ペテン師モランと兎の星

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梗 概

ペテン師モランと兎の星

兎を神と讃える星、ラビロンにて。ペテン師モランは救済者として崇められていた。見せた手品を奇跡と勘違いされたり、ボケた最高司祭がモランこそ救済者だと託宣を下したりした結果だった。

 モランはこの星を出たかった。折悪く隣星との戦争が始まり、彼は救済者として兵士を慰め、励ます役目を担わされていた。モランは薄汚いペテン師だが、人を殺したことなど無かった。それが今では彼の言葉一つで人々は喜んで命を投げ出す。とんだ大量殺戮者じゃないか。

 隣星も同じ兎の神を崇めているのに何故争いになるのか。モランには分からない。
 

 モランは神殿内の自室に神官のルゼを呼び出した。度々モランの影武者を務めているルゼは、いつもモランを注意深く見て真似た。声色も仕草も口癖も全て完璧だと周囲は言う。しかしモランは似ていると思ったことなどない。

 語り合い。モランが足を組めばルゼも足を組み。モランが皮肉に笑えばルゼも笑う。そうして最後に互いの、聖職者がつける兎の仮面を交換するのが常だった。神官ルゼの緑の面。救済者モランの青い面。

 この日モランは、永久に二人の仮面をすり替えることを提案した。ルゼが救済者の役を担えば、モランは星を出られる。しかしルゼは拒否する。救済者は貴方だけだ。自分の責任を果たせ。そう言って部屋を出た。

 救済者だと? 俺はただのペテン師だ。勝手に責任を負わせるな。沈み込むモランを慰めたのは巫女のナナリナ。二人は仮面を外し、一夜を共にする。

 ナナが妊娠し、周囲に祝福されていよいよ逃げられなくなったモランは、戦争を終わらせる為に行動する。ナナとルゼを聖堂に呼び、説教を始めた。敵星の天啓システムを乗っ取り、説教を送り込む。

「はっきり言っておく。私こそが兎の意思。私は全てを救済する」

 ナナはうっとりと聞き入っている。ナナ。お前にも俺のこの高揚が伝わるか。
 
 「悔い改めよ。兄弟同士何故争う? 共に兎の前に跪けば、楽園の扉が開かれる」

 ルゼ。何故そんな目で俺を見る。悲しむ必要はない。お前の望み通り俺は今、救済者になったのだから。

「争いを続けるならば、戒めの青い雨が降るだろう」

 その言葉通り、敵星の聖地に青い雨が降る。事前に軍の総司令官に賄賂として高級で神聖な兎を渡し協力させ、人工的に青い雨を降らせたのだ。人々が奇跡に動揺している今が好機と見たモランは使者として敵星に向かおうとするが、妻子ある身には危険だとしてルゼが止める。仮面を交換し、ルゼは敵星に向かった。

 そして。ルゼは敵星の狂信者に暗殺された。死体から仮面を外して気付く。ルゼは驚くほど自分に似ている。これではまるきり、自分の半分を亡くしたようなものだ。モランは取り上げた仮面を身につけた。

 ペテン師モランは星を出る。救済者はルゼと共に死んだ。ペテン師のまま救済者の仮面を被り、奇跡の復活を演じる。彼はペテン師。二つの星を騙し、戦いを終わらせる。

文字数:1197

内容に関するアピール

 暴力に頼らずに悲しい戦いを終わらせることが出来れば、それが強く正しいということなのではないか。そう思ったので、主人公は口先だけで全てを丸め込むペテン師にしました。

 そして、ペテン師的な要素として、入れ替わりを話の中心にし、自分を隠す仮面にそれぞれの役割を象徴させました。真似し、交換することを繰り返して自分と相手との境目がわからなくなっていく感覚。人を騙し、演じているうちに、自分でもそれを本当だと思い込んでしまう陶酔感、みたいなものを書きます。
 
 作中の信仰対象を兎にしたのは可愛いからです。可愛くて、身近で、役に立たないものこそ崇める価値があると思いました。必ずしも兎である必要は無かったのですが、そういえば兎は性と多産の象徴でもあるな、と思って入れた、巫女が身ごもる場面は気に入っているので兎にして良かったです。人々が命を失う戦争の中で巫女が孕む命に、周囲は様々な意味を見出していきます。

文字数:398

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ペテン師モランと兎の星

病室に入ってきた男は、青い兎の仮面をつけていました。その仮面は鼻先から額までを覆っていて、二本の長い耳が頭に沿うようにしてつけられています。銀の模様で縁取られた仮面の下からは、黒い目がぞっとするほどの鋭さで覗いていました。服装は白い一枚布を体に巻きつけたような簡素なものなので、華美な仮面がなんだか嫌に浮いて見えるのです。
その男の後に、従者達が病室に入ってきました。その従者達もまた、色とりどりの兎の仮面をつけています。
病室には、四つの寝台があり、それぞれに病人が寝ていました。青い仮面の男はそのうちの一人、目を閉じたままの病人に歩み寄って寝台の側に屈み込み、病人の乾いた手をそっと握りました。病人は僅かに手を動かして握り返し、口を開きます。
「……ああ、おれとしたことが。寝すぎたようだ。あなたが来たのに気付かないなんて」
「私がわかるか」
 青い仮面の男が問うと、病人はゆっくりと、上体を起こしました。
「わかります。救済者様。あなたを間違えることなどありません」
 病人は、青い仮面の男に身体を向けたけれど、目は閉じたままでした。そのまま、薄く笑みを浮かべて言います。
「救済者様。おれの目が開くように言ってください。それで治ります」
「あなたは、そう信じるのか」
「信じます」
青い仮面の男は、病人の穏やかな顔をじっと見つめました。そうして左腕を伸ばし、病人の両目を手のひらで覆います。親指で左手のまぶたを撫で、次に右目のまぶたを撫でて、手を引くと同時に言いました。
「目を開きなさい」
病人はうっとりとした笑みを浮かべています。そして惜しむように、ゆっくりとまぶたを持ち上げました。周囲の人々のどよめきの中、何度か瞬きを繰り返した病人は、青い仮面の男を正面から見ました。
「ああ……見えます。あなたがこんなにも近くにいる」
青い仮面の男はしばらく、何も言いませんでした。じっと病人の顔を見て、やっと口を開きます。
「……おめでとう、開かれた人。兎はあなたが見ることを望んでいる」
 青い仮面の男は、柔らかく笑みを浮かべました。病人……だった若者は、喜びに満ちた声をあげました。
「ありがとうございます。ありがとうございます。これでまた戦える」
「逸ってはいけない。あなたは傷ついている。そして見ることは、時に辛く厳しい。今はまだ、休みなさい」
青い仮面の男は若者の肩に手を乗せ、軽く押しました。若者は気が抜けたように寝台に背をつけて、それでもうわごとのように喋り続けます。
「もう、十分すぎるほど寝ました」
「まだ休みなさい」
「そう、おっしゃるなら。少し休みましょう。そして、次に目覚めたら……目に映る、秩序を乱す者共全て……」
そこまで言って、若者は再び目を閉じたのでした。青い仮面の男はゆっくりと立ち上がり、言います。
「あなたに、秩序と安寧を」
若者は穏やかに寝息を立てて動きません。この奇跡に、周囲は色々な反応を見せました。胸に手を置き、深く頭を下げる者。祈りの言葉を繰り返す者。目を見開いて見上げる者。泣き出す者。
青い仮面の男は、ただ、慈愛を湛えた笑みを浮かべていました。救済者モラン。彼は、そう呼ばれる存在でした。
 

