梗 概
境界領域のシグナル
ギャラリー・SPZと契約中の油絵画家の彩トは、同ギャラリー所属の友人・単ジが別名義の新作提供を要求されるのを目撃する。彩トが単ジに尋ねようとすると、二人はSPZから契約を切られる。
途方に暮れる彩トに、富豪の哀峨が提案を持ちかける。哀峨曰く、娘の凜はグラフィティを行い警察沙汰になった。哀峨は親族で会社経営をしていた手前、凜を一時的に絶縁する。今や全権限を得たが、病で余命僅かな哀峨は、彩トが凜を見つければ、出資ギャラリーで彩トの絵を扱うという。また、嘗て哀峨はSPZの経営者と関わりがあり、彩トを切った理由も推測で教えるという。案に乗る彩ト。
彩トは、凜が高名なグラフィティ画家の輪ネだと見抜くが、輪ネは現実では活動停止中だ。そこでメタバースやNFTに詳しいメディアアーティストの友人・析ヤに相談する。折ヤは、凜の絵をメタバースのクリプトスフィアで見たと告げる。彩トたちはクリプトスフィアを訪問し、AIを駆使して凜のものと思しき絵を発見、またその時、仮想空間は苦手と言っていた単ジと遭遇する。単ジはNFT市場での販路を模索中だと語る。彩トは現状を話し、SPZに切られた理由が分かったら共有すると伝えて別れる。
グラフィティは仮想でもルールに抵触しており、描き手との正攻法での接触は難しいが、哀峨の病が悪化、凜への伝達を急ぐ必要がある。彩トと析ヤは哀峨に計を持ちかけ遂行する。
計画では、クリプトスフィアと現実の哀峨の地所に同じグラフィティを描き、双方で権利を販売する。仮想か現実どちらかで売れれば、もう一方のグラフィティは消し、唯一性を担保する。また、NFTは使用をコントロール可能で、コレクターと関係性を作りやすい性質を利用し、仮想分はロイヤリティを払えば二次使用も可能とする。グラフィティは凜の絵を元に彩トが描き、凜と哀峨しか知らないメッセージを入れる。
計画は妨害に遭うことで却って話題となり、仮想分は完売、哀峨と凜は再会を果たす。
哀峨は昏睡状態に陥る。彩トと析ヤが見舞いに行くと、病院にSPZの経営者と共に単ジがおり、哀峨の病状を探ろうとしていた。単ジを問い詰めると、実はSPZに切られておらずに共謀して別名義でNFT用の絵を提供、SPZの指示で計画を妨害したと告白する。
彩トたちはSPZの策略を追うが、ヒントをくれそうな哀峨は話せない状態だ。彩トが凜に共有すると、反骨精神が強くハッキング技術もある彼女は協力を決め、SPZ絡みの昔の会社資料を提供する。
彩トが現実、析ヤが仮想の情報を収集し、凜がNFT市場にハッキングを行い、SPZが物理的根拠のないNFT市場で絵を売買、マネーロンダリングに加担している証拠を得る。三人は仮想と現実で領域の特性を活かしたグラフィティで告発、両領域の住人も協力し、SPZは破滅した。
三人はアートのジャンルや仮想・現実の領域を跨ぎ、分断を繋いでチームで活動する。
文字数:1200
内容に関するアピール
アートとテクノロジーを絡めて作品を書くのが自分の特徴かと思ったので、油絵等のファインアートとグラフィティ、アートビジネスとNFT、現実とメタバース、唯一性と二次利用などを絡めて描こうと思いました。
油絵専攻の彩トは画力が際立ち、凜=輪ネと看破できる芸術の探求者ですが、素直すぎてガードが甘い人物です。
析ヤはAIに学習させ、凜の絵を仮想上で発見させる等、有能でバランスが取れた裏方ポジションです。
天才肌の凜は、過去に周囲や父と衝突しましたが、組織が綺麗事だけでは生き残れないこと、また父が悪に対峙したことを理解し、彩トたちの擁護は父から引き継いだ使命として協力します。
単ジは彩トに嫉妬し、彩トを憎みつつも誰よりも認めています。
ラストのグラフィティは彩トと凜で共闘します。析ヤは絵を効果的に見せる役割で、特に仮想空間の絵は、二次使用やシリーズものの人気といったNFTアートの特性を活かして提示します。
文字数:400
グラフィティ・グラフィティ
眠りに入る寸前のまどろみの中、彩トは二つの絵を想起する。
一つは父を描いた絵。幼い頃に亡くなった父の面影を忘れたくなくて、クレヨンで完成させた絵だ。
もう一つは真っ黒な絵。全てを失ったあと、新たに父を描き、行方不明の母と妹を加えようとしたが、どうしても色を使えなくて黒く塗りつぶしたのだ。
幼い頃は、目の前の景色はなくならないのだと思っていた。それが突然消えることもあると知ったのは、名前をくれた父を亡くした時だった。だから、消えてほしくないものは絵に留めることにした。絵すらも消えることもあると知ったのは、ハザードですべてをなくした時だった。
以来、彩トは、かたちあるものが消えてしまうのは仕方ないことだと思っていた、彼らに会うまでは。
Ⅰ.DESTRUCTION
最後の色をチェックした後、彩トは一人うなずいた。
仕上げたのは、数年前から手掛けている「mono paint」シリーズの作品だ。キャンバスには黒とセピアの抽象的な人物像が描かれている。古典的な絵画技法のグリザイユを起用し、固有の色を使わずに明暗のみで表現する。平面なのに立体のように見えるモノクローム調の色味が特徴だ。「mono paint」シリーズは、現代的な主題とグリザイユの取り合わせが目新しかったのか、修士課程を卒業する際に大学が主催する賞で受賞した。
キャンバスが完全に乾いているのを確かめてから、梱包してギャラリーに向かう。少し距離があるのでタクシーを使うことにした。Rディスプレイから一番安いタクシーを呼び出して乗り込み、前方の運転ゾーンに音声で行き先を告げると、車は音もなく出発した。
道はでこぼこしていて、尻が跳ね上がる。彩トは今の新東京市に移り変わる前、ハザード前の東京都だった時代の景色は、ぼんやりとしか覚えていないが、新東京市はまだまだ未整備のところがある。彩トは作品を大事に抱え込んだ。
目的地のギャラリーSPZに到着し、Rディスプレイに表示された時間を確認すると、アポの時間にはまだ少し早い。彩トは裏口付近のベンチで待つことにした。
ついさっきまで客がいたようで、ベンチ付近からはVタバコの匂いが漂う。世論や原料の高騰によって本物のタバコは姿を消し、今は値段が高いVタバコのみが流通している。ということは、今ギャラリーに来ているのは、カネのある客なのだろうか。
このギャラリーSPZは古参の大手ギャラリーで、アート界隈でここを知らない者はいない。彩トが今のギャラリーオーナー・素元莞ンジ氏に会ったのは在学中の授賞式で、卒業と同時に素元に声をかけられたのだ。
話し声が聞こえた。素元と一緒にいるのは知っている顔である。大学4年生まで一緒だった一ノ瀬銀河。彩トは追いかけて声をかけた。
「ねえ、銀河だよね?」
相手の背中がびくっと強張った。
対峙して、彩トは相手が上質なスーツを着ていることに気づいた。色白で細面の銀河は、髪を伸ばしていた時は女性に間違えられたこともある整った容貌で、今は服の効果でことさら上品に見える。一方、彩トは普段着だ。
「恩田君か。久しぶりだね」
対峙した銀河の、妙にゆっくりとした口調に、彩トはなんとなく違和感を覚えた。
「ギャラリーSPZと契約するの?」
尋ねると、銀河は少し考えながら言った。
「そうなるかもしれない」
「個人での活動を考えてないなら、このギャラリーと契約できたら有利だね」
彩トが言うと、銀河ははっとしたような表情を浮かべた。
「今は個人でやるには、作品は実体じゃない方がいいんだろう。それだと自分で販路を開拓できない」
そう言うと銀河は、急ぐ様子で去っていった。
時計を見るとアポの時間ぎりぎりである。慌ててギャラリーに戻って素元に絵を見せた。すると素元は感心したように言った。
「恩田君の作品はいいね、硬質で温度が低い感じで。こういうのを好む人は一定の割合でいる。恩田君本人とのギャップがあるのも面白い」
「ありがとうございます。来週のアートフェアで買い手がつくといいのですが。そういえばさっき、一ノ瀬に会いました。契約されるんですか?」
彩トの発言には特に他意はなかったのだが、素元の眼が少し見開いたような気がした。
「一ノ瀬君がそんなことを言っていたのか?」
「いや、はっきりしたことは聞いていません」
彩トの言葉に、素元が考えながら言った。
「決まっていない話だから、他言しないようにしてほしい」
素元の表情になんとなく不自然さを感じた彩トだったが、歩いているうちに忘れてしまった。
次週のアートフェア新東京の最終日の終了間際、彩トは慌ててブースを廻っていた。
同年代の作家がどのような作品を出し、何が売れているのか見ておきたかったのだ。
会場を熱心に見回っていると、肩を叩かれた。見覚えのある顔、メディアアート専攻の風見セキヤだ。ゼミが一緒だったから覚えている。
「久しぶりだな。君の新作見たよ」
屈託なく話すセキヤ。浅い色の眼とこげ茶の髪は賑やかな印象を与える。彩トはセキヤの、物事の中心にいるような雰囲気に気後れし、あまり関わらずに卒業した。
「ありがとう。風見君も出してるの?」
彩トの言葉に、セキヤは笑いながら言った。
「セキヤでいいよ、同級生だし。今回俺は出展してなくて、売れ筋の下見に来た」
意外と話しやすい口調だ。彩トは安堵する。
「じゃあ僕も彩トでいいよ。確かにメディアアート系は別のフェアの方がいいかもね。何が売れ筋か分かった?」
彩トの言葉に、セキヤは首を縦に振る。
「ReaとMeaの比率が完全に変わった。あと、グラフィティが強い」
ReaはReal estate artの略で、彩トの描いているような実在するアートだ。MeaはMeta univasal artの略で、デジタルアートなど、広くモノとして実在しないアートを指す。これらは当初、マーケットの文脈で出てきた言葉で、基本的にReaとMeaはセットで使われ、インスタレーションなど両者を混在させるアートなどの分類には使用されない。
「マーケットの割合として、Meaの方がはるかに大きい。Reaではグラフィティが強いかな」
告げるセキヤの視線の先には、巨大な空中透過ディスプレイがあった。背景を透過しつつ表示されているのは、めまぐるしく変わるMea。同じタッチで描かれた人や無機物は、基本的な形は同じで、顔や服、着けているアクセサリーなどが入れ替わり、その違いだけで別の作品と認識されている。
彩トがその画像をじっと見て呟く。
「僕の描いたグリザイユの油絵はReaだけど、それをスキャンしてデータ化すれば、Meaとして成立するんだよね。まだ実感がわかないな」
Meaの作品の展開は多様だが、今は対応したマーケット用のプラットフォームで販売されることが増えている。そうしたプラットフォームでは、出品の際にアート固有の規格としてMeaT(ミート)が適用され、固有のIDを付けて管理されるので、唯一性と整合性が保たれる。その際にブロックチェーン上で所有証明書が発行されるが、作家はそういった細かい背景は理解せずともMeaTに変換できる。
「セキヤの分野なんかは、作品が全部MeaUniに乗っかってる印象だね。僕の専攻しているジャンルもずっと危ういって言われ続けているけど、そうでもないみたい」
昔はさまざまなプラットフォームが乱立したが、今の最大手はMeaT変換時に手数料がかからないMeaUniで、市場のほぼ9割を占めている。
「どの世界でもすみ分けって存在するのは、第一次Mea期が終わって分かっただろ?」
セキヤの言葉に、彩トは小さく頷いた。
