舞闘少女☆あみりん

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梗 概

舞闘少女☆あみりん

高校三年生の亜美は、高校生活が終わることに漠然と不安を抱えている。小さな頃はアニメの魔法少女に憧れて自分も特別な何かになれると思っていたが、異世界からの使者は未だ現れないばかりか、勉強も運動も美術も中くらいの成績。とりあえず学力に見合った大学へ行こうと考えているが、受験勉強にもあまり身が入らない。

4月、月曜日の夜、遅くなった塾の帰り。人もまばらな電車内に充満する鬱屈した空気を亜美は感じる。胸を押さえつけられるような息苦しさを覚え始めた矢先、「もしかして、この匂いがわかるの?」。現れた男に助けを求めようと伸ばした、その腕にブレスレットがはめられる。瞬間、自分にのしかかる淀んだ空気の塊のようなものが見えるようになる。

「その腕で戦え!」言われるまま腕を振り回し、“淀み”を撃退することに成功。男・リヒトは言う。「大人社会のストレスや欲望が“淀み”として実体化し、悪さをしている。霧散させるには、卒業間近の高三の女子が持つ“刹那力”が最も有効だ。君は中でもその力が強い。一緒に戦おう」。

昨今「舞闘少女」が話題であることは亜美も知っていた。彼女らは制服を着たまま、街中で舞踊と武術の中間のようなパフォーマンスを披露する。あの子らも同じ使命を担っていたのだ。幼少の頃憧れた魔法少女のようになれると、亜美は誘いを受ける。

SNSを通じて、舞闘少女の一人・翔(かける)と意気投合。ハンバーガーショップで行われる舞闘少女の集会に一緒に参加する。そこでファンの男たちの話になる。「上から目線でアドバイスしてくるやついるよね」「でも撮影は下からなのきもい」。仲間に促され検索してみると、亜美の舞闘動画も知らぬ間にネットにあげられていた。

街中で舞闘の際、実際ビデオおじさんに遭遇し、もやもやする亜美。しかし目を輝かせて応援してくれる小さな女の子もいる。また自分を特別だと認めてくれたリヒトも裏切れず、舞闘を続ける。

だがリヒトの行動にも疑問が増える。舞闘中の生写真やグッズを勝手に販売したり、ファンとの握手会を提案してきたり。そうこうするうち、増長したファンに翔が襲われかける事件が発生。

亜美は舞踏少女たちに呼びかけリヒトを呼び出す。「そもそも“刹那力”はどうして女子にしかないの? 男子は?」と詰め寄り、こんなもの、とブレスレットを投げつけようとするが、外れない。

「困るな、勝手に辞められちゃ」。リヒトは裏で広告代理店や芸能事務所と通じて少女たちの商品化を進めていた。女子ばかりなのは、グループとして売り出すため。下卑た笑みを浮かべるリヒトの口から巨大な“淀み”が現れる。力を合わせて退治し、リヒトから鍵を奪うと、ブレスレットを外すことができた。

普通の女の子に戻り、受験勉強を始めた亜美。今は悩みを相談できる翔がいる。登校中、木の枝に風船をひっかけてしまった女の子を助けてあげると、喜んだ彼女の顔を見て亜美も笑った。

文字数:1199

内容に関するアピール

自分の価値を自分で見出せずにいたために、リヒトという他者からの評価にすがることしかできなかった亜美が、挑戦と挫折(社会の不条理への直面)、それを乗り越えることを通じて少し成長し、「普通」の自分を自分で認めることができるようになるまでの話です。「特別になるための魔法などない、けれどそれは絶望的なことではない」ということを書きたいと思います。

リヒトは最終的には性根が腐っていると判明しますが、途中まではどこか憎めないところがある魅力的なキャラクターです。

文字数:226

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舞闘少女☆あみりん

 
「亜美ちゃん。きみも舞闘少女になって、私に力を貸してくれないか」
 真剣なまなざしでそうあたしに頼みこんでくるのは、全身黒ずくめ、4月だというにもかかわらず、厚手のロングコートを身にまとった男。無精髭にはわずかに白いものが混ざり、のびた前髪が目元にうっすらと影をつくっている。
 どこかで聞いたことのあるような台詞。でも、なんだか少しおかしくない? ふつう、世の平和をおびやかす悪との戦いに少女を誘う「使者」は、かわいらしい動物とかぬいぐるみとか、ちんまりとした妖精のたぐいのはずじゃ——。
 それがこんな、あたしよりガタイの大きな人間の、それもちょっとくたびれたおじさんだなんて。

 

 
 
遡ることおおよそ15分から20分、あたしは電車のなかであくびを噛み殺しながら単語帳をひらいていた。
 postponeは延期、discriminationは差別、practicalは実用的……。頭のなかでぶつぶつと唱えながらめくるうちに、少しずつ重くなってくるまぶたと必死に格闘していた。
 無理もない。今日は3年にあがって初めての授業なのに、いつにも増して時間が延長になったのだった。
 去年から引き続き数学を担当することになった男性講師は、弁に熱が入ってくるといつも早口になる。今日、塾に到着するのが授業開始のぎりぎりになったあたしは、毎度最後まで空いているいちばん前の席に座らざるを得ず、ときおり講師から飛んでくる唾がノートに点々と染みをつけるのでさんざんな思いをした。
 あたしは座席の背に深く身体を預け、脚をのばしてみた。そうしてしまっても他の乗客に迷惑にならないのは、それほど人がいないから。自宅の最寄り駅、終点まではあと数駅だし、なにより今日は月曜日。同じ車両には、会社帰り、飲み会帰りとみられる男女の姿が十名ほどあるだけだった。
 早く家に帰りたいな。
 窓の外は真っ暗で、いままさにそこを通り過ぎていっているはずの街の風景はまったく見えず、ぼんやりと気の抜けた自分の顔ばかりが映っている。
「ああ、疲れた」
 すいた車内で近くに人がいないのをいいことに、あたしは声に出してつぶやいた。

