梗 概
程よく狂った世界で
狂った音楽史を塗り替える。
時は22世紀。メロディもリズムやジャンルもあらゆる順列組み合わせがやり尽くされ、20年ごとに似た流行り音楽が輪廻するのみ。ジャズやクラシックも20世紀中盤までの古典が繰り返し演奏され、その技量だけが賛美されるだけの再現芸術へと堕していた。
主人公は音大生でピアニストのミロ。父はアル中、母は浪費家。音楽史の権威ベリーニ教授に才能を見いだされた。
ある日学会でのこと、画期的な論文発表を控えた教授が登壇した直後、テロ集団が乱入、父のように慕った教授はレーザー銃で射殺、ミロも拉致される。
気づくとそこは1940年代のNYのライブハウスだった。
本物のバード(チャーリー・パーカー)による演奏直前。モダンジャズが誕生した夜だ。テーブル同席の男(=ベノン)がささやく。彼は未来から来たテロ集団のリーダー。教授の論文はミロからの盗用だったと。
「音楽史を狂わせた音楽家を葬り、偉大な音楽を創始するのはお前だ」ミロは自らの使命に覚醒する。
消去対象者は、
①バッハ 平均律による楽曲集を出版。近代音楽の父。
②モーツァルト 後に平均律楽器となるピアノを業界標準化。
③ショパン バッハの平均律の理念を24の前奏曲で具現化。
④シェーンベルク 平均律を前提に、「無調音楽」を創始。
作戦では、④から順に遡って抹殺。レーザー銃で存在自体消し去る。で、今夜(バードの夜)に戻り、モダンジャズが誕生しなければ音楽史の書き換えに成功(モダンジャズは平均律が前提ゆえ)。
ミロはベノンに付き従い、次々と暗殺を実行。ベノンに遂行のたび褒められ、次第に慕う。一方、偉大な音楽家を消去する仕事に疑念も増していく。
「平均律は、たしかに狂った音律だ。しかし…」
ついに①バッハと対面。バッハは言う。
「少年よ、全てが程よく狂った音で出来た世界は程よく調和している。頭を柔らかく」
そう言って頭をなでられたミロは、問題を抱えた自分の家族のことを思い出し、愛おしさを抱く。ミロは、ベノンに暗殺反対を進言する。ベノンは銃口をミロに向ける。ミロは失意の中、ベノンを殴り倒し、バッハを連れて逃げ出し、バードの夜に二人で戻る。
バードの夜が始まる。バッハは大興奮し、ライブに乱入。ピアニストを押しのけ、譜面を見て、即興演奏。バッハの超絶技巧が、バードの才気とぶつかり合う! 激しく乱高下し対位法的に絡み合う旋律! たまらずミロも飛び込み、バッハと連弾! 三人による全く新しい音楽が生まれる。ベノンが現れ、バッハに銃口を向けるが、驚いて叫ぶ。
「こりゃ何だ? 進化したJAZZか!?」
「JAZZ? そりゃ何だ!」と、バードが叫び返す。
バッハが言う。
「音楽は進化しない。波のように変遷するだけだ。ある日新しいものが現れて消え去る。だがまた生まれる」
最後の曲。すでに自分の過ちに気づいたベノンは、こめかみに銃口を当ててリズムを取る。演奏のラスト、全ての音が一つになる瞬間、ぶっ放す。
ベノンは消え去り、一夜の奇跡も音楽も消え去り、音楽史は元に戻る。
22世紀に戻ったミロは、少しずつ狂った家庭と環境の中で、自分の音楽を創始する。
文字数:1289
内容に関するアピール
バッハは、「通奏低音」の巧みなオルガン奏者でした。
低音の単音だけが記された譜面をもとに即興演奏する速弾き鍵盤奏者。その即興演奏の達人が、即興演奏によるジャズの創始者チャーリー・パーカーとセッションしたら、どんなスピード感あふれるグルーヴが生まれるだろうか、というのがこの小説のクライマックスです。
一方、バッハは、「平均律」=「狂った音律」の予言者でもありました。
ドの音が鳴る弦を半分にすると、オクターブ高いドが鳴り、3分の2にすると五度上のソが鳴り、さらに3分の2にするとまた五度上のレが鳴る。次にラ、ミ、シ、ファ#…。この整数比=有理数比を12回繰り返すと、またドが出てきます。※
こうして音階を作ったのがピタゴラスでした。ただ、これでは、分母分子が複雑になるし、隣り合った音階の間隔がまちまちになり過ぎるので、これらをもう少し簡単な整数比で並べ直して、できるだけ等間隔にしようとしたのが、音律の歴史です。
しかも、これらの音はすべて自然倍音に含まれます。ドを単音で鳴らすと、整数比の倍音であるミやソもうっすら聞こえる。だから整数比=有理数比で出来た音律は、不等分の間隔ながら、そもそも、物理学的に協和する関係にあります。
しかし、実際のピアノの音はそうではありません。
「平均律」で等分に調律されているからです。
平均律は、1オクターブ(周波数にして2倍の高さ)を12音で等間隔に分割するので、数学的に美しく、転調が完全に自由です。しかし、12音の並びは等間隔ゆえに無理数比です。1/12乗(2の12乗根。12乗すると2になる)倍ずつされるという等比数列で表されます。弦を無理数比に分けることはできないので(例えば弦を1:√2に分割出来ないのと同じ)、つまり、全ての音が、整数比の自然倍音から少しずつ狂っていることになります。特に、ミとラが明確に高く狂っていて、長い和音を弾くと、うなります。
これを知ったときは、衝撃でした。現代の音楽は狂った音で出来上がっているということなのでしょうか。これが、この小説を書く動機になりました。
(たとえば、「絶対音感」は、狂った音の記憶力というふうに言い換えることになってしまいます)
人類はピタゴラス以来、2千年、この「音律」の問題に取り組んできたそうですが、整数比だけで並べた不等分の音律の時代が19世紀まで2000年も続きました。でもその後、たった数十年くらいのうちに完全に平均律の時代になってしまいました。近代音楽の父、18世紀のバッハは、いわば、予言の書である『平均律クラヴィーア曲集』(原題は、『程よく調律された鍵盤楽器による曲集』)によって、24すべての調を、たった一つの「音律」で演奏できることを示しましたが、それから150年後、皮肉にも、平均律ピアノの普及で世界中の音楽の全ての音は等間隔となり、全ての調は高低だけのものとなり、それぞれの持ち味と役割を失いました。
クラシック音楽は終焉を迎えたとも言われます。
一方、その暗闇の中で生まれたのが、モダンジャズです。平均律の理論を背景にして、小節内での高速の転調も自由自在になりました。
狂った音だけで出来た音律に、逆に、大きな可能性があったということが面白いです。そもそも、「正しい音律」というのも、いまだ一つも考案されていません。程よく正しい音律があるのみです。
バッハがそれを見通していたかどうか。
※ 正確には、2と3は互いに素なので、2/3を12乗したときに、オクターブ上のドは出てきません(ピタゴラスコンマ)。これを12乗で打ち切り、近似してしまったのがピタゴラスの叡智ですが。(3^12=531441で、2^19=524288。割ると、1.01364≒1)
文字数:1530
ヨハン・セバスチャン・バップ
1
アンゲロプロス教授の演説は順調そのものと言えた。ミロが舞台袖でじっと見ていたのは、今回の発表される論文を、少なからずミロも手伝ってきたからだ。22世紀に入って、二回目の国際音楽史学会で、アンゲロプロス教授の発表はトリを務めることになっていた。論文のタイトルは、〈平均律のめぐみ――2400年の音楽史〉客席を埋める聴衆は、世界各国から集まった音楽研究者。みなホログラム参加だが、お歴々のネームバリューとその数の多さにミロは自尊心を大いにくすぐられ、息を吸い込んだ。プロジェクターに楽譜が映し出された。バッハの自筆原稿だ。演説は佳境にさしかかった。教授の声は一層抑揚を増し、聴衆は静けさに包まれる。
「バッハは、〈通奏低音〉の巧みなオルガン奏者でした。低音の単音だけが記された譜面をもとに即興演奏する速弾き鍵盤奏者です。作曲家である前に、相当上手な演奏家で知られていました。一方、バッハには、音楽理論家としての一面もあります。バッハは、〈平均律〉の唱導者でありました」
教授はここで、ホログラム聴衆たちの反応をみるため、客席を右から左まで見渡した。そして、満足そうに続きを話し始めた。舞台袖にいるミロのほうを振り返ってウィンクした。ミロは自分が教授の役に立っている実感をおぼえ嬉しくなった。教授は向き直って、右手を掲げると、こう続けた。
「人類はピタゴラス以来、2千年、音律の問題に取り組んできました。みなさんもご存知のように、平均律でない音律、不等分の音律の時代が19世紀まで2千年も続きました。でもその後、たった100年くらいのうちに平均律の時代になったことは周知のとおりです。19世紀のショパンの時代でも、まだ不等分の音律を使っているので、調によって、コードは、違う響きをもっています。私にはそれが衝撃なのです。近代音楽の父、18世紀のバッハは、自らの作曲で、平均律の偉大さを示しました。そして、あっというまに、平均律ピアノの普及で世界中の音楽の全ての音は等間隔となりました。作曲も、電子楽器の調律も、絶対音感教育も、すべて平均律が基準になっています。バッハがそれを見通していたかどうか…」
バッハの偉大さを吹聴する教授の背中と、波打った白髪を見ながら、ミロは教授に出会った頃を思い出していた。アンゲロプロス教授はこの数年、大学に入ってからのミロにとって、父親も同然の存在だったからだ。
ミロの父は幼い頃から家から二キロのところに知らない女性と住んでいた。姉は浪費家で、母は苦労してミロを育てた。姉の誕生日、ミロの入学、あるいは、なにもない木曜日の朝など、家族は揃って馬鹿な話もしたがそれはひとときのことで、夜までには父か姉かが出ていってしまう。このちょっと狂ってしまった家族の調和の中で、母もまた少しずつ変わっていった。ミロは、母との語らいの時間に、自分たちの呼吸がだんだん噛み合わなくなってきたことを実感していた。母は、追憶の中に生き続け、父と出会ったころの話ばかりを繰り言のように飽きもせず語り続けた。父が残したアップライトピアノの鍵盤だけがミロの世界だった。これを弾いているときだけは、ミロは完全に調和したハーモニーを感じることが出来た。うなりのない世界。狂いのない世界。だが、このピアノの調律じたいが、世間のピアノからかなり狂ってしまっていることに気づいたのは、もう母より背が高くなってからのことだった。逆に、世間の音楽のほうが狂っているように感じることが増えていくと、ミロはちょっとした和音の中に「うなり」を感じ、時には吐き気を催すようになった。我流で学んだミロのピアノは、だんだん、まるでアフリカの打楽器でも叩くかのように荒々しく弾くようになっていたが、その狂った音はアパートメントの下の街路にまで響いていた。それが偶然、路上を歩いていた音楽家の耳に止まったのである。ある日アンゲロプロス教授が、部屋を訪ねてきたのだった。教授はミロの才能を見抜いた。驚く母を尻目に、教授は言った。「このピアノは、誰が調律しているのかね?」ミロは自分だと言った。教授は続けて言った。「では、ドの音に対して、ミの音を、こんなに低くしているのはなぜかね」ミロは、おずおずと答えた。自分の音感が狂っていること。調律師に正しく調律してもらったら、その後の試奏でめまいがし、卒倒してしまったことすらあること。それに、こう付け加えた。「ぼくにとっては、これくらいのミの音が、キレイな青色に見えるんです」首をかしげたアンゲロプロスに、ミロは繰り返した。
「見えるんです。音が」
稀代のピアニストであり、音楽評論家でもあるアンゲロプロス教授の大学に奨学金支給の特典つきで入学させてくれたのは、その半年後のことだった。ミロは基礎科目を履修した放課後にはアンゲロプロスの研究室に顔を出し、教授から直接手ほどきを受けることになった。研究室はミロにとって、初めて居心地の良い場所となった。ミロのもつ「症状」についても、初めてまともに相談に乗ってくれた。資料の整理や、論文の手伝いまでするようになった。今回の学会は教授の研究人生にとって集大成となるはずだった。
その時、銃声が鳴った。
薄暗くなった。客席を埋めていたホログラム聴衆たちの様々な言語による叫び声が飛び交う中、そのホログラムもぷつんと一斉に消えた。ミロは頭を抱えて床に伏せた。舞台に上がってくる足音が乱暴に駆け抜ける。おそるおそる顔を傾けて、舞台中央の壇上に目をやる。背の高い男がアンゲロプロス教授の頭に銃を突きつけ、なにやら問答をしている。男は、左手の人差し指で丸メガネをくいっと上げた。教授は首を横に振っていたが、ついに叫んだ。「違う!」そうして、銃の男に飛びかかった。その直後、銃声がしたかと思うと、教授の姿がまばゆいシルエットだけになり、細かい立方体の形をした光の粒に分解したかと思うと、そのまま消えてしまった。ミロは声にならないうめき声をあげながら立ち上がり駆け寄っていったが、四五歩進んだところで後頭部に打撃を感じ、そのまま意識を失った。
2
夢にしては妙だった。ミロは通りにひしめくジャズクラブらしき突き出し屋根を眺めながら、電柱に背をもたれかからせて座っていた。タバコを咥えたまま眠っていたようだが、火はもう消えている。ここで居眠っていたようだった。道の反対側には女が体をくねらせたような形のネオンが光るストリップ小屋の看板と、仰々しい漢字を貼り付けた中華食堂の看板が猥雑に並び、バチバチと光っている。ミロは、ペッとタバコを吐き出すと、立ち上がって、尻をはたいた。通りはポン引きの男と、ドアマンと、店に入ろうか逡巡する客たちと、肌をはだけ化粧を塗りたくった女たち、それに、ジャズクラブに入れずたむろするしかない若手の黒人ミュージシャンとでごった返していた。怒号と嬌声と笑い声が飛び交う中、ミロはここが初めて見る光景であるにも関わらず、なぜか見慣れたような気がしていた。ミロはポケットの中に、くしゃくしゃになった紙幣があるのに気づいた。自分の服を眺めた。服装はさっきと変わりなく、ベージュのシャツにグレーフランネルの上下。焦げ茶色のレースアップシューズという出で立ちだったものの、不思議と後頭部の痛みはなかった。
〈こっちだ、ミロ〉
名前を呼ばれた気がしたミロは、天啓に導かれるような気持ちで、よろよろと、目の前にある緑色の突き出し屋根のほうに近づいた。「ミントンズ・プレイハウス」と書かれた立て看板のそばに立つ店を見上げた。赤い制帽をかぶったドアマンに声をかけた。
「これで足りるかな?」
そう言って、ポケットの紙幣を取り出して見せた。
「ぼうや、話にならねえよ。出直してきな」
「でも、この中から、呼ばれたんです。名前を」
「なに言ってんだ、何様のつもりだい」
