梗 概
火星の守護天使
マリオンはバニラである。すなわち、改変を施していない古典的なヒトだ。宇宙飛行士に憧れたこともあるが、今は無気力に過ごしている。
彼が月面基地のゲストルームに備え付けられた個室サウナでくつろいでいると、節足動物を思わせる機械が隅から現れ、彼に飛び乗った。悲鳴を上げて振り払うと、驚いたような顔をしてこちらを見つめたように見え、消えた。
管理室に問い合わせたが、そのようなものはない、との返事だった。翌日マリオンはそれを友人のヤアクーブに相談した。彼はアラブの王族の出だが、今は火星をテラフォームするための研究に携わっている。ヤアクーブはそれが月面探査を行うための知性機械に似ていると証言する。
その夜、姿を見せたのは昨日の機械だった。それはダミエルと名乗る。極小の脳にヒト以上の知性を宿らせた存在。マリオンの端末を介してダミエルは問う。お前は旧英連邦王室の末裔の一人か、と。彼はうなずく。
そんな彼が無為に過ごしているのは、彼が電脳空間にアップロードされた後の抜け殻だからだ。通常、人格がアップロードされるにあたっては、古い肉体は破棄される。量子的な連続性が、残った肉体ではなく、サーバー上の人間にあると証明されているからだ。しかし、政治的な問題もあり、肉体を持つマリオンが残された。記憶こそあるが何の権限もない、ただの人間として。そして、なすべきことも見つからず、月面基地にまでたどり着いた。
ダミエルはまるで敵意を持つかのようにマリオンを愚弄する。完全にバニラのヒトは保守派でさえ珍しい。そして、彼のように電脳世界のネイティブからすれば、生身の脳の不便さは限りない。しかも、このマリオンは抜け殻に過ぎない。お前の存在意義は何か、と。マリオンはいくつかの反論を試みるが、ダミエルはそれをすべてやりこめてしまう。そして、そのままふいと消え去った。
呆然とし、やがて怒りを覚えるマリオン。どうにかして彼の行き先を探し当てようとしたが、ゲストである彼に権限はない。ヤアクーブは渋々調べる。ダミエルは火星行きのロケットの貨物の中だった。
ヤアクーブは推測する。電脳空間生まれのダミエルは、肉体に閉じ込められ、孤立したのが恐ろしかったのではないか。ネット環境のない火星では、殻の中でスタンドアロンにならざるを得ない。そしてついにはそこで朽ち果てる。ダミエルは肉体という制約を課せられることにもメリットがある、という希望にすがろうとしたのではないか、と。マリオンを怒らせてでも、そのメリットを教えてもらいたがったのではないか。
その証拠のように、そっけないメッセージが届いていた。添付されていたのは火星行きの航路だった。
マリオンは、ダミエルの孤独を理解した。その思いは、初めて生身で火星に立つ人間になってやろうと、意気込みへと変わる。孤立した知性が二人いれば、マリオンもダミエルも一人ではないのだと。
文字数:1197
内容に関するアピール
これは、無為に過ごす若者が幼い頃の夢を再発見する物語です。同時に、僕にとっても原SF的なイメージである、宇宙とポストヒューマンを扱った「バニラ」的な面もあります。
さらに、二つの逆向きの矢印がぶつかるお話でもあります。生身のマリオンは、最後に遠くまで手を伸ばしたいと望みます。それは楽園を再び手に入れようとするヒトの性かもしれません。一方、サイバースペース生まれであるのにもかかわらず、火星の調査端末に閉じ込められたダミエルは、天界を追われ、墜落した天使のようです。
この二人は、名前の典拠となった映画のように恋には落ちません。むしろ、「失楽園」のアダムとサタンのように対立します。そして、ダミエルに嘲弄されながらも、マリオンは彼に同情し、自分の進むべき道を見出します。
ヤアクーブという名前について補足しますと、これは天使と格闘したと伝えられるヤコブの、アラビア語での形となります。
文字数:393
ニルヴァーナの守護天使
乾いた空の下で唱えられるアザーン(祈りの声)に耳を澄ませるたび、ヤアクーブは信仰が深まる代わりに一つの疑問を浮かべてしまう。どうしてカジモドは鐘つき男になれたのか、だ。イスラーム世界では、アザーンを唱えるムアッジンには、健康であることや美声であることなどの厳しい条件があるはずなのに、重篤な障害があるカジモドが、同じ時を告げる役割をキリスト教世界では果たすことができた。同じ啓典の民であるのに、これほどまでに考えを異にしている。
もっとも、この思索が現実逃避なのだとわかっていた。パキスタンの外交官としての使命から目を背けようとする、子どもっぽい行いだ、と。これから交渉するのはヒンドゥー教徒が大多数を占める隣の大国だ。今は両国の関係は良好だが、十年前には領土問題で軍事衝突間際まで行った。核を持った英領インドの片割れ。その全面的な衝突の帰結は明らかだ。核の冬、飢餓、絶滅。それを防ぐのが彼の役割だ。
無数のセキュリティチェックを抜け、ヤアクーブは科学技術省の大部分を占める量子コンピュータの前に座る。辺りには物々しい警備員と青白い技術者たちが並ぶ。別室には国中からかき集められたホワイトハットたちがいる。誰もがこれから訪れる者を待ち構えている。歓迎するつもりだ。だが、待ち合わせにはいつまでも慣れることはない。たとえこちらが多数派であっても、異なったコンテクストを持つ存在を迎え入れるときには、常に覚悟が必要だ。ただの客人なら笑顔で迎えることができる。隣人として挨拶することだってできなくもない。だが、異教徒と信仰について話し合うのは難しい。そして、何よりも厄介なのは、これから対面する相手が人間ではない、ということだ。
部屋が恐ろしく冷えていくように感じられる。量子コンピュータの本体は極低温で稼働することは知っているが、影響がこの部屋にまで及ぶかはずはない。ヤアクーブの物理学の素養のなせる業だろう。原因はただの冷房に過ぎない。涼しいのに喉が渇く。しかし、準備されたミネラルウォーターを口にする者はいない。
さほど時が過ぎたはずはなかった。なにせ南アジア最大級のコンピュータなのだから。ホログラムの像が現れる。彼女はごく普通の女性が扉から入ってくるように、テーブルの向こうに姿を見せた。自信にあふれ、しかし保守的な人々が顔をしかめないほどには慎み深く。整った顔立ちだが反感を与えず、母なるインドそのものを具象化したようにも見える。もちろん、それらすべてがヤアクーブに好印象を与えるように計算されたものであるのだが。彼女はヒンドゥー教徒の正式な挨拶を幾分簡略化し、それから西欧式に微笑んだ。