 
 眠ったつもりはなかったのに、いつの間にか意識を手放していて。次に気がついたのは、鼻腔をかすめる異臭を感じたときだった。
 なんの匂いと表現したらよいのだろう。中学生のころ理科の実験中に、アルコールランプで誤って髪の毛の先を燃やしてしまったことがあったけれど、なんとなくそれに近しいような。
 匂いのもとを求めて視線をさまよわせてみても、電車内にとくに変わった様子は見受けられず、あたしと同じように疲れ果てた大人たちがまばらに腰掛けているだけだ。
 徐々に匂いは強まってくるようで、無意識のうちにあたしは息を止めていた。しかし当然、いつまでもそうしているわけにもいかない。苦しくなって息を吸うと、肺いっぱいにえぐみのある粉塵が広がるようで、思い切りむせ返った。
 明らかに何かがおかしい。ほかに異状を感じている人がいまいかと、ふたたび視線を動かすものの、みな知らんふりでスマートフォンを見ているか、腕を組んで寝ているか——どうして? 耐えきれずにタオルハンカチを取り出し、口許に当てた、そのとき。
 斜向かいに座る男があたしを見た。
 三、四十代くらいに見える、眠たげな目をしたその男は、じっとこちらを見つめている。
 あれ、あんなところに座っている人いたかな、と、眠りに落ちる前のことを思い出してみる。見覚えがない、ような気がする。いったいいつからいたんだろう。どうしてあたしを見ているんだろう。もしかして、あの男もこの匂いを感じているのだろうか——。
 そんなことを考えているあいだにも、「それ」は単なる匂いの範疇を超えて肥大化してくるようだった。どういう原理かわからないけれど、もはやそれは実体を持ち、あたしの胸を、肺を、直接握りつぶそうとしているかのように思われる。
 泣くつもりなんてないのに、目に涙がにじんだ。ぼやけた視界のなかで、なぜか斜向かいの男だけが、くっきりと輪郭を保っているように見える。
「助けて」
 あたしは男に手を伸ばしていた。車掌のところに向かおうにも、四肢はまるで鉛になったかのようにずっしりと重く、立ち上がることができない。
 じっとこちらを見つめていた男は、ふと立ち上がって近づいてきた。感情の読み取れない目に、少し足がすくむ。けれどそんな相手にさえ助けをもとめなければ、いまにも物理的にひねりつぶされて死にそうだった。その男は人のかたちをしているだけ、正体不明の匂いよりもまだましだった。
 男はポケットから何かを取り出した。そうしてあたしが伸ばした右の手首に、「それ」をはめた、その瞬間。
 あたしは自分の目を疑った。
 暗く淀んだ灰色の煙のようなものが、身体の上に重くのしかかっているのが見えたのだ。
「何、これ……?」
 見えるようになればわかる。手も脚も重くて動かすのがやっとだったのは、その淀みの塊が乗っていたからだ。胸が苦しいのは、これが外側からあたしを圧迫しているからだ。
「見えるようになったね」
 男は初めて言葉を発し、こんな状況にもかかわらずどこか満足そうな笑みを浮かべているように見える。
「助けて」
 あたしはかすれた声でもう一度言った。しかし、
「あなたを助けられるのは、あなたしかいないさ」
 男は言う。
 いったいどういう意味? そんなことを考えている余裕は、いまのあたしにはなかった。
「その腕で、戦ってごらん」
 このままじゃ本当にまずい。
 あたしは男にうながされるがまま、ブレスレットがはめられた右腕を、必死の思いでふりまわした。
 すると、その拳の軌道に沿って。灰色の淀みに、帯状の亀裂が入ったではないか。
 しめた、と気を抜くと、しかし数秒も立たないうちにまたもとの濃さに戻ってしまう。
 あたしは無我夢中で拳を繰り出した。右、左、右、左。脚もじたばたと動かした。
 すると少しずつ、あたしの腕や脚が触れたところから、淀みが晴れてくる。
 胸の上が軽くなると呼吸もしやすくなり、あたしは座席から立ち上がった。最初よりもずいぶん小さくなった淀みが、行き場をなくしたようにふらふらと漂っていた。
 まだ油断できない、最後までとどめを刺さなきゃ。
 さんざん苦しめられたことに対する呪詛の思いを込めて、最後に右脚で思い切りキックをお見舞いすると、ついに淀みは霧散した。
「お見事」
 声をかけられて振り返ると。例の男は悠長に拍手などしている。
 本当に、死ぬかと思った。
 とりあえずあたし、生きているんだ、と思ったら、急に足腰から力が抜け、遅れて額に脂汗が浮かんできた。
 と同時に、ようやく家の最寄り駅に到着しようとしているのだろう電車がふと減速を始め、あたしはやっとの思いでつり革にしがみついた。
「あの、いまのってなんなんですか? あなたは誰?」
「いやいや、申し遅れちゃったね。私、カミカワアキです」
 早口のせいもあって、苗字と名前がどこで切れるのか、すぐにはわからなかった。聞き返されることが多いのか、それともあたしの表情から戸惑いを読み取ったのか、はたまたその両方か、
「カミカワ、アキ。上流の上に、山川の川、それに春夏秋冬の秋。ほら、鮭みたいな名前でしょ、ね」
 と、男はまたしても早口で付け加える。
「はあ」
 名前をおしえられたところで、いったい何者なのかわからなければ意味がない。ただ、秋鮭が清流をのぼっていく様子だけが、意味もなくふわふわと浮かんで消えていった。
「さっきの淀みはね、まあなんというかな」
 と、上川はあれを「淀み」と呼んだ。
「いうなれば、大人の汚い部分の煮凝りのようなものだね」
「煮凝り?」
「そう。大人になるとね、いろいろ大変なのよ」
 上川は、ふう、と息を吐き、車両をさっと見渡した。
「たとえばほら、あそこに座ってるスーツの男」
 上川がそう言った直後、ついに電車が駅に完全停車し、ドアが開いた。この電車は車庫に入りますので、引き続きご乗車にはなれません、というアナウンスが響き渡る。スーツの男は立ち上がって網棚から荷物を下ろし、外に出た。上川のあとにつづいて、あたしもホームに降り立つ。
「彼は今日、奥さんに内緒で女性とよろしくやってきた帰りみたいだね」
 あたしは、さっそうと目の前を歩いてゆく男の後ろ姿をまじまじと見た。
「それも、相手の女性には、妻とは離婚するなんて甘いことをささやいているからたちが悪い。本当はそんなつもりないくせに」
 もう夜も遅いけれど、男の身につけたスーツにはくたびれた様子もなく、髪の毛もしっかりとセットされて清潔感がある。上川の話を聞かなければ、そんな小狡いことをしているしょうもない人物には見えなかったことだろう。
「それから、あの女の人」
 上川は歩きながら小声になって、今度は右斜め前方を歩く、スプリングコートに身を包んだ女性を顎で示した。
「どうやら勤め先でトラブルがあって、土日も働かされてたみたいだね。それなのにまたこの月曜日から、新しい一週間が始まるのかってうんざりしてる」
 改札までまっしぐらに歩を進めるまわりの大人たちを、あたしは見回してみた。なんでもない顔をして、じつはそれぞれに暗いものを抱えているのかもしれない人たち。
「そういうストレスとかね、薄汚い欲望とか、よくないものを心に抱えた人たちが集まると、さっきみたいな大きな淀みが生まれちゃうわけ。それでもって厄介なことには、あれをそのまま放っておくと勝手に膨張しはじめて、曇りのなかった人間の心までじわじわ蝕んでいくんだよ」
 上川がまじめな顔であたしに語って聞かせるのは、まるでファンタジーみたいな話。だけれど、さっきまで現実に「淀み」の重たさを身体中で感じていたあたしには、じゅうぶんに納得できてしまう。
「そこで亜美ちゃんに相談だ」
 話しながら、もう改札の目の前までやってきてしまった。
 上川は立ち止まる。
「淀みの退治を、きみに手伝ってほしいんだよ」
 上川の真剣なまなざしを受けながら、なんだかどこかで聞いたことのある台詞だなとあたしは思っていた。それはきっと、もうずいぶん昔。
 そう、幼稚園のころにテレビで見ていたアニメのなかだ。
 ふつうの小学生が、異世界からやってきた使者にとつぜん不思議な力をさずけられ、地球の平和をおびやかす悪の組織との戦いに巻き込まれていくというストーリー。当時はずいぶん夢中になって、戦士の女の子が戦いに使うステッキのおもちゃや衣装を模したパジャマを買ってもらったし、卒園アルバムの「将来の夢」の欄にはいちばんお気に入りの戦士の名前を書いたものだ。
 だけど当然ながら、あたしは戦士にはなれなかった。それなのにいま、こんなに時間が経ったあとで、ついに「使者」がやってきたというのだろうか。
 でもどうして。あたしには、特別な力は何もない。
「どうして、あたしが……?」
 あたしはきっといま、あの主人公の女の子が発したのと同じような言葉をなぞっているのだろうと思った。思いながらも、やっぱり口にせざるをえない。
 上川はまるであたしがそう言うことがわかっていたみたいに、あたしの目を見つめて言った。
「あの淀みを払うのには、中学生から高校生の女の子がいちばん向いているんだよ。打算や下心なしに、懸命にいまを生きるピュアな力が、大人の邪な心が生み出したあの怪物には有効なんだ。そして亜美ちゃん、きみからはその力を人一倍強く感じるよ」
 それは甘美な響きだった。この人の話を聞いていると、あたしも特別な何かを持っているのかもしれない、なんて思わされそうになる。
「でも」
 とあたしは、なんとか踏みとどまろうと努力する。
「さっきだってようやく倒したって感じで。人生で初めて死ぬかと思って、怖かったです」
 不安を口にするあたしをよそに、上川はますます熱のこもった口調で、
「いや、むしろ、初回からあれだけできればたいしたもんだよ。亜美ちゃんはかなり筋がいい」
 と力説する。そんなふうに人と比べたような言い方をするってことは、あたし以外にも誰か、同じようなことをしている子がいるのだろうか。あたしの心に浮かんだ疑問を読み取ったかのように、上川はつづけた。
「あなただけじゃなくて、仲間もいるよ。みんなまとめてレッスンもしてるから、心配ない。すぐにもっと楽に戦えるようになるさ」
 舞闘少女、って、亜美ちゃんも聞いたことあるでしょう。
 上川に言われて、あたしはうなずいた。
 舞闘少女——誰がそうやって呼びはじめたのかは知らないけれど。近頃ネットやニュースをさわがせている女の子たち。制服姿で突如、踊りと武術の中間のようなアクロバティックなパフォーマンスを披露する。フラッシュモブの一種だとも言われているけど、少女たちはその目的について多くを語らず、ミステリアスなベールに包まれた存在だ。
「まさか、その舞闘少女が——」
「そう。舞闘少女はみんな、淀みを払うミッションを担った女の子たちなんだよ。つまり、亜美ちゃんの仲間ってわけ」
 SNSで見かけたことのある、かっこいい舞闘少女の姿が頭に浮かんだ。軽々とした身のこなし、力強いキックにパンチ。髪を振り乱して額に汗をかく彼女たちの姿は、たしかに言われてみれば、小さなころに見たアニメの少女たちそのものだった。
「亜美ちゃん。きみも舞闘少女になって、私に力を貸してくれないか」
 上川はもう一度言った。
 あたしの右腕にはめられた、二センチくらいの太さの、ゴールドのブレスレット。埋められた小さな石が、きらりと光った。

