幻影祝祭日

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梗 概

幻影祝祭日

コンタクトレンズ型のAR機器が普及し、拡張現実「レルム」を介したコミュニケーションが生活の基盤となった近未来。東京の大学生、真鯉幹人まごいみきとには秘密があった。検閲された書込みしか許容されないはずのレルムに、反道徳的な作品を描くグラフィティ・アーティスト「ルヘイン」としての顔がそれだ。ある日、講義中に騒いでいる学生に苛立った幹人は、彼らの頭上に侮辱的なグラフィティを描き、周囲が笑うのを見て溜飲を下げるが、講義後、派手な服装の女子大生、まゆずみ斑葉いさはに声を掛けられる。斑葉は幹人の正体を見抜き、秘密を守るかわりに、自分の計画を手伝ってほしいと言う。「ハロウィンを冒瀆するのよ」

一年前、ハロウィンの渋谷で通り魔に多数の若者が殺傷される事件が起き、今年のハロウィンでは追悼のため、昨年の参加者達をホログラムで映す計画があるのだという。斑葉は、レルムをハッキングしホログラムを「相応しい」ものに差し替える事を提案するが、幹人は「ハロウィンは嫌いだ」と拒絶する。

夜、幹人は凄惨な夢を見る。改札で制服姿の少女に声を掛けられるが、見ると少女の脇腹には包丁が突き刺さっていて血の染みが広がる。レルムの誤作動か、と眼を擦るが、自分の指にも血がべったり付着していて、悲鳴で目覚める。

翌日、友人から、斑葉いさはが恋人を通り魔事件で喪っている事を聞く。

斑葉と再会し「どんな映像を流すんだ」と尋ねると、レルムで二つのデータを渡される。「一つは東京都が用意したやつ、もう一つは私が作ったもの」

講義中、ホログラムを交互に眺め、幹人は奇妙な事実に気付く。

幹人は斑葉と共に渋谷を訪れ、下見の後、事件現場の献花台に花を供える。斑葉がハロウィンの起源を話す。

「ケルト人にとって10月31日は一年の終わりで、その日だけは死者達が蘇り、生者を冥界に連れ去ると信じていた。だから、生者と死者の区別がつかないように仮装を施すの」

ハロウィン当日、渋谷で準備を終えた幹人は、群衆のなかで夢を思い出す。昨年のハロウィンの日、駅で見知らぬ少女に呼び止められ、渋谷への乗換を教えたが、後で少女が亡くなった事を知った。少女はハロウィンに参加していたわけではなく、駅に逃げ込んできた通り魔に襲われたのだ。だからホログラムに彼女の姿はないだろう、と思う。

時計が21時を打ち、斑葉が用意したホログラムが現れ始める。それは何の修正もされていない生データであり、むしろ修正が加わっていたのは都が用意した方だった。裸で騒ぐ男や下着姿で抱き合う少女のような「不適切な」ものが削除されていたのだ。だが幹人が差し替えた事で、彼等は生前の姿を取り戻している。下品で愚かしく、生命力に満ちた死者達。生と死の混交。

「生者も死者も堕落する。なら、綺麗なベールで隠すより曝け出す方がマシ」と斑葉が言う。幹人は彼女の横顔が夢で見た少女に少し似ている事に気付く。

文字数:1200

内容に関するアピール

今年の渋谷のハロウィンはコロナの影響でヴァーチャル開催らしく、それをもとに、AR機器が発達した世界でのイベントを描く事に決めました。あわせて「死」というものの気配やダークな世界観といった個人的な趣味も組み込んでいます。実作にあたっては、梗概では言及できなかった拡張現実「レルム」上でのファッションや、主人公がレルムに違法なコンテンツをアップロードするための仕掛けといったSF的なディティールについても書いていけたらと思っています。

ちなみにタイトルは、アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』から取りました。「仮装」とかけて『仮想祝祭日』というのも良いなあ、と思ったのですが、幻想的な雰囲気を優先することにしました。ご意見いただければ嬉しいです。

