国桜(くにざくら)

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梗 概

国桜(くにざくら)

権力者一族の末裔、桜子(さくらこ)は、母・秋沙(あいさ)を亡くして以来、唯一の跡継ぎとして圧力が掛かっていた。一族の長、父・上国(じょうこく)は秋沙亡き後の縁組をすべて断り、男手ひとつで桜子を育てたが、頑な上国に一族内で反感が高まっていた。

12歳の誕生日を迎えた桜子は頻繁に転倒するようになり、ALSと診断される。余命1年と宣告された桜子を、反上国派が拉致する計画を知り、上国は、娘をALSの根治が可能になる時代までコールドスリープさせることを決意する。上国はコールドスリープの第一人者として知られ、動物実験で長期の生体睡眠に成功していた。上国は桜子が生まれたときから仕えているヒューマノイドのトレバーを改造し、スリーパーを内蔵、桜子の治療ができる時まで守り抜くよう指示した。

ある晩、反上国派の襲撃を察知した上国は、桜子に「今度、桜をみにいこう」と約束して寝かしつけると、トレバーの人型スリーパーに娘を収め、コールドスリープを開始。ヒューマノイドを逃がす傍ら、セーフハウスを爆破し、用意した桜子の毛髪で、その死亡を一族に信じ込ませた。

100年後、人目を避け、僻地を渡り歩いたトレバーは消耗し、コールドスリープを維持できなくなって桜子を覚醒させてしまう。上国の指示では〈永眠〉させるべきだったが、トレバーにはできなかった。身体も心も12歳のままの桜子に、トレバーは上国から託された端末を渡し、真相を明かす。
 コールドスリープの反動から、急激に症状が悪化する桜子。運び込んだ病院でALSを治せるようになったことを知らされた。治療を受けた桜子が回復傾向にあることを確かめると、トレバーのシステムはダウンした。

数週間後、上国の端末に記された座標から、桜子が両親と過ごした家に辿り着く。桜子の誕生を祝って植えられたヒガンザクラの大木に端末をかざすと、幹に取り込まれた100年前のデバイスが作動、上国のボイスメッセージが流れた。メッセージの最初、誕生日を祝う上国の声に桜子が膝から崩れ落ちる。この日は偶然にも桜子の誕生日だった。
 上国は、コールドスリープの決断を悔いていないとしながら、桜子に嘘をついたことを謝った。会えなくなるのは辛いと涙ぐみ、それでも生きてほしい、秋沙も自分も桜子を永遠に愛している、と締めくくる。メッセージが終了しても桜子の涙は止まらない。

ひとしきり泣いて、桜子が立ち上がると、上国の端末を幹の洞に仕舞い、離れて見守るトレバーの元へ。トレバーの意識はかろうじて回収でき、新しいボディに移し替えられていた。「もういいのか」と尋ねるトレバーに、桜子は「またこよう」と冷たく柔らかいヒューマノイドの手を握る。温かく小さな手を握り返すと、トレバーは桜の大木へ深々と頭を下げた。
 一人と一体が去った丘で、風が桜の花びらを巻き上げ、一片が洞の中の端末へ舞い降りた。

 

 

 

文字数:1184

内容に関するアピール

ある楽曲の詞に「百年先も愛を誓うよ 君は僕のすべてさ」というフレーズがあります。ウェディングソングですが、父娘の想いも似ているように感じます。一方向ではなく、互いに思いやる気持ちです。

今から100年後、世界は少しだけ進歩し、「愛」は形を変えても、時を超えるものであってほしいものです。そこで、「普遍的な題材を感情豊かに、ほっこりする作品」を選びました。
 桜を主軸として和の雰囲気を、タイムトラベル的な展開で時間の遷移を早めました。作中の「現在」は2020年代としています。
 上国は、北海道で発見された桜色のマンガン鉱で、マンガンは生物(特に植物)の成長に欠かせないことからネーミングしました。

実作では、三人称視点のもと、上国がトレバーを逃がす直前に始まり、跋渉するトレバーの回想で過去を、100年後、任務を遂行したトレバーが死亡(に見せかけ)、エンディングという構成を考えています。

 

 

 

文字数:393

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国桜(くにざくら)

一.2021年3月26日

「こちらアルファ。スタンバイ」
「ベータ待機。距離、30メートル」
「ベータのシグナル確認。依然、セーフハウスからの出入りなし……〈プレハティット〉、プロテクター2名、配置完了」
左右の耳それぞれに応答が届く。
骨伝導イヤフォンを通し、ベッドサイドに腰かけた男は部下の声を瞬時に聞き分ける。が、男の声は操作をしない限り二人には届かない。
手元に目をもどし、男がページを捲った。
「『おひめさまはいいました。《どうして、おとうさまは闘わなくちゃいけないの?》」
「……〈プレハティット〉、ご指示を」
左耳の声が戸惑い気味に促した。
こめかみを押さえ、男は絵本から視線を移す。枕にしずむ寝顔は穏やかだ。
口元を隠すように絵本を持ちあげ、左耳の後ろに触れる。静かに立ち「電子トラップは無効化してある」とテーブルのホロ時計に目をやり、「計画通りだ。われらが姫君をみつけ、お連れしろ。おもりのボットは故障している。通信系統もおさえた」と指示を伝える。
補聴器にしかみえない〈プレハティット〉専用に作らせた通信機は、市場には出回らない世界に二つとない品だ。その性能と、複数の声を聞き分ける自分の才に、高鳴る鼓動をいつも以上に快く感じる。
権力とカネの特権に陶酔し、ふと、拳に力が入った。「あなたはそれを捨てようとしているのだ……上国どの」
〈プレハティット〉の頭に、ひとりの姿が浮かんだ。同じメガネの特徴もない男だが、〈アマツキ・グループ〉創設者の血筋という天賦がある。
世界有数の大企業の、古い血脈の末裔は二人しかいない。そのひとりが〈アマツキ・グループ〉会長、天月上国(あまつき・じょうこく)だった。四十にしてその地位へ就いた男であり、〈プレハティット〉直属の上司だ。
前会長亡きあと、清流を遡上する鮭のごとく老獪たちをすり抜け、上国は難なく天翔る龍となってみせた。そして影として支えた〈プレハティット〉は、龍の右腕として君臨した。
「いっときの妄信で、天月の血を途絶えさすわけにはいかない」
薬指に光るリングを擦る〈プレハティット〉の声は、ほの暗い。
グループを掌握した上国は、まもなく人生の伴侶を見つけ、嬉々と力から距離を置いた。
そして、龍の子を宿した。
「公にするべきではなかったのですよ」と、かつての腹心が首を振る。
上国は愛娘の誕生を堂々と発表した。あたかも、後継者は決まった、と宣言するように。
立体映像の時計にメルヘンチックな絵本をかぶせ、男が足音を立てずに歩きだす。
後ろ手にドアを閉めると男は、ポケットからメガネを取り出し、両手で耳へかけた。
「アルファ、ベータ……姫をつれてこい」

