くるくる廻れ、ハムスター

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梗 概

くるくる廻れ、ハムスター

移動や居住が制限される未来。人々は情報収集のためにARコンタクトレンズを使用している。時はハロウィン、灰色のスラムに異形のARグラフィティが乱舞する。弱者のリーは隣町スラムとの抗争に巻き込まれ、覆面グラフィティアーティスト※にもらったARペンで描いた銃を構える。逃げおおせたリーに覆面は「絵は世の中を変える」と告げる。

グラフィティは時間や他人と戦いながら、ダンスのようなストロークで描くもの。無許可のグラフィティは違法行為で、絵を描ききるにはスピード感と画力、そして抵抗力が必要だ。制約と禁忌はスリルを生む。

リーはホームレスのトンに描き方と戦い方を学ぶ。感覚を乱すARペンは攻撃、絵が動作する顔料は目くらまし、4Dスプレーは攪乱。警察と絵で戦いながら腕を磨き、「人の絵に重ねて描けるのは、より完成度の高い絵だけ」というルールの中で勝ち残る。街にリーのタグ※、ハムスターが出没する。

思想のない絵は弱い。リーはトンから教育を受け、絵は破壊力を帯びる。リーはスラムと富裕地区を隔てる境界壁に絵を描き、富裕地区のクレアと友情を結ぶ。境界壁の絵はすぐに消される。消されるグラフィティはゴールがなく、作家のエゴを無効にする。リーは自分が、限られた場所で回し車を廻すハムスターのようだと葛藤する。

富裕地区に入るには、ゲートでIDが受理される必要がある。クレアは偽造IDでリーを出入り自由にし、清掃AIが絵を消さない判定条件を伝える。AIはリーの絵を消さなくなり、人間も絵がクールすぎて消せない。クレアがARコンタクトの標準アプリのMAPをハックすると、絵が即時反映されるように。絵はMAPユーザに評価され点も入る。

スラムを高級住宅地にし、貧困層を一掃する計画が発表される。リーたちはグラフィティで工事を妨害、スラムの見た目を変えて住所と道標を上書きする。工事担当者はスラムから去った。

業を煮やした都市開発側は、隣町のスラムに金を与えて抗争を誘発し、共倒れを計画する。計画を知ったリーは隣町にグラフィティでの勝負をもちかける。隣町のトップアーティストの名はジャズ。二人はスラムの境界壁にそれぞれ絵を描く。勝った絵が表で負けた絵が裏。評価者はMAPアプリのユーザと観客だ。

リーはストロークとリズムから、ジャズがトンだと見抜くが躊躇しない。回し車は廻し続けなければならない。時はクリスマス、ARグラフィティで冷気が熱気に変わる。勝負の後にトンが見せた素顔は覆面アーティストと同じだった。リーは驚かない。リーはトンの今までの言動が、覆面の発言「絵は世の中を変える」に集約されると気づいていた。

クレアはMAPアプリをジャックし、グラフィティ合戦を中継した。リーは人気者になり、スラムは街ごとアートとして保存されることになる。リーはスラムを出る決意をする。街は変わり、別の人間が回し車を廻すだろう。今度は別の場所で廻るのだ。

↑******ここまでで1199字******

※グラフィティ…塗料を使って街に作品を描く行為や描かれた作品のこと。日本ではグラフィティアートやストリートアートとも呼ばれている。

※タグ…作家名や所属団体等を書いたものをタグといい、タグを記す行為をタギングという。作家本人しか読めないタグもしばしば存在し、何が描いてあるのかを認識してもらえないことも多く、動物の絵を使う人もいる。

文字数:1387

内容に関するアピール

グラフィティSFです。以前、グラフィティをやっている知人から、グラフィティの制作は時間との戦いだという話を聞き、書きたいなと思いました。グラフィティのスピード感とストリートのライブ感、熱い抗争を、グラフィティ用語をまじえて鮮やかにかっこよく書きたいと思います。

人々はスマホではなく、ARコンタクトレンズで情報を収集しています。スマホを持つと手放せなくなるのと同じで、レンズも一度着けると外して生きられなくなります。リーのレンズは標準仕様、富裕層のクレアのレンズはスペックが高いのですが、クレアはリーと出会い、レンズの性能が高くても得られない情報や感覚はあるのだと実感します。

トンはオッドアイで、覆面の時は目だけ見えるが、普段はサングラスをしている設定です。
(最後にサングラスを外して実は自分が覆面グラフィティアーティストだということを示します)。

文字数:373

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Writing On The Wall

0.First Encounter

息が苦しい。胸が破裂しそうだ。
 血の味がする。歯を噛みしめすぎたのか。
 リーは今までの17年間という人生の中で、最も本気を出して走った。
 10月末の夜、冷え込む空気の中、薄手のパーカー一枚でいるのに全然寒くなかった。
 昼には仮装した子供たちが練り歩いたであろう道に、今は化け物たちが跋扈している。リーの標準仕様のARコンタクトレンズでも、ハロウィン用に書かれたグラフィティは明確に認識できた。
 走りながら視線を横にずらす。オレンジ色の巨大なカボチャ頭、ジャック・オー・ランタンだ。ぎざぎざの口をかっぽり開けると闇が広がる。カボチャはリーを通せんぼすると、次の瞬間にぱっと弾けた。クラッカーの音とオレンジ色の破片が拡散する。
 リーが急いで通り過ぎると、緑色の長い服に黒髪の人影が現れた。死を予告する化け物、バンシーか。しかし銃口をこちらへ向けてきた。方向転換すると舌打ち音のがした。やはりグラフィティではなく実物の人間だった。
 ビルの谷間の路地に、人の背丈より高いごみ箱が並んでいた。リンゴが腐ったような匂いが充満している。ごみ箱の隙間に体を押し込め、リーは息をひそめた。
 遠くでパトカーのサイレンらしき音が聞こえる。しかし何事もなかったかのように通り過ぎていく。この第五地区のスラムでは、法律や規制など、あってないようなものだ。今回のような隣の第四地区スラムとの抗争とあれば、誰が死のうがおかまいなしである。
 リーは手を見た。血で染まっている。クラスメイトのジョナスの血だ。
 リーとジョナスは仲が良いわけではない。ジョナスは血の気の多いグループに属していたし、スラムで顔が効くチンピラとつながっていると聞く。どちらかというと避けたい人物だった。ただ、さきほど道脇で頭から血を流しているのが見知っているジョナスだと知ると、反射的に体が動いて彼を助け起こし、相手に頭突きを食らわせていたのだ。ジョナスは逃げたようだ。しかしリーも追われることになった。
 頬に冷たい感触がある。見上げると、針みたいに細い雨が落ちてくる。リーは立ち上がった。このままだと体が冷えて動けなくなる。
 広い道路に出た。追っ手は巻いたようだ。間もなく灰色の高い壁がそびえたつ場所に出た。自分がひどくちっぽけに思える。チンピラどももこの周辺で騒ぎを起こしたくないらしく人の気配がない。
 履きつぶしたスニーカーから水が浸み込む。リーはパーカーのフードを深く被った。ポケットに手を突っ込む。自分を大きく見せたくて、なんとなく横揺れしながら歩いた。すると、もとは瀟洒な洋館だったのだろうが、今は蔦に覆われて緑の小山のように見える建物に出くわした。コンタクトで位置情報Geotagを確認すると、建物は廃墟館と呼ばれており、そこを越えればリーたち第四地区スラムの安全地帯のようだった。
 庭の隅にタキシード姿の人影が見える。あのシルエットはバンパイアだろう。こちらに向きなおり、くわっと牙をむき出しにした姿を避けながら、リーは建物に入った。もう安心だろうと思った矢先、大きな人影に阻まれた。
「第五地区の奴だな?」
 まともに対峙したら叶わない。リーは踵を返した。しかし逆方向には別の人影らしきものが見える。囲まれたことを悟り、思考停止に陥って立ち止まりそうになった。
 周りを見渡すと、向かいの廃屋に人影が見えた。黒い服で帽子とマスクをしており、顔が分からない。廃屋の人物は銀色に光るものを振った。細い体がしなやかに弾み、リズムに合わせて踊っているようだ。片足を起点にしているのだろうか、動きは激しいのにぐらつきがない。空気を切る鋭い音が、リーの耳元まで聞こえてくる気がする。
 銀の棒から発される線は文字を形づくった。複雑な形の文字Letter。字は矢印で構成されており、リーに読めるメッセージになった。鏡文字だ。
『外を見ろ』
 リーが読み終えると、文字を構成する矢印がぶわっと膨らんで弾けて消えた。はっとして周りを見ると、ガラスの嵌った窓がある。ガラスを割って外を見ると、数メートル先の壁に鉄の足掛かりがあり、昇れるようになっている。
 窓から何かが飛び込んできた。キャッチして見ると、さきほどの銀の棒、文字を書いていたペンだ。塗料がにじんでいる。
「ここにいやがったのか」
 さきほどの大男がにじり寄ってきた。廃屋の人物が教えてくれた梯子になる足掛かりは、外壁の、ちょうど男の横あたりにある。リーは後手で素早く絵を書いた。
「逃げられないぞ」
 男が殴りかかってきた瞬間、リーは背側で書いていたものを出した。ハンドガンだ。右手でグリップ、左手でホールド、トリガーに指をかける。その動きに男はひるむ。リーはその隙に男に体当たりして倒し、相手が伸びている間に窓から身を乗り出した。夢中で足掛かりをつかみ、屋上へのぼりつめる。
 男が身を起こして辺りを見渡している間にリーは煉瓦館の屋上にのぼり、隣接するビルの非常階段に飛び移って安全地帯に逃れた。
 リーは自分を救ってくれた人物を探したが見つからなかった。闇に紛れて去ったのだろう。さっき受け取ったペンを出し、空を見上げて線を書いてみた。細い線が数秒間煌めき、儚く消え去る。スモッグだらけの空に現れた流れ星のようだった。

