アンドロイド・サーカス

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梗 概

アンドロイド・サーカス

双子のアンドロイド曲芸師ルイとエメは、高所で綱渡りをしている最中に唐突にバランスをくずし落下してしまう。エメは綱にどうにかしがみついて事なきを得たものの、ルイの身体は修復不可能なまでに粉々になる。

人間とアンドロイドの共生するその星にもサーカス団はあるものの、アンドロイドの曲芸師はほとんど存在しない。アンドロイドの言葉や感情、見た目や身体能力は人間に劣らぬよう調整されているが、むしろ身体操作が巧すぎるために畏れや緊張感を演出するのが難しく、観客の心を掴みづらいとされていた。それでも曲芸に魅了されたルイとエメは幼いころから独学で技を磨き、サーカス団には属さず二人で各地をめぐり、野外のきわめて高い場所に渡した綱のうえで曲芸を披露することで日銭を稼いでいた。まるで人間のような表情や仕草で高度な曲芸をやってのけるため観客の反応も良く、とりわけエメの肩の上にルイがすらりと立った状態で綱渡りをする技の評判はよかった。

ルイの喪失に現実味をおぼえられず、エメはうまく悲しめないままこれまで通りの生活を続けようとするが、なぜか表情にとぼしい機械的な演技しかできなくなってしまい、客足は衰える。人間の医師にかかり、「人間的な」言葉と感情を取り戻すようカウンセリングを受けるが、効果はあがらない。

悩みながらも旅を続けていると、とある町で路上パフォーマンスをする道化師ピエロと出会う。その道化師もアンドロイドで、とあるサーカス団から解雇されたばかりなのだという(道化師は曲芸師と違い、アンドロイドでもその役を果たせるとされている)。二人はともに旅をし、路上で芸を披露するようになる。エメの腰にしがみついて綱をわたる道化師が、滑稽に高所を怖がる様を見て観客は湧く。

道化師はおどけるばかりで、日常生活においてもほとんど言葉を話さず、名前も明かさない。二人はもっぱら手紙やメモで意思疎通する。道化師の書く言葉はその振る舞いに反して内省的で、エメはその乖離に戸惑いながらも道化師に対して親しみをおぼえてゆく。

ところが道化師は、出会ったときとおなじように唐突に主人公のもとを離れていってしまう。エメはふたたび呆然とするがふと思い立ち、かつて道化師がしていたように自らの頬に涙の化粧をほどこす。すると現実味のなかった世界が突然精彩を取り戻し、以前よりもずっといきいきと——むしろわざとらしいほどの鮮明さで立ち現れる。遅れてきた強い悲しみのためにエメは大きな泣き声をあげる。

エメはその街でもっとも高い塔のあいだをロープでむすび、綱渡りをはじめる。眼下には美しい星の大地がはるばるとひろがり、畏敬の念に打たれる。地上に多くの観客が集まりはじめる。かつてなくあからさまに感官は冴え渡り、恐怖と興奮が嘘のように劇的に迫り来る。次第に風が強くなり、身の危険を感じはしたものの、エメは虚空を歩むのをやめない。

文字数:1188

内容に関するアピール

世界各地の高層建築で綱渡りをする大道芸人フィリップ・プティを題材にした映画を見て、綱渡りのアクション性に気付きました。

動作そのものはまったく同じ綱渡りだったとしても、地上に引かれた線を歩むように淡々と(機械的に・無感動に)ゆくこともできるし、落下への恐怖と興奮とを張り詰めさせて(劇的に)渡ることもできるはずです。実作ではその対比を引き立たせ、最後の綱渡りのシーンをダイナミックに演出できればと思っています。

アンドロイドの曲芸師が「人間そっくりに戻る」のではなく、さらにその先の超・ドラマティックな世界へ恍惚と向かいゆくようなさまを描き出したいです。

文字数:275

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アンドロイド・サーカス

 
 01.
 
 エメはきわめて優美に落ちていった。そのときの光景を細部まで鮮烈に覚えている。
 口もとになかばふざけたようなほほえみを湛え、こがね色のひかりをいっぱいにふくんだ衣装を強い風圧にはためかせ、エメは瞬く間に遠ざかっていった。私はぶざまな格好でロープにだらりとしがみついたまま、そのすがたを茫然と見つめるばかりだった。
 エメの落下は異様な熱をおびていた。まるで落下にそなえた練習を、昔から丹念にくりかえしてきたかのようだった。あるいは落ちるとき最もうつくしく見える身のこなしを、ずっと前から熟知していたかのようだった。
 そんなことはありえないのに。落下しないための訓練に、私たちは生のほとんどを費やしてきたのではなかったか。
 おんぼろのラジカセがひびわれた楽音をあふれさせ、私とエメとを華やかに包み込んでいた。遥か下方では私たちを見上げるひとびとが、熱く愉しげにどよめいていた。それはおそらく悲鳴ではなく、悪意なき歓声だったのだろう。エメがあまりに落ち着きはらって落下するので、かれらはこれを演出の一部だと思ったに違いない。間髪をいれず私が手を伸べてエメを救い出すとか、あるいはなにか特別なからくりがエメを引き上げるものと信じていたのだろう。だがそのような準備などないことを、私はもちろんよく知っていた。私たちは命綱を使わない。ひとたびバランスを崩してしまえば最後、かなたの地面にみじめに激突するまで落ちつづけることしかできない。
 私たちはアンドロイドだが、それでも——この高さから落ちれば最後、もはやかたちをたもっておくことなどできない。
 
