梗 概
われわれ豚は!
iPS細胞の発見から「豚」による培養臓器が発明されるまで、ライト兄弟からA380就航までと同じ時間を要した。温暖化で日本に砂漠が広がってもなお、誰もがその恩恵を享受できるようにはなっていない。
「ぼく」は世界最大の培養臓器メーカーである「FARM」で営業を務めている。仕事は楽ではない。自動運転車で放棄された市街地や砂漠を横断し、顧客と「農場」を何往復もする毎日だが、営業成績がぼくを奮い立たせる。ある日ぼくは車の中で倒れて、FARM直営の医療施設へ搬送される。朦朧とする意識の中で、最も尊敬する営業の先輩、「ヤナギ先輩」がバーで語った言葉を思い出す。人間は感謝することに喜びを感じる唯一の動物なんだよ、だから聖書では神様に人間が選ばれたし、俺たちは会社から選ばれた。おれ営業たちは選ばれたんだ、会社にも、お客様にも…
3週間後、職場に復帰したぼくはヤナギ先輩が退職し、さらに新人の「ナオ」とともに営業活動をするよう上司から告げられる。農場へ向かう自動運転車の中でヤナギ先輩のことを彼女に話すと、彼女は「腸の話」をする。ヒトの腸には猫の脳と同等の神経細胞があって、脳に影響を与えるばかりか意識と呼べるものすらあり、ヒトが「調理」を発明したのもそのせいかもしれないと。農場でぼくとナオは、ヤナギ先輩が顧客のiPS細胞を持ち逃げしたという噂を職員から聞く。ぼくは豚たちが食べる飼料を見て腸が蠕動していることに気が付く。
ぼくはヤナギ先輩失踪の秘密を探り始める。ヤナギ先輩の社用車の位置履歴は消されていたが、課税用の位置情報を国交省に照会して、ヤナギ先輩がぼくと同じ日に病院へ搬送され、その後iPS細胞を貯蔵するFARMの保管庫「バンク」へ向かっていたことを知る。ナオとふたりでバンクへ向かったぼくは、警備の目を盗んで保管記録を調べると、ヤナギ先輩が持ち出していたのは顧客のiPS細胞ではなく、豚のiPS細胞であった。ぼくの背後から「あなたたちは選ばれた」というナオの声がして、ぼくは痛みとともに意識を失う。
再び医療施設で目を覚ましたぼくは、拘束下にてナオから事実を聞かされる。ヤナギ先輩とぼくには「豚の腸」とともに豚のiPS細胞が骨髄に移植されていること、今のように何年もかけて人間の内臓を豚の中で培養するのではなく、適当な豚の内臓が適合するよう顧客を改造したほうがコストも時間もかからず儲かるのだとナオは答える。ぼくは拒絶反応で痙攣したフリをして拘束を解除させ、酸素ボンベでナオと警備員を殴り倒す。警備員に腹を撃たれながら、ぼくは会社の車を奪って干上がったダムの底にある小さな養豚場にたどり着く。
ぼくは泥にまみれながら豚舎の中で目を閉じる。
なぜこんなところに来たのか自分でもわからないが、きっと自分のおなかにある豚の腸の意思なのだろうと思い、心地よく鼻を鳴らして、ぼくは自分の腸に感謝をする。
文字数:1198
内容に関するアピール
当初は「100年経ってもお客様や雇ってくれている会社に対する『感謝』が大切なのだ(という価値観が継承されている)」という話を書こうと思っていました。
(「ありが豚(トン)」というタイトルも考えていました。)
しかしそれ以上に、来世紀の荒廃した日本の景色と、ピカピカの研究施設をしっかり対比させたり、
後半のアクションや逃走劇をかっこよく描写することがこの作品の肝であり、
迫力ある情景描写で読者を引き込めるようにしたいと考えています。
ヤナギ先輩のように意味不明な格言を後輩に披露する職場の先輩は、21世紀も絶対に生き延びると思いました。
文字数:264
われわれ豚は!
