あなたの可能性について

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梗 概

あなたの可能性について

 高い自殺率が問題になっていた世界、連鎖自殺起きた。全身赤い服を纏って、遂げられた自殺。似たような方法で行われた事件に、何かしら影響元があると考えられたが、原因はわからなかった。メディアの言論を統制し、政府は、幸福度に基づいた生活を推奨した。日々の感情を綴るなど、幸福度を高める行動を行うと、社会信用度が高まり、よりよいサービスを受け取ることができた。政策により緩やかな減少傾向が続いついた。

 カウンセラーをしているリン(50)は、相談件数が急激に減少傾向にあることに気づく。平日には0になることもあった。恋人を失い、そこから立ち直った経験があったリンは、不審な変化に不安を覚える。この原因を調査中に、連絡が途絶えていたリピーターのミイナ(28)から電話がかかってくる。

 1ヶ月ほど前のある夜、ミイナはリンに助けを求めようにも電話は繋がらなかった。ミイナは、衝動的に今の心境をダイアリーに書き込んだ。すると関わりのないアカウントからメッセージが届く。そのメッセージには、「あなたの可能性について」と、生き抜いたミイナのこれからが記されていた。趣味の家庭菜園のについて。これからできる恋人について。それを読んでから、何事も前向きに捉えられるようになったという。「誰かが見てくれているそんな気持ちなの」ミイナは、改めてメッセージを探したというが、すでにアカウントは喪失し、メッセージもなくなっていた。リンは、同じようにメッセージをもらっている人たちがいることをつきとめたが、メッセージの送り主は判明できなかった。

 減少していく相談件数と自殺率。リンは安堵を覚えたが、虚無感に苛まれ、生活に関心を失っていく。次第にボランティア活動自体が自分の存在理由になっていたことに気づく。普段から自分の気持ちを綴っていたダイアリーに、連日虚しい気持ちを続けて投稿していたら、とあるアカウントからメッセージが届く。そのメッセージの件名は「あなたの可能性について」だった。

 メッセージには、リンのこれからが記されていた。リンの助けを求めてくる人たちのこと、相談員としてのやりがい、恋人への行き場のない思いの整理の仕方。メッセージを読んで、リンは涙を流す。しかし、最後の文章を読むと、リンは理解できない内容に動揺する。

 言葉によって、人は絶望し、また逆に希望を抱くこともある。言葉とは何か?

 連鎖事件とメッセージの関係が明らかにされる。言葉を使っていかに人を操作できるのか、それを検証した実験だった。

 カウンセラーとして心のケアを続けるリン。自分のこれからについて根拠のない希望を持ち続けていることに一抹の不安を感じながらも、患者に励ましの言葉をかけ続けた。

文字数:1117

内容に関するアピール

 自殺率が減少していきます。連鎖自殺事件は、「ウェルテル効果」、メディアの報道などによって自殺を抑制する「パパゲーノ効果」を想定しています。メッセージやアカウントが喪失してしまうのは、自殺念慮を抱えていた人が、生きることへ前向きになると、以前考えていたことを忘却してしまうメタファーとして考えています。

 

文字数:151

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あなたの可能性について

 

1

 「大丈夫ですか、具合でも悪いんじゃないですか」
 ドアを開けて早々、タオル取ってきましょうか?と夫人は続けた。いやいやこれは正常ですからとリンが首を振って答えると、生え際あたりに溜まった汗が垂れた。ぽってりとした肉厚そうな頬には赤みがさしていた。ポケットから出したハンカチで汗を拭うと、荒い呼吸を落ち着かせた。
『どうしたらいいのかな私』と今にも泣きそうなエスの想い。木枯らしが吹いているかのようなざわざわした感覚が伝わる。リンは咄嗟に先ほどまで話していた話題に話を変えようと考えた。
「自転車で来たんですよ」『今一番にしたいことをやってみたら?』
 発話と想話のタイミングが重なってしまって、リンは流れ落ちた汗が冷たく感じた。
「どうりで、そんなに汗をかいて。体にはいいかもしれませんね」玄関口での顔よりも幾分ほぐれたような顔をした夫人は、部屋にリンを招き入れた。
『でも眠れないのよ、眠りたいのに』
 夫人は、学校で一度練習しただけで、それ以来乗ったことがないと話をしだした。リンは、自分の使っている自転車は実はもう発売されてない旧式のもので、アシスト機能も何一つついてないものであることを話すと、さらに夫人は驚いた様子で、ご立派なことですねえと言った。
『薬を飲んだって、眠れないの』
『それは、苦しいね』とリンは想う。
 部屋に通されると、リンは背中に背負っていたバックから、ビニール袋に入った箱を取り出す。箱から緑色の毛玉のようなものを夫人に渡した。
「ありがとう、ずっと楽しみにしてたのよ」毛玉をコロコロと何度も回転させて、結局は操作の仕方がわからず、手を止めてリンに向き直る。
「真ん中あたりに凹凸がありませんか、それを押して見てください」リンは慣れたように、夫人の手の中でコロコロと毛玉を転がして見つけて指さした。にっこりと笑いかけると、夫人はあら本当と言って、その凹凸を押し込んだ。
『眠ろう眠ろうって思って、とりあえずベットにつくけれど、頭の中にいろんなものが浮かび上がって離れないの嫌なことが』畳み掛けるかのように想い続けるエス。リンは今目の前に起きる最も自分が好きな瞬間に立ち会えることに嬉しさを感じつつも、エスの想いに集中するのを忘れなかった。
 毛玉は、巻かれていた糸がゆっくりと解けるようにして動いた。ただ一本一本の毛糸は、それぞれの役割を思い出したかのように隣り合って結びつき、大きな緑色の羽が浮かび出た。その羽の中から丸いクリっとした頭と、三日月のような赤い嘴がのぞいて見える。ぱちっと瞳が開くと、まんまるとした黒い瞳が夫人の顔を覗き込む。手の中で大きく羽を広げ、尾羽は、すらりと伸びて、夫人の足を擦った。
『そういう時は、まず幸せなことを思い出しなよ、それで曲をかけてみるといい。僕は波の音を聞いているよ。波の音を聞いていると、だんだん落ち着いてくるんだ』絡まっている毛糸が解け、そこから新たな何かが生まれ出していく、そんなイメージをリンはエスの元へ飛ばした。
『眠れるかしらそんなことで』
 ぴゆうと赤い嘴から、小さな鳴き声をあげ、翼をばたつかせた。まあと夫人の漏らした声をかき消すかのように、緑色のトリは部屋の中を音をたてて飛び回った。
 モールシリーズと呼ばれるそれは、本物そっくりの鳴き声と、触りごごち、匂いを表現する家庭用玩具だ。動物の性質を保ちつつも、食事や排便などの処理が必要なく飼育できた。飼育によるセラピーも期待できるとあって、人気を集めた。
「お世話の仕方については、オンライン上で確認できますから」トリの飛ぶ様子に釘つげになった様子の夫人にリンが声をかけても、夫人はリンにわずかばかり顔を向けてええ、わかってますと告げて、すぐさまトリの方に顔を戻した。
『眠れそうな時に覚えてたらやってみて』
 トリは自由を謳歌するかのように部屋を悠々と飛んで、カーテンレールのところに止まった。リンが一度トリに手を振って、部屋から出て行った。
 自転車で走る中、ピッと想話の切れた音がした。想話が切れた後、すぐにパッパッパと呼び出し音が鳴る。
 青信号になると、自動運転の自転車が、さっとリンを追い越していく。リンはぐっとペダルを踏み込む。柔らかい風がリンの髪を撫でる。
『やあ、元気?』
 