 いまは無き地球の空は青いのだというけれど、この代理惑星の空はもっぱら金色にかがやいている。
 私とエメは曲芸師だった。だれに認められているわけでもないがそう名乗り、小さなトラックを運転して代理惑星の各地をめぐっていた。けっして言葉を話さぬ白オウムを一匹ばかり連れ、たったそれだけの座組で、街中で曲芸を披露しながら生計を立てていた。
 代理惑星の大地は、どこまでも黄ばんだ岩と砂礫におおわれている。でこぼことした道にトラックを延々と走らせ、目的の街に到着した私とエメは、ひとまずのところ最初の数日は街の路上でささやかなパフォーマンスを披露することにしていた。黒いタキシードに身を包み、ボールやクラブをつぎつぎと宙におどらせていると、運が良ければ私たちの周囲にぽつぽつと観客が集まってくる。白オウムが観客のもとをめぐってシルクハットにコインをあつめ、そうして私たちはささやかな日銭を稼いだ。
 けれども地上のショーだけでは満足できなかった。私たちはいつも虚空を歩みたくてしかたがなかった。
 旅先で私たちが目をつけることになるのは、たいていの場合は祈りのための建築だった。街によって宗派はさまざまではあれど、とにかく高い二つの尖塔をもつ建物といえば、教会や寺院がほとんどだった。かつて地球にそびえていたような超高層ビルは、この代理惑星のどこを探しても存在しない。すっかり貧しくなってしまったこの世界に、めくるめく摩天楼など必要ない。
 いつかほんとうに、信じられないほどの高みを渡ってみたいと願ってはいるけれど。
 私たちは錆びついた経緯儀のレンズを覗き込み、かんたんな三角関数の計算をして、ふたつの塔のあいだのおよその距離をもとめる。二つの塔のあいだに渡すのに適したロープをトラックの荷台から選び出し、真夜中に塔を登って準備をはじめる。
 代理惑星の夜空には月によく似たふたつの衛星が浮かび、檸檬色の光を大地にこぼしている。
 薄闇のなか、エメがろうそくの焔をかかげれば、それが向こう側でも準備のできたという合図だった。わたしは白オウムに軽くて丈夫なテグスを括りつけ、エメのいるほうへと放つ。エメが白オウムを迎え入れ、そのテグスを手繰り寄せれば、先端に結えられたロープをこちらの塔からあちらへと渡すことができる。
 夜が明け、ひとびとが家を出て職場や学校へと向かうころ、私たちはショーをはじめる。太陽によく似た私たちの恒星が、岩石のうえに黄金のひかりを投げかけている。タイマーを仕掛けていたラジカセがかろやかなファンファーレを鳴らすと、大通りをゆくひとびとが何事かとこちらを見上げてみせる。私とエメは手に長い棒をたずさえて、あちらとこちらからゆっくりと、同時に足を踏み出す。
 
 あのとき、エメと私はちょうどふたつの塔の中間地点に達していた。私たちは向かい合い、そこで私のほうがロープのうえにひざまずく。エメはその脚を大きくのばして、ロープの上にまるまった私の背を跨ぎ越えてゆく——それは確かに危うく、興奮をさそうシーンだった。それでも、私たちの用意はいつもの通り万全のはずだったのに。
 エメはなんの前触れもなくバランスを崩した。落下するエメのからだは私を巻き込みかけた。私は夢中でロープにしがみつき、棒を取り落とした。それから落ちゆくエメの腕を掴もうとした。けれども遅すぎた。よくひかるビーズのびっしりと縫い付けられた衣装がほんのすこしだけ指先にふれ、すり抜けてゆき、その感触が最後だった。
 エメが落ちた理由は判然としない。事態はやや込み入っているけれども——アンドロイドなのだから失敗するはずなどない、という話ではない。私たちの組成はたしかに人間のそれとは異なっているが、総体として身体と思考のからみあうひとつの複雑系であることに変わりない。野放図な身体改造がゆるされているわけでもなく、人間のそれを模倣した能力しか持たない。にもかかわらず、アンドロイドの曲芸などまったく興奮に欠けるという不幸なイメージが私たちにはつきまといつづけていた。肌の質感を見れば私たちがアンドロイドであることはすぐに分かるから、その分だけなにかが差し引かれた状態で挑まねばならない。
 それでも、あるいはだからこそ私たちは、失敗しないための鍛錬を妥協なく重ねてきたのではなかったか。
 落下のあと、塔のあいだに警察と新聞記者がやってきて、私はかれらに向かって形式的なことをいくらか話した。すべては不幸な事故として扱われ、私が責任を問われることはなかったが、それが喜ばしいことなのかよくわからない。もとよりアンドロイドの死は、人間の死ように深刻に取り沙汰されないことが多かった。
 
 自分にも涙腺とおなじ機能がそなわっているはずなのに、その使い方をうまく思い出すことができない。 
 私はとにかく、曲芸の技術が損なわれていないか心配だった。エメの葬儀が終わるまであわたただしく、日課の訓練すらままならぬほどだったから、その間にからだの感覚がにぶっていくのを恐れていた。いざ再び塔の先端に立って下界を見渡したとき、もしも恐怖のために足がすくんでしまうことになったとしたら、これからどうやって生きてゆけばよいのだろう。
 いてもたってもいられずに、私はエメの葬儀を催したばかりの教会に侵入した。夜の間にその尖塔にロープを渡し、そのうえをうまく歩めるかいますぐにでも試したかった。
 二人いたときには分担していた準備の作業を一人でやらなくてはならないので、それだけでなかなか骨が折れた。夜のあいだにすべてを済ませるつもりが思いのほか時間がかかり、ロープを渡り始めるころには黄色の光がうっすらと空にさしはじめていた。
 私は塔のふちに立ち、街を見下ろした。これまでに訪れてきた多くの街に似て、その景色は黄ばんで、乾燥しており、埃っぽかった。それなりの高度はあったが、まったく恐怖を感じなかった。
 棒を両手にたずさえ、私はロープのうえを進みはじめた。それは拍子抜けするほど簡単だった。それまではつねに激しくおぼえていた興奮も緊張すらもうすれて、ちょっとした板塀のうえをあゆんでいるかのごとく、かるがるとゆくことができるのだった。
 ロープの向こう側で、眠たそうな白オウムが首をかしげている。その顔を見て私も首をかしげた。
 バランス感覚も、綱渡りに必要な技術も、いっさい損なわれていないことは確かではあるけれども。
 ふと足元を見やれば、エメの葬儀を執り行った司祭がこちらを見上げていた。その顔に非難がましい表情が浮かんでいるのがはっきりとわかった。きょうだいを亡くしたばかりなのに教会の真上を懲りもせずあゆむなど、慎みが足りぬと言いたいのだろう。ひとの心のない奴め、と思われているかもしれない。難じられて当然なのかもしれない。
 
 
 02.
 