 楽園には兎が住んでいるのです。そして汚れなき楽園に住んでいるくらいですから、兎がとても清らかで尊いことには、疑いを差し挟む余地もありませんでした。この兎はある時、楽園の淵から地上を見下ろしました。何一つ欠けることの無い美しい楽園からどうして目を逸らしたりしたのか、それがどうにもわからないことですが、とにかくそうしたのです。
 地上に暮らす不格好で醜い人々。それらが争い、悩み、苦しむ姿。それを見て、兎は酷く悲しく、憐れに思い、どうにかこの者達を助けてあげようと思うまでになりました。そして、兎は人々に正しい教えを授け、蝋燭の火を移すように自らの魂を分けて地上に置いたのです。
 それ以来人々は、地上の兎を見る度、楽園を想い、教えの素晴らしさを知るのでした。兎はただそこに居るだけで人々の心に安寧をもたらし、秩序を守っているのです。つまり、兎が十七羽いるこの部屋は、もはや聖域である。そう言ってもいいほどでした。
 ぴょんたかぴょんたかと兎が跳ねまわる聖域の真ん中で長椅子に寝そべり、うとうとと眠りこもうとしている。そんな時に音がしました。部屋の扉を叩く音です。
「モラン様、いらっしゃいますか」
モランは聞かなかったことにしようとしましたが、繰り返される打音は許してくれません。仕方なく白木机の上から青い兎の仮面を取り上げて、顔の上に乗せました。
「入れ」
そう言うと、まったく遠慮のない勢いで扉が開きました。そこにいるのは見知った男です。緑色の兎の仮面をつけています。白い一枚布を巻きつけたような服も、癖のある黒髪の長さもモランと同じようなものなのに、仮面の色だけが違っていました。
緑の仮面の男、ルゼはつかつかと歩み寄ってきて、長椅子の背に左手を置きました。金茶で縁取られた仮面の向こうから黒い目でモランを見下ろして、平坦な声色でこう問いかけます。
「お加減はいかがでございますか」
「悪い」
「それはいけませんね。医者を呼びましょう」
「それには及ばねえさ。寝てれば治る」
 そう言われたルゼは、やけにゆったりとした足取りでぐるりと回り込み、白木机の向こう側の長椅子に腰かけます。そして言いました。
「まあ、午前中はご活躍だったそうですからね。疲れても仕方のないことです」
 皮肉なんて全く込められていない口調でルゼは言います。それを聞いたモランは、仮面で覆われた顔を、更に右手で覆いました。
 午前の勤めは、モランにとって本当に辛いものでした。傷を負った軍人ばかりが入院している病院に慰労に行ったのです。信仰心を持ち合わせていない軍人は荒んだ目で睨みつけてくるし、信仰心が篤い軍人は縋り付いてくるしで散々な目に合いました。
「まさに、奇跡の御技。だったそうでございますね。盲人の目に光を取り戻したとか」
「あんなもん……思い込みだろうよ」
 後から知った事ですが、あの若い軍人の目の怪我は致命的なものではなかったのだとか。適切に処置を施され、失明の危険もまだ残ってはいるけれど、いずれ治る可能性の方が高い、とそういう状態だったそうです。
 要するに、その若い軍人は元から兎教の敬虔な信者であったので、救済者に触れれば自分の怪我も治ると思い込んで、思い込みの力で無理矢理目を開いた。そういうことでしかなかったのだろうと、モランは思っていました。
「いいえ、まさしく救済者の御技にございます。その証拠に、私が身代わりをしている時にそのような奇跡は起こったことがありません」
「そりゃあ、お前さんが下手だからだろう? もっと信者の気持ちをのせてやらねえと」
「下手でも仕方がありません。私は救済者では、ないのですから」
「俺も救済者じゃねえんだが」
「いいえ、貴方は救済者に間違いありません」
 深く頷きながら言うルゼが本気で言っているのか、モランは未だにわかりません。人の心を読むのは得意なつもりだったのに、と少し自信をなくしています。やはり仮面で顔が隠れているのがよくないのでしょうか。
 自分は救済者などではなくただのペテン師なのだと、ルゼには何度も言いました。他の星でこすっからい犯罪を繰り返して指名手配され、この星に逃げてきて出会った観光案内の金髪バニーガールと一緒に救済者を騙る詐欺を始めたところから懇切丁寧に説明したのです。それはもう、何度も。何度も。
「間違いなく、貴方は救済者です。青い黒兎が貴方を認めているのですから」
それなのに、ルゼはこう言って聞きません。それもこれも、あの黒兎のせいらしいのです。
部屋の隅で、円座の上に寝そべってだらしなく足を投げ出している兎。その黒い毛並みは、光が当たると青みがかって見えました。
「グルゼイ」
モランは、黒兎の名前を呼んでみました。ピクリと耳を跳ね上げはしたが、モランの方を見たりはしません。
「認められてる割に、呼んでも来ねえんだが」
「青い黒兎は気位が高いのです。致し方ないでしょう」
モランが救済者として神殿に認められてしまった背景には、兎教皇を始めとした聖職者とは名ばかりの汚い連中の陰謀があったわけですが、その決定打として使われたのがあの黒兎でした。
 心悪しきものが抱き上げようとすれば、青い黒兎は聖なる後ろ足で地を叩き、その者を断罪する。いずれ来る救済者が抱き上げた時のみ、青い黒兎は三度祝福の鳴き声をあげるだろう。そんな言い伝えのある、一際尊い兎なのです。
 どんな仕掛けをされていたのかはわかりませんが、確かに黒兎は三度クゥと鳴き、それ以降モラン以外の世話を受け付けてくれなくなってしまいました。
 腑に落ちない気持ちを抱えながら黒兎を眺めていると、その黒兎に寄り添って寝ていた別の兎がぱちりと目を開きました。長い垂れ耳。灰色と白のまだらの毛並みの兎です。
「ポポット」
名前を呼ぶと、まだら兎はモランの方を見ました。跳ね上がるように体を起こすと、黒兎が不満そうに片目を開けます。そうしてまだら兎は、ぴょんぴょんと飛び跳ねて、モランの足元に寄っていきました。モランは無造作にまだら兎を膝にのせて、満足そうにまだら兎の背を撫でながら、大げさな口ぶりで言います。
「ああ、兎の中で可愛いのはポポットくらいのもんだよ。他は呼んだって来やしねえんだ」
「ええ、可愛いですね、本当に。可愛い。呼んで来ても来なくても全部可愛いです」
 ルゼは何度も頷きながら、まだら兎をじっと見ました。この星の人間ときたら、兎の話となると可愛いしか言わないので会話になりません。兎を褒め称えることこそが信仰心の表れであり、美徳であるとされているのです。モランはなんだか辟易してしまって、まだら兎をそっと床に下ろしました。まだら兎は、ひくひくと鼻を動かした後、またぴょこたんと跳ねていきます。
 モランはそれを見送りながら、無言で足を組みました。そうして視界の端で、ルゼが足を組むのを確かめます。モランが首元に手をやると、やっぱりルゼも首元に手をやります。
 こうしてルゼがモランの真似をするのは、決してお遊びなどではありませんでした。見た目だけでなく、仕草や癖まで自分のものとしようとする涙ぐましい努力なのです。
 ルゼはモランの影武者を務めることが度々ありました。そもそもモランがルゼの世話役に任命されたのは、目の色髪の色、背丈や顔かたちがモランに似ていると判断されたからだったのです。なにしろ声まで似ているので、聖職者がつける兎の仮面をつけて、仕草を真似てしまえば、誰にも区別がつかない程でした。
 しかしモランは、ルゼが自分を真似るのを見て、いつだってこう言います。
「似てねえ」
「そうですか。やはり難しいですね」
 ルゼは、斜に顔を傾けて言葉を返してきます。これも自分の真似なのだろうな、と思いながら、ルゼは長椅子の腕置きに右腕を置きました。モランもけだるげな仕草で右腕を腕置きに置きます。
 やはり、似合わない、とモランは思いました。ルゼは本来、生真面目で頑健な男です。それなのにルゼを真似ようとして、重たげに体を動かして皮肉な表情をしてみせるのです。始めに会った頃に比べると随分痩せてしまったのも、モランに合わせたからでしょう。
 ここまでしてもやっぱり似て見えないのは、その仕草のことごとくがルゼという人の本質と噛みあってないからなのだと、モランはそう思っています。
「まあ、いずれ上達するでしょう」
 ルゼはそう言って、仮面に手をやり、ゆっくりとそれを外しました。その下に表れた顔は、確かに仮面で隠すのがもったいない程にモランの顔と似ていたのですが、その目に入る光の加減は、モランとは全く違うように見えました。
 モランは返事をしないまま、ルゼと同じように青い仮面を外しました。モランが目を細めて、右手で仮面を弄ぶと、ルゼもまた右手の指先で仮面を撫でて、薄くまぶたを下ろして見せます。
 モランは長椅子にもたれていた体を起こして、仮面を白木の机に置きました。ルゼも同じように置きます。そして同時に、同じ動作で、仮面を左手で拾い上げました。そして顔に仮面をつける仕草まで寸分たがわず同じだったのは、二人がこれをもう何度も繰り返してきたことの証拠に他なりません。
 仮面をつけた後、お互いを警戒し合うように見つめ合うのもいつもの事ですが、ここでモランが発した言葉はいつもと違っていました。
「なあ、このまま、永久に仮面をすりかえたままの方がいいとは思わねえか」
「どういう意味でしょうか」
「お前さんが救済者になればいいのさ」
 そう言われたルゼは、特に動揺した様子も無く、自分の髪をぐしゃぐしゃと乱して仮面にかかるように垂らしました。これもモランに見た目を寄せるための、いつもの事でした。
「救済者は貴方ですよ」
「そんなことはねえよ。誰だっていいのさ、救済者なんて」
 モランが救済者として成り上がれたことこそ、この星が荒れている証拠でした。前王が死に、その息子が王になった時から天変地異が続き、人々は飢え、善良だった人々まで秩序を乱すようになりました。そんな時にこそ、救済者は現れるという言い伝えでした。
 モランはそこに目をつけて救済者を騙り、ある程度稼いだらとんずらする心づもりだったのです。しかし相棒の金髪バニーガールにのせられて引き際を失い、気付けば膨れ上がった信者を抱えるモランは神殿に弾圧される存在になっていました。
 戦争が始まったのはそんな時です。モラン達がいるこの星に、お隣の星が攻めてきました。隣同士の星の王族は婚姻を繰り返して親戚関係にあったので、現在の王を不適格として、王位継承権を主張してきたのです。星はますます荒れ、王への批判が高まり、神殿の権威に疑問を投げかける声まで出始めました。早急に星をまとめなければ、まともに戦う事すらできない状況でした。仕方なく神殿はモランを救済者として認め、モランは神殿の意のまま民衆を戦争に駆り立てる役目を負うことになりました。その頃には、バニーガールは稼いだ金品を持ってどこかへ消えていました。
「お前さんが救済者になれば、神殿だって一安心だ。そうだろ? それにお前さん、いつだって神殿の腐敗を憂えてるじゃあねえか。王権との密接すぎる関係、堕落する聖職者達。兎を自宅で崇めるだけでかかる税金のせいで街にあふれる捨て兎。なあ、どうにかしたいんだろう。救済者って立場を利用して、神殿を変えて見せろよ」
 そう言ってモランは皮肉に笑って見せました。ルゼは同じように口端を吊り上げて、言います。
「そんなに辛いですか。人々を救う役目から逃げ出したいのですか」
 モランはスッ、と笑みを引かせて、低い声で言いました。
「ああ、逃げ出したいね。飽き飽きだ。神殿に飼われて兎だらけの部屋に押し込められるのも、頭のおかしい兵士の手を握って戦えと唆すのも、民衆の前で声を張り上げて戦いの正当性を主張するのも、もう飽き飽きなんだ」
 モランは戦争が嫌いでした。血走った眼で人々が殺し合うさまなんて見たくも無いのです。馬鹿な人間から舌先三寸で小銭を巻き上げて、その金で酒でも飲みながら笑って暮らしたいのです。
「なあ、頼むよ。代わってくれ。俺には救済者なんて務まらない」
 哀れっぽい声を出しながら、モランは冷静な気持ちでルゼを見ました。少しくらいはルゼが心を揺るがしはしないかと観察しました。しかしルゼは、相変わらずの平坦な声で返してきます。
「申し訳ありませんが、お断りしましょう。私はやはり、貴方には似ていないようですし」
「そう言うなよ。似てないっつっても、民衆を騙すには十分だぜ」
「いいえ、救済者が務まるのは貴方だけですよ。それに」
「それに?」
「今の状況では、救済者という立場を手に入れるだけで神殿を変えられる、ということもなさそうですし」
 モランは黙り込んで、ルゼの言葉を噛み締めました。ルゼは、今は真似することを止めたようで、姿勢を伸ばしてモランを見返しています。その平然とした様子を見て、モランは腹の内がふつふつと熱く沸き立つような気持ちになりました。
「そうだな。そのとおりだよ。何をするにも神殿の言いなりのこの状況で、何を変えられるってんだ。何だ。救済者って何なんだ。神殿が腐っていくのすら止められないで、どう民衆を救えってんだ。俺にいったい何ができるって? お前さん、俺にいったい何を期待してる」
「焦らないでください。貴方ならきっといつか、全てを救える。ただ、私にはその代わりができないというだけのことでございます」
「できねえよ。そんなことできねえ。俺はただの、薄汚ねえペテン師でしかねえんだ。どうしてそれじゃいけねえんだ」
 モランは、額を抑えて項垂れました。しばらくの間、沈黙が広がります。やがて、ルゼは立ち上がって、静かに声をかけた。
「やはり、お疲れのようですね。お休みになった方がいいでしょう。今日のお勤めは私がやりますから、ご心配なされぬよう」
 ルゼは歩いて行って、扉を開けました。そしてそこから出て行く前に振り返って、項垂れたままのモランにこう言いました。
「私は信じています。確かに貴方は、全てを救える人です」
 そして、扉が閉まりました。モランにはわかりませんでした。どうしてここまでルゼが、モランの事を救済者だと信じきっているのか。同じ兎の神を崇める隣星と、どうして戦わなければならないのか。全くもってわかりません。
 モランはふらふらと立ち上がると、兎を踏みそうになりながら歩いて行きました。そして、倒れ込むように寝台に寝そべります。確かに疲れていました。眠くて仕方がないのです。寝るには仮面が邪魔だと思いながらも、外す間も無く眠りに落ちていきました。