1.Illegal Action

ハロウィン抗争の翌日、リーは学校でボーっとしていた。
 学校は学級崩壊しており、明確な時間割などはない。学習においては各自でデバイスなどを用意してもいいが、ARコンタクトレンズに学習コンテンツをダウンロードすることで可能である。
 この国では3歳になったら手術を受け、ARコンタクトレンズ、通称LAULens of Augmented Realityを装着することになっており、LAU関連の法案はLAU法と呼ばれている。年寄りたちの中にはLAUがなかったころを代々の先祖などから伝え聞いている者もいたが、リーたちはLAUがない生活など考えられない。
 朝起きたらその日の天気やニュースを仕入れ、音声で知りたいことを検索できるのはLAUのおかげだ。声を出すのが嫌な場合、眼球運動による入力もできる。LAUの背後にいるコンピュータ、LAU-ConLens of Augmented Reality-Computerが認識可能な状態にすれば命令は伝達される。おかげでこの国の人間は記憶力が減退したが、検索力、特に小さな手がかりから目的に到達する力は飛躍的に伸びたと言われている。
 入国管理は厳しいにも関わらず移民が多いこの国で、政府は、より多くの人に働いてもらうために、言語と義務教育レベルの学習コンテンツを広く公開している。LAUが発達したのは、パソコンやスマートフォンなどのデバイスの材料が高騰したというのが定説だが、学習をより身近にするのと、行政の通達を行き渡らせるという目的もあると言われている。そのため、通学せずとも学習できるし、試験を受ければ比較的簡単に卒業資格を取れる。
 ではなぜ、リーをはじめとする生徒が学校に来ているのかと言えば、家に居場所がないのと、学校ではまずいながらも食事が出るからだった。
 リーは食堂で配られたトレイに目をやった。三つに区切られた穴には、穀物を固めた茶色い物体や、煮込んだ野菜や加工肉らしきものが入っている。甘さも辛さもない。それでも家にストックされたカラフルな錠剤や固形物、ケミカルな飲料よりましだ。
 家にある無料の配給食は、国が完全食を謳っているものだが、食糧マフィアで名高い企業が製造しており、依存性が極めて高くて数十年経つと神経をやられるという噂があった。薬をスナック菓子のようにボリボリ食べている同居人を見ていると、まんざら嘘ではないのかもしれない気がしてくる。
 まずい給食を食べながら、昨夜の情景を思い浮かべていたリーは、目の前に座った人間が顔を覗き込んできて驚いた。視線を上げると、スキンヘッドのジョナスが座っている。傷だらけの顔でボーダーシャツを着ているさまは囚人のようだ。
「昨日はよけいなことしやがって」
 切れた唇で喋りづらそうにしながら、ジョナスは言った。
「ごめん。今度からはなにもしない」
「違う、そうじゃないんだ」
 ジョナスは立ち上がろうとするリーを座らせた。
「ちゃんと言えなくて。あの、昨日、本当はありがとう」
 口ごもりながら呟くジョナス。いかついジョナスの体が急に小さく見える。
「昨日、逃げられて良かったね」
 リーは取りなすように言っておいた。
「ああ。化け物の映像の間をぬって逃げた」
「映像じゃなくてグラフィティだよ」
 指摘すると、ジョナスは顔をしかめる。
「同じだろ」
「いいや。グラフィティはその場でアーティストが書いてる。映像は事前に編集したものを流してるから、ライブ感が違うよ」
 映像とグラフィティは似て非なるもの、リーはそう思っていた。
 LAU法が制定・定着するとARペンが開発され、人々は紙やキャンバスなどに限らず、自由な場所に絵を書けるようになった。グラフィティは場所を問わなくなり、ギミックもつけられるようになったが、公共の場所において無許可で絵を書くのは犯罪行為である。
 グラフィティは絵画よりも映像に近くなってきたと言われる。しかし映像が加工済の完成品だとすれば、街にゲリラ的に書くグラフィティは生きものだ。内容は場所に左右され、書く行為には危険が伴い、時にはうまく書くための戦いburnが起こる。
「あの後、面白いアーティストを見たよ。一瞬で文字を書いていた」
 リーは昨日の出来事を一通り説明した。敵に追われたこと。謎のグラフィティアーティストにペンをもらったこと。それで銃を書いて事なきを得たこと。
「そいつ、とっさに鏡文字を書いてたのか? 手練れだな。第四地区のグラフィティのトップ、ジャズかもしれない。しかし相変わらずまずいメシだ」
 ARで成分検索しても不明unknownとしか出ない加工肉をほおばりながら、ジョナスは呟いた。いかついジョナスが17歳の少年らしい表情を浮かべており、なんとなくほっとする。同時に、話に集中して味覚を忘れていたリーも、急速に食事のまずさを実感した。
「トップが第五地区の俺を逃がすって、おかしくない?」
「ジャズは自分の規範を持ってて、独自の行動をとるって聞いた。単にお前が哀れだったのかもな。でもリー、お前も絵がうまかったじゃないか。落書きが似すぎてて殴られてたよな」
 以前、リーの隣に、ある動物によく似た生徒が座っていた。彼をその動物に似せた落書きをしていたところ、相手に見られて殴られた。相手のあだ名は子豚Piggyになった。
「その話はやめてくれ」
「昨日だって、相手が本物だと勘違いするレベルの銃を書いたってことだろ」
「俺のは自己流で、グラフィティを書いたことはないよ。でも昨日、書いてみたいって思った」
 昨夜リーは、帰宅後も興奮がおさまらなかった。謎のアーティストの、ダンスのようなストロークと鮮やかな動きが頭から離れなかったのだ。雨漏りのする狭い部屋で、リーは飼っているハムスターに餌をやり、物思いにふけった。ハムスターが食事をするチャクチャクという音の中、リーは夜空の流れ星のようだった線を思い出した。そしてデバイスを立ち上げ、自分が今までに書いた絵を見返した。モニターに表示される絵は知人や風景などのほか、ランダムに線が引かれた抽象的なものもあった。それらはきれいだったり、懐かしさを喚起したり、写真のように精密だったりした。しかし昨日見たものは、それらの絵とは全く別種の迫力と吸引力があった。
「グラフィティねえ。当たり前だけど、学校じゃ習わないしな」
 食べながら話すジョナス。
「違法行為だし」
 飛んでくる唾を避けながら、リーは付け加える。
「でも書きたいんだろ。前にグラフィティをやってたって奴なら知ってる。そいつに聞いてみようか」
「迷惑じゃないのか、その人、だって」
 グラフィティの多くは違法だ。それを教えてくれと言って、応じてくれるのだろうか。
「お前には借りがあるからな。これで返せばすっきりする。それにお前、友達とかいないだろうし、どうせ暇だろ」
 リーの言葉を遮って、ジョナスが言った。トレイに残っていた最後のひとさじを口に放り込んでいる。
「失礼だよ」
 ピアスでいっぱいのジョナスの舌を見ないようにしながら、リーは呟いた。

放課後、リーとジョナスは橋のたもとで待ち合わせた。橋はジョン・スミス橋と呼ばれているが、本当の名前なのかは分からない。
「こんなところにいる人が、グラフィティをやってるの?」
「絵で生計を立ててるわけじゃないらしい」
 水面を見つめながら、ジョナスは答える。水は濁っているが、第五地区の水の多くが汚水で、ここはまだマシなようだ。
「どうやって食ってるんだろ」
「流しの占い師だって聞いた」
 ふざけてるのか、とリーが言おうとしたとき、対岸の黒い塊が動いた。二人は橋を渡り、人影に近づいた。
「やあマナ」
 ジョナスの呼びかけに、マナと呼ばれた人影はこちらに向き直った。体格はリーやジョナスより小さいが、目元が全く見えない円形サングラスをかけていて、妙な迫力がある。「ガキ2人がなんの用だ?」
 すごいだみ声だった。黒服に、一つにまとめた真白な髪。パンツから見える足には、真っ赤なペディキュアと不死鳥の刺青がほどこされていた。
「ガキで悪かったな。マナ、グラフィティ書いてたんだろ? こいつに教えてやってくれないか」
 頼んでいるわりには殊勝さが感じられないジョナスの声。マナは顔を向けずに言った。
「グラフィティは教えるものじゃないし、教えられるものなんかないね」
「でもこれ、あなたが書いたんですよね。ARペンじゃなさそうですけど」
 辺りを見渡しながら、リーは確認した。暗がりに目が慣れてくると、橋の下は絵で溢れていた。ひび割れたコンクリートのキャンバスで、こちらを見つめる魚や動物たち。
「動物園や水族館にいるみたいですね。行ったことないけど」
「人間の方が見られているという趣向だよ」
 そう言われて、リーは壁を見直した。動物や魚たちはこちらを覗き込んでいるように見える。檻や水槽の中にいるのは人間の方か。その時、夕方の光が差し込んで、対岸の橋の壁が見えた。二人の天使がほほ笑んでいるが、彼らが着ているのはパステルカラーの防弾チョッキだ。
「消されてないんですね」
消すbuffことはできるけど、そのための画材がいるからね。ARほどは手軽に消せないし、この辺の警察はそんな気骨はないだろう。消えた方がいい時もあるがね」
 川の水面に石が飛んでいく。ジョナスはマナとの会話に飽きたようだ。一方リーは壁をずっと見つめていた。絵巻物のように書かれた絵は、いくら見ていても飽きない。
「ところで、なんでグラフィティをやりたいと思った?」
「昨日、すごいグラフィティアーティストに会ったんです」
 マナの質問に、リーは勢い込んで昨日の出来事を語った。
「その絵っていうかメッセージが、生きてるみたいで」
「単に文字が書いてあっただけだろ?」
 熱弁するリーに、マナは腕組みをしながら言う。
「そうかもしれないけど、矢印でできた文字Letterを見たら、今までとはもっと別のものを見ろって言われた気がしました。あの矢印、第五地区のシンボルだと思う」
 右向きの矢印は、ここ第五地区の象徴だと言われている。
 第五地区に隣接する中央地区はこの国の政令指定地区の一つで、5つのスラムに囲まれている。中央地区とスラムの間には強固な壁があり、簡単に出入りできないようになっている。リーが生まれるずっと前に莫大な金をかけて建設されたその壁は、大壁The Big Wallと呼ばれている。
 リーたちのいる地域は、中央地区周辺では5番目にできたスラムで、壁設立の際に最後まで抵抗した。その時に第五地区のスラム側で使われたシンボルが矢印だったのだ。当時導入されはじめたLAUの入力時に一番右端に表示されるのが右矢印で、選択しやすいというのが理由だったが、次第に右向きの矢印は未来、希望、抵抗の象徴を意味するようになった。
「考えすぎな気がするがね」
「いいんですそれでも。俺、今まで多分、正気でいるために絵を書いていた。でも書ききれてないと思ってた。だからもっと伝わるようにしたくて」
 小さなマナの呟きに、リーが畳みかけるように言った。
「昨日、グラフィティで命拾いしたのかもしれん。だからといって、もし誰かを救うためにグラフィティをやりたいということだったら、別の方法を考えな」
 マナは吐き捨てるように言った。
「そんなこと思ってません。ただ俺は昨日、ジョナスがやられっぱなしなのも、自分がやられるのも嫌だったから勝手に体が動いた。それでもっと書きたいと思った。それだけです」
 きっぱり宣言するリー。数分後、マナは言った。
「教えるっていっても、教えられることはないよ」
 マナは細いペンを取り出し、空中に書いた。線は見る間に魚になり、水面に音もなく飛び込んで消えた。ジョナスがぎょっとしたように顔を上げる。
「ありがとうございます」
 リーはぺこりと頭を下げた。
「あと、グラフィティを書く奴をライターって呼ぶ。覚えておけ」
正す人Righter?」
書く人Writerだ。もともと文字Letterを書いてたから、そう呼ばれる」
 きょとんとするリーに、マナは呆れた顔をした。
「グラフィティを全く知らないのか。ちょっと行くぞ」
 そう言うと、マナは橋の上に駆け上がってリーとジョナスを手招きした。その軽快な身のこなしに圧倒されながら、リーたちは後を追った。
 いくつもの路地を渡ると、三人は大きな広場の正面に出た。目の前にあったのは、神殿に球体がのったような形の建物だった。今は損傷が著しいが、もとは美しかったのだろう、蔦の絡まる彫刻のなされた柱や、無数の葉がつながって球の形になっている屋根の彫刻は繊細かつ流麗である。
 マナはエントランス階段を用心深く昇っていった。建物はかなり崩れ、古色蒼然としているが、内部の白い大理石や石板の黒い御影石のかけら、赤い絨毯の残骸と金色の調度品など、もともと豪奢な空間だったことが偲ばれる。
 場内はたくさんの台座があったが、上部には小さな石や粉々になった樹脂などしかなく、略奪された後のようだった。そのまま奥のフロアに入る。
「どかせ」
 頭ほどの大きさの石が積もった場所を指さして、マナが言う。
 リーたちが顔を合わせていると、マナが不機嫌そうに告げた。
「ここは地下の入り口で、出入りの度に隠すようにしてるんだ」
 二人がいくつか石を取り除くと、人ひとりが四つん這いになってやっと通れるくらいの穴が出てきた。三人が這って階段を降りると、高い天井が現れた。
 地下フロアは手つかずで残ったようで、台座には像があり、壁には油絵や水彩画、タペストリーなどがかかっている。見渡しているリーをよそに、マナはずんずんと進んでいく。
「遅い。置いていくぞ」
 追いつくと、そこには版画や壁画が飾られていた。周囲を見渡してもARアイコンは見つからない。LAU導入前の施設なのだろう。壁画はスプレーやステンシルで書かれており、狂暴さと破壊力に満ちている。
 リーとジョナスはじっと見入った。ここがもともと美術館で、展示物がアートなのだということは何となく分かったが、今見ているものはグラフィティに近い印象だ。
「なんだか分かるか?」
「グラフィティに似てるけど、ものに直接書いてありますね」
 昨日のグラフィティを思い出しながらリーが答えると、マナは頷いた。
「そう、かつてグラフィティは、壁や建物にペンやスプレーで直接書くものだったんだよ。もともとヒップホップ・カルチャーの一部だったグラフィティは、より完成度の高い絵だったら上書きしてよいというルールで、どんどん洗練されていった」
 リーたちは壁のグラフィティを見た。題材は、敵対していた政治家同士のキスや、踊る骸骨、撃たれた札束など、不穏なものが多い。
「かつて、ある国の壁に書かれたグラフィティが戦争を導いたことがあった。以来、ライターじゃなくて画材製造元に圧力がかかるようになった。個人より企業の方が介入しやすかったんだろう。今じゃ、かつてのような塗料はほとんど手に入らなくて、AR以外の、実物に書くグラフィティはオールドグラフィティと呼ばれていた。今じゃ美術館でしか見られないがね」
「ここにあるものや、さっき橋で見たものはオールドグラフィティなんですね。でも実物に書いたら、消せなくなるんじゃないですか」
 素朴なリーの質問に、マナは頷いた。
「ああ。今は消すbuffのは簡単になった。グラフィティは相変わらず違法だがね」
「LAU法では、空間を一定時間占拠するのも違法ですからね。でもここにあるものは、簡単に消せないおかげで、今俺たちが見れるんですね」
「そう、グラフィティはもともと書かれた場所の人たちのもので、短命だったはずだ。こうやって残っていること自体、かなり特殊なんだと思う」
 マナは誰に言うともなしに言った。リーは橋に書かれたグラフィティを思い出し、あれはずっと残ってほしいと思った。

