梗 概
「完璧な結末」はいかが?
主人公は蠢く無数の生物に絡みつかれて暗黒のチューブ状の空間で身動きできずにいる。
定年まで勤務した外資日本法人は「完璧な結末」と称する胡散臭いスタートアップに買収され、再雇用の条件として生体NDAを提示されチップを頭部に埋めこまれる。水族館跡の施設に配属され業務研修を控えた晩に、同僚が催した祝再雇用宴会後、忘れたスマホを取りにオフィスに戻る。未知の業務内容が気になり部外者厳禁エリアに立入った。
各辺が10mの立方体で側面からは中が見えない複数の水槽を見つけ、回廊の3階に昇り直径10mの球形生物を視認した直後、体液を浴び足を滑らせ水槽に転落し飲み込まれる。球形生物の体内で全身の自由を奪われて、経験したことのない快感と刺激に何度も意識を失ううちに手指と皮膚が溶かされていることに気付く。その時、大量の空気流入とともに空間が膨らみ、一羽の雌燕が侵入、主人公の肩に舞い降りた。生体NDAチップを介した通信許可メッセージを承認し、燕とメッセージ通話が可能となる。燕から巨大生物が涅槃鞠と呼ばれる環形動物であること、事故を検知して救助にきたことを知らされる。
涅槃鞠は、南極の永久凍土下で発見され捕食した動物を生きたまま溶かす。また被捕食者と意識を共有し大脳皮質を分子レベルで調整し、心の傷となる不自然な構造を解消する能力がある。5、6番目の体節でのこの事象を外部から電気信号で制御して究極の肉体的快楽と精神的安息を死を目前に控えた顧客に与えることが「完璧な結末」の提供物だ。緊急事態時の体内侵入は知性化とサイボーグ化を施した飛行能力の高い燕と、被捕食者の呼吸の為に消化管内に常時保たれている直径50cm程の空洞を利用して行う。
脱出行にて第6節で記憶編集が難航している本来の顧客に遭遇する。
顧客はどのみち死ぬのだから体が溶ける前に通過できないかと燕に打診して拒絶される。
”顧客は11歳の時、母親の無理心中から逃れた過去をトラウマとして抱える75歳の男性。9歳の弟は母親に抱かれともに逝く。手を振りほどいた時の母親の表情、直後の惨状を片時も忘れられず苦しみ続けてきた”との燕からの情報で彼を救う決意をする。
涅槃鞠の標準の機能ではここまでの傷は修復できず、母と弟の記憶を消すことは望む解決ではない。
涅槃鞠の記憶修正にNDA通信にて主人公のイメージを適用できないか打診する。
顧客との距離が短ければ可能性はあるが、精神崩壊の危険があるとの回答が届く。
母親と弟が、死地を脱した後、両親の離婚により国外に行くことでその後の記憶に現れないように整合性を取る。体の溶解を忘れ惨劇の映像を丹念に塗替えているとモニターが顧客の苦悩消失を告げる。彼は安らかな表情で寂滅した。
数々の規則違反を顧客を救済したことで免除され今回の経験を活かして最前線で働くこととなる。
肉体再生時に性別と年齢を選べると告げられ、希望を述べた時の燕の反応は?
文字数:1200
内容に関するアピール
名刺代わりの1作は個人的な2つのトピックを絡めた「完璧な結末」と称する終活サービスの物語です。
うちで子育てする燕の母親をモデルにしたキャラに物語の狂言回しを担わせましたが、
当の母親燕が今年はなかなか戻らず、別のキャラに変えようとした矢先に史上最遅で戻り、そのまま登場しています。
昨年秋に定年再雇用となり職業生活に一区切りつきました。思い出深いエピソードを物語に絡め、”非日常的な事件”を”ありそうな話”に引き戻す効果を出そうと思います。
「完璧な結末」は胡散臭いサービスとして登場しますが、次第に主人公の今後の人生の柱のような存在となっていきます。”うまくいく恋なんて恋じゃない”という歌詞がありましたが、うまくいかないから人生は面白いと思う反面「未知の快楽・経験を味わい尽くし、人生の岐路での別の選択を体験し、満足して結末に臨む」、そんなサービスができてから逝きたいと思う自分もいます。
文字数:393
『完璧な黄昏』の舞台裏
朦朧としていた意識が戻るにつれて苦痛が強くなってきた。脈拍はかなり早い。脈打つたびにこめかみが締め付けられるように痛む。みぞおちが苦しい。仰向けの姿勢だから耐えられるけれど、俯せになったらすぐにでも吐きそうだ。
“飲み過ぎたな。現役最後の定演打ち上げで梯子して……三次会に出たことまでは覚えている……今、何時だろう? ここ多分池袋だよな? もう終電ないよな?”
酔いを醒ましてからどこかで仮眠し、始発で帰ろうかと思った時、髪の毛をそっと撫でていく細い指の存在に気づいた。私は、公園のベンチに横たわり、誰かに膝枕してもらい、手櫛で髪を梳いてもらっている。
“誰?”
下から見上げても、背筋を伸ばした姿勢で上向き加減の白くて細い首からあごにかけてのラインがうかがえるだけ。手櫛のどこまでも柔らかく優しい動きからは、この人が自分を丁寧に介抱してくれていたことが判る。
私が目覚めたことに気づいたのだろう、その人は手を止め、私の方に顔を近づけてきた。
「田島さん! どうしてここに?」
彼女は、入部した時から憧れていた一つ年上の女性、何でも卒なくこなし、ピアノに堪能で、サークルの演奏技術面の柱で、たった1歳の違いなのに自分がどうしようもなくガキに思えるほど落ち着いていて、大人で、サークルのマドンナで、自分達後輩を弟のように可愛がってくれて……
「目が覚めたみたいね? 気分はいかが? 三次会の後の安田くん、危なっかしくて……とても一人にできなかったよ」涼し気な切れ長の目尻を少し下げながら、微笑みかける彼女の顔がすぐ近くにある。
お礼を言おうとして、しどろもどろになって訳の分からないことを口走り、いったん言葉を止めた。心の中のもう一人の自分が囁く。
“彼女は4年生だから、来年には卒業する。会う機会はずっと少なくなる。これ、最後のチャンスじゃないか?”
今、言わないと取り返しがつかないような気がした。酔った勢いも手伝ってもう一度口を開く。
「俺、馬鹿で、無知で、何もできなくて、ガキで、いつもみんなに迷惑をかけて、いつもあなたに助けてもらって、いつもあなたに教えてもらって、全然釣り合わないこと、判ってます。判ってるんだけれど……」前置きばかり長くなってその先が言葉にならない。
“大切なこと、今! 今、言わなくっちゃ!”
