Dr. Rikoの島 ~遺伝子編集、承ります~

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梗 概

Dr. Rikoの島 ~遺伝子編集、承ります~

神谷璃子は、二世代にわたってゲノム編集を施されて生まれた。デザイナーベビーを作る生殖細胞へのゲノム編集を憎んでいる。しかし、遺伝子編集技術においては右に出るものがいない。小さな島を丸ごと所有、美容外科を開設した璃子は、動植物にゲノム編集を施した美しい島で、世間から隔絶した生活を送る。
 有名人や富裕層がこぞって璃子の元を訪れる。璃子は、クライアントの訴えを辛抱強く聞き、生殖細胞のゲノム編集以外なら、大概引き受けた。どこで聞きつけたか、宇宙開発企業から宇宙エレベータの保守要員にと、放射線耐性のある遺伝子の作成依頼が舞い込むこともあった。
 遺伝子操作に悩みが絶えないクライアントのために、璃子は遺伝カウンセラーの七草真希を雇った。真希は孤児で、外見はお世辞にもかわいいとは言えないが、気立てがよく、話しやすかった。無類の動植物好きの真希は、仕事の合間に自ら生き物の世話係をかってでた。
 朝早くの見回りで、船着き場から歩いてくる野口博に会う。璃子の大学時代の恋人で親友でもあるという野口は、保健省医療経済対策課の官僚である。野口は、受精卵のゲノム編集を依頼するために島を訪れたという。高騰する医療費を削減するため、低所得者層の生殖細胞を一律にゲノム編集し、健康で病気に耐性のある人体に改良する計画に協力を求めた。
 璃子は取り合わない。押し問答を繰り返すうちに、璃子の人格が一瞬にして変化し、男性の人格である伽惟カイが出てくる。璃子は解離性同一性障害であり、強いストレスが加わると人格が変わる。それが野口と別れた原因でもあった。璃子とは正反対の、テクノロジーの追求こそ善であると考える伽惟は、野口の親友であり、ゲームをする気楽さでゲノム編集を楽しむ。
 野口がゲノム編集の方向性を伽惟に説明すると、瞬く間に遺伝子が編集される。必須アミノ酸の体内産生、皮膚での光合成、各種病原体に対する抵抗性、さらには汗腺の機能亢進まで、シミュレーションではヒトがまるで別の生物のように変化する。
 璃子の人格は封印されたまま。真希は、野口の極端な行動に疑問をいだいていた。深夜、窓辺で休息を取る野口に近づき、真希は雑談をしながら野口の心を読み解く。野口は自分の子どもを病気で亡くしていた。遺伝子治療を受ければ助かったが、公務員である野口に、その余裕はなかった。それならば、人々の健康を底上げし、病に倒れる人たちを少なくしよう。その思いが野口の原点であった。
 真希は伽惟に野口の話を伝える。面白くなさそうに聞いていた伽惟が、突然、手を止めて口を開いた。「かわいそうに」その声は璃子だった。そのまま、璃子は手際よく作業を続ける。いつしか野口用の編集されたゲノムが出来上がっていた。
 野口は編集されたゲノムを手に、島を去る。その施策が実行されたのか、されなかったのか。成功したのか、しなかったのか。璃子の島では知る由もない。

文字数:1199

内容に関するアピール

百年後には、ヒト遺伝子の機能はほぼ解析され、疾患関連の遺伝子も特定されていますが、人々の心が新しい技術についていけず、一部の遺伝病などの治療以外では、ゲノム編集に根強い抵抗が残っていると推測します。
 ヒトが自らの設計図に手を入れるのは傲慢か。受精卵にゲノム編集を施された、いわゆるデザイナーベビーは、自分が望んだわけではないその技術をどう受け入れていくのか。また、子どもによかれと思ってゲノム編集に踏み切る親は、果たしてその結果に満足し、良好な親子関係を築けるのか。実作では、そのあたりも遺伝カウンセラーである真希を通して書いてみたいです。重くならないように、軽いタッチで書く予定です。
 なお、遺伝カウンセラーは、出生前診断の開始に伴って生まれた学会の認定資格で、現在でも300人に満たないマイナーな職種です。今後、遺伝子関連の診断や治療が激増することを鑑みると、人材育成は急務です。参考まで。

文字数:397

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Genome Editing ―希望の春―

【2118年 春】
 野口博は人気のない船着き場に立っていた。
 風は冷たく、波も荒い。今年の春は遅い。もうすぐ四月だというのに、雪が舞うような気温だ。息を吹きかけて両手こすりあわせ、ポケットに突っ込んだ。
 保健省医療経済対策課の官僚として働いた二〇年余りの日々。信念を持って進めた政策は、国民に受け入れられなかった。今でも間違っていたとは思わない。誰かが、やらねばならなかった。大規模な反対運動が巻き起こった。釈明を求められたが、必要悪だ、といって自説を曲げず、挙句の果てには拘束された。政治的な何かが裏から手を回し、三ヶ月の拘留後に解放された。
 お前のいる場所は、もうない。せめてもの情けだ。雲隠れしろ。
 人づてに知らされた伝言。言われるままに、この波止場に足を向けた。
 海の向こうに目を凝らす。見えるはずはない。だが、野口の脳裏に小さな島影が幻のように立ちあがった。
 灰色の世界が徐々に明るくなってきた。黒い雲の裂け目から青空がのぞき、光がいく筋か、海面を照らしている。岸壁に打ち寄せ砕ける波に、足元が濡れる。少し後ずさりながら、あたりを見回した。船が必要だ。丸一日航行できる、性能のいい船が。できれば操縦士付きで。とは言うものの、船はすでに公共交通機関としての寿命を迎え、道楽で所有されるものがほとんどとなっていた。おいそれとは見つからない。かなり遠く、プライベートの桟橋に一艘だけ。
 ダメもとで足を運んだ。雲の切れ間が大きくなる。右手にどんどん明るくなる海を見ながら岸壁を歩けば、やがて、桟橋につながれている船が珍しくも豪華なクルーザーであると、はっきり見えてきた。
 寄せる波にもまれ、船は上下左右に揺れている。
 誰もいないのか。――いや、差し込んだ陽に浮かび上がる影が一つ。心なしか、こちらを見ている気配がする。

 