文字数:323

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幻影祝祭日

「世界は深い。昼が考えるよりもずっと」
 大学校舎の壁に描かれた巨大なゴリラの絵が、僕に語り掛けてくる。その頭蓋骨の一部は頭皮から露出し、飛び出した左右の眼球が使ったあとのコンドームみたいに垂れ下がっている。ゴリラの名前は「ヴェラム」といって、僕が好んで描くキャラクターだった。彼の口からは漫画のような吹き出しがのびていて、それのお陰で彼が喋っている事が分かる。
僕の名前は真鯉幹人まごいみきと、レルムでのアカウント名はゴリラの名前と同じで「ヴェラム」だ。勿論、通っている大学の講義や友人との会話(僕にだって友達の一人や二人はいる)に使うのは別のアカウントだけど、そっちの事はどうでも良い。カフカにとっての保険局員やクラーク・ケントにとっての新聞記者と同じで、僕という人間の副次的な側面なんだ。なら、ヴェラムとしての僕が何をやっているのかといえば、それは、レルムでのグラフィティだ。
 遥か昔、バンクシーやミシェル・バスキア、3Dことロバート・デル・ナジャやニック・ウォーカーといった二十世紀生まれの伝説的なグラフィティ・アーティスト達にとってのキャンバスはストリートだった。彼等は、アパートの外壁やドラッグストアのシャッター、市庁舎の塀にグラフィティを描いた。だけど、コンタクトレンズ型のAR機器が普及して、人間が見ている景色の上に、F・パス社が開発した拡張現実「レルム」が重ね合わされるようになると、僕達はそれをキャンバスにすることを選んだ。拡張現実の上に、レンズを通してだけ見る事が出来るグラフィティを描くのだ。
 ヴェラムの口がパクパクと動き、吹き出しの文字が切り替わる。
「存在しはじめてからずっと、人間はあまりに僅かしか愉しんでこなかった。ただこれだけが我らの原罪だ」
 彼に喋らせている台詞は全て『ツァラトゥストラはかく語りき』の引用で、こういったギミックをグラフィティに仕込めるのもレルムを使うメリットの一つなのだけれど、引用元にニーチェを選んだのは安易だったかもしれない。とはいえ、サリンジャーよりはまだマシだろうし、ニコライ・フョードロフやウラジーミル・ソロヴィヨフの言葉をゴリラに喋らせたとして、いったい誰が分かる?
「悪魔も地獄も存在しない。君の魂は君の肉体よりもすみやかに死ぬ」と、ゴリラが言う。
 生徒が五人ほど、大学校舎の壁の前で足を止めて、ヴェラムを見上げている。僕はそれとなく横に立って、彼等の反応を観察する。レルム上で「削除」のジェスチャ(人差し指を顔の前に掲げて右にスワイプ)をしているのが三人、「お気に入り登録」のジェスチャ(人差し指でグラフィティに二重丸を描く)が一人、無視が二人。なかなか理想的な反応だったので、少し嬉しくなる。
 僕はひとまずヴェラムの前を離れ、一限目の国際政治学に出席するため、教室に向かった。
 大教室は擂鉢を縦半分に割ったような形をしていて、底部に教壇があり、それを見下ろすように斜面に沿って座席が配置されている。サンドロ・ボッティチェリの描いた地獄の見取り図にそっくりだ。バックパックを一番後ろの机に放り出し、着ていたワークコートを椅子に掛けてから座った。友人の工藤悠基くどうゆうきが一番前の席に座っていて、こちらをちらと振り向いてからレルムの個人チャットを送ってくる。
「新作みたよ。なかなか良かった。やっぱりお前といえば、あのゴリラの絵って感じだな」
 僕は頷き、机に表示させたソフトキーボードを叩く。
「ありがとう」
「あれ、いつ描いたんだ」
「昨日の夜中。飲み会のあとでね」
「即興で? それとも、ステンシル」
「ステンシルさ」
 ステンシルというのはあらかじめ描いておいたグラフィティをレルムの個人領域に保存しておき、それを公共領域に張り付ける手法のことで、公共領域に直接描くよりも即興性は失われるが、誰かに見咎められるリスクは遥かに少ない。
「ステンシルは堕落なんじゃないのか」
「人間は堕落しちゃいけないっていう法律でもあるのか? バンクシーだって、最初はフリーハンドの即興アートを旨としていたけど、あとでステンシルに転向したんだ。鼠とか、警官に火炎瓶を投げつける可愛いシロクマとか。有名だろ?」
 彼の時代のステンシルは、あらかじめデザインを型紙で作っておいて、現場でその上からエアロゾルのカラースプレーを吹き付ける手法のことを指していたけれど、リスクと即興性の欠落という意味ではよく似ている。
「どうしてバンクシーの絵は鼠ばっかりなんだ?」
「彼が生まれたイングランドでは、鼠ってのは社会共通の敵パブリック・エネミーなのさ。ペストをまき散らしたし、小麦粉の袋や電源ケーブルを食い破るから。グラフィティには、いつの時代も反権力と有害性がセットで付いてくる」
「なるほどね……勉強になる。そうだ、それで思い出したけど、お前のグラフィティだって有害性はかなりのものだ。血塗れだったり、眼球が飛び出ていたり。なのになぜ公共領域から優先的に削除されないんだ?」
 公共領域のレルムは検閲用のAIに全てチェックされていて、猟奇的あるいは過度に性的な表現、他人を侮辱するようなメッセージなんかは、すぐに削除されるか、そうでなければそもそも書き込みが出来ないようになっている。
僕は「さあね」と、工藤悠基の質問をはぐらかす。
 教壇に立っている中年の教授が、現実の黒板をコツコツと叩いて、前回の講義の続きをレルム上で重ね合わせる。第二次世界大戦、無差別爆撃、連合軍によるドレスデンの空爆、焼夷弾。そんな言葉が、教授の言葉と操作に合わせてきらきらと光った。人間が織りなす、めくるめく愚行と暴力の歴史たち。
 講義が始まってしばらく経って、ふいに教室の後ろの扉が開き、三人の学生が入ってくる。男が二人、女が一人、全員が同じサークルのロゴの入ったバッグを肩から下げていた。太陽の周りを回っている惑星の数も知らなそうな顔をしていて、男はスポーツとセックスにしか興味がなさそうだったし、女はファッションとセックスにしか興味がなさそうだった。
彼等の服には、レルム上でだけ表示されるデコレーションがたっぷりと施されている。お気に入りのアーティストのPVの一部を切り取った動画プリントやら、最近食べたパンケーキの画像やらが身体中に貼りつけられていて、目がチカチカしてしまう。肉眼では見えないARタグを利用したレルム・ファッションは、殆どの学生がやっている「常識」なのだけれど、彼等のは随分と悪趣味だった。
彼等は一番後ろの席に陣取り、購買部で買ってきたらしいプリッツを齧りながら、共通の友人の女の尻がいかに軽いかという話で盛り上がっている。教授が注意するとしばらくは口を噤むが、映画『メメント』の主人公よりも記憶が持たないのか、すぐにまた喋りはじめる。教室の中に苛立ちが充満してくるのを感じる。
 僕は少しうんざりしたので、彼等にグラフィティを進呈することにする。レルムのアカウントをヴェラムに切り替えて、手元のノートに鉛筆で描いた下書きを、個人領域に移して着色してから、三人組の背後の壁に描画する。グラフィティは、荒廃した世界をバックにして、砂浜に胸まで埋まった自由の女神像(顔が猿になっているやつ)で、「猿の学生」のキャプションがついている。周囲の生徒達はこっそりと絵を見上げて眉をひそめたり、くすくす笑ったりしている。雰囲気の変化に気付いたのか、騒いでいた三人の顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。有難いことに教授も知らんぷりを決め込んでくれた。
 一時間半の講義が終わった頃、それを見計らったかのように外では雨が降り始めた。弱く、煙るような雨粒が教室の窓を叩いている。「猿の学生」たちはいつの間にかいなくなっていた。ノートをバックパックにしまい込み、ワークコートを掴んで立ち上がったところで、目の前に見知らぬ女子が一人、立ちはだかっている事に気が付く。
彼女は背が高く、ダブルのライダースジャケットに白のカットソー、黒のスキニーとブーツというUKロック・ファッションに身を包んでいた。切り揃えた前髪の隙間から、一重瞼の怜悧そうな眼が僕を見据える。
「随分と、くだらないことをやるのね」
「なんのこと?」
 彼女は、親指で背後に向けて、猿の顔をした自由の女神像を指し示した。
「あれ、あなたがやったんでしょう」
「何を言っているのか分からない」
「鉛筆で下書きするのを見てたの」
 僕は苦笑いを浮かべる。なるほど。
「だとしたら、なに?」
「構内でのレルムの不正利用は禁止されてる。学生部に通報してもいいのよ」
「それは困るな」
「なら、少し話をしましょう、さん」と、彼女は椅子を指し示した。
 僕はため息をついてしまう。そこまでバレているなら仕方がない。おとなしく彼女と並んで再び腰を下ろした。
彼女のライダースに付与されたARタグはとてもシンプルで、植物由来の培養レザーを使用していることと、加工工程における水の使用量削減とを表す認証マークだけだった。古き良きサスティナブル・ファッションというわけだ。
まゆずみ斑葉いさはよ、私の名前。よろしくね」
「真鯉幹人だ、俺の名前。なにか用件があるなら早めに済ませてくれるといいんだけど。早く家に帰らないと。病弱な妹が俺の帰りを待ってるんだ」
「……本当に?」
「一人っ子だよ。生まれつきね」
 斑葉は呆れた感じで眼をぐるりと回して、口を開く。
「さっきのあの『猿の学生』っていうのはなに? 意味がよく分からないんだけど」
「え、黛さんは『猿の惑星』を観た事ないの?」
「なによそれ」
「映画だよ。七十年くらい前の」
「随分と古い映画を知っているのね。それと真鯉くんの落書きと、どういう関係があるの?」
「俺が書いているのはグラフィティであって、落書きではない。あと、重大なネタバレを含むから『猿の惑星』についてはこれ以上何も言えない」
「そう。まあ、そんなくそったれの映画のことはどうでも良いんだけど」
 僕はうんざりして額を掻く。
「もう帰ってもいいかな?」
「だめに決まってるでしょう。これからが本題なんだから……実はね、あなたにお願いしたい事があるの」
 彼女はそこでたっぷり一呼吸分の間を置く。もったいぶるというよりは、心の準備を固めているみたいな沈黙だった。ビルの屋上から飛び降りる前か、そうでなければ、治りかけたかさぶたを剥がすのに似ているかもしれない。彼女は言う。
「一年前、ハロウィンの日に起きた事を覚えている?」