■9日前
砂粒が自動運転車のフロントウィンドウを叩いている。農薬と化学肥料が混ざった黄色い粒。海面上昇と砂漠化にまだ目を瞑っていられた古き良き時代、かつてここが水田やビニールハウスで覆われていた大平野だったころの名残は、これだけで40万人の新たな顧客を生む。もっともそれは十分な資産を蓄えた人間がまだ40万人もこの国に残っていればという話であって、投資も投機も遺産相続もできず社会保障や預金口座はおろか戸籍すら与えられないほとんどの人間は肺疾患になって死ぬか汚染された水を飲んで消化器系の疾患で死ぬかあるいは血管がグズグズになって死ぬしかない。そうではない人々のリストがダッシュボードのHUDに流れていく。それはバイオメディカル企業“FARM”の顧客であり、つまりそこの営業部の一員であるぼくの顧客でもある。真っ白い車体の社用車は無線充電装置が内蔵された国道を旧ニイガタ方面へ疾走する。点滅する顧客リスト、朽ち果てたカンエツ道の橋脚、折れた鉄塔、砂に埋もれた農家の残骸、電気自動車のモーターが鳴らす高周波音、淡水化プラント、砂嵐、それらすべてがぼくに生きていることを実感させる。人間としての生。貢献、寄与、感謝。世界の破滅と比例する営業成績。
―そして、豚。
HUDが赤く点滅して、今日最初の訪問先にもう間もなく到着することを告げたとき、ぼくは強烈な痛みを感じてわき腹を抑えた。声を出そうとしたがヒューという音だけが口から洩れ、プリテンショナー式のシートベルトを限界まで伸ばしてダッシュボードに頭を乗せる。それはいままで感じたことのない痛みだった。いったいなぜこんなものが突然やって来たのか、ぼくはなんとか目を開いて思考を続けようとする。目の前にあるHUDの光が黄色く変わって、そして視界がぼやけて消えた。
思考が止まるその直前、なぜかぼくはヤナギ先輩のことを思い出していた。
***
お客様は神様なんだよ、あの落語家が言いたかったことはそうじゃないとか言うバカがインターネットにもいるけどよ、でもお客様は神様ってことだけは客商売ならウツノミヤの餃子屋からボーイングまで逃れられない絶対の定理なわけ。そう言ってヤナギ先輩は水割りの入ったグラスを振り回しながらおれに語る。べつにお客様を信仰しろってわけじゃないんだよ、クライアントに拝んで契約取れるんならそんなにオめでてェことないッしょ?死ぬ気で“捕りに”行かなきゃだめなンよ、姿勢の問題なのよ。わかる?ヤナギ先輩の顔は赤い。ビロード地のソファ、大理石風の安っぽいテーブル、氷が音を立てて崩れる、アイスピック、タバコのにおい、そういったものに囲まれている深夜2時の“ウツノミヤシーサイドバー”で、ヤナギ先輩は止まらない。俺はガクがあるからね、わかンだけど、昔のシャーマンとか陰陽師とか卑弥呼とか空海とか、死ぬ気で神様にアタックしていたわけよ、神様には死ぬ気で行かなきゃだめなわけ、だからお客様は神様なの。わかる?