「あの時期アートのマーケットが大きくなって、MeaやMeaTが確立したけど、なんでもデジタル化すればいいって感じになって、バブルになって暴落した。結果、買い手は売り手から直接買わないで、ギャラリーを介在するようになって自由さがなくなってしまった」
セキヤが実感を噛みしめなら呟く。
彩トが美大に入学した時は、Meaの狂乱はとっくに終わっていたが、それでも有象無象の作品が出回った結果、アート界が混乱して質が下がったというのは授業で習っている。そして、自由ではなく制約こそが品質を保証する、という定説が確立したのだ。
「僕なんかはMeaUniは使ったことないし、グラフィティはあんまり分からないから勉強になるな。ありがとう」
頭を掻きながら彩トが言うと、セキヤは笑って言った。
「彩トはオールドファッションのグリザイユを使って新境地を開拓したじゃないか。基礎も応用力もあるんだよ」
「運が良かっただけだよ。この世界での立ち回り方は未だにわからない」
苦笑しながら彩トは言い、セキヤに軽く手を振って別れた。思ったよりもずっと話しやすかったセキヤの態度を思い返し、人を見た目で判断してはいけないと実感しながら。
ギャラリーSPZの広いブースに到着して素元に挨拶すると、素元は人払いをして彩トをスタッフルームの奥に誘導した。彩トは、素元の表情が硬いことに気づいた。
「恩田君。大変言いづらいんだけど、うちのギャラリーとしては、今後、君の作品を扱わないようにしたいんだ」
素元の言葉に、彩トの思考が凍りついた。なにも言えずにいると、素元が言葉を選びながら告げる。
「今後はギャラリーの方針で、新しい要素を入れていく形にしたい」
その言葉に、彩トは懸命に考えながら口を開いた。
「でも、さっき見たら僕の作品は全部売れていたし……あと、先日、一ノ瀬君とも契約するって言ってましたよね。彼の作風も新しいとはいえないと思いますが」
当惑を隠しきれないまま途切れ途切れに告げると、素元は目を反らしながら言った。
「君はキャリアと斬新さが足りないんだ。一ノ瀬君とも契約はしないと思う」
素元の口調は、歩み寄りの可能性を全く残していない。彩トは気持ちの整理ができないままだったが、素元が去ってしばらくしてからスタッフルームを後にした。
彩トの作品は売れているし、今のギャラリーSPZの雰囲気にも合っているように思える。何か素元に失礼を働いたのかと思って最近のやりとりを反芻してみたが、思い当たるふしもなかった。
数日間、彩トは呆然としていた。
素元に告げられた夜は眠れなかったし、翌日も食事が喉を通らなかった。
大手であるギャラリーSPZに切られたという事実もそうだが、彩トは他者に手ひどく拒否されたことがなかった。納得できる理由もないままに作品を否定されたり批判されたりすることは慣れていたが、自分が拒絶されるという経験は初めてだった。
あの出来事を思い返すと、素元の一方的な言葉と、一刻も早くやりとりを終わらせたいという表情が蘇る。頭が真っ白になって描きたいモチーフが逃げてしまう。そんな時、彩トは画材の中からクレヨンを取り出した。一本の中にさまざまな色が入り混じるそのマーブルクレヨンは、彩トが最初に絵を描いた時に使った画材で、眺めていると気持ちの支えになった。
そんな折、大学の指導教官、天野の退官記念の個展が開催されることになった。レセプションに出席した彩トは、天野にギャラリーSPZの件を相談してみた。
思い出すと言葉が途切れそうになるのを我慢し、なるべく淡々と語るようにした。
天野はそんな彩トを痛ましそうに見つめてきたが、彼女も首をひねるばかりだった。
「恩田君が気づかないうちに何かしでかしたとしても、それだけで切られるってことはないと思うんだよね、ビジネスだし」
首を捻りながら話す天野。
「もう考えない方がいいかもしれない。私も気に留めておくようにします」
天野は気を遣ってくれたし、なるべく力になろうとしてくれたが、何かを知っているわけでもないようだった。
彩トは気もそぞろに、パーティー会場の壁際でぼんやりと俯いていた。天野の絵を見ていると、自分の絵の行き場はないのだという懸念が頭をよぎって吐きそうになった。
周囲であたりさわりのない上品な話をしている客たちやアーティストを見ていると、何の悩みもなさそうに思えて妬ましい気持ちになってくる。自分の感情がこれ以上どす黒くなる前に引き上げようかと考えていると、話しかけてくる声があった。
「失礼ですが、恩田彩ト君かな?」
彩トは顔を上げた。目の前の男性は恐らく年齢は60がらみで上背があり、精悍な印象の顔立ちだった。痩身にスーツを上品に着こなしている。日本人で三つ揃えのスーツをこれほど着こなしている人は珍しい。
彩トのRディスプレイに古風な電子名刺が送られてきた。哀峨野コーポレーション代表、哀峨野哲司、と記載されている。
「天野先生の作品を買い上げてらっしゃいましたね」
彩トは少し緊張しながら言った。哀峨野コーポレーションはもともと不動産業の大手で、新東京市に所有する地所で多岐にわたる事業を展開する一大コンチェルンである。ギャラリーでは富豪と会うこともあったものの、基本は素元を介して話をしたので、これほどの大物と一対一で対峙するのは珍しい機会だった。
「君のことは天野さんから聞いてる。ところでこの後、すこし時間をもらえないか? 契約の話なんだ」
有難い話に、彩トは導かれるまま哀峨野の大きなリムジンに乗った。哀峨野の傍らにはHI、つまり人間型ロボットが控え、静かに命令を待っている。
車は乗り心地がよく、体が深く沈み込むようだった。彩トは車窓の景色を見やる。ネオンサインは立体的に見え、時には映像が飛び出してきて飽きることがない。オフィスビルは美観と治安のために低照度の灯をつけており、周囲が明るく見える。
「新しいこの街を、もっときれいにしたい。ハザード前の東京は、都市計画に失敗した街だった。新東京市の私の地所は、美観を損なわないようにしているつもりなんだ」
その言葉に彩トは、哀峨野コーポレーションは、主要な街において美観に優れたテナントをつくり、それで人の流れをつくっていることを思い出した。
「哀峨野さんのつくった建物は、その街を良い方に変えていると思います」
そう言うと、哀峨野は頷きながら言った。
「嬉しいね。私は君のように、ゼロから作品をつくって現実に貢献することはできないから、他の人の手を借りて変えていきたい」
「どうでしょう。今の僕は、絵は現実を変えることはできないと思っています。アーティストは所詮、ギャラリーの意向に従うしかなくて、世の中と直接つながることは難しいのだと分かりました。それ絵は、災害や盗難で物理的になくなってしまうこともあるし」
ギャラリーSPZから契約を切られた彩トは、絵を観てもらうことすらできない。その事実を思い返しながら自嘲気味に呟いていると、車は音もなく止まった。
哀峨野と彩トはオフィスの最上階に昇った。案内されたのは、美術館の中央に応接間が生じたような空間だった。飾られているものは、古代遺跡に由来する石像や日本の浮世絵、ヨーロッパの印象派の絵画からアフリカのインスタレーションまで実に幅広い。周囲を見渡している彩トに、哀峨野が微笑みかける。
「ここは来客用には使っていないんだけど、君なら楽しんでくれるような気がしたんだ」
「使わないのは勿体ないですね」
彩トは圧倒されながら呟く。
「私もそう思ってね、今度、新しいギャラリーをつくろうと思っている。そこに君の作品を置きたいと思ってる」
ありがたい話だが、事前調査をするはずのまともなビジネスマンの哀峨野が、ギャラリーSPZとの一件を知らないはずがない。彩トが黙って様子をうかがっていると、哀峨野は立ち上がって彫刻を見やりながら言った。
「ギャラリーSPZの件を知って、君のことは調べさせてもらった。結論から言うと、君には何の非もないが、このままだと厳しい状況が続くだろう。でも今が一番描きたい時期でもあるだろうから、君にとっては残酷なことだと思う」
何を言えばいいか分からず、哀峨野の次の言葉を待つ。
「状況につけこむつもりはないのだが、ただこちらでも、リスクを冒して君を助けることになる。それで、君に是非ともやってほしいことがあるんだ」
哀峨野が空中ディスプレイを呼び出して操作すると、写真が浮かび上がった。黒髪を長く伸ばし、顔立ちの整った女性だ。画像が切り替わる。暗がりで撮った画像を無理に引き延ばしているらしく、画像はかなり荒れているが、それでも髪をなびかせているその人物が女性であり、整った顔立ちであることが分かった。
「同一人物ですね。哀峨野さんの娘さんですか?」
「よくわかったね。似ていると言われたことはなかったが」
哀峨野は意表を突かれた表情を浮かべた。
「肖像画はたくさん描いてきたので、人の顔の特徴を捉えるのは得意です」
「実はこの女性は哀峨野凜といって、君の言う通り私の娘なんだが、行方が分からなくてね。彼女を探してほしい」
「行方が分からないというのは、事故でしょうか?」
彩トの問いに、哀峨野は首を小さく横に振る。
「私が絶縁したんだ。その日以来、連絡がつかない」
哀峨野はいきさつを説明した。哀峨野の娘の凜は物心ついた頃から絵が好きで、路上に落書きしており、そのままグラフィティを行うようになった。高校を飛び級で卒業してからは、美大で学びながらインスタレーションの作品などをつくっていたが、やがて違法な場所でグラフィティを行い逮捕された。罰金を払っただけで済んだが、哀峨野の一族は凜がコンチェルンの一員にふさわしくないと判断した。その時コンチェルン内では内部紛争が起こっており、哀峨野は凜を一時的に絶縁せざるを得なかったという。
「あの時、凜には事情を話したつもりだが、私も動揺して感情的になっていたし、ちゃんと伝わっていないと思う。その後連絡が取れないままなんだ」
哀峨野は窓の外を見ながら言った。
「なんで僕に依頼しようと思ったんですか?」
素朴な彩トの質問に、哀峨野は頷く。
「探偵を使ったりもした。でも凜は事件の後すぐ退学し、海外に行って足取りを消したようで、それ以降は分からないと言われたんだ。凜は私のことが嫌になったのだと思うんだが」
自嘲気に呟く哀峨野。溜息をついてから言葉を続ける。
「制作が好きな子だったので、違う名前で活動しているのかもしれないけれど、私には絵のことは分からないし、アートの世界は風通しが悪く、信頼できる知人を作るのも難しかった。それに、哀峨野コーポレーションの全権限が手に入ったところで、私に病気が見つかってね。やり残したことはたくさんあるが、せめて凜には一目会いたい」
哀峨野の発言に、彩トは言葉を選ぶ。
「多分凜さんは、哀峨野さんが嫌いになったのではなくて、迷惑をかけないためにそういう行動をしているのだと思います。作品を見せていただけますか?」
彩トはグラフィティに詳しいわけではないし、自分がやっていたこともないが、美大で自分の制作の傍らグラフィティで活動している友人はいた。
グラフィティのアーティストはライターと呼ばれる。グラフィティは社会に対する鬱憤が制作の原動力になることが多く、描かれるものも簡単な文字から、絵柄と文字を組み合わせたもの、複雑な絵柄など、ライターによって異なる。またグラフィティは、画材や描く方法、様式や流行などが日進月歩で、目まぐるしく変わるジャンルでもある。
哀峨野は空中ディスプレイに、凜が個展で制作していたというインスタレーションや、彼女が描いていた絵を投影した。
「グラフィティにはタグといって、絵を描いたライターのサインを残します。もしも同じものを使っていれば探せるかもしれない。あと凜さんの絵の作風は、さまざまな国のモチーフを採り入れているように思います」
