蟻率アントレシオ・オーバーシュート

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梗 概

蟻率アントレシオ・オーバーシュート

蟻率アントレシオが振り切れて、本当に良かった。半分以上蟻だけど。全然幸せ。

「見ないでよ」17歳のマツリは蟻率の計測結果をクラスメイトのシンヤから隠す。11%。上がっているじゃんと彼は茶化す。みんなは20%を越えて、触角とフェロモンで会話しているのに。マツリだけは一向に増えない。一番蟻率の高いサキが通りかかる。蜜で張る胸、腹節の括れ、長い触角。全てが羨ましい。

蟻率、体液に含まれる蟻由来の化学成分の割合。30%を目指すように言われ、50%がヒトとしての臨界値だと言われている。10%未満のままだと、マツリの父のように、消化不能な蟻の蜜が体内に蓄積して死へと導かれる。父の写真の前で、マツリは蟻化が遅い体質を呪った。

蜜を巻き散らかす新種の蟻が世界中を埋め尽くして、ヒトは蟻化せざるを得なくなった。けれど、若者はみんな、蟻化を楽しんでいた。流行りのフェロスタグラム、触角でのグルーミング。フェロモンを知覚できず、疎外感に苦しむマツリは促進剤を盗んで、毎日倍量を飲み干すが、蟻率は微小にしか増えない。

「このままじゃ早死するし、就職にも困る。最近は仕事の指示をフェロモンでやるんだから」
教師にそう告げられた放課後、カフェで憂鬱とするマツリに、サキが声をかける。
「4ヶ月間、ずっとこう。40%から進まないの。命令フェロモン、早く出したいのに」
端末で蟻化の進行を見せ合う。ずっと低空飛行のマツリ。41%に漸近し、急に進まなくなったサキの蟻率。その日から、ふたりはよく話すようになった。

マツリはサキと協力して新薬を入手した。やっと微増。それでも、蟻化はサキの方が速くて羨ましい。45%、50%。サキは命令フェロモンを分泌可能になり、フェロスタグラムで大人気に。それを見ながら眠るマツリ。14%、夜中、蠢く内臓の感触。34%。急速な上昇。朝、65%。臨界値を越えていた。

腹に節、触角の張り、胸と尻にたまる蜜。寝起きの母が悲鳴を上げる。学校、クラスメイトのフェロモンを初めて読み取る。サキの金魚の糞だと蔑まれていた。身体の奥に感じる衝動に身を任せ、命令フェロモンでナオキを呼び出し性交した。子宮の脇に生まれた精子保存庫に、こんなのの精子でも残しておければいつか役に立つだろうと思った。身体の変化の意味を、本能が彼女に告げていた。

「蟻になりすぎだよ。交尾期間しかセックスできなくなってるよ。精子、貯めておけるけど」マツリの様子を見てサキは微笑む。マツリはサキの唇を奪い。口移しで促進剤を与える。サキも65%。おそろいだねと笑って、命令フェロモンを駆使しながら、いい男を探して回った。貯め込んで、気が向いたら子を産めばいい。

命令フェロモンでクラスメイトたちに終わりなき行進をさせながら、蜜の中で男と交わるふたり。ヒトを苦しめる蜜は、蟻にとっては戯れの道具だ。

遠くから、蟻化を進めすぎた先駆者たちがふたりを見守っている。

文字数:1200

内容に関するアピール

1. 課題に際して考えたこと
・増加の度合いとその比較(サキ:速いが途中で停滞、マツリ:ほぼ増加しない)で、キャラクターの感情を揺さぶれないか。ヒトは増え方の差異を気にしてしまう生き物だから。
・増加することの「良さ」の感覚が作中と読者の側で異なること。
 ・生きるために、蟻に近づかないと行けないとしたら?良い…のか?
・増加の臨界点が存在すること。相転移が物語を駆動すること。
・増加の過程が視覚的に(文字で読んでも)わかりやすいこと、感情もそれに従って動くこと。
 ・→「変身」を取り扱おう。

2. 着想
世界中に分布する人間が(ある意味)戯れに出しているプラスティックゴミが海洋生物の胃に入り込んでいるのと同じように、世界中に分布する蟻の分泌物が人間を困らせるとしたら?と考えました。

3. なぜ蟻?
社会性があり、生態が面白い。
・フェロモンに従うと無意識で行動できる(帰巣など)
・フェロモンで遠隔コミュニケーションする。個体識別をする(触覚に記憶が宿る!)
・雄も生殖できるが女王アリに制御されている。女王アリは雄の精子を貯蔵できる(好きな時に産卵できる)

参考資料:
・プラスチックスープの海
・蟻という生き物 (http://www.antroom.jp/cms/page/ant004/)

文字数:533

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蟻率アントレシオ・オーバーシュート

1

 お父さん。ごめんね。人類わたしたちは弱いね。
 みんなから置いてきぼりにされるのが嫌で悔しかったし、遺伝子なんて関係ないってことを証明したくて、わたし、教室の他の子の机から、薬を盗んじゃった。
 お父さんに似た一重まぶたの目元と鼻筋を人差し指でなぞる。温く濡れたままの前髪から垂れる丸っこい水滴。お風呂場の真っ直ぐな鏡は、鮮明に残酷に、今のわたしの姿を偽りなく映し出している。
 小さかった頃は、素朴に疑問に思ってたよ。周りの大人たちとか動画サイトの有名人を見て、どうしてお父さんには、触角もないし、身体に蜜を貯めて膨らませることができないの?って。
 でもね、今ならわかるよ。お父さんの辛さが。
 湯船が優しくわたしを包む。膝を抱いて。ままならない身体を恨めしく思う。明後日がくるのが、本当に憂鬱だ。
 だって明後日は、蟻率アントレシオの定期計測の結果がくるから。
 わたしが全然蟻に近づけていないという事実が、突きつけられるから。
 クラスメイトのみんなと同じように、触角が生えてきてくれないと困るのに。濡れてペタッと額に貼り付く前髪の生え際に、そろそろ芽生えの兆しが見えてくれないと困るのに。一向にその気配はない。
 強く身体を抱く。膝と上半身の間に収まってしまってる乳房は平たすぎず、大きすぎることもなく、お腹についた無駄な肉と同じ脂肪にしては、丁度いい具合の大きさだ。たまに食べすぎて顔がむくむけど、お腹やお尻は、まあ普通くらいの大きさだろう。
 でもそれじゃあ、だめ。
 クラスの蟻率の高い子達は、みんな蟻に近づいていて、蟻特有の腹のくびれも、お尻や胸の膨らみも手に入れて、制服や下着もどんどんサイズを変えているのに。
 わたしだけは、元のまま。
 はやく、みんなみたいに、蟻になりたい。
 お父さんの気持ちは分かるけど、お父さんみたいに死ぬのは嫌だ。
 蟻率の定期計測の結果なんて、見たくない。
 身体の感じで、全然進んでないのは明らかなんだから。
 今日、家の近くで赤蜜蟻アカミツアリを見た。生物の教科書に載っている通りの見た目。からだは昆虫らしくきれいに三つにわかれていて、むねとはらの間の腹柄節ふくへいせつはとても細く、若い洋ナシの様に小さく膨らみながらもくびれていてセクシーだ。女の子たちも男子たちも蟻率が上がるに伴って身体の構造が蟻化して、ウェストが握りこぶしくらいにくびれていく。ハチからの進化の途上で、翅を捨てて、蟻特有の腹柄節を手に入れたらしい。巣にはきっと、一匹の一番大きな女王がいて、働きアリたちを統治してる。
 わたしのウェストは、全然、腹柄節に近づいていない。普通体型の人間の女の子、そのまま。これじゃあ、働きアリにもなれない。
 地球の歴史に蟻が現れたのは一億五千万年も昔のことで、人類が現れたのは二十万年前だから、蟻のほうがものすごい先輩だ。餌探しから求愛、セックスまで、フェロモンを通じて沢山の社会的コミュニケーションをする。社会性のある生き物。過酷な環境にも適応して、とても長い時間を生き抜いてきた。
 一京匹以上の個体がいるから、数もわたしたちとは比べ物にならない。
 今から六十年前、二十一世紀の初頭、アメリカの都市部で赤蜜蟻の大量発生が確認された時には、人類には手遅れだった。小さな生き物は、あっという間に世界中に拡散した。
 赤蜜蟻が体内に作り出し、土壌のあちこちに撒き散らす蜜は、あらゆるところに蓄積した。植物の中にも、魚や牛とか、動物の中にも。
 それだけならいいけど、わたしたちにとっては毒だったのだ。鉛や水銀みたいな金属と同じで、消化されることなく身体に蓄積して、神経と生理作用を際限なく侵していく。
 疼き。痺れ。ふたつが混ざり合う鈍色の感触に襲われ、肝臓も膵臓も壊されて、脊髄はその力を失って、髪は全部抜け落ちて、やせ細って惨めに死ぬことになる。お父さんみたいに。
 赤蜜蟻の繁殖速度は圧倒的で、人類は数の暴力に屈したみたい。
 だから、わたしたちは、蟻にならないといけない。
 政府から支給される蟻化促進ピルを飲んで、中学の終わりくらいから蟻化をはじめる。蟻蜜を代謝できる身体になるためだ。心と身体が大人オトナになるのに合わせて、オトナにならないと生きていけない。
 わたしたちが生き延びれるか確かめるために、政府は蟻率を定期的に計測する。
 ふやけてきた身体を抱きしめる。もう少しの間だけ。
 蟻率、上がるかな。20%を超えられたら、触角が生えてくるはず。
 50%が、人の臨界値、それを超えると、ほとんど蟻になる。そこまで行くとまずいから、成人するまでに35%くらいになるように、蟻化促進剤は調整されている。
 盗んだ蟻化促進ピル。飲まないと。
 取り残されたく、ないから。

