梗 概
霧の膨張と微小なトカゲ
一七世紀、イングランド中部。アリスは村の火事からひとり生き残り、顔にトカゲ形の火傷痕がある。里親となった老時計職人は、そのトカゲが守り主だとアリスに言い聞かせ、機械技師として育てた。アリスは感謝しつつも、儲けに頓着しない貧しい生活には不満だった。あるとき金回りのいい錬金術師に高収入でスカウトされたアリスは、黙って家を出る。
鉄から金を作るよりも、鉱夫にツルハシを売るほうが儲かる。錬金術師は鉄鉱山から〈霧〉と呼ばれるガスを採取している。複数のシリンダーに〈霧〉を入れ、ピストンで収縮させると、反発して膨張する。圧力を調整すると〈霧〉は速いサイクルで膨張収縮を繰り返し、ピストンから伸びたシャフト、カム、歯車へと動力が伝わり、小屋の外に伸びる軸が回転する。水車に代わる動力を、鉄鉱石の破砕場に提供して儲けているのだ。
機械いじりに長けたアリスは、ピストン圧力の調整や機構の整備・修理を任される。〈霧〉の固有振動サイクルで極小まで圧縮することで、効率よく安全に動力を取り出せるようになり、昇給もした。
アリスは薄く延ばした〈霧〉を顕微鏡で観察し、散在する光(恒星)や、石(惑星)を見た。石の表面を拡大すると、トカゲのような生命が集まっているのを発見。アリスは、異端者たちが提唱する地動説世界のようだと思う。〈霧〉の正体はビッグバンとビッグクランチを反復する小宇宙だが、アリスは今後も知ることはない。
観察を続け、生命の存在が極めて稀であること、タコやヒトデなど様々な形体があることを知る。また〈霧〉を極小まで収縮させると、光、石、生命が消滅し、新たに創造されることも分かる。アリスは収入を得る代償に、生命、特に守り主たるトカゲを巻き添えにすることを恥じる。減給でよいから収縮をゆるめて生命を生かしたいと進言する。しかし安定した動力提供が顧客第一主義の実践であり、仕事の成果は儲けで測られると、錬金術師に言いくるめられる。
アリスはトカゲが住む〈霧〉のシリンダーを選び、密かに収縮をゆるめる。代わりに他のシリンダーに高圧力の負荷をかけ、動力を上げる。小屋全体の動力の帳尻が合い、錬金術師に気づかれずにトカゲは生き続けた。
だが過負荷のシリンダーが故障したのをきっかけに、アリスの細工が発覚する。錬金術師は、顧客第一とは他を優先しないことだと、ねちねち説教した。さらに、昔は顧客の開墾に抵抗する村を焼き払ったものだ、と自慢げに語る。アリスが生き残りだとは気づいてもいない。
アリスは仇である錬金術師を工具で殴りつけ、酸を浴びせる。トカゲが住む〈霧〉をフラスコに入れて懐に入れた後、バルブを開けて〈霧〉を開放。酸で機械部品を腐食させ、最後は小屋に火を放つ。
アリスが老時計職人を訪ねて詫びると、再び迎えられた。
数年後、老時計職人は〈霧〉時計を実用化することなく他界した。微小なトカゲは、アリスに守られて生き続けた。
文字数:1199
内容に関するアピール
文字数:333
霧の膨張と微小なトカゲ
「鉄から金を作るよりも、鉱夫にツルハシを売るほうが儲かる」
と、ブラウンリーさんが言った。
「石や鉄から、金を作るのに成功したやつはいない。めっきを使ったいかさまだ。これみたいにね」
グレーの上着の袖をめくって、ブラウンリーさんが手首のあたりを見せてくれた。白いシャツに金色のカフスが付いている。わたしは純金のカフスを見たことがないので、違いが分からない。
「そのうち分かるようになる」
無造作にはねた髪の下にある青い目と、豊かな髭の上にある口が、ゆっくりと笑う。学校の先生みたいだ。
部屋の奥の角には、古びた大きな棚がある。近づいて目を凝らすと、アルコールランプ、フラスコ、薬瓶、何に使うのかよく分からない器具が、ほこりをかぶって並んでいる。一番上の段には蜘蛛の巣が張っているようだ。
「貴族や商人を、めっきで騙せるわけがない。だから頭も財布もからっぽの連中に、二束三文で売ることになる」
部屋の反対側には、窓際に大きなテーブルがあり、万力、歯車、それからいくつか工具が散らかっている。歯車をさわると、指に油がついた。足元の大きな木箱には、大きさの違う金属部品や工具を詰め込んである。壁には、ほうきとモップが立てかけられている。
「アリス、聞いているのか」
振り返ると、ブラウンリーさんが隣の部屋に続くドアに手をかけている。
「なんで、ツルハシがないんですか?」
「もっと儲かるものを売り始めたんだよ」
ブラウンリーさんの後について、隣の部屋に入ると、黒くて巨大で複雑な機械のようなものが置いてある。たくさんのシリンダー、シャフト、歯車、カムといった機械部品が組み合わされて、わたしの背よりも高い。巨大な虫のようだ。
ブラウンリーさんは奥に進み、わたしは後を追う。長く横たわる機械の真ん中あたりで立ち止まった。指差した先には、ふたつの歯車が噛み合っている。
「この歯車の問題が分かるか? 動いてないから、触っても大丈夫だ」
わたしが歯車をゆっくり回すと、音もなく静かに歯車は動いた。勢いをつけて速く回すとガタガタと音がする。
「そう。速く回すと振動する。こういうときは摩擦負荷を与える」