ドアマンは、ミロの襟首を乱暴につかんで来た。その時、ミロは、背後から誰かに肩をぐっと抱かれた。振り返ると大男だ。山高帽にピンストライプの三つ揃えスーツを着ていて、顔を見ると、丸い眼鏡をしていた。肌は浅黒い。ミロは体が硬直するのを感じた。あのテロリストだ。
「ドアマンのおっさんよ、それはないんじゃないの。こいつはおれの友達さ。わかるかい、おれだよ。おれ。おれの顔をよく見ろ」
ドアマンは気圧された様子だったが、空威張りでこんなことを言った。
「おれがだめって言ったらだめなんだよ。おれはジャズの殿堂、ミントンズ・プレイハウスの門番だ。誰にものを言って…」
ドアマンは言い終わらないうちに、黙ってしまった。ドアマンの腹あたりに、男がもつ銃が突きつけられている。ドアマンは首を横に振って道をあけた。
ミロは男に肩を抱かれながら、急な階段を穴蔵の中へでも入るように降りていった。階下は薄暗いライブハウスだった。もうもうとタバコの煙が充満し、それをステージの安っぽいライトが照らし出していた。煙が目にしみる。楽譜を広げたくらいの大きさしかない小さな四角いテーブルが所狭しと並べられ、その一つひとつを、正装した男やドレスを来た女がそれぞれ5,6人ずつ、タバコを吹かせながら囲んでいた。総勢200人。ミロはこの男が教授を殺したあのテロリストであることを確信していたものの、この状況についていけないまま、男の後ろをついていった。空席を見つけ二人で座ると、男は馴れ馴れしい感じで言った。「ステージを見てみろ」赤や紫で照らし出されたステージには、5人のスーツ姿の男がいた。トランペット、アルト・サックス、それにピアノ、ベースとドラム。
「おれの名はヴェノンだ。ご明察のとおり、お前を、この1940年のニューヨークに拉致してきた男だ」
言い終わらないうちに、胸からタバコの箱を取り出し、慣れた手付きで一本加えると火をつけた。そうして、ニヤリと、人懐っこい表情をミロに向けた。
「殺した…んですか」
「気に入らなかったからな。気に入らない人間を抹殺するのが、おれの仕事だよ」
「先生は、ぼくの恩人でした」
ヴェノンはミロを横目で眺めたいたが、にたっと笑ってこう言った。
「わかってねえな。まあ、いいや。それに、お前さんには使いみちがあるからこそ、ここに招待した。よろしくな」
ミロはまだ恐怖感を拭えないまま、顔をひきつらせた。教授を殺した男が目の前で横柄に座っているのに、何もできない自分が卑小な存在に感じられてきた。ヴェノンは言った。
「それに、教授は殺してやしない。音楽史から消えてもらっただけだ。この銃はそうやって調整されている。アンゲロプロスは、どこかで、大学から100キロくらいの小さな田舎町かどこかで、ピアノ教室でも開いて生活してるよ。無名のまま、何も生み出さずに一生を終える」
ヴェノンは渋い顔で煙を一息吐くと、ミロにも「吸え」とばかりに、タバコの箱を突き出した。ミロは拒否したが、なおも突きつけてくるので、仕方なく箱とマッチを手にとった。ミロが火を付けるのに手間取っている間に、ヴェノンはウェイターから酒と氷の入ったタンブラーを二つ奪い取り、一つをぐっとあおった。「なんだ、水臭ぇな。ウィスキーソーダしかないのかよ」そう言って、ミロのほうにも一つ勧めた。そのあと、ヴェノンはしばらく黙ってステージを眺めていた。ミロは何か話し出すのを居心地悪く待っていたが、ステージでドラムスティックのカウントが始まり、直後にアルト・サックスとトランペットの破裂音がユニゾンで響いた。轟音だった。ヴェノンは、煙をひとつ吐くと、ミロの耳元に顔を寄せた。ステージの演奏に負けじと、声をがなり立てた。
「さあ、本題だ。仕事の話をしよう。今夜、ここでジャズが生まれてしまう」
ミロは眉根にシワを寄せて首をかしげた。
「1940年3月31日。ミントンハウス。このあと、ここに、あのチャーリー・パーカーが現れる」
「チャーリー・パーカー」ミロは口のなかで繰り返した。もちろん知っている。モダンジャズ黎明期の巨人だ。即興演奏も、少人数編成のバンドも、彼が始めたことで知られている。
「いいか、チャーリー・パーカーの手で、ジャズが生まれてしまうんだ。それも、古臭いスイングジャズなんかじゃない。バップだ」
「バップ」
何が問題なのか、見えない。バップの何が問題なのだ。ミロは話を待った。ヴェノンはタバコ臭い息で、こう続けた。
「今夜、この店でバップが誕生する。〈バードの夜〉後世ではそう呼ばれるようになった、伝説の一夜だ」
「バードって?」
「チャーリー・パーカーのニックネームだ」
ミロは思い切って、言ってみた。
「バップが生まれるのが、気に入らないんですか?」
ヴェノンの反応を見た。意外なほど無表情だった。ヴェノンは言った。
「バップは、古臭い大衆音楽を打破する全く新しい芸術音楽だ。だが」
ヴェノンはそこで言葉を区切った。
「バップは、平均律が生み出した、悪魔の申し子だ」
「平均律? あの平均律ですか? 音律の基準の…」
「そうだ。この世界が、平均律の世界じゃなければ、バップは生まれなかった。1オクターブを12個の音で等分なんてしなけりゃ、バップは生まれなかった。お前のしごとは、あくまで、それを阻止することだ」
「阻止? 平均律? なんで、ぼくが? バードをぼくに殺させるんですか?」
ミロはついに口にした。ヴェノンが鋭い眼差しでミロを見つめ返す。ぐっと睨んだかと思うと、ふっと力を抜いて笑った。ミロは拍子抜けした。ヴェノンは言った。
「バードは殺さねえよ。バードだけ殺しても仕方がない。平均律は世界そのものだ」
ヴェノンは続けた。
「平均律で成り立っている音楽史を改変するんだ。おれとお前で」
「なんでぼくが?」ミロは思わず言った。「ぼくに何の関係があるんです」
ヴェノンは背もたれに反り返り、大きく伸びをすると、座り直して言った。
「お前には、音楽が〈見える〉だろ」
ミロは、ヴェノンがどうしてそのことを知っているのかと聴こうとしたが、その前に、もう現れてしまった。
色が。
いや、色だけじゃない。
濁った灰色が煙のように沸き起こったかとおもうと、その感覚が形をもち始めた。
たしかに、今きこえているのは聞き苦しいハーモニーだった。ピッチが、トランペットとアルト・サックスとで微妙にずれている。サックスが勢いよくソロを吹き始めた。すると、鈍色に濁ったどろどろのセメントで出来た巨大な女が目の前に立ち現れた。腰をふるたびに、泥のしぶきがテーブルに飛び散っている。ミロがあっけに取られていると、ヴェノンが聞いてきた。「お前は、この音楽がすきか?」
「いえ、しょうじき、とても気分がわるいんです」
「こいつは何色だ?」
ミロは言った。
「鈍色です。濁っています」
ドロの色だ、と付け足した。ヴェノンは満足げにうなずいた。
「演奏はそれなりにうまいんだが…なにしろ、狂ってるからな」
巨大な女は、ぶりぶりに太っていて、今にも崩れ落ちそうになりながらも、酒乱のように腰を振っていた。両手をついて四つん這いになると、狼のように遠吠えを始めた。三度のうなりが、周期的な騒音となって、ミロを襲った。うなりの幅は、ときには、コンマ秒単位、とくには数秒単位でミロを苦しめた。女は遠吠えを続けながら、ミロに近づいてくると、その頬にねちょねちょのキスを浴びせ、目から金色の涙をどぼどぼと流し始め、そのまま自分の涙で溶けていった。少し美しいところもあったが、泥だらけの音楽だった。そのうち、トランペットが転調したソロを展開し始めた。ミュートをつけたすすり泣くような響きだが、三度と六度がかなり高い。濁った紫色が、カッとあたりを染めた。その中から、カラフルに厚化粧した象が現れると、のしのしと会場を練り歩き、「ぱおおおおおおおおおおおおおん…ぱおおおおおおおおおおおおおおおおおおん」と不気味な唸り声をあげた。これもまた、天井を揺るがす程の破壊力で、ミロはもう少しで頭が割れるかとおもった。ピアノがオブリガートを弾いて、トランペットのメロディに合わせると、象の上に裸の曲芸師が現れた。トランペットが、スケールを上から下まで高速で降りると、曲芸師が逆立ちをしはじめた。曲芸師の肌の色は灰色のくすんでいて、象の上でくるくると踊っているが、そのたびに、陰部がさらけだされた。陰部からは、青い水が噴出し、それはライトに照らされてキラキラと光った。ミロは象と曲芸師の織りなすグロテスクな全体に対して、気分がわるくなっていった。曲芸師は最後に象の上で四つん這いになり、赤子のように泣いた。わんわんわんわんわんんんんんんんんんんんんんーーーーーーーーー! ミロは、胸が熱くなるのを感じた。胃液が喉元までこみあげてきたのである。口のなかいっぱいに酸っぱいものが破裂しそうなほど充満したが、どうにかこうにか涙を垂らしながらそれをぐっと飲み込んだ。
ヴェノンはミロを眺めていたが、首を横に振って、こう言った。
「音楽が見えるっていうのは、お前の才能だ。だが、苦労もするようだな。はっはっ。音楽に色が見えるやつっていうのは2000人に一人はいるらしいが、お前のは具象のレベルが違う」
ヴェノンの言うとおりだった。色だけじゃない。もっと複雑で実在感がある。ミロは幼い頃からずっとこの症状に苦しめられてきた。
澄んだ色が見たい。春風のような景色が見えたら良いのに。
ミロにとっては、12音の音、一つひとつには色が付いている。これは決して幻想ではなく、そこに色がふっと現れるのである。おまけに、曲の「調」によっても色が違う。嬰ハ短調は深海の群青色、ホ長調は菜の花の黄色、イ長調は黄金の輝き。和声の進行や楽器の組み合わせによっては、風景や物語が目の前に立ち現れる。しかし、ミロはこの感覚に長年苦しんでもいた。音が狂っていると、色も濁るからだ。風景も物語も、おどろおどろしいものに変容してしまう。さっきの泥女も象と曲芸師も、まさにそれだった。今まで母にも友人にも、まじめに取り合ってもらったことがなかった。幻想だとして、片付けられてしまう。でも、アンゲロプロス先生だけは違った。先生は、ぼくと一対一で向き合って、どういう音でどんな色が現れるか? 調と色の関係、リズムやジャンル、旋律、和声それぞれで、現れる風景や物語にどんな影響があるか調べてくれたのだ。先生は、それを論文にまとめて、多くの人に喝采を浴びていたが、ミロはそれが誇らしかった。ヴェノンは言った。
「だが、お前がいま見た色や、風景は、デタラメで濁っていて、悪夢のようなものだったはずだ。ちがうか? それは汚泥にまみれた、音楽の権化だ。それは幻想ではなく、いまここに存在している。そして、それらは、全て、濁っている。それがなぜだかわかるかい?」
ミロがうなずくと、ヴェノンはこう付け足した。
「このステージだけじゃない。この1940年の世界の音楽のほぼ全てだ。お前の時代も、そして、おれの時代も、狂ったままだ」
ヴェノンはそこまで言って、自分で大きくうなずいた。ミロはうつむいて首を横にふると、こう言った。
「でも、狂っているのは、きっと、ぼくなんです」
ヴェノンは、じっとミロの言葉を待っている。
「ぼくの音感は狂っています。たぶん、ステージの人たちのほうが合っていて、ぼくのほうが狂っている。ぼくは、家にあった、音の狂ったアップライトピアノで育ちました。自分で調律しながら使っていたんですが、やっぱり狂っていた。ぼくの音感が狂っているから、ピアノもずっと狂っていた。ぼくは音痴なんです。それなのに、アンゲロプロス先生は」
そこまで言うと、涙があふれてきた。ミロはようやく正気を取り戻した気がした。
「大学でもそうでした。ぼくが調律すると、ピアノはぜんぶ狂います。でもアンゲロプロス先生は、いつも言ってくれました。『お前の音感は、いつか治る。必ず、治る』って。アンゲロプロス先生に出会ったおかげで、ぼくの音痴は少しずつ治っていくはずでした。それなのに…」
気づくと、ヴェノンがじっとミロのほうを眺めていた。醒めた目つきで、煙を吐いている。
「いやな、おめでたいやつだと思ってな」
「どういうことですか」
ミロは、目の前の男に、怒りを顕にした。涙をためながら、ヴェノンを睨んだ。
「いいか、いい加減に目を覚ませ。お前は、アンゲロプロスの実験体だったんだ。言い方がわるければ、標本だ。アンゲロプロスは、お前に才能を見出したんじゃない。珍妙な個体として研究対象として見ていたのさ」
ミロは、総毛立つ思いがした。そうじゃない。アンゲロプロス先生は、お前には才能があるって、いつも言ってくれた。少々、音感は狂っているが、いつか必ず治るから。次世代の新しい音楽は、お前が作るんだと。ヴェノンはミロの回想にかまわず続けた。
「この世界は狂っている。お前の世界もそうだ。おれの世界も。狂っているのは、音律だ。それは、平均律だからだ」
「平均律が狂ってる?」
「そうだ。平均律は狂っている。すべての音が、少しずつ狂っている。自然界に存在する、天与の倍音にはない、人工的な音律だ。ここの音楽は、みんな音律が狂ってるんだよ。チューニングがまずいっていうだけじゃない。音楽を成り立たせている根本、その音律じたいが狂ってしまってるんだ。正しいと思ってるその〈音のものさし〉が狂っているっていうことだ。モーツァルトだって、ベートーヴェンだって、ショパンだって、みなそれぞれ自分の音楽を成り立たせるための音律を持っていた。みんな違う〈音のものさし〉を使っていた。それらはもちろん狂っちゃいなかった。でも、いま、この世の中の音律は、平均律で統一されてしまった。お前はソレを見抜いてきたはずだ。何かを見たはずだよ。なあ」
ミロは、泥女や象と曲芸師のことを思い出した。
「そして、このステージの音楽ももちろん、平均律だ。平均律で、ぴったりとチューニングされている。あいつらはチャーリー・パーカーの前座だが、これはこれで一流のバンドらしい」
「じゃあ、やっぱり、ぼくのほうが狂っているんだ」
「いいか。よくきくんだ。お前は大きな勘違いをしている。何度もいうが、お前の音感が、狂っているんじゃない。狂っているのは、世界のほうなんだ」
ミロは口をパクパクとさせた。言葉が出てこない。狂っているのは自分のほうだ。そうだって、アンゲロプロス先生も言っていた。ぼくは病気なんだ。でも先生はいつか治るって。おれが治してやるって。アンゲロプロス先生はずっとミロを支えてきてくれたはずだった。
「信じてきたものだって、狂ってることがあるんだ。アンゲロプロスだって、平均律だって、実は、そんな立派なもんじゃあない」
「誰が、この世界を狂わせたんですか? 誰が平均律を作ったんです?」
ヴェノンは立ち上がって、ミロの隣にどっかりと座り、肩を組んできた。
「バッハだ」
「あのバッハ?」
