まばたきは短いねむり

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梗 概

まばたきは短いねむり

 人類は半永久的に生活可能な居住用人工衛星と〈ポッド〉と名付けられた小型の汎用宇宙船の開発により、宇宙空間での居住を実現し資源の枯渇の恐怖から開放された。しかしなお超越困難な死への恐怖から、代替可能な培養脳と〈人工有機体〉から成る身体を持つ子供を作り出した。こうして作られた子供はひと欠片の脳からも再生可能に。「人類の新たな可能性」として未だ死を克服できない大人たちの希望となった。
 
 
 マシロは地球からほど近い軌道を周回する衛星で生まれた。マシロは、培養脳と人工有機体により人工的に作られた子供の1人だった。しかし、他の子供が死への恐怖を完全に克服しているのに対して、マシロはその不死の身体とは裏腹に生来大きすぎる死への恐怖を抱えていた。過剰に死を敬遠する脳と身体はマシロから眠りすら奪った。マシロは生まれて一度も眠りにつくことはなかった。
 14歳の誕生日に、マシロは自分専用のポッドを買ってもらう。家族3人で宇宙旅行に出るが途中で両親と諍いに。マシロは航路を飛び出し、見知らぬ星に不時着した。
 
 不時着した星には海があった。ぱしゃり、と水面が揺れる音がした。浜辺に同い年くらいの少女が打ち上げられている。驚くマシロのもとに、ナギという女性が現れる。ナギは少女、ユキコを抱えるとマシロを家に招待した。マシロが言葉少なに経緯を話すと、ナギは暫くこの星にいては、と提案する。
 星には、マシロの育った衛星よりも多くの生き物や植物が溢れていたが、そのどれもが驚くほど短命だった。マシロは、初めて触れる「死」に圧倒される。しかし次第に、不死を特別視しないナギとユキコとの暮らしに安らぎを感じ始める。
 ある日の真夜中、浜辺でナギがポッドを宇宙に飛ばすのを見てしまう。ポッドの中には、安らかに目を閉じた大人たちが横たわっていた。ナギはこの星が、死への恐怖から眠りすら困難になった大人たちを癒やすセラピー施設であることを明かす。移ろいゆく自然や短命な生き物たちに囲まれ、常に死を肌身で感じることで、死を当たり前のものとして受容し、死への恐怖を緩和するというプログラム。この星の生き物たちは短期間で生死を繰り返すよう人類が作り出した人工有機体の集まりで、ナギは施設の管理のため他の衛星から派遣された人類だった。
 
 翌朝、嵐がやってくる。暗く閉ざされた家の中で、ユキコに今日でお別れだと告げられる。ユキコもこの星の生き物たちと同様に生死を繰り返す存在だった。動揺するマシロに、ユキコはまた会えるよと微笑む。
 
 明け方、嵐が去ると同時に、ユキコは静かに息を引き取った。ナギは初めて会った時のようにユキコを抱えて、マシロと海へ向かう。ユキコを海に還したあと、マシロは浅瀬に横たわる。ユキコの体温に似た柔らかな波が心地良い。マシロはゆっくり眠りに落ちてゆく。
 ぱしゃり、と水面が揺れる音が聞こえたような気がした。

文字数:1194

内容に関するアピール

 今回、SFに詳しくないなりに睡眠を中心に生命・宇宙と関心のあるトピックで執筆しました。睡眠には以前から興味があります。以前、睡眠のメカニズムについて勉強したときに、すごくシステマチックかつ不可解で魅力を感じて、今回のテーマに盛り込みました。
 小説を書くのは初めてですが、誰かの「ない記憶」になりたいと思います。「ない記憶」というのは、実際に自分が体験したことはないけれど、なにか小説や漫画や映画で追体験したことがまるで自分の体験みたいに残ってる、みたいなことです。
 なぜSF講座に?と言われると、今はただ直感で面白そうだったから、という漠然とした答えしか出せませんが、この1年間で、少しでも誰かの「ない記憶」になれるSFを書きたいです。どうぞよろしくお願いします。

文字数:333

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まばたきは短いねむり

 窓の外に広がる闇はどこまでも冷たく深い。あたしたちは、水飴のようにとろとろと引き延ばされた暗く透明な永遠の中でひっそりと息をしていた。

 地下深く、人々の目から逃れるように、その施設はあった。人類を死の恐怖から解放しようと、不死の身体と不滅の魂の研究が行われ、閉鎖された空間で何度も極秘の実験が重ねられた結果、人工的に生成された脳と身体から成る子どもたちが生み出された。この子どもたちは再生能力に優れ、ひと欠片の脳からも全身を再生することができた。この子どもたちの研究は、従来の人間たちの寿命を飛躍的に伸ばすことにも利用された。

