水色ちょうちょストラテキラテス

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梗 概

水色ちょうちょストラテキラテス

修司は四十歳にして昆虫学の権威だった。昆虫の遺伝子情報を合成し、人の役に立つ虫をいくつも作り上げてきた。

夜。研究所内の自室に帰ってきた修司は、合成虫達と戯れながら天井裏に登っていく。そこには修司の娘、詩織がいた。詩織は修司によって蝶と遺伝子を合成されている。上半身は美しい少女、下半身は芋虫だった。

ある日、研究所に修司の亡き妻、香織の妹である美樹が訪ねて来る。修司と、修司の助手である榊が蝶の観察の為に野に出るのに美樹も同行する。現在の研究対象は宇宙を渡る蝶だ。十年前から地球に飛来するようになったこの蝶は、宇宙を渡ってきて地球で卵を産んで死に、幼虫は毒草を食べて成虫になったら宇宙に帰っていく。そして銀河を越える前に、蝶の群れは人の観測から逃れてしまう。これをワープによるものと見た物理学者達は、ワープ技術確立のためにこの蝶を血眼で研究していた。修司は、虫が宇宙を超えられるなら、今地球にいる全ての昆虫の起源は宇宙にあり、どこかに虫の星が存在するのではないかと語る。

満月、蝶達が宇宙に帰る夜。美樹は天井裏で半透明の蛹に包まれた詩織を見つけ、香織の子だと気付く。追いかけてきた修司は、もうすぐ詩織が蝶になって宇宙へ渡るであろうことを語る。美樹は娘を改造した修司を非難し、香織の事も実験の為に殺したのだろうと詰る。これを否定した修司は香織への愛を語り、この実験は昆虫学者だった香織の夢である虫の星を探すためだと言って、毒虫を使って美樹を気絶させた。

目を覚ました美樹は、羽化して人の姿を残しつつも蝶と化した詩織を目にする。しかし詩織は飛べないまま死に、それを見た修司は異様なまでに嘆き悲しむ。ここに榊が現れ、また造ればいいと修司を宥める。榊は修司を唆して人体実験を行わせていた。詩織は冷凍保存していた香織の卵子と修司の精子を結合させ、蝶の遺伝子を加えた五人目の娘だった。五人の娘の内、名前を付けて可愛がって育てた詩織だけが自我を持ちここまで成長したのだ。

可愛がってきた詩織が死に、修司は絶望する。蝶にまでなれたのだから成功だ、実験を続けようと榊は言ったが、修司は、これが成功ならもう続けたくないと言って衝動的に自殺を図る。詩織を抱きしめ、毒の翅を口に入れて噛み切った。修司は倒れ伏し、榊は慌てて介抱する。救急車を待つ間に榊が詩織の死体を隠そうとすると、詩織が急に羽ばたいた。歓喜した榊は天井の窓を開き、詩織を夜空へ飛ばす。

 翌朝。修司は一命をとりとめた。半身に麻痺は残るが、知能に影響はないらしい。修司の頭脳を利用して今後も研究を続けると言う榊を置いて、美樹は一人野に出た。昨夜のうちに蝶は全て宇宙に帰ってしまって一匹もいない。ポケットから、昔修司に貰った録音録画機能を持つ蜘蛛を取り出す。修司と榊の言葉、飛び立つ詩織に世間はどう反応するだろうか。詩織が地球に戻ってくるまでには結果が出ているだろう。

文字数:1198

内容に関するアピール

先日、群れで海を渡る蝶の記事を見ました。同じように宇宙を渡る蝶がいたら綺麗だろうなと思い、この話を考えました。

課題は「100年後の未来」ですね。私の想像する百年後では、虫達は遺伝子を合成され、人間の役に立つように生態も見た目も操作されています。現在でも遺伝子組み換えやゲノム編集は行われていますし、百年も経てばこれくらいは出来るのではないでしょうか。わくわくしますね。

 最初なのでSFっぽさを詰め込んだストレートな話にしました。物語の主人公は、天才的な頭脳を持つけれど倫理を理解できない研究者。亡き妻への愛で方向性を間違えた彼は典型的なマッドサイエンティストです。そして一種純粋な彼を利用する助手。身内を研究材料にされて悲しむ女。こうした人々のいざこざとは関係なく、蝶は美しく宇宙を飛んでいきます。そんなお話に、人間に操作され都合よく使われる醜い虫達の愛らしさをそっと添えたいです。