ヴェノンはうなずいて、タバコの煙を吐いた。
「バッハがこの世界を狂わせた張本人さ。本人に自覚があったのかどうかは、会ってみないとわからない。天上の音楽を信じる神の使徒か、あるいは、音楽の可能性が、いつか行き止まりまで追い詰められることを確信していた悪魔の使徒か。発表されるはずの、アンゲロプロス教授の論文も、じつは平均律を褒め称えるものだった。バッハの業績を褒め称える。平均律による音楽史を改めて肯定し、平均律によって成り立つ音楽世界を称揚するものだった。そこに関しては、アンゲロプロスも正しかった」
「でも、実際、どうするんですか? 世界中を回って、平均律の反対運動を? テロリストとして、平均律の唱導者を抹殺して回るんですか?」
ヴェノンはニヤリとしたが、それこそ悪魔のような笑みだった。その口角はどんどん裂けていって、唇の間から牙が現れていくるような気がした。
「そんな面倒なことはしない。かんたんさ。バッハに会いに行くのさ。ちょうど、200年前のドイツ、ライプツィヒに。この世界を狂わせた張本人を抹殺する。そうして、平均律で出来た世界を、おれとお前で改変するんだ。そしたら、またこの夜に戻って来て、確かめる。バップが生まれてなけりゃ、おれたちの勝ち」
ヴェノンは話に区切りをつける代わりに、タバコの煙を満足げに吸って、ゆっくり吐き出した。
「ミロ」
「はい」
「おれは、お前の時代より更に未来からきた。だから知っている。お前は、全く新しい音楽を始める、偉大な芸術家になる。そのために、この狂った世界を、正しい状態に戻していく。時空を越えながら、世界を調律するんだ」
ステージには、次のバンドが登場していた。オルガンが加わった。チャーリー・パーカーが出演するバンドは、この次だという。オルガンもまた平均律で調律されているらしく、ミの音が高い。曲は「Night in Tunisia」ミロの眼前には、みるみるうちに頭にターバンを巻いたアラブ人がむくむくと5,6人現れ、あごひげをたくわえた男だか女だか分からない人間たちがしわがれ声の中国語を話しながら、ミロの席を取り巻き始めた。すべてが不調和だった。それぞれ果物や水タバコを差し出すが、ミロが手で払う。全く濁ってる。狂っている。これは狂っているんだ。そうだったんだ。ミロは、こぶしを握りしめて、ヴェノンの言葉を反芻していた。ミロは、改めてヴェノンの姿を頭から足先まで眺め渡した。有無を言わせない、意志の強さが全身から発せられているように感じた。それにしても、ヴェノンは自分よりはるか未来から来たと言った。未来人というのはこういう風貌をしているのか。顎が尖っていて、腕が異様に長い。猫背で姿勢も悪い。よく見ると人差し指だけが長くて、そこに指輪をはめている。服装なんかは、自分たちとあまり代わり映えしないが、この時代に合わせているのだろうか。
ヴェノンは、ウィスキーソーダを一気に飲み干すと、こう言った。
「さて、そろそろ始まるぞ。曲名をきいたら、出かける」
「どうやって、タイムトリップするんですか?」
ヴェノンは周りに目を走らせると、声を落としてこう言った。
「これさ」
「うまく調合してきた。まあ、最新のドラッグだと思えばいい。ドラッグは好きか?」
「いえ! そんなことは!」
ヴェノンは笑った。
「この1940年代のアメリカはとくにそうだった。ジャズミュージシャンの間で、ドラッグは目新しい、モダンなものとして流行っていたんだ。重度の中毒性があることもまだ知られてはいなかった。このクラブに充満しているこの煙も、組成を調べれば半分くらいはきっと大麻か何かだろ」
そう言って、愉快げに煙を吐いた。
「とにかく、このタバコの煙を吸うと、いきたいところで飛んでいける。トリップだ」
そういうと、ヴェノンは、大笑いをした。ヴェノンの持っているタバコには、一本一本、巻紙に違う色がついている。
「それって、ただの、幻想じゃないですか」
「それが、そうじゃないんだな。まあ、面倒な説明は要らないだろう。これを吸って、バッハに会いに行く。そこで作戦をやりとげたら、また、ここに戻ってくる」
「ここって?」
ヴェノンは、タバコを口にくわえ、懐からペンを取り出すと、グラスが載っているコースターを裏返し、そこに何か書き始めた。
1940.3.31
「これをポケットに入れてろ。戻ってくるのは、ここ。つまり、〈バードの夜〉だ。」
そういって、タバコの箱の底をとんとん叩いて、バラバラっとテーブルにタバコをばらまいた。箱の中のどのタバコを吸うかによって、跳躍先は変わるという。ミロもそうやって、この時代に拉致されてきたということだ。そう言えば、クラブの前の通りで目覚めた時、タバコをくわえていた。ステージ上では、演奏が終わった。にわかに静けさが客席に戻った。ヴェノンは、テーブルの上のタバコをかき集めると、そのうち一本を手に取り、こう言った。
「この赤いやつを口にくわえろ。おれが合図をしたら火を付けるんだ」
そのとき、会場全体がざわついた。聴衆の視線は階段付近に一斉に注がれた。バードだ。バード。ささやき声が、波紋のように広がっていく。誰かが叫んだ。
「バードだぜ!」
その声が引き金のように、聴衆の歓声を爆発させた。「バード! バード!」口笛と拍手と叫び声とが、ひとつの怒号となり、床の下から天井へと噴出した。ヴェノンが顔を近づけた。
「来たぞ。バップの創始者が」
ミロは階段をゆっくりとした足取りで下りてくる黒人を見た。鼻歌を歌っているように見える上機嫌の男は、シングルのベージュスーツに身を包んでいた。腹は突き出し、ずいぶん年を食っているように見える。丸刈りで、ふっくらした卵型の顔は、柔和だ。男が聴衆たちの歓声に目尻をさげると、一層会場の声と口笛が大きくなった。
ヴェノンが言った。
「バード。モダンジャズの開祖。和声的旋律の権化。バッハ以来の、西洋音楽中興の祖。彼がいなければ、平均律はただのマニアックなカルト信仰でおわっていたんだ。あいつが、平均律の教祖だ。バッハが神なら、バードは、キリストさ。1920年に生まれ、1955年に死ぬ。重度のヘロイン中毒とアルコール中毒で肺炎と心臓病を併発したんだ。バッハは神として、平均律を言葉で語ったが、バードは何も語らなかった。だからこそ、たちが悪いんだ。バードのバップは、平均律をすっかり布教してしまった。ドラッグみたいなもんさ。バードが出てくるまで、ジャズというものは、その後数百年に渡って使われる意味では、まだ生まれているとは言えない、単なる大衆音楽だった。男と女が体を密着させて踊るための、伴奏音楽に過ぎなかったのさ。紳士淑女がテーブルから手に手をとって立ち上がり、抱き合って体を揺らす、あるいはステップを踏む間、演奏者たちはあくまで客たちの物語の背景としてのみ存在していたんだ。ほら、ここにいる聴衆を見ろ。みんなバードを聴きに来ている。それもほとんどが、耳の肥えた白人客と、黒人プレイヤーの追随者たちだ。彼らが息を詰めて見守っている。踊りにきているんじゃないんだ。クラシック音楽みたいに、耳を澄まして、その旋律と和声に集中する大衆を生んだ。バードが死んだあと、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ビル・エヴァンス、オーネット・コールマン…ジャズの改革者はたくさんいたが、彼のアルト・サックスは特別だ。影響を与えたのはサックス奏者だけじゃない。ピアニストを始めとする全ての楽器奏者、それに、ジャズ以外のジャンルの作曲家や演奏家にまで影響を与えた。それがバードだ。そして、今日がその〈バードの夜〉」
ステージにのぼったバードは、バンドマンたちとセッティングを始めた。聴衆は水を打ったように静けさに包まれる。ヴェノンがささやいた。
「そのタバコをしっかりくわえろ。そうだ。今からおれたちは、バッハの時代にとんで、仕事をやり遂げる。やり遂げたら、この瞬間に戻ってくる。成功していれば、バップは誕生しない。美しい音楽世界が現出するはずだ」
ミロはうなずいた。神殺しでも何でも、もうついていくしかない。どうせ、元の世界に戻ることは出来ない。ステージでは、トランペット奏者によるMCが始まっていた。曲目が告げられた。
「Cherokee」
ヴェノンが素早く、コースターに書き留め、「チェロキー」とつぶやく。ミロに目配りをして、コースターを投げ渡す。ドラムが小気味よく、ドラムスティックでリズムを取り始めた。ヴェノンがマッチを擦って、ミロのタバコに火をともす。ヴェノンの表情が闇に不気味に浮かび上がる。ヴェノンの火が、ミロのタバコに点けられた。「行きは赤のタバコ。帰りは青だ。忘れるな」ミロは煙を勢いよく吸い込んだ。ヴェノンもタバコをくわえて点火する。ドラムがカウントを取る。その時、アルト・サックスをかまえ、マウスピースをくわえたバードがちらりと、こっちに目をやった。
「ワン。トゥー、ワントゥースリーフォー」
バードのアルト・サックスがファーストヴォイスが唸らせるのとほとんど同時に、ミロは煙を長く吹き出した。
3
ちょうど、丘の向こうにある雲間から、日が出てきた。灰青色の景色が照らされ、むらむらと色づいて生気を帯びていく。ぶどう畑の丘が波々と続いていく広々とした景色の中に牧歌的な教会の尖塔が浮かび上がる。
夕刻の丘に、教会から歌声が響く。
オルガンの伴奏に合わせた、子供の裏声、女性の明るい声、男性の低く柔らかい声。いくつかのメロディがそれぞれの旋律で歌い上げられながら、接近し、併走し、離れ、交錯し、ときに調和して一つの音の束になる。まったく素晴らしい。ミロの周りに、陽光のような黄色が、芳香をたたえた霧のように四方から立ち上ってきた。いつの間にか隣を、二人の少女――山吹色の小間使いの衣装を着た金色の髪の少女が二人――教会の鐘のようにスカートを揺らしながら、けらけらと笑って走っていく。そのあとを、栗毛の馬に乗った騎士が3騎、背筋を伸ばして併走する。黄金の馬車が上下しながらにぎやかに追いかけていくと、馬車が通った後には青いぶどうの実が、バラバラっと転がり、絨毯のごとく小径を埋め尽くしていく。現出した音楽にミロはうっとりとした。なんという旋律。そして、ハーモニー。完全に調和しつつ、それぞれ独立を保っている。ぶどう畑の土を踏みしめながら、教会に近づいていくと、合唱は更に大きくなる。とりわけミロが驚いたのは、オルガンの多幸感だった。黄金の馬車はこの伴奏が現出したものだった。
入り口の扉にある小窓をのぞくと、そこは礼拝堂だった。
壁にしつらえられたオルガンに向かう白髪の男を、十人くらいの子どもたちが立って取り囲んでいる。男は時折、手を振って子供たちを指揮しながら演奏をつづける。子供たちは歌いながらも、これはおかしくてたまらないと言った風情で、それぞれのタイミングでげらげらと笑い転げている。オルガンの男は、のばした人差し指を口に当ててそれを優しくたしなめながらも、ニコニコとオルガンを弾き続ける。ミロは、一つの声楽曲をみんなで歌っているのかとおもったが、よく聴くとそうではない。子どもたち一人ひとりが違う旋律を、いや、異なる曲のメロディをそれぞれ歌っているようだ。各々が、民謡のような、賛美歌のような、あるいはピアノの練習曲のハミングのようなものを、てんでバラバラに歌っている。バラバラに見えて、これが和声的に調和して聞こえるのは、あのオルガンの男の采配が絶妙だからだろう。歌詞の意味はまるで調和しない宗教曲と世俗曲とが、一つの音の束として、ハーモニーを奏でている不思議に、ミロは打たれた。礼拝堂の全体が金色に包まれていて、夕日のあたる小麦の穂がそこかしこで揺れているのが見えた。このハーモニーは…。低めに調整された長三度と六度が、主旋律と対旋律の絶妙な調和を生み出している。主旋律が礼拝堂に響き渡る、その自然倍音の中から対旋律が生まれでてくるかのような一体感で、各々のメロディでは寄り添っている。
優しい。
そして、狂っていない。ドの音には、本来、こんなふうにして、ミもソも自然倍音として含まれている。裏で鳴っている。神があらかじめ仕込んでいたハーモニー。
これが、ヴェノンが言っていた、純正律か。平均律が生まれる前の世界。
子供の一人が、もう我慢出来ないというふうに叫んだ。「ごちゃまぜ遊び! もう、たのしい!」「うんたのしい!」「意外だね」「うん、合う、ふしぎ」どうやら、輪唱で遊んでいるようだ。だが、少し様子が違う。子どもたちが騒ぎ出して合唱どころじゃなくなったのをみて、男がオルガンの手を止めた。
「〈ごちゃまぜ遊び〉ったって、真剣にやるものだよ、諸君」
「だって、おもしろいんだもん」またげらげらと笑った。
「べつの歌と歌が、重なっていってさあ」
子どもたちのかわいらしさに、覗いているミロも思わず目を細めていると、不意に、後ろから肩を叩かれた。驚いたミロが振り返ると、「しー」と、長い人差し指を立てて、ヴェノンが口角だけで笑みを現している。日中で見るヴェノンは、相変わらず不気味なほどの長身で、のどかな田園風景に似つかわしくない。
「仕事を忘れたのか。心を打たれてどうする」
「あ、いえ…。あまりに調和していて。これって、平均律じゃありませんよね」
「ああ。うなりがない。あの響きに。この時代は、まだ当然、平均律は知られていない。一部の学者と音楽家の前衛だった。だから、教会のオルガンだって、純正に近い音律だ。それで稽古された子供たちの歌だって、純正にハモってる」
ミロは興奮した声で言った。
「魅了されました! これが純正なんですね。こんな世界があるなんて。あのオルガンの人と話をしてみたいです」
ヴェノンは、「はっ」と大きな声を出して、おもわず周りを見て、口をつぐんだ。
「バカか。あれがバッハだ。おれたちのターゲットさ。ヨハン・セバスチャン・バッハ。音楽で知られたバッハ一族の五代目。教会のカントール。つまり、公務員さ。生きている間にはさほど注目されなかった。死後、その偉大さを再発見される。バッハの名を持つ音楽家は、一族の中に、後世に名を残した者だけでも20人以上いるが、ヨハン・セバスチャン・バッハは、特に〈大バッハ〉と呼ばれている」
ミロは、バッハこそ、平均律の創始者だと思い込まされていたので、頭の中が混乱してきた。何か言い返そうとすると、ヴェノンはさっと先を歩いていった。
二人は、街の通りを下っていった。
