梗 概
浪が火に咲きて、聲に炎える花が、貴方の詩として
とある家族が別荘地を持つ植物惑星に休暇旅行に出かけた。別荘の近くの森では近頃まだ人類の未踏の宙域から隕石が降り注いだらしく探せば隕石を見つけることができるかもしれない。まだ七歳の妹は別荘で大好きな詩を読みたがったが、十も歳の離れた兄が妹を連れ出して隕石探しの冒険をする。
妹は兄に無理やり連れだされたことに不服だったが、植物惑星でしか見ることのできない珍しい花や木に夢中になる。そして兄が隕石探しに夢中のあまり目を離した隙に妹は森の奥に迷い込みそこで一輪だけ咲く不思議な花に魅入られる。気づけば妹は花弁を大きく口の様に広げた花に上半身を食いつかれていた。兄が妹をようやく見つけ出すと兄は慌てて妹の身体を花から引き離した。妹は兄の腕の上で気を失って目を覚まさない。
兄は妹を抱えて屋敷に帰る。医者によると妹はいま神経に作用する花粉を吸い込み強烈な興奮作用で快楽の只中にあり、鮮明な幻想を見ているという。花粉の神経作用が落ち着けば妹も自然と目を醒ますはずだといった。
やがて妹は目を開けた。しかし妹の様子はおかしい。なにを語りかけてもただ微笑んで訳のわからない言葉を繰り返すばかり。妹の言葉はまるで彼女の大好きな御伽話の世界を描いた詩の言葉だった。
家族は妹を連れて地球に帰る。兄は妹のベッドで様子を伺う。妹は相変わらず支離滅裂なイメージを兄に語り聞かせる。兄はそれを聞きながら自らの不注意で妹を白痴にしてしまったことを悔いる。
兄がテレビをつけると奇妙なニュースがやっている。剥き出しの月の海一面に巨大な花が咲き現れたという。それは白痴の妹がうわごとのように詠った詩の内容そのままだった。
妹は兄に向けて詩を詠う。
虹の天使は
その羽根が空を舞って
この地上に始まりを告げて
輝く夜で貴方を覆って
窓の外に煌めく灰のようなものが舞い落ちてくる。兄が慌てて外に出て手で受けるとそれは確かに虹の羽根だった。そして虹の羽根を持つ蝶が彼の頭上を覆い世界は夜に覆われた。
その日から世界の関節は外れてしまった。
妹は様々な詩を詠う。その度に美しく世界は壊れていく。社会は幻想的な怪現象で混乱に陥る。
やがて世界は破滅の最中に立たされる。二人のいる街に火の波がゆっくりと押し寄せていた。妹が世界に詠んだ火炎は惑星を越えて宇宙全体を覆わんとしている。兄は妹の首に手をかけて殺めようとする。しかしどうしてもそれができない。兄は妹のベッドで首を垂れる。
兄は妹の書棚から一冊の詩集を開く。妹が別荘への旅行のときも肌身離さず持っていたお気に入りの遠い星の既に滅んだ文明の詩集だった。
新しい宇宙がひらく
星の闇に光の蕾を綻ばし
古い花弁は枯れ落ちて
輝く花粉を舞い散って
次の星々が咲く
そうして私たちは永遠まで
兄はその一節を読み終えると目を閉じた。
やがて宇宙は咲き乱れる火に包まれた。そして花弁が散るように宇宙が一度終わった。
文字数:1198
内容に関するアピール
小説世界での宇宙は成長すると死んでまた新しく生まれなおす植物のライフサイクルのように循環性のある宇宙という設定です(もちろん主人公たちはそんなこと知りませんが)。妹が食いつかれた花は宇宙が枯れるとき再び再生するための宇宙の自己再生装置です。宇宙の中の特定の知性存在に受粉してその表象イメージを借りていったん古い宇宙を壊し尽くして最後には依り代にした知性存在を中心に新たな宇宙を始めます。花が咲くみたいにです。
詩を書くのが好きです。「岸田くんといえば、第一回目で実作のなかに詩をたくさん書いた人ね」と覚えてもらえればと考えてこの梗概にしました。講座の一年で詩とSFの関係を自分なりのテーマにして新しい文体を作り出すところまでできたらいいなとぼんやり考えています。ところでSFで詩と言えば『地球の緑の丘』ですが、文庫を高校の先生がくれた思い出があります。先生ありがとう、僕は今SF小説書いてるよ。ピース。
文字数:400
浪が火に咲きて、聲に炎える花が、貴方の詩として
1.
「本ばっかり読んでないで外に出ようよ」
返事なし。僕は扉の向こうの妹に無視されてやや強情に扉をさっきより強めに叩いた。まったく、これじゃあ折角家族で遊びに来たというのに書斎にこもって資料やらレポートやらにかまけてる父さんと変わらないじゃないか。
ぼくはまだ部屋のなかできっと何時もの”あれ”を読んでいる妹の名を木目の扉越しでも聞こえるように大声で呼んだ。
「ねえ、ゆり、遊びに行こうよ。外の世界はいま君が読んでいる本よりもずっと豊かなんだぜ、そんな子どものうちから本ばっかり読んでると、父さんみたいなバカになっちゃうぞ」
扉の向こうで人の動く気配がした。どうやら父さんみたいなバカという言葉が効いたらしい。まあ実際父さんはバカだ。太陽系でいちばん権威のある大学の先生をしているのにものすごく頭が悪い。どう悪いかっていうと、今回の休暇になってまず僕たち家族に言ったのが、休みになったぞ、これで心置きなく仕事ができるぞ! だったんだから、さすがのこれにはいつも父さんの与党をしているゆりも呆れ顔だった。
なかからすたすたと裸足の足で扉に近づいてくる音がする。
おっといよいよ中級学年になってもどうしてもお寝坊さんがなおらない我が家の天使さまの登場だ。天使さまはことしで9歳になられた、父さんによればいよいよ母さんに似てきている運命は明白になりつつあるとのことだが、ぼくとしてもそれは完全に同意だ。
檜の扉にちょこんとついたステンレスのノブがガチャっと音を立てて半回転した。扉が内側に引かれて、耳元にすこしブロンドの髪が混じったぼくと父さんの天使さまがあそばされる。
この物語の主人公、ゆりだ。
止まり木の時間に
羽搏く一羽の小鳥
朝を知らず
夜を知らず
己を知らず
ただ吾を求めては
鷹にになることもあらず
ゆりは昨日やっと到着したというのに早速夜更かしていたらしい。うっすらとした金色の柔毛の瞼をこすって、それからどことなく当てつけのようにぼくに向かって詠った。
「おはよう、低血圧の妹さん、今日の詩はいつもの詩集からかい?」
「いいえ、これはわたしが今考えた即興詩よ、お日様よりも早起きのお兄ちゃん」
ゆりは両腕で人形がわりに抱きしめている本を片手に持ち替えながら腰に手を当てておおげさに溜息を吐いた。
ぼくはゆりの小言を聞く前に先に質問する。
「それで低血圧でご機嫌斜めのちいさな詩人さん、その詩はどういう意味?」
しかしゆりはぼくの問いかけを無視して、やはりもう一度おおげさに溜息を吐いた。
「それはナイショ。ていうか、お兄ちゃんもまだ一年とはいえ高等部でしょう。いつまで歳の離れた妹にかまってるのよ。もっとこう、尖ったナイフというか、ぎざぎざはーととか、まあ一言でいうとこう家族に対して反抗期! みたいなのはいい加減ないわけ?」
「こんな素敵な妹を前に反抗期なんて、ありえないよ」
「ああ、なんたる、シスコンの悲劇……、ごめんなさい、お母さん、わたしとパパにはこのお兄ちゃんを導くことは不可能でした」
ゆりは大儀そうによよよっと扉の枠にもたれかかって本を脇に抱えたまま額に手をやった。
「はいはい、小芝居はいいから、さっさと外に行こうよ! まったく、せっかく貴重な夏季休暇の一週間を退屈な船内で犠牲にして緑豊かなこの星まで来たっていうのに、父さんもゆりもちっとも部屋から出てこようとしないんだから。これじゃあ地球にいるのとなんにも変わらないじゃないか」
「お兄ちゃん、世界はつねに外側だけじゃないのよ。私たちの内側、そう心のうちにだって宇宙は広がっているわ。内宇宙への道は常に今ここに開かれているのよ!」