文字数:391

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水色ちょうちょストラテキラテス

 ピンクの花束を右腕に抱えて、修司は研究所の中にある自室の扉を開いた。その中では、放し飼いにされた有象無象の虫達が脱走の意思も見せずお利口に蠢いている。修司が部屋に踏み入ると同時に、きちちち、と鳴き声をあげたムカデが宙を泳いで、修司の首にまとわりついた。
 ただいま、と呟いて、修司はムカデを指先で撫でる。その尻尾には、団扇のような二枚の翅がついている。このムカデは、この翅を使って滑空することができる。そうできるように修司が造ったのだ。
 修司はまだ四〇歳だったが、世界的な昆虫学の権威として知られていた。数多の昆虫たちを合成、改造して、人の役に立つ虫をいくつも作り上げてきた。しかしこのムカデはあまり役に立たない。修司が趣味で造った、ただ可愛いだけの虫だ。この部屋はそんな、修司が造った愛らしい失敗作で溢れていた。
 誤解してほしくないのだが、修司は本当に優秀な研究者なのだ。プラスチックを大量に食べるハチの幼虫を造ったこともあるし、深刻な伝染病を媒介する蚊から病の原因を切り取る研究に携わったこともある。こうした業績からもわかる通り、修司は天才的な研究者だ。手当たり次第に思いついた虫を造っては、部屋で飼う趣味だけは困ったものだが。ちなみに申請も無く勝手に生き物を改造する行為は法律で禁止されているが、今更そんなことを言って聞く修司ではない。
 一人暮らしにしては広めの部屋は虫達が蠢いていることを除けば全体的に簡素で、家具もほとんどない。修司が部屋の中を進んでいくと、その足元に子犬程の大きさのカマドウマが纏わりついてきた。
「こら、噛んじゃ駄目だって」
 スラックスの裾を甘噛みするカマドウマを宥めて、修司は苦笑する。紫色のゴキブリ、光を放つハエ、白いレースのような翅を持ったカマキリ。そういった虫達が我も我もという具合にまとわりついて来る。そんな虫達を踏まないように気をつけながら、修司は部屋の奥にある大きな本棚の前に立った。
「ほらほら、どいて」
 フローリングの床から、枕ほどの大きさの、ふわふわとした桃色の毛が生えたサソリをどかす。どっこいせ、と間の抜けた掛け声を上げて、修司は本棚を引いた。半円状に本棚が動き、後ろから螺旋階段が現れる。少しばかり夢見がちな人間なら皆憧れる、本棚裏の隠し部屋だ。このロマンを満たすためだけに修司は部屋に本棚を置いている。時代は電子書籍だというのに。
 階段を登っていく。虫達はその後を着いて行こうとはせず、階段の下から名残惜し気に修司を見ている。修司についてきたのは、肩に乗ったムカデだけだった。
 階段を登りきった修司は大きな扉の前に立ち、鍵を開けた。両開きの重たい鉄の扉をゆっくりと押し開けていく。その向こうはお姫様の部屋だ。
 薄いピンク色の壁紙が貼られた壁は湾曲しており、広い部屋全体がドーム状になっている。テーブルの周りに一人掛けの椅子とソファ。ドレッサーにクローゼット。全てが白とピンクの可愛らしい意匠に統一されている。その奥には規格外に大きな天蓋付きのベッドがあった。修司が近づいていくと、天蓋のカーテンを勢いよくめくり上げて少女が顔を出した。
「パパ! おかえり!」
「ただいま。いい子にしてたかい?」
 落ちそうな勢いの少女を左腕で抱きかかえてベッドに戻す。彼女は修司の娘である詩織だ。黒目がちな目も、長くてまっすぐな黒髪も、修司の亡き妻である香織にそっくりだった。
 彼女は所々にピンク色の花飾りがついた白いベールを、頭からすっぽりとかぶっている。その下には何も纏っておらず、白く細い肩、膨らみのない胸の先の淡い桜色、その下の黒とオレンジと青が斑に散った胴体がベールに薄く透けて見える。詩織は、上半身は普通の人間で下半身は虫の幼虫という、少し変わった女の子だった。もちろん普通の人間から自然にこんな子は産まれない。修司は、自分の娘を蝶と合成したのだ。実を言うと、軽い気持ちで人体実験を行ってしまうのも修司の悪い所だった。
「ごはんはもう食べた?」
 修司が問いかけると、詩織は大きな目をパチパチと瞬かせる。
「んー? 食べたよ?」
「嘘は良くないね。ほら、ちゃんと食べて」
 修司は左手で詩織の体を覆うベールをめくり上げて、ずっと右腕に抱えていた花束を差し出した。くすくすと笑いながら詩織が花束を受け取る。ふわふわとした白い紙に包まれ、ピンクのリボンがかけられた、詩織の手には少し余るくらいの花束。ピンク色の星を二つ重ねたような小さな花が、丸く膨らむように並んでいる。
 それを眺めるだけで食べようとしない詩織に痺れを切らした修司は、花束の中に手を入れて、黄緑色の艶々とした葉を取り出した。その肉厚な葉先を詩織の口元に当てる。
「はい、口開けて」
 修司を見上げた詩織は、素直に小さな唇を開いた。差し入れられた葉を無感動に噛み締める。時間をかけて飲み込んで、詩織はまた花に目を降ろした。修司がまた葉を取り出して、詩織の口元に当てる。花をじっと見ながら口を開いて、詩織が淡々と葉を咀嚼する。それを繰り返して、花束の中の葉が半分程になった頃、詩織が口を開かなくなった。
「どうしたの? ちゃんと食べなきゃ」
「……もうやだ。食べない」
「ちゃんと食べなきゃ大きくなれないよ?」
「大きくならなくていいもん」
「なんで」
「だって大きくなったら、パパとバイバイしなきゃいけないんでしょ?」
 こんなことを言われて、嬉しくない父親がいるだろうか。勿論修司も嬉しかった。にやける口元を手で隠す。咳払いして心を落ち着けてから、しっかりとした声で言った。
「詩織。パパもね、出来ることなら詩織とずっと一緒にいたいよ」
「じゃあいいでしょ。ずっと一緒にいよ?」
「でもね、ダメなんだ」
「どうして?」
「パパはね、詩織に広い世界を見て欲しいんだ。詩織はパパも知らないような素敵な景色を、これから沢山見られるんだよ。それをパパの我儘で引き留める訳にはいかないんだ」
「そんなのいらない。詩織はずっとパパのそばにいる」
 詩織は涙声でそう言って修司に抱き着いた。修司は嘆息して、左手でベール越しに詩織の髪を撫でた。そして右手で、ぶよぶよとした胴体を抱きしめる。尾についた二本の角が、詩織の不安定な心を表すようにぴこぴこと揺れている。こんな可愛いことを言ってくれるのもあと少しの間だけ。もうすぐ満月だ。別れの刻は近づいている。
 しばらく詩織の泣くに任せて、修司は詩織の温かい体を抱きしめ続けた。くしゃくしゃに押しつぶされた花束から、ピンク色の花びらが零れ落ちていく。大きな泣き声が、ぐすぐすという鼻声に変わったころ、修司の首元からムカデが飛び出した。詩織の頬に張り付いて、長い腹で透明な涙を拭う。それを見て修司は言った。
「ほら、ポチも元気出してって言ってるよ」
 言い忘れていたが、このムカデの名前はポチというのだ。詩織はぞんざいな手つきでムカデを引きはがした。詩織の細い腕に、ムカデがぐるぐるとまきつく。未だ不満そうな顔つきの詩織は、両手でぎゅっとムカデを捕まえて、胸元に抱きしめるとベッドに体を投げ出した。修司に背を向けて、すんすんと鼻を鳴らしている。
「詩織」
「……」
「詩織」
「……」
 お返事をしてくれる気は無くなってしまったらしい。仕方が無いので、修司は一方的に語り掛ける。
「詩織が旅立った後、パパはずっと待ってるよ。色んなものを見て詩織が満足したら、パパの所に帰ってきて、どんなものを見てきたか教えて」
「……パパも一緒に来ればいいでしょ?」
 詩織がごろりと寝返りをうって涙目で修司を見上げる。強く掴まれたムカデがきちきちと鳴き声を上げている。
「駄目なんだ。パパには翅が無いから、飛んでいけないんだ」
「詩織にもないよ?」
「詩織の翅は、大きくなったら生えて来るよ」
「ふうん……詩織が女の子だから?」
「え? ……そうだね。翅が生えてくるのは、女の子だけなんだ」
「そっかあ……」
 なんだか納得した様子で、詩織は天井を見上げた。緩められた手から、するりとムカデが逃げ出して修司の腕を登る。また修司の方に顔を向けて、詩織はふわりと微笑んだ。その笑みがやけに大人びて見えたから、修司は少し寂しい気持ちになる。
「詩織、絶対帰ってくるね」

 

