グリッチ・ド・キョート=ラン・ド・エスケーパー

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梗 概

グリッチ・ド・キョート=ラン・ド・エスケーパー

亰の町。神社仏閣の連なり、高層建築の合間をルイは仲間と突っ走る。祗圓の屋根をストライドし、ステップを踏み”乱数調整”した勢いで、㓓座を”壁抜け”。そして鴨河に大きく飛ぶ。空中で”無”を取得しグリッチバグ技で、一閃、一気に河を飛び越える

この亰都は、打ち捨てられた仮想空間、虚都ことである。現実の京を模して作られた。が、サポートは遥かの昔に停止。しかし演算実行は何故かそのままに、幾万のNPCのAI達が一般生活を続けていた

この町にはある逸話があった。元旦、仕様にない麒麟の如き幻獣が、町を恐ろしい速度で疾走するというものだ
氏族の大人AIはそれに手を出すなと謂う。が、繰り返す日常の打破を信じた若者AIは、外部からパッチが当てられず、野ざらしになった亰都の”バグ”を利用し、麒麟を捕縛すべく団結した。彼等はバグ技の移動テクを”グリッチ”と名付け、”攻略図チャート”を作り、次の1/1に備え、獣に追いつくため、亰の空間に独自の地図コンテクストを構築し、走り続ける
このチームを作ったのはレナ。しかし、彼女は”昨年”、足に怪我を負った。新リーダーはルイがなり、彼女の怪我に負い目に感じ、今年こそ麒麟を捕まえると決心する

ある日、ルイは知らないはずのグリッチを自然に使っていることに気づく。まるで身体だけ記憶してるような。レナに相談すると、実はこの亰の生活が、外の世界で娯楽となっており、そして、自分はそのための管理AIゲームマスターであると言う
なぜ?外はパンデミックの影響で、人々は他者との接触恐怖症タクトフォビアに陥っていた。故に、この亰都の日常景色が、かつての現実、現在の虚構なのだ
さらにレナは、麒麟は電子の世界を揺蕩う不可解な存在だと説明し、この亰を瓦解させる因子と成りえるため、絶対に捕まえるなと忠告する
納得しないルイにレナは、グリッチによる拿捕の対策として、ずっと前から、この亰は永遠の2019年を繰り返し、一年経つと記憶も含め、”正常状態デフォルト”に戻ると伝える
つまり、去年以前の思い出は、全て設定。そして、捕まえようにも、貯めたノウハウは本来、次年に持ち越し得ない。だが、バグにより、昔のデータが今のルイの躰に漏れ出てリークいる。故に、ルイに全てを伝えた上で、それでも捕まえるなら、管理者権限で阻止すると脅す。しかし、ルイは何かを為せば、NPCでも、人の心を変えると信じ、水面下で準備を進める

そして、来たりし12/31。この亰全体の記憶保持には、システムに無理な負荷をかければ良いと気づいたルイは、大人たちを説得し、祗圓、時台、蒼、他、諸々の”全ての祭り”を同時に作用させる。すると日付は”2019/12/32″を刻み、皆が獣を捕まえるため協力し合う
バグにより崩れていく世界、祭りの熱気、汗に滾る人々。その町を正常化させようと、レナがsudo権限で行く手を阻むが、グリッチを駆使して、ルイはレナを巧みに躱して限界を超えて走り続ける
そして、獣の尾を掴み、その背に乗る。暖かみが躰を包み、ルイはそのまま、別次元の世界に飛び出していった

文字数:1290

内容に関するアピール

ゲームの(バグあり)リアルタイムアタック×パルクールがテーマです。また、ポストコロナSF要素もあります。
パルクールというのは、都市の中で、元来、想定してない道を独自解釈し疾走する競技ですが、それがゲームのバグ技(=仕様に存在しないテクニック)でクリア時間を競うRTAと相同だなと思い、バグ技を利用してAI達が京都の街を疾走する物語にしました。タイトルの後ろ半分はLandscapeと掛けています。
またバグ技は、実際の有名なバグ技のオマージュにするつもりです。(例えば無の取得は、ドンキーコング。12/32は、ぼくのなつやすみ)
そして、虚構のNPCであるAIが、パンデミックの恐怖に囚われた、現実の人々の行動を変えることを表すため、(作品中では明言はしませんが)語り手は第三者視点であり、それが亰の町を見ているユーザーである、とします。

文字数:367

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キョート・ランドエスケーパー

# 1
——上洛ログイン——
きょうの町。神社、仏閣、高層建築の合間をリウはユウリと共に疾走する。祗圓ぎおんの猥雑に交わった狭い石畳の上、そのみちの上を練り歩く朝の気怠い人々、それらの狭間を縫うように、四肢を張り詰め、撥条の如く駆動させ、雁行がんこうする町家の屋根をリズムを刻むように跳び、行く路を阻む壁や門を踊り、駆けて、巡って、跳躍し、また、上って、下って、ただ疾走はしる。
亰の祗圓、しかし、そこが多くの観光客ヴィジタが喧騒を織りなしたのは、今となっては遥かの昔。現実の世界を模倣した、仮初かりそめの歴史を澱のように積み上げたその町並みを、リウ達は颯爽と過ぎ去っていく。町家の犬矢来、道祖神を奉った祠、店の女将の劈くような声——それらが絡まる隘路を抜けると、途端、重なった襞がぶわっと捲れるように、前方の視界が大きく拓けた——亰の繁華街、四乗に面した大通り。往来の人々を尻目に、リウとユウリは勢いを緩めず駆け抜ける。土産屋の壁面を伝って、アーケードの上に舞うように着地、不連続な骨組みの上をリズムに沿って颯爽と滑走し、巧みに勢いをつけていく。
双じながら駿動するふたり。だが突如リウだけ、俊敏に躰を揺らす機微を見せる。と、次の瞬間には更に数多の関節を捻じ曲げ、不可思議な舞踏のような動きを展開した。
その一瞬で、リウは胸の内で、身体に蓄積されたイメージのバンドルを発火させる。この町で培った反復を、想像上の脳髄の中で励起させ、躰に刻まれた動きが筋肉モジュールの収斂を無意識に呼び起こす。一瞬ワンフレームの隙間に、幾重もの”グリッチ”を淀みなく精緻に噛み合わせ、そして、躍動するステップを踏み”乱数調整”した流れのまま、㓓座みなみざを”壁抜け”、勢いそのままに、巨大な歌舞伎座、その瓦屋根の際々きわきわまで進んでから、突然、まるで足元から暴発したかのような跳躍ライドを決める。鴨河を一閃、ふわりと——大きく飛び抜け、次の瞬間には、既に向かいの五階建てビルの上。その屋上へ不格好に転倒しつつも、なんとか到達する。
打ち捨てられた亰の都、そのシステムの狭間を利用した、”グリッチ”で、彼らは町を舞台に縦横無尽に駆け抜ける。

着地した中華レストラン、柬華菜館とうかさいかんの屋上で、暫しリウが息を整えていると、
「今の技、なんだよ」
と、やっと追いついたユウリが、一級河川を跨いだ大跳躍を今しがた達成したリウに突っかかる。
「今の動き、まだ”攻略図チャート”に無いはずなのに」
それにリウは、
「摩擦係数、その補正項」とだけ。屋上で、寝っ転がったまま応える。今しがた決めた大技により滾る興奮が、体内でまだ漲っているのか、やや口調が荒い。
「は?」
「昨日、一人で走ってるとき、新しいの見つけたんだよ。”亰”の仕様だと、気流の流れは近似式の四次項まで再現シミュレートされてるらしい。けど、あの屋根から跳ぶ瞬間だけ、反復運動をすると、処理落ちフレームアウトが起きる。それを利用して、摩擦を弱めて揚力アップを強く。で、跳ぶ瞬間、加速。その結果の跳躍技ヴォルトってワケ」ト、トトン、トンと、リウは仰向けのまま空を眺めながら、宙に指を突きつつ、そう解説する。
けど、ユウリは「ふうん」と、気のない返事。同じ年の頃のリウに、そんな大技を見せつけられてきっと悔しいのだろう。ふたりともそこから成長することは叶わない、亰の町とともに作られた仮想空間のAIなのに。可愛らしい十代の年頃の少年たち、その様式が実直に演算されている。
そして、ふたりとも暫し無言で休息を取った後、リウがおもむろに、「しゃ!」と、声で勢いを付け、半身を起こす。「今やったヤツ、早速、”先生”に報告しよう」