 

 
 上川から送られてきた住所をマップでひらき、たどり着いたのは古めかしい雑居ビルだった。
 1階に、いかにも町の不動産屋といった風情の店舗が入ったそのビルの、となりのビルとのあいだに潰されてしまいそうなほど細い通路を奥に進むとエレベーターがある。上川の指示どおり、4階の行先ボタンを押す。ものものしい音をたてて扉がしまり、2、3人しか乗れなさそうな小さな箱にあたしを閉じ込めて、4階へと運んでいく。
 エレベーターを降りて、重い扉を開けた。
「やあやあ、よく来たね」
 とあたしを迎えたのは、前回会ったときと同じ、黒づくめの衣装に身を包んだ上川だ。
「道に迷ったりしなかった?」
「平気です」
「そう。ならよかった」
 教室よりもちょっと広いくらいの空間は、奥の壁一面が鏡張りになっている。天井からは、サンドバッグらしきものがいくつかぶら下がっていた。
「ボクシングジム?」
「通常の営業をしているわけじゃないんだけどね。舞闘少女たちのレッスンのための、秘密の場所。だから亜美ちゃんもSNSに書いたりしたらダメだよ」
 上川と話しているうちに、
「あ、もしかして今日が初めての子?」
 露出度高めのぴたぴたの服をきた女の人が、あたしのところにやってきた。
「私、トレーナーのアリサです。よろしくね」
 真っ白い歯、ぱっちりとした二重瞼、なだらかな曲線を描く眉に形づくられた、はちきれんばかりの笑顔に少し気後れしながら、差し出された手をおずおずと握ると、想像以上の力で握り返されてどきどきした。
 あたし、これからこの女の人に舞闘をならうんだ。おぼろげだった実感が徐々にわいてくる。
 隅っこのカーテンに囲まれた小さなスペースで、動きやすいTシャツと短パンに着替える。着てきた服を畳んでいると、おはようございます、と元気な声が聞こえたので、一緒にレッスンを受ける仲間がついにやってきたかとあたしは急いで外に出た。
 立っていたのは、長い髪を高い位置にポニーテールで結いた、小柄な女の子だった。
「あ、はじめまして、あたし亜美です」
 若干人見知りをしながらも思い切って声をかけると、相手の子も少々ぎこちないながらも、
「どうも、乃愛(のあ)です」
 と返してくれた。
「今日初めてきたの?」
「そう。よろしくお願いします」
 うん、よろしく、と乃愛は言いながら、やおら鞄からレッスン用のスパッツを取り出すと、履いてきたスカートの下にそのまま履きはじめた。
「あ、あそこに着替えるところあるよ」
 面食らったあたしは、先輩である乃愛が知らないはずのないことをつい口走ってしまった。
「いいよ、面倒だから」
 と乃愛は笑いながら、「上は脱ぐだけだし」と、着ているTシャツをあっさり脱ぎ捨てるので、こちらがどきまぎしてしまう。もちろんTシャツの下には、講師のアリサさんが着ているのと同じような、スポーツ用のぴったりとしたタンクトップを身につけているのだけれど。
「さあ、これで準備完了」
 と乃愛は荷物を小さくまとめて脇に寄せ、軽やかな身のこなしでストレッチをはじめた。あたしも見よう見真似でそれにつづいてみる。
「いつも、何人くらい来るの?」
「うーん、ときにもよるけど八人くらいかなあ」
「そうなんだ。じゃあ、まだこれからいっぱい来るんだね」
「うん、みんないつも時間ぎりぎりなんだよね」
 乃愛は苦笑いで言った。
 右と左の足の裏をあわせて股関節を割ってみると、膝がぜんぜん床につかなくてびっくりする。小さいころは、身体は柔らかいほうだったはずなのに。年を経るごとにどんどん固くなっている気がする。
 両膝に手を置いて、一生懸命上から押していると、おもむろに乃愛の手のひらが重ねられ、ぐっと体重が乗ってきた。
「痛い、いたい」
 言いながら、なぜか笑ってしまう。痛むのと笑えるのって似ているのかな。なんか、どっちも反射っぽいしなあと思う。
 乃愛は痛がっているあたしを見て、同じように笑った。
「亜美ちゃんは、何歳?」
「あたし、高3」
「なんだ、じゃあ私と同じ」
「あ、そうなんだ。もっと小さい子もいるの?」
「たしか、いちばん若い子が中2かな」
 へえ、と、おどろきと感心の入り混じったような声が出てしまう。
 自分が中2のころ、何をしていたか思い出そうとしてみる。いちおう形式上は漫画部に所属していたけど、活動らしい活動はほとんどなくて、たいがい放課後はすぐ家に帰って漫画を読んだりゲームをしたりしていた気がする。そんな自分と比較して、まだ若いのに世界の平和を守るためにがんばっている子がいるのだ、と思うと、感心する反面ちくりと胸も痛む。
「まだ中2なのに、世界の平和のために戦っているなんて、えらいね」
 あたしのつぶやきに、乃愛はほとんど180度にひらいた脚を左右に投げ出し、いっぽうの爪先に両手の先をのばしながら、「え?」とあたしを見た。
 そんなことを言うなんてまるで思いもよらなかった、という顔をしていた。
「亜美ちゃんは、世界の平和のために戦っているの?」
「え? うん、まだ1回しか戦ったことないからわかんないけど、いちおうそんなつもりでいた」
「そうなんだ」
 と、やっぱりめずらしいものでも見たみたいに乃愛は言う。あたしには、むしろそうじゃない動機の子がいることのほうが不思議だった。でもよく考えたら、みんなおんなじなわけないもんな、と思う。
「乃愛ちゃんは、どうして舞闘少女やってるの?」
 たずねてみると、「自分のためだよ」と乃愛は言った。
「自分で自分を、かっこいいと思いたいから」
 そう言い切る乃愛は、少なくともあたしにはとてもかっこよく見えた。そうして自分の心を覗いてみると、世界の平和のためにとか言いながら、結局はあたしも自分のために戦いたいだけなんじゃないかという気がしてくる。きっとあたしが、自分自身に価値があると思いたいから。
「っていうか、乃愛でいいよ。ちゃんつけられるの、あんまり好きじゃないから」
「そっか、乃愛」
「はい」
「あたしも、亜美でいいよ」
「うん、わかった、亜美」
「うん」
 あたしたちは少し気はずかしくて、くすくすと笑った。

