夏の残影

印刷

梗 概

夏の残影

 高校生の夏尾は夏季休暇を目前に、通り魔によって殺された。
 それに気づかず帰宅し、取り乱している家族を前にした夏尾を『迎え』にやってきたのは冥府の鬼だった。死んだ夏尾に同情のひとつもない皮肉屋の、見た目はスーツを着た普通の男。 
 『カワイソウ』な夏尾は未練を失くすため、最大で四十九日、現世に留まれるのだと彼は言う。

「望みはあるか」と訊く鬼に、夏尾は「自身の生存を偽りたい」と告げる。自分の死によって、深く傷つくことになる家族の姿を見たくなかったためだ。
「四十九日の間なら、どこに行ってもいいん?」
「そうだ」
「どこにでも? 未来でも?」
 男は夏尾に時を渡るための装置を見せる。
 それを使い夏尾は全国津々浦々を、時には未来にまで足を延ばして、鬼と旅をした。
 その旅は自身の死体の遺棄から始まった。死体は夏尾が望めば誰の目にも留まることはないらしいが、彼女の傍では犯人も一緒に死んでいた。同じ場所に死体を置きざりにしたくはなかったのだ。
 海へと漕ぎ出し、夏尾は自分だったものを棄てる。誤って一緒に海へ落ちてしまった彼女は死体が沈んでいくのを見送り、自分が呼吸をしていなかったことに気づく。

 全国を巡って多くの写真を撮り、SNSにアップする。限られた四十九日という時間の中で、夏尾は今後十年の自分の生存を偽っていく。
 夏を中心に、家族の記念日を選んで夏尾は時を飛ぶ。

 夏尾は未成年の失踪者で、同行者の鬼の男は未成年者の連れまわしとして警察に追われることになる。
 けれど生者ではないふたりが人間に捕まることはない。事件染みた痕跡を残しながらSNS上では楽しげに振る舞っている夏尾の行動は、インターネットを中心に世間でも話題になった。
 炎上騒ぎになるほどのその矛先は、夏尾のみならず家族へも向かう。
「家族はお前のことを恨んでるかもな」
「……それでいいんよ」
 身勝手な子だと罵っていい、呆れはて見捨ててくれていい、それでいい。
 悲しまないで、私が生きているとただ知っていて。

 夏尾を見かけたものが撮る写真、夏尾がいないところでも上がる目撃情報、立ち上がったスレッドや、成りすまし、一人歩きを始める『夏尾』に夏尾はとても満足した。
 反面、時間が過ぎるごとに夏尾自身の人間としての輪郭は崩れていく。呼吸をせず、五感は消える。
「もう限界だろう」と鬼は言うが、夏尾は諦めない。
 人でなくなった自分に恐怖しながら夏尾は四十九日『生きている』を演じ、写真を通じて家族へ『愛している』を伝え続けた。

 そして四十九日、夏尾は家族の元を訪れる。
 ひどく恨まれているだろうと知りつつも、今生の別れならば一目見ておきたかった。
 けれど夏尾の覚悟を知るように「元気でいてくれるならいい」と語り合う家族。
 それに夏尾は自分が為したことが実を結んだことを知る。
「……よくやったよ、嬢ちゃんは」
 満たされた夏尾は鬼に連れられ黄泉路を渡る。

文字数:1198

内容に関するアピール

これは与えられた四十九日の猶予を使い、理不尽に殺された少女が日本中を証人にして己の“生存”を偽装する話です。

最早生きていない少女が日々とともに失い続ける『人間らしさ』と、その恐怖に抗いながら勝ち取る『生きている証明』を描きたいと思っています。

サブテーマとして夏尾と鬼の男との関係性の変化も、見どころのひとつにしたいです。

文字数:160

印刷

夏の残影

The dog went off to live on some farm.

俳優の台詞に合わせて、字幕が画面の下部に現われる。

犬は牧場に送ったよ犬は死んじゃったんだ

 

 なるほど、それでは日本語じゃあなんて言うんだろう、とテレビを観ながら夏尾はぼんやりと考えた。担任にオススメされた海外ドラマの第1シーズンを、ようやく始まった高校の長期休暇のおともにしようと、そのとき夏尾なつおは再生したのだ。
 たくさんのお菓子と飲み物をローテーブルに積み上げ、クーラーをがんがんに効かせたリビングで、ひねもすのたりと過ごしていたそんな些細な日々のこと。「あ、お姉ちゃん、テレビ見とるん? やったら、宿題するけんイヤホン貸して」
 教材を抱えてリビングの扉を開けた妹が、ソファに寝そべっていた夏尾に訊いた。「いいけど、自分のはどしたん?」「神隠しにあっとる。三日くらい前から行方不明」
 「飛鳥、」キッチンから出てきた母が小言を飛ばす。「どこでもここでも置くけんよ」
 彼女は首を竦めた。「ちゃんとタンスの上に置いとったっちゃ」「ま、神隠しやけん、気づいたらそのうち出てくるやろ」「夏尾にも言っとるんよ」「うわ、飛び火したやんかちゃ」
 夏尾はローテーブルに放り出していたスマートフォンからイヤホンを引き抜き、妹に手渡した。礼を述べた彼女は夏尾のお菓子を避けてスペースを作り教材を乗せ、カーペットに座る。音楽を聴きながら宿題を進めるのだろう。「夏尾、ちゃんと起きて見り」「はぁい」
 母は夏尾の隣に腰を下ろした。「ママも一緒に見るん?」「うん」「パパと太一は?」「工作の材料買いに行っとるよ」「ああ、自由研究の」
 母に凭れながら夏尾は見逃したシーンを巻き戻す。テレビの中で先ほどの台詞が繰り返される。犬は牧場に送ったよ。それはかなしいことを覆い隠す希望の呪文だ。
 死んでなんかいない。犬はただ、牧場へと行っただけ。
 そこで夏尾はふと思いついたのだ。そうだ日本風に訳すなら、神隠しにあった、と言うんじゃないか。
 いつかまた会えるという、最強の呪文。