***
白衣を着た男がぼくの顔を覗き込んでいる。ここがどこかわかりますが、病院ですよ。消毒液のにおい、指にくくりつけられたナースコールのボタン、ぼくは強く息を吸って天井を見る。さきほどまで見ていたヤナギ先輩とウツノミヤまで飲みに行った時の夢が、まだぼんやりと思考の表面を覆っている。わかりますか、緊急手術は成功しましたので、来週にはお仕事に復帰できますよ、そう医師は言ってベッド上のぼくの上から微笑んだ。ぼくは答える。
「超、わかる」
それは夢の中のヤナギ先輩に宛てた返事だったが、それを聞いた彼は怪訝そうな顔をして、ではあなたの営業部にはわれわれメディカル・セクションから連絡しておきますので、と言って病室から出ていってしまった。彼の胸にあるIDタグにはFARM直営病院のロゴが入っている。
■2日前
***
「お、意外に早い戻りだったな」
マエバシ港近くの緑化特区にある、建物も、コンピュータのモニタも、デスクも、床も、すべてが白で統一されたオフィスに一週間ぶりに戻ったぼくは、上司からそう声をかけられる。ええ、病院にいてもやることないんで、早く客先をまわりたいくらいでしたよ。ぼくがそう答えると上司は満足そうに笑って彼の汗臭いシャツの袖をまくる。そう聞いて安心するよ、汚染水中毒は不可抗力だが、かと言って会社の医療制度にフリーライドされちゃたまらんからな。そう言って彼が近くのデスクに座る若い女性社員に手招きをする。彼女はゆっくりと席を立って、FARMのロゴが入った床のタイルを踏みしめるようにこちらにやってくる。今後は彼女が君のパートナーだ、ふたりで同じ得意先を担当してくれ。そう言われたぼくは驚いて彼女の顔を見た。同じ営業先を、こいつと?彼女はぼくに向かって微笑みながら挨拶する。
「開発部から来ましたヒダカ・ナオです。よろしく」
ぼくとナオは会社の車に乗って営業先である病院へと向かう。淡水化プラントの円形水槽が並ぶ緑化特区を出て、砂ぼこりが舞う国道を北上する。汚染水中毒とは大変でしたね、緑化特区以外の水道水はリスキーだから、助手席に座ったヒダカがタブレットから目を離さずにそう言う。
「でも会社に感謝すべきですよ、だって会社のおかげで最新の医療手術を受けることができて助かったんですから」
感謝、ぼくは心の中でつぶやく。感謝。
「そういうあんたはなんで開発から営業に転属を?何かやらかしたのか」
ぼくの嫌味に彼女は顔を上げる。心配しなくても、営業成績は全部あなたにつくから。彼女がそう言ったとき、HUDが営業先の病院に近づいたことをぼくたちに知らせる。
「私は新製品のためにあなたの隣に来ただけ」
彼女は顔を上げてぼくにそう言った。
***
「やあ、大変だったみたいだね」
病院の廊下で、産婦人科医のイチガヤが笑いながらぼくらに歩み寄る。イチガヤはFARMに顧客を紹介するアドバイザーのひとりで、出生前遺伝子診断を担当していた。金持ちの夫婦が生まれてくるわが子に遺伝性障害や疾患がないか調べに来た時に、おたくのお子さんは消化器系に悪性腫瘍ができる可能性が高いから培養臓器契約を結んだ方がいいとかなんとか言って話を持ち掛ける。FARMは世界最大の培養臓器メーカーで、臓器培養用の豚を1000万頭近く所有している。人間ドックに来た大企業の重役や、風邪をひいただけの投資家にも医者は培養臓器を勧めてインセンティブをもらう。あれ、そちらの方は新人さん?イチガヤがぼくの隣に立つヒダカに気がついて言う。
「開発部のヒダカといいます」
ヒダカ・ナオはイチガヤににっこりと微笑む。ヒダカさん、イチガヤはヒダカの頭からつま先までなめるように見た後、満足そうに笑う。
「ヤナギくんもあんなことになってアレだったけど、おかげできれいな女性が営業担当になったんだねえ」
