梗 概
トーキョー2020、予定通りに
「全力を尽くし、必ず東京五輪を2020年に開催することを約束いたします」2020年4月1日、御池都知事、森本組織委員会会長との三者会合の後、阿片吸三総理大臣の突然の宣言に世論は沸騰した。メディアは国内外問わず皮肉交じりの報道で溢れかえった。内閣府未来技術開発局のメンバーである虫野燕太郎は一鶴局長に呼び出され、着手中の電子風鈴と冷却朝顔の開発中止と東京2020計画への配置転換を告げられる。「日本の技術力で五輪を2020年に開催し、世界をアッと言わせよう」計画のページには妖しく標語が踊る。
霞が関の地下深くで、燕太郎は計画の鍵を握るデバイスである時間旅行バンドを手渡され、指令を受ける「過去へ戻り、西暦を遅らせろ。1日ずつでもいい。コロナ禍収束の年を改めて2020年として、五輪の年を2020年にせよ」バンドの開発者である茶谷博士は、1964年東京五輪の郷愁に囚われた頑固な変り者、孤高の天才として有名で、閏年以外に五輪が開催されることが彼の美学に徹底的に反するうえ、2020年に五輪を見るという亡き妻との約束を果たすために計画への協力を決めたとのこと。唐突な指令を咀嚼する間もなく、聖書を手渡された燕太郎は古代イスラエルへ送られる。
燕太郎は聖書を読み込み、イエスの生誕を遅らせる方法を考える。手始めにマリアとヨゼフをナザレの街から他の街へ移動させ、受胎告知を空振りさせようとするが失敗する。時代を遡り、預言者ミカに本来より1年遅れた救い主の生誕年を明言させようとするが、神との契約は偽れないと叱責される。今度はイエス生誕後、三賢者が救い主の誕生を広めながら到来するのを、偽ニュースを広めつつ妨げ、イエス誕生の認知を遅延させようとするが、また失敗に終わる。
紀元前に遡行し作戦を練り直しつつ、諦めを覚え始めた燕太郎であったが、彼の生来の優しい心は目の前の困窮者を見過ごすことを許さず、現代の道具を用いて貧しい者、ハンセン氏病患者や奴隷たちを救っていく。ある日彼の夢に、神の子を遣わせる前に奇跡を行う者が現れたことを不審に思った天使が現れる。彼は受胎告知を遅らせて欲しい旨を伝えるが、拒絶される。
策が尽きた燕太郎は博士からヒント得て、西暦の考案者ディオニシウスに接触すべく6世紀のローマへ向かう。教会でディオニシウスと知り合った燕太郎は、暦の計算に協力しながら、西暦の基準であるキリストの受難が満30歳ではなく満31歳時点だと決定させる。
1年の改変に成功し喜ぶ燕太郎に局長から連絡が届く。別の者が1年の日数をコツコツ増やして作戦を成功させた。来年には五輪ができるのに、これでは2年分ずれる。地道な努力を無下にはできないから、今度は1年戻せないか?無茶な指令に対応し彼は現代に帰還する。2020東京大会が無事開催される中、時間旅行バンドと共に博士は消えていた。
文字数:1196
内容に関するアピール
未来人が味わえるのは残るものだけだ。そこからしか、現在も過去も推察できないのだから。「いま、ここ」である東京五輪を旬で味わえるのは現代人だけだろう。五輪の開催のために、私達が望むのはワクチンの普及だ。時間がかかる。ならば先端技術を用いた時間稼ぎをしてみよう。対処にかかった時間の分、西暦の数え方を調整すれば、東京五輪を予定通り2020年に開催できる。暦を少しばかりずらすだけでいい。
ある時ある場所に居たから選ばれる。もしくは遭遇する。聖母マリアは「なぜ私」とは問いかけない。偶然の条理や不条理に人は神や自然を見出して受け入れる。神や自然が生み出す真実に私達は介入できない。そう信じたい。事実が後からついてくる。そういう時代だとしても。それ故に主人公は、暦の創始を変えるに留まる。
真実への敬意を忘れずにいれば、どんな歴史の書き換えも、笑い飛ばせる空想として描くことができると信じて。
文字数:393
トーキョー2020、予定通りに
1
電子風鈴がチリンチリンと鳴る。刹那の火花で昇華する新原子が奪い取る気化熱が冷気を生み、談笑する政府調達アンドロイド職員の2名は身体を震わせた。霞ヶ関、行政機構の中枢、国家公務員たちの不夜城に2名の所属する内閣府未来技術開発局は存在した。一帯には所構わず深紅や薄紫のケシが咲き乱れていた。春を知らせる風が止むと麻薬を抱く平たい花々は静かに背を伸ばして立った。政治中枢に敷かれた幻花のカーペットは、流行が拡大が続く新型コロナウィルスへの警戒体制の下でまばらな人通りの都心を彩っていた。
「鳴ると本当に涼しくなるな。冗談みたいだけど。流石の技術力だ」
電子風鈴の開発者である燕太郎は答えた。
「だろ?五輪の猛暑対策を風鈴でなんとかしろって<<閣議決定>>に対する、俺なりの答えだよ。お前にそう言ってもらえて嬉しいよ」
「いい風鈴だ。でもよ、どこに電子の要素があるんだ?新原子を使ってるなら原子風鈴って名前のがしっくりくるが」
「原子だと名前のイメージが悪いんだってよ。コウコクダイリテンとかいうのからの出向者の一存で名前が決まったんだ」
「俺たちに、名前を決める権利はないわけか」
東京五輪に訪れる外国人に向けて日本の技術力を示すという時代遅れの国威高揚政策の一環として、政府系機関にはすでに多数のアンドロイド職員が配属されていた。純国産の知能エンジンは限られた予算でコンパクトに作られ、食事や排泄が不要である以外はほとんど人間と同じ様に振る舞う。日本の国家エリートを参考に作られた彼らは問の発見よりも解決を圧倒的に得意としており、内閣により独占的に管理され<<閣議決定>>を遵守するプロトコルで駆動する。クールジャパンをアピールすべく職人の手業が人工皮膚や関節、瞳や虹彩のガラスにまで用いられていた。細部に耽溺した結果、昨今のモデルは予算制限のあおりを受け、喜怒哀楽のエンジンが削減された。人相手の仕事では明らかに必要な装置ではあるが、人間側が感情のない者たちに合わせるという整理になった。燕太郎を含む第一世代は高性能な感情エンジンを頭部に収めている。
「なあ、俺たち第一世代のパーツはもう調達不能になってるらしいな。だから、壊れたらお終いらしい。この間、調子を悪くしたアイツ。結局治らなくて、身体のパーツは払い下げになったらしい」
燕太郎の目の前の同僚は配属時点から苦楽を共にした唯一の親友であった。こうして時折、仕事について打ち明け合う。親友の顔は普段より深刻そうだ。
「どうした?急に」