# 2
水無月6月、真っ只中。蒸し暑い亰。そのわんわんと鳴り響くように照り続ける日射の中を、リウとユウリは傍の河原の風が涼し気な、 尖斗町ぽんとちょうの石畳をゆったりと歩いていく。
その途中、
「最近、”足跡”」と、ユウリが独り言のように、隣を歩くリウに訊ねる。
「足跡?」
「見たかよ?」
「いや」
そう返すだろうとわかった上で、「何があったんだろな…外で」
そう、ユウリは問い、それにまたお決まりのように、
「現実の人間は核戦争で滅んだ、|俺たち”AI”を人間たちが突然敵視し始めての絶縁、或いは、ただただ忘れられてるだけ…間延びした生活の中で、数多の仮説が出たものの、未だ真を得ず。謎に塗れた虚都ことの外。この話題も今年だけでなんと7回目」そう、鼻歌でも興じるような語感で、リウは陽気に応える。
「数えてんのかよ。気持ち悪いやつだな」
「几帳面と言ってくれさ。こういう日頃の癖が、まだ見ぬグリッチの発見に繋がるんだぜ」
そんなふうに軽口を叩きながら、打ち水で濡れた石畳をゆったり歩く。墨のような色味を発するしきがわらが足裏で輝き、そこから揮発した蒸気が、むわっと生暖かく肌理きめを舐めるが、河上から時折思い出したかのように吹く風と、どこからか聞こえる、下駄の小気味よい響きが、歩く路に清涼な空気を与えてくれる。

この世界は、打ち捨てられたプラットフォーム、”亰の都”。リリースされた十数年前は、各国から多くの人々が上洛ログインし、実際の京都の町を模したこの世界で、誰しもが擬似的な観光を楽しんだ。
そして、この町を盛り上げる役割として、用意されたのが、リウとユウリ、そして、その他数千の氏族と呼ばれるAI達。町の雰囲気に活気を与えるため、彼らの姿は、人間の形を模してレンダリングされていて、見かけの上では観光客ヴィジタと判別つかない。
とはいえ実際問題として、まったく区別がつかないと、何らかの予期せぬ混乱を招きかねないだろう。そのために観光客ヴィジタ氏族AI、どちらかを判断するために設定されたのが、”足跡”だ。AI以外の観光客ヴィジタがこの町を闊歩すれば、そこに”足跡”を残す。このプラットフォームの仕様として、外から訪れる人間の観光客ヴィジタは、道行く後に黒塗りふたつの、まるで瓢箪のようなかたちの”足跡アイコン”を来た路につけるわけだ。
そのため、この町に住まう氏族AIにとっても、観光客ヴィジタの到来があらば、それは一目瞭然となる。
逆に謂わば、町のAI達は、そのような往来の軌跡を一切残さない。つまり、足跡を残せないということは、リウもユウリも、どれだけ自由に飛び回っていたところで、町の一角で隠れるようにす苔、古びだ木戸のきりきりと軋む音、あるいは、流れる人の空気でなめされた、町家のつるりとした木材の感触——そうした生活情緒あふれる風景レイヤーと全く同様に、町を構築する構造体オブジェクトの一部ということだ。
しかし、技術発展バージョンアップが何代も渡るにつれて、このプラットフォームに訪れる人々は次第に減り、現在いまに於いては、彼らの前に訪れた痕跡を残す者は唯の一人も現れない。最後の観光客ヴィジタの足跡の記録は、既に遥かの昔。だから、町に住まう人々AI、勝手に作られ、勝手に捨てられ、それでもなぜか停止しないこの世界を、皮肉を込めて、古都ならぬ、虚都こと——そう呼んでいた。
ここで、いつ終わるともわからない永遠を淡々と待つべき、そんな諦観を備え『日常を忠実に再現するのもまた一興』と、多くの大人のAI達は考えて、観光客ヴィジタの不在に関わらず、町の営みを絡繰り人形のように淡々と続けてるが、若く無邪気、好奇心旺盛なキャラクタとして設定された、リウとユウリのふたりには、簡単に諦めることができない。
だから、彼らはたとえ多くの大人たちに蔑まれようと、”グリッチ”と”獣”、そのふたつを利用して、この日常を打破できる可能性に賭け、亰の町を疾走する。

# 3
“グリッチ”が発見されたのは、最初、ただの偶然だった。
祭りの準備の最中さなか、飾り付けをしていた者が、何かの拍子で倒れそうになったところ、偶然、”壁抜け”を起こし、それを見ていた者達も同じような動きを試みると、全く同じ挙動を再現できてしまう。そして、その場に居合わせた誰もが『この亰のシステムに少しずつ歪み始めてきた』ことを察した。なぜならそれは、ずっと前から予期されてた事でもあったからだ。
亰のような巨大なシステムというのは、完成して終わりでは決してない。幾千の氏族AI達が織りなし合うこの仮想世界では、内部でその主体アクター群が複雑に絡み合って、過去に起きえなかった状態ステートが、その時々に次々と生じている。だから、その度毎に、新たなバグが生まれ出でる可能性が存分にあるわけだ。システムとは、静的な『作って終わり』の世界ではなく、本来ならばバグが見つかり次第、外部から着実に処置パッチが為されることで、なんとかシステムを稼働し続けれる。そのような動的平衡の仕組みがまず前提にあり、外部からの運用保守の上で、安定な世界を保っていける。
そして、当然、その補助が無くなれば、開発当初は綿密に紡ぎあった論理ロジックも、時が経つほど次第にほどけ、ゆるゆると分解していく流れには抗えない。加えて、一つの綻びはさらなる綻びを呼び込んで、崩壊を少しずつ加速させていく。故に虚都ことは、打ち捨てた機械時計のように、刻々と時間が経つたびに、いずれは原型を留めないまでに解々ばらばらになるだろう。
悟ったように町の大人達、彼らもその実、ただただ現実に目を背けているだけ。少しでもその時間を稼ぐための儚い抵抗として、祭事や生活の営み、侘しい繁華街での商いを、思考停止のまま繰り返しているだけかもしれない。

だがリウ、そしてユウリの怖いもの知らずのふたりは、寧ろその”バグ”にこそ活路を見出した。”先生”に従事し、アドバイスをもらって、それをヒントにし、最初に見つかったバグ以外にも数多の箇所ポイントで、おかしな挙動を見つけては条件を解明し、組み合わせては応用していくことで、町をあらゆる箇所ごとの走法を確立してきた。より速く、より細やかに。
そうして、”バグ”という、本来ならば不都合な現象を”コントロール可能な技術にまで昇華させた。そして、彼らはその技法を”グリッチ”と名付け、それを利用して町を縦横無尽に駆け巡った。
当然、張りぼての歴史と土地を守る氏族の大人達にしてみれば、彼らのやりうることは破壊の可能性にほかならず、永遠の日常を是としているおさ達は『危険だから』と、真っ向から反對する。が、その道理に彼らは沿わない。疾走るという破壊行為ヴァンダリズムに魅了され、本来はありえない”バグ”を利用し、仕様上は達成不可能な疾走りを実現する。理を曲げた、この世界との相互作用フィードバックループを構成していく。彼等は町を走ることで、亰というはこを猥雑にまさぐり、系のかたちを明らかにしていく。
きたる日に向け、あの、”獣の背”を追いかけるために。

# 4
鴨河の傍に連なる狭い路地 の尖斗町、その一区画の料理亭。
そこがリウとユウリ、そして”先生”が集う秘密基地。毎週火曜の午前9時、そこで決まってリウ達は、作戦会議に興じている。
亰の夏の風物詩、河床かわゆかのお座敷。鴨河と並行に奔る小川おがわの上に、この季節だけ特別に組み上げられた足場を基に作られた納涼床。ちりんと涼し気な風鈴の音が鳴り渡り、すこし遠くには比㕢山ひえいざん太文字山だいもんじやま 經塚山きょうづかやま…そうした山脈の黒々とした稜線が、広がる夏の蒼をざくりと切り抜き、深みのある背景バックグラウンドを見事に醸し出している。
現実ならば、一席幾万もするであろう、子供には敷居が高い高級料理亭、しかし、訪れる客が見えない以上は、只の空き家だ。だから彼らは、それを有り難く間借りしている訳だ。