 オフィスに戻るまでの間中、リンはずっと想話の相手の話に耳を傾け、想いを届けていた。
 想話。脳内に小型通信器を埋め込むことで可能になったコミュニケーションツールの一つで、思ったことを発話することなく相手に送信することができる。発話と違って、その言葉のイメージや情景も想い浮かべ、相手に伝えることができた。言葉の受け取り違いが全くないことも、このコミュニケーションの特徴であった。従来の発声型通信機よりも通信速度が速く、かつ内容も正確に伝わるとあって、多くの人に用いられていた。
 時刻は昼を過ぎていた。リンは自転車を止めると日向で体を伸ばした。気温が上がり始めると、なぜか相談者の数は少なくなってくる。24時間の中でわずか休息に、リンはゆっくりと息を吸い、鼻から吐いた。太陽の力は人を前向きな気持ちにしてくれる。リンは手を翳して、日光の暖かさに目を細めた。
 オフィスに入ると、天井の止まり木に色とりどりのトリたちが群れをなして休んでいた。部屋の中央には10人掛け用のミーティングテーブルが一つ。業務用のパットとタッチペンがテーブルにあり、コードがタッチペンの尻に付けられていて、【おこっちてくるぞ】と書かれたメモがペンケースに貼り付けられていた。若い同僚が、座って作業をしていて、オフィスにはトリと同僚とリンだけだった。入り口から見て左奥には、天井から伸びる格子状の柵に囲まれた小スペースのカフェテリアで、コーヒーとパンの自動販売機がブーンと低くうなっている。北向きの窓下には、予約販売分のモールシリーズの箱が積まれていた。
「今日は何体売れました?」今日の売り上げのデータを処理しつつ同僚がリンに声をかけた。
「俺は、販売で5も捌いて、予約と合わせて12でした」
「また親父に買ってもらったよ、ノルマ達成も楽じゃないね」リンは、同僚の向かい側に座り、パッドをタップして、業務報告の画面を開いた。
「流石に10何体も買わないでしょ」同僚は、何度もその手には引っかかりませんよと、テーブルを叩いた。リンは、画面に注目していた顔をあげて、同僚の顔をまじまじと見た。
「実はそうでもないんだな、はじめはフェイクペットなんかって思っていた人が、1体目を購入した途端、その可愛らしさと飼育の煩わしさのなさに気をよくして2体目を購入する。最初は同じ種類だ。けど、番で買ったとしても子供は生まれないわけだし、なんだか物足りなくなってくる。そういう時に、別のシリーズの動物に目がいくわけだ。例えば最初に犬を飼ったとする。犬のような中型タイプは場所をとるから、今度は犬よりも小さくて、場所を取らないものがいいと考える」
「なるほど! そこでトリちゃんになるわけですね」同僚は、リンの顔に向けてタッチペンを向けた。ビョンと尻についたコードがはねる。リンは、重く息を吐いて、首を横に振った。
「いや違う。まずは、ハムスターのような小動物を購入するな。なぜなら、犬をすでに購入していた場合、飛行するタイプの動物を飼うことを想定してない場合が多いからだ。そこで、ハムスターは、小ケースで飼育してスペースを取らないし、複数購入を考えてもリスクは小さい。大体このあたりで4〜5体は所持することになるな。このあたりに入ってしまえば、小動物のカタログを開いてどんなシリーズがあるのか眺める頃合いだ。そこで選択肢に上ってくるのが、」
「トリちゃんですね!」
「その通り。トリや魚、虫など小型のシリーズは案外揃っているもんだから見てみるといい。他の種類のシリーズを10何体持っているのはそんなに珍しくはないわけだ。まあ、もちろんおんなじシリーズを何体も飼っているのは、滅多にいないから、営業が苦手な新人のために買ってあげる親戚か家族くらいなもんだよなあ」リンは、大きくうなづきながらタッチペンを操作し、売り上げを入力した。
「言っときますが、俺は家族に頼んだことは一度もないですよ、いくら営業販売でノルマ設定があるからって、そこまではしないしない。予約販売だってかなりの数があるんだから、ノルマ設定だっていらないはずじゃないですか、そんなことしてたら買ってくれる新規客減らしちゃいますよ」同僚はパットの画面をオフにすると、カフェテリアの柵を開け、コーヒーの自販機のボタンを押した。
「そうとも言えるな」画面上の緑色のトリから吹き出しで【お疲れ様でした】と文字が表示された。リンはそれをタッチペンで数回突く。
 天井に休んでいた1羽が、ミーティングテーブルの端に着地した。ほんのりとピンク色の対趾足を器用に使って、タッチペンを掴む。タッチペンを持ち上げて遊ぼうとするが、コードが伸びて、天井には持ち去ることはできなかった。無造作にタッチペンを落とすと、今度はコードの方を弄んだ。
「見てる分だとほんと、生きてるみたいですよね、本物みたいに」同僚は、リンにコーヒーを差し出した。リンは、すまないと言って受け取って一口飲んだ。フリーのノンカフェインコーヒーといえど、香ばしさと苦味は美味しい。リンは立ち上がる香りに誘われてもう一口、コーヒーを含んだ。「本物って見たことある?」
「え? いやあ、ないですね、このトリのモデルは確か」と同僚は、調べようとテーブルのパットをタッチしたが、「ワカケ、ワカケインコ」リンはすぐさま即答した。本物はダンスもできるんだと足を交互に出して、手を口元に持って言って嘴のように突き出した。
「ああ、それっぽいそれっぽい」同僚は、笑った拍子にコーヒーを2、3滴テーブルにこぼした。
「僕も見たことないんだけどね、まあ早いうちにこいつもダンスできるようになるだろう」リンはトリに向かって手を開いたり閉じたりして、ぴゆうと鳴いた。

