火星への道しるべ

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梗 概

火星への道しるべ

大きな窓の明るい病室に、宮ヶ瀬という名の、三十代の男が入院している。広い病室には他に患者はいない。彼は手元にある巨大な惑星図鑑の、火星のページを虫眼鏡でつぶさに観察し、ぶつぶつと何かをつぶやいている。

二十一世紀の末に、国産ロケットによる有人火星探査が行われた。三名の隊員は着陸には成功したものの、その後、事故が発生し、生還したのは宮ヶ瀬ひとりであった。彼は帰還してからは、正確な任務報告をすることなく、まもなく発狂したと噂されていた。記録データが壊れていたために、様々な憶測が飛び交ったが、他の二名の隊員については、技術的なトラブルによる事故死という判断が公式に下された。事故をきっかけに、残り二回ほど予定されていた有人火星探査は中止され、世間はやがて関心を失った。

宇宙飛行士の佐上は、参加を予定していた火星探査の中止が決まり、途方に暮れていた。火星に執着する彼は、火星での事故の話を直接聞くために、宮ヶ瀬と面会をする。宮ヶ瀬は、精神に異常をきたしたために入院しており、佐上の質問に対しても、まともに答えない。彼は図鑑を見ながら、「異星人はもう火星に来ている!」と一方的に話し続ける。宮ヶ瀬は宇宙人を恐れているらしかった。先の火星探査で何が起きたかについては、彼の口からは語られなかった。

病院には、ネットニュースのライターとして宮ヶ瀬の取材に来ている城山という女性がいた。城山は火星の特集記事を書くために病室に通っているのだと言う。佐上と城山は利害の一致を確認し、宮ヶ瀬との対話において、協力することにした。

繰り返される取材と対話によって宮ヶ瀬は、一方的にしゃべるばかりでなく、徐々に質問にも回答するようになる。そして彼は、あたかもそれが真相であるかのように、火星での異星人との遭遇について語る。彼によれば、宮ヶ瀬以外の二名の隊員は異星人らに拉致されたというのだ。さらに宮ヶ瀬は、「拉致されるかもしれないから、君も火星に行かなくてよかった。」と佐上に対して発言し、佐上はそれに怒って、「あなたも宇宙人を怖がって苦しむくらいなら、そんな嘘、考えなければいいのに!」と言い返す。

佐上は、宇宙開発機構の同僚から火星での事故に関する情報を耳にする。話によれば、壊れた記録の復元が進んで、宮ヶ瀬以外の二名の隊員は、機械トラブルに伴う事故に際して、彼をかばう形で死亡したということが判明したらしいのである。佐上は、宮ヶ瀬が一人だけ生還したという事実に耐えられず、異星人という嘘を作り上げ、自分でもそれを信じているのだと想像した。美談の手前で、苦しんでいる人間がいる。佐上はその想像を城山に話し、先日の宮ヶ瀬に対する発言を後悔した。

夜中の病院で、宮ヶ瀬が特別に許可をもらって、天体観測を行なっている。彼がその望遠鏡で見ているのは、やはり火星である。彼はいまや、火星を直視している。

文字数:1183

内容に関するアピール

名刺代わりの一作を作るということで、私は「ひどくうさんくさいもの」に興味があるので、今回は宮ヶ瀬という人物が、うさんくさい話に執着することと、その背景をメインに組み立てました。
物語のテーマは回復と作話です。宮ヶ瀬が、いかにして事故の精神的ダメージから回復するのかを描いています。
宮ヶ瀬は、現実を直視できない。そしてそれを周りの人間が強要する権利もない。ただし、人との関わり合いの中で、変化が起きることもあるだろう。嘘をでっちあげることもある。しかしそれも、本人の回復のためには必要なことかもしれない。以上のような内容をSFの枠組みで考えました。

技術的な進歩の中で、人々は夢をそこに投影し、挑戦をするわけですが、そのような状況の中で、当然、うまくいかない人も出てきます。小説は、そういった「うまくいかなかった側」を書くのに適した媒体であると考えています。

文字数:376

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火星への道しるべ

二十一世紀末、国内では初めての有人火星探査に向かうパイロット三名を乗せたロケットは、上空一万五千メートル地点で突如として爆発した。ロケットには、パラシュートのような装備は搭載されておらず、乗員らが仮に爆発を生き延びたとしても、空中に投げ出された人間が無事に地上まで戻ってくる可能性はなかった。航空宇宙局では、すぐさま事故調査チームが設立された。バラバラになった機体の破片は広大な範囲に飛び散っており、それらを回収し、分析するのが調査チームの主な役割であった。

事故の翌日、調査チームの一員である佐上は、爆発地点付近の海岸に来ていた。この日の空は曇っており、海も空も砂浜も、どんよりとしていた。砂浜には海上に落下したロケットの破片が次々と打ち上げられており、調査員たちはその発見と回収に躍起になっている。現場の写真を撮影したり、回収のためにあちこちにしゃがみ込んで地面ばかり見ているその姿が、佐上には陰鬱な大人たちが砂遊びをしている光景のように見えた。風は強く、グレーの景色の中にあって、波だけが白い色をして激しく上下している。
佐上は、まだ打ち上げられていないロケットの破片が、その辺を漂っているのではないかと波間に目を凝らしていた。すると早速、佐上は黒い怪しげな物体が浮いているのを認めた。異様な見た目のために、初めは見間違いかと思われたが、それは確かに波の上で揺れている。直径三メートルはあろうかと思われる、球形をした黒いゼリー状の物体。
佐上以外の調査員たちも、ゼリーの存在に気づいたらしく、はじめは奇妙なゼリーの存在に興味を示した。しかし、しばらく見たあとで、事故には直接関係がなさそうだと判断したのか、すぐに破片の捜索と回収に戻っていった。確かに、ゼリーは事故とはあまり関係がなさそうだった。それでも、佐上はゼリーに強く惹きつけられ、気になって、近くにいた調査員に尋ねた。
「あのゼリーみたいなものは、なんだと思いますか?」
「いや、わかりませんね。ロケットとは関係がなさそうですが。」
「ああいう生き物がいるのですか?ナマコとか、そういう類のものですか?」
「さあ、わたしは海洋生物には詳しくないのでね。」
「巨大なスライムを誰かが捨てたのでしょうか?見てください、あっちに打ち上がりそうですよ。」
ゼリーは、繰り返し打ち寄せる波に乗って、ゆっくりと浜に接近している。近づくにつれて、黒くて大きいゼリーの異様さが際立って見えた。
「行ってみましょう、何かわかるかもしれない。」と佐上が言うと、
「ヤですよ、不気味じゃないですか。ああいうのは苦手なんです。私は調査に戻りますよ。」と言って、調査員は離れて行ってしまった。