 細く開けたドアの隙間から、真っ直ぐに伸びる光が一番目のねえさまの瞼を照らしている。ねえさまはベッドに身体を真っ直ぐに横たえたまま微動だにしない。あたしは、ベッドのすぐそばにぺたりと座って、毛布の端に頬を乗せた。ひんやりとした毛布の表面にみるみるあたしの体温が染みてゆく。眠っているねえさまを根気強くじっと見つめ続けて、ようやく胸がゆっくり上下に動いていることや、睫毛の幽かな震えを確認できる。ねえさまが眠ってから、一体どれほど時間が経ったのだろうか。あたしたちはいつの間にか時間を数えることすら忘れてしまった。

 「死」について教えてくれたのは一番目のねえさまだった。死んでしまった人には、もう会えず、話をすることも、触れたり抱きしめたりすることもできないという。けれど、こうしてずっと眠り続けているねえさまとねえさまの教えてくれた「死」がどれだけ違うのか、あたしにはわからない。

 あたしは生まれてからずっとこの施設で五人のねえさまたちと一緒にいる。施設には、広いホールとそれぞれの個室、疑似太陽光が輝くサンルーム、図書室があり、それがあたしたちのすべてだった。外の世界はもちろん、ここが一体どこにあるのか、海底なのか、空の中なのか、地球なのか宇宙なのかさえあたしたちは知らなかった。あたしたち何も知らないまま長すぎる時の中を生きている。

 ホールのドアを開けると、ちょうど鳩時計が鳴り出した。ホールの壁に取り付けられた鳩時計。彼だけがたったひとり「時間」を覚えていて、今でも休まずたったひとりで時間を数え続けている。かつて、ねえさまたちが「ねむり」の準備をして賑やかだったホールも今ではすっかりしんと静まり返っていて、あたしの足音だけがやけに高く響いた。

 ねえさまたちは、みんな定期的に「ねむり」に入る。長さはその時々によって違う。拍子抜けするほど短いときもあれば、ものすごく長いときもある。ただひとつ変わらないのは、あたしがいつもひとりぼっちだということだけ。あたしが初めてこの世界で目を覚ましたときも、ねえさまたちは「ねむり」の最中にいた。あたしは、ねえさまたちが目覚めるまで、ずっと、ひとりぼっちで人工羊水の中に浮かんでいた。あたしはそのときから一度も眠ったことがない。

 静かなホールの片隅で、ねえさまがくれた図鑑を読む。全部で三十冊ほど、三万ページあるこの図鑑も、すっかり暗記してしまった。文字や写真の上を視線がするすると滑ってゆく。ぱらぱらとページだけを無心でめくり続けた。ふと見上げた窓は、うっすらと暗くなり始め、あたしの顔をぼんやりと映し出していた。

 ホールの鳩時計が「夜」を告げる。がらんどうのホールに響き渡る彼の声は一層大きく聞こえ、冷たい床の隅々にまで染み渡ってゆくようだった。

 ねえさまたちの「ねむり」は恐ろしく静かだ。鳩時計も眠ってしまったあとには、痛いほどの静寂がやってくる。ホールの隅で膝を抱えてうずくまる。床のひんやりとした感触が背骨を伝って全身に巡ってゆく。徐々に鋭くなってゆく感覚についていけない。耳鳴りと自分の鼓動の音だけがやけにうるさい。まるで、ぽっかり空いた深い穴の中にひとりだけ取り残されたみたいだと思う。その穴の中ではあたしの感覚も、思考も、身体も、なにもかもが透明になってゆく。はじめから存在していなかったみたいに。氷のようになめらかに溶かされてゆくイメージに、ぞわぞわと不快感がせりあがってくる。ふと、一番上のねえさまが教えてくれた「死」が頭をよぎる。

「死んだらみんなひとりぼっちなのよ」

 ねえさまは、「死」について語るとき、必ずそう言って笑った。爛々と鈍い光をたたえて濡れた瞳も、いつもささやくような吐息交じりの声も、あたしの手を握るときの意外な力強さも、全部ぜんぶ覚えているのに、ねえさまはあたしを抱きしめてはくれない。あたしはまぎれもなく生きているはずなのに。どうしてこんなにもひとりぼっちなのだろう。

