、結構高いですもんね」

 恭子は返事ができなかった。

「てか、まだ誰も出てけえへん。気づいてへんのかな。ちょっと! 誰かいませんか! 電気ついてるんですけど」

 女の大声で、まだ眠っていた数人も皆起き出した。

「こういうの、初めてですか?」

 誰もやってくる気配のない暗幕の先を見つめたまま、女は腕を組んで言った。恭子は「こういうの」の指しているものが分からなかった。

「私は結構好きで、ヒプノセラピーとか、アデプトとか、あとリーディング講座も行ったな。色々渡り歩いてるんですよ。でも、こんなこと初めてですよ。こういうの、初めてなんですか?」

 再びの質問に、恭子は未だよく分からぬまま、小さく頷いた。

「それは不運でしたね。でも、こんなこと普通ないですから、そんな気落ちすることないですよ。普通はもっとトリップ感に浸って帰れますから」

 女はそういうと、ついに立ち上がって暗幕へ手をかけて、奥に向かって叫んだ。

「ちょっとー、電気ついてますけど。もう一回初めからやり直してもらえません?」

 部屋の壁際には手首に巻いた銀色のリボンが大量に入った段ボールや、何に使うのか黄色のビールケース、スーパーの買い物かごに入ったたくさんの紙が雑然と置かれていた。その隣にはピンク色のペンキで塗られた木の箱に「もも」と書かれている。暗幕を持ち上げて叫び続けている女は不細工な形の足を短いスカートから出していて、その後ろ姿が急に無様に見えて耐えられなくなり恭子は目を逸らした。椅子に座るほかの女たちも同じように、洋服からはみ出した足をだらしなくブラつかせている。自分の足元に目をやると、そこにも、ストッキングに包まれた足が二本あった。指先だけ切り替えになっていて、縫い目の端がひょこりと飛び出している。娘が「おばんくさい」といったストッキング。

「今は、爪の先まで切り替えがないストッキングがあるのよ。こういうパンプスを履くときはあのストッキングを履かなきゃ」

 娘のいうことは本当だった。今、目の前にある古めかしい切り替えのあるストッキングに包まれた足は、他の女たちの足と同様、どうしようもなく無様だった。恭子はたまらなくなって、しくしくと泣き出した。ようやく受付の男が走って来て人々に謝って回る頃には、もう流れ出した涙を止めることが出来なくなっていて、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。男が彼女の元にひざまづきその手を包んでさすったが、少し顔を上げて見えた顔が思っていたのと全く違って、さらに一層虚しい気持ちになるばかりだった。

 なんとかなだめられて再び始まったトルクワァンの記憶への旅はもう、簡単なテクノロジーと心理学とアロマセラピーに墜ちて、故郷の惑星が浮かぶ壮大な宇宙へ恭子を再び連れて帰ることは出来なかった。

 薄暗い階段を上り、何の変哲もない、ちょっといいところの物憂げな中年の奥様に戻った恭子の肩に、先ほどの女の手が触れた。

「よかったら少しお茶でもどうですか?」

 一刻も早く家に帰ってベッドに突っ伏したい気分だったが、女の強引さに負けて、駅前のチェーンの喫茶店で恭子はコーヒーを啜っていた。

「今日は不運でしたね」

 女は再びそう言った。

「でも、少し見えました?」

「何がですか?」

「トルクワァンの記憶」

 恭子は眉をしかめ、小さく笑った。

「今さら、そんな。あんな子供だましだった、って分かった後にそんな」

 女は目を見開いて手を振った。

「いいえ。すごい凝ってる方でしたよ。やっぱ参加費高いだけあるな、って私、最初、感心してましたもん。あの音響とか、ほんと頭の中に言葉が降ってくるみたいじゃなかったですか」

「まあ、それはそうでしたけど・・・」

「一万円くらいだと、ほんとしょぼいとこいっぱいあるんですよ。普通にマンションの一室とかで、色々布で隠してるんですけど、どうしても隠しきれない生活感が漂って集中できないんですよね。トイレ借りたらカレンダーに〈ガス支払〉とか書いてあったり、ソファの下からなぜかクックドゥーの箱出てきたり。その人マクロビとかも推進してる人やのにチンジャオロースやったんですよ。ひどいでしょ? それにくらべるとやっぱり三万円超えはちゃんとしてるなって感じで、五万超えると、おおプロ! ってなりますよ」