【2115年 春】
 奈津芽ナツメは人ごみをかき分けて、小柄な背中を追っている。
 小児科学会での取材中、思いがけない言葉が目に飛び込んできた。“Mongolian spot”――蒙古斑。幾人かの聴衆が、研究者と思しき女性を取り囲んでいる。奈津芽が足を止めると、プレゼンテーションのモニターは他の症例報告に切り替わり、ほどなく人垣が崩れた。――話を聞かなければ。
 奈津芽は人知れず悩んでいた。もうすぐ十歳になる一人娘の新音シノンの背中。そこには臀部から続く蒙古斑がある。幼児期を過ぎれば自然に消えるだろうと思っていた。それが、ぽつりぽつりと島状に増え、腰から背中に広がった。幾度となく皮膚科を受診させようかと考えたが、思いとどまった。痛がる様子もなかったし、なにより、虐待と誤解されるのが怖かった。本人には見えない場所なので、奈津芽は今まで新音に言ったことはない。春とはいえ、まだ寒い朝の空気の中、玄関先で待つ友だちと朗らかな声をあげて出かけていく新音の後ろ姿を、奈津芽は今日も黙って見送ってきた。
 香坂奈津芽はジャーナリストだ。仕事の合間を縫って密かに調査を続けていた。そんな折の、小児科学会への取材である。何か手がかりがあれば、と思ってはいたが、いきなり目にした情報に、少々戸惑っていた。
 聴衆に囲まれていた女性は、機敏な足取りで人ごみをすいすい抜けていく。どちらかというと大柄な奈津芽は見失わないように後を追うのが精いっぱい。会場の隅まで来て、やっと追いついた。
「すみません。あの……」
 振り返った女性の顔に、驚きが広がった。
「……奈津芽?」
 奈津芽も目を見張る。
コズエ?!」
 幼馴染の中野梢。小学校で奈津芽が転校してしまってから、全く音信不通だった。
「そうだよ! どうしたのこんなところで。びっくりした! いったい何年ぶり?」
「……二十年ぶりぐらい?」
 ちがう。そんなことはどうでもいいの! 奈津芽は梢の目をしっかり見つめ、畳み掛けるように問いかけた。
「Mongoloid spotって、蒙古斑だよね? いったい何を発表したの?」
 始めこそ奈津芽の勢いに押されていたが、ゆっくりと首を傾け、梢は静かに話し始めた。
「蒙古斑はゲノム編集が解禁された初期に、真っ先に消滅実験がされていた。新生児にワクチンを投与するように、ゲノム編集した遺伝子を使って、蒙古斑は簡単に消えた。もともと、特に意味をなさないものであるし、……ほら。虐待って誤解されたくない親が多かったってことかな」
 わかる。だから奈津芽は誰にも相談できなかったのだ。梢の視線がちらりと奈津芽をとらえる。
「それは、一時の流行みたいなものだったんだけど。……そのあと、ね」
「そのあと?」
 梢が視線を外した。心なしか、ためらうような口調で続ける。
「蒙古斑が大きくなったっていう報告が、最近増えていて……」
「え?」
 とっさに出た夏海の声は、上ずっていた。
「親もそれだけでは病院に連れて来ないんだよね。だから、最初は分からなかったけど、私のクリニックでも激増してる。何人か、同期に聞いてみても、同じような傾向があった」
 新音だけじゃなかった。奈津芽は内心ほっとする。だけど、激増って?
「というわけで、まずは症例報告という感じで発表したってわけ。そうしたら、やっぱりほかでも増えているみたいで、結構な反響があった。だから、これから原因解明を始めようかと思って」
 そうか。奈津芽は眉をひそめた。
「ちょっと、奈津芽。いきなりなんなのよ。久しぶりの挨拶もなしで。……さては、奈津芽の周りでも、蒙古斑で悩んでる人、いるかな?」
 背の低い梢が、下からいたずらっ子の目でのぞきこんでくる。奈津芽はため息をついた。
「大当たり。……うちの子。もう十歳になるんだけど、消えるどころか背中まで広がって。なんとなく、誰にも相談できなくってさ」
「わかる。だから、何かのついでに、こっちが気づいて言ってあげると、親は安心するんだよ」
 だけど、なんでかなぁ。一昔前にはこんなことなかったんだよ。急に増えちゃったんだよね。胸の前で腕を組んでぶつぶつつぶやく梢を見ながら、奈津芽のジャーナリストの勘が、突然働きだした。学会会場のガラス張りになった大きなホール。行き来する人々を眺め、奈津芽は大きく息を吸って、吐いた。
 これは、何か裏がある。

 

 

【2118年 春】
 野口は一歩一歩踏みしめるように歩いていく。
 強い風がまともに当たって海に落ちそうになるが、それでもしっかりとした足取りで桟橋を歩く。頑丈そうな船だ。長距離の航行にも耐えられそうだ。
 ――だが、何と言って乗せてもらう?
 野口の歩く速度が落ちた。乗せてもらうにも、借りるにも、値が張るだろう。ポケットの中で握ったこぶしに力が入る。……だめなら、力ずくで? 一瞬、頭をよぎったその考えを振り払うように頭を強く振り、前を見た。
 入口に、ほっそりとした人が立っている。三〇前ぐらいだろうか。美しい女性だ。近づく野口を、微笑みをたたえて見つめている。船の持ち主だろうか。小さく会釈をした。
「お待ちしていました」
 え?
 耳を疑った。俺を、待っていた? 誰かと間違えているのだろうか。
「絶対いらっしゃるから、といわれて、お待ちしていました。半信半疑だったんですけど、本当にいらっしゃって」
 どうぞ、入ってください、とキャビンのドアを開ける。野口は立ち尽くしたまま。どう反応していいか、さすがに決めかねていた。
「野口さん?」
 あっけにとられている野口に、茶色く温かい目が微笑んでいる。ふと、知っているような気がした。ずいぶん前に、どこかで会ったことがあったかもしれない。向こうが覚えているのに、俺が忘れている? それなら、なんと失礼な。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 平気な風を装って、開けられたドアをくぐった。
 白いキャビンは上質な造りだ。周囲は広い窓に囲まれていて、海面と空が間近に見えた。ずいぶん青空が広がった。海も透明感を増している。拘束されていた三ヶ月間、野口が夢にまで見た大海原が、目の前にあった。
「昨夜は、ひどい悪天候で、大変だったんです。木の葉のように揺れるので、ほとんど眠れませんでした。野口さんがいらっしゃるまで、かなり待つかと思っていたんですけど、良かったです。すぐお見えになって」
 一方的に話をされて、野口はどう切り出していいのか、逡巡していた。俺は、何か大切なことを忘れてしまっているのかもしれない。だが、ここでどういうことか、聞いてもいいだろうか……。
「あの、すみません。この船は……」
 やっぱり、聞かなくてはならない。野口の問いに、目の前の女性が、一瞬、不思議な顔をし、そして、にっこりと笑った。
璃子リコ先生に、迎えに行くように頼まれてきました」
 璃子?
 思考が、止まった。理解不能だった。野口が望んでも、向こうから野口に接触してくるとは、思いもよらなかった。
「野口さんが、島に来たいって、きっと思っているって」
 俺が、島に……。気が遠くなるような感覚とともに、その島で過ごした十五年前の出来事が、野口の目の前に鮮やかに戻ってきた。

