月を喰らう天狗

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梗 概

月を喰らう天狗

文化七年、言葉を話せなかった双子の弟が五歳のとき神隠しに遭った。玄関に弟の泥人形が置かれたので、両親はこれは神隠しだと言って弟を探さなかった。兄の荘吉だけは毎日弟の身代わりになって置かれた人形に触れ寅吉のことを思った。
文化文政の江戸は仕掛け物の見世物が流行っていた。荘吉は子供の頃から江戸一番の人形師について修行をしていた。荘吉が作る精巧なからくり人形は既に評判となり、荘吉を名指しで注文が入るようになっていた。

20年後、弟は突然帰ってきた。行方不明の間、壺に入り天狗の世界へ行き修行をしていたと話した。弟は流暢に言葉を話すどころか、何についても博覧強記となっていた。成長した弟に会った両親は戸惑っているようだった。
寅吉の評判が広まると、平田篤胤が寅吉に会いに来た。篤胤は国学の立場から、天狗が存在する仙境世界を魂の行く世界として肯定した。寅吉の出現こそが篤胤の願いでもあった。寅吉から聞いた天狗の由来「月が人から仙境の石を盗み、人は狗(いぬ)に追いかけさせた。この石が無くなれば死後の仙境世界が消えてしまう。狗は永遠に月を追いかけては噛みついている。月食とは狗が月を喰らうため」という話が気に入った。寅吉も自分の話を真剣に聞く篤胤を信頼した。
時の老中水野忠邦は篤胤一派の死後世界の過ぎた肯定は危険思想とし、千葉周作の一刀流らに篤胤暗殺令を出す。寅吉は自分の体を盾にして何度も一刀流から篤胤を助けた。

人形作りの作業場で、荘吉は等身大の寅吉人形を作っている。その人形もまた寅吉を作っている。先が見えない程の列となっている。先頭で寅吉の面を被った荘吉は言う。「ぼくは皆のために戦った。そして死んだ」人形達は手話で同じ事を云う。弟の寅吉はひっそりと育てられ5歳で死んだことを両親は隠していた。兄荘吉にとって弟寅吉は月の上で天狗と共に永遠に黒い闇と戦っていた。荘吉は時に扮装し時に人形を使い現世の寅吉に命を吹き込んだのだ。
寅吉に扮した荘吉は篤胤に、一刀流らは月からの使者で時に鴉に姿を変え、仙境の石を盗もうと大軍を寄越していると話し篤胤に石を託す。篤胤は弟子一門らと必ず仙境の石を守りきると誓う。

一刀流は百人の大軍で篤胤の邸に突撃するが、凡そ同数の寅吉人形が応戦する。人形の動きは鈍く、一体が必死に一人と相打ちを狙うが苦戦する。この戦いで篤胤は仙境の石を盗まれ大傷を負う。彼は仙境世界で妻に会うことだけが望みだった。寅吉に仙境世界の真偽や人の魂の有無を訊ねる。寅吉に扮していた荘吉は篤胤の問いに頷くと、篤胤を担ぎ上げる。荘吉は篤胤を背負ったまま江戸の街を駆け抜け自宅へ戻り壺のある部屋に入る。そして平田篤胤の体を壺の中に入れた。
その夜、月食が始まる。月では天狗が闇と戦っていた。天狗が月を食べ尽くし月は消えた。
篤胤の体は荘吉と人形達とともに江戸から消えた。
翌朝、篤胤の家には篤胤と荘吉の泥人形が置かれていた。

文字数:1200

内容に関するアピール

こういうことなのです。北欧神話の「取り替え子」が面白くていろいろ読む。→折口信夫、柳田国男についてどんどん読む。→平田篤胤についておうおうと読む。そういう時に梗概を書いてみようとする。さらに、どこかのセールで山田風太郎忍法帖をどんどん読む。これは「忍者」対「天狗」の話で書いてみるしかないですよ。ハアハアと鼻息が荒くなる。が、忍法帖シリーズを読むに従い忍者がモブとなるのはまずい。忍者はもっと強くて魅力的なのだもの。というわけで違う人達や鴉をモブ役にいたしました。
また、妻のために国学を始め、幕府から圧迫を受けても一派を作り国学を守ったのは、妻のためだったらしい、というのが何か余りに現代の誰かを想起させてしまうのですが、これは事実だから仕方が無いですね。

文字数:328

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月を喰らった天狗

江戸下谷七軒町しちけんちょうの長屋に住む越中屋えっちゅうや荘吉は、双子の弟寅吉の名前を毎日何度も呼んだ。寅吉の方から荘吉に言葉で返事をしたことはない。寅吉は生まれつき言葉を話せなかったからだ。
 文化三年(寅年)の十二月晦日(寅日)の七つ時(寅の刻)に双子が難産の末生まれたから親は弟を寅吉という名前にしたと言うが、荘吉が自分の名前の由来を聞いても教えてくれなかった。特に何の理由も無かっただけなのかもしれない。
 その双子が八歳の誕生日の朝、突然寅吉の姿が消え、土間に寅吉の泥人形が置かれていた。父親も親戚もみな、これは寅吉が神隠しに遇ったのだと言い、誰も寅吉を探そうとすらしなかった。ただ荘吉だけは、毎日行李の中に仕舞われた泥人形を取り出しては、声に出して寅吉の名を呼び続けた。
 母親の葬儀の時は葬列で歩きながら人形を胸に抱いて何度も「寅吉」と呼んだ。火事で長屋が全焼した時は泥人形だけを懐に入れて焼け落ちる家から運び出した。
 そうやって何度も何度も泥人形を「寅吉」と呼ぶにつれて、荘吉はこの人形こそ寅吉であって、またこの人形は双子の自分でもあるように思えてきた。荘吉は人形に魅せられた。算盤を覚えるより早く江戸一と評判の田中久重のもとで人形師の修行につき、成人を迎えた15歳になる頃には越中屋荘吉を指名した仕事が入るようになった。

寅吉がいなくなってから十年後の文政七年十二月三十一日、荘吉の前に寅吉が現われた。
「ただいま、兄さん」と寅吉は照れながらもきちんと挨拶をした。
荘吉は何も言わず、ただ両手で寅吉をしっかりと抱きしめた。
「この十年間は天狗のいる世界に暮らしていました」と寅吉は言った。

寅吉は一人で長屋の住民たちに「みなさま、お久しぶりです」と挨拶をして回った。八歳の子供だった青年が十年ぶりに帰ってきたのだが、ある者はそういえば昔双子の弟がいたことを思い出し、ある者は荘吉に弟がいたことを知らなかったが、荘吉と瓜二つの顔を見れば双子の弟が戻ってきたことに疑いを持たなかった。生まれつき言葉を話せなかった寅吉が、自分たちより品のある言葉使いをすることに感心をするだけで、誰も寅吉が話せるようになったことを不思議には思わなかった。何よりも寅吉の見てきた世界の話に皆が夢中になった。寅吉は天狗の国へ行くことになった日の出来事をこう説明した。

東叡山とうえいざん(寛永寺)の小山の下を通りかかると、老翁が壺から丸薬を取り出しながら売っている様子が目に留まりました。丁度陽が沈む暮れ六つの鐘が鳴ると商いが終わり、老翁は商売道具の籠や敷物も全て壺に収めたのです。そして最後には老翁自身も左足を壺に入れたと思うと、あっというまに体は壺の中に消えて大空に飛び上がるではありませんか。だから次の日も次の日もわたしはひとりで同じ場所へ行き、夕暮れまで老翁が壺に乗って消えてしまうのを見に出かけたのです。三度目には、わたしに気づいていた老翁から、こう話しかけられました。
「お前もこの壺に入りなさい。面白いことを見せてやろう」
そこで連れて行かれた場所が天狗の住む世界だったのです。

誰もがすんなりと寅吉の説明を聞くと大きく頷いてしまったのは、最近の読売(瓦版売り)によって頻繁に神隠しから戻ってきた少年の話が広まっていたからだ。何処どこに神隠しから戻ってきた子供が現われたと聞けば、江戸中から大勢の暇人たちが駆け付けた。
 ただ、今まで寅吉のように詳細に天狗が住むという仙境世界の様子を詳細に説明できる者はいなかった。寅吉だけは、どんな問いにも淀みなく誰もが知らない天狗の世界を話した。その話が奇妙で面白いというだけでなく、寅吉は医学、天文学、民俗学から音楽についても、庶民が知り得ない話を悠々と語ると、寅吉の面会を求めて江戸の知識人達が列を作って並ぶようになった。