 

黛斑葉はレルムの公共領域で動画投稿サイトを開き、検索バーに「ハロウィン」「渋谷」と入力する。検索エンジンが提示した候補は、上から「通り魔事件」「殺人」「犯人」だった。彼女はそのまま何も選択せずに検索ボタンをタップして、一年前のニュース映像を呼び出す。「ハロウィンの渋谷で惨劇」「通り魔により19人が死亡。21人がケガ」と派手な色のキャプションが並ぶ。次に、渋谷のセンター街あたりのマップが表示されて、赤い軽トラの絵が道路脇の人形を次々に跳ね飛ばしたあと、刃物を持った人形が軽トラから出てきて、他の人形に襲い掛かる。人形のギクシャクした動きに合わせて「刺す」「刺す」「刺す」と小さな文字が浮かび上がる。ゾンビの仮装をした若者が血糊と本物の血液でシャツを真っ赤にして横たわっている写真と、無精ひげを生やした犯人の男が映ったあとで、動画は停止する。
僕も彼女もイヤフォンをつけていないのでニュース映像はまったくの無音で、秋雨が窓を叩く音と、どこか遠くの校舎から届く、微かなピアノの音色だけが響いている。
 黛斑葉が硬い声で言う。
「このあと、結局更に4人が亡くなって、死者は23人。負傷者は17人」
 僕は黙ったまま、教室の前方の、文字が何も書かれていない黒板を眺める。一年前、ハロウィン当日の渋谷で発生した通り魔事件の事は、当然僕も覚えていた。
「事件を受けて、渋谷区は今年のハロウィンで、犠牲者の追悼のためのイベントを企画しているの」
「イベント」
「渋谷には監視カメラが沢山あるでしょう? そこに残っていた映像から、昨年のハロウィンに参加していた人達を再現して、人出が最も見込まれる時間に合わせてレルムに表示させるらしいわ」
「……それって、黛さんが考えた冗談?」
「いいえ。ていうか、小さくだけどニュースリリースも出てた」
「ニュースはあまり見ないんだ。ええと、つまり死んだ人間のホログラムを、レルム上で、生きた人間みたいに投影するということ?」
「その通り」
「あまり面白い企画だとは思えないけど」と、僕は首を振るしかない。
「死者への冒涜だと思う?」
 僕は少し考えて、額を掻く。
「死んだ人間に対して出来る事なんて、何もないと思う。冒瀆しようが崇拝しようが、死者は痛くも痒くもない。彼等はもうどこにも存在しないんだから」
「真鯉くんは、天国とか神とか、そういうごたごたを信じないタイプ?」
 僕は「さあね」と答えて、凍り付いたままの一年前のニュース映像を指さす。
「でも、もし神が存在するんだとしたら、どうしてこんな事が起きるんだ?」
「……それが、悪い神だからかも」
 僕は彼女の言葉にちょっと不意をつかれる。
「なるほどね……えぇとごめん、なんだか話がずれちゃったな。それで、まゆずみさんが俺に頼みたいことっていうのは、その、渋谷区の企画したイベントとどんな関係があるの?」
 黛斑葉のほっそりとした指先が、机の木目を優しく撫でた。
「真鯉くんの描いた落書き……グラフィティは、明らかにレルムの利用規約に反するものばかりなのに、なぜか削除の対象にならない。特別なコネクションでも持っているのか、方法は分からないけど、何か普通じゃない方法で作品をアップロードしている。そうよね?」
 僕は、彼女の瞳を見返して先を促す。
「その方法を使って、渋谷区の用意した死者達のホログラムを別のものに差し替えて欲しいの」
「別のもの?」
 彼女の表情が少し険しくなる。
「それは、引き受けてくれたら話すわ」

 

