大江戸二進法

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梗 概

大江戸二進法

舞台は、陰陽道が発達した架空の近世日本。
徳川幕府の治世は、陰(0)と陽(1)の順列組み合わせで万象を予測する大機巧おおからくり六壬りくじん”(=スパコン)に支えられていたが、あるとき謎の事故で”六壬”が暴走。それまで受けていた陰陽術の恩恵が逆流し、江戸はいまや最悪の厄災都市だ。あらゆる方角が凶であり、毎日が忌日。即死レベルの不運が間断なく襲い生活など不可能。さらに、京へ避難した陰陽師たちの式神が、主を失い野生化している危険地帯である。
無人の江戸へ足を踏み入れるのは、京の陰陽寮から派遣された二人の陰陽師。
ひとりは、初めての江戸入りでやる気満々の新人、中原 維盛これもり。孤児だったのを陰陽道の才覚で拾われた秀才だ。
もうひとりは、ベテランの安倍 義周よしちか。”六壬”事故の生存者であり、救出されたときは陰陽道の知識以外記憶喪失の状態だった。失われた記憶を求め、何度も江戸入りしているが手掛かりは得られていない。
京は第二の”六壬”建造のため、江戸に残る遺物を回収しようと、陰陽師を何度も派遣していた。陰陽の術があれば厄災都市でも行動できる。
探索を開始した二人に、野生化した式神が襲いかかる。といっても物理的な攻撃ではない。人間は日(陽)を吐き、月(陰)を吸うと言われる通り、天地陰陽のネットワークにつながっている。それを通して送り込まれる呪は、いわば人間という運命主体へのクラッキングである。対する陰陽師は、”火除(ひよけ)”と呼ばれる防壁で相手の侵入を防ぎつつ、式神側のパスコードを専用の式(プログラム)で突き止め制圧する。実力者の二人は敵を退け、探索を続ける。
そんな中、再度襲ってきた式神を新人の維盛が深追いし、二人は禁忌である”六壬”事故跡地へ。そこで強大な式神に出くわすが、相手は義周に従う意志を示す。義周が江戸にいたとき、使役していた式神だった。
式神は、義周から預かっていた記憶を本人に返す。”六壬”を破壊したのは義周だった。”六壬”の予測に基づき、徳川幕府の政策は「生かさず殺さず」を徹底。人々は苦しんでいた。それを救いたかった。
さらに維盛が息子だと気付く。当時赤子だった維盛は事故の際行方不明となったが、首筋の痣は見間違えようがなない。
そして思い出す。自分はここで息子に殺される。そう”六壬”最後の卦に出ていたことを。運命を変えようと記憶を失いまでしたのに、運命は変わらなかった。
探索を切り上げようとする義周を、維盛は陰陽寮の命に背くと殺しにかかる。仕方なく対抗する義周だが、息子相手に本気になれず、維盛の呪を受け絶命。死の間際、義周は式神を維盛に譲る。式神は”六壬”再建の鍵になるが、再建した”六壬”は、人間側から天地陰陽の理へのアクセスを徐々に遮断し、やがては陰陽術自体意味を為さなくなるだろう。誰かの苦しみのうえに成り立つ世界を、息子に渡すまい。そう願う義周の意識はだんだんと薄れていった。

文字数:1213

内容に関するアピール

現代の情報技術を過去の時代で再現する発想は、張冉「晋陽の雪」や劉慈欣「円」などが浮かびます。かのライプニッツが太極図を知っていたのは有名な話で、陰陽と二進法のアナロジーを使った先行作も間違いなくあると思うのですが、「陰陽道 SF」で検索してもヒットしなかったのでこの内容に決めました。課題は「アクション」のほうを採り、式神との戦闘、義周と維盛の闘いでクリアします。バトルシーンは「呪詛玉」や「散供さんぐ」などわくわくする用語をバンバン使って盛り上げたいと思います。

文字数:234

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大江戸二進法

――ここにいるのは全員、死んでかまわない人間なのだな。
 中原維盛(これもり)は、京から共に旅してきた他の陰陽師たちを見ていて、ふとそんな思いにとらわれた。
品川にほど近い東海道の道端に、維盛たちは座り込んでいる。本格的に江戸へ潜る前の、最後の休息だった。目の前には江戸湾が広がり、澄んだ朝の空気がおだやかな海風となって吹き寄せてくる。維盛にはそれが鼻についた。今は、もっと荒々しい海が見たい気分だった。何か強烈なものに心を奪われたかったのだ。運が悪ければ、自分はきょう江戸で死ぬのだから。
 維盛は、今回陰陽寮から送り出された九人のうち、初めて江戸入りする五人のほうを見た。言葉を交わすでもなく、寄り添うように一つ所にただ集まって座り、うなだれている。維盛と同じ不安をもっと強く抱いているにちがいなかった。当然だ。これから向かう江戸府内は、幕府のお膝元として栄えたかの華やかな町ではない。踏み入れば命を落としかねない禁足地なのだから。維盛は二度目の江戸入りだが、だからといって今度も無事に帰れる保証はなかった。
 五人の苗字を思い返してみる。勘解由小路(かでのこうじ)、百目鬼(どうめき)、小野、九鬼、西条。それぞれ、陰陽道では名の知れた家の子息ばかりだ。そして全員、四男かそれより後の生まれだった。陰陽寮から江戸探査の命を受けた家は、どこも似たような選択をする。任を断れば、他の家から口さがない嘲笑を浴びる。かといって、大事な長男を危険な旅に送り出したくはない。それで、似たような立場の者がこうして集まることになるのだった。
 彼はどうなのだろう、と維盛は隊の組頭を務める惟宗文高をのほうへと目を向けた。
 文高は、巨きな男だった。平安の昔とは違い、陰陽師には鍛え抜いた頑健な肉体が必須となったから、維盛も他の者もそれなりの筋骨を持っている。しかし、文高ほどではなかった。ゆったりとした狩衣の上からでも、厚い胸板やごつく盛り上がった上腕が見てとれる。幅広い肩には金閣寺だって載りそうだ。赤松の幹に寄りかかって仮眠をとっている姿は、まるで岩が寝息を立てているよう。
 先ほどの五人とは逆に、文高は長男だった。長男こそ死地に送り心身を鍛えるべきだという迷惑な家訓のせいで、もう四度目の江戸入りだという。弱い跡取りなぞ要らぬというわけだ、と本人は笑っていたが、不適格な人間か常に試されているようなものではないか。家訓とはいえひどい話だと維盛は思う。生まれのせいで死地に送られたという意味で、文高も何ら変わらないのだった。
 維盛も、中原家の実子ではない。今回維盛を江戸派遣に加えたことで、中原家の息子たちはしばらくこの役目を免れることだろう。ただ、維盛はそのためだけにここにいるのではなかった。
 後ろから草を踏む音が近づいてきた。振り向くと、芦屋師直(もろなお)が小用から戻ってきたところだった。師直は維盛も含めた全員をぐるりと見回して、「朝だというのに暗いな!」とぼやいた。
「きょうは暦で十二直の「執」にあたる。探し物には申し分ない日取りだぞ。もう少し明るくせぬか」
 師直は維盛の背中を思い切り叩いた。思わずむせる。
「ごほっ! 師直殿、とてもそんな気分では……」
「江戸から逃げてきた連中から聞いた、昔流行った端唄でも聞かせてやろう。手拍子をくれ」
 一緒に旅して来なかったら、頼んでもいないのに突然唄いだす師直を見て、恐怖で頭がおかしくなったと思うところだ。芦屋家といえば、陰陽道に加えて香道でも名を知られる典雅な家柄のはずだった。それが始終この調子なので維盛は最初面食らったが、おかげで暗いだけの旅にならずにすんだのも確かだった。顔立ちは美男と言ってよかったが、不釣り合いに大きい鼻のほうについ目がいってしまう。その度に、やはり香道に関わるには鼻が大きいほうがいいのか、とつまらないことを思うのだった。
 手拍子がないままでも師直の唄は進み、恋う女のことを唄う箇所にさしかかった。親しい誰かのことを思い浮かべたのだろう。初めて江戸入りする者たちの表情が、さらに暗くなるのがわかった。
「なんだ、どうした?」
 不思議そうに首をかしげた師直へ、
「ここで懐郷心をあおってどうする。やめてやれ」
 と文高の声が飛んできた。見ると顔に苦笑が浮かべつつ、すでに立ち上がっている。仮眠していたと思ったが、目を閉じていただけらしい。
「そろそろ行こう」
 文高が号令し、それぞれが不揃いに立ち上がった。維盛も腰を上げ、持ち物である重い笈(おい)を背負う。そこにいる全員が同じ物を背負っていた。もともとは修験者が背負う物入れだったが、いまは陰陽師の必需品でもある。霊符と式盤を持ち運ぶのに都合がいいのだ。陰陽師が日々の鍛錬を欠かさないのも、この装備があるせいだった。
「義周殿。おひとりで立てますかな」
 文高があの男に声をかけているのを背中で聞きながら、維盛はさっさと歩き出した。