「あなたのことが好きです」
心の中で数百回も言いながら声にできなかった言葉が、何のためらいもなく口から出た。言ってしまってから恥ずかしさで顔を背ける。
「……」
何か話そうとして、口ごもる。
長い沈黙を経てから、彼女が口を開いた。
「本当に君にはいつも意表をつかれる。ドキドキさせられるよ」
それから私の頬をそっと撫でながら語った彼女の言葉を忘れたことはない。
「でも……私も……大好きだよ」
そう言ってからゆっくりと私の顔に上半身を覆いかぶせ、唇をそっと重ねてくれた。
彼女はすぐに体を離すと、先ほどまでのように手櫛で髪を梳きはじめる。
“こんなに幸せなこと、あっていいのか?生きていて本当に良かった!”
21歳の自分はそんなことをマジで考えていた。その人に向き合おうと体を起こそうとしたが、何かに阻まれて動けない。体への抵抗が刺激となって、意識が現実に引き戻されていく。
私は遠い昔の夢を見ていたようだ。そして今、目覚めつつある。
**
心地よい夢の余韻をしばし反芻していた。結局、その人と一緒に暮らす未来はなかった。その後、長い独身生活を経て、アラフォーで趣味と感性が合う今の妻と結婚し20年以上過ごしてきた。夫婦仲は良い方だと思う。
その人のことを忘れないのは、劣等感が強く人より優れた点がないと誰からも認められないと思いこんでいた当時の自分に、ありのままの存在でも価値があること、愛されるということを教えてくれた人だからだと思う。深酔いして目覚める時に、時折この時の夢を見るのは、苦しいことが多い酔い覚めの記憶の中で一番快い思い出だからだろう。
ベッドサイドから照明のリモコンを取ろうとして、体を動かせないことに改めて気づく。寝室とは異なる暗くて狭い場所に、両手、両足を伸ばした姿勢で横たわっている。体が動かせる範囲から判断すると、多分長径50cmくらいの断面が楕円形のチューブの中にいるようだ。
“さて、昨日の晩はどこで飲んでいた? ここはどこだ? 真っ暗でやたら動きにくい。サークル合宿の罰ゲームで布団蒸しをされた時みたいだ”
その時、体の複数の場所に触れていく感触に気づき身震いした。それが触れていく皮膚に神経を集中してみる。指よりもずっと細いもののようだ。頭、顔、耳、首、背中、腕、掌、手の甲、胸、腹、腿、脚、つま先と、体中の至る所を糸コンニャクのような柔らかくて細かい構造のものが撫でていく。しかもそれには温みがあり、なめこのようなヌメる粘液に塗れていた。
“動けない状態で体中を何かに触られている! 素肌に触られているこのヌルヌルした感触! 俺は多分、裸にされている! そして体中にジェルのようなものを塗られている? 全く覚えていないけれど、酔って新手の風俗か何かのキャッチに引っかかり、その店の器具の中で、意識を失って拘束されているのだろうか?”
「誰か、誰かいませんか? 何かの間違いで縛られているようです。もう酔いは覚めました。大人しくしますのでほどいていただけないでしょうか? 料金は必ずお支払いします」
どんな状況でも差しさわりがないように、そして相手を刺激しないように、できるだけ穏やかな声音と言葉で救いを求める。
しばらく待ったものの、どこからも誰からも応えはない。言葉を変えて何度も呼びかけてもやはり応えはない。
“息はできるようだ、締め付けているものはヌルヌルして気持ち悪いけれど温かいから凍死することもなさそうだ。夜が明ければ状況も判るし、人も通りかかるだろう。それまでどんな状態になっているか調べながら、昨日のことを順番に思い出してみよう”
ひとまず気持ちを落ち着かせて、記憶をたどることにした。
**
私が勤務していた外資系IT企業は、日本市場の縮小と競争激化による収益低下を理由に、国内市場からの撤退を決定する。半年間に渡る企業整理の過程で、特定部門の売却や転職希望者の斡旋を実施した後に、一昨日、長い歴史を持つ日本法人は正式に解散した。
昨晩は、旧日本法人の中高年有志による解散祝い(?)兼新しい門出の壮行宴会が、山手線某駅の居酒屋で催されていた。所属組織ごと別企業に買収され、新しい職場が宴会場所と同じ駅だった私は、元同僚達からの誘いを断り切れず、あまり好きではないこの手の宴会に参加している。
若い社員はすぐに同業他社に転職できたが、スキルが古い中高年はなかなか転職が進まず、これまでの仕事とはかけ離れた分野で糊口をしのいでいる者も多い。私は彼らと比べると幸運だった。所属するデータ・サイエンティスト部だけは旧組織ごと新興のスタートアップ企業『完璧な黄昏』略称「PR」に買収されることになったからだ。その話を聞いた時は部署全員で喜んだものだが、採用条件として統合セキュリティデバイスの体内装着が義務付けられることが判明してから辞退者が続出する。
「統合セキュリティデバイス」略してISDは、視神経と視床の一部に接続された行動監視モニターと生体認証デバイス、施設内通信デバイスの3つの機能を一つの機器内に収めたものだ。内視鏡手術によって鼻孔の最深部、頭蓋底に埋め込む形でチタン製のボルトで固定、装着される。手術は3時間程度、術後3週間程で生活の制限はなくなる。電池交換の為に3年から5年に1回の再手術が必要だ。安全性は高くこれまでに大きな事故は発生していないとのことだった。
だが若年層を中心に内視鏡手術とはいえ肉体を傷つける前提のセキュリティポリシーへの反発は強かった。10名の部員への8名の募集でありながら、希望者は5名しか集まらなかった。解散前に定年を迎え、本来なら対象外の私にも追加の募集が告げられる。それは息子が大学院進学を志望し、63歳まで学費を稼ぐ必要があった私にとっては干天の慈雨となった。
隣の席で飲んでいる比較的年齢の近い柿本はISDを嫌って他社に転職した口だ。
「安田さん、ISDよく装着できましたね。私には生理的に無理です! 昔読んだ漫画の不良同志の喧嘩で鼻の穴から折れた鉛筆を刺すシーンが頭に浮かんでしまってね」
定年後の雇用の為には仕方なく付けたと説明したが、“そこまでして残りたいのか”という人ならざるものを見るような目つきと言葉尻に閉口する。収入が大幅に下がるものが多い中、転職前とほぼ変わらない私達の部署への羨望もあったのだろう。
「それにしても「PR」ってかなり怪しいですよね! 何やっているか全然想像できない。何だかスピリチュアルっぽいイメージ映像を流してますけど。あの老人、整形してますよね、整い過ぎてますよ。提供するサービスも、安楽死とかと何が違うんでしょうね?」
これ以上変な突っ込みをされるのも面倒くさいので金持ち向けの新しい形態の葬式らしいとお茶を濁しながら、本日の研修の初っ端に見せられた『完璧な黄昏』のプロモーションビデオを思い出してみる。
珊瑚礁に囲まれた島の風景の俯瞰から始まり、ズームアップして浅瀬に建てられた豪華な水上ホテルの一室に移っていく。年老いた男が最先端の医療機器に囲まれてベッドに横たわっている。モノクロで描写される顔に深く刻まれた皺と光を失った瞳から、苦痛に満ちた延命医療を受けていることが推測される。娘と思われる中年の女性が、医師から何かを告げられ沈痛な面持ちで頷く。