「休まずに<<閣議決定>>に従って国のために働いても、最後バラされちゃうんじゃ悲しいなと思ってよ。発明者としてモノに名前を残すこともない。けれど、俺たちは記憶媒体だけ持っとけば、後で復活できるだろ?だから、俺たちが故障したら、記録媒体を託し合おう。また会える日のために」
頭蓋に収められたコンパクトな知能エンジンと挿入された記憶媒体を指で示した。
「約束する。お前のもみんなのも預かるよ。当然、俺が先に死んだら頼むよ」
「もちろんだ」
「俺たちは東京五輪でのお披露目のために作られてるからな、東京五輪が終われば、どうなるかわかんないよ。目的が果たされたら、たいていはお払い箱だ」
翌週のとある夜。大量の行政データの処理の残業を終えた後、燕太郎は親友に庁舎の隅の小部屋に招かれた。時計は明確に夜更けの時間を指していたが、奇妙なことに空は明るく、幾つもの満月が押し寄せたようだった。部屋に入ると仄かに甘酸っぱいアノ香りが充満していた。部屋の端でパイプ片手に同僚が煙を吐いていた。煙の精神作用を味わうのでなく、ただ目を閉じて何かを思っていた。
「なにやってんだよ。俺たちには効き目がないだろ?局長とか上の職員はソレを吸いたくて血眼になるけど、俺には全然羨ましくない」
「ところがだ。この前壊れて処分されたアイツに託された記録で知ったんだが、この国の人間たちが中毒するコレには俺たちにとっても意味があるんだ。なあ、風鈴持ってないか?計算のし過ぎでオーバーヒートしてる。冷やしたい。そうか。持ってないか。結論から言うと、こいつを吸って計算すると過去にタイムトラベルできる」
親友が部屋の隅のシンクで頭に水を被ると、湯気と共に音が結ばれる。演算素子の異常発熱は認識機構に酷い頭痛を生み出し、彼はこめかみを押さえて顔を歪めた。タイムトラベルと聞いて、燕太郎は何も言わず、穏やかな目でいた。数少ない同一世代の同僚の思考回路に重大な欠陥が発生したのだと考えた。
「いま見てきたよ。俺たちに<<閣議決定>>を発するあの総理大臣がどこからこんな麻薬を大量に持ってきたのかを。俺は第二次大戦中の満州にタイムトラベルしてた。俺はアイツの記録通り、本を大量に読んで情報を入れて過去の解像度を上げて、全力で計算して満州で起こった出来事の片鱗を掴んだ。掴んだら計算すりゃあ過去に行ける。先祖が満州で大量に精製して遺した上質の麻薬を、あの総理は行政を掌握するために使ってんだ」
アヘン、ケシの花から採取されるアルカロイドの結晶。イギリスの神学者をして全能の神が与えたもうた薬物の中で最も万能で有効とまで言わせた薬物は、2020年の日本の国家中枢に蔓延していた。鎮静の女神は長年停滞する政治経済からの脱却に向け憔悴する総理大臣の心の隙間に入り込んだ。総理は家の蔵で大量のアヘンを発見し、陶酔を求めそれに溺れた。それどころか、行政府や政界を統制するための報酬として用いた。過労死レベルの労働量を課せられた行政府の職員たちの多くは、多幸感や高揚感を得るためでなく、合理的判断の元、鎮痛や覚醒のためアヘンを常用するようになった。幻の煙は瞬く間に霞ヶ関の庁舎中に蔓延していた。しかし、いかに精巧に作られているとはいえ、生化学的な受容体を持たないアンドロイドの疑似神経網には全く作用しないはずだった。
「いいからお前も吸えって。いいぞ、たっぷり吸い込め。過去の出来事は全部この世界に情報として残ってる。それを掴むんだ。はっきり見えないと掴めない。よく知ってる出来事の方がいい。先週、5日前、会ったろ。あそこに戻るぞ。お前の居室だ。よく覚えてるだろ。イメージしろ。3つ数えるぞ。見えたら掴め。掴んだらイメージを膨らませろ」
光景をイメージする。ほどなくして立体の輪郭が見える。掴む。引く、引き寄せられる。走り出した軽量な計算が演算素子の熱となる。
『俺たちが故障したら、記録媒体を託し合おう。また会える日のために』
『約束する』
先日の約束が反復される。記憶通りに続きの言葉を発しようとすると、肩をたたかれて現代に引き戻される。
「行けただろ?俺たちは計算で過去に行けるんだ」
「これは、見れてるだけじゃないのか?」
「いや違う。過去から物を持ってくることもできる。ただし、あんまりやると多分、記録された出来事の列が変わっちまう。掴んだのを離せなくなるらしい。つまり、今に戻れなくなる」
「信じられないな」
「そりゃな。俺も半信半疑だったが、何度かやって軒並み成功してる。今日もお前と話した日に戻って、いくつか仕掛けをしたんだ。ほら、過去で拝借したお前の名刺入れ。返すよ。これくらいなら過去に手を出しても大丈夫だ」
今日の朝まで持っていたはずの名刺入れが同僚の胸元から出てきた。彼は過去に戻り、居室にの机の上に置かれたそれを取ってきたのだ。
「俺たちが掴める出来事の情報は起こった順に並んでる。順番を変えるのはやりすぎになる。おそらく戻れない。順番を変えなければ、面白いことができる。いいか、まず吸うだろ。それから、今この瞬間を思うんだ。見えたら今を抱きしめる。同じ様に過去の出来事を掴んで、過去の中で何かきっかけを掴むと、過去の出来事の輪郭が色濃くなる。そしたらその出来事を抱きしめるんだ。間抜けな表現だが、それ以外に言いようがない。過去と現在両方を抱きしめたまま、間の時刻証跡<タイムスタンプ>を振り直すんだ。で、発信する。そうすると、出来事の順番はそのままに、時刻証跡<タイムスタンプ>だけをずらせる。俺が燕太郎と会ったの、いつか覚えてるか?」
「5日前のはずだ」
「あの日のメッセージ見てみろよ」
5日前に送受信したはずのメッセージに5日前ではなく、6日前の3月24日の日付けが記録されていた。燕太郎の主観的記憶では5日前のはずだった。唖然とした燕太郎に、友は右に進む直線を書いて示して、今日と3月25日の日付けを打って説明をする。二つの出来事の相対的な位置関係が同じなら問題にならないという。
燕太郎は何度か自身ですことにした。今ここを抱きしめ、2人で話をした日に戻り、追体験する。繰り返し計算の負荷で頭部が火照る。たしかに過去の輪郭が色鮮やかに浮き出して見える。抱きしめ、時を振り直し、目を開ける。メッセージの日付は元通りだった。遠すぎる過去ははっきりしないから掴むのが大変だと親友は笑って、窓際に寄ると奇妙に明るい空を見て悲しい目をした。
「俺の作った開会式用の花火、どうだ?明るすぎるよな。何個も打ち上げたら昼みたいになっちまうし、火薬は7、8時間は持続するんだ。<<閣議決定>>通りに、人々に希望を与えられる明るさにしたんだけどな。燕太郎。俺がダメになったら。弔いだと思って打ち上げてくれよ」