その中でも特に寅吉の話に興味を持ち、自分の家に住まわせてまで寅吉の話を独占するようになったのが国学者の平田篤胤だった。この時平田篤胤は、「霊能真柱」たまのみはしらを書き上げたばかりで、江戸だけで五百人を越える門弟を抱えていた。この「霊能真柱」とは、死後の魂の行方と世界の創世について書かれていた。日本人の魂の構築の必要性を説明するために、篤胤にはさらに実証が必要だった。つまり神や妖怪、そして死者が住む世界の在処ありかを必死に探していた。
 篤胤は「魂の行方」がどこにあるのか証明したかった。そして寅吉が話す天狗の世界に、その場所があるのか知りたかった。篤胤も既に多くの神や妖怪を見たという人物に会ってきたが、それらのどれもがすぐ稚拙な作り話であると見破ってきた。
 篤胤が最初に寅吉に会い簡単な挨拶をした後、いきなり寅吉は篤胤の目を見てこう言った。
「平田先生は亡くなられたお内儀さんを生き返らせましたね」
 寅吉の言うことは全く正しかった。篤胤は驚きながらも頷き両足裏を合わせる胡坐をして寅吉の目を覗き込んだ。そうやって寅吉との話に臨むことにした。

平田篤胤は二十六歳の時に二十歳の織絵を妻に迎えた。その後生まれた息子と共に家族をたいへん愛した。故郷を捨てて暮らす篤胤の孤独な心の柱こそ彼の家族だった。また妻の織絵が篤胤に本居宣長の「玉くしげ」を読むことと国学の道を勧めたのだった。しかし最初に生まれたばかりの長男が亡くなり、ようやく生まれた次男も亡くなると間もなく妻の織絵も病で命を落とすことになった。病床の織絵に書き上げたばかりの「霊能真柱」たまのみはしらを見せると、織絵は泣いて喜び、次の日に息を引き取った。貧しく頼りになれる者がいなかった江戸での生活を支えてくれた時の織絵を思い、篤胤は織絵の亡骸を一日中抱きしめていた。この「霊能真柱」たまのみはしらは、妻織絵と死後の世界で魂となった二人が住める世界を肯定するために書かれたのだった。しかし、それから六年後に篤胤は江戸一豪商の鴻池家の娘と結婚するが四ヶ月で離婚をした。またその二ヶ月後に門人の山崎長右衛門の娘を娶ったが、その娘の名前を織絵に変えさせた。篤胤は確かに妻を生き返らせたのだ。そして山崎長右衛門の娘もまた自ら篤胤の妻織絵として生きる人生を選んだのだった。

「生き物が誕生してからずっと。その魂は全て仙境世界にあるひとつの石の中に集められていたのです」寅吉もまた篤胤の目を見ながら篤胤の知りたかったことを話した。「それが月によって、この石が盗まれてしまいました。そこで仙境の生き物たちは、大昔から仲間で一番愚かで言葉を話せないが命令を必ず守るいぬを使って、石を取り戻すために月を追わせたのです。この石が無くなれば生き物の魂は消えてしまう。だからこの魂のためにいつまでもいつまでもいぬは月を追いかけて戦っているのです。この、もはやいぬでも人でも無くなり背から大きな羽を出すようになったいぬたちを、仙境の生き物たちは「天狗」と呼ぶようになりました。天狗は長い間、そしてこれからも月を追いかけては噛みついている。月食とはこの天狗が月を喰らう時のことを言うのです」そう寅吉は天狗の由来を説明した。
「月か。なんと月が魂を盗んでいたのか」と篤胤はため息を吐くと、堰を切ったように続けざまに訊ねた。「仙境世界の生き物とは、何なのか?それらはこの世界の生き物と違うのか?仙境世界とは、どこにあるのだ?どうやって行ける?魂が月に盗られていても、われわれ人の魂はこの体にあるのか?石が壊されると、人の世はどうなってしまうのだ?」
「ゆっくり、全てお答えしますが、平田先生にお願いがあるのです」寅吉は篤胤を宥めるように言った。「わたしの話を聞いて、もしその価値があると思いましたら、本を書いていただけないでしょうか。わたしがいた仙境世界の出来事を」

 そうやって、篤胤は寅吉を自分の家に三ヶ月住まわせ、寅吉が10年間生活をした世界の様子をまとめた「仙境異聞」を書き上げることになった。この「仙境異聞」は、二人の思いと妥協と相互理解の上に書き上げた著作だった。実のところ、寅吉が見たままの仙境の世界ではなかった。ただ寅吉はそれでも構わなかった。平田篤胤は、真剣に寅吉の話を聞き書きし、仙境の世界を本当に理解してくれた。ただそれは篤胤の理想として描きたかった霊魂の世界といくつか差異があったので、寅吉に相談をしながら平田篤胤の世界に更新されたのだ。寅吉は篤胤の話をよく聞き、篤胤の「仙境異聞」に理解を示し進んで協力をした。寅吉は次第に篤胤が抱く、国外の世界、宇宙、異世界への憧憬を理解した。そして常に日本人の魂の居場所が世界の中心であり、それはこの世と地続きの所に存在していなければならない、という篤胤の熱意を実現しようとした。そして寅吉は決めたのだ。平田篤胤を「交代者」にすることに。

「平田様、この本を書き上げましたら共に仙境の国へ行きましょう」と寅吉が言うと、篤胤は殊の外喜んだ。
 平田篤胤や当時の江戸学者が寅吉から知り得た知識は多い。医学薬学はすぐに広まり、寅吉が話す銃の仕組みについても鉄砲鍛冶の技術を促進させ、ひいては江戸幕府の海防に役だった。また外国からの侵攻への兵糧保存食として提案した「あんパン製造技術」は木村安兵衛に盗まれたが、水分のない保存食パンだけはその後の幾つかの戦争で役だつことになった。
 また篤胤は寅吉に仙境の時間について訊ねたこともあった。もとより篤胤は幕府の天文方が作成した「天象」による太陰太陽歴では、常に天体の動きと誤差が生じ月の満ち欠けが正確に計測できないことに異議を唱えていた。さらに生活上での時刻が一定していないことに不満を持っており、自ら「天朝無窮暦てんちょうむきゅうれき」を作成中でもあった。江戸の街では15箇所ある時刻鐘がその季節の昼の長さを六等分して鐘で知らせていた。つまり季節によっても、また場所によっても一刻の時間は異なった。
「天文方の奴らは常に時間が等しく動くということすら理解できていない」と篤胤は言った。
「それは天文方の考えにも一理あります」と寅吉は言った。「しかし平田様のお考えに沿うような時計、渾天儀こんてんぎに、月をよく観測できる望遠鏡を、わたしの兄荘吉であれば必ずや作れますでしょう」
「人形師荘吉殿の評判は伝え聞いたことがあるが」
「人は兄の人形には魂があると言います」寅吉がそう言うと篤胤の目が瞬いた。
「今度、荘吉殿の機巧からくり人形を見に伺おう」
「わたしにとって荘吉兄さんは」と寅吉は目を細めて言った。「わたしは仙境へ行く前のこの地では全く言葉を話せませんでした。耳も聞えなかったのですが、周りがみな言葉というものを口から発していることは判りました。火消しの父が頻繁に夜中に帰ってくると、わたしは興奮して喉を震わせてしまうのです。それはきっといぬの遠吠えのように聞えたのかもしれません。わたしは自分を抑えられずに吠え続けていると、父が怒りだして、わたしに碗や盃などを投げつけるのです。するとわたしと同じ体格の兄がわたしを背負い、長屋の木戸を開けて、暫く夜の街を散歩してくれるのです。わたしは嬉しくて、結局また吠え続けてしまいました。周りの大人たちが変な目で見ても、兄は平気な体でわたしを背負ったまま、よく隅田川まで連れて行ってくれました。土手に腰を下ろして月を眺めているうちに、わたしが次第に落ち着いて寝入ってしまうと、また兄はわたしを背負って家まで連れて帰ったのです。あのときのわたしの声はこんな感じです」と言って寅吉は吠えた。それは荒野に住む野生のいぬが月に向かって吠える鳴き声だった。
「ほお」と篤胤はしばらく考えるそぶりをしてから言った。「今度、荘吉殿の機巧からくり人形を見に伺いましょう」