「うわー、すっごい綺麗!」
 思わず美樹は大きな声を上げた。晴れ渡る広い空。どこまでも続くような野原に、ピンク色の花が咲き誇っている。その花々の間を飛び交う無数の蝶。薄い水色の翅に、水脈のように鮮やかな青が走っている。その翅をひらめかせて舞う度、オパールの遊色のように沢山の色が現れては消えて行く。
 見惚れる美樹の横から、修司が声を弾ませて話しかけてくる。
「綺麗でしょ? だからこの時期に来て欲しかったんだよ」
「うん……うん! これは見に来て良かったなあ」
 美樹は頷いて、地面にしゃがみ込んだ。飛び交う蝶を下から眺めて、うっとりとため息をつく。同じように隣にしゃがみ込んだ修司は、楽しそうに問いかけた。
「この蝶、なんて名前か覚えてる?」
「えーっと……なんか、しろ……? なんでしたっけ?」
「ウスバシロハナダ、ね」
 うすばしろはなだ……と美樹は繰り返した。確かにこの蝶の、向こう側が透けて見えそうな翅は薄翅というに相応しい気がする。
「でも不思議ですね。すごく綺麗だけど……普通の蝶に見えるなあ。そんなに大きくもないし。これが宇宙を渡るなんて」
「そうでしょ。どうしてこんな薄い翅で宇宙を渡れるのか……未だに誰も解き明かせない」
 この蝶が突如地球に飛来するようになってから、もう十一年経っている。
「不思議だよねえ。冬の終わりに宇宙から飛んできて、地球で卵を産んで死ぬ。育った幼虫は春の終わりにはまた宇宙に帰っていく。まるで何千年も前からそうしてきたみたいに」
 修司は遠い目をして、白い太陽が光る空を見上げた。眩しそうに目を細めた後、また美樹を見る。
「もうすぐ満月だから、蝶の群れが宇宙に帰っていくところが見られるよ。それまでゆっくりしていくといい」
「そのつもりです」
 美樹は満月の日まで五日間、この研究所に滞在する予定だった。本来この研究所は一般人の立ち入りは許されていない。こうやって蝶が卵を産む野原に入るなんてことは通常許されないのだ。
 それなのにこうやって野原でぼうっと蝶を眺めていられるのは、修司に招待されているからだ。美樹は修司の義妹だった。修司の妻である香織はもう八年前に亡くなっていたが、今も修司と美樹は交流を持っている。直接会うのは半年ぶりだが元気そうで良かった、と美樹は思った。
 ちらりと修司の左手を見た。修司が未だにつけている銀色の結婚指輪。それを痛々しく思う。再婚しないのかと修司に訊いてみたことがある。その予定は今のところないなあ、と笑っていたが、きっともうその気は無いのだろう。
 美樹が思いを巡らせている間に修司は立ち上がり、ふらふらと花畑に踏み込んでいった。修司が宙に手を伸ばすと、引き寄せられるように指先に蝶が止まる。修司は不思議と虫に好かれる。人に懐かないはずの野生の虫達が、修司にはすり寄っていく。
 美樹はなんとなく修司の真似がしてみたくなって、目の前の花に止まった蝶に手を伸ばした。
「触ってはいけません」
 途端に響いた低い声に驚いて美樹は手を引いた。蝶が逃げていく。顔を上げると榊がいたので、美樹は慌てて立ち上がった。
「す、すみません、貴重な蝶に触ったら駄目ですよね」
「いえ、そうではなくて……危ないですよ」
 榊は鋭い目を細めて、蝶と戯れる修司の方に視線をやった。美樹もつられたようにそちらを見る。
「触るときは手袋をつけないと」
 修司の白衣の袖、そこから覗く手は薄く白い手袋で覆われていた。
「シロハナダには毒があるんです……所長から聞いていませんか?」
「え、き、聞いてません!」
「所長が説明し忘れたんですね……」
 榊は長く息をついて、解説を始めた。
「このピンク色の花、セイカランというのですが……花、茎、葉、根……どこを切り取っても猛毒です」
「えっ」
 今まで毒草の野にいたのか。急に恐ろしくなって一歩足を引く。しかしそこにも花が咲いている。
「大丈夫です。口に入れなければ害はありません。シロハナダも同じです。シロハナダは幼虫の間にセイカランを体内に取り込み、体に毒を蓄えていきます。特に翅に毒が凝縮されるので、もし翅を口にいれれば人間でも死に至る可能性は十分にあります」
 そこまで聞いたところで、目の前を蝶が飛んだので美樹はびくっ、と身を引いた。榊はその様子を笑うでもなく冷静に言う。
「大丈夫です。口に入れなければ死にません。ただ、鱗粉にも微弱な毒が含まれているので、素手で触らない方がいい。後、目に鱗粉が入らないように気を付けて」
 そう言いながら手袋を渡してくる。それを手に嵌めながら、美樹は問いかけた。
「あの、じゃああれ……いいんですか」
 修司を指さす。大きく腕を広げた修司の体には沢山の蝶が止まって、まるで蝶の止まり木のようになっている。
「よくないです」
 榊は淡々と答えた。
「でもあの人は言っても聞きません。毒蝶だろうが毒サソリだろうが平気で触ります……何度も言えば渋々手袋はつけるのですが、鱗粉の毒なんて大したものじゃないと言って、ああやって平気で体に止まらせるんです」
「大変ですね」
「ええ、本当に」
 榊は頷いた。美樹は昔から榊とは知り合いだったが、見る度に上司の修司や、同期の香織に振り回されていた印象しかない。気の毒な人である。
美樹がそう思いながら榊を見ていると、彼は菓子でもつまむような自然な動作で一匹の蝶をつまみ上げた。白衣のポケットから出したライトで照らし、蝶の翅を観察する。ペンを取り出して、透明なインクで何かを翅に直接書き込んだ後、すぐに蝶を逃がした。手袋についた鱗粉を掃いながら、美樹に声をかけてくる。
「まあ、いつもの事ですからお気になさらず。私もこの時期は忙しいので大した案内も出来ませんが……どうぞゆっくり見学していってください」
「あの……すみません、こんなお忙しい時にお邪魔してしまって」
「構いませんよ。所長のご招待ですし。ただ、満月の夜は本当に忙しいので。必ず指定の場から動かないように蝶を観察してください」
「もちろんです」
 五日も先のことなのに、丁寧に釘を刺されてしまった。本当のところはかなり迷惑なのだろうな、と思う。この研究所には十数人しか人がおらず、それぞれが今の時期は蝶の観測の準備で走り回っている。部外者を招き入れて案内している場合ではないはずだ。ということに美樹は来てから気が付いた。まあ一番の問題は、招待されてのこのこと来た美樹では無く、この時期に美樹を招き入れる修司の呑気さだろう。
「美樹ちゃん」
 呼びかけながら、蝶まみれの修司がこちらに歩いて来る。
「手、出して」
 言われて、薄い手袋で覆われた手を出した。その手に、修司が自分の指先を伸ばす。ひらりと短い距離を跳んで、蝶が美樹の掌の上に乗った。
 ふわふわとした白い胴体、艶々とした黒い複眼。蝶が翅を開いて閉じてする、その度に青い翅脈に光が走る。
 美樹は何も言えないほど、それに見とれた。生き物とは思えないくらいに綺麗だが、紛れもなく生きている。そして、このまま手を握りこんでしまえば簡単にくしゃくしゃになってしまう程に儚い。
「可愛いでしょ」
「そうですね……可愛い」
 大人しく二本の触角をふよふよと動かす姿が、なんだか頼りなくて可愛らしい。そう思っている間に、蝶は宙空に飛び立ってしまった。美樹を置いて青い空に向かって高く昇っていく。
「すごい。もうあんなに高く飛んでる」
「すごいでしょ。宇宙までだってあっという間だよ」
修司は両手を天に伸ばした。体に止まっていた蝶が一斉に飛んでいく。その羽ばたきはゆっくりしているのに、あっと言う間に空高く浮かび上がる。
「月を超えた蝶はどんどん宇宙を進んでいって、人が観測できない程遠くへ飛んでいく……その先には、何があると思う?」
「え……? わかりません。何があるんですか」
「さあ、ぼくもわからないけど」
「……そうですか」
「でもね、香織はよく言ってたな」
「お姉ちゃんが?」
「蝶が帰る先には、虫だけが暮らす星がある。そして今、地球で暮らしている全ての虫の起源はその星にある……ね、なんだかロマンチックだろ?」
「ロマンチックですねえ……」
 美樹は適当に答えておいた。昆虫学者だった香織と違って、虫にはあまり興味が無いのだ。修司や香織に付き合っているうちに感覚が麻痺してきたが、本来はどちらかというと虫は苦手な方である。
「だからね、その虫の星……ストラテキラテスを、ぼくは見つけたいと思っている」
「スト……?」
「ストラテキラテス」
「っていう名前なんですか、その星」
「うん」
「何て意味ですか?」
「いや、意味とか、そういうのはよくわからないけど」
「誰が付けたんですか、その名前」
「香織だね」
「お姉ちゃん、勝手に名前つけちゃったの?」
「うん」
「あるかもわからない星に?」
「うん。可愛いよね」
 星の名前が、という意味だろうか。香織が、という意味だろうか。どちらにしても馬鹿らしい。なおも虫の星について熱く語る修司から視線を逸らして、美樹は野原を眺めた。虫好きではない美樹から見ても、ピンク色の野を水色の蝶が飛び交うさまは幻想的で美しかった。

 

 美樹はその日の夜、修司の部屋に招待された。そして、客が来たからと言って虫を片付ける修司では無かった。美樹がついている真っ白なテーブルの下では、様々の虫達がくつろいでいる。
美樹は現在、修司が料理をしている背中をハラハラしながら見ている。修司の手元は危なっかしい、と言う程ではないが、料理しなれていないのが明らかで手際が悪い。手伝いたい気持ちを何とか抑えてじっと待っていると、ようやく料理が出来上がった。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
 普通のカレーだった。食べてみる。普通だ。少し水っぽいが、十分美味しい。
「すごい、美味しい!」
「ほんと?」
「うんうん、辛さもちょうどいいし、ほんとに美味しい!」
 美樹は高い声を上げて大げさに褒めた。
 修司は良かった、と安心したように言って、自分もカレーを一口すくって食べた。自分の作ったカレーの味には特に言及せず食べ続ける。
 修司の味覚が生まれつき鈍いことを美樹は知っている。そのせいで彼は食事への執着が薄いのだが、時折気まぐれに人に手料理を振る舞ってみたりする。そのどれもが香織の手料理に似通っていて、どこか決定的に違うのが悲しい。
 和やかに食事は終わった。食器を食洗器にかけて、二人は食後に紅茶を飲む。お互いの近況を報告し合う中で、こんな話題になった。
「そういえば、くーちゃんは元気?」
「ええ、元気ですよ」
 そういって、美樹はスカートのポケットに手を入れて、黒と金でデザインされたリップスティックを取り出した。蓋を開けると真っ赤な口紅ではなく、麦粒ほどに小さな黒い蜘蛛が出て来る。
「ああよかった、元気そうだね」
 修司がそう言って手を出すと、ピョンピョンと跳ねた蜘蛛が中指の上に乗る。二本の前肢を必死に伸ばす様子は、まるで修司に何かを伝えようとしているかのようだ。修司はまるで蜘蛛の言葉がわかっているかのように何度もうん、うんと頷いた後、美樹に視線を向けた。
「どう? くーちゃんは役に立ってるかい?」
「ええ、とっても役に立ってくれてます」
「そっかそっか、よかった。うん、毛艶もいいし、大事にしてもらってるんだね」
 こんな小さな蜘蛛の毛艶がよくわかるな、と美樹は思った。一頻り蜘蛛の健康状況について語り合った後、リップスティックに蜘蛛をしまう。
 ぬるくなった紅茶をすすりながら、美樹はちら、と本棚を見た。そしてその下の床に目を移す。
「モモが気になる?」
「え? いや、そうですね。大きいですね」
 モモ。あの本棚の前を陣取っている桃色のふわふわしたサソリのことのようだ。修司は立ち上がって、本棚の前、つまりサソリの前にしゃがみ込んだ。
「ちょっと来て」
 そういわれては行くしかないので、美樹は立ち上がった。促されるままに修司の隣にしゃがみ込む。
「可愛いだろ? この間造ったんだ」
 まあ可愛いと言えなくもない……ふわふわだし。桃色だし。
「ほら、触ってみなよ」
「んー……」
 あまり気は進まなかったが、美樹は手を伸ばした。背中に手を置くと、驚くほど柔らかくてきめ細かい被毛に触れる。どうやら硬い甲殻の上に毛が生えているらしい。ゆっくり撫でると、リラックスしたようにサソリが姿勢を低くして、ハサミを床に投げ出した。確かに、可愛いかもしれない。
「尻尾に毒があるから気をつけてね」
「そういう事は先に言ってほしいです」
 美樹は手を引くに引けず固まった。どうして撫でるのを止めるのか、とばかりにサソリがハサミをかたかたと揺らす。仕方なく撫でてやりながら、美樹は問いかけた。
「何でそうやってすぐ、毒のある虫を造るんですか」
「何でも何も、サソリは毒があるものだし……」
「造る過程で毒を抜けないんですか」
「できるけど」
「なんでしないんですか」
「だってなんだか、可哀想な気がしないかい? 虫っていうのは弱い生き物なんだよ。毒は、弱い虫達が厳しい生存競争の中、気が遠くなるほどの時間をかけて身に着けた防衛手段なんだ。そう考えるとなんだか、愛おしく思えてこない?」
「きません」
 すごく悲しそうな顔をされた。そんな顔をされても、思えないものは思えない。
「危険じゃないんですか? このサソリ」
「大丈夫だよ。傍にぼくがいるし」
「いなかったらどうなるんですか」
「まあ、臆病な子だからね。知らない人が来たらちょっと刺しちゃうかもしれないけど」
 美樹は再び固まった。サソリがかたかたとハサミを揺らす。
「大丈夫だよ。今は僕がいるし、美樹ちゃんの事はもう覚えたから刺さないよ。多分」
「多分では困るんですが……」
 美樹は呆れた声を上げながら、またサソリの背中を撫でた。
「手袋しなくていいんですか? 蝶みたいに」
「サソリの毒は、蝶の鱗粉みたいに飛ばないからね。それに手袋したくらいでサソリの針は防げないよ。死ぬよ」
「死ぬんですか」
「死ぬ」
 美樹が呆れた気持ちで修司に視線をやると、きらきらした目とぶつかる。修司は、外見は年相応なのに、目だけはいつも若々しく輝いている。その悪意のかけらもない目に圧倒されて、美樹は何も言えなくなった。
 修司が手を伸ばすと、サソリが曲げた尻尾を修司の手に擦り付ける。修司は毒針の着いた尻尾を親指ですりすりと撫でて目を細めた。その楽しそうな様子にため息をついて、美樹もサソリの背中を撫で続けた。
「ひっ」
 美樹は小さく悲鳴をあげた。太腿にじゃれつくようにして、大きなカマドウマが背後から現れたからである。
「ああ、はいはい……よしよーし」
 撫でて欲しいのだと気が付いて、美樹は左手でカマドウマの頭を撫でた。嬉しそうに交互に動いている触角の太い根元と、顎髭の繋ぎ目が何とも言えず気持ち悪いな、とこっそり思いながら、美樹は撫で続ける。気が付くと足元は構ってほしい虫達でいっぱいで、既に修司は虫まみれだった。仕方なく、美樹はじゃれついて来る虫達を構い続けた。