自分が見ているものが夢だと、僕にはすぐ分かった。
駅の改札口を沢山の人々が行きかっている。列を乱さずに足早に歩いているため、やがて彼等の胴体はくっつき、無数の脚を持つ巨大なヤスデになった。ヤスデたちはお行儀良く改札を通り抜け、ホームに向かう階段を下りて行ったり、コンビニに入って棚の隙間を這い回ったりした。そんななかで、僕だけが立ち止まっている。
「あの、すみません」
 誰かに声を掛けられて振り返ると、そこにはセーラー服を着た少女が立っている。肩に軽くかかるくらいの黒髪だ。茶色のフレームの丸眼鏡の下から、くりっとした目が僕を見ている。
「すみません、ちょっと聞きたいんですけど。渋谷に行くにはどの電車に乗ったらいいですか?」
 その声は年齢の割には落ち着いて聞こえ、抑揚も静かだった。
 どうしてレルムを開いて自分で調べないんだろう、と僕が不思議に思っていると、彼女は照れくさそうな表情になる。
「さっきコンタクトレンズを落としちゃったんです」
「なるほど」と、僕は頷く。
渋谷駅への乗換の順序を説明しながら、ふと変なことが気になる。
「それってコスプレ、っていうか仮装じゃないですよね?」
 少女は首を傾げてから、自分のセーター服を見下ろして微笑む。
「ああ、ハロウィン。そういえば今日ですね」
「渋谷に行くっていうから、ハロウィンに参加するのかと思ったんだけど」
「そうじゃないんです。通っている塾の試験がたまたま渋谷であって。これだって、普通に通ってる中学の制服だし」
 そのとき、太った男に後ろからぶつかられて、僕はよろめく。ポケットから落ちてしまった財布を拾い上げてから、少女の方に向き直り、驚きに目を見開いた。彼女の胸のあたりに、深々と包丁が突き刺さっていたからだ。包丁はほとんど柄のあたりまで身体に埋まっていて、みるみるうちにセーラー服が血液で赤く染まっていく。
「それに、ハロウィンってなんだかバカみたいじゃないですか?」
 そう話す少女の表情は、先ほどまでと全く変わらず健やかで、可愛らしかった。心臓に包丁が刺さっているのにも関わらず。それはあまりにも現実離れした光景で、レルムの誤作動としか思えなかった。コンタクトレンズを直そうと目元に手をやった途端、自分の指まで血塗れになっていることに気が付く。少女に包丁を突き立てたのは僕なのだ、という奇妙な確信に貫かれ、恐怖が背中を這い上ってくる。
 そして、自分の口が発する悲鳴で夢から覚める。
 瞼を開くとそこは僕の部屋で、ベッドに横向きに寝転び、身体中に熱くて粘っこい汗をかいていた。耳のあたりで血液がどくどく脈打っているのが分かる。薄闇の中で右手を広げて、それが血で汚れていないことに静かに安堵する。

 

夢から覚めたあと再び眠ることが出来なかった僕は、新作のグラフィティを途中まで書いて投げ出してから、電車で大学に向かった。朝の講義の始まる一時間以上前に到着してしまったので食堂に立ち寄ると、窓際の席に工藤悠基が座っている。どうやら授業をオンラインで受講しているらしかった。レルムの個人領域で作業をしているので内容までは分からないけれど、軽やかにソフトキーボードを叩いている。
 そばに忍び寄って耳からイヤフォンを引っこ抜くと、彼はうんざりとした表情でこちらを見上げた。
「おい、返せよ。英作文の講義中なんだ」
「こんな朝っぱらからしこしこ勉強なんかしてんじゃねえよ。イカレてんのか?」
「イカレてんのはお前だろうが」
「『朝の六時にしゃんとしてものを書ける者なんて、誰であれユーモアのセンスを持ち合わせているわけがない』って、チャールズ・ブコウスキーも書いてたよ」
「いったい、それは誰なんだ。それに今は朝の八時だ」
「訊きたいことがあるんだって。頼むよ」
 彼は更に顔をしかめてから、右手をスワイプさせてレルムの画面を消し去ってくれる。
「で、なに?」
「昨日さ、政治学の授業の後で、まゆずみ斑葉いさはさんっていう女の子に声を掛けられたんだ。お前、知っているか?」
 工藤悠基はちょっと興味を惹かれた感じで目を見開く。
「ああ、背が高くてちょっとクールな感じの人だろ。前に倫理学の講義で一緒になったことがある。彼女がお前みたいな、ほんの少し絵がうまいだけの根暗が好きだなんて、意外だ」
絵がうまい、根暗だ。それに別に誘われたわけじゃないんだよ。なんていうか、大雑把に言えば、彼女は俺のグラフィティのファンなんだ」
「そっちの方がもっと意外だ。彼女、父親がどこかの中央官庁の高官をやっていて、本人も、その気になれば何でも好きな奨学金が貰えるくらい成績優秀らしい。しかも美人だ」
 僕は鼻白んで首を振る。
「凄いな。イージーモードの人生、って感じだ」
「うん、まあ、そうだな」
 彼の口ぶりは、何か引っかかるところがあるようだったので、僕は食い下がる。
「何か知っている事があるんなら言えよ」
「……別に、そんな大した事じゃない。それに、お前は知らないだろうが、学内では結構有名な話なんだ」と、彼は何故か弁明するような口調になる。
「そうか」
「ちょうど一年前さ、ハロウィンの日に渋谷で通り魔事件があっただろう?」
「うん」
僕は工藤悠基の真剣そうな眼を見返す。
「黛さんの彼氏があの事件で亡くなったらしいんだよ」
 僕は暫く言葉が出なかった。それから「ああ」とも「うう」ともつかない呻き声を漏らしてしまう。

 

まゆずみ斑葉いさはに連絡すると、彼女が待ち合わせ場所に選んだのは、僕が描いたゴリラの「ヴェラム」の前だった。昨日と同じライダースジャケットを羽織っている。
「一日ぶりね」
「うん」
 二人で並んで立って、頭蓋骨が露出した巨大なゴリラを見上げる。グラフィティを覆い隠すように現実のテープが何本も張られている。映画のなかで殺人現場にあるみたいな「KEEP OUT」とプリントされた黄色いテープだ。レルムのグラフィティにこんなことをやるのは、救いようのない馬鹿だけだ。ヴェラムを削除しようとして上手くいかなかった大学側が、苦肉の策でやったんだろう。僕の描いたグラフィティはそう簡単には消せないようにできている。
「この老いた聖者は、森の中にいて、まだ何も聞いてはいない。、ということを」
 吹き出しに表示されたヴェラムの台詞を、黛斑葉が指さす。
「『ツァラトゥストラはかく語りき』?」
「うん」
彼女は顔をしかめて、はっきりとした口調で言う。
「あんまり好きじゃないな、こういうの。なんだか気取っている感じがするし、何か表現したい事があるのなら、誰かからの借り物じゃなくって自分の言葉でやるべきだと思う」
 彼女の言葉に思わず僕は笑ってしまう。それがあまりに正しく、反論の余地がこれっぽっちもなかったからだ。
「まったくもって、その通りだと思うよ」
「だったらどうして」
 僕は、正確な言葉を選ぼうと努力しながら答える。
「ええと、怒られるかもしれないけれど、俺は『正しい』とか『こうあるべき』みたいなことに興味がないんだ。作品を作ることで有名になりたいとも思わない……本当さ。ただ、自分が感じた事や考えた事を、なるべく嘘をつかずにそのまま描きたいんだ。ただ、それだけを願ってる」
 黛斑葉は唇に手を当てて考えている。
「つまり、自分の考えを正確に表現するには、ニーチェの力を借りる必要がある、ということ?」
「まあ、そうだ」
「言っていることは、分からなくもないわ。でも、自分の考えをそのまま描いて、それを誰かに認めて貰おうだなんて、ちょっと傲慢なんじゃないかしら?」
 僕は再び苦笑して頭を掻く。
「……言われてみればそうかもしれない。黛さんは面白い」
「面白い事を言っているつもりはないんだけど」と、彼女は心外そうに眉をひそめる。
「充分、面白いって。そもそも自分が俺に頼みごとをしている立場なのに、よくそれだけ耳が痛いことを容赦なく言えるよ」
 黛斑葉は一瞬、呆気にとられた表情に浮かべてから、顔をくしゃっとさせて大いに笑った。彼女の笑顔を僕は初めて見た気がする。
「そういえばそうだった。ごめんなさい」
「別にいいよ」
「なんだか真鯉くんには、思った事をそのまま言っちゃうみたい」
「あ、そう」と、僕はうんざりと言って、言葉を続ける。
「爆笑してるとこ悪いけどさ。黛さんが言ってたハロウィンの計画のこと考えたんだ。渋谷区の用意したホログラムをすり替える、って話さ」
 ちょっと苦労して笑みを消して、居住まいを正してから黛斑葉が頷く。
「うん」
「いいよ。俺で良ければ手を貸すよ」
「そう、良かった」
彼女は喜ぶでもなく驚くでもなく、淡々としている。