 真昼九つ、桜が満開な上野山下の見世物小屋では、からくり人形の前ばかりに人だかりが出来ていた。本物と見分けがつかない、ホトトギス、カメ、カエルが動く度に歓声が沸いている。
 玉屋庄兵衛の「茶運び人形」は小さな人形が、人の歩みと寸分違わない動きで茶を運び、また方向を変えて歩き出す。大野弁吉による「唐子からこ引台」は、その茶運び人形から受け取った茶を金属で出来た荷車に載せ、一人の唐子が車を引き、もう一人が荷台で扇を振った。その動く茶を遠方から、田中久重作の「弓射り童子」が矢を放つ。矢が茶には当たらないと童子は悔しい顔を見せる。矢を放ったあと、童子は向きを変えて素早く次の矢を持って放つと、茶に当たった。客席から大きな拍手が起きると、童子は笑顔を作ったあとに客席に向かってお辞儀をすると、客たちはさらに歓声をあげた。
 しばらくしていぬの吠え声とともに大きないぬが現われると、前列で見ていた子供たちは怖がり身を引いた。するといぬは二足で立ち上がり、人の姿形に変化をした。舞台床に置かれた羽のある童子の絵が描かれた箱からは、禁制の伴天連ばてれん音楽が鳴り始めた。
 すると、いぬから変身したその人の背から大きく白い羽が生えだした。その「人」は見得を切るようにして客たちを睨み付けると、ふわりと体が浮いた。篤胤は、その羽が生えた人形の顔を見たことがあると思った。ゆっくりと浮いた体は、そのまま高く浮き上がり、円錐状の小屋の穴の空いている頂上部分を目指し、その屋根を越えると見えなくなった。そして篤胤は思い出した。あの人形の顔は自分の顔ではなかっただろうかと。
 歓声や笑い顔で賑わう見世物小屋に八丁堀の同心が三人の御用聞きを引き連れ、満員の観客を強く押しのけて入って来た。
 御用聞きの玉屋九吉が懐から大袈裟に十手を取り出し、突き出すように横手に構えて言った。
「御禁制の伴天連ばてれん音楽を鳴らしているのは、どこのどいつの機巧からくりだ」
 黒羽織で刀刺しをした同心は後ろで腕を組むだけだが、三人の御用聞きは同時に「どこのどいつだ」と怒鳴り出した。御用聞きたちの声だけが静まりかえった見世物小屋に暫く響いた。
 反応が無いことに訝しがる御用聞きらが聞き耳を立てた僅かな静寂の後、奥から縞柄の長羽織を着た男が怒鳴り返して現われた。
越中屋えっちゅうや荘吉の機巧からくりチャルゴロに文句をつけてるのはどこのどいつだ」
 寅吉と瓜二つの容姿を持つ人形師荘吉が颯爽と現われると、彼をよく知る客から歓声が沸いた。しかしそれと同時に同心の指示で御用聞きたちが荘吉に飛びかかった。
 昼八つ、全く抵抗をしない荘吉は容易に手に縄をかけられ、同心らに小突かれながら連れて行かれた。平田篤胤の横を通り過ぎる瞬間、初対面のはずの篤胤に向かって、荘吉は笑顔を作って篤胤に片目を瞑って挨拶をしたように見えた。

 夕七つの鐘の音が響くと、街に頭に編み笠を被り、竹の棒で音頭を取りながら読売の大野弁吉が現われた。
「さあ、大変だ、大変だ。上野山下に突然天狗が現われ、空高く消えていった」
 通りかかりの者達が争うように、瓦版を受け取ろうと読売の弁吉が配る瓦版を目指して駆けだした。
「しかし、そこへ現われた八丁堀同心と御用聞きが、越中屋荘吉にお縄をして連れ去った。かの天狗少年寅吉の兄、機巧人形師越中屋荘吉には三十日の手鎖てじょうの刑が言い渡された。しかし、話はそれだけでは終わらない」
 バンバン、と読売の弁吉は激しく竹棒で束になった瓦版を叩きながら話を進める。
 平田篤胤も読売大野弁吉から瓦版を受け取って読み始めるが、記事よりも大きく描かれた、空飛ぶ天狗と、縄をかけられて引かれていく荘吉の顔に見とれた。
「越中屋荘吉が下谷七軒町しちけんちょう長屋の自分の部屋に帰った日の夜四つ、火事が起きて七軒町長屋が焼け落ちた。さあ、寅吉荘吉兄弟の運命はこれ如何に」
 バンバン。
 宵五つの鐘が鳴ったとき、灯りも無く月明かりだけの三帖の間でござを敷いて荘吉と寅吉の二人は向き合っていた。隣の家との壁は焼け落ち、かろうじて柱と屋根の一部が残っていた。
 荘吉の両手には手鎖てじょうを填められている。寅吉が荘吉の手鎖に触れながら言った。
「手鎖をしていたときに火事になって。兄さんよくご無事でしたね」
「親父が火消しだったからな。おれも長屋の連中も火の消し方と諦めて逃げる手口は職人並だ。まあ壁も畳も焼けたから、この長屋に今は誰もいなくなった」
「でも、おかげで月がよく見えるようになりました」
 壁があった所から、大きな月が二人を照らして影を作っていた。
「そうだな」と言いながら、荘吉は団子を頬張り、寅吉に酒をすすめた。「今日は十六夜いざよいだ。向こうの生活はどうだ?」
「あそこの夜はとても寒いです。だけど昼はひどく熱くなります。まあでも」寅吉は楽しそうに言った。「最近はようやく慣れましたよ」
「そうか、よかった。おまえは、よくやってくれたよ」
「この火事も、あいつらの仕業ですか?」
「そうだ」
「わたしの力が足りなかったばかりに」
「おまえは、本当にこれだけ長い間、みんなのためによく闘ってくれた」

 荘吉がそう言って寅吉の肩を叩くが、寅吉はため息をついた。
「次の交代者はどうだ?」
「平田さんは凄い人です。わたしの話を真剣に聞いて、本を書いてくれる。これでわたしたちのこと、天狗の世界のことは、多くの人に知れ渡ることになります」
「そうだな」
 静かな夜だった。虫の鳴き声も野良狗の吠える音も聞えなかった。
「平田様は思っていた通りのお方でした。よくわたしの話を聞いてくれますが、何よりも純粋なお方でした。わたしは平田様が話す家族への『愛』を理解できたと思います」
「そうか。それは良かった」
 荘吉は本当に嬉しそうに頷いて月を見上げた。

 宵五つの鐘が響く下谷印刷所では平田篤胤が印刷されたばかりの「仙境異聞」を手にしていた。印刷本に満足し、柳の籠に入れて手ぬぐいで吊した「振り分け物」の中に入れた。
 篤胤が印刷代の支払いをしている脇では読売の大野弁吉が積まれた「仙境異聞」を一冊抜きとり、食い入るように読んでいた。
弁吉は「こいつはすげえ」と独りごちると、「仙境異聞」を開きながら、自分で瓦版の記事を書くために帳面を出し筆をとった。
七軒町しちけんちょう長屋の寅吉、天狗と共に月と闘う」と殴り書きをし、弁吉は腕を組んで満足げに頷いた。