「なにいってんだか。ねえ、いいから外に行こうよ。さっきザネリさんに聞いたんだけど、どうもぼくたちがこの別荘に到着する前に裏の山で流星雨があったらしいよ。大半は気圏のなかで燃え尽きちゃったろうけど、もしかしたらぎりぎり燃え尽きなかった隕石が麓の森のなかに落ちてるかもしれないって」
「流星雨ねえ、ほんとにこの別荘に落ちなくてよかったね……、もしそうならパパなんて休暇どころじゃなかったよ……」
「まあ、宇宙にハプニングはつきものさ。流星雨はまだ人類が未踏の方角あたりから来たらしいから拾ってそこに未知の元素でもなんでも見つければここよりももっともーっと大きな別荘を父さんに買ってあげられるかもしれないよ」
「ええ、ほんとに外に出るの? あたし、船で読んでたやつまだ途中までだし地球から持ってきたのもまだ全然残ってるんだけど」
ぼくは身体をずらしてゆりの部屋を少し覗きこんだ。ベッドわきには山と積まれた本の塔がひとつふたつどころか三つ四つとあった。読書ジャンキー……。このままだとゆりは休暇中まったく食事時以外一切部屋から出ずに過ごしてしまうだろう。ぼくは兄としていまここから妄想と現実の区別がつかない9歳の女の子にしないため、部屋から連れ出す決意を新たにした。というか、ふつうに考えていくら夏季休暇とはいえ人間があんなに本が読めるわけがない。ぼくなんか表紙の匂いを嗅いだだけで卒倒しそうなほど本は苦手なのに、一体全体どこでわかれてしまったのやら。
「だいたい夏季休暇で別荘の近くの森にはしゃぐってお兄ちゃん何歳なのよ。もう15歳でしょ? わたしの同級生なんかでもそんなはしゃぎ方しないわよ」
「子ども心を失わずにあることがいかに大変か、ゆりにもいずれわかるよ」
「そういう話じゃないって」
はあ、ゆりはまたおおげさな溜息を吐いて部屋に退散していった。
「じゃあ出かけるように着替えるから玄関で待ってて」
どうやら妹を宇宙の引きこもりにせずに済んだようだ。
2.
父さんにいちおうゆりと外に出るのを伝えておこうと思ったが、それこそ父さんは大好きなお仕事中のようなので声をかけるのは控えておいた。代わりにザネリさんにゆりを連れて散歩する旨を報告しておいた。ザネリさんは僕らの「探検」を許してくれたけど、この星はまだまだ探査が終わり切っていなくて未知の動植物が多くて地理も完全に把握されているわけじゃないから絶対に屋敷に戻ってこられる範囲で、それから絶対に未踏破柵の向こうに足を踏みいれないようにとザネリさんは言う。
そんなふうにザネリさんと話しながら、屋敷の玄関で待っているとゆりは以外にも早く現れた。
ゆりはぼくの服装を一瞥すると品定めしたように言った。
「ふーん、まあいいか」
「なんだよ」
「いや、ちゃんとアンダーウェアに耐酸性の高分子ポリマー素材を着ているなって。いくら地球の植物と見た目が似ているからって、ここは酸素は充分とはいえ大気組成も違えば恒星も違う完全な異環境の植物惑星ですからね。地球のプラタナスとよく似ていても正体は骨まで溶かす強酸性粘液を分泌している植物かもしれないんですからね」
「大丈夫だよ。さっきザネリさんと話して屋敷にちゃんと戻れる範囲までしか行かないし、未踏破柵の向こうも行かないって話をしたから。その範囲なら十分安全に歩けるよ」
「当然よ。それより向こうは絶対にわたしがいかせませんからね」
いやはや、どうも近頃9歳になったこの天使はいよいよぼくに保護されるだけで飽き足らず。姉の役目を演ろうとしているようだ。
ゆりはそれからも、ぼくに外に出かける際の諸注意をくどくどしくひとしきり語った。それから最後になってようやく、
「さあ、行きましょう。お兄ちゃんの内宇宙にね」
ゆりは玄関の扉をぼくよりも顔が二つも三つもちいさな身体で玄関扉を押し開けた。
ぼくは耐酸アンダーウェアの上に黄色い長袖のワンピースを着た背中がこの植物惑星の日光に晒される瞬間を見た。まったく、自分の姉のような妹にぼくは一体何を感じればいいのだろうか。見送りに来たザネリさんが後ろで笑っている声が聞えてくるようだった。
3.
それにしても、屋敷の敷地を一歩出るとゆりはそう切り出した。
「それにしてもお父さんも一緒にでてくればよかったのにね。ほんとうに最近ずーっとむしろ休暇になってからの方がお仕事しているみたい。船のなかでもずっと資料読んでいたし、本当に休暇って言葉の意味を知っているのかしら。たまには外に出なくちゃ不健康よ」
ゆりの言ってることはわからないでもない。父さんはこの別荘についてからはもちろん、移動中も延々と起きて船内ネットに配信され続けてくる研究資料を読み耽っていた。
夜中まで資料を読み耽る父さんに睡眠ルーティンの最中にたまたま目が醒めたぼくが気をきかせてコーヒーの一つでも入れてやると父さんは本当にぼくやゆり以上に少年のような表情でその新発見について聞かせてくれた。
父さんに曰く、蛇座方面のとっくにほろんだ古代文明惑星の再調査で新しい発見があったらしい。なんでも従来その星の古代文明と思われていた遺構はすべて偽装されていたものでその偽装された遺構の地下に数多ある惑星文明発見史上最古のものが見つかったとか。それもなんとゆうに140億年以上前の文明かもしれないとのことだった。
140億年前といえばそもそもこの宇宙が誕生する前の時間だ。この宇宙が存在するよりも前に存在した文明? 正直ぼくにはさっぱりわからないが、そこまで聞けば研究者である父さんが何週間も寝ずに大興奮するのもわからないでもない。
「宇宙が始まる前の宇宙の遺跡ねえ。もう言葉自体が矛盾しているよね、それってどういう意味なんだろうね」
ぼくは前を歩哨のように歩くゆりの背中に言ってみた。
「さあ、わからないからパパも夢中になるんでしょ。でも宇宙が始まる前に宇宙がなかったとは言えないんじゃないかしら。今こうして何かがある前は必ずしも何もないということじゃないのかも。今こうして何かがある前は別の何かがあったのかも」
ぼくはゆりの言ったことの意味がわからなくって、肩を竦めた。やっぱりこの妹は本を読みすぎかも。あるいは、そう言いながらゆりは返答をしないぼくがきちんと後ろをついてきているか確認するように振り返った。
「あるいは、今こうしてある宇宙も次の別の宇宙の前の宇宙かもしれないかもね」
ゆりの瞳がぼくの瞳を覗き込む。ぼくの目にゆりの瞳が写りこむ。まなざしの光を互いに行き来する。その合わせ鏡には始まりも終わりもなくてただ円環する視線の循環があるだけ。
「それも君が読んだ本に書いてあったこと? ぼくにはわからないなあ。今の前には今が始まるなにもないが今のあとには今が終わったあとのなにもないがあるだけだよ。それは始まりと終わりというのはそういうものじゃないかな」
我ながらなんかしゃらくさいことを言ってる気がする。ロマンティックな詩人の妹にあてられたのかもしれない。
「お兄ちゃんの考え方はすごく単線的な考え方よ。でも宇宙の在り方は単線だけでなく、複線的在り方も螺旋的な在り方も想定できる。そうそう、ある昔のえらーい地球の詩人はね、時間の在り方は『a.直線的b.円環的あるいは永劫回帰的c.らせん的あるいはばね的d.終末的あるいは劇的』と言っていて、そして死の観念は『a.直線的b.蛇行的c.キャッチボール的』と言ってるのよ」
「最後の『死の観念がキャッチボール的』ってどういう意味?」
わけがわからない。やっぱり本の読みすぎは良くないなあとぼくは信念を強めた。
ゆりもこれは流石に自分でも何を言っているのかわからないらしく、まあわからないところもあの詩の魅力の一つだから、とかもごもご言っている。あげく開き直ったのか大声で言ったのは、
「キャッチボール的なものはキャッチボール的なのよ」
4.
