un-dead-pulse

印刷

梗 概

un-dead-pulse

調香師の来栖 くるすアキラは、新型ウイルスの後遺症で嗅覚を失った。通院や投薬も効き目がない。そんな中、同居人の従弟・澤野ハズミから、嗅覚を取り戻す嗅覚療法士・霧生 きりゅうレオを紹介される。

レオは評判の高い嗅覚療法士だったが、クライアントを選ぶことでも知られていた。レオはアキラに対し条件を出す。その内容は、治療法を家族(アキラの場合ハズミ)以外に口外しないこと、治療期間中、一日に一度はレオのつくった食事をとること。アキラは条件をのむ。

嗅覚療法士は、患者の鼻腔と脳に装置をつけ、定期的に香りのパルス刺激を与え、嗅覚と脳の連鎖反応を探りながら治療する。加えてレオの療法に特徴的なのは料理で、創作料理で嗅覚を確認しつつ、脳の反応分野を検知して刺激した。レオは、カウンセリングと称した雑談の中で、アキラの日々の出来事や悩みに合わせた料理をつくり、リラックスできる時間をつくった。

調香師として秀でるため、体調と集中力を一定に保ち、淡々と暮らしてきたアキラだったが、レオと関わることで解放されていった。ハズミはアキラの笑顔が増えたと感じ、嬉しく思いつつも、レオに対して密かに嫉妬を抱く。

アキラは嗅覚を取り戻していく。しかし彼は、治療の最終段階まで来ても、罹患直前に手掛けていた香水を再現できなかった。その香水は会社でも認められ、アキラのキャリアの代表になるはずのものだった。話を聞いたレオは、研究室に同行して香りを調合する。アキラはその香りを嗅ぎ、遠い昔に同じ経験をしたような気がした。

無機質な理科室と白衣、清潔で柔らかな体臭。コミュニケーションが苦手なアキラに対し、開けっぴろげに接してきた、少女のような少年。嗅覚は五感の中で、最も記憶に結びつく。閉じ込めていた記憶、消していた情動、十数年前の少年の体臭と唇の味を思い出したアキラは、失っていた最後の嗅覚を取り戻す。レオはアキラの記憶の中の少年だった。彼は昔と同じ笑顔で、アキラのことを忘れられなかったと告げ、そのままアキラの前から姿を消す。

調香師として復帰したアキラが発表した新作の香水は、レオが開発した成分を微量に入れており、「懐かしさ」を喚起させる効果があった。ウイルスはますます蔓延し、多くの人の嗅覚と味覚を攪乱したが、アキラの香水は人々の記憶を呼び起こし、治療後の人々の嗅覚を回復させるきっかけになることもあった。

ある日ハズミは、自分がレオと知り合い、アキラに紹介した経緯を覚えていないことに気づく。レオが何者だったのかも記憶が曖昧になりつつあった。ハズミは、レオが療養期間中にアキラの記憶を操作していたのではないかという疑念を抱く。

アキラはときどき記憶が曖昧になり、取り去ったはずのレオの装置が体に残っているように感じることもあった。しかしアキラは、今は記憶を分析するのではなく、ただ鮮やかになった感情に身を委ねたいと願っていた。

文字数:1195

内容に関するアピール

新型コロナウイルスの感染は、嗅覚の異常から発覚することも多いと聞きます。匂いは学習され、記憶との関連で判定されます。また嗅覚は、五感の中で唯一、海馬に直接伝達されるそうです。ならば匂いを操作する技術で、記憶も操作できるのではないかと考えました。

アキラの記憶が事実なのか、操作されたものなのかは話の中ではっきりさせず、ただアキラの中で鮮明であるように描きたいと思います。理性で動きがちだったアキラは、感情でも動くようになりますが、それは匂いの伝達箇所が情動脳だからでもあります。

現実的なハズミは、アキラがこれから生きていくために必要な人物で、存在が曖昧なレオは、アキラが嗅覚と情動を取り戻すために必要な人物です。アキラの変化の前と後を知るハズミと、変化の過程を知るレオは、直接関わることはありません。レオとハズミのどちらが勝者か、または勝ち負けなどないのか、読む方に委ねられればと思います。

文字数:394

印刷

un-dead-pulse

OP.
 ざり、ざり、ざり、という音をたてながら、ゆっくりとハンドルを回した。
 挽きおえた豆をドリッパーに落とし、たっぷり沸かした湯を注ぐ。
 うずまき状に注ぎ入れると粉がぷっくり膨らみ、液体が透明なサーバーに落ちていった。
 赤銅のケトルは明るく輝き、使い古したドリッパーは鈍く光る。薄いグレーのカップに入れた珈琲は、ミルクを入れるのがためらわれるくらいにつややかな黒だった。
 ひとくち味わうと、鼻腔が香ばしさで満たされ、口にほどよい苦みとほのかな甘み、わずかな酸味が広がる。堪能しようと目を閉じかける寸前、視界に白っぽい人影が入ってきた。
「おはよう」
 澤野ハズミの従兄、来栖くるすアキラは平淡なトーンで告げた。
 きれいに伸びた背筋と細い首。ふちのない眼鏡の銀色のつるが、繊細な光を帯びる。白いシャツはぱりっとしていて、磁器を思わせる肌をさらに青白く見せている。
 ハズミは口の中のコーヒーを飲み下した。
「おはよう。もう、大丈夫?」
「ああ。なんだか、焦げ臭いな」
 アキラはこころもち首を傾けながら、出ていった。