石ばかりで出来た町並みは、数百年間なにも変わっていないかのようだ。石畳には乾いた馬糞が砂のようにへばりついていて、その通りに面して、鍛冶屋、肉屋、金細工屋と、軒を並べている。これが1 8世紀。ルネサンスの末期のドイツ。キリスト教観念を凌駕するほどに人間愛と科学とが台頭した、啓蒙の時代だと大学で習った。重力や微分積分や分子が発見され、音楽理論に大きく影響を及ぼしたという。ピアノもまだ誕生したばかりのマニアックな楽器で、鍵盤楽器はクラヴィコードとハープシコード、それにチェンバロが主流の宮廷音楽の時代だ。モーツァルトもベートーヴェンもまだいない。バッハもまた地方でしか知られていない、無名のカントールだったというが…。あのさっきの典雅な歌声とオルガンの響きが、ミロの頭にまた鳴り始めた。ミロは自分の歩いた足跡の、石畳の隙間から、花が次々に芽吹いていくのが見えた。
道が二股に分かれるところに居酒屋が面している。店先にいる店主にヴェノンは気安く挨拶をして中に入っていった。ミロも慌てて続く。
女将が慌てて走ってきた。
「ご両人さま、これはお初にお目にかかりますね。こちら様は色男。徒歩で旅をなさっておいでですね。お疲れでございましょう、わが宿屋でお休みになられてはいかが」
ヴェノンは言った。
「ここは、なんという宿屋だい?」
「熊鹿亭と申します」
「部屋は要らないんだ。テーブルを用意してくれ。腹が減った」
夕方に差し掛かるせいか、店はすでにかなりの客があちらこちらのテーブルで盛り上がっていて、ワインやビールのボトルがテーブルを賑わしている。二人は、店の手前に陣取った。
「ところで、今日は、その大バッハにとって、どういう日なんですか?」
「1722年後、のちに〈音楽界の旧約聖書〉と呼ばれることになる書物が生まれる。ヨハン・セバスチャン・バッハ以前の数百年にわたる音楽の歴史は、バッハ一人を生み出すために存在したとしも過言ではない。それを決定づける書物」
ヴェノンは更に声を落として言った。
「平均律クラヴィーア楽曲集第一巻」
ヴェノンはミロの腕をとって、肩を抱きながら教会の裏手に歩いていった。
「さっきの教会での『ごちゃまぜ遊び』を聴いたろ? あの典雅な純正の響きは、転調がないからこそ、実現できるんだ。調さえ変えなければ、問題はなかった」
ヴェノンは、そこで女将を呼びつけ、ワインと羊肉のローストを注文した。
「あと、鱒のアンチョビ・バターソース和え、ソーセージのほうれん草、茹でかぼちゃに、レタスと赤かぶもつけてくれ」
「あいよ」
ヴェノンはミロに向き直った。
「だが、バッハは悪魔の書物を完成させてしまった。ハ長調、ハ短調から、変ロ長調にいたる24全ての調を、1曲につき1調ずつ採用した楽曲集だ。これで、24の全ての調への転調が自由自在に行えることを証明してしまった。平均律時代の幕開けだ。この楽曲集の正確なタイトルはこうだ。『程よく調律されたクラヴィーアによる楽曲集、あるいは、長三度つまりドレミと、短三度つまりレミファをともに含む、すべての全音と半音による前奏曲とフーガ』」
「程よく調律…ですか」
「そうだ。クラヴィーア、つまりクラヴィコードという鍵盤楽器を、たった1回、〈程よく調律〉することによって、24調すべてに対応できることが前提になっている。後世の人は、ここに平均律の無限性を読み取った」
「ところで、なんでこの店にきたんですか?」
「だって、腹が減っただろ。それに、ここのメシはうまいんだぜ。あとひとつ付け加えるならば、大バッハは今夜、この店にやってきて、出版社の人間と合うことになっている。完成した〈平均律クラヴィーア楽曲集〉の原稿を携えてな」
「つまり…」
「つまり、おれたちは、そこを狙うというわけだ。まずは油断させて、ゆっくりくつろいでもらわんとな。それのためには、おれたちも、この喧騒のバロック時代の息吹を存分に味わおうじゃないか」
ミロは扉のほうを見た。
「客席も、かなり混んできました」
「宴の始まりだ。神を抹殺するんだからな。これくらい盛り上がらないと。肉も魚も観衆も必要だ」
扉から、今日一日の仕事を終えた職人たちがぞろぞろ入ってくる。ヴェノンはなぜか、彼ら街の人間の顔と名前を覚えていた。ワインをミロの陶器のジョッキに注ぎながら、ヴェノンの舌はどんどん回りだす。香料職人のエリュアルトは居心地がわるそうだが、なるほど、隣に娼婦のユーリアを連れている。彼女は男装しているが、その美貌は却って目立ってしまっているな。麻布職人のヴォルフと組ひも職人のイヌマエル、それに奥方のベニータ、理髪師のゴットロープ・フレーゲとお手伝いのアニタ、大工のトリュクが丸く囲んでいるかとおもったら、その中心には喜劇役者のハンス・カストルプ、武具職人のサウザーやユダがいて、それぞれ対になってチェスに興じているが、その奥でチェスの賭場を仕切り始めているのは、いまや金の刺繍の入ったフロックコートの前をはだけ、下着を晒した姿でくつろいでいるフドウ神祇官と、それをとりまくヨ―アヒム家――南米にカカオ農園を所有している――の面々で――長男ヒューイ、次男シュレンも三男ジュウザまでそれぞれ空いたグラスを振り回して盛んに笑いに興じている。やつらの仕事は特殊で、受注先や仕入れ先について一切口外しないのが慣わしで、ふだんは人付き合いを避けている。意外な者同士が知人であると、こちらもなんだか嬉しくなるのは不思議だ、ミロ。面白いのは立ち席だ。ほうら、さっそく、彼らをめざとく見つけたフドウ神祇官が人混みを割って近づこうとしているぞ。愛人に何か贈り物をと画策しているんだぜ、ああ、驚いた! 踊り子のナフタやセテンブリーニが花びらのようなドレスに身を包んで同席しているのは、公証人のルドル・フォン・シュトロハイム、警察署長のポルナレフ、副署長のツェペリというお偉方だ。それに、聖職者たちも駆けつけてきた。18世紀ってのは、なんておおらかなんだ。ヴェノンは興奮して言った。ミロ、こいつたちをよく見ておけ。これが18世紀だ。この乱痴気騒ぎのエネルギーの中から、科学が生まれ、数学が発展し、そして、音楽は、和声は、旋律は、数学で解明されたんだ。おい、それに、今入ってきたのは、聖堂参事会員のディオ・ブランド―とスピードワゴン、修道院長のスグル・マッスル、聖堂助祭のに聖歌隊長のトマス・マン。詩人、評定官、言語学者、民俗学者、架空旅行記著述家、図書館長、悲劇作家、枢機卿、羅針盤職人、得業士、医師、物理学者、両替商、騎士、郷士、聖遺物収集家、民話収集家、喜劇作家、笑劇作家、悲劇役者、巡礼者、神秘主義者、スコラ哲学者、ギリシャ古典翻訳者、司法官、騎士道修道会領主、方舟職人、自称堕天使、司厨長、猿ぐつわ蒐集家、艶笑滑稽譚作家、便器彫刻家、一物袋売り。
「おっと、出版社のクロルが来た」
ヴェノンが声を落として言った。
「バッハの原稿を受け取りに来た男だ。彼こそが初版ペータース版の校訂者。第二幕が始まったぞ」
女将が叫んだ。
「さあ、晩餐の始まりよ! おすすめのオードブルは合鴨のロティ! 魚は三種類、鱸のパイ包みに的鯛!」
ヴェノンとミロは、クロルと呼ばれた男が帽子をとっておずおずと店内を進み、空席におさまるのを注視していた。面長で体の線も細い。神経質で、自己愛の強そうな男だ。
そこに、前掛けをつけた料理長が登場した。皿を両手に持って話し始める。
「女将の続きはわしが説明しましょう。この帆立貝は黒トリュフとまぜて刺し身に。こっちはプレール貝。これはハマグリですが、詰めものをしてからクリームで煮ています。メインの皿は鱸ですが、これは火の通し方が難しくてですね。骨のところでちょうどピンク色になるように加減しております。身が骨から剥がれやすくなる、微妙なところです。生焼けだと骨にくっついたまま。逆に、焼きすぎるとパサパサになりますからね」
突然、ヴェノンが大声をあげた。
「この白魚みたいなのは? こりゃうまい!」
料理長がいう。
「それは鰻の稚魚で、スペインではアンギラスと呼んでいるものです。塩・胡椒・エルペレットの赤唐辛子と生のにんにくを加えて、オリーブオイルで手早く炒めております」
「どおりで香りがいいと思った」
「この小さな鍋は?」またヴェノンが問いかけた。「なんだかとろみがある白いスープに魚がひたひたに浸っている」
「それはポトフです。海のポトフ。ディエップ風と言われるものです。りんごの炭酸酒、シードルと生クリームでスープを作ります。りんごが一杯獲れるノルマンディーの料理です。うまいでしょう」
女将が、客の鍋に小指を突っ込んで味見する。
「失礼。今日はいい出来じゃないの。甘すぎず、コクも出ている」料理長に媚態を作って言う。
「さすがね。白ワインが欲しくなるわね」店の奥に向かって叫んだ。「おおい! 白ワインもっといで。カーブの手前のほうにあるやつよ。ちょっと色のついた」
料理長がヴェノンに近寄ってきてサーブしながら、うやうやしく言う。
「紳士様。本日はソースに力を入れておりまして、その川魳に添えられているのはベシャメルソース。特別に取り寄せたバターとエシャロット、それに卵、小麦粉、オイル、レモン果汁と白葡萄酢を組み合わせております」
ヴェノンは、もはや全く聴いておらず、通りかかった可憐な女中に声をかける。
「おいジーナ、ジーナさんよ、こちらへ来て葡萄酒をもう一杯注いでおくれ」
かと思うと、ヴェノンはすぐ振り返り、もう。料理長に向かって続きをぺらぺらとしゃべっていた。
「このベシャメルソースにつかっているバターは、もしかしてナントのものでは?」
「おっしゃるとおりで。昨日ナントから取り寄せたばかりのものです。コクがあって、酸味が少し強いので、鮮烈な香りを引き立てます」
女将がミロの耳元でささやいた。
「お供の方は、只者じゃないね」
料理長がヴェノンに向かって得意げに言う。
「本日の肉料理ですが、シャロレとアキテーヌから取り寄せました特級の肉質のものを使用します。当熊鹿亭では、中でも母牛の元で育った仔牛のみを注文しております。また、肉を柔らかくするために、氷室で三週間寝かせることで熟成させ経て本日はソースに力を入れておりまして」
ヴェノンは、全く説明をきかず、魚の皿に夢中になっている。
「この鱸に使われているハーブは、パセリ・チャービル・セージ・サリエット・・・・・・いや、ヘンルーダか?」
そこまで言うと、ヴェノンはまた振り返って、女中に声をかけた。
「ジーナよ。お前の注いでくれた葡萄酒は、まるで地上の楽園に湧き出ているという、あのエーデルツヴィッカーの泉のように甘美だ」
女将が小声でミロに言った。「そんな泉はありませんよ。だいたい、エーデルツヴィッカーは白葡萄酒の品種です」
そのとき、不意に、ヴェノンが立ち上がった。料理長に、女将、それに数人の客席が扉を振り返った。女将が声高らかに告げた。
「ヨハン・セバスチャン・バッハ楽長様のおなりよ!」
「バッハ楽長だって」
「本当だ。バッハ楽長様だ」
バッハは、さきほどかぶっていた羊のかつらを取り外し、短く刈り込んだ地毛が中年にもかかわらず精悍に見せている。フロックコートに身を包み、肩からバッグを掛けている。仕事を終えたばかりだからか、少し疲れた表情をしているが、紅潮している。肖像画で見るより、ずっとかっこいい。扉口から入り込んだ西日が、バッハを逆光に浮かび上がらせた。ヴェノンがミロにささやいた。
「あれは、どうやら〈完成〉した顔だ。役者が現れた」
ミロは、ヴェノンの手元をみたが、あの銃を準備している様子はまったくうかがえなかった。どのタイミングで、決行するのだろう? ミロは不安げにヴェノンを見たが、ヴェノンはギラギラとした目でバッハをまっすぐに見ている。
料理長と女将が二人揃って扉口まで駆け寄った。女将が言う。
「いらっしゃいませ! J・S・Bバッハ楽長様! お疲れでございましょう。本日ご用意いたしますのは、当店のメニューより選りすぐりのコースでございます。そのメニューと申しますのも、ポタージュが12種、オール・ドゥーブルが24種、牛肉のアントレが18種、羊肉のアントレが7種、飼鳥類、あるいは猟鳥獣類のアントレが32種、仔牛料理が16種、魚料理が39種、パティスリーが49種、アントルメが51種に、デザートが78種であります。葡萄酒のほうも、お申し付けとあらばカーブに所蔵のブルゴーニュからボルドー、トーケイ、ケープワインに至るまで300種類揃えてございます」
バッハがカバンを大事そうにおろしながら、軽快に言った。
「それは素晴らしい。今日は、少し祝いたい気分なんだ。ごちそうを用意してくれよ。ウェルシュ・ラビットに、シュヴァルツヴァルトのヒレ肉はあるかね?」
料理長は落ちつきはらって言った。
「もちろんご用意できます。さあ、まずは、お席をご案内いたしましょう。女将、ジーナ、ほら、さっさと動かんか」
バッハは上機嫌に、女将の後をついていきながら言った。
「連れが来ているんだ。ほら、あそこの席だ。女将よ、ところで、今夜は、スペインのものは入ってるかい? シェリカの胡椒入りハム、マラガの干しぶどう、それにオラ・ポドリダなんかも食べられるのかい?」
女将は先導しながら得意げに振り返り振り返り、テーブルの間を先導しながらバッハに答える。
「当店はひなびた設えではございますが、ヴェリー兄弟やプロヴァンソー兄弟のような一流店、それに昨今飛ぶ鳥を落とす勢いといわれるロベールにだって負けませんわ。メオなんて相手にもなりませんわ」
ヴェノンはナイフとフォークの手をとめ、聞き耳を立てて、二人のやりとりに注意していた。女将が言った。
「こっちには良質な仕入れ先と、美食学に精通したこの料理長がおりますもの。ルガック、アンヌヴー、バレーヌなんていう名店にだってひけをとりません。ところで、楽長さま、『料理人の形而上学』という本をご存知?」
バッハはすげなく言った。
「いいえ、まったく」
そのときだ。ヴェノンが素早く立ち上がって、近づき割り込んだかとおもうと、あらんばかりの声で叫んだ。
「知ってますとも! 天下の名著じゃありませんか!」
そして、ミロを指さして言った。
「ここにいる少年は、あの八折判の二冊本を手に入れるために、下宿からどれだけ手紙を書いたことかご存知でしょうか」
ミロはあっけに取られた。女将も、驚いて言った。
「まさか、お客様、あの本の著者のことをご存知? ええ。彼が、ド・ボローズの元で副料理長を務めた、かの美食家にして哲学者、その実はもちろん一流の料理人――その名は」
ヴェノンはさえぎって、仰々しく言った。
「ポール・ボーヴィリエ。僭越ながら、私の名前でございます」
ミロは、椅子からずり落ちそうになった。ヴェノンは、バッハに一步近づき、うやうやしく礼をした。ミロも仕方なく立ち上がって、同じように頭をさげた。ヴェノンは、バッハに握手を求めた。
「そして、こんなところでお会いできるだなんて! 楽長さま」
バッハは、戸惑いながらも、知識階級らしい物腰で、こう返した。