「駅前からのルートを一直線に、塀と塀の狭間に突っ込むと、ここ迄そのまま跳んでって、で、その後、お決まりの乱数調整からの地面スレスレに…と、この流れに沿えば、こっちのルートは問題なくカバーできるはず」そう口にしながら、キュキュと太いマーカーで、リウは机の上に大きく広げられた亰の地図、そこに、新たな道筋を加えていく。
その地図——鉛筆やマーカーで彩られた攻略図チャート。そこには、当初の原型がわからぬほどの書込みが既に入れられている。
その一線一線が、今まで試したグリッチの集積だ。
リウは自慢気に「これで、亰都駅から、四乗の方のルートまでは、無事カバーできた」
「でも、”例のケモノ”が必ずしも、今年と同じ、場所から現れるとは限らないだろ」と、そのユウリの反論に、
「だとしても、南から北を目指す可能性は高いはず」とリウが得意気に言うと、
「とはいえ、結局わかっているのは、今年の動きだけだからな。たとえ来年同じタイミングで現れたとて、どこまで同じかは、正味のところ、わからんぜ」とユウリが切り返す。そして、「先生は、どう思いますか?」と、リウと対する口調と打って代わり、まるでお行儀が良い生徒のように、元気よく尋ねる。
「そうだね」
“先生”と呼ばれた女性が応じ、車椅子の車輪をその細長い指でキュルルと巧みに動かして、座敷に腰を据えているふたりの隙間に移動する。そして彼女が顔を傾けると、束ねた髪の毛先が、人肌の香りと共にリウの頬を撫で、そのせいで、リウは鼓動が高鳴るように、不意に躰が反応してしまう。
「たしかに、仮に来年も同じタイミングで現れたとしても、それがどこから現れるかはわからない…けど、今年見かけた町の人の話を聞く限り、確実に北を目指しての動きだったようだし…もし町を縦断すること自体が獣の目的だとしたら、逆方向の南のほうから現れる可能性は、やっぱり高いんじゃないかな」その言と共に、綺麗な爪を地図の上に垂直に立て、用紙をつつっとなぞる。
「なるほど…」緊張しているのか、言葉少なげにリウは返すと、彼女はにっこりと微笑む。その笑みを向けられた彼は照れて下を向き、つい彼女の足元に目線を移す。スカートから本来覘くはずの二本の脚が、彼女には無い。
「おい!」
ユウリの声で、はっと我に返る。そんな気もないのに、ついまじまじと足の先を見てしまった居心地の悪さを詫びるように、しょげて車椅子を見上げるが、彼女——先生は、それがなんでも無いように「ん?」と、なにかのしるしのように軽く首を傾けた。安心して、気にしてないよ、そのことをリウに伝えるような仕草、その応答に、彼は心底ほっとする。
ぱっと見、彼女は素朴でおしとやか、一瞥すれば質素な印象を受けるだろう。しかし、ひとたび彼女の間合いに入ったときに感じる、張りのある艶やかさ、何より、まるで渦のような、不可思議な魅力を備えたまなこに吸い込まれる錯覚が芽生える。それにどぎまぎする感触を、幾重の時間が過ぎ去った今でも、リウは未だ捨てきれない。
「まあ、ま。ふたりとも、あと半年はあるのだから、もっといろいろ試してみようよ。ね?」朗らかに彼女の笑顔。その表情に、見ると、リウもユウリもつい口元が緩んでしまう。

目新しいものなど起き得ないはずのこの亰に於いて、明らかに新規の事象イベントが、今年初めに観測された。それは、このシステムクロックで、ちょうど新年になるタイミングだった。
亰の南に位置する、六堂珍皇寺ろくどうちんのうじを管理している仏僧が語るところに拠れば、境内の中にある一つの井戸から、突然水が噴き上がり、同時に龍のような獣が飛び出してきたという。そして噴き出した勢いのまま、その四つ脚は、屋根という屋根を伝い、地上に一度も降りることもなく、亰の町の上を跳ねて飛んで、只管に北を目指していった。
当然、そんな奇妙な生き物の記録はこの町にそれまで存在しない。加えて、目撃した人、目撃した時間、或いは、目撃する方角によっても、それぞれ証言が異なる色味をみせた。ある人は麒麟のようだと語り、またある人は兎のような小柄な外見だった、果ては白い象が闊歩していた…そんな眉を顰めるようなものまであった。しかしその獣は確実に存在したことを示すものが屋根の上に残された。
それが、獣が疾風したあとに残る”足跡”だ。
見た者の目に漂う白煙のような淡い輪郭の残滓。そして、屋根の上には黒々とした足跡が、辿った軌跡として、瓦や、ベランダ、煉瓦造りの壁になどに、暫しの間、残り続けた。閃光のように色めく、美しいけもの——だがしかし、足跡を残している以上、それは確実に存在し、また、同時にここではない彼方からやって来たことを意味する。
加えて出現したのは、今年の始まりの瞬間。そんなハレの日と共に現れるならば、来年の同じときにも同じように現れる公算が高い。そうリウとユウリは考える。だから、来年の初めに待ち構えて、グリッチで駆けて獣に追いつき、その背に乗れば、この少しずつ滅びる亰の世界から脱出できるはず…そう鼻息荒げに言い始めたのは、リウとユウリ、果たして最初はどちらだったか。ふたりは昔馴染みの親友、それは生まれたときからの。

# 4
文月7月
先陣を征く、くじ取らずの鉾一番ほこいちばん長刀鉾なぎなたほこが神の使いに見立てられた生稚児いきちごを乗せ、見送綴織の旭日鳳凰を揺らしながら邁進する。その後に続くは、渡来の至宝で着飾った函谷鉾かんこほこ、ビルを隔てた別の通りでは、剽軽ひょうきん蟷螂山とうろうやま大蟷螂かまきりや、絢爛豪華な金色彫物の菊花の鉾頭ほこがしらを拵えた菊水鉾きくすいほこ…それ以外にも数多の特徴を備えた山車だしが、亰の中心の路という路、その格子状の各辺を賑わしく踊る。粋を集めた絢爛豪華の装飾をその身に纏い、天に伸びる鉾を携えた山鉾やまぼこの群生が、町を巡り往く。
亰の名物、祇圓祭。その山鉾巡行が、亰の大通りを爛々らんらんと染め上げる。

「例年、飽きもせず観る方も演る方も、まあ…」だが、リウとユウリのふたりは、ビルの上から、その光景を冷ややかに見下ろし、くだを巻いていた。「バカ正直に、毎年やることじゃあないよな」と、ユウリが続けざまに吐く暴言に、リウも同じ心持ちだった。
観光客ヴィジタが居なくなっても、町は行事を暦通りに繰り返す。囃し声をあげる人々も、祭りを構成する者と同様、AIだ。だけど、そんなモノは、彼らにとって、元来必要としないもの。そもそも、祭りというのは、豊稔や繁栄の祈りの形として生まれた行事。けどしかし、氏族AIにとって、そんな祈りは無用の長物。その形骸化した寿ことほぎに、いったい、なんの意味があるだろう。殊にこの祗圓の御霊会は、元来、無病息災を祈りをその起に持つというじゃないか。ならば、疫病とは無縁の我々AIが、何が悲しくて、このような催しをやる必要があるのやら。だからそんなものを有難がる道理などない、意味を欠いた空虚な記号の塊だと、そう斜に構えるふたり。
律儀にしきたりを守りながら、偉そうに祭りを仕切るおさ役達、彼らも与えられた役割を連綿と繰り返しているだけ。大人、子供、氏族、不在の観光客…永遠に変わらない役割アイデンティティに、世代という虚構フィクション、それら外部によって作られた、自己認識の詐術デファクト——定められたその事実に、リウもユウリもチリつくような苛つきを覚える。
衝動に任せて、この祭りに介入して、グリッチを応用して滅茶苦茶にかき回してやりたい欲求にも駆られるが、そんなことをすれば、この町を取り仕切る”例の主人”の本気の怒りを買いかねない。それは無論、リウもユウリも望むところではないので、見下げながら小言を飛ばし、腹の中のわだかまりを消化していた。
ぼんやりと見下ろしていると、突然遠くで、「おお!」と地上の見物客の湧く声が轟いた。先頭の山鉾が、四乗川原町の交差点で見事な辻回しターンを決めるたのだろう。
リウはそんな喧騒の中で、そういえば、先生に出会ったのもこんな祭りの真っ只中だったことを思い出す。あれも、祗圓祭のさなかだったから、つまりはちょうど何年か前の出来事か。一体何年前だろう?この仮想世界のたまきに於いては、いつの頃だとしても、別にそこまで大差はないのだけど。