 

【2103年 初夏】
 予想はしていたものの、貨物船に紛れ込んでの密航というのは、ずいぶんと苦痛だ。こんな安易な手口が成功するとは思えなかったが、搭載されているAIは操舵専門のようで、積み荷には一切チェックが入らないのは助かった。これは、ある意味、来る者は拒まずという意図さえ感じる。野口はひそかに頬を緩めた。そうはいっても、ここまでするやつは、そうそういないと思うが。
貨物船とはいうものの、プレジャーボートを一回り大きくした程度のサイズで、船長二〇メートル、幅四メートルといったところか。荷物と船体のすき間に何とか入り込んだような形で、ひっきりなしの揺れに耐え、船に当たる波の音を聞きながら、野口はいつの間にかまどろんでいた。
 コックピットにつながる頭上のドアから、うっすらと光が漏れる。朝だ。もうすぐ、島に着く。彼女たちに会うのは、十年ぶりぐらいか。小さな島を買って、そこで穏やかに暮らしたいの。そう、寂しげな眼をしながら言った神谷璃子の姿を、野口は忘れたことはない。その望みとは裏腹に、彼女のゲノム編集に対する技術力の高さは、業界中に知れ渡っている。今でも施術を望む人々のなんと多いことか。うわさがうわさを呼んで、尾ひれがついて……。
 船のエンジンが回転数を増したり減らしたり、せわしない音を立てている。と、ガツンと小さな衝撃があった。エンジン音が静かに消えていき、打ちつける波と船体が何かに擦れる音だけになった。
 荷物のすき間から這い出て、貨物室のドアを開ける。コックピットの窓ガラス越しに緑の深いこんもりとした島と、縁取るように広がる白い砂浜が目に飛び込んできた。太陽は思いのほか高く上っている。真っ青な海に一直線に延びる桟橋は、初夏の陽を浴びてコンクリートの白さがまぶしい。
 誰もいない朝の桟橋に降り立ち、大きく伸びをした。潮風が心地よく吹いている。目の前に桟橋から島の内部に向かう細い小道が続いている。
「さて、行きますか」
 誰に言うともなくつぶやき、野口は力強く一歩を踏み出した。
 島の小道は、左右から木の枝が重なり、薄暗い。陽もほとんど届かず、落ち葉は朝露に濡れていて、踏みしめる足音も湿っている。背丈ほどの灌木が色とりどりの夏の花をつけ、熱帯の生垣のようだ。ただ、野口の記憶にはない、そして、おそらくどんな図鑑にも載っていない花ではあるのだが。
 坂を上り切ると、海岸から続いていた灌木もなくなった。背の高い木の多い林になった。深緑の下映えが美しい。その向こうに青い海が光って見える。ずいぶん上ってきたなぁ、と足を止め、……と、背後で何かが動く気配がした。かなり大きい。動物か? 襲われたら身を守るすべはない。手ぶらで来たことが悔やまれた。どうする?
 パチン。すぐ後ろで、踏まれた小枝が音を立てた。
「うわぁ!」
 振り向いて、思わず声が出た。野口の肩ぐらいの背をした、人だった。が、その顔から目が離せない。瞬きもできずに硬直した野口に、思いがけず優しい声がかかった。
「ごめんなさい。驚かすつもりではなくって……」
 我に返って、猛烈に後悔した。女性の顔を見て叫んでしまうとは。しかも、凝視したまま固まってしまうとは! なんと失礼なことを……。
「大丈夫です。慣れていますから」
 そう言ってかすかに微笑み、だが、それには多分にあきらめも含まれている。自己嫌悪の棘が、野口の胸にぐさりと音を立てて突き刺さった。うつむいて、苦痛に顔をしかめる。そんな野口に背を向けて、すたすたとその若い女性が歩き始める。
「璃子先生のところにいらっしゃったんですね? こちらです。途中で会えてよかったです。あのまま行くとまた海岸に降りちゃうんですよ。ぐるぐる回って、桟橋に着いちゃう。変な人が来たら困りますから」
 軽快な足取りで楽しげに話しながら前を歩くその女性が、ふと立ち止まって野口を待った。慌てて小走りでついていく。
「そういえば、ご挨拶もしていませんでした。すみません。七草真希といいます。璃子先生のクリニックで遺伝カウンセラーとして働いています」
 野口もぎこちなく答えた。
「こちらこそ、いきなり失礼しました。野口博です。保健省医療経済対策課の職員です。璃子とは、……璃子先生とは研究室の同期で」
「恋人、でしたか?」
 はっと息をのんだ。
「図星ですか?」
 くつくつと押し殺したような笑い声をたてて、真希がのぞきこむ。
「なぜだか、ここに来る男性は皆さん開口一番にそう言うんですよ」
 は?
「本当かどうかはわかりませんけど。もしも何か話したくなったら、いつでもお聞きします。守秘義務は守りますから」
 いたずらっぽく笑い、再び前を向いて歩きだす。野口は驚きを隠せなかった。真希の容貌はお世辞にも美しいとは言えない。だが、言葉の端々に見え隠れする包容力に、それ以上に、初対面だというのに、全て見透かされているような、その茶色く暖かい瞳に、野口は驚きを禁じ得なかった。
 真希さん。野口の声に、半分だけ振り返る。
「璃子は、璃子先生は、ここでも研究を続けているんですか? 島に移るときには、静かに暮らしたいって言っていたけど、世間はまだ彼女を忘れていない。美容外科を開設したという噂も聞いている」
「はい。美容外科を標榜したクリニックもありますけど、ほとんど新規のお客様は取っていらっしゃいません。以前のお客様だけ、引き続き見ています。あとは、どうしてもっていうお客様が無理やりいらっしゃることはあります。今日みたいな感じで」
 野口ににっこり笑いかける。そうだった。驚くことだらけで忘れていたけど、俺の目的は……。
「その、遺伝子の研究も続けているの?」
 はい、といって真希は道端の植物に手を伸ばした。大輪のバラが咲いている。真希はその茎を無造作につかんだ。
「危ない! 棘が」
 とっさに止めた野口を制して、手折ったバラを差し出す。
「……棘、ないんです。璃子先生が、ゲノム編集をしてなくしたんですよ」