 
 今日、参加するメンバーは、最終的に7人になった。全員集合すると、いよいよレッスンがはじまる。
 まずはあらためて、全員でストレッチから。ポーズごとに、どの筋肉がのびているか、爪先が床から浮かないように、などアリサさんが注意点を説明してくれるので、体育の時間に漫然とやるよりもずっと自分の身体に対して意識的になれる。
 それから、逆立ちや側転、ブリッジ、脚を大きくまわしてのキックの練習。パンチはまっすぐに打つストレート、横から打つフック、下から打つアッパー。みんなはもう習ったことがあるので慣れっこのようだったけれど、あたしは初めてで、アリサさんが丁寧に姿勢から教えてくれる。額や脇に、どんどん汗がにじんでくる。
 身体の動かし方に慣れたら、真っ赤なグローブと脛用のプロテクターをつけて、サンドバッグを叩いて蹴る。
 あたしは重いサンドバッグを叩きながら、先日の戦いのことを思い出していた。パンチやキックを繰り出していたときの手脚は、まるで水のなかで動かしているかのように重く、思うように動かすことが難しかった。たしかにレッスンでサンドバッグを相手に、パワーや持久力をつけておくのは役に立つように思える。
 サンドバッグを使った練習の最後の30秒は、ただひたすら無我夢中でパンチを繰り出す「ラッシュ」をやる。
 そのあいだは何も考えず、絶え間なくパンチを撃ちつづけることだけに集中する。どんどん息が上がり、汗が滴る。腕が上がらなくなってくる。それでも動かしつづける。そうしていると、自分の身体が自分のものでなくなっていくような感覚がある。それはけっして悪いものではなかった。30秒を知らせる笛の音が鳴り響いて、たまらず床に寝転んだ瞬間、あたしは激しく打つ心臓と酸素を求めてせわしなく上下する肺が自分のところに戻ってきたことを感じながら、生きている、と思った。

 
「ああ、疲れた」
 すごい速さでフライドポテトを次々と口に入れながら、乃愛がつぶやく。ハンバーガーにはなかなか手をつけないのを不思議に思って訊いてみると、「ポテトは冷めると一気に美味しくなくなるから最初に食べる」のだという。まわりのみんなは、その偏った乃愛の食べ方には慣れているようだった。
「でも、限界まで身体を動かすって気持ちいいね」
 あたしはレッスン中に、ペットボトル入りの500ミリリットルのスポーツドリンクを全部飲み切ったのにまだ喉が乾いていて、ハンバーガーセットについてきたアイスティーをまず一気飲みし、2杯目の水に突入しながらようやく落ち着いてきたところだった。
「まあ、レッスンは疲れるけどなんだかんだ楽しいよね」
「自分の身体がどんなふうに動いてるかとか、強く意識できるもんね」
 みんなそれぞれに、レッスンにやりがいを見出しているようだった。自分と同じ目標を共有している仲間ができたみたいで、あたしはなんだか勝手に嬉しくなってしまう。
「本番は、もうほとんど反射だよね」
「レッスンでできないことが、本番でできることはまずない」
「わかる」
 本番をまだ1回しかこなしていないあたしには、わかるようでまだわからないその境地。早くみんなの会話にあたしも入って、わかる、と相槌をうちたいとうずうずする。
「ってかさあ、本番といえば、聞いて」
 と、いかにも愚痴っぽい、苦虫を噛み潰したような口調で言い出したのは、明るい茶色に髪を染め上げた高校2年生の充希だ。
「どうした」
「昨日またマンスプジジイがあらわれてさあ」
「わあ、きっつ」
「お疲れさまです……」
 みんな、強烈に嫌な臭いでもかいだか、あるいは正体不明の粘度の高いものでも踏んづけたみたいに、思い切り顔をしかめている。でも、あたしにはなんのことかわからなくて、
「ねえ、マンスプって何?」
 とたずねた。するとみんなはきょとんとした顔を見合わせて、「マンスプレイニング、の略だよ」と言う。
「どういう意味?」
「まあ、一言でいうと、男が上から目線で説教してくるって意味かな」
「舞闘のあとに近寄ってきて、ひたすら神経をさかなでするようなことばっかり言ってくるやつ、会ったことない?」
 あたしは首を横にふった。
「あたし、まだ1回しか舞闘してないから」
 と告げると、ああそうか、なるほどねえ、と口々に返ってくる。
「なんかね、今日はいつもよりちょっと脚があがってなかったんじゃない? とか」
「あそこでもう一発きめられてたら百点満点だったのに、とか」
「こっちはおまえに評価されたくてやってないっつうの」
「それな」
「そういうやつに限ってさ、差し入れに謎のお菓子持ってきたりするよね」
「わかる」
「いらないっつうの。イチゴ味のせんべいってなんだよ」
「お店でみつけてみずほちゃんのこと思い出しちゃって、じゃねえよ」
「きっも〜」
 どうやらみんなの共通の体験として、自分が舞闘少女を育てているとでも勘違いしているおじさんたちに遭遇しているらしい。矢継ぎ早に繰り出されるエピソードと呪詛の言葉が止まらない。
「そっか、まだ亜美ちゃんはやつらに会ってないんだね」
「うん」
「でもほんと、知らないあいだに動画とか撮られているから気をつけたほうがいいよ」
「えっ、動画?」
「そう、しかも決まって下のほうのアングルから」
「つねに上から目線のくせに、動画とか写真撮るときだけは下から目線なんだよね」
 なんとなくみんながいっせいに黙り、ドリンクのストローに口をつけた、そのときふと、「でも」とつぶやいたのは、ツインテールがかわいい高1の茉莉奈だった。
「ときどき、インターネットのファンコミュニティとか覗いちゃうとさ。疲れてるときとかだと、ちょっと死にたくなるとき、ある」
 さっきまでの饒舌っぷりはどこへやら、そのつぶやきにすぐに応じる者はいなかった。重苦しい空気が流れる。
「あんなの、気にしなきゃいいんだよ」
 と沈黙をやぶったのは乃愛だった。ぴりついた口調だった。
「好きにさせておけばいいよ。あんなやつらのあんな言葉で、私たちの価値は変わりっこないんだから」
 乃愛の力強い言葉に、茉莉奈も「そうだね」と少し笑ってみせた。
 ファンコミュニティを覗くといったい何が書いてあるのか、なんて、そのときはとても訊ける雰囲気ではなかったけれど。
 あたしはどうしても気になって、帰ってから調べてしまった。「舞闘少女 ファン」と打ち込んで検索してみると、いちばん上に表示されたページのタイトルが「舞闘少女非公式ファンサイト」だった。
 サイトを訪れるとまず、でかでかと表示された乃愛の写真が目に入って度肝を抜かれる。写真は乃愛が舞闘中に撮影されたもののようで、右脚でハイキックを繰り出した瞬間がローアングルから切り取られている。写真の下のキャプションには、「キックの切れ味するどい乃愛チャンのスカートのなか、見えそうで見えない😓 今日のパンツは何色カナ!?」と書いてある。
 みんなの言うとおり、このサイトは見ないほうがいいのかもしれない、とあたしはそれを見て直感的に理解した。けれど、見ないほうがいいと思うことと、見ておきたいと思うことは残念ながら両立する。
 あたしは急速に喉が渇きはじめるのを感じながら、プロフィールの欄をクリックする。乃愛や茉莉奈をはじめ、レッスンで知り合った先輩舞闘少女たちの名前と写真がずらりと並んでいて、めまいがした。それぞれ名前や年齢、通っている学校、身長、想定スリーサイズに加え、さらに品性下劣なことには、顔、スタイル、制服の可愛さ、舞闘技術の項目にそれぞれ得点がつき、レーダーチャート化されている。百歩譲って舞闘技術はともかく、顔もスタイルも制服のかわいさも、あたしたちの活動の本質にはなんら関係がない。
 もしかすると、と思いながらスクロールしつづけて、いちばん下にやはり見つけてしまった。あたしの名前。それに誰が撮影したのか、先日の電車のなかでの初回の舞闘をおさめた写真。サイトを訪れた瞬間から、ぼんやりと覚悟はしていたけれど、いざ目の前にすると、恐怖なのか怒りなのか羞恥なのかよくわからない感情で頭が破裂しそうだった。
 レーダーチャートによれば、あたしの顔は5点満点中3点、スタイルは2、制服4、舞闘技術1。一言コメントには、「4月から仲間に加わったニューフェイス。小胸さんだが、笑った顔に愛嬌アリ。今後の活躍に期待!」とある。余計なお世話もはなはだしい。
 サイト内にはほかに、掲示板、写真館などのページもあったが、あたしはプロフィールを覗いただけですでにじゅうぶんなダメージをくらってしまった。