「お久しぶりですね、ヤアクーブ」
今やインドを代表する顔の一つ、アルンダティだった。この会見の場のお膳立てをしてくれた科学技術長官のイブラーヒームに、思わず感謝する。
パキスタンとインドが核を持つようになってから百年以上が経過していた。使用されたことは一度としてなかったが、それは両国の粘り強い交渉の上で初めて得られた平和だった。そこまで幸運ではなかった地域も多い。結果として、世界は十近くのブロックに分かれ、ほぼ相互不可侵を守っている。ウィンザー王朝の玉座は今やカナダにあり、中国は急激な人口減少とそれに伴う大恐慌で、遺伝子強化された人間たちが運営していた火星の基地を放棄した。宇宙開発で比較的成功しているのは長い伝統を持つロシアで、月面から採掘したヘリウムにより、エネルギーを欧州に安定的に供給することに成功していた。その資金で火星には機械化された人間たちを送り込んでおり、バイコヌール宇宙基地も拡張された。今や中央アジアをはじめとするイスラーム圏の国々もそこから宇宙を目指している。インドもそれを追っているが、ささやかな月面基地を持つに過ぎない。そして、パキスタンはといえば近隣諸国と共同で実験を行う宇宙ステーションを一つ持っているだけだった。ムスリムがほとんどなので宇宙食がハラールかどうか気にしなくていいのは助かると評判は良かったが。両親もかつてはバイコヌールに足を運んだことがある、と話してくれた。それもまた、遠い昔話だ。
ただ、問題はパキスタンとインドを分断していたのが宗教だけではないことだ。おおよそ五十年前のこと、日本の技術者が意識をサイバー空間にアップロードすることに成功した。残された肉体の意識とアップロードされた先の意識のどちらが本物なのか、権利はどちらが引き継ぐのか、出生前診断や限定的クローン人間作製の許可の以上の政治の嵐が吹き荒れた。最終的に、科学者が量子複製不可能定理により、アップロードされた先の人格が本物だと裁定したが、問題はプランクの量子仮説から二百年が過ぎていたにもかかわらず、大衆には量子論は難解過ぎたことだ。結局、アップロードされた後に残された肉体が意識を持たずに間もなく死亡することが例外なく確かめられたことで、サイバー空間に魂がそのまま行ったのだ、と人々は理解した。ただし、自殺行為とだと看做す人間は、イスラーム圏を中心に多かった。
この技術を受け入れた人口が西欧と同じくらい多かったのは、西はインドから東は日本にかけてである。多くの人々はそれをニルヴァーナの境地に馴染みが深いことに帰している。真偽のほどは不明であるが、電光で飾られた台湾の龍山寺のように神々とテクノロジーが共存する姿は、この辺りでは違和感は少なかった。そのせいだろう、いつしかそのサイバー空間もニルヴァーナと呼ばれるようになった。涅槃寂静とは程遠い、絶え間ない創造と破壊、欲望と迷いの空間であるのにもかかわらず。そして、ニルヴァーナへの片道両行に出る者は東アジアでは跡を絶たなかった。パキスタンも、興味深いことにこの流れに同調するような様子を見せた。だが、その流れは相次ぐテロにより止まってしまった。かくして、両国の独立以来の溝がさらに深まった。
その分断を前にして、ヤアクーブはアルンダティの前に立つ。物静かで気品がある。ヨハネ=パウロ四世とダライラマ十六世との間の、宗教と性別を超えた結びつきにも似ている。しかしその差異はさらに大きい。なぜなら、彼女はニルヴァーナに転生した人間ではなく、ニルヴァーナ生まれのヒト以上の知性体だからだ。そうした存在の関わる業種は、政策決定や政府関係者のカウンセラー、物流や農業のアドバイザーなど多岐にわたる。
「またあなたに会えてうれしいです。パキスタン政府としても、私個人としても、あなたが壮健そうで喜んでいます」
「私もです。ただし、あなたがもう少しコーヒーを控えれば、そして週にもう三十分の運動を追加すればさらに望ましい健康状態になります。……これはインドの公式見解ではないのですが、保険・家族福祉省の資料を参考にしたアドバイスです。私からの好意として受け取っていただきたいです」
「ありがとうございます。私もあなたとこの仕事をいつまでも続けることを望んでいます」
「政治が許すならば、私はいつでもあなたをニルヴァーナに迎え入れます」
「神の御心のままに(インシャラー)」
互いに全く異なった伝統を背負い、その重みに耐え続けた者の間でしか共有しえない感情。慎重な言い回しと、そこに時折差し挟まれるくだけた口調。とはいえ、ヤアクーブとアルンダティとの間にあるのは融和ではない。三億と十六億の胃袋を満たすための激突だ。ますます激しくなる異常気象を目の当たりにしながら温室効果ガス排出量の割り当てを奪い合い、インドのムスリム、パキスタンのヒンドゥー教徒の保護を求め、さらにはアルンダティの存在を許しているテクノロジーへの規制も視野に入れる。アルンダティは、ヤアクーブの十倍の速さで思考することができる。法律が彼女たちをその限界に閉じ込めている。あちらの量子コンピュータはガンジスの川の砂の数ほどの、すなわち恒河沙の計算資源を持つ。実際の名前もガンガー、すなわちサンスクリット語でガンジス川だ。それがニルヴァーナの中で眠る何億の人々の意識を潜在的にどれほど研ぎ澄ませることができるか、想像することさえ恐ろしい。
とはいえ、基底世界のこちらにも強みはある。それは電源を引っこ抜きさえすればこちらの勝ちだということだ。もちろん、ニルヴァーナの人々はそれを防ぐことができるほど賢いだろう。しかしながら、仮にこちらが全滅覚悟ですべての発電所を吹き飛ばせば、相手は消滅するがこちらは生き残る。そして、基底世界は一から文明をやり直すことになる。つまり、今はなきソビエト連邦と、いくつかの州を独立により失ったアメリカ合衆国との相互破壊確証のような状態から平衡が保たれており、ニルヴァーナ側は先端の研究の公開と供出を義務付けられているし、これ以上の意識の加速を許されていない。
しかし、だ。ヤアクーブとアルンダティの間には十倍の思考の速度の差がある。相手の手番をいくらでも読めるソフトに、囲碁のグランドマスターが敗れて久しい。ヤアクーブはこうした戦いを常に強いられている。それは、彼と同じ名前を持つ預言者ヤアクーブがかつて荒野で天使と格闘したときのように苦しい。一挙手一投足すべて読まれたうえで挑む。それ以上に苦しいのではと考えるのは罰当たりなのでしない。
「あらためてニルヴァーナの主観時間の加速を提案します」