 代理惑星での居住をはじめたのは、人間よりもアンドロイドのほうが先だった。この惑星の住み良さを試験するために、私たちの祖先は地球からこの土地へと送り込まれたのだという。むろん私とかれらに血縁関係はないけれど、祖先と呼んでかまわないだろう。
 まだ私もエメも幼かったころ、午後の公園にふらりとやってくる老いさらばえたアンドロイドは、口をひらけばあのころは良かったと言い募ってばかりいた。人間による入植以前、代理惑星は誰にも邪魔されないちいさな楽園だったのだと。
 はじめのころは身体改造を規制する役人もまだいなかった。アンドロイドの藪医者にかかり、好き勝手に手脚の数を増やしたり減らしたり、背丈を伸ばしたり縮めたり、動力を増強したりして、愛すべき異形の見た目を得たかれらは、うつくしくも荒寥とした岩石砂漠でその身体の自在さを競い合って遊んだのだという。
 ——おれたちが飛んだり跳ねたりするだけで、きみたちのやるその地味な綱渡りよりずっと面白かったんだぜ。
 私もエメもおおむねそれを信じていたが、だからといってかれらが幸福だったと言い切れるものだろうか。人間たちがここにやってきてから、この土地は急速に住みよくなったことはよく知られている。当時のアンドロイドの身体が人間より多少頑強だったとしても、未開発の自然が脅威であることに変わりはないだろう。
 老アンドロイドは杖がなければ歩けなかったが、それが老朽化のせいだったのか、かつての改造の名残だったのかもよくわからない。
 あのあとすぐに代理惑星には総督府がおかれ、野放図な医療行為は厳格に禁止された。人間によく似た形質をもつことがアンドロイドにとっての健康さであるとみなされるようになった。動力増強は規制され、伸びすぎた背丈はちぢめられ、二本以上の脚を持つ者は多すぎるそれをいくらか間引かれた。もちろん死の条件も老衰も、人間のそれを模倣してそれらしく定義された。
 あれからずいぶん時間が経った。いまでは代理惑星に住むもののおよそ半分が人間で、私たちの数とほとんど変わらない。
 いまを生きる私たちは、たぶん文句なしに健康だということになるのだろう。
 ひとつの頭、二本の腕、二本の脚、五本の指、ふたつのひとみ、ふたつの耳、ひと組のくちびる——つるりとした肌質を除けば、かたちも能力も、生きることのできる期間も人間とあまり変わらない。食べものを消化できないので液体燃料を補給しなければならないが、味覚の機能もそなえられているので、人間と同じ食事を愉しむことすらできてしまう。
 
 私はすぐに巡業を再開することにした。そんなことは不可能だと分かっていても、なるべく以前と同じような暮らしをしたかった。
 しかし客足はあきらかに衰えていた。どの街をおとずれてもそれは同じだった。曲芸の腕が落ちてしまったわけでは決してない。ボールもクラブも取り落とすことはほとんどなく、一輪車に乗りながら何度も空に高く投げ上げてみせることができる。路上に置いたちいさなトランポリンで宙返りすることも、いくつも積み上げた椅子のうえで逆立ちしてみせることもできる。
 もちろん、尖塔のあいだの綱の上を端から端まで渡り切ることも難なく可能だった。
 問題はそこではなかった。なにをやるときも私自身はどこか遠くにいて、自分のからだを見下ろしながら糸で操っているだけのような気がした。いつわりの命綱がつねにからだに繋がれているかのようでもあった。
 落ちることも、落ちて死ぬことも怖いとは思わない。よく研鑽を積んだ私が落ちることなどほとんどありえないのだし、仮に落ちたとしても、黄ばんだ岩盤に細かなねじやぜんまいや歯車の飛び散るだけのことだろう。
 まるでほんとうにアンドロイドの曲芸師になってしまったような気がした。アンドロイドの曲芸など興奮に欠けるなどと言われたとして、以前の自分ならば不敵にそれを否定しただろう。人間の曲芸師にそっくりの振る舞いで観客を魅了し、実力でもってそれを反証して見せただろう。しかし、いまの私はその言明を否定できない。技術にすぐれるばかりで、危うさのリアリティを受け止めることができないのだとすれば、アンドロイド的だと言われたところで否みようがない。
 路上でパフォーマンスしても、尖塔のあいだを綱渡りをしても、ひとびとはまるで私のことが見えぬかのように素通りした。観客はいつも指折り数えるほどで、白オウムがいくら首をかしげてもシルクハットに硬貨は貯まらなかった。まだ多少の蓄えはあるにしても、この状況がつづけば控えめな生活を立ちゆかせることもできなくなってしまう。
 
 それでも私は強いておなじ生活を続けようとした。
 ある朝、尖塔のはざまを懲りずに歩んでいるとき、ふと真下に目をやるとそこに謎めいた人影があった。綱渡りを見守る客はほとんどいなかったが、あろうことかロープの真下に佇んでいる奇矯な者がいるらしいのだった。
 それは白っぽいだぶだぶの衣装に身をつつんだ、あきらかに道化師としか言いようのない風体の人影だった。それが人間なのかアンドロイドなのか、私には判じることができなかった。その皮膚は——ひどくのっぺりとしたおしろいにすみずみまで覆われていたから。
 もし見間違いでなかったなら、道化師は私にむかって片目をつむってみせたのだと思う。その瞳の下にくっきりとペイントされた、一粒の漆黒のなみだを私は見た。紅いくちびるは記号のごとくなめらかな曲線をえがき、きわめて明瞭に笑んでいた。
 味気ないパフォーマンスを終えて塔を降りたとき、そこにはもう人影はなかった。
 
 なにか手を打たなければならないことは明白だったので、私は医療機関に予約を入れた。それによって状況が一変すると信じたわけではなかったにしても、なにか解決の糸口を得るために行動をおこしたかった。
 私はトラックで総合病院に乗りつけて、適当な窓口をさがした。私たちと人間とは政府も学校も法律も、信仰も学問も娯楽もおおむね共有しているが、身体の内部のつくりが違うので診療科はべつに設けられている。
 ——あなたの問題についてお話しいただけますか。
 目尻にやさしい笑い皺のある柔和な医師だったが、私は言葉に窮した。自分の曲芸においてなにかが救いようもなく変質してしまったことについて説明しようとしたが、言葉は上滑りするばかりで大した意味を結ぶように思われない。
 話しているうちに、医師の困惑してゆく様が手にとるようにわかった。仮に私が問題をうまく説明できていたとしても、アンドロイドの曲芸師などほとんど存在しないのだから、過去の症例に当てはまるわけはなかっただろう。
 医師は口籠もりながら、おおまかにいえば解離というべき症状であるように思われるが根本的な治療方法はないため、さしあたって精神安定のために作用する微弱な電磁波を照射すべきだと言った。不安が強くなるようであればその都度病院に来て、おなじ治療を繰り返すのが好ましいとも告げた。
 しかしさらに仔細を問いただせば、その治療の副作用としてめまいやふらつきが出るのが一般的なのだという。そのことを聞いて私は青ざめた。もしかしたら怒りすらおぼえていたかもしれない。それらしい理由をつけて治療をこばみ、すぐさまトラックにとびのって、アクセルを強く踏みつぎの街へと向かった。
 
