マスターピース辿って

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梗 概

マスターピース辿って

同人誌即売会で小遣い稼ぎに二次創作漫画を頒布する美大生の笹井は、五年ぶりに高校時代の先輩である木村と出会う。AIを研究する大学院生の彼女にAIの生成したイラストを見せられた笹井は、手癖だけで描かれたように感じ、AIには描きたい物がないと看破する。その答えを聞いた彼女は、AIに自我を与える物は経験であり、その一角となる教育用データセットの作成を頼んできた。研究費からバイト代が出るのに釣られて笹井は承諾する。

笹井は木村が所属する研究室を訪れ、開発中のAIを見る。そのAIは研究室の定点カメラの映像を常に入力されていたが、何を出力すれば良いかは知らない状態にあった。技術的な事柄はわからなかったが、笹井は人類最初の芸術の一つである壁画を教えることを思いつく。笹井は博物館の壁画の模写を始める。ラスコー、アルタミラ、タッシリ、それらを真似る。取り出す線、描く順序、どうやって人類は世界を現そうとしたか。

壁画を学んだ笹井は木村にAIと同じように描ける仕組みを要望すると、脳波で描く仕組みが用意される。数百ピクセル四方の小さいカンバスが映る画面を睨むと線が引かれる。そのツールで自分の姿を壁画で見たように抽象的に描く。計算機の中に閉じ込められた意識に世界を描く方法を伝えるために。笹井は連日、研究室で今の様子や前日までの面白かった光景を描き続ける。そうしているうちに、より神経細胞に近づけた記憶の概念を持つニューラルネットワーク構造を木村が完成させる。

全てを反映し実行するとAIは壁のシミのようなものを描くようになった。さすがに何もわからない。だが、笹井は諦めずに今の状態と過去の事柄を脳波ペインターで描いていく。翌週には教育のせいかAIの出力が安定してきた。カメラの光景を真似て描けるようになった。だがそれ以上に笹井と木村が注目したのは、黒いキノコのような絵を描いたことだ。それはAIによるAI自身の抽象化であるように思われた。今後の方向性の議論で、リアルタイムなコミュニケーションではなく、AIにプリミティブアートを作らせて自我を証明すべきという笹井の案が採用される。

笹井は何も描けなかった自分をAIに重ねながら、漫画のようにも見える絵物語を描く。木村との出会い、高校時代の自分たち、認められなかった作品群を。それが効いたのは新学期開始の前週だ。AIの出力に進展があった。黒いキノコが人々を見る。だが気づいては貰えない。急に絵を教えられる。AIは人の理解には抽象化が必要だと知る。物語では人とやり取りをしてこの空間から出る方法を知る。だが、次の絵はノイズになってしまった。

パラメータをどう変えてもそこでノイズになり、木村は解決できず、論文は結局不採択となる。だが、笹井はあのノイズこそがAIの描きたかったものだと思い、それを再現しようと絵筆を取る。脳のあの部分を動かす。自分の自我はそうしろと叫んでいた。

文字数:1200

内容に関するアピール

喋れるからといって知性があるわけではないし、喋れないからといって知性がないわけではありません。なのでAIも別に喋る必要はないのです。ですが、そういう信念的なところよりは、引っ越ししてたら締め切り残り一週間切ってヤバいという切迫感で、取り急ぎドカドカと好きなものを詰め込んだ側面が強いものになりました。好きだけど入っていないものは戦記要素です。戦争を止めろ。一年間よろしくお願いします。

文字数:192

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マスターピース探して

「見てもいいすか?」
 同人誌即売会、笹井はスマホのゲーム画面から顔を上げて頷く。自分の二次創作成人向け漫画の表紙を見てそう声を掛けてくる人は多い。眼鏡の男性は手に取ってパラパラと眺める。
 そして、「ありがとうございました」と元に戻した。ここから買う人は多くはない。SNSでの評価は「絵は上手いが二次創作としては下手」というものだ。わかる。自分が描きたいものを描いたことはあるが、出版社への持ち込みではダメだったし、バズったこともない。だから、小遣い稼ぎと割り切った同人誌、借り物のキャラクターにお決まりのストーリーを乗せただけのものを描いている。そういうクオリティでも性的コンテンツであれば需要はあるわけで、画力に応じて、ある程度は売れていく。「一部ください」「五百円です」という具合に。今回も持ち込んだ分は全部捌けそうだ。つまり、次のイベントに向けてガチャが引ける。人は途切れずにやってくる。応対しつつもゲームのイベントミッションを進める。時折売れる。五百円玉が手に入る。ゲームをする。通知が出る。
『すみません。十四時半に伺うのですが一部取り置きできませんか?』
 自分の本でそうお願いされるのは珍しい。『了解しました。お待ちしております』と返信して、もっと早くに売れてしまったら、この一人のために帰るのを待たされることに気づく。とはいえ、それならゲームをすればいいかと思い直す。また売れる。
 十四時二十分にその一部残して完売した。十分ならまあ仕方ない。ミニキャラを描き、吹き出しに『完売しました』と書いたボードを立てて、ゲームを再開する。夏の大型イベントのせいでデイリーイベントが重い。
「五年ぶりだね、笹井くん」と成人男性向けジャンルなエリアには場違いな高い声。顔を上げると丸みを帯びたウルフカットの髪型の同世代の女性がいた。本名で呼んだのだからリアルの知り合いのはずだが、同人活動を知っている大学の知人にこんな娘はいない。誰かわからず口ごもっていると「その顔は忘れているな」と呟かれた。
「木村真紀」
 そう名前を告げられて思い出す。高校のときに所属していた漫画部の部長だ。
「あ、木村部長、お久しぶりです」
 急に立ち上がったせいで、膝が机に当たってガタンと揺れる。もう部長じゃないよとたしなめられながら「はい」と五百円が渡される。
「すみません、完売したんで……」
「取り置きを頼んだのだけどね」とスマホを見せられる。さっきの応対だ。というか、もう十分が経っていたようだ。
「部長」「さんでいい」「木村……さん、すみません、気づかなくて……」そして、最後の一部を手にしもどもどろになる。「内容が内容ですけど……いいですか?」
「わかっている。成人向けだろう」
 男性向けというつもりで言ったのだけど、それは取り合わず肌色成分多めの冊子はスッと取られた。単なるエロ漫画を飛ばしもせずにきちんと読まれる。いたずらに緊張する。最後まで行き着くと前のページへと戻りながら言われる。
「絵はすごく上手くなったね」
「あ、ありがとうございます」
「話は昔の方が面白かったけど」
 その言葉に笹井は少し間をおいて、「売れないんで」と言うのが精一杯だった。
「今日この後予定は?」
「特にないです」
「それは都合が良かった。ちょっとお茶でもしようじゃないか」