 

 満月の夜、蝶達は宇宙に帰る。そんな日の夕方に、美樹は修司の部屋の前にいた。先程までは野原で蝶が飛び立つ時を待っていたのだが、こっそり抜け出してきたのだ。数少ない研究員は皆忙しく動き回っているし、美樹に構う余裕などないだろう。しばらく自由に動けるはず。
 センサーに手をかざすと扉が開いた。既に美樹の生体情報は登録されており、修司の部屋には自由に入れる。勝手に入っていいのかと修司に訊いたら、いいよ、餌やりとか頼めて便利だろ? と返された。実際に餌やりをここ数日手伝わされている。
 美樹が部屋に入って明かりをつけると、わさわさと虫達が動き始めた。
「ごめんね、餌の時間じゃないんだー」
 美樹はそう言って、足元にまとわりついてくるカマドウマをぞんざいに撫でて、部屋の奥に踏み込んでいった。本棚の前にしゃがみ込み、床についている半円状の跡を撫でる。こんなにはっきりと怪しい跡をのこしているあたり、修司は頭がいいのに抜けている。
 これに気が付いた瞬間から、美樹はわくわくが止まらなかった。だって本棚裏の隠し扉だ。そんなの、一体中に何が隠してあるのか、気になるではないか。しかし美樹だって、二十も後半に差し掛かろうという大人だ。義兄の隠し事を覗き見てはいけないという常識はあったから、我慢しようとした。しかし、しかしやっぱり抑えきれない。明日はもう帰る予定だから、今日が最後のチャンスなのだ。
 ジャーナリスト魂にかけて、こんな好機を逃すわけにはいかなかった。そう、隠していたわけではないが、美樹はジャーナリストだ。それも、嬉々として立ち入り禁止区域に忍び込んだり、危険な香りがする人に突撃取材したりしてしまうタイプのジャーナリストだった。
 知りたい。いったいどんな秘密が隠してあるのだろう? しかし一つ障害がある。本棚の前を陣取り、丸くなって寝ているこのふわふわしたピンクのサソリである。
「モモー、どいてくんない?」
 美樹は呼びかけたが、サソリはピクリとも動かない。修司が傍にいれば刺される心配はないが、一人で触って安全かどうかはわからない。美樹は逡巡する。毒サソリに挑んでまで、修司の秘密を暴きたいか?
 暴きたい。すぐに結論を出して、美樹は手を伸ばした。さすがに緊張して震える手がふわふわとした毛先に触れた時、サソリが俊敏な動きを見せた。体を起こし、尾を美樹の手に向ける。刺される、と思って勢いよく手を引いた美樹は尻餅をついて倒れ込む。その足元にサソリが素早く乗り上げ、毒針の着いた尻尾を美樹の向う脛に向けた。
「ひいいっ」
 美樹はひきつった声を上げたが、予想していた痛みは来なかった。サソリは懐っこく尻尾を美樹の素足に擦り付けるだけで、刺そうとはしない。
「えっと……うん……よ、よーし、よーしよしよし」
 美樹は恐怖の名残で震える手で、サソリを撫でまくった。どうやら、目覚めたら遊んでくれそうな人がいたので擦り寄ってきただけらしい。一通り撫でた後、美樹はサソリを抱き上げて、その辺りの床に置いた。
「ごめんね、ちょっとどいててね」
 やっと本棚の真ん前に立つことができた。意外と推理小説が多いなあ、と思いながら本棚に手をかける。
「くっ……」
 結構重い。ゴロゴロ、と低い音がして、本棚が半円状に開いていく。その先には真っ白な螺旋階段があった。先の見えない長い階段を見て、美樹は少し嫌な予感がした。思っていたよりも随分大掛かりな仕掛けなようだ。こうまでして隠すものとは一体何なのか。もしかして、見ないほうがいい秘密がこの先に待っているのではないだろうか。そんな気がする。
しかしここまで来ては進むしかなかった。壁に手を当てて、そろそろと登っていく。その肩に、細長いものがふわりと乗った。
「あれ? ポチ。珍しいね」
 それは修司のペットのムカデだった。美樹の首にかかる、茶色い癖っ毛の中に潜り込んでくるのがくすぐったい。いつ見ても修司の肩に乗っており、美樹にはあまり懐いていなかったはずなのだが。
 不思議に思いながらも、美樹は階段を登っていく。二階分程登ったあたりだろうか。重たそうな鉄の扉があった。近づいていくと、鍵がかかっているのが見える。南京錠。それも番号式。なんて旧式な。
 しかし最近では、この方が安全なのかもしれない。電子ロックは優秀なコンピュータがあれば突破されてしまう。手で一つ一つ回さなければならない鍵は番号さえ知られなければ安全だ。八桁の番号なんて当てずっぽうで当たるわけはない。調べられるのはここまでか……と思いながら、美樹はホッとしていた。間違いなく何かが隠してある部屋に入るのは、修司の秘密を知るのは、少し怖かった。
 しかし美樹は一応、番号を入れてみることにした。やってみて駄目なら心置きなく諦められる。少し考えて、香織の生年月日を入れてみたら開いた。
「あの人は大馬鹿野郎だ……!」
 美樹は痛恨の思いで呟いた。妻の生年月日を暗証番号にする奴がいるか。セキュリティ意識が低すぎる。
 南京錠を床に落として、美樹は扉に手をかけた。本当に先に進んでいいのか。一瞬の内に何度も自問する。しかし結局の所、美樹は扉を開けた。美樹を突き動かしたのは、ジャーナリストとしての矜持でも、物見遊山的な好奇心でもなかった。ただ何か恐ろしい気持ちが湧いて来て、恐怖の源を確認せずにはいられなかったのだ。

 