「凜は小学校まではシンガポールにいた。その後はニューヨークやシカゴなどを転々としている」
彩トは納得して頷いた。
「分かりました。ただ、ギャラリーSPZは古参で最大手なので、僕の作品を入れることで、哀峨野さんのギャラリーの評判を落とさないか心配です」
溜息をつきながら彩トが言うと、哀峨野は頷いた。
「その話なんだが、私は以前、ギャラリーSPZの素元氏とビジネスパートナーだった時期がある」
意外な話に、彩トは目を見開く。
「だから、これはあくまで推測の域なんだが、君が素元氏に切られた理由も頭にある。君が凜を探し出してくれたら、ギャラリーSPZに切られた理由も伝えよう」
彩トは頷いた。自分が人の善意を信じすぎるきらいがあることは知っていたが、哀峨野は信頼できる気がしたし、そうするより他に選択肢もなかった。
Ⅱ.FIRST DIVE
彩トは天野に頼み込み、大学の研究室のコンピュータを貸してもらうことに成功した。高性能のマシンが必要だと必死で頼み込む彩トに、天野は何か察したのだろう、助手として手伝いながら研究室を使うことを許諾してくれた。
凜の絵の解析にあたり、彩トは網膜のRディスプレイを、高品質で知られるSAMY社のバイオスレンティに取り換えた。手術費用は哀峨野が出してくれた。手術はコンタクトレンズ上の有機細胞を眼球に被せるだけなので、彩トの眼であれば30分で終わった。
こうして彩トは凜の作品を高精度で網膜に呼び出せる環境をつくり、グラフィティを観た時に凜の絵と比較するようにした。彩トは新東京市を歩き回り、Rディスプレイでグラフィティをチェックしつつ、研究室のマシンで各地の情景を調査した。
そんな中、哀峨野が見せてくれた凜のグラフィティの中で、タグと思しき文字を発見した。どうやら凜はタグを「輪ネ」という文字にした後、タグを猫のイラストに変え、アーティスト名にしていたようだ。彩トは類似のタグを、凜の生まれ故郷であるシンガポールで使われているSNSの画像から見つけ出した。
ネット上で似たタグを使った過去の絵を探す。日本と英語圏のほか、近隣のアジアで散見されたが、検索に引っ掛かった情報を彩トの目で確認するので、なかなか効率が上がらない。懸命に手がかりを探していると、後ろから声がした。
「珍しい。何やってんだ?」
屈託のない声。風見セキヤだった。彩トとギャラリーSPZの確執を知らないのだろうか。あの事件以来、腫れものに触るように接されていた彩トにとって、セキヤの気軽な様子に救われた思いがした。
「ちょっと調べもの。セキヤは何してるんだ?」
「俺は営業で来たとこ。うちの実家、小さいけどデザイン事務所で、学校から仕事を紹介してもらってるんだ。親父にこき使われて大変だよ」
整った顔、シャツにスラックスといういでたちで、肩をすくめて目を剥くセキヤの仕草がおかしくて、彩トは噴き出した。そして自分が数日ぶりに笑ったことに気がついた。
「僕は売れっ子じゃないよ。今は後ろ盾が何もないし」
彩トは、ギャラリーSPZに切られた経緯を簡単に説明した。セキヤは、眉を潜めて言う。
「なんかそれ、唐突すぎないか? 本当の理由は別のところにある気がする」
彩トが頷くと、セキヤは聞いてきた。
「今やってることは、その件とは関係あるのか? 彩トがマシンいじってるのなんて初めて見るけど」
セキヤはモニターの絵を覗き込む。凜のものと思しきグラフィティだ。
「なんかこの絵、知ってる気がするな」
「本当? どこで見たか教えてくれないか」
急に勢い込む彩ト。
「それはいいけど」
そう告げるとセキヤは、苦笑しながら彩トを見た。
「ギャラリーから切られた話の時とつながってるのか? 彩トは反応が分かりやすいな」
その質問に、彩トはどこまで伝えたものか迷ったが、少しでも手がかりがほしいところだった。セキヤは重ねて言う。
「油画専攻はチームワークが苦手って聞いたけど、彩トまでそれに従う必要はないだろ。絵は一人で描けるかもしれないけど、今抱えているような問題は、誰かと一緒じゃないと解決しづらいぜ」
その言葉を聞いて意を決した彩トは、哀峨野から提案された契約と、今は凜を探している最中だと告げた。
「そうか。でももう、この都市では活動していないと思う。日付が随分前だし」
セキヤの言葉に、彩トは急に突き落とされたような気持ちになった。
「じゃあセキヤは、この絵をどこで見たんだ?」
「確かクリプトスフィアだった」
彩トは聴き慣れない単語に意表を突かれた。
「何それ?」
彩トの問いに一瞬ぽかんとした後、セキヤは笑ってざっと説明してくれた。曰く、クリプトスフィアとはメタバースの一種で、さまざまな種類の街を提供しているという。複数のプラットフォームを受け入れており、ゲームやアニメなどの別の世界を移植することも可能だそうだ。
「いろんなジャンルのコンテンツが、クリプトスフィアっていう一つの世界に共存できるイメージかな」
頭を捻りながら呟く彩トに、セキヤは頷く。
「使ってみた方が早い。Rディスプレイは入れてるか?」
「うん、つい最近、SOMYのバイオスレンティにした」
「高性能だな。でもどうせ、デフォルトから何もいじってないんだろ。アプリの中に『クリプトスフィア』ってあるから、それを入れれば体験できる。」
彩トが試みると、天野が研究室を閉めるためにやってきたので、二人はいったん外に出て、セキヤの家に向かうことにした。
「前に彩トと話した時、グラフィティは避けてるような印象だったな」
そう尋ねるセキヤ。
「前、油彩の友達が違法な場所でグラフィティをやっていて、捕まりそうになって逃げて大けがしていたから、あんまりいい印象がなくて」
彩トが頭を掻きながら言うと、セキヤも頷きながら呟いた。
「まあ、無限に広くて深い世界だからな」
セキヤの家は新東京市の比較的新しい地区にある。部屋に入ると大型のマシンが目についた。メディアアート専攻の学生はタブレットではなく、フルスペックのフラットマシンを持ち歩いている者が多いから、機械のたぐいには慣れ親しんでいるのだろう。
「クリプトスフィアをダウンロードして、歩き回ってみるといい。あと、これはメタME。口と耳に装着する」
セキヤは、小型のデバイスを渡してきた。半透明の小さな球体が二つ。よくみると楕円になっており、可変樹脂なのか柔らかく丈夫そうだ。
「マウスは口に含むと声紋分析と読唇を行うから、声に出さなくてもクリプトスフィア内で話ができる。少し噛んで歯の裏につけろ。イヤーの方はメタバース世界の音を再生する。基本的な動きはRディスプレイのコントローラーで操作できる」
「ありがとう。これ、高いんじゃない?」
彩トの素朴な質問に、セキヤは首を振る。
「そうでもない。今のところ、一番精度が高くて高額なのは手術だ」
彩トはメタMEを装着し、クリプトスフィアをダウンロードした。
数秒間の暗闇の後、彩トは仮想世界のエントランスに立っていた。目の前の空間の明るさと広大さに目がくらむ。勾配の緩い階段や道は広々として、触れてみるとひんやりとして滑らかで、大理石のような質感に息を呑んだ。
進むとアーケードがあり、奥にショッピングモールがあった。花で飾られた店先、見たこともないような商品が並ぶ店内は整然としてちり一つなく、足を踏み入れるとHIとも人ともつかぬ店員が笑いかけてくる。カラフルなイラストが描かれているエリアに入ると、風船やシャボン玉が飛びかう。
通りを進むと、かすかにアップテンポの音楽が聞こえ、石鹸の爽やかなにおいや花の甘い香りが漂う。彩トは自分の足取りが軽くなっていることに気がついた。歩いているだけで気持ちが浮き立ってくるのだ。遠くを見ると瑞々しい緑の木々や湖らしきものも見える。恐らく自然が豊かなゾーンなのだろう。
やがて大きなゲートにたどり着いた。道が無数に分かれており、見上げると説明が記載されたアイコンが表示される。肩を叩く者がいるので振り向くと、身体は人で、顔は人と虎を混ぜたような人物が立っている。かたちは異形だが、ブレンドの配合が絶妙なのか、違和感よりもクールさが際立つ。
「クリプトスフィアに初ダイブした感想は?」
セキヤの声だった。彩トは興奮を抑えきれないままに答える。
「すごいね、ここが仮想だってことも忘れてた。セキヤは自分をすごいキャラにしてるんだね」
「ここでは、キャラとかアバターとか言わずに、ペルソナって呼ぶんだよ」
「そうか、僕はこのままでいいや。ところで、グラフィティを見た場所はどこ?」
彩トの言葉に、セキヤは思い出そうとしながら言った。
「凜さんの絵は、街の方で見たと思う」
二人はゲートから道を選び、街に出た。人種も性別もさまざまな人が歩いている。顔が異星人のようだったり、動物だったり、無個性な標準タイプだったりもした。二足歩行ですらない者もいる。街はちり一つ、ひび割れ一つなく整備され、多種多様な建物やオブジェなどが立ち並んで見飽きることがない。重力に従う必要もないのだろうが、一定の秩序はあるようだ。彩トはふと、哀峨野の、新しいこの街をもっときれいにしたい、という言葉を思い出した。
ほどなくして二人は、ビルが立ち並ぶ箇所に来た。一角に壁があり、グラフィティが描かれている。セキヤが指さした辺りを見ると、隅の方に小さな猫のタグが見えた。
「ライターの履歴を見ると、個人情報がすっぱり消されてる。一応グラフィティを許可されてる場所なんだけど、身分を知られるのは嫌なんだろうな」
セキヤがつぶやくと、彩トが溜息をついて言った。
「オーバーライドされまくってて、どこからどこまでが凜さんの絵なのか判別できないよ」
「今日は場所だけ押さえて、絵に関しては履歴で追うかな」
そう言うとセキヤは別の場所にも案内してくれたが、凜のものと思しき猫のタグがあったのは最初の場所だけだった。
街中を歩き回っていると、見たことのある顔を見かけた。ほぼデフォルトのままクリプトスフィアに来たのだと思われる。彩トが声をかけた。
「銀河じゃない?」
表情が変わったので、確かに銀河本人だと分かった。
「ここで会うなんて意外だな。確か仮想は苦手って言ってたと思うけど」
彩トの言葉に、銀河のペルソナは少し黙ってから告げる。
「Meaで作って売り出す新しい販路を考えているんだ。だからここにも慣れておこうと思って」
そう言うと銀河は、迷いの表情を浮かべたが、意を決したように言った。
「彩トとギャラリーSPZとの話、聞いたよ」
「そう、切られた。君も契約には至らなかったって聞いてる」
なるべく屈託なく話そうとする彩トの語調に、銀河はほっとした表情を浮かべる。
「よく分からないが、僕も契約しないって言われた」
「なんだかすっきりしないよね。もしもあそこに切られた理由が分かったら共有するよ」
彩トがそういうと、銀河は足早に去っていた。
Ⅲ.BURN UP
彩トとセキヤは時間を決めてクリプトスフィアにダイブした。セキヤは面白がっているようだ。
「行方不明のライターを探すなんて、わくわくするよな」
彩トは、セキヤがいてくれて本当に助かったと思った。セキヤはダイブに慣れているだけあって、グラフィティが描かれていそうな地域をたくさん知っており、的確に場所をポイントし、Rディスプレイや現実世界のマシンで履歴を呼び出していく。セキヤは計画を立てて物事を前に進めるのに長けているようだった。
一方で、セキヤの分析結果から、凜のものと思しき絵を判別するのは彩トの方が得意だった。凜のグラフィティは作風の移り変わりがあったので、彩トは前期と後期に分けた。