その年の祇園祭。今と同じような祭りの熱気の中で、ふらふら三乗から折れた小路を歩いていると、車椅子を器用に乗りこなす若い女の人を見かけた。
半身が不随——というのは、町であまり見かけない人物像AIだ。しかし、リウが彼女に目を向けた理由は、車椅子の行く先に大きな段差が待ち構えていたからだ。だが、女性は気づかないのか、その段差に減速せずに突っ込んでいく。慌ててリウが注意しようとしたその一瞬、突如段差が消失し、行く先が平坦になった。
そして、車椅子が通り過ぎると、また元と同じように、縁石がにょきりと顔を出す。そのあり得ぬ光景に驚き、「あ!」と喫驚きっきょうの声を上げると、彼女——先生と視線が合った。
見られた事に気づいた彼女はリウの方を向き、口角を上げ、可愛らしい小さな唇に人差し指を当て、内緒にしてね、そんな類のジェスチャを送ってた。そして、無意識なのか癖なのか、彼女は自身のふくらはぎをすっと撫でる。その動作に導かれるように、リウは車椅子の下方を眺めた。そこにあるのは彼女の動かない足、ではなく、何も存在しないつま先。ロングスカートから先には一切の身体部位が存在してない。
リウは手持ち無沙汰となった勢いそのままに、彼女に駆け寄って、今しがた起きたことについて訊ねる。と、彼女——先生は、「この町のオブジェクトの参照をちょっと弄ってね」と見つかったことに諦め半分、だけど、内緒話を愉しむように、はにかみながら教えてくれた。「誰にも秘密だよ」そう付け加えて。
だがリウは興味が俄然と湧き、より深ぼってその秘密を聞きたがる。”壁抜け”のバグの存在自体は知ってるけど、それ以外は見たこともない、いったいどうやったんですか、そう、食いついて話さぬとばかりに必死に聞くと、彼女も渋々教えてくれる。昨今発見されたバグは単一でなく、少しずつその種別バリエーションを増やし、この亰の至るところに生まれ続けながら、確実に町を侵食しているのだと。
「ただし、アメーバのように少しずつ町を蝕むバグも、うまく利用すれば、生活の一助や、ちょっとした手遊びぐらいになる」すうっと掌を地面に向け「こんなふうに」と口にする。
そうして、関節を素早く何方向かにくねらせると、間近のタイルが一つだけ、触れないままパタリと時計回りに90度、回転した。驚くリウに、先生はこういった技の収集を「ちょっとした趣味のようなもの」と伝える。けどそれを見てしまったリウは益々好奇の目を輝かせて、その妙技テクをもっと知りたい!と、一生懸命に懇願し、結局、弟子入りを果たした。そして、彼女を敬愛の印として『先生』と呼びはじめた。
当初の理由は、獣を捕まえるなんてことは念頭になく、ただ退屈を紛らわせるためだけだった。
その後、ユウリも巻き込み、先生から何度も何度も、バグ技について学び、基礎を身に着け、応用し、偶然が必然となるよう躰に染みるまで反復して、技術といえるまでに練り上げた。そうして、永遠に成長しない自分たちにでも、極めれる何かがあることを喜んだ。たとえ繰り返す日常であったとしても。

# 5
「摩擦係数、その補正項」
「っは?」
湿ったげな暑さが射す夏、中華レストラン、柬華菜館とうかさいかん。リウは四乗大橋を地道に渡ってきたユウリが、その屋上のドアを開けた、その瞬間に、寸分の間も空けず、リウは応える。
暦は、ふたたび、水無月。
「急になんだよ…」ユウリの気味悪気な表情。滴る汗を腕で拭いながら返す。「まだ、何も言ってないだろ」
言葉を放ってから、リウは自身に驚く。なぜ、そんな事を言ったのだろう?それは、ユウリが今から発する疑問——鴨河を飛び越えた大跳躍について——明瞭に頭に流れ込んできたからだ。
デジャブのような感覚、でもなぜだ?そもそも、な鴨河の大跳躍なんて”一回も練習していない技”を自然に、さも当然のようになぜ一発でできたのだろうか。下手を打てば、アスファルトにそのまま墜落していたはずだ——その事実を意識した途端に、リウは背筋の凍るような悪寒が奔った。
最初こそは、健忘の類かもと勘ぐったが、それは道理が通らない。AIが物事を忘れるなど、あり得ないのだから。
そして、このおかしな感覚は、鴨河沿いに下りながら歩き続ければ続けるほどに、確信に変わっていった。通りがかりる人に掛けられる会話、ユウリとの雑談まで、口を開く前に、すべての内容が頭に浮かぶ。「……足跡……」、「……こんにちは……」、「……暑いんやから程々にしいや……」他人が口から出る前から、会話の内容が頭の中にとめどなくと流れ来る。
記憶の不和に目眩を感じつつも、ユウリと一緒に川辺を歩く。そして、その路なりの終着は、当然いつもと同じ。尖斗町。秘密基地代わりの料理亭、その引き戸をガラガラと開ける。
そこに先生は居ない。
「あれ?」とリウがキョトンと声を上げるが、リウはユウリに比較にならないぐらいに驚いた。なんで、先生が居ないのだろう。自分の予感に於いては、ちゃんと迎えにきてくれた、そのイメージがありありと浮かんでいたのに。
予期せぬ事実に狼狽えながらも、中に入って、ふと視線を階段の方にやると、板と板、その狭間に紙切れが挟まっていることに気づく。まさかと思って、その紙を引き抜き、開く。中には一文だけ、
『今日の深夜0時、連華王院れんげおういんで』
先生の筆跡、宛名はない。しかし、リウにはこれが自身に宛てられたものだと、当然のように察することができた。