 

平日の昼間だからか山手線の車内は驚くほど空いている。僕と黛斑葉は、長い座席の隅に並んで座った。カーゴパンツを穿いている僕の脚の横に、彼女の黒のスキニーが行儀よく並んでいるのを見るのはなんだか不思議な気分だった。
僕達は計画の下見のために渋谷に向かっているのだった。
公共交通機関におけるレルムは殆ど編集が出来ないようにロックがかかっているため、化粧品や健康食品のコマーシャルがいくつか動画形式で表示されているだけで、それらを個人領域から消してしまうと社内は更に寂しくなった。電車の微かな振動のなかで、斑葉が口を開く。
「どうして協力してくれる気になったの」
「別に。取り立てて理由なんてない。強いて言えば暇だったからさ。大学生の最大の取り柄はヒマな動物だってことだろ?」
「そう……じゃあ、もう一つ質問。レルムに描いたあなたのグラフィティがいつまでも守られるのはなぜ」
僕は夕陽を受けて黄金色に輝くビル群を眺めながら答える。
「黛さんはギル・バーマンを知っている?」
「……知らない。映画俳優とか?」
「いいや。アメリカとかヨーロッパで有名なグラフィティ・アーティストさ。俺と同じで、レルムをキャンバス代わりに使ってる。匿名で活動してるから、ギル・バーマンっていうのは本名じゃないけどね。レルム上に描かれる彼のグラフィティは、アメリカや中国のセレブリティ達にとても人気があるんだ」
「へえ」
「公開された彼の新作は全て、レルムを提供しているF・パス社の管理下に入る。複製や削除が不可能になって、何十万ドルっていうような使用料を払った人だけが、レルムの個人領域に複製を飾ることができる」
「レルムにそんな拝金主義的な仕組みがあるなんて知らなかった。でもギル・バーマンは匿名で活動しているんでしょう。なら、その人が描いた物だとどうしてわかるの?」
 僕は彼女の頭の回転の速さに感心する。
「そう、まさにそこが重要なんだ。彼は俺と違って特定のアカウントも使用せず、署名も残さない。その徹底した匿名性がギル・バーマンの人気の秘密なんだけど、F・パス社のエンジニア達は困っただろうね。何十万ドルもの利益を生む金蔓を、トイレの落書きみたいに消してしまう可能性があるわけだから。それでF・パス社はギル・バーマンのグラフィティを検出するアルゴリズムを開発して、レルムの検閲用AIに組み込んだ」
「グラフィティの作者を見分けるアルゴリズム、ということ」
「うん。ただ彼のグラフィティには、ピカソやマーク・ロスコみたいな分かりやすい作家性はないんだ。モチーフもいろいろだし。だから、隣り合う色の組み合わせだとか、使われているモチーフに込められている歴史的な文脈とか、反社会的なメッセージの度合いだとか、そういうもろもろから複合的に判断される……俺はそれを利用しているんだよ。自分の作品を、検閲用AIがギル・バーマンと誤認するように調整しているんだ」
 黛斑葉の、深い漆黒色をした瞳が見開かれる。
「そんなことが可能なの?」
「ある程度グラフィティに詳しければ、簡単さ。それに、完全に騙し通す必要はないんだ。検閲用AIが『ギル・バーマンの作品である可能性がある』と判断したものは、F・パス社内にいる人間の美術鑑定士の手に委ねられる。そこまで時間を稼ぐことが出来れば十分だ。『可能性がある』程度のグラフィティなら、世界中で一日に何十個も発見されているから、それほど目立つ心配もない」
「……なるほどね」
「どう、少しは見直してくれた?」
「真鯉くんってアーティストよりハッカーの才能があるかも」
「手厳しいなあ」
 彼女は俯いてちょっと笑ってから、口を開く。
「じゃあ、今度は私の番」
 黛斑葉がレルムを操作して、データを二つよこしてくる。どちらも映像データ、容量から判断するにホログラムのようだった。
「一つは渋谷区が今年のハロウィンのために準備したもの。もう一つは、私が用意した」
 僕は頷いて、二つのホログラムをレルムの個人領域で同時に再生する。どちらも昨年のハロウィンの参加者達を再現したものという点では共通していて、分かりやすい差異は見当たらなかった。
 ちょうど電車がカーブに差し掛かったらしく、制動がかかり、減速する。頭上のつり革が一斉に左右に揺れた。窓から差し込む光の中を、ビル群の影が幾筋も走った。それに触発されたみたいに、僕は二つのホログラムの違いに気が付く。それは、とても微妙で、そして奇妙な差異だった。

 