 のろのろと立ち上がって、五番目のねえさまの部屋のドアをそっと開ける。最も闇の濃いところにねえさまの寝顔が見えた。ゆっくり近づいて、ベッドのそばに座る。目が暗闇に慣れるのを待つ。次第に、ねえさまの胸がゆっくりと上下するのがぼんやりと見えてくる。目を凝らして、瞼の小さな痙攣を、睫毛の幽かな震えを捉える。あたしは、ほっと胸をなでおろす。ねえさまがいつも通り眠っているのがわかると、次は、四番目のねえさまの部屋へ行く。長い時間をかけて、どのねえさまもみんな同じように眠っているのをたしかめる。やっぱりあたしだけがいつもひとりぼっちだ。あたしは、一番目のねえさまの部屋に戻ると、ねえさまの胸で泣いた。

 鳩時計の声が漏れ聞こえてくる。どれほどの時間が経ったのだろうか。最初は数えていた鳩時計も、三千を超えたあたりから数えるのをやめてしまった。あたしは、ずっと一番目のねえさまのそばを離れなかった。床に座って、頬をベッドに乗せながらねえさまの寝顔を眺めたり、図鑑を音読してあげたり、泣いたりした。けれど、いまだどのねえさまも目を覚まさない。

 窓からの光が徐々に薄暗くなってきた頃、ふと、空気の匂いが変わった気がした。ドアはぴったりと閉まっている。誰か、ねえさまが目を覚ましたのだろうか。ドアの向こうに意識を集中させて、耳をすませる。違和感の正体に気づいた。ねえさまたちはいつも同時に目を覚ますから、こんなに静かなのはおかしい。様子を見に行こうと、立ち上がると、ドアは音もなく勝手に開いた。

 声を上げる間もなく、なだれ込んできた物体にうつぶせに組み伏せられ、目に黒い布を巻かれた。何も見えない。ねえさま、と叫ぼうとすると、すかさず口も布で覆われて、ただ、くぐもった荒い息を吐くしかなかった。だれ?どうして?混乱と恐怖が濁流のようにあたしをもみくちゃにした。ふいに、身体が宙に浮く。すぐそばに体温を感じた。誰かに抱きあげられているような感触がした。もしかして、「大人たち」なのだろうか。あたしは全身の力を抜いて、ぐったりと身を預ける。ねえさまは、「大人たち」に逆らうことはできないと言っていた。あたしが、ここでジタバタしてもきっと無駄なのだろう。歪に押し込められた左腕があたしを抱き上げている「大人」の鼓動に触れた。

 身体にぴったりと密着していた体温が、すっと遠ざかった。お尻がひんやりと硬く無機質なものに押し当てられる。椅子だろうか。あっという間に肩と腰をベルトのようなもので固定されていく。もう、恐怖や不安というよりも、ただ、もうねえさまたちと離れ離れになってしまうのが心細くて泣いた。涙が溢れるほど、布は生暖かく、ぴったりと張り付いて惨めだった。

 

 実験体は移動用ポッドに格納された。ポッドは搬送のために開発された乗り物だ。地下にある実験モジュールはそれぞれ独立しており、実験体の移動は、地上と地下を繫ぐ垂直の穴を通して行われた。ポッドは穴を安全に降下するためのもので、降下を感知すると、パラシュートが展開されて、ゆっくりと地表へ落ちる。ポッドの見た目が黒くて丸いこと、地表に向かってふわふわと落ちていくことから、研究所内では、植物の種子にたとえられていた。実験体を乗せたポッドは別の実験モジュールの入口まで運ばれた。穴の前に置かれたポッドをひとりの職員が無造作に押す。ポッドは音もなく闇の中に吸いこまれていった。

 突然、身体がふわりと浮いた。内臓が浮き上がるような感覚に、全身がこわばる。地表に叩きつけられる直前、なにか柔らかくひんやりしたものが全身を包み込んで、一瞬で消えた。全身に巻き付いていたベルトが自動で外れてゆくのと同時に、目の前が急に明るくなった。あたしは恐る恐る目に巻かれた布をはぎ取る。

