ディスオリエント・エクスプレス

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梗 概

ディスオリエント・エクスプレス

 反体制側を弁護したために政府に睨まれたミハウは、彼のせいで仕事の立場が危うくなった妻と険悪になった。職場でも居場所のないミハウは不遇な扱いを受け、専門外の仕事を担当させられて終電を逃す。ベンチに座るミハウと、居合わせた物理学専攻の学生・アリスンの前に、時刻表に記載がない列車が来る。二人が乗り込むと乗客は一人で、思い入れのある品物の説明をし、気づけば明け方になり、二人はベンチに座っていた。
 その日以来、夜中零時に駅で待ち合わせることにした二人は、列車が毎日やってくることを確認する。乗客は一人で、必ず品物のエピソードを語った。ある男がロケットペンダントの話と、それが隠されている場所を語った後、列車は途絶える。二人はその列車は、かつて全体主義が蔓延していた時代に、差別されていた人種や思想犯を秘密裡に収容所へ送り込む用途に使われていたことを突き止める。二人が元収容所を訪れ、乗客らがほのめかした秘密の隠し場所を捜すと、品はそのまま残っていた。
 二人は列車の存在は隠し、行方不明になっていたかつての囚人の遺品を偶然発見したことにして遺族に届け感謝されるが、ロケットペンダントだけは見つからなかった。最後の乗客の言葉によれば、手掛かりになる家族写真が入っているはずだった。被害者の存在を表舞台に出したミハウは注目を浴びる。アリスンは事件後もミハウと関わろうとするが、世間の注目を浴びて周囲に肯定されることを味わったミハウは、自分一人で事件を解決したと思うためと、謎のままの列車の存在を忘れるためにアリスンを遠ざける。
 時が経つとともに国の統制と粛清が激しくなるが、ミハウは事件で脚光を浴びた際の人脈を使って立ち回り、妻との関係も修復する。やがて妻の母が亡くなると、妻は遺品としてロケットペンダントを持ち帰るが、それはかつて列車の最後の乗客から語られたロケットペンダントと一致する特徴を持っており、中には妻と自分の写真が入っていた。慌てたミハウが事件のメモを見返そうとすると、資料の中に未開封の手紙が紛れ込んでいることに気づく。それはアリスンがミハウと最後に会った時に忍ばせたものだった。
 ミハウは手紙を開封して事実を知る。午前零時の列車には時を超える機能があり、アリスンは、他の乗客は過去から来たのであり、最後の乗客だけ未来から来たミハウであることに気づいたのだった。手紙を読んだミハウはアリスンに連絡しようとするが、研究者になった彼女は統制が厳しくなる直前に国外逃亡していた。ミハウは、自国が全体主義に傾いていることに気づかないふりをしており、むしろそれに加担していた自分と、体制の転覆を狙うクーデターが近づいていることを予感する。
 アリスンの手紙は「あなたが裁かれることを、あなたに望んでほしい」で終わっていた。

文字数:1158

内容に関するアピール

 時代によって正しさの基準は変わると思いますが、基準が変われば過去にさかのぼって裁かれることもあります。ミハウは時代に合わせてうまく立ち回ろうとした結果、信条を失い、自分が破滅する未来を予測します。彼が時代によって変わる正しさを知り、自分の誤った行為が裁かれる未来が来ることを望むことができるのならば、話としてはバッドエンドですが、その時点のミハウは、自分の人生においてヒーローになりえると思います。

文字数:200

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 別れ際に握った手の感覚を覚えている。
 表情は覚えていない。
 あの時受け取ったのは、絶望だったのか、それとも希望か。
 