1.
 会社についたアキラは、溜まっていた事務作業や、滞っていた連絡事項の処理に集中した。
 今回の休みは2週間。入社以来、こんなに長く不在にしたことはない。
 新型ウイルスはあっという間に世界中に蔓延し、そのまま消えることもなく居座り、人々が病と共に暮らす日々も定着した。世間にはリモートワークが浸透して久しい。
 しかし今回のアキラの場合、身の回りに感染者もおらず、前触れのない発病だったので、心づもりも全くできていなかった。熱が下がってからは、在宅でできる部分はこなしていたが、それでも細かい部分は伝わらない。それに、アキラの仕事の根幹部分は設備が必要で、家で行うわけにいかなかった。
 すぐに片づけなければならない仕事を終えると、時計は既に午後を廻っていた。アキラは上のフロアへ急いだ。
 白衣を身につけ、清潔なガラスの棚に並ぶ透明なボトルを眺め、深呼吸した。
 小さな容器を手にしてそっと蓋を開けて、静かに息を吸ってみる。
 ピペットを手に取り、とろりとした液体を細いムエット試香紙にひとたらしして、鼻の下に持っていく。
 数秒後、ため息をつき、蓋を元の場所に戻す。使用済みのムエットが散らばっていく。
 出社した時から、予感はあった。
 アキラの勤める会社のオフィスは、ビルの上階にある。いつもなら、エントランスのエレベーターに乗る時点で、オフィスの研究室のにおいが漂ってくる。それが今日は分からなかったのだ。
 研究室で一人、同じ行為を繰り返すアキラを見て、同僚や先輩、後輩までもが話しかけてきた。しかし彼は、強張った笑みを見せることしかできなかった。
 目についたすべての瓶を試し、やがて何も喋らなくなった彼を連れ出したのは、直属の上長である榊原だった。
「無理しないで下さい」
 肌を無添加の化粧品で整え、髪を一糸乱れずまとめ上げた榊原は、部下の状況を正確に把握していた。
「長く休んでいたんだし、すぐには戻りませんよ」
 ぴくりと肩を震わせて、アキラはうなずいた。
 榊原は、頬がさらに青白くなったように見えるアキラをエレベーターホールまで送った。
「今は休養してください。今日、やり残したことは、引き継ぎますから」
 振り返らずに立ち去るアキラを見て、榊原は不安に苛まれた。
 しかし彼女は、最も不安の中に突き落とされているのは本人であろうことも分かっていた。
 調香師にとって鼻が利かなくなるのは、職業的な死に等しい。アキラは仕事にも熱を入れていたし、将来を嘱望されていたのに。
 一時的ににおいが全く分からなる時は、鼻炎だったり、鼻に異物が入っているなどの理由が多い。その場合、原因を取り除けば解決する。例えば、風邪でにおわなくなるのは、肺や気道へ空気が流れる通り道の襞が腫れていて、鼻呼吸ができないことが原因だ。病が治れば腫れも治るので問題ない。
 しかしアキラの症状は厄介だった。においが分からなくなる原因が解明できていない。罹患当初はまったくにおいが感じられず、治ってからは、香ばしさや薬味のにおいもすべて焦げや刺激臭に感じられる、というのがよくあるパターンだ。そして、特にウイルスが強毒化していた場合、嗅覚が何年も戻らない事例も確認されている。
 日が明るいうちに家路についたアキラは、背に受けるじんわりとした日の温かみも、頬にあたる風の気持ちよさも、下校する子どもたちの明るい声も、何も気づかなかった。
 頭の中は、会社での出来事で占められている。
 公園の横を通りかかると、白やピンク、紫の色味が目に飛び込んできた。上部に小さな花が結集し、すっきりとした茎が色の塊につきささっているように見えるのはヒヤシンスだ。きちんと手入れされているのだろう、咲き誇る花々はつやがあり、葉の緑も濃くみずみずしい。
 アキラは顔を背け、足早に立ち去った。
 ヒヤシンスはお気に入りのにおいだった。爽やかで明るいのに、どこかメタリックで冷たい印象がある二面性が好きで、調香の際によく使ったものだ。ほんの数週間前、あれほど感覚に染みわたったヒヤシンスが、どれほど複雑に混合されていても嗅ぎ分けられたにおいが、何も語りかけてこない。
 今の彼にはヒヤシンスのにおいどころか、身近なはずのジャスミンやローズのようなにおいですら、わずかな刺激臭にしか感じないのだ。それは、花が咲きほこる豊かな園から、突然、静まりかえった荒野に立たされたような、唐突すぎる暗転だった。
 
 リビングのソファでぼんやり座っていたアキラは、ぱち、という音ではっとした。
 明かりがつき、薄暗くなりはじめていた部屋を照らし出す。
 部屋の窓を開けた後、ハズミが隣に来て、ちょこんと座った。
 小柄な彼がアキラの横に座ると、心もち顔を覗き込む姿勢になる。
「暗いと、目が悪くなるよ」
 荷物を小脇に置き、ハズミは少し体重をかけて腰を落ち着ける。
 クッションが浮き、二人も少し跳ね上がった。
「もっとも、視力はそれ以上、落ちようがないか」
 アキラはうっすらと頷くことしかできない。
「嗅覚療法士って知ってる?」
 ハズミは気軽な調子で続ける。
「聞いたことはあるくらいだけど……なんで?」
「におい、戻ってないんだよね」
「……」
「少し前、バイト先のシェフに、療法士の知り合いがいるって聞いてさ。今日、その療法士が、お客さんとして来ていて」
 においがわからなければ、味もわかりづらくなる。確かに料理人であれば、嗅覚療法士とつながりがある方が安心かもしれない。
「仕事で手に香りがついてるかもしれないから、落としたいって相談されたんだ。無臭のデオドラントシートを渡したら、話が弾んで」
 そのシートは香料をほぼ完全に消し、シート自体は無臭という便利なものだった。少し手に入りづらいが、ハズミがレストランでアルバイトをするということで、分けてやったことがあった。
「で、仕事の話になったのか」
「そう。普段ニューヨークにいて、有名な人でなかなか予約が取れないらしいんだけど、今、一時的に日本へ来てるんだって」
「嗅覚の療法士っていう資格は、もともとアメリカが本場だな」
「あっちって日本より酷かったから、早めに資格ができたけど、今は取るのも難しくなってるんだって。情報も設備も日本よりずっと進んでいるって言ってた」
 新型ウイルスに対する特効薬は、未だ開発されていない。ワクチンをうっても免疫ができない人も多く、仮に効果があっても持続せず、短期間で再び感染する人もいた。そのため各国は、さまざまな対策を長期に渡ってだましだまし行っている。初期段階で罹患率が高く、未だに死者も多い米国は、恐らくあらゆる療法を試みているだろう。
「いろいろ怖いかもしれないけど、一度話を聞いてみるくらい、いいんじゃない?」
 ハズミは傍らの茶色の紙袋から、白い包みを取り出しながら言った。包み紙にはじんわりと油がにじんでいる。お腹がすいていたことを思い出したアキラは紙を開けた。中身はローストビーフのベーグルで、小さな白いゴマが指につく。
「駅前の店?」
 既に食べていたハズミは、うっすらと目に涙を浮かべながら、首を縦に振っている。
 看板メニューのこのベーグルは、カラシをたっぷり塗ってピクルスを挟み、これでもかというくらいにローストビーフが詰め込んである。ひとかみすると、カラシの強い刺激とピクルスの辛さ、ビーフの肉汁とベーグルの香ばしさが口の中で調和をなす。
 アキラはベーグルにかぶりついた。ベーグルのぱさつきと肉の弾力の他には、ほのかにつんとする感覚くらいしか分からない。ゴムを噛み下すような食事を終えた後、小さくつぶやいた。
「療法士に、会ってみようと思う」
 ハズミは軽く頷き、ゴマのついた手を振った。