ヤナギ先輩?そういえば復帰してからぼくはヤナギ先輩の姿を見ていない。
「うちのヤナギがどうかしたんですか」
ぼくがイチガヤにそう尋ねると、イチガヤは怪訝そうな顔をしてから、あたりを見渡してぼくに耳打ちする。
「・・・ヤナギくん、顧客の万脳細胞を盗んだって話じゃないか」
■5年前
おい、“ありがとう”の本当の意味をお前は知ってるか。ありがとうは「人間の証明」なんだよ。お客様、会社。お世話になった上司や先輩。感謝をするのは人間だけだ。豚が感謝をするか?しないよな。もっというとわれわれ人間は頭脳労働者だ、だから頭脳のないやつは人間になれない、感謝もできない、だからおれたちは感謝のできる人間だけに培養臓器を売らなきゃいけない、おれたちとおれたちの顧客だけが人間なんだ、そう考えるとおれたちのやってる仕事って人間を定義づけてる偉大な仕事ってことじゃないのか。もっと誇りを持てよ。だから要するに、おれがいいたいのは、電話に出たときには最初に「ありがとうございます」ってつけなきゃだめなんだよ。
■2日前
ヤナギ先輩が顧客の万能細胞を盗んだって?ぼくは自動運転車の中で混乱していた。ヤナギ先輩はいちばん愛社精神がある優秀な先輩だった。そのヤナギ先輩がなぜ顧客の万能細胞を盗む必要があったのか。
「知ってたのか、ヤナギ先輩のこと」
ぼくは助手席にいるヒダカを睨む。ヤナギ先輩の失踪とヒダカにはなにか秘密があるんじゃないのか。ヒダカはなにも答えずに窓の外を見ている。大昔に廃線になったジョウエツ新幹線の高架が傾いて砂に埋もれている。鉄塔から垂れ下がる高圧電線、錆びついて崩れたガスタンク、砂から突き出るもう灯りのつかない街灯たちの向こうに突然、豊かな森が現れる。車はまもなく次の目的地である”農場”へとたどり着く。
会社の周りと同じように農場の周りも緑化され、マエバシの海岸線から100キロ以上も続く太い淡水パイプで水が運び込まれる。ぼくたちは車を降りて、スプリンクラーで清潔な水が散水されている芝生の横を歩く。白い鉄筋コンクリート製の建物に窓はない。その代わりに無数の換気用ダクトが壁から突き出ている。前世紀の人間が見たら、ここが半導体工場ならともかく養豚場だとは夢にも思わないだろう。IDカードをかざして中に入ると、柱のない空間に無数の豚が並んでいる。豚たちは飼料を食べ、抗生物質や運動を制限する薬の入った飲み水を飲み、昼寝をしている。獣のにおいが全くしないのは、飼料と糞尿自動処理設備のおかげだった。“製造部”のイイジマが管理端末の前でぼくたちを出迎える。
「お、戻ったのか。入院どうだった」
「ヤナギ先輩のこと、聞いたか」
イイジマの挨拶には答えずぼくは尋ねた。あれ、ヒダカさん今日からか、同行。反対にイイジマはぼくを無視して後ろにいるヒダカの方を見て言う。ヒダカはイイジマに会釈する。イイジマはヒダカに見せたいものがあるとか何とか言って奥の事務所へと歩いていく。ぼくはため息をついて、アクリルの向こうで豚たちが照明を反射する毛並みを揺らしながら食事を続けるのを見た。豚の口からこぼれる黄色い人工雑穀飼料と唾液をみたとき、ぼくはなぜか自分の腹がえらく減っていることに気が付いた。腸がぐるぐると回り、口の中に唾液が溢れる。なにかがおかしかった。ぼくの体のなかでなにかが起こっている。ぼくは事務所の方に向かって先に車に戻ると言った後、口を押えて豚たちの間を通り抜けた。イイジマがぼくの背後から声をかける。おい、何しに来たんだよ、さっきヤナギさんがどうとか言ってなかったか。ヒダカのコツコツという足音がゆっくりと続いてくる。人間に内臓を取られるためだけに生まれてきた豚たちが顔を上げてぼくを見る。ぼくは腹を抑えて建物の外に出た。スプリンクラーはまだ回っていて、砂嵐が近づいているのがわかる。ぼくは汗をかきかながら自動運転車のドアを開けるとき、ヒダカがぼくに尋ねる。