波打際に打ち上げられたゼリーは、重力の影響で、下に偏っており、歪な楕円形を成している。目の前まで来た佐上は、ゼリーが波にさらわれて再び海に戻らないように、それを引っ張ろうとした。しかし、何しろゼリーなので、掴み所がなく、掴んだ部分だけが脆くちぎれた。ゼリーは生温かく、ちぎれた一部が手の中に残ったが、すぐに溶けてしまった。
佐上は、小学生の頃に理科の実験で作ったスライムを思い出した。あのスライムは、ものすごく人工的な、それこそ自然界には存在しないような緑色をしていた。そして、いま目の前にあるゼリーはといえば、透明感とツヤのある黒い色をしているが、その色もまたスライムと同じで、周りから浮いた色に見える。あのとき何人もの小学生らの手の上でこねくり回された後のスライムのような温度をしている、黒いゼリー。
そのようなことを考えている間にも、波は絶え間なくやってきて、佐上の膝から下を直撃し、靴の中にも、海水が入り込んでくる。ゼリーの下部には砂が大量に付着しており、そのことが濡れた靴の中の感触と相まって、佐上に嫌悪感を覚えさせた。ゼリーはあんなにも軽々しく波の上を漂っていたのに、いまこうして一度浜に打ち上がれば、安定している。佐上は、ゼリーを引っ張り上げることをあきらめ、波の来ない場所まで下がり、砂の上に座り込んだ。そして、濡れた靴下を脱いでしまおうとした。しかし、それは実行されなかった。目の前で、ゼリーがシュウシュウと音を立てて、勢いよく溶け始めたからである。佐上が立ち上がり、靴も履かずに駆け寄る間に、異様な大きさのゼリーはほとんど溶け切ってしまい、ゼリーを構成していたドロドロは、波間に消えていった。驚くべきことに、ゼリーの中からは、青い船内服を着た、爆発したロケットに搭乗していたはずの、宮ヶ瀬、城山、早戸の三人の隊員が出てきた。三名は、気を失った状態で、その場に倒れていた。今度はゼリーではなく、隊員たちが波にさらわれないように、佐上は大声で周りの調査員たちに助けを求めながら、必死になって彼・彼女らを引っ張り上げる。すぐにその場にいた調査員たちが集まり、三名は救助された。
三名の宇宙飛行士たちは、すぐに意識を取り戻すと、眠りから強引に引き剥がされた幼児のように、不快な表情をあらわにした。そうしてしばらくは、砂の上に横たわって、調査員たちの呼びかけや質問に応答することもなく、しかし目は開いたままで、濡れた髪を額に張り付かせ、呆然としていた。すぐに救急車がやってきて、三名は浜から担架で運び出され、病院へと搬送された。

佐上は救急車を見送ってから、大きく安堵の息を漏らした。それから、足が温かく湿っているのを感じ、足元を見、濡れた靴下に、砂がびっしりと付いているのを認めた。さっきまでゼリーがあった場所を振り返ると、砂浜には何事もなかったように波が寄せては返し、その向こうでは、低い雲に覆われた灰色の空が水平線までずっと続いていた。

翌日、佐上は事故調査のうちでも、予想外の生還を遂げた三名の宇宙飛行士の聞き取りを担当することになった。彼は、面会のために自動運転の車で病院に向かいながら、手元の電子タブレットで、三名の情報が記されたファイルを閲覧している。年齢は全員が四十代、三名のうち城山だけが女性で、あとの二人は男性である。城山と早戸は、宇宙ステーションに滞在経験を持つベテランの宇宙飛行士だ。宮ヶ瀬は、宇宙での任務の経験を持たない、いわゆる新人だったが、あらゆるテストや訓練で優秀な成績を収めており、期待の新人として、今回の火星探査のチームに選抜されたのだろう、と佐上は思った。
三人の健康状態について、病院からの情報では、命に別状はないが、事故に関する記憶の喪失が見られ、やや衰弱しており、検査も含めて二、三日の入院が必要とのことであった。
「まもなく目的地に到着します。」カー・ナビゲーションがアナウンスをする。佐上がタブレットから顔を上げると、巨大な白い長方形の病院が前方に見えてきた。三人は、今日の検査を終えて、いま見えている、いくつもの窓のうちのどこかで休んでいることだろう。