そんなふうにゆりが話す詩の話なんかをダラダラ聞きながらぼくたちは屋敷の正門からぐるって半周回って裏の山の麓に辿りついた。
ぼくは森の入り口に立つと思いっきり深呼吸していまや大陸表面すべてが完全なビル惑星となった地球のごみごみしい空気が溜まった肺とこの植物惑星の大気を入れ替える。どこからか爽やかだが刺激的な薄荷のような香がしてきて身体全体が洗われるような気がした。目の前に広がる視界は緑だけでなく青や赤に黄に紫とサイケデリックな木々や叢が広がっている。ぼくやゆりなんかよりも何倍も背の高い木々に覆われたくらがりの森はとこしえの夏の赤光をさえぎって涼しさを運んで来る。姿は見えないけれど樹上だけで一つの生態系を作り出している動物たちのツンツンツンだとかカタカタカタなんて蠢いている音も黙っていれば聞くことができる。
昏がりの光さんざめいて
時の間に立つ夏の森に
そこで暮らす者たちに
言葉でない囁きを与える
灰の異星に立つ我らは
やがて老いらぬ地の渚は
円環のその入り口に立ち
ゆりがまた詩を諳んじた。ぼくはその詩の出典も、あるいは意味も聞かない。ただ黙ってゆりが繰り返して諳んじるのをこの地球にはない外界の森のなか全身で感じる。
ゆりは本当に本が好きだ、詩が好きだ。母さんがいなくなったのはゆりがまだ二歳のときだ。ぼくはまだいまのゆりほど大きくもなくて、そしてずっと子どもだった。母さんはもともとは父さんと一緒にやれアルファケンタウリやらアルクトゥルスやらと惑星調査に出かけてはその星系文明調査を行っていた。母さんはときどきその星で見つけた童話やら詩やらを解析して解読しては僕らに読めるように地球語に書きかえて本にしてくれた。
どんな星の文明にも言語がある限り必ずそこには物語があって詩がある。それが宇宙の知的生命文明の普遍の法則なのだと母さんは言っていた。そしてきっとその意味するところはこの宇宙の在り様と存在を示しているのだと。
母さんの言っていたことはまだ小さかったぼくにはよくわからなかったしなんなら今でもわからない。まして二歳だったゆりは母さんの顔や声をきちんと覚えているかも怪しい。でもゆりは母さんがいなくなってぼくや父さんに母さんが遺した本を読むようにせがんで、四歳になるころにはすでにぼくに図書館に連れて行かせてはもうどんどんと棚の本を自分で読むようになった。ゆりは母さんのように異星の言語学者にでもなりたいのかもしれない。あるいはゆりには母さんが言っていたことの意味がうっすらとわかっているのだろうか。
まあ端的にゆりはぼくよりもきっとかしこいのだろう。ぼくは母さんやゆりが好きなそういった抽象的なことよりもいま目の前に広がる七色の森の生態やら頭の上をいま飛んでいる林性夜鳥の翼なんかの方が気になる。そのへんのことはぼくは父さんに似たのかもしれない。父さんと母さんは同じ惑星文明の調査の学と言っても、母さんが言語や観念などの抽象的な文明現象を対象としていたのと違って、父さんは建築物やいなくなった惑星人たちの食文化や発声の波長様式なんかで随分と具体的な対象を扱っている。ぼくなんかもこの星で緑がある「意味」なんかよりも目の前に広がる動植物の方に関心が向く。
そんなことを考えながら歩いていると隣の葉群が突然点滅しながらガサガサと揺れて、黄色い毛をした小動物が目の前を飛び出してきた。その小動物は前歯が大きくて身体つきはげっ歯目のようだったが、耳の形状からはウサギ科にも似ている。いまや惑星大陸表面のほとんどが人工物に覆われてしまった地球でこんな小動物を見ることは有り得ない。小動物はぼくの前で立ち止まると意志をもってぼくを見つめた。まだ未踏破柵の内側のエリアなのでこの小動物に危険はないだろう。ぼくは草食類らしいまるで真横についているような二つの目を見つめた。それからその小動物は一言、くぉん、と鳴くとまた光の鮮やかな葉群のなかへ駆け出した。
ぼくは小動物の鳴き声を聞くとまるで自分が呼ばれたような気がした。それから僕は森の奥に消えていこうとするその小動物をどうしても追いかけたい衝動にかられた。ぼくはその小動物を追って葉群のなかに踏み込んだ。ぱきっと、足下で枝が折れる音がした。
★ ★ ★
あたしはもう何度目かわからない溜息を吐いた。あたしの心から呆れた呼吸はこの森のなかでゆっくり色とりどりに光合成する多葉力体たちの栄養になった。
お兄ちゃんは気がついたらいなくなっていた。あたしがせっかく危なそうな植物があったらお兄ちゃんが好奇心にかられて近寄ってしまう前に注意しようと前を歩いていてあげたのに。それが振り向いたらいなくなってるんだからたまったもんじゃない。おおかたこの星でしかみることのできないねずみかうさぎの類を見つけてそのまま追いかけて行ってしまったんだろう。あたしはもう一度溜息を吐いた。
いまに始まったことじゃないけどお兄ちゃんはほんとうに子どものような人だ。ほんとうに根っこの部分は端的に子どもなのだ。まったく9歳の幼気な少女に子どもだと思われる15歳の青年、大丈夫なのかよ。
あたしはでもそんなことを思いながらも眉間にしわを寄せながらも少し頬が綻んだ。まあでも曲りなりにあれで母さんがいないぶんわたしに寂しい思いをさせないように振舞っているということもあるのだろうけど。そういう意味ならお兄ちゃんの子どもっぽさは充分あたしにその役割を果たしている。
やれやれ、本当にお兄ちゃんはどこに行ったのやら、流石に未踏破柵の向こうにはいってないと思うけど……。
わたしは迷子のお兄ちゃんの名前を大声で呼んでみた。反応はなし。もう、めんどくさいなあ。あたしは仕方なくお兄ちゃんがいなくなってしまった方角の手掛かりを得るために引き返してみる。まあ、最悪お兄ちゃんのアンダーウェアに貼りつけておいた迷子用音響シールを駆動させれば100デシベルの大音声で見つけることができる。
まあ6歳までの子供向けシールを背中に張られていたという事実は流石にお兄ちゃんでもショックを受けそうだから、もう少しだけ自力で探してやろう。
あたしは風で揺れるたびに鏡が反射するように様々な色に光って反応する森を見渡した。
それにしても、とあたしは思う。
それにしても、日光の遮られた森ってこんなに寒いんだな。あたしはアンダーウェアの分子密度を上げて保温機能を強くした。
お兄ちゃん、あたしはもう一度くらい森のなかで叫んだ。また風が山側から吹いて足元の葉が少しだけ舞い上がって猫が笑うようにカラフルに光った。
それから木と木のあいだがさわだって人が駆けた気配がした。なんだ、お兄ちゃん、そこにいたの。隠れん坊でもして驚かせるつもり? 異星の森のなかでそういう悪戯は良くないぞとあたしは思いながら、気配のした木の裏へ駆け寄った。
★ ★ ★
結局、小動物はどこかに消えてしまった。地球であの手合いのものを見ようとするなら結構な手間がかかるのでもう少しじっくり観察したかったけれど仕方がない。それにこれ以上進んだら未踏破柵の向こうに行ってしまう。さすがにそれはいくら好奇心に駆られるとて避けた方がいいだろう。