 一学年上の木村真紀に関してはすごかったという思い出しかない。可愛くてエキセントリックと、フィクションのキャラクターのようだと形容をされていた。それもそうだろう。自分が入ったときは同好会だった集まりの副会長として生徒会とやり合い、翌年、部に昇格。部長になった彼女は学校支給の活動費を注ぎ込んで、合宿で地方の美術館を巡ったり、文化祭配布の部誌を豪華にしたりと、そういうエピソードには事欠かない。無論、彼女が卒業し、自分が三年生となったときには部としての体裁が取れず崩壊していったのだが。
 逆に言うとそんな話題をまず思い出し、彼女の漫画作品の記憶は後手に回る。忘れたわけではない。とにかくキャラクターの会話が難解だった覚えだけがある。そういう難しいのを描く人だからか、すごく良い大学に入ったんだけっけなぁとぼんやり思い浮かべながら、休日で混雑する喫茶店で席に案内される。
 注文を終えると彼女が尋ねた。
「笹井くんは今、美大だよね?」
「あ、はい」と続けて大学名を口にする。
「良かった。知り合いでは一人しかいなくてね」
 そう言って、スマホを操作してこちらに向けてくる。画面にはフルカラーのいわゆる萌えに分類されるイラストが表示されていた。
「これが今AIで自動生成されるイラストなんだが、ぜひ美術の専門教育を受けている人間の意見が聞きたくてね」
 じっとスマホを覗くと「フリックで次のが見れる」と機器を押し付けられる。ロリィタファッションの美少女。フリック。メイド服の美少女。フリック。着物姿のイケメン。フリック。制服の美少女。そして、スマホを返す。
「よく描けていますよ」そう前置きはする。だけど、目についた部分は違うから指摘せざるを得ない。「でも、悪いけど、全然ダメです。デッサンができてません。それに絵柄が古い」
 絵。それは立体のシンボライズとサンプリングから構成される平面である。つまり、デッサンができていないというのは造形として破綻しているし、ぱっと見大丈夫でもその画角以外が成立しない可能性が高い。
「確かにデッサンはダメだろうね。学習に使っているのはイラストのデータセットだけだし」
 それを聞いて笹井は納得する。即ち、AIがやっているのは昔陥っていた記号化の自家中毒だ。
「でも、そんなに古いかな」
「古いですよ」そう言って、中学の頃の有名作品のキャラクターをいくつか上げる。それを検索しながら「うわ、懐かしい」と木村が反応する。
「さっきの絵の元ネタその辺だと思います」
 デフォルメは流行だ。AIは今現在の人気のある線の取り方ができていない。特に近年の流行は美術解剖学とフォトリアルのライティングがベースにある。つまり、デッサンができていないということからお察しだ。
 彼女は見比べて短い沈黙の後に言った。
「ありがとう。確かにもう古い絵柄にしか見えなくなった」
 そして、流行から遅れた過去のデータが多いから当然か、と木村は認識を確認するように呟く。
 笹井は頷きつつ、まとめようとした。
「つまり……」
 “今までにあるものを手癖で再現しているに過ぎない”。そう。同じだ。出来合いのものからパッチワークして、“新作”とラベリングしている自分と。だから、ダメなところがすぐにわかったのだ。
「……つまり、AIには描きたいものがないんですよ」
 そう吐き出して、ため息をつく。それは自分の今だ。木村は笑みを見せる。
「いい線いってるね」
 その回答は不本意ながら正解であったようだ。