 ひかり。最初に目に飛び込んできたのは、目が眩むほどの光の氾濫だった。遠ざかり、近づき、絶え間なく動き続けるひかりは、深くやわらかな音を発している。

「うみ」

ふるえる声で、その名を呼ぶ。図鑑で見た、あの真っ青なページが目の前にあった。乱反射する水面や、全身を包みこむ音、ぬるい匂い、圧倒的な質量に呆然とする。向かい風が吹いて、ぬるい香りがあたりに満ちた。はっとして周りを見渡す。どうやらあたしはカプセルのようなものに閉じ込められていたらしい。

 長方形に開いた出口を飛び越えると、ちょうど波が足首をやわらかく撫でていった。とろとろと足の形に沈み込む濡れた砂が心地良い。一歩、波を追いかけて踏み出す。もう一歩、さらに一歩。徐々に足を撫でる砂の感触が変わってゆく。また波がやってきて、今度は膝まで海水に飲み込まれる。生ぬるく重みのある感触にかすかな安心感があった。鮮やかな色をした小魚が脚の間をすり抜けてゆく。手のひらで水面に触れると、指の隙間がきらきらと光で満たされた。

 ぱしゃり、と水面が揺れる音がした。振り返ると、白い物体が浜辺に打ち上げられている。ゆっくり抱き起すと、それは、あたしにそっくりな女の子だった。

「ねえ!起きて!」

耳元で叫びながら頬を叩くと、顔の周りで水しぶきがきらきらと跳ねた。光の中で、瞼がゆっくりと開く。思わず息を飲んだ。あたしの腕の中でまっすぐにこちらを見上げる瞳は、あたしと同じ深い青色ではなく、透き通るようにきれいな翡翠色だった。

 少女は、むくりと起き上がるとそのままあたしを置いてすたすた砂浜を歩きだした。ねえ、とか待って、と声をかけてみても、見向きもされなかった。突然のことに頭がついていかない。波打ち際に座り込んだまま、呆然とする。あたしは、ねえさまたちから引き離されて、気がついたら海にいて、でも、海にはあたしにそっくりな子がいて……。一体どういうことなんだろうか。あたしは藁にも縋る思いで、少女のあとを追いかけた。

 少女は、周りを植物に囲まれた白くて四角い建物の中に入っていった。あたしは少し警戒して、ぐるりと建物の周りを歩いてみることにした。建物の前には、見上げるほど大きな木が門番のようにそびえていた。こぼれおちそうなほどたくさんの白い花が咲いている。しかし、そのほかの植物はあたしの肩や腰くらいの高さのものばかりだった。小さな赤い実を鈴なりにつけているもの、甘い香りのする花を所狭しと咲かせているもの、顔よりも大きな青々とした葉が垂れているものなど様々な姿形を持つものが生い茂っていた。建物の裏には広い花壇があり、小さな花たちが咲き乱れている。葉に触れてみたり、花や実の匂いを嗅いだり、夢中になっているうちに一周して建物の入口に戻ってきてしまった。入口の白いドアには、大木の影が模様のように落ちて静かに揺れている。

 ここがどこなのか、どうしてあたしが連れてこられたのか、あの少女は何者なのか、あたしはねえさまたちの元へ戻れるのか、何もかもわからないことだらけの中では、わずかな希望であったとしても、少女に縋るしかない。震える足を一歩踏み出した瞬間、勢いよくドアが開いてあたしは思い切り尻もちをついた。

「お客様ですか?」

風のように透き通る声。少女はにっこりと笑いながらあたしに手を差し伸べた。少女の白い手のひらは柔く、びっくりするほど熱かった。あたしは少女に手を引かれながら建物の中に入った。

「あなた、初めて来た方ですよね?」

少女の声は、建物の中だと一層響く。うん、と小さく答えながら、ふと、さっきあたしと海で会ったことを覚えていないかのような少女の態度に違和感を覚えた。建物の中はひんやりと涼しく、けれど少しだけ海のぬるい香りがする。入口の短い廊下を曲がると、床から天井まで一面が大きな窓の部屋に出た。光がまっすぐ差し込んで、床には様々な形の濃い影が揺れている。少女は、窓際のソファに腰かけると、あたしも隣に座るよう促した。