 東海道が、江戸と京を結ぶ街道だったのはもう過去の話だ。
 かの「事故」以来すでに十五年。川崎宿を出た後は目黒川の手前で内陸へと曲がる脇街道が整備され、危険な江戸を迂回する街道網が新たに出来上がっている。目黒川から先、江戸寄りの道が荒れるのは当然だった。維盛たちの足元には、踏み固められなくなった地面から雑草がそこかしこに顔を出していた。途中通り過ぎた北品川宿も、道の両側に並ぶ旅籠は半ば崩れ落ち、人影もない。気の滅入る風景が続くせいで、江戸の入り口となる高輪大木戸に着くまで、師直以外ほとんど口を開かなかった。
 大木戸、と言っても道の両側に石垣があるだけで、木戸は無い。木戸の役割は幕府の役人が果たしていたわけだが、今は無人だ。その代わりとでもいうように、石垣の間には異様な阻塞が張り巡らされていた。
 ここから先の土地が陰陽寮の所管であることを示す籠目紋の入った石柱。そして禁足地であることを示す物忌木簡が十重二十重に刺さり、人の侵入を拒んでいる。野生の獣なら本能で引き返せるが、人間にはこうしないと伝わらないのだ。この先が死地なのだと。
「よく見ておけよ」
 文高は、初めて江戸入りする者たちにそう注意すると、腰に結わえた紙挟みから二枚の形代――人形に切り抜かれた紙を二枚取り出した。
 太い手指とは裏腹な繊細さで地面に置かれると、形代たちは一度たわむようにして立ち上がり、それぞれ大木戸の向こうへと歩き出した。単に前へ進むだけの術式を仕込んだ、簡単な造りの式神だ。以前なら、呪文を唱えなければ必要な気を形代に吹き込めなかったが、いまはすべて笈に仕込んだ式盤と霊符が自動でやってくれる。
 目的の現象が起きるまで、そう長いことかからなかった。
 それは、空から来た。
 空気を切り裂く甲高い音がして振り仰ぐと、こちらへと飛来する影がいくつも見えた。
 維盛が目を細め、正体を判別しようとする間もなく、抜き身の太刀や脇差が形代のいっぽうを地面へ串刺しにしていた。もういっぽうは、何事もなかったかのように前へ進み続けている。
「これが、あの事故がもたらした江戸の厄災……」
 初めて江戸入りするうちのひとりが、青い顔で呟いた。他の者も絶句している。
「この刀剣は、いったいどこから」
 百目鬼が当然と言えば当然の問いを発したが、文高は首を横に振った。
「考えても無駄だ。天地陰陽の理がどのように辻褄を合わせてここに刀剣を放ったかなど、われわれには知る由もない。どこかで大風が吹いて巻き上げられた刀剣が飛んできたか、あるいは……」
 文高は言葉を続けようとして、自分も無駄なことをしていると気付いたらしく、ぼりぼりと頭をかいた。
「とにかく、頭に入れておくことは二つだ。今の江戸においては、われわれ陰陽師の常識――暦で決まった日や方角の吉凶が通用しない。あらゆる方角、あらゆる日が凶だ。現に、いま形代が歩いて行ったのは吉方だが、ああして禍に見舞われた。方違え守りを持たせたほうは無事だがな」
 そう言って文高は、ひとりで戻ってきた形代から回収した方違え守りを示した。ちょっと見には、いびつな金属の塊にしか見えない。しかし、これのおかげで、「事故」の後、誰も立ち入れなかった江戸府内に足を踏み入れることができるようになったのだ。貴重な道具で、陰陽寮も江戸行きの任にあたる者へひとつずつ配るのがせいぜいだった。
「これは決して離すなよ。落としたが最後、次の一歩が死への一歩になる。何しろ周囲すべてが一瞬にして凶方となるのだからな。無事でいられる分、何も起こらないためにかえって油断が生じることもある。それにはじゅうぶん気をつけろ」
 文高は江戸未経験の五人に注意してから、維盛と師直へ先に大木戸を通るよう言った。
「お手本を見せろというわけだ」
 師直はそう笑い、事もなげに石垣の間を通過した。もちろん、方違え守りがあるので何も起こらない。
 維盛も一歩を踏み出す。
 一瞬、不安におそわれる。前例は無いが、何かの拍子に守りの効き目が切れていたら?
 思わず目を閉じてしまったが、結局何も起こらなかった。師直の隣に立って、仲間が来るのを待つ。
「さあ、お前たちも。義周(よしちか)殿を連れて先に行け」
 文高の指示を聞いて、維盛はなるほどと思った。口には出さないが、大木戸の向こうに未経験組とあの男だけを残したくなかったのだろう。
 その男――安倍義周はひどい風体だった。
 同行者があまりに見苦しくては旅程に差し支えると水浴びはさせていたし、髪はくしけずられ恰好も他と同じく狩衣姿だが、それでも落伍した者が持つ異様な雰囲気を男はまとっていた。よく見れば、何本かの指は爪が剥がされた跡があり、片耳は雑に削がれた傷跡が不格好に盛り上がっている。陰陽寮の拷問がもたらしたものだろう。
 安倍義周。あの「事故」を起こし、江戸を人の住めぬ厄災都市にした大罪人。まだ不惑を過ぎたほどの年齢のはずだが、十五年近く獄につながれていたせいか、もうほとんど老人のように見えた。足取りはおぼつかず、ふらふらとしている。
「おい、しっかり歩け!」
 義周を縛る縄を受け持っていた小野が、義周の胸倉をつかみ耳元で怒鳴った。
 顔を上げた義周の目は、うろんに陰陽師たちを映している。
「なんだ、その目は!」
 それが気に入らなかったらしい。小野は義周の頬を張り飛ばした。倒れこそしなかったが、義周はよろよろと後ずさる。
「うぬのせいで、われら陰陽師がどれほど辛酸を舐めたことか……!」
 危険な任務につかされた恨みもあいまってか、小野の声は怒りで震えていた。
 大悪人として上方歌舞伎の題材にすらなっている義周だが、この旅の成否は義周にかかっているとも言えた。たとえ正当な非難であっても、いま反感を持たれるような扱いは控えるべきだ。そう思いつつも、維盛は止めに入らなかった。
「それくらいにしておけ。今となっては”六壬”(りくじん)再建の唯一の鍵かもしれないのだからな」
 結局、文高が取りなすまで止めに入る者は誰もいなかった。多かれ少なかれ小野と同じ気持ちなのだ。
「行くぞ。できることなら、今日中に片をつけたい。蜥蜴を切らさないように気をつけろ」
 九人とも大木戸を越えて歩き出した中で、皮肉なものだ、と維盛は思った。
 一行の人数は陽の最大数である九――縁起の良い数字ではあるが、そこには罪人も頭数に入っているのだから。