 パッパッパッパッと2、3回くりかえされた音にリンは目を開け、ゆっくりと右手を伸ばして、ベットサイドのライトをつけた。暖色のぼんやりとした光が部屋を灯した。その光をじっと見つめているうちにリンは、想話の呼び出し音がすでに切れてしまっていることに気がついた。
 オレンジ色に染まった部屋は狭い。ベットのすぐそばにはデスクがあり、向かって壁側には床から天井までの本棚がそびえていた。隙間なく収められた本と、本が床に積み上がっている様子は、さらに部屋を窮屈に感じさせた。わずかにのぞいているフローリングはライトの光を鈍く反射させている。
 もしかしたら、またくるかもしれない。リンは、重い瞼を閉じないように、本棚に並ぶ背表紙を眺めた。
 『想話の基本10』、『声と想像』、『傾聴の教科書』。何度も読んで、気になったところのページの端を折り畳んだり、付箋をつけたりするせいで、形が崩れてしまった本がいくつもある。しかし、リンはそれを見るたびに自分がやってきたこれまでを思い出して、それらの本がこぎたいものとして感じるよりも、やっとその本に書かれた内容が自分のものになってきたと安心するのだった。
 毛布にくるまってぼんやりしているうちに、少しずつ睡魔がリンの頭に覆い被さってきた。その時、待っていた音が頭の中で鳴ると同時に、リンは『やあ、元気?』と思いを発していた。穏やかな、本の中に囲まれた安心感を漂わせて。
 すぐさま頭の中に、相手の動揺した想いが伝わってきた。場違いな想いを投げてしまっただろうか、リンは想いを止めて、相手の言葉を待った。
『あら、ごめんなさい、もしかして誰か待ってた?』その想いの主の名前をリンは知っていた。わかった途端にリンの中にあった細い緊張感は溶けてしまい、今にも眠たくなってしまった。
『いや、今日は珍しく誰も。それよりなんだい』リンは目を瞑ったまま応えた。さっきまでの安心感を打ち消して、質素な部屋の壁紙のような気分をイメージさせた。
『今日はめっきりね』一瞬乱れた通信も、いつも通りの彼女の、落ち着いた雰囲気に戻っていった。街の明かりの消えた、静寂な夜の空。
『だって2時よ、しかも月曜日の夜』リンは、ちらりとデスクの上にある時計を見て確認した。確かに滅多にないことかもしれなかった。
『でなんだい、寂しくなってこんなじいさんに相談したくなったって?』
『やめてよ、コーヒーを飲んで眠れなかっただけよ』
『僕は君の睡眠安定剤かそれともホットミルクなのかな? でもまあ、よく言われるよ、ずっと聞いていたい柔らかい声だってね。僕の名前も知らないのに、僕に当たると嬉しそうに喜ぶ女の子の一人や二人。こんな夜中にコーヒーを飲んで、健康的ではない人はお断りさ』リンは、暖かなミルクの中に浸かっている自分の姿を想像した。陽気なハミングをしながら。
『コーヒーっていったて、成分調整されてやつよ』外が暗くなっても床につかず、デスクに座って、いつくるともわからない想話を待ちながらコーヒーを啜る一人の女性のイメージ。奉仕的な活動に時間を惜しまない、模範的で理想的な人物そのものだった。
『君は真面目だなあ、そのうち疲れてくたくたになっちまうよ』
『幸福な生活を送るのが大切だし、もちろん体を壊さない程度にこうやってミルクを飲みにやってくるのも忘れないもの』ごくっと暖かいミルクを飲み干した彼女のイメージが飛び込んでくる。
 幸福な生活。その生活基準が推奨されてから半世紀。今では幸福な生活のチャックリストを70%以上クリアすることが、模範的な市民とされて、時には入学試験で、時には就職活動で、時には免税審査で評価される社会基準となっていた。
社会的な生活を営み、信頼のおける人物としての評価として、チャックリストの内容は、初等教育の指導内容にも組み込まれている。定期的なダイアリー更新、カウンセリングに相談の利用、親切な行動をすること、感謝の自発的な表現、社会的なボランティア活動と適度なセックス。
『活動を始めてどれくらいだい? 3年はたったかな』
『今年で4年目ね。ちゃんと続けられているのも研修の先生がよかったからかしら』
『なんたってイカしたじいさんだからね』伸ばしたまんまの長い髪を一つに束ねて、色白の肌の女の子。前髪はメガネにかからないように真ん中分けだった。年齢にしては見た目に気をかけてないせいで、陰気な気配を漂わせていたけれど、口を開けばそれは、彼女の今まで勉学に勤しんできた故への犠牲だったことがわかった。
『確かに、あなたは年にしては落ち着きがなかったわ。色黒で、黒のシャツにジーンズ。それと革靴ね』
『見た目に気を配ることを常に意識してるんだ、相談の相手がヨレヨレのシャツをきた奴だったら嫌だろう? それに伝える気がなくても伝わってしまうんだな、僕がイカしてるってね』
『確かにすらっとした足にジーンズは似合ってた。あなたから学んだことは簡単な活動の歴史と、いかにオシャレに気を配るかだった』
『何せ君はいろんなことを知ってそうだったからね、僕が話始めたら、君なんていったか覚えてる?』
 相手は何も思わずに、肩をすくめるイメージを送ってきた。
『もう知ってますって言ったんだよ。分厚いメガネの向こうからまっすぐ僕を見つめてね』
『活動が誰から始まったとか言い出すから、そんなことはすっとばしたかったのよ、すでに座学は受けているんだから』
 リンは、毛布を肩までかぶって足をたたんで丸くなる。あの時の彼女をからかいたかったわけでなかったのだが、初めての研修だったのは彼女だけではなかった。
『君、知っているかい? この活動は、ある牧師からはじまったんだ。黒い電話で、リンってベルが鳴るのを待っていた。その意思を継いだ人たちが、別の形で続けているんだって。ロマンチストだったのね、それとも私で遊んでたか』
 ミルクに滴が一滴落ちたように、パッと弾けたイメージが飛び込んでくる。そのイメージにリンは、頬を綻ばせた。
『硬くなっている女の子をリラックスさせたくてね』
『一層胡散臭く感じたわ』
 くっと、腕を伸ばして伸びをする様子が伝わってきた。そのイメージを受けて、そっとリンはベットサイドのライトをオフにする。
『そろそろ寝るわ、粘っても意味ないしね。ありがとう付き合ってくれて』
『おやすみ、イーナ。また明日も頑張ろう』
『ええ、おやすみ』
 ピッという音とともに、リンは深く息を吐いた。ゆっくり息を吐く度に、体の力はほぐれ、睡魔を優しく向かい入れた。頭の中には、よく梳かされた髪の向こうに微笑んでいるイーナの姿が浮かんでいた。