ブラウンリーさんはそう言いながら、万力で固定した木を、大きな歯車の軸に押し付けた。わたしが歯車を回すと、さっきよりも少し重い。けれどガタガタしなくなった。
「なんで静かになるんですか?」
「負荷のかからない歯車を回すと、歯が当たったときに角速度がぶれて振動する。軸に負荷をかけると、逆方向へぶれにくくなる。ただし、負荷をかけすぎると効率が悪い」
「なんで歯車のかみ合わせで調整しないんですか?」
「なんでが多いな」
ブラウンリーさんは、髭を撫でながらこちらを見る。笑っているような、困っているような表情だ。
「すみません」
「いや、いいんだ。歯と歯の隙間をぎりぎりまで詰めると、摩擦が大きくて回りにくくなる。どうせ、すり減っていくしな。それに、こういう大きな歯車は、作るのに費用も時間もかかる。だから歯の形状ではなく、軸の負荷で調整する」
話しながら、ブラウンリーさんは調整した木の棒を取り外してしまった。
「アリス、自分でやってみるんだ」
わたしは木の棒を、軸に強く押し当てて万力を固定する。歯車を回転させようとするが、重すぎて回らない。押し当てを弱くする。ガタガタする。何度か調整していくうちに、軽く回って音がしない強さを見つけた。
「上出来だ。他にもガタついている歯車があるから、調整しておいてくれ。後で確認する」
最初の仕事を任せてもらえた。やっていけそうだ。
「こういう調整は初めてか?」
「はい。時計は脱進機を使って、振り子や歯車の動きを制限するので」
脱進機のしくみを知ったのは、時計の動力源は錘なのに振り子は何の役に立っているのか、と親方に尋ねたときだったと思う。
幼いころに両親を失ったわたしを、時計職人の親方が引き取ってくれた。友だちができなくて、いつも工房に入り浸り、親方の手伝いをしているうちに、わたしも機械いじりができるようになった。
毎日、新しいことを試しては失敗し、親方に教えてもらった。そのうち仕事の邪魔をするのが申しわけなくなって
「なんで?」
と尋ねるようになった。そうすれば、次からは間違えにくくなる。
親方はていねいに教えてくれたが、やがて親方も知らないようなことを、わたしは尋ねるようになった。それで親方の伝手で、機械職人の組合図書館に入れるようにしてもらい、わたしは調べ物ができるようになる。
その図書館で、ブラウンリーさんと出会った。数学の本はどこにあるかと尋ねられ、哲学の棚に案内した。わたしが親方の工房で働いていると知って、興味を持ったらしい。機械いじりが得意なら、うちでもっと金儲けができると言われた。わたしは親方に面倒を見てもらって、職人としての仕事もあると答えたと思う。ブラウンリーさんは、気が向いたらいつでも来てくれと言った。そして棚を案内してくれた駄賃だと、一ペンス銅貨をくれたのだ。
歯車の調整を任された翌日、ブラウンリーさんは歯車の周り具合を確認して、いくつか微調整をした。それから、何本も並んでいる円筒のひとつを手に取る。
「シリンダーの中を見てみろ。中身をこぼさないように」
手渡されたシリンダーの底に、灰色のガスのようなものが溜まっている。揺らすと、液体のようにゆらゆらと波立つ。
「これは何ですか?」
「分からん。錬金術師の間では〈霧〉と呼んでいるが、細かい水滴ではない」
「鉱山で採れるんですか?」
「鉱山だけじゃなくて、洞窟でも採れる。暗い森の奥で見つかったいう話もあって、得体が知れない」
「錬金術に使うんですか?」
「それじゃ儲けにならない。こうやるんだ」
ブラウンリーさんはシリンダーを万力で固定して、開口部の内側にぴったりの円盤を入れた。円盤をゆっくりと押すと沈み、手を離すとゆっくりと戻ってくる。何度か繰り返したあとは、手を離していても、円盤がゆっくりと沈んだり戻ったりするのを繰り返すようになる。
「何もしなくても〈霧〉は、ゆっくり反復する。けれど力を加えるとサイクルが速くなるんだ」
「この円盤についている棒は何ですか?」
「円盤と合わせてピストンという。説明しよう」
大きなシリンダーが何十本も並んでいて、それぞれにピストンがはめ込まれている。往復運動する棒の先には、円運動をするシャフトが接続されている。その軸には歯車がついていて、別の歯車と噛み合い、更に別の歯車と噛み合って……と連鎖している。ピストンのゆっくりした一往復が、向こうの歯車の五十回転に変換される。歯車の中心にある軸は、小屋の外に突き出ていて、大きな音というか振動が伝わってくる。
〈霧〉の往復運動を、軸の円運動に変換するために、この大きな機械があるようだ。
「外は、鉄鉱石の破砕場だ。この軸はそのための動力を提供しているんだ」
「どうして、そんなことするんですか?」
「儲かるからだ。水車を使うには川の近くに行くか、川を引いてくる必要がある。大雨が降ったり、雨が降らなかったりしたらやっかいだ。〈霧〉を使えば安定した動力を提供できる。高い料金をふっかけられるんだよ」
午後には破砕場を見せてもらってから、ゆるやかな坂を登っていく。道の両側は、胸の高さくらいの石垣で囲まれている。その向こう側は青い草が広がっていて、遠くに見えるのは厩舎だろうか。水飲み場もある。さらに進むと石垣はなくなり、切り株だらけの丘に出る。伐採したのだろう。立ち上る砂埃を吸い込んでしまって、何度も咳やくしゃみをしているうちに、石造りのゲートの前に出た。