 夜四つ、篤胤は人通りの多い夜道を歩き、行き交う人に道を尋ねながら七軒町長屋を探しているが、皆が皆から「あそこは火事で全焼したので誰もいやしませんよ」と言われるだけだった。
 七軒町長屋の前に辿り着くと、木戸の門は残っているものの、表店も焼け落ち、何の店だったのか見当もつかない状態になっていた。木戸を抜け、井戸、便所を越えると、壁がない長屋の奥から話し声が聞えた。
 話し声が聞えた奥へ行くと、先日同心に捕まった寅吉の兄、荘吉が一人で柱に寄りかかって月を見ていた。
「話し声が聞えましたが、おひとりでしたか」
 荘吉が座るござの上には酒と団子があり、また柱で囲まれた床には幾つもの組立て途中の機巧の部品が広がっていた。
「平田篤胤先生、お初ですね。噂は寅吉から伺っていますよ。おれは、また大声で寝言を言ってしまったかもしれないな」
「夢を覚ましてしまいましたか」
「なあに、人形相手に世間話をしていただけです。それより、寅吉から先生が必要だと言われていた物が出来あがってますぜ。たしか、あのあたりに置いたはずなのだが」
 篤胤は荘吉が指さす腕には手鎖てじょうが填められているのに気づいた。そのまま月明かりだけを頼りに部屋の隅に行くと、子供の体ほどの大きさがある行李を見つけた。「そうそれ。その行李ごと持ってきてくれ」という荘吉の声がした。初対面の息子ほど年下の男から命令調で語られても篤胤は嫌な気はしなかった。
 殊の外重い行李を引きずるようにして、荘吉の目の前まで運んだ。荘吉が笑顔で手鎖をした手首を持ち上げて見せ、自分には蓋を開けられないことを示した。仕方ないという体で篤胤が箱を開けた途端、その目が輝き驚きの叫び声をあげた。
「それが渾天儀こんてんぎだ」
 篤胤が興奮しながらも丁寧に行李から取り出した物は、十字に組んだ台座の上に四つの輪が乗っていた。
「四つの輪は地平線、天の赤道、それに太陽と月の経路だよ。先生ならそれを使って観測すればわかるはずだ。幕府の天文方の暦がどうしてずれていくのか」
「どうしてこんな物が作れるのですか」
「寅吉から聞いたからさ」
「聞いただけで、このような精緻な物が作れるとは」
「先生、おれは江戸一の機巧からくり屋なんだよ」
 篤胤は顔ごと行李に入れるようにして中を覗き込むと、行李から四尺ほどの筒を両手で持ち上げた。
「それは尺時計だ。ネジを巻くことで中の重りが落ちる速さで箱に書かれた目盛りを読めば、時を知れる。先生が知りたい、常に変わらない時間を計れる」
「おお、これと渾天儀こんてんぎを使えば、天文方の暦の過ちを正すことができる」
「ただね、先生。このネジの重りを変えて落ちる速度が変わる。つまり時間を変えることができる。まあこれは何時か。。今じゃない、何時か役に立つ時計だ。そしてもうひとつ仕掛けがある」
 荘吉が重りを次の目盛りの位置まで下げると、時計の上部が開き、中から太鼓をたたく童子が首を振りながら四人現われた。見世物小屋で流れた伴天連ばてれん音楽に合わせて、太鼓を叩いた。
「四つ時だと四人が出てくるよ。五つで五人な。じゃあ、九つで何人だかわかるか先生」
「九人ですね」
「違えよ。この小さな台にそんなに人形が乗るわけないだろ、えっ。六つときでは熊が一匹でるんだ。そこから熊一匹と童子ひとりで七つときな。九つでは熊一匹と童子がえーと」
「三人だろ。それは逆に分かりづらくないですか」
「うるせえな。機巧師のおれがやりたいことは、こういうことなんだよ。よく見てくれよ、おれの作った童子と」荘吉は重りを下に落とすと、熊が出て来て同じように音楽に合わせて太鼓を叩いた。「熊をよ」
 それを見る篤胤の頬が緩んだ。
「おれが子供のときに見た田中久重先生の茶運び人形が忘れられないんだ。あれは、ただ茶を運ぶ人形じゃなかった。あの人形には魂があるって、子供のおれにもわかったんだ。だからよ。俺がつくる生き物には、みんな魂を入れているんだよ、先生わかるか」
 篤胤は軽く頷きながら、行李に入っていた最後の円筒を取り出した。
「それは反射望遠鏡だ。遠き物を鏡に映して、それをまた逆さにして」
 篤胤は望遠鏡を目に当て月を探して覗き込んでいる。
「先生、何が見える?」
「月に」
 そう言って固まっている篤胤に向かって、もう一度荘吉は訊ねた。「え?何なんだよ先生」
「月に織絵がいる」篤胤は荘吉の顔に唾を飛ばして、怒鳴りながら言った。「でかした、荘吉。ここに。月には織絵がいるぞ」
 篤胤は仁王立ちで望遠鏡で月を見つめながら妻の名前を何度も叫んだ。

 篤胤が帰ったその夜八つ、丑ノ刻。荘吉の作った機巧人形のひとつ、鍔が広い帽子を被り真っ赤な唇をした異人の女子が取っ手を廻すと、真鍮の円筒が回り埋め込まれたとげ鋼鉄はがねの櫛歯の細工で伴天連ばてれん音楽の賛美歌「主よ、人の望みの喜びよ」を奏でた。
 月明かりで、焼け残った長屋の各所にいた機巧人形たちが、音楽に合わせて動き始めた。
 小唐子二人がそれぞれの太鼓を打つが、その一人がもう一人の肩に乗って逆立ちをし、それぞれが相手の鼓を打った。肩の上で倒立した一人は肩の上を一回りしてから飛び降りた。
 階段を後ろ向きに転倒しながら下の段へ降りていく「段返り人形」、茶碗を運ぶ「茶運び人形」、円を描いて動く「機巧三番叟人形」、右手で文字を書き、暫くすると少し眠気が差したように目の表情が動く「手紙を書く人形」、飛びはねと鳴き声を繰返す「からくり飛び蛙」、「鯉の滝登り」、「指南車」。それらは全て越中屋荘吉が組立て、後に読売の大野弁吉によって「機巧図彙からくりずい」としてまとめられ印刷されるが、それはまたこの物語の少し後の出来事になる。

 荘吉は小さな腰かけ椅子に座って、等身大の機巧からくり人形を組立てていた。何も迷うことも無く、決められた作業のように手鎖をされたままの腕で、木片を差し込み、ネジを回し、木槌でネジを叩き、針金を引き、糸を引っ張り、横のフックに糸を掛けた。
 荘吉によって組立てられている寅吉の顔をした機巧人形は、荘吉と全く同じ動きをした。その前には全く同じ姿の寅吉の機巧人形が座り、何も迷うことも無く、決められた作業のようにまるで手鎖をしているようにくっつけた二本の腕で、木片を差し込み、ネジを回し、木槌でネジを叩き、針金を引き、糸を引っ張り、横のフックに糸を掛けた。
 その寅吉機巧人形の前にもやはり等身大の寅吉機巧人形がいて、その機巧人形の前にもやはり等身大の機巧人形がいた。そうやって焼け落ちた長屋の中をぐるりと回るようにして、機巧人形たちが機巧人形を作っているが、どこまで続いているのか分からなくなる。荘吉の部品の入れようがない背中に対しても機巧人形が何かを組立てているかのように背に触れている。
 荘吉は立ち上がった。
「おれは、寅吉に魂をあたえた」
 寅吉機巧人形達はみな頷いた。
 荘吉は寅吉の仮面を被った。
「わたしは、ずっと月と闘っている」荘吉は手鎖をしたままの両手を挙げて叫んだ。「わたしは、魂を守るために月と闘っている」
 寅吉機巧人形達もみな立ち上がって、両手を上に挙げた。それはまるで、手鎖をしているかのようだった。

 翌朝の明け六つ、通りをいつものように朝豆腐売りが「豆腐、トウフ」 と売り声をあげて歩いてくれば、長屋からぞろぞろと新鮮な白豆腐を求めて人が集まってくる。そこに朝に見るのは珍しい読売の大野弁吉が大声で叫ぶ。
「号外、号外。大変だ。長屋連続火事事件の犯人がみつかった」
 豆腐を買いに来た者や、通りの表店から、木戸から人々が集まってくる。読売の弁吉が腕に抱えた瓦版をばら撒いた。荘吉が手鎖をしたままたらいに豆腐一丁を受け取りながら、弁吉がばら撒く瓦版に目をやる。
 弁吉が叫ぶ。「連続火事事件の放火犯人はカラスだった」
「何でカラスが?」と、豆腐二丁と厚揚げ二枚を買いに子供を背負ったまま来た女髪結いのきくは言った。