前期の凜は、ヨーロッパや東洋の神話を題材にしてリアルな絵を描いている。翼あるペガサスや三つの頭を持つケルベロスなどは彩トも知っていたが、暗緑色の毛をなびかせて走る犬のクー・シーなどは初めて知った。それらのモチーフは写実的に描かれていた。
後期においては、神話世界の住人ではなく、同じモチーフと文字を使うことが多くなる。最終的にはタグの猫を多用し、怪獣や抽象的な意匠に応用し、文字と組み合わせることで着地したようだ。彩トは前期の凜のグラフィティを指でなぞり、その際に描かれていたモチーフの姿勢や筆の癖が、後期のグラフィティに残ってことを確認した。
彩トは凜が、余白をうまく活用して絵を構成していることに気づいた。哀峨野に尋ねると、哀峨野のコレクションには浮世絵が多く含まれており、凜は日常的にそれらを見ていたという。浮世絵は余白をうまくつかっているものが多いことを知っている彩トは、絶縁された家にあったもので作風が決まるというのも業が深い話だと思った。しかしそのおかげで、彩トは凜のものと思しきグラフィティを特定するのが容易になった。
セキヤに会った時、凜のグラフィティらしきものが集まったことに触れると、セキヤは絵のデータをすべてほしいと言ってきた。
「目星をつけたグラフィティのパターンをAIに読み取らせて、どれが凜さんの作品かを解析させる。他にも見つかっていないグラフィティがあるかもしれない」
彩トがデータを送ると、セキヤは自宅のマシンに読み取らせ、実家のデザイン事務所で契約している高性能サーバのAIの機能に解析させた。するとAIは、クリプトスフィアと現実世界で描かれた凜のグラフィティの候補を示した。
「現実では何年も描いてないな。仮想に移行したみたいだ」
解析結果を見ながら、セキヤは言った。
「現実ではグラフィティはほとんど残っていないけれど、クリプトスフィアのグラフィティは残っているってこと?」
「クリプトスフィアでは、グラフィティだけじゃなくていろんなデータが残ってる。俺の契約の権限だと、一部しか見れないけどな」
セキヤに心から感謝しつつ、彩トは哀峨野の、探偵に頼んだが足取りがつかめなかったという話を思い返していた。探偵が凜を追えなかったのは、彼らはグラフィティを解析することもできないし、ましてクリプトスフィアを探すなどは思いつかなかったのだろう。
クリプトスフィア内でストーカーまがいの行為をする者もいるようだから、今後は仮想空間上の探偵という職業もできるかもしれない。しかしメタバース上には一定のルールはあるものの、現実から仮想、もしくは仮想から現実に応用させる法律は整備しきれていないのが現状だ。
「凜さん、最初はクリプトスフィアでもいろんな場所に描いてたけど、絵が話題になったことがあって、以降は仮想の中でも的を絞って描いてるみたいだ」
「哀峨野さんに追われたくないだろうしね」
呟く彩トに、セキヤも頷きながら言った。
「グラフィティをやってるのは、自分の生い立ちから抜け出すためかもしれない。哀峨野コーポレーションの娘ってことで、嫌な思いもしただろうから」
そう告げるセキヤの顔を、彩トはじっと見た。
「セキヤもそういう思いをしたことあるの?」
彩トの素朴な問いに、セキヤは考えながら答えた。
「うちはケチなデザイン会社だけど、親は受賞とかしていて、コネで美大に入ったんじゃないかとか言われたよ。それが嫌で、学部は別の学校に入ったんだ。まあ、就きたい教授がいたから修士は美大に入ったけどね」
親しみやすい印象を与える眼を伏せながら、言葉を選ぶセキヤ。
「世に認められるとかじゃなくて、アートで社会と繋がりたいって思っただけなのに、七光りとか心外だったよ。しかもそういう陰口は、直接言ってこないんだ」
「言いたいことがあるなら、直接言えばいいのにね」
「陰口を言う奴らは、言いたいことは仮想で言ってくる。しかもそういう時は、別人に擬態したペルソナを使ったりするから悪質なんだ。凜さんは、数えきれないくらい嫌な思いをしていると思う」
セキヤの言葉に、彩トはまだ見ぬ凜に思いを馳せた。
「凜さんが描いてるのは、クリプトスフィアでもグラフィティが許可されてない場所だ。仮想でも、公共領域は犯してはいけないっていう暗黙のルールに抵触している。正攻法で接触するのは難しい」
セキヤの言葉に、彩トは頷いた。
「じゃあ、接触する方法を考えないと」
彩トはグラフィティをやっている知人に聞きまわったし、クリプトスフィアのグラフィティのライターを見かけたら話しかけてみた。最初は警戒していたライターたちは、無視されても話し続ける彩トに根負けしたのか、答えてくれる者も出てきた。彼らは凝ったペルソナを選んでいた上に顔を隠しており、声はパブリックサウンドを使っている。それに日本語ではないこともしばしばだった。そんな時はメタMEが活躍してくれた。
二人がダイブしていた時、彩トのRディスプレイに告知が入った。見れば哀峨野からの連絡である。
「すまないが、早めに凜を探してほしい事情ができた。私の病状が想定より早く悪化していてね」
哀峨野の言葉に、彩トはデバイスを握りしめた。
「今のまま調査してもダメってことだな」
彩トから状況を聞いたセキヤは、ため息交じりに呟く。
「探すだけじゃなくて、凜さんに働きかける方法を考えないと」
とはいえ、どこにいるか分からない凜にどうやって伝えるのか見当もつかない。黙って考えていると、セキヤは言った。
「凜さんが分かるものを提示するのはどうだろう。広告とか」
「哀峨野コーポレーションの広告領域に表示するっていうのは、僕も考えたことがある。でも人探しの通知を出すだけじゃ、凜さんは見ないだろう。もっと注目してもらえる方法を考えたい」
彩トは溜息をついた。その日は何も思いつかないまま、クリプトスフィアでグラフィティに挑戦してみた。見回りのAIが来たらすぐに逃げられるように、気を張りながら絵を描く。
もともと基礎がある彩トは手が早く、仮想空間独特の質感の薄い壁などへの適応も早かった。絵は現実世界でReaとして描き、そこからMea用のツールでデータ化しておいたものだ。高い壁に下絵を張り、速乾性のある画材で記載していく。仮想内での質感や、壁に定着する時間は、画材の性質に依存するが、セキヤが使い勝手のよい画材を入手してカスタマイズしてくれていた。
一通り描き終えて、彩トは壁全体を眺めた。余白の大きさが凜の絵に似ているような気がした。彩トは凜の画風を思い出しながら絵を追加した。最初に思い出した神話の動物たち、そして凜が常に使っていた猫。描きながら彩トの頭の中に、一つのアイディアが浮かんだ。
セキヤに思いつきを共有すると、彼は唸って言った。
「凜さんの絵のグラフィティを、俺たちが描くのか? 効果があるかもしれないけど、剽窃は怒りを買うんじゃないか」
「そのままじゃなくてアレンジするよ。それに、『グラフィティを上書きしていいのは、元のグラフィティよりも優れた作品でなければならない』から、より良い絵を描くのは慣習として許されてる」
今までそこに描かれたグラフィティの中で、ベストの作品でなければならない。彩トは自分の言葉に武者震いを覚えた。
「かつて凜さんが描いて上書きされた場所に、凜さんの絵のアップデートバージョンを描く形になる」
彩トの言葉に、セキヤは少しためらいながら言った。
「彩トの絵、油彩の時代からほとんど色を使ってないだろ。油画の時はいいけど、グラフィティだと凜さんの作風だって見分けづらいんじゃないか」
黙り込む彩トにセキヤは、少し歩こうか、と促した。二人が足を運んだのは、ハザード前に新宿があった場所だ。かつて高層ビルがひしめいた場所は今は瓦礫の山である。
黒い建物の向こうで、夕日がひときわ大きく見えた。日暮れの濃密な光は、血塗られたように鮮やかだった。
「彩トが作品から色をなくした理由って、ハザードのせいか?」
ハザードが起きてから15年。あの時、新宿より西側は持ちこたえたが、東側と下町は地震と火災で大部分が消えた。
瓦礫のブロックに腰かけて俯く彩トに、セキヤはゆっくりと話しかける。
「この人探しは、最初は面白いから協力してた。でも今は絶対に成功させたいと思ってる。義務とかじゃない、俺もアートの可能性を信じたいんだ。でも成否を決めるのは俺じゃない。彩ト、お前にかかってる」
セキヤの言葉に、彩トは長いこと下を向いていたが、周囲に闇が広がった頃に顔を上げた。
「ハザードが起きた時、僕は祖父母の家に行っていたんだ。東京にはしばらく入れなかった。やっと家に向かった時、家には辿りつけなかった」
淡々と語る彩ト。口調にいつものリズムがない。
「家を目指して歩いたよ。でもいくら歩いても、ただ何もない場所が広がっている。空っぽだった」
空を見上げる彩ト。夕日は完全に落ち、月は雲で隠れている。今、空には何もない。
「真っ黒な土と、真っ黒な瓦礫を覚えてる。空は煤で長いこと灰色だった。いちめんの無彩色、あの光景はしばらく僕を支配した。僕に名前をくれた父は早くに亡くなったけれど、ハザードを経験しなくてよかったんだと思う」
「……」
「ごめん、重い話をして。でも、最後まで話をするね。あれ以来、母と妹は行方不明のままだ。祖父と祖母は、苦労して育ててくれたと思う」
セキヤは小さく息をついた。茶の浅い目に、見たことないくらい真剣な光を湛えている。
「色が嫌いになったのか?」
セキヤの質問に、彩ト言葉を選びながら告げる。
「分からない。でも、ハザードの後で家族の絵を描こうとしたら、どうしても色が使えなかった。今もグリザイユで描くと気が休まる」
彩トは、画材の中に忍ばせているマーブルクレヨンを思い返した。
ハザードの後、あのクレヨンを使って描こうとしたのだ。
でもできなかった。あの色に詰まっている希望は消えたと思ったのだ。
「作品に吐き出すことで、気持ちを鎮めているんだろうな。彩トのグリザイユは鎮魂なんだ。モチーフになっている人間が個人として判別できないのは、気持ちが整理できていないからだろう。あの絵には訴える力があるし、記憶に留まる。でも、もう先に進んでもいいんじゃないか」
セキヤはそう告げると、彩トの隣に来て肩に手を廻した。
「話してくれてありがとう。無理しないでくれ」
それを聞いた彩トは、しずかに首を横に振った。
「僕は絵が好きだった。みんなが喜んでくれたからだ。父が亡くなった時、記憶から薄れていく父の姿を留めようと絵を描いた。その後全部燃えてしまって、絵でもかたちを留めることはできないんだと知った」
「それでも、絵を嫌いになることはなかったんだよな」
その質問に、彩トは少し考えた後、首を縦に振る。
「好きとか嫌いとか考えていなかった。描かずにはいられなかった。でも囚われていても先に進めないし、身内を失っている哀峨野さんには共感を覚えてるんだ。だからあの親子を引き合わせたいと思ってる」
小さな声で言うと、彩トはしばし黙り、セキヤの眼を見つめて告げた。
「僕は今回、上手くいくことを誰よりも願っている。これは描く者の意地だ。だから手を貸してくれ」
その言葉に、セキヤは深く頷いた。
翌日も二人は話し合った。
「凜さんはクリプトスフィアで活動しているとは思うけど、活動の時だけダイブして、いつもは現実にいるのかもしれない」
セキヤのその言葉に、彩トはしばらく黙って考えていた。
「現実世界とクリプスフィアの両方でグラフィティを行うのはどうだろう? 凜さんもどちらかに滞在してるんじゃないかな。セキヤが手伝ってくれることが前提になるけど」
彩トの言葉に、セキヤは頷いた。
「もちろん。俺はクリプトスフィア担当になるよ」