「わたしのことはユキコと呼んでください。あなたの名前を教えてもらえますか?」

「なまえ?」

あたしはもちろん、ねえさまたちも名前なんて持ってない。言い淀むあたしを、ユキコは不思議そうな目で見つめた。

「名前言いたくないですか?そうしましたら、ここでの名前を決めてもいいですか?」

「ここでの名前?」

「はい。わたしがあなたを呼ぶための名前です。」

ユキコは、両手であたしの顔を挟んで自分の真正面に向けると、まじまじと観察を始めた。緑色の瞳があたしの輪郭や、鼻、目、唇、顔のあちこちをゆっくりなぞる。

「ウミ。あなたのこと、ウミって呼んでもいいですか?」

ユキコはそう言ってあたしの顔をそっと解放する。あたしが小さくうなずくと、ユキコは満足げに笑って手を差し出す。

「はじめまして、ウミ」

差し出された熱い手のひらを握る。ユキコの髪が陽に透けてきらきらと輝いていた。ウミ、口の中で小さく転がす。ウミ、あたしの名前。

「ウミの瞳は、きれいな深い青色で、本当に海が宿っているみたいです。わたしたち、顔はそっくりなのに目の色だけ全然違いますね」

ユキコは翡翠色の目をキラキラさせながら笑った。あたしは、ユキコの瞳を少しうらやましく思った。ユキコは、そうだ、と言いながら突然立ち上がると、隣の部屋にある姿見の前に立たせた。あたしたちは肩を寄せ合って、姿見の中に収まる。

「身長も同じですね」

ユキコはあたしたちの頭の上で手のひらをひらひらさせながら言った。たしかに、背の高さも、手足の長さも同じだ。目の色さえ隠してしまえば、きっとねえさまたちにだって見分けがつかないだろう。ユキコは鏡の中でくるりと回ると、あたしを見つめて目をほころばせた。

「ここは一体なに?」

さっきからユキコのペースにのまれて、肝心なことが何も聞けていない。これじゃここに来た意味がない。あたしは意を決してユキコに尋ねた。ユキコは、ぴたりと動きを止めて、あたしをまっすぐ見つめると、その大きな翡翠色の目を大きく見開いた。

「もしかして、何も知らずにここに来たんですか?」

ユキコの問いかけにうなずき、いきなり攫われてここに来たことを話した。あたしが話し終わると、ユキコはまたあたしの手をやさしく引いて、庭に出ましょう、と言った。

 建物の外に出ると、瑞々しい香りのやわらかな風が頬を撫でた。ここの風は、サンルームの風と違って複雑な匂いと温度がある。海があるからだろうか。ユキコが、あっと歓声をあげて走り出す。ユキコは蝶です、と言って腰くらいの高さの木の枝にくっついた黄緑色の突起を指した。図鑑に載っていた蝶とずいぶん違う。あたしが首をかしげると、ユキコは小さく笑って、よく見ていてくださいと言った。あたしが突起の目の前にしゃがみ込むと、黄緑色の突起は小刻みにふるえ始めた。ふるえは徐々に大きくなり、薄い膜を破ってふわふわとした蝶の頭が現れる。蝶は身体を揺らしながらゆっくりと膜を脱ぎ捨ててゆく。膜から出たばかりの湿った翅がみるみるうちに大きくぴんと張ると蝶はひらりと風の中に飛び込んだ。慌てて追いかけると、白い翅をはためかせながら黄色い花の群生の中を踊るように飛んでいた。次の瞬間、吸いこまれるようにひとつの花に止まると、ひらひらと風のようだった翅を静かにぴったりと閉じた。すべてがあまりにも綺麗で、あたしは呼吸さえ忘れた。ユキコが耳元で、また、目を離さずじっと見ていてください、と囁く。すると、蝶は翅をぴったり閉じたまま、ぽとりと地面に落ちた。蝶の近くにしゃがんで、指先でそっと翅に触れる。乾いた粉が指先についた。さっきまで躍動していた蝶は沈黙の中に閉じ込められたように、ぴくりとも動かない。ユキコはそっと自分の手のひらに蝶を乗せると、

「これが死です」

と言った。さっきまで風の中を生き生きと泳いでいた蝶が、翅を固く閉ざして微動だにしない。死の圧倒的な力を前にして、あたしは何も言えなかった。

「ここは、セラピー施設なんです。ここの生き物たちはこの蝶のように短いサイクルで生死を繰り返すようプログラムされています。長い生命を手に入れた反動で、死への恐怖から眠れなくなった大人たちが、日常的に死に触れ、心を癒し、再び安らかな眠りを手に入れるために存在しているのです」

ユキコの声には冷たい響きがあった。ユキコは庭を歩き回りながら、虹色の背を煌めかせて走る小さなトカゲがぱたりと動かなくなるところ、ふさふさの尾を立てて力いっぱいに木の上を駆け回っていたリスが音もなく地面に倒れるところをあたしに見せた。あたしは、初めて見る死に圧倒され、そして理解できずにいた。