「その点については一切妥協できません。この点は韓国とも協議済みです」
「仮にパキスタン政府にだけ新型ミサイルの技術を差し出したとしても?」
「それ以上はおっしゃっていただかなくて結構です。モロッコからインドネシアにかけて、イスラーム共同体の見解は揺らぎません」
「イランはそうでもないかもしれません。あるいは、アメリカやヨーロッパのより世俗的なムスリムたちはそう考えないかもしれません」
「やめておきましょう、分断をもたらしかねないものを受け取るのは。それに、こちらの破滅は、あなた方の破滅でもあるのです」
その声と共に、現実の破滅が訪れる。音響というよりも衝撃ととどろき。庁舎の天井が吹き飛ぶ。そこには光と熱があった。警備員が飛んでくる前に体は自動的に伏せてヤアクーブの身を守った。痛みと熱さの区別がほとんどつかなかった。その違いには意味がなかった。どちらも意味するところは同じだった。ヤアクーブはここに一人だということだ。大地を支える床が抜ける。ヤアクーブの意識はそのまま大地を支えるバハムート(獣)まで墜落していく。さらにその下、ジャハンナム(地獄)へ。ヤアクーブの意識は砕け、散り散りになり、爆風に揺らぐ。もう一度同じ思いをしなければならないのか。苦痛を忘れることは不可能なのか。父と母を同時に失ったときに封印したはずの感情に溺れそうになる。ヤアクーブは自分を叱咤する。過去と現在を混同してはならない。冷静さを失わないようにせねばならない。しかし、土塊から作られた人間に過ぎない彼はフラッシュバックを繰り返す。
両親は科学者だった。ヤアクーブは多忙な彼らのたった一人の子どもだった。ヤアクーブもその才覚を受け継いでいた。言葉をしゃべる前から計算をしていた。字を書けるようになる前から宇宙を旅する夢を語った。相対論と量子論を記述する数学に親しみ、両親が出会った大学へと進学した。
そして、両親がパキスタンで初めてニルヴァーナに旅立つ人間になろうとした日が来た。もっとも、その名は異教的だということでムスリムのためのサイバー空間はジャンナ(天国)と名付けられていた。両親は加速した意識の中で研究を続けたかったに違いない。しかし、それは許されなかった。ジャンナを訪れようと両親がスキャン装置に向かった瞬間、すべてが砕けた。ジャンナを支える機器も、ヤアクーブの人生も。
犯人は神の許しもなく、また死を経ずして天国に入ることの傲慢を訴えていた。世間は犯人の狂信を非難し、無知をあざ笑った。クルアーンの記述と量子コンピュータを同一視するとは、と。間もなく首謀者も逮捕された。けれども、彼らの行為によって、世間の漠然としたニルヴァーナへの恐れは増幅されたのも事実だ。永遠に生きようと望んだときに罰を受けるのは、祖先たちの教えがまだ血の中に息づいていたためか、ふさわしく思われた。その空気がパキスタンを保守化させ、ジャンナを拒ませた。間接的に、犯人たちは目的を達成したのだ。ヤアクーブはもはや宇宙を見ない。そこは常に両親を思い出させたからだ。その苦痛から逃れるため、彼を引き取った叔母と同じように、外交官となることを望んだ。
閃光とともに想起したのはおおよそそうしたことだった。ヤアクーブはすでに死を覚悟していた。というか、受容してしまっていた。だが、差し伸べられた手があった。地獄の幻視から逃れて掴み返したのは、まだ生きようとする意志が消えていなかったからか。
「あなたの傷は比較的浅いです。掴まってください」
その柔らかで気品のある腕、そこにつながる自信にあふれた肩、繊細にして大胆な首筋、顔とたどり、驚く。基底世界には存在するはずのない女性、アルンダティだった。
彼女は汗ばんでいる。そのことがニルヴァーナにはない不完全さや汚れを意識させる。いや、それは本当に汗なのだろうか。そのさわやかなことはただの水のようである。甘い香りさえ漂っている。まるで彼女がたった今水浴をしていて、慌てて衣服を身にまとったかのようだった。
しかし、彼女はニルヴァーナの存在のはず。加速した量子の世界の住人ではなかったか。それともそれらはすべて虚言で、インド政府はただのヒンドゥー教徒の女性の映像を送っていただけなのか。そんな疑問を抱く間もなく、アルンダティはヤアクーブを立ち上がらせ、導く。
いくつものブロックを通り抜ける。頭から血を流した彼を振り返るものもいるが、アルンダティは意に介さない。イスラマバードは計画都市だ。大きなブロックで区切られた街は恐ろしいほど没個性的で、かつては誰もが口をそろえて退屈な街だと自嘲したものだ。それでも、自分が馴染みのないところに連れていかれているとわかる。路地裏の階段を上り通されたのは彼女の部屋らしい。保守的なところがあるヤアクーブは、異性と二人きりになることを礼儀に反しないかと逡巡したが、身の安全が何よりも優先された。しかし奇妙なのは、傷薬も気を落ち着かせるためのチャイも、シャワーを浴びた後の着替えも何もかもが揃っていたのにもかかわらず、生活感が一切ないことだった。アルンダティもどこに何がしまってあるかを知っていたにもかかわらず、足を踏み入れたのは初めてのようだった。この状況の非現実性は、あたかも出来の悪いシミュレーションに取り込まれたかのようだった。いつの間にか、彼女はそっけない服に着替えている。
「気分はいかがですか?」
空になったカップを前にしてアルンダティが尋ねても、希薄な現実感は消えなかった。悪化したとさえ言えるかもしれない。なにせ、ホログラムでしか会ったことがない人間が目の前にいるのだ。正夢を見たときならこうも感じられるだろうか。ありもしないことが立て続けに起こる。なお悪いことに、それは自分が望んでいたことではない。
「……さっきまで私が死にかけたのが嘘のようです」
「でも、あれは本当のことです。今頃は厳戒態勢のはず。第二波が来るのではないかと戦々恐々としています」
「抜け出して良かったのですか」
「あそこでは危なかったのです。私たちは正しいことをしました」
「しかし、一刻も早く報告しなければなりません。私たちは無事です、と」
彼女はヤアクーブを見つめた。その視線は保護者のものではなかった。けれども、彼よりは多くのことを知っていると見て取れた。
「あなたはセキュリティチェックの時に端末を預けてしまいました」
「わかっています。でも固定電話くらいあるでしょう。それから、ここを出るなりなんなりしないと」
「ヤアクーブ、あなたにはもう少しここにいていただきたいのです」
彼は器をどけて身を乗り出した。