 十年ほど前のことになる。暦博士の任にあったひとりの陰陽師がいた。
 暦博士は、未来に起きる厄災を占う職業だ。仕事柄、彼は占いの結果をもっと精度の高いものにしたいと思うようになった。陰陽師が扱うのは易占だが、その結果は定まった卦によって表され、その後は出た卦の解釈という個人技に頼ることになる。彼はそのことにもどかしさを感じていた。
 森羅万象の営みを、もっと正確に占うことはできないのだろうか?
 易占においては、陰爻(–)と陽爻(-)、たった二つの記号の組み合わせで、天地陰陽の作用を六十四卦三百八十四爻であらわす。ならば、その記号体系をもっと拡張し、人や動物、土地や事物も組み入れることはできないか? そうして和算のように記号同士を加減乗除してやれば、未来について占術よりも明快な回答を出せるのではないか?
 必要なのは、人間の代わりに膨大な量の計算を行う機巧だと彼は悟った。最終的には天地人のすべてを計算しようというのだから、人の手に余る作業となることは明らかだ。彼は憑かれたようにその技術の実現に向けて邁進した。
 まず、陰陽の両気が比較的均等に流れている土地を探した。吉相の土地に築かれた江戸の町にはいくつか候補があったが、愛宕山の近くに定め、彼は巨大な占術機構の建造に取り掛かった。
 その機巧には「六壬」という、平安の占術で使われていた道具の名がつけられた。それは一種の計算機で、天を表す円形の天盤と地を表す四角形の方盤の組み合わせからなり、回転させた円盤が停止した時のそれぞれの文字の重なり具合で占いをする。男が考え付いた組み合わせ術の源流であり、それにあやかったのだった。
 初期の試運転では結果もあまりかんばしくなかったが、改良を重ねていくうち、次第に正確な予測ができるようになっていった。
 あるとき、暦にない日食を予言したことによって、六壬の名声は知れ渡った。
 さらに冷害を予期して米の備蓄計画を適切に行い、飢饉を未然に防ぐことにもつながったことで、六壬の名は一躍高まることとなった。六壬は江戸幕府の預かりとなり、その治世はますます安泰になってゆく。そう思われた。
 六壬が暴走し、江戸の吉を根こそぎ外へ追いやり、凶をぶちまけるまでは。

