カンツ・ジャンクション

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梗 概

カンツ・ジャンクション

――これは、人が時間と空間を超えて「誰か」を救う物語。

2119年(1)
世界は300の国と、国家から独立した3つのパラ憲法で構成されている。
倫理的機能を担う大脳の側頭頭頂接合部(通称カント野)に、直接信号を送ることで、人びとの意識に直接的に倫理規範を与える技術。その応用によって、パラ憲法は人びとの意識に倫理を共有させている。
言語学者のミハルはパラ憲法前文の改定作業に立ち会う。
彼には密かな企みがあった。パラ憲法前文は、倫理規範によって人びとの意識を接続する。そのテキストの時制を壊すことで、人は過去や未来に生きる人びとの意識とも接続できるはずだと。彼はそれによって意識のタイムトラベルを行い、21世紀末に起こる第三次世界大戦を回避しようとしていた。それがミハルにとって「善なる行い」だった。ミハルの企みは成功し、彼の意識は過去へと飛んだ。

2019年6月13日
パラ憲法による時間移動は、過去の他人の意識に接続することで可能となる。接続先の人間は、カント野がある程度発達している必要があった。この時代の適合者は風間星(せい)。意識体の<ミハル>は彼の意識に干渉して、彼の恋人の真下名花(めいか)を事故死から救おうとする。彼女の死の回避が、第三次世界大戦の回避に繋がるからだ。しかし努力もむなしく名花は死んでしまう。歴史改変には、世界からの修正力がかかるからだ。<ミハル>は別の意識へ飛ぶ。

(以降、2119年の物語の合間に、星が名花を救おうとして失敗する描写が入る)

2019年6月13日
何千回目かの挑戦。星は意識の中の<ミハル>の企みを「ミハルは友人のテルマを救うために、名果を助けようとしている」と理解していた。<ミハル>は自分の認識と異なる事実を語る星の言葉に混乱する。<ミハル>は別の意識へ飛ぶ。

2119年(2)
刑務所の面会室で、ミハルは友人のテルマと会話している。テルマはサイコパス殺人者で、彼には社会での居場所はなかった。テルマはこの世界から消えることを望んでいた。ミハルは友人の願いを叶えるために、パラ憲法によるタイムトラベルを画策する。それがミハルにとって「善なる行い」だった。しかし<ミハル>にその記憶はない。<ミハル>は別の意識へ飛ぶ。

2119年。(3)
ミハルはパラ憲法改変未遂の思想犯罪者として収監されている。面会に来た友人のテルマが、なぜそんなことをしたのかと問い詰める。ミハルは、歴史を変えて母親を事故死から救おうとしたのだと告白する。それがミハルにとって「善なる行い」だった。しかし<ミハル>にその記憶はない。<ミハル>は別の意識へ飛ぶ。

2119年。(4)
ミハルは失敗した。パラ憲法の改定作業中、不慮の事故によってパラ憲法の文法が時制を壊れ、ミハルの意識だけが別の時代、別の並行世界に接続してしまったのだ。<ミハル>の誕生の瞬間だった。(1~3)までの2119年の出来事は、その際に見た別世界のミハルの記憶だった。そして<ミハル>は、2019年の事故で死亡する真下名果の姿を、風間星の意識から見ていた。<ミハル>はただ単純に、目の前の人間を助けたいと思った。それが<ミハル>にとって「善なる行い」だった。<ミハル>の長い旅が始まった。

????年。
<ミハル>は時代と世界を超えて、人びとに呼びかけていた。目の前で死んだ、自分と何の関係もない「他人」を救いたい、と。その願いに、根拠も必然性もなかった。<ミハル>の呼びかけが、人びとに届き、幾億の意識が特に理由もなく接続し、そして「誰か」の命が救われた。<ミハル>はその「誰か」の名前すら知らない。

文字数:1482

内容に関するアピール

文字数が、圧倒的に、足りないっっ!!
文字数という物理的な制約に対する敗北…。
ところで、これは作者のみの問題ではなく、物語の主人公である<ミハル>が対峙する問題でもあります。人は人である以上、物理的(時間的空間的)制約を受けざるを得ない。それを突破することは、人に可能であるのか?
100年後でも、おそらく自分と他人の壁を超えることは難しい。けれどその打開策の一つとして、脳科学と憲法の合わせ技<パラ憲法>を人類は生み出した、という設定。<ミハル>は、人が互いにわかりあうことを助ける技術のポテンシャルを、(結果として)極限まで引き出そうとします。
実作では作品固有の用語の解説が頻出するかと思いますが、梗概では必要最低限をのぞき、ばっさり切りました(パラ憲法とは何か? なぜそれは3つなのか? なぜWW3が起こったのか? )。

文字数:361

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カンティック・ジャンクション(原題:カンツ・ジャンクション)