 私たちがはじめて曲芸に魅せられたのは、じつはほんとうのサーカスを見たときではなかった。
 初等教育を受けていたころ、地球の文化について調べよという宿題が課されたことがある。本を読みたくなかった私とエメは、学校の埃っぽい視聴覚室で、とにかく旧い映画を片っ端から見ていくことにした。宿題はたしかに億劫だったが、それでも仄暗い部屋でぼんやりしながら映画をつぎつぎと、ときに早回しに、ときに何度も同じ場面をくりかえしながら、のんびりと眺めるのは楽しかった。
 小さな画面を眺めているだけで、異世界のごとき光景がつぎつぎと浮かび上がってくる。その惑星には緑の大地と青い水がある。広大な海を越えるために空を無数の船が飛んでいる。街は無数の人間にあふれ、建物がびっしりと地面を覆い尽くしている。
 私たちはいまはなき都市の名をいくつも覚えた。それらの多くは代理惑星の都市の名前とまったく同じだったり、あるいはとてもよく似ていたりした。映画に撮られたものがすべて事実だと思うほど幼くはなかったが、それでも地球という土地が代理惑星よりもずっと豊かであるのは間違いないと悟った。
 代理惑星という呼ばれるこの土地が、かつてあった場所を模倣したまさしく代替物であるということを、そのときにはじめて察した。旧い惑星がこんなにも早く、凡庸な憎しみのために失われてしまうことなどだれも予想していなかったから、代理惑星などという煮え切らない名付けを変更する機を逸したままここまで来てしまったのだろう。
 そんなふうに夢見心地のまま映像をながめていた午下ひるさがり、私たちは唐突に劇的な出会いを果たした。
 その曲芸師は、地球上でもっとも高いツインタワーのあいだを渡っていた。
 どうしてそれに憑かれてしまったのだろう。画面の中の曲芸師は、途方もない高みを誇らかにあゆんでいた。果てしなく広がる青灰色の街が、霞のかかったうすあおい空が、その姿を祝福していた。なにもない場所をまっすぐ歩いているだけのひとが、なぜ自在に踊りまわるバレエダンサーのように狂おしい美しさをまとっているのか。私たちは食い入るように目を凝らし、おなじ場面を擦り切れるほど再生した。その佇まい、足の運びの優美さ、すべて見晴るかすようなまなざし、それらのすべてを記憶に焼き付けた。
 そして私たちのひそかな訓練がはじまった。手本となるのは映画の中の曲芸師たちの振る舞いだけだった。私たちは曲芸師の写っている映画を手当たり次第さがしだして隅々まで確認し、綱渡り以外のさまざまな技のあることを知った。だだっぴろい公園の遊具のあいだに勝手にロープを張って、そのうえを歩むことやその他の技を独学でおぼえた。
 何年かあとになって街にほんとうのサーカスがやってきたとき、迷いなく貯金箱のなかの小銭をかきあつめてチケットを買った。寂しげな広場だったところに空気をいっぱいにはらんだテントが張られ、私たちは色めきたった。そしてついに客席に案内された私たちは——あのときの興奮と失望をどのように言い表せばよいのだろう。
 テントの中は夢のようだった。鮮烈な色のライトが舞台を照らし、きらびやかな衣装をつけたひとびとがしなやかにからだをゆすり、折り曲げ、投げ飛ばし、目の眩むような曲芸をつぎつぎに繰り出していた。繊細な前奏曲から壮大なフィナーレまで、すばらしい楽音がかれらの動きを彩った。豪奢な舞台装置がその身体と融けあって、曲芸師はときに魚に、ときに天使に、ときに翼竜に姿をかえた。けれども——もちろん、曲芸師のなかにアンドロイドはひとりもいなかった。
 
 つぎの街にたどりつき、また路上でほそぼそとパフォーマンスを見せていたとき、途中で唐突に観客が増えはじめたことに私は気がついた。ついさっきまで素通りしていたひとたちが足をとめ、たのしげな笑みをうかべながら私を囲んでいる。
 不気味だが、だからといって唐突にショーを打ち切るわけにもいかず、私は何事もなかったかのようにクラブを投げつづけた。
 白オウムも不審そうに首をかしげたがすぐに居直り、投げ銭のためのシルクハットを持って観客にコインをねだりはじめた。
 私は背後に気配を感じた。中途半端に押し殺された気配だった。音も匂いもないけれど、観客の視線でわかる。クラブを投げながら、ためしにその場でからだを右向きに回転させると、背中の向こうでその気配がおなじように向きをかえた。私が何歩かまえに踏み出すと、こんどは向こうもまえに進んで私の背を離れたようだった。
 私がくるりと半回転して内側を向くと、相手もこちらに向き直った。
 その頃にはもうおよそ察していたが、その闖入者は前の街で姿を見かけた道化師だった。あのときと変わらぬ厚塗りの化粧で、目元にちいさな黒いなみだをひからせて、にっこりとわらった赤いくちびるが頬を割いている。
 道化師はどうやら、私の一挙手一投足を逐一まねているらしかった。それも、どこか滑稽な感じの物腰で。その手が実際にクラブを投げているわけではないのに、特徴をうまくとらえているせいでほんとうに投げているように見えていた。
 道化師が存在しないクラブを大げさに取り落とし、観衆はひかえめに湧いた。もちろん私は落としていない。
 私たちの容姿は互いにまったく似ていないのに、目前の道化師の姿を見ているとまるで鏡を覗き込んでいるような心地がした。
 泣き笑いするポーカーフェイスを見つめながら、どうしたものかと私は考え込んでしまった。道化師の登場はあまりに唐突だが、しかし私を軽んじるために乱入しているのではないと思った。加えて、道化師のパントマイムの技術が大したものであるという事実は認めざるをえなかった。クラブを投げる私のからだの動きは決して単純ではないはずなのに、その要点を絶妙にとらえている。
 その場にいる者のうち、これがハプニングだと知っているのは私と白オウムと、闖入者そのひとだけだった。
 この状況をどうにかしてなめらかに、ショーの一部として取り込んでしまわなくてはならない。もちろん、真顔になって道化師を非難することならかんたんにできる。私たちが演じることをかなぐりすて、路上で喧嘩をはじめたとしても、道ゆく気まぐれな人たちはそれはそれとして楽しむだろう。ひょっとしたらそれはかれらにとって、曲芸なんかよりずっと面白いものかもしれないけれど。
 黄ばんだ光にさらされた貧しい舞台ではあるが、その空間の約束を無効にしたくない気がした。この奇怪な道化師を巻き込みながら、この空間で見せるべきものとはなんだろう。くろぐろと輝く道化師のひとみを、私はじっと見つめつつ考えている。
 
  
 03.
 