「天下の名著の作者にこんなところでお目にかかれるとは。ボーヴィリエ様。それにしても、この本にはたくさんの模倣者が現れましたな。しかし、誰一人、この水準に達することはできなかったと聴いております。なぜなら、この著者、ボーヴィリエこそが、唯一、真実の哲学者だったからです」
ヴェノンは、バッハに再度、握手を求めた。
「私のほうこそ光栄です。楽長さま。ぜひぜひ、一杯ごちそうさせてください。どうぞこちらの席を」
そう言って、女中にバッハと出版社の男の2席を準備させた。出版社の男がいそいそとやってきたので、4人は丸いテーブルを囲んで座った。
バッハが、改まった様子で静かに言った。
「実はね、この『料理人の形而上学』の下巻のほうに、私には忘れられない一節がありましてね。頁数は忘れたが、おそらく三百頁と四百頁の間あたりだ。〈肉汁入り炒り卵〉についての考察の箇所です。覚えておいでですか?」
ヴェノンは表情を崩さず言った。
「もちろんですとも。熟読玩味してくださってるんですね。著者として、一料理人としてこれほどうれしいことはありません」
バッハはうれしそうにまくしたてた。
「あなたが二人の貴婦人を連れてムランを旅されたときの話ですね。モンジュロンに到着したときには、あなたはもう腹ぺこの極みでしたな。宿屋はエジプトイナゴの大群が通り過ぎたみたいに、すでに何もかも食い尽くされてしまった後だったとありました」
「そうです。そうです。そのとおりです」
バッハはヴェノンの反応をたしかめて、続けた。
「残っていたのは卵が数個にミルクだけだという。だが、そこであなたはかぐわしくも香ばしい匂いに驚いて、おもわず厨房を覗きこんだ。そこには焼き串にさされて回し焼きされている羊肉の塊があった。しかし、悲しいかな、その羊肉は先客のイギリス人客たちのもので、彼らはシャンパンを傾けながら悠然と焼き上がりを待っているところでした。たしかにそうでしたな?」
「ええ、まったくそのとおりです」
ヴェノンはうなずいた。ミロはのけぞり呆然としていた。バッハはなおも続けた。
「あなたは料理人に哀訴懇願した。『どうか、その羊肉の汁だけでもいただけないものだろうか。それと卵さえあれば、あとはもう私たちはミルク入りコーヒーだけで我慢できる』と。料理人には快諾してくれたので、あなたは厨房で回転する羊肉に近づき、ポケットから取り出した旅行用ナイフで十二の傷をつけた。十二というこの数字! 十二の傷を負って回転する羊肉には、まさに全宇宙が詰まっているんだ! そうですよね!」
ヴェノンは、バッハの熱弁に若干たじろぎながら、こう答えた。
「もちろん。おっしゃるとおりです。眼光紙背に徹するがごとくに読み抜いてくださり光栄至極です」
バッハは、ヴェノンの手を握りしめながら言った。
「十二の傷をつけて回転する羊肉のことを思い出すと、この世界の現実と非現実がそっくりひっくり返ってしまうような気分にさえなるんです。だって、あなたは十二の傷から、その羊肉の滋味・精分の全てを抜き取ったんですからね! それを炒り卵にしてご婦人方と平らげてしまった」
ヴェノンは答えた。
「十二というのは、五度圏を現します。Cの五度上がG、Gの五度上がD、つまり、こうです。C G D A E B F♯ C♯ G♯ D♯ A♯ F C…で、時計のように一周する。Cが12時で、F♯が6時だ。羊肉につけた十二の傷は、まさに天上の音楽を、大地の肉に写し取ったメタファーだったわけです」ミロは、ヴェノンによるあまりのいい加減な弁論にもはや感動しはじめていた。
出版社の男が帽子を胸にあてて割り込んで来て、口をはさんだ。
「とすると、イギリス人客たちは、すでに滋味も音楽も全て抜き取られた繊維だけのカスとなり果てた羊肉をうまそうに食べることになるんですな」
バッハは応じた。「そのとおりだ。クロル君。いや、愉快! 愉快!」
そして、クロルという男はヴェノンにまた、親しげに握手をもとめた。ヴェノンは応じながら、ミロに目配りをした。ミロはすっかり呆れ果てていたので、目をそらした。やりとりを始終きいていた女将は、このタイミングで退座し、料理長の手を引いて脇へいくと、ささやき声で何か言った。ミロはしっかり聴いていた。
「ボロが出ないうちに、お前さんも調理場へ引っ込んでおくれ。今さら取り返しがつかないね。デタラメの本の名前と著者の名前を並べただけなのにこんなことに」
いつのまにかセッティングしていた楽団が演奏を始めた。クラヴィコードとリュート、それに太鼓にシンバル。ヴィオラも入っている。テンポの早い民族音楽だ。客席からそれに応じる数十の声が大砲のように響く。客の十数人が一斉に立ち上がり、手に手をとって踊り始める。ミロはまた、その光景に打たれた。猥雑な音と音がぶつかり合いながらも、不思議と調和している。客席から、それに合わせて歌う者が出始めた。ハモリも何もないが、きれいに五度ずつずれている。クラヴィコードの音律が、聴いたことのない和声を作り出していた。あちこちでジョッキの割れる音。笑い声。叫声。フォークとナイフが皿をかちゃかちゃと鳴らす音が、波のように店内をあちらからこちらへと往復していく。客席に設けられたテーブルにはすでに葡萄酒の瓶が林立して、転がる音や割れる音。肉が何枚も重ねて盛りつけられた皿が、じゅうじゅうと音を上げながらどんどん運び込まれ、後から来た給仕がじゅわっじゅわっとソースをかけていく。音楽に合わせて唱和する客の数はどんどん増えていき、音の厚みを増していくと、ヴォールトの丸天井いっぱいに、たっぷりとした倍音を含んで響き渡った。ミロは時折目を閉じた。湯気とともに、肉の香ばしさがわきあがる。目の前のテーブルに並んだ葡萄酒の瓶はどんどん空になっていき、ますますゴロゴロと転がり、がちゃがちゃとぶつかり、割れに割れる。ひそひそと品評に耽っていた客たちのささやき声は、すでに、ヴェノン=ポール・ボーヴィリエの正体について賭け事を始めているようだ。隣のテーブルでは派手な色のベストとタイを身につけた、街の顔役らしきならず者が、部下達と妾らしき女性をはべらして、豪快な笑いを響かせている。隣席の男は、甲高い声で、向こう隣に座った青いドレスの婦人をしきりに口説いていたが、それと同時にこちらのジョッキの減り加減を常に気にかけ、盛んに話しかけてくる。女中のジーナは葡萄酒の瓶を片手に給仕しながら、音楽に合わせてひとり踊り出す。
バッハがついに立ち上がって、両手を広げ、楽団をみずから指揮し始めた。
ミロの前にブドウ色の世界が現出する! クラヴィコードの和声が輝きを増す。客席にちらばった素人の歌い手たちが、対位法的に、主旋律と対旋律に別れ、それぞれ独立したメロディを歌い上げているかと思えば、ある瞬間、バッハの腕の振りに合わせて、一つの渾然とした和声となり、そして、またそれぞれの旋律に分かれる。ミロは感激した。なんという緻密さ。なんというあやういバランス。ミロは、伴奏のコード進行の方舟に揺られて、旋律が歌い上げるだけの、現代の音楽の狭小さを思った。コードとは、和声とは、雑多で独立した旋律の、奇跡的な融合なのだ。旋律と旋律の積み重なりだけでコードが進行していくというルネサンス音楽の凄さをまざまざと実感した。女中や客たちは自由に身体をくねらせ、シンバルが鳴るたびに、飛び跳ねる。バッハの手に合わせて打ち鳴らされる太鼓がどんどんテンポを速めていくと、次第にジーナは我を忘れていき恍惚とした状態に。ミロの首元に天衣のように絡みついたかと思えば、風のように去って、ヴェノンの腕の中で収まり、またすり抜けていく。バッハの両手がどんどん伸びていき、会場全体を包み込みように振られる。ジーナが忘我の境地で跳ね回る姿は、いつしか酒神ディオニュソスにメタモルフォーゼし、ミロはその姿に心を奪われる。踊り狂うジーナの横から、料理長が新しい大皿をもって登場。熊肉の切り分けを面前で行うが、竪琴と笛の音に合わせて、身体を揺さぶる。踊りながら切り分ける手付きに会場のため息が漏れる。給仕たちもダンスを踊るように飛び回り、歌をうたいながら皿を運び、葡萄酒を注いで回る。場の空気は、霊的熱狂に達しつつある。ミロは恍惚とともに、次第に不安になっていった。この熱狂的な音楽に通底するのは、バッハの人間愛だ。雑多な旋律の一本一本を、それぞれ独立したまま活かしながら、おおらかなあの両手で、数本の旋律の束としてそっとひとくくりにし、厳密な和声法で計画されたかのごとくに響かせる。ミロの不安と絶望はいや増しに増していった。
本当に、バッハを抹殺するのか。
料理長が叫ぶ。
「メインディッシュの登場でございます! 今宵は、猪を召し上がっていただきましょう!」
バッハが指揮の手を休めて、料理長にすかさず問い返す。
「どこの猪かね? ブロッケンかね?」
「いえ。ピレネー山脈でございます。この猪はピレネーの山中で生け捕りにした元気な野生のものを、まずは三日三晩断食させまして、背と腹がくっつきそうなくらいお腹をすかせた猪に、今度は山芋をたんまりと与えるのです。それも最上級の糖度を誇るロワール渓谷のものです。かつてカトリーヌ・ド・メディシスの舌を唸らせたという、この山芋だけを一週間大量に与え続け、山芋で腹がはち切れそうになったタイミングで締めるというわけです」
ヴェノンが手を叩いた。
「すばらしい! どこの名物ですかな?」
料理長が言う。
「ギリシャです。酒神、ディオニュソス神も愛好していたという伝説がありまして」
バッハが言う。
「山羊肉なら、なお趣向が凝っていたでしょうな!」
料理長がうなずく。出版社の男が口をはさむ。
「話を聴いているだけで涎が出て来ます。要するに、今いただけるのは、その猪の腸ですね?」
料理長はうれしそうに言った。
「お察しの通りです。甘い甘い山芋がたっぷり詰まった猪の腸は、天然にして、極上の腸詰めソーセージなのです。これに塩・胡椒・ハーブをすりこみトロ火でじっくり焼き上げたものがこちらです」
料理長は、皿を4枚給仕する。
「輪切りにして断面をみれば、山芋の肉巻きのように見えるでしょう。ソースはまた手が込んでおりまして・・・・・・」
バッハが叫んだ。
「説明はあとだ!」
そして、フォークで、棒状のものを、そのまま突き刺しパクついた。もぐもぐと噛みしめながら言った。
「こいつはすばらしい! みなさんも熱いうちに食べちまってください。こんなもん、一生のうちに何度も食べられるもんじゃないですよ! いや、こんなにおいしいものを食べられるなんて、私は本当に死んでしまっているんでしょうか」
ヴェノンは、にやりと笑って言った。
「まだ、生きておられますよ。楽長さま」
出版社の男も、ひとつ口に入れて言った。
「バッハ様、これはもう、死んでも文句は言えないお味ですぞ。ほお! なんとも濃厚で芳醇で馥郁で深遠な味だ。これがたとえ馬の糞であったとしても、わしは文句は言わぬ! 馬糞バンザイだ!」
ヴェノンは、小声で言った。
「馬糞なもんか。こういうときは、ただ、うまいって言えばいいんですよ」
ミロはおもわず叫んだ。
「いい匂いだ!」
ヴェノンがミロに冷ややかに言った。
「〈いい匂い〉じゃだめだ。お前は何も意識できていない。感覚では理解できている。それを理知的に認識することが大切なのだ」
バッハが口をはさんだ。
「いやいや、そうお叱りになりますな。実は、まさにそれこそ大切なことで、私めも、弟子たちに毎日毎日言い聞かせていることでしてな」
ヴェノンはミロにまた目配せをしたが、ミロは気づかなかった。ミロは二人から言われて、すねた声を出した。
「具体的に言ってくださいよ」
バッハはおおらかに笑いながら言った。
「はっはっは。いえいえ、これは、数的に意識することが大事なのです。数学こそが、われわれが、魔術の時代から、科学の力によってようやく抜け出られる、ただ一つの道具です。数による認識です。さいきんの若者はそれを軽視しています。嘆かわしいことです」
ヴェノンが目を光らせて言った。
「それは、作曲におけるお話ですかな?」
ヴェノンのセリフをきいたミロは、急に正気に戻った気がした。ヴェノンはやはり、実行するつもりなのだ。バッハは、猪肉をナイフで指し示しながら言った。
「そのとおりです。たとえば、この猪肉のソーセージがあります」
皿の上に棒状の腸詰めソーセージがある。長さは20センチほどもある。まだ湯気を発していて、ソースがとろりとかかっている。
「たとえば、こういうことなのです。私が若いものたちに、口をすっぱくして言っているのは。この猪肉ソーセージが1本の弦だとします。いかにもおいしそうな弦ですが。まあ、リュートの弦だって、羊の腸を乾かして伸ばしたものですから、この猪の腸を弦に見立てることもあながち無理はありますまい」
ヴェノンは、もぐもぐと口を動かしながら、「悪くない喩えだ」と言った。バッハは続けた。
「これの1本の弦を鳴らすと、ドの音が鳴るとしましょう」
そういって、バッハは、そのソーセージにナイフとフォークを当てると、よく焼けてプリッとした腸詰めの表皮がぎりぎりまでナイフの刃を押し返していたが、ついに肉汁とほとばしらせた。「こりゃすごい」バッハは、きれいに三等分に切り分けた。断面から流れ出る汁に脂がてらてらと光り、いかにもうまそうにさらけ出されると、甘そうな山芋が詰まっているのが見えた。バッハはフォークを突き刺して、一口でたいらげた。
「うまい」
「でしょうな」ヴェノンもまた、残りのソーセージにフォークを一突きし、口へ放り込んだ。
「たまらん」バッハは続けた。
「じゃあ、このドが鳴る弦を、長さちょうど五等分に切って、この一部分の弦だけをまたピンと張ると」
そう言って、別のソーセージをもってきて、五等分に切り始めた。きれいに切り分けられた一つにフォークを差して言った。
「さて、これは、何の音が出ますかな?」
ミロは答えた。「ミの音です」
バッハは驚いて言った。
「正解です。どうぞ召し上がれ」ミロは、嬉しそうに五分の1の輪切りを口にした。あふれる肉汁と芋の甘みがすごい。
「ぼっちゃん、音楽の素養がおありですかな? 勘だとしたら素晴らしい。では、実際にお聞かせしてみましょう」
バッハは、朗々とした声で、ミの音を発声した。ヴェノンも応じて、ユニゾンで唱和した。
「意外に低いですな」
ヴェノンが言った。ミロもそう思った。しかし、ミロには、不思議なくらい調和するミだった。ミロの好きな「低めのミ」だ。
「そのとおり。低いんです。でもこれが純正のミの音。自然界に存在する、倍音としての長三度なのです。1/5音とは、純正な長三度で響きます。純正な音とは、自然倍音です。神が与え給うた天上のハーモニーです。私は毎日それを神に感謝してからオルガンに向かっています。2/3音は完全五度。この二つの比率の掛け合わせで、全ての音階を取り出すことが出来ます。美しく、単純な整数の比。自然界に存在する音、それだけで出来上がっているのが、私達の純正な音楽世界です。これを犯すことは、神への冒涜なのです」