 

 
 小さなころにテレビで見た魔法少女も、じつはこんな目に遭っていたのだろうか。作中に描かれていなかっただけで? なんのとりえもない普通の高校生だったあたしが、舞闘少女として活動できているのだから、これくらい我慢するべきなのだろうか。
 そんなことを悶々と考えながら過ごした数日後、放課後に上川から連絡が入った。
「亜美ちゃんの学校の近くで淀みが出た。至急現場に向かってもらえないか」
 指定された場所は、学校の近くのショッピングセンター。入り口で上川と落ち合って、淀みが発生しているという衣料品売り場にふたりで向かう。
 天井の高さにまで、どす黒い霧のようなものが立ち込めている箇所があり、遠目にもすぐにわかった。近くまで寄ってみると、霧は竜巻のような渦を描き、あるひとりの女性客のハンドバッグのなかに収束しているようだった。
「彼女ねえ、万引きなんかいままで一度もしたことないのに。彼女が盗ったのが先か、あの淀みが現れたのが先かわからないんだけど、淀みを引き剥がすことができれば彼女も我に返るかもしれない」
 でも引き剥がすって、いったいどうやって? 悩んでいるあいだにも、女性はお金を払っていない商品を鞄に入れたまま、出口に向かって歩いていってしまう。
 あたしは考えるより先に、助走をつけてジャンプして、渦状に立ち上る淀みのしっぽをつかまえようと手を伸ばした。
 中指の先を、淀みがかすめたような気がする。触れたものをそのままからめとるイメージを強く脳裏に思い描きながら、指先を握り込んで拳をつくる。
 ぐん、とひっぱられるような感覚があった。つかんでいる、とあたしは思った。負けるもんか。あらんかぎりの力を込めて、腕いっぱいで大きく弧を描き、女性の鞄から淀みを引きずり出した。
「いいぞ、その調子だ」
 上川の声援に背中を押されながら、今度はぶるぶると震えながら球体にかたちを変えた淀みと向き合う。レッスンのときのことをイメージして、まずは脚を出してみる。やっぱり淀みはぶるぶる震えている。パンチを一発お見舞いしても、あまり変わらない。
 あたしは焦った。ワンツーをヒットさせると、少し効いたようだ。でもやっぱり、すぐに元の大きさに戻ってしまう。
 レッスンの最後にやったラッシュを思い出しながら、繰り返しパンチを出しつづけた。少しずつ、しかし確実に球体は小さくなっていく。息があがってくる、でもまだやめられない。あたしは何も考えず、ひたすらに腕を動かしつづけた。球体は縮んでゆく、けれどまだ消えない。消えるまで、消えるまで、あたしはやめない——。
 酸欠気味であたしがよろめいたのと、ついに淀みが消えたのとほぼ同時だった。
 ああ、あたしは最後までやったのだ。
 疲労と達成感で、あたしは座り込んだ。
 ぱらぱらと頼りない拍手がまわりから聞こえる。ふと顔をあげると、数人のお客さんがあたしを遠巻きに見ていた。
 そうだ、さっきの女性。きょろきょろとまわりを見渡すと、ひときわ離れた場所から彼女もあたしを見ている。はっと鞄のなかに視線を落とし、そこに入っていてはいけないものに気づいたようだ。商品を取り出すと、レジのほうへと方向転換して歩き去っていった。
 よかった、と安堵するあたしに、
「よかったよ」
 と話しかけてくる人があり、ありがとうございます、とあたしも言いながら振り向いた。
 そこに立っていたのは知らないおじさんだった。
 もしかして、と先日のハンバーガーショップでの会話が去来する。
「今日、まだ2回目でしょ? それにしてはすごくいい感じだと思うよ」
 会社帰りだろうか、ネクタイこそ外しているけれど、きちんとワイシャツに上着も羽織って、ビジネスマン然としたかっこうをした男は、腕組みをしながら満足げな笑みを浮かべ、あたしの頭のてっぺんから爪先までをじっとりと眺めまわした。
「スカートも短すぎないね、まじめでいいね」
 想像の斜め上をいく褒め言葉に、あたしは返す言葉をうしなった。たしかに学年のほかの子と比べて、膝頭が少しだけ隠れるくらいのスカートはちょっと長いほうだけど、それは別におじさんにまじめだと思われたいからじゃない。うちの学校の制服は、このくらいのスカートの丈がいちばんかわいいとあたしが思っているからだ。
 短かったら短かったで、このおじさんか、また別のおじさんかは知らないけど、エロくていいね、とか言ってくる人がいるんだろう。
「でも、亜美ちゃんはノーメイクなんだね。ちょっとでもアイライン引くだけで、顔の印象ってだいぶ変わるよ」
 ああ、とあたしは言っていた。表情筋が笑顔らしきものを形づくっていることに、あたしは気づいていた。ちっとも楽しくなんかないのに。男は得意げにつづけた。
「いや、何も、化粧の話だけをしているわけではないのよ。舞闘少女って、ゲリラでやっているとは言ってもさ、いちおう人に見られる活動なわけだからね。見られてるってことを意識できているかできていないかで、そのほかの部分もいろいろ自然に変わってくるんじゃないのかなってことをぼくは言いたいわけ」
 あまりにも早口でまくしたてられて、どう口をはさんでいいのかわからないまま、あたしは無言でいた。そもそも心からどうでもいいことだけれど、この男の、スカートは長めがいいけどメイクはしてほしいというツボの基準がわからない。
 まだまだつづく男の御託を脳味噌で一切処理することなく、右耳から左耳へと受け流していると、少し離れたところから、親に連れられた女の子がひとり、あたしを見つめていることに気がついた。男のありがたいお言葉を、あたしはちょっとすみません、とさえぎって、
「さっきの舞闘、見てくれたのかな?」
 と話しかけてみた。小さく頷く女の子を見て、男は気まずくなったのか、それじゃまたね、とかなんとかもごもご言いながら立ち去った。
 ようやく男が消えてくれたことにほっとしつつ、なんだかだしに使ってしまったようで申し訳ないような気持ちにもなりながら、女の子に
「ありがとう」
 と告げてみる。
「あの、とってもかっこよかったです」
 と彼女は言った。
「サイン、もらってもいいですか?」
「サイン!?」
 思ってもいなかった申し出に照れながらも、
「もちろん」
 と答えた。女の子は嬉しそうに、やった、とつぶやきながら傍らの親を見上げ、手のなかの小さなメモ帳をあたしに差し出してきた。いま現在放送中の、女児向けの魔法少女アニメのキャラクターが描いてあるメモ帳だ。
「えっと、お名前は?」
 サインなんて書くのは初めてだったけれど、レストランなどにときどき貼ってある色紙を思い出しながら、たずねてみた。
「ほのか」
 と返ってきた小さな声に、ほのかちゃんね、と笑みを返してみる。ボールペンで一発書きした初めてのサインは、お世辞にもかっこいいとは言い難いものだったけれど、ほのかちゃんはたいそう喜んで胸に大切そうに抱きしめてくれた。
「ありがとうございます。これからもがんばってください」
 小さな体から託されたエールに、全力で応えたいという思いと、応えられるだろうかという不安が胸のうちで重なる。