佐上が病室に入ると、三名のベッドはカーテンで区切られていた。この部屋には、他に入院患者はいないようだった。病室の奥にゆっくりと進みながら、わずかに開いたカーテンの隙間から中の様子を伺うと、城山と早戸は眠っており、窓際のベッドの宮ヶ瀬だけが上体を起こし、カーテンを開けて窓の外を眺めていた。佐上が彼に挨拶をすると、こちらに気づいて、挨拶を返した。宮ヶ瀬は、眉は細く、端正な顔立ちをしていて、口元に無精髭が生えていることを除けば、やせ細ったサラリーマンのようにも見えた。佐上は、このような見た目の人間が、本当に優秀な宇宙飛行士なのだろうか、と疑わざるをえなかった。
佐上は自己紹介をして、事故の聞き取り調査に来た旨を告げた。宮ヶ瀬は、「ああ、佐上さん、どうぞよろしくお願いします。事故のことなら、任せてくれよ。事故の当事者は俺なんだからな。近くにいた人間が、一番よくわかってるはずだよ、きっと。」と言った。
「今日の検査は終わったんですね。あの二人は、ずっと眠っているのですか?」と佐上が訊くと、「おうい、おうい。事故の調査なんだってよ。」と宮ヶ瀬はいきなり大きな声を出し始めて、二人を起こした。続けて、カーテン開けてもいいか、と二人に呼びかけ、どうぞ、どうぞ、という許可の声がバラバラに聞こえてくると、彼はベッドから降りて、三つのベッドを隔てていたカーテンを開け始めた。
このように、宮ヶ瀬は気さくな人間であったが、その行動には突拍子もないところが見受けられた。佐上は、自分の思い描いた手順とは違った展開に戸惑いながらも、三人に正面から向き合える位置に移動した。城山と早戸は、宮ヶ瀬と佐上とを交互に見つめ、困った顔をしている。宮ヶ瀬は微笑して、聞き取りを開始して下さいと言わんばかりに、佐上を見ている。

佐上は改めてここに来た目的と自己紹介をし、調査では記録が残ることを伝え、その同意書にそれぞれのサインをもらった。このように始まった聞き取り調査だったが、佐上の期待に反して、大した証言は得られなかった。全員が、事故に関する記憶を喪失していたのである。そんな期待はずれの聞き取りにおいて、特筆すべきは、宮ヶ瀬の饒舌さだった。城山と早戸は、寡黙に振る舞い、事故に関するほとんどの質問に対して、「よく覚えていません。」と答えるのみで、自分から何か情報を加えることはなかったが、宮ヶ瀬だけは、他の人の聞き取りにも割り込むなどして、知っている情報を話したり、気になる事柄についてあちらから質問を投げかけるのだった。彼は、黒いゼリーについて、強い興味を示した。
「おいおい、その黒いゼリーっていうのは何だい?一体どんなものだったんだい。」
「いや、まず黒いゼリーのことは置いておくとして、ロケットの打ち上げから爆発までで憶えていることはありませんか。」
「ん、そもそも黒いゼリーってなんだ?ええ?ゼリー?」
「それは後で訊くつもりでしたが、あなた方は、黒いゼリーの中から、発見されたんですよ。覚えてませんか?」
「へぇー、よくわからない話だねぇ。それはどんなゼリーだったんだい。」
「いや、だから黒い色をしていて、それが浜に打ち上げられたかと思うと、あっという間に溶け出して、あなたたち三人が中から出てきたんですよ。ホントに憶えていないんですか?」
「ははぁ、それはモモタロウみたいな話だねぇ、不思議だねぇ。いや、ウラシマタロウか?」
「それで、ロケットに乗っていたことは憶えていますか?」
「それがねえ、お医者さんにも訊かれたんだけどね、全く憶えていないんだよ。」
「そうですか。では、爆発のことも記憶にないんですね。憶えている最後の記憶はどんなものですか?」
「えーとね、確か、これから眠るぞということで、いつもよりも早くにベッドに入って、それでとても緊張していたから、あれは打ち上げの前日なんだと思うね。」
「だとすると、当日の記憶は一切ありませんか?打ち上げの前にも緊張を経験したはずです。ロケットに乗る前に見た景色、船内の計器類、見送ってくれたスタッフの顔、家族の写真、些細なことでいいんです。何か覚えてませんか。」
「うーむ、ないね。それに俺には、家族はいないんだよ。」
佐上は、質問してはいけないことを聞いてしまったような、気まずい思いに捕らわれた。しかし、それよりも気掛かりだったのは、宮ヶ瀬の回答が、自身の質問に被さる具合で即座に行われることである。進行が妨げられるだけでなく、話が逸れていく。そのようなことをするのは、彼が単に饒舌なだけでなく、何か隠したい情報があるからなのではないかと佐上は疑った。記憶の喪失も、演技なのじゃないかと。質問が急に中断されて、佐上が黙り込んでしまっても、宮ヶ瀬は相変わらず微笑している。

結局、この日の聞き取りでは、事故からあまり時間が経っていないこともあり、爆発の衝撃とショックの影響が三人に残っていて、多くの情報を得ることはできなかった。他の二人の三倍以上はしゃべったと思われる怪しげな宮ヶ瀬の姿が、佐上の印象に強く残った。

佐上は、病院の駐車場に戻り、運転席に座ると、車を発進させることなく、先ほどまでの聞き取りの内容を、電子タブレット上の調査ファイルにまとめていた。城山と早戸については、多くの情報はない。それにしても全員が記憶喪失か、と佐上は考えた。爆発、あるいは着地の衝撃がよほど強かったのか。調査チームの報告では、あの黒いゼリーのサンプルを、一部だけ、なんとか回収したと言っていたが、解析は進んだのだろうか。記憶喪失では、聞き取りをしても埒が開かない。本当に、三人が記憶を喪失しているかどうかもわからない。隠蔽したいことがあって、嘘をついている人間がいるのかもしれない。どちらにせよ、喪失した記憶を回復させるのは自分の仕事ではない、と佐上は思った。それでもまあ、時間が経過すれば、自然に回復するということもあるだろう。そうすれば、破片やゼリーの解析と合わせて、事故の原因と、三人の生還の謎が、明かされるだろう。そのように、佐上は事故調査のこれからを、楽観的に考えていた。そして佐上は、調査ファイルを送信した後で、急速な眠気に襲われ、座席に身を預け、自動運転も設定せず、そのまま眠り込んでしまった。