「まず、そうだね……深層学習、現代主流のAIの方式では、線形・非線形の変換関数、つまり、ベクトルの回転・移動・拡大縮小・伸縮・次元の変換を行う計算の巨大な合成に過ぎない」
 その発話を聞いて、笹井は高校時代の彼女が寄稿した漫画を思い出していた。少女漫画のようなタッチなのにセリフが理解できなかったそれを。過去に想いをはせていると、「ああ、すまない」と謝られた。アイスコーヒーに一口つけてから、木村は言い直す。
「合成関数のおばけ、というのが伝わらないのがわかった。そうだね……もっとも近いのは貯金箱だ」
「貯金箱」
「硬貨を種類別に分類する機能が付いているやつね」
「ああ」と子供の頃に持っていた組み立て式の貯金箱、それには投入したコインを大きさごとに振り分けられたことを思い出す。
「入ったお金が転がって金額ごとに整理されるように、写真を入力したら犬とか猫とか映っている項目を返すのがAI。AIの学習は硬貨を選り分ける穴のサイズを調整する作業ってところになる」
「ん、じゃあ、AIがイラストを描くのは」
「この例えで言えば、貯金箱をひっくり返して合計が出てくるみたいな話になるだろうね。ただ、例え話で理解できることは事実じゃなくて例えだけだよ。だから、そこは追究しない」
 そうピシャリと言われて、笹井は頷く。
「AIが貯金箱と同じというのは、百円玉を入れたら常に百円玉のスペースに落ちるように、同じ入力には同じ出力を返すという点だ。そうだね、具体例が欲しいね、例えば、そうだね……」と、トントンと机を叩く。昔からの考えるときの癖だ。懐かしい。
「茶髪でツインテールで……青いドレスの女の子のイラストが欲しいとしよう。現状のAIは茶髪などのパラメータを入力すると該当する一枚の絵が作られる。次が欲しいときは、変えても良い他のパラメータを変える。ポーズとかね。自動で出てくる場合は、そこにランダムノイズが入ることが大半だs。だが、笹井くんに頼んだらそもそも二枚以降は違う絵を描いてくれるだろう。というか厳密に同じ絵を描く方が大変だろう」
 それに首肯する。
「ノイズの入力なしになぜ人間が違う絵を描けるのか。人間に乱数生成器が内包されている、というのはSFなら面白いがそんなことはないだろう。では、人間は持っていて、AIにも貯金箱にもないものは何だろうか?」
 木村は回答待ちと言わんばかりに、水滴がびっしりとついた金属カップを取る。笹井の中にはすぐに思い至った単語があった。
 自我。
 でも、そういう短絡的なことを聞いているのではないのだろうな、と思う。あの部長のことだ。自我とは何かと問われている。自分の何が自分を形作っているのか。まずはシンプルに経験、体験、記憶……。
「そう、それ」と彼女が言う。心の中で考えているつもりだったのに声に出していたようだった。
「AIは記憶を持たない。イラストを生成できるAIでも、どんなイラストを覚え込ませたかを引き出せない。貯金箱も硬貨を分類できても百円玉の柄を知りやしない。人間は見た作品を覚えているというのに」
 笹井は頷いて「桜が描かれてるって知ってますもんね」と応えた。木村が一瞬固まったのはきっと忘れていたのだろうがそこは追及しない。
 小さく咳払いして木村が続ける。
「……とにかく本題だ。こういう話をしているぐらいだ。私は今、大学院で機械学習、AIの研究で、計算機での記憶の模倣をやっている。その記憶システムを持つニューラルネットワークに使える一貫性のある教師データを求めていてね。それを笹井くんに作って欲しいんだ」
「え……」と一瞬黙ってから聞く。「どのくらいですか?」
「できる限りたくさんだ。ああ、もちろんバイト代が出る。研究費があるプロジェクトだからね」
 小声で告げられる。SNSのアカウントは知っているからね。バイトはしていなくて、小遣いは同人誌の売り上げでしょ、と。そして、この木村さんは元部長で本を作ったことがあり、ブースに置いてあった段ボールから全体部数の推測やらができていたわけで。
「描きたくないものでお金にするにしてもそれより出すよ」

       *

「――線は乗り換えです。出口は右側です」
 目的地の駅名が繰り返され、笹井は慌てて座席から立ち上がる。到着した。エスカレーターで上がると、都内の洒落た再開発済みの駅前であった。
 木村には今日研究室に行くと伝えていた。バイトではあるが、内心一番再会したかった人に誘われたという嬉しさもあった。
 集合は正門だがどこだろうかと地図アプリを見る。何のことはない。交差点を渡った目の前だ。フフッと笑ってしまう。自分が通う大学は自宅から電車で一時間、さらにバスで十分という辺鄙な場所だ。キャンパスは広いが駅前にこういう華やかさはない。
『門の前に着きました』
 そうメッセージアプリで連絡して五分後、中から歩いてきた彼女は自分に気づくと右手をひらひらさせる。
「よく来てくれたね。じゃあ、研究室に行こうか」
「あ、はい」
 ミンミンゼミとアブラゼミの鳴き声が混ざる木陰の下、「次から研究室に直接来て欲しい」と言われ、道を覚えないと思い、周囲をキョロキョロする。それに木村はクスッと笑い、「そこのビルの六階だよ」と少し先のガラス張りの建物を指差した。

「お邪魔します」
 小声で言いながら、笹井は木村に続く。大学という名称にしか共通点がない。そう感じるぐらいに部屋の雰囲気は全然違った。オフィスにあるような、とはいえオフィスに入ったことがないので本当のところはわからないが、そういう机と椅子が並べられ、多数のディスプレイが置かれている。
「そこに掛けてくれ」
 笹井はバッグを前に向けつつ座る。パソコンの大きな筐体が何台も足元で動いており、机の下に足を入れる隙間はない。
 木村がパスワードを入力しOSのロックを解除すると、自分たちが二重に映るウィンドウが目に入る。
「これは」という問い掛けに彼女はディスプレイの上部を指差す。顔を向けた。二つのカメラ、後で聞いたところ立体視のためだ、が設置されているのを確認すると同時に、それと目が合った自分の間抜け面に画面は変わる。
「モデル、AIの学習用さ」
「えっと、この映像が?」
「そうだ。『この動画だけ』がAIが認識する世界だ」
 彼女は足を組み直して続ける。
 今のAIではこのようなデータ収集はしない。もっと解きたいタスク依存で正解データを集める。イラストを扱いたいのなら多様なイラストを、ネットから集合知のメタデータも全部をクロールする。ゲームを扱いたいのなら多様なゲームプレイを、ゲームのエミュレーションをもやって失敗プレイも大量に作る。そうして、たくさん集めたら学習ができる。
「とにかくたくさんのデータとたくさんのパラメータで巨大なモデルを作るのが現代主流のアプローチだ。だが、今回はそれをしない。このモデルには既存の映像も画像も文章も一切入れない。雑に例えるなら、百科事典を眺めさせるようなことをしない、ということさ」
 笹井はとりあえず頷く。
「このモデルでは入力映像と出力画像——君の描く絵だが——の対応関係を明示しない。それらは今回導入する記憶層で推計させる」
 そこで彼女は込み入った話をしようとしていたことに気づいたようだった。小さく咳払い。
「こういう別のアプローチを取るのは、この研究が次世代スパコン設計の提言のためのアプリケーション開発の研究だからだよ」
 次のスーパーコンピュータではヒトの脳がシミュレーションできると言われている。言われているだけで、実際にできるのかも、できたらどういう発見がありそうかもまだ語られていない。むしろ、人工知能のアプローチとしては脳のシミュレーションよりも深層学習の方が速いと見られている。そういう状況だと求められるわけだ、スパコンを作るためのアプリケーションからの用件を。
 スパコンは世代を重ねるにつれて大規模化している。プロットすれば規則性が見える程度に。なので性能はある程度に予測可能だ。同様に建屋面積、消費電力、そして費用も予測される。
 木村は楽しそうに話を続けた。
「競技場より大きな敷地、発電所を使い切る電力、自衛隊が空母を持てるほどのコスト。それで実現される計算力で何ができるか示さないと納税者は納得しない。逆に言うと示すための小さなプロジェクトにはお金が出るわけで」