渋谷の街は、ウィルスに侵されたコンピュータの画面みたいだ。始めはたった一つだったウィンドウが、派手な警告メッセージと共に連鎖的に増殖していく。ウィンドウがウィンドウを生む。お祖父ちゃんウィンドウ、パパウィンドウ、子供ウィンドウ、孫ウィンドウ。瞬く間に画面全てがウィンドウに覆いつくされてしまい、操作不能に陥る。無秩序と混沌。あれに似ている。
 山手線を降りてスクランブル交差点に向かう。派手な服を着た沢山の人間が周囲を歩いている。彼等の多くは、僕と同年代か年下に見える。人波の隙間を埋めるように無数のレルム広告が浮かび、更にその隙間に誰かの呟きが窮屈そうに表示される。視界がレルムの表示に覆い隠されていて、どこを向いても現実の風景は半分も見えなかった。こんな時はレンズを眼球ごと穿り出したくなるのだけれど、レルムがなければ目的地に辿り着くことも出来ない。
 緑色のパーカー(ARタグをべたべたと貼りつけている)を着た男が、僕達を追い越しざまに黛斑葉に無遠慮な視線を投げかけた。背が高く、冷たさを感じるほどに整った顔の彼女は、渋谷の街でもかなり目立った。彼女が着ると地味なモノトーン・ファッションが逆に新鮮に感じられる。
「渋谷は、いつ来ても人が多くてうんざりする」と、彼女が言う。
「まあね」
「真鯉くんは良く来るの?」
「俺もうるさいのは苦手だ。でも渋谷はグラフィティの聖地の一つだから。ニューヨークやイングランドのブリストルとは比べ物にならないけど」
「へえ」
「本物のギル・バーマンのグラフィティも、渋谷でいくつか見つかってるんだ」
「ふぅん」
 スクランブル交差点のあたりまで来ると、人もレルムの表示も更に増える。蓄積された人々の呟きが壁のようになって、ビルに迫るほどの高さになっていた。
交差点を渡ったところで、献花台を見つけた。一年前の通り魔事件の犠牲者達を追悼するために設置されているようだが、どうやら公式のものではないみたいだった。積み上げられた現実の花束のうえで、巨大な三文字のグラフィティが浮かんでいる。R.I.P。安らかな眠りをRequiescat In Pace。指で触れるとグラフィティがくるくる回った。献花台は、生者達が行きかう雑踏の真ん中にあって、死者の国の兵士が築いた橋頭堡みたいだった。
「このあたりで、三人の方が亡くなったの。一人は山本美憂さん。埼玉の高校生で、『美女と野獣』のベルの仮装をしていた女の子。通り魔の男に喉を三回も刺されてた」
「そうか」
「あとの二人は、大学生の西悟志さんと、井上涼子さん。逃げる途中で転んで、後ろから押し寄せる人達に踏み潰されて、亡くなったわ。二人はカップルだった」
「……それ、全員分覚えているのかよ」
「覚えようとしたつもりはなかったんだけど、いつの間にか忘れられなくなっちゃった。渡したホログラムのどこに彼等が映っているのかも覚えてる」
 そう言って、黛斑葉は寂しげな笑いを浮かべる。
僕達は文化村通りを抜けて、東急百貨店のあたりまで歩く。このあたりが渋谷区の用意したホログラムの投影範囲の限界だったけれど、ブーランジェリーで売っていたクレープを買って、更に歩いた。僕はアップルシナモンで、彼女はバターキャラメル味のやつ。
 表通りから一本裏道に入っただけで人通りがまばらになり、塀や建物に描かれたグラフィティが目に付く。壁やシャッターにエアロゾル・スプレーを直接吹き付けて描かれているものもあるが、ほとんどはレルム・グラフィティだ。レルムに描いた方が動画や音声を添付できるうえ、署名を簡単に残せるし、なによりシェアされやすいのだ。黛斑葉はグラフィティの数に驚いているようだった。レルムに設定されている有害性の閾値は国や地域で差異があり、渋谷はアンダーグラウンド文化への許容度が高くなっているから、グラフィティが消えずに残っているのだ。
 美容院の壁に描かれた無数のグラフィティ達を見上げる。一番目立っているのは、一つ目の巨人のグラフィティで、ペニスは三本あり、両足には遺伝子の螺旋構造が鎖のように幾重にも巻き付いている。ローマ字を組み合わせただけの、意味不明なグラフィティもたくさんある。
 黛斑葉がクレープを齧りながら、そのうちの一つを指さす。
「この『RULE34』っていうのはなに?いろんなところに貼ってある」
「ロスで有名なグラフィティ・グループの名前だよ。元ネタは『それが存在するなら、それのポルノがある。例外はない』っていう意味のネットスラング」
「『それ』ってなに?」
「この世界に存在する、ありとあらゆるものの事さ。哲学者のフッサールがいうところのノエマかな……サザエさんであれポケモンであれ、あるいは兵器とか駅みたいな無機物や、国家みたいな概念でさえ、それを性的に消費しようとする人間が必ずいる、っていう。まあ、インターネット・ミームの一つさ」
「ふぅん……じゃあ例えばだけど、お寿司のネタのポルノなんていうのも存在するのかな?」
「さあね。俺は知らないけど、何処かで一大ジャンルを築いていても驚かない」
 彼女は心底げんなりした感じでため息をつく。
「我ら人類の想像力と愚かしさには底がないわね」
「そこが人間の良いところだ」
「本気で言っているの」
「もちろん」
 まだ十月の半ばだというのに、気の早い誰かが書いたジャック・オー・ランタンが、エアコンの室外機の上で愉快そうに踊っている。最もよく知られたハロウィンのイコンのカボチャ男だ。黛斑葉が近づいて指先でちょんとつつくと、初めは可愛く飛び跳ねているだけだったのだが、ふいに巨大化して彼女の腕を飲み込む。二人で叫び声をあげてのけぞってから、我に返って強張った笑みを交わす。
「真鯉くんはハロウィンの起源を知っている?」
「いや……考えたこともない」
「ハロウィンはね、古代ケルト人に伝わっていたサムハインというお祭りがもとになっているの」
「サムハイン」
「ええ。ケルト人達にとって10月31日は一年の終わりで、その日だけはあの世とこの世の扉が開く。そして死者達が蘇ってきて、生者を冥府に連れ去ってしまうと信じていた……だから、生者と死者の区別がつかないように、悪魔や妖精の仮装を施す」
「なるほど」
「そう考えると、私達がやろうとしていることは、由緒正しきハロウィンの伝統に則ったものと言えるかもね。トリック・オア・トリートなんかよりよっぽど」
「死者達を仮想的に蘇らせることが?」
「その通り」

 