 硬い扉の向こうの、ファンシーな空間に美樹は困惑した。予想したどんな事態とも違う。
 薄いピンクの壁紙が貼られた部屋はドーム状になっており、修司の部屋の七倍は広さがありそうだ。家具の全てが白とピンクの可愛らしい意匠に統一されている。その奥にはやたらに大きな天蓋付きのベッドがあった。ついている明かりはベッドの横のスタンドライトだけだったので、ベッドだけが浮き上がったように見える。
 青白いライトに照らされた、高い天蓋の薄いカーテンの向こうで何かが動いた気がして、美樹は近寄って行った。少女趣味な空間に圧倒されて、一時恐怖を忘れていた。
「誰かいるの……?」
 声をかけるが返事は無い。美樹は恐る恐るカーテンを引いた。視界の端に異様なものをとらえて顔を上げる。そこにあったのは大きな蛹だった。
 蛹。すぐにそうだとわかった。人の大きさ程の蛹が、天蓋からぶら下がっている。薄いゴムのような黒い蛹の向こうには、翅の模様が薄く透けていた。金色の点が二つあり、その真ん中に人の顔が逆さまに浮かんでいる。
 悲鳴も上げられない程に美樹は衝撃を受けた。その顔に見覚えがあったからだ。閉じられた切れ長の目。すっきりと通った鼻筋。薄い唇。香織だ。蛹越しでもわかる。デスマスクのように表情のない香織の顔が透けて見える。
 これはなんだ? 趣味の悪い模型か? いや、違う。この蛹は生きている。抜け出そうとするかのように、僅かに身をよじっている。それを茫然と眺めている内に、美樹は修司の専門分野に思い至ってしまった。虫の合成と改造。修司は、人に虫を合成したと言うのか。それも香織を使って。いや、違う。香織の死体は美樹も見た。いつもと変わらず美しい姉が死んでいるのが不思議で悔しくて、何度も生死を確かめた。間違いなく死んでいたはずだ。では、この蛹は。
「お姉ちゃんの……クローン?」
「違うよ」
 後ろから声がして、美樹は慌てて振り向いた。部屋の入り口に立った修司が、いつもと変わらない様子で穏やかに微笑んでいる。
「探したよ。気付いたらいなくなってたから」
 修司がゆっくりと歩み寄ってきたから、美樹は後退ってベッドから離れた。修司は美樹の様子等は気にならないようで、カーテンを大きく開いて蛹を眺め上げた。美樹は硬い声で問いかける。
「クローンじゃないなら、何なんですか」
 修司は目を細め、頭上の蛹に向かって腕を伸ばした。うっとりとした口調で言う。
「娘だよ。ぼくと香織のね」
 美樹は強い眩暈を感じた。
「詩織って名前なんだ。可愛いだろう?」
 歪む視界で修司の笑みを見ながら思い出す。香織は死ぬ一年前に、お腹の子を失っていた。
「じゃあ……あの子に虫を合成したの? 流産したっていうのは嘘だったの?」
「え……? ああ、違うよ。あれは本当に死んだよ。だからぼくは反対したんだ。体の弱い香織に自然出産なんて、無理に決まってたのに」
 吐き捨てるように言って、修司は静かに続ける。
「ぼくは、子供を欲しがる香織の願いを叶えてあげるつもりだった。自然出産に拘らなくても方法なんていくらでもある……でもその前に、香織は死んでしまった」
「じゃあ何故? 何故子供を造ったの? お姉ちゃんが死んだなら、そんな必要無いじゃない。虫と混ぜたりする必要どこにも無いじゃない!」
「大きな声出さないでくれ。詩織がびっくりしてしまう」
「結局、人体実験がしてみたかっただけなんでしょう? そのために邪魔なお姉ちゃんが死んで嬉しかったんじゃないの? ううん、違う。修司さんが殺したんだ。どうせお姉ちゃんのことも実験材料にしたんでしょう!?」
「それは違う!」
 美樹以上に張りつめた声で、修司は叫んだ。
「香織が死んだのは……事故だった。ぼくにはどうすることも出来なかった。きみも知ってるだろう」
 もちろん知っていた。修司が香織を殺すわけがないことも、香織が死んでどれほど悲しんでいたのかも。それでも、そう言わずにはいられなかった。香織を愛していた修司が、香織の娘を使って人体実験をしているということが受け入れられない。その二つが矛盾なく繋がらない。
「じゃあどうして……どうしてこんなことができるの……?」
 美樹はいよいよ泣き出した。それに戸惑ったような顔をして、修司は口を開いた。
「美樹ちゃん……ぼくは本当に、香織の事を愛しているんだ。だからこそ、この実験をしているんだよ」
「だからこそ……?」
「うん……美樹ちゃん、香織がなんで死んだか覚えてる?」
「じ……実験中の事故、でしょ?」
「そうだね。そうなんだよ。でもあの当時、皆が言ってたのを知ってる。香織は自殺したんだって」
 実を言うと美樹も、香織は自殺したのだと思っている。普段なら絶対にありえないミスで毒に触れ、香織は死んだ。
「あれは事故だ。香織が自殺するはずない。だって香織には、夢があった」
「夢……?」
「香織はいつも言っていた。宇宙のどこかにある虫の星を、いつか必ず見つけるんだって。美樹ちゃん、夢と愛があれば人は死なない。死なないんだよ」
 修司の言葉はいつも通り現実感が無くて、美樹の心には少しも響かなかった。
「香織は志半ばで死んだ……だから、その夢はぼくが叶える」
「その、ために。この実験を?」
「そうだよ。香織の夢である虫の星を、ぼくと香織の愛の結晶である詩織が見つける。ロマンチックだろ?」
 愛の結晶。陳腐な言葉だ。時折ビクリと動く、この黒い塊がそうだと言うのか。
「そしてぼくは、虫の星に名前をつける。いや、それはもう決まっているんだよ」
「ストラテ……キラテス?」
「そう、ストラテキラテス」
 修司は囁くように言った。
「そんな事で……お姉ちゃんが喜ぶと思うの?」
「喜ぶよ。香織のことなら、ぼくは誰よりわかってる」
 そんなわけがない。とは言えなかった。もしかしたら喜ぶのかもしれない。詩織は姉の事がわからなかった。十も年上で、美しくて、頭が良い姉のことなんてわからない。何もかもが違う姉を、美樹は理解できたことが無い。
「ほら、見て。詩織が目を覚ます」
 修司の視線を追う。蛹がぐねりとうねった。それを見て、美樹の鼓動が一気に速くなる。一瞬動きを止めた蛹の、下部の方に裂け目ができた。蛹の内部が蠢く。半透明の蛹と、中で動く生き物との間に隙間ができる。そして、ずるりと現れる上半身。それは始め、背中にくしゃくしゃの翅をつけたただの人間に見えた。しかし違う。だらりと下がる、濡れて長い黒髪からは二本の長い触角が伸びている。そして耳から首まで、覆い隠すように白い毛がみっしりと生えていた。
「あ…………」
 美樹は声を漏らした。それと同時に、現れる下半身。柔らかい曲線を描く二つの胸のすぐ下に繋がる、白い毛が生えて豊かに膨らむ蝶の胴体。二本の人の腕の下には、四本の節ばった蝶の脚がある。逆さまにぶら下がる、香織にしか見えない顔。そして目を開く。長い睫毛の向こうの目は黒一色なのに、てらりとした光が無数に並んでいる。複眼だ。
「あああああああっ!!」
 美樹は叫んだ。叫んでどうなるわけでもなかったが、叫ばずにはいられなかった。後から後から涙がこぼれてくる。人と蝶が交わり、もう離せない。それがわかる。取り返しがつかない。
「落ち着いて、美樹ちゃん」
「いや、いやああああっ!!」
 修司が腕を掴んでくる。振り払えない力の強さに一層パニックになる。無茶苦茶に腕と頭を振りながら、口を開いた。
「なんで、なんでこんなことしたの。こんなの造ってなんになるっていうの。どうして」
 美樹が言えたのはそこまでだった。不意に首元に鋭い痛みが走る。そして一瞬で痛みが全身に回り、床に崩れ落ちた。きちちち、と鳴き声を上げて、ムカデがふわりと浮き上がって修司の足に着地する。修司は肩まで素早く登ったムカデを指の背で撫でて、美樹を見下ろした。それを見上げて、美樹はやっと理解した。ムカデに噛まれたのだ。
「ごめんね。ここで暴れられると困るんだ」
 修司は本当に困ったように笑った。視界が霞んで、それも見えなくなる。全身を覆った痛みが、次第に痺れに変わっていった。
「今夜は少しだけ大人しくしててよ、頼むから」
 そうして、美樹は意識を失った。

 

