Time flies

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梗 概

Time flies

「本日は、新しいお噺に一席お付き合いいただきます。落語の中には粗忽もの、女狂いに、酒狂い、変わった人が出てまいります。まあ、この世の中にも変わったお人はいるのもで。みなさんご存知の通り、今や全人類が体感加減速装置(Cenesthesic Adjustment System、通称CAS)を埋め込まれております。ただ、今より60年以上前に生まれた人間には埋め込むかどうかを選択できる法律があったのでございます

落語家の並木亭文文は名人並木亭小文治の末弟子。古典落語を中心として、軽妙な語り口で滑稽噺から人情噺まで聴かせると定評がある。今や、落語家に限らず役者、音楽家など誰もが老いに対してCASを使うことで、体力の限界と表舞台から降りるまで全盛期の芸を披露するようになっていた。そんな中、小文治の芸に惚れて入門をした文文は師匠小文治が頑なにCASを埋め込まず老いに任せたまま、高座に上がる姿に言いようのない情けなさを感じていた。

名人小文治の噺を聞きに来ているお客からは、マクラですら内容が思い出せず、言葉に詰まるその姿に笑いが起こる。溌剌と、聞く人を魅了していた小文治の姿を知っているからの忍び笑いや哀れみを感じ取ってか、小文治は言葉の出ない自分を貶すようにも話す。小文治が80を目前にした独演会のマクラで語った「師匠の十八番だった滑稽噺『千早振る』を袖で聞いていた俳人としても名のある兄弟子が、袖に下がった私につつっと寄ってきて『落語って悲しいね』と言ったんです。その意味は私にはわかりませんでした…………。小文治って悲しいね」。それを聴いたとき、文文はCASの機能不全を体験した青年時代を思い出した。通常の時間の生活の中に見るCASを使う人の能面のような不気味な表情、DVDを見るように自由に早送りされている芸事の違和感。見舞いで訪れた病院でみたCASを使わない人々の時間。
CASを使わないまま高座に上がる小文治が噺家として演じようとしているのは「人間」そのものではないのかと感じた。高座の上で加速と減速を繰り返す師匠に重ねた落語家と機能不全を起こしたCASで過ごした日々を八五郎という男に移し作り上げた噺を、前座として上がる小文治80歳の独演会の高座にかけることを決めた。

文字数:936

内容に関するアピール

満員電車の時間が嫌いだから、100年後には体感を自由に加速減速する装置(以下、CAS)が発明され、普及していると良いと思った。5月に独演会で、エンジンがかかって滑らかに語りだすまでに時間のかかる柳家小三治さんをみた。ゆっくりとゆっくりとスピードを上げていく語りが、急に停止する、巻き戻る。全盛期のように話せないもどかしさは、誰よりも彼が感じているはずだ。今、名人と呼ばれている人が、CASの普及した世界で生きる姿とそれを見つめる人を描きたい。

文字数:221

課題提出者一覧