ぼくは後ろのゆりに引き返そうかと振り返ってやっと我に返った。しまった……。ゆりもなんとなく後ろをついてきているような気がしていたが、ぜんぜんそんなことはなかった。参ったなどうしよう。まあ最悪ゆりのパーカーに放り込んでおいた迷子用音響発振器で見つければ……。そんなことを考えながら、小動物を追った道を引き返すと、枝が折れて地面に人が通った気配が自分が進んだ方向と別方向にあった。どうやらゆりもなにかこの森で好奇心に惹かれるものがあったらしい。
小動物を追いかけてはぐれてしまったことにまた小言をいわれそうだとぼくはバツが悪い思いをしながら、ゆりと思わしき足跡が続く巨木の裏をまわった。
木の裏に回ると大きな葉の向こうに僅かにゆりの半身と共に赤いスニーカーが見えた。やっぱりそこにいたらしい。ぼくは妹の名前を呼びながら、駆け寄った。そして視界のなかに完全にゆりの全身を捉えた
ぼくは一瞬ゆりのその全身の姿をみて反応が遅れた。ゆりの腰から上はなにか袋でも被せたようにむにゅむにゅと包まれていた。ゆりは足をばたつかせて精一杯その袋状のむにゅむにゅに抵抗していたが花弁の全身からどこか胃液を連想させるようなネバっとした粘液で掌が滑ってうまくいかないようだった。
ゆりは自分の背丈よりも大きい一輪の紅い花に喰われていた。
ゆり! ぼくは叫んで上半身を花弁に包まれた妹のもとに駆け寄った。その大きな紅い花は全身に白い斑点をいくつも付けていて、ゆりが暴れると意志を持っているかのように奇妙に全身を揺らした。そして揺れるたびに斑点がどくんどくんと瞬いた。
ぼくはゆりの元まで来ると腰を背中から掴んで思いっきり後ろに引いたが、花弁が吸い付く力が強くてなかなか引き剝がすことができない。腰に回した手に花の冷たい粘液が垂れてきて手が滑る。ぼくは出発前に骨まで溶かす強酸性の分泌物を出す植物もあるかもしれないと言ったゆりの言葉を思い出して汗が噴き出た。
ゆりは背後にようやく兄がやってきたことに気づいたのか、背中に小さな声でお兄ちゃんと呼ぶ声がした。ぼくはその声を聞いてようやく決意を固めてもう一度ゆりの身体を背中から後ろへ強く引いた。ゆりの身体が真っ二つにならないかと思ったが、それでもこのまま粘液で充ちた花に喰わせておくよりはよっぽどいい。ぼくは分泌液で滑る両手をしっかりと掴まえて、森の地面に踏ん張ってゆりの身体を二度三度引いた。すると花弁がゆりの上半身を吸い込む力が僅かに緩んだ。ぼくはその気を逃さず一気に引いた。
ゆりの上半身は花の粘液に塗れてずるりと抜け出た。
ぼくはそうしてゆりの腰に腕を回したまま、そのまま花から後ろに距離を取るように引いた。
生きている花が近づけない距離まで離れると、ゆりを膝に寝かせて声をかけた。
「ゆり、しっかりして」
しかし、ゆりはやっと花弁から解放されたところで力尽きていた。ゆりは花の粘液を全身に浴びてブロンドの髪をぴったり顔に貼りつかせ目を開かなかった。全身に力も入らず手を握ってもまるで反応がなかった。ぼくはゆりの髪が口に入っていたのでそれを剥がしてやるとやや強めに頬を叩いて再度ゆりの名を呼んで意識を取り戻そうとした。
しかし、ゆりはそれでも目を醒まさなかった。
ぼくはこの場でゆりの目を醒まさせることを諦めて、ひとまず屋敷に連れ戻そうと判断した。重心を前に倒させるとぼくはゆりを背中に抱えた。ぼくは森を立ち去る前にもう一度ゆりを食べようとした紅い花を一瞥しようとした。
しかし花はすでにそこには存在しなかった。
5.
屋敷に戻ると、ザネリさんと父さんは事情を聞く前にまず、いの一番に医者を呼んでくれた。ぼくはゆりを彼女の部屋のベッドに横にさせると身体をすぐに柔らかい布で拭いた。花の粘液は布に浸み込んだが、幸い時間が経っても布が溶けることはなく、消化液などではないようだった。
医者は夕方になってやっときた。医者は持ち運びサイズの医療用透過スキャナでゆりの身体内部のレントゲンを撮るとそれを空間投映させて眺めては考え込んだ。それからぼくにゆりを吹くときに使ったタオルを貸してほしいと言った。ぼくがベッドの脇に置いていた布を渡すと医者は医療用手袋をはめて受け取り、それから鞄にしまっていた片手で握れるほどの筒状の電子顕微鏡でタオルを覗き込んだ。
ぼくは医者が処置をするのを横目に大人たちに正直にすべてを告白した。自分が小動物を追うのに夢中になってゆりとはぐれてしまったこと、それから巨大な花がゆりの上半身を呑み込んで消えたこと。
父さんはぼくの話を最後まで聞き終えると、ザネリさんと視線を交わして、「どうなんでしょうか、しかしアキは未踏破柵の向こうには越えてないわけでしょう。柵の内側にそんな危険性のある植物がいるのですか?」
ザネリさんは父の問いかけにすぐに否定した。「考え難いですね。柵内の森の植物はすべて専門の学者がサンプルを一つずつ採集して、危険性のあるものはなんらかの処理をして無害にしているはずです。柵外であればまだ未調査ですからそのような植物もありえましょうけど……、アキさん、本当にあなたが見たその花というのは柵の内側なんですよね」
ぼくはザネリさんに頷いた。それから父さんにも。
父さんは少し長めにぼくの目をみていたがやがて一言だけ「わかった」とぼくの言葉を受け止めた。
それから医者がゆりの診察の判断を下したらしい。ぼくたちの間の重苦しい空気を割って話し始めた。
「あくまでお兄様がいう未知の花の存在を仮定してですね、まずゆりさんはいま凄まじい勢いで脳内血流量が増加しています。つまりゆりさんの脳は興奮状態にあると言えるでしょう。そのため目を醒ましてしまえば、外界の情報と興奮した脳が見せる幻覚が意識のうちで混乱をおこしてしまうため、脳の意識を司るモジュールが自発的に意識のスイッチを切っているのだと考えることができます」
「興奮状態ですか?」
「ええ」
父が聞き返した問いに、医者はシンプルに答え、そして続きを語った。
「私は植物学には詳しくはないのですが、さきほどお兄様からお借りしたタオルを見てみますとタオルの繊維に幾ばくかの粒子が絡みついているのがわかりました。おそらくこれはお兄様がおっしゃるその花の花粉ではないでしょうか。なにぶん未知の花の成分ですから、どのような化学物質で性質を持っているかということはできないのですが、粒子の形状をみますとたしかにある種の興奮剤に使われる天然成分の姿と酷似しています。もちろん姿が同じだから化学作用も同じとは言えないのですが、そのような類推を働かせることはできるでしょう」
一言でいえば、医者は父にそう言った。
「一言でいえば、妹様はいま恐ろしく早回しで夢を観ているような状態なのではないでしょうか」
「では、どうすれば娘は目を醒ますのでしょうか」
「花粉の化学作用がはっきりしないのでなんとも申せないのですが、少なくとも脳内血流量の値が下がって、脳内で観ている夢が終われば、意識モジュールがまた自らのスイッチを入れるでしょう。一応、脳内活動を鎮静作用させるものは静脈注射しておきましたのでそれが効いてさえくれば……」
「効かなければ?」
父はあくまで平静を保って医師に問うた。医師は答え方を考えるように逡巡していった。
「わかりません。やはり未知の化学成分ですから」
6.