「ジャミングされました、上国さま。まったく、ジャマなテクノロジです」
「前に、うちのCEOの携帯を妨害したろ?」
さらっと主人に言い返され、どことなく似た顔の無機質な目がまばたいた。
「わたしは陽彦あきひとさまの通信をループさせただけです。ルーティングとジャミングは別モノですよ」
ほら懸垂して、と上国に指示され、ソーセージを大きくしたような上腕と下腕の間が、くびれた白い腕をあげる。
天井から吊り下がった鉄棒を、合成プラスティックと金属の骨組みの手がつかむと、上国が胴体の腹のあたりで工具を動かした。
ガチャッ、と鳴っては、ヒューマノイドの身長が伸びていく。
「諜報に詳しいのは上国さまのおかげです」
「それってぼくは喜ぶべき?」
「わたしはただのしがないヒューマノイドですよ。とてもマスターに指図できるタチでは……あ、A-9のボルトを緩めてください」
トレバーの腹囲がベルトみたく帯状に点滅して位置を示す。
「お、わすれてた」
言われた部分を解くと、トレバーの下半身だけが切り離され、器用に床へ足をついた。
二本の脚と、子ども一人が収まる椀状の下腹部がひょこひょこと横歩きして、感触を確かめている。上半身とつながったカラフルなケーブルの束がつられて揺れた。
ヘソから上だけが、ぶらさがった半身のヒューマノイドを眺め、角縁メガネが、ふぅんと変わった鼻の鳴らし方をした。
「PFCを満タンにしたら、あまり動くんじゃないぞ?量、もってこれなかったから」
ポケットからファブレットを取り出し、上国がタイピングを始める。加速していく指の動きに反して、色白の顔が無表情になっていく。
ちらっと、主人の顔をうかがったヒューマノイドは、なにか言うかわりに上国の背後へ目をやって何度か金属のまぶたを打ち鳴らした。
「OK,right。これで君のものだ。腕を、拝借」
「ではこちらで」
「よし、ケミカルスキンに装着。感覚は?」
上腕二頭筋が押し込まれて長方形にへこむ。ファブレットの四辺を合成皮膚がつつみ、厚めのカバーを造った。
端末のコネクタに筋電繊維を接続しながら、トレバーが「接続良好。コールドスリープデータを取得します」と情報を読み込んでいく。
「おわったらセルフチェックしといて……桜子をつれてくる」
ヒューマノイドの腕に埋め込んだ端末をトントンと叩くと、デバイスの管理者権限がトレバーへと、書き換えられていった。
(すべて私に?この座標は……)
「トレバー、状況は?」抱っこした桜子の背をトントンしながら上国が戻ってくる。
「え?あ、はい。パーフルオロカーボン液、充てん完了まで11パーセント。JCSSプロトコルをローディング済みです」
「JCSS?」
「ジョウコク・コールド・スリープ・システムです。開発者の名をつけるのが伝統です」
いつの間にか食卓へ持ってきた空色のシーツを敷き、ヒューマノイドが小脇にはさんだ枕を置いて整える。
「Thanks,Tlebur」上国が桜子を簡易ベッドに横たえると、トレバーはダイバーが着るようなスイムウエアを手渡した。次いで「いまからでも遅くありません」と妙にまじめな声で諭す。上国が桜子のパジャマのボタンを外していくと、くるりと背を向けた。
「いや、桜子には時間がない。それに、陽彦が気づくころだ。君の故障が偽装だとしったら、今度は部隊を送りこんでくる」
「上国さまは、〈アマツキ・グループ〉の首領ではありませんか」
「うちの会社を賊みたいにいわないでくれ。後ろ暗いのは、ぼくもわかってる。だけど」寝息をたてる娘をそっと、寝返りさせる。
「ぼくはここで秋沙(あいさ)と出逢った。そして桜子をさずかった。紛う方のない事実だよ。だから会社にも……感謝してる」
「秋沙さまは、お喜びになるでしょうか」
「よしてくれっ!」
ヒューマノイドの背中を上国が睨みつける。荒げた声がリビングに虚しく響く。
「うぅ~ん」目をこする桜子に、父親は鋼色の髪をなで、額に口づけた。
眠ったことをたしかめ、ヒューマノイドの正面に回りこむ。
(その話はしないって約束したろ)
(たしかに。しかし、勝算が低すぎます)
声をださない上国だが、トレバーの胸パネルに浮かぶ文字で頭に来ているのは、読唇術を使うまでもない。
詰めよった上国を手で遮ってヒューマノイドの筆記が続く。
(上国さま、脊髄損傷の治療すら、はじまったばかりです)
「……なにがいいたい?」
うなる上国の背後を指さし、トレバーが口元に人差し指を立てる。
(筋萎縮性側索硬化症の治療法は、確立されるとお考えですか?)
ヒューマノイドへ反論しかけ、首をよこに振った。大きく息を吐いた上国が目を逸らす。
(正直、見当もつかない。うちのメディカルも急かしたけど、ぜんぜんダメだし)
(〈ルナ・メディック〉は世界最高の医療センターです。ほかの製薬、ジーンキュア関連会社も長いことALSの治療に取り組んでいますが、ブレークスルーはまだありません)
(医療の進歩は速い。十年かそこらすれば、うちじゃなくてもどこかが方法を……)
希望的観測で、ご息女をされるのですか?)
ガラスの目が上国を見つめ返す。
感情の読みとれない無機質な瞳に、やつれて青ざめ、隈の目立つ男の姿がうつっている。血走った目はまるで狂人だ。
「トレバー、ぼくは……」
「部隊がちかづいています……お急ぎを」
ヒューマノイドの胸から文字が消え、陶磁の白から暗黒色に変わっていく。全身のケミカルスキンが周囲にもっとも溶けこみやすい迷彩柄を選び、執事が戦闘員へと様変わりする。
頭を振って上国は桜子の着替えを速めた。
「デコイの座標は記憶したな?本物のピットの欺瞞はなるだけつづけるけど、あまり当てにしないほうがいい」
トレバーが体につながったチューブの束を手早く引き抜く。すこし残ったカーボン液が床板にねっとりした水たまりをつくった。
「いいか、トレバー?なにがあってもぼくをさがすんじゃない。ぼくのほうがさがしにいく。アマツキの者には気をつけるんだ。それと……それと……」
「上国さま」
真っ黒になったトレバーが肩に手を置く。
「十数年の辛抱でしょう?そのときは桜子さまとお花見、しましょう」
「トレバー……」鼻をすする上国の肩をもう一度たたき、トレバーは、腕を振り上げた勢いだけで懸垂棒につかまった。
真っ二つになったヒューマノイドの腹部に透明な液体が満たされ、ぼぅっと、エメラルドグリーンの明かりに水面が揺れている。
「パパ……」
眠たい声が上国を呼んだ。抱きあげた上国の足が止まる。プロペラの音が近づいている。
耳元へ顔を近づけ、上国が「ここにいるよ、桜子」と囁いた。目を閉じたまま、「パパ……だいすき」と桜子が吐息をもらす。
メガネを投げすて、上国が天井を仰いだ。
もう一度、桜子の額にキスをすると、父親はポケットからハンカチのようなものを取りだし、娘のうなじに押し当てた。
(バイタル低下、鎮静剤投与開始)
実の娘に、医療用では決して使われない、特殊な鎮静剤を投与した自分の主人が本当に善しいのか、ヒューマノイドには判断がつかない。
ただ、ヒューマノイドでは理解しえない想いがあって、その想いを尊重するのが、自分の務めだということはトレバーにもわかった。
それでも、化合物の浴槽に娘の体を沈めていく父親へ、問わずにはいられなかった。
「上国さま、本当によろしいのですか?」
「完全に肺がみたされるまで、モニタリングをおこたるな?最初はくるしいだろうけど、鎮静剤がやわらげてくれるから……」
「上国さまっ!」
桜子は深い眠りに落ちた。もう声を潜める必要はない。
見下ろす鋭い声に上国が顔を上げる。
「コールドスリープがはじまれば、すぐに解除はできないのですよ?考えなおすならいましか……」
見上げてくる黒の双眸をとらえ、ヒューマノイドが口をつぐむ。
「……そう、でしたね」
首元まで青緑の液体に浸かった桜子の上に、トレバーの上半身が音をたてずに降りてくる。束ねる時間のなかったケーブルを、上国は、娘の顔にかからないよう、払いのけていく。トレバーの胸郭の下、人間でいう胃の辺りからフェイスマスクを引っぱりだし、隙間ができぬよう、あどけない寝顔にかぶせた。
娘から手を離す間際、上国の唇が動く。(ごめん)と。
「チリ~ン」
アナログな侵入通報器が次々にクラシカルなベルを鳴らした。連動して開いた地下通路の、ダミーを含めた床板がギィギィ騒ぐ。
上国が念入りに最後のボルトを締め、トレバーが簡単に緩まないよう、工具代わりの指先で細工をほどこす。たくれたシャツをおろす要領で、ケミカルスキンを引きのばし、ボルトを覆い隠した。ヒューマノイドが背筋を伸ばす。
「娘を……桜子をたのむ」
用済みのレンチをテーブルに投げ、ひと口、息を吸った上国が深々と頭をさげた。
婿入りする娘をたくすような、それでいて諦観したところのない父親の、くやしさと自責のまじった、丸い背中の礼だった。
「おまかせを、上国さ……お義父さま」
礼を返しかけ、腹に負担をかけてはいけないことをとっさに思いだす。態度の大きい婿だ。
「にやけたな、〈信頼依存言語超越統合執事〉め。いっとくけど、娘はやらないよ?妙な気をおこしたら……アマツキの名にかけて消しさるから」
「……ご冗談を」
庭でドンッ、と鈍い音がする。あちこちで似たような落下音が続く。古典的トラップの落とし穴は、現代の部隊にも効くらしい。
「潮時だな。トレバー、いけっ」
トレバーの肩をたたく上国。その手には丸めた子どもサイズのパジャマと、たったいま取り出した長めのボールペンが握られていた。
「それは……上国さま?」
両方を見やったトレバーを地下通路のほうへ促す。
「パジャマ?三日は洗ってないから、桜子の香りが……いやDNAがたっぷりついてる。あとは炭素体だな……にらむなって。それくらいしないと。うちの社員はほら、ムダに出来がいいから」
「いえ、そうではなくて、左手のその……」
突然、家中のスピーカが男の声を吐きだす。
『上国どのっ!お話があります!玄関から出てきていただけませんか!』
本物の地下通路の入り口に立ってトレバーが振り返る。何人もの気配が取り囲んでいた。
上国はすでにこちらに背を向け、玄関へ向かっている。浮かせた左手が親指を立てているようにみえた。
(上国さま、どうか……)
合金のまぶたを閉じ、トレバーは足元の降下ボタンを踏みこんだ。
自由落下以上の加速を、ヒューマノイドだからこその筋力で耐える。
遥か頭上で、オレンジの光が瞬いた。