「ありがとう。まずは哀峨野さんに相談してみるか。あとは話題づくりだね」
ちょうど入院している哀峨野の見舞いに行く日だった。哀峨野の病室は広い。VIP用なのだろう、広い病室はソファ、応接室、ミニキッチンまでついている。
対面した哀峨野は思ったよりも元気そうだった。以前のようなスーツ姿ではなかったが、シャツにスラックスで清潔感のある着こなしである。病室には看護師らしき人物がいたが、哀峨野が人払いをすると出ていき、後はHIだけが残った。
「今日はありがとう。今まで仕事をしていない時間がほとんどなかったから、変な感じなんだ。来てくれると気分転換になる」
語調はしっかりしていたし、表情は変わりなかったが、彩トは哀峨野がかなり痩せているのが気になった。もともと骨が目立つ顔立ちだったが、頬の肉が薄くなり、眼光が鋭くなったように見える。
「凜さんの足取りはつかめないのですが、手がかりを得るために、今日はお願いがあって来ました」
そう言うと、彩トはざっと計画について説明した。哀峨野は時折質問したものの、大体のことは理解した様子だった。
「君たちはクリプトスフィアと、新東京市の両方にグラフィティを描く。場所は哀峨野コーポレーションの地所ということだね。でもクリプトスフィアでは地所を持っていないから、それは哀峨野が購入するということか」
哀峨野の言葉に、セキヤは空中ディスプレイを開きながら頷いて告げた。
「新東京市の新宿に該当する地区が、クリプトスフィアにもあるんです。名前もシンジュクだから、ほぼ一緒といっていいでしょう。そこの地所は今後値上がりするでしょうし、哀峨野コーポレーションにとっても、先行投資としては悪い話ではないと思います」
現実の新宿とクリプトスフィアのシンジュクの地域を別々に出してから重ね合わせると、面積も形もさほど変わらなかった。
「購入する方向で考えよう。君の言う通り、投資として後で回収できる案件だから問題ない。現実と仮想で同時に全く同じものを描いて、ReaとMeaとして売り出すというのは聞いたことがないから、広告を打てば話題になるだろう」
哀峨野のその言葉を聞いて、二人は安堵した。
「ただ、私はグラフィティの売り方はまったく分からないのだが、そこは大丈夫なのか?」
続けて哀峨野が尋ねると、セキヤが胸を張って告げた。
「今回のイベント、クリプトスフィアでの売り方に特徴があります」
そう言うとセキヤは、空中ディスプレイに図を拡大して映し出した。
「Meaはクリプトスフィア上でMeaT(ミート)化し、MeaUniに載せて販売します。今は所有者が、MeaUniで購入した作品を、クリプトスフィア上の個人美術館などに飾るのが一般的です。今回は、クリプトソフィアからMeaUniに売り出すので、逆の流れを試みる形になります」
販売経路図に逆の矢印が付け加わる。セキヤは話を続けた。
「MeaT化されたアート、通称Me-ArTは、コレクティブと呼ばれる作品が売れる傾向にあります。つまり、見た目に共通点があるシリーズものの方が、複数の買い手が一体感と特別感を得られて、広く受け入れられるんです」
ディスプレイ上に、オールドファッションな油彩の絵と、Meaの抽象的でカラフルな絵が並べられる。Meaは変換されてIDが付与されていく。
「つまりMe-ArTは、『他の人が持っていない唯一性のある作品』で、『他の人が持っているものと共通点がある作品』が受け入れられるんです。矛盾しているようですが、偽物は嫌だけど、他の人と話題を共有して話が盛り上がるものが好まれると考えれば納得できます」
今までに売れ筋だった、Me-ArTの映像が流れていく。人種の特徴をシャッフルさせたキャラクターで、アートのポリコレという文脈で話題になったUNIPERSONA。ゲーム会社と映画会社のコラボで、著作権についての再考を促すPopCha。最初は売れず、コピーの廉価版を出したらそちらの方が高騰したシグナルズ。どれも物議をかもしたが、今まで明るみに出なかったアートの問題に焦点を当てた作品だった。
「Me-ArTは履歴が取れますが、クリプトスフィアの履歴管理と組み合わせると、その絵が、誰にどこでどのように描かれたかを詳細に管理できます。情報を参照できるかどうかは、権限が絡むので別問題ですが」
セキヤの言葉に、彩トも頷く。
この話をセキヤから始めて聞いた時はひどく驚いた。セキヤの話からすれば、クリプトスフィアでMeaTに変換すれば、描いているアーティスト本人以外の総ての条件が再現できることになる。再現不可能な技法や表現が、Me-ArTにおいてはなくなるのだ。
「今回は、現実でも仮想でも同じものを描きます。描く絵は10点、シリーズものです。モチーフは、凜さんが過去に描いていた神話の動物シリーズで、それをグラフィティで描くことで凜さんに気づいてもらうという計画です。凜さんがどこにいるとしても、現実かクリプトスフィアのどちらかでは目にするでしょう」
彩トが言うと、セキヤは頷きながら加えた。
「シリーズものにすることで、Me-ArTのコレクターに広く売り出します」
「ただ、現実と仮想で全く同じ絵を描く場合、唯一だと言えるのか? MeaT化するとIDがあるから唯一だという理屈は分かるけど、モノとして二つあるというのは、私の感覚ではぴんと来ないのだが」
苦笑しながら呟く哀峨野の発言に、セキヤは言葉を重ねる。
「どちらかの世界で売れたら、片方の絵は削除します。新宿の絵が売れたらシンジュクの絵を、シンジュクの絵が売れたら新宿の絵を消すのです」
じっと聞き入る哀峨野。
「新宿の絵を所有した人は、現実世界で絵を所有します。地所は哀峨野コーポレーションのものなので、ビルを解体する時に、絵の部分だけ物理的に提供することができるようにするといいでしょう」
セキヤは哀峨野の顔を確認しながら続ける。
「シンジュクのグラフィティの方は、希望者が購入者にロイヤリティを払えば、二次使用も可能とする前提で販売します。Me-ArTの購入者は、そういうオプションを面白がってくれるでしょう」
「同時に絵を描かなければならない点は大丈夫なのか?」
哀峨野は頷きながら尋ねた。
「現実の新宿は僕、クリプトスフィアのシンジュクはセキヤの担当で考えていて、失敗のないようにリハーサルしてからやります」
彩トが告げると、哀峨野は大きく頷いた。
「分かった、私は宣伝に尽力しよう。各メディアに出すし、今回の経験をギャラリー展開につなげたい」
「ありがとうございます。あと、哀峨野さんにはお願いしたことがあります。これは哀峨野さんにしか分からないことです」
その言葉に、哀峨野は目を丸くして聞き入った。
決行の日の夜、彩トは哀峨野コーポレーションのビルの上から街を見た。
街のネオンサインの奥に複数のタワーが見える。かつて、東京タワーとスカイツリーと言われていた赤と青のタワーを模した建物が点灯している姿は美しい。
Rディスプレイの隅の領域に、クリプトスフィアのシンジュクを映し出す。セキヤも準備万端のようだった。時間を迎えた二人は、最初のビルから描き始めた。
この日のために何度かリハーサルしてきた。
懸念材料はあった。リハの回を重ねる度に嫌がらせが増えたのだ。
グラフィティ中に割り込んで邪魔してくる者もいたし、脅迫のメッセージも届いた。二人は意に介さなかったが、何者かが彩トたちを敵視しているということである。
おのずと手足に力が入った。彩トは自分に言い聞かせる。
緊張するのは目の前のことが大切で、絶対に失敗したくないからだ。
積み上げてきたものがないと、むしろ緊張すらしない。
だから今の緊張は武者震いだ。もう考えるな。絶対にうまくいく。
彩トはビルの壁面に立ち向かった。次々に描いていくのは神話のモチーフ。最初に描くのはシンガポールのなりたちの神、ライオン。凜が繰り返し猫を描くのも、恐らくライオンがルーツなのだろう。北欧神話、ギリシャ神話、ケルト神話、インドやイスラム圏の神々を次々に登場させていく。
ビルの壁は広い。描きたい絵柄は決まっているから、迷いなく描いていく。グラフィティは時間との戦いだ。威圧感がある壁に負けそうになるが、やがて全体像が見えて、頭の中の像と一致すると充実感が満ち溢れる。ダンスのようなストロークを獲得する。すべての絵で必ず描くのは、凜のタグである猫と、『ここは君の場所だ』というメッセージだ。
彩トはグラフィティに、凜が帰りたいと思える要素を入れたかった。そのため哀峨野に、哀峨野と凜との最後の会話で、なおかつ二人にしか分からない言葉がないか尋ねたのだ。哀峨野は考えながら言った。
「私ではなくて、凜の言葉なんだけどね。去り際に『ここは私の場所じゃない』って言ったんだ」
そう言う哀峨野はひどく寂しげだった。
「絶縁の時のお話ですよね。凜さんはショックだったんでしょう」
取りなすように言うセキヤの言葉に、彩トは頷きながら告げる。
「お嫌じゃないければ、その言葉、使わせていただいていいでしょうか。相手にショックを与える言葉は、逆にいい方にも働きますから」
彩トの頼みに、哀峨野は一瞬躊躇した様子だったが、凜と会うためならなんでもしようと思ったのだろう、次の瞬間には頷いていた。
彩トは定期的にRディスプレイをチェックした。クリプトスフィアのセキヤのグラフィティは、彩トのグラフィティと完全に同期している。見物人は増え続けた。哀峨野は数日前からこのイベントの告知を行っていた。メディアはもちろん、仮想から現実まであらゆる場所に広告を打った。イベントの話題性が高まっているのは、SNS等の反応から明らかだった。
二人のグラフィティは、現実でも仮想世界でも告知し、広く共有するようにした。凜の目に触れる可能性を少しでも高めようとしたのもあるが、衆人の眼があった方が妨害も難しいという計算も働いた。
グラフィティのさなかにも嫌がらせは続いた。クリプトスフィアのセキヤのもとに仕掛けられた攻撃は、事前に準備しておいた仮想内AIに撃退させた。虚偽の通報があったのか、現実世界の彩トのもとに警官が来訪した。しかしいずれの場合も法的にはクリアしていたので、二人は動じることなくライティングを続けた。
絵は描き終えた瞬間に販売された。クリプトスフィアの絵はMeaUniに、現実世界の絵は画像とともに哀峨野コーポレーションが所持する美術品のオークションサイトに出品された。値段の上限と期限は設けていたから、上限に達したら自動落札されるし、期限を迎えればその時点の最高額入札者に譲られるしくみである。彩トたちは、そのうち全ての絵が売れれば御の字だと思っていたが、絵はいずれも数分以内に売り切れていった。
二人は現実で売れればクリプトスフィアの絵を即時削除し、クリプトスフィアで売れたら現実の絵を即時消去することに決めていた。しかし絵はクリプトスフィアばかりで売れるので、彩トは自分の描いた絵を消していった。セキヤは、描いたばかりであれば瞬時に消すことができる画材を入手してくれていた。彩トはグラフィティを消すたびに自分のアイデンティティが消えるような気もしたが、それも一瞬のことで、すぐ次の作品に取り掛かった。
最後の絵に『ここは君の場所だ』書き入れた次の瞬間、絵は売り切れた。売れた最後の一枚も、クリストスフィアで描かれた作品だった。Rディスプレイに告知が入った時、彩トはほとんど自動化された手つきで現実世界の自分の作品を消した。
まったく実感がなかったが、自分たちのグラフィティは広く話題になり、認められたのだ。すべて売れたのがその証だ。彩トはセキヤと落ち合うと、急速に充実感に満たされた。二人は興奮状態のまま、すぐさま哀峨野に報告に行った。哀峨野は手放しで喜んでくれた。