「坑道だ」
ブラウンリーさんはランプを灯して、中に入っていく。右へ左へ、ときには下に坑道は折れ曲がるが、暗くてよく見えない。わたしはブラウンリーさんの背中と、自分の足元を交互に見ながら歩いた。
大きな水たまりの前で、ブラウンリーさんは立ち止まった。
「ここに〈霧〉が溜まっている」
ブラウンリーさんは、地面に置いてあったバケツを手に取り、水たまりをすくう。バケツの中をランプで照らすと、気体だか液体だかよく分からない〈霧〉の表面が、ゆらゆらしている。
「〈霧〉は、ここにだけ湧いてくるんですか?」
「いや、他の場所でも、ブリテン島の外でも採れる。東の方でも採れるらしい。気づかないくらい小さい粒状の〈霧〉が、くっつきあって塊になる。坑道の中は暗いし、鉱夫の連中は〈霧〉のことなんて知らないから、ただの水たまりだと思われてる」
わたしはバケツを持ってみる。水より重い。
「〈霧〉の取り合いにならないんですか?」
「ならない。みんな金を作ったり、賢者の石を探すのに夢中だ。〈霧〉を動力源だと考えている錬金術師なんて、他にいない。機械職人たちは別のことを考えてるみたいだし」
バケツを持ち上げて、下側から底を見る。穴や隙間はなく〈霧〉が漏れている気配はない。バケツを地面におろして上から見ても、〈霧〉は中でゆらゆらしているだけで、溢れたりもしない。
「〈霧〉は減りませんよね。どうして採取し続けるんですか?」
「減るんだよ。膨張と収縮を繰り返していると、だんだん軽くなって、最後には消滅する。まるで重さが動力に変換されているみたいだ」
「蒸発してるんですか?」
「してないと思う。さすが機械職人だな。湯を沸かして蒸気を動力にしようとしてる機械職人がいるって聞いたことがある。できると思うか?」
「分かりません。時計は、錘が動力源なので」
鉱夫が入ってきて、ブラウンリーさんに挨拶し、〈霧〉をバケツに入れて蓋をして、荷車に積み込む。ブラウンリーさんは鉱夫に何か指示をしてから、わたしと一緒に坑道を出た。
翌日から、整備の仕事が始まった。とは言っても、やっていることは掃除だ。機械の間に溜まっている埃を拭き取り、油をさす。汚れが酷いときは、油で洗い流す。手が届きにくい場所にある部品は、取り外して掃除してから、もとに戻す。機械全体の構造と、詳細なしくみが分かってきた。掃除は整備の基本だ、と親方がよく言っていた。
ブラウンリーさんは、ときどき調整の指示をした。
「このシリンダーの位置を、少し高くしておいてくれ。ピストンが底まで届くように」
「つまり圧力を上げたい、と」
機械を止めて安全を確認して、シリンダーの位置を調整する。その間は動力が止まるので、破砕場の工員に文句を言われることもある。仕方なく、時間をずらして夜に調整することになって面倒だ。
わたしは、シリンダーに工作をして側面に圧力調整ネジをつけた。機械を止めずに圧力を調整できる。何日かかけて、すべてのシリンダーに同じ細工をした。
「アリス、君はすごいな」
ブラウンリーさんは、シリンダーの圧力を上げる調整をしながら言った。
「そういえば、なんで、圧力を変えるんですか?」
「なんで、か」
「すみません」
「いや、大事な質問だ」
ブラウンリーさんはシリンダーから顔を上げて、作業用エプロンを脱ぎながら、隣に立っているわたしに向き直る。
「〈霧〉はだんだん軽くなって、反発が弱くなる。だから圧力を高くして反発を強める」
「でも軽くなってない〈霧〉のシリンダーも調整してますよね」
「よく見ているな。〈霧〉の重さ、圧力、サイクルの組み合わせによって、取り出せる動力が変わるんだ」
「最適な組み合わせは分かっているんですか」
「いや、分からん。毎日少しずつ条件を変えて試している」
ブラウンリーさんは、引き出しから紙の束を取り出して、見せてくれた。これまでに試した、重さ、圧力、サイクルの組み合わせと、その結果がペンで書き込まれている。
「アリス、最適な組み合わせの調査を頼みたい」
「そんな、よく分かりませんよ」
「だから組み合わせを試すんだよ」
変動する要素がいくつかあって、最適な組み合わせを見つけたい。そんなときは、一つずつ変更しながら観察する。と、親方に教えられた。
振子が正確なサイクルで動くからこそ、時計が正確に動く。そのための最適な組み合わせを見つける実験をしたことがある。振子の長さ、重さ、振れる角度が変動する要素で、正確なサイクルを見つけたい。
まず、長さと重さを固定して、角度を少しずつ変えてくと、角度が大きいほどサイクルが長くなる事がわかる。けれど、影響は非常に小さかった。次に、重さを変えてみたけれど、サイクルには影響がなかった。最後に、いろんな長さを試してみたところ、これが一番サイクルに影響を与えることが分かった。
次に、効率よく動力を取り出せる組み合わせを、わたしは探し続けた。その結果、予想外に長いシャフトが必要だと分かる。〈霧〉が収縮するときにシリンダー内にはほとんど空間がないくらいだ。つまり〈霧〉は極小まで収縮した後で、ふたたびシリンダーいっぱいまで膨張するのだ。このとき、一番大きな動力を得られる。