2.
 再度の長期休暇を取得すると、アキラは、嗅覚療法士の診療所を目指した。
「療法士の人が、午後の早い時間帯で、昼食は食べずに来てください、だって。あと、アレルギーがあるか聞かれたよ」
 ハズミの言葉に、アキラは苦笑した。
「なんだか健康診断みたいだな」
「そうだね。でも、それは絶対守ってくださいって言ってた」
 診療所がある地域は、東京都の中で最も地価の高い一帯の一つだった。大使館や領事館が多く、建物は塀に囲まれていて、たまに駐車場がちらりと見える。住宅なのか、会社なのか、それとも別の組織の拠点なのか、判別がつかない建築物ばかりだ。
 坂道を上がったり下がったりして、息が切れる。やがて目印の桜の木が見えてきた。スマートフォンを確認すると、ハズミに伝えられた場所を示している。
 インターホンを押すと塀の一部が開き、ガラスの扉が開いた。エレベーターから指定されたフロアへ降り立つと、同じような扉が並んでいる。部屋番号を数えながら目的の部屋のインターホンを押すと、静かにドアが開いた。
 中は明るかった。大きな窓が二つあり、ブルーグレーのカーテンが空間に落ち着きと安らぎを与えている。小窓にかかったレースのカーテンが細かい影を落とし、繊細な彫刻のようだ。家具は白をベースにしており、レザーのカウチソファはアイボリー、テーブルは天板がガラス、脚の部分は白だった。小窓の下にある大きな水槽には白いエンゼルフィッシュが泳いでおり、天井では反射した水紋が揺らめいている。
 一人用のソファに座っていた人物が立ち上がった。デニムに白いシャツという格好だが、一つ一つが上質なのだろう、あまりカジュアルな感じがしない。
「はじめまして。霧生きりゅうです」
 白地に細い金の模様がエンボス加工された名刺には、嗅覚療法士、霧生レオ、と書かれ、電話番号とメールアドレスが記載されていた。アキラが名刺を渡すと、霧生はゆっくりと紙面を眺めた。長い睫毛が浅い色の瞳に影を落とす。
「調香師の方は、たまにいらっしゃいます。皆さん内密にされますが」
「僕らにとって、正しく嗅ぎ分けられないのは、死活問題ですからね」
 霧生は頷きながら、アキラをソファに導いた。
「最初にお約束なのですが、ここでの治療内容は誰にも言わないでほしいのです」
「家族にも、ですか?」
 少なくとも、紹介してくれたハズミには共有したかった。
「同居されているご家族には、話さないと支障がでることもあると思うので、最低限の内容は問題ありません」
「わかりました」
 じっとアキラを見つめながら、霧生は続けた。その瞳は光の加減で、琥珀のような色味にも見えた。
「治療期間中は、最低でも一日一回、できれば昼に、ここで食事をしていただきます。においは味と結びついている。私はあなたの嗅覚を、食べ物から計測するのです」
 アキラがうなずくと、霧生は二つの黒い機器と、握りこぶしのような形の白い装置を手渡した。
「黒い機械は両耳につけてください。白い方は口と鼻を覆う形で息を吸ってください」
「これは?」
 いずれも見慣れない機器だった。
「耳につける方は、脳を計測するものです。口と鼻に当てる方は、ドットセンサーを鼻腔にとりつけます。センサーの機能は主に二つあります。においのもとの分子を送り届けることと、嗅いだにおいの分子を分析することです」
 アキラは掌に転がる小さな機械を眺めた。
「耳につける方は、ずいぶん小さいんですね。脳を計測する機械はもっと大きいのかと思った」
「昔は身動きできないくらい電極をつける必要があったのですが、改良を重ねました」
「全部つけるのですか?」
「はい。全て揃うことで、鼻に届いたにおいが脳にどのような反応を及ぼすのか計測できるようになります」
 においの分子は鼻腔から入り、奥の嗅覚受容体にはまると信号を発し、それが脳に伝達して識別される。だから、鼻と脳をセットで計測しなければならないのは、理屈としては分かるのだが。
「なんだか、怖いような気がします」
「黒い方は外部装置ですし、白い方から出るセンサーは、人体と調和できる有機半導体分子で無害なものです。それに、鼻腔に取りついてから24時間程度で身体から排出されるので、何ら支障はありません」
 微笑を浮かべながら霧生は語る。静かなリズムがある、落ち着いたトーンの声だ。
「鼻から出ていくのですか?」
「はい。センサーは鼻から入り、時間とともに鼻水に溶けて排出されます。ですので鼻から息を吸ってください。最初は抵抗を感じるかもしれませんが、気にならなくなります」
 黒い機械はヘッドセットのような形をしていた。耳の後ろに当てる箇所が被膜のようになっていて、手で調整するとぴったりとフィットする。装着していたことも忘れてしまいそうだ。
 白い機械の方は、後ろに管がついていて、管の部分はうっすらと曇っていた。呼吸器系の装置に似ている。霧生の指定通り、口と鼻を覆ってから息をすると、蒸気がなだれ込んできた。それは一瞬で終わり、息苦しさは感じなかった。
 霧生はスマートフォンほどの大きさのデバイスを取り出し、画面を確認している。しばらく操作した後、アキラの呼吸器の装置を外し、扉を開けた。
 隣室はさらに広く、中央にはシステムキッチンが据えられていた。コンロには大鍋と小鍋が一つずつ乗っている。大小のボウル、ジューサー、数種のミル、野菜や果物などさまざまなものが並んでいるのに、少しもごちゃごちゃしていない。足元のオーブンはガラス窓と銀色のスイッチが輝き、ステンレスの台は磨き上げられて曇りひとつない。キッチンの脇のテーブルには、アイボリーの皿に船形に折られたナプキンが置かれ、カトラリーが鈍く光っている。
 霧生は平たい皿に翡翠色のスープを注ぎ、白いクリームを少しだけ垂らした。ボウルのサラダには、ピンクの塩とブラックペッパーをミルでぱらぱらとふりかける。バスケットに入ったパンには、淡い緑色のオリーブオイルが添えられている。
 席についたアキラの目の前の皿に、その日のメインが置かれた。ぱちぱちと脂のはぜる音をたてる薄切り肉に、レモンとトマトとオニオンの焼きマリネが添えられている。赤や黄、白に茶、ピンクに緑。カラフルな食材からなるできたての料理は、見るからにおいしそうだ。
 アキラはスープをひとさじ口にした。グリーンピースとおぼしき豆の小さな粒子と、乳製品のまろやかな舌触り。その中でほんのかすかに、新鮮な植物の青さを感じた。霧生はポケットに入れていたデバイスのモニターを見て微笑んだ。
「正常に作動しています」
 アキラも安堵して頷いた。
 霧生に会うと決めてから、治療に関し、ある程度調べてきた。
 新型ウイルスで嗅覚や味覚が戻らない事例は、各国で報告されているが、予防の研究に費用や時間が割かれ、後遺症に関する研究はあまり進んでいない。
 においが分からないと、かつては命に関わることが多かった。しかし病が最初に流行した先進国では、においが判別できなくても、死に直結することは少ない。また病が治れば、嗅覚異常は残るものの、火事につながる焦げ臭さは判別できることが多かった。それに、危険なにおいを感知して知らせるデバイスは、比較的早い段階で開発されていた。
 嗅覚という分野がもともと、視覚や聴覚に比べて発展していないことも、研究の遅れに拍車をかけていた。目を閉じれば視界は閉ざされるし、耳を塞げば音は聞こえないが、においは呼吸で入ってくるため、常に生活に付きまとうにも関わらず。
 嗅覚療法士は、医療業界とは異なる方法で嗅覚改善のアプローチを行い、患者のQOLを上げる。一般的なやり方は、患者ににおいを嗅がせ、反応するにおいを記録し、類似する分子構造のにおいを試していくというものだ。似たしくみのにおいであれば反応することが多い。そして徐々に分かるにおいの領域を広げていくのだという。
「全部、とてもおいしいんだと思いますが……味がよく分からなくて。すみません」
 食事を終えた後、アキラは告げた。
 正直な感想だった。
 目の前の食材は全て新鮮で、オイルはまろかやだったし、程よい歯ごたえで焼き加減もちょうどいいのだろうと思った。しかしにおいが分からないと、味わいも分からない。
「徐々に改善するでしょう。今回も、青野菜やアイスのココナツ、数種のチーズには反応が出てましたし」
 デバイスを見ながら、霧生は告げた。確かにそれらのにおいは、はっきりとは分からないながらも、なんとなく体感できた感触がある。
「次回は、今回反応が出たものと共通点がある食材を試します。全く同じものだと飽きてしまうので、メニューは毎回変えます」
 こんな食事を味わえるのならば文句はない。
 今住んでいる家は祖父のもので、学生時代は一人で暮らしていた。そのためアキラもある程度料理はできるが、切ったり煮たり焼いたりする程度だ。生きるために栄養を摂取するという発想なので、裏ごししてピューレにしたり、ソースからつくったりなど、手の込んだものはつくっていない。
 上京してきたハズミとは、2年くらい前から一緒に住んでいるが、彼は料理がまったくできなかった。服飾系の専門学校に通うハズミは、ウイルスの状況が落ち着いたら英国に留学したいと言っており、イギリスに拠点を持つ創作料理のレストランでアルバイトをしているが、料理に目覚める気配はない。インスタントのラーメンに、卵やバターやカレーを入れておいしくする、という創作の技には長けているが。
「治療は、直接においを嗅ぐだけかと思っていました」
 次回の予約をし、帰り支度をしながらアキラが言うと、霧生は靴べらを差し出しながら告げる。
「今日、最初に計測したのは、ドットセンサーのパルス刺激による反応です。でも結局、食事の時の反応の方がよかったですね」
「治療に料理を採り入れたのは、一番効果的だったからなんでしょうか?」
「はい。ご存知かと思いますが、来栖さんのような症状は解明されていません。ウイルスが嗅神経を通って脳の細胞に作用する、嗅神経のある種のタンパク質を破壊する、神経伝達物質に作用する、などといろいろ言われていますが、はっきり分かっていないのが実情です。私たちは探りながら、においを取り戻す方法を導き出そうとしています」
 治療は難しく、改善する保証はない。
 調べながら暗い気持ちになったことを思い出しながら、アキラはうなずいた。
「覚える時と、思い出す時の状況や経験が似ていることで、想起しやすくなることを文脈依存記憶と呼びますが、においは文脈依存記憶を補強します。記憶とにおいの作用を利用し、過去に似た経験をすることで、分かるにおいの範囲を徐々に増やしていくのです」
 においに関連づけた手がかりは、記憶を活性させるのだという話は、仕事柄、アキラも聞いたことがあった。それににおいは、脳の中で短期記憶を蓄積させ、記憶の重要性を振り分ける海馬を活性させる。視覚的な手がかりや、言語的な手がかりと比較しても、においは記憶に対して最も強く作用する。においから経験を思い出せるのであれば、経験からにおいを想起する効果もあるはずだ。
「最初は無反応だった食材でも、前に食べたものをきっかけにして、連鎖的ににおいがわかるようになるのですか」
「そうです。料理の場合、においが食事という経験に結びつくので、思い出すのがよりスムーズになるのだと思います」
 内部にカビを植えつけたフランスのチーズ、大豆を発酵させた日本の納豆、ニシンを発酵させたスウェーデンのシュールストレミング。ある人が息を止めるにおいは、ある人には食欲を湧き立たせる。
 においは文化の中で学習されるものなのか、それとも本能的なものなのか。その議論には今のところ明確な回答はないが、単ににおいを嗅ぐよりも、食べ物と紐づくにおいを味わう方が、より強い反応が出るだろう。
 また嗅覚系は、脳内で情動に関する処理を司る偏桃体とも直結している。「おいしい」という感動はにおいを通じて刻み込まれ、似たにおいと味を新しく知った時、より感動を増して甦る。
 霧生のマンションを出たアキラは、歩きながら、ひなたのほのかな温かいにおいを体感していることに気がついた。