「これで凜さんが見つかればいいのですが」
彩トが言うと、哀峨野が頷いて告げる。
「君は以前、絵は現実を変えることはできないと言っていた。でも今、私の現実を変えつつある」
ああ、と彩トは実感した。このグラフィティは報われた。自分の描いた絵は、グラフィティは、誰かの気持ちを、人生を、動かしたのだ。
万能感は束の間だと分かっていたが、その感覚をずっと覚えていたかった。
「そうですね、僕は絵の可能性を限定しすぎていたのかもしれません」
彩トの言葉に、哀峨野は力強く頷いた。
数日後、彩トのアドレスに連絡が入った。送信元を見ると、知らない相手である。メッセージを開くとこう書いてあった。
先日のイベントを見ました。あれは私へのメッセージでしょうか。輪ネ
彩トは胸が高まった。アポを取り、セキヤに連絡して二人で赴くと、髪をピンクに染め、ぼろぼろのTシャツを着た人物が俯いている。声をかけるとこちらを見た。白い顔に淡い光彩。視線の投げ方からすると、Rディスプレイで彩トたちの顔を認証しているのだろう。
「始めまして。恩田彩トと風見セキヤです。あなたは輪ネ、つまり哀峨野凜さんでしょうか?」
問いかけると相手はびくっと肩を震わせたが、腹をくくった表情を見せた。
「そう、私は哀峨野凜。哀峨野コーポレーションの代表の娘です。あなたたちの目的は?」
分かっているなら話は早い。彩トは言葉を選びながら告げた。
「あなたに会いたがっている人がいます」
「父ですか? 絶縁したくせに」
顔を背けて告げる凜に、セキヤが言う。
「今、哀峨野さんは入院しているんです」
はっとした凜に、彩トが畳みかける。
「あなたと別れたことを後悔しています。会ってもらえませんか? 哀峨野コーポレーションは、今、あなたの場所です」
凜は一瞬迷った表情を見せたが、すぐに落ち着いた声で告げた。
「分かった。病院に案内してもらえますか」
彩トたちは、凜を哀峨野の病室に導いた。病室には凜を先に通した。こちらを向いた哀峨野の表情は、今までに見たことがないものだった。
頭から足の先まで、凜を見つめる哀峨野。
空気が鎮まり、時が停止する。
彩トとセキヤは二人に会釈をし、席を外した。暫くたってから病室から出てきた凜の表情を見て、二人はやっと、自分たちのグラフィティが成功したのだと実感した。
Ⅳ.GRAFFITI-GRAFFITI
数日後、凜から連絡が入った。セキヤと共に待ち合わせの場所へ行くと凜が待ち構えている。淡色の瞳にピンクの髪は脱色しており、黒の上下に耳と鼻にはシルバーピアスという目立つ姿だが、表情はひどく暗い。
「実は、父の容体が悪化して」
想定外の事態だった。驚きで声がうまく出せない。
「そんな……」
彩トはうめくように呟いた。さまざまな人に協力してもらったグラフィティで、哀峨野と凜はやっと対面できた。今まで離れていた分を取り戻すためにも、親子の時間を過ごしてほしい、そう思って哀峨野と連絡も取らずにいたのに。
「哀峨野さん、てっきり快方に向かってるんだと思ってたよ」
セキヤの呟きに、彩トも小さく頷く。
信頼して全てを任せてくれた哀峨野には恩を感じていたし、父親ほども年が違うのに対等に接してくれる哀峨野の態度は心地良く、ビジネス抜きでも今後も関わっていきたかった。
凜は首を小さく横に振る。
「私もそう思ってたけど、気が緩んだのかも」
哀峨野の容体が悪化したら、ギャラリーSPZに関することを教えてもらえなくなってしまう。彩トは一瞬そう思って気持ちが更に沈んだが、一番つらい思いをしているのは凜のはずだと思い、自分の身勝手な思いを恥じた。
三人は病院へ赴いたが、哀峨野はずっと眠っており、面会できなかった。
「父が、彩トさんへの約束を果たさなきゃと言ってたけど」
凜が告げた。彩トとセキヤは、彼女は乱暴な口調だが、思ったよりもずっとしっかりしていることを知った。
「お二人の対面が叶ったら、一つには、哀峨野コーポレーションで開く予定のギャラリーで、僕の作品を扱っていただくことになってました」
真剣な面持ちで凜は頷く。
「ギャラリーの話は問題ない。他にあると思ってるんですが」
凜の言葉に、彩トは迷いながら答える。
「この件は、ちょっと凜さんに共有すべきか分からないのですが」
するとその時、セキヤが彩トに囁いた。
「話し中に済まない。あれ、一ノ瀬と、ギャラリーSPZのオーナーじゃないか?」
見ればその通りだった。彩トたちは病院の待合室から廊下に出た。凜はわけがわからないという表情で従う。
「何してるんだろう?」
「分からない」
セキヤはそういうと視線を彷徨わせた。Rディスプレイで参照しているのだろう。
「あの人たちの話を聞けばいいんだね」
凜が素元と一ノ瀬の方に近づいていく。彩トは一瞬慌てたが、考えてみれば彼らは凜のことを知らないので、怪しまれることもないのだ。凜は受付に向かうふりをして観察しているようだった。やがて素元たちは立ち去り、凜が戻ってきて言った。
「哀峨野さんって言ってたから、父の病状を知りたがったみたい。得られた情報はなかったみたいだけど」
「よく分かったね」
「私のRディスプレイは特注で、SAMYのバイオスレンティをさらに拡張してる。あと私、メタMAよりずっと精度の高い生体デバイスを移植してる」
彩トとセキヤは顔を見合わせる。凜は味方にすると大変心強いことが分かった。
「さっきの話の続きなんだけど、実は哀峨野さんから、過去にギャラリーSPZと付き合いがあって、知っていることを共有いただけることになっていました」
彩トがそう告げ、自分がギャラリーSPZに切られた経緯を話すと、凜は考え込むそぶりを見せた。
「父の会社の資料を調べてみる」
「そんなことしていいの?」
驚いて尋ねるセキヤに、凜は首を縦に振った。大小のピアスが小さく揺れる。
「父は私にかなりの権限を譲った。こうなることを予測していたのかもしれない。会社側からは反発があったみたいだけど、弁護士たちが固めてくれているから大丈夫です。それに私、こういうことを調べるのは得意」
淡々とした凜の言葉に、とりあえず二人は凜の次回の報告を待つことにした。
「それはいいとして、一ノ瀬がギャラリーSPZに切られたっていうのは嘘だったってことだよな」
「一ノ瀬ってさっきの若い方? 彼の方はギャラリーへ立ち寄るって言ってたよ」
三人は急いで病院を出た。
凜が呼んだタクシーはVIP用のもので、高速で静かな走りを見せた。やがて銀河がギャラリーへ来ると、待ち構えていた三人は彼を取り囲んだ。一瞬怯えた表情をした銀河だったが、すぐに冷静さを取り戻して言った。
「恩田君と風見君、久しぶりだね。あと、君は初めましてかな」
「何を嗅ぎまわっているの?」
ぶっきらぼうな凜の口調にひるむ銀河。
「大方、彩トと哀峨野コーポレーションが組んでるのを知って、ギャラリーSPZのオーナーが慌てたんだろう。彩トにも哀峨野さんにも後ろめたいことがあるからじゃないのか?」
セキヤの言葉に、銀河は彩トから目を反らす。
「僕はギャラリーに雇ってもらった。でも恩田君みたいな才能はないから、作家として認められたわけじゃない」
「何言ってるんだ。君は僕より技術があるじゃないか。教授だって君を認めていた」
彩トは面食らって言った。銀河は自嘲気味に笑う。
「教授は君を気に入ってるから、きついことも言うんだよ。そのことに無自覚でいられて、しかも努力できるのは、君に才能があるからだ」
人当たりは良いが、いつもどこかよそよそしかった銀河の語気が強まり、真に迫った熱がこもる。そんな彼を見たことがなくて、彩トは目を見張った。
「僕は昔から君が嫌いだった。そういう無垢さって残酷なんだよ」
銀河から吐き出された言葉の力に、その毒の強さに、彩トはただ圧倒された。
「ふざけんな、自分が認められないからって、彩トのせいにすんなよ」
セキヤは手を握りしめている。その震える拳を見て、彩トは止めなければと思った。セキヤが傷つくのは嫌だった。
「君は僕をだましてたんだね。セキヤ、もう、それくらいでいいだろう」
彩トの言葉に逃げるように去っていく銀河。目で追いながら凜は告げる。
「あいつ、叩くともっと出てきそうだね。ちょっと調べてみようか」
「お願いしてもいいか? 君に頼んだ方が確実な気がする」
彩トのその言葉に、凜は当然というようにうなずき、Vタバコを取り出して吸った。
数日後、凜は二人を呼び出した。場所は哀峨野コーポレーションのビルの最上階である。
「あの一ノ瀬銀河って人、調べが上がったよ。かなりの食わせものだと思う」
コーヒーを手渡しながら、すっかりため口になった凜が告げる。
「銀河が? そんな奴だと思わなかったけど」
彩トの言葉に、セキヤは首を横に振り、凜が鼻を鳴らしながら告げる。
「この間あれだけ言われたのに。人を信じ過ぎるって言われない? 一ノ瀬は確かにギャラリーSPZと関わってる。でも一ノ瀬銀河って名前の作家は在籍していない。これってどういうことか分かる? 別名義で絵を描いてるってこと」
空中ディスプレイに画像を呼び出す凜。
「数年前、一ノ瀬銀河は公募に出したり、教授に推薦状を書いてもらおうとしたけれど、どれもうまくいかなかった。これがその時の作品」
彩トは表示された絵に見覚えがあった。少ない色数で上品に見せる巧みな油絵だが、彩トのグリザイユのシリーズを先に見ていると、どうしても影響を感じてしまう。
「その後、一ノ瀬銀河の名義では描いていない。代わりに別名義『ジェフ2200』で描いてた絵がこれ。他人に見せかけてたけど、アカウントが裏でつながってた」
凜は別の絵を提示した。モチーフをまるで写真のように本物そっくりに描く超具象派の作品で、モチーフは金網やアスファルトの粒子などを拡大したものである。
「この絵は人気が出るだろうけど、さっきの一ノ瀬の作風とは全然違うんじゃないか」
セキヤの言葉に、彩トは考えながら告げた。
「銀河のやりたいことは違う気がするけど、彼は技術があるから、こういう作風で描いてほしいといわれたらできるんだと思う」
凜は頷いて続ける。
「この絵は匿名作家『ジェフ2200』の手によるものとして、ギャラリーSPZでMe-ArTとして売られた。プラットフォームはMeaUni」
「なんでギャラリーSPZで売るようにしたんだろう」
彩トの疑問に、セキヤは首を横に振る。
「わからないな。作家でありたいという願いだろうか。今はそんな気持ちも消えてるかもしれないけど」
二人の会話を聞きながら、凜は言葉を続けた。
「今の富豪は、投資や話題のためにアートを買うことが増えた。ただ、富豪が作品に詳しいわけじゃないから、代理人に任せることが多い。一ノ瀬はその代理人を務めていて、顧客にギャラリーSPZの作品を紹介する代わりに、ギャラリーからバックマージンをもらっていた」
彩トは思い返す。急に羽振りが良さそうになった銀河。見た目がきれいで知識もあり、当たり障りのない上品な会話ができる彼は第一印象が抜群に良く、代理人に適任だろう。
「そして一ノ瀬は、ギャラリーからの依頼を受けて、ジェフ2200名義の絵を提供するようになった。作家としてのプライドも保てるし、稼ぎにもなる。あとは何よりも、ギャラリーと関係性が深くなっていて、断れない状況になってたんだと思う」
「でも、匿名で絵を売るのは別に悪いことじゃないのでは?」
セキヤの言葉に、凜は用意していたであろう推論を告げた。
「彼は多分、ギャラリーSPZに絵を提供することで、マネーロンダリングに加担してるんだと思う」
彩トは理解が追いつかない。セキヤの方が早く反応した。