「これは、すごい! 実に素晴らしい!」
ブラウンリーさんが大きな声を出すのを、初めて聞いた。
「アリス、これで〈霧〉をしょっちゅう採りに行かなくていいんだ。いや、違うぞ。設備を増やせば、もっとたくさんの動力を売れるじゃないか。別の破砕場がいいかな? いや綿織物の作業場に売れるかも知れないぞ。これは大革命になるかも知れない」
ずっとひとりで話している姿を見るのも、初めてだ。
「あの……なんで〈霧〉は膨張と収縮を繰り返すんですか?」
「は?」
ブラウンリーさんは、こちらを見たまま固まっている。あごひげを触っていた手も止まっている。シャツの胸元が膨らんだりしぼんだりしているので、息はしているようだ。
「なんで〈霧〉は膨張と収縮を繰り返すんですか。そもそも」
「知らん。そんなこと聞いてどうする」
「しくみが分かると、いろいろ役に立つと思うんです」
「それじゃあ金儲けにならんだろ。動力効率のよい条件が分かれば十分だ」
「でも、親方は……」
「あのなぁ」
ブラウンリーは眉間に皺をよせて、ため息をつく。腕を組んで、ほんの少しのけぞる。
「あのじいさんの腕はいいが、金回りがよくなかっただろ? 余計なことをやってるからだよ」
そうだった。だから家を出たんだ。
「まあ好きにしろ」
ブラウンリーさんは、いつものグレーの上着をはおりながら言う。
「君の腕が確かなのは分かった。これからは毎週、三シリングを渡す」
「え、今の倍ですよ」
「計算くらいできる。手を抜かずに〈霧〉の調整をやってくれれば、文句はない。頼んだぞ」
黒い帽子をかぶって、小屋を出ていった。
図書館でブラウンリーさんと出会ってから、商人や職人の貧富の差が見えるようなった。服や食べるものが違うことにも気づいた。いつも行かないベーカリーを覗いてみると、驚くような高値でパンが売られていた。わたしは自分が貧しいのだと初めて知ったのだ。
親方にもっと儲かる仕事はないのかなと話してみたが、金儲けには頓着していないと分かっただけだ。
ふたたび図書館でブラウンリーさんを見かけたとき、あなたのところで働くといくら儲かるのか、と尋ねた。その金額を聞いて、わたしは親方の家を出たのだ。明け方、置き手紙をして、静かに。
〈霧〉の調査を始めてから一ヶ月くらい経っても、大した知見を得ることがなく飽き始めていた。
その日は、めっき加工した部品の表面を確認する作業を、頼まれた。棚で埃をかぶっていた顕微鏡を引っ張り出し、窓際の明るいところで観察して、スケッチしたものをブラウンリーさんに手渡す。
片付ける前に、〈霧〉を顕微鏡から覗いてみると、奥のほうがうっすらと光っているように見えた。日光が反射しているだけかも知れない。窓から離れて、もう一度観察すると、光源が〈霧〉の内部で点在しているようだ。別のシリンダーの〈霧〉を観察したところ、こちらは光っていない。何が違うのだろうか。
その後もいくつかのシリンダーから〈霧〉を取り出して、観察を続けていった。どうも収縮中の〈霧〉だけが光っているようだ。
「これを使うといい」
ブラウンリーさんが、小さな箱を手渡してくれた。中には手のひらに乗るくらいの、薄い透明な板が何枚も入っている。
「雲母だ。それを使えば見えるんじゃないか。一箱で一シリングだ」
「お金とるんですか?」
「ロンドンまで買い出しに行くより安い」
雲母を一枚敷く。その上に指先くらいの〈霧〉を乗せる。それからもう一枚の雲母を乗せて軽く押さえると、〈霧〉が薄く延びる。
顕微鏡を覗くと、たくさんの小さな光源が渦状に集まっている。しかも、そういう渦が〈霧〉のなかに点在している。夜空の天の川が渦状にぎっしり集まったものが、手元の〈霧〉の中にあるような錯覚に陥る。
〈霧〉によって光る渦が多かったり、少なかったりする。渦を構成する小さな光源は、赤かったり、白かったりする。
ブラウンリーさんのレンズセットでは、最大でも二〇〇倍率だ。微小な光源は、単なる光る点にしか見えない。
わたしは町の眼鏡屋を訪ねて、倍率の高いレンズを依頼した。眼鏡屋は、わたしが親方の家を出たことを知っていて、説教を始めた。
「黙ってレンズを作ってくれるなら、きちんと支払います。作れないなら、他をあたります」
と言うと、眼鏡屋は黙ってうなずいた。
五〇〇倍のレンズを使うと、個々の光は点ではなく小さな球体のように見える。だが、球体の表面の様子までは見えない。それでもわたしは、〈霧〉の中の光る渦を覗くことをやめなかった。ただ眺めているだけで美しい。
いくつもの渦が重なって見える。〈霧〉は薄っぺらく雲母の間に挟んであるのだけれど、その薄さ方向に複数の渦が重なっているようだった。
「ああもう、見えにくいなぁ」
わたしは雲母をどけて、陶芸家が作りたての粘土を引き延ばすように、〈霧〉を水平方向に引き延ばした。渦の位置がずれて見やすくなるだろうと期待して、顕微鏡を覗いた。
位置がずれただけではなく、ひとつひとつの光源が、より大きく、よりはっきりと見えた。ある光源はオレンジのような球体で、表面は燃える炎に包まれていた。別の光源は青白く光る靄だった。
倍率が上がっている。引き伸ばされた〈霧〉の表面から中を覗くと、倍率が上がるのだ。
なんでだろう?