以降、リーは数日おきにマナと行動を共にするようになった。目立たないように夕方以降に行動し、行動範囲は第五地区の至るところだったが、マナは中央地区との間にある大壁には近づかなかった。
「大壁に書けるようになるには、力とスピードが必要だ。それにすぐ消される。慣らしてからにした方がいい」
 リーが尋ねると、マナはそう答えた。
「そもそも、書くのが好きな場所とかあるんですか?」
「本当は壁に書くのは好きだよ。あとは高い建物。ダイナミックなグラフィティが書けるからね」
 確かに、とリーは納得した。
 グラフィティ活動中、警察に絡まれたことは何度かあるが、注意されてひるむマナではなかった。その場では謝って立ち去るが、書いていた絵を完全に消すbuffことはせず、一時的に見えないようにしてやりすごすのだ。
 マナの持っている画材は、リーが見たことのないようなものばかりだった。
 例えば写実性に優れた描写ができるペン・RePencilは、書いたものの名称を登録すると画材の方で補正する。ある時、通行人にいきなり殴りかかられたことがあった。その時はRePencilで煙幕の絵を書き、煙に紛れて逃げた。煙は無害だ。しかし絵は限りなく実物に近く、五感に錯覚を起こさせたようだ。煙を吸い込んだ相手はひどくむせていた。
「逃げてばっかでいいんですか」
「今はいいんだ。お前逃げ足速いな」
 マナはにやりと笑った。もっとも彼女は常にサングラスをしているので、口元でしか判別できないのだが。
「俺、実の親父によく殴られたんで、逃げるのだけは早いんですよ」
「苦労してるんだな」
「でも、今の家にいられるのは逃げ延びた結果だし、育ての親が俺を学校にやったおかげで今ここにいる。その点には感謝してます。ただそろそろ、逃げる以外の選択肢を採りたいですね」
「そのうち戦うさ。通行人には手を出すな。私たちが戦っていいのは警察とライターだけだ。戦わなきゃいけない時は爆弾bombを投げる」
 その機会は、意外とすぐにやってきた。マナがスラムの中心街、ライブハウスやクスリを売っている店の近くでライティングをしている時、ジャージ姿の男がやってきて、隣で絵を書きはじめた。マナとリーがネズミを書けば、相手は猫を書いてネズミを飲み込ませようとしてくる。
「ちょっとやるぞ」
 相手が少し離れた時、マナが小さな声で言った。
「反撃ですか」
「あいつが、こっちよりもうまければほっとくが、そうでもないんでね」
 絵のネズミにライフルを持たせ、銀色の缶に入ったスプレーを振りかける。するとネズミは元の手ぶらな状態に戻った。男が猫を完成させようとした時、マナは再度スプレーを振りかけた。するとネズミはライフルを乱射して猫を攻撃した。猫は目を回して倒れ、ネズミに齧られて消えた。男は拳を振り上げて追いかけてくる。
「何したんですか」
 相手を撒いたことを確認してからリーが尋ねると、マナはにやりと笑って言った。
「これは4Dスプレーで、書いたグラフィティの時間を少し戻す。私の絵の方が完成度が高かったから、上書きして消してやったのさ。目くらましにはちょうどいいのでね」

グラフィティ活動のせいで、リーは学校で始終ぼんやりしていた。食堂でまずい昼食を流し込んでいるとジョナスに会った。
「よう。マナとグラフィティ書いてるか?」
「この間、ライブハウスの近くの路地に書いたりしたよ」
 答えると、ジョナスは目を輝かせる。
「あのグラフィティ、ライブハウスのオーナーがかっこいいって褒めてた。イベントの時に書いてほしいって言ってたぞ」
「イベントでグラフィティか……書いてみたいかな」
 その呟きに、ジョナスは反応する。
「じゃあ、話繋げておくよ」
 後日、ジョナスから話を聞いたリーが、ライブハウスの件をマナに持ちかけると、彼女は気が進まないと言った。
「でも、いつもと違う場所で書くのもいいと思うんですが」
「じゃあお前一人でやりな。一人で書く機会があった方がいい、ちょうどいいさ」
 そう告げるとマナは、画材の詰まったリュックをよこしたのだった。
 リーがジョナスと共にライブハウスへ行くと、ライブがはじまる前だった。ジョナスはステージに近づき、指示を出している女性に声をかけた。
「エレナ、グラフィティ書ける奴つれてきたよ。リー、こちらはオーナーのエレナ」
 リーはエレナと呼ばれた女性と握手した。彼女はリーの手をがしっと握った。黒いライダースジャケットがよく似合っている。
「来てくれてありがとう。あなたのグラフィティ、素敵だよ。近々、今から音出しするバンド『アッシュ』のライブがあるんだけど、イベント用のグラフィティ書いてもらえるかな?」
 長い黒髪を払いながら、彼女は言った。
 ライブハウスは壁面・ステージ・客席共に黒く、グラフィティの書きがいがありそうだ。
 その時音が鳴り響いた。『アッシュ』はボーカル、ベース、キーボード、ドラムの4人構成だった。細身のボーカルのハスキーボイスが響きわたる。目を閉じて体を揺らし、ビートにあわせてステップを踏みながら会場を歩き回ると、イメージがいくつも浮かんだ。
 ライブの当日、早めに家を出ようとすると、ハムスターがぐったりしていたので、リーはケージに温熱パッドを入れてやった。そしてライブハウスに着くと、すぐさまライティングを行った。曲は聞きこんでいたので、イメージに合わせて書くだけだった。仕込みも終わり、会場を開けると、ライブハウスはすぐに満席になった。リーにはVIP席が準備されていたが、フロアの熱狂を味わいたくて観客にまみれた。
 空間にはさまざまな幾何学模様が浮かびあがり、音の高低やリズムによって変化する。幻想的な曲が流れると、模様はさまざまな形となって幻覚をもたらす。メロウな曲では波のように光が揺れ、スピーディな曲では色彩が高速で切り替わる。
 映像の立体感はARペン。みんなの気持ちを上げたくて、リーは音に身をまかせながら4Dスプレーで抽象的なグラフィティを書いた。ロールシャッハテストの絵に似たその形象は、観客たちに既視感と不安をもたらす。スクリプトペインターでグラフィティが動く仕掛けも作った。観客はアシッドな音楽と絵に取り巻かれ、感覚がずっと高揚していた。
 ライブが大盛況に終わり、祝宴もひととおり終わった後、ボーカルがリーに握手を求めてきた。
「今日は最高だった。ありがとう」
 リーより頭一つ分小さい彼の手は、握ってみるとがっしりしていた。いろいろな色が混じった髪の間からのぞく瞳は紫と金色が入り混じる。
「おめでとう。素晴らしい音楽だった」
 リーが褒めると、ボーカルが笑顔になった。
「歌詞も読みこんでくれたんだよね。グラフィティが歌の心象風景にすごく合ってた。あと、図形が形を変えて矢印になるやつ、あれはこの第五地区の象徴だよね」
 リーは曲を聴きこんでグラフィティを書いており、矢印は抵抗を謳う曲に合わせて起用した。しかしむしろ、それでいいのかという不安もあった。
「俺の解釈に観客を巻き込んでいいのか不安だった」
 リーの言葉に、『アッシュ』のメンバーたちは首を横に振る。
「客は、ステージで見せられるものに巻き込まれたくて来るからいいんだ。君は誠実だな」
「でも、自分の負の情念を押し付けていいのか迷ってるところだったんだ。そういうのって、見せられても困るだろう」
 考えながら呟くリーに、ボーカルはまっすぐ目を覗き込んできた。
「そんなことはない。満ち足りた人間を見ていい気分になるのは満ち足りた人間だけだ。そして、俺たちの周りにいる人間は満ち足りてなんかいない。中央地区でライブをやったら第五地区の人は来られない。でも中央地区の人間はこっちに来られるんだ」
 黙っていると、ボーカルは畳みかける。
「不満や不安、怒りや悲しみは覚えておけ。負の情念は使いこなせば武器になる。例え批判されても、批判される覚悟がない奴に何かを表出する資格はない」
 ボーカルの語気が強まる。
 リーはゆっくりと頷いた。消化しきれていない言葉を反芻しながら。
「グラフィティ、またお願いできるかな。あと、今日の支払いだけど、どうすればいい?」
 リーの肩に手をかけながら、エレナが言った。甘ったるいタバコをくゆらしている。銘柄のARアイコンを表示しようとしても不明unknownとすらも表示されない、非合法のハッパ。
「相場とか分からないんですが、いつもどうしてますか」
「そうねえ、酒かクスリが多いけど、そんなんで良い?」
 リーの親は酒とクスリで破滅した。首を横に振る。
「キャッシュ以外で欲しいものがあれば、それでもいいよ。けっこうツテはあるから」
「じゃあ、グラフィティの画材、手に入りますか」
 ものは試しとばかりに言ってみる。
「画材って、あの、ARペンとか?」
「そうです。今あるの切れそうだし、なかなか手に入らなくて」
「こっちだと、普通に手に入れようとすると難しいかもね。でも大丈夫だと思う」
 頼みこむと、エレナは言ってくれた。
「ありがとうございます、そしたらすごく助かります」
 リーは、最新の画材をふんだんに調達してくれるならば、ここでずっとライティングをしてもいいと思った。
「俺たちはここに泊まって飲んでくけど、お前もどう?」
 荷物をまとめはじめたリーを見て、ボーカルが言った。
「ありがとう。でもいったん帰るよ。ペットのハムスターの調子が悪そうで気になってるんだ」
 リーの言葉に、『アッシュ』のメンバーが笑った。
「ハムスターか。大事な用事だな」
「名前はなんていうんだ?」
 残っていたジョナスが聞いてきた。
「特にないよ」
「だったら名付けてやるよ。『チャーリー』ってのはどうだ。クスリの隠語だけど、かわいいだろう」
 家に着き、部屋に入ると、チャーリーは何事もなかったように回し車の中にいた。リーが覗き込むと、つぶらな瞳が一瞬こちらを見て、あとは素知らぬ顔をして廻りはじめた。白とベージュの丸っこい体が回し車の中で躍動する。カラカラという音を聞きながら、リーは眠りに落ちた。