医師の目配せで、看護師が医療機器を外そうとした瞬間、部屋のドアが開け放たれ、極彩色の風景と光芒に包まれて一人の男が現れる。『完璧な黄昏』のCEO、アイルトン・ケイその人だ。ケイの両手に抱かれた光り輝く球体がふわりと浮かび上がり、死に瀕した老人の体の上に舞い降り、吸い込まれていく。老人の顔から苦悩の表情と深い皺が消え、穏やかな表情になり、光に包まれていく。光の中で、翼の生えた天使達が老人を誘い、ともに天に昇っていく。
光が消えた後に、白い石膏細工の胸像のような質感の老人の上半身が残り、娘がそれを抱きしめると老人の最後の瞬間の満ち足りた気持ち、幸せだった人生の記憶が彼女に伝わってくる。
老人の娘の感謝の眼差しと彼女に微笑むケイの表情に『完璧な黄昏』のロゴがオーバーラップしたところでビデオは終わる。やはり何を提供しているのか、さっぱり見当がつかない。
**
宴会の帰り路、駅でSuicaを入れた定期入れを新しいオフィスの引き出しに忘れたことに気づく。入館カードも入れていたので建物を出るときに普通は気付くのだが、ISD装着者は身一つで正面ゲートを通過できる事が仇となった。大して飲んではいないはずだが、コロナ渦でオンライン宴会、泥酔しても寝室が隣という状況に慣れた身には、オフィスに戻る行程はつらい。
“今日の業務概要の講習では、水族館だった施設を改造して特殊な生物を飼育し、生物のもたらす生成物・サービス?にデータサイエンスを活用したバリューを付加して顧客に提供するということだった。怪しさ満載だな! 生き物の提供するサービスってなんだ? 高齢者対象だから海鼠みたいな生き物に全身をマッサージさせるとかだろうか? ドクターフィッシュみたいなものかも知れないな。あまり儲かりそうに思えない。それ以前にデータ分析とどう関係してるのか、全然判らない!”
やっとオフィスにたどり着き、定期入れを回収して駅まで戻ろうとしたとき、好奇心が袖をひいた。
“確か通達では、明日の朝8時から新規参入部門のISDが通常運用モードに変更され、各部屋の入室ゲートが開閉規制されるとあったな。今夜は試験運用モードだからモニター記録するだけで閉じないとか。初日だから迷ったという言い訳ができそうだし。例の生き物を少し見てみようじゃないか!”
酔って気が大きくなっていた私は、禁断の領域に足を踏み入れていった。
**
この施設は、不人気で閉館した水族館を買い取り、オフィス兼LABOに改造したものだそうだ。既に業務を開始して相応の期間が経過している。組織ごと買収された私たちの部署は、数日前からの引越しと荷物整理が落ち着き、明日から本格的な業務の研修が始まる予定だった。
件の生き物が飼育されているらしい部屋にはすぐにたどり着けた。建物の大半を占めている部屋なのでどこから調べ始めても大して迷わなかっただろう。
1階の複数ある入り口の一つから入ると天井の高さに驚く。3階までの吹き抜けで15mはあるだろうか?2階と3階の床にあたる高さ5mと10m程の場所に、部屋の全周に渡って幅2m程の低い手摺のあるギャラリーが設置されていた。部屋の床には巨大な複数の箱が周囲のギャラリーの際まで隙間なく並べられている。歩測したところ、それぞれの箱は縦横が凡そ10m、高さも10mの立方体のようだ。長方形の部屋に5行×8列の40個の箱が配置されている。
箱の側面に触れた感触は冷たいガラスのように感じた。多分水槽だろう。黒い塗料でマスキングされて中が全く見えない。時折、頭上からしぶきのようなものが降ってくるところから水槽の上部は開放されているように思われた。
“上からなら見えるかもしれない。この暗さでは大したものは見えないかも知れないけれど、ここまできたのだから3階まで昇ってみよう”
非常灯の明かりを頼りに、梯子に毛の生えたようなギャラリーの階段を酔いでふらつく足元を気遣いながらゆっくり昇っていく。3階のギャラリーから眼下に広がる暗闇を凝視していると、徐々に目が慣れてきて40個の水槽とその中の物体の形、大きさ、色が視認できるようになってきた。
“黒丸だっけ、いや黒玉だったか? 東北旅行でお土産に買って配った黒くて丸い和菓子にそっくりだ! これがPRで謳っている生物・サービスってやつか? 水槽内いっぱいに広がっているから直径10mということになる”
少しでも細部が見えるようにつま先立ちでギャラリーの手摺から身を乗り出した時、事故が起きた。
最も近い水槽の黒い球体のどこかから勢いよく水が噴きだして、ギャラリーの手摺越しに足に当たる。腰より低い位置で手摺に体を預けていた私は足を払われて半回転し、水槽に転落する。
“しまった! 早くここからでないと結構まずいことになりそうだ! 入社早々、なんて馬鹿なことを”
キャラリーに近い水槽の縁まで泳ごうとした私の足を何かが捉えて離さない。球体の表面に直径50cmほどの穴があき、そこに膝まで吸い込まれている。捕まるものを探したが水槽の内側には突起はない。叫び声をあげても応えはなかった。腰、胸、そして顔の下半分まで吸い込まれたところで目の前の肉質の膨らみから、オレンジ色の粉を吹きかけられる。それを鼻から吸い込んだところで意識を失った。
**
“思い出した! 俺はあの黒くて丸い生物に生きたまま飲み込まれたんだ! 学生時代の夢を見てゆったりしている時ではない! このままだと間違いなく死ぬ。呼吸できていることの方が驚きだ”
何故、こんな重大なことを忘れてのんびりと助けを呼んでいたのだろうと自問してみる。あのオレンジ色の粉末に直近の記憶の抑制作用があるのかもしれない。また全身を撫でていく糸こんにゃくの様な物体と、温かい粘液のようなものの皮膚への刺激もその心地よさで意識を朦朧とさせていたようだ。
頭上に伸ばされた両手の指で糸コンニャクのようなものを掴み、手探りで構造を調べてみる。弾力と大きさの異なる2種類の触手のようだ。大きい方は人の指くらいの長さでソーセージのような感触、撫でるだけでなく、摘まんだり、弾いたりするような動きもできるようだ。小さい方はイソギンチャクやヒトデの触手くらいの大きさで隙間なく肌に密着し、吸い付いてくる。麻痺性の刺胞があるようで触れている部分が微かな痛みを感じてからしばらくすると感触が無くなる。感触が消えた部分からは快い刺激だけが伝わるようになる。全身の感覚が徐々に消えていき、快感だけに満たされていく。
体の表面のあらゆる部分に、強く・弱く、速く・緩く、穏やかに・時にピーキーに、絶え間ない刺激のシャワーを浴びせられ……夢見心地で陶酔していく。壮大な交響曲を聴覚ではなく触覚で受け止めているような気分だ。何度も絶頂の高みに駆け登り、弛緩して谷底に落とされる。
“もう勘弁してくれ! 気持ちよくて頭が変になりそうだ!”