 

 

 2 

  久しぶりにセンターを訪れたリンを待っていたのは、イーナだった。細身のストレッチパンツを大股に開いて、胸の前で腕を組んでいる。ヒールを鳴らして、悠然と歩くリンの前に向かってきたが、リンに近づいてイーナは眉間の皺を解いた。
「ちょっと、一体何があったの? 連絡しても繋がらないから心配してたのに」
 リンの色黒の肌には艶がなく、目の下のクマがくっきりと浮き出ていた。よれたワイシャツから漂う、汗の匂いがイーナの鼻をヒクヒクさせた。
「最高記録を更新してね、なんと深夜ぶっ通し。はじめはファイトしてて、怒鳴られぱなしだったんだけど、本当はいいやつなんだ。そんなに年も変わらないし。それからは七日間は繋がってたかな。頑張り過ぎたのか夢見は悪くてぐったりしててね。仕事もしばらく休んでゆっくりしてたのさ、悪いね遅れちゃって」
 黄ばんだ歯を見せつけるように笑ったリンの様子に、イーナはため息をついた。「当番でもない時に活動しない、過剰共感の傾向に気づいてる? 自業自得の遅刻は言い訳にはならないわよ。今すぐカウンセリングを受けてっていいたいところだけどもうみんな集まってるし、あなたのルール破りにみんなかまってられないの」
「いつもは心配してくれるのにね、もしかして僕へのクレーム?」
「自意識過剰もいい加減にして、ささっとトイレで顔でも洗ってきてちょうだい」イーナは鋭くリンを睨んだ。その顔つきにリンはたじろいで、ごめんよと呟いた。
  

