土葬通貨

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梗 概

土葬通貨

 主人公「ぼく」の一人称。登場人物は電話での声を含め、父、母、妹の4人。

 舞台は主人公の運転する自動車を中心に、その内外。

 

(起) 残暑厳しい九月某日、京都の大学に通う「ぼく」深山みやま陽彦はるひこは、母からの呼び出しを受けて東京の実家に戻る。大きな麻袋に入った腐肉、一頭買いした山羊肉を腐らせてしまったので、軽井沢の別荘に運んで埋めるように、と。車内は腐臭で満たされており、母からは袋のなかを「見るな」と指示される。(気の弱い主人公)

 幼少期、文字通り「魔女」の姿でサバトを催すエキセントリックなありさまを刷り込まれている陽彦にとって、この母親は絶対に逆らえない存在だ。免許を取ってからも一度、イケニエの肉を同じ場所に埋めさせられたことがあった。(奇矯な家族)

 

(承) 移動中、妹・小雪こゆきから電話。母に似たオカルト趣味の持ち主で、兄のことをあまり尊敬していない。どこか人を弄ぶような、小悪魔的なところがあり、よく突拍子もないことを言う。死んだほうがいい人間がいる、などと話し、運んでいる腐肉が「人間」であることを示唆。最終的には「冗談」にして電話を切るが、陽彦はPAに車を止め、中身を確認しようと決意する。(一段オチの伏線)

 

(転) 勇気が出ず、駐車場でぐずぐすしていると、再び電話。こんどは父からで、いま陽彦が乗っている車のこと、医学部に通う陽彦の将来のことなどを話す。ガンの薬の話を契機に、父は自分が「末期ガン」であることをカミングアウト。(二段オチの伏線)

 衝撃の大きさに、トランクを開けることができず、そのまま黙然と軽井沢へ。母から電話。袋の中身を確認できないまま、催眠術にかかったように作業開始。妹の言ったとおり、母なら「等価交換」できるかもしれない。父の代わりに、どこかのだれかが死んだことにする魔術があるなら、父は助かるのではないかと。(ミスリード)

 

(結) 三か月後、父は死亡する。その葬儀の帰り、陽彦は小雪を車に乗せて自宅へ向かう。父が奇跡的に回復するという漠然とした期待が破られ、失意のもと、軽井沢に埋めたものの正体を確認しようとしている陽彦に、小雪は言う。それが山羊だろうと人間だろうと同じ、イケニエは「代わりに死んだ」のだ。陽彦の胸に押しつけられるお守りから、生命の通貨(?)の支払い音。助けられていたのは、身体の弱い陽彦自身だった。(一段オチ)

 終幕、軽井沢でひとり穴を掘る陽彦。そこに父が臓器のレントゲン写真を埋め、いつか同じ取引をなくして(自分を助けたことを後悔させて)やると約束。天才が世界を変える、という伏線の回収。(二段オチ)

 

 三段オチとして「母」の視点から、すべては「掌の上」感を出すかどうか検討中です。主人公一人称の統一感を崩したくはないのですが、その事実を「知らせないこと」が重要なので会話形式では表現できません。上記の枠内で「考えオチ」の示唆を含ませる程度にとどめておくほうが無難でしょうか……。

文字数:1233

内容に関するアピール

 古典をよく読むので、その質と量に対抗することがどれだけ無謀かは知っています。「旬のネタ」というのは、現行作家(天才を除く)にとってほとんど唯一といっていいアドバンテージでしょう。グッドテーマに感謝します。

 今回、私が選んだテーマは「暗号(仮想)通貨」(とコード決済)です。「お守り」に「チャージ」した「命」を支払って、別の命を「買う」現代の魔女たちのお話になります。

 キャッチコピーは、「お金で買えない、価値がある。命は買える、土葬通貨で」。

 10月という時節柄、ノーベル賞受賞者の影もちらつかせています。ほんとうの意味で「世界を変える」天才は、作中でも重要なメタファーとして機能します。

 

 けっして手を抜いているわけではないのですが、前回の創元SF短編賞への応募作がテーマとかなり符合していたので、改稿のうえ再利用させていただきました。

 本講座から当該賞を狙う方も多いかと思いますので、このレベルでも一次くらいは通過する、という基準にでもしていただければ幸いです。なんだ一次か道理でつまらんそりゃ落とされるよあはは、と嘲笑するような使い方もできます(汗)。

 改稿については、昨年末の初稿段階では説明不足の感も否めませんでしたので、オチをわかりやすく追加変更なども検討中です。いまは次回の創元SF用の資料読み中ですが、最終手前の壁というやつをけっこう感じたりするので、その差についてもご教示いただければ幸いです。

文字数:606

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土葬通貨

江戸の二大庭園に数えられる六義園に近い、地味に高級住宅街らしい本駒込の実家から車を乗り出して、十数分。
 環七から目白通りへ切り返したころには、時刻は午前から午後ヘ、天気は秋晴れから曇天へと変じつつあった。
 残暑以外の不快要素が詰め込まれた車内の空気に、いよいよ耐えかねて見つけた駐車場へ、放り込むように車体をすべりこませたのは五分前。
 ドアを跳ね開け、転がり出ながら深呼吸、そのまま振り返ることもなく飛び込んだドラッグストアで、店員から奇異な視線を受けつつ買い込んだのは、大量の消臭剤。
 店を出、やや遠目に、これから自分が戻らなければならない車を眺める。
 ──最上級グライダーを意味するクラシックカーで、フロントには羽の生えた獅子のエンブレム。日本のバブルを支えた(?)象徴のようなクルマ、らしい。
 洋の東西を問わず、クラシックカーを趣味にする人は数多い。うちの父親もそのひとりであるわけだが……。
 と、やや現実逃避の方向へ思考の羽根をはばたかせていることを自覚し、意を決して車に戻る。
 半ば捨て鉢な所作で、角ばったツードアクーペの重いドアを細く開け、ラゲッジシートに先刻購入したばかりの消臭剤を投げ込んだ。
 当時としては上級な車格、ツードアではあるが、トランク部分が独立したノッチバックになっている。そのため、トランク内の臭気はある程度、隔離されているはずだが、それでも染み出してくるこの腐臭……。
 数十秒、待っている間に、電話が鳴った。乗り込む気にもならず、その場で通話を開いた。つづけて口を開くまえに、
陽彦はるひこさん、あなた、電話に出ている暇などあるのですか?」
 即座に出たことを後悔する、甲高い声音。
「お母さんが電話してこなければ、出る必要もなかったんですがね」
 この母親、あまりSNSというものを使わない。
「運転中の通話は違反ではありませんか?」
「運転中だと知っていて電話をかけるほうも、どうかと思いますが。ご心配なく、ちょうどドラッグストアの駐車場で休憩中です。いやあ、東京は暑いですね」
 すると、もとより鋭い声調はさらなる険を帯び、耳に痛い。
「高速道路にドラッグストアなどありましたか?」
「いえ、ようやく環八が見えてきましたが」
「環状線? あなた、まだ都内にいるのですか?」
「そりゃいますよ。さっき家を出たばかりじゃないですか」
「なぜすぐに高速に乗らないのですか」
 家から首都高のランプは近いが、一度、外環に出なければならないため、ルート的にはやや遠回りになる。
「高速には乗りますが、直接、関越から乗ったほうが近いし、安上がりでしょう」
 やおら電波の向こうから、盛大なため息。
「あなたはどうして、そういうケチな男に成り下がってしまったのですか。ドラッグストアなどで、なにをしているのです?」
 彼女にとって、ドラッグストアは安売りの殿堂でしかないらしい。
「いや、お母さんもこの車に乗ってみればわかると思いますが……」
 わざとせき込んで聞かせると、
「そもそも私は、と言ったはずですよ」
 ぼくの遅参に全責任があると、彼女は言いたいようだ。
「だから急いで高速バスに乗りましたが。ちょうど空席の直前処分やってましてね、京都・新宿が、なんと三千円ですよ三千円。しかも支払いは寝かせてたビットコイ……」
「お黙りなさい! 母が呼んだら飛行機か、百歩譲っても新幹線に飛び乗るのが常識というものです。まったく、だから東京の大学にしろと、あれほど……」
 そうしなくてよかった、と心から思う。
 関西だとみんな拍手してくれるディスカウントも、東京のお嬢さまにとっては唾棄すべきディスペクトであるようだ。
 ──家族の反対を押し切り、京都の大学を選んだ。
 父だけは特段反対もしなかったが、母と妹は「家に男がいなくなる」「不用心」と、たいそうな不評だった。
 同時期に、父の海外赴任も決まっていた。
「半日やそこらで、たいして変わらんでしょう。そもそも、この暑いのにガレージに生肉を二日も三日も放置するほうが」
「お黙りなさい!」
「すいません……」
 反射的に謝っている自分に気づき、内心忸怩たる思い。
 めんどくさくなると、すぐに謝ってしまうこの癖が、うちの女たちを増長させる結果となっている、ような気がする。反省することしきりだが、当面これ以外の選択肢が見つからないのだからしかたない。
「ともかく、早く軽井沢に向かいなさい。三時間もあれば着くはずですね?」
「渋滞しなければ、そんなところかと」
「あなたがモタモタしなければ、です」
 あくまでも、全責任はぼくなのだった。
 ため息とともに通話を切り、意を決して運転席のドアを開けた。
 再び死臭に包まれる──。