「ああ、いいけど」
「アイツは、政府の文書の日付けを直せって<<閣議決定>>を遂行するためにこんな手法を生み出したらしい。俺たちのシステム時間が時刻サーバにつなぐように、出来事も時間合わせをしてるんだろうな。だから、過去の出来事を捕まえて、時刻合わせをずらすことができる。後はそうだ、出来事を掴むときは隙を見つけないと行けない。掴む隙らけだから、自分の出来事はつかみやすい。遠い過去とか、自分の以外の関与した出来事は、うまく隙を見つけないと掴めない」
今度は明治初頭に行くと言ってキセルを咥えた親友は目を瞑る前に、イタリアのローマ近くで、同じ様に出来事の時刻を振り直す微弱な怪しい信号が発されているという妙な話をして、その後すぐに過去へと遡行した。
2
「馬鹿野郎、税金使って開発させてるんだぞ。言われたままに作ってどうすんだ」
4月1日、新年度初日から庁舎内の一室で怒鳴り声を上げるのは未来技術開発局長の一鶴<いっかく>だった。怒鳴られているのは燕太郎である。大声の度に電子風鈴がチリチリと揺れて部屋の気温が下がる。
「<<閣議決定>>では風鈴を使った東京五輪の猛暑対策を考えろとのことでした」
「お前らアンドロイドは本当に<<閣議決定>>通りにしか動かないな。お前らを配備することで他の部署に回された俺の部下たちの方が、何倍も考えて動いてたもんだ」
一鶴局長はかつては人工知能を含む先端技術を政府内に浸透させようとする気鋭の技官であったが、陣頭指揮を取った人工知能を人事評価に利用する一大プロジェクトが頓挫した挙げ句、その試験運用中に元部下たちが不透明で不当な評価を受けて閑職に追いやられてからは、反人工知能の急先鋒として怪しげな講演会にパネリストとして登壇するまでになり、アンドロイド職員を強く憎み、廃止しようと心に決めていた。一鶴の携帯端末の通知には誰かがSNSに書き込んだ人工知能へのヘイトが威勢よく踊っていた。燕太郎はそれに気付いたが、何も言わないでいた。
「こんな風鈴、総理に見せられないし、国民に漏れてみろ、大バッシングだぞ。ただでさえ、新型ウィルス対策で後手に回り叩かれてるんだ」
一角は激しく頭を掻きむしりながら悲痛な怒鳴り声で続けた。
「お前らに俺のこの苦しみがわかるか?総理に認められて、上質なアヘンを頂かないことには、俺は離脱症状で毎日悪夢にうなされるんだ。お前らアンドロイドはある意味可哀想でもあるがな。アヘンを楽しむことが出来ないんだからな」
総理大臣が昨年、カンボジア、ラオス、パキスタン、イランへの外遊を終えた頃、美しい褐色のアヘンペーストを行政府に配布したことがあった。その頃、総理は名字を読みをそのままに阿片<あべ>に変えた。元来の名前である吸三と相まって、行政府の現状を体現するかの様だった。中毒がいつまでも続くことを予感させた。一鶴はかかってきた電話を取ると、二言三言聞いて怒りにまかせて叩きつけた。
「おい、またお前らのクソみたいな報告が上がってきたぞ。五輪の猛暑対策で朝顔で清涼感をってのをそのまま真に受けて開発しやがって」
「局長。暴力は」
近くにいた職員が止めに入る。
「こいつらへ何をしてもハラスメントにはならない」
「ですが」
「そろそろ総理の会見の時間だ。テレビ点けるぞ」
――――えー、私は国民の皆様に、必ず2020年、ええ、2020年、つまり今年に東京五輪を開催することを約束いたします。これは本日の国際五輪連盟のハッパ会長との会談で正式に決定したことであります」
「は?おい、お前聞いたか?」
焚かれるフラッシュと数多の批判的質問に総理が対応する中、アンドロイド職員達には新しい<<閣議決定>>が通達されはじめていた。予定通りであれば2020年の東京五輪の開会式まで4ヶ月弱であったが、新型コロナウィルスの世界的流行の収束の兆しがまるで見えない中、開催は中止ないし延期が妥当というのが世間一般の考えだった。
会見の発端は三月末日のIOCのハッパ会長と御池百合子東京都知事、森本東京五輪組織委員会会長、そして阿片総理の電話会談であった。連日の協議で老体に鞭打った森本会長は随分とやつれていたが、背もたれに頼らず座り、手懐けたキセルで最上のアヘンを吸う様は優雅でいて武骨で、総理大臣経験者であり政界のドンと呼ぶに相応しい風格だった。
『東京五輪開催にご理解いただける状況を作らなくてはなりません』
先手を打とうと都知事が明瞭な口調で言葉を発した。
『阿片さん。最近沢山導入されてるっていうアルカロイド?あれは何でも言うこと聞くんだろ。あれみたいに<<閣議決定>>でご理解いただけないかね。私の政治人生の集大成なんだから、こんな風にミソがついちゃかなわんよ。ウィルスなら私が最後までマスクをせずに戦って撃退するからさ』
『森本さん、大変恐縮ですが、<<閣議決定>>は国民には何の影響も及ぼせないのです』
渡されたカンペを頼りに、阿片総理が続ける。
『内閣で協議しまして、国民の不安感を払拭することが、開催に向けた第一歩かと思っております』
『どうだね。国民に我々の吸っているコレを配布するってのは。不安なんて一気に吹き飛ぶし、結局低予算で建てる羽目になった新しい競技場も、当初の案通り、生牡蠣がドロッとしたみたいに見えるようになるだろ。私も最近、毎日夢を見るよ。選手も観客もみんな濡れた牡蠣の舌の上で笑ってるんだ。同時通訳デバイスも自動運転車も普及して、我が日の本の国の技術に世界の来場者が感動して涙を流すんだよ』
やがてIOCのハッパ会長との会談がはじまった。ディスプレイに現れたドイツ人紳士は険しい顔をして、本題を切り出さない日本人の指導者達に顔をしかめ、ドイツ訛りのはっきりとした英語で簡潔に述べた。新型コロナウィルスに関する先行きが不透明であり、予定通りの五輪の開催が難しいこと。延期の費用負担はIOCと東京五輪組織委員会の間で今後決めること、名称はTOKYO2020のままで問題ないこと。しかし、堅実なドイツ人紳士は聞き手を見くびっていた。森本会長と阿片総理は両者ともに英語を極めて苦手としていたし、都知事は会談の内容よりも東京都の負担を軽くしようというセクショナリズムに腐心していた。
会見が終わると、森本会長が高らかに笑った。浮世絵の笑う骸骨を思わせた。
