梗 概
そのお玉が許せない、もしくは翻訳の話
夕方の鐘に泣きながら家路をたどる、「わたし」は小さな子どもだった。いつも要領が悪く、何をしていても取り残されてしまう。気が付けばもう公園には誰の姿もなかった。
……よい子のよい子のよい子のくらす町、たのしさあふれる夢の国……お外であそぶ、よい子のみなさん、さあ、おうちにかえる時間ですよ……
学校で給食当番の際には、右利き用のお玉が出てきて戸惑った。利き手が左の子どもは他にいない。その日、お玉は他のクラスメイトには聞こえない声で話しかけてきた。以来、お玉の言語を解析しつづけ、次第にお玉と意思の疎通がはかれるようになるが、お玉を右手に持つ日はなかった。夕方に鳴るよい子のチャイムとともに、おとなになっても、お玉はつきまとってくる。
そしていま、待ち合わせをしたダイナーの席で、センセイとの間に横たわっているのはO・ヘンリー。After Twenty Years. 師匠を得て、いまでも言語にこだわっているのだ。
「AIが勝手に向こうでいちから文章作ってきて小説書くってんなら、俺はもう翻訳仕事なんぞ引退するよ」
「なら、センセイはまだまだご活躍ですね」
でも二十年? 五年ももつかどうか。いや、センセイの話じゃあないですよ、そんな失礼、いくらなんでも申し上げません、AIがエレクトリックな文藝翻訳の夢を見るかの話です。後年、我々はどうやってAIの書いた文章とヒトの書いた文章を見分けられるというんでしょうか。本当に、疑問なんです。
取り憑いたよい子のチャイムの精が言う。「あのあの店員店員ががさっきからからこちらをこちらを見て見ていますいます……よい子はよい子はおうちにおうちに帰りましょうしょう……」
取り憑いたお玉の精が言う。「あの店員、きっと、ガイノイドに違いない、ねぇ、ちょっと、確かめてきて、ねぇ、あの店員さんに小説書いてもらえば」
いまどきガイノイドもアンドロイドも珍しくないのだから、耳を貸さず、店の名物〈懐かしナポリタン特盛〉をセンセイのために注文する。けれど、「あれ、アップロードが始まっちゃってるじゃない、あれあれ」お玉の精がセンセイの顔を覗く。
センセイはすこぶる大容量だから、天上へのアップロードにはきっかり1176時間かかることになる。
「お待たせいたしました、特盛です」
寸胴に盛られてやってきた、底の見えないナポリタンの海。
「すいません、お玉じゃなくて、トングもらえますか」
それから、生まれてはじめて右手にお玉の柄を握る。左手にはトング。お玉の精は悲鳴をあげ、その声をチャイムの精が増幅させた。
「お客さま、お手伝いいたしましょうか」
ガイノイド店員の協力を得、お玉で防災無線をかち割った。しかるのち、センセイの幽霊が言うことには、ダイナーは数年前にすでに閉店しており、跡地は別の店である、と。
文字数:1157
内容に関するアピール
はじめまして、夕方慄【ゆうがた りつ】と申します。梗概のとおり、名前の由来は夕方に鳴る子ども向けの防災無線がおそろしかったからです。因みに大人になったいまでも耳にすると震えます。それなのに怖い話が好きです。英日翻訳の修行中ですが、SFは初心者です。大長編ドラえもんからSFとはこういうものなのかと学びました。ふだんはリーディング(原書を読んでレジュメにまとめる)などの仕事をちょこちょこしています。
日本語の文学も世界中のひとが原書のまま読みたいと思ってくれるものになりますように、と願いを込めて梗概を書きました。O・ヘンリーくらいオチがはっきりすっきりしている短編が好きです。実作を書いたらすべての左利きに捧げます。つまり、右も左も分からない、のは比喩ではないのです。一年間よろしくお願いします。
文字数:348
そのお玉が許せない、もしくは翻訳の話
あるところに、右利き用のお玉の精に取り憑かれた〈わたし〉がいた。精霊は誰にでも憑いているわけではないけれど、取り憑かれた者はそう珍しくない。たとえば、スーパーマーケットのレジの精霊に取り憑かれている人は、たぶんレジの列に並ぶのを苦痛に感じているはずで、必ず自分の並ばなかったほうの列が先に進む。地図と磁石の精霊に取り憑かれている人は、ひとりで外出すればかなりの確率で道に迷う。取り憑かれた者たちにとって、世界は精霊のささやきに満ちている。
〈わたし〉のセンセイもまたそういう人物で、彼は電子辞書DFX-20002の精と生涯を共にしてきた。灰色の頭髪の中に精霊を住まわせ、いつでもそのささやきに耳を傾けていた。
待ち合わせをしたダイナーの席で、いま、〈わたし〉とセンセイの間に横たわっているのは、O・ヘンリー。After Twenty Years.