 意識が戻ってきた瞬間、ぞっと血の気が引く心地がした。全身が強張っていて叫ぼうにも干からびた喉はうまく機能しない。遅れて全身が細かく震えてきて、夏尾は仰向けのままあくあくと喘ぎながら目玉だけをぎょろぎょろとせわしなくさ迷わせた。
 夜。
 湿った土の匂い、その感触。制服にまで染み込んだ冷たさ。竹の葉のざわめき、遠くで牛蛙がぐえと鳴いた。
 痛みが頭から、全身へと響いてくる。
 なんだこれは。息を殺して数十秒、暗闇の中に悪夢の正体を見た。雲の切れ間から現れた星の明かりが、巨大な岩陰に凭れたモノをあわく照らした。
 悲鳴を上げずにすんだのは、身体が追いついていかなかっただけだ。瞬きもせずじつと夏尾はソレを凝視した。
 眠っている? こんなところで? ソレはぴくりとも動かない。夏尾はゆっくりと身体を横倒しにし、地面に両手をついて上半身を起こした。それっぽっちの動作すら、体が軋んでしょうがないようだった。
 眩暈。ひどく喉が痛む。けほりと咳き込み、慌ててソレを見たが、相変わらず微動だにしない。寝息さえも聞こえない。ふらつきながら恐怖を抑えて近寄った。
 そして、夏尾は今度こそ安堵の息をつく。目を開けたまま、それは事切れていた。死骸を見て嗤う日が来ようとは、夏尾は思いだにしなかった。
 木の根に足を取られ、岩に頭をぶつけたのだ。岩には血痕がべったりと残っている。しかしそれの下半身が剥き出しであるのに気づけば嘲笑もすぐに止んだ。「あ、ぅあ」
 夏尾はせり上がるものを感じて反射的に口を押さえた。しかし胃の蠕動は止められず、ごふりと喉から空気が漏れ、咥内にすら留めて置けなくなった吐瀉物が指の隙間から垂れる。そのあまりのおぞましさに脚が萎え、地面に膝をついてげえげえと吐いた。ざらざらに溶けたものが舌に触れぬよう必死で喉を開くが、少しでもその饐えた臭いと味を感じればまた勝手に胃は激しく震えた。
 苦しくてくるしくて仕方がなかった。こわい、助けて。いたい、くるしい。ぼろぼろと泣きながら、身体に許されるまで、吐きつづける。「…………っまま、ぁ、」
 たすけて。
 咄嗟に思ったのはそんなことだった。胃液と汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を、夏尾はあげる。
「……まま。ママ、おうち帰る、帰るけん」
 口元をぬぐい、ひぐひぐと泣きじゃくりながら夏尾は立ち上がった。場所もわからぬ山中だったが、夏尾はもう無性に母親が恋しくてたまらなかったし、一秒だってこの醜いモノと一緒にはいたくなかった。
 幸いにも獣道ではあったが道らしきものはあり、泣きじゃくりながら下に下にと下りるうちに見知った場所に出た。その頃には白々と夜が明けつつあって、気の早い蝉の鳴き声がした。
 家の前にはパトカーが停まっていた。サイレンこそ鳴っていなかったが、赤いランプが明滅しながら回っており、警官や近所の人に紛れて家族の、母親の姿が見えた。
 泣き腫らし憔悴しきったその横顔にぎゅうと心臓が引き絞られて、夏尾はママ、と叫んで走り出した。
「ママ!」
 もう何も心配ない、心配ないのだと思った。人混みをかき分け、母に抱きつく。優しい匂いを思い切り吸い込む。夏尾と呼んで、抱きしめ返してくれれば、この身に起きた悪夢もいずれ時が癒してくれるはずだ。そう思った。そう、思ったのだ。

……そう思った、  のに?

「夏尾はどこにいるんですか……」
「……ママ?」
 背筋を氷塊が滑り落ちていく。がしゃんと世界と世界を隔てる音を聞いた。
「ママ!?」
 夏尾は母のほおを包む、目線を合わせようとする。少し冷たい母のほおの感触もこの手に確かにある。けれど一向に母は夏尾を見ない。
「ここにおるよ! 夏尾はここっちゃ!」
 ああ、嗚呼。やめて、やめて。判らせないで。
 すこしずつ現実が遠ざかる。確かに触れたはずのその温度が、きっと一秒後には永遠にひるがえる。
「パパ! 飛鳥! 太一!」
 これは悪夢の続き。「鈴木さん!ねえ、おばちゃん! 由紀ちゃん!」
 周りの人をいくら呼んでも反応はない。呼べば呼ぶだけ夏尾は知らしめられる。「早く見つけてください……!」
「もうすぐ捜査を再開します。山にも入ります。大丈夫ですよ、家出の線もありますから」
 がばりと夏尾の母は顔を上げて、鬼母の形相で警官を睨みあげた。あいだに佇む夏尾に気づかぬまま、その視線は通り抜けて。「靴を片方だけ脱ぎ捨てて家出する娘がどこにいるのよ!」
 母の肩を抱く父が深く項垂れた。妹はびくりと肩を震わせて、小さな弟はついに泣き出した。
 ……ママの手に握り締められた、私の右のローファー。
 彼女のその爪先は驚くほど白くて細かく震えていた。