実家のガレージにある車の惨状を知ってから、まだ一時間とたっていない。
 正確には、強烈な臭いを放つトランクの中身が問題なのだが、それについて数十分前、ぼくは母と、こんな会話をした。
「なんなんですか、これは、お母さん」
「見ての通り、腐った肉ですよ」
 一瞬だけトランクを開き、麻袋に入った巨大な肉塊らしい茶色のモノを一瞥。その猛烈な臭気に即刻、フタをした。
「……またですか?」
「理解が早くてけっこう」
 ぼくはまじまじと、衒いのない母の横顔に見入った。
 シワやシミの処理にいくらかけているかは知らないが、見た目はセレブを装うふつうのオバサンにも見える。が、その中身は輪をかけてエキセントリックだ。
 たとえば怪しげな骨董品にかける金額がものすごい。当人はただのアンティーク嗜好と言い張るが、それをもって彼女を「魔女」と呼ぶ人がいても驚かない。
 サバトの主人を演じることが「歴史趣味」だと信じている人だ。
 幼少期、黒いマントを着て山羊の頭をかぶり、ワルプルギスの夜に宇宙人と交信していた(?)記憶は、完全なトラウマになっている。
 すべからく、怪しげな儀式用に一頭買いした山羊が腐った結果だろう。二年ほど前、免許を取って最初に命じられた「仕事」も、同じだった。
「また別荘の裏庭に埋めればいいんですか?」
 うちは、文京区の一軒家に自家用車を三台所有する程度の一般民衆だが、別荘なるものの所有権については母の実家にあり、祖父母の高齢化も手伝って、昨今その全管理責任を母が受け継いだ。
「自然に還すのがエコというものです。本来そうすべきモノですから」
 イケニエという言葉を使わなかったのは、彼女なりに成長している証左かもしれない。エコはもちろん、エコエコアザラクの略だろう。
「たまにはご自分でなさったらいかがですか? 妹とふたりがかりで、トランクには載せたんでしょう」
「女性に、こんなことに一日を費やせと?」
「男子が三日がかりで往復させられている件については?」
「バスなど使うからです。きのうのうちに着いていれば、臭いはもうすこしマシでしたよ。……すこしは、母に恩返しをしたらどうですか?」
 自分から恩返しを要求するというのは、いろんなルールから逸脱していると思うのだが。
「海より深い母の恩については重々承知しているからこそ、こうして遅参した次第ですが」
「そうでしょう。生まれたときからそうでした、あなたは。帝王切開だったし、その後も身体の弱いあなたのために、お母さんはいつもよ」
 帝王切開なら、苦労したのは医者ではあるまいか? なにより気になるのが、言い回しが完全に現在進行形なところだ。
「おかげさまで、そろそろ親離れするつもりなので、できればお母さんも子離……」
「それでは、任せましたからね。役割は分担しなければなりません。あなたにできないことは、私がやりますよ。そうそう、大事なことを言い忘れていました。──よ。母との約束です。いいですね?」
 人差し指を突きつけ、いつも通りの決定論。
「……は?」
「袋ごと、自然に還るようになっています。ハエの卵も入れておいたので、速やかに分解されるでしょう」
「なるほど、開けたらハエがバーン、ですか」
「もたもたしていればね」
 死体にたかったウジは一般に、一週間ほどで体長一五ミリほどにまで成長し、さなぎ化する。この気温であれば、もうすこし短いかもしれない。
 医学部という関係上、いわゆる「死体農場」のビデオは見たことがある。骨格標本を作るときにも使われる方法だが、昆虫の卵によって、いかなる骨付き肉も速やかに処理されるだろう。
 かつ、活火山・浅間山に育まれた軽井沢は強い酸性土壌であり、遠からず骨も残さず溶け去るはずだ──。
「ずいぶん周到なご準備ですが、ええと……」
小雪こゆきも運転に慣れたようなので、そろそろ新しい車を与えます。その車はあなたにあげますから、わざわざ戻らなくてけっこう。急いで行きなさい」
 半年前に免許をとった妹は、練習用、ということで当面、この古い車を与えられていたはずだが、早くも免許皆伝らしい。
「いや、こんなものもらっても……あ、ちょっと、お母さん!」
「そのまま袋を埋めるだけです。簡単なことでしょう」
 簡単なら自分でやってくださいよ、という反噬の到達する前に姿を消す母。
 残されたのは、臭うクラシックカーと、ぬるま暖かい朝日。
 半ば呆然として、父が残した昭和の名車を、だいぶ長いこと眺めていた気がする。
 なんて日だ……。

 