親方は、こんなときどう考えてたっけ。そうだ、逆に考えるんだ。どうして特定の部品が壊れやすいのか分からないとき、逆に、どうして他の部品は壊れにくいのか考える。それで答えは出ないけど、観察するべきことのヒントになる。そんなことを言っていた。
表面を引き伸ばさない〈霧〉を覗くと、なんで倍率が小さいのだろう。もっと縮めたらどうなるのか。わたしは、平らな布を手繰り寄せて皺をつくるように、〈霧〉の表面を寄せた。顕微鏡を見ると、複数の光源がより小さく見える。拡大率が下がったのだ。
何か似たようなものがあった気がする。なんだっけ。窓の外をぼんやりと眺める。ガラス窓の右端の部分が歪んでいて、その向こうにある木の幹が、ぐにゃりと曲がって見える。光が歪んで入ってくるからだ。
ああ、これかも知れない。
〈霧〉の表面を延ばしたり縮めたりすると、〈霧〉の中から外に出てくる光が歪むのかも知れない。引き伸ばすと光が外側に歪む、つまり膨らんだガラスみたいな効果があるに違いない。もちろん、これはまだ仮説だ。忘れないように、わたしは書き記しておく。
拡大率を自在に変えられるようになって、光源の周りを発光しない石が回っていることが分かった。石の大きさや個数は、一個のときもあるし、何十個も見つかることがあった。回転する石を持たない光源もあった。
異端論者たちの言う、地動説世界のようだ。太陽が中心にあり、その周りを惑星――この地上も惑星の表面にあるという!――が回っている。彼らは天空ではなく〈霧〉を観察したのだろうか。あるいは〈霧〉が天空を模しているのだろうか。だとしたら地動説が正しい理論なのか。
「何をぼんやりしてる」
ブラウンリーさんが、小屋に入ってきた。
「〈霧〉の中は世界の縮図ですよ」
「ああ、そうか」
「すごいですよね! 〈霧〉の中には、天体がいくつもあるんですよ」
「それは顧客に価値を提供するのか?」
「え? 価値……ですか」
「儲かるのかってことだ。顧客が喜んで対価を支払うように、価値を提供する。それこそが顧客第一主義だよ」
「誰の言葉ですか」
「私の言葉だ」
ブラウンリーさんの言うとおり、顧客第一主義によって儲けが出ているのだとは思う。それでも〈霧〉の中身が気になる。大事なことを見逃しているかも知れない、というおそれがあった。すぐに答えが出なくてもいいから、疑問を持ち続けること、それがより深く機械を理解する助けになる、と親方に教えられた。
ありがたいことに〈霧〉の調整さえすれば文句はない、とブラウンリーさんは言ってる。仕事の合間に観察したっていいのだ。
わたしは、いくつかのシリンダーから〈霧〉のサンプルを採取して保存した。そして継続的に観察することにした。わたしは、観察を二種類に分けた。ひとつは効率化のため、もうひとつは理解のため。
まず効率化のための観察。まだまだ効率には改善の余地がある。膨張圧縮サイクルを意図的に速めて、中の様子を観察した。別のサンプルは膨張圧縮の圧力を意図的に大きくして、中の様子を観察した。圧力やサイクルと効率との関係については、目立った発見はなかった。けれど最適〈霧〉は収縮するときに熱を発することも分かってきた。そこで正確な温度変化を知るため、断熱材のおがくずの中に配置した瓶に〈霧〉入れておいた。
それからゆっくりと理解のための観察を始めた。〈霧〉の中で目立つのは小さな光源だけれど、色、球体か靄か程度の違いだけだ。やがて光る球体の周囲を回っている石を観察するようになる。こちらは色、形状、とくに表面の様子にバリエーションがあった。なめらかで茶色い石、でこぼこした表面の石、ガスのようなものに覆われて中が見えない石、表面が液体で覆われている石、凸状の表面から火が噴き出している石。
わたしは〈霧〉をさらに延ばして拡大率を上げると、石の表面は空想の世界のようだった。あるいは、教会の壁や聖書の挿絵のような風景だ。延々と続く沼、乾いた荒地、一面の霧――わたしたちが夜明けに遭遇するほうの霧――、大海原。わたしは、毎晩遅くまで、石の表面を探検しつづけた。
その夜、観察した石の表面は、濃い緑で覆われていた。草原を思わせる表面のあっちこっちを見ていくと、ときどき液体が溜まっていて、池のようだ。この小屋から坑道に続く風景と似ている。
池の向こうで何かが動いた。わたしはそっと〈霧〉のサンプルを動かして視点を移動する。ぼやけてよく見えない。わたしは焦点を調整してから、顕微鏡を覗き込む。
三匹のトカゲがいた。
わたしは顕微鏡から目を離す。夜ふかしの観察は、すでに何週間も続いている。目をこすってから、顕微鏡を覗いた。三匹のトカゲがいた。あるいは、そういう形状の表面かも知れない。わたしは目を凝らして、見つめる。トカゲはゆっくりと歩く。
小屋の外に出て、水桶に溜まった水で顔を洗った。目を洗う。見上げると夜空がある。〈霧〉の中を覗いた風景と似ている。小屋に戻って、もう一度、顕微鏡を覗くと、三匹のトカゲはつつき合いをしている。
わたしは夜明けまで見続けた。
その日を境に、シリンダーの調整もそこそこに〈霧〉を片っ端から観察していった。〈霧〉の中には無数の石が浮いている。だから、ほんとうに全部の石の、すべての表面を観察したかと問われると、自信がない。それでもかなりの数の石を観察し続けた。
最初に発見した三匹のトカゲは、まだ〈霧〉の中で生きている。でも、他からは見つからない。存在しない証明にはならないけれど、稀有な存在であることは間違いない。
「アリス、この容器には何が入ってる? えらく熱いぞ」
ブラウンリーさんに声をかけられたとき、わたしは寝落ちしそうになりながら歯車を掃除していた。デスクのほうに歩いていくと、ブラウンリーさんは金属製の丸みを帯びた容器を指差している。温度変化を記録するため、高圧縮の〈霧〉が入っている瓶だ。