 維盛が一年ほど前に派遣された時と同じく、江戸の町は荒廃していた。
 六壬が稼働していた頃の、陰陽道の繁栄を示す名残はそこら中に残っている。見晴るかせば、江戸城の天守が目に入る。六壬のおかげで、三度の大火を免れたというその楼閣は、巨大な霊符によって幾重にもおおわれていた。同じ霊符が、道の両側に並ぶ家々の外にも貼られている。これによって、六壬の演算に使う情報を集めていたのだ。
 維盛たちの他には誰もいないはずなのに、かすかな気配をそこかしこに感じるのは、事故当時に放たれ、そのまま主を失った式神たちがうろついているせいだ。時折、猫や狐の姿をした目の前を小さい式神が横切っていく。陰陽の気が凝って形となったモノだから、透けているのですぐそれと判る。
 狂暴化した式神について学んできた新人たちが、それを見るたびにおびえるので文高がとうとう喝をいれた。
「しっかりしろ! あれは失せ物探しを命じられただけの何でもないやつだ。呪詛を命じられた危険な式神なら、姿を見せたときにはもう攻撃してきているさ。陰陽寮謹製の備えがわれわれにはあるんだ。もう少しどっしり構えていろ」
「しかし、例の派遣失敗の時はこちらが想定していなかった攻撃手段で向かってきたのでしょう?」
 その意見はたしかに一理あるもので、今度は文高も真面目な顔になった。
 事故で倒壊した六壬の後継機を建造するため、京に居を移した幕府は陰陽寮に命じ、大規模な捜索隊を江戸に派遣した。五年前のことだ。
 事故当時の江戸から逃げ出した者の持ち物から、六壬の余波を受けたために江戸の厄災との親和性を持った金属が見つかり、それを方違え守りに加工する技術が確立したため、事故から十年近く経ってやっと可能になったところだった。
 事故の生存者は江戸脱出の際に図面の類を持ち出す暇などなかったし、脱出できなかった者は全員死んでしまった。つまり、再建しようにも手掛かりが何も無かったのだ。そこで陰陽師を派遣し、江戸から部品や図面を持ってこさせようした。そして、狂暴化した式神の存在を初めて目の当たりにした捜索隊は大半がその呪にやられ、命からがら逃げ出した少数者が、江戸の危険性をあらためて喧伝したのだった。江戸派遣が少人数になったのも、このときの教訓からだという。
「たしかに、油断は禁物だな。すまない。私も気を引き締めよう」
 継いで、文高は維盛に話しかけてきた。
「維盛は江戸の生まれだろう。当時の記憶はあるのか?」
「いいや。まだ赤子同然だったから……」
「そうか。いや、江戸の繁栄がいかほどのものだったか、一度くらい見ておきたかったと思ってな……」
 維盛は十八で、事故当時は二歳だった。文高も二十をようやく数えた程度で、ずっと京で修行に明け暮れていたというから、遊興の都市でもあった江戸に関心があるのかもしれない。
「第二の六壬が完成すれば、京でも同じ光景が見られるようになるさ」
 そう励ますと、予想に反して文高は複雑な表情になった。
「第二の六壬か……」
 表情の理由を問おうとしたとき、全員が腰に付けている鳴子が、揃って激しく打ち鳴らされた。
「襲撃! 蜥蜴(とかげ)を注ぎ足しておけ!」
 文高の号令に、義周を除く全員が素早く手を動かす。陰陽寮で散々やらされた訓練通りの動きだ。
 右の腰にくくりつけてある魚籠から雌雄の蜥蜴二匹を取り出し、左の腰に結わえた瓢箪の中に放り込む。
 催淫作用のある薬液を満たした瓢箪の中で蜥蜴が交尾を始めると、陰陽和合の気が背負った笈に詰めてある式盤と霊符に送り込まれる。こうすることで、祝詞の詠唱や各種儀式のような手間のかかる手順を省略し、戦闘に必要な気を充填できるのだった。
 突然、全身を粘性の何かで撫でられているような怖気が走る。式神に標的として認識された証だ。陰陽寮の訓練でも経験しているが、いつまで経っても慣れない感覚だった。
 陰陽の真気は、人間と天地宇宙の間で循環している。
 その通り道となる人体の五愈穴――井・榮・愈・経・合――に、いま式神が潜り込もうとしている。それが笈に仕込んだ術式によって、疑似的な触覚として感じられているのだ。もし侵入されれば式神の呪に侵され、命数を強制的に途絶させられる。つまり、命を落とす。最初の捜索隊がやられたのもこれが原因だった。
 かれらの報告を受けた陰陽寮は対策を打ち出した。
 六壬の進歩にともなって、陰陽師の扱う呪についての解明は飛躍的に進んだ。それまでは書や口伝による経験則のみで行ってきた祈祷や符呪が、実は同じ記号による組み合わせの差異でしかなかったと判ってきたのだ。
 呪とは、人間が生まれながらにして持つ本命卦――いわば符丁を破る力を持った爻(こう)の塊だ。
 それならば、対抗するには符丁を複雑化し、呪に破られないようにすればいい。
 呪によく使われる爻の組み合わせを分類し、各攻撃に対する備えをしておけばいい。身体の鍛錬が求められるのも、より多くの霊符を持ち歩けたほうがより多くの事象に対応できるというのが大きい。
 そして呪を防いで時間を稼いでいる間に、呪詛返し――式神への逆襲にかかればいいのだ。
 維盛たちの前に、攻撃の主である式神が姿を現した。容姿こそ童子のようだが眼球は無く、黒々とした穴がぽっかりと空いている。先ほどから感じている怖気の元凶だ。
 ごん、と重い衝撃が矢継ぎ早に来る。五愈穴へ、見えない戦槌が何度も振り下ろされている。”火除”と呼ばれる陰陽寮印の防御式がなければ、とっくに呪でやられているだろう。
 この式神が仕掛けているのは、とにかくあらゆる爻の組み合わせを試し、こちらの符丁を破れる爻に行き当たるのを期待した攻撃だった。旧式の手法だ。江戸の時間が停まっている間に、京の陰陽術は格段の進歩を遂げている。全滅した最初の部隊とは雲泥の差があるのだ。
「教科書通りの攻撃だな。かわいいものじゃないか」
文高が軽い口調で言うと、初めて江戸での実戦に遭遇した小野たち五人も少しほっとしたようだった。
「ちょうどいい練習台だ、倒してみせてくれ」
文高は隣にいた九鬼に声をかけた。
「そんな、無理ですよ」
「何のためにお前たちを引き連れてきたと思っているんだ。これから先、お前たちが後輩を連れて江戸を歩くとき恥をかかないようにするためだぞ。私は義周殿の分も気を割かねばならぬし、ごちゃごちゃ言ってないで早くやれ。長引けば他の式神が寄ってくるぞ」
 何の装備も与えられていない義周は、誰かが守ってやらなければ式神の的になる。いちばん経験のある文高がその役を担っていた。義周を縛っている縄には霊符と同じ爻が記されており、文高の笈と連結するだけでその恩恵を受けられるのだった。
 文高にうながされた九鬼は、腰の皮袋から小型の徳利を取り出した。栓を取り、中身を一気に飲み干す。元は和紙である霊符を水で溶いた、対式神用の呑符だ。これを服用することで全身の経絡が賦活され、式神と渡り合えるようになる。
「式神は、必ず本体である式盤と真気のやりとりをしている。まずそれを探るんだ。そうして、その連絡に割り込む。式神にはお前が式盤だと、式盤にはお前が式神だと思わせるよう擬態するのだ」
 式神は、江戸のどこかにある式盤と呪符によって動いている。事故の余波がまだ残っており、そこから真気の供給を受けているのだ。その器物を破壊できるなら素人にでもできる簡単な対処法だが、こうして相対した状態から本体を探索するのは至難だ。そこで、文高が言ったやり方が現実的な線となる。
「すまない、手伝ってもらっていいか。ひとりではまだ大分かかりそうだ」
 九鬼は小野と勘解由小路に声をかけた。