2

 来てほしくなかった蟻率計測の結果がやってきてしまった。学校で計測される蟻率は、わたしたちの身体から分泌される体液の化学組成を解析して、蟻由来の成分の割合とかから計算される。具体的にどんなフェロモンが分泌されているかは人によって異なるから、定期検査の結果はその詳細が事細かに記載されている。
 詳細なんて、蟻率がある程度高い子が気にするべきもので、悔しいけれどわたしには遠い世界の話だ。結果についてあれこれ話すのが好きなクラスメイトたちは、朝のホームルームで担任が配布した封筒を開けて、中身を見ながら話している。男子たちは特に、女の子を性的に誘惑すると言われているフェロモンの量について大声で話している。
 わたしは封筒を、ぐしゃぐしゃにしてカバンに押し込んだ。紙で結果を見ないでいても、計測結果は携帯端末の蟻率記録アプリに連携していて、手元で開かれるのを待ち続けてる。さっき、通知も飛んできた。
 せめて、伸び方だけは、少しでも上向いてくれるといいな。
 両手で包むようにして端末を隠しながら、わたしはアプリを立ち上げる。手が落とす影の中、弱いバックライトがスクリーンを白くする。
 三月、11.3%、
 六月、11.4%
 九月、11.5%。これが今の、わたしの蟻率。
 単調でごく僅かな変化。半年で、これだけという現実。
 11.5%。哀れなくらいに低い。中学一年生でも、これくらいの子はいる。
 落ち込んだ気持ちがわたしの中で黒くとぐろを巻く。
「なあ、マツリ。悪ぃ。数学の課題、写させてくんねえか?」
 最悪のタイミングで突然の呼びかけ。
 顔を上げるとシンヤがいた。中学からの友達。家も近所。毎日のバスケ部の練習の結果、シャープになった顔立ちと首元、筋肉で太くなった二の腕にどうしても目がいってしまう。中学の頃は顔はニキビだらけで汚くて、細い線から発される声は自信なさげだったのに。
 バスケ部では万年補欠らしいけど、腐ることなくムードメーカーとして頑張っているらしい。今日はなんだか浮ついた感じで、制服のネクタイがだらしなく緩んでいるし、声もなんだか、調子づいてる感じ。
 でも、憎めないやつ。誰にだって率直に向き合っちゃうやつ。
「いいけど、丸々写さないでね。又貸しも、いやだよ」
「しない。写したのバレないように工夫するわ」
 ノートを開いて、今度の課題のページを開いてシンヤに示す。シンヤはにっと笑って、大げさに顔の前で手を合わせて頭を下げた。
「なんか、楽しそうだけど。どしたの?」
「おれもそろそろ、フェロスタ、始められそうなんだよ。見ろよ。ほら」
 シンヤは嬉しそうに顔を緩ませて、額を指差す。童話に出てくる赤鬼の角みたいな可愛らしい突起が現れている。生まれかけの蟻の触角。フェロモンの世界への入り口で、生えていなければ知ることの出来ないフェロモンの言葉を解釈してくれる器官。
 男子の中では蟻率が上がるのが遅い方って言ってたシンヤにも、ついにその器官が生えてしまった。
「そう。フェロスタグラム。なんか、楽しいらしいね。流行りのお店とか、美味しいものとか、遊びに行ったのとか、みんなでシェアするんでしょ?」
「そうそう。フェロスタ。まだわかんねえけど。やばいっぽい。このちっちゃい奴でも、やれるからな」
「何が見えるの?」
「見えるってよりは、聞こえんだよね。いや、視えもするんだけど」
「そっか」
「マツリも、ちょっとだけどちゃんと上がってるじゃん。おれも、0.1しか進まなかったことあるよ」
 胸がつぶれる音が骨を伝って聞こえるかと思った。
 わたしは、シンヤに覗かれていた携帯端末を咄嗟に隠そうとしたけど、手が滑ったせいでそれは遠くに飛んでいってしまった。シンヤの性格、素直じゃなくて無神経の極みだ。そんな無神経なやつが拾ってくれた端末を奪い返すみたいに取り上げて、わたしは心の中にある恥じらいと軽蔑を全部叩きつけるつもりで見上げた。
「勝手に見ないでよ。ひどいよ」
「悪ぃ。見えちゃったんだ。でも、見た目で、分かるしさ」
「そういう問題じゃない。ノート、返して。貸さない」
「ごめんごめん。悪かったって。バスケの練習忙しくてさ、課題やべーんだわ。今度何かお返しするから。見ちゃったことも謝る。すまん」
 シンヤは廊下に逃げていった。
 怒っても、わたしの心が晴れるわけじゃない。
 クラスを見回す。標準通りの制服なのは、わたしくらいだ。
 蟻化が進むと身体の形が変わって、それに合わせて制服を調整しないといけない。触角が生えてくるくらいなら服は関係ないのだけれど、蟻特有の腹柄節がウェストのくびれになって現れるにつれて、その分の肉は内臓と一緒にお尻の方に移動して、お尻はアライグマのしっぽみたいに後ろに長く伸びていく。ウェストの肉は胸に流れる場合もあって、その場合は胸が膨らむ。男子の場合はお尻が長くなる人のが多い。
 慣れてくると身体の好きな所に蜜を貯めることができるから、女の子の間では、胸とかお尻にそれを寄せて膨らませて遊んでる。
 身体が膨らむのに合わせて、ブラウスもブレザーもサイズを徐々に上げないといけない。下の方が問題で、普通のスカートだと膨らんだお尻を隠すことなんてできないから、長いAラインのロングスカートやバルーンスカートに手を入れたものが流行っている。
 校則はとっくに時代遅れになっていて、羽目を外しすぎなければ、先生たちも何も言わない。結構、色も自由になってきてる。去年くらいまではグレー系の色が多かったのに、今は色とりどりだ。マスタードイエローだったり、ダークオレンジだったり。わたしも、好きなブルーグレー系の色にしてみようかと思った。
 夏休み前は蟻化も全然だった物静かな女の子四人組グループが、教室の端の方に集まっている。全員、わたしの肩から肘くらいまでのかわいらしい触角を生やしていて、突き合いながら小さく笑っている。時折、触角を別の誰かの口の所に持っていって、口から出した透明なジェルをベットリとつけて、お互いの顔を触ったりしている。友達同士のグルーミングだ。唾液とかではなく、雑菌を払ったりする清潔な化学物質を食道の脇で合成できるから、それでお互いに綺麗にしあっているのだ。それと同時に、ジェルの匂いにお互いの感覚や考え、覚えたことを載せて交換することもできるらしい。
 そういえば、あの子達、昔はもっとおしゃべりで甲高い声で漫画のキャラの話で盛り上がっていたけれど、最近はあんまり喧しくない。おそらく、フェロモンとグルーミングでコミュニケーションしているのだ。
 わたしに見えない、言葉で。
 わたしに聞こえない、言葉で。
 前の方で、一番に明るくて、お洒落な子たちのグループが集まっている。あの子達のスカートが一番にビビッドな色をしてる。クラスで一番蟻率が高いサキが、机に座って笑っている。わたしなんかが、サキなんて呼び捨てできる仲じゃない。ただ二言三言、話したことがあるだけ。大きなお尻を包む、鮮明なチェリーレッドのマキシスカート、それから、わたしの腕の付け根から指先くらいまでの長さのある触角は抜群に目立つ。触角の中程を飾っている幾何学モチーフのゴールドのアクセサリーが揺れて輝いて、すれ違う人の視線は必ず奪われる。垂れた一対の触角を起用に操って、携帯端末のスクリーンを手と合わせて四本で操作して凄い速さで文字を打っている。
 ふと思うと、教室は随分静かだ。
 わたしの知らない、フェロモンの言葉が溢れている。
 聞くこともできず、触ることもできない言葉が、私をおいて、そこらじゅうで絡み合ってささやかな日常や驚くような出来事の模様を作っている。
 昔作ったチャットもSNSも、もうほとんど音沙汰ない。わたしは写真を撮るのが得意で、昔はいいねとかコメントとか、通知が止まらないくらいリアクションをもらえたのに、今はもう、リアルじゃないからと言って、誰も見ない。
 教室の端、口数の少ない女子が、蟻化促進ピルを出しっぱなしにしていた。わたしは、わたしより先にその子が触角を手に入れたのが悔しくて、また促進ピルを盗んでしまった。 