「……何か事情があるのなら、それを説明してください。さもないと、私もあまり穏健ではない手段を取らなければなりません。そもそも、なぜあなたがこの基底世界にいらっしゃるのか、それがわかりません。あなたは本当にあなたなのですか。私のことをよく知っている、あのアルンダティなのですか」
彼女は目を伏せた。そのまま時間が過ぎる。アザーンが響く。何が起ころうとも、祈りの時間はやってくる。けれども、世俗的に過ぎると非難されがちなヤアクーブは体を固くしたままだ。アラビア語が長く響く。まるではるか遠く、メッカから聞こえてきたかのようにかすかだ。彼女が沈黙を守るつもりかと思われたとき、口を開いた。
「私はニルヴァーナに存在するアルンダティのオリジナルではありません。つまり量子的連続性がありません。そして、基底世界に拘束されている以上、この私はあなたの十倍の速度で考えることはできません。ニルヴァーナで無数の転変を繰り返し、集合離散を繰り返しつつも同一性を保っていた、あの力は持っていません。ここに存在するのは、一人のヒトです」
「……」
「いわば私はあの存在の顕現(アヴァターラ)。そして私がここにいるのは、ヤアクーブ、あなたを守るためなのです」
すでに祈りの時間は過ぎ去っていた。しかし、彼は心臓の鼓動で時が容赦なく過ぎているのを知覚する。
「私を、守るですって?」
「はい。あなたは命を狙われています」
ヤアクーブは混乱した。確かに外交官は危険な仕事だ。命を狙われることもあるだろう。しかし、わからないのは、なぜアルンダティがヤアクーブを守らなければならないか、だ。会談が襲撃されたのは両国の相互不信を生む恐るべき事態ではあるが、それでもアルンダティはヤアクーブを守られねばならないとは表現しないだろう。つまり、外交官としてのヤアクーブではなく、彼個人にまつわる何事かを意味していることになる。彼にはそれがわからない。私人としての彼はいたって凡庸だからだ。友人も少なく、激務の後に帰宅しては寝るばかりの生活だ。彼に注目する者など一人もいない。
「あなたのご両親を奪った者たちが、すでに動き始めています」
事実を述べる彼女の声に、時間が切れ切れになり、彼を引き裂いた記憶が再び想起されようとする。雪崩のように彼を押しつぶそうとしていた。
「大丈夫です。私の手を握りながらでもいいので、話を聞いてください」
ヤアクーブはそれに逆らう気が起きなかった。それはアルンダティが、ヤアクーブが自然に好意を持つような容姿を持つように設計されていたからかもしれない。あるいは彼が、あの出来事を説明してくれる相手なら、誰でもいいからすがりたいように思えたのかもしれない。
「あなたのご両親は、どんな人間だったと記憶していますか」
「父のイスハークは脳科学者、母のラブカは物理学者。ニルヴァーナの基礎技術が確立される前にも、人間の魂をアップロードできるかどうかの議論にも参加していました」
「性格としては」
「二人とも大胆でしたが、見る前に飛ぶような人間ではありません。飛躍を含んだ仮説を唱えるときにも、必ず立証された議論を熟知したうえでのことでした。そして、それはしばしば正しいと立証されています」
「その通り。では、そんな二人がこちらに帰れる保証もなく、サイバー世界へと移行することを望むと思いますか」
「……いいえ」
両親について話す声にはすべて首肯させられる。そのことが自分が両親のことを考えるのを避けていたことがつきつける。彼女のほうが両親のことをよく知っていたと思われて、嫉妬してしまう。そして、そんな子供っぽい自分に腹を立てている。そこから目をそらすためにより強く握る。まるでそこから彼を安心させる物質が出てくるかのように。
「そう、彼らはひとつ保険をかけていました。万一、ニルヴァーナが思っていたような場でなかったとしたら、いつでも戻れるようにするための。その理論さえあれば、ニルヴァーナから帰還することが可能になります」
「それは……」
「はい。こちらとあちらを常に行き来させることを可能にします。……それは、二つの世界をつなぐ希望なのです」
「だが、時として希望は、現実から目を背けることに別の名をつけたに過ぎない」
二人は背後の低い声に振り向いた。音もなく訪れていた者たちはスタンガンを持っている。抵抗しないなら使わない、と彼らは受けあった。
誰の前に連れていかれるのかと思えば、イブラーヒームのところだった。彼は人を安心させるような笑みを浮かべている。こうして手を縛られているのが何かの冗談であるかのように。ヤアクーブは上手く言葉を見つけられず、彼の顔の真ん中を見つめた。
「彼女を離してください」
彼はわかっている、というようにうなずき、物々しい連中を背後に下がらせた。しかし、ヤアクーブの警備は手薄になったものの、アルンダティを囲む者はそのままだ。イブラーヒームはもう一度うなずいて口を開く。
「君が現場から逃げ出したのは別に問題視していない。当然の反応だ。インドとはホットラインを通じて何が起きたかを伝えてある。捜査は両国の共同で行われることが決まった」
「犯行声明があったのですか」
「いや。だが、君のご両親を殺めた連中と同類だということは目星がついている。拘束も時間の問題だろう」
「それでは、犯人の狙いは」
「君の想像の通り。両国の関係を悪化させると同時に、君のご両親の研究を抹消することだ」
「そんな無茶な。コピーなんてあちこちにあるでしょう」
「探していたのは未公開のものなのだよ。クラウドに残っていない、科学技術庁のローカル環境にあるものを破壊したがっていた」
「何のために」
「君はご両親が何をしていたか知っているのだろう?」
「はい。ニルヴァーナから人間を基底世界へと呼び戻すものだとか」
「そうだ。そうすると何が起きるかね」
「人々はこちらとあちらを行き来するようになるでしょう」
「その帰結として、何が考えられるかな」
「……」
「魂が行き来したときに、置き去りにされるものがある」
「肉体ですか」
「そうだ。人間が肉体を置き去りにする。そして、新たに肉体を育て上げ、その中に魂を入れることでこちらに帰還する。繰り返されることで起きるのはそうしたことだ、使い捨ての肉体。神の似姿に対するなんという冒瀆だろう。テロリストに狙われるのも当然だ」
「それは……、そうかもしれません」
「それからあの女だ。いかにも人間の振りをしているが、本当に人間かな」
「何をおっしゃるんですか。どう見ても人間ですよ」