「あやしいもんじゃないですよ、おまわりさん」とセンセイは西部からきた男になりすまして言った。「ただ友人を待っているだけなんで。二十年前の約束なんです。おかしな話だと思われるでしょうがね。まあ、よくよく確かめておきたいってんなら、わけを話しましょう。昔々のその頃は……」
そこへやってきたのはおまわりではなく、この店のレトロ・ガイノイド〈BJB〉だった。彼女は身の丈が2.424mだから、店内の天井はそのために高い。
『そろそろナポリタンですか?』いつもの注文の取り方だった。コーヒーをまず一杯サーブすると、次にはナポリタン。そう聞いてにわかに騒ぎ出すのはお玉の精だ。なにしろこんなにも右利き用お玉の精が輝くときはない。なにが右利き用なのかといえば、丸く深みのある皿部分にくしのような歯がついているからで、左手で持てば当然、歯の部分が外側を向いてしまい、役に立たない。ところが、この店の一番人気のメニュー、“懐かしナポリタン特盛”は、寸胴にたっぷり盛られてやってくるから、お玉で取り皿にすくうしかないのだ。そしてセンセイはそのメニューが大好物だった。
「ナ、ナ、ナ、ナポリタン」とお玉の精は歌う。「右手deスクッテ、ナポリタン」
〈わたし〉はその歌が嫌いだったし、右手で道具を使うのも好きではなかった。ナポリタンは好きだった。〈BJB〉はせっせとテーブルの用意をしてくれる。紙ナプキンに、フォークにスプーン、粉チーズ。それから、
『おきゃくさまの声により、おとりわけにはおたまかトングか、おえらびいただけるようになりました』
と言った。
「じゃあ〈BJB〉、今日はトングをくれる?」
そうだ、トングならどちらの手で持ってもいい。
『しょうちしました』
〈BJB〉は軽やかな歩幅でキッチンからトングを持ってきてくれた。それからすぐにまた、調理のために引き返していく。〈わたし〉はおもむろにトングを左手に握りしめ、お玉の精の柄の部分を捕まえた。
「おまえ、」〈わたし〉は生まれて初めてそんなふうに口にする。「今日でお別れだよ」
そうして〈わたし〉は、〈BJB〉がナポリタンを作っている間にお玉の精と戦った。三日三晩続くかと思われたが、夕方のよい子のチャイムが唸るまでに決着はつき、麺がのびきっただけですんだ。〈わたし〉は傷だらけのお玉の精を、ダイナーの窓から力の限り投げ捨てた。銀色のお玉は綺麗な弧を描いて彼方へと消えていった。空にはチャイムの声がこだまする。“ヨイ子ノヨイ子ノヨイ子ノクラス町、タノシサアフレル夢ノ国……オ外デアソブ、ヨイ子ノミナサアアン、サア、オウチニカエル時間デスヨ……”
「センセイ、お待たせしました。ナポリタンをいただきましょう」
するとセンセイの返答の代わりに、電子辞書の精が蓋をカタカタと鳴らせた。
「センセイ?」
『アップロードがはじまっていますね』
〈BJB〉がやってきて、乱れたテーブルの上に突っ伏したセンセイをのぞき込んで言った。
『センセイは大容量ですから、天上へのアップロードには1176時間がひつようです』
〈わたし〉と〈BJB〉は合掌する。
「センセイはこのままで構わない? この席が、好きだったから」
『かまいません』
〈わたし〉は年月に打ちひしがれた体を引きずって、店を出る。あれから、1176時間と二十年。〈わたし〉は原稿の束を小脇に抱えていた。持ち出しきれなかったものがまだ店内にもある。
通りすがりの誰かに声を掛けられた。
「すいません、このあたりに〈ビッグ・ジェイン・ブレイディの店〉ってありませんでしたか。昔からある店みたいなんですが」
「……どうやら〈BJB〉もようやく時を止めたようで、店じまいです」
センセイはきっといま、エレクトリックな文藝翻訳の夢をみているだろうし、〈BJB〉は羽を休めているだろう。
【了】
文字数:1937