2.Dance Graffiti

リーは自分のライティングスタイルを獲得しつつあった。ライターのスケッチブックPeace Book の類は用意せず、何も考えずに書きはじめる。通行人がいる場合はしゃべりながら、いない場合は景色を見ながら、アイディアが沸いてくるのを待ち、まずは線をひくのだ。
 書きはじめている時は、いいグラフィティが書けるような気がしている。しかし通行人や他のライターが邪魔してくることもあるし、周囲も暗くなってくる。時間や他人と闘っているうちに、だんだん自信がなくなってくる。だが絵の全体像が見えてくると、わくわくして充実感に満たされ、ダンスのようなストロークで書けるようになるのだ。
 最初は警察や他者の眼が怖かったが、次第に恐怖はスリルに変わった。高揚感と緊張感は、絵に密度と力を与えてくれる。それにエレナが書くための道具を提供してくれるようになり、できることの幅も広がった。基本ツールのARペン、物理的・時間的な動きを与えるスクリプトペインターやADスプレーなどの画材のほか、作業効率を上げる倍速ローラーや、かなり高いところにも到達できるロングラダーなども提案してくれた。
 リーが行動範囲を広げ、第五地区は大体おさえたと思っていた頃だった。
「もうお前に教えられることはない。今度からは一人で書きな」
 路地いっぱいに広がったリーの絵を見つめながら、マナが言った。リーは頷いて彼女をぎゅっと抱きしめた。マナは黙ってリーの背中をさすってくれた。
 リーは独り立ちした時の目標を立てていた。スラムと中央地区の間にある大壁に書くのだ。大壁にはゲートがあり、LAUに登録されているIDが受理されれば開く。中央地区の人間に招待されればゲートに入れるが、24時間の期限がついている。大壁には人間の監視員や見回りのAI、監視カメラが待ち構えている。
 かつてはスラム側の人間で、中央地区側の日雇い仕事に就いた者はゲートを通れたが、
中央地区が提供する仕事が、AIよりも人間がやった方が安くつくような劣悪な仕事ばかりだったので暴動が起き、今ではそういった人員はほとんどいなくなった。
 最初はスラム側の大壁に書いてみて、警備の様子を見てみた。一定の間隔で見回りが来るが、警備兵はアウトソージングで来た者でスラムに詳しくなさそうだし、警察も上っ面のコースをなぞっているだけだった。
 大壁の維持費は莫大だと聞いていたが、それは中央地区の内側の話で、スラム側で費用は払えるはずもないようだった。最初は中央地区側から予算をもらい、おこぼれのAIやドローンを使っていたりしたようだが、すぐに金は底をつき、ドローンやAIは盗まれた。雇われ警備兵は、大壁そのものではなく、残った機材を見張るためにいるようなものだった。
 リーは夜中に大壁へ近づき、小さなグラフィティを書いた。LAUのナイトビジョンのおかげで、暗がりでも問題なく書くことができる。そしてグラフィティの数を重ね、次第に大胆になっていった。絵は大きくなり、滞在時間も長くなる。リーがタグWriter’s signatureにハムスターを使いはじめたのもその頃だった。モデルはもちろんチャーリーだ。ライター名はリーのままにした。凡庸で記憶に残らない名前をそのまま使いたかった。
 ある日リーはジョン・スミス橋のたもとに行った。エレナから調達した画材をマナに渡そうと思ったのだ。彼女は不在だった。水辺で寝転んで待っていると眠り込んでしまったようで、気づけば川に落ちていた。幸い雨が降ったばかりで水はそこまで汚くなかった。リーがパーカーを絞っていると、マナがにやにやして言った。
「水泳とは呑気なものだな」
 呑気ってあなたはどうなんですか、と言おうとして、リーはふと思い当たった。マナのもとを訪れるのは夕刻の決まった時間帯だ。真昼間や深夜に訪問したこともあるが不在だったのだ。
 リーと会っていないとき、マナは何をしているのだろうか。ジョナスの言う通り、占いをやっているのだろうか。聞いてみたいが、聞いてはいけないような気もする。その時リーは、マナのことをほぼ知らないことを実感した。
「たくさん書いた方がうまくなるかと思って、寝不足になってて寝ちまいました」
「技術的にうまいだけのライターになりたいのか? お前が最初に言っていた『伝わる』グラフィティは、うまいだけの絵なのか」
「書かなきゃわからないとかとか言ってたくせに、どうすればいいんですか」
 むっとして言い返すリー。
「やみくもに書けばいいってもんじゃない。最初はいいかもしれないが、その段階は過ぎたはずだ」
「そんなこと言われても。それとも座学でもしろってことですか」
「いいとこついてるぞ。勉強しろ」
 最近では教師でも言わない言葉だ。リーは困惑した。
「お前が手をつけはじめている中央の壁では、昔何があったか知ってるのか」
「大体100年くらい前に壁ができはじめたとか、富裕地区とスラムを分断するためのものだってことは知っています」
 リーの回答に、ため息をつくマナ。
「そうじゃない。現地の人間がどう思ったか、そして今どう思っているか。グラフィティは、書かれた場所の人間のものだろう」
「学校じゃ教えてくれないですよ」
 言い返すと、マナはにやっと笑って言った。
「それじゃあ教えてやる。私の祖父の祖父の祖父、ダニエル・トールチーフが語っていたという、大壁ができた当時の話を」
 マナにとっての祖父の祖父の祖父とは、リーにとっては祖父の祖父の祖父の祖父だ。随分前の話だが、壁ができた当初のことを聞けるのはありがたい。
 マナ曰く、過去には複雑な国際問題がからみあって壁が設立された国もあったが、この国の中央地区の大壁は、表向きは経済上の問題で作られたとのことだった。
「そんなことしたら、貧富の差が激しくなりますよね」
 リーの言葉に、マナは頷いた。
「いったん内側に集中して投資し、経済を強固にしてから全体を立て直すのが目的だったと言われている。あくまで理論上の設計者の弁だがね」
「それだと、経済基盤ができたら大壁は撤去される気がしますが」
 素朴な疑問だったが、マナは首を振りながら言った。
「簡単な話だ。莫大な金をかけてつくった大壁を撤去するには金がいる。そして、内側には外側の状況を知らない世代が増えた。そうするとどうなる? 人間は知らないものを怖がる。内側の人間は、壁がないと生活が脅かされると思ってるんだ」
 大壁の設立にあたりスラム側への通達はなく、壁に当たる部分に住んでいた人々は突然追い出されたという。ダニエルの家は壁の近くだったが、ある日突然AIたちがやってきて立ち退きを強要されたそうだ。
「ダニエルはAIを素手で殴って破壊した。修理工が来た時に、工事をやめろとくってかかったそうだ。でも相手は『いつの日か、内側の様子を見たいと願うだろう』と言ったそうだ。ダニエルは、自分たちが外側であることと、内側に行けなくなることが分かったそうだ」
 一息つき、マナは言葉をつづけた。
「ダニエルはライターだった。絵を書く傍らタロット占いで生計を立てていた、私のようにな。よく当たる占い師だったそうだ。それで大壁のことを占ったら、最悪のカードが出たらしい。以来占いをやめたと聞いた」
「でも第五地区は、最後まで戦ったんですよね。それは学校で習いました」
 リーの言葉に、マナは頷いた。
「ああ。ダニエルは、自分でできる抵抗として、完成する前の大壁にグラフィティを書いたんだ。目で見える状況と、占いの結果がどちらも最悪だから、せめて絵で世を変えられたらと思ったんだろうな」
「状況は変わらなかったんですか?」
「悪化するばかりだったそうだ。writing on the wallという言い回しを知ってるか?」
 リーが知らないと告げると、マナはため息をついた。
「旧約聖書から来てる言葉で、王に危機を知らせるメッセージが壁に書かれたことから『悪い兆し』を意味するそうだ。ダニエルは、自分のライティングが悪い兆しになってしまったと言ってたらしい。でも、せめて雰囲気を明るくしようと、パステルカラーにしたって聞いた。この橋の下のグラフィティは、ダニエルの絵の要素を少しだけ取り入れた」
 ああ、とリーは納得した。だからグラフィティの天使は、パステルカラーで防弾チョッキを着ているのか。
「ダニエルさんのグラフィティ、壮観だっただろうな」
 リーは大壁いっぱいのグラフィティを思い浮かべようとした。
「グラフィティは生きてる。いずれ消えるから輝くんだ。私がいくら真似して書いたって、ダニエルが書いたものを再現することなんてできない」
 マナは言い放つと、川に石を投げ入れた。波紋は複雑な模様を描き、やがて消えていった。

リーはスラム側の大壁のグラフィティを続けた。するとリーに感化されたのか、次第に別のライターのグラフィティが増えていった。文字や人間、武器や兵士、猛獣や鳥などのシンボリックで力強いグラフィティが書かれ、大壁一帯に漂う。
 最初のうちはリーのグラフィティに挑戦する者もいた。しかし次第にリーの作品は誰も手をつけなくなった。むしろリーのグラフィティに呼応するような絵を書く者が増えた。大壁から突き出す銃口を書けば少女の標的を、散りゆく花では殺虫剤を、巨大化するテディベアには踏みつぶされる兵士を。グラフィティはランダムに成長と増殖を続けた。
 大壁周辺のグラフィティが活性化していることを告げると、マナは頷きながら言った。
「スラム側の大壁とは対話できたみたいだな。こっちが分かったのなら、内側へ行け。片側だけじゃ書いたことにはならない」
 リーは途方に暮れた。スラム生まれスラム育ち、劣悪な家庭環境、身元保証人は血のつながらない施設の職員。そんなIDがゲートで受理されるわけもない。リーのIDで自慢できる点は、逮捕歴がないことだけだ。
 どうすればいいのか考えながら、リーはスラム側の大壁にグラフィティを書いていた。通行人にも顔見知りができて、話しながら書きはじめるというルーチンができていた。ふと強烈な視線を感じた。カーキのパーカーのフードを目深に被っている。観客は一人減り、二人減りして、最後はその強い視線の主だけになった。
「グラフィティが好きなのか?」
 話しかけると、相手はびくっとしていた。
「あんたの絵は好きだよ」
 変声期前の少年のような、独特の澄んだ声だった。握手しようと手を差し出すと、相手もつられて手を出した。その衝動でフードが落ち、顔があらわになる。
「あ」
 相手は慌ててフードを被った。しかしリーはしっかりと目撃した。年の頃は20歳前後、リーと同年代の女性だった。薄汚い風景の中、ショートボブの燃えるような赤毛が目に焼き付く。
「俺の絵を見たことあるんだ。君と話したことはないと思うけど」
 フードの奥の鋭い瞳がこちらを射抜く。緑色だ。リーは昔近所にいた黒猫の、ピスタチオのような瞳を思い出した。
「ライブハウスで書いてたでしょ。あれ、すごく良かった」
「ありがとう。君も書くのか?」
 相手は首を横に振った。
「私はライターじゃない。そもそも目にする機会があまりなかった」
 リーははっとした。リーは第五区のいたるところに書いている。それをあまり見たことがないということは。
「君、内側の人?」
 相手が走り去ろうとしたので、リーは追いかけた。
 第五区と中央地区をつなぐゲートは一つしかない。リーは近道を使ってゲート近くに隠れた。するとさきほどのカーキのパーカーが近づいてきた。リーが立ちはだかると、相手は構えて体当たりしようとしてきた。
「ちょっと待って。話がしたいだけなんだ」
 相手は立ち止まった。こちらの様子を伺っている。
「好きなだけグラフィティを見せるからさ」
 その提案が気に入ったのか、カーキの人影はゆっくり頷いた。

相手はクレアと名乗った。リーの推測通り、内側の住人だという。
「中央地区では、優雅で自由な暮らしを謳歌してると思ってるのかもしれないけど、そんなことないからね」
 ゲート周りは荒れた道路しかなかったので、二人は道路の端の大きな縁石に座っていた。尖った石が尻に刺さって痛い。見れば誰かがジオタグを残していた。拡大して見ると「クソ野郎Motherfucker」と書いてある。
「思ってないよ。そっちはそっちでいろいろあるだろうし、そう単純じゃないだろ」
 拍子抜けした表情のクレアに、リーは重ねて告げる。
「俺、ハムスター飼ってるんだ。チャーリーっていうんだけど」
「あんたがタグに使ってるやつ?」
 話が飛んで面食らった様子だったが、クレアは一応話を合わせてきた。
「そう。チャーリーはケージにいれてるんだけど、ある日、かわいそうになって外に出したんだ」
「逃げたの?」
 リーは、いいや、と言った。
「逃げたらそれでもいいと思ったけど、逃げなかったんだ。その場でぐるぐる廻るとケージに戻った。見たことのない景色に怯えたんだろうな」
 リーは空を見上げた。汚染物質が充満していて、目を凝らしても星は見えない。
「行動範囲が広がっても、準備できてないと立ち往生する。ケージの外はもっと大きいケージに過ぎないのかもしれないけど、その事実にも気づけない」
 クレアはリーの顔を見つめた。
「あんたって変わってるね。外側は内側に敵意を持つ人間ばかりだと思ってた」
「それは決めつけだよ。俺も君を決めつけてるかもしれない。どうして外側に来てる? こっちのグラフィティとか音楽の雰囲気が好きなのかもしれないけど、内側の方が情報は豊富だろ」
 ごみのような情報を付加されたジオタグや、風に吹かれて転がってきた実物のひどいごみを足でつつきながら、クレアは言った。
「子供の頃、家庭教師にお願いしてこっちを覗かせてもらった。お金のない人が住む場所を見るのは衝撃だった。その時以来、私は免除されていると感じていた。すぐそばにある荒れた世界から、まったく影響されずに免れていると」
 黙り込むリーに、クレアは言葉を選びながら言った。
「外側では、他の人と同じようにおとなしくしていれば安定した暮らしができる。でも、ただそれを享受していいのかって思ったし、従ってると発狂しそうになった。壁の向こうへ降りていってはいけない、その抑圧に抗いたかった」
「おとなしくしてるのがつまらないってことか?」
 素朴な質問に、クレアは噴き出した。
「真面目に答えて損した。でも間違ってないかも」
「君がこっちを見たいのと同じように、俺も内側を見たいんだ。大壁のそっち側にグラフィティを書きたくて」
 語るリーに、クレアは首をかしげて言った。
「私が申請して招待すれば、24時間なら滞在できる。まずそれでいい?」
「ありがとう。じゃあ招待してくれるか?」
 数日後の夕暮れ時、二人はゲート近くに集合した。ゲートは大仰な設備があるわけではなく、通過するとカメラが作動して灰色の扉が開くだけだった。リーがクレアに続いて入ると、扉は難なく開いた。
 リーは内側について事前にいろいろ想像を巡らしていたが、まずはどこにも銃弾の跡がなく、それどころかごみも落ちておらず、商店には物品であふれていて盗む人はおらず、扉が凍結された建物がないことに驚いた。建物の歴史や素材、植物の種類や特徴など、あらゆる情報が洪水のようにLAUへ飛び込んでくる。外側のように情報が古かったり、猥雑な言葉に書き換えられていることはなく、適切に更新・管理されている。最初はLAU内にポップアップが飛び回って目がくらみそうだったが、慣れると不要なものはスルーできるようになった。
 内側はグラフィティの類は一切なかった。リーはグラフィティをやるにあたって目立ちたくなかったので、夜になるまで待った。しかし内側はスラムと違ってずっと明るいし、暗いところがあっても人の気配があると灯がついてしまう。それでもリーは小さなグラフィティを書きbomb、ハムスターのタグをつけた。
 翌日、リーは再びクレアと内側に入った。昨日書いたグラフィティをチェックすると、全て消えていた。念入りに確認していると、クレアが溜息をついて言った。
「もしかしてグラフィティ書いた? ないなら清掃AIに消されたんだと思う。あれ、落書きって認識すると消去するプログラムが入ってるんだよ」
「そうなのか。詳しいな。てっきり別のライターに上書きされたのかと思った」
「清掃AI開発のバイトしたことがあるから。あと内側では、上書きするライターgoing overはいないかな。こっちのライターは許可された場所でしか書かないから」
 無許可でグラフィティを書くのがライターの証ではないとは思うが、内側のライターは、好きな場所に書けないのにやっていて面白いのだろうか。リーは疑問を抱きながら、どうしたものか思案した。自宅の狭いベッドに寝転がって考えていたら、小さな音がする。見ればチャーリーが回し車を廻していた。
 リーは思った。俺もチャーリーと同じで、同じところを廻ってるだけだ。

