梗 概
三月の顕
父が破産した。明日の朝にも借金取りが集まるというので、夜のうちに荷物をまとめ、父・母・わたし(21)・妹(19)・犬の家族全員で家を後にする。
どこに向かっているのか問うても父からは明確な回答は返ってこない。感情を抑えていた母だったが、犬の生理がきっかけで爆発し、取り乱す。仕事を急に辞めてきた妹も罪悪感や不安で泣きだしてしまうが、父はなにも言わないどころか、母と妹が面倒だから、出来るだけなだめるようにと私に注意を促す。これ以上の混乱を避けたいわたしは、とりあえず父の言葉に頷いて応える。
落ち着いた母から、父が自殺を考えていたことを聞く。自殺の名所である山まで行ったが死にきれずに戻ってきたらしい。それ以来、父の様子が何か違う気がするのだ、と母はいう。
そんな大きな経験の後なのだから、様子が違って当然だろうと一度は受け流したものの、確かに何かがおかしい気がし始める。しかし、それは父の様子だけではない。見える景色、街を行く人々、今まで普通に見ていたもの全てがおかしい。
どう注文したらそうなるのかわからない同じ髪型をした人々、売っているところを見たことがない微妙な丈のソックスを履く人々、家々の軒先に貼られた同一のポスター、古くからあるチェーン薬局のクマのキャラクター。
それが何なのか、どういうものなのか、全くわからないもので世界が溢れていること。そしてそれを今まで「見ていなかった」ことに気づくわたし。
今まで強固な地盤だと思っていたわたしの現実に、歪みが生じ始める。妹は道中をほとんど寝て過ごしていて、それ以外の時間は友人とメッセージをやりとりし続けている。
鳥取で一泊する。近くに弥生時代の大きな遺跡がある。夜、父と母がいないことに気づいて宿を抜け出すと、遺跡に火が灯り、たくさんの人が集まっている。その中に父と母の姿を見つける。何かを言い争っている様子だったが、次の日の母は上機嫌だった。
目的地は九州であることがわかる。父を受け入れてくれるという人が待っているらしい。母は会ったこともないはずのその人を「いい人」といい、父は沈黙を貫いている。
目的地のそばにはまた大きな遺跡がある。父はそこへ着いた晩、明日家族みんなで入信するのだ、という。弥生時代、卑弥呼の系譜から続く神道のようなもので、日本人の多くが入信しているらしい。そんなもの聞いたことがないので怪しい、とわたしは否定するが、母は有名な人々の名前を出してみんなそうなんだから大丈夫、むしろすごいことなんだ、と意気揚々としている。犬がうろうろと家族の間を歩き回っている。
夜の遺跡で入信の儀式が行われる。俯きひざまづく私たちは、巫女と呼ばれる信託を受ける女に棒で何度も頭を打ち叩かれる。たくさんの人の声がする。しかし、どれもなにを言っているのか全くわからない。
文字数:1161
内容に関するアピール
物理的に夜逃げで故郷を離れる道中に、今まで自分が捉えていた世界が崩れてメタ的な意味でも生まれ育った場所を失ってしまう話です。
縄文時代は1万年以上続きました。そのため、その頃の自然信仰的な感覚が日本人のDNAに刻まれている、というような言い方をされることがあります。しかし現在の日本人の多くは、弥生時代の初期に大陸から渡ってきた弥生人の子孫で、当時の縄文人とは無関係です。そして弥生時代は農耕の始まりなどを受け、自然との交渉を試みるような宗教観が生活だけでなく政治にも蔓延した時代です。そういった風習は律令国家の成立によって、完全に断たれたのでしょうか?
政治や経済活動の本質は弥生的な仕組みによって動いている日本を描きたいと思いますが、短編なので、そういった世界の予感を匂わせる小説にするのが目標です。
文字数:355