翌日、ぼくは父とザネリさんと森を行き、ゆりを呑み込んだ花があった場所まで行った。しかしやはり花の姿もう消えており、ぼくは二人に確かにここに花は存在して、ゆりを吞み込んだことを伝えた。ぼくは二人の目に真剣に訴えかけた。しかし花は今は存在しない。それが目の前の事実だった。
屋敷に戻ってもゆりはやはり目覚めてはいなかった。ゆりは二日続けても目を醒まさない。ぼくはゆりが横たわるベッドの側でずっと付き添い続けた。いや付き添ったのではなく離れられなかったのかもしれない。ぼくが目を離した次の一秒にはゆりは目を醒ますんじゃないかとそういう希望を捨てきれなかったのだ。ザネリさんはぼくの気持ちを汲んでくれてぼくの分の食事を毎回部屋に運んでくれた。もっともぼくはその食事にほとんど手をつけることはできなかったのだけど。
不思議なことにゆりには食事は必要が無いようだった。医師は毎朝午前中に様子を見に来たが、食事も点滴もなく外界からエネルギーを摂取していないのに肉体的に衰弱が見られないということだった。医師は診察の最後に必ず脳の活動を鎮静させる注射をゆりの静脈に打った。それから最後に瞼を開かせて瞳孔の反射を確認した。ぼくはその動向反射の確認の時間が一番恐ろしかった。もしゆりが永遠に眠りについてしまえば、ぼくはどうすればよいのだろう。
そんな日が四日続いた。父さんはぼくの側にくると、予定より早いがゆりを連れて地球に戻ろうとぼくに告げた。地球に戻って本格的にもっとしっかりした病院でゆりをみてもらおう、父さんはそういった。
ぼくと父さんはできるだけ早くゆりを地球の病院に連れて行きたかった。だから船に積み込む帰りの荷物は最小限にしてあとは後日ザネリさんに送ってもらうことにした。ザネリさんはもし花のことでなにかわかったら連絡しますとぼくと父に約束してくれた。それから出発前にぼくを抱きしめて、「アキさん、どうかしっかりしてくださいね、ゆりさんが目覚めたときアキさんが元気でないとゆりさんもびっくりしてしまいますよ」、そう言ってくれた。
ぼくはザネリさんに「ありがとう、地球に着いたらちゃんと食事を摂るようにします」といって微笑みかけた。ザネリさんは優しく頷くと、最後にこれだけは持っていったらどうかとぼくに一冊の本を手渡した。それはゆりがいつも持ち歩いていた詩集だった。
「目を覚ましたら、ゆりさんはきっと読みたがると思いますよ」
ぼくはもういちどザネリさんを強く抱きしめた。
7.
ぼくと父さんとゆりはこうして地球に戻ってきた。地球に戻ってくると父さんは大学のコネを辿って出来る限り優秀な医者を呼んだようだ。でも結局はやはり屋敷で呼んだ医者と診察もその結論も変わらなかった。
夏季休暇のあいだ、父さんは相変わらず書斎で仕事を続けて、ぼくはゆりの側で彼女が目を覚ますのを待ち続けた。
父さんが地球に戻ろうとぼくに提案したのは結果的に正しかった。結局のところ屋敷のあるあの惑星にいようが、地球にいようがゆりが目を覚まさない限りぼくは彼女の側を離れることはなかったのだから。
8.
一日、一日とまた夏季休暇の日数は秋学期に向って進んでいた。そのあいだにもぼくはゆりのあいだをほとんど離れなかった。
ゆりを毎日みにくる医者も相変わらずで、屋敷に呼んでいた医者と同じで脳の興奮作用を鎮める薬を静脈注射しては最後に動向反射を確認する。ぼくはもしかして屋敷にいた医者とこの医者は同一人物なのではないかと疑うほど屋敷にいたころと一日のルーティンは変わらなかった。ぼくの15歳、そしてゆりの9歳の夏季休暇はそんな風にして過ぎていった。
そして夏季休暇最後の日、父さんがゆりの部屋に入ってきた。父さんは明日からの学校はちゃんと行くようにしなさいとぼくを諭した。もしかしたらゆりはこのまま目を覚まさないかもしれない、もしかしたら明日の朝になれば、あるいは次の一瞬には目を覚ますかもしれない。それはわからない。ただ自分たちはゆりを信じよう、ゆりの生きる力をちゃんと信じてあげよう。だからこそ、アキ、お前も明日から始まる学校にちゃんと行くようにしなさい。ゆりを信じて、そしてザネリさんも言っていたようにゆりが目を覚ますときにお前がしっかりしていることが今のゆりにとって大事なことなんだ、父さんはそう、ぼくに言った。
ぼくは父さんの前でゆりが目を覚まさなくなってから始めて泣いた。それからぼくは父さんに思っていることを打ち明けた。どうしても、どうしても自分があのときちゃんとゆりから目を離さなければ、いや、ゆりを森に連れて行かなければって思っちゃうんだ、ぼくは顔を両手で覆って父さんに言った。
父さんは言った、自分を責めたいのはわかる、でもな、アキ、自分を責めようとするのはそれで自分が楽になりたいからなんだ、ゆりがこうなってしまったことには本質的には理由なんかないんだ、運命というものに理由はないんだよ、アキ、たぶんお前はそのことを受け入れられないんだね、無理もない、お前はまだ15歳だもの、でもねアキ、やっぱりこれからは父さんと一緒に徐々にいつもの生活に戻っていこう、自分がゆりに申し訳ないことをしたと思うなら、いまのゆりのためになにかしたいと思うなら、お前と父さんは明日からちゃんと生活をしないといけないんだよ。
ぼくは父さんの言葉に頷いた。
ぼくと父さんはそれから椅子を二つ持ってきて明け方までゆりの側で座って、そして眠った。
9.