「死んでしまった生き物たちはどこへ行くの?ひとりぼっちになるの?」

傾き始めた陽がユキコの手の中で沈黙する生き物たちをやさしく照らしている。ユキコは海に行きましょう、と穏やかな声で言った。

 水平線に溶けてゆく太陽が海をやさしい橙色に染めていた。あたたかな光の中で、ユキコの輪郭も、ユキコが両手に抱える生き物たちの輪郭もじんわりと滲んで見えた。ユキコは波打ち際までまっすぐ歩くと、膝が浸るくらいのところで立ち止まった。あたしも隣に並ぶ。

「生き物たちは、みんな海へ還っていきます」

ユキコはそう言って、両手に抱えていた生き物たちをゆったりと穏やかな波に差し出した。太陽の方向へゆっくりと運ばれていった生き物たちが、光る波間に溶けて見えなくなるまで、あたしとユキコはそのまま並んで海を見つめていた。

「死は、ひとりぼっちになることじゃなくて、みんなのところへ還っていくことだと思います」

ユキコが独り言のようにつぶやいた。ユキコのなびく髪が群青色に染まり始めた空と混ざり合う。みんな、あたしの行けない場所へ還ってゆく。あたしの生命にもどこか還る場所があるのだろうか。徐々に暗く色を失ってゆく海が少し寂しげに見えた。

 夜、あたしはひとつしかないベッドに、ユキコと並んで寝かされていた。どうせ眠れないので、ソファでいいよと丁重にお断りしたのだが、ユキコは二人で寝ても全然狭くないです、全然大丈夫です、と半ば無理やりあたしを引き込んだのだった。たしかに、ベッドは十分広く、ふかふかで心地よい。けれど、ちっとも眠ることはできなかった。仕方なく、ぼんやりと天井を見つめる。

「やっぱり眠れませんか?」

ユキコの声にびくりと肩が跳ねた。やっぱりあたしはソファで、という言葉を遮って、ユキコはあたしを浜辺に誘った。

 夜の海はたっぷりとふくらんで、あたしたちを丸呑みにした。波音は深く低く響き、風はどこもかしこも海の匂いがする。夜の海には、昼間とは比べものにならない豊かさがあった。あたしたちは真っ暗な砂浜に二人で並んで座った。

「ウミはいつから眠れないんですか?」

「生まれてから一度も」

お互い真っ暗な海を見つめていた。海は光を失って、夜と混ざり合っている。あたしは自分の膝を強く抱きしめた。ふと、昼間にユキコが教えてくれたことを思い出す。ユキコは、ここが大人のためのセラピー施設だと言っていた。

「どうして大人たちは眠れなくなってしまうの?」

「長い長い時間を手に入れた身体に、心がついていかなかったのではないでしょうか」

暗くてユキコの表情は見えないが、また冷たい響きがあるような気がした。ユキコは、大人たちをよく思っていないのかもしれない。

「今までに、あたしみたいな子どもが来たことはある?」

「わたしがすべて把握しているわけではありませんが、わたしが知っている中ではいませんでしたね」

あたしは、そっか、と小さく言った。なぜあたしだけ眠れないんだろう。あたしたちの間に沈黙が流れる。

「もしかして、ウミは死ぬのが怖いんじゃなくて、生きているのが怖いんじゃないですか」

波の音で消えそうな声だった。どういう意味かと聞き返そうとしたのに、ユキコが、すみません忘れてくださいと早口で言うから、あたしはもうそれ以上何も言えなくなってしまった。――生きるのが怖い?そんなこと今まで考えたこともなかった。ユキコがあたしの手に触れる。ここに来てから、あたしはユキコに触れるたび、どんなときも心が凪いでゆくのを感じていた。

「ユキコはここに、ずっとひとりでいるの?」

ユキコは、そうですねと言いながら足の甲についた砂を払った。

「ひとりぼっちで寂しくない?」

「うーん……。どうでしょう」

どうでしょうって何よ、とあたしが笑って言うと、ユキコは

「そういうのは、もうあまり感じなくなってしまったかもしれません」

と答えた。穏やかで静かな声だった。ユキコとは初めて会った時から、あたしたちの間には、姿かたち以上になにか通じ合うものがあった。ユキコもあたしと同じ気持ちだったらいいのに、と思った。