 ぼんやりと目を開ける。円形にステンドグラスの張られた天井が見える。見たことのある構図だ。青い外套の聖母の前に膝を折る天使。その背中には羽……いや、翅だ。虹色に煌めく蝶の翅が生えている。綺麗だなあ、と思いながら眺めている時に、手元で何かが動く感触がした。自分の手を見ると、太い触手を持った気味の悪いものが絡みついていた。
「きゃあああっ!」
 慌てて起き上がろうとして、何かが足に引っ掛かって床に転げ落ちた。そして強く額を打つ。
「…………っ!」
 痛みに息を詰まらせながら、ぶんぶんと腕を振るが離れない。五本の触手を持った肌色の丸い生き物は、両腕を合わせて拘束するように美樹の腕に何匹も絡みついている。赤いワンピースの下の素足も同様に戒められており、その柔らかい感触に嫌悪感が沸き上がってくる。
「だ、大丈夫? 美樹ちゃん。落ち着いて!」
「落ち着けないぃっ! 何これぇ……!」
 美樹は泣き声で叫んだ。わけのわからないことの連続で混乱していた。ソファから立ち上がって寄ってきた修司が叫ぶ。
「大丈夫! それは害の無いものだから!」
 はいそうですかと安心はできないが、美樹は取りあえず暴れるのを止めた。修司に助け起こされて、全身に残るだるさを感じる。カーペットの上にぺたりと座り込んだ美樹は、辺りを見渡した。目の前に修司。手足には得体のしれない生物。どうやらソファから転げ落ちて、テーブルの足に額をぶつけたらしい。目線を上げて、美樹はもう一人いることに気が付いた。
「榊さん……」
 榊は無言で美樹を見下ろして、マグカップに口をつけた。
「美樹ちゃん、大丈夫だよ。それは榊のペットのクモヒトデだ。縛らなくても大丈夫って言ったのに、榊が念のためだって言って……ごめんね」
 修司の言葉を受けてやっと、榊が口を開いた。
「こんな大事な夜に、これ以上勝手に動かれては困りますから」
 美樹はもう何が起こっているのかわからなかった。とりあえず、思ったことをそのまま口にする。
「なんですかクモヒトデって……悪趣味ですよ」
「ぼくもそう思うよ」
  修司がにこやかに同意した。榊は無言である。
「だいたいヒトデって。虫じゃないじゃないですか。昆虫学者としてどうなんですか」
「榊は虫以外も結構好きだよね。蛇とか」
 修司の呼びかけを、榊はなおも黙殺する。そんな会話の中、今がどういう状況かをふいに思い出した美樹は顔を上げてそちらを見た。
 いる。高い天蓋にぶら下がった空の蛹。それに縋りつくようにして、詩織が目を閉じている。その背に生えている水色の翅は、もうくしゃくしゃではなかった。いっぱいに伸びきり、オパールのような遊食を帯びて煌めいている。
「綺麗だろ。やっと翅が広がったんだ」
 修司が、眩しそうに目を細めて詩織を見上げる。
「翅が完全に乾くまで、もう少し時間がかかるけどね」
 修司はそう言ってソファに座り直した。美樹はやっと言うべきことに思い至って、口を開いた。
「なんで。榊さんがここにいるんですか」
 修司が榊に視線をやる。榊は少し思案した後、マグカップをテーブルに置いた。
「……野原の蝶の方は部下に任せても大丈夫そうだったので、こちらを見届けようかと」
「そういうことじゃありません!」
 美樹は叫んだ。カーペットに爪を立てる。
「榊さんもこの実験のこと、知ってたって事ですか。知ってて止めなかったんですか。それどころかこうやって落ち着き払って、お茶なんて飲んで……!」
「コーヒーです」
「コーヒーなんて飲んでっ! どういうつもりなんですかっ!?」
 榊はふー、と長く息をついた。そして、緩く首を振る。
「どういうつもりも何も……私は所長のお手伝いをしているだけですよ」
「なんで、止めなかったんですか」
「仕事上の上下関係というものには抗い難く。仕方がないことですね」
 そんな理由のはずがない。美樹は目の前にカッ、と光が白く走った気がした。
「あなたがっ……あなたがこんな実験やらせたんだ! 修司さんの頭が良い癖に馬鹿なのを利用して!」
「何を人聞きの悪い……所長、ちょっといいですか」
 呼びかけられた修司は答えない。ぼうっと詩織を眺め上げている。
「所長」
「え? ああ、なんだい?」
 修司はやっと気がついたようで、榊に返事をした。
「美樹さんが言うには、所長は私に利用されてこの実験を行ったということなんですが……そうなんですか?」
「え? ……いや、美樹ちゃん、これはぼくが言い出したことだし、榊は手伝ってくれてるだけだよ」
 修司が、美樹に向かって言い含める。美樹は下唇を噛んだ。騙されている。この性悪男に騙されて、いいように操られているのだ。わなわなと震える美樹の意図を汲まず、修司はまた蛹の方を見た。
「そんなことより、榊、あれ、おかしくないか」
「何がですか」
「詩織が動かないんだ」
「翅を乾かしているのですから、動かないのは当然では」
「それにしても、身動きもしないのはおかしい……」
 修司が立ち上がる。歩いて行ってベッドの傍に立ち、天蓋の柱に手をかける。その時、ぽたり、と何か液体がベッドに落ちた。シーツに青い染みが出来る。
「詩織……?」
 修司が見上げる。その視線の先、詩織の口元から、深い青色の液体が溢れて落ちていく。ぱたた、と降り注いで、歪な水玉模様を描いていく。蛹を掴んでいた二本の腕と、四本の蝶の脚が、少しずつ蛹から外れていく。 
「詩織!」
 修司が悲鳴のような叫びを上げたと同時に、詩織は落ちた。伸ばした修司の腕は届かず、柔らかいベッドに落ちた詩織の体は跳ねて天蓋の柱にぶつかり、ごろごろと床に転がった。
 一瞬で顔色を真っ白にした修司は詩織に駆け寄り、抱き起した。青く染まった詩織の口元に手をやり、次に柔らかそうな蝶の腹に触れる。
「そんな……そんなはずがない……」
 茫然と呟いて、修司は翅が生えている肩甲骨に手を添えた。翅は今も大きく伸びて傷一つ無く煌めいているのに、詩織は目を開けない。修司は詩織の腕を取って、温めるように擦った。一心不乱にそれを繰り返しながら、何事かを呟いている。何と言っているのか、美樹の位置からでは聞こえない。
 衝撃の展開の連続で身動きすらできない美樹を尻目に、榊が立ち上がった。やけにゆっくり歩んでいくので、柔らかいカーペットを踏みしめていく小さな足音が嫌に耳に残る。
 修司の正面に立って、榊は問いかけた。
「死んでいるのですか」
「違う!」
 修司が反射のように言い返した。榊は動じずに、言葉を続ける。
「さて、いつから動いていなかったのか。その時にはもう、死んでいたのでしょう」
「違う。詩織はまだ……」
「詩織が死んだのは痛手ですが、大きな好機でもある」
「……何を」
「解剖して失敗の原因を調べられる。そうして、また新しく造ればいい」
 修司は大きく目を見開いて榊を見上げた。子供のようにいつもきらきらと煌めいていた目には光が入っていない。ぎゅっと、守るように詩織を抱き寄せる。美樹はもう見ていられなかった。
「また? またって何?」
 縛られている手足で、這うように近づいていきながら問いかける。
「前にも、同じように造ったっていう事? お姉ちゃんと修司さんの子供を? なんで? 何人造ったの? その子達はどうなったの?」
「年頃の女が、そんな芋虫みたいな恰好するもんじゃありませんよ」
「答えて!!」
 美樹は叫んだ。全身が熱い。頭がガンガンと痛む。答えを求めながら、美樹の体はその答えを拒否していた。榊は少しだけ目を細めた。長く息をついて、口を開く。
「実験に失敗はつきものです。完全に蝶と人を合成できるようになるまでとても時間がかかりました」
「何人殺したの」
「そんなに多くありませんよ。失敗はせいぜい五回くらいでしょう」
 五人死んでいる。香織と修司の子供が。美樹はまた、自分の目から涙が流れていくのを感じていた。しかし、先程の涙よりも熱い。香織が死ななければ、香織が最初に身ごもった子が死ななければ大切に育てられたであろう命が。実験材料にされ、いとも簡単に殺された。
 そのことに、修司は何も感じなかったのか。きっと感じなかったのだ。我が子が死んでいくのを見ても、実験を止めようとはしなかった。香織以外の人を愛したことの無い修司にとって、それはただの都合のいい実験材料でしかなかった。そういう事だ。
 しかしそれなら何故、修司は今あんなに目を曇らせているのか。何故詩織の手をずっと握っているのか。修司にとっては詩織も、ただの実験材料ではなかったのか?
「今までと、詩織は違う」
 美樹の疑問に答えるかのように、修司は言った。真っ暗な目で詩織の顔を眺めている。
「そうですね。殆どは生まれてすぐ死んでしまったから、蝶にまでなれたのは詩織が初めてです。これは大きな進歩ですよ」
「そういう事じゃない!」
 地面に吐き捨てるように叫ぶ。
「詩織がここまで育つのに二年かかった」
「たった二年じゃないですか」
「たった二年だよ。普通の子供よりずっと早く大きくなった。でも、すぐに蝶になって飛んでいく芋虫に慣れていたぼくからしたら、酷く大変な二年だった」
 修司は手を強く握り直した。詩織の手は握り返すことも無く力なく垂れている。
「いちいち口に運んでやらなきゃご飯も食べられない。自力で寝返りもうてない。すぐに泣く癖に原因はわからないし、中々寝てくれないし食べてくれないし、すぐに熱を出して吐く。何をしてても泣いて呼ぶから、自分の時間なんてない。その毎日がどれほど大変で辛かったか、きみはわかってるのか!?」
「わかってますよ。私も散々手伝わされましたから。大変でしたね」
 榊の返事に、修司はやっと顔を上げた。ギッと、榊を睨み付ける。