翌日からは毎日、講義が終わってから大学の食堂で落ち合って、ホログラムの修正に取り組んだ。ホログラムをギル・バーマンの作品だと偽装するために、彼の作品に合わせて色調や構成を調整していくのだ。ギル・バーマンのグラフィティにもホログラムを利用したものは沢山あるので、似せること自体はそれほど難しくない。難しいのは「どこを変えないか」ということだった。極端な話、映っている通行人のスカートの色を僅かに変えただけで斑葉の願いや思いを踏みにじる可能性がある。僕にはそう思えてならなかった。
夕陽がすっかり落ちて夜に沈んだ構内を歩く。食堂はまだ照明が煌々と点いていたが、学生の数はまばらだった。斑葉は先に着いていて、窓際のカウンター席で黙々と作業をしている。僕は挨拶もそこそこに隣に座り、レルムで作業用の領域を開く。
渋谷区と斑葉がそれぞれに用意した、二つのホログラム。その違いは今では明確に分かる。先に、斑葉の用意した方を開くと、たちまち眼前に沢山の若者が現れた。彼等は実に様々な恰好をしている。ふさふさの尻尾をつけたバニーガール、胸元を露出したミニスカートの婦警、バットマンのコスプレなどなど。車のうえで飛び跳ねたり、酒を瓶からあおったり、下品に笑いながら煙草だかマリファナだかを吸っていたりする。かと思うと、白ブリーフ一丁で上半身にマジックで「童貞」と書いた男が交差点を走り抜けていったりもする。あまりに馬鹿馬鹿しく、うんざりしてしまう。
こんなバカ共に生きている意味があるのかよ、と思うのだけれど、じゃあ僕には何か生きている意味があるのだろうか、そもそも意味がなければ生きていてはいけないのか? よく分からなかった。それに彼等のうち何人かは本当に、映像のすぐあとで理不尽に命を奪われてしまった事を思うと、複雑な気持ちになった。
次に渋谷区が用意した方を開く。こちらも基本的には大きな違いはなく、沢山の若者達が現れて愚かしく騒ぎまわるだけだ。だが、しばらく見ていると違いに気づく。ところどころに欠けている人間がいるのだ。例えば、先ほどの白ブリーフ姿で走りまわる男はこちらのホログラムには存在しない。他にも、激しい口喧嘩をしている外国人の二人組や、ビキニみたいな恰好で抱き合う少女達もいない。
 実は黛斑葉のホログロムこそが元のデータであり、区が用意したものからは「有害な」ものが削除されているのだった。削除の対象は下品なもの、露出が多いもの、犯罪すれすれのもの、といったところだろう。だがハロウィンの映像のなかに削除が必要なほど猟奇的なものが混じっているわけもなく、その基準はかなり恣意的なものにも感じられる。
 黛斑葉はたぶんそれが許せなかったのだと思う。しかし何が彼女をそこまで駆り立てるのか、やっぱり僕には判然としなかった。自分の個人領域で作業を続ける斑葉の表情は真剣そのもので、違和感を覚えてしまう。彼女が恋人を通り魔事件で喪ったという噂は本当なんだろうか?
「どうしたの? さっきからずっと私の顔を見つめているけど」
「別に。ちょっと横顔に見とれてたんだよ」
「ふぅん」と、彼女は僕の軽口に鼻を鳴らす。
「てかさ、聞きそびれてたけど、このホログラムって何処から手に入れたんだ」
「……それを真鯉くんに話す必要がある?」
「特にないね。話したくなければ話さなくていいさ」
 斑葉は少しのあいだ迷ったあとで、口を開く。
「買ったのよ。父親が文部科学省の外局に勤めててね、そのツテを使ってホログラムの保管を委託している民間業者を調べて、そこの担当者にお金を払った」
 それから彼女は具体的な金額を口にする。それは新卒社員の一年分の給料に近い額だった。
「そんな金をどうやって」
「いろんなバイト。家庭教師とか、キャバクラとか。あとナースのコスプレをして、パチンコやってる爺さん達の肩を揉んだりね」
「それはすごいな」
「そうかな」
「めちゃめちゃ興奮する」
「……なにをそんな真顔で言っているの?」
 僕は笑って首を振り、本当に訊きたかったことを口にする。
「でも、どうしてそこまでするんだ? このホログラムからは一部の人間が、妥当とは言い難い基準で削除されてるのは確かだ。だけど、目くじらを立てることほどの事なのかな」
 彼女はちょっと口ごもって、窓の外の暗闇に眼を凝らす。それから、そこに浮かんでいる答えを読み上げているみたいにして言う。
「生者も死者も堕落する。それを生きている人間の都合で捻じ曲げようとするのは、傲慢だと思う。私には受け入れられない」
 言葉の意味は僕には殆ど理解できなかった。だけど目を赤くしている黛斑葉の真剣さ、必死さだけは痛いほど伝わってきて、それ以上尋ねることは出来そうになかった。

 

僕はまたあの夢を見る。駅の改札口。人間の胴体が繋がりあって生まれるヤスデ。渋谷までの行き方を訪ねて、刺し殺される眼鏡の少女。血塗れになった自分の指。悲鳴。
そして夢から覚醒する。
 僕はため息をついて、汗で重くなったTシャツを脱ぐためにベッドから這い出した。レルムの個人領域にホログラムが開きっぱなしになっていることに気が付く。昨日の夜、作業の途中でコンタクトレンズをつけたまま眠ってしまったのだ。
 清潔なTシャツに着替え、キッチンで冷たい水を飲みながら夢で見た内容を考える。あれは殆ど実際にあったことだ。
 去年のハロウィンの日。駅でセーラー服を着た少女に声をかけられ、渋谷駅への乗り換え方法を教えた。そして、翌日のニュースで彼女が通り魔事件で亡くなったことを知ったのだ。だけど彼女がホログラムに出てくることはない。なぜなら彼女はハロウィンに参加していたわけではなく、渋谷駅の構内に逃げてきた犯人に刺されて亡くなったのだから。そこはホログラムの投影範囲の外側だ。
 それでも僕は、黛斑葉を手伝う事が亡くなった少女への償いになると、心のどこかで期待しているのだと思う。償い。なんの? 渋谷駅への道順を教えたことの。まったくもって不合理な罪悪感と不合理な償いだ。それでも僕には、それが必要なことだとどうしても思えてならなかった。
 キッチンタイマーに表示された時刻に目をやると、深夜0時を回っていることに気付いた。日付が変わって、今日はハロウィンだ。冥府の扉が開き、死者が蘇るための祝祭日。

 