ヴェノンは、投げ捨てるように言った。
「よく言うぜ。平均律のミは、もっと高いはずだ」
バッハはかちゃちゃと動かしていた手をとめて、ヴェノンをじっと見た。出版社の男と、目を合わせた。そして、ふふふふと、笑い始めた。おかしくてたまらないという調子で、長いこと笑っていた。出版社の男も合わせて笑った。バッハは言った。
「よくご存知で。あなたのおっしゃることは、こういうことですね」
別の皿にあった長いソーセージを自分の皿に移し、それをナイフとフォークで切り分け始めた。まずは二等分。次に、それらを更に二等分。その破片をまた三等分ずつに細かく切り分けた。ほとんど同じ大きさの輪切り腸詰め肉が、12個。
「まあ、はじっこは丸くなっていますが、お許しください。12等分です。これが、いわゆる、十二平均律です。隣り合った音は、すべて同じ音の幅。同じ比率です」
ミロの不安はだんだん高まってきた。胸が高鳴る。ヴェノンはまもなく動く。バッハは、目をうるませて、熱っぽく言った。
「平均律はどんな転調、どんな縁遠い転調にも自由自在に対応できる。魅惑的な音律です」
ヴェノンは、冷ややかに言った。
「楽長様は、平均律の信奉者でいらっしゃいますか」
「と、言いますと?」
ヴェノンは、身を乗り出した。ミロは身を固くして見守る。
「平均律は、12音全ての音が狂っていることはご存知ですよね。その上で、信奉されるわけですね?」
バッハはこのような議論に慣れているのか、落ち着き払っている。ナイフとフォークを手に構え直すと、にっこり笑った。ミロは、二人の議論が衝突しないか、ハラハラして見守った。できれば、ヴェノンがバッハの高説に納得してくたらいいのに、とさえ思っていた。バッハは言った。
「おっしゃることはわかります。じゃあ、それについてもお話しましょう。話をもとに戻しますよ。1メートルのソーセージを、いや、弦を、今度は、3等分に切ったとします。これをまたピンと張ると、何の音が出ますか? さきほど申しましたね。完全五度に当たる音が鳴ります。つまり、ソの音です。高いほうのソです。いいですか、ドとソの音程は、ド・レ・ミ・ファ・ソで、五度あります。これが完全5度です。アルファベットでいえば、CDEFGです。つまり、弦を3等分すると、五度上の音になる。3等分で5度です。ここまではいいですか? ええ、とお名前は」
ミロは言った。「ミロです。わかります」
バッハは言った。「よろしい。では、この、ソの音が鳴る弦を、更に、三等分したら、何の音が出る?」
バッハは、さらに薄切りに、一つの輪切りソーセージをスライスして見せた。ミロは、ヴェノンの右手の動きが気になってしょうがない。
「ソの五度上の音です。ソラシドレ、で、レ=Dですね」
「わかってきたね」バッハの声は、低くやわらかく、低音の木管楽器のようだ。その声で、まるで息子に言って聞かせるように話す。ヴェノンは、スーツの内ポケットにそろりそろりと、右手を差し入れた。そして、背筋をまるめた。ミロは、ヴェノンとバッハを交互に見た。バッハは言う。
「では、どんどん弦を三等分して、完全五度ずつ上げていくと、どんな音が出てくるか並べてみるよ。いや、もうソーセージをこれ以上薄く切り分ける技術は私にはないがね。ド→ソ→レ→ラ→ミ→シ→ファ♯→ド♯→ソ♯→レ♯→ラ♯→ファ→ド」
「ドに戻りました」
ミロは、答えながら、額に汗が流れるのを感じた。バッハはヴェノンに向かって言った。
「羊肉に傷つけられた、十二の傷です。そして、これが十二の音階の成り立ちなのです。すべて3等分、1/3という分数だけで作る。最初に考えられた音律です。1/3を12回乗じる。音階はこうやって作られていましてね! ねえ! ボーヴィリエ様!」
ヴェノンは冷淡に黙っている。
クロルが口をはさむ。
「そういうことでしたか!」
「そうじゃない」
ヴェノンが口を挟んだ。顔を歪めている。右手は内ポケットに差し入れられたままだ。
「そうじゃない。これはあくまでピュタゴラス音律だ。純正じゃない。これではミの音がハモらない。楽長さんも、1周してCに戻るっていうのが詭弁なのは知ってるはずだ。3を12乗したって、何乗したって、2の倍数にはならない」
ここで言葉を切った。
「しかも、あんたは、この音律を支持していない」
バッハは驚いた表情をおおげさにみせて、言葉を継いだ。
「さすがです、ボーヴィリエ様。あなたは、やはり真実の哲学者だ。ミをきれいに響かせるために、ミが1/5倍音であることが発見されるのには、ピュタゴラスから、1600年もかかりました。〈純正律〉の発見です! それまでは、教会では三度のハモリは禁じられていたほどで…」
ヴェノンが吐き捨てるように言った。
「黙れ。あんたは、純正律だって、支持していない!」
ミロは、ヴェノンの怒りを間近に感じて、おもわずうつむいた。しかし、バッハは平然と続けた。
「そうやって、簡単な整数比だけで12音階すべての音が表せるようになりました。しかし、ここからが、本当の戦いの始まりでした。それにしても、このソーセージは、山芋の甘さもさることながら、ソースも素晴らしい。」バッハはまた、ナイフとフォークでソーセージを切り始めた。バッハは、ソーセージの一切れ、いかにもうまそうにたいらげると、こう言った。「われわれはそれだけでは満足できなくなりました」
ヴェノンは言った。
「そうさ。それで何をした? お前さんは天から転げ落ちたのさ。神々の数的秩序では、転調に対応できなかった。あんたは、それで人道に落ちた。悪魔の音律に手を染めたのさ。あんたは。1600年かけ、じわじわと醸成されてきた天与の音律、天与の和声に背を向け、作曲家個人の感情を音楽に表現することを優先した」
バッハは目を丸くした。そして、また口元に笑みを取り戻すと、おおげさに驚いた口調を装って言った。
「悪魔の音律など、とんでもない! 純正律は、たしかに、ハ長調のドとミの幅と、ヘ長調のドとミの幅が違うとか、そういう問題がありました。ある種の調に転調すると、ウルフと呼ばれるうなりが生じてしまう。大きなパイプオルガンでウルフが出たときには、聴く者の頭を割り、教会のヴォールト天井まで破壊するんじゃないかという程です。これを指して、ある学者は、〈悪魔の響き〉だと言った。神は純正の音律の中に、悪魔の子をすでに宿していたのだと。それがウルフです」
ヴェノンは、ミロにちらっと目をやった。ミロはうなずいた。泥女の遠吠えを思い出した。そして、バッハは目を落とし、静かにつけ加えた。
「わたしは、それを避けようとしただけなのです」
出版社の男が、我慢出来ないという感じで立ち上がった。
「今回のバッハ様の偉業はそこにあるんですよ! ここにある原稿こそが」
ヴェノンは冷ややかに言った。
「そこまでだ。その原稿とやらを、渡してもらおう」
ヴェノンは、なんと堂々と、銃をテーブルの上に出して、バッハの胸に狙いを定めていた。この時代、もちろん、銃なんて存在しない。バッハも周りの客たちも、ヴェノンの銃に特別の注意を払うものは、一人もいなかった。ただ、ミロひとりが怯えていたのである。
バッハは、口をもぐもぐさせながら、首を傾げた。「それはどういう…」
ヴェノンは言った。
「バッハはそんな原稿など書かなかった。『平均律クラヴィーア』など、永遠に書かれなかったのだ。おれが葬ってやるから、渡しな」
クロルがおおげさな風に驚いた。
「なんであんた、その題名を! これは弊社秘蔵の企画で、よそさまには一切隠密に進めてきたはずなんです。それをどうして! あああ、もしかして、バッハ様、あなたって人は、人様におもらしに」
ヴェノンは言った。
「うるさい」
その言葉とほとんど同時に銃は放たれてしまった。クロルはシルエットだけになり、細かい立方体の形をした光の粒に分解されてしまった。そして、ミロが瞬き一つする間にすっかり消失した。女中のジーナが叫び声をあげた。一部始終を見てしまったのだ。ヴェノンは、振り返るとジーナをガンマンのように打った。ジーナの叫び声はステレオの音を切ったみたいに消え、ジーナも消失してしまった。客席は音楽と喧騒とでやかましかったが、さすがに静かになった。そして、ひと呼吸おいて客が騒ぎ出した。ヴェノンは面倒そうに立ち上がると、バッハの胸にもう一度狙いとつけた。
「騒ぎになってしまったが、わるく思わないでくれ。バッハさまよ。これで、音楽史が、正常に戻る」
銃声が轟いた。ミロは、バッハを突き飛ばした。
銃は、バッハのカバンだけを射止め、カバンは中にある原稿ごと光の立方体に分解し、消失してしまった。
客席はパニックとなった。てんでに逃げ出そうとし、扉へ殺到しようとし、押し合いへし合いの大混乱。大きな物音がいくつも続く。客に交じっていた医師が応対を始めたが、すでに彼の元に何人かの酔客や卒倒した女たちまでが担ぎこまれ、列をなし始めている。看護を手伝う女も三四人現れ、いまや野戦病院の趣。その間を縫うように、売り子が歩きはじめた。警察がぞろぞろっと入ってきたかと思いきや、街の顔役たちの間に紛れて、立ったままそれぞれ葡萄酒をあおっている。
ミロはバッハの頭をつかんで伏せさせていた。バッハは指についたソースをなめていた。雑踏にまぎれて、混乱の客たちの木靴や革ブーツがひしめく足元を這っていき、出口あたりまで来た。バッハの手をとると、外に飛び出した。店の中では、まだヴェノンの銃声が響いていた。
二人は裏口へ周り、隣の家の裏階段を登ると、屋根伝いに逃げていった。丘の向こうがみはらせた。ウソみたいに穏やかな緑色が続いている。バッハは息を切らせながら言った。
「クロルくんは死んだのかね?」
「お連れの出版社の方ですか?」ミロは屋根から屋根に飛びながら言った。
「そうだ。足元を見る嫌なやつだったが、死ぬほど悪い人間ではなかった」
「いえ、死んでいません。音楽史から消える、というだけ。だそうです。よくわかりませんが」
「ほう。では、あの大男は、私も、音楽史から抹殺しようとしたというわけか」
「そのとおりです」
「光栄だな。ということは、私は、後世になんらかの名を残すということだったのだ」
屋根から屋根に移っているうちに、建物が途切れるところまで行き着いてしまった。二人は階段を滑り降りると、下男の部屋らしきところへ飛び込んだ。薄暗い部屋に中には誰もいなかった。じゃがいもとニンニクが泥のまま詰め込まれた木箱が、山のように積まれている。箱の陰に二人は座った。
「ここだってじきに追いつかれるんじゃないかい?」バッハは他人事のように言った。
「おっしゃるとおりです」
ミロは、覚悟を決めると、懐からタバコの箱を取り出した。
「トリップするしか、道はありません」青いタバコだ。ミロはヴェノンの言葉を思い出しながら、中から青の巻紙で巻かれたタバコを2本取り出した。バッハに手渡すと、今度はマッチ箱を取り出し、擦り始めた。汗で湿ってしまったのか、なかなか火がつかない。
「バッハさん、一つ質問があります」
「なんでしょう」バッハは落ち着いている。ミロは、マッチを擦りながら言った。
「あなたは、平均律の世界を作り出そうとしたのでしょうか? 平均律は狂っています」
「平均律はたしかに狂っている。でも、それは理論的な数値だ。オクターブを12等分すれば、一つの音の幅は、2の1/12乗という無理数になる。無理数の音は、自然界に存在せず、お前さんが言うように、たしかに、狂っている。すべての音が純正から外れている」
「やっぱり、狂っている?」
「ああ。平均律は狂っている」
ミロは、それを聴いて、マッチの手を止め、泣き出した。
「じゃあ、なんで、平均律なんてものを広めたんです!? ぼくは、そのせいで、大変に苦しむことになりました。ぼくは未来から来ました。あなたの広めた平均律が、世界中に広まりました。そのせいで、ぼくは、平均律の無理数で出来た、人工の、濁った音楽世界で、暮らす事になったんです! しかもしかも」
「少年よ、落ち着いて」バッハが、ミロの背中をさすった。外で物音がきこえる。下男と下女が戸を叩き始めた。
「誰か! 誰か要るのかい?」
「子供が泣いてるぞ。おいお前、ご主人さまを呼べ!」
ミロは声を抑えて言ったが、泣きじゃくっていた。
「ぼくの周りじゃ、もう誰も、それが狂ってることに、気づかないんですよ! その中でぼくは一人で…」ミロはバッハの胸で大泣きした。しゃくりあげていると、バッハはミロの頭をなでながら言った。
「無理数の平均律だなんて、苦しい時代になってるんだな」
「ぼく一人が、狂ってるんだと思っていました。世界のほうが狂ってると教えてくれたのは、あのヴェノンでした。でも、実際ここにきてみたら、バッハさんの音楽は、ちっとも狂っていませんでした。それどころか、聴いたことのない、天上の和声でした」
「ぼうや」バッハは頭をなでながら、続けた。
「平均律は、数学的に完全な、つまり、無理数にこだわる必要はないんだよ。私が、書いた書物も、無理数を前提にしたわけじゃない。そんな簡単で単純な話じゃない。ヴェルクマイスターやラモーのことは知ってるかね? 彼ら理論家や、私の弟子たちが私の研究を継いでくれる。私の音律は、〈程よく調律した〉音律というだけだ。逆にいえば、全体的には〈程よく狂っている〉のだよ」
ミロがぴくりと体を震わせた。涙が止まった。
「つまり、一度と三度、五度など、大事な音は純正のままで残している。その代わり、他の音を少しずつ緩めるんだ。整数比をうまく使ってね。そうやることで、ほとんど平均律に近いくらいのところまで、12等分になるんだよ。根気はいるがね、できないことではない。こうやって、転調しても、ウルフが出ないように工夫したんだ。私は、これを編みだすのに、30年もかかってしまった」
ミロは泣きはらした顔を上げた。
「じゃあ、バッハさんの理想は、平均律じゃないってこと?」
バッハは深くうなずいた。
「そうだ。数学的に無理数レベルで均等な平均律なら、全ての音がそれぞれ担っている役割というものを失う。家族というものにもいろんな形態があるが、まあ。父と母くらいは居たっていいだろう。わしも二回結婚したがな」そう言ってバッハはいたずらっぽく笑った。ミロは起き上がった。もう一度マッチを擦ると、今度は一発で火が点いた。
「ミロ、頭を柔らかく、ね」
「バッハさん、そのタバコを口に咥えてください。詳しい説明は省きますが、あなたを助けたいと、強く思っています。一か八か、二人でトリップしましょう。何が起こるかわかりませんが、それしか道が有りません!」