「そんな、言葉を聞きたいんじゃない……詩織が指を握ってきた時、初めて笑った時、初めて言葉を喋った時、何も感じなかったのかって、ぼくは聞いてるんだ。詩織がきみの名前を呼んだ時、可愛いと、愛おしいとは思わなかったのかって聞いてるんだ!」
「思いませんでしたね」
「…………っ!」
 修司が大きく顔を歪めた。
「私はただ、実験が成功に近づいていくのが楽しみでしょうがなかった。その為だと思って七面倒臭い子守りまでしたんだ。そうだ。そうなんだよ。所長、私が何故、何故この実験を積極的に手伝ったのか、わかりますか」
 次第に興奮した口ぶりになっていく榊を、修司は呆けて見上げていた。
「貴方のためですよ」
「ぼくの……」
 修司がオウム返しに言うのを遮って、榊は早口で続ける。
「貴方の頭脳は素晴らしい。天才です。歴史に名を残すことだって簡単だ。それなのにいつも、愚にもつかない虫を造っては喜んでいる。私はいつも歯痒くて仕方なかった。だから貴方が、自分の娘に虫を合成すると言い出した時、私だけにそれを打ち明けた時、私は快哉を叫びたい気分だった! この実験で世界は変わる。違法な実験だろうが構うものか。成功してしまえば世間は崇め称えるしかないんだ!」 
 榊は両腕を大きく広げた。修司はひきつった顔で、緩く首を振っている。
「貴方はこの時代の寵児になる。私の手によって! 馬鹿な奴らは違法だ非道だと騒ぐだろうが、なに、気にすることはない! 面倒な処理は私に任せて、貴方は象牙の塔の上で実験に耽って、時折浮き上がってくる名声を拾い上げていればいい! 貴方はそうするべきだ。比類なき天才というのは、そういうものなんだ!」
 ひときわ高く叫んだ後、榊は腕を降ろした。はあ、はあ、と息を切らしている。榊が一歩足を踏み出すと、詩織を抱えたままの修司が怯えたように後ずさった。
「ああすみません、少し興奮してしまった。詩織が死んで悲しいんでしょう。しばらく休みますか。落ち着いたら実験を再開しましょう。次はなんという名前にしますか。詩織が死んで寂しいなら、また同じ名前にしますか」
 修司の前に跪いて、榊が腕を伸ばした。榊から遠ざけるようにして、修司は詩織を抱きしめ直す。
「ほら、いけません。そんなに抱きしめては鱗粉が飛びます。危険です。離れてください。目に入れば腫れてしまいますよ」
「……もういい」
 触れようとした榊の腕を、修司は振り払った。泣き出しそうに歪んだ顔で、喘ぐように続ける。
「もう、いい。わかった。こんな実験はもう続けられない」
「何を言うんですか。やっとここまで来たんですよ。これから何度も繰り返せば……」
「詩織の死を繰り返すような実験なら、ぼくはもう耐えられない!」
 臓物を捻られたような悲痛な叫びだった。そして、詩織の体をぐっと引き寄せる。榊が止める暇も無いうちに、詩織の肩口から伸びた翅を口に含み、噛み切った。水色の翅にくっきりと歯形が残り、鱗粉が周囲に青く飛び散る。喉仏を上下させて、修司はふ、と目を閉じた。
 修司はゆっくりと、背中から倒れ込んだ。一瞬場が静かになったが、榊はすぐに動いた。一声も発さず、修司に覆いかぶさるように倒れている詩織を抱え上げて、乱暴に投げ捨てた。詩織は翅をしならせて転がり、カーペットの上に仰向けになった。
 榊は修司を抱え起こすと、口をこじ開けて、喉に指を突っ込んだ。
「クソ、吐き出せ、吐き出せよ!」
 榊が叫ぶが、修司はピクリとも動かない。喉から指を引き出して、榊は修司の体を揺さぶった。
「貴方が死んだら実験はどうなるんだ、ふざけるな、死なせない、絶対に死なせない……!」
 汚い声だ、と美樹は思った。自分の欲を押し付ける汚い叫び。もう修司はこのまま死んだ方がいい、とまで思う。頭がいい癖に愚かな修司が生きていくには、この世は汚すぎる。今、美樹はただの傍観者だった。このどうしようもない事態を解決しようとする気が湧かない。このまま全てが、崩壊に向かって順当に進んでいけばいい。
 修司の懐から、ムカデが飛び出した。きちちちち、とけたたましく鳴いて、宙を滑り、榊を威嚇する。
「どけよ、ゴミ虫が!」
 榊がムカデを振り払おうと立ち上がり、滅茶苦茶に腕を振り回す。無様だ。見ているのも苦痛なくらいだ。そんな時だった。美樹の視界の端で、何かがピクリと動く。榊からも修司からも目を逸らしたくて、美樹はそちらを見た。詩織が動いている。天を向いた蝶の脚が、宙を掻くように動いている。美樹は、引き寄せられるようにそちらに這っていった。
 榊はムカデを追い払うのに忙しく、こちらに気が付かない。美樹は不思議な気持ちで、動いている脚に縛られた手を触れさせた。蝶の脚がしっかりと美樹の手に引っ掛かる。間を置かずに、人間の腕が美樹の手を掴んだ。詩織の目が開く。キラキラと光が並んだ複眼。美樹はそれを、途轍もなく綺麗だと思った。
 美樹の腕を伝って、詩織が起き上がろうとする。その不格好なバタつきを見て、美樹は必死に詩織の腕を引き上げた。詩織が起き上がる。目の前に香織そっくりの、それでいて詩織でしかない顔がある。詩織がふわりと笑ったのに、美樹は見惚れた。詩織が大きく翅を動かす。その途端に飛び散った青い鱗粉が美樹に降りかかる。毒の粉だ、と思い出した美樹は目を閉じた。手足がふっと軽くなる。恐る恐る目を開くと、手足から剥がれ落ちたクモヒトデが地面に落ちて小刻みに痙攣している。翅をふわりと動かして浮き上がる詩織につられるように、美樹は立ち上がった。
「生きていたのか……」
 榊の声がした。憎々し気に詩織を睨み付けている。ムカデは今、修司の胸元を陣取って威嚇音を出していた。そんな光景を見ながら、詩織は不思議そうな表情を浮かべて触角をふよふよと動かした。
「虫一匹生きてたって仕方ないんだ! 所長が、所長が死んだら私は……!」
 榊の言葉を聞いて、詩織はやっぱりにっこり笑った。ふわりと飛んで、修司の上に覆いかぶさるように着地する。
「何を……! 触るな!」
「手を出さないで!」
 美樹は、詩織に掴み掛ろうとする榊を縋りつくようにして止めた。榊は動きを止めたが、射殺すような眼で詩織を睨んでいる。
 詩織はきちちちちち、と鳴き声を上げるムカデに指先を差し出した。数秒数える間にムカデは鳴くのを止める。触角で、顎で、無数の肢で、確かめるように触れる。背の甲殻を親指で撫でられたムカデはすっかり大人しくなって、修司の胸元で丸くなった。
 詩織はクスリと笑うと、二本の腕で修司を抱き起して、四本の脚で修司を抱きしめた。汗で髪の貼りついた額を愛おし気に撫でて、修司の顔に、顔を近づけた。詩織が、体液で青く濡れた唇をそっと開く。そこから覗く、くるくると円を描いた黒い口吻。それが口から伸びていって、修司の唇に触れる。
 探り当てるように動く口吻の先が、修司の唇の隙間に潜り込む。それに反応するように修司が僅かに体を動かして、唇を開く。するすると伸びる口吻が修司の舌を弄んで、深く、深く差し入れられていく。その度にビクリ、と肩を揺らした修司が、大きく喉を逸らした。その喉元に、詩織が指を滑らせる。長い口吻が全て修司の喉の奥に収まって、詩織の唇と修司の唇が触れ合った。詩織が目を閉じる。それとは逆に修司の目が薄く開く。そして、詩織を確認して安心したように、また目を閉じた。長い口づけの中で、修司が時折身じろぎする。その度に、宥めるように詩織が修司の首筋を撫でた。
 詩織が唇を離した。修司の赤い喉から、ゆっくりと黒い口吻が引き出されていく。引き抜かれる瞬間に、修司は小さく声を上げた。しゅるしゅると巻かれた口吻が、詩織の口内に収まる。詩織はゆっくりと唇を閉じて、目を開けた。黒く濡れた目で、修司を眺め下す。
 修司はやはりぐったりとして動かなかったが、その頬には色味が戻っている。詩織はそっと修司を床に下ろした。少しの間修司をじっと見て、次にステンドグラスの天井を見上げた。そして歯形のついた翅を動かし、力強く浮き上がる。
 美樹はハッと我に返り、榊に詰め寄った。
「天井! あれ開く!?」
「え、ああ、開く」
「どうやって開けるの!?」
 榊はベッドの向こうの壁を指さした。美樹は駆け出す。ベッド脇のスタンドライトに足をぶつけて、ライトが転がる。明かりが消えた。しかし構っていられない。天井から月光が差し込んで十分すぎるくらいだ。
 壁に張り付いた銀板をめくり下ろす。ハンドル式だ。なんて時代錯誤な。しかし四の五の言っていられない。美樹はぐっと力をいれて、ハンドルを回した。
 音も無く、天井が開いていく。月光が透けて色とりどりに輝く、半径三メートルほどのステンドグラス。それの中心が歪に割れて、聖母と天使が引き離されていく。その向こうに、蝶の群れが見えた。水色の蝶の群が空に昇っていく。軽い蝶が大群で羽ばたく時、川のせせらぎの様な音がするのだと美樹はこの時初めて知った。
 ドーム状の部屋の中を、詩織は同心円を描くようにして上がっていく。遊色をはらんで月光に煌めく水色の翅。流れるような青い翅脈と、そこから零れ落ちる鱗粉が青い残像をつくっていく。詩織はもう下を見なかった。夢を見るような眼で、ただただ、上だけを見上げている。その姿があまりに綺麗で、美樹は胸の中心が苦しい程に熱くなった。
 別れは一瞬の間。ステンドグラスが開き切らないうちに、詩織はその隙間に潜り込んだ。そして高く高く、昇っていく。青い影はふわふわと翅を動かすのに、あっという間に高い位置にいる蝶の群れと交わった。水色の輝きが、遠くへ消えていく。美樹はハンドルから手を放して、部屋の真ん中に立った。天井に空いた穴からは、ただ銀色に輝く丸い月が見えるだけだった。