そう感じ、弛緩して伸ばした両手の指先を絡めた時に気が付いた。
“爪が無くなっている。いや指自体が随分短くなっている! 俺の身体は溶かされつつある! それなのに痛みを一切感じない!”
身動きできない狭くて真っ暗な空間で生きたまま溶かされている、閉所恐怖症気味の私にとっては悪夢のような状況が胃袋をきりきりと締め付ける。恐怖を振り払おうと、幼少期に母親に叩き込まれた念仏をひたすら唱えた。
「おん あぼきゃ……」
**
頭上と思われる方向から大きな破裂音がした。直後、閃光とともに突風が吹き込む。体を締め付けていた肉の壁が体から離れて、伸ばしていた手足を縮めた姿勢を取ることができるようになった。空気ととも光を発する物質も流入したようで、閃光に眩んだ目が回復するにつれて周囲の様子が見えるようになった。チューブ状の空間は膨張して長楕円形の空間となっており、その中央に肘立ち腹ばいの姿勢で伏せている。部屋の壁は予想通り、赤い肉質の襞で、無数の触手が生えている。大腸炎で定期的に内視鏡検査を受けている身としては既視感のある景色だった。
いつの間にか右肩の上に小さな鳥が止まっている。濃紺の背中と翼、赤い顔、白い腹部、頭部と背中に小さな器具を付けているものの見覚えのある姿だ。子供の頃、母親の実家の軒先でよく見た鳥、そうツバメだ。そして尾羽が短いから雌だろう。
“なんで雌ツバメがこんなところに? ”
『%&#*!=<>$』
ツバメが耳の近くで鳴いている。何か伝えたいのだろうか?
しばらくすると視界に初めて見るメッセージ映像がオーバーラップしてきた。PCやスマホのアプリが表示するダイアログボックスによく似ている。
『ISD施設内通信の接続許可を求められています。
許可しますか? はい いいえ』
最初は、応答の仕方が判らなかったが視線を『はい』の位置に向けると、表示が反転し、その下に『決定』が表示された。『決定』に視線を合わせると承認済みメッセージが表示される。
『ISD施設内通信の接続許可が承認されました』
その瞬間、ツバメの鳴き声が日本語の音声として聞き取れるようになった。
「やっとつながったわ! 初めまして、遭難者さん! May4よ、よろしくね!」
**
「せっかく綺麗にトリムした尾羽が台無し! 酔って不祥事を働いて救助されるって、どんだけ昭和のサラリーマンなの?」
May4と名乗るツバメにのっけからディスられている。
「それで君はここで溶けたいのかな? 助けて欲しいのかな?」
「助けて欲しいに決まっている。お前、ツバメに見えるけど話せるって、何者だ? 俺を飲み込んだこの生き物は何だ?」
ツバメは首を傾げながら、質問に応え始める。
「翻訳モジュールの性能が低いから、質問はひとつずつにしてね。今回は特別よ!
『助けて欲しい』、了解しました。
『私が何者か?』、完璧な黄昏システムでの不測の事態に備えて待機していたサポート・スワロー、SSです。詳細は文書ファイルをISDに送信したので参照してね。
『この生き物は何か?』、完璧な黄昏システムのコアパーツ、『涅槃鞠』と呼ばれる環形動物よ。これも複雑な話だからファイルをISDに送りました」
視界にISD通信で受信した2つのファイルが表示されブリンクしている。承認の時に行った視線での選択を試してみる。あっさり開いた。直感的に操作できるよくできたUIだ。より興味深い『涅槃鞠』の方から読み始める。
「読み終わったら教えてね」
そう言い残してMay4は尾羽の乱れを丹念に繕い始めた。
**
<涅槃鞠>
ISSへの宇宙旅行を終えた弊社CEOアイルトン・ケイは、次なる冒険を探していた。タイトルに魅かれて鑑賞した『宇宙よりも遠い大陸』という女子高生が南極に行く物語のアニメに深く感動する。彼は、次の目的地を南極に定め、永久凍土の下で太古の生物が眠っている可能性を信じて、大規模なボーリング調査を行った。期待に反して、特異な細菌やウイルスは発見できなかったが、休眠状態のゴカイのような未知の環形動物の体の一部を発見し、蘇生・培養に成功する。
その生物は多数の体節を持つことから環形動物であることは明らかだが、既知の綱には属していない。分類未定の新しい綱または絶滅した綱に属するものと推測される。紐状の身体を、口部側と尾部側が細く中央が太いコイル状に丸めて、隙間を体毛で覆うことで見た目は黒い球状の姿を装っている。環形動物門としては極端に大きな体躯に成長する。3mの体長に達するオニイソメより10倍以上長く、体積は千倍近く大きい。
他の環形動物にはない特異な機能を巨大な第5体節と第6体節に有している。第5体節では捕食した動物を特殊な神経毒で麻痺させて、生命維持に必要な内蔵や脊髄、脳を除いた部分を溶かしていく。実際に捕食されて生還した者の証言では、麻痺するというより快感で意識を失う状態であるらしい。
第6体節の機能は更に特異的でこの生物が何者かにデザインされた人工生物ではないかとの説の源にもなっている。捕食した生物が脊椎動物の場合、その頭蓋骨と硬膜、軟膜を溶かして大脳皮質が露出した状態で、微細な繊毛構造の器官で大脳表面を神経線維レベルで編集し記憶の追加・削除・編集を行う。前述の生還者への調査では苦痛を伴う記憶が消去され、本人が事故前に望んでいた記憶に改変されていた。