 花も葉も、バラなのに、茎に棘がない。真希は目を見張る野口に微笑む。
「ここの植物や動物はみんなちょっとだけ改良されているんです。いろいろ探してみてくださいね。きっと退屈しません」
 野口はほっとした。研究を続けているだろうとは思っていたが、それでも確信はなかった。自らの過去を乗り越えられず、全部放棄してしまう可能性だってあったから。
「お客様が口々に言うんです。璃子先生の遺伝子編集技術は世界一だって。先日も、どこで聞いたのか、宇宙開発企業が宇宙エレベータの保守要員にって、放射線耐性の遺伝子を作成してくださいと来たんですよ。びっくりですよね。こんな大海の孤島までわざわざ足を運んでくるんですから」
 バラの香りをかぎながら、真希が先を歩く。豪華で美しいバラの花が顔に寄せられると、否が応でも真希の容貌が際立つ。璃子は美しくないものは許せないはずだった。すべてが美しいこの島で、なぜ真希だけが?
 そんな野口の心中を察してか、真希はひとり言のようにつぶやいた。
「それだけじゃないんです。璃子先生はとっても優しくて、遺伝子治療について悩みが絶えないお客様のために、私を遺伝カウンセラーとして採用したんです」
 真希は続ける。生まれてすぐに感染症を患い、その後遺症で顔貌が醜くなった。匿名で相談に訪れた児童保護施設に、母は真希を置き去りにして行方が知れないという。自分のルーツがわからないが故に、遺伝子に興味を持ち学んだ真希は、遺伝カウンセラーの資格を得た。案の定、その外見が災いして就職先は決まらなかった。そこに、遺伝学会で知り合った璃子がこの島での仕事を打診してきた。
「璃子先生は救世主なんです」
 そう言って、はにかむように笑う真希の横顔を見ながら、野口は思う。平均的な顔立ちだったら、気立てのいいこの子はここにはいなかったはず。璃子の最優先事項は美しさだが、それは外側だけのことではなかった。不思議とうれしさがこみあげてくる。
「それに、私、生き物がとっても好きなんです。だから、この島の生き物係をかってでて、毎朝見回りをしているんです。今朝はそのついでに野口さんを拾いました。野口さんも生き物ですから、私の管轄です」
「ありがとう。助かりました」
 野口は素直に感謝の言葉を口にした。この島に真希がいてくれること、そのものに対しての感謝だな、と言葉にならない思いを込めて。
 恋人として、親友として、数年間を共にした野口にはわかる。璃子は他人には理解しづらい性質を抱えている。二世代にわたってゲノム編集を施されて生まれ、デザイナーベビーである自分を否定して生きてきた。それ故、生殖細胞へのゲノム編集を特に憎んでいる。受精卵の遺伝子を改変すれば、誕生した本人ばかりでなく、その子孫にまで影響が残る。たとえ、その時に影響がなくても、二世代、三世代と時間が経って発現してくる可能性もある。その重大さを身をもって知っている璃子だからこそ、安易な生殖細胞に対するゲノム編集は許せず、自らその技術を封印している。いや、封印したいが、制御の利かないもう一人の自分を内包しているからこそ、この島に移り住んだのだ。
 木立の向こうに青空が広がっている。瀟洒なコロニアルスタイルの白い建物が姿を現した。海岸から上り坂を歩き続けて、野口の息は上がっている。数メートル先の芝生で、真希が振り返った。
「すぐにご案内したいのはやまやまなんですが、アポなしでいらっしゃったので、少々お待ちいただかないといけません。私も午前中にお客様がいらっしゃるので、あそこの東屋で少しゆっくりとなさっていてください。お茶をお持ちしますから」
 真希が案内した東屋は、広い芝生の広場と木立の境界にこじんまりと立っていた。中の椅子に腰を掛け、真希の背中を見送りながら、野口は璃子に依頼しようとしている計画を胸の中で繰り返していた。それにしても疲れた。昨晩、貨物船に乗ってからというもの、ゆっくり休む暇はなかった。静かに広がる青い空と濃い緑の木立を見ながら、いつの間にか野口はまどろんでいた。
 どのぐらいたったか、真希の声で目が覚めた。
「お茶にも手をつけず、よくお休みになっていたようですね」
 見るとテーブルの上には、フルーツとジャムを添えたスコーン、ティーポットが並んでいた。
「これは申し訳ない。せっかくのお茶を……」
「大丈夫です。お客様が帰られたので、中に用意しています。璃子先生にも野口さんのことはお話してあります。昼食をご一緒にということだったので、どうぞ、こちらに」
 真希に連れられ、白い建物の中に通された。清潔に心地よくしつらえられたリビングで璃子を待つ間、真希がクライアントの悩みをいろいろと聞かせてくれた。
 良かれと思ってデザイナーベビーを選択してみたけど、生まれてみれば、子どもはやっぱり親の思い通りにはいかず、悩みは絶えないものなんですよ。今日のお客様はゲノム編集技術が確立した初期に遺伝子を改変して長寿になったんですけど、周りの人たちがみんな先に逝ってしまうって。自分は健康そのもので、いったいいつになったらこの苦しみは終わるんだろうと、ほんとに人の悩みは尽きないんですよね。
 際限なく繰り返される悩み相談に、それでも真希は真摯にクライアントに向き合い、信頼されているのだろうと野口は思った。

 

【2118年 春】
「朝ごはん、準備しました」
 女性の声に我に返った。慣れない逃亡生活に心身ともに疲弊していた。暖かいキャビンに通され、思いがけない言葉を聞いた。それ故、野口の意識は過去に飛び、しばらく呆然としていたようだった。
 温かい料理がテーブルに並ぶ。紅茶を入れる女性を見ながら、ふと、懐かしさを感じた。ほほ笑むその目を、たしかに俺はどこかで見ていた。確信があるのに思い出せない。と、空腹に腹が鳴った。野口の気まずい表情を見て取ったのか、その女性が、どうぞ、と勧める。失礼して、と口にした食事は、もう何年も忘れていた、心まで温まるものだった。