 笈を義周の縄のようにつなぐことで、処理能力を上げることができる。三人の笈がつながれると、その効果はすぐにあらわれた。
「あっ、本体の居所をつかみました!」
「では反撃といこう。習った通りにやればいい」
 九鬼は陰陽言語で組まれた呪詛返報の霊符を取り出し、腰の紙挟みに滑らせた。式が発動し、式神の本体を逆探知して乗っ取りにいく。急に式神の姿がかき消え、攻撃も止んだ。
「できた……」
 まるで信じられないといった様子でこちらを見てくるのが微笑ましい。文高も満足そうにうなずいた。
「うむ、よくやった」
「ありがとうございます」
 にこりとした次の瞬間、九鬼は白目をむいて物も言わず倒れた。
 地面に倒れた九鬼の口からは泡が噴き出ている。式神の呪にやられたのだ。
 維盛は恐怖しながらも、目の前で起きたことを必死で理解しようとした。他の者が無事である以上、陰陽寮が配布した霊符に問題は無い。おそらく、勘解由小路が独自で用意してきた式盤か呪符が陰陽寮のそれと合わず、何らかの動作不良を起こしたのだろう。そしてその隙をつかれた。独自の式盤や霊符を組み合わせるときは入念にあらためるものだが、どこかで欠陥を見落としたのだろう。
「結縁を切れ!」
 文高が叫ぶ。九鬼と笈をつないでいた小野と勘解由小路に言っているのだ。呪にやられた人間とつながれたままでは、そこから侵入されるおそれがある。
 勘解由小路はすぐ対応したが、小野のほうは手が震えてまだ縄を外せていない。舌打ちした師直が、脇差を抜いて縄を断ち切ったが、遅かった。小野は、まるで九鬼の再現のように地面に倒れ伏した。
維盛は不審に思った。いまの場合、すでに師直にも呪が向かったと考えるべきだ。断ち切る前に小野は倒れていたのだから。にもかかわらず、師直は無事だ。ということは、可能性はひとつ。
「師直殿! 二人を助けてくれ! あなたの霊符なら助けられるのだ!」
 勘解由小路が師直に訴える。
 そう、師直はおそらく、陰陽寮の標準装備に家伝の霊符を加えていたにちがいなかった。だから二人がやられた呪を防ぐことができたのだ。
 呪が全身に回り命を奪うには少し猶予がある。迅速に処置すれば、二人の笈に霊符を足して救うことがきるかもしれない。
 しかし、師直は動かなかった。
 陰陽師の世界は、どれだけ良い雇い主を持つかが家格に直結する。
 陰陽寮が配布する標準的な霊符だけでは、他家との差別化を図れない。各家が隆盛を望んだ結果、各々が秘伝とする術や霊符を持つようになるのは当然だった。それらは自家のために秘匿すべき術式であって、どんな場合でも絶対に他言無用の秘密だ。有職故実を秘して、家名の向上につなげるのと同様である。陰陽師でそれを責められる者はいない。どこもそうして自らの利益を守っているのだ。
 だから、師直は動かなかった。
 もう助けられる時刻は過ぎていた。倒れたふたりの笈の側面にある口から、長めの紙が吐き出され地面に落ちた。呪がどのような形で作用したのかを示す記録だ。陰陽寮の規則で、命を落とした者がいた場合に必ず回収すべきものだった。どういった呪かを分析し、犠牲者を減らすことにつながるからだ。
「いったん江戸を出て、体勢を立て直す! ついてこい」
 二人がやられた理由をきちんと確認しなければ、二の舞になりかねない。文高はそれらの記録を拾い、さらに二人の笈へひとつの式を打った。途端に笈が発火し、燃え上がる。
 笈をそのままにしておけば、式神たちに術式を取り込まれるおそれがある。つまり、最新の陰陽技術が式神の手に渡るわけで、それはいかにもまずかった。江戸府内の陰陽網に情報共有として流布されたなら、式神の攻撃が格段に進歩する可能性がある。そこで緊急用に笈を燃やしてしまう発火装置も付けられていたのだ。方違え守りも回収したいところだがあきらめるしかなかった。
 その場を離れようと駆ける間、誰もが無言でいた。義周も生存本能がはたらいたのか、しっかりした足取りでついてきている。
 しばらく走って、息を入れようと何とはなしに全員が足をゆるめた。
「何故、助けなかった」
 文高は、責める風でもなく師直に尋ねたのだが、師直のほうは非難と受け取ったらしく声を荒げた。
「助けるとはなんだ? 私の呪符を書き写して彼奴に渡せばよかったというのか? 自家の秘伝を他人に明かす奴がどこにいる!」
 にらみあった文高と師直を、他の者は落ち着かなげに見守っている。そのとき、それまで黙っていた義周ががぼそりと言った。
「何か来るぞ」
 義周が自分から喋ったことに誰もが驚いたが、言われてみればたしかに人の声が聞こえる。待ってくれ、と言っているようだ。目をこらすと、ふたつの人影がこちらへ走ってくるのがわかった。
 人影がだんだん近づいてきてそれが何者か判ると、誰かが声にならない悲鳴をもらした。
 維盛も同じ気持ちだった。さっき地面に倒れていた九鬼と小野が、息せき切って駆けてくるのだ。笈が燃えたせいだろう、服は焼け崩れ、本人たちもあちこちにひどい火傷を負っている。
 文高が静かに言った。
「言葉を交わすな、目線を合わせるな。無視していろ」
 呪の中には、友人知人を騙って言葉を交わしたり、家に上がり込むことを一種の引き金にする類のものがある。いま目の前にいるのがそれだった。身体に巣食った呪によって動かされているのだ。おそらく、先ほどとは別の式神にでもやられたのだろう。人は死した後も、腐敗というかたちで陰陽の営みに組み込まれている。死んだからと言って、五穴が閉じるわけではないのだ。
「もう少し喜んでくれたっていいじゃないか、どうして黙っているんだ」
 同じ境遇から九鬼や小野と親しくなっていた勘解由小路たちはおびえきっている。戦力にはならないだろう。こちらに触れようと伸びてくる手は、攻撃と見なされ”火除”にはじかれているが、だからといって冷静でいられるわけがない。
 いまこの瞬間方違え守りを引きちぎられたり笈を奪われたりすればこちらは一巻の終わりなのだが、そういう手段をとってこないのは向こうがもともと人間でなく式神だからだ。あくまで、あらかじめ仕組まれた行動しかしないのはこちらにとって幸いだった。
 文高は義周を守る必要があり、下手に攻撃には参加できない。維盛と師直は呑符を口にし、攻撃に転じた。彼らから伸びている線をたどり、本体を探すのだ。
 そのとき、「助けてくれ!」と師直が叫んだ。
 見ると、苦痛に顔を歪めた師直の姿があった。おそらく、式神の本体を突き止めはしたものの、その主である陰陽師が残していった罠――呪詛返しにかかったのだろう。式神の本体に続く道に偽装し、罠に誘導するのはよくある手口だが、師直のほどの者がかかったとなるとかなり高度な技術だった。
 維盛はほとんど本能的に呪詛返しに効験のある霊符を師直へ投げていた。中原家はその手の霊符に造詣が深い家系だったのが幸いした。師直はためらいがちにそれを受け取り、自らにあてがいながら尋ねた。
「どうしてだ……?」
「あんたじゃない。自分を助けたんだよ」
「わけがわからん」
「まあ、好きに思うがいいさ」
師直は、居心地悪そうに身をよじった。
一度仕掛けが分かってしまえば、避けるのはたやすい。敵の本体を乗っ取ったことで、九鬼と小野の身体は主を失い、その場にばったりと倒れた。
「……一度引き上げよう。明日もう一度潜る」
維盛は、ふと義周を見つめた。
師直に、肉親の前でひとを見殺しにしたくなかったと伝えたら、どんな顔をするだろうか。
安倍義周は、維盛の父であり、”六壬”を造った男だった。