3

 毎日、毎日、貯められていく灰白の小さなカプセル。わたしのお気に入りのロイヤルブルーのポーチの中に、均質な大きさで並んだ、蟻になるための小さな卵たち。
 先週は三錠ずつ。
 今週は四錠ずつで、来週はきっと五錠。
 前はわたしより蟻化が進んでいなかった子が、立派な触角を持っているのを見ると、こみ上げた悔しさがわたしをドロボウに駆り立てる。
 お母さんにまとめ買いをお願いした蟻率の簡易計測キットで、毎日計測する。スティック型の体温計みたいな見た目の装置を脇の下に入れて、サンプルを採取、付属の溶液入りデバイスに流し込むと、二十分くらいで蟻率の推定値が表示される。アプリにも、自動で連携されるのだ。
 11.6%。ドロボウまでして、これだけ促進ピルを飲んでるのに、絶望的な伸び方。
「お父さんに、似ちゃったかしらね」
 ため息交じりのお母さんの言葉を聞くと、わたしは事実を並べて抵抗したくなる。母は触角も短いし、お尻は確かに大きいけれど、腹柄節の発達も未熟で、手足も短くて、全然美しくない。お母さんだってきっと、蟻率は25%くらいしかないはずなのだ。大人の中では、平均よりずっと低い方だ。
 ねえ、遺伝子が、わたしの運命を決めているなら、もっと早く教えてほしかったよ。先生や友達たちは、遺伝子が関係あるって言ったりそうじゃないって言ったり、相手を見て適当なことばっかり言うみたいだけど。
 わたしは呼び出されて、進路指導室に座っていた、
 普段ほとんど関わりのない女教師がオレンジのファイルを持って向かいに座り、見たくもない蟻率の計測結果をわたしに示す。不自然な茶色に白髪染めされた紙の隙間から、お母さんと同じくらいの長さの短い触角が顔を覗かせている。
「前はもう少し余裕があったけど、高二のこの時期だからね。トウドウさん、このままだと、まずいわね」
 やたら鮮明なグリーンの壁紙も、彼女の羽織るダークブラウンのジャケットも、キャビネットに並ぶイエロー、ブルー、オレンジ、色々な色の生徒の記録たちも。どれもこれも、攻撃的に見えて止まない。
「最低限。20%ぐらいまで上がってもらわないと。知ってるでしょ。それくらいは蟻化しててもらわないと」
 不自然に言葉が止まる。
 生きていけないのよ。
 そう続けようとしてから、躊躇いの表情を見せ、止めた。前に話した時、お父さんの死に様の話をしたから、言うのをためらったんだろう。
「それに、蟻率が上がってスタートラインだからね。先生の頃より、あなたたちのが大変よ。蟻化してるのが前提で、競争だから。受験も、就職もね。まあ、フェロモンが使えれば、意志なんてなくても身体は勝手に動くけど、その上で、クリエイティブなことするには、努力がいるわ」
 知っている。このままじゃ周回遅れ。わたしは黙ることしか、できない。
「精密検査、するのを勧めるわ」
 わたしは小さく震えた。検査と投薬の結果、色々手立ては講じられたけど、お父さんはそのまま死んだんだから。精密検査なんてしたら、遺伝とか体質が原因の、計測値よりも残酷な真実を突きつけられるかもしれないじゃない。
 わたしは、まだ、諦めずに、生きていたい。
 沈黙。うつむき、わたしの精一杯。
 無機質なノック。女教師が反応するのも待たずに、別の男性教員が入ってくる。手に持ったファイルをキャビネットに差し込むとこちらを向いて、頭の先から足の先まで、検査するようにじっと見てきた。
「これは、結構焦らないとだめだね。間に合わないかもしれない」
「ちょっと、ヤマウチ先生。気にしてるんですから、脅かすようなことは」
「トウドウ、マツリさんね。もう高二なら、隠したって仕方ないでしょ。真面目な話、最近は仕事のやり取りにもフェロモンを使うから、高卒で働くにしても、大学に行くにしても苦労する。倉庫番みたいな単純労働から、商社の総合職まで、色々な仕事で、その会社独自のフェロモンを使って仕事の支持とか、やり取りをするんだよ」
 分かってる。いくらでもある高校生の時間のどれだけを、蟻になれなければどんな目にあうのか、現実を調べるのに使って、わたしが不安になったと思っているのか。
「精密検査を勧めてます。あと、もっと強めの蟻化促進ピルの申請もしなきゃね。トウドウさん、いい?」
「女子だと、申請が通るまでに時間がかかるんだよな。生物で習ってると思うが、覚えてるか?人類は蟻化することで、赤蜜蟻の蜜の毒を克服するだけじゃなくて、真社会生物である蟻の利他性も取り入れたんだ。蟻の中には、巣へ外敵が入ってくるのを防ぐためだけに、身体を肥大化させて巣の蓋として振る舞うやつもいるんだ。人類の場合は、男の方がそういう風に、仕事に特化した身体になりやすい。男子はフェロモンがうまく出せなくても、身体の形さえなんとかなれば、って話だが、やっぱり女子は、フェロモンぐらいうまく出せないと…」
 女教師は呆れ顔でヤマウチと呼ばれたその男が語り続けるのを見ていた。わたしと女教師、今日はじめて同じ気持ちを共有できた瞬間だった。
 男は最後に「早死しないように頑張りなさい」なんて言っていた。
 早死になんてするもんか。
 やりたいことも、なりたいものも山積みなのだから。
 だから、早くオトナになりたい。だから、もっと蟻率を上げたい。蟻に、近づきたい。
 女子はフェロモンぐらいうまく出せないと。なんて。
 わたしは、フェロモンの言葉を理解することすら、できないのに。
 次の日、一番に賑やかではないけれど、中くらいの友達グループで、男女入り混じって遊びに行く。よく遊ぶマリコと、珍しく部活が休みのシンヤも混ざっていた。わたしの居場所。
 マリコの触覚は随分立派になっていて、人差し指くらいの太さのそれは額の中心寄りから、シースルーバングの前髪の隙間から真っ直ぐに立ち上がって、髪の毛の癖と同じようにきゅんと曲がって、肩くらいの高さまで落ちている。手に持った携帯端末を、サキがやっていたみたいに器用に触覚二本と指二本両方を使って操作している。最近のおしゃれな女の子は、みんなそうするみたいだ。触覚の先端に揺れるアクセサリーはやっぱりゴールドで、マリコのはリンゴのモチーフだ。
 みんなの話の内容から察するに、今日はフェロスタグラムで人気のお店に向かっていて、そのお店は美味しいパフェが売りらしい。甘いものが得意じゃなかったシンヤも、随分乗り気でメニューを選んでいる。
 フェロスタグラム。蟻化した身体から放出されるフェロモンを通じたコミュニケーションツール。繊細な生体分子センサーである触角はタンパク質の微細な構造の違いから、誰からどんなメッセージが発せられているかを判別する。フェロモンには見たり聞いたり、味わったものについてのタグやコメントを付けられる。美しい景色を見た時の感動も流行りのレストランの食べ物とか。わたし以外の、みんなで話題にしてる。
 シンヤの触角も広げた手のひら二つ分くらいの長さになっていて、隣の男の子たちとゲームをしながら、前なんて全く見ないで歩いている。
「シンヤ、危ないよ。前、見なよ」
「フェロスタのフェロモンについていってるから、見なくても分かるんだよ。マツリも早く、できるようになるといいな」
 マリコがフェロスタグラムで見つけた位置情報ジオフェロモンをみんなに配ったらしい。目的地まで、無意識に身体が動くんだとか。
「バイトでも使えんだよね。普通にやってると先輩も怖いし辛いけど、フェロモン使うと、無意識で気づくとバイト終わってるから楽よ」
「俺の親も、使ってるって言ってたわ。意志がないと、疲れないって」
 別の男子たちも、機械みたいに身体が動いて楽だなんて言ってる。わたしは、自分の意志で降ってる手足を見ながら、その感覚が分からなくて不思議に思った。
 他の女の子たちの触角は、マリコほど立派ではないけれど、みんなゴールドのアクセサリーを揺らしている。マリコは腹柄節のくびれを見せびらかすようにしていて自慢げで、他の子も膨らんだお尻を隠すため、色々なカラーのマキシスカートを吐いている。並んで歩いているだけで、絵になる。わたしは、何枚も写真を撮った。
 店に着く。パフェは確かに絶品だった。食べた後は、思い出の交換って言いながら、女の子同士、男子同士でグルーミングして匂いの情報を交換している。わたしはその様子を、携帯端末で写真に収める。
「あとで写真、送るね」
 シンヤだけが笑って頷いてくれて、他のみんなは興味なさそうだった。
「写真かぁ。マツリ、思ったより、蟻率、低そうな趣味続けてるんだね。意外。昔、いい写真撮ってたよね。懐かしいなぁ」
 そう口にしたマリコに悪意はなくて。ただ話に入りづらそうにしていたわたしに小さなきっかけを与えようとしてくれたんだと思う。
 でも、わたしは、小さく、か細く、うんって言うのが精一杯だった。
 その夜、わたしは蟻化促進ピルを口いっぱいに、咳き込むくらいに押し込んで飲み干した。数なんて、数えてられなかった。