「なあクレア、こっちに入るのって、内側の人間と一緒じゃないといけないのか? 自由に入れるようにできないかな」
 翌日、リーが尋ねると、クレアが呆れたように言う。
「そんなことできたら、ゲートの意味がないでしょう。やり方はないわけじゃないけど。リーのIDでゲートを通れるようにすればいいんだよね」
「そうだね」
「ゲートは対象者のIDと、滞在許可が出てるIDを照合してる。滞在許可一覧にリーのIDを追加すればいいかな」
 リーは、クレアが清掃AIの開発のバイトをしていたことを思い出した。もしかしてクレアは凄腕のエンジニアなのか?
「IDが通れるようにしてくれたらありがたい」
 リーの言葉に、クレアは何事か思案しながら頷いた。数日後、リーは内側と外側を好きな時間に往来できるようになっていた。
 リーは夕暮れに内側に侵入し、住民がいなくなってからグラフィティを行った。それを繰り返しているうちに、通行人の中でも立ち止まる者が出てきた。話しかけると目を合わせずに去っていく者がほとんどだが、中には絵を眺めて動かない者もいた。
 グラフィティは清掃AIにすぐ消される時もあれば、暫く残っていることもあった。リーはグラフィティの場所は毎回変えたが、時折サイレンの音が近づいてくることもあった。そんな時、リーは脱兎のごとく逃げ、素早く路地に身を隠した。クレアが中央地区の詳細な地図をリーのLAUに導入してくれたおかげだ。地図はどんどんバージョンアップし、警察の正確な位置情報も表示されるようになった。
 一度パトカーが近くに来た時、リーが逃げ切れない時があった。警察の質問をかわそうとしていると、クレアがやってきた。
「すみません。友人を招いたんですけど、はぐれてしまって」
 クレアは警官と少しやりとりした。数分後、警官は何事もなかったように去っていった。
「今日はゲートを通らない方がいい気がする。うちに泊まっていきなよ」
 クレアの提案に、リーは躊躇した。
「それはありがたいけど、迷惑じゃないか?」
「迷惑だったら言ってない。それに捕まる方が迷惑」
 きっぱり言うと、クレアは歩きはじめた。やがて大きな塀に囲まれた敷地に着いた。門をくぐるとリーは大きな犬に吠えられたが、クレアが合図すると静かになった。家は一軒家というよりはお屋敷で、リーはこの家の玄関に住みたいと思った。がらんとした廊下を過ぎ、突き当たりの部屋に入ると、ソファやベッドを点検してからクレアが言う。
「今日はここに泊っていって。明日の朝11時にメイドさんが来るけど、それまでは大丈夫」
「ありがとう。君しか住んでないのか?」
「両親は学会に行っていて、兄は大学の研究室で寝泊まりしてる。その意味で今は、私とあんたしかいないかな」
 クレアはあくびをしながら出ていった。
 リーはベッドを汚さないようにして身を横たえた。寝具の肌触りが良すぎて落ち着かない。ソファのクッションを全部どかして固い金属の上で横になると、いつのまにか寝入っていた。
 目が覚めるとリーは、自分がどこにいるか分からなかった。クレアの家に泊まったことを思い出すと、ソファに汚れをつけていないかチェックして起き上がった。部屋は高そうな調度品ばかりだった。数人は泊まれるような広い面積に、いぶし銀の燭台、大理石と思しき暖炉、ドレスを着た貴婦人の油絵。ビロードのカーテンの留め具には銀色のタッセルが揺れ、艶のあるテーブルの上には白に銀の縁取りをしたテーブルクロスがかかっている。ARで値段を確認することもできたが、リーは無粋な行為のように思ってやめた。家具を傷つけないようにそっと歩いて窓を開ける。手入れされた庭には色とりどりの花が咲いている。
 こんな環境で育ったのに、クレアはどうしてああなったんだろう。リーはふと思ったが、仮にここに生まれても自分が上品になるとも思えないし、クレアの境遇を羨ましいとも思っていないことを実感する。
 ドアが開き、クレアが袋を渡してくれた。ハンバーガーが顔を覗かせる。分厚いパテとみずみずしいレタス、甘みを含んだトマト。噛みしめると、たっぷりの肉汁が口から溢れそうになる。リーはしばし無言になった。俗にジャンクフードと言われるものがこれだけ素晴らしいのであれば、内側のあらゆる食べ物は、リーには想像もつかないほど美味いのだろう。
「昨日考えたんだけど、グラフィティ、清掃AIが消去する条件に当てはまらないように書けばいいと思うんだ」
「そんなこと」
 できるのか、とリーが聞く前に、クレアがにっと笑った。
「できなかったら言ってない。今回はAI側を書き換えると目立ちすぎるから、あんたのLAUを操作させてもらう」
 彼女は小さなデバイスを渡し、リーに両目で画面を見るように言った。リーが『許可する』を押して次のページに進むと、異常に長い注意書きが連ねられている。
「なんだか怖いんだけど」
 リーの言葉に、クレアは驚いたように言った。
「今までLAUを機能改善したり、アップグレードしたことがないの? LAUが標準仕様のままでも、あれだけのグラフィティを書けるんだね」
 リーは「続ける」をタップし、アプリの指示通りに目を閉じて寝転んだ。寝入ってしまったところで、クレアが揺さぶって起こしてくれた。目を開いても変化は感じなかったが、大壁付近でグラフィティを書いているとアプリが起動した。
 リーはグラフィティが目立ちすぎると清掃AIに除外されるのだと思っていたが、実はそうではなかった。ある意味を含んだ単語や、兵士と武器、裸体や下着といった暴力的・性的なモチーフが入っていると反応するのだ。書いてすぐに消されるものと、暫く残っているものがあるのはそういう理由だった。
 クレアのアプリは、清掃AIが反応する要素を書くとワーニングを出す。リーはワーニングに従うようにし、どうしても書かなければならないときは、スラムの生徒たちから聞いた他国の言葉や古代文字などで表現することにした。特にジョナスは複数のルーツを持っていたため、さまざまな単語を教えてくれた。
 リーのグラフィティは内側でもすぐには消されなくなった。そして夜に突如現れる、ハムスターのタグのライターは少しずつ知られるようになった。リーが話しかけても通行人は徐々に逃げないようになっていった。
 ある満月の晩、リーは内側で、仕事帰りと思しき通行人たちと喋っていた。スーツを纏った彼らの姿は、リーの眼に新鮮だった。この国では定職に就かなくても、最低限の生活は可能ということになっている。しかしそれは不正確な弁で、実際にはスラム側は定職が非常に少なく、無職で収入のない者に提供される最低限の生活とは最短寿命の不潔な生活、つまり「運が良ければ生きている」だけの状態を意味した。
 リーは今まで、まともに働いている人間としては、商人か日雇い労働者、もしくは農業従事者くらいしか見たことがなかった。クスリの売人やハッカーの知り合いはいるが、彼らの収入は不安定だ。今目の前にいる、汚れない服に着替える仕事に就ける者たちは、努力もあるのだろうが、この上なく幸運なのだと思う。
 通行人たちは、最初は当たり障りのないことを聞いてきたが、リーがグラフィティを始めると黙って絵を見つめた。その日書いたのは、通行人たちのようなスーツを着た男性だった。大壁にうつる影は狼の形をしている。絵の男性は月の光で変身し、大壁に向かって吠えたてる。観客が拍手するとリーはお辞儀をした。 
 一人だけ残った観客がフードを外した。赤い髪が月の光を受けて輝く。
「すごい迫力。これをスケッチブックPeace Bookなしに書くのはすごいな」
「ありがとう。グラフィティはダンスみたいに、一緒にいる人と共通のものを探すのが重要なんだ。その場で見つかったものがみんなに届けられればと思ってる。だから、前もって準備したものを見せるだけっていうのはやらないんだ」
 照れながらリーは言った。
「最近、こっち側でもリーの絵をよく見る」
「君のアプリのおかげだよ。おかげで清掃AIにすぐ消されることはなくなった」
 その時ちょうど、複数台の清掃AIがやってきた。機械たちはグラフィティの狼男を無視して通り過ぎていく。
 「AIだけじゃない。数日経っても残ってるのは、みんながあんたの絵に魅了されてるからだよ」
「いや、消すbuffのが面倒なだけじゃないか」
 リーが言うと、クレアが呆れている。
「ここの人たちは異物を嫌う。あんたの作品が残ってるのは、絵がクールすぎるからだよ」
 クレアは清掃AIの動作を見届けると立ち去った。
 こうして大壁には、内側・外側共にグラフィティが増えていった。大壁の外側はグラフィティ合戦になっているものもあるが、内側はリーの絵が独占している。大壁を踏みつぶそうとする愛くるしいウサギ、オリーブを煙草のように咥えて大壁に照準を合わせる鳩、その様子を下で観察する巨大な亀。大壁を創設した地区の長と、それを眺めているこの国の創設者、更にそれを見ている猿。リーのタグ、ハムスターが街を席巻していく。
 ある日クレアはリーにモニターを突き付けてきた。それは中央地区でもスラムでも広く使われているマップアプリで、ポインターを合わせると拡大される。促されたリーがLAUにそのアプリを入れると、昨日書いたリーのグラフィティも大きく見えた。感嘆するリーにクレアは満足して言った。
「そのアプリは有志で開発してて、私も参加してるんだ。今は一定時間で更新してるからタイムラグがあるけど、即時更新できるようにする」
「じゃあ、俺が書いたらすぐに見れるんだね」
 リーの言葉に、クレアは頷いた。
「それだけじゃなくて、採点できるようにする。リーには更にファンがつくよ」
 その言葉は間もなく現実のものとなり、リーのグラフィティはアプリ上でも支持者を増やしていった。もっとも現実でもアプリ上でも批判的な人間はいた。リーはそうした人と一度は話をするようにした。すると相手は態度を和らげることが多かった。相手が匿名で批判してくる場合、リーは言いたいことがあるなら名乗ってからにしろと告げた。そうすると相手もいつのまにかフェードアウトしているのだった。