1.2119年

 これから行う計画が成功したならば、既に誰かが救われている。
 おかしな話だが、ミハルの企みはいわばそのパラドクスの証明に他ならない。
「ミハル所長、作業前確認全てOKです。予定時間より作業開始可能です」
「わかった」
 スタッフの声に応えてミハルは自分のホロ端末を開く。自分の眼でも〈改訂機〉の状態に問題がないことを確認する。そして改定作業で使用するプログラムを自作のものに置き換える。最終確認が完了した今、そのイレギュラーに気づく者は誰もいない。現場責任者であるミハル以外には。
 ミハルはこの役職に就くために、二十年を要した。数学者から転向し、言語学者の地位を得て、特に言語と脳の関係については世界的権威となった。その後、計画を実行する機会は意外に早くやってきた。パラ憲法の施行以来、初となるパラ憲法の改訂である。勿論、改訂実施の是非を問う憲民投票の結果が望む形に落ち着くよう、入念に政治的な根回しも怠らなかった。
 悲願の成就がついに近づいている。胸の奥が震える感覚を覚える。
 スタッフの一人が、ミハルに視線を向けた。
 そのサインに応えるように、ミハルは言った。
「改訂作業開始」
 テストと同様の工程確認、実機作業、進捗確認を経て、パラ憲法の改訂作業が進む。
 2101年に三つに縮小されたパラ憲法のうち、今回改訂が行われるのは日本語パラ憲法キュトスだ。改訂作業は、まず日本語で書かれたパラ憲法のテクストを量子コンピュータのプログラムで量子ビットに変換して圧縮する。そのデータが光データ、古典ビットなどの変換過程を経由しつつ、全世界の日本語パラ憲法キュトス使用者の脳に埋め込まれたスマートナノマシンへと伝送される。スマートナノマシンは、送られてきた圧縮データを解凍し、量子ビットに刻まれた倫理規範を直接使用者の脳に書き込んでいく。作業完了までにかかる見込み時間はわずか三時間だ。三時間後には、世界が変わっている。
 改訂作業は順調に進んでいる。既に、テクストの量子ビット変換は完了した。誰もミハルの企みを察知することはなかった。
 あと、三時間か。
 ミハルのプログラムは、テクストの倫理規範の内容を書き換えるものではない。ただ、日本語の持つ時制をずらし、現在と過去と未来の区別を壊しただけだ。「他者は自由である」という言葉が「既に他者が自由であり続け終えた」となり、「私の半分は目の前の他者である」という言葉が「私の半分が過去の他者になりだった」となる。壊れた日本語であるが、この時制的ノイズを使用者の脳は無理やり調整して自身に取り込む。その際に、脳は規範であるテクストの内容ではなく、自身の現実認識の方を修正する。脳が現在と過去と未来の区別をやめることになる。ミハルが学会に発表もせずに密かに進めていた研究が正しければ、この脳の修正が、人間の意識を過去あるいは未来へと接続させるはずだ。ミハルの目的は2019年に干渉することだった。おそらく改訂後、ミハルの意識は過去にも未来にも接続されるはずだが、意識の焦点を2019年に合わせることで任意の時代に意識を移動させることが可能であるとミハルは考えている。
「順調だな」
 同僚のテルマがミハルに声をかけた。
「ああ」
「無事に終えたら酒蔵のワインを空にするまで全員で騒ごうじゃないか。いいだろう、最高責任者殿?」
「残念ながら僕は少なくとも三日間はほとんど寝ずの番だよ。改訂後に不測の事態が起きないとも限らないからな」
 テルマは学生時代からの旧知の仲だった。脳科学の専門家であり、研究分野を変えたミハルの活動を大いに助けてくていた。
 ミハルはふと、テルマと初めて出会った頃の記憶が、リアルな映像として目の前に迫ってくるような錯覚を覚えた。ふと見ると、テルマが額に手を当てて笑っている。
「まだ一滴も入れてないっていうのに、立ち眩みがした。歴史的瞬間に立ち会った感動が思ったよりも大きいのかもしれん」
「疲れだろう。スタッフ全員、ここのところ作業で忙殺されていたからな」
 手元のホロ端末で作業進捗を確認すると、既に世界中のスマートナノマシンへのデータ転送が始まっていた。世界が改訂されようとしている。
 後悔はない。自分は自分が思う〈良いこと〉のためにこの計画を始めた。
「お前もひどい顔だな。少し一服でもしてきたらどうだ? 作業は順調だし、少し席を外すくらいは大丈夫だろう」
 テルマの勧めにミハルは頷いた。次に自分の身体で煙草を吸えるのがいつになるのか、ミハルには想像もつかない。「何かあれば連絡をくれ」と言って、ミハルはタバコを吸いに喫煙室へ行こうと思い扉を開け、部屋を一歩出たところでミハルの意識は飛んだ。

2.2019年6月13日

 風間星かざま せいは周囲の人間に比べて勘の良いところがあったが、この日の感覚は少し異様なほどに冴えていた。彼がそのことに違和感を持っていることがわかる。
 新聞配達の労働は早朝に行う。当然ながら車の往来は少ない。ビルや住宅に青みがかった風景を、彼はいつも通りの最短配達ルートをバイクで走行している。やはり人も車もほとんど見かけない。ところが、いつも目にしている十字路の速度制限標識が、彼には「左折せよ」というメッセージに見えた。つまり〈私〉が彼の意識のなかでそう囁いたのだが、まだ彼は〈私〉の言葉をうまく聞くことができない。彼には標識の「40」という数字の「4」の左に突き出ている形が矢印のように見えた、という感覚しかない。
「…………」
 訝しみながらも、彼はその感覚に従って普段は直進する十字路を左折した。配達を終えた帰り道にその道の近くを通った時、普段の配達ルート上でトラック同士の衝突事故の現場を彼は見た。彼は直感的に、もしいつも通りのルートを使っていたら、自分はあの事故に巻き込まれていたことを理解した。それも〈私〉が囁いて伝えたことだ。〈私〉の知る改訂前の歴史では、彼はその事故に巻き込まれ全治二ヵ月の怪我を負い入院するはずだった。彼が病院へ搬送され、ベッドで目を覚ますまでの間に、真下名花ました めいかもまた交通事故に遭い、こちらは死亡する。
〈私〉は名花の命を救うために、星に幾度も声をかけるが、なかなか意思疎通はできない。
 時間はあまりない。現在は午前五時半。名花が事故に遭うのは午後零時十三分。後六時間四十三分だ。
 配達の仕事を終えて帰宅した星は、そのまま就寝するのが日課だった。しかし今日は寝てもらっては困る。〈私〉は彼に名花の事故の時間を教える。彼は自分が脱ぎ散らかした靴が、時計の長針と短針のように見える。左右の靴が示しいてる時刻は午前零時十三分。彼はその時計を読む向きも、午前か午後かの判別も無意識にできている。〈私〉が囁いているからだが。
〈私〉の言葉は少しずつ彼の脳に馴染んでくる。最初は、暗号のようにしか受け取れていなかったのが、段々と言葉に近づいていく。
 時間がない、と〈私〉は囁く。
 星は部屋の時計の電池が切れていることに気づき、根拠のない焦燥感を覚える。
 寝てはいけない、と〈私〉は囁く。
 星は乱れた布団と枕を見て、寝る気を失くす。
 名花のところに行け、と〈私〉は囁く。
 星はカレンダーの花の写真を見て、名花のことを連想する。
 彼は部屋にいると落ち着かず、携帯灰皿を持ってアパートの外へ出た。煙を吐き出した時、彼は驚く。煙の形が、人の顔のような形に見えたからだ。
〈……今、…………電話をかけて、…………いけない〉
「!?」
 彼には煙の顔が自分に語り掛けてきたように感じたが、それは彼の脳が彼にそう感じさせているに過ぎない。ようやく彼に直接〈私〉の言葉が届き始める。
〈……か?〉
「誰だ?」
 彼はつぶやく。
〈……ない。……に電話をかけて、……止めないといけない〉
「……どっから話しかけているんだ?」
 彼が自分に話しかけている存在を認めたことで、〈私〉の言葉が彼の脳内で鮮明になる。
〈私の言葉に耳を傾け、私の言葉を信じてほしい。君が今朝、事故に遭わなかったのは偶然ではない。私が君に事故を教えたからだ〉
「…………」
 彼は自分が疲れていると判断する。幻聴はそのためだと。そうでないことを〈私〉は伝えなくてはいけない。
〈今、右手の道から犬を連れた女性が歩いてきているな。十秒後に、その女性は大きなくしゃみをする。その拍子に、彼女はリードを手放し、犬が走り出す。その犬を追いかけて、彼女は「こら! 勝手に行かない! アル!」と叫びながら、君の目の前を通り過ぎる〉
「…………」
 彼が右手を向くと、実際に犬を連れた女性が歩いている。そして〈私〉の言った通りのタイミングで、〈私〉の言葉通りの出来事が起こる。彼は茫然とそれを見ている。
「…………」
〈私は君の妄想でも幻聴でもない〉
「……ちょっと待ってくれ。よくわからない……」
 彼は煙草の煙を一度大きく吹き出した。たったそれだけの行為で、自分の心が落ち着いていくことが彼には実感できた。
「お前は誰なんだ? 俺の妄想でも幻聴でもないって、なんで言える?」
〈もうすでに君はそのことを理解しかけているはずだ〉
「……そう、だな。いや、違和感は確かにあるんだけど、段々、お前の存在が疑えなくなってきた気がする」
〈私の意識と、君の意識のつながりが強くなってきたからだ。私の意識と言葉は、君の脳に間借りして存在している。だから君は、自分の脳が感じさせる私の言葉に徐々に実感を覚えている〉
「自分の脳が考えていることだから、こんなにリアリティが感じられるっていうことか?」
〈そうだ。『君思う、故に我あり』だな〉
 彼の持っていた煙草はいつの間にか燃え尽きている。それを携帯灰皿に入れると、彼は自分の部屋に戻ることにした。
「ちょっと落ち着いて話そう。コーヒーでも淹れるから、ちょっと待ってくれ」
〈いいだろう。ただし時間は残りすくない。あまりゆっくりはしていられないぞ〉
「なんの時間だ?」
〈君の恋人の真下名花を救うための時間だ〉