――答え合わせは済んでしまった。

 なぜだろう、その瞬間、すとんと夏尾は納得したのだ。
「……来な」
 紫煙の匂いが鼻先をくすぐり、誰かが夏尾の指先を引く。誰をかも知れぬその人の冷たい手を、夏尾は縋るように握り返した。するすると人混みから連れ出される。黒い背広を纏った長身の男だった。その広い後姿を見上げ、茫洋とした足取りのまま夏尾は男についていった。
 すっかりと明けた朝はすでにじんわりと湿度の高い気温をはらんでいる。今日も暑くなりそうだ。朝の訪れを告げる野鳩の声は平穏そのものだ。
 夏尾はくぐもったこの特徴的な声で目覚め、微睡む時間が好きだった。もう二度とかえらない風景は、まるで幻のようにきらめいている。
 家三軒分ほど離れた空き地の低い石垣に、夏尾は崩れるように座り込んだ。人の声はざわざわとした音の塊としてしか聞こえない距離。弟の高い泣き声だけが、少女の耳にはよく届いた。「……美化委員の仕事の帰りに、近道しようと思って裏道を通ったんだ」
 膝を胸に抱え込み、夏尾は呟いた。
「うしろから殴られて……暴れたら首を絞められたんを、――覚えとる」
 すっかりと汚れた手を後頭部へ、そして、致命傷となった首へ。痛みがあるのが滑稽だ、としずかに降り積もる感情に目を閉じる。ここから数十メートルぽっきりしか離れていないこの距離が、永遠に縮まらない距離となる。間には目には見えないこの世の断絶がある。
 たまに通る裏道だった。人通りは少ないが、いないわけではない。夜は街灯がないせいで真っ暗になるが、夏尾が通ったのはまだ夕刻にもならなかった。竹が密集しているから激しい日の光を遮ってくれて、生ぬるいなりに吹く風は心地よかった。
 後ろから来る大人だって、いないわけではないから警戒などするはずがない。鋭い風切音に振り向く前に、衝撃に一瞬、意識が飛んだ。ここで気絶できていれば、あるいは少しはましな結末だったのかもしれない。腕を掴まれ、アスファルトの上を引きずられ、混乱と突発的に膨れ上がった恐怖に全身で抵抗した。
 叫ぼうとする夏尾にそれは持っていた木製のバッドを放り出し、夏尾に馬乗りになって首に太い指をかけた。引きはがそうとした夏尾の狂わんばかりの抗いは、巨体の前にはなすすべもなかった。
 走馬燈など見なかった。最期まで夏尾が睨んでいたのは、自分を殺したモノだけだ。
「……はは、爪、欠けとうやん」
 目を開けた夏尾は、自分の爪の惨状を見下ろして哂った。少女の必死の抵抗は、圧倒的な暴力の前では、些細なものでしかなかったわけだ。
「こんなところで、って、思った」
 夏尾は隣に座る、咥え煙草の男を見る。男も、夏尾を見ていた。短く刈られた髪に浅黒の肌。高い背丈に着ている喪服はよく合っている。
「――死んどるなんか思わんやんかちゃ、ねえ、」

 死ななかった、死ななかった、生きていた!

 あのときの途方もない幸福よ、それならば、いま、動き、呼吸し、痛みを訴えるこの身体は何者なのだ。「理解が早くて助かるな」
 のろりと夏尾は首を上げた。ひたと男を見すえる眼差しに、死者の怨みが澱む。「お兄さんは、誰ですか」
 夏尾が正しく死んでいるのなら、誰にも見えなかったこの姿が、なぜこの男には見えるのか。「弔問客なら気が早すぎる」「俺は役人だよ」「最近のお役人さんは死人の面倒まで見てくれるんですか。初耳だ」「それが仕事の冥府の鬼でね」
 夏尾はゆるりと瞬き、しばしその言葉の意味を考えた。そして自嘲に唇を歪めた。「……地獄からのお迎えなん? 踏んだり蹴ったやんか」「お前だけじゃない、皆そうだ」「閻魔様のところへいくんかな」「ああ、そうなる」
 石垣から腰を上げ、男は正面から夏尾を見下す。なんの同情のひとつも浮かんでいない顔だった。「――願いはあるか」
 たった一言、男は訊いた。瞬きをひとつ、対する夏尾の応えは明瞭だった。
「――死にたくない」
 男は軽く首を竦めた。すこし笑うように持ち上がった口端に、彼の性根が滲んだ気がした。
「そりゃあ無茶な相談だな。お嬢ちゃんは首を絞められて、その時に、死んだ」
 上背のある男は腰をかがめ、骨ばった人差し指を夏尾の喉元に突きつけた。「細っこいもんだ。あっという間に圧し潰されたな」
 反射的に仰け反って、草はらへ背中から倒れる。恟々と心臓が悲鳴をあげている。額に滲んだ脂汗に、硬直した手足の肉。あれはまだたった半日前の記憶。
 男は背筋を伸ばし、今度こそはっきりと嗤った。「もう誰も嬢ちゃんを殺せねえよ」「……っ!」
 あんまりな言葉に夏尾は喉を引きつらせた。
 ああその通りだくそったれ。頸も、心臓もとっくに潰れたあとだった。もう遅い。死は二度とは返らない。彼の言葉は過たず心臓を射たのに、本当はきっと、痛みもなにももうないのだ、この感情というまやかし以外は。喪った神経を錯覚するように、夏尾は身体がある振りをしているだけなのだ。こんなにも人間をしているのに、夏尾は最早生者ではない。そんなことは誰よりも、自分自身で理解させられている ――けれど。
 少女は上体を起こし、震える拳で太腿を押さえる。眼前の男をしっかと見据えた。
「私の死んだ場所にいく」「それがあんたの願いかい」「違う、確かめに行きたいだけちゃ」「確かめるまでもない。嬢ちゃんは死んだ。死体なんざ見て面白いもんじゃないぜ」「誰が、楽しむために行くっち言ったんかちゃ」
「ま、そりゃそうだ」
 片眉を愉快そうに持ち上げ、そして男は夏尾の手首を掴み、引き摺りあげた。「いいぜ、連れていってやる」
 夏尾はあのとき自分の死体を見なかった。だから今は追い詰められるならとことんまで追いつめられたいと、ただ夏尾にはそれだけだった。
 男の背後のアスファルトはじりじりと上がる熱に灼け、蜃気楼を浮かばせている。家族の姿は、そんな靄の奥に揺らいでいた。