 
 帰りは上川が車で家まで送ってくれた。上川のくれたアイスレモンティーの、ほのかな酸味と甘味が疲れた身体にしみわたる。
「今日もいい感じだったね」
 信号を先頭で待ちながら、上川が言った。
「そうでしたか? あたし、なんだかもう必死で」
 はは、と上川は声をあげて笑う。
「みんなはもうちょっと、どんなふうに見えるかとかちゃんと気にしているのかなと思うんですけど。あたしはもう飲み込まれないだけで精一杯」
「でもさ、そんな一生懸命な亜美ちゃんの姿が、あの女の子の目にもかっこよく映ったんじゃないの」
 そうかなあ、と言うと、そうだよ、と返される。青になった信号に照らされる、上川の横顔をちらりと盗み見た。
「上川さんは、高校生のとき、何になりたかったんですか」
 あたしがたずねてみると、上川は少し面食らったようだった。
「え、おれ? おれは、どうだったかなあ。あまりにも昔のことすぎて、忘れちゃったよ」
 とごまかしているけれど、あたしは上川が動じたのを初めて見たような気がして、ひとりで勝手に得意な気分になった。
「亜美ちゃんは? 何になりたいの」
 上川はすばやくあたしに話の矛先を向けた。うーん、とあたしはうなりながら、通学鞄のなかに入っている、A4の用紙のことを思い出す。
「あたしは何になりたいのか、よくわかんないんですよ」
 進路希望調査用紙。担任に渡されたそれの、提出日はあさってだ。べつに、それに書くことがすべてじゃないし、書いたとおりにぜったいしないといけないわけじゃない、それはあたしにもわかっている。ただ、ぼんやりと頭のなかにしかないものを、紙の上に文字にして乗せてしまうことには、それなりの覚悟がいるような気がした。
「学校でいつも一緒に行動してる、仲良しの子がふたりいるんですよ。ひとりは先生になりたいから、教育学部を目指すんだって。それでもうひとりは、美容師の専門学校。頭使うの苦手だからさ、なんて言ってたけど、誰だって、いつまでも机に向かって勉強して、ひたすらテストを受けつづけるわけじゃないじゃないですか。いつかかならず、勉強の季節は終わりになって、むしろそのあとのほうが、人生長いわけじゃないですか」
 そうだね、と上川は相槌をうって、静かに車を走らせつづけた。
「でもいま将来を考えるっていったって、判断材料は成績表くらいしかないし。あたし、体育も美術も、音楽も中くらいだし。現代文は少しだけ得意だけど、数学が壊滅的だから国立は難しそう。そうなると受験できそうなとこってだいたい絞られるけど、そこに行っていったい何をしたいのか、よくわかんない。
 だからね、あたしがあたしの人生で、人からすごいねって言われて、自分で自分のこと特別かもしれないって思えるのって、舞闘少女でいられるあいだだけかもって思うんですよ。だから上川さんには、感謝してるんです。あたしのことみつけてくれて、誘ってくれて」
 うーん、と、あたしの話を聞いて今度は上川がうなった。
「どういたしまして、っていうか、そんなふうに思わなくていいよ」
「なんで?」
「だってさ、おれもよくわからないけど、たぶん人生って『何になる』みたいなわかりやすいことばっかりがゴールじゃないから。っていうかそもそもゴールとかないんじゃないかな、あるとしたら死ぬときとか? でもいつ自分がいつ死ぬかなんて誰もわかんないし。亜美ちゃんはべつに、何にならなくても特別だし、逆に誰ひとり特別な人なんていないとも言える」
 何を言いたいのかよくわからなくなってきたけど、と上川は頬をかいた。
「とにかく、自分には何もできない、とか思っていると、危ないから気をつけな。君を幸せにする、とか甘い言葉をささやく悪い男にひっかかっちゃうからね」
 はは、と最後は冗談めかして、上川は話を終わらせた。あたしは上川の言っていることの半分くらいはよくわからなかったけれど、あたしを励まそうとしてくれていることはわかった。だから、わかった、と一言だけ言って、あとは対向車線を流れていく自動車のヘッドライトをずっと見ていた。

 
「2回目の舞闘した」
 ベッドに横になり、あたしは乃愛にそう送ってみた。しばらくするとスマホが震えて、「お疲れさま」という返信が届く。
「SNSでも見たよ」
 ショッピングモールはだいぶ人目もあったから、誰かが動画か写真でも投稿したのだろう。
「おっさん、出た」と送ると、「出たか」と返ってくる。
「なんか、アイラインのひとつも引いたらどうとか、人に見られるってことを意識しているかどうかでいろいろ変わるとか、好き勝手なことを言って去っていった」
「さもありなんだね」
 お疲れさまです、と、おじいさんがお茶を差し出しているイラストのスタンプが送られてくる。あたしも、ネコのキャラクターがダンスをしている、ありがとうのスタンプを送り返した。
「でもね、小さい女の子にサインください、とも言われたよ」
「わー、それはいいね、よかったね」
「うん、本当よかった」
「もともとさ、私たちって人に見られるためにやってないわけじゃん。特におっさんとかには」
「うん、そうだよね」
「でも、そういう小さな子が見てくれて、何かを感じてくれるならこんなに嬉しいことはないよね」
「うん」
「これって差別なのかな」
「うーん、どうだろう」
 その次に乃愛から送られてきた、
「おっさんの視界からだけ消えたいよ」
 という文字列は、なんだかとても切実なものに見えて、あたしはしばらくそれをじっと見つめてしまった。

 