「効率の観察用です」
「ものすごく熱い。火が出ないだろうな」
手を近づけただけで、高温なのが分かる。作業用の厚手の手袋をして蓋をあけ、そっと傾ける。何も出てこない。
「なんだ、空っぽなのか」
「〈霧〉を入れてたのに」
中を覗き込もうとすると、ブラウンリーさんが腕を押さえた。
「気をつけろ。容器は熱いぞ」
わたしは覗きこむのをやめて、容器を逆さにして、とんとんと底を叩いた。〈霧〉は出てこず、小麦粉のひと粒くらいのものが落ちてきた。ゴミだろうか。ピンセットでつまんで、粒のようなものを見る。
わたしとブラウンリーさんが、黙ってピンセットの先を見ていると、粒が徐々に大きくなってきた。
「それ、もしかして」
「はい。たぶん〈霧〉ですね」
「そんなに小さくなるのか?」
「わたしも知りませんでした」
引き出しから雲母を取り出している間に、小麦粉の粒は、顆粒くらいの大きさになっていた。それを雲母に挟んで、顕微鏡を覗く。ぼんやりとした明るい雲のようなものが見え、それが大きくなっている。やがて雲のなかでも特に明るい部分が集まって、火球になった。
わたしは観察記録の紙束をめくっていく。この〈霧〉を最後に観察したのは、いつだったか。そう、これだ。スケッチによると、前回は渦状の光源が散らばっていたことが分かる。なのに、この微小な〈霧〉の中には、今やぼんやりした光が広がっているだけだ。
雲母から〈霧〉を取り出そうとしたら、まだ、熱くて手を引っ込めてしまった。
「火傷か? すぐに冷やせ」
ブラウンリーさんに促されて、外の水桶に指を突っ込む。指先がまだ熱い。忘れかけていた記憶が蘇る。
幼いころの、あの夜、両親に叩き起こされたとき、すでに家の中は煙だらけで何も見えなかった。小さい家の中で、わたしは親とはぐれてしまい、とにかく這い回って火から逃げた気がする。腕や脚の皮膚が焼けた。火が回ってこない場所に隠れて、ずっと咳き込んで泣いていた。
火がおさまると、知らない大人が何人かやってきて助けてくれた。わたしは煮炊きに使う炉の中にいたらしい。体が小さかったから逃げ込めたのだと思う。
焼畑の跡でくすぶっていた小さな火が、村まで延焼したという。両親は亡くなった。
教会ではいつも泣いていたけれど、親方に引き取られてからは、毎日、工房の掃除や、機械いじりの手伝いが忙しくなった。おかげで泣いてる場合ではなくなり、火を怖がることも忘れていた。
熱くて小さな〈霧〉からは、それまで存在したはずの光や石がなくなった。代わりに別の靄のようなものがあり、その中で新たな火球が生まれていたのだ。極小まで圧縮された〈霧〉は高温になり、中身は焼けてしまって、最初からやりなおしになってしまう。
もしトカゲが住んでいる〈霧〉を極小圧縮したら、どうなるのだろう。光も石もすべて焼かれてしまうのだから、トカゲも焼かれてしまうだろう。わたしが住んでいた村のように。そして〈霧〉の中には、高温から隠れる場所はなさそうだ。
これまでの実験で、極小圧縮するほど動力の効率がいいことが分かっている。だからわたしは、できるだけ〈霧〉が小さくなるように、毎日シリンダーを調整している。
今のところ、トカゲが見つかったサンプルはひとつだけだ。でも、見つけられないことは、存在しないことの証明にはならない。もしかしたら、わたしは知らない間にトカゲを焼き殺しているのかも知れず、その対価としてブラウンリーさんから銀貨を受け取っているのだ。
「ブラウンリーさん、お願いがあります」
わたしは、極小圧縮のこと、〈霧〉の中身が作り直されること、トカゲのことを話した。
「せめて緩やかに圧縮して、トカゲを生かしたいんです」
「ゆるやかに圧縮したら、どうなるって?」
「〈霧〉の中が作り直しになりません。光や石の配置もそのままです」
ブラウンリーさんは、顎ひげをなでながら、眉間に皺をよせる。
「そうじゃなくて、動力の効率」
「悪くなります」
頭を少し後ろにのけぞらせ、舌を出し、それからこちらに向き直る。
「だめだ、だめだ。これまでどおり調整するんだ」
ブラウンリーさんは、帽子をかぶり、小屋から出ていこうとしている。わたしは早足で追いかけて、ブラウンリーさんの正面に立つ。
「お願いします。毎週いただく銀貨が少なくなってもいいです。トカゲが――」
「だめだ」
言い終わらないうちに、止められた。
「アリス、君は勘違いしている。全体の儲けに対して、君に手渡している銀貨はごく僅かだ。もしも効率を大幅に落としてしまったら、儲けが大きく減る。君に支払っている銀貨を減らしたくらいでは、補填できないくらい大きな損失だ」
「ひとりじめですか?」
「おい。口のききかたに気をつけろ」
ブラウンリーさんの顔から、穏やかな表情が消える。
「いいか――。いいかい、アリス」
すぐにもとの表情に戻った。
「この小屋を作るのに、ずいぶんと費用がかかった。機械だって高かった。時間もかかった。〈霧〉が動力になると分かるまで、気が遠くなるほど実験を繰り返した。その間は、誰からも支払いを受けていない」
ブラウンリーさんは、目を細めて機械を眺めている。
「やっと元を取れるようになったんだ。アリス、君の機械職人としての能力は高く評価している。だからこそ、そこらへんの職人の稼ぎに比べて、何倍もの銀貨を渡してるんだ。私のこれまでの資金と時間の投下と、君の技能が合わさって、この小屋は成立している。分かるか?」
「はい」
「さらに支払いをしてくれる顧客がいて、初めて銀貨を渡せるんだ。私が顧客第一主義と言ってるのはそういうことだ。顧客が喜んで支払う価値を提供することを最優先するんだよ。それこそが、我々の価値なんだ。分かるか?」
「はい」
「君を失いたくない。君だって貧乏な生活に戻るのは嫌だろう?」