 育ての親である中原公望から、あの安部義周が自分の実父だと告げられたのは、ほんの二月ほど前のことだった。はじめ維盛は本気にせず、不審の目を向けて公望を苦笑させた。
 これまで、父親のことを教えてくれと頼んだのは一度や二度ではない。その度に言葉を濁してきた公望の口が急に軽くなったのだから、怪しむのは当然と言えた。
「これまでお前に話してやったことが嘘というわけではない。事故当時、私は江戸にいて、お前の家族と親しい付き合いがあった。それで事故が起きたときに母親から、お前を託されたというのは本当だ。ただ、その家が安倍家で、託されたのはあの事故の直後。そして父親があの安倍義周だということを伏せていただけでな」
 事故が起きたときの混乱ぶりは幾度となく維盛も耳にしていた。陰陽師ですら成す術なく逃げるしかない状況だったという。事情のわからない一般の町民にはさらに恐怖だったろう。
 義周の妻は混乱のさなか、事故を起こしたのが夫だと他の陰陽師から聞き知ったらしい。それが本当なら、夫はもちろん、自分と息子の命もない。そう考えた末、中原家を頼ったのだ。息子を、素性は隠したまま匿ってくれと。
「正直なところ、そのとき本当に義周殿がやったと判っていたら引き受けなかったかもしれぬ。ただ、わたしの知っている義周殿はこんなことを仕出かす人ではなかった。だから、そのときは何かの間違いだろうと思ったんだ。
誤解がとけるまで。それくらいのつもりで引き受けたんだよ」
 義周の妻とは、江戸を出るところまで一緒だったが、郷里に帰るというのでそこで別れてしまった。その後、義周は”六壬”破壊の犯人として捕縛され、公望は彼女の心配を正しかったと認めることになる。事が事だけに、今日まで維盛に何も告げずに来たのだと、公望は語った。
 それならば、何故いまになって急に口を開いたのか。
 維盛の問いかけに、公望は言いにくそうに口を開いた。
「実はな、次回の江戸派遣に義周を連れていくらしい」
「なんですって」
 驚いて、維盛は声を上げた。
「馬鹿な。逃亡のおそれもあるのに、罪人を外に出すなど。幕府が許すはずがない」
 京にその機能を移した江戸幕府は貴族の間で小幕府と呼ばれている。江戸から追いやられた恨みは義周に向いているにちがいない。いま義周が死罪になっていないこと自体、奇跡的なのだ。このうえ、外を出歩かせるとは思えなかった。
「第二の六壬建造のためとなれば、小幕府も何も言えなかろう。かの威光を、ふたたび手にすることができるわけだからな」
「第二の六壬? しかし……」
 小幕府は京へ避難した後、御三家と連携して諸国ににらみをきかせると同時に、第二の”六壬”建造に着手した。しかし、十五年経ったいまも、稼働には成功していない。事故のせいで、必要な設計図や部品はすべて江戸に放置されたままとなり、見様見真似で再現しようとしているのが現状だからだ。方違え守りで江戸を出入りできるようにはなっても、それらの回収は遅々として進んでいなかった。
 それが、義周の生かされている理由でもあった。何しろ六壬を造った男だ。情報を引き出せれば設計図などいらない。しかし事故後長く昏睡状態だったために当時の記憶があいまいで、重要な部分が欠落しているという。目覚めた後に受けた厳しい拷問でもそれは引き出せなかったと聞く。
「それが、江戸へ行って六壬の遺構を検分したいと言い出したらしい。記憶があいまいな部分も、実際に検分すれば思い出せるだろうと。そこで、特例として許可されたというわけだ。まあ、逃亡のおそれもあるが、上も目の色を変えているのさ。それに、長く獄につながれてだいぶ弱っていると聞いた。何かする余力などないさ」
 公望は真剣な目で維盛を見た。
「義周殿が牢から出されるのは、次いつになるか分からぬ。一度、父親の顔を自分の目で見てくるのだ。易占によれば、今回の江戸派遣には行くべきだと出ている。どうせなかなかなり手の見つからないお役目だ。お前を加えるのはそう難しいことではない。どうする?」
 それがただの厚意でないのは分かっていた。向こうも、こちらが分かっていることは察していたにちがいない。
 維盛は、昨年江戸へ行ったばかりだった。中原家の身代わりとして。
 言葉だけみれば、義理の息子に実の父と対面させてやろうという心配りとも思えるが、それにしても江戸行きを提案してくるとは常軌を逸した提案だと言えた。これによって家名を上げるという思惑が、そこにはある。
 公望を詰るつもりは維盛にはなかった。これくらいでなければ、生き馬の目を抜くような貴族社会で生きてはこれなかっただろう。ただ、ため息を吐いた。
 維盛は、ここを追い出されればただの野良犬だ。陰陽寮に属さない民間陰陽師として、取締りにびくびくしながら生きていかなければならない。そんな人生は願い下げだった。
「かしこまりました」と言うほかなかった。