佐上は、深夜に雑木林の中を、懐中電灯もつけずに歩いている。足元が暗く、目はまだ闇に慣れていない。背後を振り返ると、病院の敷地のLEDの街灯が、木のあいだから白く見える。その明るさと対比して、手前のいくつもの木々のシルエットが黒く浮き出ている。再び正面に向き直ると、木と病院の光とが、切り絵のように目に焼き付いていて、チカチカと縦縞模様の残像を映し出す。その残像に気を取られて、佐上は太い木の根につまづきかけた。幸いバランスを崩しただけで、派手に転ぶことはしなかった。ハッと正面を警戒して、気づかれていないのを確認すると、佐上は尾行を再開する。

佐上がなぜ夜中に雑木林を歩いているのかといえば、それは宮ヶ瀬を尾行しているからだった。佐上が運転席で目を覚ましたとき、一人の人物が懐中電灯を手にして病院の駐車場を歩いていた。よく見ればそれは宮ヶ瀬であり、彼はそのまま、病院のすぐ隣にある雑木林のなかに入って行った。不審に思った佐上は、彼を尾行をすることにしたのだ。
これじゃまるで、探偵じゃないか、佐上は自分が事故調査官に過ぎないことを振り返りつつ、いままさに直面している事態に対して、そう思わずにはいられなかった。三○メートルほど前方で、宮ヶ瀬の持つ懐中電灯から放たれる灯りが、わずかに揺れ動きながら前進している。
佐上は、三つの可能性を考えた。一つは、ただの散歩である。宮ヶ瀬は、退院日が決まっているとはいえ、検査もあって、病院にほとんど軟禁されているに等しい状態だ。入院のストレスから解放されて、自然を直に感じたいのなら、夜の雑木林が多少ワイルドとはいえ、こうやって、散歩をするのが一番だろう。
二つ目は、事故でおかしくなってしまったという可能性である。彼は記憶を喪失しているわけだし、脳へのダメージから、無意味な徘徊をしている可能性がある。どうやって病院を出たのか、という疑問の余地はあるが、徘徊先が雑木林なのであれば、それは宮ヶ瀬にとって危険であるから、今すぐ止めなくてはならない。しかし佐上は止めない。それには、三つ目の可能性が関係していた。
その三つ目の可能性とは、彼が隠し事をしている可能性である。宮ヶ瀬は事件の真相を記憶しており、それについて忘れたふりをしている。佐上は、この三つ目の可能性について、あくまで憶測に過ぎないと感じつつも、その考えを捨てられないでいた。そのように考えれば、あの不自然な饒舌さともつじつまが合うのだ。そしてそれが事実であれば、このまま尾行を続けることで、ロケットの爆発事故と黒いゼリーというあの奇妙な物体の正体に、接近することができるかもしれない。このように考える佐上は、この三つ目の可能性についてもっとも期待していた。

前方の気配を探りながら、一定の距離を保って進んでいると、前のことにばかり注意が向かざるおえないので、佐上は、周りの景色を観察する余裕があまりなかった。気づけば、もう三十分以上、林の中を歩いている。背後の病院の明かりはとっくに見えなくなって、佐上の目は暗闇に慣れてきていた。周辺に明るいものはなく、目の前を行くライトだけが、目立っている。
佐上は、段々と不安になってきて、こう考えた。やはり、宮ヶ瀬はあてもなく徘徊しているだけで、自分は勝手にそれに付き合っているだけなのではないか。このままでは、遭難してしまうのではないか。何か危険なことが起こる前に、声をかけて、彼と一緒に病院へ戻った方が良いのではないか。
改めてあたりを見回すと、やはり周りに明るいものはなく、いまでは鳥や虫の鳴き声までもが、感じられない。あまりに静かで、風は全く吹いていない。そもそも、今日は風が吹いていただろうか。それとも最初から風など吹いていなかっただろうか。佐上は急に風についてこだわり始め、思い出そうとする。病院を出てくるときに、敷地にある旗は揺れていたか?木は揺れていたか?しかし、そんな些細な点について覚えているわけがなかった。そして、佐上はふと思いついたように考えた。それにしても、病院の近くにあった雑木林は、こんなにも深かっただろうか。

佐上が正面に向き直ると、さっきまでそこに見えていたライトが見えない。ライトの明かりを頼りにしていたので、当然、宮ヶ瀬の姿も見えない。
「しまった!」
佐上は、宮ヶ瀬がいた方向へと走る。最悪の場合、尾行がバレることは問題ないが、彼を見失ってはならないのだ。なぜなら、彼が単に徘徊している場合、怪我をしたり、事故に遭う危険があるからだ。
佐上はあたりを見回すが、人影は認められない。静まり返った林の中で、佐上の荒い呼吸だけが、音を立てていた。彼は自分でそれに気づき、耳を立てる。こんなにも静かならば、宮ヶ瀬の歩く音が聞き取れるはずだ。しかし、音はない。ややためらってから、佐上は大声で宮ヶ瀬の名を呼んだ。宮ヶ瀬さーん、名前を呼んだ後に、返事がないか耳を立てる。それを三回繰り返した後で、名前を呼ぶのをやめた。佐上は、一杯食わされたのだと思った。あの短い時間で、そんなに遠くへ移動できるとは考えられない。まだ近くにいるのならば、呼び声が届いているはずだ。それでも返事をしないのは、尾行に気づいていて、それをまくためにあえて返事をしないのだ。彼は兵士のように、近くで音を立てずに潜伏しているのだ。そうでないとすれば、この一瞬で、穴に落ちたか、転んで気絶したか。佐上は、そんな異変が起きたような音は聞いた覚えがなかった。
「宮ヶ瀬さーん、隠れてないで、出てきてくださいよ、困っちゃいますよォ、怪我しないうちに帰りましょうよ。」
そうやって呼びかけながら、佐上は、さっきから異様に静かな、この空間に、声が吸い込まれていくのを、不気味に感じていた。