「人間の脳には、動くものにはすべて命が宿っていると誤解する性質がある。無機物でさえ擬人化する性向もある」
思わず彼女を守ろうと警備の手を振りほどく。しかし、イブラーヒームは畳みかける。青ざめ、震えている。
「何を迷っている。わからないのか。人間の肉体と魂を結びつけ、切り離すことができるのは天使アズラーイールのみに許されたことだ。その上、ニルヴァーナ生まれの存在が人間の肉体を乗っ取って地上を歩き回ることも考えられる。ジン(妖霊)やグール(食屍鬼)であふれかえるのだ。人間のような魂を持たない連中は、同じ記憶を持った肉体を無数に作り出し、軍勢となるだろう。それはシャイターン(悪魔)の業にほかならない。この女だってそうなのだ。その本質はニルヴァーナにありながら、現世の肉体を操っている。この女もまた、悪しき研究の産物だ。ニルヴァーナの存在が急ごしらえの肉体の中に宿らされた。おそらくインドのシンパがどこかに受肉のための装置を作らせていたに違いない。まったく、なんて愚かなまねを」
ヤアクーブはイブラーヒームが狂信に陥っていると悟る。興奮のあまり、今回のテロも彼の差し金だ、とほとんど告白しているではないか。いや、なお悪いことに、彼の両親を狙ったのも彼であった可能性だってある。ヤアクーブは逃げ出そうにも両手を縛られている。重力の向きが変わりつつあるように立っているのが困難になり、揺さぶられ、吐き気がする。イブラーヒームへの蛮行への嫌悪が体を揺さぶり、また両親が消えたことへの恐れが体をまさぐる。
「君は知っていたんだろう。ご両親の研究がどこに隠されているのかを。抜け目のない彼らのことだ。ニルヴァーナかな。だとしたらこちらから仕掛けねばなるまい」
「……わかりません」
「嘘をつくな」
本当のことだった。汗が流れる。体が熱い。イブラーヒームのような人間に両親のことを口にしてほしくはなかった。
「本当です。彼は両親の研究論文を呼んだことはありません。彼は両親のことを何も知らないのです」
「口を挟むな!」
イブラーヒームは振り向きざま銃を向けた。
「殺してはいけない!」
ヤアクーブの声は本能的なものだった。イブラーヒームへの憎しみではない。両親を奪われて以来感じていた痛みの命じるところであった。どのような理由があっても、人間が人間の命を奪うことは許されていないと確信していた。ムーサーの授かった十戒を知らずとも、彼は永遠の掟を知っていた。それをイブラーヒームは黙殺する。
「これは本物の命ではない。命乞いをしたとしても、そう見せかける術を身につけているだけだ。肉の機械仕掛け、魂を持たない存在だ」
銃を構える。引き金に指をかける。その瞬間にアルンダティが跳躍、何が起きたかを悟る前にイブラーヒームに手刀が叩きこまれる。苦悶の声と共にそれを取り落とす。銃を踏みつけ羽交い絞めにする。銃を拾い、あたりを睥睨する。
「なぜだ……」
唖然とするイブラーヒームに、アルンダティは淡々と応じる。
「私は肉体をただの素材として用いることができます。どのように扱えば何ができるかを熟知しているのです。解剖学の基礎知識は意識の奥深くに刻まれています。骨の関節を外すこともたやすく、その際の痛みを無視するべきだとも知っています」
「シャイターンの娘め」
声を絞り出すが、アルンダティは動じない。彼の取り巻きを下がらせ、武器を捨てさせる。すべてこちらに投げるように命じる。ヤアクーブの手錠の鍵もよこされた。銃を突き付けながら、彼を引きずり建物を出る。
外では自動運転の車が待ち構えていた。イブラーヒームを放り出して乗り込み、たちまち郊外に向かう。言葉もないままいくつものブロックを過ぎる。加速を感じる。
「アルンダティ、あなたは何でもできるのですか。こんなものまで準備できるとは」
彼女は重々しく首を振った。
「さっきの会話からわかるように、厳密には私はアルンダティではありません。あらかじめストックしていた肉体に彼女の記憶を書きこんだにすぎません。ニルヴァーナから基底世界に帰還することはまだできないのです。私のオリジナルはまだニルヴァーナにいます」
その違いを見つけることはできないことにわずかな間だけ怖れを覚えるが、すぐに消える。人工知能が人間の知性を追い越してから、あまりにも時間が過ぎてしまった。
「ここに私が望んだ通りに車があったのは、ニルヴァーナにいる私たちが、私の行動を予測したからです。私は心の赴くままに従っていれば、ニルヴァーナにいる私たちが導いてくれるのです。私はアヴァターラ(化身)なのですから」
それではアルンダティは万能ではないか、と考えるが、彼女は首を横に振る。
「あなたに感謝します、ヤアクーブ。この肉体を守ろうとしたあなたの正義感がイブラーヒームの気をそらせ、私が動くことができました」
「こちらこそお礼を申し上げないといけません。あなたがいなければ、私はここにはいないでしょう」
「私の最優先する倫理は、あらゆる生命を保護することです。私のそうした側面が、外交官という役割を果たしています」
彼女は前を真っ直ぐ見つめていた。自動運転なので注視する理由はなかったにもかかわらず。
「それで、アルンダティ。私たちはどうすればいいのでしょう。私たちはもうパキスタンにはいられません。連中は狂信者です。私の知るはずのない両親の研究を得るために、私を拷問にかけるでしょう。インドに亡命することはできないでしょうか」
「難しいですね。国境は確実に見張られています」
「でも、アフガニスタン側はパキスタンとイデオロギーが近い。イスラーム諸国がではあなたも私も安全は保障されません」
車はほぼ同じところをぐるぐると回っている。警戒されないのはアルンダティたちの支援のおかげだろうか。ヤアクーブは疲労から空腹を覚えたので露天のケバブを注文しようとする。だが、注文を口にした途端に口座が凍結されているはずだ、と思いいたる。それに、身元を知られる危険がある。これからはこうした気のゆるみが命取りになるだろう。アルンダティは何も言わず彼女のカードを差し出した。
「すみません」
「いえ。ただ、このカードは間もなく足がつくでしょうね。まだ市内なので観光客のふりができますが、逃亡先ではインド国籍の証拠を残してはだめです。今のうちにたくさん食べておきましょう」
二人は黙々と頬張る。手についたソースをぬぐいながらヤアクーブは提案する。
「こうしてはどうでしょう。一度アフガニスタンを経由しますが、その後北上し、バックパッカーばかりが使うルートを抜けて、バイコヌール宇宙基地へと向かいます」
「無茶苦茶です。何の根拠もありません」