 楽園の兎の教えを知った人々は、とても長い時間、幸せに暮らしました。しかし時が経つにつれて、地上の兎を見ても教えを思い出さなくなる人が現れるようになりました。そうした人々は次第に増え、憎み、争い、いがみ合うようになりました。地上は荒れ、どんどん人の住めない場所が増えていきました。楽園の兎は正しい心を持つ兄弟に船の作り方を教え、その船に動物や植物、地上の兎と人々を載せるように言いました。兄弟は楽園の兎の言葉をよくきき、確かにその通りにしました。しかし楽園の兎の教えを守らない人々は、兄弟の言葉を信じず、荒れ切った地上から出ることを拒否しました。こうして、船は正しい人だけを載せ、腐って駄目になった地上を旅立ったのです。
 そして長い旅の果てに辿り着いた二つの星。楽園の兎は兄弟をそれぞれの星に住まわせ、人々と地上の兎、植物と動物を分けてそれぞれの星に置きました。こうして二つの星に住む兄弟が、不足したものを補い合い、助け合って暮らせるようにしたのです。
 そんな伝説を思い出しながら、モランは天井を見上げていました。寝すぎたせいで頭は痛いし、喉も乾いています。それでも体を動かす気にもなれなくて、兎の行動の馬鹿馬鹿しさについて考えていました。まったく、二つに分けたりしたから争いが生まれるのです。補い合うよりも奪い合う方がずっと簡単ではないですか。
 いつまでもこうしていても仕方がないので、モランは体を起こしました。寝ている間に係の者が来たようで、部屋は綺麗に片付いていたし、兎達の食料と水は十分に補充されていました。モランは寝台の脇の水差しに手を伸ばしましたが、それは空のようでした。係の者は、兎の水は置いたのに、モランが飲むための水を忘れたようです。
 まったく、飲み水も与えないというのは、飼い主としての義務を怠るにも程があります。モランが兎なら乾いて死んでいるところです。モランは仕方なく、水を求めて部屋を出ました。