 

 夏尾は自分の死体を見下ろして立ち尽くしている。確かにそれはそこに、夏尾の倒れていた場所にあった。後方で夏尾を眺めていた男は、言葉ばかりは気遣わしげに一言、「大丈夫か?」とのたまった。ふらりと小さな頭を傾がせ、夏尾は男を振り返った。
 倒木に腰かけて、男は煙草を吸っていた。見るともなしに、それは夏尾の視界に映りこむ。鬱蒼と茂る樹々の蔭のなかにあって、赤く灯る先端の炎は幽かながら確かだった。
 途端、足元が崩れた。柔らかな腐葉土に沈み込み、夏尾はなんとか上体だけでも支えようと手のひらをついたけれど、それすら失敗して地面に這いつくばることになった。
 獣じみた呻きが喉を突く。奥歯を喰い締めても何もない腹の中を暴れるものを抑えておくことができない。
 矜持だけで支えた首、いま開いた眼に見えるのは男の持つ赤い光のはずなのに、網膜に焼き付いて消えぬ像が夏尾の目を鈍らする。
 日差しの下よりはいくらかマシといえども、もったりとした重たい熱気は変わらずにある。時間の経過は時を止めた肉の塊にすら残酷に降り注ぎ、うっかり常温で放置してしまった食材の、たんぱく質が分解される鼻の底にこびりつくような臭気。そしてそれに誘われてたかる、羽虫どもの蠢く様よ。
 忙しなく羽の擦れあう低音が、延々響いてひどく不快だ。胃はひっきりなしに痙攣すれど、もはや出すものは何もなかった。しゃがれた声で唸り、溜まった唾液をえずくのがせいぜい。皮膚の上を蟲が這っているような錯覚を得る。強い明滅が脳を揺さぶった。
 脱がされた肉体はここにある。なのに感じる仮初はよくできていた。一体どこからが本当なのだと夏尾は恐慌をきたす頭で考える。
 夢であってくれと再三に願うのは、夢でないとどこかで分かりきっているからだ。
 ぐちゃぐちゃに好き勝手もてあそばれて穢れた、破れかぶれで、無残で、おぞましい、高温の季節に変色した肉の袋。どれほど何度眼前に突きつけられたって、これを自分だとは思いたくない思えない。
 でもこれが紛れもない、己の身体だったもの。些細な部分がその事実を夏尾に知らしめる。お気に入りだった目元の黒子や嫌いだった丸い爪の形、太ももにある生まれつきの痣。外反母趾を治したいとずっと思っていた。
 嗤うことなど誰ができよう。今度の死は己自身だ。
「あ、ぁ!」
 触れ合った指先は柔く硬く、夏尾が慟哭するごとにわずかな抵抗を伝えた。そのゴムじみた感触が己の肉から発されたものだと気付いたとき、夏尾の臨界は白く弾けた。
 己の周囲に視線を奔らせたのは、本能だった。そして見つけたそれに、夏尾は躊躇いなく手を伸ばす。自分を傷つけた、スポーツ用具。萎えた手足を我武者羅に引きずり、投げ捨てられたそれに近づく。地面を掻くたび土埃の、湧き上がる生命の匂いが腐臭に混じった。
 手にしたバットは紛れもなく武器だった。縋って立ち上がり、振りかぶる。
「ああああああああああ!!!」
 自分の血が付いたそれで、夏尾は自分を徹底的に損ね、辱めたモノの残した肉塊を、執拗に、殴った。咆哮し、潰した。肉が拉げるのも、骨が砕ける反動も、夏尾を暗く高揚させる材料にしかならなかった。
 それがもたれていた岩肌に跳ね返る血の量が、もともとの血痕よりはるかに多くなる。やがて巨塊はこまかな肉片になり、散らばった。かつてはソレが人と同じなりをしていたことなど到底信じられぬだろう程に。むせかえる腐った血の臭気が、重く周りに垂れ込めている。
 夏尾はしばらく執拗にその一片であるぶよぶよとした脂肪をバッドの先端で地面に叩きつけていた。しかしふと香った煙草に我を思いだし、バットを放りだす。
 全身をひどい倦怠感が包んでいた。息が上がり、血の味さえする。激しい運動をした後の身体が示す作用である。全身は血みどろな上に汗みずくで、ほおを滴るしずくがあった。夏尾は首筋に張りつく髪を背中に追いやり、目に入ろうとする汗を血に濡れた手でぬぐう。
 満足したか? と男は訊いた。緩慢な視線を一度だけ背後に寄越し、すこしも、と夏尾は応えた。男は夏尾の狂乱をずっと見ていたくせに、ちらとも表情を変えていなかった。変わらず倒木に腰かけたままで、地面に落ちた吸い殻の数が時間の経過を窺わせた。
「なんでお前だったのか、知りたいか?」
 夏尾は無言で首を横に振った。それを知ったら、夏尾が満足して黄泉路を辿るとでも思っているのだろうか。どんな理由があったとて、夏尾にとっては理不尽以外のなにものでもなく、赦せる理由になろうはずもない。情状酌量なんてくそくらえだ。