 

【2115年 初夏】
 奈津芽は頻繁に梢のクリニックを訪ねるようになった。閑静な街並みに溶け込むように立っている、小さなクリニックだ。診察のない日は、近隣の小児科医や同期の医師が集まり、情報交換や勉強会が開かれているという。
 初夏の日差しがまぶしい午後。街路樹が石畳に濃い影を落としている。その影の下を、奈津芽は日傘をさして早足で抜け、クリニックに向かっていた。重大な情報をつかんでいた。それには梢の裏付けが必要なのだが、その情報が集まったという。はやる心を抑えきれず、昼食もそこそこにオフィスから飛び出してきた。
 ちょうど十年前、新音が生まれた年。この年の新生児向けワクチンは、製薬メーカーの製造工程に関する品質問題が原因で、大幅に納期が遅れた。それも1社だけではなく、ワクチンを製造するメーカーすべてに品質問題が起こっていた。だが、製薬会社に問い合わせても、機密事項としか回答がなく、詳細が明らかにならない。保健省に開示請求を依頼し、ワクチンの成分比率だけは入手できた。以前のものと異なるものが一つだけ。遺伝子に関連する項目と思われる。これが、何か影響しているのだろうか。もしそうなら、この出来事以来、おそらく蒙古斑の広がる事例が増えているに違いない。
 クリニックに着くと、待ちきれないような面持ちで梢が玄関のドアを開けた。日傘を畳む時間も惜しく、梢について中に入る。診察室の隣にある書斎に通された。鏡面塗装が施された高級感あふれる両袖机の上に、無造作に封筒が置かれている。奈津芽に椅子をすすめ、梢もその封筒を手に隣に座った。
「小児科学会にもデータはなかった。だけど、つてを頼って情報を集めたら、出たよ。まさしくその年生まれの子どもから、異常な蒙古斑が」
 差し出された資料に目を通し、奈津芽はうなずいた。思った通り、現場には記録が残っていた。それなのに、国や企業からは、何も出てこなかった。これだけ徹底してデータが出てこないと、かえって不自然だ。ワクチンの副作用報告さえ揉み消されていた可能性がある。
「この情報が、ほしかったの。原因は、おそらくあのワクチンで間違いない。私もネットワークを駆使して、調べてみる。誰が、何の目的で、ワクチンの内容を変えたのか」

 