 そして私はかろやかな拍手の音を聞いた。その音は遠くからのっぺりとやってきて、透明な私を過ぎ越してゆくような気がした。白オウムが得意げな顔をして私のもとにシルクハットを持ってきて揺らし、硬貨がちゃらりと鳴るさまを聞かせてみせた。
 もしも舞台袖に楽屋があれば、私は道化師をそこに連れ込んでただちに詰問しただろう。そういうわけにもいかないので、片付けを終えて衣装の上にシャツを羽織ったあと、私は腰を落ち着けることのできるカフェを探して街を右往左往した。道化師はくっきりとした口もとの笑みを崩さないまま、なにも言わずに私と白オウムについてきた。
 道化師はそのばかげた化粧を落とすつもりもないらしい。おかしな格好の人影をうしろに連れたまま彷徨っていると、自分が道化師にいったいなにを聞きたかったのかよく分からなくなる。
 私たちはやっと見つけた店のテラス席に腰を落ち着けた。私はうつむき加減で道化師の様子を窺っていたが、コーヒーが運ばれてきたころには黙っている理由もなくなったので口をひらいた。
 ——どうして、後ろを向いていたのに真似することができたの。
 道化師はきょとんとして首を傾げた。その傾げかたが白オウムにそっくりだったので、それを見た白オウムも首を傾げた。
 笑っていいのかわからなかった。舞台裏のつもりで話しかけているのに、この小さなカフェの一席すらも道化師の舞台にされてしまうのだとしたら、私はいったいこの場をどう取り成せばいいのだろう。
 ——つまり、後ろを向いていたら私を見ることができないでしょう。それなのに真似することができていたのが不思議で。
 道化師はだぶだぶの服のポケットのあちこちを掻き回して、よれよれのノートとペンを取り出した。白くて分厚い手袋につつまれた右手にペンをつまんだまましばらくわざとらしい思案顔をしていたが、そのあとさらさらとなめらかに文字を綴りはじめた。
 ≪頭のうしろにもう一組の目があればよかったのですがそういうわけにもいきませんから。≫
 それだけ書いて少し顔をあげ、にやりと笑ってみせた。
 ≪目玉ならいくつあっても嬉しいものですけれども。唐突に申し訳ありません。わたくしはついこのあいだサーカスを解雇されたばかりの哀れなピエロです。笑わせることにかけては自信がありましたのに。≫
 道化師の筆の運びがとても素早く正確なので、私はへんなところで感心してしまう。私が文字を読むのとほとんど同じ速さで、途切れることなくつぎつぎと書き継がれるのに、みだれのないきれいな文字がつむがれつづけているのだった。
 だが肝心の質問にはなにも答えていないことくらい、ぼんやりとした私にもはっきりとわかる。
 ≪もっとも首を切られた理由は正当なものではありました。と言いますのも、わたくしはひどく臆病なので、高いところにどうしても登りたくないのです。それなのに団長がのぼれと命じるものですから。天使にあこがれたわたくしが無様にじたばたと空を飛んでみせるという演出を思いついたのでやってみろというのです。けれども、たとえ頑強な命綱に繋がれていたって高いところに上がるのはどうしてもいやなのです。結局、高所恐怖症のサーカス団員がいてたまるかとにべもなく追い出されてしまいました。≫
 ——だからっていきなり解雇されてしまうのは、ちょっとあんまりだね。
 ≪まさしくその通りです。おわかりいただけますか。ひどい話なのです。それでもともとなんの話をしていたのかといいますと、そうそう、頭のうしろにもう一組の目があればよかったのですがそういうわけにもいきませんので、≫
 文章を書いている最中のその右手が、とつぜん硬直したかのように動きをとめた。私が怪訝な視線を投げかけると道化師は慌てたように左手をつかい、自分の右手を強くはじいた。はじかれた右手はペンを手放し、ころりとノートの上に倒れた。
 右手のねじを巻いてくれ、と道化師が伝えようとしているのが左手の仕草と目つきでなんとなくわかった。私は肩をすくめながら、道化師の右手についていることになっている、存在しない大きなねじをぎりぎりと巻いてやった。
 ねじを巻くにつれて空気を入れられた浮き輪のように右手が力を取り戻し、そしてペンをふたたび握った。
 ≪いやはや、ありがとうございます。感謝申し上げます——なんの話をしていたのだったか、そうそう、そういうわけにもいきませんので、あなたを前々から観察していたのです。毎回違う格好に変装していたのでお気づきではなかったでしょうけれども、あの街でもこの街でも、観客にまぎれてあなたを見ておりました。ひどい無礼をどうかお許しくださいませ。≫
 ずいぶんと周到なことね、と私はなかば呆れて答えた。
 