連華王院、通称三十三問堂さんじゅうさんげんどう
33×3けんの長大な本堂は周囲にひさしが巡らされ、その内部には千体あまりの仏像が連々つらつらと安置されている。
その入口の電灯の真下で、車椅子に座った彼女がリウを待ち構えるように佇んでいた。そこで、彼女は艶笑えんしょうを湛えて、不気味な雰囲気を街灯の下に浮かべている。リウはその、昼間会うのとは違う、まるで獲物を待つ蜘蛛のような彼女に怯え、「あの…」と、おずおず声をかける。
と、先生は、「うん」とだけ。その気のない返事をした後に、そのまま背を向け、暗がりの中、建物内部に入って、そのまま本堂にするすると吸い込まれるように進んでいった。そげない対応に、リウは少し面食らう。
その縦長のお堂の中は、中はゆらゆらと電球の光が灯されて、片一面に多勢の像が、まるで斃れかかってくるかのように視界を圧迫してくる。その迫力に圧され、リウは内部に進むのを一瞬躊躇する。しかし先生はそんなリウを慮ることなく、どんどん奥に入っていって、すでに影も見えない。なのでやむを得ず、リウも一歩、また一歩と、中を恐々こわごわと進む。
「先生…あの、実は、今日の昼からおかしなことが起きて…」
しかし、先往く彼女は先程と同様、受け流すかのように「うん」とだけ、建前のような相槌を返すだけ。
その反応に、「あの…先生、真面目に聞いてますか?」堪えきれず、訝しみをリウはつい口にし、そこでやっと気づく——他の人々AIと違って、彼女の次の言が想像できないことに。
やっぱり彼女だけは、何かが違う。
そして彼女は中程まで進んでから、やっと、くるりと車椅子を反転させて、リウに向かい合った。だが、その瞬間、彼は言葉に窮す。目の前に広がる光景が、きっと何かの間違えだろうと思ったから。
しかし、パシパシパシと三拍ほど瞬きをしてみても、やはり映るモノは変わらない。
先生が、無いはずの足で、その場に確かに起立しているからだ。お供の車椅子は既にその場から消失している。そして、今まで同様、やはりくるぶしより先は今までと変わらず、ない。だが、土台となるはずの足底そくていの代わりに、そのはしには、電球の光できた影がゆらゆら波打って——いや、それは影ではない。その場に残るのは——
「足跡…」
上から毛筆を強くおさえたような淡い影が地面を打つ。まるで幽霊が残す足跡のようなその淡い痕跡。それが意味するところ、それはつまり、
「先に言っておくと、私は観光客ヴィジタではありません」
しかしリウの見立てに対し、存外の返事を彼女は投げる。「けど同時に、この世界の氏族AIでもない。だから、こんな曖昧な足跡しか残せていない」
その言はより一層、リウの頭の内を惑わせた。「先生…あなた、いったい、なんですか」吹戸を通り抜ける風のような、か細い声で疑問を呈す。
それに、
「わたしはね、この亰の管理AIアドミンです」と、リウと対照的に、何も動じずに当然のように応じる彼女。
「この世界プラットフォームの手綱を握って、偶発性を押し込め、時には誘発させ、非日常の日常を外部にコンテンツとして提供する責務を担ってます」
コンテンツ、アドミン、外部…?意味が通らない単語の連続に、「なぜ…」と、リウはまた、思うよりも先に言葉が出てしまう。
すると、突然、周りを取り囲む千の仏像が、ぐるりと綺羅びやかな顔をリウに向け、狂った稚児の群れの如くケタケタと嗤い出した。その無秩序な動きのせいで、その胴体に残る痘痕あばたのような剥がれかけの金箔が、内部の淡い光を無軌道に散乱させている。お堂ごと、一斉に発狂すると決めていたような、そんな悍ましい光景に、リウはおののく。
しかし、それよりも恐怖したのは、目の前にいる、彼女——先生は揺らめくような笑みを湛えつつ、存在しないその足でするりと立ち続ける…のは半瞬前の出来事、次の一瞬で、なんの予兆もなく、たちまちリウの頬に触れ得る間合いに移動した。詰めた距離の合間には、濡れたような跡がてらてら踊ってる。遠近感が喪失したかのような不在の足運び、それにリウは、「ひゅっ」と肺にあなを入れられたような、小さな叫びしか返せない。自分の脚に必死に動けと命じ、なんとか半歩、懸命に下がるが、抵抗はそれまで。悲壮で爆発しそうな恐怖を感じているのに、彼女から目を話すことすらかなわず、石膏でも流されたみたいにその場で硬直する。まるで、自分の身体ボディの権限を取り上げられたかのよう。或いは事実、そうなのかもしれない。
「なんで、そんな事するのかって?——いいよ。教えてあげるね」
彼女は動けないリウの背丈に合わせるよう屈んで、血の気の引いた冷たい頬にそっと手を当て、彼の口元、それを慈しむように親指の先にだけ力を込めて、淡い紅のへりを、して開かせる。
そして、その柔らかい蕾のような二重ふたえの隙間に、自身の唇を合わせ、舌を乱暴に捩じ込んだ。ざらりとした異物を押し込まれ、侵食されるような気分にリウは陥る。不気味なほどねっとりとした甘い唾液が喉元を過ぎ去り、まるで舌の先で脊髄を直接なじられているかのような気持ちの悪さ——理由はわからないが、この女に自分は玩弄されているのだ——怯えの中、宿したせっかくの儚い怒りも、しっかり屹立きつりつせずに、ふにゃりと萎えて霧散していく。
たっぷり時間を使って、嬲ったあとに、
「…こういう行為もね、もう外の人達はできないんだよ。怖くて怖くて。とてもじゃないけど」
やっと口を開放する。蜘蛛の糸のような、粘っこい体液の雫を後に引きながら。

契機キッカケは、疫病でした——」
呆然としたまま、事態を把握できないリウを置き去りに、彼女は突然、滔々と語り始める。「何年か前からある伝染病が現実の世界で蔓延したらしくてね。致死率こそは極端に高くはないが、だからこそ、運び手キャリアであることに無自覚な者も多かったらしく、同時多発的にあらゆる国で蔓延し始めた。そしてそれから、ワクチンが開発されて、世界全体で接種が終わって、変異種の波も収まるまでに、何年もかかった」そこで、聞き手の感触を伺うように一旦話を切る。
水先を向けられ、そこでやっとリウは我に返る。考える前に疑問を呈す。「じゃ、じゃあ、それで現実の世界は余裕が無くなって、僕らは放って置かれているってわけですか?」と、辿々しくも必死に紡ぐ。
しかし、彼女は少し笑い「社会が滅亡するほどの災害ではなかったよ。そこまでの人口減には陥らなかったから——けど、その代わり、社会は長い間、人と人とが接触する行為が極端に制限された。最初は感染拡大を抑えるために、国家主導で他者と距離を取ることが推奨されていたのだけど、一年もすれば、誰に言われるでもなく、誰しもが誰とも距離を取るのが、自然な振る舞いとなった。たとえ、どんなに仲が良かった人同士であっても」そして、「多分、皆、適切な距離感を忘れちゃったんだね」と続ける。
「それで…」それが僕らに何の関係があるのだろう。リウの頭はまだ理解に追いつかない。
「でも、まさにそんなタイミングで、君たち——このプラットフォームが再発見されたんだよ」抑揚をつけた喋り方、話したくて堪らなかった、そんな口調で、彼女は溌剌と語る。
「そんなの…なんのために?」
「昔の日常が残る、この亰の生活をただ眺めるためさ。随分前に時代遅れになって、誰も訪ねるログインことなく、とはいえ止まることもなく置き去りにされた古びた都。それにコンテンツとしての価値を見出し、買い取ったものがいたのさ。
そこに加えたルールは一つ、決して内部の人々AIと接触しないこと。そんな事をすれば、彼らの日常に不和を与えて、せっかく手つかずだった過去の俵像が壊れる可能性があるからね。
だから——観光客ヴィジタ途絶えたように見えても、実は今でも外の人間は、淡々の君達を覗き見ている。まるで、手つかずの原生林の植物や、海底の腹に住まう魚類、文明の入っていない原住民族の姿を眺めるように。少し前までの日常を思い出すために」
そして、急に上を向き、「ほら、そこにも」と言って、彼女は見上げて、”こちら”を眺めてきた。天井にへばりつく霊体の視線ような、匿名の観光ツーリズムを愉しむ者達われわれ、その窃視をまるで嘲笑うように。
だが、リウにしてみれば何のことだかはわからない。不気味な沈黙が支配する暫しの間のあと、
「だったら…なんで先生は、僕らに干渉してまで、グリッチを教えたんですか?」居心地の悪い合間を払拭するように、当然の疑問を口にする。
先生は「実はね…」と勿体付けた後、
「最初はそんな気、なかったんだよ。あの時、君に見られた手前、記憶の初期化フォーマットか、最悪のところ、君自体の削除ガベージコレクトするしかないかな…とも思ったんだけど、熱心に教えを請う姿を見て、ふと思ったんだ——あ、これ、ひょっとしたら新しいコンテンツになるかもって」
「コンテンツ?」
「そう、コンテンツ。亰への不可侵がポリシーとなった手前、運用保守もできない以上、少しずつ壊れていくのは、もうしょうがない。この亰もまた日常が非日常に変わっていく手前、それに適応するような、新たな様式コンテンツが不可欠だったんだよ」そこで、リウの方をスッと指差し、それが君たち、と付け加える。
「そして、期待通りの君たちの亰を巡る姿、それが視聴している多数の者達にとって、大人気のコンテンツとなったんだ。システムの虚を突いた繰り返された躍動の様子、そのおかげで、この亰の存在価値、つまり寿命もかなり伸びただろう。それについては本当に感謝をしているよ——けど」突然、先生の目つきが急に鋭さを増す。「でもあの獣に手を出すのを頂けない。それをやられると、このシステムが崩壊の危険があるからね」
獣について警告され、そこでリウの理解はまた微睡む。獣の存在、あれも外部が差し向けたコンテンツではないということか?無いと言うならば——
「あれは、あの生物が一体何なのか…もう教えてくれませんか?」縋るように尋ねる。リウにとっては、最後の希望となった、獣の存在。
けど、先生は、突然気分を害されたように「知りません」と、投げやり気味にそう返す。「実際、アレは私達の管理の外の生物です。ここだけじゃない、さまざまなプラットフォームに現れては、ただ過ぎ去っていく獣。誰に作られたかもわからない生物オブジェクト
けど——だからこその不確定要素。それを君たちに捕まえられると、こっちとしてはとてもとても、困ったことになってしまう。先にも伝えたけど、この日常を守るのが私達の責務。だから、アレを捕まえるのは、絶対にやめなさい」
会話の応答を重ねる度に、リウの頭の中の疑問がペリペリと剥がれ、その度毎に、新たな謎で付着していった。その膠着状態を脱するように、「じゃ、僕をどうするって言うんです?」そう、怯えを振り払うように、勢いよく尋ねる。
肩で息をし、怯えるように構えるリウに、先生は嫌らしく「なにをするってわけでもないし、あえて言うなら、もう、”既にしてる”」
意外な返答に、「既に?」と、ついリウは反復してしまう。
「そう。そして、それが、君の元々の疑問への答えだよ。なんで君が、経験していない記憶を、持ち出せたと思う?それこそ、私がこんなに回りくどくも、わざわざ説明している理由——あの獣が現れるようになったのは、実は、今年が初めてでは決して無い——過去今までも、あの獣が現れる度に、君たちは今と同じことを考えて、その背を追い続けた」
その事実に、リウは反射的に「そんな記憶!」と反するが、彼女はそれを手を前に出して封殺する。「——それ自体は、まあよかった。寧ろコンテンツとして反響があったから、リスクもあったけど、暫し放っておいたのさ。けど何回もそれを繰り返すうちに、年ごとに次第に差は縮まって、いよいよ本当に捕まえそうになりはじめた。
だから、私はある年から、対策を講じたわけ。この亰の人々の記憶は一年毎にリセットされるようになっている」
「リセット…」
「そ、この町の運用に必要な最低限の知識デフォルト以外、その年に築いた知見は、全て一旦回収サルベージされる。だから、本来、獣を捕まえるまでの技は極めきれない。不干渉の制約ポリシーに基づけば確かにグレーだけど、最も影響を与えないためには、これが最適解だった…そのはずだったんだけどね」
「じゃあ…」自分が知らないはずの技、それに人々との会話それも全ては——
「そう。だから、今日君がした技、動き、町の人達との会話の一つ一つ。それらも、いずれかの年に少なくとも一回は、別の君が行った事象イベントなんだよ。どうにもシステム的に、君だけは例外だったみたい。おそらく町に刷り込まれた記憶と、君の身体的記憶が共鳴して、町に埋まった消したはずの記憶データが励起されて再構成されている、らしい。私達にしてみれば、想定外の見落としバグのような挙動。それが、グリッチが起因になり、起きてしまった」
今日の一つ一つの記憶をリウは思い出す。ユウリとの会話の断片、手足の動きのひとつをとっても、どれも確かに実感を伴っていた、頭でなく肉体が保持していた記憶のような…それらが変わらない町から無意識に吸収した記憶だったということか。
「…じゃあこうなった今、結局、僕を、どうするつもりですか?」握った拳に自然と力が入る。逃げるための出口の方向を確認しつつ、意を決して訊く。
「だから、別になにも」彼女うはやはり、その返答を繰り替えす。まるでリウの覚悟を嘲笑うように。
「何度も言うけど、私の目的は秩序維持、なるべく手出ししないように守り続けることなんだ。だから君が、この繰り返しを、転々、ずーとおんなじ年を回っている、そのフリさえしてくれれば…特段、悪いようにはしないよ」
そう、人差し指でくるくる細やかな円を宙に書きながら、告げた後、「けど——」と、
「もし、これより事態が重くなったと判断したら、不本意だけど、君を削除どうにかしなきゃいけなくなるから」
その文句を最後に、猛禽のような眼でリウを射抜き、嬌笑きょうしょうかたどった唇の形をその場に落として、消失した。