 朝五つに開いたばかりの湯屋ゆうやの越後屋丹前風呂。この丹前風呂は器量好しの湯女ゆなを大勢抱え江戸一繁盛していた。その湯女ゆな目当てに、遊び好きの男客を呼び込むので近所の吉原では客が減ったのも火事が多いのもみな、丹前風呂のせいだと嘆いていた。
 その丹前風呂に一番風呂を入るために荘吉が先程豆腐を入れた盥と手ぬぐいを手にして丹前風呂の暖簾をくぐった。番台を抜け、服を脱いでいると御用聞きの玉屋九吉に声を掛けられた。
「荘吉、おまえ何でこんな所に来てるんだ」
「手錠しててもな、腹は減るし汗もかくだろ」
「手鎖の刑の間は自宅から出るな」
「うるせえ、岡っ引き。おまえも朝風呂なんか入ってないで、火事の犯人でも捕まえないか」
「岡っ引きって言うな。おれは八丁堀同心一斎の御用聞きだ」
「おまえは、いつまでも上の言うことを聞くだけだな。おまえには自分の魂ってのがないな」
「おれの魂は将軍様に捧げてるんだ」
「へっ。ところで火事の火付けはカラスっていうじゃないか。カラスが燃えてる木を咥えて飛んでくるって」
「おまえも瓦版を読んだのか。カラスが敵の家を見つけるために長屋を焼きまくってる、なんていう与太話を信じるのか」
襦袢姿の湯女ゆなたちが瓦版の噂をしながらやってくる。顔見知りの玉屋九吉の前に座って腰かけて言った。
「それが与太話っていうわけでもないんだってさ。九吉さん瓦版きちんと読んだの?」
「絵は全部見たさ」
「何しろ、江戸一博学な平田篤胤先生の本に書いてあるっていうじゃない」
「だれそれ?」と、御用聞きの玉屋九吉は言った

 吉原の昼四つに開店したばかりの蔦屋書店では、主人の蔦屋重五郎が店先で番頭に平田篤胤の「仙境異聞」を持たせ、口上をはじめた途端に人だかりが出来た。すでに天狗の絵が描かれた瓦版を手にしている人も少なくない。
「さあさあ、お立ち合い。ご用とお急ぎのない方は、ゆっくりと見ておいで。読みにおいで。山寺の鐘は、鏗鏗こうこうと鳴るとはいえ、童児来たって鐘に撞木しゅもくを当てざれば、鐘が鳴るやら撞木が鳴るやら、とんとその音色がわからぬが道理。ここに平田先生が書き上げた「仙境異聞」に書かれたるは、神隠しに遇った寅吉少年が、天狗と共に異界で過ごした生活が事細かに書かれている。遠目山越し笠のうち、ものの文色あいろ理方りかたがわからぬ。・・・だがしかし。お立ち合いお立ち合い、投げ銭やほうり銭はお断わりだ。」
 そう言っている途中で重五郎は人だかりの中に顔見知りの平田篤胤を見つけると、満面の笑みで篤胤を手を引いて迎える。
「先生、『仙境異聞』は朝から店に出す傍から買われていくよ。瓦版のせいでこの一帯に噂が広まったらしい。天狗の世界で暮らした寅吉少年の生活。これは、誰でも事細かく知りたくなる。先生、今裏で印刷と製本をしているから、刷り上がった本に、どうか花押しやってもらえませんか」
 重五郎は篤胤の腕を抱えるようにして、店の奥にある印刷所へ引っ張っていく。
 書店の棚には『浮世風呂』、『南総里見八犬伝』、『椿説弓張月』、『傾城水滸伝』、『東海道中膝栗毛』が平積みされている。壁には歌舞伎役者、力士たちの浮世絵が貼られ、天井からは巨大な月岡芳年の「隅田川の月」と歌川国芳の「吉原の月」が吊り下げられていた。
 伊藤若冲の天狗画の暖簾の前で、重五郎は突然思い出したように立ち止まって言った。
「でもね。先生、悪い噂も聞きましたよ」
「何の?」
「南町奉行が先生を捕らえようとしているって」
「何それ?」と江戸一の国学者平田篤胤は言った。

 真昼九つに隅田川をゆっくりと進む大型の屋形船。その二階に玉屋九吉ら御用聞き三人とその上司になる同心、与力が酒と江戸寿司を囲んでいた。二階の桌子は全て着飾った客たちで埋まっていた。
 誰もが誰が話しているのか、あるいは自分が話したのかすら分からないほど回りが煩く、自分たちも酔っていた。
「九吉よ、おまえ荘吉と一緒に丹前風呂に入る仲らしいな」
「長屋が近いもんで、顔見知りなだけです」
「御用聞きが科人とがにんと仲良く風呂入ってどうする」
「気をつけます」
「気をつけますじゃねえんだよ、見られてんだよ。手鎖の男とそれを捕まえた男が仲良く隣り合って、金まら洗ってもらってたってよ」
「何で今日は、こんなに混んでるんだ」
「明日が大江戸の天下祭りだからな、その景気づけとかで屋形に乗って騒いでるんだろ」
「あそこらへんで船酔いしている奴らは、屋形にも天下祭りにも新参者だな」
「おれも明日は山車を引くんですよ」
「瓦版は何て書いてあったんですか?おれ字が読めないんですよ」
「神隠しに遇った寅吉少年が、どこかで十年間天狗と共に暮らしててな。その寅吉が最近戻ってきて言うには、天狗とともに魂を盗んだ月と闘ったんだと」
「明日の天下祭りは江戸城内に入れて将軍徳川家斉公に拝謁することができるんだ」
「天狗と一緒に月と闘うっていうのも、平田篤胤が「仙境異聞」という本に書いてて、これこそ日本古来の世界は日本の魂から始まったことの証明らしい」
「ただ平田篤胤先生も、独自暦の件で騒動起こしてからこっち、御公儀からずっと目をつけられているからな、あの本はやばいよ、発禁確実だろ」
「魂があるから、死んでも安心みたいなことだからな」
「老中水野忠成は今にも平田先生を捕らえたがっているらしいぜ」
「ばかな。この平和泰平なご時世で、天下祭りの前日に捕り物なんてやるわけないだろうがよ」
「こういうご時世だからさ、見てみたいよ。ああ、八丁堀南奉行総出の大捕物ってやつをさ」
と玉屋九吉らの桌子に座る誰かが言ったが、隣の桌子で、頭に手ぬぐいを乗せた読売の大野弁吉がいることには気づかなかったようだ。

夕七つ、両国回向院えこういんで開催された春場所の千秋楽、取り組みが終わり大勢の人々が出てきた。その回向院えこういん境内の入り口で読売玉屋九吉が瓦版を配って、さらに人だかりができている。
「あまりに自由なことを書く平田篤胤先生に対し、今宵の夜四つ、八丁堀南奉行所が総出の大捕物だよ。大捕物」
人々が「捕物だってよ」という声とともに、さらに玉屋九吉の回りに人が集まる。
「大捕物だ。さあ、大相撲を見た帰りに大捕物を見に余って明日の天下祭りの景気づけに。さあ皆の衆、人生の記念に大捕物を」
 人々が争うように取る瓦版には、文字が読めない人のために図にて、平田篤胤と幕府の確執が描かれていた。
 今回の篤胤の著作本「仙境異聞」における死後の魂が住む異世界の概略も絵で説明され、それに怒る老中水野忠成の顔までもが絵で描かれていた。また八丁堀南町奉行所から平田篤胤が住む自宅までの地図までも載っていた。
「え」と同じ瓦版を二人で見ていた、平田篤胤の門弟山崎三成と御用聞き玉屋九吉は同時に言った。「嘘だろ」と。
そして、門弟山崎三成は両国から平田篤胤の住む湯島天神までの一里を下駄を脱いで走り出した。御用聞き玉屋九吉は両国から南町奉行所のある八丁堀までの一里を雪駄を脱いで走り出した。