 何がなんだか分からず、恭子はただ曖昧に笑った。

「で、記憶は見えました? トルクワァンの」

 再びそう聞かれて恭子は、先ほどまで感じていた惨めな気持ちが少し和らいでいるのに気が付いた。この方の話にびっくりして、少し落ち着いたのかもしれない。どうして私はあんなに落ち込んでたのかしら。

 そう思うと、ちょっと可笑しくさえ思えた。

「見えましたよ」

「え?! すごい!」

 冗談を返したつもりだったのに、あんまり素直に驚かれたので、彼女は小さく笑った。

「ただの夢よ。ウトウトしてたし、あんな変わった環境だったから、変な夢見ちゃったのね」

「えー、私、普通に寝ただけでしたよ。どんなんでした?」

 あまりに前のめりな女が可愛くさえ見えて、恭子は再び笑った。

「全部嘘だったのよ。トルクワァンとか、記憶とか、そんなの。私たちバカみたの。いい社会勉強になったな、ってそれでおしまいにしましょう」

 諭すようにいった恭子の顔を、女がまじまじと見つめた。それからふいに頭を下げ、女は目の前にあるコップに顔を近づけて、手を使わずにストローをくわえてゴクゴク飲んだ。そんな女の姿を見て、恭子はいまや胸を痛める余裕すらあった。この方は平気な振りをしているけど、とても傷ついたのかもしれないわ。色々行っているんだもの。私なんかよりずっと強い想いを持ってたんだわ。それがあんな手品仕掛けの嘘っぱちだなんて分かって傷つかないはずないわ。

 彼女が慰めの言葉をかけようと口を開いたのと同時に、女が顔を上げた。

「嘘やと思ってるんですか?」

「え?」

「トルクワァンのこと、嘘やと思ってるんですか?」

 女は真面目な顔で恭子を見つめている。

 そうね、まだ信じられない・・・信じたくないわよね、嘘だなんて。

「気持ちは分かるわ。私だって、年甲斐もなくあんなところで泣いちゃったんだもの」

「泣かはったんは、しゃあないと思いますよ」

 あまりにまっすぐにそう言われて、せっかく気楽になった恭子の気持ちにまた薄暗い靄がかかっていく。

「私が分からないのは、あのトラブルのせいでなんでトルクワァンのことまで嘘やと思ってはんのか、ってことなんです」

 恭子には、女の言っていることの意味が全く分からなかった。

「だってトルクワァンの記憶を実際に見たから、トルクワァンのことを信じたわけじゃないですよね? 記憶をまだ見てなくても、トルクワァンのことを信じられる何かがあって、だから実際に記憶を見るためにあそこに行ったんですよね?」

 早口でまくしたてる女の言葉に、恭子はますます混乱した。

「なに、なんかひっかけ? 私、関西の冗談とかあんまり分かんなくて。あんまりいじめないで・・・」

「いやいや、冗談ちゃいますよ。だって、そんな嘘やと思ってて七万円も払ったんですか?」

 まっすぐ見つめてくる女の目を避けて、恭子はうつむいた。分厚い陶のカップの中で、時が止まったようにコーヒーが静止している。スプーンを差し入れて回すと、黒い液体が渦を巻いた。

「確かに、信じてたから参加したの」

「でも今は信じてないんですか?」

「そりゃそうでしょう。詐欺じゃない。あんな子供だましで七万円もとってるなんて」

 恭子は笑っていったが、女は笑わなかった。のぞき込んでくる黒い瞳が嫌で再び目を伏せたが、そこにもまたコーヒーが黒く溜まっていた。黒い渦。見慣れた黒い渦。今もあの渦は、彼女の家の入り口で、その不穏な姿を毎日人々の前にさらしている。もう、小さな郵便受けはない。黒曜石の黒い渦は、完全に彼女の生活の象徴になってしまったのだ。

「七万円払ったら、魔法か何かがあると思ってたんですか」

 目を伏せたまま、彼女は小さく笑った。

「魔法って・・・そんな。そんなんじゃないけど・・・」

「別に嘘じゃなくても、演出って必要じゃないですか。雰囲気作り。宇宙っぽい感じとか、そういうのないと、みんな来てくれないじゃないですか」

「わからないけど・・・・でも・・・」

「でもなんですか? 何があると思ってたんですか? テレビとかでみる催眠術だったらよかったんですか? それとも霊能者みたいな? イタコとか、江原さんと美輪明宏と・・・」

「そんなんじゃないわよ!」

 思いがけない大きな声に恭子自身が一番驚いいた。同じく周囲の人々も驚いて恭子へ好奇の視線をを向けたが、目の前の女だけは全く動じず先ほどと変わらない真っ直ぐな目を恭子に向けていた。