その後、頭の整理が追いつかず、頭が完全に硬直フリーズするリウ。暫くそうしていると、長い長い本堂の突き当り、その端が壁に絵のような何かが飾られているのを見つける。それを目に止めたリウは、覚束ない足取りで、ほとんど無意識のままに近づき、それを凝視する。
そこにあるのは稠密な刺繍が施された両界曼荼羅図。無限に連なる自己相似的な円の連なりが、目では認識できないほどに、粒子のように極限的な微小なまでに綾なされている。
そしてその、無限に連なるすべての円のそれぞれ中央に、リウの姿が象られていた。
それを見て、いよいよ我慢していた恐怖が張り上げ、
「ああっ!」
喉をつんざける金切り声を残し、リウは外にを飛び出した。

# 6
外に飛び出た勢いのまま、リウは、ただただ無意味に深夜の亰を、目的もなく無闇に疾走る。先程までの先生との対話、それによって膨らんだ恐怖心を町に擦り付け拭うかのように、強引に町中にグリッチを作用させ、亰の町を切り刻むように疾走する。
その、無目的に当たり散らすような動き。だが、よくよく見れば、そのどれもが最も効率的な身体の駆動の連続。過去に埋め込まれた記憶が無意識の内に蘇り、自分が様々なグリッチが、最適な経路を瞬間的に選択させている。
つまりそれだけ、何度も記憶を無くしたことに気づかないまま、亰を彷徨い続けた自分がいるということだ。
浄水寺きよみずでらの迷路のような小路を飛び越えつつ、八阪神社やさかじんじゃの境内を駆け抜け、知御院ちおんいんを掌から繰り出す反重力バグを利用し跳躍して、そして、西洋風の水道橋を一気に過ぎ去り、南善寺なんぜんじにたどり着く。
そこでまた「クソッが!」と何度目かの罵声を喚き、当たり散らすように入り口に聳える大門を叩くと、止め金具がパキュンとしなって飛び、辺りに木片が飛散する。
この破壊も、次の年には、綺麗に復活しているのだろう。町の記憶すべてが、再起動リブートされる、彼女の話は、つまりそういうことだ。自分だけは周りの奴らと違う。そう、グリッチを使って自由になったつもりでいたリウも、結局のところは、この亰で消費され続けるひとつの人形パーツに過ぎない。そう考えると神経が逆立ち、それ以上に、無に帰す恐ろしさがより一層、深みを増してくる。
力任せに技を発動させて、バラバラに破壊される南善寺の三門。そこで、無理矢理に動かした四肢の痛さに今頃気づいたのか—リウは少し歩を緩める。そして、飛散した建造物の破片を眺め、あることに思い至った。
——どうして町のなかで、自分だけが、記憶を保って入れたのだろう。
彼女は、グリッチによって、記憶が町中に埋め込まれ、それが偶然リウの身体に蘇っているからと説明した。
「だとしたら…」記憶を残す術は、このグリッチの走法が一つの鍵になるのは確実。そして、リウは、彼女の裏をかくための、ある一計を思いつく。
けど、それは、自分一人では無理だ。亰を取り仕切る主人——例の女主人の力を借りる必要がある。