 ――――でも、
「……これが死ぬってことなんやったら、もうちょっと幸せになりたいやんか」
 忙しない呼吸の合間、ほろ、と夏尾はつぶやいた。悪鬼修羅のごとき形相はそのおもてからは削げ落ち、ただの子どもがそこには佇んでいる。彼女は憫笑を唇に乗せてとつとつと言葉を紡いだ。伏せた瞼のせいで、ほおに濃い影が乗る。
「――――――うん、」
 少女はひとり、頷いた。「……こんなのが終わりって、ないわ」
 反転し、広げた両手が男に指し示すのは、ご覧のとおりの惨状である。血と、死と。半分は夏尾のせいなのだけれど。ぼんやりとしていた瞳は男を見据えてその輝きの色を濃く変えた。
「こんなもんを、家族に見せるわけにはいかんやろ」
 ゆるりと右の人差し指を突きつけたのは、自分の遺体だ。夏尾にとって、すでに自分の亡骸は『こんなもの』だった。可哀想で、痛ましくて、やりきれないあの身体。自分が哀れで堪らないけれど、嘆くだけならどんなに愚鈍な生き物にだって出来る。
「……願いって、何でもいいん?」
「生き還りたいなんて言うんじゃなけりゃ」
「なんでお願いを叶えてくれるん?」
「未練は悪鬼になるからな」
「なんそれ」
 訊ねた夏尾に男はただ口の端で笑って煙草の煙を落とす。
「お前みたいな死に方をしたやつはできるだけ未練を少なくしておいたおうがいい」
「そ、」
「お前の場合、四十九日の猶予を与えれている」
 しじゅうくにち、と目を伏せて夏尾は呟いた。夏尾の長期休暇と、それはほぼ重なった。長いようで、とても短い期間。あっという間にそれが終わることを、夏尾は経験から知っている。
「四十九日、……そのあいだなならどこに行ってもいいん?」
「そうだ」
「どこへでも? ――未来や過去でも?」
「それを知りたがる奴は結構いるな」
 男はスーツの胸元から平板のデバイスを取り出して見せた。スマートフォンにしか見えないそれはしかるべき手順を踏めば好きな時間軸へ送ってくれるのだという。
 科学か、魑魅魍魎の技なのか。
 ただそこに夏尾の興味はなく、この機械が正しく機能すればよい。夏尾は少してのひらにあまるそれを握りしめ、男を見据えた。
「私の姿を生きている人に見せることは出来るんかな?」
「嬢ちゃんが望むなら。なんだ? 家族に会いたいか?」「違う、」
 それはとてもとても夏尾には魅力的な提案だけれど。
「私は生きる。――どんな夢まぼろしになったって、私は私の命を諦めさせたりはせん」
 ママが泣いている、パパが泣いている、飛鳥が、太一が。いとおしい家族が。私を喪う可能性に恐怖している。反対の立場ならどれほど恐ろしいことか知れないのに、彼らにそれを背負わせてなるものか。それも無残に玩ばれた娘の、姉の死体を見せるなんて、遺す傷跡は累乗になる。そんなことは、絶対に赦してはならない。
 だって夏尾は覚えている。
 二年前の五月、母方の祖母が亡くなったとき、母がどれだけ泣いていたか。家族がどれだけ泣いていたか。もう二度と会えないと理解した瞬間の、この胸に開いた圧倒的な虚。
「あなたが言った。願いはなんだって。私の願いはたったのひとつ。永遠に私の死が明るみにならないこと。私の関係するもの全てを拭い去って、私を生きていると世間に、家族に思い込ませること。――地獄のお兄さん、あなたにはこれを叶えてもらう」
 生も死も曖昧にして、隠してしまえ。噂の中に。あのかなしくやさしい呪文のように。
 犬は牧場に送ったよ、今は神隠しにあってるよ。
 何の因果か贖えた猶予なら、夏尾は精一杯にそれを有効活用してみせる。

 

「日本中、津々浦々を旅しよう。

私が生きていると、この四十九日で喧伝しよう」

 

 

 その日の午後。

 初めの旅はおのずと自分の死体を遺棄する行程となった。行先は海である。

それが夏尾の願いなら夏尾の死体も、その死に類することになるモノも見つかることはないらしいが、夏尾は自分の死体を自分を殺したモノと一緒に養分にするつもりはなかった。

 夏尾は制服を脱いで、海辺にふさわしい白いワンピースを着た。トランクやいくつかの必要なものと一緒に、家から持ち出してきたものだ。強い日差しに腐臭が気になったが、想像していた通り、トランクの中の夏尾の死体に、誰も気づいた様子はなかった。きっと観衆の眼前で晒しても、誰もが素通りするのだろう。