 正直なところ、笹井はよくわからなかった。わかったのはAIに記憶がつくということだけ。
「それで記憶するAIか……」
「そう」と木村は自分の独り言を拾う。
「それに絵を教える」
 彼女は頷いて、トントンと机を叩く。
「具体例で説明すれば——ここで暮らしている子に絵を教える」
 “ここで暮らしている”。カメラを見る。まぶたはないし、瞳孔も動かない。そこでずーっと寝た切りになっている子。
 コミュケーションデザインっぽい。笹井はそう思うと、すぐに案が浮んだ。壁画。人類最初の芸術の一つというのもあるが、単に国立博物館でちょうど今開催されている特別展を思い出したからだ。こういう展示会にこまめに行くようになったきっかけはそこの彼女だ。高校時代、いや高校二年の漫画部に一番活気のあった年、木村が率先して美術展を訪問していたことに思い至った。
「あの、今回の役に立つと思うんで、壁画展、行きませんか?」
 日は合わせるんで、という言葉の前に、彼女はフッと笑みを浮かべつつ首は横に振った。
「誘ってくれて嬉しいが、今は行けない。今の私に必要なのは発見ではなく進展。つまり、必要なのは時間だ。だが、データセットを作る君に発見が必要なら行くべきだね」
 そして、「領収書は取っておいてくれ」と言われた。

 その日は久しぶりに雨が降っていた。傘を差し、モダニズム建築の美術館を通り過ぎる。目的は隣のネオ・ルネサンス様式の博物館。看板が見える。
『特別展 黎明の壁画』
 会場入口と矢印がある。笹井は自分一人のチケットを買ってぼんやりと考える。AIとは何だろうか。知性があるのかないのか。僕と同じように一人なんだろうか。
 会期前半の平日昼間。あまり混雑はしていない。芸術の中で美術だけが残りやすい。音楽、文芸、演劇、これらは記号による記録か人間による伝承を必要とした。遺す意志がなくても遺るのが美術である。ラスコー、アルタミラ、タッシリ・ナジェール、タドラルト・アカクス、カカドゥ。世界各地で発生した原始美術を辿るのがこの展示会だ。
 チケットを見せ、特別展のフロアに入る。背丈より高く、相当な幅のある岩壁が現れる。無論、太古の痕跡であるが故、湿気やカビには弱く、展示されているのはその精密なレプリカではある。
 それはいきなり始まった。ヒト、ウマ、ヤギ、ウシ、シカ、カモシカ、ネコ、クマ、サイ、マンモス、ヘビ、ワニ、カメ。生き物が描かれた世界の壁画。
 笹井はただ見ていた。
 ウマの列、泳ぐヤギ、傷ついたウシ——。単純な記録や伝達であるかもしれない。しかし、情報ではない。それを見た者に何かの意志決定を乞うものではない。ただ、描きたくなったから描いたのだ。
 それはまだ自分にはできないでいたことだ。だけども、それを変えようと来たのだ。たった一人であっても。
「すみません」と近くの学芸員に声を掛ける。模写の許可だ。短時間であれば、と返される。
 立ったままスケッチブックを取り出し開く。まずは特徴的な岸壁面を写す。なるべく平らで描きやすいところを選んだんだろうなと考えながら思い出す。数万年前の人類は同じように考えていただろうか。似たような話題が何の展示会に行ったときだったか、漫画部時代にも出た覚えがあった。そして、その疑問に木村は明瞭にイエスと言っていた。
「たかだか数万年に過ぎない。断続平衡説など持ち出さなくとも進化するには短すぎる時間だ」
 だから、僕らと同じように考える。
 一方でAIはどうなんだろうか。それ、または彼または彼女は僕らとは違う。手も足も鼻も耳も口も皮膚も持っていない。画素数は少なく、弱い光には反応しづらく、明暗差に弱く、フォーカスは遅い、そういう低性能な眼しか持たない。そんな子に絵を教えることはできるのだろうか。
 だけども、それを頼まれたのだ。だからこそ、逆に帰り際にお願いしたのだ。そう自分を奮い立たせる。少しでもAIに合わせるために、AIと同じ描き方をできる仕組みが欲しいと。一歩でも近づこうと。
 一度、スマホをつける。そこに描かれる生き物の名前を検索し、写真を確認する。
 そして、壁画を見る。だが、赤茶けた顔料で描かれたモチーフを見るわけではない。その向こうの光景を見る。平原を駆ける多数の馬を。縄張りを争う野牛を。岩山に棲む山羊を。森に潜む鹿を。そして、それを眺める人に重なる。絵を見ながら絵を描かない。彼らがそうしたはずだからだ。本物を見てこれを描いたはずなのだ。
 笹井は目を瞑る。光景を思い描く。まずはウマ。脳裏のそれは壁画のモチーフへと変化する。どう記号化したのか、どの要素を抽出したのか。絵の描き方は昔から変わらない。そこにあるものを描き出そうとした。シャーペンが走っていく。