4

 11.7%。わたしの蟻率グラフは、いつまでも平たい。
 あれだけの促進剤を口にしているのに。
 数字はいつも、テストの点数とかも、あるがままの真実すぎて、残酷。
 放課後、クラスメイトは今日も、フェロモンを追いかけてどこかに行ってしまった。十日間で0.4%、触角が生える20%まで、大体、二百日。その頃は、高三の終わり。それでやっと追いつける。あまりにも、遅すぎるよ。
 それでも、希望がないわけじゃない。気分転換をしよう。
 お気に入りのカフェに入る。ペールブルーの壁紙に囲まれた空間を、穏やかな空気が満たしている。高く抜けた真新しい木目の天井はいつも瑞々しくて、背の高い窓を飾る真っ白なレースのカーテンが、いつもわたしを新しい気持ちにさせてくれる。壁際の白い丸テーブルの席に案内されたわたしは、濃いめのカフェラテを注文した。
 ラベンダーブルーのカップとソーサ運ぶ店員の後ろに、長い手足、背の高い凛とした別の女の子の姿。腕くらい長い触角に、見たことのあるゴールドの幾何学モチーフのアクセサリー。サキの姿。
「あれ、トウドウさん?ここ、来るんだ」
「サキ、ううん。ナカノさん。ここで会うなんて、びっくりした」
「あっち、ソファー席。空いてるから来なよ」
「でも」
「私一人だから、そんなにビクビクしないで。今日は他の子、いないよ」
 わたしがまごついていると、サキはわたしのカフェラテを持ち上げて窓際の席に持っていってしまった。高い腰から大きく広がるAライン、チェリーレッドのマキシスカート、クラスいち蟻化が進んだサキの膨らんだお尻が包み隠されてる。くびれ、後ろから見る触角、佇まいが美しくて、わたしの心臓はただ高鳴った。
「大きな声じゃ言えないけど、クラスの子達にはフェロスタでこのカフェのことは微妙って言ってあるから、みんなは来ないの」
 ふかふか、つるつると座り心地の良いグレーのソファに二人向かい合って腰を下ろす。サキは小さく笑って、背もたれに思い切り体重を預けると、子犬みたいに身体を捩って、背筋を伸ばした。彼女が動く度に、触角を飾るゴールドの幾何学模様が揺れて輝いて、まばゆく光る。
「どうして? いいカフェなのに」
「ひとりになる時間、欲しいじゃん。トウドウさんも、よく来るの?」
「うん。この壁の色が好き。食器も好みなのが多いし、この窓から入ってくる光の感じも好きだから」
「光の感じ。分かるよ。太陽の光じゃないと落ち着かないんだよね。普通の照明と見え方がぜんぜん違うからさ。駅前のカフェとかは、照明でごまかしているけど全然だめ。でも、壁紙とか、食器の色は、気にしたことなかったな」
「ねえ。太陽の光じゃないと落ち着かないって、どんな感じなの? 見え方も、そんなに違うの?」
「なんだろ、なんか、方向がわからなくて、迷ってる感じになる。見え方も違うよ。太陽の光は、偏光が見えるから、太陽を真ん中にした円がたくさん見えるよ」
「そうなんだ。わたしは、そんなの感じられないから。感じたいんだけど」
「そっか。トウドウさんは、まだそんなに進んでないからか」
「このままだと、進路にも影響が出るって言われちゃった」
「なんかさ。進路指導室に来る謎の男、すごい上から目線じゃない?」
「初めてだけど、口調もきつくてひどかった。ナカノさんも、呼び出されるの?」
「蟻化が進みすぎると大変とか言ってね。そんなわけないのに。50%を超えちゃだめだとか、検索すれば出てくるようなことばっかり言って、バッカみたい。あいつ、変なフェロモン出してるけど、気づいてないし。目つきも、も、変態っぽい」
 大きな窓からサキに光が差す。色素の薄い茶色い髪は、思ったよりずっと透明で艷やか。それより少し濃い色で、ナチュラルに整えられてた眉と羽のように柔らかそうに跳ねる睫毛、金属のストローでレモンスカッシュを一口すする、マットなピーチの唇も、どこを見ても、魅力に溢れてる。
「ねえ。どうすれば、蟻率をあげられるの?」
「んー。トウドウさんには悪いけど。私も、分かんないし困ってる」
 サキが触角と指で器用に端末を操作して、私の前に差し出す。
「ほら、私の蟻率、50%くらいまでいくと、もっと女王アリに近くなって、命令フェロモンとか出せるのに、ここ半年ぐらい、全然伸びないんだよね。40%ちょっとのところで、止まっちゃってる。呪われてるみたいに、進まないの」
 似ていた。驚いた。呪われたように愚鈍な、立ち上がらない漸近線。縦の目盛りの示す蟻率の大きさこそ違えど、形はまるで同じ。何をしても、頑固でわがまままな飼い猫みたいに知らん顔で微動だにしないのに、無機質で味気なく、残酷な事実だけを告げる、憎らしい形。
 蟻化が進まないという悩み。たとえ程度が違っても、蟻化が遥かに進んでいるサキが、もしかしたらわたしと同じ焦りを抱いているかもしれない。日々グラフを見て、焦ったり、暗い気持ちになったりしているかもしれいない。
 もちろん、サキは50%を目指してるから、目標はわたしと全然違うけど。50%、普通の蟻化促進ピルで目指せる、臨界値、限界値。ヒトと蟻の、境目だ。
「ねえ、家でも測ってるよね?定期計測以外でも」
「うん。でも、結構高くない?計測キット。よく親に怒られてる。測りすぎって」
「わたしも。お母さんに負担掛けちゃってる。学校だとタダなのにね。ほら、わたしの蟻率は、こんな感じ。わたしも全然伸びなくて、ここ半年で0.5%しか上がってないんだ。大きさは違うけど、同じ形だね」
「勉強とか運動みたいに努力でなんとかなればいいのにね。測るって決めた日の前の日とかに、たくさん促進ピルを飲んだりして、全然変わらないと、ホント絶望的な気持ちになる。あ、でも、ごめん。私が悩んでるなんて言うのは違うかもね。トウドウさんのが、きっと悩んでるよね」
 もっと自信に溢れていて、もっと話しづらいと思っていたサキが、意外と話しやすくてわたしは驚いていた。遊んでいる割に成績も良くて、朝早く学校に来て勉強するような意外な真面目さがあるのは知っていたけれど。
「うん、悩んでるけど。でも、促進ピルを飲む以外、できることないし」
「ねえ。一緒にさ、ネットで新しい薬、買わない?アメリカとか中国とか、タイだともうみんな飲んでるやつみたい。上がらなくなった子向けのやつ。見つけたんだ。まとめて買わないと、結構高くてさ」
 サキはわたしに、輸入業者のウェブサイトを見せた。わたしも新薬の存在は知っていた。特に女性に効果が出やすいものらしいこと、日本では認可がだいぶ先になりそうだということも。一人で買うのは、怖かったけど。
「知ってる。わたしも迷ってた」
「なら、話早いじゃん。私の周り、あんまり困ってる人いなくてさ。ミカとかユズハとか、フェロスタが楽しめてるし今のままでいいやとか言ってるし。一緒に買える人、探してたんだ」
「いいよ。一緒に買おう。一人だと、なんだか不安だったから。ナカノさんと一緒に買えるなら、ちょっと安心」
「呼び方、サキでいいよ。じゃあ、お金とか送り先とかは、後で話そっか」
「わたしも、マツリでいいよ。うん、あとでメッセージ送ればいい?」
 クラスのメッセージグループから、わたしのアカウントを見つけて、サキは挨拶代わりの絵文字を送ってくれて、わたしの友達リストにサキが追加された。
 文字の上とはいえ、サキと友達になれて嬉しかった。
「ねえ。サキの触角、触ってもいい?」
 これだけ近くで見るのは、初めてだった。雲間の西日の細い光が照らす、一対の美しい流線、憧れの長さがどれだけ長いかに気付かされる。
「手で?」
「うん。人の触角、触ったこと、全然ないから」
「いいけど、先っぽを触られると多分痛いから、付け根とかにして。触角同士なら、グルーミングでつっつき合ってるけど、手は初めてかも」
 サキの隣に立って、前髪を乱さないように恐る恐る、触角の付け根の上に手を伸ばと、よく熟れたアボカドみたいな手触りがした。少し押すと縮んで、力を緩めるとすぐに元通りの形に戻る。
「思ったより柔らかいね。でも、長いと重たそうだね」
「重いよー。この金髪の子、有名なインフルエンサーのデンマーク人だけど、首コリ対策でサポーターつけてるでしょ。この子、触角の色素が薄くて綺麗だよね。でもこれだけ長いと本当に重そうだし、この子はこんな巨乳だから、肩も首も凝って大変そうだよね」
 サキが示す写真の中、金髪碧眼の透明感のある女の子が微笑んでいる。透き通る金の触角、ぴっちりとしたスーツを着て、蟻化した身体、身体に溜まった蜜の妖艶な色合いを臆すことなく晒していた。
「そうだ。マツリ。写真得意だったよね? 今度撮ってよ」
 サキがそういうふうに覚えていてくれたことも、飛び跳ねたくなるくらい嬉しかった。