 本当に、酷く、喉が渇いています。頭がガンガンと痛みます。水を求め、木々の間を抜けて、ようやっと辿り着いた蜂蜜色の小川。その淵に膝をついて、両手で掬い上げました。サラリとした手触りに驚きながら口元に運び、しかし口内に流し入れたとたんにむせ込みます。その水は、蜂蜜なんて目じゃないくらいに甘く、毒かと思うほど酷く喉に張り付きました。灼けつくようなその感覚を振り払おうと何度も咳を繰り返しますが、その度に過剰な甘さに喉を痛めつけられるようでした。
 そんな時、緑白色の果実が鼻先にかざされました。
「さあ、これを食べてくださいませ」
 澄んだ声がそう言います。モランは声の主をちらと見上げました。真っ白な長い髪。白い仮面の下から覗く赤い目が優しい。ナナリナです。それを理解したと同時に、果実を受け取って噛り付きます。薄皮を歯で破れば、その下から果汁が溢れ出しました。少し青臭かったけれど、甘みなどかけらもない瑞々しさに救われるようでした。思考が一気に澄み渡って、不思議に頭の痛さも消え去りました。
シャクリ、とまた一口齧りながらナナリナを見上げると、ナナリナは木から緑白色の果実を摘み取り、自分もそれに口をつけました。
「ナナリナ……なぜここに」
「なぜって。ここはわたくしの管轄ですもの。ご存知でしょう」
  もちろん知っていたけれど、モランは今の今まで意識していなかったのです。すると自分は、ナナリナに会いに来たのだろうか。モランは考え込みました。神殿の庭に広がる、白兎巫女の薬草園。喉が渇いたと言う理由だけで、ここまで来るものでしょうか。
 ナナリナは、モランの隣に座り込んで本格的に果実をかじり始めました。つられるようにモランもまた果実に口をつけると、ナナリナが問いかけてきます。
「美味しいですか、モラン様」
「……何故、俺がモランだと?」
 今は、ルゼの仮面をつけているのに何故わかるのでしょう。
「ルゼは、勝手に薬草園に入ってきてこの川の水を飲んだりはしませんよ。毒草も沢山あって危険ですから、入るときは言ってくださらないと」
「すまない」
「お気をつけください。でも、ここを気に入って頂けたのは嬉しいですわ」
 ナナリナがおっとりと微笑みました。実際、モランはここを気に入っていました。知らない植物ばかりの薬草園は広くて、静かで、とても心が落ち着きます。
 ナナリナが果実を食べ終わり、残った種を川に投げ入れたので、モランもそうしました。それからモランは、しばらくぼんやりと辺りの様子を眺めていたのですが、ふと三角形の葉をつけた木に目を止めて、その木がどれほど高いのか見上げました。本当に高い木だったのですが、その木のてっぺん、その先が、貝の裏側の様な虹色に煌めいたのに気が付いて少し気が滅入りました。空に向かって自由に伸びているように見える木々が、透明で虹色の天井に覆われていることを思い出したのです。
「モラン様」
 ナナリナがモランの服を引きました。視線を下ろすと、ナナリナが随分近くにいます。
「何がそんなに、悲しいのですか」
 モランはまったく自分が情けなくなりました。今の自分は、悲しみ一つ隠せない程余裕が無いのです。いつもなら簡単に出て来る嘘も、今日はうまく言えません。だからこう答えました。
「救済者であることを求められるのが、辛くてしょうがねえのさ」
「まあ、大変ですのね」
 ナナリナは深く頷いて答えました。とても大変そうな口ぶりではありません。
「なあ、ナナリナ。お前さん、俺を信じるかい」
「ええ、信じますわ」
「どうして。もしかしたら俺は、救済者を騙る偽物かもしれんぜ」
「かまいませんわ」
 かまわないってことはないだろう。モランは怪訝な思いでナナリナを見ました。ナナリナは可愛らしく顎に指先を当てて、続けます。
「わたくし、占いを嗜んでおりますの」
「そうだろうな」
 占いで人々を導くことも白兎巫女の大事な役目だということくらい、モランだって知っていました。
「占い盤の針は、鱗のある兎を指しました。だから、かまいませんわ」
「すまんな、無学なもんで。わかりやすく説明してくれよ」
「あなたが何者であろうと、あなたがやがて全てを終息に導くことは間違いのないことなのですわ」
「だから、お前さんは、俺を信じるのかい」
「ええ、わたくしは、自分の占いを信じているのです」
 モランは、迷子になったような気持ちになりました。白兎巫女の占いとは、いったいどれほど当たるものでしょう。ナナリナは、モランの目を覗きこんで続けます。
「あなたは、信じられませんか。自分のことを信じられないのですね。自分が何者なのか、わからなくなっているのですね。でも、あなたが何者だろうと、本質的には何も変わらないじゃありませんか。やりたいようにやればよいのですわ」
 ナナリナは手を伸ばして、モランの仮面に手を触れさせました。
「こんなものがあるから、迷うのですね。隠してしまうから、わからなくなるのですね」
 そう言ってモランの仮面を外そうとしたから、モランは驚いて体を引きました。そして気づきます。始めは仮面なんて煩わしいと思っていたのに、いつのまにかルゼ以外の人前で外すのが恐ろしくなっていたのです。
 ナナリナは何度か目を瞬いた後、閃いたようにああ、と声を出しました。そしてあっさりと、自分の仮面を外してしまいました。投げ捨てられた仮面は草の上に落ちて音も立てません。
 真正面からモランを見据える顔は、自信に満ちきっています。その自信のまま手を伸ばして、今度はモランの顔から仮面を取り上げてしまいました。そして掌に乗せた仮面を顔の横で揺らして、言います。
「そら、こんなもの、こうしてしまいましょうね」
 そうして投げ捨てられた仮面は、やっぱり音も立てないのです。素顔で向き合ってみると、作り物のように見えていたナナリナの赤い瞳孔は生きた血の色をしているし、それを縁取る白い睫毛は一層長く見えます。
「まあ、モラン様。とても立派な眉毛をしていらっしゃるのですね」
 ナナリナは弾んだ声を上げて、モランに顔を近づけました。それと同時に、周囲の草花が伸びて、二人の周りで長い蔦が絡み合っていきました。モランはすがりつくような気持ちでナナリナの纏う、紗のように薄い布を掴みました。そしてナナリナがにっこり笑ったと同時に、蔦は伸びきって、二人の姿を完全に覆い隠してしまったのでした。