 リンは、イーナの言った通りに顔を洗った。洗ってからリンは、自分が手ぶらであることに気がついた。また怒られそうだと思いつつも、リンはワイシャツをズボンから引っ張り出して顔を拭った。鏡に浮かぶ自分の頬を撫でると、無精髭がちくちくとして指に当たった。営業用のズボンには、くっきりとシワがついていた。ワイシャツをしまって、濡れた手でシワを伸ばすように拭う。
 リンは最上階の2階に上った。低階層の作りは、昔校舎だった時の名残であった。整備されたガーデンがある屋内公園は、以前の校庭で、それをぐるりと囲むようにセンターは立っていた。想話カウンセリングルームは、2階の西棟にあって、東口の正面玄関の反対に位置していた。くたびれた様子でセンター内を歩くリンを心配するナースや専門医に何度も声をかけられては、自分がまともであることを繰り返した。「よく言われるんですよ、顔色悪いってね」
 ルームに入ると、各担当の日数カウントの合計をディスプレイに表示している最中だった。会長のザラが、集計していく。どんな内容の相談でも慌てず騒がずの精神の持ち主であるザラは、その画面上の数字を見ても表情を変えることはない。地区担当のほとんどがルームに集結しているさまは、普段はセンターで活動していないリンにとって初めてみる光景だった。隙間なく並べられた椅子は満席で、顔見知り同士座っているのだろう、各々が小声で話し合っていた。リンは、仕方なしにドアの付近にあった丸イスに座った。入り口付近を睨んでいたイーナと視線が合う。イーナは最前席に座っていた。
「報告通り、ここ3週間で急激な変化が起きています。先々週の1週間では相談件数は353件と平均より少ないくらいでした。そのあと203、直近だと126件です。別の媒体にも実情をきいてみましたところ、相談件数は減少傾向にあるようです。要因はまだ掴めていません」
 ザラは、淡々とした口調で話し始めた。自慢の白髪をしばらく切っていないのか目元のメガネにかかって、話すたびに前髪を掻き分けた。黒のジャケットに降り積もっていく白い粉に気づくと話し中でも構わず払い取る。
「既遂率はどうなっているんですか? まさか上昇とか」イーナがすかさず質問する。ザラは鼻当てを押し上げて、下から覗き込むようにイーナに視線を移した。ザラの猫背は、年をとるにつれてさらに傾きがひどくなったようにリンには感じられた。
「もちろん、確認済みです。今月の原因不明の項目は、速報値で1000件に満たないそうです。月平均が1200前後であるのに対して、こちらも減少傾向にあります」
「新規性のプロモーションが成功したんじゃないですか。それともこれまでのプログラムが浸透して劇的に効果をあげてきたとか」中央の席に座っていいる体格のいい男が声を上げた。
「そちらについては現在、対策本部が調査中です。ですか年々の微弱ながらも減少傾向にあった項目が急激に変化するのは注意が必要です。すでにお伝えしていますが、対策本部の要請に基づいて、カウンセラーのアンケート調査を開始する予定です」ザラは、演台のパットを操作すると、アンケートデータをディスプレイ上に表示させた。最近行った相談内容に関する質問に、聴衆たちは顔を顰め、手を挙げて質問しようとする者、隣同士で議論し合う者で場内は騒めいた。
「相談内容の利用については、もちろん今回の調査にのみ使用します。事前に異変に気づき、対策を講じることで取り返しのつかない事態を回避することができるでしょう」
 取り返しのつかない事態。途端に静まり返って、口をつぐんだ聴衆たちの中に、異論を唱える者はいなかった。リンは、震える膝に力を込めた。湿らしたシャツに触れる肌から体温が抜け、気持ち悪さにリンは腕を摩った。
「二度目の集団既遂が起きる可能性はあるんでしょうか?」ザラから見て左側の末席に座っていたショートヘアの夫人がその沈黙を破った。聴衆の注目が一気に夫人に集中する。ザラは首を横に振って答えた。
「前回との違いはすでに明らかです。今回の場合については、前回のような技術革新もありません。相談件数の急激な減少は、前回と共通していますが、今回は既遂率も減少傾向なのが特徴です。しかし今回の変化について、前回と同様の結果が導き出されないとも言い切れません。最悪の事態を想定しつつ動くのが最善だと考えます」
 ザラは続けてアンケート調査に関する注意事項を述べ、聴衆からの質問に答えると閉会を告げた。慣れた手つきでパイプ椅子を片付ける本部担当に促される形で、参加者たちはぞろぞろと部屋から出ていく。参加者たちの帰宅の波を避けるようにリンは部屋の隅に丸椅子を寄せて座り直した。ザラの周りには人だかりができていて、その中にはイーナも混じっていた。
 