5

 教室でもサキの近くで過ごす時間が増えた。教室の前の方のグループの子たちと一緒にお昼を食べたり、帰り道一緒になったり。近くの高校の先輩と付き合っているミカ、バスケ部のキャプテンに想いを寄せているユズハ。サキほどではないが、その二人は蟻率が高そうだ。二人の会話を聞くに、オシャレとかメイクとかあざとさではなくて、恋の成就はフェロモンを主戦場とするらしい。どれだけ強いフェロモンでアピールして相手の一番になるかの、競い合い。人気の先輩の周りでは、そこらじゅうでフェロモンが喧嘩をしているとか。
「マツリ、サキちゃんと仲良かったっけ?」
 マリコは時折やってきてそんなことを言った。わたしはいつも、カフェで偶然出会った話をしようとするのだが、カフェを秘密にしておくようにサキに止められたし、マリコも経緯には興味がなさそうだった。
 わたしはカバンにねじ込んだ小包のことを考える。小包の中には、わたしにフェロモンの世界を見せてくれるはずの希望の光が詰まっている。今朝、玄関先で、お母さんに見られないように受け取って、そのまま学校に来た。
 放課後。人がはけた教室。彼氏の迎えを待つミカにつきあって、グループのみんなでお喋りしていた。蟻化の進んだミカやユズハは、腹柄節がくびれるのに合わせて、胃とか腸、子宮や卵巣が身体のなかで位置を変えるのを感じると話していた。グルーミングのためのジェルを貯める器官とかが、身体の中で生まれたときにそのことと、その使い方が自然と分かるらしい。ふたりはそれを、本能だねなんて言っていた。
 途中からみんな、話すのをやめてグルーミングをはじめた。触角は水彩で風景を書き込むみたいに細やかに、軽やかに動き回り、時たま口元から出したジェルを交換しあって、首とか腕とか、足を綺麗にしながら、その化学組成に込められた情報を交換する。
 ミカが優しく笑って、触角でわたしの鼻先にジェルを付けた。わたしは匂いのしないそれを顔中に広げて拭った。匂いの中身は分からないけれど、仲間に入れてもらえたらしい。
「マツリ、呼ばれてるよ」
 サキに言われて廊下に出ると、シンヤともうひとり、背の高い男の子。確かバスケ部の子だ。額から伸びる触角は、背丈に対して不釣り合いに短くてで不格好だ。それでも、わたしよりは蟻化が進んでる。至って普通の男の子。微かに、汗の匂い。嫌な匂いではないけれど。
「マツリさ、今度こいつも入れて遊びに行かねえか?」
「え、突然だね。ううん。予定が、合えばね。誰?」
「前話したじゃん。バスケ部。コウジ。いいやつだよ」
「どうも。シンヤとはよく一緒に遊んでんだ。フェロスタ使えなくても、楽しめるところいっぱい知ってるから。行こうよ」
「あ、うん。あとで連絡すね」
 グルーミングを終えたサキたちが教室の後ろのドアから出てきて、わたしを呼んだ。ミカの彼氏が到着したらしい。わたしは走って追いかけた。
 背中側から、期待外れ感に包まれた不満そうな小声が聞こえる。
「なんかさ、もう少しすぐいけそうな感じじゃなかった?雰囲気違うじゃん。シンヤ、話が違うよ」
「わかんね。でも、今日はなんか、違う匂いがしたわ」
 校門の所でグループは散り散りになる。ミカは大きなイチョウ並木の下で、今度は彼氏とグルーミングをはじめた。テスト期間だったとかで、会うのはしばらくぶりらしい。ミカは重く、グミを舐る舌のように肩や腰を撫で回していた。ジェルの交換。念入りなこすりつけ、それから口づけして、舌を絡めて体液を交わす。グループの仲間にする時とは全然違う重さ。男女のそれ。