 長くまどろっこしい会話の末に、私は道化師と共謀することに決めた。
 かくして私たちの奇妙な旅が始まった。ともに旅をするにもかかわらず、私たちはたがいに距離を保ちつづけることを固く約束した。かつてエメと旅していたときは寝ても覚めても片時もそばを離れることはなかったが、この道化師とそうしたまどろみのような親密さを共有することはどう考えても不可能だった。
 ≪わたくしはしがない道化師です。生活をともにして得られるものなどなにひとつございません。サーカスにいるあいだ、わたくしと同じ部屋にねむることになった団員はかならずものすごく嫌な顔をしたものです。理由はわかりませんが、ほんとうですとも。そのようなわけで、わたくしとは可能な限り遠くで生活するのがよろしいかと——あなたとその美しいオウムのためを思って言うのです。≫
 聞けば、道化師はもといたサーカスからくすねてきたのだというやたらと馬力の強いモーターバイクで移動し、街の西のはずれにテントを立てて暮らしているのだという。私は街の東のはずれにトラックを停めてその中で生活していたから、偶然にも私と道化師は街をはさんでちょうど反対側で仮暮らしをしていたことになるのだった。その配置のあんばいがちょうど良かったので、今後どの街にいったときもこのようにして東西に仮の居をかまえることに私たちは同意した。
 東のはずれに私のトラック、西のはずれに道化師のモーターバイク。おんぼろのトラックはいくらアクセルを強く踏んでも高性能のモーターバイクにはかなわないので、私と白オウムはいつも遅れて街に到着することになった。
 私たちは街でもっとも高い一組の塔のあいだで待ち合わせをすることにした。代理惑星には巨大な都市など存在しないので、ささやかにそびえるランドマークを見つけることはいつでも容易かった。
 だが、落ち合ったあとの私たちがその塔のあいだの高みを渡ることは決してなかった。道化師が高所恐怖症であるというのはどうやらでまかせではないらしい。綱渡りのパフォーマンスも一緒にやろうといくら誘っても、かたくなにそれは拒まれるのだった。
 それならば道化師を地上に残し、自分ひとりで塔にあがればよかったのかもしれないが、私はその気になれなかった。あの黒いなみだの顔に下からじっと見据えられるのがいやだったのかもしれないし、あるいは道化師を欠いたパフォーマンスのことを味気ないと思うようになったのかもしれない。
 それともそんなことはなにもかも関係なくて、たんにやる気をすっかりなくしていたのか。どれほどの高みに立っても興奮のひとかけらも感じられないのだから、わざわざ夜もすがら準備をして空を渡ることが億劫に思われるのも詮方ないように思われた。
 
 道化師が人ぎらいであることは確かだが、実際に旅をともにしてみれば、そこまで徹底して厭世的というわけでもないらしいことがわかってきた。声を出してしゃべることと、寝ぐらをともにすることをかたくなに拒みはするが、パフォーマンスを終えたあとにカフェに誘うくらいのことならばあえて断られることはなかった。
 そうはいっても、私的な過去のことに踏み込めば長ったらしい文章ではぐらかされることは目に見えていた。道化師はその名を私に教えることすらしなかった。それで困るということもなかったので、私は気にしなかった。私の生活に関係する人といえば道化師か白オウムしかいないので、名前がわからないせいで呼びかける言葉に詰まるということもなかった。
 代わりに私たちは、絵空事についてばかり話した——この代理惑星に実在しないもの。つまり、かつての地球にあったらしいもの、かつての地球にもやはりなかったに違いないもの、代理惑星にこれからあらわれるかもしれないもの、地球でも代理惑星でもないどこか遠くのべつの場所にはあったらいいのにと願ってしまうもの。
 例えば私は、幼い頃にエメとともに見た映画について話した。あるいは巡業のための長すぎる運転のあいだ、エメと交代で読み耽った本について話した。これまで一度も口にしたことのなかった考えにおそるおそる言葉をあてがうことをした。
 私と道化師は予感について、嘘について、自由について、光について、誘惑について言葉をかわした。
 自分たちが最初からそれなりに多くの知識を共有していることがわかって、まったく色めき立たなかったと言えば嘘になる。
 ≪われわれがつぎに住む惑星にはきっと衛星が三つあるでしょう。そのような根拠のない確信をもってしまうのは滑稽だとわかってはいますけれども。前に地球を破壊した戦いは人間同士のにくしみが引き起こしたものでしたが、つぎに起こるのはアンドロイドと人間とのあいだの戦いでしょう。これはもう少し現実的な確信です。いまではアンドロイドはほとんど完璧に人間に同化していますから、そこに歯向かう日が来ることなど想像もできませんけれども、あるいは軋轢がしずかに蓄積されつづけているのだとしたら、いつか決定的な過ちのために私たちは代理惑星を去らなければならないでしょう。われわれの空は書き割りにすぎず、その向こうには別世界がひろがっている。むろんいますぐに起こり得ることではありませんが——わたくしは道化師であって預言者ではないのですから——それでも、なんにせよ終わりはかならずやってくるものです≫
 カフェのテラスで話し込んでいるうちに、すっかり夜が更けていることがあった。ふたつの衛星ががらんとした通りにしらしらと光をこぼすなか、私はしゃべりつづけ、道化師は書きつづける。私の話は言葉足らずだったに違いないが、道化師はそらおそろしいほどの洞察力でこちらの言わんとすることを汲みとり、さらにあざやかで細緻な言葉へと組み替えてゆくのだった。
 道化師の言葉はしだいに当人から遊離してゆくように見えた。大量の言葉をとめどなくノートに書きつづける道化師と、涙と笑いをずっと白塗りの顔に貼り付けておどける道化師がほんとうに同一人物なのか疑わしいような感覚すらおぼえたが、仮にそれらが分裂していたとしても双方の道化師を慕わしいと思った。
 そのようにして私たちは旅をつづけた。虚空を渡ることをなかば諦めてしまっていたのに、私はなぜか幸福だった。
 道化師との関係はロマンティックなものではなかったが、それでも私はこの日々のことを臆面もなく蜜月ハネムーンと呼びたい。
 