「いいえ。いくつかのメリットがあります。まず、ロシアの影響圏内に入れば、両国は私たちに手出しをすることが難しくなるでしょう。イスラーム世界のネットワークとニルヴァーナが外交チャンネルをのぞけばほぼ没交渉であるように、スラヴ圏もまたほぼ独立を保っています」
「……」
「それから、あなたの処遇のことです。ここでは悲しいことにあなたは存在そのものが違法とされてしまっています」
「私が死んでも、オリジナルは生き続けます」
「あなたが納得していても、私が納得しません」
「……しかし、なぜバイコヌールに」
「バイコヌールにはおそらく強力なコンピュータが存在しているでしょう。あなたをアップロードするのに十分なだけの。……それに、バイコヌールには両親が一時期滞在していました。もしかすると、スラヴ圏には両親の研究が残されているかもしれません。私はそれを知りたいのです。個人的なわがままですけれど」
「それに賭けるのですか」
「あなたにいただいた命ですから。やれることは何でもやってみたいのです」
「そうでしたか。それもいいでしょうね。ところで、このケバブ、多かったんですが半分要りませんか」
「いただきます」
「……ついでに、これを差し上げます。イブラーヒームのところから逃げるときに奪ってきた銃です。弾丸は一発だけ残っています。何かの役に立つかもしれません」
「そうならないことを祈りますよ」
ヤアクーブはおずおずと受け取った。
地元民とバックパッカーとともにバスに揺られながらの旅だった。山間の集落では現金がまだ使われている。現金は匿名を保証してくれてありがたかった。万一のために懐に入れていた古い紙幣が役に立った。高額紙幣なので、あまりいい顔はされなかったが。
延々とバスが抜けていくのは、百年前とそれほど変わらない道路だ。車内の騒々しい音楽もメロドラマも昔の通りだ。ただ、さすがにガソリン車は走っていなかったし、氷河はほとんど失われていた。
ヤアクーブは少しばかり感傷的に学生時代の貧乏旅行を思い出していたのだが、アルンダティはそれどころではなかった。車内の揺れやこもった空気、それからバックパッカーの体臭などで具合が悪そうだった。やっとのことで今日の宿にたどり着いたときにも涙目になっていた。意外な弱点だと思われた。交渉のテーブルでは一歩も引かないことも多く、その毅然とした態度はホログラムであっても威圧感があったほどであったのに。
宿につくと、彼女はベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫ですか」
必死になってうなずいている。
「酔い止めを買っておけばよかったですね」
「そんな余裕、ありませんでしたから」
水を飲み、服を少し緩めて横になった。
「私もここまでつらいとは予測していませんでした」
「こういっては失礼かもしれませんが、意外です」
彼女は壁を向き、ヤアクーブに背中を見せた。
「ニルヴァーナでは苦痛は持続しません。すぐに消去することができます。加えて、ニルヴァーナ生まれの私は受肉したことで様々な環境からの情報を処理しなければならなくなり、それで苦しんでもいるのです。具体的な肉体を持ったのは初めてのことで、内臓や筋肉の信号が、私を混乱させています。空腹や痛み、それから疲労が少しずつ私を蝕むのです」
「そうでしたか」
「とはいえ」
と彼女は続ける。
「人間の意識とはどのような形をしたものか実感できたのは良い経験でした。おかげであなた方により深い共感が抱けそうです」
「ありがたいです」
「はい。私が外交官に復帰できたら、よりお役に立てるでしょうね」
「ニルヴァーナにはオリジナルが生きているのにですか?」
「あちらで融合するつもりです」
「そうですか」
やはり彼女のことはわからない、とヤアクーブは胸の中で思う。
持ち直したかと思ったが、その晩にアルンダティは高熱を出した。
「すみません。さっきはもう回復したと思ったんですが」
「そういうことは私もあります。追っ手はいないようですし、何でしたらもう一日ここに泊まりましょう。あなたの場合、無菌室で生まれたようなものですから」
「ニルヴァーナがそのような初歩的なミスを犯すはずがありません。私の免疫系は完璧なはずです」
アルンダティはヤアクーブを見上げた。
「それなのに、私の身体は意のままになりません。私は死ぬんでしょうか」
「大丈夫です。おそらくちょっとした食あたりでしょう。それか食べ物が合わなかったか、疲れが出たか。精神的なものである可能性だってあります。何しろあなたはある意味では生まれたてですから、自分の体をどう扱ったらいいのかわかっていません。気づかないうちに、どこかで無理をしていたのでしょう」
「吐きそうです」
「薬をもらってきます。それと、宿の人に着替えを持ってこさせましょう。一人で汗は拭けますか? 無理そうならそれも頼んできます。確かスタッフには女性がいたはずです」
「ありがとうございます。……どうして人類が今すぐに大挙してニルヴァーナに来ないのか、理解に苦しみます。これほどつらい思いをしてまで、基底世界にしがみつくのはなぜでしょう」
「いつかそうなる日が来るかもしれません」
「とてもそうは思えません。基底世界ではいつ死ぬかわからないのにもかかわらず、今すぐニルヴァーナに避難しないのは、おそらく、あなた方のリスク計算はでたらめなのに違いありません。私は睡眠でさえ初めてだったんです。意識の連続性が保証されないとは、なんて不可解な世界なのでしょう。自分の身体に拘束され、意のままに行動することさえできない。ニルヴァーナではとても考えられない事態です。あちらでこんな状況なら、自己の消滅を覚悟すべきです」
「そうですね。……とはいえ、たとえ意識が消えている間でさえ、あなたの肉体は懸命に回復しようとしています。今は、それに委ねると気が楽になるでしょう」
「そうではなくて」
「はい?」
「私は死ぬのが、怖い。それだけです」
深く息を吐く。
「おかしいですね。いつ死んでもこの意識は代理端末に属するに過ぎないと思っていたのですが」
「いえ、怖いのは私もです」
論理的ではない答えだ、そう思ってヤアクーブは口を閉ざす。二人は黙っていた。いつの間にか外からは雨音がしている。隣の部屋ではなにやら笑い声がする。それもまた、ひどく遠く聞こえる。
「私は今、何にだってすがりたい気分です。……少し、触れていてもらえませんか」
「……はい」