「……つまり、お前は百年後の未来の人間で、その、パラ憲法? というのを使って、意識だけこの時代に来ている、のか?」
〈概ねその理解で合っている〉
「はぁ……。まあ、さっきからそうだけど、突拍子もない話なのに、本当にお前の言葉を疑えない自分に驚いているよ……」
 コーヒーを口に運びながら、星は言う。
「でもちょっとその、パラ憲法というのがよくわからないんだが」
〈元々は2031年にウガンダで試験的に実施された技術だ。ナノマシンを使って、人の意識に直接、倫理規範を埋め込む。カント野と呼ばれる、倫理的機能を担う大脳の側頭頭頂接合部に、ナノマシンから直接電気信号を送ることで、いわば倫理をインストールしていると言える。世界的に技術が広まったのは、21世紀後半になるが〉
「なんか洗脳みたいだな。未来って、人権意識とか低い?」
〈逆だな。パラ憲法を世界中の人々がインストールすることで、人権意識は格段に向上した。私のいた2119年の時点では、国際的に認められたパラ憲法は三つしかない。自分と同じパラ憲法をインストールしている相手とは、価値観の共有が容易になるし、異なる二つのパラ憲法の人間を相手にする場合でも、自分と相手の倫理の差異が明確なので、相手を理解しやすくなる。過去と比べて、他者とコミュニケーションを行うハードルは下がったし、自分以外の人間の人権を尊重する倫理はどのパラ憲法にも記載されている〉
「はぁ……そういうものかね。実感ないな」
〈実感は難しいかもな。君の時代の技術、例えばインターネットの利便性を百年前の人間に君が伝えたとしたら、おそらく今の君と同じようなリアクションを見ることになるだろうね〉
「なるほどねぇ。で、その技術を私的に利用して、タイムトラベルしてきたってことか……。ううん。信じられないけど、でも不思議と疑う気持ちもでてこないんだよな……変な気分だ」
 椅子の背に体重を預けながら、星は天井を見上げた。
〈その違和感も、すぐに脳が調整してそのうち慣れる〉
「でも、どうして俺なんだ?」
〈パラ憲法による意識の接続は、時代や場所に関わらず、カント野の働きが活発な人間であれば行うことができる。パラ憲法施行後の人類はほぼ例外なく接続対象者になるが、この時代では、その対象者は限られている。できることなら、真下名花本人と接続したかったが、彼女はカント野の働きが不十分だった。アンテナの感度悪かったというようなものだ。だが、彼女の恋人である君が接続対象者として十分なアンテナの持ち主だったことは不幸中の幸いだ〉
「ああ、それだ」椅子の上の体勢を正して、星は言う。「なんで、名花なんだ? その、つまり〈ミハル〉はさ、さっき言ったよな。自分の目的は、第三次世界大戦を未然に防ぐことだ、って」
 自分で言った言葉にリアリティが感じられなかったのか、星は薄く笑った。
「なんかゲームみたいな話だな」
〈だが、事実だ。2090年に起こる第三次世界大戦。20憶の死者を出した無残な戦争を止めるためには、真下名花の生存が必要なのだ〉
「それがよくわからないんだけど」
〈第三次世界大戦はロシアの再社会主義化に端を発する。当時はパラ憲法は13あった。そのうちの一つ、ロシア政府が国民に課したロシア語パラ憲法チェチェキウスは、社会主義と相性が良すぎた。当時のロシアはある意味で、人類史上初めて理想的社会主義に到達したとも思われた。しかし、それはやはり誤りだった。ロシア政府は国内政治のコントロールを完了したが、さらにその先を求めた。つまり全世界の社会主義化だ。だがそんなことを他の国が許すわけがない。結果、ロシアは武力による支配に着手した。そして戦争が始まった〉
「なんでロシアはわざわざ自分の国以外を社会主義化する必要があったんだよ。自分の国が平和ならそれでいいじゃん?」
ロシア語パラ憲法チェチェキウスが人びとに刻んだ倫理がそれ以上を求めたからだ。当時の人類は、パラ憲法の力を過小評価していた。強すぎる倫理は、人びとに「せねばならない」という意識を抱かせる。そして人びとは倫理を必然性と錯誤する。必要があったからロシアは他国を攻めたのではない。必然性に駆り立てられて、ロシアは世界を敵に回したのだ)
「必然性、ねえ」
〈大戦終了後、国連はパラ憲法を弱体化し、数も三つに減らすことを決定した。論理を尊重する英語パラ憲法ロゴス、自己を尊重する仏語パラ憲法ミュトス、そして私が改訂した他者を尊重する日本語パラ憲法キュトス。22世紀を生きる人びとはほぼ例外なくこの三つのどれかを受け入れて生きている〉
「……まあ、未来のことはなんとなくわかったけどさ。でもそれと名花と何の関係があるんだよ? あいつはただの会社員だぞ?」
〈真下名花自身は今日を生き延びれば、2072年に亡くなることになる。第三次世界大戦とは無関係だ。重要な人物は、彼女の子孫だ。名取公子と名付けられることになる真下名花の孫は、ロシアのパラ憲法の作成に関わる言語学者となる。そして、彼女の作業時の些細なミスが原因で、ロシアのパラ憲法実装は十年遅れ、私のいた歴史とは異なる内容が実装されることになる。それが遠因となって、ロシアの再社会主義化は失敗し、第三次世界大戦は回避される〉
「ミスって。そんなことで戦争が起こらなくなるのか?」
〈歴史は常に些細な出来事によって動いているものだ〉
「そんなものかね。……まあいいよ。現実味はないけど、〈ミハル〉の言葉はなんだか信じられる。それで、俺に何をさせたいんだ?」
〈私〉は星に、この日の日中に名花が交通事故に遭うことを伝えた。
「いやいや、それを先に言えよ! どうすれば事故を回避できるんだ?」
〈名花が現場にさえ近づかなければ問題ないはずだ。彼女に今日は仕事を休んで家でじっとしているよう説得してくれ〉
 星はすぐに携帯を取り出し、名花に電話をした。「あ、名花? ごめん、起こしちゃった? うん。いや、それがさ、ちょっとお願いがあって……」
 通話は一分ほどで終わった。「電話で仕事休めって説得するのも難しいから、ともかくこれから直接会って話すことにした。〈ミハル〉も来る……いや、俺の頭の中にいるんだから、そりゃ一緒に行動することになるのか。なんか幽霊に取りつかれたみたいで変な感じだなぁ……」
 ぼやきながら星は服を着替えて家を出る準備を始めた。
 玄関で靴を履きながら、星はふと思いついたように〈私〉に質問をした。
「ところで、〈ミハル〉はじゃあ、名花が誰と結婚してどんな子を産むのかまで知ってるのか?」
〈そうだ〉
「その、名花の結婚相手って、俺?」
〈それは、君にとっては知らない方がいいことだよ、星〉
〈私〉の声に若干のいたずら心を感じ取った星は、「なんだよ、そういうとこははぐらかすんだなー」とふてくされたふりで言った。