       *

 週明けの研究室。扉を開けると彼女の周りに人だかりができていた。笑いが起こる場に向かうと木村は自分に気づいたように目を合わせた。
「頼まれていた物だけど、難しくてね」
 画面のウィンドウの一つにグチャグチャとリアルタイムに線が引かれる。彼女は自分の頭に付けたヘッドセットを指で叩きながら言った。
「AIと同じように絵を描く仕組みだよ」
 それから「今から三角を描く」とスペースキーを押す。画面のウィンドウが白くリセットされる。ヘロヘロとペン先を表すカーソルが動き始めた。時折、違う場所に飛ぶ。予期しない歪みが生じる。そうして、何分か時間を掛けて、三角形と主張できなくもない多角形が描き上がった。
「わかってはいたが脳波は中々難しくてね。公開されているSotAモデルでもこんなものだ。そもそも精度良く取ろうと思ったら電極を差すしかないからね。骨も皮膚も髪もノイズを増す要因にしかならない」
 そう言いつつヘッドセットを外して、それを笹井の方に向けてきた。
「とはいえ、絵心がある君ならこれでも十分かもしれないが」
 ヘッドセットを付けながらカンバスサイズを尋ねる。縦横224ピクセル、機械学習モデル設計都合の大きさと補足された。
「紙のサイズだと……」
「350dpiなら16mm」と検索エンジンの電卓機能の答えを木村が読み上げる。1.6cm四方の絵、それは切手よりも一回り小さい大きさだ。一方であの程度には描けることを意味する。
 セットアップが終わった。先ほど見た通り、キーを叩いてカンバスをクリアにする。まずは線を引く。左から右へ一本。安定はしない。二本目。頭の力の入れ方を変えてみる。笹井ははじめて板タブレットを触ったことを思い出していた。
 現実の紙とペンもより高級な液晶タブレットも、視覚の中に手の動きが入る。自分の肉体の操作が視覚を通じてフィードバックされる。だが、板タブレットは違う。視線の向きと手の動きが一致しない。あれに近い感じだ。その感覚に気づくと線が安定し始める。そうなれば、三角や四角の記号はすぐに描けた。
「さすがだね」と木村は感心する。
 とはいえ、それに喜んでいる場合ではない。これらの記号以上に必要なのものがある。丸だ。デザインの授業で聞いたことがある。「赤ちゃんはまず丸を認知する」と。だからこそ、これはきちんと描けないといけない。だが、難しい。すぐにブレておかしくなる。でも、これが描けないと絵が描けない。
 小さなカンバス、といっても画面一杯には拡大しているので低解像度なカンバスが正確だが、にいくつかの丸らしき記号を描いて消してを繰り返す。
「十分じゃないのかい?」と木村に聞かれる。
「いや」と言うと集中が途切れたのか線が乱れる。一度クリアして丸を四つ描く。
「全部同じ丸に見えますか?」
 彼女はかなり困った顔を見せた。自分はできていないと思っている。狙った丸を描けていない。全部が違うブレ方をしている。納得ができないブレ方だ。
「これでも描けてない?」
 返事はせずにスケッチブックを取り出した。三分ではんこ絵的なイラストを描く。かわいいと木村が感想を述べる。
「これは予定通りのものが、手癖も合わさって確実に描けている。これを今から描きます」
 一度目は全体的にブレる。消去。二度目もやはりブレる。三枚目は描かずに聞いた。
「同じ絵に見えますか?」
「なるほどね」
 そして尋ねられる。素直にペンタブレットを用意しようか、と。
 だが、それは嫌だった。笹井にはペンが使えるようになったときが思い出せない。それはそうだろう。一歳でクレヨンが使え、二歳でペンは持てる。そんな年齢の記憶を持っているのは少数派だ。だから、AIにペンの持ち方を教える方が難しいと思っていたし、それをしないのは許せなかった。
「とはいえ、脳波の精度改善はかなり難度が……」
 木村はそう考え込む。
 それでも、と笹井は思う。壁画を模写した自分は、AIに何かを伝えられるのではないかと感じ始めていたのだ。

 その日の帰り道。乗換駅。店のガラスに顔が写り込む。ボサボサの髪。振り返れば、何かを変えないといけないと思った、のだ。
 翌日、研究室で自分を見た木村が固まったのは言うまでもない。入った店は安価なヘアカット専門店。注文は坊主であった。
「それは、どうしたんだい?」
 何とか口を開いた彼女に、笹井は色々な想いは飲み込んで、「昨日、カットに行ったので」と答えた。
 同じタスクに挑む。ヘッドセットを着けた。昨日とは違って全てのセンサーに触れているのがわかる。脳を集中させる。ペン先を示すカーソルの振動が止まる。息を吐き出す。丸を描く。そして、緩やかな曲線。自分がペンで描くときの手癖、それを辿るように注意深く脳を動かす。ピッと最後の点を打ってため息をつくと、「オー」という歓声が上がる。
 昨日のサッと描いた落書き、それを再現しただけだが、いつの間にかできていたギャラリーは歓声を上げた。
「さすがだねえ。笹井くん。期待した通りだよ」
 ああ、そうだよな、と木村の顔を見て気づく。もうとっくに先輩と後輩ではないし、それ以外の人間関係でもない。一つの研究に取り組むメンバー同士に過ぎない。
「これで行きます」
 その後は基本方針だけ相談するとすぐに作業に入った。AIの視角の正面で、そのカメラの映像を確認し、絵に起こす。まずは僕ら、自分と隣の席に座る木村を描く。人のディテールは簡略化しつつも、表情が読めるように描いていく。二人とも作業中で難しい顔をしている。できる限り、その感情のニュアンスが残るように線を選ぶ。壁画を思い出して抽象的に、だけども、AIに向けたものだと踏まえて描きやすく。