そうすることでアルンダティが安心するのならそれでよかった。それに、自分が彼女から受け取ったものを返すべきだと思われた。
長旅の果て、いざバイコヌールにたどり着いた。ムスリムの姿も多く、周囲の集落に潜むことも不可能ではなかっただろう。アルンダティは話題も豊かで、旅の道づれとしては最適であった。とはいえ、アルンダティは元の世界に帰りたがっており、今までの苦難に耐えたのもそのためだ。それまでは彼女を守らねばならなかった。地元の食堂に入る。
「この店はおいしいですね」
「アルンダティ、もしかしてあなたは少しロシア風にした方が好みなのかもしれません」
「ヒンドゥー教徒のはずなのに、味覚とは不思議なものです」
マントゥを片付けた皿を前にして、二人は向き合っている。こうしてみると、すでにかなり旅慣れた二人の風格がある。鏡に映った自分たちのことをヤアクーブはそんな風に見る。二人は声を潜める。地元の人々に言葉は通じないはずだが、翻訳アプリが起動しているかもしれない。彼女は囁いた。
「で、どうするつもりですか」
「はい。……コンピュータのあるところには、当然ですがおいそれと入れませんよね」
「一つ案があります。私があなたの顔を変形するまで殴ります。適切な回数殴りつけることで、あなたは顔認証をパスできるようになるでしょう。多少は我慢していただければなりませんが」
彼女は表情一つ変えなかった。
「……冗談ですよね」
「冗談です」
ヤアクーブは肩を落とす。彼女は少しだけ緊張を解く。
「正直なところ、あまり心配していません。スラヴ圏で発達したのは、ヒトと機械をつなげる技術です。マンマシーンインターフェースの隙を経由してヒトの認知機構に割り込みます。おそらく私たちの顔は、ロシア人にはどこかで見たはずの誰かに見えるようになるはずです」
「そんな大胆な」
「すでに何度かモスクワのデータの盗み読みは試みています。あまり大規模な侵入を頻繁にやっていれば気づかれますが。失敗したことはありません。これはインド政府の機密事項ですので、内密にお願いします」
「墓場まで持って行きますよ」
その言葉の通り、セキュリティチェックを苦も無く通り抜けた。あまりにもあっけなくて拍子抜けする。おそらくニルヴァーナにいた頃から内部の地図を頭に入れていたのだろう、彼女は迷うことなく量子コンピュータのある部屋を見つけた。機械の割り当て時間も操作していたのか、部屋には誰もいない。彼女は帰還する準備を始めた。端子を体のあちこちに張り付ける。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
「もう二度と会うことはないでしょうね、残念ながら」
「……おそらくは」
ヤアクーブは引き返し、どこかの村に骨をうずめるだろう。人々の信頼を得るには時間がかかるだろうが、人手の足りていない宿はいくつかあったし、なんとかなるだろう、と考えていた。
だが、彼女が西欧人のように別れのハグをして機械の中に横たわると、聞き覚えのある声がした。
「そこまでだ」
「……イブラーヒーム」
「動くなよ」
ヤアクーブとアルダンティの間に立ちふさがる。
「廃止された高額紙幣を使った怪しいバックパッカーの足取りをたどるのは簡単だったよ。それと、先回りして調べたが、気の毒にもここにも君の両親の痕跡は残されていなかった。無駄足だったね。あったとしても私が消していただろうが。ニルヴァーナからこちらに戻るすべはない」
「……わかりました。私は拘束していただいて構いません。ですが、彼女を帰らせてあげてください。そうすれば何の問題もないでしょう。ニルヴァーナ生まれの彼女には、基底世界は病や苦しみのある世界に過ぎないと知りました。ニルヴァーナの存在が大挙してこちらにやってくることはないでしょう。というか、不可能と証明されたではありませんか」
「……この女が何を企んでいるか、ヤアクーブ、知っているかな。君は騙されているんだよ」
「しかし、ここに来るように提案したのは私です」
「か弱い人間の考えを誘導することくらい、このような存在にはたやすいと考えるべきだ。奴の最終目的地はここなのだ。……このバイコヌールという場所を考えてほしい。月、それから火星まで行ける」
「だから何だというのですか」
「わからないのか。シャイターンの領域を火星にまで広げる積もりなのだ。君を帰らせてからロケットに乗り込み、赤い惑星に悪霊の楽園を築く」
「お言葉ですが、さすがにそれは信じられません」
彼の手がアルンダティの懐に無遠慮に伸びた。
「このリムーバブルメディアを見てもか」
「何ですか、それは」
「多数の人格が収まっているのだろう、違うか」
「ありえません。量子状態を持ったまま人格を移すには低温環境が必須です」
「だが、古典状態で構わないとしたら? 必要なのは量子的な魂ではない。奴らには魂がないのだから。こいつらはいわば火星に蒔かれる毒草の種子だ」
アルンダティは反論しようとしているが、口を開こうとするたびに銃を押し付けられている。
「……そして間もなく発射するロケットがある。これらはすべて狙ったものであるとしか思えない」
うつむいていた。しかし、すぐにヤアクーブは真っ直ぐにイブラーヒームの視線を受け止めた。
「証拠もなく独走するつもりですか。もしそうなら、私にも考えがあります」
「君は丸腰だろう。旅の準備をしたのも彼女だ」
ヤアクーブはぱっと懐に手を入れる。
「いいえ。これが一発だけあります。これさえあれば、あそこのタンクからヘリウムを漏出させられます。あなたも私も窒息か凍死です」
「……」
「私たちを行かせてください」
その懇願もむなしく、彼らは引き金に指を回した。死を覚悟し、ヤアクーブはヘリウム槽を打ち抜いた。途端に脱兎のごとく装置から身を引き抜いたアルンダティは跳躍し、彼を抱きかかえて消えた。ヒトならざるもの特有の、人体のリミッターを外した動きだった。
筋肉を酷使し、既に歩くのもやっとな彼女を支えながら発射基地に向かう。彼は本能的にそこに向かっていた。階段をよじ登る。向こうから丸見えだろうに、彼らを止める者はいない。
「どうして……」
嘆きの声だが、あの漏出で全員が死に絶えたはずがないのに追ってこないのはなぜか、と彼女は解釈した。
「ニルヴァーナに残った私が、いまバイコヌールに猛烈な妨害を行っています」
「そんな、国際問題になるんじゃ」
「なるでしょうね。というか、すでになっています。そして、ニルヴァーナに残された私たちは破棄されます」
「私のために、そんな犠牲を払うなんて……」
「思い上がらないでください」