 名花の住居はエントランスにオートロック扉があるマンションの二階で、星がインターホンで呼び出すとすぐに応答が返ってきた。星はもちろん何度も訪ねているので、迷いなく彼女の部屋にやって来る。
「おはよー。とりあえず入って」
 部屋着のまま星を出迎えた名花は、眠たそうな声で星を招いた。
「で、話ってなに? 八時には出勤しないとまずいんだけど」
 彼女は時計を見て言った。時刻は午前七時だ。
〈うまく説得して、彼女を家から出ないようにするんだ〉
「わかってるよ」
「? 何か言った?」
 小声でもらした星の言葉に、名花が反応する。星は首をふってなんでもないとごまかす。
 星が名花を説得するために考えた設定はこうだった。突然、田舎の母親がこちらにやって来ることになり、ついては今お付き合いしている相手の顔を見たい。どうにかセッティングしてくれないか、というものだ。
「それ、仕事終わった後じゃダメなの?」と名花が訊ねる。
「それが、日帰りの予定で飛行機のチケットを買っちゃったらしくて、夜まではこっちにいられないらしいんだよ。次におふくろが出てくるのなんていつになるかわからないし、そしたら俺たちが広島に行かない限り挨拶もできないじゃん。だから俺としてもこの機会を逃したくないんだよ」
「まあ、君が私を紹介してくれるのはうれしいけどさ……」
 名花は少し悩んだ末に、星の頼みを飲んでくれた。勿論、星の母親が来ることはない。それでも、事故の起きる時間まで名花を家に引き留めることができるのであれば、あとのことはうまく言い逃れればいい。急な予定の変更で、挨拶の時間がとれなかったとか。
 あと五時間をやり過ごせば、歴史は変わるはずだ。

〈…………?〉
〈私〉は自分の意識が深いところから戻ってくるのを感じる。直前までの記憶が曖昧だ。どういうことか?
「……あれ、名花?」
 星のぼんやりとした声が部屋に響く。
 どうやら、星は眠っていたらしい。
 そういえば、仕事を休んだ名花と星は暇をつぶすために雑談をしていたが、どうせ時間があるならと、PCで映画を観始めたのだった。今朝仕事をしていた星は、いつもなら寝ている時間に映画などを観たものだから、睡魔に勝てず寝落ちしていたようだ。
 星の意識がなくなると、〈私〉の意識も同様に働かなくなるらしい。それはともかく、問題は部屋の中に名花の姿が見当たらないことだ。
〈名花はどこだ?〉
「さっきまで隣にいたはずだけど……」
 PC画面の映画はすでに再生が終わっている。
 星のスマホが鳴動する。通知を確認すると、名花からLineでメッセージが届いていた。
『ちょっと近くのコンビニまで買い物に行ってます。何か欲しいものあったら返信してください。でもまだ寝てるかな?』
〈星。まずい。追いかけよう〉
「わかってる……時間は?」
〈午前十一時五十五分……非常にまずいぞ〉
「でも、事故現場は職場の近くなんだろう? だったら、大丈夫だよな?」
 不安げにつぶやく星の言葉に、〈私〉は〈わからない〉と答える。
〈パラ憲法の改訂による時間移動が、現実にどのような影響を与えるのかは、私にもすべてがわかっているわけではない〉
「肝心なところで頼りがいがない!」
 叫んで、星はすぐに玄関から飛び出る。
 マンションのエントランスの自動扉が開くのにも焦燥感を覚える。マンションから走りでて、彼の足が止まる。
「コンビニって、どこのだよ……」
〈最寄りの店じゃないのか?〉
「二軒あるんだよ……迷ってる暇はないな。勘頼みだ」
 再び星は走り出したが、道中でも、コンビニの店内にも名花の姿は見つからなかった。舌打ちする間も惜しいくらいに、星はもう一軒のコンビニへと駆けた。
〈私〉は嫌な予感がぬぐえなかった。その不安は星にも伝わっているようだ。
「あの十字路を曲がったらそこがコンビニなんだけど……」
 星の言葉通りに、道を曲がった先にはコンビニの看板が見えた。
 そして、その店の目の前には人だかりができている。
〈私〉は失敗を悟った。
 星が駆け付けると、電柱にぶつかってフロントが破砕した車と、人だかりに囲まれるように、道の真ん中で不自然に停車する車が目に入る。
 果たして、名花はそこにいた。
 車の影になって星の位置からは彼女の顔が見えないが、地面に倒れ伏した彼女の両足が赤黒い池に沈んでいる様子ははっきりと見えた。
「名花! 畜生! どうして……!」
〈……すまない、星。私は、やはり失敗してしまった〉
「…………何言ってるんだ? 今から救急車を呼べば、きっと……」
 星はまだ倒れた彼女に近づけず、顔を確認できない。それでも、視界に入る彼女の靴は、彼が見慣れた靴の記憶と一致している。
〈すまない。こうなった以上、私は『次』へ行かなくてはいけない〉
「悪い、話ならあとで……とにかく、救急車を呼ばないと……」
 震える指先で、スマホを操作しながら、ゆっくりと一歩ずつ、彼は彼女に近づいていく。
 すまない、と。
 彼にも聞こえない思いをつぶやき、私は意識の焦点を再び数時間前の風間星に向ける。
 星と名花には一度きりの時間しか与えられていないが、今の私は何度でもこの時間をやり直すことができる。この今からさかのぼって過去の風間星の大脳側頭頭頂接合部に戻る。意識のみの私はこの記憶を引き継いだまま、時間を戻ることができる。
 彼のカント野から、私の意識が少しずつ離れていくことが不思議と実感できる。彼は私を幽霊みたいだと言ったが、確かに、私は生者に憑りつく悪霊のようでもあった。
 彼の言葉が徐々に遠ざかり、私の意識が『次』へ飛ぶ。
 次こそは、〈良いこと〉を成すために。