第7体節までの消化管内では、常に非捕食動物の周囲に一定量の空気が含まれており循環している。この特性により非捕食動物の呼吸と長期の生存が可能となっている。球体のような見た目と第5体節、第6体節の快楽を与え苦痛を取り去る機能からケイによりNirvanaBallと名付けられる。秘密裏に治験を開始した日本では、最初に写真を見た関係者が阿寒湖のマリモのモノクロ写真と勘違いしたことから「大マリモ」または「大鞠」と呼ばれていた。正式な日本名を決める際にBallを鞠と訳して「涅槃鞠」が採用された。
涅槃鞠を利用した終末医療は『完璧な黄昏』の名称で商標登録され、商用化を目指して治験が進められている。
<サポート・スワロー>
涅槃鞠の商用利用に際しては、治験者の安全確保の為、涅槃鞠体腔外からの電波による遠隔操作に加えて、直接消化管内に侵入しての操作及び治験者の救助機能を実装する必要があった。
最初は内視鏡とロボットアームの使用が検討されたが、各体節の境界部にある歯状帯が捕食物の通過後に閉じるため軟性管が切断されること、切断できない素材の管を使用した場合、歯状帯部分で前後の体節が別れて2体に分離してしまうことが判明し、有線でのサポートは断念された。
次にドローンの使用が検討された。涅槃鞠の体腔が長径で50cm程度と狭く、曲がりくねっていて頻繁に動くこと、水槽内の水及び涅槃鞠の体組織で電波が減衰すること、消化管の表面の色合いとコントラストが平坦でモニターで区別しにくいことなどの要因で、ARゴーグルを使用したドローン遠隔操作の実験は全て第5体節到達前に失敗した。
小動物または小鳥を使用する案が浮上し、その検討過程でほとんど地上に降りることなく長時間、自由自在に飛び続けるツバメの高い飛行能力が注目される。
人間の生活環境で営巣するその特性から、人間の感情や言葉をある程度理解している可能性があるとの仮説が提起され、施設の軒先に営巣していた15組のつがいとその雛達148羽、合計178羽にランダム化比較試験(RCT)を実施する。結果は予想をはるかに越えるもので178羽中、6羽が人間の言葉と感情を的確に理解していることが判明した。
他企業で鳥類保護機器用に開発されていた鳥類用翻訳モジュールのノウハウを買取り、ツバメ用に調整して該当の6羽を訓練したところ日常会話が可能なレベルまでコミュニケーション能力が向上する。涅槃鞠の反射制御機器と翻訳モジュール兼ISDと親和性のある通信モジュールを携行させることで、人間と会話可能で涅槃鞠内部の緊急事態に対処するエージェント、サポート・スワロー(通称SS)が誕生した。
**
「読み終わった? 貴方とてもラッキーよ! 6羽のSSの中で抜群にコミュニケーション能力の高い私に当たったのだから! 消化液の分泌は、反射制御モジュールで抑制している。消化管を拡張させて移動するスペースも確保したわ。さあ脱出の旅に出発よ! 何か聞きたいことはある?」
いつの間にかツバメがまた肩の上に乗り、甲高い声で話しかけている。
涅槃鞠についてはあまり情報を消化できていないけれど、SSはかなり理解できたようだ。
「May4の名前の由来は?」
「5月に生まれた4番目の雛だから、日付と混同しないようにfourthではなくてfourの発音を選んだと聞いているわ」
「俺の指先は溶け始めていた。全身の皮膚も溶けているはずだ。どうなっている?」
「その恰好では自分の体がほとんど見えないのね……そのことはあまり考えない方がいいと思う。何とかなるから……」
言葉を濁すMay4の態度にピンときた。とてもまずい状態なのではないか?
「俺の姿を今すぐ見せてくれ」
「いろいろ手続きやデータの送受信が必要だから、もう少し後にしましょう」
不安は確信に変わった。
「見せろ! 今すぐ! さもないとここから動かない!」
「……」
「……」
無言の攻防が暫く続いた後に、May4が折れた。
「判ったわ。どうなっても知らないから」
ISDにJPEGファイルが転送されてくる。
予想以上の惨状だった。全身の皮膚はほとんどすべて溶けており、筋肉もかなりぼろぼろになっている。手足の指や脛、肋骨まわりなどの筋肉の薄い箇所では骨が露出している。理科室の解剖模型の皮膚のない半身からさらに筋肉のパーツをいくつか外したような状態だ。
「これでは……仕事はできない、家庭生活も無理だ。俺の人生はここで終わった。ここで溶かされて労災と生命保険が家族に支給される方がよいかもしれない」と深く嘆息しながらそう呟いた。
「労災? 勤務時間外に立入禁止エリアに不法侵入したのだから、下りる訳ないでしょ!もう、だから見ない方が良いと言ったのに!
ちょっと待ってて!」
May4の頭部モジュールのLEDが点滅している。何か通信しているようだ。
「今、極秘情報開示の申請が承認されました。これから言うことをよく聞いてね!