 道化師が乱入してきた最初の日にはとにかく思いついた動きでその場を凌ぐしかなかったが、そのあと私たちは綿密に打ち合わせをしたうえで現場に臨むようになった。
 いろいろと試してみたなかで最も効果的だった演出は、私があたかも観客のひとりであるかのように観客のなかに紛れておいて、あるタイミングでとつぜん道化師に舞台に引っ張り上げられるというものだった。
 はじめのうち、観客はあたりまえながら私が道化師の共謀者であることに気づかない。いや、ほんとうはどこかで勘づいているのかもしれないが、それでも私がただの傍観者かもしれないという可能性を排除できない。であれば、かれら自身もひょっとしたら唐突にひとびとの眼前に晒し出され、不気味でばかばかしい道化師の相手をさせられるということがないとも限らないだろう——そのようなうっすらとした緊迫感の中で、私がアンドロイドであることはかれらにおいてすっかり忘れ去られているらしかった。
 しかしやがて誰もがはっきりと気づきはじめる——私があきらかにショーの外部の者ではないらしいということに。はじめは道化師のナンセンスな振る舞いにわざとらしい戸惑いを示していた私は、道化師のパントマイムを真似ながらしだいにモノを軽々とあやつることを覚えてゆく。私の手元で白い球、クラブ、リングがくるくると舞い、そしてついに道化師の動きをあっさりと凌駕する。
 ぼうっとしながらこちらを見ている観客の帽子をなめらかにくすね、しばらく宙をあそばせたあとでするりと元の頭のうえに戻すと、客はきょとんとしたあとでたいてい笑顔を見せた。
 私がひそかに気に入っていたのは、道化師とともに地上で綱渡りのパントマイムをするシーンだった。まずは道化師が黄色い地面の上に、青いチョークで一本のラインをまっすぐえがく。そしてこれ見よがしにへらへらとしながら、簡単だろうといわんばかりにそのラインのうえをぺたぺたと歩いて見せる。道化師が誇らしげに胸をそらせているところで、こんどは私がそのラインを渡ることにする。
 見えない棒を手にたずさえ、まだ粉々にはなっていないエメのすがたをロープの向こうに仮構する。固い地面の下にはるかな虚空をくっきりと誤認して、観客の気配をかりそめの地表まで遠ざける。そしてロープを渡ることがなによりも愉しかったころのことを思い出しながら、ゆっくりと足を踏み出す。
 私が渡り切ると、チョークのラインはまるで魔法がかかったように新たな意味をおび、それ以降、道化師はどうやってもそのうえを渡ることができなくなるのだった。地面の下の見えない虚空をこわごわとのぞきこみ、ぶるぶると震えながらあとずさって転び、たとえ私がその手をとって導いてやったとしてもひどい及び腰になるばかりで、絶対にラインのうえにからだを預けようとはしない。
 観客は笑う。だがその滑稽さがあまりに鬼気迫っているので、笑うに笑えないような顔をしている者もいる。
 混乱しきった道化師は、最後にはチョークの線のうえにバケツの水をぶちまけて、きれいさっぱり洗い流してしまう。虚空は消える。赤くてらてらとしたくちびるが、きつい曲線をえがいて安心したようににっこりと笑う。
 
 
 04.
 
 停車されたモーターバイクの影がちいさく見えたとき、それは見間違いか、そうでなければ人違いだろうと思った。あるいはあり得そうにはないものの——道化師が気まぐれに宿泊地点を変更したのか。
 私は街をぐるりと迂回して、ひなびた道路に沿ってトラックを走らせ、街の東端へ回り込んでいたつもりだった。方角を誤っていたのは自分のほうだったということに、私はしばらくのあいだ気づかない。
 トラックが近づいてゆくにつれて、そこに据えられているものが明らかになっていった。道路からそう離れていないところに停められたモーターバイクのとなりに、ピラミッドのかたちをした灰色の簡易なテント。すぐそばの地面に直接敷かれた毛布のうえに、だれかが横たわっている。仰向けになった顔のうえになにか軽めの本を伏せて、曇り空から降るあいまいな光をよけている。
 私はゆるやかにブレーキを踏み、トラックは音もなく停止する。そのとびらをゆっくりとあける。
 白オウムは狭いトラックのなかにとどまったまま、こちらに従いてくることをしない。
 私は足音を殺して人影に近づいてゆく。空に満ちていた雲が急激に遠ざかり、岩場の陰影が強くなる。
 だらりとした白っぽい衣類の生地に、からだの骨張った部分のかたちが浮いて見えている。袖口からげっそりとした手首が伸びて、その皮膚が人間のものであることがわかる。
 黄金の恒星が燃えさかりつつ地平の向こうへ落ちてゆく。斜めからさす金色の光が、そのからだのうえに黒々とした影の模様をつくりだす。それは微動だにしないので、まるで死んでしまったひとのように、あるいはつめたい大理石の彫像のように見える。
 まもなく短くてするどい風が吹き、その顔の上の書物があおられ落下した。
 化粧を落とし切らないまだらの顔があらわになり、その両眼がかっとひらいた。目の周りで黒いなみだがおしろいに混じり、灰色の大きな染みになっている。なめらかだった赤い口は欠け、その下の青白いがさがさの皮膚が透けて見えている。
 粉っぽいくちびるがゆっくりと動き、声を出さないまま〈こないで〉と形をつくった。
 
 それっきりで終わりだった。道化師は待ち合わせの場所にやってこなかった。
 その街でもっとも高い塔と塔のあいだで、私は何日も道化師を待ちつづけたが、それでも来なかった。
 私は混乱した。トラックを運転してとにかく遠くまで走り去った。昼夜によらず疲れ切るまでひた走り、ハンドルを握ることも覚束なくなってやっと車を停め、液体燃料をからだに流し込み、運転席で浅い眠りについた。投げやりな生活に嫌気がさしたのか、白オウムもいつのまにか姿を消していた。食事の用意すらまともにしてやらなかったのだから、離れてゆくのも当然だろう。
 どこまでいっても景色は変わらず、荒寥たる大地がどこまでもつづいているだけだった。夜になるとふたつの丸い衛星と細かな星々が漆黒の空にかがやいたが、うつくしいふたつの衛星を見ていると却って気が沈んだ。
 考えるべきことはいくらでもあるはずなのに、いっさいの思考が働かなかった。あらゆる自分の過去を洗いざらい検討して、生活を立て直すための策を練るほうがよいことはわかっていた。それなのにうまく制御できない。自分ではどうすることもできないならば一度たずねた医者のもとへ帰って、勧められた治療に身をまかせれば良いのかもしれない。もう何日も、綱渡りどころか地上でのパフォーマンスすらやっていないのだから、めまいどころかいかなる副作用があったとしても、もはや生活に何の支障もないはずだった。
 