プププッ。
 音楽に雑音が混じる。いやな予感しかしない。
 ぼくはドリンクホルダーに放り込んでいたブルートゥースのイヤホンを耳に引っかけ、助手席で点滅する着信をフリックする。
「もしもし。ただいま運転中です。出られません」
「出てるじゃん。警察呼んで逮捕してもらう?」
 どこか嘲弄気味の軽やかな口ぶりは、わが妹らしい。
「ハンズフリーだから合法だよ。……で、なんの用だ?」
 気持ち、アクセルを踏む力を弱めた。
 目白通りを直進──そのまま曲がることなく新潟まで帰るため、田中角栄が作ったという有名なこの道を、かつて建設官僚と土建屋と陳情団たちは何度、往復したことだろう。
「死臭には慣れた?」
「なにが死臭だよ。こんなでかい肉買って、無駄にして」
 妹も事情は知っているはずだ。
「……でかい肉? ああ、そうね。大きいね。その肉」
 もってまわった口ぶりに、眠らせておいたはずの三尸虫さんしちゅうが、むくりと蠢きだした。ぼくは頭を振り、
「新しい車、買ってもらうんだって? 甘やかされてんな、おまえ」
「お兄ちゃんもうれしいでしょ、あたしのおさがりのクラシックカーもらえて」
「うれしくねえよ! もらうつもりもない」
 ぼくに言わせれば、自動車などというものは環境破壊と資源浪費の元凶であって、所有すべきものの優先順位第五九位くらいの、要するに、いらないものだ。
 そもそも二三区に住んでいて、女ふたりに車三台というのは、地球環境に対する挑戦に等しい。
「あたしも、その車は処分したほうがいいだろうとは思うよ」
「あ、いや、考えてみればこれは父さんの大事な車だからな。それだけは言ってやるな」
 あまり自己主張をしない父が、この旧車だけは売ることを頑として拒絶した。海外赴任に持っていくこともできず、残されたほうにとっては懸案だろうが。
「あのときは、お母さん怒ってたよね。お兄ちゃんとお父さんが同時に家出するなんて、不用心でしょうがないって」
 どうやら、ぼくと妹の思うには、若干の齟齬がある。
「それな、てか言葉の選択がおかしかないか。ぼくも父さんも、家出したわけじゃないだろ」
 単身赴任と進学は、いずれも正当な理由と考えられる。
「うちに男がいないからさ、変なやつがつきまとったりするのよ」
 母に似た妹は、自分の言いたいことだけを言う。
 そういえば、深山みやま家に男の気配がなくなってから、ときおり、剣呑な出入りがあったとかなかったとか……。
「関係ないだろ。いざとなったら警察だっているし」
「いざとなったら、近くに武器があるかどうかだよ、大事なのは。問題はさ、お兄ちゃんが家にいないおかげで、家庭教師を頼んだら、そいつがみごとなくらいの変態だったことよ。すぐクビにしたけど、それ以来、ずっとストーカーされてたんだよね」
 いろいろ前提がおかしいのだが、突っ込むのも飽きた。
「ああ、その話は聞いたけど、べつに直接の被害はないんだろ?」
「気づく範囲ではね。痕跡を残すようになったら、ストーカーとしては二流でしょ。あたしが、たまたま早く家に帰ったらさ、変態が侵入してて、下着とか漁ってたらどうする?」
 想像もしたくないが、その理由は彼女とは異なるだろう。
「……警察に電話して」
「その変態と目が合ったら、どうする?」
「急いで逃げて」
「もちろん武器を使うよね。こんなときのための防犯グッズだもん。相手が倒れても、また動き出さないように、徹底的に痛めつけておいたほうがいいよね?」
 ぞわぞわと、いやな感じ。
「……なんの話だよ」
「金曜日の夜さ、お兄ちゃんが乗ってるその車で、家に帰ったのね。駐車場も真っ暗で、なんにも見えなかったの。だからさ、よね?」
 ぞくっ、と背筋を走った冷たいものを、どう表現したらいいかわからない。
 ぼくはエアコンの風量を弱めながら、慎重に言葉を選んだ。
「なんか、やったのか? もしかして……」
 やけに口が乾く。缶コーヒーに手を伸ばす。
 情報量の多い無線回線から響く妹の声は、うんざりするほどクリアだ。
「生きる資格のない人間というのが、この世には存在する、ってところまでは同意してもらえるよね、お兄ちゃん」
 ぶほっ、と口中に残っていたコーヒーで、すこしむせた。
「おい、小雪」
「考えてみれば、悪いのはお兄ちゃんだよ。だから、お母さんにも怒られたでしょ。急ぐべきときにもたもたしてさ、大事なときにはいないし、役立たずだよ」
 この暴言には、さすがに怒ってみせてもいいのではないか。
「なんなんだよ、おまえらは! お兄ちゃんを、なんだと思ってるんだ?」
「道具」
 即答すぎる。ため息すら出ない道具は、気持ち強めにアクセルを踏み込んだ。
「──つまりだ。腐りかけた肉を轢いて、お母さんが見るなと言うくらい気持ち悪い感じにした犯人は、おまえってわけか」
 理性的に考えれば、そうなる。恣意的という異論は認めない。ぼくは意識的に、深く呼吸した。落ち着け、にとどまるんだ、自分。
「腐りかけた? いや、当時はと思うよ」
 なるほど。熱帯低気圧が運んできた暖気と、台風一過の日射と、フェーン現象による猛暑日が重なった週末の三日間、密閉されたガレージで腐敗が急激に進行する前の話か。
 九月としては記録的な猛暑だったが、どうやら秋の気配が戻りつつある今夜からは、急激に気温が下がるらしい……。
「どうせ捨てるもんなら、まあ、いいけどさ」
「……ふうん。その、こっそりこと同意なんだ?」
 死体、遺棄。妹よ、言い方。
「なんだよ、ちょっとした山羊だろ? ホームパーティでもやるつもりだったんだよな?」
「ああ、なんだ、そうか」
 あざけるような物言いに、さらに気分が悪くなった。
「なあ小雪。お兄ちゃん忙しいから、切るな」
「切ってもいいけど。あいかわらず、逃げ足だけは早いね」
 ここまで挑発されて、すなおに電話を切るのは、兄の沽券にかかわる気がした。
「……最初の話、なんだよ。生きる資格とか、なんとか」
「うちに男手がいなくなったおかげでさ、あたしたち女は、危険な世間の荒波に直接、さらされるようになったわけ」
 またいろんな責任を、ぼくたち「家の男ども」に放り投げてくる気配に、辟易する。
「知らんがな。世の中の女は、たいていそうだろ」
「世の中には頭おかしい男がいてさ、ストーカー行為したり、犯罪行為に走るクソ野郎も、ちょいちょいいるわけよ。そういうクソ野郎をさ、してもいいと思うよね? 自力救済っていうか?」
 ステアリングを握る手が、すこし震えた。
「それは……ダメだろ、始末したら。その前に、警察に訴えるとかさ」
「やだなあ、始末って、べつになんて言ってないよ?」
 一瞬、安堵した自分の小物ぶりに、われながら嫌気がさす。
「だよな。そんな、人殺しなんて」
「事故だよ。厄介な事故。むしろ、巻き込まれたこっちが迷惑、みたいな?」
 さっき通話を切っていればよかったと思う。背筋に走る悪寒が止まらない。
「なにがあったのか、わかるように言ってくれよ」
「あたし、ほんとは知ってるんだ。あの死体、って」
 その日本語の不自由さも手伝って、まったく理解が追いつかない。妹の話はどの時点にあって、どういう仮定、あるいは事実を告げているのか? もちろんというものは、最初からのだ。
「魚屋さんで、魚の死体ください、って言ったら怒られるぞ」
「だって、おかしいでしょ、あんなところに寝てるの。どう考えても。だから最初から死んでて、あたしは殺してなんかいないんだよ」
 どうやって彼女に日本人として会話をさせるか、真摯に悩まなければならないようだ。
「わかったわかった、そうだな、死んでたな。そのとき通報しておけばよかったのに、どうしたんだ?」
「だって困るでしょ、あたしが殺したと思われたら。警察とか無能だから」
 母国語のできないおまえがいちばん無能だ、と叫びそうになってやめた。
「そもそも、この袋はなんなんだ? 山羊の肉じゃないのか?」
「あたしは知らないよ。もの。お母さんがちょっとだけ見て、顔がぐちゃぐちゃになってたって。身元の判別が難しくなったのはよかったけど、結局は同じことね、って」
 どういう母娘おやこだ。決まっている、似た者母娘だ。
「つまり、家に帰ったら死体の入った袋がガレージにあって、たまたま轢いてしまったら、その顔面が破壊されたと、そういうわけか?」
「重いんだもの。その車」
「理由になってねえよ!」
 ここまでイカれた女どもと、死ぬまで家族を演じなければならんとは。
「お兄ちゃんに任せるとは思わなかったけど、考えてみれば当たり前か。それの始末、責任もってね」
「中身は見るなって言われてんだけど……」
 妹はしばらく無言で考えてから、言った。
「じゃあそうして。お母さんは、ちょうどよかったって言ってたよ。死んだほうがいい人間は、この世にいくらでもいるからって。──死んだほうがいい人間が死んで、生きるべき人間を生かすほうが正しいってことくらい、あなたにもわかりますね?」
 ぞくり、と寒気が走る。妹がする「母のモノマネ」は、親子の面目を躍如するにもほどがある。
「またオカルトの話か? いろんな趣味があってもいいと思うよ。だからさ、じゃないのかよ……」
 胃のほうが軽く痙攣してきた。また逆流性のムカつきが再発したようだ。
「発端はともかく、せっかくの、ムダにはできないってことよ。つまるところ、すべては等価交換なんだ。だれかを助けたいときには、だれかが命を失わなければいけない。これはルールなんだよ」
 どんな錬金術師だ、と突っ込みかけて、ため息しか漏れない。
 そもそも問題は、彼女の思想や趣味や思惑などではない。事実だ。わが推戴するサイエンスにおいて、間然するところなき、ファクト。
 ──関越自動車道。走行車線をゆっくりと走っている。
 ルームミラーに引っ掛けられた、赤いお守りが揺れた。
 ぼくはじっと、その赤い小さな袋を見つめる。神の加護を祈りたくなって当然の状況だと思う。
 ちなみに、お守りの効果は一年とされている。家内安全・商売繁盛など、通年のお守りは一年後に神社に返納するのが一般的だ。
 効果の切れたお守りは、小正月(一月一五日)のお焚き上げなどに奉納するわけだが、知らずに何年も前のお守りを携行している人もいる。イワシの頭も信心からなので、当人が良ければそれでいいとは思うが。
 うちの場合は、母の実家が神道系で、きちんきちんと新しいお守りに交換されているので、ご利益はゆるぎない……と思う。
 だから、ぼくがいま、どういう選択をしたとしても、守られるはずだ、この神さまに。
「ああ、そうかい。なら」
 やることはひとつ。
「なーんてね、やだな、冗談。決まってるでしょ」
 と、突然に思考をぶった切る、からからと突き抜けるような笑い声。
「……は?」
「だからね、守ったほうがいいよ、お母さんの言うことは。じゃ、またね」
 一方的に通話が切れる。
 接続詞としての意味を正しく活用していないと思ったが、どうやら彼女は、すべてを冗談で片づけようと考えているらしい、と理解した。
 が、どうあがいても、ぼくの心はもう決まっている。
 左上を流れ去る看板に次のパーキングエリアまでの距離を確認しつつ、気持ち車線を左に寄った。
 いま、ぼくがやるべきことは──。