「それは、ギャラリーがマネロンに加担してて、犯罪組織は一ノ瀬の絵を買うことでギャラリーにトークンを払い、更に絵をどこかに売ってクリーンなトークンを手にしてるってことか?」
「そう。金融取引を直接見ることはできないけど、ギャラリーSPZが絵を売った後で顧客が絵を売るタイミングにパターンがあって、その周期がきれいすぎる。あと、絵の価格は固定だけど、トークンの価値が上下したタイミングで取引してるとか、トークンの動きとMeaUniの履歴を追っていたら、そういう結論に至った」
凜の言葉に、彩トはやっと追いついたように言う。
「警察が知らないなんてこと、あるのかな?」
「アートの履歴管理なんて、普通の日本の警察じゃやらないでしょ。それに、ギャラリーSPZは複数アカウントでかなり複雑な手口でやっていて、不自然な大口取引を避けてるから、目をつけられてないんだと思う」
凜は淡々と説明した。三人分のコーヒーはとっくに冷めている。
「この件はどうすればいいんだろ」
彩トの言葉に、凜は冷静に言った。
「うちがギャラリーSPZと付き合いがあった時の資料も出てきた。見たらやっぱり、カネに関する出所がことごとく怪しい。多分あそこは、きれいなものを扱うことで、汚いカネを流通させている。彩トが切られたのは、彩トを嫌っていた一ノ瀬が、ギャラリーSPZのオーナーにかけあったんだと思う。近い将来、彩トは邪魔になるって言ったのか、単に切ってほしいと言ったのかわからないけれど」
銀河が悪人だと思ったことがなかった彩トは、その結論にショックを受けたが、彼女の言葉には筋が通っていた。それに今や、銀河よりも凜の方がずっと信頼できる。
「今まですり抜けてきたってことか。すごいな」
セキヤが感心したように唸る。
「そう。しかも、ギャラリーSPZは多分、第一次Mea期の価格暴落にも関わってる」
凜の爆弾発言に、彩トとセキヤはぎょっとした。
「ギャラリーSPZに、そこまでやる力、ないんじゃないか」
「あそこはその時期、高値で買ったものを複数のアカウントで異常に安く売ってた。それは犯罪行為じゃないし、誰も気づかないでしょう。仮に気づいたとしても、ギャラリー側の人間だろうから、自分たちの利益のために目をつぶったんだと思う。ギャラリーSPZは、Meaの販売に深く関わり、市場の自由度を奪うために動いた」
彩トは何も言えなかったが、セキヤはゆっくりと頷いた。
「あの出来事で、確かにメリットがあるのはギャラリーだ。自由度が高かった市場は、ギャラリーを介さざると得なくなったんだから。でも、そうだとするとひどいな」
「発展の場を奪ったんだ。許せない」
珍しく強い語調の彩トに、意外そうな顔をする凜。
「彩トでもそんなこと言うんだね」
「だって、そのせいで経済的な基盤を失って、世に出られなくなったアーティストも多いはずだ」
彩トも今契約しているギャラリーがないせいで、Reaの油絵を販売できない。それだけに憤りも激しい。
「良くないよね。でも、賄賂を使ってた可能性があるから、公共機関とかに直接行っても握りつぶされるだろうな。みんなに知らせる形で、みんなが憤る伝え方を考えたい」
意味が分からなくて顔を見合わせる彩トとセキヤに対し、凜は空中ディスプレイに資料を映し出した。
「私に知らせてくれた時みたいに、グラフィティで知らしめるのはどうかな、現実とクリプトスフィア両方に。今回は広くやりたいから、許可されてる場所でも実施する」
凜はにっと笑って告げる。
「現実と仮想両方で告発すれば、いろんな人が見てくれる。ギャラリーSPZに隠ぺいされる心配もない」
「確かに。君は協力してくれるんだよね?」
彩トの言葉に、凜は大きく頷いた。
「もちろん。協力じゃなくて主体的にやるつもり。彩トの件は、父の希望でもあるし」
「それは嬉しいけど、君はグラフィティで政治的なことや意見は伝えないのかと思ってた」
「私は以前、政治的なことや批判的なメッセージは込めないようにしていた。分かりやすい形にするとかっこ悪いし、むしろ記憶に残らないって思ってた」
言いながら凜は、適切な言葉を探している。
「でも今回、二人のグラフィティを見て気づいた。思いが強ければメッセージは記憶や意識に刺さるし、かっこ悪いことなんてない。それに、そんなことを気にしている方がダサいって」
その言葉に、彩トとセキヤは強く頷く。凜は続ける。
「哀峨野コーポレーションとギャラリーSPZの関わりを見ていたら、うちの方で気づけたはずなのに、なにもしてこなかった。早い段階で潰せたら、第一次Mea期の価格暴落もなかったかもしれない。それに対する罪滅ぼしっていうのもある」
凜はそう言うと、空中ディスプレイ上の素元の顔をじっと見た。
三人は分散してグラフィティを描くことにした。今回、彩トは仮想世界でグラフィティを描きたかったので、彩トと凜はクリプトスフィア、セキヤが現実でグラフィティを行う。描くモチーフに関しては打ち合わせず、それぞれのやり方で、ギャラリーSPZの悪事が示せればいいと思っていた。
決行の前日の夜、セキヤと別れた後、彩トは凛とクリプトスフィアへダイブし、場所を確認しながら話をした。凜は哀峨野コーポレーションの地所で、彩トはパブリックスペースの許可されている場所で実施することで話がまとまった。
「ねえ、凜はなんでグラフィティをやろうと思ったの? 前はインスタレーションとかをつくってたって聞いたけど」
彩トの疑問に、凜は考えながら答える。
「作品を共有したかったっていうのが答えかな。アートって、作品を買わない人や、アーティストとして認められていない人は参入できないって思われがちだけど、グラフィティは誰が見てもいいし、誰でも参入できる。グラフィティを描いている時は、自分が生きてることを一番強く実感できた」
「確かに。僕は、アトリエでキャンバスに向かっている時は、自分の内面を深掘りする時間、グラフィティを描いている時は、世の中とつながっている時間だって感じてた。現実世界で描いたものは、近くにいる人しか見られないという制約があるけど、仮想だったらみんなが見に行くことができる。でも君は最近、現実世界で描いてなかったよね」
彩トの言葉に、凜は首を横に振った。
「描いてたけど、記録に残ってないだけだよ。私は少し前まで海外にいた。現地でクーデターが起きて日本人は強制送還されたんだ」
想定外の言葉に彩トが絶句していると、凜は告げる。
「私は友人がいたから行っただけ。そのうち、親をなくした子どもにボランティアで絵を教えてほしいって言われた。でもその子、クレヨンを見せたら怯えたんだよ。形が薬莢に見えたみたい。多分戦闘でマグナム弾が使われたんだと思う」
凜はグラフィティの画材を見せてきた。クリプトスフィアの画材は現実と同じものをそろえられるが、凜の画材の中にはクレヨンも入っている。
「軍事政権から切り変わったばかりで、もともと不安定な国ではあったし、子どもも覚えてるんだ。クレヨンで絵を描いてみたら、その子は笑った。薬莢はものごとを悪い方に変えるけど、クレヨンはいいほうに変えられるんだと思った。その施設でグラフィティもやった。ダイレクトに伝わるモチーフだったら、みんな反応してくれたよ」
彩トは、マーブルクレヨンで父の絵を描いた時を思い出した。
絵は燃えてしまったけれど、それ以前は記憶を繋ぎとめてくれたのではなかったか?
ハザード後に色を使えなかったのは、失ったものを数えているだけで、築いたものに気づかなかったせいではないか?
「そうなのか。描いてないわけじゃなかったんだね」
「爆撃で全部消しとんだんだ、その子も含めてね。自分が無力なんだって痛いほど知った」
当時の情景を思い出したのか、声の震えを抑えようとする凜に、彩トは言葉を返せなかった。
「特別扱いされるのは苦痛だったし、家族が資産を独占している気がして嫌だった。でも今回は彩トたちのおかげで父に会えたし、誤解してたってわかった。力があるならいい方に使えばいい。彩トの絵の才能だってそうだよ、使わないともったいない」
凜は自分に言い聞かせるように呟く。
「現実のグラフィティはいつか消えてしまう。でもクリプトスフィアで描けば、HIに削除されることはあっても、現実みたいにその場所がまるごとなくなることはないし、復旧できる」
凜の発言を聞いた彩トは頷く。
「僕も、絵は世を変えることはできないと思ってた。でもそうじゃないって分かってきた」
どういうこと、という表情を浮かべる凜に、彩トは告げる。
「先日のグラフィティで君が現れた。そこで君たち親子の人生が変わった。それがすべて僕らのおかげだなんていうつもりはない。ただ絵はしかるべき時に、しかるべき方法で描かれたんだと思う」
クリプトスフィアの夜空を見ながら、彩トは言葉を続けた。
「かたちあるものは全て消える。父が亡くなった時、それは当たり前だと思っていた。大事なものは絵でつなぎとめられると思ったけれど、ハザードで家族も何もかも失った時、Reaの絵も消えてしまうと知った」
思い出しながら話す彩トの声を、凜はじっと聞き入っている。
「この間のグラフィティも、現実世界で描いた絵は消したから、アイデンティティが消えるような気がした。でも、クリプトスフィアの君の絵の履歴は残っていたし、あそこでは完全に消されることはない。ただ、見られる人が限られるだけで」
「そうだね。メタバースでのデータは全て残ってるし、いずれ私がすべて参照できるようにする。もうその方法はいくつか考えてる。ただ、忘れられる権利の区分と権限をもっと考える必要があるし、サーバやプラットフォームが消えたり乗っ取られたら一切消えるから、対策を考えてないといけないけど」
「描いたものはいずれ、描き方や画材、アーティストのパフォーマンスも含めて、すべての人に共有されうるんだよね。現在から未来に渡って共有されてほしい」
空を仰いで彩トは言った。
クリプトスフィアでは星が見えるが、現実世界の空では星がほとんど見えない。しかい空気が澄めば見えるようになるだろう。クリプトスフィアのデータも、整理されて整備されれば見えるようになるのだ。
今見えているものの先の、未来の景色を見たかった。知りたいと願った。
「そうだね。手段を考えなきゃいけないけれど、それは今後、資源を持つ側である私がやる話。あと、私はいずれMeaUniというプラットフォームをまるごと手に入れるつもり」
彼女は軽く手を振って立ち去った。去り際に見た彼女の瞳がひどく澄んで見えた。
計画の日を迎え、三人はグラフィティを開始した。
この計画に名前をつけよう。そう言ったのは彩トだ。
「グラフィティは絵だけじゃなくて行為も含まれる。パフォーマンスを含めて作品にするのなら、計画名をつけようよ」
「グラフィティだから、それにちなんだ名前か」
セキヤが頭をひねると、彩トは頷いて言った。
「そうだね、グラフィティ・グラテフィティっていうのはどうかな?」
あまりの単純さにセキヤも凜も噴き出したが、そのインパクトが忘れられず、計画名はGGになった。
彩トは最初に、ギャラリーSPZにかつて出品していた絵を描いた。黒く凍てついたグリザイユ。頭で思い出さなくても、手が筆致を覚えている。
彩トは思い返す。あの絵は家族を描いていたのだ。鎮魂のための絵だから気迫があった。それらは高値で取引されたが、結局カネはどこかへ消えてしまった。
絵にトークンの記号を加える。それを扱うのはギャラリーSPZだ。あの絵はReaだったけれど、マネーロンダリングに使われたのだろうか? 売れた後でより高く転売されることを見越して?