「おなか、どうかしたんですか」
■5年前
いまのおれたちひとりひとりは、つねに人工知能やら“オルタナティブ・レイバー”やらにその居場所を追われていることを忘れちゃいけないわけ。わかる?ヤナギ先輩はぼくのとなりのデスクに座ってそうぼくに尋ねる。ぼくは真剣な顔をしてうなずく。いいか、勘違いするなよ、この眺めのいいカーテン・ウォール工法のオフィスも、45階建てのビルから見える緑化地区の景色も、真っ白いデスクも、開城製のスタイリッシュなレザーフィルムディスプレイも、ドリンクサーバもすべて、おまえを安心させはしない。たしかにおれたちにとってここは帰るべき家だが、それは事実なんだよ。じゃあどうする、おれたちはどうすればいい?そうだ、売るしかない。数字を上げろ。おれは上げてる。
■2日前
ぼくは車の中で腹を抑えていた。唾液が止まらない。猛烈な空腹を感じる。助手席のドアが開いてヒダカが乗り込んでくる。
「おなか、どうかしたんですか」
ヒダカはもう一度ぼくにそう尋ねる。もしかして、すごくおなかが空いてるんですか?どうしておなかが空いたんですか?もしかし豚のエサを見たからですか?ヒダカの質問は止まらない。ぼくは初めてまともにヒダカの顔を見た。やめろ、ぼくは口を抑えたままヒダカに言う。ヒダカは質問を止めない。もっと今の感じを詳しく教えてください、きょうは手術から何日目でしたっけ、おなか以外に違和感はないですか、どうですか、製品開発のためなんですよ、わかるでしょう?
「だまれよ!」
ぼくはダッシュボードを叩いて彼女にそう叫んだ。フロントウィンドウに唾液が飛んで垂れていく。パラパラと砂粒が車体を叩く。
「“BANK”に行くぞ」
ぼくは自動運転車の端末に次の目的地を入力した。
BANKは顧客の万能細胞を保管する施設で、砂漠の真ん中に建っている。無人の施設だからか、社屋や農場と違って周りが緑化されているわけでも可住地域にあるわけでもない。顧客から採取された万能細胞が冷凍保存されている。もしヤナギ先輩が万能細胞を盗んで失踪したとしたら、ここにその記録が残っているはずだった。崩壊したショッピングセンターの廃墟の前に、地下のBANKへと続く入口はあって、かつてのお客様駐車場にはソーラーパネルと発電用風車がびっしりと建っている。あんたは車で待っててくれ、タブレット端末をいじっているヒダカにぼくはそう言って車を降りた。砂ぼこりが舞ってぼくの身体を叩く。空腹はやまない。ぼくは自分のIDカードを入口の端末にかざす。彼女がぼくの後に続くようにして、薄暗い階段をふたりで下りていく。ぼくの革靴の音に遅れてヒダカのヒールの音がゆっくりと響く。二重の鉄製の自動扉を開けると、まるで死体安置所のように冷凍庫のドアが並んだ部屋が姿を現す。真ん中に一台の端末があって、ディスプレイだけが煌々と光っていた。ぼくはその前に座り、キーボードを指で叩いてログインし、ここの保管記録を表示させる。ヒダカはなぜか冷凍庫のドアを一枚一枚眺めている。もしヤナギ先輩が勝手に万能細胞を持ち出していたとしたら、病院からの実際の発注記録と搬出記録に不突合が出るはずだった。だがこの端末の管理システムで見る限り、それは見つからない。ぼくはヒダカの方を見る。ヒダカはずっと一枚の冷凍庫の前で立ち止まっている。なんであの女は冷凍庫のドアをずっと調べてるんだ?ぼくは5245と書かれたそのドアの番号をキーボードに打ち込む。出てきた搬出記録はひとつだった。開発部ヒダカ・ナオ。そして彼女が持ち出していたのは顧客の万能細胞などではなかった。豚の万能細胞。ぼくは驚いてディスプレイ越しにヒダカの背中を見る。ヒダカはテープで冷凍庫のドアの取っ手の指紋を採取している。ぼくの心拍数が上がる。なんであの女は豚の万能細胞を?なんでドアの指紋を採取している?なんでぼくは豚のエサを食べたいと心から思っている?ぼくはヒダカに声をかけずに席を立つ。冷凍庫のコンプレッサーの音、非常灯の赤い光、リノリウムの床を音を立てないようにして出口へ向かう、階段を見上げるとオレンジ色をした外界の光が差し込んでいる、ぼくは階段を駆け上がって車へ戻る。