 二つの星に住んだ兄弟は、楽園の兎の言う通りに王を定めました。兄は誰よりも賢い者を、弟は誰よりも優しい者を王にしました。そうして、二つの星は平和に暮らしたのですが、いつまでもというわけにはいきませんでした。やはり、次第に楽園の兎の教えを信じない者がでてくるのです。楽園の兎は、兄弟の死を最後に人々の前に姿を見せなくなっていました。しかし、楽園の兎が残した最後の教えが、正しい人々の心を支えています。人々の心が荒れ果て、地が錆びついた時、救済者が現れて、正しい者を楽園に招き入れる。その時を人々は、待ち続けているのです。
「なんだって今更そんな話を? もうさんざっぱら聞いたぜ」
 モランは、向かいの長椅子に座るルゼに不満げな声を投げました。ルゼは説教を止めて、指を膝の上で組みます。
「あなたに救済者としての役目を自覚してもらおうと思ったのですよ。なんでも貴方、父親になるということですし」
「それ、誰に聞いた」
「ナナリナに決まっているでしょう」
 そうです。モランの子を身ごもったのはナナリナなのですから、彼女に聞いたにきまっています。ナナリナとルゼは、同じ神殿内で育ったので仲がいいのです。
 顔を背けるモランに、ルゼは畳み掛けます。
「おめでとうございます」
「……ありがとう」
 モランはそう答えると、長椅子の背にもたれかかって、天井を見上げました。ルゼは緑色の仮面の位置を指先で直しながら問いかけました。
「嬉しくありませんか」
「嬉しいよ」
「そんな様子には見えませんが」
 モランはしばらく、何の模様も無い天井をじっと見上げていましたが、不意に呻くような声でルゼに呼びかけました。
「なあ、ルゼ」
「なんでしょう」
「本当に俺の子だと思うか」
「ナナリナがそう言うのなら、そうなのでしょうね」
 また、沈黙が広がりました。しかしルゼは沈黙が長く続くのを許さず、問います。
「それで、どうするのです」
 モランはゆっくりと顔を下ろしました。ルゼの顔をしばらくじっと見ます。兎が一羽、ルゼの足元を通り過ぎた頃、モランは言いました。
「戦争を終わらせる」
「そうですか」
「驚いたろう」
「ええ、驚きました。質問の意図とは違う答えが返ってきたので。ちなみに、どうやって終わらせるつもりですか。その、戦争というものを」
「もうすぐ緑兎の祭日だろう。その式典の日に行動を起こす。詳しくは秘密だ」
「そうですか。それは楽しみでございますね」
 ルゼは一つ頷いて、こう付け加えた。
「戦争も大事ですが、ナナリナのこともきちんと考えるのですよ」