3.2019年6月13日

 実のところ、予想できていたことだった。
 こうなる可能性は高かった。星を事故から救ったことは、未来に大きな干渉を起こすことはない。だが、名花の事故は違う。彼女の生死は歴史の転換点となる。それが遠い未来とつながっていればいるほど、歴史を改訂することへの抵抗は大きいことは想定された。
 いわば〈私〉の試みは、この世界の自然の法則に逆らうことだ。すんなりと行くとは思っていなかった。
〈私〉は星に対して誠実に接した。それは嘘ではない。しかし意識の片隅では、彼のことを〈一人目の星〉として認識もしていた。
 そして今、〈私〉の意識は〈二人目の星〉のカント野で目覚めた。
 新聞配達中の彼に、〈私〉は少し先の未来を囁く。
 一度目と同じように、彼は道路標識を見た後、バイクの進路をいつもとは違う方向へ変えた。
 そこから、〈一人目の星〉と同じようなやりとりを経て、出勤前の名花に出会う。
 不気味なほどに、同じ展開をたどり直している。

4.2019年6月13日

 意識でしかない〈私〉にとって、時間の経過の感覚は奇妙なものに思えた。
 時間の跳躍を開始してから、既に長い時間が経っているが、そのことによって疲弊する感覚器官を今の〈私〉は持ち合わせていない。
 何十人、何百人の星の大脳を間借りしてきたが、どのような方法をとっても、結果として名花は日中に死亡してしまう。正確な死亡時刻こそ違えど、何の因果なのか、彼女は必ずこの日に亡くなってしまう。
「なんだか、お前とは初めて話す気がしないな」
 そんなことを星が口にしたのは、何人目の彼だっただろうか。
〈私〉にとってもそれは意外だった。繰り返し星の大脳を間借りするうちに、角と角がこすれあいお互いの形を丸く変えていくように、〈私〉と星の意識のつながりは太くなっていった。百人を超えるあたりから、星は自分の事故を回避する段階から〈私〉の声が聞こえるようになり、〈私〉をすぐに信用するようになった。
「〈ミハル〉の気持ちはわかるよ。誰だって、自分にできる〈良いこと〉があるなら、それを行いたいよな」
 依然として名花の命を救うことには成功していない。ある時は通り魔に刺され、またある時は飲食店のガス爆発に巻き込まれる。星がどのような回避策を立てても、事態は好転しない。
「今の俺は、〈ミハル〉にとって何人目なんだ?」
〈1023人目だ〉
「そっか。お前も大変だなあ。でも、世界を救うためだもんなあ」
 星はいつの間にか、〈私〉が説得するまでもなく、〈私〉の話に理解を示すようになっていた。
 そしてまた、他にも〈私〉では説明のできない事象が起こり始めた。
 2000を数えるほどの回数を繰り返すうちに、時折、星の住む家が異なっていることがあった。
 最初は百回に一度くらいの頻度でそれは起こった。アパートではなくマンションだったり、名花と同棲していたこともあった。頻度は少しずつ高くなっていた。今では十回に一回はそれまでの星と何かが違う星が現れる。
「ゲームのようだ」と呟いた〈一回目の星〉の言葉を借りるなら、それは確かに、ゲームの初期設定を少しだけ変更したような状況に近い。あるいは、並行世界という概念も今の状況を説明するのに合っている。だとすれば、パラ憲法による時間跳躍は、〈私〉の研究による理解を超え始めている。
 そんななかで、星が明らかに奇妙なことを口にした。
「〈ミハル〉はさ、二十年以上も時間をかけて、この時代にやってきたんだろう? 親友のためにそこまでできる奴はなかなかいないよ」
 親友のため、という星の言葉が何を指しているのか、〈私〉はよく理解できず、そのことを訊ねた。
「テルマ、っていう昔馴染みのことを救いたいんだろう? 俺そういうのに弱いんだよね。心情的に。なあ、テルマってどんな奴なんだ?」
〈何を言っているんだ? テルマを、私が救う……?〉
 テルマは確かに〈私〉の昔馴染みの親友だ。しかし、この計画の動機とは無関係の人間だ。第三次世界大戦とテルマは何も関係がない。
「第三次世界大戦? なにそれ。え、未来では戦争があるの?」
 星の声はとぼけているようには聞こえない。
〈私〉は違和感を抱えながら、今回も名花を助けることに失敗する。
 そして〈私〉は今回の星のカント野から離れていく。
『次』へと向かう私が思い浮かべたのは、2019年6月13日の風間星ではなく、2119年のパラ憲法改訂以降、再会していない、再会することもないかもしれないと思っていた友人テルマのことだった。