 

嵐山パーキングエリア。
 駐車場のいちばん端、ひと気のない一隅に、そっと車を停めた。
 そのまままっすぐトランクへ回……れるほど、小さな勇気はまだ育っていない。
 トイレを済ませ、缶コーヒーを買い足してくる。
 買ってきたものを助手席に放り込んだとき、鳴りはじめたスマホに目を止めた。
「──もしもし、父さん?」
 表示を信じるとすれば、父との会話はひさしぶりだ。
「ああ、陽彦か。いま電話、だいじょうぶかね?」
 本物の父であることを確認し、深く安堵する。いろいろな意味で、この電話は僥倖だ。
 まず、すくなくともこの会話中は、トランクに近づかなくてもいい。
「ああ、平気。ぜんぜん。いまさ、ちょうど父さんのソアラで、軽井沢に向かってるとこなんだよ。嵐山で休憩中」
 アラシヤマなら京都だが、ランザンなら埼玉だ。
 父は意外そうな口調で、
「そうか。帰省中だったか」
「いや、急に母さんに呼び出されてね。ま、いろいろあるよ。……いい車だね、これ」
 本能的に、核心を避けた。父はうれしそうに応じる。
「ありがとう。たくさんの思い出が詰まっているからね」
 その思い出のクラシックカーが、いままさに腐肉運びに使われているなど、息子の口からは伝えられない。
「エンジンも良好だし、さすがは日本車だよね」
「西ドイツのメルセデス・ベンツやBMWの6シリーズに対抗すべく作られた、昭和のラグジュアリーカーだよ」
 父の数少ない趣味の話を、しばらく黙って聞いた。
 アウトバーン追い越し車線二〇〇キロでも安定とか、直列六気筒のDOHCがどうとか、初代ソアラは、当時としては最高の性能を詰め込んでいたのだという。
 堅牢な日本車らしく、現在もその走りに陰りはない。
 トヨタ2000GTとかマツダコスモスポーツのように、有名でバカ高いというわけでもなく、それなりに乗りやすい手ごろなクラシックカーであるところが、また父らしい。
 その遺伝子が、息子にも堅実な生きざまとして受け継がれているのだ、と自認する。
 ──ほどなく、父は自ら旧車談義を切り上げて、こちらに話題を振ってきた。こういう如才ない会話術、自分のことしか語らないうちの女どもは見習うべきだと思う。
「学校の調子はどうかね? たしか三年……三回生だったかね」
 考えてみれば、京都に三年も暮らしている。父がアメリカに赴任したのも同じころだった。
「うん、なんとかやってるよ。先週は、ホンジョ先生の研究室で、こき使われてきた。けど、ああいうの向いてるかも、と思ったよ」
 有名なガンの薬で知られる先生だ。一瞬、父が言葉を詰まらせる。なぜかはわからない。
「……きみは医者になるんだろう?」
「医学をやるつもりだよ。ただ、医者はできないと思う」
 くくく、と回線の向こうから含み笑う声。彼が笑うのは、めずらしい。
「そうだな。きみは医者には向かない。どちらかといえば学者だ。研究の方向は決めたのかい?」
 医学部のカリキュラムは、自分のとった科目を決まった時間に入れるのではなく、事前に決められている科目を、全員が同じ日程・時間で履修する。
 余計なことを考える必要がないので、楽といえば楽だ。
「ああ、研究室はまだ、けっこう迷ってる。基礎研究には、なかなかお金がまわってこなくて大変らしいよ。直接の受益者がいないからね」
 有名な先生も言っていたが、「医療」は直接、人を治すのでお金が集まりやすい。一方、純粋な「医学」領域になると、お金には無縁だ。
 それでいい、と思う。ぼくに「巨塔」は不向きだ。
「悪性新生物など、どうかね?」
 ぴくり、と背中が揺れた。
 ガン。たしかに人類史上、常にホットな話題ではある、が。
「範囲が広いね。……ねえ、なんか用事があるんじゃないの?」
 ぼくの話はもういい。父の話を聞きたい。
「研究者の仕事は、すばらしいよ。患者個人ではない。人類が恩恵を受ける。ひとりやふたりの生き死には、きみにとっては問題ではないのだろう。そういうタイプは人類史上、しばしばよ」
 答えになっていない。ぼくは慎重に言を継ぐ。
「よほどの天才か、幸運に恵まれないとね。……で、どうしたの?」
 人類史の話をするために電話をしてくるはずもない。
「もうすこし遅く生まれていれば、きみに助けてもらえたかもしれないな。いや、そうしたらそもそも、きみは存在しないか」
 ははは、という乾いた笑いが、やけに気色悪い。
「はっきり言ってもらっていい?」
「……私はガンだ。余命は三か月から半年」
 一瞬、思考が停止する。
 ずいぶんはっきり言ってもらった、ということは理解できた。
「え……と、あの……」
「この前の検診でな、見つかった。膵臓とかいうところのガンらしくて、かなり転移していて手遅れということだ」
 ぱくぱくと動いた口からは、言葉が出ない。
 父さん、まだ五〇代なったばかりじゃないか? 正確に何歳かも知らない不肖の息子だが、いくらなんでも死ぬには早すぎるだろう。
「ちょっと、待ってよ、それ」
「先に伝えておこうと思ってな。これから上司にも伝えて、来週には帰国する段取りをつけるつもりだ。母さんや小雪には私から伝えるから、おまえは気を回さなくていいぞ。それじゃ、ソアラを頼む」
 言いたいことだけ言って、ぷつりと通話を切った。
 あいかわらずビジネスライクな人だ。いつも、先に必要なことだけを済ませ、さっさと姿を消す。
 しかし、まさか自分の死期までとは。それで、ほんとに姿って?
「なんなんだよ、おい。うちの家族、どうなってんだよ」
 柔弱な息子は、その場にうずくまって頭を抱え、低くうめくことしかできない。