暮れ六つ、江戸城本丸御用部屋に老中水野忠成が座りその左手に大老井伊直幸、右手に若年寄田沼意正、水野忠韶、森川俊知、京極高備の四人が座り、老中水野忠成が事情を井伊直幸へ説明していた。
「平田篤胤の国学論は久しく目に余っている。この死後の世界を肯定する『仙境異聞』に至っては天狗のごとき異人と共に住む生活などを民に信じさせて如何するのか。政治も文化も全て現世の繁栄のために為さねば何の意味があるというのか。死後の世界を讃えてどうする。平田篤胤この度の『仙境異聞』だけでなく、全ての書を発禁とさせるとともに、平田篤胤を捕らえて来よ。それから、瓦版でわたしの顔絵を描いた絵師もこの御用部屋まで招待しろ」
 水野忠韶が進言した。
「二人に手鎖を掛けるのですか。文人にそこまでする必要がありましょうか」
「篤胤とはゆっくり話してみたいのだ。日本という国について。ただしこちらが高い段からな。あの絵師のわたしの顔はよく書けている。正式にわたしの屏風絵を描かせようかと考えている」
 四人の若年寄はしっかりと頷き席を立ち上がったところで、水野忠成は四人の若年寄らに言った。
「しかし、この件では、誰ひとりにも殺傷をするな」
 井伊直幸は二人きりになったところで水野忠成に、そっと問いた。
「人に魂はあるのか?」
「もちろん。誰にも己の体の中に魂はあります」と水野忠成は自分の胸を指で叩いて言った。
「本当にそうなのか」と大老井伊直幸はもう一度水野忠成に質そうとしたが、やめた。

宵五つ、南町奉行所では、瓦版に書かれた大捕物を見学しようと扉門の前に大勢の人が集まっていた。
「ありえないだろ」と御用聞きの玉屋九吉は、回りにいる御用聞きらに向かって言った。「噂だけで瓦版に書かれた捕り物を信じてこんなに人があつまるなんて。しかし、明日が天下祭りだっていうのに、なんで待機命令になっているんだよ。早く帰りてえな。江戸には暇人が多いな。全くこんな時世に捕り物なんて、ありえないだろう」
 南町奉行の岩瀬加賀守氏紀が20名あまりの与力たちを集め、指示を出している。すぐさま与力たちがそれぞれ担当の20名あまりの同心を集めて指示を出す。玉屋九吉も仲間の御用聞きらとともに、同心から簡単な説明をきかされる。
「これから全南町奉行約1000名を持って平田篤胤を捕らえに向かう。早く支度せい」
「ほんとかよ」と玉屋九吉は言った。
 南町奉行所の門扉を騎乗した与力を先頭に、刀を差した同心が続き、最後には御用聞きらが捕り物三種の道具である背丈ほどの刺股さすまた突棒つくぼう袖搦そでがらみを手に持ち現われると、集まっていた者達から歓声が沸いた。扉門の回りにいた人々は、ただ歓声を上げるだけでなく、この1000人の大捕り物を見ようとここ八丁堀南町奉行所から、篤胤の自宅湯島天神男坂下まで一里の道を同行することになる。また道すがら大捕物を見ようという見物客が道々膨れ上がってきた。人並の始まりも最後も見えないほどになっていた。
 生まれて初めて刺股さすまたを手にした玉屋九吉は呟いた。
「何だか楽しくなってきた」

夜四つ、平田篤胤自宅の湯島天神男坂下は南町奉行の騎乗にある与力から同心、御用聞きまで役1000人が10人の列で整列を組んで並ぶ。その回りには数倍の野次馬が取り囲んでいた。ただ、野次馬たちはみな見世物小屋に行くように捕り物の見物をする気でいたし、誰もが簡単に平田篤胤が捕らえられてしまうことも疑わなかった。南町奉行の者達もまた、これは自分たちの「天下祭り」であるかのように胸を張り、見えない山車を引くような高騰した気分で歩いていた。
 しかし、平田篤胤自宅の門の内側の様子は違っていた。
 すでに門弟の数が800名にもなる門下達は師を守るために集結をし、戦いの準備をしていた。それだけでなく、噂を聞きつけた篤胤を慕う力士や力自慢の男達、介護や飯炊きだけでも役に立とうと女達も駆け付け、こちらも総勢1000名を越え、その士気は溢れるばかり旺盛であった。
 騎馬に乗った与力が馬に乗ったまま同心らに、篤胤宅の閉まった門を叩くように命じた途端、門は中からゆっくりと開いた。
 開いた門の前には諸肌を脱ぎ腕組みをした力士らが勢揃いしていた。
「この平田篤胤先生の門は」と一人の力士が言った。
「われらの命に替えてでも」と前列にならぶ者たちが言った。
「一歩たりとも、くぐらせはしない」と奥にも立ち並ぶ屈強な男達が続けて言い放った。
 殺傷はするなとの老中水野忠成からの命でもあり、強硬な突破はできずに睨み合いが続くが、まわりの野次馬らから、次第に南町奉行らに「何もできないのか」「力士がこわくて帰るのか」などの罵倒する声が次々にかかる。
 野次に耐えられなくなった若い御用聞きが突棒つくぼうを握ったまま、中央に立つ力士に向かって突っ込んだ。
 力士は避けることなく、それを正面から受け止めた。釘を埋め込まれた突棒つくぼうの先端が力士の胸に刺さるが、微動だにしないまま、男を睨み付けた。
 さらに「もっといけ」や「それだけか」という野次に押されるようにして一人また一人と、刺股さすまた突棒つくぼう袖搦そでがらみを使って力士達の胸や顔を刺していった。力士達の胸や顔は血で染まるが、腕を組んだまま無抵抗で動こうとしなかった。前面を固める屈強な力士たちを見た与力の松野河内は、梯子隊で邸全体を囲ませ一斉に御用聞きたちを梯子から邸へ突入させた。
「平田篤胤ひとりだけを捕らえて来い」と松野河内は言った。
 邸の四面にくまなく掛けられた梯子から御用聞きたちが庭に飛び降りると、平田側の門弟たちも混乱を起こした。門の入り口に主力を配していたため、手薄な裏庭側からは庭を越え、邸の裏庭に御用聞きらが一気に突入した。
 屋敷内では平田篤胤のいる部屋の回りを固めるために門弟たちが集まったが、御用聞き立ちの大群が押し寄せ、奥の部屋は襖ごと激しく倒された。部屋の中で門弟に囲まれるようにして座る平田篤胤を目指し、僅か3帖の部屋に百人あまりの人間が押し寄せた。
 敵味方もわからない状態での押し合いになると、突然大きな音と共に畳が下に落下し、この部屋に入っていた者は身の丈の一間以上の深さの穴に落とされた。誰もが呻き声をあげるだけで身動きがとれなくないでいると、人の隙間から平田篤胤に向かって腕が伸びてきた。
「先生、こちらへ」
 篤胤が聞き覚えのある声を出す腕に捕まると、腕の先には爽やかに微笑む寅吉人形と手鎖がつけたままの荘吉がいた。
「なぜ君たちはここに」
「先生を救うために」荘吉は穴に落ちた者達を踏みつけて這い上がりながら楽しそうに言った。「昼八つころからずっとここで待っていました」
 篤胤の体を背負った寅吉人形も人の体を乗り越えて床にあがると、荘吉とともに濡れ縁からそのまま庭に飛び出した。
 庭に飛び出ると、二人の背からは羽が伸び、地面に着くこともなく宙に浮かんだ。
 荘吉と篤胤を背負った寅吉は宙に浮かんだまま庭壁を越え、御用聞きや野次馬が見上げる、その上を飛んでいた。
「今、わたしが飛んでいるのが、これが仙界に住む天狗の力なのか?」下を見て興奮した篤胤は荘吉に聞いた。
「これは、仕込んでいた水素を使っているのです。おれも機巧人形も本当の天狗ではないから宙なんか飛べやしない」と荘吉はつまらなそうに篤胤に言った。
 荘吉と寅吉は平田篤胤を間に抱えるようにして、そのまま湯島天神男坂下から飛び去った。
 この日、満月を背にして羽の生えた天狗になった荘吉寅吉兄弟の姿を目にした者たちは、みな声を出すことも忘れてただ大きな月の中を小さくなっていく天狗を見続けた。