 霧生のもとに通っているうちに、アキラはだんだん治療が楽しみになっていった。
 それは、霧生と話をしていると気が晴れるということや、曖昧ながら症状が改善している実感を持てるということもあったが、やはり食事が美味しいことが大きな理由だった。
 四季の新鮮な食材を使ったメニューは、毎回味付けも趣向も異なり、飽きることがなかった。例えば茄子であれば、アキラには焼き茄子ぐらいしか作れないが、ある日の霧生の茄子のメニューは、くりぬかれた茄子の中に蒸した茄子の実と帆立が入っており、カラスミが添えられていた。茄子は七夕の小船のような形に仕立てられており、見た目にも楽しい。つややかな紫の色味となだらかな曲線は、どこか女性的な雰囲気を漂わせる。
 他の野菜とは異なり、茄子は味の主張は少ないが、調理法によっていかようにも馴染む。口にすると、きゅっとこすられるような歯ごたえと、くせのない味の中に、ほんのりわずかな青臭さを感じる。久しぶりに識別できた茄子の繊細な味とにおいに、舌と鼻がしびれるような感覚を覚えるとともに、昔の記憶がアキラの眼前で唐突にひらめいた。
「嫌いでしたか? 我慢して食べる必要はありませんよ」
 思わずカトラリーを持つ手を止めていると、霧生が心配したように言う。
「そうではないです。ただ、思い出すことがあって……」
「え、茄子で?」
 霧生が珍しく、少し目を丸くした。思わずくすりと笑いながら、アキラは告げる。
「ええ」
 あれは確か中学校の夏休み前で、盆を祝う行事でのことだった。旧暦の盆である7月半ばに、先祖を送り迎えするための精霊馬をつくる。精霊馬は胡瓜と茄子に割りばしを刺したもので、迎えにいくための馬は胡瓜、送るための牛は茄子で制作する。
「お盆の精霊馬は、最初に胡瓜、後で茄子でつくるんですが」
「そこで、持参した胡瓜が割れてしまったのですね」
 机に乗せていた胡瓜は、ぽきりと折れて床に散らばり、教室に青く爽やかなにおいを振りまいた。
「そう。それでどうしたんだろうと……」
「どこかから、胡瓜を調達しようとしたのではないですか」 
 班の者の誰かが、学校で育てている胡瓜を盗ってくればいいと言ったのだ。アキラは反対した。盗んだ胡瓜を使っても、先祖は戻ってこないだろうと。
「僕の主張で、余っていた茄子を緑に塗ることになりました。ついでに宇宙船みたいな形にしたら、先生も笑ってました」
 茄子を緑に塗ったのはアキラだったが、確か、茄子を船に仕立てたのは友人だった。白いシャツに浅い瞳、長い睫毛。洗いたての白いシャツから、ほのかにシャボンのにおいがたちのぼっていた。
 アキラは目を閉じて視界を遮断し、もっと思い出そうとした。
「そうやって、記憶とにおいが結びつくのは改善の一歩ですね」
 霧生は、かたん、と音を立てて立ち上がった。
 光を放っているデバイスを、さっとポケットにしまいこむ。
「では次のメニューをお持ちします」
 霧生は、解体された小船の残骸が残る皿を、まっさらな皿と取り換えた。
 アキラはなぜか、小さなひっかかりを覚えながら、皿の位置を直した。取り残されたナイフが、鋭く銀色に光っている。
 