三日後の深夜3時。鈟市場商店街にしきいちばしょうてんがいの入り口が、指定された待ち合わせの場所だった。
「こんばんわ」
そこに、暗闇に溶けるような、黒々とした礼服に身を包んだ男が、街灯の下に悠然と現れた。そして、リウが返事をする間を与えず、「ではこちらへ、主人がお待ちです」そう続け、その言に従い、燕尾服の端を靡かせ先を示す細長の男に、リウは無言で付いていく。
夜空から差し込む光だけが踊る暗闇の路地を少し歩くと、目的の一角に案内された。町家の連なりゾーニングの間に挟まれた数奇邸といった建物。決して質素ではないが、今から対面する人物の役割ステータスを鑑みると、些か物足りない気もする。
しかし、それは、玄関をくぐるまでの感想だった。
中に入ると、広がるのは、先が見えぬまでに広がる長大な空間。四方は見たこともない装飾アーティクルで飾り付けが為され、天井には緻密な龍が極彩色の彩りで描かれている。密閉されたその空間には、咽るほどに芳しい香の匂いが充満していて、それに加えて緊張のせいか、リウの息遣いは自然と早くなる。
そして、その空間の中央の一段高い玉座、そこに堂々とした威風を纏った女が座している。
「お連れしました」
案山子のような男が告げ、部屋を後にすると、その空間を統べる女性がゆっくりと頷いた。齢を重ねた老女のようだが、その身躯は大の大人ほど。幾重も着飾った重厚なころも、豪気に整えられた髪には螺鈿らでんかんざし、袖先から時折垣間見れる指には、大粒の貴石きせきを拵えた指輪が、十指それぞれに異なる色味で光りを放つ。そして、その豪奢ごうしゃな纏いにも関わらず、呼吸の一つ、こちらを見据える表情、動きがどれも極端などに洗練されていて、一瞥すれば誰しも、彼女が特別な役割を定められた人間AIだとわかる。
そして、かなりの時分、沈黙が支配した後、
態々わざわざご足労おおきに。で、それで」いったい何の用か。そうリウに振る。言葉尻は慇懃でも、放つ言葉の威圧を帯び、尊大さを辺りに飛散させている。
彼女は——亰の女主人、紫桜しおう。仮に亰の裏の管理者が先生ならば、紫桜は表の支配者といったところだろう。彼女の言に氏族の大人は文句の一つもなく従う。亰で今も行われる数多くの祭り——三大祭から、町の一区角で行われる祭儀まで、全て彼女の管理下となる。
「伝えたいことがある。この亰について」異様な空気に逆上せないよう、一息で勢いづけ、リウは話す。「それは…」そう、続けようとしたところで、
「お待ち」
と彼女は制す。
すると、彼女は椅子からゆっくりと身を乗り出して、リウに顔を近づける。他人を慮らない緩慢な動きが、自分がこの場を支配してるのだと、そう相対する者に示すかのよう。太い眉、鷹のようなまなじり、一本一本の皺が、生粋の職人がのみで穿ったかのように意匠として成立していて、その配置になにか意味を嗅ぎ取ってしまう。
顔を近づけられて、リウには先日のトラウマが芽生えるが、一歩下がリたくなる気持ちをぐっと必死に抑える。ここで引いたら、全てが台無しだ。
そうして、リウに、大樹の梢のような逞しい人指し指を向け、
「それは、この世界が一年ごとに元通りになることかいな」と、リウが先日に知り得た事実をさも当然のように言う。
リウは、そこで確信する——やはり、彼女は、その事実に気づいている。その上で、コンテンツとして消費されることを甘んじ、この亰を少しでも永く存続させることを選んでいるということか。
しかし、リウはだからこそ、まだ希望を捨てていない。
この女主人の次の言が自分には予測できないから。それはつまり、今、自身が行っている事象イベントは、過去、どの自分もやらなかった流れフローということだ。
つまりそれは、まだ過去の自分が一回もまだ試していない可能性。
「そこまでわかっているなら、この亰が、もう袋小路に迫っているのも、わかっているんじゃないか?」自身に滾る思いを必死に掻き集め、虚勢を張ってリウは返す。「どんだけ今のままでもいずれ終わりは来ることは目に見えてる。いまは偶然、衆目にさらされ、消費されるてる僕たちも、やがていつかは見放される」
それに、紫桜の伸ばした指が、ピクッと反応する。そして、リウはその機微を見逃さない。
「だったら外の奴らの先手を打って、盛大にこの亰を破壊するような、そんな祭りをやりましょうよ」
そう畳み掛けて、計画のあらましを話し始めた。

# 7
年の瀬、師走12月の最後の日。深夜の23時55分。新年まで、あと数分。
その亰都駅前、人通り途絶えたバスターミナルにリウは片膝を付き、準備姿勢クラウチングの構えをとって、その時を待った。
数分前から突如降り始めた細かい雨が、リウの肌をとめどなく打つ。
しかし、彼はその驟雨に気を取られること無く集中を保ち、眼光鋭く、縦型ディスプレイ、その時刻表示を睨み続けている。降り注ぐ雨水の一滴、表示される一秒、点滅する案内板の蛍光——それら町が刻むリズムの中に身を潜めるみたいに姿勢を低くし、その時を待ち構える。
そして、23:59が、00:00に変わる。
リウはそれを認識すると同時に、濡れて色濃くなったアスファルトを蹴り上げる。射出されるように大きく跳んで、その、二歩目を踏み切る次の瞬間、リウの位置する区画エリアの数軒先で、まるで咆哮のような光の柱が立ち上がった——獣が出現したのだ。
リウはそれに応えるように、弾丸の如く剛直な軌跡を描いて、亰の脊髄——鴉丸からすま通りを直進する。
交差点を越えたところで、壁を重力を無視し、グリッチでモールの壁を駆け上がり、勢いそのまま、亰の建造物の上を伝っていく。選択するルートに迷いはない。一挙手一投足、躰が宿す過去の自分の中で、最大の支持を得ているルートを単純になぞるだけ。一歩一歩、その歩みごとに、瞬間フレーム単位で次の様相が展開され、幾重にも重ねられた過去の動きの中で、もっとも加速可能なの方向に遷移する。その過程プロセスを数珠繋ぎにしていくイメージで、最小単位に分解されたステップをひたすらに繰り返し、有限の状態から自己を決定する身体駆動アルゴリズム。微分された時間ステップ毎に空間作用を導出して、その極値を足場とし、次のまたたきに着地する。
その連鎖で、疾走る。
少し進めば、期待通り——獣の足跡が辺り一面に刻まれている。パターンを伴った無作為ランダムな滴りのように、町中の到るところにまぶされていて、そのくゆるグラフィズムを、リウは確実に追跡トレースする。歴史を醸し出す古びた寺院の頂点、文字化けで意味が揮発した看板広告の文字、ぐねりと歪む教会の連続する尖塔アーチ…それら町のそこかしこに残る獣の痕を、リウは見逃すことなく、確実に捉え続けて、追う。
一瞬だけ地上に降りた後、柬本願寺ひがしほんがんじの御影堂、その建物から張り出している四手先の斗組ますぐみを片手で掴み、軽々と本瓦でかれた屋根に登り、また跳ぶ、連続して現れる、西洋建築の三角形状の破風ペディメントを蹴って、白い帯が赤煉瓦の壁に垂直に駆け、ゴシック調の銀行の支店に着地し、その勢いを殺さず、踏み抜かんばかりに力を込め、自身の最高速を瞬くごとに更新していく。
ブロックをるたび視界に広がる、屋外に飾られた過美な装飾や、奇をてらったような彩色に、歴史を醸し出そうとする模様の連立。それら、複雑な意味が込められた象徴イコンを掴み、駆ける。様々な建物の表層サーフェスの上を疾走るたび、金属や木材、数多の素材のきしる音が、辿った路のしるべのように一瞬の後にこだましていく。まるで亰の町と呼応して、導かれるままにルートを構築していくような、自然な所作と巧みなグリッチを時間の狭間に充填した動きの連鎖——
格子上グリッド状に規格化された亰、その碁盤の目をワンブロックずつ、着実に飛び越えていく。六乗、五乗、四乗…今から立ち向かう脅威への秒読みカウントダウンの如く目端に交通標識がチラつき、認識する間際に去っていく。
そして、三乗に差し掛かる直前、そこで、リウは、ギアを少しだけ緩める。深夜、町中の光源が身を潜ませたような往路、それとは対照的に、町の活力を一極集中させたかのように眩く光る交差に差し掛かったからだ。
一帯を、橙色の焔で染め上げたかのように色めく、鴉丸三乗。綺羅びやかな山車だしが、まるで野生化した攻城櫓こうじょうやぐらのように、生命体のような複雑な動きをみせ、互いに激突を繰り返す。捲られ、引き裂かれた胴懸どうかけ裾幕すそまく見送みおくり…その隙間からは無骨な縄絡みが顕になって、欄縁らんぶちを彩る装飾の類はどの鉾も、とっくの昔に剥がれ落ちている。
まるで周辺に金粉を眩し、幽かな篝火で照らしたように輝く一角。街灯で乱反射する金銀細工、人々AIの汗の迸り、熱気に満ちた雄叫び…それらが犇めきあって積み上がり、亰の腹底から放たれた波動のようなきらめきが、町全体に拡散させていく。AI達の活気に満ちた囃子声、雨水を天に跳ね返すような生気の濁流、櫓、神輿、鉾、山車それら総動員させ、縦横無尽、やたら構わず振り回し、激突させ、競り上げ、町をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
そして言うまでもなく、その破壊行為にはちゃんと意味がある。