『……先ほど、世界的な医療企業グループ〈アマツキ・グループ〉の会長で、〈ルナ・メディック〉主席研究員の天月上国氏の別荘にて大規模な爆発がありました。同社の発表によると、天月氏の研究による爆発とみられ、氏は軽傷であるものの、今回の爆発で天月氏の息女、天月桜子氏が死亡との……』
こめかみに触れ、脳内のニュース映像を消す。
やや肥満体形の腹を、トレバーの金属の指が擦った。就寝の時間になったのでテレビを消したが、眠り続ける彼女には見えない。
星のみえない夜空を見あげ、ヒューマノイドは〈覚醒〉の日付が空欄のプロトコルを読みだす。腕のファブレットが唯一の灯りの中、『StartDeep-Sleeping』に触れた。
ごぼっ、と水を飲みこむ音が腹の中で、トレバーの多すぎるセンサ経由で、ヒューマノイドの意識へ無慈悲につたえる。
すかさずボルトを解除しかけ、寸でのところで拳をつくる。もう、腹を蹴る感覚はしない。
「桜子さま、星がみえる場所へいきましょう」
街を見おろす丘の茂みから、人の気配が消える。ヒューマノイドのつぶやきは、春先のすこし冷たい風にさらわれ、音をなくす。
川向こうの摩天楼では、くすぶっていた炎が消えるところだった。