 楽園の兎は、白い毛色に赤い目をしています。地上の兎にこんな毛色のものはいないので、楽園の兎が人前に姿を見せなくなってからは白兎を目にしたものはいないのです。そのかわり、真に正しい者の傍には鮮やかな毛色の兎が現れるようになりました。紫、黄、緑、赤、橙と、その色は様々でしたが、最後に表れる色は決まっていました。青い黒兎。いつか生まれるその兎は、間もなく救済者を見つけるでしょう。
 そんな伝説を思い出していたモランでしたが、結局緑兎を連れていた正しい者の名前は思い出せませんでした。
 普段は白いばかりの石造りの神殿の広間に、今日は緑色の垂れ幕が下がり、緑色の花が其処此処に飾られています。聖堂の中には緑色の服を着た人々がひしめきあって座り、壇上を見上げていました。
 壇上では、緑の仮面をつけた男女が、裾のたなびく薄い衣を身に着けて、青々と葉の茂る木の枝を掲げ持ち、戯れ合うような動きで舞い踊っているのでした。くるりくるりと、回した枝を触れ合わせてはまた離れていきます。滑らせた足をぴたりと止め、体を斜めに傾けて。飛び跳ねて、着地して、よろめいて取り落としたはずの枝は、瞬きをする間にまた手中に収まっているのです。
 モランはその様子をはるか高みから見下ろしながら、背後にいるルゼに問います。
「お前さんは踊らねえのかい」
「ああいうのは、もっと若い神官の役目ですよ。それに、私はもう表に出る気はありませんし」
 緑色の兎達の踊りは次第にゆっくりとした動きになり、流れていた音楽も少しずつ音を小さくしていきます。
「さて、出番でございます」
 ルゼに言われて、モランは欄干にもたれかかっていた体を起こしました。ためらう様子も無く、階段に足を踏み出して、壁際を降りていきます。降りながら、広間の様子を見渡しました。一番奥に、黄色い仮面をつけた兎教皇のお爺さんが座っています。男女が踊る壇上の周囲には、仮面をつけた神官たちが、色ごとに分けられて並んで座っているのです。少し離れた所に、白い髪、白い仮面の男女が固まって座っていました。その中に、ナナリナもいるのに相違ないのでした。
 緑の仮面の男女が壇上から降りていくころ、モランはまだ階段の半分を降りるところでした。信者達の一部がモランの姿に気が付き、騒めき始めます。モランは足を速めることなく、意識してゆっくりと降りていくのでした。
 そして、地に降り立ち、今度は壇上に登った時、信者たちの騒めきは隅まで広がっていました。一体どれだけの人数が集まっているのか。端の方になると、顔が全く見えないくらいでした。
 モランは、人々が静かになるまで辛抱強く待って、喋り始めました。
「今日という日を喜びなさい。そして悲しみなさい。緑の兎と共にあった、真に正しき者。彼が尽くした忠義、払った犠牲の一つ一つを思い出しなさい」
 彼が語る全ては、天啓機構によって、神殿内にいる者全てに届くようになっています。この天啓機構は、兄弟の星が親密だったころからあるとても古い仕掛けなのですが、今でもきちんと働いていました。この神殿だけではありません。この星の全ての神殿に集う、全ての人々の耳に、モランの言葉は降り注いでいるのです。
「彼が払った犠牲。それだけで、もう、犯した罪の全ては許されたのに、何故未だに犠牲を払い続けなければならないのか。あなた方に犠牲を要求する者とは、いったい何者なのか」
 人々は、モランを見上げて、静かに自分の耳の中で響く深い声を聞いていました。神官たちの一部が、慌てて立ち上がり、言葉を交わし合っています。モランがこんな説教を始めることは予定に無かったのです。
「いつでも弟は兄に尽くしてきた。そのかわりに、兄は何をしてくれたというのだ。いつでも奪い、蔑み、暴力を振るってきた。こんなことが許されていいのか。いつまで兄に贈り物を捧げ続けるのか。犠牲を払い続けるのか。地上に兎が満ちてなお、人々は堕落していく。その最たるものが争いではないのか。いつまで兄弟同士で争い続けなければならないのか」
 先程からモランを照らしていた光が、一層強くなりました。それが合図でした。天啓機構は本来の機能を取り戻し、兄の星まで声を届けます。モランはあらかじめ、信仰心を持て余した技術系の若い神官を誑かし、天啓機構に細工をさせていたのでした。
「今日、ここで。はっきり言っておく。私こそが兎の意思。私は全てを救済する」
 モランは右手を掲げました。神殿内が、歓声に包まれました。いったい、兄の星の神殿は今どんな様子でしょう。弟の星では、緑兎の式典は始まったばかり。兄の星では、式典はもう終わる時間だったはずです。休むことなく、モランは続けます。
「争いを止め、楽園への旅立ちの日を待ちなさい。争ってはいけない。憎んではいけない。今ここで、悔い改めなさい。悔い改めて、正しい者になりなさい。老いを、若きを、賢者を、愚者を、勇者を、農夫を、詩人を、娼婦を、兄を、弟を。全てだ。私は全てを救済し、楽園へと導く」
 モランは繰り返します。蒙昧な聴衆の一人一人が理解できるまで、辛抱強く繰り返します。
「争いを止めて、楽園への旅立ちの日を待ちなさい。悔い改めて、正しい者になりなさい。悔い改めよ。間も無く、裁きの青い雨が降る。清き青は秩序を乱す者を許しはしないだろう」
 右腕を高くかざして、モランは周囲を見渡しました。歓声を上げる聴衆を、茫然と見上げる神官達を、動じる様子の無い兎教皇を見ました。そして、陶然と見上げてくるナナリナを見ました。ああ、ナナリナ。お前にもわかるのか。俺のこの高揚が伝わるか。モランは心中でそう声を上げながら、今度は上を見上げました。そこには欄干に手をつき、項垂れるようにしてこちらを見下ろすルゼがいるのです。
 どうして。そんなにも悲しそうな顔をしているのだろう。モランはそう思いました。こんなに離れていても、仮面で顔が覆われていても、それが確かにわかるのでした。ああ、ルゼ、悲しんでくれるな。喜んでくれ。お前の望み通り俺は今、たった今、救済者になったのだから。
「争いを止め、楽園への旅立ちの日を待ちなさい」
 モランは繰り返します。その度上がる歓声は、誰にも止められそうにありませんでした。
「悔い改めよ。間も無く、裁きの青い雨が降る」
 繰り返します。繰り返す度、大きくなっていく歓声が、狼狽する神官達を、それでも泰然とした兎教皇を、ナナリナを、ルゼを、神殿を、全ての神殿を、弟の、兄の星の神殿全てを揺るがし、揺るがし、揺るがしてついに、世界は逆さに回り出す。
 ぐるぐる、ぐるりと回ります。景色が次々と移り変わっていくのに惑わされないで。一段一段、足をかけて。降りて、違う、昇っています。乳白色の硬い階段に足を載せて、どこまでも高みに昇ります。
 そうして、いつか辿り着く。そこはまさしく楽園でした。青い花が咲き乱れ、澄み切った鳥の声がいつまでも響き、乙女が歌い、少年が酌をしてくれます。この乙女は、少年は、人に似て、人よりずっと崇高で清らかな存在なのです。
 当然楽園には兎もいます。思っていたよりずっと白くて、その眼は赤く透き通ってなんだか柔らかそうでした。兎はいつだって踊りに誘ってくるので、ララッタラッタ、ラタタタタンと踊らなければいけません。いえ、踊りたくなければ踊らなくてもいいのですが、楽園にいて踊りたくない気分でいることはとても難しいのです。
 一声発すれば、それに共鳴していつまでも美しい音が広がっていく。そんな世界では、全てがわかりました。兎の姿が見えない時だって、兎が確かにいることがわかります。楽園の全てに兎が含まれている、それに違いありませんでした。
 六枚翅の蝶を追いかけて、温かくて深い泉に浸りきって、痺れる程涼やかな風に体を撫でられて、そうして過ごすがよいでしょう。楽園とはそういう場所です。昼も夜も無いけれど、昼でも夜でもありました。月が見たいと思う間もなくいくつもの月が現れ、それと同時に太陽もいつでもどこにでもあるのです。それでいて、闇が恋しい気持ちになると、たおやかに闇が包み込んでくれるのです。闇の中で黄色くて丸いものを食べながら、ただじっと座っている。そんな時に闇が離れていったから、辺りの様子が見えました。
 そこは楽園の淵で、少し覗き込めば下の様子が見えるのでした。しかしそんなものを見たからって、なんだというのでしょう。楽園から目を逸らして、何を求めるというのでしょう。そんなことはしないに限ります。それなのに、ああそれなのに、淵に手をかけて見てしまった。
 楽園に似ている部分もあるけれど、何処を見ても苦しみからは逃れられない地上。人々が嘆き、もがいて争う二つの星。うっとりとこちらを見上げるナナリナ。悲し気にこちらを見上げるルゼ。まだ、そんな顔をしているのか。一体何がそんなに悲しいのか。いずれは全ての正しい人を引き上げて、皆楽園で暮らすことに決まっているのに。そこにルゼが含まれていないはずはないのに。
 もう少し、もう少しだけ待っていてくれ。そう言いたくて、身を乗り出しました。食べかけの黄色くて丸いものが、転がって、地上に落ちていきます。何故かそれに気を取られて、楽園の淵から手を滑らせました。傾いた体が投げ出されます。もう楽園には戻れない、それがわかって絶望しながら錐揉みして落ちていくのは、不思議に気持ちのいいことでした。随分と長い事落ちて、落ち続けて、柔らかい、ふかふかとしたものの上に落ちたのでした。そうして、モランはやっと、落ちている間ずっと閉じていた目を開けたのでした。