夏尾の装いに対して男は喪服のまま、汗ひとつかかない涼しい顔だ。

気温三十度を優に超える絶好の海日和である。夏尾の家の最寄りの海水浴場は、海も浜辺も芋も洗えぬほどに黒々と人の頭がひしめいている。それを横目に、堂々と顔をさらして夏尾は桟橋を歩く。

 男がレンタルしたボートにトランクを積み込む。遠目にだが級友を見つけた気がして、手を振っておく。もうしばらくすれば、彼女たちにも夏尾の噂が届くだろう。

ゆるゆるとボートは沖へと向かう。ブイはもちろん無視した。「さあ、行き、」「へいへい」漕ぐ男はぐっとオールを握る手に力を籠め、一掻きした。静かに海水が跳ねる。水面が白く照りかえって、きらきらきらきらとずいぶんと眩しい。船底がゆらぐたびに海水は反射して、その真白の輝きの中で男の漆黒も蜃気楼のように揺れ、けれど決してなくなりはしない。

夏尾はワンピースに合わせたつば広の麦わら帽子を被った。

波は穏やかで、滑らかにボートは進んでいく。喧騒は遠くなり、やがて海猫の鳴く声も消えた。しばらく進むと、世界は水平線に仕切られる。「ここでいいよ」

 夏尾は男を止め、トランクを開けた。閉じ込められていた屍肉が耐え難い臭いとともに顔を出す。しかしもう軽く咳き込む程度で、夏尾もすっかり慣れてしまった。

重石を抱かせた死体をボートの縁からトランクごと海へと落とすと、重心をそちらにやり過ぎたのか、つられて大きくボートが傾いだ。「う、わ!」

軽い衝撃とともに、死体と一緒に水面落下。額を触れ合わせながら、仲良くどぷりと沈む。白い気泡が勢いよく海面へと上がっていった。

息を吐く夏尾、物音ひとつ立てられぬ己の死体。

一度深く沈んだあとは、夏尾は徐々に浮いていく。対して死体は下へしたへ。すれ違う腐敗した手を取り、崩れた顔に、囁いた。

(……さよなら、二度と人目に触れなんでね)

澄み切った海水も十メートルも下れば真黒の檻だ。

夏尾は完全に眼下から己の身体が消えるまでじつと海中で見届けて、そして、自分が息をしていないことに気づく。

慌ててぼかりと息を吐き出してみるけれど、こんな模倣はもう何の意味もない。

何のことはない、そうなのだ、自分は生きている人間のありようを真似していただけだったのだ。気をつけなければ間違えるくらい、もう人間ではなかったのだ。

海面に出れば、男がボートの上でのんびり煙草を飲んでいた。

「……どれくらい待っとった?」

訊ねる夏尾に男は首を傾げ、十分ばかりか、と返事をする。男は何も疑問を抱いていないようだった。それにただ、夏尾はわらった。

これが、ひとつ目。

 

 

一日、二日、三日、一週間、時間はあっという間に過ぎていく。生きられるだろうと漠然と考えていた今後を思えば、四十九日はあまりに短い。

その時間を有効に使うために、夏尾は十年を一応の区切りと決めた。十年まで未来を先取りし、そのときを生きていることを装うのだ。

目的は明確だったから、夏尾は淡々とそれを実行していった。毎年の家族の誕生日や記念日などのイベントを祝うこと、夏尾の辿るはずだったスタンダードな節目を演出すること。大学の入学や成人式、卒業や就職、そして結婚。鬼の男に相手をさせ、それらのイベントをSNSを通じてあげる。たくさんの贈り物は彼ら元に届くだろう、それが自分の、家族への気持ちの証になればいいと夏尾は思っている。

手紙を添えようとしたが、それは書く端から消えた。同様に、自身のスマートフォンに掛かってくる電話にも何度か出てみたことがあるが、そのたびに通話は切れた。「それは、あんたの願いじゃないだろう」と男は言った。確かに、その通りだった。夏尾はそれを願わなかった。一方的に心を贈ることだけが、夏尾に許された唯一なのだ。

それを知って以来、必要なときを除いて夏尾は電源を切っている。けれど着信の数はおびただしく、見るたびに増えていく履歴を埋め尽くすそれを、夏尾は家族の願いの形だと信じた。それは十年、解約されることはなかった。だからその願いを叶えるために、夏尾は余生を過ごしている。

 

 

男から渡されたデバイスは、どれだけ時間を移動しようと正確に四十九日をカウントダウンしている。

二週間、半月、ひと月、残りは十九日。

忘れてはならないのは日に十度ほど、十年分のその日のSNSを更新することだ。基本的に夏尾はSNSに熱心な方ではなかったが、死んでからはその限りではなくなった。十年分のトレンドを追いながら春夏秋冬の日常を演出することは夏尾には難しく、結局夏を中心に適当な日やイベントを選びながら、写真とともにアップする。

新作映画や話題の本、期間限定のフラペチーノ、新色のリップ、些細な日々に交じらせてそういうものを示していれば、きっとこれを綴っているのが死者だとはだれも思うまい。

そして大事なことはもうひとつ、夏尾が死んだ日からの四十九日を、間違いなく生者として過ごすこと。

家族だけでなく世界からも、『夏尾が生きていること』を補強させる。SNSだけでなく生きた夏尾の姿を世間に見せることが、夏尾の生の信ぴょう性をより高めるだろう。

時間や場所を超えて夏尾は様々な場所を旅したが、死んだその年は計画のかなめだ。より丁寧に夏尾は過ごしたし、やはり自分の延長線であるこの年は安心して過ごせるので起点として使いやすかった。