3.Inevitable Conflict

リーはある日、クレアのマップアプリを見て、内側の警察の動向がおかしいことに気づいた。中央地区のパトカーは銀の外装にオレンジ色のランプという派手な見た目だが、ゲート付近で地味な車に乗り換えて外側のスラムに出ているのだ。
 この地方の警察の組織は、中央地区の中央警察が上で、各スラムの警察が下にあるという二段構造になっている。中央警察からスラムに視察を派遣しているにしても頻繁すぎる気がした。ある日、中央警察が車を替えて第五地区スラムの外側を走り、その後中央地区に戻っていくのを見て、リーはマナの祖先、ダニエルの話を思い出した。
 ダニエルによれば、壁がつくられるにあたってスラムへの通達はなく、壁に当たる部分に住んでいた人々は追い立てられた。
 他の地方から中央地区に移住する人々はいるが、一度住んだ人はなかなか出ていかないという。内側は人口過剰になりつつあると聞いた。そうであれば、スラムの方へ領域を拡張しようとしてるのではないか。ある日突然AIや兵がスラムにやってきて、リーたちは追い立てられるのか。
 リーはクレアに相談した。リーの出した、パトカーに盗聴器をつけるという案はあっさり却下されたが、クレアは中央地区で情報収集すればいいのでは、と言った。
「スラムだと伝わってこない話でも、こっちでは噂ぐらいになってるかもよ」
 クレアが言った。
「だったらお得意のグラフィティで、通行人から話を聞けばいいじゃない」
 リーがクレアに、お前頭いいなと言うと、クレアはあきれたように、私がアホだったらアプリの開発なんかできないでしょうが、と返答した。
 リーは大壁付近だけではなく、中央地区のさまざまな場所でグラフィティを書いた。危険度は増したが、その頃になるとリーは物おじせずに通行人に話しかけられたし、通行人もリーの絵には目を止めた。情報収集のため、ほどほどに人が通りかかるところを選んで書くようにした。街並みがきれいすぎるとグラフィティが馴染みにくいので、路地裏などを狙った。
 リーは街に馴染むため、クレアから彼女の兄の服を借りて悪目立ちしないようにした。丈の長いスラックスは、リーの汚れたスニーカーを隠してくれる。繁華街から一歩入った道、広場につづく細い道路、突き当たりの建物。そうした場所でグラフィティをしていると、仕事終わりで開放的な気分になった人々が話しかけてくるのだった。
 ある時、リーが書き終わって一休みしていると、数人のグループが話しかけてきた。リーとそれほど年齢は変わらないと思しき、AR表示の履歴に傷のない若者たち。着用している服のARタグを見ると、搾取された国のハイブリッド綿が表示されている。表の柄と裏地が補色になったジャケットをさらりと着こなしている、年長らしき男性が言った。
「君、上手だね。こういうのグラフィティっていうんだよね」
 リーは曖昧に頷きながら、彼のすべすべした頬を眺めていた。毛穴のない肌は、以前クレアが映像で見せてくれた、人間に似せて作られたエージェントAIを思わせる。
「最近、街に絵を書いてる人がいるっていうのは聞いてた。街を汚すのはどうかと思ってたけど、こういうのは悪くないですね」
 白いワンピース姿の女性が言った。一見ナチュラルだが入念に化粧しているのだろう、リーやクレアの肌とは艶が異なる。控えめで感じのいい、万人受けする微笑み。
「街になにか書いてあると嫌ですか?」
「そうだな。中央地区は人が入ってきて、どんどん手狭になってるし。絵なんかあると余計狭苦しいなと思ってた。もっとも、拡張するって話も聞いたけどね」
 年長男性の言葉に、リーの心臓はどくん、と鳴った。
「やるやるとか言って、なかなか開発しないじゃない」
「やりはじめたらしいよ。親父が言ってた」
 グループ内では最も年下と見える人物が得意げに言った。表情が少し幼い。リーは彼の顔をさりげなく見た。
「それ、喋っていいことなの?」
「みんな知ってることじゃないの? そろそろ本気を出しはじめたらしい」
 それは残念だな。リーは心の中でそっと頷いた。
 その日クレアの家に立ち寄ったリーは、記憶した青年の顔をクレアのマシンにインプットして解析した。年を取らせてモンタージュすると、役所の都市開発部門の担当の顔になる。リーはそれが青年の父親であると確信し、クレアにその日の出来事を伝えた。
「第五地区のスラムが、中央地区側の拡張に呑まれるってことか。スラムの方に新しい建物をつくるってことね」
「こぎれいな住宅を建てるのかな」
 リーが聞くと、クレアが言った。
「それは調べてみる。不動産系の動きはデータベースをハックするよりも、人に話を聞く方が効果はありそう。学校で不動産の企業がインターンとかやってないか聞いてみるわ」
 唇を曲げて不敵な笑みを浮かべるクレアを見て、リーはなぜかグラフィティをほめてくれた女性の、完璧な微笑を思い出した。
「クレア、友達っているのか?」
「急に失礼だね。いるよ」
 むっとした口調のクレアだったが、リーの真剣な顔を見て思い直したようだった。
「何をもって友達というかによるけど、一緒に行動する人はいる」
「思ったことを言い合える人はいるのか?」
 なおも問うリーに、クレアは考えながら言う。
「いなかったかな。必要だと思ったこともなかったけど」
「今日、内側の同年代の奴としゃべったんだけど、君とかなり違ってた」
 そう告げると、クレアは目を反らして聞いてきた。
「あんたはどうなの?」
「いるよ。ここで一番最初に知り合ったのが君で良かった」
 リーの率直な気持ちだった。
「私はあんたより性能のいいLAUを入れてるし、周りの人もそうだと思う。でも何が見えるのかってことは、LAUとは関係ないことが分かった」
 クレアの言葉の意味が分からず、リーは彼女の顔をまじまじと見た。
「とりあえず、潜入調査してみるよ」
 目を反らしながらクレアは言った。
 その結果、二人の想像は当たっていたことが判明した。中央地区が過密になり、スラムはこの地方の恥部だということで、第五地区から潰されていくことが決まっていた。
 リーはマナの祖先、ダニエルが言われたという言葉を思い出した。
 いつの日か、内側の様子を見たいと願うだろう。
 リーは思った。俺たちは、すり減った自分のテリトリーまで奪われるのか?
 首を横に振る。そんなこと、させてたまるか。

リーは外側に戻り、ジョナスの家に向かった。チャーリーを預けていたのだ。ジョナスの家は第五地区の中でもとりわけ荒れた地区にあり、周囲はでたらめなジオタグであふれている。たまにARアイコンを見かけて開いてみると、ひどく下品な隠語が表示された。
 家の面積よりも明らかに多い洗濯物を横目に玄関から入ろうとすると、扉は蝶番ごと外れた。ジョナスの部屋に入ると、チャーリーは興奮のあまり回し車を高速で廻し、ほとんど姿が見えなくなった。狭い空間に車の音が響きわたる。
 リーはジョナスにいままでの経緯を説明した。クレアに会って内側に出入りできるようになった辺りからジョナスとは会っていなかったのだ。
「そんなことがあったのか」
 急にたくさんの情報を耳にしたために、ジョナスは混乱していた。
「言ってなくてごめん。ゲートを出入りする辺りから完全に黒だから、巻き込みたくなかったんだ」
 謝罪の言葉に、リーは笑いをかみ殺している。
「ありがとう心配してくれて。大丈夫だよ、万一捕まっても、殺しとクスリより軽いし、俺には前科がない。お前のグラフィティは結構見てる。どんどんクールになってるな」
 ジョナスの誉め言葉に、リーは照れた。
「ありがとう。昔から知ってるジョナスにそう言われるのが一番嬉しい」
「お前、最初は何もない奴だったけど、今はそうでもないな」
 その言葉にリーは安心し、ある頼みごとをした。最初は目を丸くしていたジョナスも、話の壮大さに言葉少なになっていった。しかしリーの計画はしっかり理解したようで、最後には深く頷いた。
 数日後、リーとジョナスはエレナのライブハウスにいた。傍らにはクレアもいる。ライブハウスはその日休みで、正面口はシャッターが下りていたが、内部には人がいた。ジョナスが呼び寄せたライター仲間crewたちだ。名前は分からないが顔見知りである。
 リーは、中央地区が第五地区を潰して拡大しようとしている話を共有した。
「内側が拡張したがってるって話は聞いたことがあるな」
 頬に傷のある古株ライターが言った。腕のペガサスの刺青が印象的だ。
「第五地区からやるって話は初めてだな。情報が来るのが遅いにせよ、もっと伝わってきててもいい気がするけど」
「中央地区でもまだ公知されていない話だから、話を固めてから一気にやりたいんだと思う」
 クレアが発言すると、ライターたちはいっせいに彼女を見た。
「彼女はクレア。内側の住民だ」
 リーはクレアが、ライターの一部から拒絶されると予想していた。しかしライターたちは平然とクレアを見ている。中には会釈する者もいた。リーは安堵とともに拍子抜けした。
「それは心強い。スパイを買ってくれてるわけだ」
 指を組み替えながら言うペガサス。髑髏の指輪ががちゃがちゃと音をたてる。
「私は英雄になりたいわけじゃない。ただ内側にも、今の状況がおかしいと思ってるけど言えない人がいるってことは知ってほしい」
「あんたはしがらみがないのか?」
 ペガサスが興味深そうに聞いた。
「そんなことないけど、優遇されて平気でいられるほど呑気じゃないだけ」
 ライターたちが反論しないところを見ると、クレアの存在は無言のうちに許諾を得たようだ。リーはライターたちにやってほしいことを説明した。彼らは飲み込んでくれたようだった。
 説明会はその場で解散になった。ライターは去り、リーたちが残った。エレナは生ぬるいビールを出してくれた。
「みんなやってくれるかな」
 呟くリーに、ジョナスが頷いて言った。
「反対する奴は最初から来ないだろう。お前からの話だとは言ってあるし」
「俺、そんなに知られてるのかな」
「お前、自分が有名Kingだってことを自覚した方がいいぞ。少なくとも第五地区では」
 呆れた口調のジョナス。
「中央でもけっこう知られてるよ」
 クレアも付け加えた。二人の言葉を、リーは当惑気味に聞いていた。その日、声をかけたはずのマナの姿が見えなかったことを気にかけながら。

ほどなくして、内側に戻ったクレアがニュースを送ってくれた。見れば中央地区の拡張の件だ。開発予定の地域は第五地区をすっぽりと覆う形になっており、住居棟が入る高層ビルや公園、ショッピングモールなどが建設される予定になっている。中央地区の中心街は行政地区としてさらに整備される。その計画からは、今の第五地区の住民は抹殺されていた。リーはその記事を、ジョナスやライターたちに共有した。
 翌日リーは中央地区で、資材を積んだトラックが複数集結し、AR迷彩で灰色の目立たない車に変わるのを見た。ライターたちに通達し、外側に出て合流した。
「大丈夫だった?」
 尋ねると、傍らにいたライターたちやジョナスは頷いた。中央地区の灰色の車はゲートの外に出ると、当惑したように周遊している。普段道になっている場所が駐車場になっており、そこから出られないのだ。車はやがて内側に戻っていった。最後の車を見届けると、リーたちは笑顔になった。
「油断はできないぞ。次の手を考えないと」
 ペガサスの声に、一同は今後の作戦を練った。
 リーたちによる、ARグラフィティで地理を分からなくするという手段によって、中央地区からの工事担当者たちは混乱に陥った。ある時はゲートを出ると海と砂浜が広がっており、運転手がおそるおそる海に入ろうとすると、泥と汚水の水溜まりにはまりこんでいた。ある時はゲートの外は一本の道しかなく、ゾンビ集団が向かってきた。慌てて戻ろうとすると、突進してきたゾンビの体当たりにあった。ゾンビの体の切片が車窓にべっとり貼りつく。
 工事担当者たちは、時には第五地区の途中までは入れることもあった。しかしそのまま車を進めると、いつのまにかゲートをくぐり、中央地区に戻っているのだった。中央地区そっくりのグラフィティに騙されたのだ。
 ある時の工事の車は、リーたちが突撃してきた。見えているものではなく、マップアプリを基準にして行動するつもりのようだった。リーたちは、マップ上で道になっている箇所に廃棄トラックを置いて抵抗した。工事の車が諦めて帰った後、クレアに連絡してマップアプリを一時的にハックするように依頼した。翌日、中央地区でよく使われているマップアプリでは、第五地区の正確な地理は把握できなくなっていた。
 中央地区は次々に別の手を打ってきた。リーたちは一つ一つを食い止めなければならなかった。そんな日々、リーは自分に言い聞かせた。たとえチャーリーの回し車のように、同じ場所で回っているだけだとしても、相手がどうするのか考えろ。次の場所でも回り続けるために。
 リーはジョン・スミス川を訪れてみた。ライブハウスでライターを集めた時、事前にマナにも声をかけていて、連絡した時のマナは生返事だったが、集会には来てくれると思っていた。しかし結局来なかったのだ。
 川べりには誰もいなかった。リーはマナの物置小屋を覗いてみた。すると最近まで人がいた形跡はある。リーはマナの名を呼びながら、何か変わったところがないか探ってみた。グラフィティのツールはきれいになくなっている。
 壁を見ると、今や貴重になりつつある紙が貼ってあった。ところどころ滲んでおり、何が書いてあるか分からなかったが、目が慣れると地図のようにも見えた。リーはLAUのマップアプリと地図を重ねてみた。ズームすると、まだ大壁がない時代の地図のようだった。そこに大壁が追記され、何かの印が追記されている。インクの色味からすると印はまだ新しい。
 今はライフログはLAUに残されるが、LAUのない時代はこのように手書きで記載していたのかもしれない。マナもLAUを参照すればいいはずだが、紙が手に入ると書きたくなるのはライターの性か。
 リーはその書きこみを見た。第五地区と第四地区に点在するバツ印。印は第四地区の大壁に集中している。あとはもともと高層ビルだった建物など、高い建築物のある場所。
 リーは思い出した。マナは壁や、高い建物にグラフィティを書くのが好きだと言った。しかし第四地区で?
 水面を見ながら、リーは考え込み、ある推論に達した。
 もっと早く来てみればよかった。そうすれば、マナから話を直接聞けたかもしれないのに。後悔しながらリーが立ち去ろうとすると、何かが風で舞い上がった。掴むと一枚のカードだった。リーはその小さな紙をじっと眺めた。