 

 目を開けてしばらくの間、モランはじっと天井を見上げていました。どうやら寝すぎてしまったようで、頭は痛いし喉も乾いています。体を起こして、寝台の脇に置いてある水差しを揺らしてみると、今日は水が入っているようでした。小さな器に水をうつして飲んでいると、扉を叩く音がしました。
「入れ」
 何も考えずにそういったところ、ルゼが入ってきました。そして入ったはいいけれど、いつまでも扉の前に立っているのでした。訝しく思ったモランは問いかけます。
「どうした。中に入って座ったらどうだ」
「青い雨が降りました」
 一瞬、何の話だ? と考えて、すぐにああと納得しました。それはまあ降るだろうな、とそう思いました。モランが長椅子に座ると、ルゼがいつも通り向かいに座って話し始めました。
「貴方の言った通り、兄の星、紫兎の大聖堂に青い雨が降りました。これこそ」
「これこそ奇跡の御業だ、なんて言わんでくれ。ちゃあんとタネがあるのさ」
「タネ……ですか。そうですね。しかしどうやって?」
「おいおい、勘弁してくれよ。手品のタネを明かす奇術師なんざドサンピンだぜ」
「そういうものですか」
 そう言ってあっさりルゼが引き下がったから、モランは物足りない気持ちになりました。そして一つ咳ばらいをした後、人差し指を唇の前にかざして、やけにもったいぶった口調でいいます。
「でも、そうだな、お前さんにだけ特別に、教えてあげよう」
「そうですか。それはありがたい」
 ルゼが頷くと、モランは目線だけで部屋を見渡しました。
「ルゼ。この部屋、何か足りないとは思わねえか」
 言われて部屋を見渡したルゼは、しばらくして、小さく声を上げました。そして絶望的な声色でいいます。
「ポポット様がいない」
 そうです。まだら模様で垂れ耳の、可愛いポポットがいません。これは大変なことでした。
「どこにやったんですか」
「ロイディオ将軍に預けたのさ」
「なんということを。貴方、自分が何をしたかわかっているのですか」
「ああ、わかっているよ。可愛いポポットを渡すなんて、俺だって辛くてしょうがなかったんだぜ。可哀想に、グルゼイだってあんなに落ち込んじまって」
 青い黒兎は、部屋の隅で、円座の上で丸まって寝ています。ふて寝している、というふうに見えなくもありませんでした。ルゼが緊張した声で問いかけます。
「ロイディオ将軍を、次の王に据えるつもりですか」
「妥当なとこだと思うがね。神殿のお偉いさんも、そう文句は言わんだろう」
 そうです。むかしむかしそのむかし、楽園の兎に星を託された弟は、自分が大事に崇めていた兎を誰より優しい者に預けて、その者を王にしたのです。いまでも、王が王であるためには、兎教皇から兎を預かり、その兎を大切に崇め続ける必要があるのです。
 つまり、ロイディオ将軍に兎を預けるということは、彼を王に任命するということに他なりませんでした。尊さで言えば兎教皇より上の救済者より預けられた兎なら、その効力は絶大なはずでした。
 モランは左手を開いて見せながら続けます。
「ロイディオ将軍は妾腹とはいっても前王の実子だし、戦果を積み重ねて民衆の信奉も篤い。今のところは神殿に恭順の姿勢を見せている。そして奇跡なんてまるで信じない現実主義者なくせに、兎が大好きな善い男だ」
 ロイディオ将軍は強くて賢い男でした。彼なら、正しい時を見計らって政変を起こし、救済者から兎を預かっていることを広く知らしめるでしょう。大義名分さえそろえば、確実に王になれる人物でした。
「実際あいつはうまくやったぜ。三角形に尖った小さな船を、音も無く兄の星に送り込んだのさ。そうしておいて、青くて冷たいキラキラした粒。それを雲の上からばら撒けば、青く透き通る雨が降るってわけだ」
 モランは足元を通り過ぎようとした茶色の兎を抱き上げて、膝にのせました。耳ごと背中を撫でて、自信に満ちた声で言います。
「そんでもって、あらかじめ送り込んでおいた間諜が悪い噂を流し、些細な事件を起こしまくって天罰を演出する手はずになっている」
 実際、既に紫兎の大聖堂は大混乱に見舞われていました。弟の星の罠だ、偽救済者の仕業だとどれだけ兄の星の兎教皇が言ったところで、民衆の動揺は収まりません。
「なるほど、よく考えるものですね。思いついても、普通はそんなこと実行しませんが」
 ルゼは、モランの膝の上の兎をじっと見ながらいいました。
「それで、次はどうするつもりですか」
「よく聞いてくれた。兄の星に赴き、和平を訴える」
「誰が」
「俺が」
「却下します」
 ルゼは兎から目を離し、モランの顔を見据えて早口で語り始めました。
「敵星に乗り込むなんて、危険すぎます。兎教皇だってそんなことお許しになりませんよ。だいたい和平交渉なんて、一朝一夕にいくものではございません。いったいどれほど長い時、二つの星が兄弟喧嘩を繰り返してきたと思っているのですか。そもそも先日の演説も青い雨も、上手くいったのが不思議なくらい滅茶苦茶です。これ以上滅茶苦茶を重ねて戦争を終わらせられるなんて、本当に思っているのですか」
「思っている」
 モランが兎の背を撫でる手を止めると、茶色い兎は長椅子から飛び降りました。モランは真っ向からルゼの鋭い視線を受け止めて、言いました。
「戦争を終わらせたい。終わらせられると、信じている」
 ルゼはただモランの顔を見続けていました。その唇が青ざめて震えているのを見て、モランはなんだか嬉しくなりました。こうやって対面で向かいあっている時に、ルゼの感情が強く動くのを見られたのが初めてだったからです。だから笑って言いました。
「いいじゃねえか。運否天賦に乾坤一擲。俺は今まで、それを重ねて生きてきた。今回だってうまくいくさ」
「ナナリナのことはどうするのですか」
 ルゼはそう言って、いきなり立ち上がりました。
「貴方にもしものことがあったらナナリナは、お腹の子はどうするのですか。貴方それを、真剣に考えましたか」
 ああ、怒っているのだ。ここにきて、ルゼの気持ちが手に取るようにわかる。モランが呑気に喜んでいる間に、ルゼは決意の声をあげます。
「どうしてもというなら、兄の星には私が行きます」
「何を、言うんだ。危険だぞ」
「危険だから行くのですよ。私は、影武者というのは、こういう時の為にいるのです」
 驚いて止めるモランにも、ルゼは怯みません。
「乾坤一擲。大いに結構。それなら私に賭けてください」
 ルゼは顎を流れた汗を腕で拭い、笑みさえ浮かべて言いました。
「必ずや、勝たせて差し上げましょう」