講義をさぼったまゆずみ斑葉いさはと僕は、昼過ぎから渋谷に行き、夕方に向けて準備を整える。スクランブル交差点を中心とした半径200メートルに、時限式で起動するホログラムを仕掛けていくのだ。一つあたりの投影範囲は半径10メートル程度なので、建物などの部分を除いても必要なホログラムの数は100を超える。
僕の考えた仕掛けは単純だ。もともと渋谷区が設置したホログラムを削除したり上書いたりするのは不可能だったので、逆に差分、つまりは渋谷区のホログラムからは削除されている人々を更に上から重ね合わせる事にしたのだ。絵具を二層に分けて塗るのに似ている。現実という下地の上に、区のホログラムの層があり、もうひとつ上に、削除された死者達のホログラムの層がある。全体として見ると、全ての死者達をレルム上に蘇らせることができるというわけだった。
全てのホログラムの設置を終えた僕達は、またあのブーランジェリーでクレープを買った。二羽のカラスみたいにガードレールに腰かけて、一つのクレープを分け合う。
「だいぶ人が増えて来たね」と、黛斑葉がクレープの皮の部分を齧る。
ゾンビの格好をした男が僕達の前をきびきびと横切っていく。次にやってきたのは頭の部分が映画用のカメラになっている黒スーツ姿の男だ。
「ハロウィンの渋谷に来たのは初めてだけど、本当にみんな仮装なんてするのな」
 クレープを齧ると、焦がしたキャラメルの苦みと甘みが口の中に広がる。
「当たり前でしょう」と、斑葉が苦笑する。
「あれは何の恰好だろう?」
 僕は、巨大な白い直方体の着ぐるみを着ている男を指さす。着ぐるみが風をもろに受けて歩きづらいのか、男は左右によろめきながら歩道を進んでいく。
「豆腐じゃない?」
「それにしては平べったい。はんぺん?」
「はんぺんの仮装なんてする人いるかな」
「俺が知るかよ」
 僕はクレープの最後の一切れを彼女にあげて、包装紙をクシャリと握りつぶして立ち上がった。
 スクランブル交差点のあたりまで戻った頃にはすっかり夜になっていて、ホログラムの投影開始まで10分を切っている。交差点の手前、献花台の近くで人垣に紛れ込んだのだけれど、斑葉はいつも通りダブルのライダースとデニム、僕は黒のパーカーにオリーブグリーンのカーゴパンツという恰好なので、仮装した人々のなかでは逆に目立った。高揚した若者達の笑い声と、煙草や酒の匂いに取り巻かれて、時間が過ぎるのを待った。斑葉が落ち着きなくあたりを見回しているのを、視界の隅で感じる。
 それは、ふいに始まった。赤信号で人が途絶えた交差点の真ん中に、白い煙のようなものがひとすじ走った。かと思うと煙は徐々に輪郭を持ち始め、人の形に近づいていく。
「なんだろう、あれ」
 僕達の前に立っている高校生くらいのカップルが、背伸びをして交差点の方を見つめている。煙はもう完全に人の姿を成していた。足があり、手があり、頭がある。やがて性別や表情まで読み取れるようになった。
何人もの死者達が交差点を渡って、こちらにやってくる。人垣からどよめきが上がった。渋谷区がホログラムを投影することはテレビやレルムで繰り返し報道されていたが、知らない人間も一定数いるようで、周囲はちょっとしたパニックのような状態になった。だが、それはすぐに収まり、若者達は幻影のように現れた死者達と戯れて、盛り上がり始める。
ホログラムに抱きついてみせたり、わざと自分の身体を通り抜けさせて胸を押さえて苦しむ真似をしてみせたりしている。だが、馬鹿馬鹿しさではホログラムの中の死者達も負けてはいない。巨大なペニスを模した着ぐるみの二人組が横断歩道のところでピョンピョンと飛び跳ねて、現実の女子高生がそれを見て腹を抱えて笑っている。
あたりは、ただでさえ混雑していたところに人数が倍に膨れ上がってしまったせいで、誰が現実の人間で誰がホログラムなのか、もはや僕にも分からない。生者と死者が混交している。
ふと見ると、隣にいたはずの黛斑葉が少し離れたところに立っていることに気が付く。
「なにやってるんだよ、すごいぜ」
 ハチ公像の下でステップを踏む生者と死者を指さすけれど、斑葉は振り向かない。僕は傍に行って、彼女の視線の先にあるものを見つける。
それはホログラムで投影された、一組の男女だった。街路樹の近くのガードレールに腰かけて、唇を重ねている。長いキスの後で、女は照れたような笑みを浮かべ、男が彼女の頭を撫でる。
 僕は、彼等の名前を知っている。初めて二人で渋谷に来た時の、黛斑葉の言葉が脳裏をよぎった。
「あとの二人は、大学生の西悟志さんと、井上涼子さん。逃げる途中で転んで、後ろから押し寄せる人達に踏み潰されて、亡くなったわ。二人はカップルだった」
 二人の姿は、区が用意したホログラムからは消されていた。それはたぶん、井上涼子が13歳の中学生だったことと、二人が出会ったのがハロウィンの当日だったことと無関係ではないだろう。生者も死者も堕落する。確かに、その通りかもしれない。
僕はふと思う。もしかしたら黛斑葉の亡くなった恋人とは、この西悟志のことだったのではないか。だとしたら彼女が今見ているのは、手酷い裏切りの証拠に他ならない。だけど二人を見つめる斑葉の表情は穏やかだった。安堵しているような、祈っているような、そんな顔だ。
彼女は、たとえ自分を裏切った男であっても、その死まで奪われるのが嫌で僕に計画を持ち掛けたのかもしれなかった。
そのとき、背後でまた歓声が上がる。我に返った様子の黛斑葉がそちらを振り向いて、目を丸くしている。
「ねえ、あれはなに?」
 後ろを振り向く前から、僕には彼女が見ているものが分かっていた。なぜならそれは、僕が描いたグラフィティだからだ。交差点に新たに現れているのは、白く輝くセーラー服を纏った少女だった。肩に軽くかかるくらいの黒髪で、茶色のフレームの丸眼鏡。くりっとした大きな目。夢のなかで何度もみた姿だ。
「真鯉くんが描いたの?」
「うん……まあね」
 僕は斑葉に怒られることを覚悟していたのだけれど、彼女は優しく笑って肩をすくめる。
「可愛い絵だね」
「そう?」
「うん、私は好きだよ」
 斑葉の言葉に勇気づけられたみたいに、グラフィティの少女が軽やかに走り出す。とんとん、と地面を蹴るたびに金色の粒子が周囲に舞い、集まったバカ達がやんやの喝采を送った。

 

終わり。

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