5.2119年

 ミハルは狭い部屋で椅子に座っている。
 白い壁に囲まれた部屋。彼の正面には、部屋を二つに分断する分厚いガラスがある。会話ができるよう、壁には幾つかの小さな穴があけられている。
 さほど長い時間を待たずに、壁向こうの扉が開いた。刑務官と思しき男に連れられるように、一人の男が部屋に入った。その男はミハルの正面にある椅子に座った。二人は壁越しに対面する。
 その男はテルマだった。
「ひさしぶりだなテルマ。少しやつれたか?」
「どうかな。長く鏡を見ていないから自分ではなんともわからないな。ああ、でも健康ではあるよ。食事も運動も、ここでは困らないからな」
 ミハルとテルマが会話をしている。しかし、ミハルは〈私〉のはずだ! だがこのミハルは〈私〉ではない!
 身体をもったミハルと、意識だけの〈ミハル〉である〈私〉がいる。〈私〉はミハルに話しかけてみるが、〈一回目の星〉に話しかけた時のように、ミハルは〈私〉の言葉に気づかない。
「結局、終身刑だってな」
日本語パラ憲法キュトスに準じる法律では、死刑は禁止されているからな。安楽死には周囲の人間の同意書が必要だが、囚人にその権利は認められていない。こればっかりは仕方ないさ」
 テルマは相手から目線を少しそらしながら、自嘲気味に笑う。〈私〉の知るテルマの所作だ。
 どういうことだ。ここは刑務所の面会室なのか? テルマが終身刑で収監されている? 一体なぜ?
「なぜ、と聞いていいか?」とミハルが言う。
「お前とは長い付き合いだけど、ちゃんと話したことはなかったもんな」テルマは笑みを浮かべて言う。「きっと報道で言われている通りだと思うぜ」
「僕はお前の口から聞きたいんだ」
 テルマは数秒だけ目をつむって「どう説明したものかな……」とつぶやく。そして目を開くと、彼は語り始めた。
「理解できないと思うが、俺は人を殺すのが好きなんだ。ナイフを人体に差し込む感覚や、頸動脈を絞めていくうちに力弱くなる瀕死の人間の抵抗が好きだ。世間的には病気とか、サイコパスとか、そういう類のアレだよ。それで、そういう行為をした後、数年間は調子がとてもいいんだ。博士号を取るための数年間、最初にやったことは一人暮らしの学友を刺殺して山に埋めることだった。アレのおかげで俺は博士号が取れたみたいなものだ。他にも似たような動機で人を殺した。とにかく人を殺すと、社会の内側で活躍できるんだ。みんなが俺の仕事を評価してくれて、その期待に応えるために俺は人を殺した。そうやって俺は社会に順応した。あべこべの話だけどな。人を殺さなかったら、俺はたぶん社会に適合できなくて自殺していたはずだよ。その方が、よっぽどマシな人生だったのかもしれないけどな」
「…………」
〈…………〉
 知らなかった。そんな話は初耳だ。ミハルも〈私〉と同じように初めて聞かされる話のようだ。テルマに、〈私〉の知らないそんな悪の一面があったなんて。
 だがしかし、疑問も浮かぶ。
〈私〉の目の前にいる人物は、本当に〈私〉の知るテルマなのだろうか?
 繰り返す時間跳躍の中で、星が私の知る星ではないことがあったように、このテルマも私の知るテルマとは別のテルマなのかもしれない。
 少なくとも、パラ憲法改訂以前に、こんな事件があったという記憶は〈私〉にはない。
「どうして相談してくれなかったんだ?」とミハルが言う。
「お前に? 冗談だろ。正義心の塊みたいなお前に背負える話じゃない。というより、お前は自分の良心を制御しきれないところがあるからな。こんな話を知ったら、お前は苦悩に苦悩を重ねて、果てに自分だけ自殺するかもしれん。そう思ったから、お前には言えなかった。逆に俺を告発しようとしたら、俺はお前を殺すしかなかった。ほらみろ。どっちにしろお前が死んで、俺が生き残るシナリオになる。それがわかってて、お前に話すわけがないだろ」
「矛盾してるだろ。お前がそんなに僕の命を重く見ているなら、簡単に僕を殺したりなんてしないはずだ」
「それは誤解だ。俺にとってはお前の命も、見ず知らずの他人の命も等しく軽いよ。普通、人は豚を食べる時に、その命のことを重たく考えないだろう。考えていたら生活が成り立たない。それと同じだよ。俺が社会で生活を成り立たせるためには、人間の命を重たく考えたりする余裕はないんだ。教師に教わった通りに、社会で役に立つ人間になるためには人を殺す必要があったし、日本語パラ憲法キュトスの規範通りに他者を尊重するためにも、やっぱり人を殺す必要があった。まあ、後者については、バグとしか言いようがないな。パラ憲法も完璧じゃない。すべての人間を包摂することはできない。あと、お前を殺さなかった理由だけどな、お前の命は別にどうでもいんだけど、親友がいなくなるのは少し寂しいからな。それだけだよ」
 二人の間に、いや正確には私を含めた三人の間に、沈黙が降りた。
 パラ憲法のバグ。それは確かに存在する。同質の倫理規範を共有しても、犯罪自体は社会からなくなるわけではなかった。とはいえその数は21世紀に比べれば劇的に減少している。そして同時に、テルマのような反社会的な嗜好が人格や人生と深く結びついてしまった人間は、やはり社会のなかで破滅していくことがほとんどだった。
「……黙ってたら時間がもったいないぞ。ほら、久しぶりの面会に期待してやってきた俺を楽しませるようないい話はないのか?」
 テルマは軽い調子でそう言う。彼の口調には、先ほどからずっと重々しさというものがない。まるで遅刻癖を自嘲気味に告白する程度の深刻さだ。
「……なあ、テルマ。お前には、今望んでいることはないのか?」
「あー、ほらほら。そういうところだよ。お前の悪い癖は。目の前にある理不尽がどうしても許せない。〈良いこと〉に固執している。お前だけ、日本語パラ憲法キュトスの強度が大戦前と変わってないんじゃないのか? お前の正義感は、お前の本来の良心から生まれたものじゃなくて、お前の脳に刻まれた量子の痕跡から生まれてるんじゃないのか?」
「現代じゃ、それはほとんど等しいものだろ」
 テルマの軽口を流し、ミハルはもう一度先ほどの質問を繰り返した。
「今望んでいることはないのか?」
 テルマは変わらぬ友人の性根が愉快なのか、にやけた口元を片手で抑えながら「そうさな……この社会からいなくなれたら、それが一番いいな」と言った。
「死にたい、じゃなくてか?」とミハルが言う。
「どっちでもいいんだが、でも今の社会じゃ俺は死刑も安楽死も望めない。檻のなかで低度の健康をすり減らしながら死ぬのを待つしかない。その長い時間が嫌なんだ。ここじゃ人も殺せない。人を殺さないと、俺には社会での居場所がない。死ねるなら死にたい。でもどうせなら、いまいち俺の人生と噛み合ってくれないこの社会から消えたいね」
 そんなことがかなうわけもない。そう思いかけて、〈私〉は気づいた。〈私〉なら、彼の願いを叶えることができることに。
 ミハルもきっと、同じことを考えている。このミハルが、〈私〉の知る〈ミハル〉と同じなら。
「その願い、僕なら実現できるよ」とミハルは言う。
 そしてミハルは、言語と脳の関係を研究するうちに、パラ憲法改訂による時間跳躍が可能であることに気づいたことをテルマに話した。ミハルの語る理論は、〈私〉の知るものと同一だ。ただし、彼は第三次世界大戦の回避を計画しているわけではないようだった。そこは彼と〈私〉の差異だった。
「……驚いたな。下手すればお前の方が俺より重罪なんじゃないか? そもそも、本当に実現可能なのか? ぶっつけ本番で、思わぬ失敗をするかもしれない」
「賭けにはなるけど、試してみる価値はある」
「わからないな」テルマは笑みを消して、真剣な面持ちで言う。「親友だからといって、そんな国際的犯罪を犯す必要が本当にあるのか? お前はやっぱり、倫理と必然性を混同しているんじゃないか? その二つは違うものだ。わかってるのか?」
 その言葉は〈私〉にも向けられているように感じられた。
「僕はもう決めたよ。過去を変えて、お前の存在を消す」
 ミハルの言葉に、テルマは諦めたような笑みを浮かべた。
「それに」とミハルは続ける。「僕がこれから実行する計画が上手くいくのなら、変な話だが、既にお前はこの社会から消えているんだ」
「その通りだ。でも俺はまだここにいる。これは失敗なのか? それとも矛盾なのか?」
「それをこれから確かめるんだ。まずは、テルマの家系を調べよう。お前の先祖の系譜をどこかで断てば、お前はこの世界に生まれてくることすらなくなる」
 その言葉が引き金となったように、〈私〉の意識が〈私〉の知らないはずの情報にアクセスする。テルマの祖先の一人は、風間星だ。彼がある女性と結婚し子供を産み、その家系が伸びていきテルマへとつながっている。だが、もしも真下名花が2019年で死亡しなかったら、星と名花は結婚することになり、テルマへと続く家系は生まれなくなる。
 真下名花を救うことが、テルマを救うことになる。
〈私〉は再び、2019年の風間星に意識の焦点を合わせる。意識がミハルを離れ、『次』へと飛んだ。