運転席に乗り込むと助手席にヒダカのタブレットが放置されていた。ぼくは階段で荒れた息を整えて口から垂れる唾液の糸を掌で拭う。そのディスプレイを叩くとメニュー画面が表示された。ロックがかかってない。それは会社の端末ではなかった。ヒダカの私物だ。ぼくはメールボックスを開く。そこにはヤナギ先輩と農場のイイジマあてのメールがあった。ぼくはフロントウィンドウの向こうを見る。砂嵐が濃度を増して車を叩いている。ヒダカはまだ戻って来ない。
Re:ブタ万能細胞のヒトへの移植適合性に関する検証
Re:Re:ブタ万能細胞利用と現行ヒト万能細胞利用のコスト優位性比較
Fw:ブタ万能細胞の利用における開拓顧客リストの策定
Re:移植治験病院と治験日時の確定について
「Re:移植治験病院と治験日時の確定について」というメールを開いたとき、コンコンとサイドウィンドウをノックする音が聞こえた。ぼくが顔を上げると、砂嵐の中、何かを持っている人影が車の横に立っている。ぼくが身構えたとき、土埃で覆われたその人影が、なにかを振り上げるのが見えてサイドウィンドウが割れた。
■1日前
目をゆっくりと開けると、先ほどぼくが見ていたBANKの端末画面が視界に浮き上がる。ぼくは端末の前の椅子に座らされていて、両手は椅子の背もたれの後ろできつく結ばれているようだった。結束バンドかもしれない。起きたみたいだぞ、イイジマの声が聞こえる。そういえばさっき農場へ行ったとき、イイジマはすでにヒダカのことを知っていた。ヒダカはイイジマの横に立って、先ほど採取した指紋のついたテープをイイジマに見せている。
「端末で開く自動扉に指紋がべたべたついてて、中の万能細胞が全部なくなっているのは、つまりそういうことだよね」
「ヤナギ…」
ヒダカはそう言ってぼくの方を見る。ヤナギが全部どっかに持って行ってしまったんなら、もう彼の腸から取るしかないんじゃないの、万能細胞。イイジマはぼくの方をあごでしゃくる。画面の左下に表示されている日時は、ぼくが気を失ってから丸1日経過していることを示していた。殴られた痛みより、腹が減って死にそうだった。こいつ、本当に起きてるのかな?イイジマが笑う。こいつならヤナギの居場所がわかると思ったんだけどな、同じブタ同士だし。
「イイジマさん、あなたそれより顧客の方に納期の相談はできてるの」
ヒダカの質問に、イイジマは顔色を変える。あなたが見つけてきた顧客はみんな、資産はあっても戸籍や遵法意識もないひとたちばかりみたいだけど。
「そうだよ!だから早くこいつから万能細胞を取ろう、それで”急性砂塵中毒”とか何かで死んだことにすりゃいい。もうじゅうぶん“治験”はできただろ」
そのときイイジマはヒダカがぼくを凝視したまま固まっていることに気が付いた。ぼくは痙攣していた。おい、まさか拒絶反応じゃないだろうな、嘘だろ!そう叫んだイイジマがハサミを持って結束バンドを切る。ぼくは床に倒れる。唾液がリノリウムの床に白くなってほとばしる。おいどうすりゃいい、こいつが死んじまったら全部パアだぞ、顧客に殺されるか会社に殺されるかだ、なんとかしろヒダカ!イイジマが泣き叫んでいる。ぼくの目の前には消火器が見える。大丈夫だ、ぼくは死なない、そう言って立ち上がるとイイジマがポカンと口を開ける。ぼくはイイジマの頭を消火器の赤いタンクで殴りつける。血が少しだけ頭から飛び散ってイイジマが床に倒れる。ぼくは消火器を置いて床に横たわるイイジマを見る。