 
 いま何してる、と乃愛からメッセージが届いたとき、あたしはちょうど塾を出たところだった。
「いま塾おわって、これから帰る」
 とあたしは駅に向かって歩きながら返事を送った。すると送った途端にすぐ「既読」がついて、乃愛があたしの返事を読んだことがわかる。
 どうしたのかな、と思ってつづきを待ってみたけれど、いっこうに何も言ってこない。あたしは迷いながらも、
「どうかした?」
 と重ねて送った。それにもすぐに「既読」がつく。
 そのときに感じた胸のざわつきを、虫の知らせとでも言うのかもしれない。あたしは迷いながらも、乃愛に電話をかけてみた。
 呼び出しの機械音を聞いていると、なぜだかどんどん心配になってきた。1回、2回、固唾を飲んで待ち、3回、4回がすぎて、出なかったらどうしようと思った。5回、6回、7回、無理かもしれないと諦めかけて、ようやく10回目の途中で、乃愛は電話口に出た。
「もしもし」
 抑揚のない乃愛の声。
「もしもし、乃愛? どうかした?」
 テキストで送ったのと同じ質問をしても、乃愛は電波の向こうで沈黙したまま何も答えない。
「いま、どこにいるの?」
 あたしは質問を変えた。
「警察」
 乃愛は、短く答えた。
 あたしは、虫の知らせが間違っていなかったことをここで知った。
「警察? なんで? 大丈夫なの?」
 矢継ぎ早のあたしの質問にはまた答えが返ってこなくて、けれど沈黙のすきまに漏れ聞こえてくる嗚咽から、あたしは乃愛が泣いていることを知った。

 
 警察署の、応接室のような部屋に乃愛はいた。肩からタオルケットのようなものをかけられて、近くにはひとり女性の警察官が座っている。両親ともに仕事中だったので、いま父親が仕事を抜けて迎えにくるのを待っているところだそうだ。
 あたしが到着すると、女性の警察官はそっと席をはずしてくれた。
「亜美」
 とあたしを見上げる乃愛の、唇は青ざめて頬は真っ白だった。
 あたしは乃愛の隣に腰掛けて、ゆっくりと背中をさすってみる。贅肉のついていない、華奢な背中だった。
「帰りにね、偶然道で淀みをみつけたの。そんなに大きなやつじゃなかったから、ちゃちゃっとやっつけて、すぐに帰るつもりだったのね。実際に淀みはたいしたことなくて、なんにも困ることなく終わって。だけど」
 そこで乃愛の声が揺れて、ひゅう、と大きく息を吸い込んだ。無理に話さなくてもいいんだよ、とあたしは言ったけれど、乃愛は首を横に振った。
「近くに停まってた車から、おっさんが降りてきて。なんか、話しかけてきたけど、私、疲れてたし、にこやかに応対する気分じゃぜんぜんなくて……っていうかそもそも私にそんな義務ないよね? どうして知らない人にいきなり、しかも横柄なタメ口で話しかけられて、親切に応対しないといけないんだろう、どうしてあいつらってそれが当たり前だと思い込んでるんだろう」
 そんな義務ぜんぜんないよ、まるっきりおかしいのはあっちだよ、とあたしは相槌をうった。けれど実際あたしだって、そういうおっさんを目の前にして、反射的にへらへら笑ってしまった。心のなかでは反吐が出ると思いながら。
「私、そいつが話しかけてきてるの無視して通り過ぎようとしたんだ。そうしたら、いきなり、なんだよみたいなことを大きな声で叫びながら、肘をつかんできて」
 乃愛は自分の左肘あたりをさすりながら、表情を歪めた。
「車に乗せられそうになった。私、大きな声を出そうとしたのに、まったく声が出なくて。本当に怖いとこんなふうになっちゃうんだって、ぜんぜんそんな場合じゃないのに頭のどこかで自分を冷静に見ている自分がいた」
 あたしはただ乃愛の肩を抱いていることしかできなかった。その場にあたしが一緒にいられたらどんなによかったか。だけど実際の乃愛はひとりぼっちで、暗い夜道でそんな目に遭っていた。
「やばいと思ったけど、偶然男の人がとおりかかって。そうしたらおっさん、あっという間に私のこと放り出して、車に乗って逃げていったの」
 ほんとばかみたいだよね、私に対してはあんなに強気だったくせに、その男の人が現れた途端、まさに一目散って感じであわてて車に乗り込んでさ、笑えるったらありゃしない、と乃愛は言ったけど、あたしは当然笑えなくて、ただ乃愛が無事でよかったと思った、と同時に、すでに肘をつかまれて車に乗せられそうにまでなっているというのに、そこで終わったことをよかったと思わなければならないことが悔しくて苦しくて、頭が沸騰しそうになる。
「その男は、つかまったの?」
「うん、通行人の人がナンバーを覚えててくれて、それで」
 どうせそんな卑怯なおっさんのことだから、警察のような公権力の前では殊勝な態度で取り調べを受けているに違いない。
 もう二度とこんな目に遭ってほしくない、乃愛にもほかの仲間にも。あたしだって遭いたくない。だけど今回のおっさんがつかまったところで、この世の中にはきっと予備軍のような人たちがごまんといる。あたしたちにできることは、何もないというのだろうか、それこそ舞闘少女をやめるしか——。
「あれ、でも今回のおっさんって、舞闘少女を狙ったのかな?」
 はたと、あたしの頭を疑問がかすめた。
「うん、警察の人が言うには、どうやらそうみたい」
「でも、乃愛がその淀みを見かけたのって偶然だったんだよね? おっさんは乃愛がそこに来ること、どうして知ってたのかな」
「なんかね、ファンサイトの掲示板に書き込みがあったんだって。前から、舞闘少女の出現予定を書き込んでくる匿名のユーザーがいるんだって」
「じゃあ、いままでマンスプジジイたちが舞闘の現場に現れてたのも」
「たぶん、その書き込みのせい」
 いったい、誰がそんなこと。そもそも、舞闘が行われる場所の情報をどうやって?
 そういえば、あたしがいちばん最初に舞闘をしたときの写真も、ファンサイトにはあがっていた。だけどあのときは、あたし自身、自分が舞闘少女になるなんて思いもしていなかったわけで。それを予期していた人物といえば、ひとりしかいない。

 