涅槃鞠の第7体節には、第5体節で溶かされた肉体部分の再構築機能があります。
あなたは該当機能の治験対象として承認されました。どのような姿になるかまでは保証できないけれど仕事と日常生活が可能な程度には回復できる見通しです。
判ったらさっさと出発するわよ!」
May4の言葉を何度も反芻した。
「判った。とにかく第7体節までは行く」
“肉体の再構築機能とやらに賭けてみよう”
自暴自棄になっていた心を奮い立たせ、第5体節の出口に向けて匍匐前進を始める。
**
第6体節に侵入したところでその人物と遭遇した。その人の手足は既に根本まで溶けている。胴体部分の筋肉も溶けている。露出した内蔵と頭部だけの存在、頭蓋骨の上半分は消失し、灰色の大脳表面に無数の微細な触手が伸びて、まるで古い建物を覆いつくす蔦のように張り付いていた。
「この人が、私たちのいる涅槃鞠の正規のクライアント、ホテル王として有名だから名前は知っているかもね。彼の記憶の編集が終わり、残された肉体が石灰化されるまで待ちます。この状態なら凡そ1時間くらいかしら?」
匍匐前進で壁につけている膝、肘、背中の感覚がおかしい。消化液分泌を抑制しているはずだが少しづつ溶けているに違いない。May4に提案する。
「どうせこの方はなくなるのだから、第5体節を通り抜けた時のように、空気を吸い込ませて消化管を拡張させ、脇をすり抜けた方がいいんじゃないか?」
「その提案は拒否します」May4から即座に拒絶され、理由が告げられた。
「大脳皮質を微細触手網で改変し、記憶の抽出・更新・追加・削除を行うことは、顕微鏡手術のように繊細で危険なプロセスなの! 高圧の空気を吹き付けられたら修復不能なレベルまで破壊されてしまう。横をすり抜けることもNGよ!」
「もうじきなくなる人にそこまで義理立てする必要ないだろう。記憶が本当に編集されたかどうか本人以外は誰にも判らないのだから?」
“生き続ける人間を優先してくれよ”との言葉は心にとどめた。
「実は……それ、判るのよ。それが、頭が良くて慎重で猜疑心の強い富豪たちが、このサービスの利用を決断する理由でもあるのだけれど」
「どうやって、そんなことができるんだ?」ツバメの意外な言葉に驚きと好奇心を隠せない。
「さっき話した記憶編集の後の石灰化がキモなのよ。見た目が石膏像のようだから石灰化と称しているけれど、実はカルシウムを多量に含む特殊な粘液が細胞間の膠原物質と置き換わる現象なの。この粘液の中では細胞の代謝が非常に低いレベルに抑えられる、そして液体窒素のような極低温の状態にしても細胞は破壊されない、ということは?」
「……、うーん、良くわからないが細胞レベルでは生存した状態で冷凍保存できるということか?」
「ご明察! 人工冬眠と同じような状態ね。現代医学では蘇生不可能な死と等しい状態だけれど、遠い未来の進化した医療技術であれば蘇生できるかもしれない。そしてもう一つの特徴があるの、そっちがビジネスにとっては更に重要……」
「勿体つけずに教えてくれ」
十分に勿体をつけてからMay4は話し始めた。
「石灰化してから数時間は、石灰化した体に触れた者に亡くなる直前数分間のクライアントの思いが伝わるの!」
「えっ! えっ! えっ! そんなことがあるのか? ちょっと信じられない」
「どのような仕組みでそうなるのかは全く解明されていないの。かつて第6体節から取り出された石膏像のようなクライアントの体を複数のご遺族が抱きしめた時にその現象が起こり、その後の調査で再現性が証明されたの! それから人工冬眠に似たサービスのはずの涅槃鞠サービスの価値は一変したわ」
「将来の蘇生の僅かな可能性だけだったものが、この上なく幸せな思いで旅立つことが証明されたのか、それはビジネスになるな。でも遺族からの口コミだけでは信じてもらえないのではないか?」と疑問を投げてみる。
「だから、クライアント候補に石灰化した直後のクライアントの体を触ってもらうのよ! この方の場合、本日午前9時から6組のクライアント候補とのReveration Ceremony、啓示式が予定されている。5時間後だから石灰化、涅槃鞠からの摘出、洗浄の時間を考慮すると3時間以内に記憶の改変を終わらせておく必要があるわ」
「やっとこの会社のビジネスが理解できた」
「判ったら大人しく待つのよ!」
「了解」May4の命令口調に反発を感じながらも渋々従った。
**
20分後、May4の頭部モジュールの別のLEDが赤く点灯した。何かまずいことが発生したようだ。ISD通信で私の視界にもシステムからのメッセージが表示される。
『緊急事態発生! クライアントの充足レベル上昇予定に未達。改変後の記憶が本人の意思で復元されている! 初めての状況、インシデント索引に該当なし』
「なんだろう? 悪いことは連続して起こるものなのかしら?」とMay4がつぶやく。
「悪いことの先陣を切ってすまなかったね。何が起きているんだ?」
「強い心的外傷、トラウマがクライアントの記憶の改変を妨害しているらしいわ。米国のアイルトン・ケイ財団の研究所、通称ケイLABOに分析させているけれど、言語翻訳のオーバヘッドもあって進捗度合いははかばかしくないようね」May4が初めて不安そうに眼を瞬かせている。
「何か俺にできることはないか? ツバメや米国人より日本人の心理には詳しいように思うけれど」
「そうね。ここでただ待つのもなんだから、クライアントの情報を流すわ」
ISD通信で流された情報を素早く開いて参照する。大分このUIに慣れてきたようだ。
『クライアント:00012号 75歳 男性 記憶改変の要望項目とその背景
父親とはもの心がつく前に死別、母親と弟の3人で暮らしていたが、11歳の時に、困窮により子供達の将来を悲観した母親の鉄道線路での無理心中に巻き込まれ生還する。2歳年下の弟は母親とともに死亡、事故直前に、肩を抱いた母親の手を振り切った時の彼女の表情と直後の惨状を生涯忘れることができないと告知している。母親と弟に年齢の近い母子を見かけるだけでしばらく動けなくなるほどの心的消耗が起こる。母親との関係性を絶ったことと、それを母親から非難されたとの思い込みが非常に強く、他者に尽くさないと認めてもらえないとの非常に強い強迫観念を有する。常に非常識なほどの自己犠牲を伴う努力を重ねた結果、起業したホテル事業では大きな成功を収めるも、生きていること自体が苦しい時があると告知している。事故の記憶、母親と弟に関する記憶を幸福な記憶に塗り替えたいと希望している。昨年秋に末期のすい臓がんであることが判明し、余命僅かな時期に完璧な黄昏と契約した』
「……この人の心の傷、文章を読むだけでもきついな。なんとかしてあげたいが……」
「ケイLABOの分析結果が届いたわ! 記憶改変モデルの3次元時系列映像よ!」
視界に新たなWindowが開き、巨大な球形のオブジェクトが表示された。良く見るとオブジェクトは無数の透明な薄膜が重なった玉ねぎのような構造だ。球体の右斜め下方から赤く光る巨大なクサビ上の物体が無数の薄膜を貫通し、中央の黄色く光る領域に届いている。薄膜上には無数の赤と青の光る点があり、時が経つにつれて徐々に赤い光の点が、青く変わっていくのだが、赤く光るクサビがひとたび強く輝くと、一斉に元の赤い光の点に戻ってしまう。
「中央の黄色い光がこの人の意識、薄膜は大脳皮質上に遍在する記憶領域、赤い光の点は苦しみの記憶、青い光の点は幸せな記憶、赤いクサビ状のものは事故の心的外傷。遠隔制御された涅槃鞠の能力で塗り替えることのできるのは薄膜上の光の点のみらしいわ。この赤いクサビ状のトラウマを取り除かないと、何度でも思い出して改変した記憶を塗り替えて元に戻してしまう!」May4の緊迫感あふれる説明と画像の変化から、クライアントの状況を理解した。これだけ強いトラウマに対して何かできることはあるのだろうか?