「ヒトの腸にある神経細胞の数を知ってる?」
ヒダカが口を開く。腸にはね、猫の脳よりも多い神経細胞がネットワークを作ってるの。そこには脳をコントロールするもうひとつの意識がある。リノリウムの床にイイジマの血が広がっていく。管理端末に飛び散った血が赤い線を引いて垂れていく。最初にこれを思いついたのはヤナギさんだったの、ヒダカは言った。会社が商売できないような顧客を相手にした、わたしたちだけの副業の計画。でもわたしたちだけではFARMみたいな巨大で清潔な農場は持てないし、BANKみたいな人間の幹細胞保管施設も建てられない。ヤナギさんはまず会社の外でも豚を育ててるイイジマさんに声をかけて、次にわたしを誘った。ヒト万能細胞を打ったブタではなく、ブタ万能細胞を顧客に入れるアイデアはわたしが作った。そうすれば、清潔な農場も細胞保管施設もいらないでしょう。ぼくは自分の腹を抑える。あの農場での感覚。どうしてぼくなんだ、どうしてぼくが。ぼくは消火器を手にしてヒダカに怒鳴る。ヒダカは笑っている。
「最初はヤナギさんにしたの。でも、彼、自分が治験対象にされたと知った直後に消えちゃったから。だから、あなたがまた選ばれた」
ただ、わたしは知りたかったの、そう彼女は言った。それがいったいブタなのか、ヒトなのか。
ぼくは消火器を床に捨てる。大きな金属音がしてタンクが転がっていく。ぼくはヒダカの方を見ながらゆっくりと後ずさる。もしヤナギさんに会ったら訊いといてね、ヒダカがぼくに笑う。
「あなたはまだ人間なのかって」
ぼくは再び階段を登る。入口の鉄製のドアからは横殴りの砂粒が見える。外に出て、茶色くなった視界の奥、ぼんやりと光る営業車のヘッドライトの方にぼくは歩く。運転席に座ると、HUDに目的地を打ち込むように表示が出る。ぼくは自動運転モードを解除するよう車の端末に打ち込む。手動運転の場合、運転中の交通法規違反、故障並びに事故の際の法的責任は運転手に帰責します、というメッセージがHUDにスクロールされる。ぼくはハンドルを握ってアクセルを踏んだ。帰ろう、そうぼくは思う。ぼくは帰るんだ。
ぼくは西に車を走らせた。ナビゲーションも地図もいらなかった。国道から無線充電装置が消え、道に勾配がつき、非可住地域についての警告版がいくつも立ち始めた。かつてエチゴ山脈と言われた山岳地帯。木が一本も生えていない禿山。水上温泉と書かれた朽ちた看板。バッテリー残量の警告が鳴る。なぜぼくはこんなところに?誰の意志で?やがて入口が砂に埋もれたトンネルが行く手を拒んだため、ぼくは迂回するために車を下の道に回した。
そこは水が枯れた渓谷にあるかつての発電用ダムだった。巨大なコンクリートの躯体の内側は、砂ではなく水分を含んだ泥で覆われていた。太陽はとっくに西に沈み、車はぬかるみにはまって動かなくなった。革靴は泥の中に沈んでどこかで脱げてしまったので、ぼくは裸足でダムの堤防へと歩く。そこには灯りのついた木造の建物があって、中には豚がいた。「飯島養豚場」と書かれた錆びた看板。FARMのそれとは違って豚たちは泥だらけで、獣のにおいが充満している。ぼくは豚舎の中に入り、鼻息と咀嚼音と鳴き声のあいだをゆっくりと歩いた。そして一番奥にあるゲージが空いているのに気づいて、豚たちに並んで横になった。
鳴き声、泥のにおい、風の音、ぼくは安心する、これが誰の意志なのかはわからないが、ぼくは無事に帰ってこれたのだ。夜が来る、安心して眠ろう、ぼくはそう思って鼻を鳴らした。
だからぼくは自分の腸に感謝をする。
■1日目
(おわり)
文字数:9064