二.タイムレコード:2021年4月26日

……桜子さまのコールドスリープから一ヶ月経過。PFC漏れなし。電源供給安定。JCSS、および〈T.L.E.B.U.R.OS〉オールグリーン。機密保持のため現在地は記せないが、北へ移動中。この国で一番うつくしいというサクラを目指すことにした。桜子さまに直接お見せできないのが残念。
どう花見客に変装しよう

タイムレコード:2021年5月1日
JCSSと私のシステムは問題なし。花見の前にデコイ〈No.323〉へ向かったが、〈LM〉の者が大勢いた。コンテナ検知用のハッシュキーを散布したが応答なし。〈No.323〉は破棄とする。幸先多難。コンデンサの予備を回収しておきたかった。
上国さまはご無事だろうか

タイムレコード:2021年5月5日
……東北太平洋側のサクラの名所へ来た。人の数が多すぎて接近は断念。最大望遠で写真撮影のみ。いずれ桜子さまにお見せしよう。今日は端午の節句。桜子さまにはあまり関係がないと上国さまは言っていたが、子どもの日なのだから祝っていいはず。うっかり桜子さまの誕生日をスルーしていたことは機密。
桜子さま、13歳、ハッピーバースデイ

タイムレコード:2022年3月20日
……冷却装置を交換。間に合ってよかった。ここまでデコイを16カ所まわってパーツの回収ができたのは5。3カ所でトラップを確認。相当数のデコイの位置が敵に漏れている。
まだダミーだからいいが、トゥルーピットは大丈夫だろうか

タイムレコード:2022年4月4日
……ハッピーバースデイ、桜子さま。ガイドに載っていない場所だが、山奥にうつくしいシダレザクラを見つけた。きょう一日はここで充電がてら花見。サクラの下でじっとするだけ。花見のとき、桜子さまが身じろぎした!覚醒の予兆かとあわてたが、バイタルは異常なし。
嬉しかったが、桜子さまの気持ちを考えると喜んではいけない気がする

タイムレコード:2026年1月6日
……最後のデコイで敵と戦闘。連中が上国さまで私を釣ることくらい、予想していたのに「上国をたすけたくば所有権をゆずれ」と言われカッとなってしまった。連中は全滅したが、ボディの損傷甚大。次のピットへすぐ向かうわけにもいかない。私の所有権を継ぐのは桜子さまただ一人だ。
だれが太陽野郎に

タイムレコード:2033年2月3日
……システム良好。経年劣化はそこそこきているが、まだ問題ない。上国さまが言っていた10年が過ぎた。世界は驚くほど変わっていない。大企業が地球規模で覇権を競い、それぞれ切り札を隠している。かつての冷戦のようだ。
医療は先行例の失敗が続き、停滞している。先は長い

タイムレコード:2040年9月11日
……あと半年あまりで桜子さまが32歳をむかえる。成長はストップしているから、体は12歳のままだが……。嫁がれてもいい年頃か。きのう、ALS新薬の話題があった。治験だから応募はできない。
でもきっと、桜子さまのウェディングドレス姿はすぐに見られるはず

タイムレコード:2044年8月15日
……膝関節のパーツが底をついた。再生産用のプラントの使用期限は残り3年。上国さまの想定もここまでか。ガッカリはしない。陽彦さまが心不全で逝去した。最期まで桜子さまを求めていたらしい。上国さまが暫定でグループを継ぐそうだ。これで陽彦さまの資料も葬り去られるだろう。本当に長かった。
じき、上国さまからも連絡があるはずだ

タイムレコード:2058年12月24日
上国さまが……上国さまがお亡くなりになった……なぜです……桜子さまはとのお約束は!?
みなで花見をしようと約束したではありませんか

タイムレコード:2060年11月10日
……トゥルーピットの2/3を消化。桜子さまの眠りは深いが脳波は安定している。〈プレハティットコープ〉が破産手続きを開始した。当分、残党が資料漁りをするだろう。
しばらくまた逍遥しましょう

タイムレコード:2121年3月21日
……JCSSプロトコルエラー。PFC残量危険域。コールドスリーパーは限界だ。予備パーツは使い切った。維持はもう無理かもしれない。
この数日、上国さまの言葉を思い出している。
「再スリープの機構は未完成だ」と言って私のほうを向き、あの言葉を淡々と語る。
「スリーパーが修復不能になったら、そのときまだ治療法がなければ……桜子を
コマンド『LoveisForever』が頭を離れない。
私は…………