 

結局、ぼくはトランクを開けなかった。
 開けられなかった。
 高速道路が通行止めにでもなったら迷惑をかけるから、などと考えていたわけではない。
 さしあたり、軽井沢まで行ってから考えよう、という逃げを打っただけだ。
 なにか考えることがあるのか?
 ──ある。
 このことには、いや、すべての行動には意味があるのだ。
 たっぷり一時間以上も、パーキングエリアで呆けていたおかげで、軽井沢のインターを降りたころには、もうだいぶ日が傾いていた。
 途中、何度か迷いそうになって、車を停めて考えた。
 道のことだけを考えていればまっすぐ目的地に着けたし、それ以外のことだけを考えていれば、ある種の結論には達していたかもしれない。
 すべてが中途半端で、ただ無為に時間だけが過ぎた。
 ガン。その研究をしようという選択肢は、常に念頭にはあった。
 この最強の新生物に「病の皇帝」と名付けたのは、だれだったか。しかし、ぼくごときヒヨッコ研究者が立ち向かうには、まだ敵が大きすぎる。
 間に合わない。ぼくの力は、及ばない。
 まだ返せていないのに。父さんに、ぼくの父さんに、まだ育ててもらった恩を、感謝を、なにも返せていないのに……。
 それから、どうやって運転し、どうやって別荘に着いたのか、よく覚えていない。
 ただ、気がつけば周囲は薄暗がりで、秋の宵が鬱蒼とした自然林を覆う先、ヘッドライトに照らされて浮かび上がる道のりの突き当り、見たことのある建物の存在について、ぼんやりと思った。
 別荘の敷地に車を乗り入れたとき、日はとっぷりと暮れていた。
 これ以上は、もう逃げられない。
 車を降り、トランクに近づいた。
 ……死体?
 そんなバカな。
 ……
 女たちも言っていた。これは犠牲であり、等価交換なのだと。
 祈る相手が神でも悪魔でも、そんなことはどうでもいい。ただ、こちらが捧げた犠牲に対して、救いたい命が救われるとしたら?
 スマホが鳴り響き、ぼくは意識を引き戻した。
 三時間でじゅうぶんなところ、倍の六時間もかけたことを、どやされる電話だと覚悟して、やかましい音源を手に取った。
 ビデオ着信。めずらしいな、と思いながら回線をつなぐ。
「陽彦さん。──どうやら着いたようですね」
 インカメラから小画面に、軽井沢の景色が映し出される。
 主画面に映る母は、自宅のようだ。
「ええ。着きました。けど」
「車を奥に回しなさい。覚えていますね。桜の木があります」
 自動人形のように運転席に戻り、ハイビームにして別荘裏手の雑木林を照らした。
 車で進めるぎりぎりいっぱいで停めると、ちょうど正面に桜の古木が見える。
 首くくりの木と呼ばれていてなあ、と神主の装束で、祖父が孫を怖がらせるためにしてくれた怪談を思い出す。
 江戸時代から立っている木だから、一度や二度、首をくくった人がいても驚くにはあたらないが、もちろんそんなことはなかったはずだ、と思う。
 桜の木の下には……。
 頭のなかに、ぐるぐると思考がめぐる。
 ああ、そうか。ぼくは腐った肉を埋めにきたんだ。だけど、そんなことちっとも重要じゃない。もっと大事な話を、さっき知ったばかりだ。
 すでに去った死と、迫りくる死の重みが、交互に責めさいなむ。
 父は、自分から伝えると言っていた。ぼくの口から、その事実を告げていいとは思えない。が、そんな悩みを吹っ飛ばすように、母は言った。
「お父さんの話、聞きましたか?」
「……は? お母さんは、その」
「当人がどういうつもりかは知りませんが、まあいいでしょう。です。あなたは、あなたの仕事をなさい」
 かちんときて、思わず声を張る。
「仕事って、父さんが死ぬんですよ? お母さんは」
「あなたはあなたの仕事をしなさい。あの人はあの人の、私は私の仕事をします」
 ぞわぞわと、冷たいものが下半身から這い上がってきて、全身を包み込んだ。
 この奇矯な性質の母が、ときおり突拍子もないことをはじめることは知っている。
 大きな肉塊を買ってきて、捧げものです、と言いながらサバトのようなマネをしていた姿は、ぼくの幼児体験にとって最大のトラウマだ。
 だから妹が、変な趣味を受け継いだところで驚くにもあたらない。
 それをバカバカしいと思う反骨の思考体系が育まれ、彼女らを反面教師にして、ぼくは純粋なサイエンスの道へと踏み出した。
 それでいいと思っていた。
 古代ケルトを起源とする魔宴について知ったとき、そこから離れることを決意したぼくと、そこへ混ざることを選んだ妹がいる。それだけのことだ。
 そして、ぼくは逃げた、あの家から。
 ……その母が、あのときの姿を取り戻している。
 ビデオの向こう、一瞬だけ見えた床の魔法陣は、気のせいか。
 黒いコートのようなガウン、顔の半ばまでを覆うマスク。
 ──黒ミサ。
 もちろん錯覚だ。そんな姿は見えない。画面上の母は、ただいつものように端然と椅子に腰かけ、こちらの行動を眺めている。
 だが、その画面の周囲に展開されている可能性のある恐ろしい景色を、見せてくださいとお願いする気力が、ぼくにはない。
「ベントラ、ベントラ、ギアース、ピープル」
 遠くから、声が聞こえる。
 母の唇は動いているように見えないが、その声はたしかに彼女のほうから聞こえてくる。
 ぼくは無意識のうちに、手が伸びる限り遠くにスマホを離した。
「ぼくの仕事……?」
 母は短く嘆息し、淡々と命じてくれた。
「しかたない子ですね。まずは電話を車の屋根に置きなさい。あなたの作業が、よく見えるように」
「埋めるんですね。……ひとつだけ、教えてください。これで、救われますか?」
 母の表情が一瞬、慈母に見えたのは錯覚か。
「もちろんですよ。私がウソをついたことがありますか?」
 何百回とあります、と言いかけてやめた。そんな問答は無意味だ。ただ、ほんとうに重大な場面でウソをつかれたことは、ないと思う。
「それで助かるのは、?」
 ぼくは臆病だ。どうして、はっきりと固有名詞を出せないのか。
 ブロックノイズが走り、フリッカーが狂気のダンスを踊る。一瞬後、母の表情は、さっきと変わらない。
「いいえ、よ。奇跡によって、救われるのは。──逢魔が刻です。さあ、はじめなさい。これは命令です。私たち、やるべきことを」
 一瞬、反発がやってきたが、それは孱弱な精神と、奇妙な直観からくる意想外な思惑によって、すぐにかき消された。
 私たち、家族のために。
 命を。取り替え──。
 奇跡。
「ばかばかしい」
 最後の良識が喉音を絞り出したが、身体のほうは、別の大きな意志に突き動かされるかのように、作業を開始していた。
 母の言うとおり、スマホを車のルーフに置き、後部座席からスコップを取り出し、トランクを開ける。
 強烈な臭気だが、なぜか気にならない。
 ぼくは人間ひとり分くらいの重みのある麻袋を引きずり、大きな木のたもとまで歩いた。
 見上げれば、さくら。
「さくらの、木の、下には……」
 ヘッドライトに照らされた場所で、穴を掘る。
 ざぐっ、ざぐっ、ざぐっ。
 人間ひとり分くらいの大きさの肉が、埋まる程度の穴を掘る。
「ベントラ、ベントラ、ギアース、ピープル」
 どんな呪詛ギアスを、んでいるのか。
 遠く聞こえる声に、命を縛る呪詛のイメージが重なる。同時に、人を呪わば穴二つ、とも聞こえる。
 命を支払って、命を買う。
 父のことを思うと、手を貸さなければならないような気がする。
 彼には、まだ育ててもらった恩を返していない。いや、これが父に恩を返すことになるのかどうか、さっぱり自信はないが、それでも家族の醜聞を地の底に埋め覆い隠して、永遠に口を閉ざす。そのくらいはやってもいいのかもしれないかもしれないような気がしないでもないようななくもないような……。
 ひたすら穴を掘る、という行為は、ほどよく思考力を奪ってくれた。
 死体を埋める。こんな経験、なかなかできない。それだけは、まちがいない。
 長野の山奥。それがどこかは、永遠に口を閉ざしたまま、墓場まで持っていく。
 ぼくは穴を掘る。
 もう虫の音も聞こえない。
 異常な静寂のなか、ぼくは、穴を掘るマイニング──。