翌日の真昼九つ、江戸城大手門横の堀には散った桜の花が積もり、堀を薄桃色で染めていた。巨大な山車を城内に入れるため江戸城大手門大門の瓦櫓が取り外されていた。
 入場を並んで待つ山車と祭り見学で並んでいる人々の横で読売の大野弁吉が見出しを叫びながら瓦版を配っている。
「湯島天神の大捕物に現われた天狗、平田篤胤を助けて月に消えた」
天下祭り側の人だけでなく、門番の番侍たちも瓦版に見入っていた。
 大手門からは様々な曳山の山車が門をくぐっていた。江戸天下祭りは、数年に一度老中が定める時期に於いて、山王祭と神田祭を中心とした江戸を代表する山車が江戸城内を闊歩する日であり、この日だけは山車を引く曳き役だけでなく、番侍の検問を通った町民ならみな城内に入ることが出来た。
 例年であれば、ただ江戸城内に入り、間近に巨大な山車を見れたことだけで、誰もが今ここにいることを興奮して喋り出すのだが、この日だけは様子が違った。
 誰もが昨日の平田篤胤の大捕物と、それを天狗が救った事件を楽しげにそして熱く語っていた。
 今回の山車の全てが三階建て曳山になっていた。一階は祭り囃子で音頭を奏でる楽隊、二階には踊り舞台、三階には人形を飾る型をしている。山車を曳くのは男だけでなく、男と同じ半被とさらし姿の女も多く混ざっている。人形は人気力士や歌舞伎俳優など人を象るだけでなく、象や熊の形も人気を得ていたが、特に機巧人形を飾る山車には人気が集まっていた。

 昼八つになっても、まだ江戸城大手門をくぐる山車があった。一際高い歓声を浴びて入ってきた山車は三階の機巧人形が天狗になっていた。最初の人の形も知る人が見れば、みな寅吉人形であることはわかった。一階のアコーディオン、バイオリン、などの洋楽器から伴天連ばてれん音楽が奏でられ、そのリズムに合わせ、二階の踊り舞台では、全身を激しく動かすが踊りが繰り広げられ、三階の天狗人形も同じ踊りをした。観衆も見たことがない激しい踊りではあったが、単純な繰返し部分を真似て踊るようになった。
 天狗人形の山車が十数体続いたあとには、平田篤胤の機巧人形が入ってくると、江戸城内はさらに大きな歓声で包まれた。平田篤胤の山車を曳くのは、昨日の捕り物の時に体を張って篤胤の身を守った力士や門弟達であり、彼らの体や顔は傷だらけでもあったが、誰もが誇らしげに山車を曳いていた。
 平田人形の一階は四方に宝珠唐草模様の腰幕が吊られ、土台の中には手鎖をつけたままの荘吉と寅吉人形がいた。
「兄さん、ぼくを作ってくれてありがとう」
「おまえは、よくやってくれたよ」
「でも、ぼくは今日で動かなくなりそうだ」
「何言ってるんだ。まだまだ動くだろう」
「ぼくにはわかるんだよ。人形はネジだけで動くわけではなかったんだね」
「そうだ。人形はネジで動いているだけではない」
「だから、ぼくは心配なんだよ」
「何が?」
「ぼくが動かなくなったら、兄さんはどうなってしまうのかって」
「何言ってるんだよ、おれは。。おれはただ、これからも機巧人形を作っていくだけだろ」
「兄さん」
 三階の平田篤胤人形のように見える動きをする人形は、実は平田篤胤本人であった。それは奇妙に音楽に合わせられない踊り下手で近くにいる者達が気づき始めたが、江戸城本丸の御用部屋から双眼鏡で天下祭りを見ていた水野忠韶もまた、平田篤胤が機巧人形でない本人であることに気づいていた。

夕七つ、江戸城本丸の御用部屋では、大老、老中、若年寄が集まっていた。
老中の水野忠成は、血が全く繋がっていないが同じ姓の水野忠韶に対して激しく詰めた。
「昨日平田篤胤を取り逃がしただけでなく、本日は江戸城内に平田篤胤本人を呼び入れるとは、この忠成の顔を潰して楽しんでいるのか」
「すぐさま、目付番方に命じます故」
「愚かな。旗本の服装をした者らで篤胤を迎えさせようとするのか。この時こそ、彼奴らを使え。徳川将軍家を長く支える伊賀者。彼達は、今はどこでどうしているのか」
「先日より一連の長屋放火襲撃でも、彼らはよき働きをしました」
「そうか、そうであったか。江戸は火事と祭りと花火が欠かせないからな。しかし、彼奴らは普段はどこにいるのだ」
「大奥で御広敷番に勤めています」
「なぜ伊賀者らが?」
「彼奴ら計算と事務能力にも秀でています故」
「それは聞きとうなかった、それは。まあよい。しかし万が一にも公儀の者の仕業と悟られるな」
「それは彼奴らにとって至極当然のことです」
「それならばよい。しかし今回は篤胤を捕らえる必要は無い」
「それは?」
「篤胤の首を切り、ここへもって来い」
 御用部屋の天井でこの会話を聞いていた伊賀者は足音を立てずに天井を走り、仲間がお勤めをする大奥の間へ向かった。

暮れ六つ、日が沈み江戸城内では灯り番が灯りを点けに回っていた。城内の山車もそれを合図に、大手門に向かって退出が始まった。時折ふく風で城内の桜の花が山車の上に、回りの人々の頭の上に舞い降りた。曇り空の向こうには月が霞んで見えた。
 山車もみな一階から三階まで提灯を吊るしている。舟形曳山も越中屋荘吉自慢の作で、船型の曳山に七福神が乗り、それが全て機巧人形であった。夜の帷が落ちると同時に七福神機巧人形の内部から灯りが灯った。その後ろに曳かれているのが篤胤が乗る山車であったが、音楽とは関係なく阿波踊りのように手足を揺らして踊るので、城内の誰もが篤胤本人が山車の三階に乗っていることを知っていた。
 十台ほどの天狗の山車が続いていたが、殆ど同時にその山車に全身が黒装束で鴉の嘴をつけた仮面をつけた伊賀忍者らが一台に二人ずつ飛びついた。
 桜田門からは天下祭りの終焉を告げる打ち上げ花火が上がり、観衆は花火を見上げていた。
 忍者らは、懐から取り出した火薬を山車の近辺に放り投げ、辺り一片を煙りで覆った。
 鴉忍者らは瞬く間に三階まで昇ると、背中から忍刀を抜き、天狗機巧人形の首を切り落とした。そうやって天狗人形はつぎつぎと倒された。踊ることしか知らず、闘うことを知らない機巧人形たちは、ただ首を切られて地面へ放り投げられるだけだった。
 鴉の仮面を被った鴉忍者達は一斉に平田篤胤の乗る山車を取り囲んだ。楽隊は演奏を止め、山車を曳く力士や門弟らも危機を察し山車を止め、臨戦態勢に入った。
 鴉忍者は体の大きな力士らに対して助走も無しに素早い飛び蹴りを後頭部に入れて、上階へ飛び上がろうとした。門弟達は蹴りを頭に打たれた衝撃を受け体が揺らいだが、みな鴉忍者らに蹴られた足をそのまま離さなかった。足を捕まえられた鴉達は、容易に上階に昇れずに、下へ引き摺り降ろされ、重い張り手や強い胴締めを喰らった。力士から思いのほか強い抵抗にあうと、鴉忍者のひとりが赤玉を地面に叩きつけた。その煙から睡眠煙が発生し、仮面をつけていない者達は次々と倒れていった。
 仮面をつけた鴉忍者らは、同じく眠りで倒れている二階の楽隊を越え、三階へ辿り着く。しかし三階では本人だと思われた平田篤胤がまだ踊っていた。
 鴉忍者が篤胤の胸を強く殴っても、篤胤は踊りをやめない。顔に強い突きを入れると避けることをしない平田篤胤の首は真横を向いて、そのままの形で音楽の無いまま踊り続けた。
「くそが、これは機巧人形だ」鴉忍者は言った。
「よく探せ、この山車のどこかにいるかもしれない」
 鴉忍者達は山車の屋台を完全に破壊してまで篤胤を探すが、見つからなかった。
 前を進んでいた七福神の山車は、いつのまにか遠くまで進んでいた。
「七福神って、女とか太ったり禿げた男がいなかったか?」鴉忍者の一人が呟いた。
 先程までは体が光る機巧人形の七福神を乗せていた山車の三階には、いつのまにか機巧人形でなく人間が乗って踊っていた。
「くそが、あの七福神の山車だ」
 鴉忍者達は素早く七福神山車に向かって走りだした。
 七福神山車は外から人が曳く曳山ではなく、大きな車輪を中の機巧人形たちが漕いで回していた。
 七福神山車が動く速度が遅いため、一町あった距離もあっという間にまた鴉忍者達に追いつかれる。
 七福神の三階では、恵比寿天の服装をした平田篤胤と、弁財天の服装をした荘吉が乗り、他はみな寅吉人形が扮していた。