 帰宅したアキラは、家中に漂う臭気にたじろいだ。ハンカチを鼻に当ててキッチンへ向かうと、ハズミがゴミ袋に黒っぽいものを捨てている。
「どうしたの?」
 聞くと彼は、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「イワシ、焦がした」
 小さな声だった。
「魚は油が火に落ちると煙が出るから、フライパンで焼くといい」
 アキラは布の下で押し殺した声でアドバイスする。
「それで美味しくできる?」
「直火には負けるけど、クッキングシートとかアルミホイルをつかうと、まあまあいける」
 ハズミは黒い塊を乱暴にゴミ箱に放り込み、ごしごしと手を洗っている。さっきからうつむいたままだ。
「料理しようって、心境の変化?」
「そういうわけじゃないけど……」
 勢いよく水を流す音で、よく聞こえない。
「ハズミがキッチンにいるのは、コーヒーを淹れる時くらいかと思ってた」
「……最近、アキラが外で食べてくるから」
「それは治療の一環で」
 ハズミとアキラは、特に食事当番を設けていたわけでもない。どちらかがテイクアウトで買ってきたり、アキラがカレーをつくりおきしたり、ハズミがレストランから余り物をもらってきた時は、一緒に食べるくらいだった。
「ごはん、全然一緒に食べないし。帰ってくると、なんか楽しそうだし」
 投げつけるような口調で言うと、水を止めた。
「家の食事もおいしかったら、もっとそうなるかなと思っただけ」 
 怒ったように言い捨てると、ハズミはうつむいたまま立ち去ろうとする。ぶつかりそうになってアキラが身体をよじると、鮮烈なにおいが突然鼻に飛び込んできた。
 少し甘い桃と、あたたかい汗のような。現実的なにおい。
 残されたアキラは、しばし佇んでいた。
 生命の塊を投げつけられたような衝撃だった。
 肌がひりついて、熱を発する。
 静まり返ったキッチンで、ぽた、と滴りおちる水音が、妙に響きわたった。水滴が夕刻の光を反射している。その鮮やかさに目を細めながら、アキラは蛇口をきっちりと締めた。
 最後に落ちた一滴の輪郭は、小さな船を連想させた。
 アキラはいまさら、違和感の正体に気がついた。
 精霊馬の件で、霧生はなぜ、胡瓜がなかったことを知っていたのだろう。あの出来事を話したのは、始めてだったはずだ。それに胡瓜がなかったのは、落としたのではなかった。持ってくるはずだった生徒が忘れたのだ。
 ほどなくしてハズミが、買い物袋を提げて入ってきた。中にはまたイワシが入っている。ハズミにつきあって調理しているうちに、疑問はほぐれて消えていった。