 

三か月後。
 斎場を出たところで、足を止めた。仕立てたばかりの喪服のボタンをはずし、黒いネクタイを緩める。
 ──その日、父は静かに逝った。
 その性格通り、まるで約束を守るかのように、告知された最短の余命ぴったりの日に。
 医学の限界。
 何度も見た夢物語を通り過ぎ、くりかえされた絶望と葛藤を、あらためて噛みしめる。
 「奇跡」にすがりつくのは、愚かだ。自分の、自分たちの力で、病因それを取り除けるようにならなければ。
 そういう道を、選んだはずだ。
 にひどく似合う旧車の横に立って、西を見晴るかす。
 父が西方浄土というところに逝ったのかはともかく、これから西へ向かわなければならない。
「お兄ちゃん、おつかれさま」
 斜め後方から、同じ店で作った真新しい喪服を着て話しかけてくる女の声──小雪。
「ああ、おまえか。……家まで送るか?」
 妹は死に際の父にねだって、自分の趣味に合う外車をオーダーしたらしい。オックスフォードの工場から出庫して、来週納車だという。
「えー? いいよ、その車、臭いじゃん」
 露骨にいやな顔をする。事実だが、
「おまえがそれを言うか。心配すんな、だいぶマシになったよ」
「そう? 友達乗せて走れる?」
「おまえの友達はどうか知らんが、ぼくは学部が学部だから、だれも気にしないよ。腐りかけの実験動物を運ぶこともある」
 そのために役立つのが「特殊清掃」の知識と技術だ。
 その手の業者でバイトをしている友人に消臭を頼んだところ、露骨に疑いの目で見られた。車を満たしていたのは、たしかに独特な「生ごみが腐ったような臭い」だったから。
 ──密室で腐敗した肉体は、とくにひどいんだよ。なかでも車のトランクとか、最悪だよな。
 そう言いながら友人は、バイト先の特殊清掃会社からかっぱらってきたという薬品をふりまいた。
 ──夏場のトランクに四日、ってところかな。
 どれだけバイトを入れているのかは知らないが、死臭に詳しい友人だった。
「強烈だったよ、ガダベリンとプトレシン」
 ほとんどの動物が逃げ出す悪臭で、一八八五年にドイツ人医師ルードウィッヒ・ブリーガーによって初めて発見された。
 死肉を好む昆虫などをよく引き寄せる反面、効果的に人間を遠ざける。
「そっか、まあ、お医者さんになるんじゃ、その手の悪臭には慣れとかないとね」
 飄々と言い放つ妹の内心が、まったく読めない。
「医者にはならないよ。ぼくに臨床は向かない」
 問診や内視鏡やマイクロサージェリーではなく、培地やガスクロやクリーンベンチが、ぼくの進むフィールドになるだろう。そう決めた。
「ふーん。お母さん、怒らない?」
「……ああ。医師免許だけは取るけど、研究に進むのはいいだろ」
 ドアを開け、エンジンをかける。
 最初、迷っていた妹は、しかたなさそうに助手席のドアを開けて顔を近づける。
「くんくん……。まあ、この前よりはマシだね」
「乗るのか、乗らんのか」
 アクセルをふかし、決断を求める。
 小雪はひょいと肩をそびやかすと、黙って助手席に乗り込んだ。
 その横顔は、ストーカーに目をつけられる程度には秀麗だ。壊れかけた内面が目に見えなくて幸いだな、と思う。
 ドアロックを確認し、古いステアリングの十時十分に指を添える。
 真冬の東京の冷気の下へもぐるように、ゆっくりと走り出す。
 高速のランプをパスし、都内の慢性的にゆるやかな流れに乗る。
 しばらくしてから、彼女は口を開いた。
「で、学閥トップを目指します、って? それならお母さんも納得するかもね。そういう小賢しいところ、お兄ちゃんらしくていいね」
「絡むなよ、疲れてるんだ」
 その話はさっき、母ともしたばかりだ。
 母にとっては、一介の医者より、大学に残って教授にでもなってもらったほうが、ハクがつくということになるらしい。
 さしあたり、ぼくの選択は了承されたと思われる。
 が、自分が出世できるとは、微塵も思っていない。一介の医者ならぬ、一介の研究者でいいのだ。
 臨床医学における博士号問題というものがある。研究をしたくてやっているのか、将来の教授選やポストのために有利だから博士号を取るのか。
 権力志向の母が求める進路は、予想がつく。途中まで、その道を進むを貫く。
 ぼくがやりたいのは「研究」だが、だからといって医師国家資格が邪魔になるわけではない。しかし臨床出身の大学院生は、基礎研究者からは白い目で見られることもある。
 予算や人事の面で、いわゆる「剛腕」をふるう研究者は、それなりに魅力的ではある。ただ、研究が好きで研究者になる、というタイプとは異なる人種であることも事実だ。
 ぼくは、どちらかといえば後者にあたるだろう。
「──に、わざわざ辺境まで、あなたを行かせてあげたのですからね」
 ぎくり、として横を見ると妹。
 あいかわらず母のモノマネがうまい。内容も完全に言いそうなことだ、というより、さっき言われたばかりのことだった。
「いやな母娘だな」
 ふふん、と鼻先で笑う小雪。
「で、専攻は決めたの?」
 まだ科目を決めるまで猶予はあるが、だいたいの心は定まっている。
「……ああ、父親がガンで死んだというのは、理由としてじゅうぶんだと思うよ」
 最近は『癌取扱い規約』を熟読している。ガンは非常に広範な特異性があり、その「差分」を診断するのは、かなり困難だ。
 陳腐な理由と言われればそれまでだが、この分野に投入されるリソースは、多ければ多いほどいい。
「ふーん。ま、がんばってよ」
 ぼくに対する興味がないのはわかるが、父親が死んだことにすら、あまり思い入れがないような態度が気になる。いや、ほんとうは心から悲しんでいるのかもしれないが、見た目にそれを判断する能力がない。
「だれかになんて、思ったのがまちがいだ。ぼくは、ぼくの信じる力で、をすべきだった」
 ぼくの横顔に、妹は「憎悪」を読み取ったかもしれない。
 しばらく感じていた視線が、一瞬ゆるんだ。
「眠たいこと言ってたらダメだよ、お兄ちゃん。お母さん怒らせると、怖いからね」
 これからやろうとしているぼくの行動を、見透かしたような物言い。
 母に……妹に決別するために、ぼくには確認しなければならないことがある。
「なに言ってるか、わかんないな」
「あたしはわかるよ。お兄ちゃん、これから軽井沢行くんでしょ」
 背筋を冷たい汗が流れる。暖房の温度を上げる。
「……それで?」
「うまくやったよね。死体を隠すなら、山か海か豚に食わせろ、ってセオリー通りだよ」
 豚に食わせれば肉が流通可能な種類に変わる。山に食わせれば日本の酸性土壌が骨まで溶かしてくれる。海に飲ませれば魂ごと生命の故郷へ帰る。
 いずれも、やり方が中途半端だと推理小説のネタになってしまうわけだが、言い換えれば、ばいい。
「やっぱり、冗談じゃ、ないのか。おまえたちは」
「やっぱり? てことは、お兄ちゃん、故意犯じゃん。だって、んだから」
「知らねーよ! だから、これから確認しに行くんだろ。そもそも、おまえらみたいな女の言葉を信じたのが、根本的にまちがいだった。父さんの命が助かるかもしれないって、お母さんの言うことを聞けば、そんな奇跡だって起こるかもしれないって、淡い希望を抱いたのが、どうかしてたよ」
 小雪が笑う。からからと。見下したように。
「ウソばっかり。お兄ちゃんの言葉、だいたいウソ」
「なにがウソだよ! ウソつきは、おまえらだろ」
 強くステアリングを叩く。
 しばしの静寂ののち、小雪はラゲッジルームにあるぼくのカバンのほうに顎をしゃくって言った。
「さっき見てたの、病院からもらった画像でしょ? お父さんの」
「……ああ。全身癌転移による癌死だった。癌性腹膜炎、心筋壁の菲薄化、乳頭筋の石灰化の所見がある」
「それはもう、のに、見るんだ?」
 嘲弄する小雪の横顔は、酷薄な母そのものだ。
「診断医は常に必要だ。読影できれば、いつか役に立つ」
、か」
 自分の言葉をくりかえされただけなのに、そのことにひどくゾッとした。
 役に立つ死体と、立たない死体がある。興味があるのは前者だけだ。
 ──ぼくは、そう言ったのか?
「自分のウソに、自分で気づいていないって、最悪だね。というか、気づくことを拒否してる、って言ったほうが正しいかな」
「なに言ってんだよ、おまえ、どういうつもりだよ」
「知りたいの? ねえ、聞きたいの?」
 頭が痛い。がんがんする。
 知りたい? 知るつもりだった。知るべきなんだ。
 そのか?