 油汗が首筋を通って、その深いな感触にリンは、首筋を強く擦った。頭の中に浮かび上がってくる記憶をなんとか打ち消そうと、深呼吸を繰り返した。イーナが帰ろうとしたらタクシーでも呼んでもらえばいい。パイプ椅子を畳むガチャンという音が、リンの頭の中でこだまする。イーナの様子を伺うことも忘れて、ぐったりと顔を伏せて、痛みを紛らわすためにカーペットに絡み付いた髪の毛を数えた。繰り返し数えたあまりに、カーペットの髪の毛が実は何本あるのかわからなくなったとき、リンの肩を優しく揺する手の感触とほのかな石鹸の香りに気がついた。
「その体調不良が自業自得とはいえ、君にはショッキングな内容だったね」リンがその声に顔をあげると、傍に座っていたのはザラであった。そしてザラの後ろには、容赦のない顔つきのイーナも立っている。
「ダメですよ、甘やかしちゃ、こうなるってわかってるんだから過度な活動は禁止されてるんだから」
 ザラは、イーナに向かって優しく微笑みかけた。
「もちろん、ルールはルールだ。破っちゃいけないね。この状況が落ち着くまで、公式にも個人的にも活動は厳禁だ。わかったねリン」
 リンは、顔をなんとか起こした。じっとりと汗をかいた顔に、浮腫んだ瞼から黒い瞳がザラを見つめた。
「そんな、寝れば治りますよこんなの」
「君の今の状況だけを言っているんじゃないよ。君はこの件に関わらない方がいいのさ。さあ、床に寝転がりなさい、医者を呼ぶよ」
 流れ落ちるかのように床に倒れたリンをザラは横に寝かす。ジャケットを脱いで丸めるとリンの頭の下に入れ込んだ。
「さっきまでふざけてたのに」
「頑張りすぎてしまうのさ、心配させないとばかりに気を使ってしまう」ザラは、リンの顔に浮かび上がった脂汗をハンカチで拭った。
「相談員には何かしらそれに携わるまでの、辛い過去があるものだ。君にも、私にも、そして彼にも」 
 イーナは、さっと視線を落とした。ザラは、ハンカチをしまうと、カーペットに座り込んだ。
「彼には何も教えないし、何もさせない。覚えておいてくれ、イーナ」
「あの噂のことも?」イーナは、ザラのそばに座って小さな声でつぶやいた。
「もちろんだとも」ザラは、カーペットに横たわるリンから視線を外さずに、はっきりと答えた。

 また明日。そう恥ずかしそうに答えたカナのイメージは、今でもリンの頭の中に焼き付いている。はじめて想話技術を頭に埋め込んでから、起きている間中ずっとつながっていた。いまだマナーもルールも決まってない、それでもみんなが装着しはじめたら、欲しくなるのは当たり前で、大人がもっているなかで、やっと使うことができた友だちとのコミュニケーションのためにどんどん波にのっていくのが当たり前だった。
 朝目覚めると、カナの髪を梳かすイメージが飛び込んできた。朝早くおきて、学校にいくための準備をする様子。リンが、そっとそのオレンジ色の髪をすっと撫でる様をイメージして送ると、やっと起きたの?とカナの軽快な笑みと共に送り込まれてくる。クラスの違うときは、授業をそっちのけでずっとたわいのないことを送り合った。そんな感じですごしていても、カナの成績は下がらないからリンは不思議だった。
 幸福な生活。あのときの生活が、リンにとってのすべてだった。
 幼馴染のカナは、活発で、いつもリンを引っ張って導いてくれていた。幼いころのリンは自分の意思に反して成長していく体を持て余して、いつもイライラしていた。思ったようにボールが取れないとき、机と椅子が合わなくて壊してしまったとき。カナの「ねえ、私のボディーガードさん、ちゃんと私のそばにいて」の一言で、ああ、そうだったとリンは思い出すことができた。カナのそばにいて、離れない。小さなカナを守ることが、一番なのだと。
 想話になれるのに時間はかからなかった。眠くなるまで、ベットのなかで想いを飛ばし続けていると、自然とそんな雰囲気になっていくものだった。カナの柔らかい髪を梳かし続けていると、カナはいやそうに手を払って逃げてしまう。それでも日差しにあたってキラキラと輝くカナの髪を想像していると、カナはその想いに応えるようにリンの頬を撫でた。リンは気持ちが昂ってくると決まって急におやすみを伝えて一方的に通信を切った。伝えようと思ってもないことが相手に漏れてしまうということを聞いたことがあったからだった。写真や映像でなんども見たことがあるけれど、カナのものは見たことはなかった。それに触れたい、触りたいと想ってしまう前にリンは想話を切ることを意識していたのだ。カナがしたくないことを強いるつもりはなかったけれど、想話が切れても残っているカナのイメージで、夜を過ごしたことは何度もあった。
 今日はすぐ切らないでとカナが告げた夜。リンは何か切り出されるのかと思うあまりにイメージを飛ばすことが少なかった。しんと静まり返った教室のイメージを飛ばしたカナの気持ちがダイレクトに伝わってくると、リンはごめんと言葉を返した。いいの、わがまま言っちゃったとカナの申し訳なさそうな表情が浮かぶ。カナのおやすみの後に続けて、リンがイメージを返そうとしたとき、カナからのイメージに頭が混乱しそうになった。柔らかい唇が、熱く絡みついたのだ。ベットの横にカナがいるかのような感覚。温かい柔らかい息が耳にふっとかすめる感覚。ブルーの瞳に吸い込まれそうな感覚。そこからお互いの思いつぐかぎりのイメージを飛ばしあった。ちぐはぐな体のイメージに、二人とも笑ってしまったのだった。