 わたしとサキは、いつものカフェで向き合って座る。あれから何回も二人で会って、写真を撮ったり、他愛もない話をして仲良くなった。
 会うときはいつも、お互いの蟻率グラフを見せ合って、漸近、停滞しているのを笑い合う。二人の時間の、始まりの合図。
 11.9%、12.1%、12.2%、持っている蟻化促進ピルを全部飲み干したけど、笑ってしまうくらいに停滞している。わたしの身体は、どうなっているのか。それでも、笑えるだけ前よりマシだった。
「さっきのシンヤくん、何あれ」
「友達、紹介するって言われた。一緒に遊ぼうって」
「遊ぶの?」
「まさか。なんか普通そうで、優しそうではあったけど」
「マツリみたいのは、狙われやすいからね。運動部の補欠は、ああいう男が多いよ。蟻化が進んでない女子相手なら、チャラチャラしててもばれないと思ってるから」
「そうなの?」
「フェロモンが視えるようになると、浮気はすぐに分かるよ。ミカの念入りなグルーミングも、浮気対策。ねえ。届いたやつ。見せてよ」
 古い洞窟から掘り出した宝物を暴くように、そっと包みを解く。大きめのマグカップぐらいの大きさの、透明なプラスティックのボトルにぎっしりと詰まった、琥珀色のカプセルたちが姿を見せる。
「蟻の蜜みたいな色してる。学校で配られるやつとぜんぜん違うね」
 サキが身を乗り出して、興奮気味にそう言った。
 蟻化が進むと身体に貯めて膨らませることのできる蜜と同じ琥珀色、お父さんを蝕んだ蜜の色、わたしはその色に、今は希望と救いを求めている。蠱惑的に佇む琥珀色のたくさんのカプセルを丁寧に二等分して、いまこの場で飲む分の三錠ずつをお互いの手のひらに載せた。カプセルは、小指くらいの大きさ。飲むのに、ちょっと覚悟がいる。
 薄ガラスのコップになみなみと張られた水で、一つ一つ、ゆっくりとそれを身体の中に入れていく。太く、程よく硬い異物が粘膜を抉っていく感覚がする。飲み干すと、あっけない。
「どうなるか楽しみだね」
「マツリ、そんな笑い方するんだ。ね、楽しみ。命令フェロモン使って、フェロスタのフォロワー、絶対増やすんだ」
「命令フェロモンって、何でもさせられるの?」
「させられるし、ただの命令じゃないよ」
 生理作用も、身体の動きも、思うがまま。フェロモンによる心と身体の乗っ取り。女王アリが、巣の蟻の餌取りも生殖も、コントロールできるのと同じ。
 サキは熱っぽく、話し続ける。
 強いフェロモンは、強い匂いを持ってるから、他のフェロモンの情報を上書きし放題。「好きになれ」とか「嫌いになれ」とか命令して、好き嫌いの感情なんかも操作できる。惚れ薬をばらまいているようなものだから、フェロスタグラムで人気者になれるのは確実だ。
 そんなフェロモンを出すのに、必要な蟻率は49%。
 ヒトとしての臨界値で、ヒトと蟻の、境目の50%に最も近い。
 普通の促進ピルを飲んでたどり着ける、限界値。
 わたしは、そこまで行かなくていいから、まずは第一歩を踏み出せますように。
 サキと私は、毎日決まった時間に琥珀色のピルを飲んで、お互いに飲んだ後の感想を送りあった。
 お母さんにねだって、簡易計測器キットを追加で買ってもらう。
 毎日、夜、三錠飲む。
 サキにメッセージを送る。サキのメッセージを読む。
 あの薬、甘いね。とサキ。わたしはそうかなと疑問に思う。
 学校に行って、おしゃべりなグループの子たちと話す。
 いつもと違う匂いがすると、ユズハが言う。
 測るの楽しみだねとサキが笑う。
 グルーミングに参加。サキのジェルで顔を綺麗に。
 わたしの触角はまだ生えない。額に何の変化も感じない。
 飲む。心臓の高鳴り。繰り返し。
 サキから連絡。進んだよ。46%、あと3%、ほんの少し。
 わたしは、まだ。まだ貯めている。わたしは12.2%から13.0%に。
 マリコがやってきて、いつも通り「仲良さそうね」なんて言ってる。
 本当は寂しんじゃない、そういう匂いがするよと、サキが笑ってる。
 隅の席の暗いあの子。
 触角は全然伸びていないし、お尻も膨らんでいない。追い抜ける。
 他のクラスの蟻化が進んでいない子。みんな追い越せそう。確信。
 飲む。わたしの中で、美しく完璧な蟻になった小さなわたしが飛ぶ準備をしている。折り曲げた脚に力を込めて、進化の過程で翅を捨てても、誰よりも高く飛べるのだと、腹節を鳴らしてキィキィと戦慄いている。
 後少し、そうに違いない。
 サキからのメッセージ。49%。やったよ。この薬、すごいねって。
 マツリも大丈夫だよ。すぐこうなるよ。元気だして。
 偽りのない、本心からの明るい言葉。
 わたしは、13.1%。貯め続けてる。上がるペースが落ちている。本当に?わたしだけ、琥珀色の希望にも見捨てられて、蟻になれずに生きていかなくてはいけないの?毒にまみれて死んでしまうことが分かっているのに、蟻になれないのは遺伝の呪縛だとしても、そのくびきから逃れられずに生きていかなくては行けないの?
 サキ。羨ましい。サキのがやっぱり早い。
 近くにいて、ジェルでグルーミングしてもらって、同じ匂いを手に入れて、シンヤに雰囲気変わったなんて言われたり、簡単に行けそうな女の子じゃないと男子から思われるようになったとしても。根本的には、変われないの?
 眠れない夜が明けた。
 朝、鬱陶しい光が普段と違う。縞模様みたいに濃淡がはっきりと見える。お気に入りのオレンジのポーチも、冬の終わりに見つかった黴びかけのミカンみたいにつまらなく見えた。
 わたしの小さな一重の目は、きっとくすみ切って、羨望で汚れきって、妬むことを忘れられない卑しいハイエナのように醜いだろう。
 ああ、それでも変わらず降り注ぐ太陽の光が、ラメグラデーションのネイルのようにキラキラとしながら目線を奪って、わたしを導いてくれる。
 校門の近くに、全部で百人ぐらいの秩序だった人だかりができている。夏の盛りに催される盆踊り大会みたいに、多くの生徒の波が渦を巻いている。四重の同心円。女の子も、男子も、触角と、蜜の輝くお尻を振りながら、意志のない瞳のまま踊っている。何も邪魔がなければ、このまま永遠に、右足を上げて、左足を上げて、下げてを無限に繰り返すのだろう。
「マツリ、こっち」
 中央でわたしを呼ぶのはサキ。背が20センチくらい伸びている。ブラウスの丈は全然足りなくなっていて、美しく細い双曲線にくびれたお腹が晒されている。それは蟻の体節でありながらも、可愛らしい小さなヘソが見えていて、蟻と人の美しさが高貴に混ざり合っていた。お尻はマキシスカートでも隠しきれないくらい膨らんで、熟れた果物みたいに蜜で潤んでいる。
 ユズハ、ミカ、明るいグループの他の子達が、ひれ伏すように頭を下げながら、触角でサキの体を拭っている。サキのフェロモンから数多の情報を得て、永き忠誠を誓うための臣下のグルーミングだ。
 一人の女王となったサキ。
 巣穴に必要な女王は、おそらくひとり。
 好き嫌いの価値観も、恋も。身体に変化を促す生理的な作用も、サキの思うがまま。男の子たちがみんな、サキの周りの輪に集まってくる。サキはそんな子達に目もくれずに、ユズハの片思いの相手、バスケ部のキャプテンを見つけると、強いフェロモンを送って呼び寄せた。キャプテンはユズハとユズハと口移しでジェルを交換し、グルーミングをはじめる。
 わたしはその甘酸っぱいグルーミングを見てから、サキを見上げた。
「マツリ。すごいよ。フェロスタ、どんどんフォロワー増えてる。強いフェロモンで、フェロスタの情報を上書きし放題。人も集め放題になっちゃった。急に身体が大きくなっちゃったから、制服も下着も、全然入らなくなっちゃった。服も全部買い直さなきゃ。マツリ。今度、一緒に買い物行こう」
 サキの触角がわたしの頭に触れる。
 ああ、女王にはもうなれなくても。どうかわたしも、サキのフェロモンを感じることができるようになりますように。
「同じ形のグラフ、また見せ合おうね。マツリのもすぐ、同じ形になるよ」
 朝の騒ぎなんてなかったかのように、普段どおりに六時間目まできっちりと授業が進んで、終わった。