数日後、中央地区からの工事の車が来ると、いつものように煙に巻こうとライターたちが準備していた。するとクリアペンを出した者がいる。グラフィティに上書きするのではなく、単純に消去する時に使うものだ。相手はAR偽装で顔を見えないようにしていたが、ジョナスが拘束して偽装を消去して顔を覗き込んだ。相手はぶつかってきて逃げた。
 向かってくる中央地区の車を見て、リーは皆に諭した。
「とりあえず今日は攪乱だけしておこう」
 ライターたちは書きたいものを書きまくり、周囲に何があるかわからない状態にした。車はとりあえず去っていった。その日のうちにリーは皆と話をした。
「あれは第四地区の奴だ。間違いない」
 邪魔してきた者の顔を見たジョナスの発言。
「第四地区の連中は金に弱い。中央に買われたんだろう」
 ペガサスの言葉に、ライターたちは頷いた。
「こっちが中央地区に併合されたら、次は第四地区だと思うけど」
 リーが言うと、ライターたちは口々に呟いた。
「第五地区が全部併合されるという話は聞いてないんじゃないか」
「今第四と争いたくないし、このままだと共倒れになるだけだ」
「それを狙ってるんじゃないかな。そうすれば第四地区と第五地区両方を併合する言い訳ができる」
 クレアの指摘に、全員はっとなった。
「今、中央地区では、もともとスラムにいた人をどうするかって議論がされてるみたい。まともな誰かが指摘したんだろうね。それで形式上、ビルの低層階のスペースを与えるって話になりそうだけど、実際にそうなるか疑わしい」
 淡々と続くクレアの言葉。
「冗談じゃない。仮にそうなったとしても、建物の中でつまはじきにされるんだ」
 ライターたちの言葉を聞きながら、リーはじっと黙り込んだ。結論も出ないままに、その日は解散になった。
 リーとしては、邪魔してくる第四地区の連中は、都度追い払っていれば、いずれ諦めるかもしれないと希望を持っていた。しかしそれどころか、第四地区のライターたちの介入は激しくなっていった。彼らはグラフィティで対抗するばかりでなく、物理的に攻撃してくるようになった。ライターに仕掛けるばかりではなく、一般の人を巻き込みはじめたと聞いて、リーたちは反撃に出ることにした。
 翌日、邪魔してきた第四地区のライターを路地に追い詰めた。相手は三人程度で、リーたち第四地区のライターは倍以上いたのであっさり捕まえられた。ジョナスが第四地区のライターたちに話しかけた。
「なんで邪魔する? 中央の奴らから金でももらってんのか」
「知ってるなら、聞く必要ないだろう」
 凄むジョナスに、相手も負けずに返してきた。
「なんだと」
「中央地区がなんでこんなことをしてるのか、君たちは知ってるのか?」
 互いに熱くなっては対話できない。リーは単刀直入に質問した。
「領域拡張のためだろう。中央地区が手狭ってことはみんな知ってる」
 第四地区のライターの中では理知的な話し方をする者が発言した。背が高くひょろりとしていて、服もスウェット等ではなくシャツにジーンズといういでたちだ。一見ライターに見えない。
「範囲はこの地区全部だ。うちがやられたら遅かれ早かれ、第四地区も対象になる。それを知っててやってるのか?」
 その言葉に、相手ははっとしたようだった。
「思い当たるところがあるんだろう。じゃあそっちのリーダーに伝えるんだな」
「伝える。ただ、うちも引けない段階に来てる。何にせよ連絡する」
 リーが頷くと、第四地区のライターたちは去っていった。

数日の間、第四地区からの攻撃は収まっていた。そしてある夜更け、第四地区のライターが単独でやってきた。それはジョナスとリーが話をしたライターで、ブランカと名乗った。ジョナスだけを立ち合いに、リーはブランカと話をした。
「通信はハックされる可能性もあるから、直接来た」
 ブランカは言った。
「うちのボスに話したんだ。結論から言うと、手を引くことはできない」
「なんだと」
 早速喧嘩腰になるジョナス。リーはブランカに話の続きを促した。
「既に金をもらっているし、それを返すことはできない。うちは借金が多いんだ。中央の連中、もし第五への攻撃をやめるとすれば、第四から開発するとかぬかしたそうだ」
「そんなことはできないだろう。公表したことを覆すっていうのは、中央の役人は一番やりたくないはずだ」
「それも分かってる。でも万一のこともあるっていうのがうちのボスの意見だ」
 ブランカは頷きながら言った。
「だからやめることはできないと? そうなると第四と第五の全面戦争だけど、中央が共倒れを狙っていることも分かってるんだろう」
「ああ。だから報告というより、どうすればいいか相談しに来た。ボスの立場だと、お前に相談することなんてできないだろうから」
 ブランカの顔は、裏があるようには見えなかった。
 リーは考えを巡らせた。全面戦争は中央地区が得するだけだ。それに一般人を巻き込みたくない。かといって第四地区にやられっぱなしで開発を見過ごすのか? いや、何かやり方があるはずだ。
「今、第四でトップのライターは誰になる? どうせ戦うならグラフィティで戦わないか。そうすれば死者は出ないだろう」
 リーの唐突な提案に、ジョナスとブランカは驚いている。
「こっちでは多分、ずっとジャズってライターが不動の一番Kingだと思う。グラフィティの勝負って、どうやってやるんだ?」
 ブランカが尋ねた。
 ジャズ。実に久しぶりに聞く名前に、リーの心臓がきゅっとなる。
「一般の観客だけから判定を募集すると偏るだろう。中央地区の知り合いが、グラフィティをマップアプリで反映されるようにしてくれた。それで採点のしくみをつくろう」
「採点はいいとして、勝敗の結果が出たら、その後どうするんだ?」
「こっちが勝ったら、そっちは今後手出ししない。こっちが負けたら、中央地区と交渉して開発範囲を狭めるよう交渉してみる。その時、第四地区に圧力をかけられた、とか言えばそっちの対面は保たれるだろう」
「全面戦争は避けたい。共倒れが一番無益だろうしな。ただジャズとコンタクトを取れないと成立しない話だから、ちょっと待ってほしい」
 リーの言葉に、ブランカは考え込んでから言った。
「ありがとう、待つよ、それまで休戦だな」
 リーが立ち去るブランカの姿を見送った後、クレアがやってきた。クレアにマップアプリでの計画を持ちかけると、彼女は大丈夫だと言った。
「詳細はぎりぎりまでユーザに公開できないけど、採点イベントがあるっていうのは告知する。それは問題ないけど、もし第五地区が負けたら本当に中央地区と交渉するの? あんたが単独で乗り込むにしても危険じゃないの」
 アプリをチェックしながら、クレアは言う。
「俺が何かあれば、抵抗するきっかけにはなる。その時は第四地区にも協力してもらうけど、万一の時はジョナスに交渉してほしい」
「それは誰も望んでない。けど、そうするしかないんだろうな」
 リーの言葉に、ジョナスは苦笑いして言った。
 その時光が一筋さしてきた。朝の光だ。三人は白みはじめた空を見つめた。

4.Writing On The Wall

第四地区からブランカがやってきたのは三日後だった。今回はリー、ジョナス、クレアという面子で対峙した。
「ボスは条件に応じるそうだ。詳細を決めたいから一度会おうと言ってる」
 緊張した面持ちのブランカ。四人は対面場所に向かった。指定されたのは第四地区と第五地区を隔てる壁の、一番高い箇所だった。スラム間の壁は大壁のように高くはなく、簡単に乗り越えられるし、ところどころ壊れているところすらある。 
「お前が第五のハムスター野郎か。俺はロボ。グラフィティはよく見てるよ」
 ロボ狼王と名乗る第四地区のボスは存在感のある巨漢で、ジョナスよりも若干大きいくらいだったが、物腰は落ち着いていた。浅黒い肌に黒い髪が威厳を増している。
「それは嬉しいな。でも今日は、もめごとの調整に来たんだ」
「ブランカに聞いてるよ。金で動いたのは俺の意志じゃないんだが事情があってな。やりたくない勝負だがしょうがない。どこでやる?」
「お互い、この壁の前で書くのはどうだろう。勝った方が表で負けた方が裏になるだろう。ところでジャズは応じてくれたのか?」
 壁はもはや、リーにとって書き慣れたキャンバスだった。ロボは頷く。
「ジャズにはもう交渉済みだ。こっちの代表として出てもらう」
 リーは勝負事など好きではなかったが、ジャズと対峙できるなら本望だと思った。リーがグラフィティを始めようとおもったきっかけ、あの日の出来事とジャズの鮮やかなライティングは目に焼き付いて離れない。リーはお守りのように持っている銀のARペンを握りしめた。ここからすべて始まったのだ。
 勝負の前日、リーはクレアに会った。マップアプリのことも打ち合わせたかったが、先に話しておきたいことがあった。二人はマナが教えてくれた、第五地区の元美術館へ赴いた。
 エントランス階段で待ち合わせてクレアを地下に案内すると、彼女は壁や建物に書かれたグラフィティに目を見張った。
「今回の勝敗に関しては、住民は自分の地区に点を入れざるを得ないだろう。だからマップアプリが頼りになるけど、アプリと実在の観客の点数の仕組みと配分は同じにしてほしい」
「5段階採点の仕組みは、既につくってあるから問題ない。あとアプリとは別に、当日は動画も配信するつもり」
 リーはマップアプリを開いた。さきほど第五地区に書いたグラフィティが反映されており、絵を指定すると5段階で点を入れられるスコアガイドが示された。明日グラフィティが行われる壁はグラフィティがなく、何も入れられないようになっている。
「ここに案内してくれてありがとう。美術館があったなんて知らなかった。ジオタグもないからLAU出解析もできないし、地下は見過ごしていたと思う。でもこのタイミングでなぜ?」
 質問するクレア。リーは考えながら答える。
「こうやって残っていることで俺たちは見れる。だけどこのグラフィティが切り出されたことで、近くにいる人は見れなくなったはずだ。本来、グラフィティはその街の、書かれた場所にいる人のものなのに」
「グラフィティは、皆が見られる場所にあって、誰のものでもないよね」
「そう、その場にあるのが一番だ。でも書くようになってわかったことだけど、自分のグラフィティが消えることが、全く気にならないわけでもないんだ」
 リーは今まで自分が書いたフラフィティを頭に浮かべていた。その時の気持ちやその場の空気、やりとりを含めて思い出せる。だが、ほとんどのグラフィティは消えてしまった。
「より良いグラフィティが書ければ上書きしていいし、刷新されるのはいいことだ。でも何度完成させても、消されてしまうと何も残らない、いつも最初からやり直し。ジレンマの中にいた」
 リーはアプリで自分のグラフィティを拡大して見た。傍らに小さなハムスターのタグ。回し車を廻して、決して前進することのないチャーリー。
「だから君に感謝している。アプリでグラフィティを参照できて、消されても履歴で見られるようにしてくれた。実物を見てもらうのが一番だし、消されるから輝くものではあるけど、その場所にあったという足跡が残ると気持ちが強くなる」
「私は足を運ぶきっかけにもなればいいと思ってた。でもそんなジレンマがあったって知らなかった。その気持ちにどっぷり浸かってしまった時はどうしていたの?」
 こちらを見つめる緑の眼。心の奥底を覗き込まれている気がする。
「書くのをやめようとしても、体の奥にそれを拒否するものがあった。逃げたいって意志があっても、魂が震えて体が動いていた」
「それを聞いて安心した。私こそ、こんな世界を見せてくれて感謝してる」
 二人は階段をのぼりはじめた。再びエントランスに出ると、クレアが振り返って言う。
「絶対負けないで。相手が誰だろうと」
 月の光が弱すぎて、クレアの表情は見えなかったが、リーは大きく頷いた。
 空を見上げていると、小さな白いものが落ちてきた。雪だ。
 クレアの赤い髪に雪の結晶が降り積もり、小さな冠のように見える。
 明日、決戦の日はクリスマスイブだ。