 
 既に夜は更けていた。
 ミハウ・マリノフスキは深いため息をつきながら、駅の改札を通過した。重たいトランクを引きずるように運び、プラットホームのベンチに腰掛けると、手で顔を覆って俯く。くたびれた身体にひんやりとした空気が容赦なく染みわたっていった。
 列車が何本か通り過ぎた後、ミハウは車内に乗り込もうとしたが、バランスを崩してトランクを取り落とした。線路の方に滑っていくトランクを追い、列車とホームの隙間に落ちそうになる。すると人影が素早く駆け込んできて、彼の体を思いきりホーム側に倒した。ミハウはすんでのところでホームに留まり、線路に落ちずにすんだ。滑った時に肘や膝や頬などを打ってすりむいたようで体中が痛い。しかし命に別状はないようだ。 
「ありがとう。おかげで助かったよ」
 彼は自分を助けた反動でホームに倒れこんだ人影を助け起こそうとして、相手の手に触れた。しかし次の瞬間、思わず手をひっこめた。相手はとげのたくさんある指輪をしており、ミハウの手のひらに刺さったのだ。
 命の恩人は片膝をついて身を起こし、手を引いたミハウを一瞥した。
 青白い肌、顎くらいに切りそろえた黒い髪、表情の読み取りづらい顔、無感動な瞳。
「今度からは、前をよく見て歩くのね、先生」
 膝についたほこりを軽くたたきながら、相手は言った。
 身長はさほど高くなく、少年のような見た目で、ぶっきらぼうな話し方だったが、声から女性であることが分かる。
「確かに僕は先生だが……きみはクラカウ大の学生か?」
 ミハウが尋ねると、相手は頷いた。
「そうよ。あなた、史学科のマリノフスキ先生よね。同僚だけではなく、生徒にもミハウ先生って呼ばれてる」
「よく知ってるね」
「ええ。私、院生で、指導教官がヤノシュ教授だけど、教授はたまにミハウ先生のことを噂しているわ」
 ミハウは新聞学科の教授、ベロニカ・ヤノシュを思い出した。長身で色褪せた赤い髪をきりりとまとめ、いかにも賢そうに見える女性だ。実際に優秀で、舌鋒鋭い論文は痛快ですらあるが、口が悪いのが難点といえる。
「君は新聞学科の院生か。ヤノシュ教授……悪口を言われてる気がするな」
「それだけじゃないわ。私、先生の授業履修したことあるのよ。あの、『歴史学演習』っていうやつ」
 彼は頷いた。
「確かにそれは僕が担当していた授業だ。君は……」
「私はリサ・スタヤル。史学科じゃないから、思い出せないでしょうけど」
 思い出せないなんてことはなかった。
 ミハウの授業は、受け身で聞いているだけで楽しむことはできない内容だが、リサは必修でもないのに履修している変わり者の1人だった。
 ミハウが授業の最後にその日の内容の感想を提出させたときのことだ。他の生徒たちがミハウの話した内容を優等生的に要約し、ためになったと形ばかりのお世辞を書いていたのに対し、リサの言葉は正直だった。
 
 今回の授業は指定されたテキスト通りに進み、内容もテキストに沿ったものでした。
 授業は必要なく、テキストを読んでいればよかったように思います。
 次回も同様の内容だったら、私は出席せずに家でテキストを読むことにします。
 
 忘れようもない感想だった。
 その日からミハウは、生徒の理解度や学校の建前を気にすることをやめ、自分の注目しているマイナーな史実を扱い、思ったことを口にすることにしたのだ。おかげで分からないという感想が増えたし、大学側から睨まれることにもなったが、少なくともつまらないという感想はなくなった。何よりミハウ自身が充実した時間を過ごすことができた。
「君のことは覚えてるよ」
「それはありがたいわ」
 言いながらリサは、ホームの方を振り返った。
「ところで私たち、最終列車を逃したみたい、知ってた?」
 はっとしてミハウは時計を見た。確かに最後の列車の時間は過ぎ、そろそろ翌日になろうかという時間だ。
「すまない。君まで巻き込んでしまった」
「いいのよ、最終逃すのは慣れてるし。もう列車は来ないわよね」
 彼女はホームの際まで歩き、線路を覗き込んだ。
「あーあ、本が散らばってる。中央駅に連絡して拾ってもらわないと」
 ミハウも目をやった。開いたトランクの中身は全て本で、線路のわきに転がっている。ヌメ革のトランクのいぶしたような茶の色が、土の色と同化していた。
「もういいんだ」
 ミハウが小さな声でつぶやくと、リサは顔をしかめてミハウを振り返った。
「そんなもの、じゃないでしょう。商売道具でしょ」
「まあそうだけど、今後使わなくなるかもしれないし」
 自嘲気味につぶやくミハウに、リサはあきれたように言った。
「仮に先生が使わなくなったとしても、本に失礼よ」
「……わかった、明日言いに行くよ」
「そう、それは良かった。ところで悪いけど、煙草持ってたらもらえるかしら」
 ミハウが煙草を渡すと、彼女は細い指で煙草をくわえて銀色に光るライターで火をつけ、思いきり深く吸い込んだ。ミハウもつられて一本ふかした。うまい。ニコチンが臓腑に染みわたり、細胞に浸透し、鈍く固まっていた意識がほぐれる感覚がした。
 リサが夜空を仰いだ。彼女の指輪やネックレスの白っぽい銀色、ライターの鈍い銀色が月の光を跳ね返す。
 ふと、その白銀の輝きとは別に、こちらに近づいてくる光が目に入った。光はどんどん強くなり、規則的で重苦しい音が聞こえてくる。音の源の方を向いた二人は目を見開いた。
 夜の空の色よりも更に黒い塊。
 丸と円筒形のシルエットは、近づくにつれ正面部分の顔と煙突を示す。
 鈍い光を放つ二つの黄色いサーチライトは、まるで幻獣の目のようだ。
「……さっきのが最終列車じゃなかったのか?」
 煙草が燃え尽きるのも気づかずに、ミハウは駅の時計を見た。
 針は垂直に重なっている。24時きっかり。遅くとも最終列車は23時台だったはずだ。
「曜日によって最終の時間が違うのかしら」
「そんな記憶はないな」
「でも助かったじゃない。乗ってしまいましょう。」
 リサはそう言うと、列車の重厚な扉をゆっくりとスライドさせて中に入った。
 ミハウは一瞬躊躇したが、すぐに思い直した。リサの言う通りかもしれないし、何かの手違いだったとしても、少なくとも彼女を放置するわけにはいかない。リサに続いて列車の中に入り、後ろ手で扉をゆっくりと閉めた。
 