 完全にイカれてるわ。

 こちらへ向いた黒い二つの丸の奥は怖いほど空っぽだった。

 こんなところに頻繁に出入りしている人だもの、もともとちょっとオカシイのよ。早く逃げないと・・・

「失礼するわね」

 ほとんど震えながら立ち上がろうとした恭子に

「ちょっと待ってください!」

 と呼びかけて女が腕を掴んだ。その途端、恭子は店内に響き渡る甲高い悲鳴をあげた。周囲の視線が再び一斉に集まり、女は今までの不動が嘘のように怯えながら慌てて手を引っ込め、それから先ほどつかんだ部分をいたわるように再び恭子へ手を延ばした。

「ごめんなさい、痛かったで・・・」

「触らないで!」

 なすすべなく立ち尽くす女の前で恭子も目を潤ませて身を小さくし、それでも手を伸ばしてハンドバッグを取った。

「失礼するわね」

 物言いたげな女の視線を感じながら、恭子はなんとか立ち上がる。

「トラブル、なければよかったですね」

 恭子はもう声のほうへ目を向けない。

「トラブルがなければ嘘やなんて思わずに済んだのに」

 少しでも早くこの場を離れたかったが、思い出して振り返りテーブルに手をのばすと二人分の伝票を迷いなく取る。文句を言わずスマートに支払うことは、金輪際関わりたくないものにも有効であると恭子は考えている。

 女に再び背を向け、足早へレジへと向かう後ろから「お元気で」という声がした。

 

 家に戻ると娘がみかんでジャグリングをしていた。ソファに座って三つのみかんを器用に投げたり取ったりしているが、たまにこぼれ落ちるみかんが大きく迫り出したお腹に落ちて、恭子はその度に眉をしかめる。

「やめなさいよ、赤ちゃん痛がってるんじゃないの」

「寝てる。動かないもん。気づいてないよ」

 みかんは落ちるたびに娘の腹の上で、ぼて、と短い音をたてている。

「どうしたのこれ」

 娘が拾い上げた橙色の球を掲げる。

「あなたが持ってきたんじゃないの?」

「こんな時期にみかん?」

「だって・・・」

 言いかけて口をつぐむ。記憶が混線している。あの詐欺のせいね、と恭子は首を振る。

「そういえば昔、ヤギにみかんの汁かけられたことあったよね」

 みかんのへそに親指を差し入れ、するすると滑るように皮を剥きながら娘がいう。

「ヤギ?」

「そう。真っ白のヤギ。ヤギってさ、目が貯金箱みたいじゃん? あれがめっちゃ怖くて。生き物なのに、なんで? お金入れるとこ? 無機質すぎやろ、とかって。そのうえ、ブシャーってされて。ほんと、ヤギこわ」

「ヤギ?」

 再び恭子はつぶやく。あれは、馬だったはず。真っ白い馬。黒い目の球体が軌道を描くさまを、恭子は今でもありありと思い浮かべることができる。みかん、夫の手、白い馬、娘のマフラー。それらの一つ一つの要素が恭子の記憶を構築している。記憶違いだったのね、と簡単にいうことができない。馬がヤギになると、この記憶そのものへの信頼が崩れる。記憶が彼女の時間を編んでいる。彼女が過ごしてきた時間を保証するものは彼女の記憶しかない。大切な記憶。それさえも誤りだったとしたら。私が記憶していると思っているものはなんなのかしら? 黙々とみかんの薄皮を剥いでは口へ入れていく娘の隣で、恭子は首を振っている。

「ね、見て」

 娘が差し出したスマートフォンの液晶で、大昔の自分がこちらを向いて微笑んでいた。

「やだ、何これ」

「押し入れの中にあった昔のフィルム、データ化してみた」

 段ボール箱いっぱいだったのに全部この中に入っちゃったよ、と引っ込めた携帯をスクロールして娘が再び差し出す。そこには、先ほどよりもっと若い自分と娘、夫の姿があった。娘の白いマフラーには淡い黄のまだら汚れがある。

「これ、よくない? 結婚式で使っていい?」

「もちろんいいわよ。他のもあるの?」

「あるよ。ちょうどこれ、あの千葉の牧場行ったときの」

 差し出されたスマートフォンが、何か重要な機密の詰まった恐ろしいものに見えた。小さく薄い、四角い箱。ここには、動かし難い幾千の記録が詰まっている。記録に、記憶が否定されたら? 一つや二つならまだいい。もし、ほどんどの記憶が間違っていることが、記録によって証明されてしまったら? 間違った記憶を頼りに生きている私は、間違った存在ということ? 