翌日、リーはジャズと握手した。大きくてしっかりした手だった。
「よろしくお願いします」
 お辞儀するリーに、ジャズは黙って頷いた。黒いパーカーでフードを被っている。大きな黒いマスクが顔の大部分を覆っており、表情が読み取れない。左が茶色、右が青のオッドアイの瞳が印象的だ。
「5年前のハロウィンの日、俺はあなたに救われた。それがグラフィティをやるきっかけになりました」
 呼びかけるリーの顔を、ジャズはじっと見つめた。
「絵は世を変える。勝敗がどうなろうと、流れに変化をもたらすさ」
 その声は、マスクごしで聞こえづらいが、かろうじて判別できた。
 二人は別れた。リーは壁をにらみつける。反対側の壁にはジャズが同じように立っているはずだ。
 昨日、クレアと別れてから、勝負に思いを馳せた。ジャズとの出会い、マナとの出会い、クレアとの出会い、壁に纏わる出来事。俺はジャズともう一度対峙したかった。一緒にグラフィティを書きたいと願っていた。こんな形で実現するとは思っていなかった。
 合図とともに、リーはグラフィティを開始した。書くものは、いつものように当日の空気と雰囲気で決めることにしていた。周囲はぴりぴりした闘争の空気で満ちている。
 雪のちらつく空の下、かじかんだ手に息を吹きかけ、リーはARペンを手に取った。手だけを動かすアイソレーション。マナとのライティングの日々にすっかり馴染んだ身振り。膝を曲げて重心を落とし、ペンを構えて振り上げる。
 誰かが楽器を奏ではじめる。『アッシュ』のメンバーたちだ。いつしか体が音に乗り、足は無意識に拍を取る。下腹に響く重低音。アシッドな音は酩酊を生む。反対側にいるはずのジャズの足取りとリズムも伝わってくる。響き合うステップ。
 さあ踊るんだ、鼓動というリズムが続く限り。体を廻すんだ、止まることのないように。考えてはいけない。自分のリズムが街のリズムと一体になるまで手足を動かせ。もともと動くことに、踊ることに、書くことに意味なんてなかった。踊るからには、できる限りうまく踊れ。書くからには、できる限りうまく書け。この場の皆に届くように。
 リーはリズムに乗り、迷いのないストロークで書いた。身体に感覚が充満し、手に力が流れ込む。スプレーや画材を手足の延長のように使いこなし、グラフィティに命を吹き込んでいく。
 最初に書いたモチーフは自分自身だった。恐れをしらずに足を踏み出し、壁にぶつかるかつての自分。なすすべもなく逆さに吊られ、それでも張りついたような笑みを浮かべる自分。壁に向かって砲撃する戦車。上空で廻る運命の輪。
 リーは自分が書いているものの意味を知りはじめた。タロットカード。マナの祖先、ダニエルが生きる糧に使ったもの。タロットの大アルカナ22枚で、ダニエルから未来を見据える気力を奪ったのは、悪魔でも死神でもない、塔だったはずだ。
 ダンスのステップを踏みながら、リーは岸辺で拾った塔のカードを思い返した。左下を向いた矢印の形の雷が塔を破壊し、人々が転げ落ちている。中央地区の壁ができた当初、スラム側の人々は、突き落とされるような衝撃を受けたはずだ、塔のカードの人物のように。
 でも生きていれば何とかなる。時は過ぎ、ダニエルのカードの警告をくぐりぬけた人々が今ここにいる。ダニエルの子孫のマナがライティングを引き継ぎ、今リーが書いている。避けられない災厄にあっても生き延びろ。悪い卦writing on the wallが出てもあきらめるな。上書きするタイミングを狙え。外にはきっと道がある。
 リーは中央地区のシンボル、セントラルタワーの塔が崩れ落ちる様を書いた。グラフィティの中では、塔の周辺の人間たちも逃げている。また逃げおおせる余地はあるのだ。
 周囲のライターもリーが書いているものを理解していた。空気が白熱し、冷気が熱気に代わる。見物人が増えて収集がつかなくなってきた頃、リーは最後のモチーフを書きはじめた。22枚目のカード、世界。両性具有の人物が、サンタの扮装でいきいきと踊っている。サンタ帽の白いポンポンを塗り終えた時、終了の時間を迎えた。ライターたちはリーを囲んで雄叫びを上げる。これは未聞の傑作masterpiece だ、と誰かが呟いた。
 リーとジャズのグラフィティの判定はなかなか決まらない。観客の票もマップアプリの票もほぼ同点だったのだ。待っている間、リー以外のライターの手によるグラフィテが増えはじめた。リーのグラフィティと他のライターたちのグラフィティが入り混じる。その熱気は第四地区のライターたちにも伝わったのか、壁越しに見え隠れするグラフィティも増えていく。
 壁の向こうのグラフィティを見たい。その欲望は観衆に伝わった。壁の越えようとする者が増えた。寄りかかる者、倒れかかる者。壁は揺れ、ひびが入り、少しずつ落ちていく。一部が破損すると、周辺部分もがらがらと壊れていった。
 壁が崩れ落ち、リーとジャズのグラフィティが対峙した。リーが書いたのがタロット、運命を占うモチーフで、ジャズの書いたのが、もともとこの国に伝わっていたゴーストや妖精たちだった。首のない騎士や歌う老婆、立ち上がった猫や犬の姿を見て、リーはあのハロウィンの夜を克明に思い出した。ジャズの手による、もしかするとこの世に存在するかもしれないゴーストたちは、リーの運命のカードと相まみえた。

その場にいた者たちは、もはや誰がライター、誰が観客という区別もなく、音楽に合わせて書き、歌い、踊っていた。収集をつける必要はなかった。その祝祭は明け方まで続き、朝の光が差し込むころ、観衆たちは夢から醒めて帰途についた。
 リーは壁のあった付近に座り込んでいた。肩を叩く者がいる。見上げればジャズだった。
「お疲れさま」
 ジャズはリーの隣に座って言った。
「お久しぶりです、マナ」
 リーも頷いて告げる。相手は青と茶の眼をしばたかせた。
「いつから気づいていた?」
 その言葉にリーはおもむろに立ち上がり、ポケットにお守りのように入れていた銀のペンを取り出した。左足を軸にし、まだ耳に残る『アッシュ』の演奏のリズムに合わせながら、すっかり板についた身振りで書いた。
『外を見ろ』。
 その文字が右向きの矢印で構成されていた。矢印はふわっと膨らんで弾け飛んだ。
「あなたのグラフィティのリズムとストロークは何度も反芻していて、すっかり俺の体に染みついています。マナ、気づいたのは割と最近ですが、あなたが書くときのリズムは、ハロウィンのジャズのリズムと一致しています。もっとも、間違いないって確信したのは、今日の『絵は世を変える』って言葉からでしたけどね」
「書き方まで覚えていたのか。案外記憶力よかったんだな」
 その呟きに、リーは頷いた。
「俺はずっと、あなたの後ろ姿を追っていた気がする。でもなぜ俺にグラフィティを教えてくれたんです? 第四地区のトップKingのあなたが」
 深く被ったフードとマスクを外すマナ。左右違う色の眼が白い髪に映える。
「最初に話をした時、お前は自分が正気でいるために書いていると言ったな。そして書くときに勝手に体が動いたとも。私が書き続けている理由はそこだ。書くことは生きることに直結する。だからお前も続けられると思ったんだ」
 マナの言葉がリーの心に沁みわたる。リーはポケットを探った。手に乗せたのは小さなタロットカード。
「これ、川岸に落ちてました。今回俺は、ダニエルさんに絶望を与えたカードを使って、希望を書こうとしました」
 目を細めるマナ。
「そうか。しかしお前、いいライターWriterになったな」
 そう言うと彼女は手を差し出してきた。改めて握手した時、リーは、大きくしっかりとしていると思っていたマナの手が、実は繊細であることを実感した。

Epilogue and Prologue

グラフィティの勝敗はつかなかった。
 観客とアプリ双方で両サイドの点数がほぼ同点であったところに、最後に壁が壊れてグラフィティが一体化したため、集計不可能となったのだ。
 アプリとは別にクレアが配信していた動画は、異常な再生回数になった。とりわけリーが塔のカードのメタファー、中央地区の象徴であるセントラルタワーが陥落するグラフィティを書いたところの数値が大きかった。回線が太いチャンネルを使用していたにも関わらず、一時サーバがダウンしたという。倒れゆくタワーの衝撃的な絵が、中央地区の強引なやり方と傲慢さを象徴しているということで、中央地区を批判する声が増えた。リーとジャズのグラフィティを残したいという要望が殺到した。結果、第五地区の開発は凍結、グラフィティはそのまま保存されることになった。
 開発の凍結を聞いた時、リーの中で、ある決意が芽生えた。そしてグラフィティが残ることになって、その決意は強固なものとなった。リーは、マナとジョナスに第五地区を去ることを告げた。二人は驚きながらも黙って頷いてくれた。
 リーは出発の日、中央地区に赴いた。そこからなら国中のどこへでも行ける。スラムからゲートを通ると、澄んだ声に呼び止められた。
「どこにいくか決めてるの?」
 ぶっきらぼうなクレアの口調に、リーは答えた。
「まだだけど、今は外を見たいんだ。第一地区とか、他のスラムだって見ていない。それにこの国には、この地方と同じような大壁があると聞いた。グラフィティを書きたいと思える場所を見つけるよ」
 リーはクレアの背後を見上げた。相変わらず大壁がそびえたっている。この壁はスラムの壁とは違って、一朝一夕で壊すことはできない。
「俺たちが書いたグラフィティを皆が見たいと思ったら、大壁は邪魔になるだろう。この一帯を素晴らしいグラフィティで埋め尽くして上書きを続けるんだ。大壁が二度とつくられないように」
「それをやるのはあんたじゃないの」
 と、こちらを指ささんばかりのクレアに、リーは首を横に振る。
「流れはできた。環境をつくったのは君で、俺は乗っかっただけだ。だから次も君が流れをつくってほしい。ジョナスたちと一緒に」
「そういや今日、ジョナスはどうしたの? 言ってくれれば入れたのに」
「来なくていいって言ったんだ。あいつ今、マナのところで修業してる」
 そう、ジョナスは本格的にライティングをやりはじめた。マナによれば筋は悪くないそうだ。魂はあるから、きっといいライターになるだろう。
 リーはクレアにケージを渡した。
「また帰ってくる。その時までチャーリーを預かってほしい」
「チャーリーっていうんだ。いい名前だね」
「ジョナスがつけた。クスリの隠語って言ってた。コカインだったかな」
 と、思い出しながら語るリーに対し、クレアは小さく笑った。
「私が知ってるチャーリーは、母の母国の言葉で『自由人』って意味だよ。その国が壁で分断されてた時代は、検問所の名前としても使われてたみたいだけど」
「名前も、聞く人や時代によって随分意味が変わるんだな」
 リーは呟いた。チャーリーはきょとんとしてピンクの鼻をうごめかしている。
「俺たちが獲得できるのは、しょせん限定付きの自由だ。それでも範囲を増やしたい」
「私は残って戦う。少なくとも、このチャーリーは自由の象徴であってほしい」
 その言葉に、リーは強く頷き、告げた。
「俺は別の場所で、回し車を廻してみる」
 リーはクレアに背を向けて歩きはじめた。ケージの中でチャーリーがくるくると廻りはじめた。
                                        <了>

 

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