翌朝、ぼくは父さんより早く目を覚ました。それから父さんを起こさないようにそっとゆりの部屋を出た。それからぼくはシャワーを浴びて、服を着替えて、それから朝食をとった。そして夏季休暇が始まってからずっとぼくの部屋の一角におかれっぱなしで一ミリも動いてないスクールバックを手に持った。
それからぼくはもう一度だけ高等部に行くまえにゆりの部屋に戻った。ぼくはベッドの側に立ちゆりの寝顔を見つめた。ぼくと父さんに与えられた小さくともそこにいる天使さま。我ながら少々行き過ぎたシスターコンプレックスだったかもしれない。でもかまわない、言いたいやつにはいわせておけばいい。そいつらには今日までぼくとゆり、そして父さんがどういうふうに生きてきたかなんてわからないのだから。
ぼくはゆりの頬を触れて、それから白い枕に豊かに拡がるブロンドの髪を撫でた。そういえば、今よりまだもっと小さい頃、パパもお兄ちゃんも真っ黒な髪なのにどうして自分だけこんな金の色なの、とゆりが泣き出したことがある。ぼくと父さんはそのときにはじめて母さんの話をした。ゆりのその髪の色はいまも宇宙のどこかで見守っている母さんの色なんだよ。父さんはゆりに優しくそう語りかけた。ゆりはそれを聞くと、真っ赤に腫らした目を泣き止んで、それから手鏡でじっと自分の顔を見つめた。ゆりはそのとき何を感じて、そして思ったのだろうか。ただゆりはそれ以来自分も黒い髪がいいとは一言もいわなかった。
ゆりはいまどんな夢を見ているのだろう。
ぼくはもう一度だけその髪を撫でると驚かさないように、それじゃあ、ゆり、学校に行ってくるからね、そう声に出さずそう囁いて、最後に髪から手を離した。
そして。
そして、ゆりはゆっくりとしかし確実に、まるで閉じられた蕾がまさしく陽光をうけて開くように、ゆりはその瞼を持ち上げた。
ぼくは前触れのない突然のゆりの目覚めに声が出なかった。本当に驚いたときは声なんかも少しも出ないものらしい。ゆりはいつもの低血圧の朝のようにとろんとした眼のままでゆっくりベッドから上半身を起こした。それからそのまま真っすぐ向いたまま口を開いた。
暗中軌道は灰の肌に
夜に啓く花は嵐の大洋に
埋め尽くす死は咲き誇りて
風なき重力に揺れて
迷い子のために月に花野は始まり
迷い子により花野に夢は始まり
ゆり? ぼくは妹の名を口にして呼びかけた。ゆりはもう目を閉じてはいなかった。ただ身体を起こしては微動だにせず、言葉を繰り返した。ゆりは目を覚ました、そして口を開いた。でもそれは朝の挨拶なんかじゃなくて、それは彼女の大好きだった詩の言葉だった。
10.
ゆりが目を開いて、ぼくはすぐに椅子の上で眠りこける父さんを揺すって起こした。父さんは夢を中断されてやや不愉快そうな声をもらしながら起きた。しかし目の前でゆりが身体を起こしているのをみるとすぐさま娘に声をかけた。ぼくも父さんに遅れないように妹に呼びかけた。しかしゆりはやはり目を開いてまっすぐ前を向き続けるだけでぼくらの呼びかけには僅かの首も捻ってこちらを見ることすらなかった。
父さんは慌ただしさを隠そうともせず椅子から立ち上がって制服姿のぼくをみると、医者を呼ぶから、アキとりあえずお前は学校に行きなさいと諭した。ぼくは流石のこの状況の変化では学校になんておちおち行っていられないと父さんに反論したが、父さんも気が動転しているのかとにかく学校に行きなさいと繰り返した。
ぼくは再度父さんに反論をしようとしたが、父さんはそこでふっと落ち着きを取り戻した声でぼくの反論を封じた。
「まだ早朝だから医者を呼ぶにしても、もう少し時間がかかるよ、、とにかくいまは父さんに任せて学校に行ってくれないか。大丈夫、ゆりはもうこうして目を開いている。だから、大丈夫、ゆりがいくらお寝坊さんとはいえもう一生分ほどたっぷり寝たんだ。お前が学校から帰ってくる前にまた目を閉じるなんてことはきっとないだろうよ」
結局、ぼくは父さんに押し負けて学校に行くことにした。この夏季休暇のあいだでゆりのことを考え続けたのはぼくだけではない。父さんだってもちろん毎晩何度も眠れずに娘のことを考え続けその目覚めを待ち続けてきた。あるいはここまでで目まぐるしく変わった我が家のことを一人でほんの少し落ち着いて考えたいのかもしれなかった。
11.
そういうわけでぼくはゆりの大いなる眠りからの目覚めにも関わらず呑気に始業式のある高等部に足を運ぶことになった。
ぼくは夏季休暇のあいだはずっとゆりの部屋にいたから、久々の外の空気を空気を感じてビルの合間と合間を歩いた。秋学期のための電車の定期券を購入していなかったからその日は自分のお小遣いから持ち出しで乗車券を買った。
教室に着くとぼくはクラスメイト達のおよそ一か月ぶりの喧騒にぼくが夏のあいだどれだけ世間から隔絶していたかを知らされるようだった。
ぼくは教室の前から入っていちばん奥の座席に進む。そのあいだに耳に飛び込んでくる話し声は大半は夏の休暇の思い出話やあるいは気の早いやつらの受験勉強の話、これといって注意を向けるに値しないありふれた話だった。ぼくはひとまず黙って座席について、スクールバックを降ろした。すると前方の席のクラスメイト達が塊になって一心不乱に一つの通信デバイスで配信の動画を熱心に見ているのが視界に入った。
ぼくは塊のなかに日頃懇意にしている友人の一人を見つけて、何を見ているんだ? とあいさつ代わりに声をかけた。
友人はぼくに気がつくと、まるで昨日会ったかのような気楽さで、ぼくに話しかけると配信のニュースだと通信デバイスを指さした。
「なんかおもしろい情報でも出てるのか?」
「おお、月面基地からのレポートであり得ない現象が報告されてるんだ」
「月面から? あり得ない現象? なにそれどういうこと?」
友人は通信デバイスをぼくに差し出すと問題の動画のシークバーを指で戻して改めて配信ニュースを再生してくれた。
画面に写っている男はどうやらニュースサイトのレポーターらしい。男は灰色の月面に宇宙服姿で立ってその内側に忍びこませたインカムで地球のぼくらにやや興奮した調子で状況を伝えている。
いまわたしは緯度北18.4度、経度西57.4度、直径は2568kmの月史上最大のその海「嵐の大洋」に来ています。背後には周囲の観測機が地球のニューヨーク時間8月31日18時18分で発見したこの異常な花の群れがあります。御覧のとおり、いまこの月史上最大の「嵐の大洋」いちめん草が生い茂り色とりどりの花が咲き乱れています。花はみたところ地球の品種によく似たものですが、この酸素も二酸化炭素もないほとんど真空といってよい月の表面になぜこのような花がいま咲き乱れているのでしょうか。近辺の観測基地によるとこの花々は何の前触れもなく突如として出現したといいます。観測基地の隊員や学者はまったく説明のつかない現れではっきりって非常に不気味な前触れの様に思えて仕方ないとのコメントでした。
ぼくは画面の中の月の花野を見た。最初はこんな不思議なこともあるのかと余裕で観ていたが、画面に写る花弁が月の無重力で揺れているのを見続けていると、一つの詩と声が再生された。
暗中軌道は灰の肌に
夜に啓く花は嵐の大洋に
埋め尽くす死は咲き誇りて
風なき重力に揺れて
迷い子のために月に花野は始まり
迷い子により花野に夢は始まり
まさか、確かにゆりが目をやっと開いて詠った詩にこの状況は近い。まるで予言したかのようだ。いや、予言? 画面の中のキャスターはニューヨーク時間で昨日の18時と言っていたがそれは自分のいるこの日本の時差13時間進めると今朝の7時になるのではないか。ゆりが目覚めたのは学校に行く直前だったから、確かにいまこの花野が現れたと同時にゆりもまたそんな詩を詠ったのか。
しかし、まさか空想の詩が現実と一致するなんて。
ぼくは頭で否定しながらもどこか冷や汗が止まらなかった。それはいまのこの時点ではまだただの直観でなんの根拠もなかったが、それがゆえにその直観は頭に纏わりついて離れなかった。目覚めたゆりの眠そうな声がホームルームの合間もぼくの頭で響き続けた。
迷い子のために月に花野は始まり
迷い子により花野に夢は始まり
12.