わたしは黙って考える。どうだろう。今なら自分の稼ぎでレンズを買える。あのパンに戻れるだろうか。床をじっと見つめていた。
わたしは銀貨を選んだ。
小屋の動力効率は維持され、新たなシリンダーを追加したことで動力の絶対値は大きくなり、顧客はよろこんでブラウンリーさんに支払いをしているようだ。わたしが受け取る銀貨も増えた。
小屋に入って掃除をしていると、歯車がギギギと軋むような音が聞こえてくる。わたしは、ひとつひとつ歯車に近寄って耳をすませる。
歯車の噛み合いが、ずれているようだ。油を差しても、まだ擦れている音がする。ピストンが熱を持ち、ロッド、シャフトへと熱が伝わって膨張し、その先の噛み合いも微妙にずれる。これまでは調整でだましだまし対応してきたけれど、限界かも知れない。後回しにしていたツケが回ってきた。
手を洗っていると、別の歯車が軋み始めた。油差しを持って近づこうとする。
ガタン
大きな音と振動。わたしは思わず目を閉じる。機械がガシャガシャと耳障りな音を立て始めた。
目を開くと、小屋の外につながる軸と、歯車の接合部が破断している。全体のシリンダーのうち半分くらいが、軸から外れてしまった。ピストンが動き続け、近くの部品とぶつかりながらガシャガシャと音を立てている。わたしは急いでピストンを止めにいく。触ろうとすると、暴れるピストンロッドが手に当たりそうになる。ロッドを避けながら、ひとつずつ作業をしていくしかない。
ブラウンリーさんが小屋に飛び込んできた。
「ブラウンリーさん! 軸が!」
すぐに状況を飲み込んだブラウンリーさんも、ピストンを止め始める。すべてのシリンダーを停止したときには、ふたりとも汗だくになっていた。
「すみませんでした」
「まず点検だ」
ブラウンリーさんは左のほうから、わたしは右のほうから順番に点検していく。
「アリスに任せっぱなしだったから、よく分からない歯車や部品が増えてるな」
ブラウンリーさんは時間をかけながら、ゆっくり点検していく。わたしのほうが速いので多めに点検した。
「シリンダーは異常ありませんでした」
「じゃあダブルチェックだ。アリスは左のほうから頼む、私は右ほうから見ていく」
「大丈夫ですよ、ちゃんと見ました」
疑われているのだろうか。
「分かっている。だが再稼働してぶっ壊れるより、今のうちに時間をかけたほうがいい」
「でも、もう見ました。それより破断した軸が気になります」
「もちろん、軸は見る。修理か交換が必要だ」
「じゃあ先に見ましょう」
ブラウンリーさんが、わたしの顔をじっと見る。わたしの後ろにあるシリンダーを見る。また、わたしを見る。
「何を隠してる?」
わたしを押しのけて、大股でシリンダーのほうに近づいていく。
ああ、見つかる。
ブラウンリーさんが、一番右側のシリンダーの前に立ち止まる。ピストンの棒の先にはシャフトがあり、その先には何枚もの歯車がついている。ただし、このシリンダーに限っては――
「この部品はなんだ?」
ブラウンリーさんが、手でゆっくりとピストンを押し下げる。シャフトが周り、歯車が動き、噛み合った歯車が回る。そして、最後までピストンを押し切る前に、コトっと静かな音がする。それ以上ピストンは動かない。
「これでは極小圧縮できない」
ブラウンリーさんがピストンを何往復かさせた。
「脱進機か? 時計の振子が、一定の振幅になるように制限する機構だな。だがあれは、歯車にぶつかるたびに音がするだろう?」
周辺の部品を探り、脱進機の軸をたどっていく。そこには強く押し当てた木材がある。
「摩擦負荷で歯車の音を抑えてるのか。最初に教えたやつだ」
屈んでいたブラウンリーさんは立ち上がり、こちらに歩いてくる。
「このシリンダーは稼働しているように見えるが、実際には、動力をほとんど生み出していない。その分、他のシリンダーから動力を取り出したのか?」
「はい」
「どうやって?」
「安全率を超えたサイクルになってます」
「それで動力の帳尻を合わせた、と。おかげで歯車や軸に負荷がかかって破断したというわけだ」
ブラウンリーさんは、もう一度、細工をしたシリンダーのところまで歩いていき、コンコンとノックをした。
「トカゲが入っているのか?」
「分かりません。でも、そのシリンダーから取り出した〈霧〉にトカゲが入っていました。だから、もしかしたら、他にもいるかも知れません」
ふうっと、ブラウンリーさんはため息をついて、窓の外を見る。破砕場の労働者たちが、座って談笑している。動力が止まっているから休んでいるのだ。もう一度ため息をつき、ゆっくりとこちらを向く。
「アリス! ふざけんなよ! 誰のおかげで稼げてるか分かってんのか!」
胸ぐらを掴まれたわたしは、ブラウンリーさんと目を合わせることになる。
「金貨や銀貨は湧いてこねぇんだよ。顧客が『金を払ってでも欲しい』ものを提供した対価なんだよ。言っただろ!? それをなんだ? 誰も欲しがらないトカゲを大事にしてるわけだ。おまけに機械を壊しやがって。いいか、顧客はこの私だ! 私が欲しがるものを出すから、銀貨をくれてやってんだよ! ふざけんなよ!」
手を離されたわたしは、よろけて尻もちをつく。
ブラウンリーさんが、肩で息をしている。顔が赤い。
「顧客第一主義だと言っただろう」
ゆっくり話そうとしているが、声が震えている。
「顧客が支払いたくなるようなことを、やるんだ。そうやって稼いできた。言ったよな」
「はい……でも顧客がおかしなことを言ってたら……」
「顧客は常に正しい。支払ってくれるんなら、それは顧客なんだ。私だって嫌々やった仕事だってある。呆けた婦人に金めっきの首輪を売ったこともある。領主が開墾したいって言うから、焼畑を手伝ったこともある」
焼畑?