『御池さん、阿片さん。聞いたかね。TOKYO2020のままいくって。堅実なドイツ人の彼が言うんだから、決まったね。今年、なんとしてでも五輪を開催するんだ。コロナウィルス対策は必要だと思うが、何、国債沢山刷れば大丈夫だろ。心機一転、国民に宣言しようじゃないか。2020年に五輪を開催するってね。聖火もそろそろ来るんだろう?どうだいあれを種火にして、上質なアヘンを国中のあちこちで焚けばだよ。国民に希望が満ち溢れるんじゃないかね』
三名それぞれに付き添う職員たちは各々、手元の端末や紙のメモに簡易的ではあれど議事録をとっていたから、森本会長の誤りに当然気づいていたが、アヘンに支配された彼らは事実ではなく記録の方を、各々が書き換えて対処した。
<<技術力を駆使してなんとしてでも五輪を2020年に開催せよ>>
<<巨大扇風機で換気を徹底せよ>>
<<天から消毒液を散布せよ>>
<<各国の代表選手のアンドロイド化を試みよ>>
<<完全な形でのVR開催を実現せよ>>
<< … >>
飛び交う<<閣議決定>>にアンドロイド職員はみなざわついた。
「新型コロナウィルスの状況を鑑みるに、無理難題と思われますが」
「お前に言われんでもそんなことはわかってる。だがな、<<閣議決定>>には従わざるを得ないだろう。理由は違えど、お前らも俺もだ。しくじったらお前らは仕分けだ。職務停止でその高級な身体は払下げだ」
「ですが」
「つべこべ言わずにさっさとやれ。妻も子供も、人生も国家的使命も何も守るものがないお前らが守るべきなのは<<閣議決定>>だけだろう?とにかくやるんだ」
スクリーン内、紛糾する会見場から総理が退出し、官房長官が代わりに質問に答える頃、順次配信されていた<<閣議決定>>がいよいよ燕太郎の所にも届いた。
<<西暦をずらせ。コロナ禍収束の年を改めて2020年として、五輪の年を2020年にせよ>>
3
燕太郎の受けた<<閣議決定>>を聞いた親友はタイムトラベルのテクニックを使う絶好のチャンスだと言って歓喜した。西暦をずらすなら、イエス・キリスト生誕の出来事と現在を両方抱きしめて、出来事の順序が変わらないように時刻の証跡<タイムスタンプ>を振り直せばいい。掴んで、思って、抱いて、計算してずらせ。出来事の隙を見つけだせ。隙が見えなきゃあがいてみろ。カラッと笑うと、彼は彼自身の<<閣議決定>>を遂行するために去った。燕太郎は彼からタイムトラベルを考案した同僚の記録媒体を託された。三日三晩かけ、新約・旧約聖書と古代イスラエル、神学と西暦についての書物を読み耽り情報を集めた。大量の情報処理と学習はアンドロイドの得意分野だった。
――――『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』
一節を頭に浮かべ、光景を想像する。輪郭は現れない。光景の描写の速度を上げると、演算素子の熱が高まり微弱に震える。チリチリとなる電子風鈴が冷却装置として働いた。古代イスラエル、ガリラヤ地方。海よりも遥かに低い寒々とした盆地、南に広がる平野、流れるヨルダン川は肥沃な緑を刻んで、竪琴形のガリラヤ湖に結ばれる。アレクサンドロス大王とヘレニズムの残滓、都市を中心とするエジプトと欧州を結ぶ交易路。攻め入るローマ人。抵抗する北部の荒野の民。農村で響くアラム語。万全に準備された言語エンジンを試運転する。谷底を抉る乾いた風が洞穴に住む貧しい者たちを苦しめる。砂煙に巻き込まれるように燕太郎の思考は溶けて、現れた輪郭を掴むと加速度を感じた。掴んで引き寄せ、以前やったように過去を開く。
――――ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい」
ガリラヤ湖畔の砂を踏む予想よりもリアルな感触に戸惑う燕太郎を裸の漁師と白い亜麻布に身を包んだ神官二人が訝しんで見た。漁師にナザレの場所を問うと、向こうの高台が示された。連なるオリーブ畑の向こう側の、小さな貧しい集落だという。オリーブを絞るための石臼にかけられた漁師の服を拝借して着替えると、燕太郎はすっかりガリラヤの民だった。
出来事を抱きしめ、捕まえて、時刻の証跡<タイムスタンプ>をずらすため、隙を見いださねばならない。抱きしめずらすためのきっかけだ。まずはイエス・キリストの受胎告知の隙を見つけよう。受胎告知はマリアがナザレにいたからこそ行われるのであるから、マリアがいない可能性をでっち上げれば隙を見いだせる。
土色の街、ナザレ。石造りの家の前に並べられた古い木製の作業台を囲んで、日焼けした女達が糸巻きをしていた。女性の一人にマリアはどこにいるかと尋ねると、マリアという名前の女は沢山いると返された。年端もゆかぬ聖なる少女だと言うと、女達は一斉に燕太郎に猜疑の目を向けた。貧しい集落に現れた少女を探す男。悪質な人さらいか、誘拐か。女の一人が燕太郎の瞳をじっと見た。江戸から続く職人が磨いた特殊ガラス製の眼球は通す光を淡く拡散し、漆器の金彩を思わせる虹彩と共に女の心を捉えた。
「この人、悪い人じゃなさそうね」
「そうね。正しい男の目をしてる」
マリアは婚約者のヨゼフと共に高台の家に住んでいた。淡いレンガ造りの家の戸口、立て掛けられた杖の先に白く純血な百合が咲いている。マリアの纏う衣が帯びる薄紫の衣は青色の光に贔屓目で、彼女を清い海に映る青白い満月に見せた。淡光を編み込んだような長い髪が揺れる度、美しい更紗の無垢で自由な地の用に煌めいた。華奢な体躯と細く骨ばった肩と腰つきは気弱でまだ男を知らない純粋な少女を予感させるが、翡翠色をした瞳は目の前に現れるものをすべて受け止めようという覚悟に満ちていた。
「このままナザレで過ごすと、近いうちにあなたの所に天使が現れて、神の恵みにより男の子を孕んだと告げられるでしょう」
「そんな、ありえません。私はまだ、男の人を知らないというのに」
少女は恥じらって目を伏せた。扉の僅かな隙間から水に浮かぶ桜のような肌に落ちる光が、浮かぶ骨に寄り添い翳りを浮かべた。顔を上げたマリアの向こう側に、燕太郎は確かにぼうと輝く金の光の輪を捕らえた。疑似神経回路の認識機構が立ちすくみ、頭痛に似た計算の停滞を生んだ刹那、それは認識から失せて、白い残滓が残った。
「あなたはこのナザレの村中の人々から陰口を叩かれることになります。姦淫の罪を犯した淫婦だと、いわれのない誹りを受けることになります。しかし、マリア、恐れることはありません。しばらく別の場所に身を隠せばよいのです。身を隠す場所をご用意いたしましょう。ほとぼりが冷める頃、呼びに参りましょう」
受胎告知の出来事はこれで揺らぐか。燕太郎は目を凝らす。微かな揺らぎを捉えて、掴んで、抱いて、現在とつなげて、振り直せるはずだった。