佐上は、ふと、前方にわずかに明るくなっている一帯を見出した。そちらへ向かってみると、林のなかに、木の生えていない、少し開けた場所があった。そこには月明かりが差し込んでいるために、明るく見えたのである。すると、宮ヶ瀬が月明かりを浴びるようにして一人で立っていた。彼は足を大股に広げ、上を見上げて微動だにしなかったので、佐上にはそれが人間の形をした植物のように見えた。宮ヶ瀬さん、と佐上が声をかけても、彼は無視しているのか、聞こえていないのか、応答せず、空を見たままである。近づいて肩に手をかけ、もう一度名前を呼んだところで、宮ヶ瀬は気がついた。彼はたったいま夢から覚めたような、とぼけた顔をして、佐上に言った。
「あれ、佐上さん。なんでこんな場所にいるの。」
「大丈夫ですか?サンダルが泥だらけですよ。」
佐上がそう言うと、宮ヶ瀬は足を少し上げて、サンダルに付着した黒い土を見た。
「ホントだね、いっぱいついてる。これじゃまるで外ではしゃいだ子供だね。足の指の隙間にまで、土がついてる。昔は、よくこうやって靴を泥だらけにして遊んだもんだがね。」
「宮ヶ瀬さん、こんな場所に一人で来て、一体どういうつもりですか。散歩にしては、度が過ぎるんじゃあありませんか。」
「いや、これは…どうしてだろうねえ、自分でもよくわからないな。でもね、ここに来なければいけない気がしたんだ。」
「危ないですよ。雑木林を散歩したくっても、こんな時間にすることないでしょう。」
「それもね、この時間であることが大事だった気がするんだけどね…うまく言えないな、とにかくこの時間にこの場所へ来ることが、ものすごく、さっきまでは何よりも、重要な気がしていたんだよ。ア…」
宮ヶ瀬は、そのように言ってから、何かに気づいたらしく、自分の手を見ている。佐上が、気になって覗き込むと、ほら、と言って、宮ヶ瀬は自分の手にしているものを見せた。それまで握りしめられていた手が、マジック披露するみたいにして開かれると、掌の上には丸められた小さな紙切れが乗っていた。佐上が気になったのは、その手と紙とが濡れていたことである。すぐに連想したのは、黒いゼリーとスライムのことだった。宮ヶ瀬が破れないように丁寧に紙切れを開くと、そこにはこう記されていた。

<コレ以上ノミッション継続ハ、デキナイ。我々ハ故郷ニ帰ル。>

「これは一体どういうことですか。この紙はどこで拾ってきたんですか。」
「俺はね、ここにきて、自分が宇宙人なのじゃないかという気がしてきたよ。帰還に失敗した、宇宙人なんじゃないかね。」
「何を言っているんですか。そんな風に誤魔化しても無駄ですよ!第一、宇宙人ならば、言語が違うでしょう。」
「いやいや、これは万が一、誰かに見られても問題のないように、わざわざ現地の言語で書いてあるのさ。地球上にない言語が書かれていたら、それは直ちに疑われてしまうだろう?」
「むしろそっちの方が、まともに取り合われないで済むのじゃないですか。」
佐上は、そう言いながらも、宮ヶ瀬の表情が、冗談を言っているような調子ではないことにあとから気づいた。しかし、これが自作自演じゃないとすれば、どういうことなのだろうか。待機?打ち上げ?意味がわからなかった。宮ヶ瀬は、佐上の目を伺うように見てから、こう言った。
「これをどこで拾ったのか、覚えていない。そもそもここまでどうやって来たのかも覚えていない。俺はここへ来なければならず、その予感に従い、気づいたら手にこの紙を握っていたんだ。」
「そうですか、何も覚えていないんじゃしょうがないですねえ。ここは不気味だし、危ないから、病院に帰りませんか。」
「いや、待ってくれ、もう一つ見せたいものがあるんだ。いいかい、これは大事なものだよ。」
そう言って、宮ヶ瀬は胸ポケットから、銀色の小さなケースを取り出してみせた。それはタバコの箱に似ている。
「この箱を俺は救出された時からずっと持っていたというのだけど、これが何なのか、思い出せない。フタらしきものもあるが、開けることができない。」
箱を受け取った佐上は、仔細に観察する。鈍く輝く箱は、軽いが硬質で、フタは固くしまっていて、無理やり開けることも出来なさそうだ。
「俺はこれが何かわからない。だけど、これもここへ来るのと同じように、大事なものだという気がするんだ。悪いが、返してくれ。」
佐上は箱を返し、もう一度病院へ帰ることを提案した。宮ヶ瀬はそれを承諾し、二人は来た道を戻り始めた。佐上は、紙切れや箱について、興味のない素振りを見せたが、内心では、宮ヶ瀬と黒いゼリーとの関係を疑っており、これらの品々も関係しているのではないかと考えていた。宮ヶ瀬の濡れた手を見たとき、すぐにゼリーを掴んだときの生温かさを思い出した。それでもゼリーのことを話題に出さなかったのは、佐上に確証がなかったからである。
二人が林を歩いている間、佐上が宮ヶ瀬に話しかけることはなく、宮ヶ瀬の方でも、何かを考えている様子で、昼間のような彼の饒舌さは発揮されなかった。しかし、森を抜けて再び明るい病院の駐車場へと戻ってきたところで、宮ヶ瀬が急に喋り始めた。
「今歩いたみたいな林の中を、歩いたことがある?それか、背の高い草原とかね。」
「いいや、あまりないですね。」
「俺は小さい頃、それこそ自然がたくさんあるような場所で育ったんだよ。虫とかトカゲをいっぱい捕まえたね。木登りもしたし、池や川に落ちたこともある。」
「そうですか、私は最後まで、木登りのできない子供でしたね。」
「ハハー、そうかい。俺は木登りは得意だったよー、いろんな木に登ったもんさ。家の近くに遊べる場所がいっぱいあってね、本当に泥だらけになって…」
「ほら、宮ヶ瀬さん、着きましたよ。病室に戻りましょう。」
そう言って、佐上は宮ヶ瀬の話を半ば強引に打ち切って、彼を病院へと連れ戻した。佐上は、林を抜けたところでホッとしたためか、眠気がいまになって急に襲ってきて、すぐにでも眠りたかったのである。宮ヶ瀬を送った後で佐上は、車に戻り、今度は自動運転の帰宅ルートを忘れずに設定して、眠りについた。