〈トルクワァンのメモリーはあなたに触れられるのを長い時間待っていました。〉

 恭子は伸ばしかけた手を引っ込めた。

「やっぱり、結婚式のときまで楽しみにしてるわ」

 娘はまんざらでもなさそうに、黒光りする機体をポケットにしまった。

 

 夫は大体、夜深い時間に赤ら顔で帰ってくる。服を着替えたらすぐ寝て、朝起きてからシャワーを浴びる。昨夜の記憶はほとんどの場合、ない。恭子は、日の出ている時間の夫しか夫だと認識していない。

「今日が予定日なの」

 コーヒーを差し出して恭子がいう。食卓の横に脱いだ形のまま落ちているスーツのズボン、ソファの上のジャケット、シャツ、ネクタイを順に拾い上げていく恭子の隣で夫は携帯電話をホーム画面に戻して眉間に皺を寄せている。テーブルの上に放り出されたパンのビニール袋をゴミ箱にすて、風呂場に置きっぱなしの老眼鏡をとってきて渡してやると、ああ、といいって、眉を戻した。

「いよいよ、私たちもおじいちゃんとおばあちゃんですか」

 そういった夫が顔をあげて恭子に微笑みかける。

 笑った顔は今でも悪くない、と恭子は思う。昔はとてもカッコ良かった。一八〇センチを超える長身に、俳優みたいに整った顔立ち。浮気は少し心配だったけれど、それよりも好きで仕方なくて自分のものにしたい気持ちがまさった。今だって少し太ったとはいえ、同年代の友人の夫たちを見れば全然『ダンディー』な部類である。

〈トルクワァンの記憶の「世界」は、今、目の前にある現実「世界」に疲れ果てているあなたをきっと救い出してくれることでしょう。〉

 不満は天の川銀河の星の数ほどあったが、こういう瞬間の積み重ねが幸せな生活なんだと、恭子は自分に言い聞かせる。でないと、またあんな詐欺のいいカモにされてしまうわ。

 ふと、思いついて恭子は聞く。

「昔、千葉の牧場に行ったじゃない? あの時のことなんだけど」

「牧場?」

「ええ、あの子が幼稚園の頃。あなたがレンタカー借りてくださって」

「レンタカー? そんなことあったかな・・・」

 恭子はそれ以上何も言わなかった。同じ時間を共有したからといって、それを同じく記憶しているとは限らない。写真は押し入れの中、段ボールに雑然と積み上げられていてもなくなることもなければ変化することもない。一時忘れ去られていたとしても見つけてくれる人がいれば再び日の目を見ることができる。しかし、記憶はその記憶に触れたいという主体がいなければ存続することさえできない。そして頻繁に思い出さなければ、欠けや誤りが発生するし、かといって頻繁に思い出せばその過程で変化してしまうこともある。

 トルクワァンはどうして記録じゃなく、記憶なんて曖昧なものを選んだのかしら。

 カバンにアイロンをかけたハンカチ、ティッシュ、財布と携帯、老眼鏡が忘れず入っているか確認し、背中の埃を一つとって恭子は、ともに過ごした時間を記憶していない夫を玄関まで送り出す。

「連絡があったらすぐそちらへ電話しますから」

「うん、お願いするよ」

 そう言って夫が背を向けたと同時に、恭子の携帯電話が鳴った。

 

 病院のロビーで娘の夫と合流して産科のある20階へ上がっていく。液晶の数字が増えていくと、ガラス張りのエレベーターの外に灯りの灯り始めた東京の街並みが姿を表しはじめる。空の高いところはまだ青かったが、低いところは赤く染まり始め地平線近くには細い月と明るい星が輝いていた。

「金星だね」

 夫が窓の外を見て言っているが、恭子は扉横の液晶の数字が変化していく様子を見つめたまま返事をしなかった。

「昨晩、急に陣痛が来てそのまま朝まで。昼間はずっと寝ていてみたいでさっき起きてきたので、今は母子ともに結構元気です」

 娘婿の言葉に、恭子はあいまいに頷く。心がざわついて、周りの音や状況がうまく飲み込めなかった。孫ができる。以前から心待ちにしてはいたけれど、実際会えるとなると、それはもう単なる喜びの域を超えて、期待は強烈な刺激となって恭子の脳や体を渦巻いていていた。恭子は長い、あまりにも長い昼の間に、何を着ていくか考えて青いワンピースを選んだ。鏡の前に立っても、もう違和感はなかった。