 そうして、仮面を交換して、ルゼを兄の星に送り出した後、自分がどうやって過ごしたのかモランには思い出せません。ただ、ナナリナときちんと話し合ったことだけは確かです。戦争が終わったらどうするか。そんな話ばかりでした。楽観的がすぎると思うかもしれませんが、二人とも真剣だったのです。
 一度の和平交渉で上手くいくなんて、モランだって思ってはいませんでした。自分の思い通りに演出が上手くいくかどうか、自分が教えた通りの台詞をルゼがそのまま言えるかどうか、それだけを少し心配して、それでもルゼの事だから上手くやるだろうと思っていました。そしてルゼが帰ってきた後、戦争を終わらせるための次の一手を考えていました。
 だから、ルゼが死んだという知らせは、本当に青天の霹靂でした。正確に言えば、救済者が死んだという、そういう知らせだったのですが、同じことです。
 兄の星に住まう、敬虔な信者。ルゼを殺したのはそんな青年だったそうです。偽救済者を殺してやると、周囲に何度も語っていたけれど、まさか本当にやるとは。彼を知っている人は皆そう言いました。
 知らせを聞いても、ナナリナは泣きませんでした。モランも泣きませんでした。モランは嘘泣きの必要がある時しか、泣いたりはしないのです。ルゼを子どもの頃から知っているナナリナが泣かなかったのは少し意外な気がしますが、まあそんなものはナナリナの勝手でしょう。
 救済者の死体が秘密裏に神殿に運び込まれる間、モランは部屋でじっとしていました。普段はあまり撫でさせてくれない青い黒兎は、背を撫でられても大人しくしていました。あんまりしつこく撫でるものですから、最後には離れていってしまいましたが。
 そんなことをしていたから、モランがルゼの死体と対面するまでには、少し時間がかかりました。モランは一人で、ルゼの死体が安置されている部屋に入りました。
 黒い石でできた部屋でした。それなのに、白く雪が敷き詰められているから、半分近く白く見える部屋でした。ルゼは、黒い石でできた台の上に寝せられていて、しかしその黒い石にも雪が敷き詰められているので、背中が痛くなる心配はなさそうでした。しかし、雪の上では冷たすぎる。寒くはないのだろうか。一瞬そう心配になりましたが、考えてみると死んでいるから寒くはないのです。そうしてみると、背中の痛みの心配も無かったのだなと、モランは安心しました。
 モランはまっさらな雪の上を、一足一足慎重に踏んでいきました。綺麗に着いた足跡を顧みることなく、ルゼの傍に立ちます。ルゼはまるで、眠っているようなありさまでした。青い仮面をつけたまま、いつもより豪奢な服装にも乱れはなく、仰向けで寝かせられています。ただ、服の上から触ってみると、胸の真ん中に、ぽっかりと穴が開いているのがわかりました。
 さて、ルゼの死因は何だったかと、モランは考え込みました。太い槍だったのか鋭い矢だったのか、熱い弾丸だったのか冷たい刃物だったのか、それとも想像もつかない程に独創的で情熱的な武器だったのか。あるいは武器ですらない綺麗で透明な何かだったのか。胸にあいた穴を触ってみればわかりそうなものですが、触る度に形が変わるような気がして、どうにもはっきりしないのです。
 モランは諦めて、ルゼの仮面に手を触れさせました。これを返してもらわなければ、今後に差支えがあります。モランは無造作に仮面を引き剥がして、そして大変に驚きました。
 それはモランの顔でした。いえ、ルゼの顔なのですが、確かにモランの顔でもあったのです。生命が抜け出て、ルゼの特徴が失われて、そのせいでモランとルゼの類似性が強調されたのでしょうか。いいえ、違います。穏やかに微笑むような表情はいかにもルゼらしかったのです。それでも、モランは自分に似ていると思いました。ルゼと自分が細部まで、隠されて奥まった部分に至るまでそっくりだということにこの時初めて気が付いたのです。
 なんということでしょうか。これでは自分自身が死んだのと変わりありません。違う、それよりもっと悪い。生きながらに半分を切り取られてしまったのです。モランはやっと事の重大性に気が付き、くずおれて冷たい雪の上に膝をつきました。ルゼの体にすがりついて、生き返る可能性が無いかを探します。しかし、そんなものはありません。胸の穴を塞ごうとして掌をのせるほどに、その穴ははっきりと形を主張するようでした。
 どれくらい、そうしていたでしょうか。散々考えて、考え抜いて、自分の命の半分をルゼに注ぎ込む方法などありはしないという当たり前のことをやっと受け入れて、モランは立ち上がりました。
 そういえば、自分はルゼに賭けたのだった。賭けさせられたといってもいいけれど。モランはそれを思い出しました。そして賭けは、まだ終わっていないのです。戦争を終わらせて、そうして、自分とルゼはやっと勝てるのです。
 モランは自分がつけていた緑色の仮面を、ルゼの胸元に置きました。そうして自分は、青い仮面を身につけました。青い仮面。救済者の仮面です。しかし仮面はあくまでも仮面でしかなく、それを被っているモランはペテン師でしかないのです。青い黒兎が見つけた救済者はもう、ルゼと共に死んでしまったのです。
 今こそ、全てをペテンにかけるべき最高の瞬間です。青い仮面を身に着けて人前に姿を現し、奇跡の復活を演じるのです。偽の救済者などとは誰にも言わせません。そんなことは言いたくなくなるくらい、争い合う気も無くなるくらい、うっとりするような青い夢を見せてやるのです。その夢の中にこそ、楽園はあるのです。モランは誰よりもそう、信じているのでした。

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