ぼくは臆病だ。
 あのとき、あの袋を開けることができなかった。その時点で、もう負けていた。
 母親の言葉を信じるふりをして、腐った肉を埋めた。
 ぼくは医学をやっている。臨床に進むつもりはあまりないが、医療のなんたるかを、すこしは知っている。
 医療は、治療だ。治療が可能であることが、その成立の大前提だ。
 元に戻せないものは、恐ろしい。それは敗北だからだ。
 臨床に進む自信がないのは、ぼくが臆病だからだ。
 元に戻せないものを、直視することができない。だから研究をして、治療の手助けをするだけで、精いっぱいだ。
 自分の力が及ばないものは、とても恐ろしい。
 ──だから、ぼくは逃げ出した。
 あの家から。
「お兄ちゃんは、ほんとに怖がりだよね」
「……ご存知の通りだよ、ぼくは臆病だ、だれよりも」
 あの家から逃げ出した瞬間から、ぼくが袋を開けないことは決まっていたし、彼女らもそれを知っていた。
「そんなお兄ちゃんが、あたしたちは気に入ってるんだよ。だからね、の」
 にやり、と彼女は笑った。好意的な言葉を向けられているはずなのに、寒気が止まらない。
「それはどうも」
 皮肉に応じたつもりだが、成功した自信はない。
「いいんだよ。あたしたちは、お兄ちゃんを助けるために、どんなものだって犠牲にする覚悟があるんだから」
 ずくん、と心臓が揺れる。
 犠牲ギアス
「おまえたちのオカルト趣味なんか、ぼくは信じてないぞ」
「ふーん。だけど、お母さんの言うことは、ちゃんと聞いてるよね?」
 ルームミラーにかけられた赤いお守りを、指でもてあそぶ小雪。
「…………」
「決まってるよ。だって、それで調んだから、
 脳天に、いやな痛み。
 そうだ、母のオカルトは気休め程度であると自分に言い聞かせてはいても、ことは学術的にも証明(プラセボ効果)されている。
 母のお守りに救われたことは、たしかにある。催眠的な効果だと思う。母にはその力があると、心のどこかに刷り込まれている、だから……。
 だから、信じた。母が奇跡を起こすと。
 それで父が治るなら、言いなりになってみようと──。
「父さんは治らなかったじゃないか!」
「そりゃそうだよ。だって治したのは、もの。──お兄ちゃんは身体が弱いから、大変なんだって。お母さんの言うこと、ちゃんと聞いてた? 頭も、心臓も、壊れたら、死んじゃうんだよ? だから、ふたりも死んじゃった」
 