 地球みたいな青色でキレイ。こんな特別な日に着るのに本当にぴったりだわ。

 三人連れ立って病室に入る。ベッドが六つ並ぶ大部屋だったが、みな出払っているのかしんとしている。部屋の奥には大きな窓が開いて、劇場のように街を、時間を切り取っていた。娘の夫が早足で一番奥のベッドのカーテンの奥に消えたかと思うと、次の瞬間、そのカーテンが開かれ、奥から見覚えのある女が現れた。恭子は首を傾げる。娘なのだから見覚えがあって当然なのだが、そういうことではない。ピンク色に白い大きな水玉模様の院内着。それと揃いピンク色のターバンで前髪をあげ、すっぴんの顔は土気色をしている。ベッドに座ってこちらを見上げる穏やかな笑みを、恭子は見たことがあるような気がした。

 しかしそんな逡巡も娘が持ち上げた小さな生き物が一瞬にして吹き飛ばしてしまう。娘が後々まで語り継ぐことになる大きな奇声を発して、恭子は両手をあげた。

「やだ、なに、こんなこと」

 涙ぐんで途切れ途切れの感嘆詞を呟き続ける恭子の横で、娘とその夫は顔を見合わせて苦笑する。小さな、本当に小さな体のパーツのそれぞれが、その機能を確かめるようにうごめいて、恭子はその動きの全てを見逃すまいとじっと見つめる。

「抱っこ、する?」

 恭子は返事ともつかぬ声を発し、手を差し伸べる。体は自然と昔を思い出して赤ん坊を抱く形に整えられ、その中に想像よりもずっと軽い生き物が収まった。腕の中で芋虫のように体をうねらす赤ん坊に顔を近づけると、落ち着かない様子で動かしていた目玉がぴたりと止まる。赤ん坊と恭子はしばし見つめ合う。同じ時間を共有する。しかし赤ん坊がこの時間を覚えていることはなかったし、そもそもまだ見えてもいなかった。でも恭子はそれでよかった。

「お父さんも、抱っこしてみる?」

 振り返ると、夫が恭子の腕の中の赤ん坊を見つめていた。笑っても泣いてもいなかったが、嬉しそうだわ、と恭子は思った。赤ん坊を移そうとするが、夫は抱き方がわからず、四苦八苦した挙句「もういい、怖い」と言って、手を後ろで組んでしまう。この夫が二人目の孫の時にはすっかり我が者顔で、産院でも率先して抱き上げ哺乳瓶でミルクまでやるようになるとはこの時は誰も思っていない。それからしばらく四人の大人たちは生まれたばかりの小さな生き物を囲んで、談笑する。

 それはいつの時代の世界のどこにでもある風景だった。ラスコーの洞窟の暗闇で、フランス宮廷のバラが咲き乱れる庭で、敵襲に怯えるジャングルの中で、ゴミに埋もれたスラムの中で、海を漂う船の上で。私たちはずっと生まれた命を囲んで生きてきた。

 トルクワァンの記憶。私が触れた記憶、あれは誰かが生まれた命を見つめた記憶だったんだわ。誰のというわけじゃない、どこにでもありふれた記憶。

 さようなら、惑星トルクワァン。もう私には必要ないわ。

 

 ナースステーションから呼び出しがかかって、娘が赤ん坊を連れて授乳室へ行き、娘の夫も昨夜寝ぬままま今日仕事にも出ていたというので一度家に帰ることになった。恭子と夫も引き上げることにする。エレベーターホールまで三人できたところで、恭子は病室にスマートフォンを忘れたことを思い出す。娘の夫だけ先に返して、恭子と夫は病室に戻る。

「あんな小さいんだな」

 廊下を歩きながら夫が言って、恭子は笑う。今日の記憶はあるといいけど。恭子は思う。

 病室まで来ると恭子は一人、一番奥のベッドまで小走りにかけた。スマートフォンはサイドテーブルの上にすぐ見つかった。今日撮った写真を帰ってからじっくり見るのがまた楽しみだった。カーテンを閉めて病室の入り口で待つ夫を見ると、ぼんやりと右のベッドの方を眺めてつっ立っていた。恭子が近づいても気づかず「あなた」と触れてようやく、ああ、と言って我に返った。再びエレベーターホールへ戻ろうとする夫の横で、恭子が振り返ると薄く開いたカーテンの隙間から、無防備に乳房をあらわにしたままの若い産婦がスマートフォンでゲームをしている姿が見えた。

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