6.2019年6月13日

 また真下名花が目の前で死んだ。またも星と〈私〉は失敗した。
 血まみれの名花の死体を前に、星が茫然と立ちすくんでいる。
「何度も、この光景を見ている気がする……」うつろな声で星が言う。「また、救えなかったんだな……名花も……〈ミハル〉の母親も……」
 まただ。
 また〈私〉の知らない〈私〉の動機を星は語る。
「次こそは……きっと……〈ミハル〉、頼む……」
 星に次はない。
 そのはずだ。
 しかしもう、〈私〉自身も、いま自分が時間の流れのどこに存在するのかがわからないのだ。これから何が起こるのか、〈私〉に断定することはできない。
 それでも、ここで立ち止まるわけにはいかないという気持ちだけがブレていない。
〈私〉は『次』に向かう。

7.2119年

「よし。入れ」
 男に促されて、扉をくぐる。
 視界に入るのは、見覚えのある白い壁の部屋だ。中央には、部屋を分断する分厚いガラスの壁。その向こうに、テルマが椅子に座ってこちらを見ている。
 ミハルを――〈私〉を――部屋に入れた男が、背後で扉を閉める音がした。
 部屋には、ガラスを挟んでミハルとテルマだけが残った。
 ミハルはガラスの前に置かれた椅子に座る。
「久しぶりだなミハル。ちょっとやつれたな。お前みたいな根が神経質な奴には、やっぱり刑務所は堪えると見える」
 テルマは場の緊張など介さずに陽気な声で言う。
「お前は、相変わらずだなテルマ」ミハルが言う。「スタッフのみんなは元気か?」
「ああ。結局、アレはお前の単独犯だったっていうことになったからな。職を失った奴もいないし、今もあの研究所で働いているよ。まあでも、みんなお前のことは心配している」
「そうか。迷惑をかけて悪い」とミハルはテルマに頭を下げる。
「おいおい、そういうのはよしてくれ。……しかし、なんというか、お前は、少なくとも俺とは違って、もっと社会と上手く折り合いをつけていく人間だと思っていたんだが……いや、人間の本性というか、根底にある気性みたいなものはどんなに親密な間柄でもわからないものか……」
「僕からすれば、お前の方が僕よりずっと社会に上手く適合しているように思えるけどな」
「俺は……」少しだけテルマの目の色が変わった。〈私〉には彼が言おうとしていることが想像できた。彼も苦しんでいるということなのだろう。それがいかに自分勝手な苦しみだとしても。「……いや、なんでもない」結局、彼は自分の秘密を口にしなかった。
「それよりも、お前の話だよミハル。一体全体、なんであんな大それたことをしようとしたんだ? 普通、わかるだろ? 日本語パラ憲法キュトスを私的に改訂しようなんて、そんなこと計画すれば、こういう結末にたどり着くってことがさ」
「報道ではなんて書かれているんだ?」とミハルが言う。
「劇場型テロリストとかなんとか。良くも悪くも、お前がやったことは成否に関係なく世界史に名前が残ってもおかしくない犯罪だったからな」
「大体そんなところだよ」
「茶化すなよ」テルマが真剣な面持ちで言う。「俺は、お前の口から、お前の言葉で聞きたいんだ」
〈私〉は奇妙な感覚に襲われている。これでは、あの時の、テルマの告白を聞いた状況の真逆の再演だ。
 一体、ここにいる二人は、〈私〉の知る二人と、どのくらい同じで、どのくらい違う存在なのか。
「…………僕の母親は」
 ミハルは、自分の言葉をひとつひとつ耳で確認するように、ゆっくりと喋り始めた。
「あの戦争で死んだんだ」
「……ああ、それは聞いたことがあるな。それで? ……いや」何かに気づいたようにテルマが口をはさむ。「いや、ちょっとまってくれ。お前は、まさかそのために? 世界そのものを改訂しようとしたのか? 嘘だろ? どれだけピュアなんだよ……参ったな……」
「…………」
 ミハルは無言で、その言葉を肯定した。テルマが椅子の背にのけぞりかえり、天を仰ぐ。
「戦争で亡くなった自分の母親を救うために、過去を変えようとしたのか……」
「…………そうだ」
 ミハルは低い声でそう言った。その声には、後悔も反省も少しも混じっていないことが〈私〉にはわかる。再び、〈私〉の知らないミハルの計画の動機が語られている。〈私〉はけれど、以前のような驚きは少なくなっている。奇妙な納得感があった。〈私ならやりかねない〉と感じるのだ。同時に、これまで自分がその動機を持たなかったことのほうが不自然にすら感じた。
 世界を救う。
 友を救う。
 母親を救う。
 上手くこの感情を表現する言葉が見つからないが、私ならそのくらいやりかねない。無論〈私〉も同じことをやるかもしれない。
「パラ憲法改竄未遂で無期懲役。動機は、死んだ母親を生き返らせるため、か」ミハルは突然笑い出す。「はははは! お前らしいな! 三つ子の魂百までってやつかもな!」
 テルマは胸につかえたものが抜け落ちたように、先ほどと比べて明るい表情を浮かべている。
「俺に理解不能な高度な思想犯罪だったら、どうコメントすべきかっていうことをずっと考えながらここに来たわけだが……とんだ取り越し苦労だったようだ! お前がお前らしい生き方を変えていないなら、親友としてはまあ嬉しいさ。残りの人生でお前との雑談をする時間が短くなったのは、心底残念だけどな」
「悪いな。だが反省はあまりしていないんだ」
 ミハルが言うと、テルマはさらに声を上げて笑った。
「だろうな!」
 ひとしきり笑い終えると、テルマは涙目をこすりながら、ミハルを見つめた。
「けど水臭いもんだな。俺にだけは、言ってくれてもよかったんじゃないのかよ」
「実を言えば少しだけ検討した」とミハルは言う。「だが、言ったところで、お前は僕を密告しなかっただろうし、かといって僕の決心を変えることもできなかったと思うからな。それじゃあ、ただお前まで共犯になるリスクを負うだけだろ。だとすれば、話すわけがない」
「ああ、確かにな。そうかもしれん」
〈私〉は不思議な心持ちで二人の会話を聞いている。立場が逆転した二人は、結局のところあの時間の二人と同じような話をしている。奇妙だが、〈ミハル〉としては変わらぬ友情がうれしいし、同時にこの場にいるのが〈私〉ではなく私なのが少しだけ残念だ。
 改訂前の世界で、〈私〉がもっと腹を割ってテルマに向き合っていたら、〈私〉のいた時間でもこんな会話が楽しめたのだろうか。
「それで」テルマが言う。「お前、今の正直な気持ち、っていうのはないのか? 外に残した未練とか、そういうのが。家族がもういないのは知っているけど、それでも何かあるんじゃないか? この際だ。話せることはすべて話しておけよ」
 ミハルは少しだけ思案気に眉を寄せていたが、すぐに「いや、実のところ、特にはないんだ」と答えた。
「本当にか?」
「ああ。というのも、僕の計画は実のところ、成功している気もしているんだ」とミハルが言う。
〈私〉には、ミハルの言わんとしていることがわかる。
「どういうことだよ?」テルマが訊ねる。
「僕が考えた計画は、その実行を本気で決心したときに、もう始まっていて、そして既に終わっているんじゃないかと考えることがある」
 テルマは無言で続きを促している。ミハルは言葉を続ける。
「僕は日本語パラ憲法キュトスを利用して、現在と過去と未来の意識を接続しようとした。最初は、それは単純に過去を変えるためだった。脳が時制の壊れた言語に合わせて無理やり意識の在り方を変えるとすれば、脳が生み出す意識は現在だけでなく過去や未来の意識に調整される。僕は最初、このことを一つの時間軸で捉えていた。でも仮に、脳が意識を調整する際に取り込んだ言語のバグが、時制だけじゃなくて、仮定法も含むとすれば、意識は並行世界にも飛んでいくかもしれない」
「並行世界論。なるほど。その仮説がもし正しいとすれば、この世界ではない別の世界のミハルが、既に計画を達成しているかもしれない、と」
 ミハルは頷く。
「だとすれば、僕はもう既に、誰かを救ったはずだ。それは僕の母親ではないかもしれないけれど、きっと、別の僕が救いたいと強く願った相手には違いない。なら、それはそれで、僕は満足だ」
「案外、この俺たちの時間を見ている意識の〈ミハル〉もいるかもしれないな」
 テルマの鋭い冗談を受けて、この日初めて、ミハルは楽しそうに笑った。
 二人の会話を聞きながら、〈私〉は少しずつ、自分のやるべきことが明確になっていくような気がした。並行世界の入り混じった、〈私〉の生きるこの輻輳的時間が流れるカント野カンティック・ジャンクションに、他ならぬこの〈私〉がいる理由。
 それはとても単純なことなのかもしれない。
『次』へと、〈私〉は飛んだ。