【2103年 初夏】
 野口の待つ部屋に、璃子は唐突に入ってきた。最後に会ってから十年もたつとは思えない、変わらない姿で。そして、いつの間にか野口に向けられるようになった、決して心を許さない冷たい視線まで同じだった。ほんの少し、安心した。
 真希は、にこりと会釈して部屋を出た。残された二人の間に、少し、気まずい沈黙が漂った。口を開いたのは璃子だった。
「びっくりしたわ。あなたがこの島を見つけてくるなんて。……もう二度と会うこともないと思っていたから」
「連絡のしようがなかったんだ。きみについて知っていることといえば、噂のようなものばかり。研究室の誰もこの島のことは知らないし、よく来れたと自分でも思ってるよ」
「あえて外界と隔絶させているから。でも、日常品を運ぶ貨物船に乗ってくるとは、似合わないことをしたわね。それで、御用はなんなのかしら?」
 野口は一瞬ためらった。この依頼を口にしたら、もう二度と璃子に会うことはないかもしれない。――それでも、言わなければならない。
「ゲノム編集を、お願いしたい」
「なんの?」
「生殖細胞」
 璃子の表情が固まった。手にしたティーカップが、かちゃりと戻される。それをわざわざ私に依頼するの? 野口に向けられた冷たい瞳が、そう語っている。
 テーブルに並べられた食事が、温かさを失っていく。
「受精卵にゲノム編集をするわけじゃないんだ。次の世代につながるように、生殖細胞に改変した遺伝子が組み込まれれば、それでいい」
「論外ね。私が手を貸さないことは、あなたにもよくわかっているはず」
「生物学的な問題以上に、倫理上の問題があることは百も承知だ。この責任は俺がすべてとる。だから、協力してほしい」
 璃子の表情がゆがむ。
「あなたは、あれほど私の苦しみを見ておきながら、ちっともわかっていないようね」
 野口は譲らない。
「背に腹は代えられない。政府は子どもを対象に、一律にゲノム編集を施す予定だ。高騰する医療費を削減するために、健康で病気に耐性のある人体に改良したい。もしこのまま医療費が高騰すれば、いずれ保険システムは破たんする。だから、予防的処置が必要なんだ」
 人道的でないと言われようと、何としても成し遂げねばならない。ここで引いたら、困るのは俺一人ではない。俺の背中には、何千万の人の命がかかっている。
「璃子に、協力してほしい。ほかの痛みを知らないやつらには、してほしくない」
「お断りします。さっさとこの島から出て行って!」
 声を荒げて苦渋の表情を浮かべ、立ち上がった。その瞬間、璃子の表情がなくなった。
 棒立ちになった璃子を見ながら、野口は安堵した。ここまでくれば、半分は成功。
 璃子の表情が、変わった。両眼にきらめく光を宿し、いたずらっ子のように野口を上目遣いに見る。口角が上がった。
「久しぶりだな。伽惟カイ
 静かに呼びかける野口に、低い声音が答えた。
「野口じゃないか。貴様、うまいことやったみたいだな」
 ――解離性同一障害。
 ゲノム編集を繰り返された後遺症かもしれない。璃子にはもう一つの人格があった。伽惟という名の、男性の人格である。強いストレスが加わると人格が変わる。それを知ったのは、野口が璃子の恋人だった時。そして、璃子はそれを理由に自ら関係を解消した。
 だが、野口と伽惟は妙にウマが合い、ほどなく親友となった。璃子とは正反対の、テクノロジーの追求こそ善であると考える伽惟は、ゲームをする気楽さでゲノム編集を楽しむ。野口はその手腕を高く評価し、人類を、地球上の生命自体を、思うままに操れる可能性に興奮した。
 野口が官僚となり研究室を離れてしばらく経つと、璃子は小さな島に移住をすると決めた。伽惟の制御がうまくいかなくなったからだと野口は理解した。本土から遠く離れたここでなら、何が起こっても外の環境にほとんど影響を与えないだろう。そう、璃子が判断したに違いない。
「見てくれたか? この島の動物たちを。植物を。ぼくの作品たちだよ。野口ならわかってくれたと思うが」
「一目でわかったよ。だから璃子はここに引っ込んで暮らしているんだろ?」
「つまらないよ。最先端の情報どころか、普通のニュースも全く入ってこないんだ。ぼくがここに来てから、どれだけ世の中の技術が進んだ? ぼくの技術は時代遅れになった?」
「いいや。伽惟のような天才技術者はいない。だから俺がここにきたんだ」
 伽惟の表情がぱっと明るくなった。
「ということは、何か、あるんだな? ゲノム編集をする目的が」
 野口の説明を、楽しそうに頷きながら聞き、伽惟は研究室に向かった。In Silicoで次々とシミュレーションを行う。野口の意図するままに、それ以上に、瞬く間に遺伝子が編集されていく。必須アミノ酸の体内産生、皮膚での光合成、各種病原体に対する抵抗性、さらには汗腺の機能亢進などなど。世代を重ねたシミュレーションでは、ヒトはまるで別の生物のように変化する。
「ここまでは、さすがにいらないよね」
 伽惟が珍しく自制した。その通り。そこまでヒトという種を変化させる必要はない。いましばらく、この激動の時代を乗り切れるだけの強さがあれば、それでいい。
 璃子の人格は封印されたまま。真希が部屋を覗いた。おそらく伽惟が出てきていることに気づいている。野口に、少し休憩しませんか、と声がかかった。
 伽惟はコンピュータに向かって、嬉々としてゲノム編集を続けている。野口は真希について部屋を出た。外はすっかり暗くなっている。促されるまま窓辺に座って待っていると、真希が夕食を持ってきた。
 なぜ、璃子を封印して伽惟に頼っているのか、内心では野口の極端な行動に疑問をいだいているのだろう。だが、そんな気配を一切感じさせず、島の夜に潜む変わった動物たちを、真希は楽しげに紹介している。昨晩貨物船に乗りこんで以降、きちんと食事をしていなかった野口は、真希の話に耳を傾けながら、気付けばあっという間に食事を平らげていた。
 空腹が満たされ、野口は椅子の背に体重を預け、夜の闇に目を凝らしていた。島の夜は静かだ。どこかで鳥が鳴いている。危険な動物はいないんですよ、という真希の言葉に、少し胸をなでおろした。ゲノム編集をした動物であふれている島は、どれほど否定されても恐ろしいものが出てくるイメージがあった。だが、真希の声音は野口の心を落ち着かせる。疲れがどっと押し寄せて無口になった野口に合わせ、真希も隣で静かに座っている。
 月のない夜で、満天の星が輝いている。都会で見るのとは全く違い、星の数が多すぎて星座が追えない。天の川が漆黒の夜空を二分するように、とうとうと流れている。そういえば、小さい娘を連れてキャンプに行った時も、こんな夜空だった。野口は唐突に思った。あの頃は、明るい未来しか存在していなかった。娘と一緒に過ごすのが楽しみで、また、いつの日か大人の話ができるように成長するのが待ちきれなかった。なのに……!
「野口さんには、まっすぐな正義感を感じます。それは、なぜなんでしょう」
 不意に、現実に引き戻された。真希が静かな声で聞いた。正義感? ……この気持ちを正義感というのなら、たしかにそうかもしれない。全ての子どもたちに、希望のある未来を。……自分の娘には手に入れてあげられなかった、未来を。
 暗闇が幸いした。顔を見られれば、鬼の形相をしているはずだ。野口は声をのどから絞り出した。
「娘がいたんです。目に入れても痛くないっていうのは本当だと、そう思えるぐらいに大切な娘が。だけど、甲斐性がなかったんだ。俺には」
 声が、震えている。長い間押し殺していたやりどころのない怒りが、今、出口を見つけて噴き出そうとしている。その勢いに身を任せ、握ったこぶしに力が入る。
「治療法はあった。ただ、その頃はまだ開発段階で、有効だとわかってはいても保険はきかず、公務員の、俺の給料では治療費が払えなかった。……裕福な家の子どもは、同じ病気でも死ななかった。治療を受けて、元気になった。なのに、娘は……」
 胸が痛い。治ったと思っていた傷はかさぶたになっていただけで、簡単にはがれた。その下には、じゅくじゅくとして、まだ癒えていない、こんなにも深い傷が、まだあった。
 野口はあえいだ。涙はとうに枯れきっていて、声も出ない。ただただ、あえいでいた。
 もうこんな思いは誰にもさせたくないんです。その一言が、言いたいのに言葉にならない。
「だから、なんですね。同じような悲しみを味あわせたくない。そう思っているんでしょう?」
 野口はうなずく。真希が気づけるかどうかわからないぐらいの小さいうなずきだが、たしかに伝わったと確信した。
 そうなのだ。だから、璃子にはわかってほしかった。璃子の苦しみは俺だってわかっている。だからこそ、璃子にも俺の苦しみを知って、理解して、そして協力してほしくてここに来たんだ。貧富の格差が開けば開くほど、犠牲になるのは子どもたちだ。治る病気も治療費が高すぎて手が出ない。なら、健康を底上げし、病に倒れる子どもたちを少なくしよう。それが、俺の原点だ。
 大きく息を吸って、夜空を見上げた。あの時と変わらない星空は、しかし、野口の目には大きなきらめきを伴って見えた。
 ふつふつと新たな使命感が湧いてくるのが分かった。娘の病気が原因で別れた妻とも、腹を割って話したことはなかったように思う。野口は隣に座る真希を見た。相変わらずの容貌だが、その表情は穏やかで、まるで仏様のようだった。
「いやなことを、思い出させてしまって、すみません」
 目が合うと、真希が頭を下げた。
「いや、こちらこそ、取り乱して申し訳ない。でも、すっきりしましたよ。真希さんに聞いてもらってよかった。なぜここに来たのか、なぜ璃子に話を聞いてもらいたかったのかも、全部理解できました」
「それはよかったです。お役に立てて」
 真希は静かにほほ笑んだ。
 実験室に戻ると伽惟は相変わらず、ゲノム編集に没頭していた。この調子だったら、明日の朝には出来上がっているはずですから、野口さんはお休みください、と真希が勧めた。素直に客室のベッドを借りて、朝までこんこんと眠った。
 翌朝の目覚めは驚くほどすっきりしていた。身支度を手早くすませて客室を出ると、真希に出会った。ちょうど野口を朝食に呼びに来たという。真希についてダイニングに入ると、伽惟が先にテーブルについていた。
 伽惟? いや、違う。あの落ち着いた雰囲気は、璃子、か。
「博さん、遺伝子の編集は完了しました」
 璃子の冷めた声が、野口を迎える。
 いつ、伽惟から璃子に変わった? 本当に目的とするゲノム編集ができているのか? 璃子が仕上げたのなら、もしや……。一瞬にして血の気が引いた。
 言葉もなく立ち尽くす野口のとなりで、椅子が引かれた。真希が野口の目を見つめて、にこやかに着席を促している。
 野口は静かに、璃子の正面に座った。璃子は野口と視線を合わせることもない。静かに朝食だけが進んでいく。
 もし、持ち帰る遺伝子が予定されたものでなかったら……。
 なかなか食事が進まない野口を後目に、璃子は席を立ちながら冷たく言い放った。
「くれぐれも使い方を間違えませんよう」
 璃子はダイニングを出ていこうとする。何か言葉をかけなければ。このまま別れてしまっては、絶対にいけない。
 野口は、立ち上がった。椅子が後ろにはねて、大きな音を立てた。璃子が、ちらりと振り向く。その目をしっかり見つめた。永遠にも思えるほどの一瞬が過ぎ、小さく、くちびるが動く。
「――ありがとう」
 心の底から、振り絞ったような声が出た。璃子が驚いたように見つめている。――俺は、どんな顔をしている?
 不意に、璃子がくすりと笑った。
「うまく行ったら、また訪ねてきて」
 その声には、野口の全てを肯定するような、静かな力強さがあった。