**
「May4、この人のトラウマを解消する為に、俺にここからできることはないのか? 危険性は度外視してよいから」
「……、……、……」無言のまま時が流れていくが、点滅する頭部のLEDからMay4が頻繁に通信していることが判る。
LED点滅の頻度がガクンと減った。回答に行き着いたらしい。
「一つだけ方法が見つかったけれど、とても危険な方法だから……実行してよいものかどうか……よく考えてから判断してね」
「頼む、教えてくれ!」
「SSの説明で外部からだと、水槽の水と涅槃鞠の身体で電波が減衰してドローンの精密な操作ができないと表示されたことを覚えているかしら?」
「覚えている。だからここからできることを質問した」
「クラアイントにはISDと共通仕様の通信機器が埋め込まれているの。第6体節の中からISDとクライアントの通信モジュールのリモート接続を確立すれば、理論上の最高値に近い速度で通信できる。通信速度の制限で外部からは利用できないバルク編集モードが可能となるわ。バルク編集モードならあの巨大なトラウマを塗り替えられるかもしれない」
「よし、それで行こう!」
May4がこちらから顔を背けながら話し続ける。
「でもいいことばかりじゃないの……、バルク編集で流入する大量のトラウマ情報は編集者の精神を破壊する可能性が高いらしいの、実験過程で編集を行った人は強い鬱状態となって回復の見込みがないそうよ」
「私はツバメだから人間とは視点も視野角も認識する色彩も違う。だから人間の記憶の編集はできない。涅槃鞠の記憶編集機能は人間に合わせてあるから、通常の編集はリアリティレベルが保たれている、でもこの人のように高い知性と強い猜疑心を併せ持つ人格を欺くレベルには達していない。あなただけが編集してそれを信じ込ませることが可能なのだけれど……大きな危険を伴うから……まずはこの人のトラウマのイメージを見てから決断して欲しい」
至近距離で接続されたISDと通信モジュールを介して受信したトラウマ体験の映像は非常に鮮明かつ凄惨なものだった。
林の中で線路が大きくカーブした直後の地点にその踏切は位置していた。電車からはブラインドになっており、視認後すぐにブレーキを掛けても停止することはできない。まして特急電車であれば減速すらほとんどできなかっただろう。視界には、踏切の中で膝をついて自分と弟の肩を抱きしめて目を閉じている母親の憔悴した白い顔が映っている。弟は母親と一緒にいることで安心しているのだろう。微笑みながら目を閉じている。背後から轟音が近づいてきた。
その瞬間、踏切内の異変に気づいた運転手が鳴らすたけたたましい警笛の音、咄嗟に背後を振りかえる。突進してくる禍々しい鋼鉄の巨大な箱。
“怖い!”
反射的に母親の手を振りほどき踏切の外に向かって地面をける。視界の隅にこちら見つめる驚いたような母親の表情、その刹那、爆風のような強い風と共に鋼鉄の巨大な箱が目の前を横切った。
母親と弟の姿は消えていた。
「誰か! 誰か、助けて! お母さんが! お母さんと弟が電車に! 誰か!……助けてください……たすけて……」
そこから先はもう言葉にならない。その場に膝から崩れ落ち、うずくまった姿勢で泣きだしていた。
**
イメージ再生が終わっても、しばらくの間、目を閉じて動くことも言葉を発することもできないでいた。
“たった11歳の子供の時にこの凄惨な事故に遭うとは、この人は、なんてつらい過去と向きあい続けてきたのだろう……できることなら俺がこの苦しみから救ってあげたい”
「大丈夫?」心配そうにのぞき込むMay4の姿に気づいた。
「大丈夫、トラウマイメージを経験して心が決まったよ! バルク編集モードでの記憶編集の方法を教えてくれ」
暫く私の状態を観察していたMay4が実行可能との結論に達したのだろう。記憶編集に関する説明を始めた。
「記憶には多くの種類があるのだけれど、この用途で編集が必要なのは3種類。感覚記憶とストーリー記憶、そして心象記憶よ」
トラウマのイメージを打ち消すだけではないのは意外だった。ストーリー記憶と心象記憶に関しては初耳だ。
「感覚記憶の編集は、トラウマ体験の視覚と聴覚のイメージの塗り替えになるわ。膨大な量の記憶を齟齬なく同じイメージで、映像や音声のクォリティを実記憶と同じレベルに保って塗り替えていくの。母子ともに間一髪のところで事故から逃れたというシナリオでの改変になると思う。体力と根気が必要な大変な作業だけれど、なんとか乗り切れると思う」
感覚記憶の編集に関しては、ほぼ予想通りの内容だった。
「ストーリー記憶は、論理的な辻褄合わせ。事故の直接の記憶を塗り替えても、母親と弟のその後の記憶がないと、脳はそこから発生した違和感の整合性を取ろうとする。その過程で大脳半球上に遍在する複数の記憶の断片から、事故の記憶を再生してしまう可能性があるの。だから母親と弟がいないことに一貫性と説得力のあるストーリーを適用して記憶を塗り替える。ここはケイLABOの記憶ライブラリー管理部門に任せようかしら?」
ストーリー記憶の編集も概ね予想していた内容だった。材料について思いついたことがあるのでMay4に諮ってみた。
「ストーリー記憶編集の材料、心当たりがある。ケイLABOの米国人スタッフが機械的に探すより、時代も背景もクライアントに合っていると思う」
「どのようなもの? とても興味が湧くわ」May4が首をかしげる。
「この間まで放送していた連続テレビ小説、カム…カム何だっけ? カム・ヒヤー・エニー・ワン? これの第2部の主人公と母親は、愛し合っているのに些細な行き違いで、日本とアメリカに離ればなれとなるんだ。そして最後に涙の再会をするのだけれど……終戦後の時代背景も近いし、母親が米国人と再婚し、米国に渡って何十年も音信不通となるところとか、使えると思う」
May4の通信モジュールのLEDが点滅している。情報を引き出して検討しているようだ。点滅が止まった。
「よくできた素材だと思う。ケイLABOに編集を依頼しました。母親が再婚し、弟とともに米国に渡り幸せに暮らすストーリーになるわ。どうでもいいことだけどドラマの名前、最初のカム以外全部間違ってるわよ」
**
May4の説明は心象記憶の編集に移っている。これが一番理解しにくい。
「事実としての感覚記憶、それが論理的に整理されたストーリー記憶、これらを編集した後の最後の難関が心象記憶、クライアントがどのように心で感じているかの記憶よ。これまでの分析で編集が必要な心象記憶は2つに絞られたわ。一つは母親の意思を裏切ったことで拒絶され『愛されていない』と感じる心象記憶、もう一つはそれがトリガーとなって積み重ねてきた『自分には価値がない』、『相手に利益をもたらさないと愛される資格がない』と感じている強迫観念。これらはそれを否定する強いイメージで上書きするしかないのだけれど、この人の心象記憶はとても強固で、ケイLABOが推奨してきた心象象記憶は打ち消されてしまったの。どうしたらいいかしら?」
「まだよく判っていないけれど、要するに『愛されている』心象記憶と『自分に価値がある、無条件で愛される資格がある』と感じる自信のようなものと考えてよいのか?」
「その理解で間違っていないと思う。『愛されている』とか『無条件で愛される資格がある』とかの心象記憶を還暦のあなたに求めるのは無理よね……」
「May4、なめるなよ。色恋沙汰の一つや二つ……」と言いながら言葉に詰まる。
“結婚してから20年以上、家族としての絆は強くなったと思うが、収入を得ることだけが当てにされているかも知れない。ずっと発泡酒で我慢していたのに、セクゾとかいうアイドルグループがCMに出たらビールにしてもいいと言われるし……息子より俺の優先度、明らかに低いし……”
「一つや二つ? どうしたの?」
「……」
結婚前の独身時代のことも思い出してみた。それほど多くはないものの出会いと別れはそこそこにあったのだが、求める心象記憶にマッチしているとは思えない。
“30歳過ぎた頃からは、どうしてもお互いに結婚相手としてどうかという点を冷めた目で評価するようになっていたな。『無条件の愛』なんて綺麗ごとに感じていたよな”
「心象記憶の編集は無理かもしれないわね。感覚記憶とストーリー記憶の編集でも一定の効果はありそうだし……」May4はせっかちだ。もうあきらめモードに入っている。
“就職してから暫くは、相手に自分の理想を投影して空回りしたことが多いように思う。影で煙草を吸っていることを知って、自分もヘビースモーカーの癖に相手に幻滅したこともあったな。本当に若くて馬鹿だったな!”