「前に寅吉から」と篤胤は言った。「一緒に仙境の世界へ行こうと言われたのだが、あれは人形の戯言ではないだろう」
「平田先生、心配しないでください」と、寅吉人形は言った。
 荘吉は少し驚いた顔をして人形のはずの寅吉を見た。
 鴉忍者達は山車に追いつき、そのまま上階へ飛び上がった。
 しかし、車輪を回していた機巧人形が中から鴉達の足を掴んで昇らさせない。
 鴉忍者は刀で人形の頭を落とすが、それでの人形達は掴んだ手を離さなかった。鴉人形達は人を斬るように機巧人形達の胸や胴を刺すが、どれだけ体を刺されても機巧人形達は腕を離さなかった。機巧人形の腕を切り離し、ようやく三階に昇った。三階で七福神に扮していた寅吉人形の数体が篤胤と荘吉を身を挺して鴉忍者達の前に立ち塞がった。
「いくぞ」
 荘吉が声をかけると、昨日と同じように荘吉と一体の寅吉人形の羽部分に水素が膨れ、二人で篤胤を持ち上げると体が浮いていった。
 桜田門からの打ち上げ花火が終わり、満月はゆっくり欠けていった。
 この日は皆既月食だった。
 まだ江戸城内に残っていた人々は皆既日食を見上げて口々に言った。
「あれが天狗だ」
「天狗さまだ」
「天狗が月に昇っている」
 鴉忍者達は七福神山車にいる寅吉人形に体を掴まれたままだが、そこから脱出できた二人の忍者だけが地面を走って追いかける。
「わたしたちが守らなければならないのは何ですか」と寅吉から天狗へ変身した機巧人形は篤胤に訊ねた。
「わたしたちの魂の行方だ。そうだろ」と篤胤は荘吉に確認を求めるように言った。
「逃がすか」
 下を走る鴉忍者は、上を飛んでいる寅吉の羽に向かって手裏剣を放った。
 手裏剣が両羽の羽本に当たると、そこから水素が抜けた寅吉は回転しながら地面に落ちていった。
「兄さん」と壊れた寅吉の顔をした天狗人形は欠けていく月の夜空を見上げて言った。「わたしはもう何も思い出せません」
そういう天狗人形を踏み潰して、鴉忍者は荘吉と篤胤を追いかける。
「ここで逃がすわけにはいかない」
 寅吉が下へ落ちたため浮力が足りなくなり、荘吉は篤胤を抱えたまま低い位置を飛んだ。大手門を通り抜け、城下町の屋根伝いを走った。少し距離を置いて、鴉忍者も追いかけていたが、次第にその距離が広がっていった。
「荘吉さん、そんな手鎖、あなたがその気になれば簡単に外せるでしょ」
「これはおれの罰だから。おれはこれくらいでは足りないくらい罰を受けないといけないんだ」
「罰?」
「平田先生に、おれは嘘を言ってた。本当はずっと前から、人に魂なんてないんだよ」
 月は次第に欠けていき、今は僅かな曲線を残しているだけだった。

夜四つ、回りに人がいないことを確認し、荘吉は篤胤と共に屋根から飛び降りた。
「荘吉、どういうことだ?そして、わたしたちはこれからどこへ行くのだ」
「安心してくれ、先生。人の魂は取られてしまったけど。とっくの昔からそうなんだよ。人はみんな人形みたいなものだ。人はみな、おれが作った機巧人形なんだ」
 そこは平田篤胤自宅の湯島天神男坂下だった。邸の周りにも中にも人がいないように見えた。
 邸の黒い塀には二羽のカラスが静かに塀の上に停まっていた。
「わたしの家にも、やがて追っ手がくるだろう」
「先生、あんた言ってたろ。仙境世界のような魂の行く場所は遠いところにあるのではなくて、自分たちの住処のすぐ近くでなければいけないって」
「ここに仙境世界の入り口があったのか」
 そう篤胤が喜色の声をあげ、振り向いて荘吉の顔を見ようとすると、そこにいない者の声がした。
「おまえたちを、ここで逃がすわけにはいかない」
 そう、黒いカラスが言った。このカラスは伊賀忍者達の振替身の術だった。
「おまえらを倒さないことには、おれたち伊賀者は永遠に大奥御広敷番から抜け出せない」
 カラスは、羽ばたいて篤胤に襲いかかるが、その寸前で荘吉が篤胤を突き飛ばし、カラスの攻撃を荘吉が受けた。
 カラスの羽は刀が仕込まれているため、荘吉の体を削る音がした。
 荘吉は一羽を叩きつけて踏み潰すが、その足はカラスの羽によって切り裂かれた。
 もう一羽を手鎖のまま掴むが、カラスの羽によって右腕が切断され、右側の手鎖が外れる。
 その手鎖をカラスに叩きつけ、嘴を強く掴んでその体を柱に何度も叩きつけてカラスの頭を割った。
「くそお。先生、おれの体から血が出てるか?」
「ああ、荘吉。おまえの赤い血が流れるぞ」
 荘吉はただ力をふりしぼるようにして歩き、篤胤邸に入っていく。
 体から血を滴らしながら、廊下を抜け、奥の間に入り、屏風襖の押し入れを開けた。押し入れの下には小さな壺が置いてある。
「これは、おれが仙界に行った時に入った壺だ」
 そう言うと荘吉は膝から体が落ち、なんとか膝立ちをして篤胤に向き合った。
「とっくに人の魂は盗まれたままなんだ。だから、魂を取り返しに追いかけてくれ。平田篤胤先生。さあ、おれたちと交代だ」
 荘吉はそう言って、膝をついたまま体は仰向けになって息絶えた。
 篤胤が何度も荘吉の体を揺するが、荘吉は何の反応もなかった。
「荘吉。わたしはこれからどうすればいい」篤胤は荘吉の襟首を掴んで怒鳴った。「わたしは何をすればいいんだ。答えろ、荘吉」
 倒れた荘吉を暫く見ているが、門の辺りから篤胤を探してやってきた物音がする。
「くそ。くそ。くそ。くそが」
 平田篤胤は畳を三度踏んでそう言って、押し入れから壺を取り出した。
 おそるおそる、壺に右片足を入れる。
 篤胤をさがす物音がさらに大きくなった。
 篤胤は壺の縁に手を掴み左足を入れる。左足も壺の中に消えた。そして壺の縁から手を離すと小さな壺に体が吸い込まれるように、平田篤胤の体は消えた。

篤胤の前には見たことがない大きな宮殿があった。そこは薄暗く酷く寒かった。
 篤胤は美しい小石が敷かれた庭園を歩いた。宮殿には門が見つからず、どこを見渡しても、その先が見えなかった。宮殿は紅色の太い柱が無数に連なっていた。
 宮殿に入ると奥には上に昇る紅色の階段があった。階段の下から見上げると、その階段のすぐ先に白くて丸い月が浮かんでいた。
「織絵」と篤胤は叫んだ。
 篤胤は階段を駆け上った。階段を登っているうちに、篤胤の背中からは白い羽が生えた。

暮れ六つ、江戸城大手門口では、提灯で飾られた天下祭りの山車が続々と門から出て来た。
 皆既月食で次第に欠けていった月は僅かな曲線を残しているだけだった。
 桜田門から最後の花火が上がった。
 宵五つ、完全に月が消えたその瞬間。
 江戸中で月を見つづけていた人々は「ああ」という小さな声をだした。

明け六つ、湯島天神男坂下の平田篤胤邸前には、平田篤胤の泥人形がおかれていた。

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