夏尾はパンフレットから観光地を探し出し、男を伴って各県を回った。

はじめの交通手段はもっぱら電車だったが、改札が自分に対して役に立たないと気づいたのはわりと早かった。

ICカードに金が足りているか不安になりながら改札を通ったとき、すり抜けた身体。呆然とする夏尾の手を引いて脇へと寄せながら、男は笑っていた。

「死者の自覚はいかほど?」

彼の発言にはひどく傷つけられたが、理解してからは金を必要とせずにことに安堵した。違和感や罪悪感は、時間とともに消えた。人間のモラルは守りたかったが、そうしていれば学生だった夏尾はどこへも行けなかっただろう。

一面のラベンダー畑を散歩し、鹿にせんべいを与えた。星の形の砂を探し、動物の耳を模したカチューシャをつけテーマパークを練り歩いた。

八月の初旬には、夏尾の顔はすでに全国区になっていた。中学の卒業写真に加え、最近に取られた友人や家族との写真が、失踪初期からニュースで報じられていたためだ。すぐに大きなニュースでは扱われなくなったが、お昼の情報番組などではまだ頻繁に取り上げられる。そのためテレビやコンセントのあるファストフード店には、夏尾はよく昼食時を狙って入った。

その日、夏尾は牛丼屋を選んだ。注文もそこそこに、夏尾はスマホをネットに接続した。夏尾はそこで頻繁にニュースやSNS、掲示板を開き、自分の足跡を確認している。そこでは真贋さまざまな目撃情報や写真、憶測がリアルタイムで更新された。失踪初期から、夏尾が男と駆け落ちしたのではないかという推測も少なくなかった。「まあ、対外的に見れば仕方がねえよな」「下世話やねえ」「ま、元は誘拐犯だしな」「それこそしょうがないっちゃ」

男は明らかに未成年ではない。男の常にぼやける写真は夏尾のものと一緒に、頻繁に各所で使用されている。「肖像権の侵害だろう」と文句をつける男に対して、「君ってその権利持っとるの?」と夏尾は訊いた。男は日本に国籍はないだろうし、生者とも言い難い。男は首を竦めた。「少なくとも、犯罪者にはねえんだろうな」

とまれ、夏尾はその人間のくだらなさを利用して、このモラトリアムを生きているのだ。

夏尾はほんの数時間前に撮られたばかりの、自身の写真を見つめた。観光地にあって自分たちの目的以外にさして興味もない人たちが、それでも夏尾とスーツの男の組み合わせに気づく。夏尾が意識して気づかせているからだ。見知らぬ人のカメラに向けた夏尾の笑顔は、いま流れている情報バラエティにも早速使われている。

何が目的なんでしょうねえ、とコメンテーターは言った。

『こんなに世間を騒がせて、ご両親を悲しませていることも分かっているはずなのに。これはご両親との間になにかあったとも考えられますよね』

ゴン、と夏尾はテーブルに頭を打ち付けた。ず――っと滑らせた指がTwitterのタイムラインを遡る。

男による未成年誘拐事件と目されていたものは大量の夏尾の写真が出回るうちに、夏尾へ、そして両親への誹謗中傷へ切り替わった。特にネットは顕著だった。家族が開設したFacebookのコメント欄はまだ良心的な方だが、Twitterは嘲笑の渦である。

男は夏尾の手からすり抜けたスマホをすんでのところで取り上げ、コメントを読み、鼻で嗤った。「想定内じゃねえか、こんなの」

そうだ、分かっていたことだ。悪意は家族にも向くことくらい。夏尾は唇を噛みしめた。はっきりとは意識していなくても。身勝手な願いの代償を、家族も支払わされることくらい。傷つく資格がないことくらい。すべてを天秤に掛けた上で、夏尾は、生きたかったのだ。

「……家族にも恨まれてるかもな?」

うっすらと口元を歪めて、男は夏尾を嗤った。はっとして、夏尾は顔を上げた。愕然とした眼差しが男を映して揺れる。それは夏尾の一番もろい場所だ。

「……分かってたことだろ?」「わた、――わたし。私、は、」

反論できることは何もない。唇を震わせ、けれど夏尾は言葉を飲み込んだ。夏尾はすでに選択したのだ。

「止めてもいいんだぜ。あんたももう限界だろう」

男は夏尾のほとんど手を付けられていないどんぶりに視線を流した。夏尾は肩を揺らす。

この男は確かに人でなしなのだ。でも、こんなことで、歩みを止めるわけにはいかない。

「……いや、まだっちゃ、まだ、足りん」

己に言い聞かせるように夏尾は固い声音で呟いた。

――広がれ、拡散せよ、この世から自身が消え去っても、なお噂だけは生き満ちるように。

「いまさら後には引けんっちゃ。まだ、耐えてみせる」

これ以上、何かを言われる前に、夏尾は慎重にスツールを回して床に降りる。「どこに行く?」「すぐに戻るけん」「三日ぶりの飯だ、気づいてるか?」

何気ないその声に、息をのむ。けれど夏尾は本当に先ほどまで呼吸をしていたんだろうか。

「――言われ、なくても」

もう本当は腹など減らなかった。自分の体温も、心臓の音も分からなくなった。意識していないと通路に立つ夏尾を、人はすり抜ける。体重とは何だっただろう、身体は今にも浮きそうにも、反対に沈んでいきそうにも思える。地面を歩くことがこんなにもつらい。

ふたつみっつよっつと自分を構成していたものが欠けていく。その中で、男の吐く煙の香りだけが鮮明だ。徐々に人間のやり方と、その輪郭を、夏尾は忘れていっていた。

四十日目、終わりは近い。

 