バッハはうなずき、言われるがままにタバコを加えた。ミロもタバコを咥えると、それぞれに点火した。そして、ポケットからあのコースターを取り出した。〈1940.3.31Cherokee〉となぐり書きされている。ミロは懐かしく思い出した。
「ゆっくり吸い込んでください。〈バードの夜〉にお連れします」
4
中華食堂やストリップ劇場のネオンがちかちかと光っている。ミロはニューヨークのあの通りに戻ってきた。ドアマンとポン引きがひしめいていた。ミロは、電信柱にもたれ、タバコを咥えた状態で、眠りから醒めた。あたりを見渡すと使命感を思い出した。立ち上がり、バッハの姿を探した。しばらく通りに沿って行ったり来たりしたものの、どの電信柱にも姿はない。
通りは、すっかり景色が様変わりしていた。
ダンスルームがいくつか並んでいるだけで、あの緑色や紺色のジャズクラブの突き出し屋根がない。中華食堂とストリップ劇場のネオンは相変わらずだが、通りにひしめいていた、あの金のない若手の黒人ミュージシャンたちの姿がない。ミロは、ミントンズ・プレイハウスを探した。赤い制帽のドアマンが直立不動で立っている。だが、突き出し屋根の様子が、緑色だったのに、水色にかわっていて、おまけに見覚えのない形になっている。店の場所はたしかにここなのだが、とミロはキョロキョロ見渡すが、屋根には〈ブルーズメン・ボールルーム〉と書かれている。
ドアマンが立ちはだかって、こう言った。
「ぼうや、ここは子供の来るところじゃないぜ」
「ミントンズ・プレイハウスは、ここですか?」
ドアマンは、腕を組むと鼻を鳴らして言った。
「ここは、ブルーズメン・ボールルーム。紳士淑女が、魅惑のディナーをともにしながら、生演奏のブルーズバンドに合わせて、踊るところさ」
「ブルーズですか…。それはジャズですか?」
「ジャズ?? 黒人たちがよく言ってる、〈セックス〉のことかい。ジャズるってのは」ミロは食い下がって言った。
「ジャズはどこで聞けますか? もっと大きな劇場ですか? ダンスホールですか? ぼくはチャーリー・パーカーに会いたいんです」
ドアマンは肩をすくめたあと、子供をあやすように屈んだ。
「わけのわからんぼうやだな。大きな劇場やダンスホールで聴けるのは、クラシック音楽。クラブで流行ってるのはブルーズか、リズム・アンド・ブルースさ。なにより、勢いがあるのはクラシック音楽さ。新進気鋭の作曲家たちによって、大衆向けのムーディーなのが、どんどん発表された。おれが好きなのは、シェーンベルクの『モーツァルトメドレー』さ。仕事中も口ずさんでしまう」
ミロは思わず吹き出した。
「シェーンベルクがモーツァルトのメドレー? シェーンベルクは難解な、実験音楽のモダニストだよ。それも十二音技法の…」そこまで言って、ミロは黙ってしまった。ドアマンは、おい?おい?と声をかけてくるが、思考がどんどん加速する。
ミロは手を額にあてた。
『平均律クラヴィーア楽曲集』は、ヴェノンによって撃たれた。永遠に消失してしまったのだ。
バッハが後世に伝えようとした、あの書物が存在しない世界に戻ってきているのである。平均律は普及しなかったし、平均律はクラシック音楽を堕落させることも、終焉させることも、あるいは、現代音楽として、小難しくさせることもしなかった。平均律は死んだのだ。いや、生まれる前に阻止したのだ。シェーンベルクの十二音技法も、平均律を前提とした理論だから生まれることもなかったが、まさか大衆音楽をやっているとは…。平均律の感染力は白人による西洋音楽を世界中に席巻させたが、それもまた阻止されたということだ。
ブルーズだって? ふふ。ミロは合点がいき、大きくうなずいた。ドアマンはまだ何か言っているが、ミロは背を向けた。なるほど、アメリカ移民の黒人音楽が、平均律を擁する西洋音楽と出会って生まれたのがジャズだとしたら、それもまた生まれなかったということか。ブルーズはブルーズとして、白人音楽と交じることなく、ミルクなしのブラックコーヒーのように、より民族性の濃い音楽文化として、こうやって続いているのである。ジャズは、チャーリー・パーカーが現れる前から、そもそも、バッハ世界と黒人音楽の、幸福な融合だった。だからこそ、平均律の絶滅と運命をともにした…。
成功したんですよね、ヴェノンさん。
バップは誕生しなかった。それどころか、ジャズすら、生まれませんでしたよ。ミロは、自嘲気味に笑った。
「おい、聴いてんのか! 小僧! チャーリー・パーカーなら、今日出るって!」
ドアマンがミロの肩にどんを手をおいて叫んだ。
「チャーリー・パーカーが? バードが?」
「バードか、なにか知らんが、チャーリー・パーカーっていう演奏家なら、今夜のプレイリストに入っているよ。ほら、その立て看板を見ろよ」
ミロは振り返ると、たしかに、その名が記されている! チャーリー・パーカーがブルーズメン? いくらジャズがなくなったからって。いや、同姓同名かもしれない。ありふれた名前だ。きっとそうだろう。ミロは、ドアマンに別れを告げて、立ち去ろうとした。そのとき、もう一度立て看板の表記が目に飛び込んできた。
Cherokee/KansasCityBLUES/etc
ミロは、ポケットからコースターを取り出した。
1940.3.31.Cherokee
ドアマンが、他店のほうへフラフラと離れていくのを確認して、ミロは、〈ブルーズメン・ボールルーム〉の店の脇にある地下への階段に飛び込み、一気に駆け下りた。
ドラムとベースの音が聞こえてくる。ブルーズにしては、テンポが早い。ミロの胸が高鳴る。ハイハットの刻みは16分音符だ。階段下にはフロアに通じるドアがあった。ミロはドーンと両手で押し開けた。ミロはサックス奏者の姿を探した。客はいないがらんとしたダンスホールには、革張りのソファが設えられた客席がずらっと並び、その上にシャンデリアがいくつもぶら下がっている。ジャズハウスとは似ても似つかない高級店だ。踊るためのホールがある。ダンススペースの奥にあるステージで、演奏家たちによるリハーサルが始まっていた。さっきから聞こえていたドラムとベース、それにピアノだけのトリオだ。ピアノがテーマを弾き始める。楽譜を食い入るように見つめながら弾くあのスタイルは、今日いま初めてこの曲を弾いているかのような、たどたどしさだ。だが、選ばれる音色は心地いい。ミロは、ピアノの旋律と和音をききながら、平均律が消失した世界にいま自分が生きていることを実感した。黄緑色の芳香が床から立ちのぼったかとおもうと、天井いっぱいに充満した。ミロは胸いっぱいにそれを吸い込んだ。うなりも、ウルフも、ここにはない。
不等分音律だ。
懐かしい。あの、うちにあるアップライトピアノの音だ。黄緑色の光に包まれて父が現れた。肩の上にはミロを載せている。父がピアノに近づくと、ステージのグランドピアノがいつのまにか、部屋にあったアップライトピアノに変わっている。父は私を肩に載せたまま、ドミソの和音を弾く。長三度の響きが渾然とした一つの単音のように調和する。父のアップライトピアノは、やっぱり狂っていなかったんだ。お父さん、ありがとう。母が父の後ろから現れて、二人はちょっとした連弾をする。転調するとね、ほら、うなりが出るが、それも楽しいんだ。父はそう言って笑っていた。父の和音の上で、母のメロディが小気味よく遊ぶ。父の和音が狂ってるときには、母の旋律は、より歌い上げるように響き、逆に和音が絶妙に調和しているときの母の旋律は、不安げに遊ぶ。二人は見つめ合い、肩の上で幼いミロが旋律に合わせて歌っている。どこかの和音が純正で合っていれば、必ず、どこかの和音にそのしわ寄せが来て狂いが出る。ぴったりな部分がぴったり過ぎると、狂っている部分は、より狂ってしまう。でも、それが自然。きっとそうだったんだ。このピアノは、その狂った和声の意外さや不安さを精妙に表現してくれる…。
その瞬間、ピアノから黄金の噴水が、天井に向かって吹き上げた。
ハープのようなスケール高速降下から、突如ピアノソロが始まったのである。リズムが、ほとんど倍速になった。地面が揺れ始める。ピアノの音が前に出てくると、黄金の小川が、天井をつたい、ホール全体に流れていく。甘露の雨粒のように、キラキラ光りながら客席にポタポタと落ちていく。圧倒的な多幸感に満ちた和声。和声に包まれた旋律。あるいは、旋律の束としての和声。音の粒の揃い方は、尋常じゃない。強弱という概念を知らない無垢のチェンバロ奏者が、いま初めてピアノを弾いているかのような、1音1音の立ち上がりのなんという輝き。
ミロは目をこらして、ステージをみた。照明で照らされる中に、初老のがっしりした体つきの男が、袖口の広がった妙な衣装で、鍵盤にほとんど顔がつきそうなくらいに体を折り曲げて、演奏している。
バッハだ。ヨハン・セバスチャン・バッハが、ちゃっかりピアニストと収まっていたのである。
テイク1が終わった。メンバーがバッハのもとへ集まって、喝采を浴びせた。支配人もステージにあがり、バッハの運指の素早さを盛んに褒めそやした。バッハはステージ上からミロに向けて手を振り、何か身振りで伝えようとしたが、支配人のゴーサインですぐテイク2が始まった。支配人は、ミロの席のほうに戻ってくると、素通りして、給仕長らしき男に興奮して言った。
「意外にうまいぜ」
支配人と給仕長の話では、サックス奏者の居所がわからずバンドが成立しないので困っていたので、あのピアニストの登場には本当に助かったということだった。ブルーズの解釈としては自由すぎるが、まれに見る達人であることには違いない、とのことで、このままどんどん客を入れようということでまとまった。「開店だ」演奏が続くなか、どやどやと客が入ってきた。ミロはボックス席から追い立てられたので、バーのスツールに居場所を求めた。カウンターにはテーブルチャージを払えない若者たちで込み始めていた。彼らはタバコに火をつけ、めいめいがバーボンソーダの入ったグラスを片手に、さかんにステージを指差し、今夜突然現れた謎の新人ピアニストについて、その素性や音楽性をしきりにコメントし合った。そして、テイク2が始まると、バーは噂を聞きつけたミュージシャンや、予約なしの客で急にひしめき合ってきた。「あれはブルーズなのか」「いや、スケールがそもそも違う」「コードは合ってるぜ。きっと」「あれは教会旋法っていうんだぜ。ミクソリディアンとリディアンの間を行き来してる」「わかったような口きくなよ、よくきいてみろ。あれは和声を分解しているだけだろ」「馬鹿か。左手と右手が、別の旋律をそれぞれ弾いてるだけだ。まるで、右手が2本あるみたいだぜ」「それなのに、和声進行はくずれない。曲どおりだ」「これはブルーズか?」「違うだろ。じゃあ、なんだ」「白人がやってるぜ」「こんな速弾き、きいたことねえや」
そのとき、入り口付近が急にざわつき始めたとおもったら、入り口あたりどんどん順に口をつぐみ始めた。誰かが現れた。おしゃべりで、空気の読めない輩は両手を広げて、まだにぎやかに音楽議論に明け暮れていたが、皆が道をあける中をゆっくり歩いていく男がアルト・サックスを演奏できるようにもっているのを見て、同様に黙ってしまった。
男は黒人だった。丸坊主に恰幅の良い図体はダブルのスーツに包まれている。バーにたむろしていた客たちが思わず息を呑んで黙り込んでしまったのは、その男がまっすぐ歩けないくらいに酔っ払っていて、どうやら流行りのドラッグの中毒症状も顔に出ていたからだ。男はフラフラとバーカウンターを支えにしながら、ゆっくりとステージのほうへ歩いていった。時折マウスピースを口に咥えようとするが、うまく口にはまらない。人混みが両側に開いていく中を一歩ずつたどたどしく歩く。自分の隣を通るとき、ミロは小さくつぶやいた。
「バードだ」
男はミュージシャンとしては無名だが、店に迷惑をかけるドラッグ中毒者としてはすっかり有名なようだった。この夜、彼がまともに演奏できると思っていた人間は店には一人もいなかった。ヴェノンは、ふふ、っと小さく笑ったあと、轟然と笑い始めた。その笑いはステージのドラムソロにかき消されたが、そばにいた男たちを驚かせるには十分なほど長く響いた。
バッハは、この短時間の間に、彼の時代には「フォルテピアノ」と呼ばれて誕生したばかりだった大きな黒塗りの鍵盤楽器に、もうすっかり慣れ親しみ、ますます流麗な運指を披露しはじめていた。指揮者のように、バンド全体に目を配りながらのあの演奏ぶりは、あの教会で、あの宿屋の居酒屋でのふるまいを彷彿とさせる。バッハは、楽譜の通りをなぞっていたが、ピアノの調律の絶妙さが、曲全体の和声進行に穏やかな潤いを与えている。のみならず、転調の際に現れる陽光の輝きは、ドミナントが織りなすトライトーンの終止形に最適な音律が選択されているからだろう。
そこに、バードがたどり着いた。演奏は続く。バードは、ステージによろよろと登ると、目を閉じたままゆらゆらと音楽に身を任せていた。それは、闖入者でしかなかった。演奏が止まらないことが不思議なほどだった。聴衆たちはサックスをもった男の一挙手一投足に注目し、いつ演奏者たちが怒って、彼をステージから追い出すのか、あるいは、支配人、あるいはステージ近くにいる客たちが、彼をつまみ出すのかと待ち構えた。曲は、テーマに戻ってきた。この〈Cherokee〉、テイク4は、あと12小節で終わる。ステージの真ん中では、サックスマンがうつむいて拍子をとっていた。丸刈りの頭頂を客席に見せて、小刻みにリズムにのっていた。ラスト4小節というところで男はマウスピースを咥えた。シャンデリアから降ってくる照明にアルト・サックスのキーボタンを金色に輝かせると、男はのけぞり、眉根を寄せた、あの顔を見せた。曲が終わる、その1拍前のことだ。
突如、アルト・サックスの野太いロングトーンが吹き鳴らされた。ドラムもベースもピアノも止まり、サックスだけが鳴っている。それはしばらく鳴って…やんだ。
聴衆もステージも唖然として押し黙った。痛いほどの沈黙がホール全体を包んだ。
「ぶほっ!」
またサックスが鳴った。「ぶほっぶほほほお」ミロは思った。こりゃだめだ、ぶち壊しだ。酔っ払いの闖入者を誰が掃除するのかと、あたりを見渡す者もいた。
「ぶほ、ぶほ」
ドラム奏者が止めようと立ち上がった。
そのときだ。