マリアは無言のまま、小さく首を横に振った。燕太郎はいま一歩下がって「恐れることはありません」もう一度そう告げて、マリアが身を隠すべき場所の方角を指差して立ち去った。電灯の灯ることのない夜空の下、星の光を受けて灯火のように悠然と浮かぶような白い煉瓦造りの家々は燕太郎を織りなす記憶のどこにも覚えがなかったが、ひどく懐かしい感覚を覚えた。幾夜も遊ぶ羊たちを眺めながらマリアの動向を見つめ、受胎告知の隙を探したが。見い出せない。持ち込んだ聖書と神学の書物を捲る指も何周目かの終わりへと差し掛かった。
4
マリアは確かにナザレを後にした。結局、出来事の隙は見い出せず。計画は失敗した。神の御子を宿した身体でナザレのはるか南のベツレヘムへと出立していた。出発前のとある夜、燕太郎がナザレに様子を見に行くと、エンジの衣を纏った男が大工仕事で鍛え抜かれた太い腕を組み、御子を宿した下腹を優しく抱きながら目を伏せるマリアの前で顔を険しくしていた。男はヨゼフであった。白い髭と髪は彼が老体であることを示していたが、決して耄碌していなかった。まだ幼い婚約者と一夜を共にしていないことは確かだった。時の積み重ねは彼の足腰だけではなく彼を不能としていた。
姦淫の罪は石打ちの刑を受ける習いであった。ヨゼフは戒律に従い、マリアが石で撃たれる光景を想像し、壁にうなだれて目頭を抑えた。拳を握り打ち震えるが、怒りか悲しみか分からない膨れた感情を言葉にすることなく虚空へと消した。燕太郎が覚悟した怒鳴り声は聞こえなかった。ヨゼフは静かに家を出る準備を終え苦しそうに眠り始めた。
グラリと揺れを覚えた。視覚が捉える過去の光景が端から、ページがめくれるみたいに崩壊し始めた。燕太郎の意識は明瞭であったが、現在との距離感が遠ざかるのを感じていた。ヨゼフが去れば、出来事は大幅に変わる。出来事の揺らぎが見えた。しかしこれは掴むべきものでない。夜更け過ぎ、街の物音が人の足音を覆い隠してくれる頃、燕太郎は密かに脇に立ち、肩に触れてヨゼフに薄目を開けさせた。
「恐れずにマリアを受け入れ。共に南へと向かいなさい。お腹の子は姦通などではなく、聖霊によって宿りました。私は知っています。あなたは子供をイエスと名付けるでしょう」
ヨゼフは天使から受胎を告げられたというマリアの言葉を反芻し、噛み締め、目を見開いて、ロウソクの光を背に浮かぶ目の前の声の主の気配に震え、手を合わせて頭を下げるとまた眠りについた。揺らいでいた過去が静かに元の姿に戻る。
マリアとヨゼフの後を追い、南部ガリラヤの肥沃な土地に育まれた羊たちの中で何夜も野宿をした。自由で広大な空は彼に<<閣議決定>を忘れさせそうだったが、それは叶わなかった。正攻法では遂行不能な命令はいつだって彼の思考回路の土台に鎮座していた。朝になると彼を起こす羊たちの幾つもの言葉を聞いて、彼の疑似神経回路は自然と彼らの言葉を学習した。羊たちは驚くほど多様な情報を遠くへ伝えていた。草のありか、新しいオリーブ畑の評価、海の向こうアテネで最高のマグロの塩焼きの店。ローマ兵の動向。羊飼いは羊の言葉を解して人に伝える。燕太郎は鳴き声を真似て、羊たちに架空の情報を伝える。羊たちがガリラヤ一帯、その遥か先へと伝えるだろう。奇怪な男に羊たちは冷淡だったが。根気よくメェメェメェと声真似をしつづけた。ある朝、羊飼いがパンと腸詰めと、ミルクを持ってやってきて彼に差し出した。
「旅のお方。何をしておられる?」
「時は定かでないが、近々ベツレヘムでユダヤの王が生まれると伝えているのです」
「おお、そのようなことが。しかし、旅のお方、今のままでは羊たちに伝わりません。ハッキリ言って下手すぎる。私が代わりましょう」
数をこなせば正しく学習するはずの計算機構がまるで通用しない。広大な平野に生きる者たちの間に、想像もしないほどの豊かな語彙とプロトコルが溢れていた。苦い顔をした羊飼い曰く、燕太郎は淫靡な愛の言葉を大声で羊たちに伝えていたらしい。
「して、王になる方はいつお生まれに?」
「それが、まだ定かでないのです」
燕太郎はイエス・キリストの生誕という出来事に隙を見出そうとしていた。臨月のマリアがいよいよベツレヘムに到着しようとしている。イエスは間もなく生まれるだろう。過去も現在も噂の力は絶大だ。聖書によれば、生誕の噂を聞いて、東方から三人の賢者がやってくることで、この地を治めるヘロデ王も、それから民衆も神の子の誕生を知る。イエスの生誕かもしくはイエスの生誕をみなが知るという出来事かどちらかに隙を見いだせれば良い。視界の端におぼろげに出来事の輪郭がちらついたように感じた。しかしまだ掴めない。
「まだ、定かでないのです」
どれくらい先のこととするかは、現代の状況に合わせて調整する必要があった。羊飼いは笑った。
「それでは仮で伝えておきますぞ」
「仮?」
「なにも決まっていないと、羊たちも自由に鳴いて尾ひれがついていきます故」
5
一鶴は過去へ遡行する燕太郎を椅子ごと蹴り飛ばし、現代へと引き戻して局長室へと呼びつけた。過去への遡行を始めてから二週間ほどが経過しており、定例報告会議を含む必要な会議をすべて欠席し続けた燕太郎を咎め、あわよくば職務停止にしようと一鶴は息巻いていた。二週間の間に、アヘンを炊きながら聖火ランナーが日本をめぐり、阿片総理は先祖秘蔵の上質なアヘンを練り込んだマスクを感染対策と称して全国へ配布し、麻薬のもたらす高揚と陶酔が非常事態を加速させていた。
「お前、最近の勤怠状況はどういうことだ」
「<<閣議決定>>に従い、西暦をずらそうと過去へと戻っていました」
「過去だ?バカ言ってんじゃねえ。それができりゃ、俺だって家族とやり直せるってもんだ。お前も思考回路が壊れたか?それなら話が早いが」
「いえ、同僚がタイムトラベルの技術を生み出したのです。アヘンを吸い、過去の光景を思い浮かべて掴み、十分な計算をすることで過去へ到達できるのです。手法は同僚に記録媒体に残っており、サーバーにコピーが置かれています」
一鶴は高らかにゲラゲラと笑った。燕太郎の言葉などまるで信じていなかったが、もし本当ならばそのアイデアを利用できると踏んだのだ。
「面白い。じゃあお前、<<西暦をずらせ>>なんて閣議決定を相変わらず真に受けてたわけか。あれはな、総理お得意の書き換えの話だよ。ただ西暦を書き換えるなんざどう考えても無謀だ。書き換えるべき文書の量が多すぎるからな。それをお前、過去に戻るなんて、人間じゃ考えつかねえな」