 想話の技術はまだ未発達だった。故に起きてしまった事故の一つに過ぎない、一般的な見解はそうなっているけれど、リンにとってあのできごとが本当にそうだったのかと今でも心のなかに突き刺さっている。
 はじまりは赤い靴だった。カナは、その髪の色をきにして赤い色を身につけることは、母親の趣味から脱する年頃になってから一度としてなかった。それなのにある日、学校の前で待ち合わせしていたときに、いつものパンプスよりもヒールがたかい赤い靴を履いて、カナはリンの前に現れたのだった。
「珍しいね、それ」リンは言った瞬間もう少し気の利いた言い方をすればよかったと後悔した。実際とてもその赤いパンプスはカナに似合っていたし、何よりもすらりとした細いふくらはぎの白さが際立って、とても綺麗だったからだ。
「アドバイスに従ってみたの」にこっりと笑ったカナの笑い方、どことなく自信の現れのようにリンには感じられた。いったい誰からのアドバイスなのかいくらきいてもカナは教えてくれなかた。その日を境に、靴だけではなくそれ以外の服装にはっきりとした、赤色を差し込んだ。真っ赤なスカートに、真っ赤なワンピース。
いっときの流行なのか、ファッションに興味のない同級生も赤色の服や小物を持ち歩いた。
 カナとの想話は赤い色のパンプスをはいてきた日から、繋がらなくなっていた。リンがカナと同じ授業のクラスになると、カナはリンに気が付いて話かけてくれたが、その表情は、どこかぼんやりとして瞳の焦点はあっていないようにリンには感じた。誰か別の相手と想話をしているのかと簡単に聞けばいいももの、リンは自然な感じで聞くことができなかった。
 待ち合わせにもカナはやって来なくなった。その日は、同じ授業のはずなのに、クラスに入った瞬間、リンは体が凍るような寒さを感じた。すでにカナが教室に入って席に座っていたのだ。いつもの薄化粧とは違う、真っ赤な唇としっかり引いたアイライン。柔らかい髪はしっかりと固められ、ピンと張ったポニーテールにまとめられていた。
「カナ」気づいた時には声をかけていた。ゆっくりと向けられた瞳は昔のままだった。リンはいったい誰と想話をしているのか、カナに聞いた。僕が嫌いになったのならはっきり言って欲しい。そう言った最後リンは涙ぐんでいた。
「とめられないの」カナは、リンの向こうを眺めるように焦点の合わない様子でいった。「私のことをよく知っているんだけど、私は知らない人からのイメージがずっととめどなく流れてくるの」カナの視線が一瞬、リンの瞳を捉えた。助けを求める、カナの弱々しい声を聞くのはこのときが初めてだった。
「いったいどんなのなんだ? そのイメージは」クラスメートたちが集まってざわついている教室のなか、リンは声を荒げた。
「真っ赤な光、その中に私がいるの」そう言い終わるとカナは、視線をリンから外して、目を泳がせた。それからは何を話しかけてもカナの視線がリンの方を戻ることはなかった。
 その日の夜。カナは生きることをやめた。自らの手で、命の火を消してしまったのだ。カナは、鮮血のような色のワンピースを着て、ベットに静かに横たわっていた。その日の夜この世を去ったのは、カナだけではない。何人もの人がその日を境にいなくなった。同じ色を纏い、寝室にて静かにこの夜から去っていったのだ。
 集団既遂。いまではその日の出来事をそう呼んでいる。

 病院で数日間の休養を強いられている間、リンは相談活動も仕事もできず、通信が閉ざされた病室で1日を無駄に過ごしていた。イーナやザラが見舞いに来るたびにいかに自分が元気かアピールをしたが、相談活動の停止が覆ることはなかった。看護婦や医師はガードが緩く、既遂率の減少がさらに進んでいることを教えてもらった。退院後、家に帰ったリンは、相談者の中でもリピーターの相手に、てあたり次第に想話をかけた。そしてイーナとザラが話していたある噂を知ることができた。
『お久しぶり、今日も素敵な声ね、名無しさん』澄み渡る空に、草原のイメージが浮かび上がってくる。その中央には、白いワンピースをきた女性が手を振っている。必ず月曜日の夜にかけてきてた想話の相手を、リンは、ここの中で【深夜】と呼んでいた。【深夜】は、他の使用者と同様、相談員であるリンの名前を知らなかった。そこで【深夜】は、リンのことを【名無しさん】と呼んでいた。清々しいイメージは、今までで深夜からは一度たりとも送られてきたことのないものだった。
『ずいぶん良くなったみたいだね、見違えるようだ』深夜のイメージを受け取ると、リンは不安定な心のうちが落ち着いたように感じ、その野原で寝転ぶ自分の姿を飛ばした。
『天使が来てくれたのよ、私のところに』真っ白な空間に浮かぶ朦朧とした光。
『なにか良いことがあったんだね』すぐさま深夜から正解と伝わってきた。
『天使は、私に伝えてきてくれたの、それからは何もかも素晴らしく感じるのよ。晴れ間のない日にはかならず落ち込んでいた気分も、いつかきっと晴れるからって部屋のなかで安心して待てるの。だっていつだって天使が見ていてくれているのよ』
朦朧とした光に包まれていく一人の女性のイメージは伝わってきた。深夜から送られてくるイメージは、どれも曖昧であったが、リンは、そのイメージから不安定さを感じることはなかった。むしろその逆であった。
『ある日ね、想話で伝えてもらったの。どうして私に繋げられたのかわからなかったから、すぐに頭の中から消してしまったわ。でもね、そのあと何度も何度もかかってくるの。それでね受け取ってみたの。誰かがどうしても伝えたいのかもしれないって。いつも相談にのってもらってばっかりだから誰かの相談をうけてみるのもいいかもしれないって。だってそのときとっても辛かったの。誰にも繋がらなくて、私あなたにもかけたのよ。でも繋がらなかったの。だからね、最期に受け取ってみようかしらって思ったの。もしかしたら一緒になんてね。繋がったらゆっくり、柔らかいぼんやりとした光が、私をつつみこんでくれるの。それからはいろんな私のイメージを見たの。いろんな私のいろんな人生をみせてくれたわ。私が人前にたって演説しているイメージもあったわ』白い紙に薄く溶いた絵の具で描いたようなイメージ。それはどれも色鮮やかではあったが、明瞭さにかけていて、深夜からの説明がないままではリンに捉えることのできないものだった。ものの輪郭をすべてとってしまい、すべてが溶け合ってしまったかのようなイメージだった。
『そのイメージを送ってくれたのは誰かなのか今でもわからない。でもね、それでいいの。誰かであるかなんて関係ないの、これからの私の可能性を教えてくれたんだもの。ねえそうは思わない?』
 リンは、その深夜からの呼びかけに、自身の心が揺らいだのを感じとった。何に対して動揺しているのか自分自身でもわからなかったのだ。その想いを整えて、まず相談にのれなかったことの謝罪を深夜に送った。
『いいのよ、もう私は大丈夫だから』生温かい、ぼんやりとした光がリンを包み込むようなイメージとして深夜からおくられてきた。リンはその抗えることができない光から逃げるかのように、ありがとうとその言葉だけ深夜に飛ばすと一方的に想話を打ち切った。