 大木戸を今度は反対にくぐって、維盛たちは江戸からいったん避難した。
 近くに見つけた空き家になっている旅籠を今夜の宿と決め、ようやく全員が人心地ついた。
 たいへんな目に遭った勘解由小路たちを落ち着かせなければならないし、九鬼と小野がやられた原因を霊符から分析しなくてはならない。何にせよ、まずは時間が必要だった。
 そんな中でも、義周への監視を怠るわけにはいかない。維盛、文高、師直の三人で不寝番に当たることにした。
 その夜、番を交代するために維盛が起きだしてみると、師直と交代したはずの文高もまだ起きており、死んだ新人の笈から吐き出された記録用の霊符を焚火の火で眺めているところだった。
「なんだ、まだ交代には早いぞ」
「いや。じゅうぶん休んだよ。……何か判ったか」
「ああ……。式の組み方に爪の甘い点があったせいで、式神につけこまれたんだ。なに、今ここにいる人間なら犯さないような、初歩的な見落としだよ」
 手渡された霊符の一点を文高が指さす。新人がやりがちな失敗だった。
「まあこれで、われわれが対策を講じる必要はなくなった。これで明日もう一度潜ることができるな。かの安倍義周まで連れてきておいて、何も持ち帰らずに京へ戻るわけにはいかぬ」
 その言葉に、自分にはない使命感、揺るがない意志を維盛は感じた。
「それにしても、あんたはすごいな。昼間は助かった」
 まさか褒められるとは思わず、維盛は面映ゆくなった。
 何といえばいいか口ごもっていると、文高はそれを引き取るようにして口を開いた。
「初めて江戸に来たとき、目の前で仲間が呪にやられたことがあった。そのとき、惟宗の術式で救えると分かっていて、俺は何もしなかった。父上から教わった通りにな」
 文高は、自分の笈から一枚の呪符を取り出して、維盛に渡した。
「……これは?」
「惟宗の秘術のひとつだ。呪を打つとき、先方の検知を逃れる仕組みになっている」
 一目で画期的な術式と判った。そして、簡潔で見やすいがゆえに、すぐ真似できることも。
「どうして見せてくれるんだ」
「生家が嫌いなだけさ……。いや、この仕事自体、あまり好きではないのだ。だから、逆らうようなことをしているのかもしれぬ。正直なところ、第二の六壬なんかどうでもいいんだ。むしろ、ないほうがいいとさえ思っている」
 文高は維盛のほうは見ずに、独り言のようにして話し続けた。
「そもそも易占は、未来の内容を正確に知りたいなどという浅ましい欲に用いるものではない。賢人や有徳の士が、ここぞというときに自ら行動の指針を問うものだ。六壬のおかげで勘違いする輩も多く出てしまったがな……。占術というのは、人間を謙虚なものにとどめておく、そういった役割を担っていたのかもしれない」
 深いため息が、文高の口からもれた。
「各家が協力し、知恵を出し合えば、もしかしたら第二の”六壬”はもう完成していたかもしれぬ。そのことは、皆分かっているはずなのだ。しかし、誰もが利に汲々として易の本義を省みぬ。それもこれも、”六壬”ができてからだ……」
「では、”六壬”ができないほうが、世の中は平らかに回っていったと?」
「わからん。有職故実を巡って同じような争いは起きていたわけだからな。ただ、皆がほんとうは疑っているのに、皆がそうしているからという理由で本義を誤っているのだとしたら、それは実に……空しいことだと思うだけだ」
「あんたが声を上げれば、ついてくるやつだっているさ。何かを変えたいなら」
「惟宗家の長男がそんなことをすれば、天下の笑いものだろう。それより、そろそろ交代の時間だぞ」
 師直と交代して、維盛は義周の向かいの地面にあぐらをかいて座った。
 言われるままに来てはみたが、自分は、目の前の男に何を求めているのだろう。
 自分でも分からぬまま、交代の時間まで維盛は黙って時を過ごした。