 

「良かった……良かったですね、所長。思考に障害は残らないそうです。実験は続けられます」
 ベッドの上でぼんやりと身を起こす修司のすぐ傍に立って、榊は穏やかに言った。美樹は榊を引き寄せて、低い声で囁いた。
「実験のことは言わないで! 修司さんはまだ不安定なんですよ!?」
 あの後、病院に運ばれた修司は一命を取り止めた。明らかな致死量を飲み込んだのになぜ生きていられたのかはわからない。下半身に重度の麻痺は残るが、思考能力に問題は無い。そういう診断が下されていた。
 そうはいっても絶対安静。本来なら家族以外との面会は認められていない。しかし、修司が榊を呼んでくれと何度も繰り返したから、仕方なく入れたのだ。これ以上修司を刺激するようならすぐにでも追い出す。そう決意する美樹を気にした様子も無く、修司は口を開いた。
「榊、来てくれてありがとう」
「いいえ、いくらでも呼んでください」
「それで、訊きたいことがあるんだけど」
「何でしょうか」
「詩織は、本当に飛んでいったのか」
 それは、美樹がここ数日何度も訊かれたことだった。その度に何度も、詩織は宇宙に向かって飛んでいったと説明したのに、わざわざ榊を呼んでそれを訊くのか。榊は、なんだそんなことか、とでも言わんばかりに口を開く。
「ええ、詩織は宇宙に飛んでいきましたよ。研究も次の段階に進めます」
 その言葉を噛み締めるように、修司は目を閉じた。胸を押さえて、何度も深く呼吸を繰り返す。開いた修司の目から、涙が一粒、零れ落ちた。修司はそれを隠すように、顔を両手で覆った。
「そうか……そうか。詩織は生きてたんだ。ちゃんと飛んでいった。あの子はやりとげたんだ……!」
 震える声を聞いて、美樹はやっと気が付いた。修司は、美樹が嘘をついていると思っていたのだ。修司の精神が壊れないように、詩織が生きているという優しい嘘をついていると思っていたのだ。
 修司は息を抑えて泣き続け、時折掌の隙間から声を漏らした。美樹はその様をしばらく眺めていたが、やがて榊に歩み寄り、小さな声で言った。
「出ましょう」
 榊は美樹を鋭い目で見下ろしたが、特に逆らうことはしなかった。

 

修司の病室から少し離れた廊下で向かい合う。
「今後の実験について、まだ所長と話したいことがあったんですが」
「実験の話はしないでって言ったでしょう」
 こんなに空気の読めない男だっただろうか。美樹は苦々しい思いで榊を睨み付ける。
「言っておきますけど、修司さんは今後あなたには会わせません」
「何故?」
「何故じゃないでしょう? あんな実験、もう二度とやらせない!」
「あの人の頭脳を遊ばせておくつもりですか? 人類の損失ですよ」
 話が通じない。美樹は会話を諦めて、事実をただ突き付けることにした。胸ポケットから黒と金のリップスティックを取り出す。蓋を開くと、口紅では無く小さな蜘蛛が出て来る。掌に乗せた蜘蛛を、榊に突き出す。
「これは……あの人が前に造った玩具ですね。これがどうかしましたか?」 
 榊が怪訝な顔つきで言う。勘が悪い。いちいち説明しなければいけないのか。
「そう、これは玩具。見聞きした音声や映像を記録してくれる蜘蛛。画質も音質もあまり良くないけど、十分役に立ってくれた」
 数秒黙った後、榊はハッ、と表情を変えた。本当に勘の悪い。蜘蛛に向かって伸ばしてきた榊の腕を避けて、美樹はリップスティックに蜘蛛を戻した。
「もうデータは会社に送ってあります。今更何したって無駄」
「あれが公になれば、私だけじゃなくて所長も捕まりますよ。正気ですか」
「正気です。あの人は、自分のしたことの責任を取るべきなんだ」
 子供のような人だが、もう大人なのだ。何人もの子供の命を弄んだ罪、それに対する罰を受けなければならない。それが法的な刑罰だと言うなら、それも仕方がないだろう。
 榊は珍しく青ざめた顔で額を抑えて、独り言のように言った。
「これは……困りましたね。貴女の口止めをしておくべきでした」
「今更悔やんだって遅いですよ」
「所長が死ぬと思って動揺していた……迂闊だった」
 目を瞑り、噛み締めるように言う。これで終わりだ。美樹は榊に背を向けて、立ち去ろうとした。しかしその背に声がかかる。
「しかし……覚えていますか。詩織は飛んだ。実験の第一段階は成功した」
 美樹は振り返った。既に榊はいつも通りの感情のこもらない顔をしている。
「予定よりかなり早いですが……貴方が実験の全てを世間に公表することで、所長の名が世間に知れ渡りますね。そしてその後、何が起こると思いますか」
「何が……言いたいんですか」
「あの実験に関わっていたのが、私と所長だけだと本当に思っているんですか」
 一時、沈黙が広がる。美樹の背を急激に冷や汗が伝った。
「……他にも、あんな実験に関わっていた人がいるって言うの? 誰? あの研究所の人間なんですか?」
「さあ、どうでしょうか」
「……修司さんに訊きます」
「あの人は知りませんよ。虫のこと以外何も見えない人です」
「……警察の手が入れば、関係者全員捕まりますよ。この会話を渡せば、警察だって探します」
「ああ、そうでしたね。この会話も録音されてるんでした。私という人間は、口が軽くていけない」
 榊は口元に手を当てて、薄く笑った。
「もう黙りましょう。今の言葉は全部妄想です。もうすぐ捕まる男の、最後の負け惜しみです」
 榊は背を向けて、病院の廊下を歩いて行った。その姿勢はいつも通りの真っすぐさで、少し早い歩調にも乱れはない。
 美樹は拳を握りしめて天井を見上げた。この白い天井のずっと向こうの宇宙を、蝶の群れは飛んでいる。その中で一際青く鱗粉を煌めかせ、詩織が飛んでいく。遥かな宇宙を、向こうが透けて見えるような水色の翅だけで渡っていく。そしていつか辿り着く虫の星は、香織の夢見たストラテキラテスは、蝶達の楽園ではないのか? どうしてこんな地球に、薄汚い人で満ちた土地に帰ってくる必要がある?
 美樹は踵を返し、榊とは反対の廊下を進んでいった。地面をえぐり取るように、硬い靴底を床に叩きつける。それでもいつか詩織が帰ってくると、美樹は確信していた。

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