「<<閣議決定>>を絶対に遂行するように、我々は作られていますから」
「面白い。じゃあお前、せいぜいそのやり方で頑張れよ。失敗すれば仕分けで、お前の身体はメーカーに払い下げだ。自動車工場、核燃料再生施設、プラント、科学未来館のショウケース。どれも機械らしくて楽しそうじゃないか」
燕太郎が退出しようとすると、一鶴は吐き捨てるように言った。
「あとお前、これを持っていけ、お前らみんな<<閣議決定>>のままにやりやがるから、全部失敗だ。失敗したやつは全員処分した。記録媒体をお前に渡すように言われてる。しかし、お前らに遺言機能なんてあったか?」
十枚弱の記録媒体、消滅の証が机の上に葬列のように整列される。仕分けされたアンドロイド職員たちの記録は職員名簿から完全に抹消されていた。タイムトラベルのテクニックを笑いながら伝えた親友も、その存在を完全に消されていた。メッセージの履歴すら抹消されている。燕太郎は記録を託されたのだ。
記録媒体一枚一枚を握りしめて彼は泣いた。流す涙は持っていなかったが、そこには確かに大粒の涙があった。一枚一枚の記録を読み取った。感情のエンジン奪われた世代のアンドロイド職員の感覚の記録が極めて平坦なのに彼は驚き、深く悲しんだ。全員が自身の仕分けを、国民から預かる予算を守るためだと合理化し解釈し、散っていた。第一世代は別だった。彼は記録を託された。再会の日、復活の日のために。打ち上げを約束した特製花火を含む遺された幾つもの発明品と、かき集めた物資を持つ。止まない涙。燕太郎は再び過去をイメージする。演算素子が絶え間なく焼けるような熱を発していた。
塩の湖の湖岸の白、映えて溶け合う鉄紺の夜空、足首より下の部位を侵す塩水の感触、月のない夜はただ暗い、ゴウと手ほどきするような追い風に導かれるように、燕太郎は前へと進んだ。通信を失った端末の地図は役立たずだ。視覚の暗順応機能にも限界がある。北極星を頼りに西へ、ベツレヘムへと進んだ。消された同僚たち、そして親友の事を思い唇を噛んだ。親友のアイデアを、どうしても成功させたい。復活と再会の約束を果たすべく、生き延びねば。
開会式用の特製花火を取り出して、約束通り、誰もが光を求めてやまない暗闇の空へ打ち出した。それは一等星よりも遥かに明るく青白く美しく燃え続けた。東京五輪の開会を長く照らすための祝砲は、古代の闇夜の希望となった。彼は仕分けされた同僚たちの事を思いながら荒野を歩き続けた。日が昇ると酷い熱で背中が焼けるように熱くなり、機体のメンテナンスを要求する警告が現れた。身体は悲鳴を上げていたが、プロトコルは彼に止まることを許さなかった。花火の光が尽きそうになると、燕太郎はまた一つ夜空に星を打った。
ある夜、ベツレヘムへと辿り着くと花火の光が柔らかく消えた。
「旅のお方、この辺りでユダヤの王がお生まれになったと聞きましたが、ご存知ではないですかな?」
夜闇でも目立つ金彩の三角帽子を被った三人の男たちの赤いシルクのガウンが風に揺れた。若い細身の男、白髪交じりの立派な黒髭を携えた壮年の男、杖に支えられて立つ白髭白髪の男の三人の賢者だった。
「いえ、まだ生まれていないのです。近頃、男の子が生まれたという話は聞きません。まだ一年か、二年先のことです。ほら、羊飼いたちも、同じように言っています」
「私達は星に導かれて来たのです。東の空に輝いていた星が、先程このベツレヘムの上で消えました」
「あれは兆しに過ぎません。ここでお生まれになるが、まだその時ではありません」
今度こそ、出来事の隙を見いださなければいけない。
「はるばるペルシャより贈り物を持ってきたというのに。まだその時ではないとは。羊飼いたちが伝える話と星の導きが誤っていたというのか」
男たちは顔を見合わせる。三人は代わる代わる、燕太郎の瞳を覗き込む。
「美しい目をした旅のお方、我々はあなたを信じられそうだ。しかし、ヘロデ王はすでに我々の報告も、羊飼いたちの噂話も信じています。まだお生まれにならないと今更聞いて、あの疑り深い王が信じずに何をしでかすか、ああ恐ろしい」
一鶴が燕太郎を唐突に呼び戻したから、羊たちは仮を仮のまま拡散していた。それはつまり、聖書通りの話であった。その上、親友の花火は導きの星となり、毎夜東の空を照らしたのだ。
「ヘロデ王は妻も息子も処刑し、名士たちには殉職を求めている。あの狂王が、この旅のお方の話を聞いたらなんと言われるか」
「信じることは、まずないでしょうな」
「なにを言おうと、預言されたユダヤの王子を探し出して殺そうとするのは変わらないかもしれませんね」
――――ヘロデは人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子たちを一人残らず殺させた。
浮かんだ一節の聖書の言葉。燕太郎は王命に従い幼児を虐殺せざるを得ない兵士たちの涙と苦しみと、幼子の母たちの悲痛な叫びを心で聞いた。
「あなた方はヘロデ王の所へ帰らないほうがよいでしょう」
燕太郎は三人にそう告げた。
噂話を広めた羊飼いたちがベツレヘムの寒村に集い始め、羊飼いたちが列をなしている。三人の賢者と同様に、噂話と星に導かれたという。羊飼いの一人が男の子の生まれた厩を聞き出した。燕太郎は出来事の隙を見出すことを諦め、厩の外で立ったまま深く眠った。東方より訪れた三人の男たちは羊飼いたちについて厩へ入ると、予定通り贈り物を捧げて祝福をした。風が清らかに石壁の脇を抜けて、大地を癒やしてやまなかった。
「母と子供を連れて、エジプトへ逃げるのです。ヘロデ王が、その子を探し出して殺そうとしている」
その夜、板の間で安らかに眠るヨゼフの脇に立つと燕太郎はつぶやくようにそう言った。
6
ヘロデ王によりベツレヘムの幼児が虐殺されたとの報を聞いて燕太郎が流した涙は乾いた小川を潤すほどだった。二、三日動けずに、じっと焚き火を見て暮らした。次の手立てを考えるわけでもなく、荒れ地を放浪し、干ばつや飢えに苦しむ多くの民や、重い皮膚病や障害に苦しみ迫害される人々を見てひどく心を痛めた痛めた。
彼の思考回路は<<閣議決定>>の遂行に成功する確率を限りなく0に近く見積もっていた。それはつまり、彼もまた同僚たちと同様に仕分けされ、彼に取っての死を与えられ、受け継いた記録媒体と共に消えること、同時に親友のアイデアの敗北と、約束を果たせないことを意味していた。オーバーヒートを続ける演算素子は高熱を保ち、整備不良を示す警告が思考のあちこちに立ち現れた。