 あたしたちは、空が白み始めるまでずっと浜辺で海を眺めていた。

 

 浜辺から戻ると、ユキコが植物の手入れをするというので、手伝うことにした。

「ここの植物たちは全部わたしが育てたんですよ」

ユキコは得意げに笑った。ユキコは、赤い実のなっている木の枝をてきぱきと切ってゆく。

「切ってしまって死なないの?」

あたしが不安になって尋ねると、ユキコは笑って、植物は大丈夫です、と答えた。

「植物はこうして一部を切り取っても死にません。それに、切り取ったものからまた新しく増えることもあります」

あたしやねえさまと同じだ。あたしは植物のことを急に身近に感じた。そして、もしかしてという淡い希望を抱いた。

「植物も死んだら海へ還るの?」 

「いいえ。植物は動物たちとはまた少し違いますから。それに、わたしが勝手に育てているものなので」

ユキコの返答に胸がちくりと痛んだ。そして、はっきりと自覚した。あたしは、還るところのある、この場所の動物たちを羨んでいることを。ユキコの言う通り、訪れることのない死などではなく、どこまでいっても還る場所のない生命を生きることに恐怖しているのだということを。

 

 その日の夜、あたしはユキコと一緒に寝たいと言ってみた。死を恐れているのではないとわかった今なら眠れるような気がしたのだ。ユキコと隣り合って寝る。お互いの体温が徐々に溶け合って、あたしとユキコの間にあたたかい空気が満ちてゆく。心地良い温度が全身を包んで、身体の芯からほぐれていくようだった。しかし、あたしは眠れなかった。どうやら、死の恐怖をはねのけることが答えではないらしい。また振り出しに戻ってしまった。あたしはあたたかい布団の中で、どこにも行けない自分の生命のことを考えた。

 

 灰色の薄い雲の隙間から零れる淡く鋭い光がユキコの白い瞼を照らしている。ユキコは煩わしそうに身を捩って毛布の中にもぐりこんだ。あたしも真似をして隣にもぐると、すぐ目の前にユキコの翡翠色の瞳があった。薄暗い毛布の中でお互いの瞳が乱反射する。あたしの顔がユキコの瞳の中で揺らめく。

「嵐がきます」

ユキコは瞳にあたしを宿したまま、やけにはっきりとした声で言った。

 空がどんどん暗くなって、海もどす黒く凶暴な表情を露わにし始めた。刻々と表情を変える空と海に、あたしは胸がざわざわして落ち着かなかった。波が次第に近づいてくる。

「ここも波に流されたりしないの?」

あたしが尋ねると、ユキコはここは大丈夫です、と笑った。

 突然、高波があたしたちを飲み込んだ。一瞬で頭上に海水が満ち、部屋の中が暗くなった。まるで海の中にいるみたいだった。窓からは、銀色の尾をひらりと翻して泳ぐ魚たちが見えた。

「庭の植物は、海水を浴びても平気なの?」

あたしが尋ねるとユキコは、本当の海ではないので平気です、と俯いた。

「これは全部、培養液です。短い生死を繰り返すだけの生き物を生み出すための。だから本当の海じゃないんです。見た目をそっくりに似せているだけで」

窓ガラスに大きな銀色の魚のようなものが叩きつけられた。目がない顔はつるりとして、うろこがまばらで、お腹から桃色の臓器を垂らしていた。窓ガラスには、虹色のぬるぬるとした粘液が光っている。ユキコは、あれはまだ途中なんです、とつぶやいた。

 初めてここに来た時と同じように、あたしたちはソファに隣り合って座った。ユキコがそっとあたしの手を握る。

「今日でお別れです」

ユキコが顔をこわばらせながら、はっきりと告げた。暗い部屋で、互いの瞳が乱反射する。

あたしは、何も言葉を返せない。見た目だけで、ユキコもあたしと同じ不死の子どもだと思い込んでいた。いや、ユキコが海から来たのを見ていたのに、ユキコの言葉や仕草の端々にそれはあったのに、考えないようにしていた。どうしてもっと早く気づいて、向き合わなかったのだろう。自分の弱さに腹が立つ。

「もう会えないってこと?」

「はい」

「あたしのせい?」

ユキコは、いいえ、と穏やかに笑った。

「わたしはずっと苦しかったんです。長い長い命を持つ人々に消費されるために生まれるのが。だけど、ウミと出会って、ウミも不死の生に苦しめられていると知って、勝手に救われたんです。ああ、わたしだけじゃないって。最低でしょう?」