彩トは汚いカネの持ち主のところに行った絵が、さらに別の持ち主に流れていくさまを描いた。そして彩トはモチーフに、黒ではなくさまざまな色を追加した。画材はマーブルクレヨンだ。クリプトスフィアの画材でマーブルクレヨンを再現するのは苦労したが、これはセキヤに頼むのではなく、彩ト自身でやりたかったのだ。
絵は全体的にカラフルになり、人物たちの顔は明確になった。彩トの家族と、それに幼い彩トの姿が表れる。
すべてふっきれた。
彩トは思う。凜に見せるためのグラフィティを描いた時は、凜がもともと描いていたモチーフを選択した。今回は自分の絵を描き、そこに色を加えたのだ。
彩トは自分のグラフィティを見て、全てが生きているような気がした。実際は、仮想のクリプトスフィアの壁に描かれた平面作品でしかないが、彩トにとっては彩りを与えられた家族の記憶だ。眠らせていた過去を取り戻す絵だった。彩トは今までで一番強く、なにかをつくりだした、という実感を得た。しかもこの絵は、凜の言によれば、ずっとなくなることがないのだ。
言い知れない感謝の気持ちに包まれながら凜の方を見ると、彼女は紛争で傷ついた子どもを描いていた。子どもを攻撃する武器は汚いカネ、マネーロンダリングされたカネで買われたものだ。トークンは全てギャラリーSPZのロゴから出ている。
次に凜が描いたのは、そのトークンの源が消え、子どもたちを攻撃していたものが、クレヨンになって落ちてくるさまだ。余白だらけになった世界で、子どもたちがこちらを向く。彼らが見つめているのは彩トたち観客で、観客は子どもたちの未来を描くことになるのだ。凜の顔を見ると、これ以上ないくらいに真剣な面持ちだった。
Rディスプレイでセキヤの絵を見てみると、彼はギャラリーSPZから悪人が出てきてアート界を威嚇している絵を描いていた。恐らく写真からトレースしたのだろう、悪人の絵は素元の顔にそっくりだ。セキヤの周りには多くの観客が集まっている。
彩トは周囲を見渡した。 気づけば無数の観客が集まり、グラフィティに見入っていた。描いているのはパブリックスペースだから、警備用のHIも手が出せない。時おり妨害が入るが、全て凜がブロックしているようで、攻撃はすぐに止んでいく。
三人が描き終えた瞬間、既に騒然としていた周囲のテンションは異常に高まっていた。彩トと凜はいったん退避することにした。騒ぎを聞きつけたのだろう、クリプトスフィアのペルソナの一つがHIをつれてきて作品を消そうとしているが、パブリックスペースなので認証が下りないようだ。
「消されることはないの?」
クリプトスフィア内の哀峨野の地所に避難した後、彩トは凜に尋ねた。
「パブリックスペースでは描く権利があるから、描いた人の許可を取らずに消すことはできない。その代わりに、消すんじゃなくて変えることはできる」
「どういうこと?」
「現実世界のグラフィティの鉄則と同じ。『グラフィティを上書きしていいのは、元のグラフィティよりも優れた作品でなければならない』」
過去にセキヤとした会話が甦る。
今までそこに描かれたグラフィティの中で、ベストの作品でなければならない。
あの時は武者震いを覚えた。今はただ、やり切ったことへの静かな自信に満たされている。
「さっきHIを連れてきていたペルソナは一ノ瀬だよ。あんなやつに、私たちより優れた絵なんてかけるもんですか」
「それを判断するのは誰?」
「権限を持つのは絵を見た全ての人。興味をもって見てくれた人はもれなく権限がある。観衆は私たちの味方だ」
凜は壁面をディプレイにし、さきほどまでいたパブリックスペースを映し出した。壁面の前にいるペルソナが銀河だろう。彼は別のグラフィティを描こうとするが、描き終えた瞬間に観衆から否決されているようで、彼の描いた分はすぐさま消える。
「セキヤと通信するね」
彩トが言うと、凜は壁面をディスプレイにしてセキヤを呼び出した。
「俺は今、逃亡中なんだけど」
息を切らしているセキヤは楽しそうだ。
「めちゃくちゃ観客が来たけど、妨害してきた奴がいて続けられなくなった。でも普通の画材より定着力が強いものを選んだから、すぐには落ちないはずだ」
「よかった。ちょっとこっちに来てくれない?」
凜が言うと、数十秒後にセキヤのペルソナが来た。
「これからたくらみでもあるのか?」
そう言うセキヤに凜は笑いかけた。真っ赤に塗られた唇から、白い歯がこぼれる。
「計画と言ってるくらいだから、考えてあった。本当は話したくてたまらなかったけど、今回は個々にやる計画だったしね」
凜はそういうと、グラフィティを描いた場所を選択した。するとさまざまなアイコンと名前が浮かび上がる。彩トたちと銀河の絵を判定している観衆たちだ。
「これから絵を見てくれているみんなに、作品を買ってくれないか聞く」
「え? そんなことしたら、絵がなくなっちゃうじゃないか」
驚く彩トに、凜はニッと笑って言った。
「それはReaの話でしょ。セキヤの絵はなくなっちゃうかもしれないけど、私たちのクリプトスフィアの絵は、少しだけ違うバージョンの絵を無数につくれる。で、購入者には買った分を改変する権利もつける」
凜は観衆たちのアイコンにメッセージを出し、パブリックボード上の説明を見せた。観衆たちは理解したようで、買いたいというメッセージが出始めた。
「彩トと私の絵はトレースした。絵を複製していってほしい」
三人は絵をつくって売っていった。売れ行きはどんどん加速していく。セキヤがクリプトスフィアの様子を見ていると、別のパブリックスペースに彩トたちのグラフィティを元にした絵が現れた。それはギャラリーSPZの別の犯罪を弾劾する内容だった。
「なんだこれ……あのギャラリー脱税してるってことか」
得たカネを隠しているギャラリーSPZも描かれている。
「みて。こっちにも」
凜はうれしそうに言う。マネーロンダリング、脱税、贋作……さまざまな悪事が描きたてられている。別のスペースでは、ギャラリーSPZではなく、別の集団がやっている悪事が描かれていた。
絵は売れ続けた。問い合わせは止む気配はなかったので、きりがないからと凜が打ち切った。
数日後、ギャラリーSPZに監査が入った。噂では、素元は長期に渡って取り調べを受けるということだった。過去の取引履歴から哀峨野コーポレーションにも調べが入ったが、凜が全面的に操作に協力したこともあり、特に咎めはなかった。
ギャラリーSPZだけではなく、あのグラフィティに加害者として描かれた団体のいくつかにも同時期に調査が入った。中には事実無根のものもあったが、そうした会社は有名になり、むしろ利益が出たという。
実はギャラリーSPZに監査が入る数日前、彩トは銀河に会いに行っていた。
ログを取られるであろうクリプトスフィアではなく、現実の方で会いたかったが、銀河の居場所を知らなかったし、ギャラリーSPZに近づくのは危険すぎる。
彩トは天野にアポを取り、今回の出来事を共有し、銀河のいそうな場所を聞いた。天野は迷っていたが、どうせ逮捕されるのだからということで、銀河が学生時代によく足を運んでいた場所を教えてくれた。それは大学近くの図書館だった。
読書をしていた銀河は、彩トの姿を認めると席を立ったが、彩トが腕をつかむと観念したようだった。二人は外の公園のベンチに座った。昼間ののどかな時間で、遊具で遊ぶ子供たちのシルエットが見える。
「僕のやったこと、知ってるんだろ。警察にでもなんでも言えばいい」
銀河の言葉に、彩トは首を横に振った。
「そんなことをするつもりはないよ。君は言われるまま、知らないうちにやってただけだろ? 誰かが知ってるかもしれないから、暫くどこかに逃げなよ」
銀河は虚をつかれたような顔をした。
「何を言ってるんだ」
「僕は君に逃げてほしいんだ。この間はショックだったけど、でも、始めて僕に本音を言ってくれたんだと思った」
銀河はあきれたように彩トを見た。
「僕は君が嫌いだ。そう言われてもか?」
「うん、分かってる。でもそれは、僕を対等だと認めてるからだって思ってる」
銀河は当惑した顔をしていたが、そのうちに小さく笑った。
「叶わないな。でも僕は逃げない。犯罪の片棒を担いだのは事実だし、それに知らなくてやってたわけじゃない。君の言ってるのとは違う」
首を横に振りながら、銀河は言った。
「才能が欲しかったけど君には追いつけない。技術があっても人の心を捉える絵は描けない。僕はギャラリーSPZに出入りする中で、いつしかアーティストではなくて、リセールできそうな絵を買う代理人になっていた。やりたい仕事じゃなかったけど儲かった。そのうち素元さんに依頼されたんだ、架空の作家になって売れ線の画をかいてほしいって」
そういうと銀河は息をつき、Vタバコを吸った。細い棒が示すパラメータを見ると、もうほとんど残っていないようだった。
「僕がやっていたのは、誰かに認められることじゃなくて、ギャラリーのネームバリューで絵を描くことだった。カネは稼いだ。でも何も満たされなかった。描くべきものが見つからなくても描くのがプロだ。その意味で僕はプロだけど、創作者ではないんだろう。だって描きたいことがないんだから」
小さく笑うと、銀河は立ち上がって言った。
「僕は自首するよ。罪に問われるかも分からないけれど」
「戻ってきたら教えてほしい」
彩トはそう言って、銀河に手を差し出した。銀河は迷った顔をしたが、苦笑して告げた。
「すまないけど、やっぱり君のことは嫌いだ。約束はできないよ。これは僕の意地だ」
そう言って彼は去っていった。彩トの右手は空っぽのままだった。Vタバコはベンチの肘掛に置き去りにされた。
その後、彩トはギャラリーSPZに監査が入ったことを知った。関連画像を見たところ、銀河の姿はないようだったが、探さなくてもいつか会えるような気がしていた。
数週間後、三人は哀峨野コーポレーションのビルの中にいた。新しいギャラリーを設立するにあたっての相談をしていたのだ。
今回の出来事で、ギャラリーが作家と鑑賞者の自由な関係性の邪魔をしていたことが分かり、彩トは今後どうしたものかと思っていたが、凜が、だったらギャラリーに新しい意味を与えればいい、と言ったのだ。今は新生のギャラリーを、美術品を置くだけではなく、鑑賞者や顧客や作家などと、生産的な関係性を生み出す場にする方法を考えているところだ。
セキヤは、アートのジャンルを取り払う形にしたいといい、凜は、アートと経済と社会との関係性を再構築する場にすると言った。それに対して彩トは、二人のようにはっきりしたビジョンは思い浮かばない。
彩トはため息をついて言った。
「難しいなあ」
「どういう意味だよ? 凜さんは哀峨野コーポレーションで認められたし、哀峨野さんの意識も戻って体調も回復してきたっていうのに」
セキヤの言葉に、彩トは考えながら告げる。
「かたちあるものは全て消えると思っていた。でもそうじゃないことが分かった。だから僕は描きたいことをすべて描きしるす。だとすると、クリプトスフィアで描くのと、Reaの油彩として描くのと両方やることになるんだけど、展開する環境が思い浮かばない」
「私がどっちの環境も構築するよ。新東京でも日本でも、地球上ですらない場所でも、みんながコミットできる場所を」
凜の言葉から夢は広がっていく。彩トは、かたちあるものを描きしるすだけではなく、新たなもの、例えば凜の言っている新しい環境を三人でかたちづくるのもいい、と思った。 <完>
文字数:37070