 

3

  既遂率の減少傾向はさらに続き、とうとう月間で2桁までいくことになった。相談件数も以前よりも少なくなった。集団既遂のような事件が背景にあるのではなく、新規のプロモーションの効果だと正式に公表された。幸福な生活基準がついに人々の命を救ったのだと、推進者や相談者たちは大いに喜んだ。集団既遂と今回の件が関連していないとわかるとリンの相談活動停止命令はすぐに解除された。しかしリンは、解除されたあと、まったく相談が寄せらないことから、イーナやザラがわざと操作しているのではないかと何度も不満をぶつけた。
 悩む人がいなくなれば、相談件数も下がる。より健康になれば、既遂率も下がる。考えれば当たり前のことだったが、リンは納得できなかった。今までの生活を取り戻せると思っていたばかりに、そうならない事態に対応できず、自分の部屋と会社のオフィスを行き来するだけの生活で、そこには仕事へのモチベーションも自分への関心さえもなかった。業績は、いままでの評価がある分変動することはなかったが、上司から口頭注意を受けた。部屋のなかの本の表紙をすべてひっくり返し、本を見ないように壁側にへばりつくようにリンはベットのなかで眠りについた。
 誰かの悩みを受け入れ、それを明日へ導くこと。自分が誰かを助けているとリンはこれまで誇りに思っていたが、実はそうではなく、自分自身が救われたかっただけだったのかもしれないと休日の日曜日、朝から晩までベットから出ずに考えついた結論だった。
 誰からも必要とされないという事実が、あのときの出来事をフラッシュバックさせた。カナと交わした最後の言葉。カナの声。あのときの出来事で立ち直ることができたのは、あの事件以来非難が上がっていた想話技術で相談活動を始めた一人の相談員のおかげだった。『その子のことを愛していたんだね』ザラの淡々として距離をとって相手に踏み込もうとしないイメージは、リンの心を慰めた。誰かが自分に伝えてくれているということ。それだけで救われていたのだ。
 想話の呼び出し音がすると、リンははっと混濁した意識から浮かび上がるかのように覚醒した。その久しぶりの呼び出し音に耳を澄まし、リンはその想話を受け取った。
 一気に流れ込んでくるイメージの渦に、リンは息を止めた。もうスピードで流れるそれに現れているのはリン自身で、よく笑い、よく歩き、よく働き、よく生活する姿であった。イーナと肩を組み、デートをするリン。イーナのポニーテールが左右に揺れて、肘のあたりに毛先があたってこそばゆい気持ち。イーナの香水のかおり。イーナが振り向くと、その顔は、ザラの顔に変化する。ザラが会長を去り、その後任にリンを推薦し、みんなの前にぴっしりと皺のないスーツを着て立っている。恥ずかしそうに笑うリン。その目の前には、数々のイメージで共有しあってきた相談者たちの姿がある。そしてカナ。カナの柔らかい髪の毛が揺れる。カナと結婚し、子供を育てている。そこには家族のために働くリンの姿があった。相談員として相談者を支えているリンの姿も現れる。夜も眠らず、じっと相手を待つ時。仕事中も相談にのってしまって、ザラに叱られるリン。さまざまな、今のリンと同じ日々を過ごしているイメージもあれば、全く異なるイメージもあって、リンの頭は混乱した。カナと子供の笑顔が頭の中を走った瞬間、リンは息を吐いた。深く、深く。
『カナに会えた、それだけでもう十分だ。やめてくれ、お願いだから』深夜から受け取ったあのぼんやりとした光をもう一度想像してみる。いまだ残像としての頭にあるイメージが邪魔をしてうまく処理することができなかった。
『カナに送り込んでいたのはお前なんだろう。あの出来事と今回は全く違うかもしれないが、やっていることはおんなじだ。想いで人を操ろうとして、いったいなにが目的なんだ?』リンは、負けじとイメージを何度も何度も相手に飛ばした。どこの誰かもわからない相手に対して。
 暗闇の中、ぼんやりと明るい光が放たれた。光が束になって明瞭さをもってまた怒涛のように流れ込んでくる。それは、集団既遂でこの世に別れを告げた人たちの最期の姿だった。頭に現れた一つの言葉に、リンは吐き気を催した。いままで一度たりとも使ってこなかった言葉。誰もが避けて、通れないものであるのに、それをみないようにしている言葉。自らそれに落ちないように数々の手段が施されてきた。
『例えば死。言葉によって、人は絶望し、また逆に希望を抱くこともある。言葉とは何か? 私はそれが知りたい』ぼんやりとした光の束は、深夜が表現したような光のように朦朧として、リンに迫ってきた。
『お前には一生わかるはずがない。人のいたみも苦しみもわからないお前には、お前は天使なんかじゃない、悪魔だ』リンは、吐き捨てるかのように想いを飛ばすと、こときれたように眠りについた。頭の中で笑う、カナの姿に手を伸ばした。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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