3.
 嗅覚がほとんど戻り、治療が最終段階に入ったある日のこと。アキラは黒いデバイスがうまく着けられなかった。髪が伸びたせいか、耳の後ろの感触がいつもと違ったのだ。
 癖のない黒髪をなるべく後ろに流しながら、デバイスのシート部分をきゅっと押さえつけながら、アキラはふと聞いてみた。
「このデバイスに、名前はあるのですか?」
「使う手前、呼び名はついています」
 白いデバイスを改めて見てみる。製品名等の記載はいっさいない。
「耳につける方は、olfaction outer senser の略でオルフォ、口と鼻につける方は、olfaction inner senser の略でオルフィといいます」
「聞いたことない名前ですね」
「出回っているものではないですからね。これは完成版ですが、私は戻ってさらに改良を重ねる必要があります。今回はいい勉強になった」
 オルフィと呼ばれた機械を装着し、鼻で息をするよう努めながら、実感する。この瞬間に鼻腔に取りついているものと、耳の後ろの装置のおかげで、嗅覚が戻りつつあるのだと。
 霧生が近づいてきて、オルフォと呼ばれた装置の位置を正した。冷たい指の感触とわずかなシャボンのにおいが、アキラの皮膚と鼻腔に染みわたり、ひそかに胸が高鳴った。
 目を閉じると、このマンションに来るまでの道のりが思い出された。塀に囲まれた敷地の奥からは、蝉の鳴く音が聞こえてきた。だれかが打ち水でもしたのか、アスファルトの淀んだ空気と、土の濡れる籠ったにおい、草が濡れた時の青臭さが押し寄せてきた。 
 夏の日のにおいを嗅いで、罹患の直前まで手掛けていた仕事で、あるクライアントに頼まれた「遠い夏の日にひっそりと咲いていた、静かな花の香り」という指示書を思い出した。
 依頼元はラグジュアリーブランドとして広く認められつつある、最新鋭のデザイナー集団を擁する日本のブランドだった。ラグジュアリーの香水の依頼は、曖昧かつ難解だという話は聞いていたが、噂通りの混沌とした指示だった。そのブランドから始めてリリースする香水ということで、緊張と興奮を伴う依頼だった。
 高名なブランドの香水は、決まった調香師がつくることが多く、担当するのはほんの一握りのスターのような調香師だ。その意味でアキラたちが任されたプロジェクトは大きなチャンスであり、失敗が許されないものだった。
 「遠い夏」と名づけられたそのプロジェクトのにおいをつくるために、アキラはさまざまなことを試した。森や草原、都会の公園など、あらゆる場所に出かけ、夏の空気を味わった。何種類もの草の茎をぽきりと折って、白や透明の液が伝う切り口を鼻にあてた。化学者に依頼して、提案されたあらゆる組み合わせを試した。ひそやかに咲く花のりんとしたイメージを出すために、メタリックなにおいも配した。そして最終的に、二種類の香料の並置にした。
 クライアントの依頼を再現できたと実感した時の喜びと、鼻腔に残ったにおいを思い出そうとしたその時、白いデバイスから送り出される空気の感触がなくなった。アキラの想起も終わり、キッチンへ赴いた。
「だいぶ、良くなりましたね」
 デバイスの小さな画面を覗き込みながら霧生が微笑んだ。
「生活する分には、支障はないのですが」
 食事中のアキラは、ジュレを味わいながら呟いた。鼻の感覚は日常生活に支障がない程度には戻りつつあった。しかしアキラが必要としているのは、調香師としての繊細きわまりない嗅覚だ。
「復帰するには、まだ十分ではないと?」
「ええ。先日、嗅覚を失う直前につくっていた香りを嗅いでみたんですが」
「分からなかったのですか?」
「残念ながら」
 まだ、かつてのレベルに戻れていない。
「ここまで来て、本当に感謝しています。でも僕は、まだ嗅ぎだせないにおいがあるんです。あと一歩、ほとんど最後の一つなのですが」
 アキラがつくろうとした夏の香りは、土のにおいと花のにおいの成分は決めてあった。雨季のインドで摘まれたパチュリと、バラとプルーンが入り混じる濃密な合成香料ダマスコン。しかし分量は微量だが、もう一つ、重要な香料を入れていた。
 昨日、リハビリも兼ねて短時間だけ出社した。その香水を嗅いで、自分がつくった仕上げのにおいがどうしても思い出せなかった。作った当時のメモを見ても、主要な二種類のにおいと、その周辺のにおいは書いてあるが、最終段階で加えたにおいが記載されていない。試しに記載のにおい成分だけを調合したが、やはりどこか物足りないのだった。
 肝心なところをメモし忘れた当時の自分を責めたい気持ちだった。一方で、決め手の香料の名前がメモで分かったところで、実際に嗅ぎ分けられなければ、今後の仕事に支障が出ることも分かっていた。
「わからないのは、どんなにおいなのですか」
 表情を読みづらい薄い色の瞳が、アキラの顔をのぞきこむ。
「企業秘密なので詳しい内容は言えないのですが、あるブランドから香水の調合を依頼されていたのです」
 霧生はお茶を渡してきた。白いカップから、ジャスミンの香りの湯気がたちのぼる。
「罹患する前に手掛けていて、完成したと思っていたのですが、当時のメモを見ると全部の成分を書いておらず、足りない成分が分からないのです」
 ため息まじりに呟く。ふがいなさでいっぱいだった。
「休職する前に内部承認されているので、会社は僕が復帰するのを待っています」
 最後の一つ、鍵となる成分を嗅ぎ出せれば、調合は他のスタッフに任せられる。
 もどかしい思いでいっぱいのアキラに、霧生はデザートの皿を差し出した。
「その香りを調合した場所は、会社ですか?」
 水色の涼しげな皿に、橙色の小さな丸いシャーベットがのっている。ひとさじすくって食べると、酸味と甘みが広がった。
「そうです。これは……」
「いい香りでしょう」
「夏みかんですね」
 柑橘系の爽やかな味が、口の中でゆっくりとほどける。
「そうです。みかんの祖先は橘といいますが、かつて『非時香果ときじくのかぐのこのみ』と呼ばれていたそうです。時を選ばずに香る実、という意味だそうですが、いい香りですよね」
 霧生はアキラの皿を片付けた。まぶしいほど白いシャツから、清潔なにおいが漂う。
「知りたいにおいを再び嗅ぎだすには、香水をつくりだした環境へ戻る必要があります」
「環境……会社の研究室になります。香水が完成した時は、一人で残業していた」
「その状態を再現できますか? つまり、研究室へ行くということですが」
 セキュリティカードが休職中でも使えることは前日に確認していたし、その日は休日で人手も手薄だった。アキラは、霧生をクライアントということにし、念のため榊原ら同僚がいない時間帯に入った。
 フロアを上がるにつれ、さまざまなにおいが強くなっていく。
 オフィスには人はいなかった。たくさんのファイルやパソコンが並ぶ空間をすり抜けると、霧生に白衣を渡し、自分も身につける。
 棚にずらりと並ぶ透明なボトルを眺めているだけで、においの成分を感じてむずむずした。
 瓶の蓋をそっと開けていく。途端ににおいが押し寄せてきた。
 親しみのあるアーモンドやリンゴ、石鹸とバニラ、わずかな麝香と蜂蜜と硫黄、かつて饒舌にアキラに語り掛けてくれた、かずかずのにおい分子が鼻の奥にしみこんでいく。
 ほっと息をついて、アキラは「遠い夏」の遮光性の容器が入っている冷蔵庫を開けた。たくさんの瓶と器具の奥にあるそれを手にし、蓋を開けて確認する。やはりまだ、最後の決め手のにおいが嗅ぎ分けられない。一滴ピペットにとり、液をしみこませたムエットを霧生に渡した。
 淡い瞳から、焦点がゆっくりと失われていく。
「これは……陶然とする」
 やがて瞳に光がもどると、霧生はつぶやくように言った。ムエットを鼻から離すと、彼は点在する瓶のラベルをじっくりと見て、丹念に嗅ぎながらにおいを選択していった。瓶が集まると、慣れた様子でピペットを手に取り、とろりとした液体をビーカーに入れ、丹念に混ぜ合わせていく。
 二人しかいない空間はしんと静まり返っていた。長い指先が支える透明な棒がきらめく。優雅で迷いのない動作は、白い衣服と相まって、儀式を執り行っているように見えた。
 差し出されたビーカーを手に取ったアキラは、その液体のにおいを嗅いだ。間違いなく自分が調合したにおい、遠い夏の日にひっそりと咲いていた、静かな花の香りだった。
 ふと、鼻の奥にうずきを感じた。
 熱さと冷たさ、灼熱の炎と凍える氷の感触。
 視界がゆらめいた。周囲を見るが、地震ではなさそうだ。透明な瓶の輪郭がなまめかしく揺れ、まっすぐなガラスのピペットがぐしゃりと曲がった。色とりどりのムエットは散らばり、華やかに舞いはばたき、熱帯の蝶のようにはしゃぎまわる。蝶たちのまわりで空気がゆらめいている。鱗粉か香気がまとわりついているのか。
 よろめいてカウンターをつかんだ。小さな蓋が転がっていく。かたり、という音から、眼鏡が落ちたのだと分かった。掌を広げ、顔を覆った。視界が原因でないことは、本能的に分かっていた。慣れ親しんだもの、せめて自分の手のにおいを嗅いで、自分を取り戻したかった。
「目にしたもの、耳で聞いたもので、空間の距離やかたちは変容する。同じことだ。鼻で嗅いだもので、距離やかたちは姿を変える。そして嗅覚が影響を与えるのは、空間だけではない」
 歌うようになめらかな、霧生の声。
「……なにを言っている」
 覆っていた指をそっとつかまれ、優しくこじあげられた。
 アキラの視界と、嗅覚は、拓かれた。
「君は、どこまで確かで、正しいんだろう」
 目の前にあったのは、覚えのある顔だった。
 薄い瞳に長い睫毛。ふわりとした髪。
「においは時間に、君の過去に、作用する」
 霧生と始めて会った時から、ずっと脳裏に熱が漂っていた気がする。
 少年とも少女ともつかぬその人は、ほのかにシャボンのにおいのする白いシャツを着て、アキラのそばで笑っていた。
 背景は白い研究室。いや、実験室だったか。ここでいろいろな実験をして、さまざまなにおいを嗅いだ。においは自然界にあるもので、分子の組み合わせだ。最初は味気ないと思っていたにおいも、その生徒の手にかかると豊穣そのもののような組み合わせになった。
 たくさん失敗もした。硫黄のにおいでいっぱいになることもあったし、実験室が化粧品売り場のようになることもあった。ひどいにおいが充満しても、部員の少ない中での部活動だったから、顧問も好きにやらせてくれた。
 夏休みに入る前、二人は同じ班に入れられ、盆の精霊馬を制作した。茄子にぺイントしながら、たわいのないことを喋った。アキラが胡瓜の青いにおいは夏にふさわしいと言えば、その人、彼は、茄子は夏に実がなるから夏実なつみと呼ばれていたのだと語った。そして緑に塗られた茄子に割りばしと厚紙をぷすぷすと突き刺して、器用に宇宙船をつくってみせた。胡瓜の青臭くて爽やかなにおいが、他の班から漂ってきた。アキラは後に、このキューカンバーというにおいを、フレングランスとして多用することになる。
 運動場から吹く風が、きんと尖った砂塵のにおいを投げかける。そこに入り混じる、わずかな汗のにおい。
 目の前の霧生レオは、記憶の中の少年と一致し、やさしい微笑みを投げかける。
 むせかえるような懐かしさの中に、ほんのわずかな迷いと不安が入り込むのはなぜか。目の前の人をよく知っているようで、何も知らないような気がするのはなぜか。
 あの日、もっとも親しいと思っていたレオは、突然目の前から姿を消した。レオの父が機密性の高い仕事をしていて、いつも行き先を告げずに転勤するのだとも噂で聞いた。
 一方でアキラは気づいていた。
 二人きりでいる時、レオが何かを言いたげにしていたことがあった。怖くて聞けなかった。
 あの時、なぜ、踏み出さなかったのだろう? 
 なぜ、言わないこと、伝えないことが正しいと、思ってしまったのだろう?