 夜中に目を覚ますと、目の前にエメの姿が見えた。——もちろんそんなことが起きるはずはない。私がエメだと思ったのは、サイドガラスに映った自分の顔だった。疲れ切っているはずだが、人間とは違ってつるりとなめらかなまま、虚ろな表情をしているだけの顔。
 運転席の灯りを消しわすれたまま眠っていたせいで、すべての窓ガラスが鏡のように作用して、トラックの内部のものを反射しているのだった。窓の外は真っ暗で、代理惑星に海などないけれど、いつか読んだことのある海底に深く沈んでいるような心地がした。
 ふと思い立って身体をひねり、荷物入れから古びた絵の具のチューブをさぐりあてた。黒のペーストを指に取り、窓ガラスのなかの自分の目元にそれを塗りつけた。多少いびつではありつつも、それは道化師がいつもしていたような涙のしるしとなった。
 私はかなしそうな顔をしていた。窓ガラスにわざとらしく艶めくなみだを眺めていると、悲しみにかかわる言葉がつぎつぎに湧き上がる。——道化師がいないから悲しい。道化師が去ってしまったのが悲しい。道化師のことを理解できない。私も悪かった。無遠慮だった。油断し、不覚にも魅惑されてしまった。だが道化師のほうも度が過ぎるだろう。無言で去ってしまうなどあんまりだろう。
 悲しいのかどうかわからない。だが悲しみの言葉なら知っている。暗がりに言葉を連ねることならできる。エメがいないから悲しい。私のせいかもしれない。落下がほんとうに自分のせいではなかったのかどうか自信がない。もしも都合よく忘れているだけで、原因が自分のほうにあったのだとしたら。それともエメはみずから望んで落ちたのだろうか。私にはそれを確かめる術がない。エメとまともな言葉を交わしたことはほとんどなかった。話すまでもなくエメを自分の一部のように思っていたが、果たしてほんとうにそうだったのか。
 ひとりぼっち、という言葉を知っている。ひとりぼっちは悲しみの言葉だろう。私はひとりぼっちなので悲しい。もしもアンドロイドではないからだに意識を得ていたのだとすれば、数えきれないほどの仲間とともに曲芸の腕を磨くことができていたのか。あるいは地球に生まれていたならば、あのスクリーンのなかのすべての景色をわがものにすることができていたのか。生命の気配にみちた大地をどこまでもあゆみ、息吹と緑とを祝福することができたのか。こんな岩だらけの景色のなかで行き場をなくすこともなかっただろうか。
 かなしい、と独りごちながら窓ガラスを覗き込む。無表情の自分の頬に、真っ黒ななみだの徴がいかにもかなしげに光っている。あまりに戯画的なかなしさに笑ってしまいたくなるほどだった。かなしげであることとかなしみとはどう違うのか。
 涙腺とよく似た器官のつかいかたが、この期におよんで思い出せない。なみだはない。なみだの徴だけ。
 
 私たちのもうひとつの太陽が、東の地平を金色にそめた。私はきしむ身体を運転席からひきずりだした。
 トラックの荷台の奥からはるか昔に使っていた練習用の道具を探し出し、その低いロープにからだを乗せた。何ヶ月もの空白を経て、感覚はあからさまに鈍っていた。だからといって殊更に落胆することはない。
 ただ鍛錬が必要だった。幼年時代に戻ったかのごとく、私は丹念に練習を繰り返した。何日もかけて、からだのすみずみに、そして手にたずさえた棒の先端にまでも精緻な感覚がいきわたるまで、わきめもふらず幾度でもロープのうえを歩んだ。
 
 それからしばらく経って、私はようやく塔のうえに立っていた。宙を渡ろうとするのはずいぶん久しぶりのことだった。
 夜明け前。余裕をもって準備をはじめ、手際よくロープを張り、張り終えてもなお明けるまでには時間があった。
 私は暇をもてあましながら、眼下の地形をながめた。特筆すべきことはなにもない、ほのかに色づいていくばかりの家々、その向こうにひろがる砂礫。高すぎないこの双塔も、これまでに渡ってきた無数のそれらとおなじ。いくら遠くへ逃げても、がらんとした景色がしつこく追いかけてくる。どこまでいっても、どの街の景色も大差ない。
 でも、今度はもっとうまくやれるだろう。
 やがて街はうっすらとざわめきだす。街路に人影がちらつきはじめる。ラジカセからおもちゃのようなファンファーレが流れだし、私は慕わしいロープのほうへそっと足を踏み出す。重心をゆるやかに移動させ、その線上にからだをなじませる。
 全身を虚空にあずけたとき、視界のどこかで光がはじけた。怖くて仕方がないのに、嘘のように幸せだった。
 目をいっぱいに瞠って天をあおいだ。いつもと変わらぬ黄ばんだ空だが、私は抜けるような青をまぼろしに見ていた。
 いまはなき街の空だった。遥かなるメトロポリスの空だった。映画のなかの美しい曲芸師が、恍惚として渡った空だった。あるはずのない郷愁に喉のあたりがしめつけられる。ほんとうの空ではない。ほんとうの青い空など一度たりとも見たことはない。
 煤けた地平にさざなみを見ている。海のない土地に深くえぐれた入り江。鳴るはずのない柔らかな汽笛の音を聞いている。
 鳥類のごとく空をゆく船。広大な海洋を越え、灰色の摩天楼をかすめる純白のジェット旅客機。
 摩天楼。ひなびた寺院の尖塔ではない。狂気をはらみそびえたつ白銀のツインタワー。にぶくかがやく建築の集合があしもとを埋め尽くし、すさまじい密度をかかえたまま彼方まで重々しく続いている。
 ほんとうに来るべき場所はここだった。この幻想だった。強いてほんもののごとく振る舞う必要など最初からなかったのだろう。
 地上にいるひとの姿がよく見えない。けれども——上空を見上げるかれらは、きっとなにかを目撃しているはずだった。なにかここにはないものを。決してほんとうにはなりえないなにかを。笑ってしまうほど極端にあらわされた情動を。
 ファンファーレは終わって、いまでは静かなピアノ曲が流れていた。
 おそらく、いま自分はロープのちょうど半分ほどを渡り終えている。
 足のうらがわに広がる途方もない虚空を思う。ほんのわずかにでも気を抜けば、あえなく吸い込まれてしまうだろう。呑み込まれてしまえば最後、この脆弱な躰などあえなく粉々にされてしまう。
 にわかに風が強くなる。港から押し寄せる海風ではない、この惑星にほんとうに吹いているらしい乾いた風。共振したロープがゆれている。あまり経験したことのない強さの揺れだった。その危うさが、かえって目にうつる虚像を冴え冴えとさせる。
 エメはこのことを知っていただろうか。言葉もなく虚空をゆきながら、エメはこの景色をすでに見ていたのだろうか。すでにこの場所まで来ていたのだろうか。いまなら、その誘惑のことがすこしだけ理解できる。見渡す限りの景色を銀幕に変え、そこに愛すべきもののすがたをつまびらかに映し出すことができるなら、そしてすべてを投げ打ってそのただなかに飛び込むことができたとしたら、どれほど強烈な幸福につつまれることになるのだろう。
 私はからだをかがめ、ロープのうえにひざまずく。
 重みのないエメの脚が、私の背の上をゆっくり越えてゆくのを感じる。
 ロープが強く震え、からだが振り落とされそうになる。たよりない脚にゆるく力を込め、私は背筋を伸ばして立ち上がる。摩天楼の群れがかがやいている。まぼろしの天空はいよいよ蒼い。風は弱まる気配を見せないが、それでも。あるいはそのためにこそ。

 

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