佐上は、報告書に、宮ヶ瀬は自分を宇宙人だと思い込んでいる、と書いた。この報告で、局が宮ヶ瀬を宇宙人だと考えることはありえない。雑木林での出来事は書かなかった。自分が疑っている、宮ヶ瀬とゼリーとの関係についても。そんなことを書いても何の意味もなく、事態がややこしくなるだけだと佐上は判断したのだ。
チームの事故調査が進み、爆発の原因に見当がつき始めていた。ロケットの破片の回収と解析から、爆発の原因は、燃料の漏出を防ぐゴム製の部品の強度不足によって引き起こされたのではないかという見解が出たのである。そして、そこに黒いゼリーはおそらく関係ないだろうということであった。爆発は技術的な問題であり、誰かが故意に起こしたという可能性はないとされた。しかし、他方で、浜辺で目撃したあの黒いゼリーについては、サンプルを調べた限り、未知の物質で構成されており、正体不明。隊員が生還したメカニズムについても、解明できていないとの報告を受けた。

三人の宇宙飛行士が退院してしばらくして、佐上は宮ヶ瀬から連絡を受け取った。その内容は、ロケットとゼリーに関して、まだ話していない情報があるが、こちらがそれを伝える代わりに、自分を実家があった場所まで車で連れて行ってほしい、というものだった。そして佐上はその条件を受け入れ、宮ヶ瀬と一緒に、住所が示している郊外の住宅街にやってきたのである。
しかし、実際に到着してみると、そこに家は残されておらず、代わりにあったのは、黄色い看板の立っている、小さなコインパーキングだった。停車した車の中で、佐上は、助手席の宮ヶ瀬に向かって言った。
「ここはただの駐車場ですね。住所に本当に間違いはないんですか。」
「いや、間違っているはずはないんだがなあ。」
「では、もともとここには家があったけど、潰されてしまったということなのかな。周りの景色に見覚えはありませんか?」
「いや、記憶している光景と全然違う。しかしまだわからないぞ。」
宮ヶ瀬は、車の中から周りの景色をキョロキョロと見回していた。佐上は、車をコインパーキングに停めて、周辺を散策してみることを提案した。
「歩きの方が、景色を探り当てるのには良いはずです。」