「あなたは、誰だ」

 その問いを口にした時、レオは微笑を浮かべた。
 瞳は昔のままで、微笑みは今までの年月を感じさせる、落ち着いたものだった。
 調合されたにおいが、鼻の奥でうずく。かつて嗅いだことがある気がする。
 目の前の景色を、人を、事象を、とうの昔に知っていたような気がする。
 においがますます強くなり、アキラは立っていられなくなった。カウンターによりかかりながら、自分の体を強く抱きしめた。目の前の霧生は昔のレオになり、また再び霧生になった。夢うつつの中で、霧生が顔に触れてきたような気がした。アキラは自分で目を閉じたのか、霧生が目に触れてきたのかも分からなかった。

 どれくらい時間が経っただろうか。
 身を起こすと、誰もいなかった。
 眼鏡を探し出して、周囲を見渡した。
 色とりどりのムエットが散らばり、瓶の蓋が転がっている。蛍光灯の無機質な光に照らし出されたそれらは、かつて命があったものの死骸のように見えた。カウンターの上を見やると、貴重な香料のいくつかが、蓋のないまま放置されている。アキラは慌てて床を片付け、蓋をした。
 なんとなく肌がうずく。瞼、鼻梁、耳、唇。そういった敏感な部位に、誰かの指の感触が残っているようだ。周りを見渡すと、ガラスのトレーの上に、ピペットとビーカーが並んでいた。霧生が調合したそのままに置かれている。アキラは容器をそっと鼻の下に持っていった。
 理解した。
 それはアキラが今までに経験したもののすべてで、それ以上だった。
 一人頷いてアキラは、頭にうかんだ複雑きわまりない成分をすべてメモした。そしてビーカーの液体を、そっと小瓶に流し込んだ。
 光に透かしてみると、見たことのある色味だった。
 霧生レオの、瞳の色だ。