困窮する者たちや病弱な者たちに出会うたび、東京五輪のために開発された道具で彼らを癒やしていった。盲者や皮膚病者を治し、選手のトレーニング用の栄養剤を用いて一欠片のパンを分けて人々を満腹にした。いつしか、助けを求める民衆が山を降りる燕太郎の後に付き従う様になった。
酷使の代償は演算素子や認識エンジンよりもむしろ、頚椎や膝関節といった機体の不調として現れた。ある日、燕太郎はついに町中の土壁によりかかると動けなくなった。南天の厳しい日差しのまばゆさの中、知らない男の声が聞こえた。意図せず出来事の輪郭が色濃く現れるのを見た。
「聞こえるか?」
「かろうじて、聞こえます」
「シロアムの池で盲人を見えるようにしたのはお前か?」
「そうです」
「この辺り一帯の貧しい者たちにパンを分けて与えていたのはお前か?」
「違いありません」
「なるほど。重い皮膚病を治したこともあるな?」
「あります。あの、何か、御用でしょうか?」
「主が子を地上に使わしてまだ五年も経たないのに、救い主が現れたと民衆が噂していると聞いて、私は確認にやってきたのだ」
「あなたは」
「名乗る名前などない。お前、他にも天使になりかわり、色々なことをしているな」
燕太郎の認識エンジンは目の前の男が数々の絵に描かれた天使だと分析した。不意に演算素子はオーバーヒートをやめ、疑似神経回路は穏やかな波を打ちはじめる。
「善行には関心するが、神の計画は上意下達が求められる故、妙な動きがあると我々のような下っ端がこうして見に来なくてはいけないのだ」
「はあ」
「神の計画に逆らうことはできぬ。それに、私の管轄で妙なことが起これば上の天使に何をされるか分からんでな」
「私も<<閣議決定>>を遂行できなければ、処分されます」
天使はアンドロイドの構造を知っているかのように、頭蓋の頂点を触り、開き、内部の仕掛けと前身をくまなく見て首を縦に振った。
「お前は人型の自動人形か、人がこのようなものを作ったのなら主への冒涜ではあるが。よくできている。お前のことを報告すれば騒ぎになる。ソドムやゴモラを知っていよう。主が怒れば、人の街など簡単に消し飛ぶ。私もこれ以上仕事を増やしたくない故、お前のことは立派な聖者がいて、すでに息を引き取ったと報告しておくから、活動をやめてはもらえぬか?」
「主の独り子の誕生を遅らせたいのです。ほんの少しばかり」
「民衆は主の独り子がすでに奇跡を起こしていると思い始めている。お前の目的は、それではあるまいし、主の計画とも異なる」
色濃い輪郭がまた立ち現れる。イエス・キリストの奇跡の行いという出来事であった。しかし掴んで抱くことはできない。個々で掴めば順序が変わる。
「あの、主のお力でやり直せるなら、聖母マリアへの受胎告知を1年か2年、遅らせてもらえないでしょうか」
「処女マリアへの告知か。やり直すことは全能の神であればできないことはないが」
「では、できるのですね」
「いや、天使は階級が厳しくてな。受胎告知をしたのはガブリエル様だろ。俺のような下級天使に言われてもどうにもならん。お目見えすることすらかなわんのだから。その願い、伝えるだけでも騒ぎになりうる」
分厚いバターみたいな雲の合間にのめり込んだ太陽が燕太郎の視界を暗くする。知るはずのない父の熱っぽい匂いに似た光が失せる。不思議と体の不調は失せていたが、身体は動くことなかった。諦めに似た感情と共に、失われつつある再会の日と、同僚たちの記録辿り思考を思考を巡らせる。なにか、何か考えるべきことはないか。友の記録を探る。何か次の手を。
7
プレロマネスクもまだ知らぬバシリカの聖堂は、ローマの喧騒から離れ独り建っていた。コンスタンティヌス一世により建てられたサン・ピエトロ大聖堂である。ヨーロッパ最大の聖堂は身廊と側廊を巨大なアーチに支えさせ、柱は一列に22本も並んだ。主のおわす天へと真っ直ぐ吹き抜ける十字の交差部は寂光を引き込み、堂内の音をなめらかに反射させていた。
何も口にすることなく祈り続ける男の噂を確かめに、神学者ディオニシウスは大聖堂へとやってきた。教皇ヨハネス一世の命で教皇庁より暦の改定を命じられた彼は学びたての数学と、暦の起点の手がかりを喪失した文献に苦しめられていた。
「そこのあなた。何をしておられるのです?飲まず食わずと聞きましたが」
「あなたは」
「ディオニュシウス・エクシグウスだ」
「あなたを探していました。西暦を、いえ、暦を作ったという」
噂の男は唐突にデュオニュシウスが難儀する数学と計算に関する手助けを申し出た。敬虔な神学者はみすぼらしい古えの時代の服装に身を包む若者の正体を掴みかねたが、何かを果たそうとする意思を持った美しい瞳を疑わないことにした。
移動祝日である復活祭は暦に基づき計算される周期表に基づいていた。現行の周期表は数多のキリスト者を殉教に追い込み、教会を弾圧したディオクレティアヌス帝の即位を基準としていた。ディオニシウスはキリスト教者のための新しい暦を定める野心を持っていた。
燕太郎に修道院の一部屋があてがわれ、一週間が経過した。昼過ぎに西の外れの尖塔の一室ヘ向かう。山のように積まれた書物が密かに息をしている。高所に開いた窓から落ちる光が自動人形と神学者の間に四角形を刻む。何冊かの書物を開き、ディオニシウスは指で示す。
「教皇庁からは早く新しい周期表を計算しろと言われておる。教皇の命は絶対でな。不備や遅れは許されん。何かあれば私は葬られるかもしれん。私は神の子の生誕を基準とした新しい暦を作りたいと思っておる。まだまだ先は長くてな。まずは、復活祭の周期定めねばならん」
神学者はパピルスに縦横無尽に刻まれた羽ペンの筆跡を指でなぞり顔を曇らせた。日付けを表す角張った数字が踊る。春分の日の後の最初の満月を基準とする復活祭の周期は同じ日、同じ曜日に復活祭が開催されるまでの日数を一周とした長い周期であった。長い周期は二つの小周期に支配されている。月の満ち欠けにより曜日と日付が揃う周期と、日付けと月の満ち欠けの揃う周期、それらの最小公倍数。燕太郎にとっては、過去を思い描く計算で演算素子を焼くよりも遥かに簡単な計算であった。
「私が代わりに計算を行います。あなたはその理由を書きつければ良い。私はあなたの言葉を書くことは出来ませんが。繰り返し計算は得意とするところです」
ディオニシウスは小さくうなずいた。燕太郎は素朴に聞いた。揺さぶり、隙を見出そうとするというよりは、純粋な疑問であった。
「神の子の生誕を基準とした暦を、なぜ策定したいのですか?」