こうして周辺の住宅街を歩き始めた二人であったが、宮ヶ瀬が記憶している風景と一致するような場所はなかなか見当たらなかった。住宅街もさんざん歩き通して、近くを流れている大きな川に沿った道に差し掛かった時、宮ヶ瀬が突然走り出して、土手に登った。
「あれっ、ここじゃないか?おいおい、来てくれよ、こっちだよ。」
そう言って宮ヶ瀬は興奮しながら佐上を呼んでいる。土手の上に立つ宮ヶ瀬の姿が、佐上にはこれまでよりも小さくなったように見えた。宮ヶ瀬はそのまま向こうに降りていってしまい、見えなくなった。佐上は彼を追う。上に登ってみれば、繁茂した草木がそこらじゅうを覆っていて、川の流れている場所までは距離がある。よくみると、獣道のような、小さな道が茂みのなかへと続いており、宮ヶ瀬はそこを進んでいく。背丈よりも高い草を掻き分けながら勇ましく歩く宮ヶ瀬の姿は、確かに以前に彼が言っていた、大自然の中でよく遊んだもんだ、という発言を裏付けているような気がした。
佐上が追いつくと、宮ヶ瀬の息が上がっている。いくら進んでも、茂みの尽きるところには辿り着きそうにない。視界が草に覆われているため、周りを広く見渡すことができないのだ。
「退院したばかりなのに、あんまり無茶しないでくださいよ。」
佐上がそう言うと、宮ヶ瀬は歩くのをやめずに言った。
「こうやって、自然のなかを歩くのが一番気持ちいいね。本当に俺は、こういう場所が好きなんだ。」
「それで、ここは小さい頃に遊んだ場所だったんですか?」
「それは、最初はそうかと思ったんだけど、やっぱりどこか違うみたいだよ。でも残念ではないよ、この景色は昔遊んだ場所に、かなり似ているから!」
やがて二人は、茂みを抜け、丸い石がたくさん転がっている河原に出た。目の前を、深くはないが幅の広い河川が流れている。宮ヶ瀬は疲れた様子で、その場に座り込んでしまった。佐上もその隣に座る。ゴツゴツした石が、尻に当たって痛い。
「俺は、こういう自然のある場所で、虫捕りとか木登りをして暮らしたい、それが今の俺の、一番の願いだよ、それを確信したよ。」
「そうですか。でも、ここにはあなたの知っている景色はなかったんですね。」
「うん、そうだ。おい、今から大事な話をするよ。」
宮ヶ瀬は、胸のポケットから、タバコの箱に似た、あの銀色のケースを取り出した。
「俺はね、実はこいつの開け方を思い出したんだ。」
宮ヶ瀬が手をかざして念じる素振りをすると、タバコと同じようにフタが開いた。彼がフタを引っ張ると、プレートのような台座の上に、ビー玉くらいの大きさの黒いゼリーが二つ収まっていた。アッ、と佐上が声をあげると、宮ヶ瀬は得意気に微笑し、
「そうなんだよ。これを見た限り、俺が黒いゼリーの犯人らしいんだよ、どうもね。」と言った。プレートには三つの穴が空いており、そこに二つのゼリーが収まっている。一つの穴は空になっていて、そこにあったものが使用されたことを示している。
「でね、提案なんだけれど、俺はもう一度このゼリーを使って、その中に入ることで何かがわかるかもしれないと思ってる。それでね佐上さん、アンタ一緒に来てくれないかい。」
宮ヶ瀬はそう言うと、プレートのうちの一つのゼリーを摘み上げた。
「一緒って、どこにですか?」
佐上は一瞬だけ恐くなった。昔見たSF映画のように、自分がこのまま連れ去られるのじゃないかと考えたのだ。
「いいかい、このゼリーを展開してみれば、何かがわかるかもしれない。三人のパイロットと同じように、ゼリーの中に入るんだよ。ここで使用したところで、どうなるかはわからない。でも、あんた、一緒にゼリーの中に入る覚悟はあるかね。」
「だって、私にはゼリーの中に入る理由がない。それが調査に貢献するわけでもない。なぜこんなことを提案するのですか。」
「そりゃあね、だってもう我々は、調査をする側とその対象、というような関係じゃないでしょう。俺はね、どんな結末が待ち構えているかわからないような状況に、佐上さんが付き合う覚悟があるかどうかを見たいんだよ。」
そうなのだ。佐上はこれまで、傍観者として宮ヶ瀬や事件に関わってきただけだ。しかし佐上の宮ヶ瀬に対する関心は、調査の範囲を超えていた。
「ゼリーに入らなければ、何も話してくれないんですか。」
宮ヶ瀬は、何かを言うことも、微笑することもなく、佐上を見ている。これ以上の情報を得るには、宮ヶ瀬の提案をのんでみるしかないのだ。佐上は、もうどうにでもなれ、とやけっぱちになって言った。
「いきますよ私は。」
それを聞いてうなづいた宮ヶ瀬がゼリーをそばに投げると、ビー玉大だったゼリーはみるみる膨張し、佐上が海岸で目撃した、あの黒いゼリーと同じ大きさになった。宮ヶ瀬が茂みをかき分けるのと同じ動作で、ゼリーに触れると、そのまま中に吸い込まれた。佐上も、ためらいが出ないうちに素早く同じ動作で続く。入る前に、そんなことをしようと考えなかったのに、息を大きく吸い込んだ。入ってみればゼリーはやはり生温かく、しかしそれを意識する前に佐上は気絶した。河原に転がったゼリーは、二人が入った勢いで、少しづつ転がり、そのまま川の流れに乗って川下りを始めてしまった。