アルンダティは言い放つ。
「最初のテロを防げなかった時点で私の外交官としての存在意義はなくなっていました。解任・削除は時間の問題だったのです。あの装置でニルヴァーナに残った私たちとの最後の会談を行いました。結論として、少しでも存在の痕跡を残すために、この私が生き延びることが決定されたのです。私たちは命を懸けて、私という個体を生き延びさせようとしています」
「あのメディアは」
「あそこには誰の人格も入っていません。見つけたご両親の草稿を記念に渡そうとしただけです」
「すみません」
「あとは、火星で交渉できるようにいろいろな国に都合の悪い情報をメモしておきました。結局メディアは持ち出せませんでしたが」
「……」
「そういうわけで」
彼女は苦も無くロケットの扉を開く。
「私たちが地球を離れるころには、ニルヴァーナにいる私は一人も残ってはいないでしょう」
体を落ち着けると、すぐに人工音声によるカウントダウンが始まった。
加速を抜きにすれば、あっけなく大地を離れてしまった。ロケットは居住区を展開し、遠心力で上下の感覚を与える。自分はこれからどうなるのだろう。何の訓練も受けていないのに。すでに地上では混乱が起きているに違いない。パキスタンの外交官と、謀叛を起こしたインドの外交官がロシアにハッキングを仕掛け、ロケット一台を奪い去った。月面から一斉射撃がなされないのが不思議なほどだ。関係者が多すぎて、ロシアも中国も事を荒立てたくないのだろう。
「しかし、縁起はあまりよくありませんね」
「何がですか」
「バイコヌールを旅立つ男性は、必ず途中で立ち止まって排尿する伝統があります。縁起を担ぐためです」
「なんですかそれ」
「百年以上ある伝統です」
「そうですか。ちなみに女性は?」
「おかしなことに関心を持つんですね」
「……」
「冗談はさておき、本当に困ったことになりました」
「どうしたんですか」
「火星までの食料が持ちません。一人分しかないようです」
「そんな。もともとこのロケットは火星に数人送るミッションと補給を兼ねているはずですが」
「ロシアの最後の嫌がらせが効いたようです。検索しましたが、積み込まれていません」
「……」
「私の旅もここまでのようです。私も消えねばなりません。アルンダティ・シリーズはここで断絶します」
ヤアクーブは思わずどなった。
「冗談じゃない、君には生きてもらわないと。僕は一人では生きていけない」
「嘘です。あなたは今まで十分やってきたではありませんか」
そして彼女は笑う。
「生身の人間にとっても容易な問題のはずです。この方程式に解はひとつしかありません。生き延びるべきはあなたです」
「いや、何かあるはずだ。君は何かをアイディアを隠している」
「よくわかりましたね」
アルンダティは凄惨な笑みを浮かべた。
「私の脳を頭蓋から取り出し、医療用の培養液に浮かべてください。余計な部位を削ぎ落すことで消費カロリーも減ります。私という人格の同一性も保てます。もっとも、手術はあなたが一人ですべてをこなさねばなりませんが。その覚悟はありますか」
ヤアクーブは無言で彼女の元を立ち去り、涙を流した。これから血を見るのが恐ろしかったのではない。情けなかったのだ。ここまで恩義のある人間に対する仕打ちではなかった。確かに死なないだけましではある。しかし、脳だけになって、それで生きていると言えるのだろうか。せっかくこの世界に生きることを喜び始めていた彼女が、そんな目に合うなんて。
肩を落とし、とぼとぼと居住スペースから医務室へ向かう。自分は震えながら彼女の髪を切り、頭頂部をそり上げるだろう。メスで血を流し、鋸で頭蓋骨を切開するだろう。震えてはいけない。怯えてもいけない。わずかなためらいが彼女の人格を永遠に傷つけてしまうから。悪くすれば、話し相手もなく一人で火星にたどり着くのだ。人殺しの罪を償うこともできずに。
一度思い切り泣こう。アルンダティに聞かれることがないように。涙と声がすべて枯れるまで。感情が消えるまで。一人になるため、その覚悟を決めるため、冷たい刃物ばかりの部屋へと踏み込んだ。
そこには、所狭しと荷物が積み込まれていた。精密機器の間を縫うようにして、人間業ではないほど巧みに。このままでは手術ができない、急患の時にどうするのか、と怒りを覚え、これもまたロシアの嫌がらせかと思う。腹を立て力任せに持ち出そうとするも、慣性と質量のずれに慣れない彼は躓いてしまう。衝撃で箱が開き、中がこぼれ落ちる。
転がり出たのは、すべて食糧だった。それも、火星まで二人を送り届けることが可能なほどの。呆然とする。これがアルンダティの仕掛けた冗談かと思った。しかし、到底そうは思えない。そこにある食料はインド風というよりもイスラーム風だ。というか、すべてハラールであることを示す印がある。ヤアクーブは一通りそれを確かめる。ありがたい。しかし誰だ。ロシアもアルンダティも出し抜いた存在とは。
頭がかっかとし、頭痛になりそうで、思わず目をつぶる。そして細めた目からみると、説明書のいくつかの文字のフォントがおかしいのだ。そのおかしな文字をつなげていくと単語になる。短い文になり、手紙になる。それを声に出す。
「ヤアクーブ。私たちができるのはここまでだ。さようなら。今までバイコヌールでずっとお前を見守っていたが、これからはお前ひとりで立ち向かわねばならない。お前の道程が幸いにあふれていますように。神の御心のままに。イスハーク、ラブカ」
妄想ではないかと疑い、おかしな文字を声に出しながら指さした。間違いない。この言葉は、いなくなった両親のものだ。
パキスタンで初めてアップロードされたときに、テロで二人は死んだと思っていた。しかし、二人はひっそりとサイバー空間で生き延びていたのだ。ジャンナが崩壊した後も細々としたルートからニルヴァーナに逃れ、それ以来各地を転々とし、バイコヌールにたどり着いたのだろう。そうしてずっとヤアクーブを見守っていた。すべての流れを見越して、ここで待っていてくれたかのようだった。
もちろん、これで最後だ。これからは、すべて二人でこなさなければならない。火星にたどり着いたら、すべてが自分の手にかかっている。無人の基地があるとはいえ、敵が来ないわけでもあるまい。
それでも、ヤアクーブは道が光にあふれているように思われた。まずはアルンダティに、良き知らせをもたらそうと、引き返していった。
(了)
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