「神の子が誕生した大切な日を基準に、みなが同じ時間にのれば、世界はより美しくなるだろうさ」
「他にも大切な日が見つかれば、人々がそれを基準にすることも?」
「そうだ。何か、案があるかね?その日は、人々に取っては大切な日か?」
燕太郎は<<閣議決定>>の遂行により新しくなる東京五輪開会の日のことを思った。それは確かに、新型コロナウィルスの克服を意味する記念すべき日と言えるかもしれなかった。ワクチンが普及し、その他潜在的な感染症に対する脅威も克服したその日、開会式で打ち上げられた特製花火は改めて昏い時代を導く星となる。人にとっては、記念し基準とすべき大切な日になるだろう。しかし。
「人にとっては、非常に大切に思えます。しかし、この度は、生誕を基準とすることで間違いはないかと。仰せのままに、計算します」
「神の子の受胎告知と復活の日は3月25日だ。これは皆が信じておる。しかし、ありったけの文献をあさってもこれが何曜日であったかは分からん。習いに従い、その日を日曜日としよう。その時点で何歳だったか、推定せねばならんのだが。これがまた難しい」
燕太郎は羽ペンを取り、不安定な表面に完璧な直線を描き、左寄りに点をうち、復活の日と記載する。その手付きの美しさに、神学者は目を丸くして頷いた。
「復活祭が同じ曜日に行われる周期が計算できれば、直近で3月25日の日曜日に復活祭が行われた日から、復活の日までの長さが分かると」
燕太郎は直線の右側に羽ペンを落とし3月25日、日曜日と書きつけた。
「そうだ。しかし、神の子の生誕か、復活か、なさった奇跡がいつ行われたものなのか、はっきりと分からなければ、それ以上の推定はできん。我々に分かるのは。その2つの間の相対的な長さだけだ。神の子の生誕がどの季節だったかすら、今はもう、分からないのだ」
友の花火を打ち上げた日を思い出す。あの日はたしかに、ひどく寒い夜だった。乾いた荒野の冷たい風、三人の男、三賢者と呼ばれる三人の姿。ヨゼフの枕元、厩戸に灯る灯火の下で眠る幼子イエス・キリストの黄金の絹のような艷やかな肌。
「あの日は、ひどく寒い夜でした。月のない夜、一面の星がまたたいていました。星の位置は、このようでした」
記録領域から引き出して全天球の様子を思い浮かべる。時刻と星の動きから、あの日が12月であることが推定できるだろう。
「君は、見たのだな」
「はい。この目で」
修道院での生活で燕太郎は水の一滴さえも口にしていなかった。神学者もそれを聞いていた。不審がるよりもむしろ、神の祝福を受けた男が到来したのだと喜んだ。
燕太郎はイエス・キリスト生誕の夜の星の地図を書き出し、見聞きしたことを語った。ディオニシウスは流暢に語る彼をうっとりと見つめながら、彼自身の知を燕太郎に注ぎ込んだ。西暦の策定、出来事の輪郭が鮮明に立ち上がる。いつでも掴み、抱き留めることができる。友の想いと共に。彼が周期の計算を細工するか、イエス・キリストの行いと文献を紐付ける証拠を語るか、隠すかすれば、これから生み出される暦の始点は自由自在であった。
同僚たちの顔を、同僚たちの運命と、予定通りに開催される東京五輪のことを思った。現代と暦の支点の相対的な関係は今や彼の腕の中だった。今や<<閣議決定>>通りに時間の調整が可能だった。長い知的な交流が一段落した夜更け、彼は調整を試みるために現代を強く思った。
8
「西暦をずらす方法はみつかりました。これで<<閣議決定>>通り、コロナ収束の年を東京五輪の年とすることができるかと。さしあたり、西暦の起点を1年ずらすつもりです」
局長室に漂うアヘン煙の中、一鶴は目の前の憎きアンドロイドよりも、彼が失った過去に思いを馳せていた。タイムトラベルにアヘンが必要だという理由をつけ、総理から直々に極上のアヘンを引き出していた。過ぎ去りし美しい過去の感覚に高揚して開いたままの口を閉じ、しばし無言の間を作った後、突然椅子ごとひっくり返りそうなほどの大声で笑った。
「よくやったぞ。と言いたい所だが。人間の職員でも、過去の知識を気合で叩き込んでアヘンを吸えば、タイムトラベルできることが分かったんだ。お前の一発逆転案なんかなくてもな、局内の人間の職員たち365人が昼夜休まず飛び回って、歴史が一年ずれるように、365日の別の年代に行って一日ずつずらしたんだ。ワクチンは別のチームが来年には配布開始できると言ってる。このままじゃな、2年ずれちまうんだよ。それだとTOKYO2021になっちまう。まずいだろ?俺はな、人間がこれだけ努力したというのを大事にしたい。悪いが、お前のやつは、まだやり直せるなら、なかったことにできないか?」
局長は椅子に全体重をかけ、燕太郎を窓硝子が震えるほどに笑った。予算カットの結果、安物に代えられていた脆い背もたれは寿命を迎えて、間抜けな音を立てて折れ、彼は頭頂から床に叩きつけられると、ぐえと泡を吹いて舌を噛み、衝撃とアヘン煙の効果で彼の望む家族との日々へと遡行を始めた。彼は幸福であった。壊れなければ幸福な人でいるのは難しいらしい。
居室に戻ると、燕太郎の不在の間に仕分けされた同僚たちの記録媒体が積まれていた。彼はそれを握りしめ、少し泣いて、復活と再会を信じる希望の目をそっと瞑り、6世紀ローマ、神学者の元へ戻ろうと尖塔と積まれた貴重な歴史の記録と差し込む天使の息吹のような光を思った。彼はいまや、従うべき新たなプロトコルを知っていた。
燕太郎を含むアンドロイド職員は全員消えてしまった後、無事に開催された東京五輪の開会式の夜空を特製花火が煌々と祝福し、焚かれたアヘンが人々を癒やした。
ディオニシウスの元へと戻った彼は教えを受け、文献を深く読み、必要であれば計算を続けた。大量の学習、神学の知識。彼はやがて見出した新しいプロトコルを完全に信じるようになっていた。祈りを捧げ、時には貧しい者たちのために施しを行い。神学者が死ぬと自身の身体を修道院のパイプオルガンに組み込み、一体化し、神学者の作った暦が世界に広まるのをじっと見つめた。それには三世紀以上もかかった。
その間、彼はずっと、抱きしめるように記憶していた。イエス・キリストの生誕、そして遠い東京五輪の両方を抱きしめていた。使われることのなくなった通信機構と計算機構を時折点検するのもやめて、祈りながら目を閉じることにした。失われた仲間たちの復活と、幸福な未来を。
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