ユキコの翡翠色の瞳から、涙が流星のようにぽろぽろとこぼれた。

「だから、ウミもわたしの死を利用していいんです。救われていいんです」

あたしたちは抱きしめ合って泣いた。ユキコもあたしも無力でちっぽけで、なのに救われることを願ってしまった。あたしたちには、どうしようもない。ただ、今ここにあるお互いの体温だけが本当だった。

 

「ねえ、ひとつ聞いていい?」

ユキコは、何でしょう、とあたしの目を見つめる。

「あたし、ユキコが海から生まれるところを見たの。覚えてる?」

あたしを見つめる瞳がまん丸に見開かれる。

「いいえ。わたしのプログラムは、海からこの建物にたどり着かないと始まらないので」

ユキコは、少しだけ残念そうに言った。

「じゃあ、わたしがこうなることも途中で気づいていたのですか?」

ユキコは片眉を上げていたずらっぽく笑う。あたしは、ゆっくり首を振った。

「本当はもっとはやく気づくべきだったのに」

頭上から時折、光の欠片が落ちてきて気まぐれにあたしたちを照らした。

「よかったんです。わたしたちはこれで」

ユキコは静かに微笑む。ユキコの頬に、髪に、膝に、小さな光がゆらゆらと揺れていた。

 

 ユキコはソファに身を横たえた。あたしの目を見ながら、ゆっくり長いまばたきをする。

「こうして、ゆっくり長いまばたきをしていると、いつの間にか眠れるんですよ」

試してみてください、とユキコは笑う。そして、ふと真面目な顔をして、

「眠りも死の欠片なのでしょうね」

と小さくつぶやいた。あたしは、そっとユキコの頬に触れた。

 

 ユキコのまばたきがだんだん長くなる。

「また会えるよ」

ユキコはまっすぐにあたしを見つめる。そして、ウミの話し方が移りました、と言ってあたしの手を握った。ユキコの手のひらは、ゆっくりゆっくり熱を失っていった。

 

 ユキコをおぶって海へ向かう。ユキコの肌はすべすべとなめらかなだけで、もう、あの心地良いぬくもりがなかった。揺すっても叩いても目を覚まさないこと、肌にぬくもりを宿さないこと、どんなに胸をくっつけてみても鼓動が重ならないこと、ユキコの身体が様々なかたちで突きつけてくる「死」に圧し潰されそうになる。涙のせいでありとあらゆる境界線がぼやけて、心許ない。朝焼けの淡い金色があたしとユキコを照らしていた。温度のない光の中に涙が次々と落ちてゆく。砂に足をとられながら、それでもあたしは懸命に前に進んだ。

 波が胸の高さに来るところで立ち止まった。波が時折あたしの頬や髪に触れる。あたしは、ユキコを波にそっと差し出した。ユキコは何度か小さく行ったり来たりしたあと、一気に遠くに引っ張られていった。あたしは、ユキコを見失うまいと必死に目で追った。ユキコは金色の波の中を、ゆらゆらと心地良さそうに揺れていた。そして、ふいに、どぷりと波間に沈むと、そのまま姿が見えなくなった。

 あたしはユキコの後を追いかけようとして、波に押し戻された。砂浜に座り込んで、いつまでも、波の隙間や乱反射する水面の光の中にユキコの姿を探した。足の甲や指先に纏わりついていた砂がすっかり乾いて、風がやさしく引き剥がしてゆく。ここから少しでも動いたら、すべてを――ユキコがいないことや、失われることを繰り返す生命や、自分が決して行けない場所のこと――を受け入れてしまう気がして、動きたくなかった。このままユキコと一緒に海に溶けてしまいたかった。

 

 初めて会ったときのユキコのように、波打ち際にゆっくりと身体を横たえる。ユキコの体温に似た柔らかな波が心地良い。ウミ。ユキコがあたしにつけてくれた名前。ユキコがあたしの中に溶けてゆく。眠り。ユキコがくれた死の欠片。とろとろとやさしい倦怠感が身体中に満ちる。初めての感覚だったが、怖くはなかった。ふと、ユキコが蝶の羽ばたきのように音もなく瞼を閉じる映像が頭に浮かぶ。ユキコと一緒にそっと瞼を閉じる。あたしはゆっくりゆっくり眠りに落ちてゆく。

 

 ぱしゃり、と水面が揺れる音が聞こえたような気がした。

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