学生時代に至っては、思いだすのも恥ずかしい記憶が次々に浮かび上がってくる。その中で一つだけ気になる思い出が……涅槃鞠に落ちて目覚める時にみた先ほどの夢が……
“そうだ黒歴史だらけの俺の学生時代で、たった一つの幸せな思い出、素のままで愛されると感じさせてくれた人……そう、田島先輩!
「May4、うまくいくかどうか判らないけれど心象記憶の上書きで試してみたい記憶がある。心に思い浮かべたイメージを心象記憶に反映させる手順を教えてくれ」
**
嘔吐しそうになるのを堪えながら、感覚記憶の映像と音声を細部から丹念に塗り替えていった。無限に続くかと思われた記憶編集に要した時間は終わってみれば2時間程、残り1時間でストーリー記憶と心象風景の編集を行なえばよい。
ケイLABOからの連続テレビドラマを参考に編集されたストーリー記憶は、うまく機能した。母親は米国人と再婚し、弟とともに米国に移住した。数十年が経過してから日本を訪れ、クライアントと邂逅するイメージも違和感なく受け入れられている。
最後に遠い昔の記憶と先ほど見た夢のイメージから構成した私の心象記憶を、クライアントの『愛されていない』、『自分には価値がない』、『相手に利益をもたらさないと愛される資格がない』と感じている心象記憶に上書きしていく。彼のネガティブな心象記憶は非常に強く、私の心がその思いに逆に埋め尽くされてしまいそうな状況に何度も陥る。その度に、
“こんなに幸せなこと、あっていいのか?生きていて本当に良かった!”
そう感じた当時の気持ちを強く意識しながら、トラウマ記憶を打ち消して空白になったクライアントの心に丁寧に書き込んでいった。
全ての編集を終えて、ケイLABOに編集後の記憶イメージの分析を依頼する。返ってきた3次元時系列映像には、淡い青色に染められた玉ねぎのような薄膜構造と、赤いクサビ型から変形して、青く変色し薄膜との境界が判らなくなったトラウマのオブジェクトの跡が写っていた。
「あなたはとても素敵な心象記憶を持っていたのね。ツバメの私にも感じられたわ。その思いが記憶編集中のあなたの精神をトラウマの衝撃から守ってくれたのだと思う」
「ありがとう、May4、自分の心象記憶がクライアントの心を救えたことをとても誇らしく思うよ」
クラアインとの充足レベルはMAXに達し、記憶改変のプロセスは全て終了した。後続の石灰化のプロセスも滞りなく終了し、穏やかな微笑みを浮かべた白い石膏細工のようなクライアントの半身像が第6体節の消化管内に横たわっている。
「触って確かめてごらんよ。あなたがこの人を導いたのだから」
May4の言葉に促され、そっと彼の頬の部分に触れてみた。
心象記憶に書き込んだ『愛されている』イメージが、全ての記憶をより好意的な感覚でとらえ直しているのが判る。トラウマによって押しつぶされていた小さな幸せの記憶がかつてより強く認識されている。長い冬が終わり、春になって一斉に芽吹いている草花のようだ。
「この人の苦悩が消えて安らかな心で旅立ったのが判る。俺もなんだかとても満たされた気持ちがする。この人を忘れることはないだろう」
「石灰化した体の回収手術がそろそろ始まるから、第7体節に移りましょうか?」May4の言葉に頷いて、第6体節の出口に向けて匍匐前進を始める。
**
第7体節にたどり着いて早々にMay4が口を開いた。
「あわただしかったから言えなかったけれど、良いニュースと悪いニュースがあるの。どっちから聞きたい?」
「うーん。とりあえず良いニュースから」
「アイルトン・ケイCEOから懲罰規定の適用免除の通達があり、昨夜の不法侵入と涅槃鞠の水槽に落ちた件はクライアントを救助した功績により不問となりました。あなたは肉体再生後にこの会社で働き続けることができます」
「やった! さすがカリスマCEO! こういうところ日本の経営者と違うよな。モチベーション、爆上がりだぜ!」四つん這いで匍匐前進の姿勢でなければ、大きくガッツポーズをしたいところだ。
「家族にはどう伝えるつもり?」
「再生された体が今までとどれ程違うかによるが……驚くだろうけど、正直に事実を伝えるしかないな」
「そうね。それから悪いニュースの方だけど、怒らないで聞いてね」
「今更、怒ることないでしょ?」微かな不安が胸をよぎる。
「じゃあ、言うわ! 第7体節での肉体再構築中は、常に意識を再生している肉体部分に集中させている必要があるの。そうしないと指の数が異なるとか、両手が右手とか不都合なことが起こるから」
「了解、そのくらい仕方ないさ」
「意識を集中させなければいけないということは、当然麻酔はできないの」
何だか嫌な予感がしてきた。
「それで?」
「その……痛いらしいのよ。再生している部位がとても」
「どのくらい?」
「死ぬほど……」
「メイフォー!! それ、もっと早く言え!」
文字数:19995