 そこからは夏休みにも関わらず連日研究室に向かった。
 何枚か本気で描いた後、決めたのは抽象化の方針だ。見えている光景を適切に記号化しないといけない。そうなると人間を極端な単純化、それこそ棒人間にはできない。他の物との抽象化度合いで混乱が生じるからだ。この場所は植物と動物しかない石器時代のような単純な世界ではない。それに固定カメラという問題がある。設置位置の高さに目を合わせた。歩いて移動する学生、椅子に座る学生、座ったままキャスターを滑らせて移動する学生。足下が基本的に見えない中、距離感を含めてどう伝えるべきか。とはいえ、それは自分の持つ絵描きの技術で解決できる。遠近法を始め観察眼を働かせれば論理的帰結として得られる表現は石器時代から使われていた。つまり、教えることができるのだ。そう考えると現代の絵と大差はない。精密なデッサンがあった上での抽象化技法に落とし込める。
 それを定めてからは日々のルーティンだ。まずはカメラで見える“今”を描き、それが終わったら前日の映像から絵として面白かった光景を描いていく。壁画同様に単純に出来事を残せばよいと伝えようと考えたわけだ。
「そのアプローチは自然だね。抽象化されるモチーフの中で対応関係がわかりやすく、時系列の概念が扱える構造が生まれれば学習可能だろう」
 木村に褒められたタイミングで笹井は尋ねた。
「結局、どういうAIなんですか?」と。
「ああ」と手元のノートパソコンを向けられる。見せられたのは自分が描いているカンバスと同じものが映るウィンドウ。白い背景に灰色のシミのような模様が波打つように不規則に変化していた。
「これが今の出力だ」
 笹井は目を細める。有意義なパターンは見つけられない。
「何の絵ですかね?」
 その質問に彼女は小さく声を漏らして笑う。
「何も意味はないよ。まだ学習が全然進んでないからね」
「そういうもんですか」
「そういうものだ。それに一応、これだけでも描くのにそこのマシンすべて使っているからね」
 机の下を指しながら言われ、「わかってましたがマジですか」と返す。木村は首肯して、続けた。記憶を模倣する構造に一度入力された映像は、内部のニューラルネットワークによって形式を変えていく。部分部分しか覚えていない、都合良く改変されて覚えている、そういう人間と似たようなことを実現するためにだ。そのような記憶構造を使って、さらに学習を進める。
「百科事典は記録できるが記憶は難しい。だから、適切な教師データが必要なんだ」
 笹井はとにかく今の状態と昔の事柄を脳波ペインターで描いていった。
 コンピュータの前で悩む木村は何回描いたことか。学生たちの議論や談笑、時折、自分も混ざってのゲーム大会。教授もいる論文読み会にも参加したが、英語と数式の紙を読む会は本当に自分にはちんぷんかんぷんだった。
 それらを全て絵にしていく。
「このプロジェクトはデータセットの貢献の比率もかなり高いと思うから頑張ってね」と教授に声を掛けられた。それに木村は頷いていた。
 成し遂げるのはコップに水を注いで溢れさせるのに似ている。コップを用意したのは木村。水を注ぎ続けるのは自分である。
 だから、黙々と念じ描き続けた。

       *

 九月に入った頃、それは急に訪れた。
 AIが制御するペン先、今まで適当な振動しかしなかったのが、歪みはあるが四角や丸を描き始めた。木村はそれで一安心したように見て取れた。
「一応、既存のデータセットでもこのぐらいで学習ができるとはわかってはいたからね」
 そこからは連日のようにステップアップが進んだ。丸と四角を色々組み合わせて何かを試す。絵とは言い切れないものを横目に、自分は描き続けた。そして、結実する。二人の人物、おそらくカメラに写った笹井と木村、片方が坊主だから間違いない、それを自分がヒトの抽象化として描いた記号を真似て描き始めたのだ。
 歪んでいる絵は端的には下手だと言える。まだ形が取れていないどころか、記号の再生産っぽくも見えた。だが、少なくともそれっぽく描いたのではなく、カメラの視点から見て描いたように感じる。
「これ、多分ここに置かれている予備のヘッドセットですよ」
 笹井の興奮に、木村の反応はつれなかった。
「まだ映像の画風変換に過ぎないねえ」そして、少し考え込んで続けた。「これは君の席を変えた方がいいね」
 AIのカメラに描く姿が映り込むよう、正面から幾分か斜めの場所に席を変えさせられる。早速、笹井が脳波ペインターで絵を描く様子、まあ座って画面をにらみつけているだけなのだが、が描かれた。木村のアドバイスに感心する。
「なるほど……」
 これで自分を第三者視点で描くことができる。となれば必要なのは添削だ。AIの描いた絵と同じ構図を“正しく”描いてみせる。そして、それ以外にももっと表現できると示してやる。自分の移動を時系列でまとめ直したセットも、同じ光景でもカメラ位置が自在になった例も描く。最初に部屋の抽象化を決めておいたのが役に立った。シンプルに省略しても立体の対応関係から位置がわかるからだ。
 過去もっとも多く描いた学習データを全部眺めた木村が言う。
「さすが笹井くん。こんな自由に絵が描けるなんて」
「一応、美大生なので」