6

 わたしも、早く変わらなければ。
 わたしは、このまま変われないの?みんなの言葉がわからなくなって、みんなに認識されなくなるの?もしかしたら、女王にも、見捨てられるかもしれない。
 厭だ。厭だ。わたしは自分の部屋に籠もって、お母さんが呼ぶ声も聞かずに、制服も下着も脱ぎ捨てて、鏡の前に立った。胸なんてこれ以上普通に膨らまなくていいから、蜜で膨れてほしい。女らしい肉の丸みも、蟻らしい体節のくびれもない腹。琥珀色の薬、ねえ、わたしの希望なんでしょう? わたしは残りを全部、一粒一粒飲み込んでいく。水が足りない。飲み込む時にその肉感的で妙に柔らかい太さで内側が気持ち悪く抉られていく。一粒、また一粒、鏡に映るわたし、どうか変わって、蟻になって、わたしの知らない言葉が、わかるようになって。額に触角が生えるように願う。飲む度に貯めてたんでしょ?だったらそろそろ、答えてよ。蟻化促進の新薬だっていうなら、わたしをすぐに蟻にしてよ。じゃないと、嘘つき。
 遠のく意識、ベッドで横になる。火照った身体が酷くだるい。
 ひどい頭痛。こめかみから耳の後ろに駆けて
 吐き気。熱。腰まわりの骨が痛い。手をついて立ち上がろうとするけれど、両方の肩が重くて動かない。というより、動かしたくないくらい凝り固まっている。身体中に何かしこりが残るような。
 そういえばわたし、何も着ないで寝ちゃった。シーツも掛け布団も、汚れていないといいな。
 一度は我慢した吐き気が、再びわたしの元に訪れて、どうしようもなく内側を外側へひっくり返そうとする。熱を感じる。みぞおち、それから食道。逆流する感覚。吐いたら、掃除が大変だな。そんなことを気にし続ける余裕もなく、喉を焼くような痛みが走る。
 琥珀色のジェルが口から出てくる。わたしが飲み干した新薬の量より、ずっと多い、酸っぱい吐瀉物の匂いなんてこれっぽっちもしない。どちらかというと、みんながグルーミングの時に出しているジェルみたいな色合いをしている。ジェルの中に、溶け残った白いカプセル。とっくの昔に、飲み干したはずの、盗んだ蟻化促進ピルが、まるまる残っているみたい。
 気休めや慰めじゃなくて、本当に貯めてたんだ。わたしの身体。
 夜はとっくに更けている。月明かりもなく暗い夜。リビングからお皿とアイススプーンを持ってきて、お皿の上でジェルの形を整えてプリンみたいにする。お気に入りの青釉のケーキ皿に盛ったほうがよかったとふと思ったけれど、もうなんだか、色なんてどうでも良かった。
 一口、甘い。もう一口、とっても甘い。サキの言う通り、甘かったんだ。琥珀色の希望と、それから促進ピルのゼリーちゃん。貯まってるって思ってたの、本当だったんだ。わたしの中に、ずっと潜んでたんだ。もう一口、ぼうっとする。重い頭。眠気、だるい身体。
 抉るように痛む頭を擦ると、前髪の生え際にぬるりとした感触。
 動き始めてる、わたしの触角。
 重い体を引きずって、計測器を動かす。34.0%、倍以上に上がっている。あれほどまでに願った蟻に、ついに近づける。涙。わたしは嬉しすぎて泣いた。泣いていた。泣けば泣くほど、爆発しそうな喜びと、これまでの暗い気持ちが混ざった想いが香りになって、部屋に満たされるのを感じた。
 蛹の殻はこんな気持なのかなと思うくらい。外身の素肌はそのままでいるのに、内側で縦横無尽に熱が蠢くのを感じた。普段は身体が痛いときに、具体的にどこが痛むのかはわかりにくいのだけれど、今日の夜は全部わかった。肝臓が下に動く、腸がぎゅるりと曲がって折りたたまれる。子宮が少し下がって、揺れる。お尻の方に、腎臓が下がる。下がりすぎて、今度は上がる。
 火照る身体を膨らむ感覚ごと抱きしめていると、朝焼けの匂いがした。
 目を開けると、空に同心円状の縞模様が見える。窓の反射がまるで見えない。身体の向きを変えると、太陽が近くなったり遠くなったりするのを感じる。はじめての、偏光の感覚。
 薄目で確認する自分の身体。シングルベッドが窮屈なくらい背が伸びている。胸の大きさは変わらない。一晩で腹柄節化してくびれきった腹は自分で怖くなるくらい細い。起き上がればそのまま、折れてしまうのではと思うほど。腹についていた肉はお尻の方に流れていったようで、仰向けに眠っている今は、なんだかお尻に圧迫感を感じるし、下半身が上に持ち上がったままになっていて、寝心地が悪い。
 立ち上がる。いつも残酷だった鏡は、今は優しく佇んでいる。
 ベッドの中で、わたしは一匹のとてつもなく大きな蟻になったのだ。
 両手で口を包み隠すように覆う。うっとりとしてしまう。
 生えきった触角は長く、わたしの肩から手首くらいの長さがある。動かし方が分からなくて、身体に這わせようと右手を縮めると触角も一緒になって手前に向かってしまうし、触角で鏡に触れようとしたら、今度は右手を前に突き出してしまう。慣れない感覚。腕が四本になったような感じがする。
 目は一回り大きくなっていて、黒い瞳が見つめる先に映るのは、わたしじゃないみたい。胸の膨らみから体節のくびれに指を這わせる。指先が節化していて、優しく触らないと引っ掻いたみたいに痛い。肉がお尻側に寄って、膨らんで随分と肥大化してる。真っ直ぐに立っていても、足一つ分くらい、かかとより後ろに飛び出ている感じだ。
 やっと、いつものスカートを履けない身体になることができた。
 おめでとう。わたし。ありがとうサキ。
「お母さん、わたし、やっと蟻化、進んだよ。これで、心配かけなくなるよね?」
 お母さんの甲高い悲鳴。尻もちをついて驚いていた。わたしはお母さんの頭を撫でながら、触角でつついた。声を出さなくても、匂いで気持ちを読み取ることができた。見知らぬ身体になった娘への畏れと不安、それと一緒に、娘が死なずに済むことへの安心の混じった香りがした。
 お母さんの服の中から、なるべく長く、お尻を上手く隠せそうなスカートを探して借りた。地味な色が気に入らない気がしたけど、大丈夫、前のわたしみたいな子だけだ。色を気にするのなんて。
 最後の一つの計測器を使ってから、家を出る。
 65.4%、あっけなく、サキを越えてしまった。
 世界はこんなにも言葉に溢れていたなんて。フェロモンで溢れた街は、初めて初夏の山へハイキングに行った時と同じ様に瑞々しく感じられた。素敵なお店のタグのついたフェロモン。安いカラオケ屋の場所。蟻蜜たっぷりのパフェの匂い。フェロスタグラム。ううん、フェロスタ。慣れないけれど、使い方はすぐに分かった。触角を回して辺りの匂いを探って、気に入ったのがあればそれを追いかければいい。いつものお気に入りのカフェに向かって、何度もいいねをした。コメントのフェロモンを出すこともできる。炭化水素鎖を読み取ることで、誰が何を言ってるのか判る。匂いに付けられた、個人のID。
 学校の場所がタグ付けされたフェロモンを追っていく。特に歩く方向なんて意識していないのに、いつの間にか校門にたどり着く。無意識の移動。なんて便利。
 まだ朝は早い。太陽の高さがわたしに時間を告げる。七時ちょうど。ひんやりして冷たい教室には誰もいない。椅子にすわると、やっぱりお尻が窮屈だ。椅子を別のやつに変えないと。
 誰もいない教室に漂うフェロモンメッセージ。これまで感じることのできなかった言葉の波。歩いているときはあれだけ真新しかったけど、教室の中は暗いメッセージばかり。「サキの金魚のフン」と私をバカにする言葉。「蟻化率低くて死にそうらしいよ」と蔑む言葉。「あの子、全然、蟻化進んでないから、促進ピル盗んだんじゃない?」そうです。だって、どうしても蟻になりたかったんだもの。「サキにとりいって急に気に入られて、何したのかな」詮索の声。何もしてないよ。ただ、同じような悩みがあっただけ。「フェロモンわからないから、言い放題だけど、やめなよ。じつは聞こえてるのかもよ」いいえ。聞こえてなかったよ。今は聞こえるけれど。
 大きく変わった身体も、内蔵の感覚も、不慣れだけど、使い方を前から知っている気がする。いいよ。みんな。忘れてあげる。私の強いフェロモンで、教室の中のフェロモン全部を上書きするよ。
「あれ?マツリ?だよな?今日は早えな。ってかすげえ。触角、生えたじゃん。サキよりすげえ。良かったじゃん。ちょっと見せてよ」
 朝練に向かう前に荷物を置きにきたシンヤの声。蟻化したわたしを見て嬉しそう。わたしより全然短い触角がかわいらしいね。それほど太くもなく、それほど硬くもない一対のふわふわし流線。
 わたしの中で、何かが疼く。ごわごわと。多分、これは本能。
 シンヤ。こっちに来て。たまに無神経だけど、あなた、悪いやつじゃないよね。声で呼ばなくても、シンヤは自然とわたしについてくる。戸惑ってるみたいだけど、身体はわたしのフェロモン通りに動いちゃうから、逆らえないよ。これは生理作用。意志はいらないの。だれもいない屋上近くの踊り場。シンヤの黒目がわたしと合った。無駄な肉のない顔、肌も荒れていなくて。ツルッとしている。喉仏を下から見上げたとき、セクシーだと思ったけど、今はわたしも同じ背の高さになっちゃったね。触角で首を撫でる。口から出したジェルで彼の身体を綺麗に洗う。彼の触角は応じてこない。恐る恐るだ。怖がっている。わたしを。ごめんね。