それは、半年前にリウが紫桜へ提案したこと。
この亰、どうせこの亰は遅かれ早かれ、飽きられて、いずれは停止されることは確実。
「なら、いっそのこと、こっちから、この亰を捨ててやろうじゃないか」
いつから繰り返しているかもわからないような年月を重ねるぐらいならば、寧ろ破壊を加速させてやろう。そして、リウと同じように町全体に記憶の爪痕を皆で残し、記憶の初期化を阻害させてやろう、と。
そのために、祇圓、時台じだいあおい、それ以外にも亰で行われる、ありとあらゆる祭りを同時多発的に繰り出し、記憶を刻むグリッチの知見を密かに学ばせた皆々達を、紫桜の力を借り動員させたのだ。
そして、それは見事に作用した。亰の人々は去年までの記憶を維持したままに、祭りに熱狂する。

そのことに感謝の念を湧かせて、笑みを浮かべながら、その祭りの区画に突入していく、その瞬間——
「やってくれたね」
そこで、遂に彼女——先生に相対する。
視界に姿を捉えた瞬間、リウはおののき、産毛や髪の一本一本に至るまで、火の粉を纏ったかのように、全身が総毛立つ。
目の前に現れた彼女。しかし、見知った声と裏腹に、変質を遂げていた。まるで感情が沈殿したかのようなかお、その面容は定かでなく、錯視みたいに単一の焦点を持たせない。体躯の枠組みは明瞭だが、近くにいるはずなのに、まるで無限遠方に立ってるかのよう。遠近感が喪失していて、躰と相貌の位相が恐ろしくズレている。
リウは一拍だけ、その悍ましさに生理がざわつき、思考が止まる。だが、その次には、辺り環境——店の一角、飛び散った破片やガラクタやらが、カタカタと小刻みに振動してることに気づく。
その振幅は次第に増大し、辺りに四散している建造物の瓦礫、トラック、祭具、店ののぼり、それらが彼女の周りに集まっていく。それらが絡み合いながら凝縮し、目的を持ちうる形状に織りされていき、少しずつその意図が明瞭になっていく。五本の巨大な円柱を構成——手だ。
手、籠手、巨大な掌。その意図がわかる頃には、既に彼女の左半身に、不安定な縮尺のままに、その塊が躰に装着された。
続くように、左腕、右手、左足、胴体…元来、別の意図で制作されたはずの人工物の断片が、彼女にくだるように、本来の目的を取り戻した如く撞着されていく。そして、その一つ一つが、肢体を構成する組織のように脈打ち始め、着実に結合して繊維の筋の如く紡ぎ合って、収斂し、組織化していく。そして、その巨大化した躰を駆動させ、リウの行く手を阻む。
彼女は、管理root権限でこの都市の基盤構造インフラストラクチャに堂々と介入し、自在な方向に造りを変えていく。グリッチを操るリウと正反対の、秩序維持のために与えれた力で。
ぶおんと、軽く遊ぶように、少しだけその腕を彼女は振り回す。そこから繰り出される暴風で、リウは隣接する建物屋上の扶壁パラペットへと叩きつけられた。
全身に亀裂が走るような痛み——そこ初めて、リウの顔に焦りの汗が浮かぶ。ここでの決定的なタイムロス…これ以上足止めされると、最早、獣に追いつくことは叶わない。
そんなリウの焦る気持ちを足蹴にするように、既に3階建てのビルほどに成長した彼女——だが、途端に動きが不連続にたわみ、動きが緩慢になる。
「きた!」
この町をあらん限りの力で破壊をさせた、もう一つの目的。彼女があくまで管理者というなら、亰のシステムに支えれているはず。ならば、そのシステム自体に極端な負荷を与えてやれば、必ずスキが生まれる——その目論みが見事に成就した。
そして、その機をリウは見逃さない。参照可能な数あるグリッチの道筋をすべて放棄し、過去、今まで一回も実行してない動き、彼女が絶対に知らないグリッチを寸での間際で生み出し、虚を突く。そして同時に、彼女の今しがた作られた巨躯、その足の間を破裂するような勢いで過ぎ去っ——
「させない」
しかし、そこで彼女は、周囲のオブジェクトを吸引する威力を増す。暴風のようなその引力にリウも抗えない。
ヤバい…これは振りほどけない——そう覚悟した瞬間、
「お、お、お、おおおっらぁ!」
ユウリが、肉薄するふたりの鬩ぎ合い、そのど真ん中を目掛けて、なりふり構わず全身を撥条させ、投擲された槍のごとく突っ込んできた。
そして、勢いそのまま、最後、彼女のブラックホールに吸収される間際、ユウリは、とん、とリウの胸を押し、脱するための斥力を与える。ただの力ではない。反重力のグリッチ——その力を糧にし、リウはついに彼女の重力圏から振り解かれる。
ユウリが最後にくれた、光明。その力を一滴たりとも逃さず、与えられた運動量をそのまま足に流し込み、再び、彼は加速する。
振り返ることもせず、ただ前を見て、獣の行方を追いかける。
そのための、前に進むための一歩、躰を加速させるために振り上げる拳、加速するための動力を作り出す一拍。運動を組み上げるための弛緩と収斂を繰り出すごとに、確実に求める以上の速さを生み出していることを確信する。もはや自分の躰がイカレているのか、世界が崩壊しかけているのかも判別がつかない。自身と都市との境界がとろけ切って、流体として進んでいる感覚に埋没していく。惑いや、逡巡、他の雑念をその場に置いてきぼりにするほどのスピードで、意識を無為の中に突っ込むように加速する。定めらた限界は既に遥か彼方、その極限まで研ぎ澄まされた速度を更に鋭く、艷やかに——どの過去の自分も、気づけば既に遥か彼方に置き去りとなっている。
朦朧とした意識、しかしそのただ中にあっても、一つの思いが、灯火ともしびのように心奥に浮かぶ。
——亰の色んなAIが繋がり合って、接触し、想いを託しながら疾走り続ける、自分の姿を見る者達はどう感じるのだろうか?
スピードを失わないまま、自身の胸部に目をやる。最後、ユウリに触れた瞬間の感触が、まだ皮膚の中で反響していた。
リウのそんな思いも知らず、綿々と降り注ぎ続ける細雨。この微小の雨粒も、このスピードの世界では豪雨のように襲ってくる。肌を打つひとつひとつの粒がゆゆゆと楕円を描く感触、纏う空気の粒子、一つ一つも甘く感じる。加速を付けるたび、時間フレームの縁取りが鮮やかに際立って、自身の感覚が少しずつ、鋭敏になっていくのがわかる。自分を構成する界面が水面みなもの如くたわむ。疾る——ただそれだけの目的に最適化された形状フォルムに変幻していく実感。人であることを捨て、走狗の如き動物のよう。
そして、獣をついに視野に捉えた。その姿は噂に違わず、刻一刻と、その姿を変え続け、宙を疾走る。兎——獅子——幻獣——その輪郭は大家の筆先のように朧気な線をぐねりと捻りながらも、自身のかたちを失うことなく、蠢きながらもその重心はたしかに前へ前へと加速している。
負けぬものか——リウは、自身の躰に残った一滴の力を振り絞り、自分の躰に発破をかける。活性プロセッサが迸り、器官ウェアがまるで焼ききれるような痛みを発生させ、いっそ五感をすべて脱ぎ去りたいほどの衝動に駆られる。最後の一絞り、限界まで反った弓形のように、跳ねる——-ついに獣の尾を掴む。
「捉えた!」
蠢動する輪郭、流体のようなその首元を両手で抱く、振りほどかれぬように必死に掴み、そして、その体動に先の行方を任せる。彩色すら置き去りにされた、白黒に輝く景色の奔流をそのままに受け止めていると、地平の際がけ、未だ見ぬきわから発する燐光が目に刺さる。その地平、亰を定義する端、その境界を、今、またぐ——

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