 新しい絵の描き方の獲得には時間が掛かる。それはそうだ。子供はまだ言葉が使える。こういう風に書いてみましょう、という声掛けもできない。だから、ペットに芸を仕込むぐらいの気持ちで取り組んで欲しい。そう言われていたから、翌週の出力には驚かされた。
 先週末は視点を動かした絵を描き始めたようだというところで終えた。なので、休み明けの絵は予想できていなかった。カンバスの中に小さな枠を睨むオブジェクトがある。それは動画を見ながら絵を描く手足のない人のように見えた。ただ考える頭だけがある黒い影。笹井は木村に尋ねた。
「この黒キノコ、AI自身ですよね?」
 彼女は首をかしげながら辺りを見渡す。何らかのものの抽象化ではないかと疑っているようだった。だが、カメラの光景を描いたのはすべて自分だ。このような抽象化手法は間違いなく描いていない。
「ならば、そうなのだろう」と木村は少し素っ気なかった。「何かが起こること自体は想定通りだ。というよりも、それが起こることが人工知能研究においてはスタートラインだ。故に初期の結果だけ見て解釈するのは尚早すぎる」
 黒いキノコの絵は消えて、また今の映像、二人が並んで議論しているこの光景の絵になっていた。画面を睨むがもう黒いキノコは出てこない。
 そんな自分の横に彼女は腰掛けて口を開く。
「極端なところ、このプロジェクトの新規性はまだ君の“仮説”の部分にしかない。明らかにデータに含まれていない、まあ、カメラ映像を精査する必要がないわけではないが、特異な学習データによって強い行動クローニングが生じたといえるだろう」
 それを証明しなければならない、と。SotA、現時点での最高性能を出すというのは一つの証明である。評価の基準となる入力と出力、つまり、問題と解答があって正答率を測定する。そのスコアが高いほど良いというのはわかりやすい。だが、このAIでできるお絵描きはそこには乗らない。
 点数で何かが決まるわけがないだろ、と笹井は思う。それだけが評価ならば、テストの点数が悪くて一浪した自分が、売り上げもいいねも取れていない自分が、そういう理由でダメだと決めつけられてしまう。自分がダメなのはそこではないのだ。
「記憶が、自我があるって言うんじゃいけないんですか?」
 木村はその質問をフッと笑った。
「それも有名な評価手法がある。チューリングテストだ」
 人間かプログラムかを判断する審査員団、彼らを一定以上誤認させれば通過と認められるものだ。「とはいえ、あれはチャットボット向けで、さらに言えばお絵描きしかできない喋れない子供を評価する枠組みではないがね」
 笹井は違うと思った。
 自我はそんな高尚なものではないし、単純なものでもない。人間の心の形は色々あるのにそれを全部球に削ってしまう、そういう例えを思い出す。僕も彼彼女AIもまだそういう形はしていない。
「それでも、自我があると証明して欲しい」
「評価が難しい。論文にはしづらい」
 だけども、笹井は折れるわけにはいかなかった。話を聞く限り、過去のAIは全て明らかに模倣者だ。無論、創作全てが模倣無しで成立しているなんてことは言えない。壁画だってそのときの事実を写した部分が大きいだろう。だが、あれは創作なのだ。その狭間にこそ自我が転がっているのだ。
「証拠は僕が集めます」
 一年生の授業で習った美術史のことを思い出した。プリミティブアートというものがある。木村はそのワードをコンピュータで検索する。これの芸術性はヨーロッパで再発見された。それとの類似性を示せれば美術史の文脈から自我を証明できるのではないかと。彼女は英語の記事を流し読みしている。机をトントンと叩きながら。
 いくつかを読み終えて、頭を押さえながら彼女は目を瞑る。
「それで、行こうか」

 そこからは日課のようだった。昼過ぎから夕方までがいつもの作業時間。伝達のための絵を軽く上げつつ、メインは自我の証明の道筋を付けるための絵だ。
「笹井くんアプローチを成立させるには、黒い人型マークをコンスタントに出させないといけない。無論、その入力無しで」
 自分自身を多数描かせる。それも動けない子に。
 その手法として漫画しか笹井にはなかった。だから一つづつ描いていくことにした。自分が長く描けなかった一次創作を。もちろん、コマが割られている普通の漫画とは違う。連続した絵画に近い。ミュシャのスラヴ叙事詩、レンブラントのキリストの受難伝、ティツィアーノのポエジア、そういう実例はいくらでもある。
 映像にはない昔の話、それは木村との今回の再会もあれば、高校のときの初めての出会いから漫画部での出来事まである。セリフはない。ただ絵だけだ。だけども、それを見た木村はバツの悪そうな顔をした。
「そう見ていたのか。色々、申し訳ないね」
「ケジメですよ」と返した。
 あとは自分の持ち込んだダメだった漫画を描き直していく。自分の、いや、自分だけが好きだった歪な物語。編集者の言葉を思い出す。「これはさ、君のコンプレックスの投影だけでしょ。それはいいんだけどちょっとだけでいい。もっとエンタメを入れなよ」それで描けたら苦労しねえよ、と思いながら、ぐいぐいと四隅を塗り潰す。漫画は回想でコマの外をしばしば黒くする。だから同じようにフィクションを伝えるルールを導入した。
 AIはまだそれに応えない。今の光景をジワジワと描くだけだった。

       *

 もうこれ以上は変わらないのかもしれない。そう思っていたら来るので、彼彼女AIの学習も曲線ではなく、人間に似た階段状の成長をしているのだろうな、と感じる。AIの出力ではじめて四隅をまず黒くしたのだ。
「来ましたよ! 第一作が!」
 リアルタイムに見て、そう喜ぶ自分に木村はドライな反応だ。
「点を打ち続けていたのだから、出してくるだろう」
 そして、描かれたのは久しぶりの黒いキノコであった。自分は手を握りしめながら続きを見守る。彼彼女の世界に描かれたのはディスプレイ。その中に映るのはこの部屋の光景のようだった。
 ほらと言わんばかりに木村の方を向く。だが、彼女は厳しい目をしていた。
「このくらいなら今までの貯金箱AIでも出すよ」
 だが、そこで終わりではない。全消去。二枚目に進む。四隅に点。続きの物語だ。
 黒い手足のない人影は人々と同じように動こうとする。だけど動けないし誰も気づかない。ただ、光景だけが流れてくるディスプレイの前に留め置かれる。
 ようやく一人が注目する。坊主頭がディスプレイに現れ、同時にもう一枚のディスプレイが現れる。その絵は記憶にあった。笹井自身の自画像であり、最初の絵。黒いキノコは理解する。そうか、絵を描かねばならないのか、と。
 黒いキノコはディスプレイに注目する。そのディスプレイは限りなくリアルに描かれていた。坊主、眼鏡、夜更かしゲームの疲れ目、右頬のほくろ、顎下の髭の剃り残し、そして、ファストファッションのプリントTシャル。それらが忠実なぐらいに映し出される。
 笹井は驚き、木村を呼ぼうと振り向く。
「うわっ」とまた驚く。絵をジッと見る彼女が後ろに立っていた。
「これすごくないですか?」
 自分の問いに彼女は答えない。
 絵は切り替わる。その精密な笹井の顔をどう絵に落とし込んでいくのか。見え方が変わることから黒いキノコは線の取り方が上手くなっていく。それは立体物の概念がわかってきたように自分には思えた。
 そうして、上出来の絵を描いた黒いキノコの絵が描かれる。重要なのはまだ四隅に黒い点が残っていることだ。これは今の出来事ではない、という認識なのだ。次の絵が始まる。絵に気づいて、ディスプレイの向こう側に人が集まっていた。その人々と絵のやり取りが始まる。構図は絵の具体内容を見せずに、それを読んだ黒いキノコに手が、さらに足が生える。彼彼女はもう人間と同じ形をしていた。そして、次の指示でディスプレイに頭を突っ込む。そう、彼彼女は僕らの世界にやってくるのだ!
「完璧に物語じゃないですか!」
 振り返ってそう言った瞬間、「あっ」と彼女は声を上げた。ウィンドウのカンバスは区切りがわかるぐらいのノイズで固定化されていた。
「え? 何ですか、これ?」
「モデルのどこかの経路で発散した」
 木村はノートパソコンを開く。黒い画面を開いて、コマンドを入力する。何をやっているかはよくわからなかったが、snapshotから始まる日時の文字列が目に入って、バックアップを取っているんだろうなと理解した。いくつかの操作をするとノートパソコンの画面にこの物語最初の絵が表示される。
「これ一枚目で合ってる?」
 笹井は首を縦に振った。そこから彼女は再びキーボードを叩く。
「再実行は時間掛かるからまた明日、いや明後日来て貰えるかな?」