 シンヤの服を脱がせる。厚い胸板から、程よく固い腹筋まで、触角とジェルで綺麗にしていく。下半身、脱がせたトランクスを左の触角で持ち上げて、階段の手すりにかけておく。突然で準備が出来ていないのか、怖いのか縮こまった、秋のつくし野みたいなかわいらしいペニス。恥じらいで顔を赤くなる顔。恥ずかしいことなんて、ないのに。
「マツリ、やめろよ。まずいよ。こんなの」
「いいの。大したことじゃないよ。保険ってこと。この前の仕返しかも」
 わたしのフェロモンの刺激で勃起したペニスを、わたしは自分の中に受け入れる。粘膜が押し広がって、戻るのを繰り返す。たった十回繰り返したくらいで、シンヤはわたしの中で果てた。シンヤはどれくらい、女の子の身体を知ってるかな。普段は避妊してるのかな。大丈夫。私はこんなに蟻に近くなったから、あなたの精子は子宮じゃなくて、子宮の近くの精子嚢に入ったよ。腐ることなく、何十年もずっと生き続けるから。もし将来、わたしが子どもを作る相手がどうしてもいなくて困ったら、シンヤの精子を使わせてもらうね。だから、保険。それだけ。シンヤのは保険になるけど、あの友達のはいらないや。
 わたしは口から出したジェルで身体を清めて、教室へ戻る。
 サキの席の近くに座り、匂いを見る。サキの匂いを覚えた。それから、触角を広げたり閉じたり、伸ばしたり身体の方へ持ってきたりを繰り返す。子供の頃、磁石で遊んだのを思い出す。磁石の上に紙を置いて、砂鉄を巻く。磁力線に沿って模様の跡を成す砂鉄を指でなぞり、壊す。壊してもすぐに、模様は元通りになる。匂いも同じだ。強い匂いが模様を描いている。フェロモンの濃淡が織りなす模様に、わたしの触角を差し入れる。直行する向きになぞると、模様はより強く乱されて、より強く匂いの情報が頭に流れ込む。
 サキの匂い。純白で健気のモクレンのように、仄かに甘く崇高な香り。一切奢ることなく、無邪気に純粋に高みを目指し続けるクライマーのような気高いイメージが脳をよぎる。見ても聞いてもいないのに、たった一対の細い感覚器を少し動かすだけで、処理が追いつかずに疲れてしまうくらいの量のイメージが頭の中で弾ける。見てはいないのに。確かに視える。
 イメージの中のサキが、どんどん近づいてくる。わたしの匂い、わたしのフェロモンを、わたしを示す炭化水素鎖をつけてサキの方に流す。65.4%、サキを超えちゃった。早く見せたい。徐々にサキが近づいてくるのが分かる。フェロモンへの反応が増大する。信号待ちをすると強さの増大が止む。そしてまた近づいてくる。校門を抜けて、狭い昇降口から階段を上がってくる。これもフェロスタでできること。どこにいても、誰がどこにいるのかわかる。寂しくない。
 わたしを見るなり、サキは近くまで飛んできて、両腕と触角でわたしを強く抱いてくれた。
「マツリ。すごい。やったね。65%なんて、すごいじゃん。やばいよそれ。触角も可愛い感じになったね。今度触角リング、買いに行こう。わたしの服も一緒に。命令フェロモンも出せるでしょ?」
「うん、でも、越えちゃったの、まずかったかな?」
「ん?どうして?」
「だって、女王アリは一人しかいちゃいけないでしょう?わたし。サキはもっと嫌がるかと思ってた」
「大丈夫だよ。平和な場所に暮らしている蟻だったら、巣に一匹ずつしか女王の存在は許されないけれど、過酷な環境に生きる蟻だったら、女王はたくさんいるよ。私達、こんな過酷な世の中に生きてるでしょ?蟻率を上げたからって、競争は終わらないよ。受験もあるし、その後は大学生活もあるし、就職とか起業をするために戦わなきゃいけないし。だから女王はいっぱいいいていいの。マツリは、心配しなくても大丈夫」
「ねえ、いつもの、やろうよ」
 携帯端末を取り出す。停滞、停止へと漸近するグラフが指数関数的に弾けたグラフ。サキのスクリーンにも、同じ形のグラフが表示される。縦軸が示す蟻率の大きさが、わたしの方が10%以上高いし、上がり方も劇的だけれど、形は同じ。
 サキのグラフも、同じ高さにしたい。
 グルーミング。触角が触れ合う、触れ合うたびに電気が走るみたい。触角が触れ合ったまま、顔を寄せて、お互い口から出したジェルで、お互いを清めていく。匂いと一緒に、出会った日からの記憶が交換されて、イメージが頭の中で瞬いた。
 押し付ける力で触角がしなる。
 もう一歩、身体を寄せる。
 口づけをする。
 マットで艷やかな唇から、ミントとジンジャーのハーモニーが香り立つ。
 わたしの身体の中にまだ残っているゼリーちゃん、蟻化促進ピルと琥珀色の希望の混ざり合いを、口移しでサキにも流し込む。
 蟻率グラフの形も、それから高さも、同じくらいの友達でいたいから。女王アリが複数人存在できるなら、サキにも安心して、わたしと同じくらい蟻になってもらえる。
 サキを抱くと、サキの身体に伴う熱が弾けているのがわかった。
 サキも、50%越えの変化が始まったことを自覚していた。
「すごいね。マツリ。でも、これ、やばいよ。臨界値超えちゃってるから、身体の変わっちゃだめなところまで変わっちゃう。まあ、命令フェロモン出せるだけでもだいぶ他の人とは違うから、今更か」
 朝の見回りなのか、何の用だかしらないけれど、この前生徒指導室に現れた男教師がわたしとサキのグルーミングを覗いていた。
「マツリ、すごいんだけど、みんなが来る前にフェロモンを上書きしとかないと、男たちがみんなマツリに誘惑されちゃって、だめだよ」
「そうなの?どうやればいいんだろ」
「教えてあげる。わたしも、マツリと同じに明日くらいにはなってるんだろうけど、蟻に近くなりすぎて、いま、一生に一度しかない発情モードの交尾期間に入ってるよ。だから、性フェロモンがたくさん出てる。交尾期間がどれくらい続くかわからないけど、今のうちしかセックスできない身体になってるよ」
「子宮の近くに、精子を貯めて置ける場所ができてるっぽい。わかるの」
「精子を貯めといて、気が向いた時に使って妊娠できるんだよね。確か。だから、私達も、置きで男を選べるよ。この前マツリに話しかけに来た、あの男の子みたいに」
 うん。でも、シンヤのはもうゲットしたし、あの子のは要らない。
「あいつは、とりあえず、永遠に一人でいってればいいんだよ」
 サキが言った。覗いていた男が、恥じらいながら足を震わせて果てた。
 翌日、サキの蟻率も65%になって、子宮の横に精子嚢ができた。
 わたしとサキで合わせたフェロモンを流すと、クラスメイトの恋心も感覚も自由自在だった。
 交尾期間はどれくらい続くのだろう?わからない。
 でも今は、できるだけ将来使える精子を蓄えなくては。
 子どもを産むにしろ産まないにしろ、選択権はわたしたちのものだ。
 産むなら、強い遺伝子がほしいと思うのは生き物として当然だよね。
 四連休がやってくる。家のまわりに蜜とフェロモンをばらまいて、クラスの男の子たちをぐるぐると行進させる。わたしのフェロモンに従って無心に進むと、サキのフェロモンの風景にスイッチする。そのままいくと、わたしのフェロモンの支点に戻る。わたしを追って、サキを追って。終わらない繰り返し。行進。最後まで立っている男の子の、精子を使わせてもらおうかな。
 繁華街、大学の近く、プロスポーツの競技場。いい男を探す。男たちのくだらない下心は、わたしとサキのフェロモンの前では無力だ。ただペニスを勃起させ、甘くねばっこい蜜だらけのわたしの部屋の中で、わたしとサキの精子嚢に交互に精子を格納させられるだけ。飽きたらネバネバとした蜜の中、サキと触角を絡ませて、色々な情報を交換するのだ。ヒトにとっては神経毒になる蜜。わたしの父を殺してしまった蜜は、蟻にとっては性の交わりなんかに使う、ただの戯れの道具だったのかもしれない。
 今なら分かる。だって、わたしはほとんど、蟻なのだから。
 でも、蟻率が振り切れてしまって、本当に本当に幸せ。この苦しい世界で生き延びていくためには、将来、辛い仕事とかを前にしたら、フェロモンに無心に従って動いてやり過ごせる方が良いに決まっているし、命令フェロモンは便利だし、精子を貯めることだってできるんだから。フェロスタも、なくちゃ生きていけない。
 あとはそう、振り切れていること、バレないようにしないと。
 サキが何かに気づく。わたしも、何かに気づく。
 近くに、わたしたちと同じくらい強い匂いをした誰かが、幾つも近寄ってくる。わたしとサキは、起き上がって身を清め、触角を張ってフェロモンの源と、そのイメージを探る。わたしの家の周りを更新させられるクラスメイトを見て、面白がって笑っている。幾つもの言葉が飛んでくる。
『やりすぎると、バレちゃうよ』
『バレると、警察とかが来て面倒だよ』
『困ったら、助けを呼んでくれればいいよ。なんでも教えてあげる』
『ふたりを祝福するよ。私達の世界へようこそ』
『おめでとう』
 わたしたちより、ずっと前に、振り切れてしまった人たちが、私達をみて、新しい仲間の誕生を喜ぶ匂いで通りを満たしている。それは柑橘とジンジャーのハーモニーの中に、密かに熟れた甘いマンゴーが香るよう芳醇さで、わたしたちの風景のイメージを温く優しくなめらかに包み込んでいた。たった一人でも、二人だけでもない。
 沢山の味方がいる。だから寂しくない。ずっと、生きていける。
 やったね。わたしたちは強いね。

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