いきなり高速の流麗なフレージングが流れ出たのだ! 一息で4小節も吹ききってしまうと、そのままインプロビゼーションが始まった。なんというでかい音だ! 店のシャンデリアのガラス細工を揺らながらホール全体に広がり――しかも、なんともやわらかい音だ――旋律の降下とともにテーブルに降りてきては、並んだグラスとワインボトルの間を縫いながら、ホールの隅々にまで響き渡った。Cherokeeのコード進行に載せて、Cherokeeとはまったく異なった曲を拭いている。指のほうが先に動いているみたいに速い。ああ、心地よい。旋律がつぎつぎと和声として立ち上がる。メロディだけなのにコードがきこえる。それが緻密に進行していくが、倍速、ときには四倍速。ドラムがベードラをどん・どん・どん・どん・どん・どん・どん・どんと踏み鳴らし始める。
それに、なんというピッチコントロール。狂ってなんかいない、正確かつ、絶妙に調整された音律。旋律だけがきこえているのに、まるで、後ろでコードが並走しているように立ち上がる。ハイハットが入り、ますますテンポが上がる。ミロには草原の緑色が見え始めた。すると、ミロとステージの間に、2頭立ての馬車が走り始めた。馭者席には陽気な黒人が手綱を握って座り、鼻歌をハミングしている。ハミングと馬の足音が絡み合い、律動が複雑化する。そのとき、馭者が半立ちになって、ムチを奮った。12小節続くテーマの、ラスト4小節あたりから、高速インプロヴァイズが始まると、馬車の天井に止まっていた小鳥たちが次々と羽音をたてて飛び去った。32分音符の目まぐるしいメロディが、コード進行を倍速で細分化する。テーマらしきものが一周したところで、「ダムっっっっ!!」と、ドラム・ベース・ピアノが一斉に加わった。
曲が始まった。
ミロは総毛立つ思いがして、スツールから立ち上がった。
ここから、バードのインプロビゼーションは、さらにテンポをぐっと上げ、ドラムとベースの表情に焦りとも笑みともつかないものが浮かんだ。バードの旋律が、ピアノとギターのコード進行を分散和音へと分解しつつ、更に、和音の上にまた別の和音を、2階建て、3階建てに、建て増ししていく。それらの増築された和音こそが、バードの真骨頂だった。
これは…ミロが聴いてきたジャズの即興演奏とも、音選びが何かが違う。特定のスケールでもモードでもない。あくまで和音をなぞってる。でも、なんて複雑なんだ。三和音の上部に載せられる9度、11度、13度は、それだけで旋律を駆け上がりながら、まるで建て増すかのようにドミナントセブンスの新たな関係コードを構成する。和声の権化――まったくどうなってるんだ。ピアノとギターが緩やかに進行するコード展開の上で、バードは和声の増築を倍速、4倍速でせっせと行っていく。だが、その増築はあくまで旋律によって表現される。音階を駆け上がり、駆け下りるように見えて、じつのところ、建て増しされた、新たな関係コードの進行をなぞっているというわけか。こう分析してみることが馬鹿らしいほどに、そのメロディは美しい。風が吹く。葉音がする。枝々の間を風が縫っていくと、木漏れ日が波のように伝播する。それにしても、バードの反射神経はすごい。あのスピードで、転調を繰り返しながら、基音の変化にあわせて、平均律でない、不等分音律による音の幅に素早く調整しながら、絶妙な場所に音を配置していく。なんという音感だ。これこそが、即興による和声の建て増し、および、その、旋律による和声表現。
ミロは、頭の後ろに両手をやった。バードは生きていた。平均律なき音楽の世界にさえ、やはり、こつ然と現れたのだ。
バードはとろんとした目を更に細めてピアニストを振り返ると、バッハがうなずいた。バッハとバードは、ふたりとも顎でおなじ拍を大きな動作で取り始めたが、次のテーマが戻ってくるところで、二人は、ぴったりと息を合わせて、全く同じメロディで高速ユニゾンを開始した。
ミロの左右両側から、それぞれ二頭の龍が現れた。
並走して天空へと飛び去った。ホフマンのおとぎ話に出てきそうな、深い青色の龍と黄金の龍。長いたてがみと、宝石みたいな鱗が特徴だ。長い胴体をもつ青龍と金龍は、その身をぴたりと合わせて、ダンスホールを上へ下へと並走し、互いに振り落とすどころかそのスピード感に陶酔し、止まれば死ぬとでも思っているかのように猛々しく昇っていく。そして、ユニゾンが終わりメインのメロディがアルト・サックスの主旋律とピアノの対旋律に分かたれると、青龍の動きが金龍からは離脱しつつ、急激に速度を増し、独立して遊弋し始めた。サックスがこんなに速いフレージングを吹くなんて初めて聴いた。新しい和声をどんどん生み出しながら、それを高速で3度から9度、13度までなぞっていく。
だが、驚くべきは、ピアノの追走だ。ここからの金龍がまた圧巻の舞を魅せる。ピアノは、サックスと全く同じ符割りで、高速のフレージングを青龍の腹の下で、長三度、ときには完全5度の音程を保って、ぴったり同じラインを並走している! かと思うと、いつのまにか、たてがみ側へ回り込み、あるいは、大きく旋回して、軌道を別にし、各々が対称な円弧を描きながら、螺旋のように上昇していく。上昇の頂点で縄のように互いに巻き付きあった直後には、次第に反対方向へ体躯をずらしていって、ついには、ウロボロスのように互いの尾を追いかけ合う始末。青龍と金龍は、独立した旋律としてポリフォニーを演出しながら、どの瞬間を切り取っても和声的に調和している。
「バッハが神なら、バードはキリスト。ってのは良く言ったもんだ」
気づけば、隣にヴェノンが頬杖ついて座っていた。
「機能的和声法と、和声再構築の共演、か。バッハが、バードの転調スピードについていっているのは、バッハもまた即興演奏者としての天才だったということか」
足を組み、眉間には鋭いシワを寄せ、右手には銃を持ち、それでテーブルにコツコツと拍子をとっている。ミロは、体をこわばらせて、ヴェノンの表情を見た。
「お前、裏切ったな」
ミロは、精一杯の虚勢を張って、こう言い返した。
「いえ、自分の使命を果たしました」
ヴェノンは身を乗り出してきてゆっくりとこう言った。
「死にたいのかい」
「その銃では人は殺せません」
「誰がそう言った?」
ヴェノンは口を開けていやらしい笑いを浮かべた。舌の奥までが照明に光り、おぞましく光った。
ヴェノンは、胸からハンカチに包まれた三角形のものを取り出し、包みの中に手を差し入れると、ステージに向けた。
「ヴェノンさん!」
「お前は甘い。あれは、ただのピアノのうまいおっさんじゃねえ。単なる即興演奏や初見演奏の名手でもねえ。音楽の父、ヨハン・セバスチャン・バッハだ。やつが生まれるまでの数百年の音楽の歴史はやつ一人を生み出すために存在した、それほどの男だ。ルネサンスの最後に現れ、数学的緻密さで頂点を極めていたポリフォニーの時代を、誰も真似できねえ形で終わらせてしまい、近代音楽をたった一人で創始してしまったんだ。『平均律クラヴィーア』一冊を葬ったって安心はできねえぜ。やつの音楽性は、楽器とともにある。音律と調性とを極限まで汲み取り尽くしたものだ。やつが生きている限り、音楽が転調の自由さを求めて平均律に向かうのは必然なんだよ」
「それって、平均律の優位さを認めることになりませんか?」
「黙ってろ。すぐに終わる」
ヴェノンは、銃を構える右手に左手を添えた。じっとステージを見据えた。ミロは、息を呑んで、見守った。その瞬間、ミロには音楽が聞こえなくなった。
ヴェノンはステージに向かって、叫んだ。
「おい! バード! 今のはなんだ! こりゃ進化したジャズか?」
ステージでは、ドラム・ソロに入り、バードはマウスピースの調子を確かめているところだった。酔っ払いらしく、またゆらゆらしている。バードは、ヴェノンに向き直り、にやにやしがら、うつろにこう言った。
「ジャズって…なんだ? それに…今のはもう忘れたさ。良かったのなら、また別のをやるよ…なあ?」
そう言って、転びそうによろけながら、バッハを振り返った。バッハもまた伴奏の手をとめずに声を上げた。
「音楽は進化しない。波のように変遷するだけだ。ある日新しいものが現れて消え去る。だがまた、生まれる」
ミロはヴェノンの顔を見た。ヴェノンもまた、眼前の共演に魅了されているのは明らかだった。ヴェノンはいつのまにか銃を仕舞っていた。
支配人の黒人が、カウンターのほうに戻ってきて、ミロとヴェノンのほうに近づいてきた。カウンターバーにどんと手をついて言った。
「あのピアニストはあなた方のご友人かい? 今日はピアニストが仮病かヤクかで、トンズラしやがったんで…まったく助かったよ。サックスもあの状態だからよ。あいつら、薬のせいで次から次へと穴をあけやがって…ったく。あのピアノおっさんも、リハの最中に飛び入りしてくるからどんなもんかと思ったが、めちゃくちゃ弾けるじゃねえか。ありゃいったい誰だ?」
「バッハだ」
「え?」
「いや、バップだ。バップでいい。おれが名付けた」
ミロはそれを聴いて、こうつぶやいた。
「バップは誕生した」おもわずニヤける。
演奏は、また頭に戻ってきた。ドラムがベースドラムとハイハットのテンポをますます上げる。下支えするランニングベースは限界まで速くなってきた。激しいビートの中で口を開けっ放しの聴衆たちの興奮も頂点を迎えようとしていたところで、バードとバッハの、二人同時即興演奏がふたたび始まる。バッハの通奏低音は、水牛の大移動のように雄々しく駆け上がり、その上でチャーリー・パーカーの即興演奏が、まるで鳥の羽音のような旋律を紡ぐ。ヴェノンは、ミロにささやいた。
「なあ、ミロ。おれは間違っていたのか」
ミロは首を振って答えない。目も合わせずにステージを見ている。
「おれはこれまでたくさんの人間を消失させてきた。ついに、平均律だって消失させたさ。その結果がこれさ。お前はどう思う。この音楽を」
「ハーモニーの調和。でもそれだけじゃない。すごくうなりが出てる。狂っているところの、狂い方がすごい。とくに、いくつかの転調のところで。そこでは、わんわんと〈ウルフ〉が吠えて、ぎょっとする。でも、それが、妙な不安を掻き立てられて、ぐっと惹き込まれる。なぜだろう…」
「二人でやってるからだろ」
「うん。バードとバッハで、絶妙に補完し合っている。かっこいい」
「そうだな。狂いの中にしかない美がある」
ヴェノンは、しばらく前から、銃の先をこめかみにあて、トントンとリズムをとっていたが、その目は閉じられていた。ミロは、それを横目で見ながら、言いしれぬ興奮と、説明できない絶望感に胸を焦がしていた。何かが次々と生まれているというのに、もうパーティーが終わってしまうこともわかっていた。ヴェノンは、まさに今にも眠りそうな、全く充足した表情だった。ミロはステージに目を戻した。ダンスホールには、支配人と自分たち、それに演奏者の姿すらも見えなくなり、もはや誰もいなかった。音楽だけがここにあった。だが、その音楽も、ここにだけ存在し、きっと、すぐに消え去ってしまう。もうすぐ曲が終わる。ますます音圧が増す。アルト・サックスのあたたかい中低音の音階の上昇に合わせて、氷の一粒一粒を落とすようにピアノが高音をコツン、コツン、コツン、コツンと鳴らす。ヴェノンの銃口もそれに合わせて、コツン、コツンと振られている。ミロの首もリズムを打って激しく前後する。ラスト。アルト・サックスのロングトーンがおおらかに伸ばされていく。ピアノのスケール、ベース・ドラムのリフが暴れだす。ひと呼吸のすきまの直後、ドラム、ベース、ピアノ、アルト・サックスが、一斉にのけぞり、一撃を合わせる。ヴェノンも合わせて、引き金を引いた。
5
ミロは、早起きし、部屋で古びたアップライトピアノに向かっていた。前面の開口部をあけて、調律していた。左手では、キーを鳴らし続ける。長く響かせて外では、鳥が鳴いている。母は隣の部屋でまだ眠っている。姉は昨夜からまた出かけていて、まだ帰っていない。陽光が部屋に差しているが、部屋の中はまだ薄暗い。いくつかの和音に旋律を合わせてポロポロと弾いていると、ドアをがちゃっと開ける音がきこえた。父が現れた。恋人とケンカでもしたのか、あるいは、別れたのかもしれない。
「ミロか。早いな」
珍しく優しい声だ。
「おかえり」
父は、人の家にあがるようにおそるおそる入ってきたが、ミロがピアノに向かっているのをみると物珍しそうにそばにやってきた。
「おお、このピアノを弾いてるの、久しぶりじゃねえか?」
「うん。ちょっと、いろいろあってね。調律し直した」
ミロはそういって、低音から高音までスケールを弾いてみせた。
「ほんとかよ、あいかわらず狂ってんなあ…って、なんだこの調律」
「お父さん、ぼくには、これでいいんだよ。それよりほら、ちょっときいて、この和音」
ミロは、左手でソシレファの和音を鳴らすと、その上に、右手で別の和音を響かせた。
「どう?」
「どうって、いや、よくわからん響きだな。合ってるのか? それ」
「狂ってるんだけどね。でも、これなんか、良くない?」
「うーん。わかんねえな。こっちのほうがいいんじゃねえか」
父が、右手で、別の和音を合わせた。
「ださい」ミロはすげなく言った。
「えらそうなやつだ! じゃあ、これはどうだ」
父は、いくつかの和音を試した。
ミロは、飽きずにその響きをきいていた。
和音がかわるたび、淡い色が眼前に現れ、それらは次々と変化したが、どれも若干濁り、あるいは、若干澄んでいて、いまのミロにとっては心地いい景色だった。父は少しメロディを爪弾き始めた。ミロもそれに合わせ、左手の和音を進行させながら、メロディを絡めた。
「うわ、気持ちわりい」父がのけぞった。
「いや、わるくないよ。ほら」
「まあ、そうだな。ありだな」父は急に神妙な顔をした。
鍵盤はあらかじめ調律し、左へ行くほど純正に、右へ行くほど狂わせていた。ミロの頭には今まで見たいことのない楽譜が、耳には聴いたことのないハーモニーが現れていた。それは、二声だけの定旋律と対旋律のフーガだった。左手の低音がイ短調の旋律、右手はハ長調の旋律。ふたつの調でバラバラに進行する二つのメロディがある場面で、ふと調和した。しばらくして、また不協和がやってくる。そして、サビのところで1音だけ、純正に調和した。
母が、隣の部屋でめざめたのか、物音がきこえた。
「あんたたち、なに、してんの」
ミロは思った。おそらくだけど、いまここで、全く新しい音楽が生まれる。それはいまここで、生まれて、明日にはなくなっているかもしれない。でも、たしかに存在したし、それを父も母も耳にするだろう。
アパートメントの前の街路を歩く足音がきこえ、うちの部屋の真下あたりで止まった。だが、それはまた通り過ぎて行った。
〈了〉
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