 
 ベントラ、ベントラ、ギアース、ピープル……。
 検証不可能な世界に踏み入りかけて、思考を止める。考える必要はない。そんな愚かな連想は、科学者の脳には不似合いだ。
 ──あなたにできないことは、私がやりますよ。
 母は、なにを言いたかったのか? それを信じたぼくがバカだったのか。あるいは最初から、議論は噛み合っていなかったのだろうか。
「ねえ教えて? 軽井沢で、なにするつもり? お兄ちゃん」
 穴を掘る。掘って、真実を知る。それすらも許されないのか?
 決意したぼくを見つめる、葬儀の席で見せた母親の冷たい視線が忘れられない。
「まちがいを、正す……」
 ぼくは、まちがいを犯した。彼女らの犯罪を見逃すべきではなかった。奇妙な誤解と迷信によって、罪を犯すべきではなかった。
 桜の木の下に、死体が埋まっているとしたら、その罪は解きほぐし、償われなければならない。
「手遅れだよ、お兄ちゃん。だってお兄ちゃんは、共犯者だもん。ううん、むしろ当事者、主犯格なんだよ」
「……おまえこそ」
「あたしは部外者。ただ、ちょっと手助けはしたかな? 未必の故意って言うか、だれかが助かるなら、見守ってあげてもいいかなって思っただけ。──命は、命によって贖う。当たり前でしょう? みんな、やってるんだよ。だれかを助けるために、だれかを犠牲にしている」
「犠牲って」
 言いかけて、痛みが走った。胸が、締めつけられる。
「お母さんを怒らせないほうがいいよ。あの人は本物だから。犯罪者の壊れた頭も、お父さんの壊れた内臓も全部、いるんだよ」
 ……代価を払って、壊れた部分を、別のだれかと取り換える。
 生存に必要な部品を、その命をつなぐために、別の命と。
「だれが、そんなこと信じる」
「信じようと信じまいと、関係ないんだよ。大事なのは、これが正当なってことだけ。……日本人は、お稲荷様が好きでしょ? それは、お願いをして、かなったらお礼をする、っていう現金取引の思想がシンプルで、民衆に受け入れやすかったからなんだって」
 文系らしい物言いだ。たしか妹は民俗学とか、そういうやつを学ぼうとしている。
 理系の兄としては、ああそうですか、以上の返す言葉はない。ないはずだ。
「犯人は狐ってか」
「お狐様の正体? それこそ、だよ。呼びかけに応じたのが妖怪だろうが宇宙人だろうが、取引ディールさえ正常に行なわれれば関係ない。とくに安心材料といえば、あのお母さんが認めた取引相手カウンターパートってことかな」
「正常な、取引」
 ぐっ、と喉元にこみあげる熱いもの。
 取引は正常に完了した、とすれば。
「台無しにしないでね。守秘義務は守らないと」
 それがどんな契約かは知らない。ただ想像しやすいのは、ここから先、おそらく命を賭けた行動になるだろうこと。
 ぼくに、その胆力があれば、だが。
 耐えきれなくなって、ブレーキを踏んだ。
 家の近所まで来ている。ここからなら、歩いてでも帰れる。妹は自分でハザードランプを点灯させ、ドアロックを外した。
 ──これ以上、説明するまでもないよね?
 彼女の目が、口ほどにものを言っている。
 開かれたドアから冷たい風。街灯の下、妹の視線に母の面影が重なる。
 あなたは身体が弱いから、お母さんはいつも苦労していますよ──。
「じゃ、元気でね……あんまり変なこと考えると、ほら?」
 顔面が蒼白になり、本能的に胸を押さえたぼくを見て、小雪はやれやれと首を振った。
 妹の細い上半身が車内に伸びてきて、ルームミラーにかかっていたお守りを手に取り、それをぼくの首にかける。
 瞬間、チリーン、という支払い完了の音が響いたのは、気のせいに決まっている。
 痛みが引いていく。そうだ、もちろん気のせいだ。
 ぼくは妹の手からお守りをひったくり、震える指で袋の口を開けた。
「……なんだ、これ」
 お守りの中身を見てはいけないことになっているが、そんな場合ではない。
 ──折りたたまれた和紙には、血のような文字が薄い蛍光色を放っている。
 小雪はやれやれと肩をすくめ、首を振る。困ったお兄ちゃんだよ、とでも言いたげに。
「アドレスだよ、ライフレコードの。お兄ちゃん、健康には気をつけようね」
 小雪には読めるのか? 彼女の表情は冷たく、恬淡としてぼくの浅慮を見透かしているかのよう。
 文字列の意味はまったくわからないが、どうやら取引記録のようなものらしい。仮想通貨における「アドレス」の意味は、銀行でいえば口座番号のようなものだ。ライフレコードは、ふつうに訳せば「生活記録」だが、そういう意味ではないような気がする。
 理系はプログラム教育をかなり深める。暗号通貨の概念もその一環だ。文字の意味はわからなくても、ノードやチャートを見たことはある。アドレスがアクティブであれば、取引状況からテクニカルはとれるし、通貨の健全性と将来性も予想できる。
 だから予測はつく……この文字列が……意味するもの……。
 決定的な証拠を突きつけられたと理解して、ぼくはダッシュボードにお守りをたたきつけた。
「……帰れよ。行けよ!」
「もう、お兄ちゃんたら、かわいいんだから。あんまりしちゃダメだよ?」
 閉じる助手席のドア。薄れゆく妹のかすかな体臭が、忌まわしい現実感を更新する。
 ──数分後、ぼくはアクセルを踏む。
 軽井沢に向けて。
 掘るんだ。
 墓を。
 ……だれの?

桜の木の下から、腐りかけた腕が伸びてくる。
 こんな悪夢は、もう見たくない。
 ただの事実だ。死体は動く。死体農場にまつわる小ネタで、オーストラリア化石生成実験研究所の報告によれば、それは乾燥した靭帯のせいだという。
「だけどこれは、ミステリーでもホラーでもない」
 哀れな独り言。
 ぼくは桜の木を見上げる。
 スモールランプに照らされた氷点下の桜は、その下に眠るものの動きを許さない。
 小さなスコップを手に、木の根元へと歩を進める。
 どこを掘ったのか、よく覚えていない。ただなんとなく場所を決めて、土を掘る。
 冷たい土。
 さく、さく、さく。
 硬めのアイスに金属のスプーンを差すような気分で、ほんの数センチ。
 胸元で揺れる赤いものに気づいて、動きを止める。
 お守りブロックチェーン……。
 ──取引を記録し、あなたの人生を更新しただけですよ。
 数時間前の斎場で、ぽつりと漏らされた魔女の言葉の意味が、ようやく理解できる。母の能面のような表情に、どんな愛情があるのか、もしくは「思惑」だけか。
 ぼくはスコップを振り下ろす。この腕で、やったことを思う。
 ──それが宇宙の摂理なんだよ。墓穴掘りが、その代金を受け取ったって思えばいいよ。
 魔女の娘の気味の悪い言葉が、脳裏をよぎる。小雪の嘲るような表情が、瞼の裏にひどく鮮明に浮かぶ。
 人生とは、ノードの更新。人間がようやくアクセス可能になった、モラトリアムの帳簿。マイニングしたのは、生命という通貨。地球先輩が四十億年かけてため込んだ貯金箱に、穴を掘って値段をつけたのは、神さまか仏さまか宇宙人さんか。
 皮肉に口元をゆがめるぼくの腕が止まる。うつろになった目線を持ち上げると、そこには亡き父の面影。
 生きている家族たちの言葉に上書きされる、死んだ家族の重みのある言葉が、心の空隙を埋めていく。
 ──約束してくれ。生きると。生きてと。
 ぼくは浅く掘った穴に、父のレントゲン写真を埋める。
「わかってる。ごめんよ、父さん。間に合わなくて。だけど約束する。父さんと同じ犠牲は、もういらない。信じるよ。ぼくが生きて戦うことに、意味があると。人類なんて大きなことを言うつもりはないけど、後悔はさせない。……できることを、やってやる」
 治る病気を治す、それだけだ。
 父さんと同じノードを、必ず減らす。
 そして、残酷なマーケットの取引量を減らしてやるんだ。

ぼくたちは、つながっている。
 みんな、つながって、記録されている。
 どの取引がどんな成果を生んだかは、後世が証明する。
 さあ、歴史を動かそう──。

 

 

(了)

文字数:22037

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