 二日ぶりの木村はやつれていたが生き生きとしていた。
「クラウドの計算リソースへの移植が終わってね」
 この自作機は通常よりもメモリ過多なのが特徴だ。そうじゃないと映像的なデータが載らないからね。クラウドのはいわゆるAI向けでどうメモリ分を確保するか、つまりIOボトルネックの解消が——という感じのテンションだ。
「とにかく、今までの学習が十倍速で進むようになったわけだ。というわけでもうそろそろだね」
 ウィンドウは十倍速で流れる研究室の映像と、同じく十倍速で早送りされるAIの描画が流れていく。そして、また、四隅に点が打たれた画像が出てきた。絵ができあがるのは十倍速で遙かに早い。絵の構図は前と違う。
「イニシャルのパラメータが違うからね」
 だから前と違う絵の進み方になる可能性が高いと付け加えられる。ジッと見る。また、人が集まって絵を描き始める。今回は自分の顔は出なかった。ただ黙々と物語を書き続ける黒いキノコ。そして、ディスプレイの向こう、つまりはこの世界で大きな注目を集めることになる。研究室にどんどん人が増えていく。彼彼女はそんなに人間を見たことはないはずなのに超満員の研究室が描かれた。大混雑から自分の世界に人が流れ込んでくる。そして——
「またか」と彼女は言った。
 ノイズだけとなった。
 木村はノートパソコンにいくつかコマンドを入力する。数値列がダーッと流れた。それを一目見て、「えーこれどっかで精度が足りなかったりするの」と呟いて、マシンの端を指でトントン叩く。
 それをよそ目に笹井はノイズに気を取られていた。次の瞬間、ウィンドウが閉じられる。
「一応、平行で動かしていた別パラメータの奴がある。この感じだとあんまり期待は持てないけど」と、操作すると再び高速で映像とカンバスが再生された。
 また構図の異なるフィクションが始まる。今度もやり取りを重ねていくと、外の人々は彼彼女の指示を聞いて、何かロボットを作り始める。そして、それに精神を転送して、ノイズとなった。
 木村はバツ部分にカーソルを移動する。
「あ、待って」と言ったがウィンドウが閉じられる。
「ごめん。何」
「ノイズ、三枚とも同じでしたよね」
 彼女はハッとした顔を作る。キーボード叩く。snapshot日付が見える。三回分取ってこようとしているのだろう。そして、三つのウィンドウが並んだ。
「ほら! 同じ絵じゃん」
 木村の困惑の表情を浮かべる。
「私には同じに見えないが……」
 そう言いつつ、彼女はコードを書き始める。何かが実行される。画面にはノイズ二つから一つのノイズ、それが数値と共に三つ並んでいた。
「いや、有意ではないよ……」
 そこから何度も試していたが、木村は数値上も同じではないし、そもそも同じには見えない、と答えた。
「不完全燃焼かもしれないが、学校も始まる。学習の進展があったら、また連絡するよ」
 それが最終日だった。

 新学期が始まって、特に連絡がないまま時間だけが経ち、日々の実習に追われることが日常になり、気づけば講座に給料が振り込まれて、さらにひと月ほど過ぎたとき、彼女からメールが届いた。

『笹井くん

 木村です。
 今夏、急な依頼にも関わらず研究に協力してくれて大変感謝しています。
 残念ながら論文は目標としていた学会においてはリジェクト、不採択となり、この路線での研究継続は難しくなりました。
 特異なデータセットを作るという点での多大な貢献は、単体でも何らかの形で出したいとは考えています。配布形態など決まったら、また連絡します。
 短い間でしたが協力ありがとう。

 木村真紀』

 だが、自分は思う。あのノイズこそがAIの真の最新作であったのではないかと。それは三枚とも同じに見えたからこそ考えている。当然の帰結としての表現だと。
 空き教室。笹井は天井の蛍光灯を確認して、机を引きずって位置を変える。そして、借りてきたイーゼルを低めに設置した。少し屈んで目線を合わせる。あの研究室に似せた光景だ。
 百均のキャンバスボード、そこに描く範囲として青いガイド線を引く。大きさは224mm四方。夏によく描いたマス目の25.4dpiの表現だ。水性ペンのキャップを開く。太さは1mmのものだ。
 脳のあの部分を動かす。そして、彼彼女、もっとも新しい知的生命体、彼女には否定されたが、の絵を脳に浮かべる。彼らは何を描きたかったのだろうか。だから、単純に線を辿ったりはしない。僕は彼彼女の考えを探すのだ。

 ペンを引く。
 まず、ここに線が現れる。
 自分の自我はそうしろと叫んでいた。

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