 

【2116年-】
 奈津芽の調査は目に見えて進んだ。ターゲットを絞ると、ジャーナリスト仲間から驚くほど早く情報が集まる。例のワクチンに仕込んであったのは、ゲノム編集された遺伝子のコード。解析を依頼すると、免疫力の増強、代謝率の制御、重篤な感染症への防御作用など、有用な改変がなされていた。蒙古斑形成に関連するコードも含まれていた。
 ふと、ある配列が奈津芽の目を引いた。特に意味をなさない、と分析結果にはある。イントロンだろうか。それなら、アミノ酸配列に翻訳されず、排除されてしまうから問題はないだろう。
 原因はつかめた。ゲノム編集された遺伝子がワクチンに含まれていた。その内容が有用なものなら、なぜ隠し立てするような方法で実行されたのか。誰が、主導したのか。
 奈津芽は全ての時間をワクチン問題に費やした。そして、それから1年が過ぎ、とうとう首謀者をあげた。
 保健省医療経済対策課の野口博。
 高騰する医療費を削減するために、負担が大きい低所得者層に対して一律にゲノム編集を施し、健康で病気に耐性のある人体に改良する、という計画を公共政策大学院で共同研究していた。野口の同僚の口を割らせて、しっぽをつかんだ。
 世論は奈津芽に味方した。どれほど有用であっても、国民の同意を得ずに遺伝子改変をするとは、許せない。だが、詰め寄る奈津芽に野口は見下すように言い放った。
「必要悪だ。誰かがやらねばならない」
 大規模な反対運動が起こり、野口は背任罪で拘束された。そして、釈放され、姿を消した。奈津芽の、なぜ、に答えることなく。

 

【2118年 春】
 璃子の島に向かって、野口を乗せた船は進む。
 朝食の後、野口は本格的に眠ってしまった。目が覚めてからもしばらく微睡を味わいながら、大海原を眺めていた。璃子の島での出来事が、繰り返し胸に去来している。島の生活は、だいぶ変わったのだろうか。璃子は? 伽惟は?
 ――真希はどうしているのだろう。望めば本土に帰れるだろうが、璃子のためにも、島にいてほしい。……あの時のまま、出迎えてほしい。そう考えている自分に気づき、野口はかすかに笑った。なんと身勝手な。
 そういえば、璃子に言われて俺を迎えに来た彼女の名前も、まだわからないのだった。疲れが取れて、気力が戻ってきた。覚えていないと正直に話して、謝ろう。だが、彼女の姿はキャビンにはない。島に着くまでには、いずれ。……野口は、再び微睡に身を委ねる。
 船の向きが変わった。窓から陽の光が差し込む。だいぶ島に近づいたのかもしれない。
 ソファから起き上がると、離れて座る女性と目があった。
「起こしてしまいましたか? すみません」
「いえ、だいぶゆっくりさせてもらいました。ありがとうございます」
 女性が、くすりと笑った。
「全然、気が付かないんですね」
 野口は狼狽した。彼女のことを思い出せないと、自分が先に言うべきだった。目を細め、遠くを見るような表情をしながら、女性は朗らかに続ける。
「璃子先生は、美しくないものが許せなかったんです。だから、私も、気が付かないうちにゲノム編集されてしまっていました。……野口さんが分からなくても、仕方ないんですけど」
 そういって楽しげに笑う彼女の目を見て、野口の疑問は氷解した。まさしく、この瞳は!
「真希、さん?」
「はい」
 胸が熱くなった。真希の優しい心根に、これほどしっくりなじむ姿を作れるとは。璃子の技術は驚愕に値する。そして、何よりも、真希がずっと璃子のそばにいてくれていたこと、そして、再び会えたことが、何よりもうれしかった。
 遠くに、幾度となく野口が夢見た小さな島影が、見えてきた。

 