クラスメイト達は久々の級友の再会と午後に授業がないのをこれ幸いとして街に繰り出すようで、実際ぼくも誘われたが、ぼくは真っすぐ帰宅することに決めていたので断った。
なにか嫌な予感がしていた。それは登校前に目を覚ましたゆりのことが気になる以上に、あの配信ニュースとゆりが詠った詩の奇妙な符号による予感だった。その予感はまだぼくは明確に言葉にならなかったが、それでもどこか嫌な感じを与えずにはおれなかった。
だがひとまず考えるべきはゆりの容体に関してだ。
ぼくは真っすぐに帰宅すると制服のままゆりの部屋に向った。ちょうど父さんと医者が話していた。二人の大人の向こうでゆりはぼくが家を出る前と全く同じ姿勢でベッドから上半身を起こして前方を見据え続けていた。
「父さん、ゆりは?」
父さんは何も答えなかった。ただ扉の近くのぼくの方までゆっくり歩くと両手をぼくの肩に乗せて俯いた。
13.
医者は帰った。父さんは少し調べたいことがあると言って部屋から出て行った。もしかしたらぼくの前であまり落ち込んだ姿を見せたくないのかもしれない。部屋にはゆりとぼくだけが残った。
結論からいうとゆりが目を開いた意味はわからず、そして状況に大きな変化はないとのことだった。医者はあいかわらずのゆりの脳内レントゲンを見せながら、どうしてもゆりさんの脳内の興奮状態が静まらないのです、とぼくに説明した。医者がかろうじてぼくと父さんに告げた新しい情報は、脳内で付着していた化学成分はどうも互いに繋がろうとしていて、それは植物の根のようにも、あるいは花のようにも思えるとほとんど説明にもなっていない説明だった。
ぼくはまたゆりのベッドに腰掛けた。それから手持ちのデバイスでクラスで見せてもらった月面のニュースを改めて再生した。結局、ゆりが諳んじたあの詩はなんだったんだろうか。夢遊状態でみた脳内の幻覚がたまたま月面での怪現象で一致した? まさかそんなことがあるわけがない。しかしそんなことがあるわけがないのなら、それはどういうことなんだろう。
ぼくはまたニュースを観て考える、なんとなくここにいまのゆりを理解するためのヒントがある気がした。しかしやはり考えてもなにもわかることはなかった。ぼくはいい加減ニュースの再生をやめてゆりの横顔を眺めた。
「ほんとうにいったいなにがどうしちゃったんだろうね」
思わず口から漏れ出た言葉だった。
ゆりはぼくの言葉に反応してかせずかはわからないが、口を開いた。それはまた今朝に詠った詩とは違っていた。
水平線から訪れる天使たち
陽が鎖された空を羽根が舞う
終わりのときを羽搏きが
夜の叫声として
水音に響いて、はじめ
ひろひら貴方の手に
ひらひら ひらひら ひらひら
また新しい詩だった。
ベッドの向こうの硝子窓に何か灰のようなものが落ちてくるのが見えた。
ぼくはまた嫌な予感で心臓が早鐘を打つのを感じた。
まさか本当に予言なんて。
ぼくは頭ではそう否定しながら、それでも降ってきたその「何か」を確かめずには入れなかった。ぼくは部屋を出て玄関から外に出た。
その「何か」は雪のようにも灰のようにも、ひらひら、と舞い降りてきた。その「何か」は確かに羽根だった。羽根はちょうど三角形のような真っ黒で、太陽に透かすと何本も底辺に向って反射して光の筋になった。ぼくの頭にゆりが詠った詩の一節が浮かぶ。
水平線から訪れる天使たち
陽の射す空を羽根が舞う
天使の羽根? ぼくは思わず頭のなかで連想してしまっていた。それから街の海側の方角から「叫声」が聞こえてきた。それはブーンともジジジともあるいは水が流れるような音にも聞こえた。ぼくはその音に反応して手元の「天使の羽根」から空を見上げてその「叫声」のほうに振り返った。一羽一羽の羽搏きは耳を澄ませても聴こえないほど小さくてももしそれが何万何百何千万と集まれば互いの音波を共鳴させて増幅して、それは叫びのような音となる。ぼくは天使たちの「叫声」を聴いた。そして「陽が鎖された空」の「夜」を見た。
高台の下にあるビル街の向こうのさらに海側から黒の揚羽蝶が一斉に空を覆った。太陽の光は重なった揚羽の羽根に遮られて曇り空のように地上の照度を一気に下げた。何万もの、何万もの揚羽がずっとビルよりも高い空を飛んで地上に蓋でも被せたみたいだった。蝶は時間が経つに連れてますます増えていきその度に夜は深まった。ずっとずっと蝶はぼくの頭上を飛び続けた。そしてときおりぶつかった蝶がまるで液化した夜のように降り注いだ。
それはひらひらと。
ひらひら、ひらひらと。
ぼくは舞い落ちてくるその羽根は手で受けた。
僕は確信した。これは予言ではない。
ゆりが口にする詩は予言なんかじゃない。
それはゆりの唱えるところから始まっている。
ぼくの妹はいま世界自身を変えているのだ。
14.
こうして世界の関節は外れた。
ゆりはなんども詩を詠い物理法則を鮮やかに無視して、世界を変えていった。
世界はゆりが描くキャンバスであり、そしてその詩行が書かれていく原稿用紙となった。
ゆりは詠った。
そして世界を壊していく。
たとえばこんなふうに。
ほろほろと崩れ落ちゆく空間
したたるものはあおのしずく
あらゆる高層のビルは
悲鳴に変えられて
地に溜まるものは青竹の群れ
世界のあらゆる都市で構想のビルでその現象が起こった。窓ガラスが突然理由もなく割れて地上に降り注いでその下を歩いていた人たちの身体は高速で落ちた竹槍のようなそれに切り裂かれそして壁に塗られた。切り裂かれた人たちから飛び散った血の滴は青く変わっていた。そして真っ青に塗られたビル本体もすぐに崩れて世界の都市には青いゾーンができた。
あるいはこんなふうにもゆりは詠った。
ルビーの筋肉
男たちの上腕二頭筋が吐き出され
ルビーの血管
捲きついて 巻きついて
ダーリアの心臓
ゆりがこんなふうに詠うと街中に深紅の宝石男たちが現れた。宝石男たちはかちゃかちゃとどこか金属質の音をさせながらまるでおもちゃの兵隊のように歩いた。そして路の真ん中で突然筋肉ではなく、胃、肝臓、脾臓、膵臓、大腸、小腸、それから心臓をそのアスファルトにぶちまけて、挙句長い長い心臓からの大動脈を頸に巻きつけて自害を謀った。
ゆりが壊す世界は地球だけではなかった。ゆりの詩の成就はいまや太陽系を越えて全宇宙まで広がっている。
太陽の巨人たちが
弾丸となって
くらいうずの
砲台から飛び立ち
星に輝く尾を曳き
驟雨となり
太陽系の外で無数のブラックホールの発生が突如観測された。しかしそのブラックホールは飲み込むのではなくそこから人型の恒星を吐き出した。太陽ほどの大きさのあるその巨人たちは太陽系外で暮らす知的生命体の住む惑星を撃ちぬく弾丸となり巨人は真横に降る雨となって宇宙に降り注いだ。
こんなふうにして、ゆりは世界を、宇宙を冗談みたいに壊していった。ゆりはなにが憎くてこんなふうに世界を壊しているのだろう。いやゆりは世界を壊してるのではない。ゆりはただ大好きな詩を詠んでいるだけなのだろう。医者は、ゆりの脳は興奮状態でずっと幻覚を見ているようなものだと言っていた。それはゆりにとってはユートピアのような詩の世界にずっとい続けているようなものなのかもしれない。いまやぼくの妹は世界に在るのではなく、世界の内側がぼくの妹なのだった。
15.