 翌日、まだ昨日の恐怖が抜けきらない勘解由小路たちは宿に置いて、維盛、文高、師直、義周の四人はふたたび江戸へ潜った。
 こちらへの侵入を試みた式神は何体かいたものの、六壬のある愛宕山に着くまで、式神と正面切っての戦闘はなかった。どうやら最悪の事態――九鬼や小野が持っていた笈の中身が式神に共有されることは防げたらしい。そうでなければ、もっと致命的な攻撃を受けていただろう。
 朝に出発して、大名屋敷のような白壁に囲われている六壬の在り処が見えてきたときには、もうだいぶ日が高くなっていた。
 六壬の周囲は、見たことのない者が思い描くよりもだいぶ整然としている。あくまで陰陽の気が暴走したのであって、物理的な力が作用したわけではない。だから、周囲の家並みもちゃんと残っている。
 維盛たちは長い白壁に沿って進み、ようやくたどり着いた冠木門から中へと足を踏み入れた。
 広大な庭のほとんどを占める深い竪穴に、今は動いていない六壬がそびえていた。その巨大さは、見下ろしているのに「そびえる」としか言いようがないほどだった。
 目立つのは大きな八卦盤だが、その裏には和箪笥の親玉のような何千もの抽斗を持つ木組みの構造物が控えている。そこに収納されていた霊符と式盤が、六壬の核となる部分だった。
 それに対面するように、書見台のような一角がしつらえられている。そこで六壬に対して演算を入力すると、結縁のような仕組みでその内容が六壬に伝わり、結果を出力するわけだ。
 八卦盤には、ごく細微な区画が刻まれており、それは裏の抽斗ひとつひとつと対応している。そこには和算の天元術にもとづく方程式が設定されており、書見台からの命令にしたがって必要な式を順次参照していくのだった。
 六壬が内蔵していた式盤や霊符はすでに回収されていたが、その威容はやはり見る者を圧倒するものだった。
 維盛はひとまずほっと息を吐いた。義周を六壬まで連れてくる、という任務をまずは果たしたわけだ。もっとも、まだ帰りが残っているのだが。
「では、義周殿。好きなだけ検分なさってください。われわれのことは、まあお気になさらず」
 文高も心なしかくだけた口調になっている。しかし、義周に縄を解いてもらえないか頼まれるとさすがに渋い顔になった。
「残念ですが、それはできません。どこか動かしたいところがあれば、われわれがお手伝いしますよ」
「そうか、すまないな」
 義周が言葉を切るのと同時に、維盛、文高、師直の方違え守りが宙に向けて思いっきり引っ張られた。まるで目に見えない手がねじ切ろうとしているかのように強くひねられ、紐はいまにもちぎれそうだ。
「動かないでもらおう。少しでも動けばその紐を引きちぎる」
 その言葉が無かったら、これが義周の仕業だとは信じられなかった。義周は霊符も式盤も持っていない。にもかかわらず、三人の”火除”をほぼ同時に突破し、本命卦を乗っ取ったのだ。ありえないことだった。
 自分たちは油断していた。そう認めざるをえなかった。たとえそう見えなくとも、目の前の男が六壬を建造した天才だと知っていたのに。
 三人は身動きがとれないまま、義周とにらみあった。
「どういうつもりだ。逃げだして、いまさら野良の法師陰陽師にでもなろうというのか」
 命を握られているというのに、文高の声音は落ち着いている。この状況では、そのことが心強い。
 文高の問いに、霊符に筆で何事か記しながら義周は首を横に振った。
「そうではない。わたしはこの六壬でやることがある。それをしばらく黙って見ていてくれれば、それでいい。その後で解放してやろう」
 どうやら命まで奪うつもりはないらしい。維盛はもちろん文高も安堵しているはずだが、そんな様子は見せず淡々と義周とのやりとりを続けた。
「やること、とは?」
「天地陰陽の理から、人の身を切り離すのだ」
 唖然としたのは維盛だけでなく、文高や師直も同じだったろう。
「馬鹿な。陰を吸い、陽を吐いて生きている人間をどうするって? 生きていけると思うのか?」
 師直があざ笑う。維盛は父が師直を殺すのではないかと思ってぞっとしたが、義周はこちらの言うことより自分の仕事に集中しているようだった。手を動かしながら、言い聞かせるように語る。
「大晴明の『簠簋内伝』は読んでいるだろう。かの書物では、この世界を盤古神が創ったと記されている。しかし、それに先だって伽羅卵というすべての源が爆ぜ、世を産み出したとも記されている。では問う。盤古はどこから来た?」
「そんなこと、知るものか」
 義周は師直の答えに肩をすくめた。
「陰陽とは、天地を動かしている理のごく一部、人が扱うことのできる部分だけを取り出し、名づけ、整理したものにすぎん。陰陽の前に盤古がいるように、すべてはわれわれが思うよりも広く、そして深い。陰陽の気を絶っても死にはしない。悪いことばかりではないぞ。これが成功すれば、本命卦も凶方も意味をなさなくなる。江戸も元に戻る。過去の因果にとらわれず、未来だけを見つめていける世ができるのだ」
「それでは、陰陽道が立ち行かなくなるではないか!」
「世が立ち行かなくなるより、そのほうがよいのではないか?」
 静かな声だったが、そこには気圧されるような何かがこもっていた。
 義周は車輪のついた移動式の階段梯子を動かし、六壬のあちこちに霊符を納めて回っている。その仕事ぶりにはよどみがなく、やろうとしている仕事への理解と自信がうかがえた。
 このまま黙って見ているわけにはいかなかった。義周の話を信じる根拠は何一つないのだ。十五年前の事故が、本当に義周が起こしたものでないと言える材料を維盛は持っていない。もし、十五年前の事故はやはり江戸を壊滅させる意図で義周がやったとしたら? そして、思ったよりも被害が少なかったとしていまもう一度同じことをしようとしているとしたら? その可能性が少しでもある以上、維盛は動かなければならない。
 維盛は、決断した。
「やめてください、父上」
 義周が手を止め、維盛と目を合わせた。背中しか見えない文高と師直もさぞ驚いているだろう。義周はつぶやくように言った。
「さっき、呪を送った時にようやく気付いたよ。わたしも衰えたものだ。息子の顔も分からなかったとは。……さぞ苦労したろう。すまなかった」
「そう思うなら、わたしをまた罪人の息子にしないでください。今すぐ手を止めて、この呪を解いてください」
「罪人の息子、か」
 義周は静かに笑った。
「お前だけには信じてほしい。わたしは、六壬を破壊してなどいないんだ」
「しかし、それならなぜ自白など」
 義周は力無く自嘲めいた笑いをもらした。維盛に向かって手の甲を向けて見せる。生爪をはがされた指。維盛は返す言葉が無かった。
「だが、私も罰は受けるべきなんだろうと途中から思うようになった。罰は甘んじて受けようと思った。諫めなかった私も同罪だからな。」
 六壬を造り、そして破壊したと聞いていた男は、しっかりとした声で話す。維盛は、言いようのない不安におそわれた。この男の言っていることがまるで真実のように聞こえるのだ。
「幕府は、六壬の限界を超える演算を常に要求してきた。もしも性能の限界を超える演算を続ければ、六壬に深刻な損傷がでかねないと何度も説得したのにだ。しかし、こちらも強く抵抗はしなかった。話の通じない相手に説得し続けるというのは、おそろしく労力を使うからな……。」
「冤罪を恨んで、このようなことを? それなら、われわれが取りなして……」
「今さら、名誉の回復など望んでいない。ただ、ずっと考えていた。幕府の命に背くことが出来ず、この惨状をもたらした償いをどうするかと。獄につながれながら、ずっと考えていたのだよ」
「そして決めたのだ。人の上に立つ者は疑心暗鬼となり、未来を知りたがる。もしも第二の六壬が完成したならば、第二の事故がいつか必ず起きる。いや、もっとひどいことになるかもしれない。だから、手にした剣の重みに鈍感な連中からは、剣を奪うべきなのだとな」
「それを決めるのは、少なくともわれわれではありません!」
「そうだな。決めるのはわたしだ。まあ見ていろ。わたしは、わたしが最善だと思う世界をお前に渡すことにするよ」
 言われた通り黙って見ていれば本当に陰陽の理気を封じられてしまうかもしれない。いや、ただのはったり、または狂信という可能性はないのか?
 しかし、驚いたことに、義周が作業を進めるにつれ、六壬は往時のように稼働を始めた。ふと、維盛は笈から流れ込む力が減じていくのを肌で感じた。文高と師直の表情を見ると、同じことが起きているらしい。ぞっとした。
 何とかしなければ、本当に取り返しがつかないことになりそうだった。
 それにしても、おかしい。
 六壬を動かすための真気は、事故のせいで気の流れが変わり、機能しなくなったはずだ。
 にもかかわらずああして動いているということは、何らかの方法で真気をこちらに呼び寄せたと考えるしかない。しかし、義周は式盤も霊符も所持していない。では、どうやって真気を勧請した? それが分かれば、方違え守りも奪い返せるはずなのだ。
 考えろ、と維盛は自分を叱咤した。義周はここに来るまで何をしていた? ずっと縄で縛られていたのだ、何もできるはずがない。せいぜい、自分たちに遅れないよう歩くことくらい――。
「足跡だ!」
 維盛は小声で叫んだ。文高と師直がちらと維盛のほうを見る。
 反閇(へんばい)――兎歩とも呼ばれる陰陽道の魔術的歩法は、一歩一歩を符の一語として連ねることが可能だ。理論上は、だが。まさか実際にやる人間がいるとは考えもしなかった。人通りの絶えた江戸だからこそ可能な企みだ。京ではあっという間に行きかう人々がかき消してしまうだろう。
 維盛の一言で意図を察した文高が、視線を周囲に走らせる。義周の足跡は、そうと分かってみればわずかに霊符と同じ力がにじんでいてすぐ目についた。少し、遠い。五間ほどはあるだろうか。
「わたしは足跡を消して気の流れを止める。そして、方違え守りを拾って渡す。援護してほしい」
 維盛の頼みに、文高はすぐに、師直は一瞬ためらってから頷いた。
「お前にはひとつ借りがあるからな……。しかし、ほんとうに刹那しかもたんぞ」
「それでいい。では、参る!」
 維盛は意を決して動いた。
 驚くことに、まだ生きている。方違え守りと維盛をつなぐ紐はまだ無事だ。
 義周の足跡を目がけて走る。
 突然、地面に降り注いでいた陽光が陰る。視界の隅で、黒雲が急速に肥えていく。どろどろという、地獄が手ぐすねを引いているような音が聞こえる。どうやら、厄災の町江戸は維盛の死に方に落雷を選んだらしい。
「うわああああああああああああああああああっ!!!」
 恐怖をまぎらわすために無駄に叫びながら、維盛は義周の足跡までたどり着き、それを踏み消した。
 方違え守りは、まだ無事だった。
 思わず義周のほうを見ると、義周のほうも維盛を見ていた。
 それから、はっとして師直と文高のほうを見ると、すでに方違え守りは遠くへちぎれ飛んでおり、落雷が狙っているのは自分でなくあの二人なのだと悟った。
 どちらが先だったろう。稲光が維盛の視界を奪うのと、維盛の鼻が場違いな沈丁花の香りをとらえたのと。
「香を強く吸い込め!」
 師直が文高に叫んだ瞬間、江戸全体を震わせるような轟音が、維盛の耳に突き刺さった。
 しかし、文高と師直は、まだ生きている。文高は二つの方違え守りを素早く拾い上げ、ひとつを師直に放った。
 師直の周囲の地面に、円を描く複数の木片を維盛は目にした。香木だ。
 羶・焦・香・腥・朽の五香もまた、陰陽に基づく爻に還元できる。香道に秀でた家柄の師直は、霊符に香木の香りを爻として組み合わせることでその演算速度を増し、即席の方違え守りを作ったのだ。きっとあれが芦屋家の秘伝なのだろう。それによって、稲妻は大きく逸れ、塀の外に見える櫓に落雷していた。
 供給路を断たれたせいか、目に見えて”六壬”の回転が鈍くなっていく。いまや立場は逆転していた。義周は抵抗する様子もなく文高が振り下ろす手刀をくらい、その場に倒れ伏した。
「師直殿……今のが?」
「そう、香を使った芦屋家の戦い方だ」
 師直は、地面に置いた香木を拾い集めながら答えた。
「江戸行きは私の家にあっては蟲毒のようなものなのさ。江戸から無事帰ってきた者は適性ありとされ、身体に秘術をほどこされる。それがこの鼻だ。すでに呪詛玉をふたつ埋め込まれている。この旅から無事帰ったら適性ありとして三つ目が埋め込まれる予定だった」
「そんな、酷いことを」
 それならば、義周の理念に賛同してもよかったのではないか。
「お前たちと同じだ。結局われわれの家族、知人友人はみな陰陽道に頼ってたっきをたてている。そのことを思うと、さすがに自分の鼻を優先させるわけにはいかな、い……」
 口ごもった師直をみて維盛は首を傾げた。
「どうした?」
 師直は困ったような顔で言った。
「鼻が、効かない」
 それが何を意味しているのか、理解するのに少しかかった。
「まさか、間に合わなかったのか。陰陽の理気は断たれたのか!」
 維盛は霊符を紙挟みに通してみた。何も起こらない。霊符と身体が接続されるあの感覚が無い。
 地面に打ち伏している義周を、維盛は驚嘆の思いで見つめた。父は、本当にやりとげたのだ。その研鑽を思うと、立場の相違を忘れてほとんど尊敬の念を抱いてしまった。”六壬”を成立させる理論を打ち立てただけでなく、陰陽の理自体も操作可能としてしまうとは。
「なんということだ、これは……」
 呆然としていた文高は急に大笑いしだした。
「今ごろ陰陽寮のお偉方や父上はさぞ大慌てだろうて」
「おい、笑っていられるのは今だけだぞ。明日からは路頭に迷うことになるんだ。暦も、まじないも意味を為さなくなった……。食い扶持がなくなってしまったんだから」
「ああ、そうだな。たしかにそうだが、なんだかとても愉快なんだよ。どうしたことだろうな、これは」
 正直なところ、維盛も同感だった。知らず知らず、縛られていたのかもしれない。陰陽の理という網の目が張り巡らされた世界に。
「そう悲観するものでもない。どうせ素人には理気など見えていなかったんだ。しれっと陰陽師稼業を続けていくという手もあるぞ」
「ばかな」
 そう言いつつ、師直も解放されたような笑みを浮かべている。
「帰ったら呪詛玉を抜いてもらわなくては。早く美男に戻りたいよ」
 師直の言葉に、思わず笑ってしまった。

 了

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