8.2019年6月13日

「なんとなくだけど、〈ミハル〉とは、もう会えないような気がする」
 名果めいかの事故現場に向かって走っている時、せいが唐突に言った。
〈どういう意味だ?〉
「いや、なんとなくそう思ったんだ。もしかしたら、〈ミハル〉が俺のカント野に入ったことがきっかけで、俺もお前みたいに並行世界の自分と多少つながったんじゃないかな。そうでも考えないと、未来から来たとか、第三次世界大戦とか、そういう突拍子もない話がこんなにスムーズに腑に落ちるわけがないと思うんだよ」
〈だが、そのことと、私と君がもう会えないというのは、どう関係するんだ?〉
「きっと、〈ミハル〉の旅が終わりに近づいているんだ。これまで、何千、何万の俺と〈ミハル〉は出会ってきたんだろう? それはすべて失敗したのかもしれないけど、でも徒労に過ぎないわけじゃないと思う。きっとお前が本当に救いたかった相手は名果じゃないし、救いたいと思った動機は世界とか友人とか母親とか、そういうことでもないんだよ。もっと、極々シンプルなんだよ、〈ミハル〉」
〈君が突然そんなことを言うとは思わなかった。……けれど、そうだな。今の君の話は、私にも妙にしっくりと来る〉
 世は足を止めて、誰にともなく、けれどまっすぐに〈私〉を見つめるように言う。
「ここはもう大丈夫。名果は俺が必ず助ける。ここまで連れてきてくれてありがとう。〈ミハル〉は、もう『次』へ行っていいんだ」
〈私〉の意識がこの時代に焦点を結んだのは、これが最後となった。
〈私〉は、『次』へ。

9.2119年

 見慣れた研究所。
 見慣れたスタッフたち。
 ここは〈私〉が日本語パラ憲法キュトス改訂作業を行った、あの日、あの場所だ。
「ミハル所長、作業前確認全てOKです。予定時間より作業開始可能です」
「わかった」
 あの日と同じ会話が交わされる。
 しかし一つだけ違うことがある。ミハルのカント野にいる〈私〉にはわかる。
 このミハルは、パラ憲法の改竄など目論んではいない。
 ただ自分の能力を、少しでも社会がよくなる方向に使うことだけを考えている。
 日本語パラ憲法キュトスの倫理。強すぎるそれは、倫理と必然性を錯誤させる。ここにいるミハルは、自分がすべきことをただすべきであるという、あまりにも人間的であまりにも非人間的な必然的思考に衝き動かされている。ミハルという人間は、おそらく他の人間よりも少しだけ、カント野の感受性が強いのだろう。周りの人間も、ミハル本人もそのことに気づいていない。ある意味で、このミハルはカント野の必然性の奴隷であり、同時に無垢な必然性の内で生きている限り、誰よりも自由だった。
 そして〈私〉は知ることとなった。〈ミハル〉の長い旅の始まりを。
 改訂作業に使用されるプログラムには、〈ミハル〉がすり替える以前から、バグが存在していたのだ。その事実は、スマートナノマシンへのデータ転送の開始直後に発覚した。作業はすぐに中断された。しかし少しだけ遅かった。〈改訂機〉のすぐそばにいた一人の人間だけ、日本語パラ憲法キュトスの改訂が完了してしまっていた。
 それがミハルだ。
〈私〉が生まれた本当の始まりは、ここだったのだ。
 作為のない人為的ミスによって〈私〉は幾つものミハルやセイとつながった。
 セイの言葉通り、〈私〉の旅の終わりは近い。
 プログラムのバグは、テクストのある一文を誤変換していた。

「他者は自由である」
  ↓
 「他者は自宙である」

「私の半分は目の前の他者である」
  ↓
 「愛の繁文は黙然の他者である」

 単なる変換ミスの文字列を、ミハルの大脳は律儀に読み解き、その規範に合わせて自身の意識を再構築した。
 現実に意味をなしえないはずのテクストが、現実に存在しえないはずの〈ミハル〉を誕生させた。

10.????年

〈ミハル〉の意識が最初に見たのは、目前で黙然と亡くなる〈誰か〉の姿だった。
 それは〈ミハル〉の見知らぬ他者だった。
 それでも〈彼〉は、その〈誰か〉の死を悲しみ、悔やみ、救いたいと強く願った。
〈彼〉は時代と場所を超えて、様々な他者のカント野を渡り歩いた。そして彼らと少しずつ自分の願いを共有した。一人一人の行動は些細なことだった。振り上げたこぶしを静かに下ろす。客が喜ぶ料理を作る。電車で席を譲る。友人に本を貸す。親しい相手に電話をかける。寝坊せずに仕事へ行く。子供に綿アメを渡す。親の話を聞く。大声を出す。笑う。泣く。怒る。悲しむ。〈彼〉はほとんど何も干渉しなかった。〈彼〉はただ、他者の大脳の刺激として一瞬そこを間借りしていただけだ。そうして幾億の意識がさしたる理由もなく接続された。〈彼〉はもはや人格を成していない。ただ2mA以下の微弱電流として人と人をつないでいく。明確に何が起こったのか、おそらく誰にもわからないだろう。程なくして(しかし実際には永遠とも思える時間が経過していたのかもしれない。だがそれは人間の感覚にとっては、やはりほんの一瞬にしか感じられない)あの日の〈誰か〉の命が救われた。

〈彼〉はその〈誰か〉の顔も名前も知らない。

文字数:20401

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