三.2121年3月7日

「……ささっ、桜ここ子さま」
ガイコツがぬっと、のぞきこんでくる。片方の目がなく、黒い穴の奥でパーツたちがギシギシ音をたてている。
「トレバー……?」
昔、人工皮膚の下をみていなければ桜子は悲鳴をあげたかもしれない。だからなのか、くすんだ鉄色の顔を恐いとはおもわなかった。
「よよよ、よかったっ!お、おきられますか?」きしむヒューマノイドが一歩さがる。
桜子が力を入れたとたん、体がよろめいた。短い腕が「いけない!」と桜子をささえる。
「あうぅ。トレバー……そのうで、どうしたの?」
後ろから抱きおこすトレバーの、肘から先がなくなっていた。ケミカルスキンはほとんど剥がれ落ちて、あちこちの駆動部が露わになっている。胸の白い部分も、へこんで蜘蛛の巣状に亀裂が走っている。
「あ、あ~な、なんでもあり、ありません。ちょっとぱ、パーツがなくなっただけです」
カタカタとトレバーが顎を鳴らした。
「パーツなら、パパのラボにあるよ……あれっ、ここ、どこっ?」
桜子が座っているのは芝の上だった。スズランやタンポポがところどころに咲いている。青空の下にはそんな原っぱが見わたす限り続く。遠くには樹も立っているが、目をこらしてもぼんやりとしかみえない。
「34番のセーフハウス?……わっ!」
足が一瞬、大地を踏む。
けれどすぐ、力が抜けて言うことをきかない。
「……そっか、あたし……病気だったね」
しずんだ声にトレバーがそっと、肩から毛布をかけた。
魔法の絨毯みたく、いきなり動きした毛布は、瞬時に体を覆った。慌てる桜子にトレバーがガチャガチャ、と顎を動かして「な、ナノファイバーのき、生地ですよ。桜子さまを認識し、して体にあ、あわせてく、くれます」と説明。
「保温と除湿、防水までそなわった二十二世紀のす、すぐれものです」と付け加える。肌寒かったのが、いまはほんのり温かく感じた。
「22世紀?またパパの変なネーミング?」
自分を見あげてくる無邪気な顔に言葉が出ないでいると、突然、青空を突き破ってなにかが現れた。
大小の人影は、アロハシャツを着た背の高い男が髪を肩まで伸ばし、「おっと失礼した。他人様の〈ルーム〉に踏みこんでしまったようだ」と、優雅に一礼した。もう一人は紺の制服の上下に、幼い目をぱちくりさせている。
背高の男は桜子とあまり変わらない背の子に「ケンジ、公園を散歩するときには、〈プライベート・ヴァーチャル・リアリティ〉に気をつけなきゃな。わたしみたいに他所様の部屋に入ってしまったときには、ちゃんと謝ること」と指を立てると、その子はペコリとお辞儀した。
「よくできました。さっ、ケンジ、宿題のつづきといこう」
アロハシャツはもう一度、桜子に会釈し、トレバーに目をとめる。
桜子にはわからない言葉を発する男に、トレバーも、聞いたことのない言語で返すと、男が目を見ひらいた。
「おじょうさんは、ふるい相棒をお持ちのようだ……すこし、いたわっておあげなさい」
「よよ、余計なお世話で、です」ふらついて、うまく立ち上がれないトレバーに目を細めると、男は子どもの手を引いて、現れたときのように唐突に消えた。
「……ねぇトレバー?いまのひと、なんていったの?」
「『自分を大事に』とかなんとかです。き、気にしなくていいですよ。それより桜子さま」
かろうじて指が残っているほうの手で、トレバーが近くに生えたタンポポを引き抜いた。どこまでも続いた野原がわずかに揺れ、たちどころに消えていく。
遠方の樹に代わり、目の前を天をつく摩天楼が立ちはだかった。どこを見回しても頂上のみえない建造物が上を目指し、わずかに残った青空は、大小の点が飛び交っていた。
「こ、ここはセーフハウスではありません。あ、安全ではありますが……」
こちらをおぼえていますか、とトレバーが胸部のヒビ割れに無理やり、手を突っ込む。おもわず目を隠した桜子が指の間からみていると、隙間からなにかをつまみ出した。
「あっ、それ、あたしの!」
「さ、さようです……ご両親の御守りです」
ヒューマノイドが差しだしてきたのは、シルバーのバングル(腕輪)だった。
大きさは桜子の手首に嵌まるくらいで、輪の中央にエメラルドグリーンの石が装飾を施している。銀糸をねじった形状は、ちいさなティアラにみえなくもない。懐かしそうに掲げた桜子が「パパったらトレバーに隠してたのね」と手首につけて嬉しそうにしている。
「上国さまは、と、ときがきたらお渡しになるようにと」
「とき?」
はい、とヒューマノイドが目を伏せたのが桜子にもわかった。鼓動が早くなる。
「トレバー……?なにがあったの?パパはどこ?」
「じょ、上国さまは、お亡くなりになりました……63年前に」

トレバーはすべてを桜子に明かした。
娘自身の気持ちをきくことさえせず、いっそ娘が病に斃れるならと、予測不能の未来の奇跡に、娘の人生を賭した桜子の父親のことを。
ただ、アーカイブの映像を交え、ヒューマノイドとして考えたことを桜子に説明しても、自分がどうおもったかは決して明かさなかった。
かつての面影をほとんど残さない未来の街の、名前だけは変わらない超都市・東京の片隅で、望んだ景色を見せるをシャットアウトした空間で、唇をかみしめながら涙をこらえる、若干、歳の少女の荷をこれ以上、増やしたくなかった。
桜子の身内は、もうひとりもいない。
そんな少女に、「貴方のお父さまはいささか狂っておりました」と告げる無神経さを、無機質な人工物とはいえトレバーは持ちあわせていなかった。

「……ここは、セーフハウス〈No.34〉の近くですが、グループ倒産後は、と、新都市開発でビルが建ちました」
海藻みたく帯状に伸びた高層建築を見あげ、ヒューマノイドが口を閉じた。語り終えるまで持ちこたえていた顎のボルトが、カキンッと鳴って砕ける。最後のボルトだった。
「桜子さま、上国さまは貴方さまへ……」
「うそっ……パパが死んじゃったなんて……トレバーのうそつきっ!」
「桜子さまっ!」
駆け出した背中を追いかけるべく、トレバーが体に指令をだす。
(【Warning】ハードウェアに深刻なダメージ)
立ち上がりかけ、そのまま地面に突っ伏した。けたたましいエラーが想定年数をはるかに超えた酷使で、ボディが動作不能になったことを繰り返している。中枢システムはまだ情報を伝えてくるが、体がピクリともしない。
(桜子さま……)
転倒で残ったほうの視覚センサも破損した。それでもトレバーは、足を引きずるように走っていくちいさな姿がみえた気がした。