 

――そして、五十日を目前にした。

最後の日は家に帰ろうと決めていた。リビングには皆が揃っていた。うららかな日曜日だった。世間は何も代わりない休日だった。皆が座るソファにふわふわとした足取りで夏尾は近づき、前に立った。

「お姉ちゃん、いま、どこにおるん」「――京都で八橋試食してたけど」「早く帰ってくればいいのに」「帰ってくるっちゃ、すぐに」

声ばかりは軽く、けれどその表情は驚くほど沈鬱だった。寄り添って、けれど誰も目線を合わせず、会話をしていた。自分は間違えたのか、これが、自分の選択の代償なのか。そんな顔がさせたいわけではなかったのに。部屋中に張り巡らされた目撃情報が載ったコピー用紙。雑誌の切り抜き。だだちゃ豆羊羹、いも好、砂王子、喜多餅。届けられた各地の名産品は、開けられることなく積まれている。

変わってしまった日常よ。けれど夏尾は、やはりあの薄暗い森のすべてを曝け出した方がよかったとはいまでも思えないのだ。

「夏尾が元気で幸せなら、それでいいんよ」

母が見つめる先には、満面の笑みでピースサインをする夏尾が映ってた写真。すでに死んでいるなどとは到底見えない血色の良さ。夏尾の努力。

する必要もない悔恨を、ネットを通じて山と見た。「あの子は辛い思いをしとったんかもしれないけど……、いつか。だって私は……」

続く言葉にたまらず夏尾は顔を覆った。「――好きよ、夏尾」

ほろりと告げられる声のあまさよ。

「……夏尾がどう思ってとっても、変えられんの。私はあの子を信じとる。夏尾も私たちを好きやった、愛してくれとる。理由なく、おらんくなる子やないよ。やから、帰ってくるのを待っとる……。それで、せめて。……送りだしたって思うんよ。ちょっと長く出かけとるだけやから」

やつれたおもてに浮かぶ優しい笑み。まなじりに浮かぶ透明な輝き。とうに感じられぬ心臓が引き絞られるようだった。「あ、ぁ……!」

夏尾は膝を崩し、戦慄く腕を懸命に伸ばした。皆のほおを撫で、その存在を確かめようとした。けれど肩を抱き、手を握りあう家族にいくら触れようとしても、夏尾はもう何の温度もかつてのようには得られないのだ。でも、

「行ってらっしゃい、夏尾。気をつけてねって……」

いいね、と父が穏やかな声で同意した。「行ってらっしゃいか。うん、帰ってくるのが、楽しみやね」「僕、待ってる」「できるだけ早くがいいなぁ。直接お土産もって帰ってもらわんと」

「――いってらっしゃい」

 降り注ぐ言葉たちの温かさに、夏尾はわらった。ゆがむ視界を振りきって、父を、母を、妹を、弟を、こいしい人たちを見あげた。

 ――墓などいらない、弔いもいらない。ただ信じていてほしい。それがどれだけ難しくても、薄情だと思っても。許せずとも。ネットの向こうで手を振る笑顔の夏尾を、幸せに生きていると信じてほしかった。

ただそれだけのために、夏尾は最期を費やした。いま、それは確かに果たされたのだ。そしてそれは十年をかけて、きっと確信にしてくれるだろう。

(好きよ。好き、だいすき、私もみんながずっとすき)

「……いってきます、どうか、元気で」

 

 

玄関を出ると、煙草を片手に男が待っていた。「気はすんだか」「うん、ありがとう。――私の願いは叶ったよ」

夏尾はひとつ頷いた。世間は誰一人夏尾が死んでいるとは思っていない。数十年後の技術によって夏尾の人格を模したAIを作ったので、それが今後の夏尾のSNSを引き継ぐようになっている。今後も夏尾は生き続けるだろう。

それの真贋がどうあれ、十年後もネットを中心に夏尾にまつわる情報が出回っているのを確認している。

だから、もうなにも、思い残すことはないのだ。

少女の生きた最後の季節は過ぎ、空は以前より高い。けれどまだ暑さの名残は夏尾の未練のように燻っている。

「うん、いい。……こんな日なら、悪くない」

目もくらまんばかりの青い空、波のようにたなびく白い雲。遅咲きの健気な最後の向日葵が、精一杯に太陽を見つめるその鮮やかなコントラスト。空気はからりと乾いていて、吹く風はきっと肌に心地よいだろう。

 少女はうんと伸びをした。

眩しさに瞬きを繰り返しながら、夏尾は頭上を振り仰ぐ。彼女の目を射った鮮烈な陽射しは、忘れた涙を流させるには十分すぎる。

足元はもはやおぼつかず、きっと今なら空も飛べるはず。

 

嗚呼、今日は神隠しに最適な日だ。

 

「さあ逝こう」

夏尾は男に手を差し出した。「よく頑張ったよ、嬢ちゃんは」男はその手を取り、短く讃えた。「ここまでやったのはお前が初めてだ」

思ってもみなかった言葉に、夏尾はほわりと目元をゆるめた。

安堵と同時、最後に残った人間の輪郭さえも溶ける。けれどその手を男が握ったままでいられるのは、彼もまた人ではないからだ。ただそのことが、ひどくありがたくてならなかった。夏尾がいるべきなのはもうこの世ではない。

「いくか」

 

男の吸う煙草の煙が細くたなびく。紫煙と炎が、誰もその死を知らぬ少女に手向けられた餞だった。 

 

 

文字数:15142

課題提出者一覧