父さんはゆりが目を開いた翌日にはすぐに地球を出る準備をして、とある文明の遺構がある惑星に出かける準備を整えて実際その日の夕方には家を出た。父さんは壊れていく世界から逃げるわけじゃないよとぼくの肩を叩きながら言った。父さんが向かおうとしていたのは夏季休暇中にずっと調べていたあの148億年以上前に宇宙が始まるよりも前に存在したとされる遺構のある惑星だった。父さんによればそこに今世界に起こっていることを理解するひとつのヒントがあるはずということだった。
「オーストラリアの宇宙港から行くんだ」
父さんはこんなふうに世界がめちゃくちゃになっているのに子どもたちを残して家を空けることの後ろめたさを隠すようにそう言った。アメリカの宇宙基地はゆりによって国ごと宙に浮かされて洗濯機に放り込まれてばきばきに砕かれていた。その他の国も、宇宙港もおんなじだった。大きなバットとボールに変えられてハリガネムシで野球にされたり、国民全員がクマのぬいぐるみなんかにされたりしていた。オーストラリアはまだ比較的無事だったが、世界のその他の宇宙港はほとんど使えなくなっていた。
「ゆりを頼んだぞ」
父さんはぼくに玄関で背を向けながら言った。
ぼくは父さんに何も言えなかった。父さんはゆりが詩を詠んで世界を変えていることを知らない。父さんはゆりが詩を詠むのをまだ一度も見ていなかったし、聞いていなかった。ゆりは父さんの前では詩を詠もうとしなかった。そしてぼくも世界とゆり、詩とゆりの関係を大人たちには黙っていた。
そうして、父さんは家を出て行った。
でも結局父さんが地球を出ることは叶わなかった。
父さんが日本からオーストラリアの宇宙港に辿りつくころには、南半球は小さく刻まれて、すべてが天使の微笑みとその絵画に変えられてしまったのだから。
16.
空の花瓶は傾いて
永久なる火は注がれて
海は炎えて
波に花咲く
溢れ出す船に誰も間に合わず
揺らめく聲に
私たちのもとに
ぼくはいつかもそうしたようにゆりの部屋の窓の景色を見つめる。高台の下の街は僕らのいる内陸まで火が押し寄せている。
海が燃えている。ゆりはまた詩を詠んで月を大きな花瓶に変えてしまった。そして花瓶は水差しとして火を太平洋に注いだ。海水はいまや全て炎に代わっている。波打ち際では砂の上を赤い火が滑っている。注がれた炎の海は徐々に徐々に海岸線を上げていってゆっくりと内陸の街に侵食してきている。やがて大陸と空は、僕らの立つ大地と宇宙は月の花瓶から注がれた炎の海の底に沈んで灰となって舞い上がるのだろう。
ぼくは窓の外で街から押し寄せる火の波を見るのをやめてベッドのゆりを見る。ゆりは相変わらずまともなことは一切話さない。目を開いてぼくの側で詩を詠うだけだ。ゆりはそして決して離そうとしなかった。自分と繋がったこの世界というキャンバスと原稿用紙を自らの想像力の落書きのお絵かき帳として興奮した意識で掴んで離さない。
結局、今日までぼくは誰一人大人にゆりのことを言えずにいた。パリのエッフェル塔が逆さになっても、自由の女神が洗濯機で粉々になっても、宇宙の開拓惑星の人たちも含めてどれだけ人々が怪現象に巻き込まれても。
ぼくはベッドのゆりに歩み寄る。
ぼくは身を起こしているゆりの手を掴む。全身に血の流れる暖かい手触りが感じられる。あの日、花に喰われてからもゆりは生き続けている。ただ意識だけがなにかと繋がって、ぼくの声はずっと届かない。
ぼくはゆりの開け放された瞳を見つめる。
そこには浮かない顔のぼくが写っている。ゆりにはいまの世界がどういうふうに見えているんだろう。ゆりにとっていまの世界はずっと部屋のなかで読んでいた詩やおとぎ話のような彼女にとっての幸福な世界なのだろうか。
そしてぼくはこの世界を元に戻すアイデアを一つ思いつく。
ゆりがこの世界そのものと深いところで繋がっているなら、それをもし断ち切ってしまえば。そうすればまるで根拠も理由も原因も原理もない不思議の国のようなこの世界をすべて元に戻すことができるのかもしれない。戻せなくとも少なくともこれ以上の不可解を止めることができるのかもしれない。
ぼくは掴んでいたゆりの手を放してできるだけそっと頸に手を掛ける。ゆりのその頸の肌は掌と同じく暖かく生きていることを主張して、柔らかく掴んでしまえば指はゆっくりと沈みこんでいった。どくんどくんと頸動脈の振動が指の間から伝わって来て緊張するぼくの心臓の音と重なる。
どくんどくんどくん。
ゆりは頸に手をやるぼくに一切抵抗しない。あとはこのままこの包んだ掌にそっと力を込めて、その脳に血を昇らせて興奮させる血流の流れを止めてしまえば、そうすればこの物語は終わる。
ぼくは妹がこの手のなかでただの抜け殻に変わっていくさまを見たくなくて傲慢にも目を閉じる。それから、ゆり、ごめん、と彼女が生きているうちに呟く。
ごめん。
ぼくはもう一度呟いた。
なんて。
なんて、できるわけがなかった。
ぼくに妹を殺すことはできなかった。
それはどれだけこの世界がめちゃくちゃになって根拠も理由も原因も原理も無くなった世界でも、この物語のルールだった。兄に妹は殺せない。ぼくにゆりは殺せない。
ぼくはただ力を籠めることのできない手をゆりの頸にかけたまま、何十分としてそうしていた。ただぼくは何もできずずっとぼくはゆりの頸動脈の鼓動を感じるだけだった。
最後にはゆりは笑った。あるいはそれはぼくの勘違いかもしれなかったけれど。
ぼくはいい加減ゆりの頸から手を離した。それから枕もとのサイドテーブルに置かれた本を一冊手に取った。それは別荘からゆりを連れて帰るときにザネリさんがぼくに渡してくれた本だった。ゆりは数ある本のなかでもこの詩集が好きで、いくども読み返してうっとりとその詩の世界に浸っているのをぼくは見た。ゆりが何度も何度もことあるごとにこのなかの詩を諳んじていた。
それはもともとぼくに送られた詩集だった。母さんが150億年前の遺跡のある星で行方不明になるほんの少し前にその星の遺構に刻まれたものを翻訳して地球のぼくに送ったものだった。ぼくは母さんがいなくなってからその詩集をゆりにプレゼントした。そのときゆりはまだ二歳で文字は読めなかったから、ぼくが読みきかせてやった。
ぼくは表紙に何も書かれていない白い手作りで造本された本を開いた。
新しい宇宙がひらく
星の闇に光の蕾を綻ばし
古い花弁は枯れ落ちて
輝く花粉は舞い散って
次の星々が咲く
そうしてわたしたちは永遠まで
ぼくは腰かけたゆりのベッドから立ち上がりもう一度窓の向こうの景色を見つめる。
月から零れる炎はやはり注がれ続けている。炎えあがる海はさっきよりもますます強くなっている。火の波はこちらに向けてゆっくりと、ゆっくりと潮が満ちて呑み込んでいくように街を滑っていく。やがてぼくらはその火に包まれるだろう。この星だけでなく、この宇宙の全てが炎に抱かれる。すべてはぼくの妹の詩で包まれるのだ。
文字数:22300