奈津芽を一躍有名にしたワクチン騒動は終局を迎えた。奈津芽の生活は徐々に平常に戻っていった。
 珍しく降雪の極端に少なかった冬が過ぎた。しかし、冷たく乾いた、それでいて雲に覆われた天気が長引き、春の訪れは遅れた。気温が上昇すると、瞬く間に熱波が列島を襲い、貯水池の水は底をついた。なんとか耕作した田畑は、しかし、たびたび襲う猛烈な台風に収穫はほとんど見込めなかった。
 この国だけではなく、世界中至る所で気候変動による食糧難となった。輸入しようとするにも、モノがない。かくして、各国が翌年の収穫時期まで耐久戦を強いられることになった。
 奈津芽は、新音と静かに暮らす。食糧難に対する備えは、ほとんどない。自分が切り詰めて、成長期の新音に食べさせたい。そう思うのだが、新音の食欲は乏しい。ほとんど食べ物を口にしない日もある。だが、痩せるわけでもなく、有り余るほどの元気を振りまいて、毎日学校に行く。
 学校で保護者会が開かれた。この冬を乗り切るために、生徒の健康と栄養をどう管理するか、医者や栄養士からの助言があった。だが、その話は誰も聞いていなかった。保護者同士、子どもの状況を把握することに夢中だった。ざわめきが大きくなる会場を静めようと、教師が躍起になるが、一向におさまらない。その中で、一人の保護者が壇上の教師に手をあげて発言を求めた。
「子どもがほとんど食べません。うちだけではなく、ほとんどのお子さんが、そうです!」
 誰も何もわからず、保護者会は混乱だけを残して解散となった。
 子どもたちは親の心配もよそに、水は飲むが、ほとんど食べない。それでも、日中は元気に外で遊ぶ。新音も例にもれず、食事の時間には一緒にテーブルにつくが、にこにこと奈津芽の食べる様子を見ているだけだ。
 気になることは、ある。時々学校帰りに野草を手にして戻る。そして、きれいに洗うとおいしそうに食べることがあった。友だちもおいしいって言ってるよ、と朗らかに言う。また、陽の出ている時間には、寒さも気にせず肌を見せて日光浴をする。背中の蒙古斑がかなり広がっていて、今では体幹のほとんどを占めるようになっていた。奈津芽の痛々しい表情をみても、新音はにこやかに笑うだけだった。
 乗り切れないかも、と覚悟を決めた冬が淡々と進む。だが、寒さが一段と厳しくなっても、子どもたちには特に大きな変化はなかった。風邪もひかない。感染症で治療が必要になるのは、大人だけ。希望の春が、そこまで近づいてきた。残り少ない食糧も、なんとかもちそうだった。誰一人として、飢えて死ぬ人はいない。

 

【2119年 春】
 梅の花がほころび始めた暖かい午後、奈津芽は久しぶりに梢のクリニックに立ち寄った。新音やまわりの子どもたちの行動をどう見るか、今更だが、聞きたかった。案の定、梢も奈津芽を待っていた。
「子どもたちが、食べないんでしょ。その分、あるの。わが家にも。このご時世、こんなものが」
 奈津芽を書斎に通すと、手作りのクッキーをテーブルに運んできた。あっけにとられる奈津芽に差し出す。
「別にいいの。子どもたちに後ろめたいことは何もないから」
 クッキーに手を伸ばせないで、奈津芽は梢を見つめる。しょうがないわね、貧乏性が身についちゃって、とため息をつきながら、梢は口を開いた。
「どうやら、子どもたちは自力でエネルギーを作っている。あの蒙古斑が、葉緑体のような働きをしているのね。よく日光浴していたでしょ? そして、草。培養してみてびっくり。子どもたちの腸内フローラが変わっている。植物繊維に多く含まれるセルロースを消化できる細菌が、共生していた。だから、子どもたちには野草も栄養源になるというわけ」
「それって、例えば、牛とか、馬とかのように?」
「ご名答! すごいよ。この冬を予期したかのような、子どもたちの変化は!」
 奈津芽は勢いよく立ちあがった。
 雷に打たれたように、一瞬にして、理解した。この変化は、まさにこの気候変動を予測していた。国民全部がなんとか生き延びられるように、子どもたちの遺伝子を変え、体をつくりかえた。
 それは……!
「ごめん、梢。私、行かなくっちゃ」
 梢は穏やかに笑って、奈津芽を見上げた。
「良くも悪くも、奈津芽は正直だからね。そう来ると思った」
 行き先はきっとここね、と言って渡された一枚の紙を握りしめ、感謝の言葉もそこそこに、奈津芽は港に急いだ。

 

海を見下ろす草原に寝転んで、野口は春の風を感じていた。
 この島に来て、一年がたつ。超長期予報で予測されていた激烈な気候変動は、昨夏から始まっていたはずだ。この冬、自分の蒔いたささやかな種は、芽を出し、国民を救えたのか。
 青空にぽっかり浮かんだ雲が、ゆっくり風に流される。
 野口は大きく伸びをした。もう、終わったことだ。いまさら考えることじゃない。
「野口さーん」
 真希が林の中の坂道を登ってきながら、野口を呼ぶ。すっかりさぼってしまった。そろそろ仕事に戻らないと。立ち上がって、野口は真希の後ろを歩く人影に気づく。珍しい。こんなところにクライアントを連れてくるとは。
 挨拶をしようと林に向かって歩き始めた野口は、はっと足を止めた。真希の後ろから、背の高い女性が野口を見つめている。それは、忘れもしない……。
「香坂、さん」

奈津芽は深々とお辞儀をした。頭を、いつまでたっても上げられない。この人は、国民の救世主だった。なのに、なんてことをしたんだろう。追いつめて、追いつめて、居場所を奪って。こんな島まで追いやって。……私がこの人にしたことは、決して許されることではない。だから、許してくださいとは言えない。では、なんと、言ったらいいのか。
 目をぎゅっと閉じたまま動かない奈津芽に、穏やかな声が降ってきた。
「香坂さん、……よくいらっしゃいましたね」
 思いがけない野口の言葉に、張りつめていた奈津芽の心が崩れた。のどが、熱い。抑えきれず、嗚咽が漏れた。隣に立つ真希が、奈津芽の肩をそっと支えた。
「長旅で、疲れがでちゃったんですね。少し、ここで休みますか」
 真希が奈津芽を草の上に座らせた。お茶を持ってきますから、待っていてくださいね。と野口にいい、真希は去っていく。隣で、野口の座った気配がした。

奈津芽のとなりに、野口は黙って座っていた。草原に春の風が吹いている。青い海は水平線でぼうっと白くかすみ、そこから空が続いていた。気付けば奈津芽も顔をあげて、遠くを見ている。
 かちゃかちゃと食器の触れ合う音がする。戻ってきた真希が、見晴らしのいい場所にテーブルを出して、お茶の準備をしている。
 結局、奈津芽は口を閉ざしたまま。野口も何も言わなかった。だが、それは想像以上に心地よく、野口の心は春の日差しに和やかに包まれていた。

 

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