 
「いったいどうしたの、みんなしてコワイ顔しちゃって」
 日曜の昼下がり、燦々と太陽が降り注ぐ公園には似合わないいつもの黒ずくめの姿で、上川はひょうひょうとあたしたちと向き合っている。
「単刀直入に聞くけど」
 あたしは言った。
「あのファンサイトにあたしたちの情報を書き込んでるのって、上川さんなの?」
 これを訊くこと、本当はすごく怖かった。
 だけど、あたしひとりの問題じゃない。みんなの安全に関わる重大な問題だ。今日はこのあいだのレッスンで顔を合わせた6人の子たちに加え、その日はこられなかった3人の女の子もみんなの呼びかけで集まってくれて、いま舞闘少女として活動している、つまりファンサイトにプロフィールが載っている全員がこうして集まってくれることになった。
「うん、まあ、そうだよ」
 と、上川は想像していたよりもずっとあっさりと、そのことを認めた。
 やっぱり、そうだったのか。状況からして9割がたそうだろうとは思っていたけれど、本人に、それもこうもあっさりと認められると、やはりショックだった。
「そうだよって」
 と怒りの声をあげたのは乃愛だ。
「あんたが勝手にあげてる情報のせいで、私、このあいだ夜道で襲われかけたんだよ」
 そうだ、上川のせいで、乃愛はあんなに怖い思いをしたのだ。ちょっとあたしにやさしくしてくれたからって、とうてい擁護できることじゃない。あたしは自分に言い聞かせる。
「それについては、怖い思いをさせちゃったなと思ってるよ」
 上川は困ったように、頭をがしがしとかいた。
「でもまさか、そんな犯罪まがいのことにまで発展するとはこっちも思わないしさ。困るよね本当、みんながルールを守って楽しんでるっていうのに、自分勝手な人がひとりいると大迷惑だよ。ああいうおっさんにかんしては、襲われちゃった乃愛ちゃんもだけど、正直おれも被害者だと思ってるよ」
 みんなが上川の言葉に誘われて舞闘少女をやっているというのに、その責任をいっさい負うつもりがないらしい。どうしてこんなことを言うんだろう。あの日車のなかで、一生懸命あたしを励まそうとしてくれた上川と、どうしてもつながらない。
「そもそも上川さんの目的は、淀みを払って平和な世界をつくることだったでしょう。どうしてわざわざあたしたちの情報をさらして、おっさんを呼び集めるの?」
 あたしの言葉に、上川は笑ってみせた。
「そうか、なるほど、信じてたんだね。さすがピュアな女子高生。いや、だからこそ淀みを払えるわけだけど」
 などと、ぶつぶつ言っている。胸の奥にわずかに残されていた、上川を信じていたい、というあたしの気持ちに、ぼろぼろと亀裂が入ってゆく。
「どういうこと?」
 とたずねるあたしの声はかすれていた。
「だって、平和な世界をつくったところで、別におれにはメリットないでしょう。何か自分のメリットのために、おれも動いてると仮定したほうが自然じゃない?」
「メリットって……」
「たとえば、きみたちみたいな少女をビジネスにして、ひと儲けするとかさ」
 あたしたちをビジネスにする。その言葉を聞いて、背中に怖気が走った。
「考えてもみてよ。ピュアネスの力で淀みを払えるっていうのなら、どうして男子じゃだめなのさ。実際、別にいいわけよ、男子のピュアネスでも。ただ、集めるのなら女の子に限定して集めたほうが、ある一定のターゲットへ向けたビジネスにしやすいってだけでね」
 淀みを払うには、中学生から高校生の女の子の力が有効だって、初対面のとき上川はそう言った。あたしはひとつも疑うことなく、それを信じていたのに。
「いいように利用されるだけなら、舞闘少女なんかやめてやる」
 乃愛が叫んだ。
「だけど、あたしたちがいなくなったら、いったい誰が淀みを払うの?」
 そうつぶやいたあたしに、きみはどこまでもいい子だね、と上川は笑った。
「大丈夫だよ、きみたちがいなくなったら、こうやっておれが淀みを生み出すのも無意味になるからね」
 上川は言いながら、口のなかからもくもくと、見覚えのある濁った霧を出してゆく。
 そうか。あたしは淀みを払って世界を平和にするなんて意気込んでいたけど、その淀み自体が最初から、この男が生み出したものだったんだ。すべては、あたしたちを使って、おっさん相手にビジネスをするために。徹頭徹尾、あたしたちはこの男に利用されていただけだったんだ——。
 それならやっぱり、舞闘少女なんかやめちゃえばいい。あたしは右手のブレスレットに手を掛ける。ああ、だけどこれ、いったいどうしたら外れるんだろう……?
「でももう、きみたち全員分のフィギュア、発注しちゃってるからさ。それが無駄になるのはちょっと嫌だな」
 上川が吐き出した淀みに、キックを入れたのは充希だった。舞闘少女が9人もいれば、淀みなんて簡単に消え去ってしまう。
「みんなで力を合わせれば、こんなの楽勝だね」
 けれどそんなあたしたちを嘲笑うかのように、上川は次々と淀みを吐き出す。だめだ、これじゃあいつまで経っても埒が明かない。
 あたしは上川の懐に入り込んで、右手で胸ぐらをつかんだ——その瞬間、右腕が強い力でぐいとひっぱられ、頭のなかのヒューズが弾け飛んだように、何も見えなくなった。
「亜美ちゃん」
 と、上川の声が聞こえる。身体のなかで反響するようで、ひどく心地のよい声だった。
「きみは、舞闘少女になれてよかったって、おれに言ってくれたね」
 うん、とあたしは思った。あたしが思っただけで、上川にはそれが伝わっているとあたしはわかった。
「ずっと舞闘少女でいられたらいいのにって、思ったね」
 うん、とあたしはまた思った。でもたしか、あのときは思っただけで言わなかったはず。どうしてわかったんだろう、と思うと、
「亜美ちゃんの考えること、おれにはとてもよくわかるからね」
 と、上川は言った。
「ずっと舞闘少女でいられるようにしてあげようか」
 上川の申し出に、あたしの心は束の間踊った。そうしたらずっと、あたしはあたしのことを好きでいられる? 自分に価値があると感じていられる?
 でも何か違うな。誰かが言っていた。
 あたしは別に、何にならなくても特別だって。
 上川だ。
 そう気づいたら、何も見えなかった目の前に、上川の顔が急に見えた。でも、見覚えのある上川の顔とはどこか違う気がする。そうだ、あたしのよく知っている上川の顔はおじさんだけど、この上川は何歳かわからない。幼児にも見えるし、以前よりずっと歳をとった老人にも見える。
 そこまで年齢不詳な顔なんてこの世に存在しない、ということはあたしにもわかっている。つまりあたしはこの顔を目で見ているわけじゃないんだ、そういうふうに錯覚しているだけで。
「あたしは舞闘少女でいられなくてもいいよ」
 あたしは、目の前の上川に向かって言った。何歳かわからない上川の顔は、泣いているように見えた。
「どうして?」
「だって、上川があたしに教えてくれたから。あたしはただ、あたしでいればいいって」
「そうか、じゃあ、仕方ないね」
 あたしが一緒に行けないから、上川はひとりぼっちになるのだろう、と直感的にあたしは思った。かわいそうだな、でも、もといたところに一緒に帰ることもできなさそうだ。
「上川は、小さいころ何になりたかったの?」
 答えてもらえなかった質問を、あたしはもう一度した。
 上川は、今度は答えてくれた。
 もう、ずっとずっと昔のことで、それから本当にいろいろあったから、なかなか思い出せなかったんだけど。このあいだ亜美ちゃんに訊かれて、一生懸命考えたら思い出したんだ。
 おれはね、小さいころ、スーパーヒーローになりたかったんだよ。

 
 亜美、亜美ちゃん、しっかり、亜美——。
 はっと目を覚ますと、ずいぶん長いこと眠っていたような気がしたのにまだ太陽は高い場所にあって、あたしは木陰でみんなに囲まれていた。
「上川は?」
 あたしがたずねると、みんなは気まずそうに顔を見合わせた。乃愛が代表して、
「ものすごくでっかい淀みになってね。それをみんなで退治したら、消えちゃったの」
 と教えてくれた。
「そうか」
 上川には、感謝とか親密感とか、失望とか怒りとか、いろんな感情をもちすぎて、いなくなったことについてどう感じればいいのかすぐにはわからない。みんなの様子から、きっとそれはあたしだけじゃないのだろうと思った。
 でも、たぶん。
「こうしていなくなったことは、上川にとってはいいことだったんだと思うな」
 あたしはなんとなく、そう感じていた。
「上川、小さいころはスーパーヒーローになりたかったんだって」
 あたしの手首からは、ブレスレットが外れていた。みんなのもそうだった。上川が消えたときに、みんな消えてなくなってしまったのだろう。
「人騒がせだね」
 と、乃愛がぽつりと言った。
「本当にね」
 舞闘少女じゃなくなった、中2から高3までのただの女の子たちが、9人ここで輪になっている。
「終わったね」と、誰かが言った。
「終わってないよ」、また別の誰かが言った。
「あたしたちの人生は、死ぬまで、ずっと終わらないよ」
 人生は死ぬまで終わらないって、あたりまえじゃんね、たしかに、と笑った。
「おなかがすいたね」
「おなかすいた」
「ハンバーガー、食べにいこうか」
「いいね」
 なんだかすごく疲れて、ハンバーガーセットをふたつくらい食べられそうだった。ふだんなら我慢するところだけれど、今日くらいはいいかもしれない。いっぱい食べて、いっぱいエネルギーをたくわえて、それを一生懸命使い切ろうと思った。
 食べながらみんなと何を話そう、と考えて、強く生きてゆくための作戦会議でもしようかとあたしは考える。

文字数:23043

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