「トカゲが焼けるくらい、気にしてる場合じゃないんだよ」
トカゲが焼けるくらい? 焼畑で、わたしの村が焼かれたのに? 焼けるくらい?
「わたしの村を焼いたのは、ブラウンリーさんなの?」
「何の話だ? 村を焼いたりしない。森を焼いただけだ」
「わたしの村は焼けてしまって、わたしだけが生き残った。ブラウンリーさんだったの?」
「焼畑の話をしているんだ。そのときにトカゲが焼けることもあるって、たとえだよ」
こういう連中が村を焼いたのか。誰かの金儲けのために、たまたまそこにいたというだけで、焼かれるのは不当だ。わたしの家族も、村の人たちも、トカゲも。犠牲ですらない。ただの巻き添えだ。
「積極的に恨みを買いたいわけじゃない。でも、顧客第一主義ってことは、他はすべて二番目以降ってことだ」
違う。顧客第一なんかじゃない。儲けが第一なんだ。
そんな奴のために、わたしは毎日働いて、機械を整備してきた。わたしを育ててくれた親方からも去ってきてしまった。それはつまり――
「アリス。私は、君にとって、雇い主であると同時に顧客でもあるんだぞ」
他の何よりも、こいつを最優先してきたってことだ。
「とにかく。今は修理だ」
わたしは工具棚まで歩いていき、一番長い工具を手に取りって機械のところに戻る。
長い工具をクリケットのバットのように振りかぶる。
そして振り下ろす。
大きな音を立てて、シャフトが折れた。
「おい! 何をしてる!」
ブラウンリーさんが近寄ってくる。
わたしは工具を振り回す。
ブラウンリーさんが後ずさる。
「こんなものが!」
次のシャフトを折る。
「あるから!」
歯車を潰す。
「いけないんだ!」
外れた歯車が、ゴロゴロと床を転がっていく。
工具を振り下ろし続けていると、後ろから羽交い締めにされた。
背中側に体重をかけて床を蹴り、そのまま後ろに倒れる。
立ち上がって、棚の化学器具を投げつける。
ブラウンリーさんは、腕で頭をかばって丸くなる。
わたしはシリンダーの蓋を開け、中の〈霧〉を窓の外に放り出す。となりのシリンダーも、そのとなりのシリンダーも。地面に落ちた〈霧〉は、のっそりと水たまりのように広がっていく。
動力を外に伝える大きな軸に、何度も何度も工具を振り下ろす。やがて軸受が欠け、軸も大きく曲がった。
テーブルの上に置いてある、トカゲが入った〈霧〉のサンプルを、フラスコに入れてしっかりと蓋をする。
「アリス! クビだ!」
床から声が聞こえる。
ということは、雇い主でもないし、顧客でもない。フラスコを抱えて小屋のドアを開け、町に向かって一目散に走った。
日が沈んだ後の暗い道には、誰の姿も見えない。わたしは、親方の工房の前に立っている。ノックをしようとして思いとどまる、ということを何十回も繰り返した。入れてもらえないだろうな、怒ってるだろうな。でも謝らないと。
コンコンコン
ノックをすると、ゴソゴソと近づいてくる音がして、ギギギと軋みながらドアが開いた。
「ごめんなさい」
親方は黙ってこちらを見ている。
「急にいなくなって、ごめんなさい。心配をかけたと思います。ごめんなさい。お世話になったのに」
親方は黙って迎え入れてくれた。きっと言いたいことはあっただろうし、怒っていただろうけれど。
〈霧〉を見せたのは何日か経ってからだ。小さなシリンダーとピストンを用意するのに時間が必要だったからだ。
「〈霧〉を、こうやってシリンダーに入れて、それでピストンで蓋をする。で、押す。そしたら、ほら、行ったり来たりするでしょ」
ピストンが動き続ける。
親方の質問に、わたしは分かる範囲で答えた。親方はしばらくピストンを押したり引いたり、中を覗いたり、〈霧〉を取り出して秤にかけたりしていたが、やがて椅子に座り直す。そして、不思議なもんだとつぶやいた。
「ねぇ。錘と振子の代わりに、〈霧〉を使って時計を作れないかな?」
ときどき考えていたアイデアだった。錘や振子のせいで時計はどうしても大きくなってしまう。でも〈霧〉をうまく使えば、もっと小さくて正確な時計を作れるのではないか。
できるかも知れないけど、詳細な実験や、実用化のための設計や検証に時間がかかるだろう、と親方は顔をしかめた。だいたい、誰からも欲しいと言われていない、と首をかしげる。
「これまでどおり、振子時計の仕事で稼ごう。その儲けの一部で、〈霧〉時計に必要な部品を買う。どう?」
親方はそんな余裕ができるといいな、と笑った。
余裕はできた。急ぎの仕事を依頼されたら、多めの料金を払ってもらう。組合で決まったレベル以上の要望があれば、多めの料金を払ってもらう。そうしたら、そこそこ儲かるようになった。顧客が喜んで支払いたい、という価値を提供するからだ。何でもかんでも要望に応えていたころは大変だったが、今では顧客第二くらいの手厚さに落ち着いている。
昨日は、親方の葬儀だった。〈霧〉時計はもうすぐ実用化できそうだったのだけれど、〈霧〉が徐々に小さくなるのを、調整するのが難しかったようだ。親方の棺桶には実験に使っていたシリンダーを入れた。
「元気にしてる?」
わたしは窓際のフラスコに話しかける。奥の棚から顕微鏡を引っ張り出し、フラスコから〈霧〉を取り出して雲母にはさむ。
顕微鏡を覗くが、よく見えない。〈霧〉の表面を延ばしてから、もう一度覗き込むと、広がる荒地が見えた。雲母を少しずつずらしていく。三匹のトカゲが、つつき合いをしていた。
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