「おっと。急いでどこいくんだ、嬢さん?」
固いものにぶつかって尻もちをついた桜子の前に、だれかがドカッとしゃがんで目を合わせてきた。燃えるような金髪が逆立ち、耳からいくつものイヤリングを肩まで垂らした、性別も年齢もよくわからない人だった。
ニタニタした顔に唾を飲みこみ、「ごめんなさい……ことしは、なん年でしょうか?」と尋ねる桜子に、ニタリ顔がやたら長いまつげをパチパチさせる。
「やっぱりいいです」起き上がろうとする桜子に「立てるか嬢さん?」とプリント基板のタトゥで肌もみえない手が伸びる。おそるおそる手を取る桜子に、人が悪そうな顔は「2121年だ。きょうは3月7日金曜のウィークエンド」と、もう一方の手のひらを掲げる。浮かぶホログラムには、桜子が上国の研究室で見慣れた世界時計がいくつも並び、いちばん上には『2121年3月7日金曜日13:48JST』と日本語で書かれている。
「2121年……」
あの日、上国は「週末は花見にいこう」と桜子に約束した。それも金曜日だった。
けれど、それはもう百年前のことだった。
「嬢さん!?」
ふらついた桜子をタトゥの人物が支えた。
いつの間にか、その額には赤い十字が表示され、『MEDIC』と文字が下についている。素早く、けれど優しく桜子を抱えあげた。
「おいおい!?メディカル、じゃないか……ええっと、病院!病院にいくぞ」
薄れゆく意識のなか、桜子が思いうかべたのは、ボロボロのヒューマノイドの姿だった。

桜子は長い長い夢をみていた。
父も母もいて、森の空き地に立ったロッジの庭でピクニックをしている。すぐ脇には、高いサクラの木。桃色の花びらが雪のようにはらはらと舞っている。
近くへ行こうとする桜子の前に、バスケットボールほどの白い球体が立ちふさがった。
『サクラコサマ、ユックリ』

「トレバー!」
跳ね起き、桜子が部屋を見回す。壊れかけのヒューマノイドはどこにもいない。
部屋はどことなくセーフハウスの寝室に似て、本棚がならんでいる。窓が一カ所にあってレースが風に揺れていた。
布団を触るとソロソロと動いた。トレバーのくれた毛布と同じだ。
「うぇ~い?!」横から大げさな声がして目をやると、逆立つ金髪が転けた椅子をもどしていた。布団が体にまとわりつくのを確かめ、桜子が近づいていく。
「あのっ、ニタりのかた、トレバーはどこですか?背がこれくらいで、腕がない……」
「ニタりって……むかしの変質者みたいじゃん」がっくり肩を落とすニタニタ顔に、ごめんなさい、と頭を下げながら、桜子がヒューマノイドの特徴を挙げていく。
「嬢さん」回路のタトゥを刻む手が遮った。
「トレバーはトレースの準備中だ。すぐ会わせるから、まずはあんたの具合が聞きたい」
「あたし……?」
よく動くだろ、と足元を指されてようやく、桜子は自分が立っていることに気づいた。
かろうじて、ではない。ふらつくこともなく、いつまでも立っていられそうだった。力が抜けていく感じがすっかりなくなって、体が軽くなった気までする。
「すごくいいです。いま走りたいくらいに」
「そうか、そりゃいい。うん、効果はバッチリみたいだな」タトゥの両手がグーをつくる。
「効果……?あたしになにを?」
「〈ラジトランス〉の投与だ。10ミリグラムきっかり。詳しくしりたいんならあとで説明するけど、こいつは新薬だ……ALS根治のな」

嬢さん、マジでついてたぜ?と親指をグイグイあげながら、金髪は椅子を引いてきて、背もたれに顎を乗せた。
「〈ラジトランス〉が筋萎縮性側索硬化症の根治薬として日本薬局方の第三十八回改正で承認されたのが、先週だ。まあ、特例でもできたんだろうが、嬢さんみたいに身元がはっきりしてないと、ちーっと難しかったかもな」
「あたし……なおった、んですか?」
拳を握って開く。ちゃんと握れて開けた。うつむく少女に金髪が佇まいを直す。
「信じられんのも無理はないな。ALSは前世紀のはじめっから、どうにもならんって、メディカルは頭をかかえてたし……患者だってそうだろ」と金髪が桜子に手を向ける。
「筋電図もフリーラジカルの値も安定してる。あとは嬢さんのフィーリングってとこだが……ともかく歩行は大丈夫そうだな」
手のひらからホログラムのカルテを浮かびあがらせ、パラパラめくって表示を消す。
「タトゥさんはどうしてあたしのことを?」
「そうきたか!このスミ、いいだろ?」
無表情で見返してくる桜子に、咳払いしてから、タトゥの人物が立ち上がる。
「そりゃ嬢さんの相棒のおかげだ。俺がいうのもなんだが、ありゃ、相当な親バカだな」
「……トレバーにあわせてください」
唇をぎゅっと結んだ桜子に、金髪が瞳孔のない目を向ける。
「ショックだろうが嬢さん……にあまり気ぃ遣わせるなよ」