4.
 数日後、本格的に復帰したアキラは、プロジェクト「遠い夏」のチームメンバーに、香水の改良バージョンを提示した。最初に相談したのは榊原だった。既に承認されているものをなぜ、といぶかった彼女だったが、とにかく試してほしい、というアキラの言葉に圧倒された。
 日が経過し、アキラが不安な気持ちになった頃、榊原がやってきた。
「何度か試したんです。最初に嗅いだ時は、変更前のにおいと同じだと思ったのですが、だんだん違うような気がしてきて」
「それは、良くなかったということでしょうか?」
 榊原は首を大きく横に振った。
「いいえ、素晴らしかった。これまでにないものです」
 アキラが安堵していると、彼女は顔を覗き込んできた。
「これだけの変化、何かあったんでしょうか?」
「詳しいことが言えないのですが、今までにない経験をしました」
「そう……とにかく、プロジェクトのメンバーに聞いてみます」
 香水はもうクライアントに確認して了承をもらう段階だったので、メンバーは当惑していたが、榊原の勧めでにおいを試し、納得した。変更前のバージョンと、基本は同じだったが、感覚を震わせる力が全然違う。こんな凄いものができるなんて、と手放しで褒めた。
 「遠い夏」というプロジェクト名は、その日から《パルス波動》に変わった。数日後にクライアントへ渡す時、榊原がうっかりその呼称を使ったことから、クライアントの下でも《パルス》と呼ばれることになり、そのまま商品名になった。
 ガラス張りのビルを思わせる、装飾の少ないボトルに詰められた《パルス》は、ブランドが派手な宣伝を打たず、希少価値を高める戦略をとったため、最初はそこまで話題にならなかったが、時間と共に売上を伸ばしていった。
 《パルス》の販売実績の分析を行っていたアキラは、新型ウイルスの感染者の波が高まった少し後、必ず売上が伸びていることに気づいた。集計した顧客の感想や口コミを見ると、病の後遺症で嗅覚が鈍っても《パルス》のにおいはわかって嬉しかった、《パルス》のおかげでにおいがわかるようになってきた気がする、という声をたびたび目にした。
 榊原に報告すると、彼女は頷いて言った。
「《パルス》をつけると、なんというか、気持ちが懐かしさでいっぱいになりました。そして、つけている間は恍惚に浸れるのですが、においが消える度に、思い出が一つなくなるような切なさが訪れました」
 そして、じっと思い出しながら、付け加えた。
「新しい《パルス》を始めてつけた時の衝撃を思い出そうとして、再び試すのですが、もっと違うにおいだったような気がするのです。何度も試したのですが、毎回感想が異なってしまって、うまくイメージがまとまりませんでした。そのために返答が遅くなってしまったんです」
 身に覚えがあった。アキラも、レオの調合した香りを嗅いだ時に感じたことを思い出そうとして《パルス》をつける、ということを繰り返していた。つけた瞬間の感覚は、毎回異なるような気がした。ある時は、母親の化粧の香料と入り混じる赤ちゃんのにおいだった。クローゼットから久しぶりに出したシルクのにおいだと思う時もあった。異国のホテルにあった小さなせっけんのにおいに近い時もあった。しかし、思い出そうとするほどに、鼻腔に残っていた感覚は遠ざかっていくようだった。
 《パルス》の成分はすみずみまで把握している。全て、確実に害がないことが実証されている内容だ。万が一、成分開示を求められても、安全性に関して言及されることはない。
 この曖昧さ、夢のような感覚はなんなのか。取り合わせのなせる業なのか?
 霧生と一緒に研究室へ来た時のことを考えた。あの時始めて《パルス》を嗅いだ。しかし、嗅いだ瞬間を思い出そうとしても、部分的な印象しか浮かばない。視覚的なイメージが断片的である一方で、においは分子として化学的に識別されるにも関わらず。
 むしろあの瞬間、むせかえるほどに嗅いだから、鼻がショックを受けて惑わされたのか? バラが咲きほこる農園へ行くと、いつしか、バラのにおいが分からなくなるように。
 ふと、アキラは思い及んだ。なぜ自分は、信頼しているとはいえ、会社とは関係のない人間を研究室に入れたのだろう? 
 においの源である分子は、原子を結合させてつくられる。数知れない取り合わせを試した中で、ほんの一握りだけが残される。その組み合わせや制作過程は企業秘密で、書いた本人にしか分からない文字で記され、たくさんのメモや膨大なファイルや、外部接続できない環境に置かれたデータベースに詰まっている。
 そんな機密の詰まった場所に、外部の人間を入れてしまった。普段の自分からすれば、ありえない行動だ。それに来客時は、IDカードをもらわなければならない仕組みのはずだ。自分は、受付になんて言ったのだろう。あの時間帯、受付には人がいたのだろうか。
 あの出来事の当日、アキラは夢冷めやらぬまま帰宅した。一刻も早くにおいを調合したかったので、翌日から会社に復帰した。夜遅くまで没頭する日々を送った。その間、霧生のことが頭をかすめることもあったが、気が付けば数日経っていた。
 やがて気持ちに整理がつき、コンタクトを取ろうとしたのだが、いつも霧生のマンションで次回の予約をしていたので、直接連絡したことがないことに気がついた。名刺交換したことを思い出して探し出したが、記載された電話番号はつながらず、メールを出しても宛先不明のエラーが返ってくるばかりだった。直接霧生のマンションへ行ってインターホンを鳴らしても、誰も出ないのだった。

 そもそも、霧生レオは、実在したのだろうか。

「ミステリアスな印象が、受け入れられているのかもしれませんね」
 榊原は、帰り支度をして告げた。
「国内での販売が順調だから、海外でも扱うそうです。世界中に《パルス》が伝播しますね」
 別れの挨拶をして、彼女は去っていった。

ED.
 焼きたてのベーコンと目玉焼きをパンに乗せて、一気にかぶりつく。
 縁はかりかり、中はジューシーに焼いた肉の香ばしさと、地鶏の卵のこくが、口の中でまったりと混じりあう。
 ハズミはひとしきり口を動かした後、コーヒーを含んで味わった。
 ふと人の気配を感じた。見ればキッチンの入口で、アキラが佇んでいる。
「おはよう。食べる?」
 こくりとうなずいたアキラのために、ハズミは銀色のトースターにパンをセットした。
 パンがびよんと飛び出したところをとらえ、白い皿に乗せてアキラに渡す。
 コーヒーをブラックで飲みながら、アキラはつぶやく。
「おいしい」
 アキラは湯気で曇った眼鏡のレンズをこすりながら、鼻をわずかにすぼめる。
 そのしぐさをハズミがじっと見ていると、言い訳をするように言った。
「治療の痕が、まだ残ってun-deadいるような気がするんだ」
 ハズミは昨日のバイト先での会話を思い出した。

「誰だ、そいつ」
 煙草を吸っていたシェフに霧生の話をすると、彼は眉をひそめた。
「あんたが紹介してくれたんじゃないか。そいつが従兄をその……救ってくれたから」
「礼を言われてもなあ。俺には、嗅覚療法士の知り合いなんかいない」
 ハズミは聞き間違いかと思い、一瞬黙ってから口を開いた。
「嗅覚がなくなった料理人がいたって、言ってなかった?」
「そういう知り合いはいるけど、療法士にかかってないし、治ってもいないよ。でも経験値でなんとかやっていけてる」
「……」
「それにお前、料理は嫌いだとか言ってたから、喋る機会なんかなかったじゃないか。俺と話すようになったのは、つい最近、料理を教えてくれとか言い出してからだろ」
 そう言われれば、そんな気がする。
 ハズミが考え込んでいると、シェフは煙草をもみ消して、厨房へ戻っていった。
 秋の冷気がわずかに混じりはじめた空気の中、白い煙が一本立ちのぼっていた。

「彼にはどれだけ感謝しても、しきれない」
 ため息と共にアキラは呟くと、きつね色のトーストにかぶりついた。
 こがね色のバターが溶け出して、ねっとりと手に絡みついている。
「コーヒーを淹れるのは昔から上手だったけれど、他の料理もうまくなったね」
 ハズミは少し横を向き、ぶっきらぼうに言った。
「トーストなんか、料理じゃないし」
「そんなことないよ」
 アキラは微笑んで言った。
「パンの焼き加減は、意外と難しいよ。好みを覚えていてくれて、ありがとう」
「……その療法士に、会いたいんじゃない?」
 アキラは首を横に振った。そして晴れやかに笑って、告げた。
「今、感覚が鮮やかだ。僕は、それだけでいい」

 ああ、とハズミは、朝と幸福のにおいを嗅ぎながら実感した。
 その笑顔ですべてが遠ざかる。曖昧な記憶も、不穏な事実も。

文字数:20038

課題提出者一覧