目が覚めたとき、佐上の視界を覆い尽くしているのは、真っ黒な宇宙と無数の星々だったので、彼は一瞬、自分が宇宙空間に生身のまま放り出されたのかと思った。しかし、背には湿った大地が密着しており、眼球を動かせば、生い茂る草木が目に入る。佐上は自分がいま見ているのは夜空であることを認めた。それから宮ヶ瀬の存在を思い出し、寝返りを打つようにしてみれば、すぐ隣に宮ヶ瀬が横たわっていた。
佐上は、上体を起こして、宮ヶ瀬の肩を揺する。「大丈夫ですか、起きてください。」さらに激しく揺すると、宮ヶ瀬は目を開けた。
「ああ、なんだ、あんたか。ここはどこだい。」
宮ヶ瀬が間の抜けた言い方をしたので、佐上は心配していたところを拍子抜けしてしまった。そして、自分にも宮ヶ瀬にも、特に身体に問題はないようだと考えた。夜風に揺れて、近くに生えている草の先端が、佐上の頬に当たった。二人は、起き上がって、濡れていない場所に移動し、河原の石の上に座り直した。
「どうやら、あのまま川に流されたみたいですよ。」
「そうかい、じゃあただ川下りをやっただけなんだね。」
「ええ、宇宙に飛び出したとか、そういった類のことは起きていないようですね。」
「そうだね、つまらないねえ。しかし、俺は記憶が少し戻ったよ。いま、いろんなことがありありとわかってきた。」
「何か思い出せましたか?」
「あのロケットのなかでゼリーを使ったのは確かに俺だよ。計器に異常が見られて、すぐにケースから取り出したのを覚えている。その光景が今では映像のように思い出すことができるんだ。ゼリーはプヨプヨしていただろう?みんなアレに包まれて、衝撃から保護されたんだよ。」
「でも、じゃあ、それが本当だとして、あのわけのわからないゼリーはどこから持ってきたんですか。」
佐上は真剣に訊いていた。それをハッキリさせておかなければ、宮ヶ瀬がどこかに消えてしまう気がしたからだった。しかしどうしてそのように考えたのかは、佐上にもわからなかった。宮ヶ瀬は、胸ポケットから銀のケースを取り出すと、それを見つめて、黙っていた。
佐上が空を見上げて、星がたくさん見えますね、と言った。宮ヶ瀬も上を見て、ああ、と返事をすると、宮ヶ瀬は長い独白を始めた。
「普通に考えれば、あり得ないことだとは思うけども、これは俺の思いついたS Fの物語として聞いてほしい。ある異星人が、地球を偵察するためにスパイとして潜入してきた。潜入捜査ってやつだね。潜入には入念な準備が施され、スパイが地球人であることを疑われぬよう、経歴だけでなく、幼少期から現在の年齢に至るまでの偽の記憶さえも揃えた。しかもそれは、そういう設定であるというだけじゃなく、実際にそれらの景色を目にし、体験したかのように語ってみせることができたんだな。なぜなら、スパイにはそれら偽の記憶が、異星の超技術によって、あらかじめ頭に直接、注入されていたから。そのような入念な準備の上での潜入がバレるはずがない。スパイは完璧に仕事をこなし、十分に情報を集めた。そして地球での任務は完了した。いざ帰還するぞ、となったときに、その帰還の方法が限られていることがわかった。つまり任務はあくまでも隠密に成されなければならないから、情報さえ得られればオーケー、と言う訳には行かないんだね。スパイが帰還をするためには、地球の技術を借りて、大気圏外へと脱出しなければならなかったんだ。一度宇宙に出てしまえば、異星人の巨大な宇宙船が迎えにきても、地上よりもはるかに露見するリスクが低いわけだからね。それで、そのスパイはとても優秀だったから、地球の技術に乗っかって、うまく脱出する方法を見つけ出し、実際にそれを実行に移した。宇宙飛行士になって、ロケットに乗り込むというやり方だね。しかし、脱出の最中にトラブルが起きた。やはり地球の技術はスパイの母星のそれに比べてまだまだ未熟だったからね、低いとはいえ事故のリスクがあったんだね。ついてなかったんだな、そのスパイは。ロケットは大気圏外に脱出する前に爆発して、粉々になってしまったんだ。それで、スパイは爆発の前に手持ちの緊急救命ゼリーを使用して、なんとか助かったものの、今度は事故の衝撃で、地球以前の記憶を失ってしまったんだな。そして、ここにきて潜入の前に偽の記憶を注入したことが仇となってしまう。スパイは、自分のことを地球人だと勘違いしてしまったわけだ。近くで待機していた異星人の宇宙船は、それを宇宙から見ていて、スパイ回収のミッションを中止し、故郷の星に帰ってしまう。どうだい、これが俺の考えた、悲劇の宇宙スパイの物語だよ。」
風がよく吹いていて、流れる川の水面にさざ波を起こした。それが川の流れとは逆の方向に向かって立つので、まるで川が逆流しているかのように見えた。
「それで、その物語の中のスパイは、潜在意識下では、やっぱり宇宙の彼方の、母星に帰りたいんだと思いますか?」
「いや、どうだろうね。事実として自分が異星人だと知っているのと、そこに実感が伴うかどうかは別のことだからね。より実感が伴っているほう、つまりは地球の自然に囲まれて暮らすことの方が、そのスパイにとっては幸せなんじゃないかね。」
「本当にそうですかね?だって、母星と地球とじゃあ、全く環境が違うわけでしょう?それにもし、いつか実感を伴った形で母星のことを思い出してしまったら、どうするんですか。きっと後悔するでしょう。」
「しかし、先の後悔の可能性まで考えるのは、野暮ってもんじゃないかね。だってそれなら、母星だと思っていた惑星に帰ってみたら、やっぱり自分は地球人だった、ってこともありうるからね。」そう言って、宮ヶ瀬は、ケースの中の残り一つのゼリーを見ている。
「それにね、帰りたくたって、簡単には帰れない。このゼリーを使っても、宇宙に飛び出せるわけじゃないからね。こんなもの、全然役に立たない。だからね、ここはやはり、その時の実感みたいなものをもとに、決断するしかないんじゃないかね。それで腹を決める、ということなんだよ。俺はもう宇宙に行こうと思うのは、やめた。自分がこういう河原のような自然のある場所が好きなんだと気づいたんだよ。何が本当のことかはわからないけれども、自分はこの実感を頼りにしようと思ったのよ。」
佐上は、そのような宮ヶ瀬の決断に対して、自分はかけるべき言葉を持っていない、と思った。宮ヶ瀬は、そのまま銀のケースを、川に向かって投げた。ぽちゃん、と軽い音がした後は、大きな波紋も現れず、夜風が起こすさざ波にすぐに覆われてしまった。水面には、川の周りの高層マンションの、無数の白い明かりが、揺れてギザギザ模様になりながらも、規則正しく整列して映り込んでいる。
「そろそろ、帰りましょう。」
「帰るって言ったって、どこに帰るんだよ。」
「どこでもいいですから、とにかくこの河原を出ましょう、こんな場所に長居してたら、虫に刺されてしょうがないですよ。」

二人が河原を歩いて茂みを抜け、土手に登ると、整備された遊歩道があって、そこを仕事帰りらしきサラリーマンがロードバイクに乗って、高速で通過した。後ろに取り付けられた、赤いLEDライトが点滅している。周りをみれば、学校帰りの高校生がいたり、反射材を服につけてジョギングをしている夫婦がいる。佐上はそれを見て、急に、さっきまでの出来事が夢に過ぎないのじゃないかと不安になった。隣には、宮ヶ瀬が立っている。彼は行き交う人々を呆然と眺めていた。佐上は、あわてて自分の背中を触った。服はまだ濡れており、砂利もついていた。そして、停めっぱなしにしている車のことを思い出した。
「ああ、車のことを忘れてた。あそこに停めたままだった。」

コインパーキングに停めた車の、助手席の下の奥まったところに、宮ヶ瀬のポケットから落ちた、例の紙切れが、人知れず転がっている。そこには以前と変わらないメッセージが記されている。

<コレ以上ノミッション継続ハ、デキナイ。我々ハ故郷ニ帰ル。>

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