トレバーの状態は、かなり悪かった。
損傷の激しいボディは再起動にも応じず、交換しようにもパーツがない。金髪こと、アーベットいわく、トレバーのパーツは特殊なうえ、「再生産できないシステムが組み込まれている」らしい。ハッキングか、改造を防ぐための仕組みだそうだが、「百年以上前にどうやって」とアーベットも首をかしげた。
そんなアーベットの説明は、ほとんど桜子の耳に入らなかった。
頭部を外され、雑多なケーブルにつながれたトレバーは、一つあったほうの目も、暗い眼孔だけが空いている。桜子の呼びかけに「サクラコ……サマ」と片言でしか返事がない。
「トレバーっ!……ごめんね。あたしのせいで……」
抱きついた桜子にまぶたがカタッと、答えた。
「『違います』、だとよ」
離れて立っていたアーベットがいつの間にか、桜子の横にしゃがんでいる。
泣きはらした目に非難がましく睨まれ、けれど、中性的な顔は穏やかに言葉をつむいだ。
「嬢さん、俺が通訳してもいいかな。トレバーのスピーカはガタが来てる。だから無線で俺に代弁させてくれよ。一言一句、そのままつたえるから」
アーベットに運び込まれる前、街でも男が、桜子にはわからない言葉でトレバーと会話していた。違う国の言葉だとそのときはおもったけれど、機械たちの言葉だったようだ。
「じゃあ、アーベットさんも」とおずおず尋ねる桜子に、金髪は、ただ静かにうなずく。
カタッカタッと、トレバーのまぶたが動いて、アーベットが目を細めた。「もうエネジーが厳しいか」と言ったきり、まぶたを閉じる。
次に長い睫毛が開いて「サクラコサマ」と呼んだアーベットの瞳は、黒になっていた。声も顔もアーベットのままだが、桜子にはトレバーが話しているのだとわかる。
「……貴方のせいではありません。上国さまが提案し、私はお引き受けしました。それだけのことです」
「でもトレバーが」鼻声が錆びた頬を擦る。
「私は責務を果たしたのです。桜子さまを上国さまの言った未来へ、お守りすることができました」
アーベットのセンサを通してみました、と通訳の口を借りたトレバーがほほえむ。「ヒューマノイドがいうのもなんですが」と前置きして「本当に信じられません」と声が震える。
「本当に……桜子さま、具合はだいじょうぶなのですか?」
「うん……ほら、ジャンプもできるよ」桜子がその場で跳んでみせた。
「おおっ……奇跡とは、実際におきるものなのですね……上国さま……貴方はこの賭けに……げほっ」
咳きこんだアーベットがこめかみを押さえた。素早くまばたきした目からは瞳が消えている。
トレバーのまぶたは完全に閉じていた。
「トレバー……?トレバッ?!アーベットさんっ、トレバーは?」
「時間切れか……嬢さん、トレバーのシステムがダウンしかけてる。安心したんだろう。いまのうちにサルベージをはじめる」
桜子の肩に手を置くと、アーベットが「トレバーが嬢さんに、ってよ」と大きめの端末を差し出した。ファブレットの画面は割れていたが、明かりはついている。『ToCerasusI.』のボタンがゆっくり点滅していた。
「いつまでかかるかわからんが……好きなだけいるといいぜ」
「……ありがとうございます」
上国の端末を抱え、桜子が頭を下げる。
口を開きかけ結局、アーベットはなにも言わずに、足音が遠ざかっていった。
バタンッ、と端末が床にすべり落ちた。
「トレバーっ……おいてかないで……」
少女が金属のガイコツにしがみつく。
その慟哭に人も機械も、大切なものを思いうかべずにはいられなかった。

四.2121年4月4日

かすかに残る寒さが、季節は春をむかえたばかりだと教えてくれる。
冷たい風が名残惜しげに頬をなでていった。
「こっちであってるのかなぁ?」
十代かそこらの空色のジャージの女の子が手首のファブレットと、にらめっこしながら獣道をぬけてくる。
その後ろで中性的な声が「座標はこっちで」と言い終わる前に、女の子は駆けだしていた。
「うわぁ……」
うっそうとした森林がとぎれ、目の前が明るくなる。ちょっとした空き地が広がっていた。
おとぎ話に出てくるような丸太小屋がひっそりと建ち、生い茂った緑にしずんでいる。四角い煙突に三角屋根。玄関は茂みに背丈をこされてドアノブすらみえない。
そして、ひときわ目を引く一本の大木。
小屋へ寄りかかるように枝をのばす先は、ほのかサクラ色に染まる。

「ここが、あたしの家……?」
目を細める桜子。小屋の前はトレバーが草をなぎ払ってくれたおかげで、玄関までの階段がのぞいていた。
バサッ、とその細身が手刀を振るい、「桜子さまがお生まれになった家です。ええい、この皮膚は柔だ」と継ぎ接ぎのない首を擦った。
「このサクラは……おぼえてる」
大木に一歩、また一歩と近づくたび、記憶がひとつ、またひとつと浮かんでくる。
あのころまだ、桜子には母がいた。
母は料理がじょうずな人で、桜子の好き嫌いをおやつと、おかしな物語の時間に変えた。
あのころからトレバーもいた。
球体の、ほとんど段差も登れないようなおもちゃは、目が離せないやんちゃ盛りの桜子のまわりを、くるくる回りながら遊んでくれた。
あのころの父は無口だった気がする。
いつも黙ってなにかを考えているようだったけれど、桜子が手をのばすと、必ずエクボで抱きあげてくれた。
幹の前に立ち、桜子が空を仰いだ。
青空にサクラの枝が亀裂みたく走っている。その向こうには、桜子が生まれたころにはなかった、角ばった雲のような機械が浮かんでいる。白銀の機械雲たちを、数えきれない花びらが空につなぎとめているのかもしれない。
「ぐすっ……」
だんだん、青も白もピンクもぼやけてきて、桜子は下を向いた。
突き出た根に、散った花びらへ手を伸ばす。そのとき、だれかが「『桜子……』」と呼んだ。
はじかれたように桜子が顔をあげる。
あたりを見回しても人の姿はない。「庭掃除にはむかないボディです」とぼやくトレバーは、後ろで草を相手に格闘技をかけている。
「あ、パパとママの腕輪」
手首で、バングルが光りだした。
輪の中央部に嵌まったガラス玉が一定の周期で碧く、点滅しはじめる。サクラの樹に向き直ると、点滅の間隔が速くなった。後ろを向くと遅く点滅する。
もう一度、大木を見あげ、桜子は歩き出した。
間近でみると大木の幹は黒く、無数のささくれが樹皮をでこぼこにしていた。桜子が腕をまわしても足りないくらいの主幹は、いくつも枝分かれし、時折、枝が風にゆれている。
チカッとなにかが光った。
目をこらすと、桜子の背では届きそうにない上のほうで、バングルと同じエメラルドグリーンの光がみえた。
「ふぅ」ひとつ息をついて、枝に手をかける。
洞は、身を屈めてなら桜子がすっぽり収まる広さがあった。ジメジメして、すこし肌寒い。
「うぅ、虫がいっぱい……」
うごめく大小のものをなるべく触らないように、バングルを洞の奥へ向ける。
黒い箱のようなものが、半ば幹に取りこまれたように佇んでいた。バングルの光が洞のなかを緑に照らす。
「『桜子、おおきくなったね』」
「パパ……!?」
箱から男の声がして息が止まりそうになった。
そんな桜子を知ってか、声の主が申し訳なさそうに続ける。
「『おどろかせちゃったかな……ごめん、パパには桜子がみえないんだ。ボイスメッセージしか用意できなくて……ほら、陽彦くん、じゃなかった陽彦伯父さんがさ、桜子を引きとりたいっていうから、いろいろ手間取って』」
ぼくはビデオが苦手だし、と声がおどける。
「ちがうよ、パパ……」
桜子は、本当はなにがあったのか知っている。陽彦は、上国と桜子を引き離した張本人だ。
けれど、声だけの上国は、相変わらずの調子で「『あ、でも、おじさんに当たったらダメだよ?陽彦なりに桜子のことを考えてたんだろうし、いまの桜子なら……』」と続く。
「ちがうってばっ!」泣きだしそうな声が洞にこだまする。
「パパはしらないよね……あのひとはもういないんだよ。あたしにはトレバーしか……」
「『ごめんごめん。桜子、むかしっから陽彦くんが苦手だったもんなー』」
のんきな声は桜子の知る父親そのものだ。
けれど、上国はここにはいない。
すすりあげる桜子の涙をたどってダンゴムシが一匹、腕に這いのぼってくる。桜子は払いのけようともしない。
「『そうそう!桜子、お誕生日おめでとう』」
桜子が顔をあげる。母親に似てはっきりと感情の出る黒い瞳が、どうして、というように見ひらかれている。
サクラと一体化したスピーカが上国の声を鳴らし続けた。
「『誕生日じゃなかったら、ごめん。でも、だいぶハッピーバースデイしてなかったから、いいよね。桜子はもういくつになったのかな。22歳?アラサー?さすがにぼくより歳ってことはないだろうけど』」
笑いをふくんだ声はけれど、自分の予想が外れることはないという自信にあふれていた。上国が深く息を吸い込む。
「『ぼくは、桜子にしたことを悔いてはいない。トレバーは異義ありかもだけど。ぼくは、こうするしかなかったって、いまでもおもっている。桜子がこのメッセージをきいているのが、その証だ』」大きく息を吐くと「『だけど、ぼくは桜子にうそをついた。ほんとうにごめん。花見、いきたかったよね』」と上国の頭を下げる姿が桜子はみえる気がした。
吹きこんだ花びらが握りしめた拳をなでた。
「『さびしいよ……桜子と離ればなれになるなんて。けど、ぼくは桜子に生きてほしい。身勝手かもしれないな。生きてると、つらいこともあるし。でも、生きててほしいんだ』」
あどけない拳にぽつりと、雫が落ちた。
「『ぼくだけじゃないよ。秋沙もきっとおなじだ……桜子、ぼくらはいつだってそばにいる。ずっと、ずっと愛してるよ』」
再会を疑わない気軽さで、じゃあまた、と上国の声が終わった。バングルの光も消え、ガラス玉が嵌まった腕輪にもどっている。
「パパ……ママ……」
手の甲まで来たダンゴムシの上に、はらはらと雫が絶え間なく降りそそいだ。

「……桜子さまぁー?!いけないっ!艦隊に捜索依頼を……桜子さまっ!?」
首がちぎれそうな勢いで周囲を見回していたトレバーが、サクラの幹を降りてくるジャージに、悲鳴をあげて突っ込んでいく。
「お待ちをっ。トレバーめがお迎えに……」
甲虫よろしくトレバーが幹を登りだすが、「だいじょうぶ」と細い声に拒まれ、「わ、わかりました」とすごすご降りていった。
「この二週間、よくトレーニングしていらっしゃいましたから、木登りくらいはへっちゃらですね……桜子さま?」
うつむいた肩が震えている。
その左腕にバングルがないのをちらりとみて、トレバーが桜子の横にしゃがみこんだ。
「上国さまとお話しされましたか?」
うなずく桜子。「さようですか」とその肩に柔らかい手を置く。よかったですね、とは言わなかった。
新しくなったヒューマノイドの肌は、きめが細かく、草をむしってできた引っかき傷からは赤いものがのぞいた。
土のついた手でゴシゴシと桜子が目を擦った。擦るほど、顔がマダラになっていく。
まだ練習中の、口角をあげてみせてから、トレバーが桜子の顔を拭いてやった。
「ハンカチを、これからは持ちあるかないといけませんね」
グスンと、すすりあげて桜子がトレバーの手を握った。
「いこっ」
「……もうよろしいのですか?」
「うん、またこよう?」
少女の涙は止まっていた。
堪えているだけかもしれないが、赤みの残る目はしゃんと、前を向いている。
すこし冷えたその手を握りかえし、ヒューマノイドがうなずいた。
「そうしましょう……あ、桜子さま、すこしお待ちいただいても?」
首をかしげる桜子に目礼し、ヒューマノイドが立ち上がる。
大木を見あげ、姿勢を正し、深々と頭を下げた。
ヒューマノイドの片手は、つながっていた。
同じくサクラの木を見つめる、頭ひとつぶん背の低い温かい手と、しっかり、つながっていた。
(完)

 

 

 

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