 列車は長距離用のようで、普段乗っているものと様子が異なっていた。
 天上や壁は上品なクリーム地に塗られ、控えめな天井からの明かりは車内に落ち着いた雰囲気を与えている。見上げると光源はシックなシャンデリアだった。ニ脚ずつ向かい合わせになっている座席は大きめでゆったりとしており、柔らかいソファ地だ。表面にはえんじ色のビロードが貼られており、縁に金の縫い取りがなされている。肘掛けの部分は木でできており、マホガニー材のような艶があった。テーブルに置かれた小さなランプはキノコのような特徴的な形をしており、エミール・ガレの工房に特注したもののようだった。
 リサとミハウは周囲を見渡しながら、顔を見合わせた。
「……ねえ、この列車、乗っちゃいけなかったかしら」
 リサがつぶやくと、ミハウが言った。
「今更言っても、しょうがないだろう」
「とりあえず、前の車両に行くわね」
 リサは宣言すると前に進み始めた。ミハウが慌てて後を追う。
「前に行って、どうするんだ」
「何があるか確かめるのよ。誰か乗ってるかもしれないし」
「危険かもしれない」
「今更どうにもならないわよ。危ない何かがあるとして、待ってるのは性に合わないわ。飛び降りるわけにもいかないし」
 ミハウは窓の外を見た。暗闇のように見えるが、時折光の粒子のようなものが一瞬線を引いて消えるあたり、相当早いスピ―ドで動いているものと思われる。
「まあ、それもそうだな、しかし、誰もいないんだろうか」
 次は先頭車両というところまで来ると、ミハウはつぶやいた。今のところ、乗客は誰もいない。リサが勢いよく先頭車両に入ると、がらんとした車両の中に人影が見えた。ミハウは黙ってリサと順番を入れ替わり、その後ろ姿に近づいていく。
 後ろから見たところ、相手は肩幅が広く、男性のようだ。俯いている。ミハウは相手に見える場所に立ち、リサには控えておくように手で制し、座っている人影に話しかけた。
「すみません、こちら、座ってもいいでしょうか?」
 相手は俯いたままで頷いた。
 ミハウは対面する形で座り、リサは隣のブロックに座った。
「少し伺ってもいいでしょうか」
 ミハウが言うと、相手は顔を上げた。
 壮年の男性だった。黒い髪には白いものが混じり、ハシバミ色の瞳の奥に陰りが見える。ダークグレーのスーツを着込み、胸ポケットからのぞいている白いハンカチはぱりっとしている。
「いいけれど、まずは私の話を聞いてくれるかな」
 彼はそういうと、手を組み替えてミハウを見た。
「何なりと」
 ミハウが頷くと、相手は話し始めた。
「私は店を営んでいた。服を売っていたんだよ。ご婦人のドレスや気の利いたスーツ、子どもが礼拝の時に着るしゃれたワンピースなんかも扱った。太ったのや痩せた人、背の高い人からずんぐりむっくりまで、どんな体つきの人にはどんな服を誂えればいいか、私にはちゃんとわかったんだ」
 話しはじめると暗い瞳はいきいきとし、顔にも赤みがさしてきたように見える。長いこと話していなかった人が、ようやく相手を見つけ出したような感じだ。
「店は繁華街に面していて、祭日なんかの時にはそれは賑やかだった。並びには衣料関係の店が並んでいて、右隣が生地を扱う店、左隣が飾り紐、タッセルを売る店で、針や糸なんかのこまごまとしたものも置いていた。飾り紐屋の店主、シモンは気のいい男で教養があった。奥さんは美人でね、名前はなんだっけかな」
 男は思い出すように遠くを見る目をした。
「思い出せないけど、とにかく家族ぐるみの付き合いをしてたんだ。だから彼らが『再定住』ということで連れていかれそうになっていた時、私は見捨てられなかったんだ」
 ミハウは再定住という言葉に何か引っ掛かるところがあったが、男の話に割って尋ねることができる雰囲気ではなかった。
 ふと心配になったリサの方を見やる。話に飽きて寝ているのではないかと思ったのだ。しかし意外にもリサは、腕を組んで男の話を真剣な眼差しで聞いている。
「店には地下室があったから、そこにシモンの夫婦をかくまったんだ。妻は最初、反対したが、妻もシモンの夫妻は知っていたからね、結局折れたよ」
 男は言葉を切って唾を飲み込んだ。
「私の身の安全を案じたから反対したのさ。でも結局、妻の心配した通りになってしまった。比較的安全だったデンマークへの移住を手配している時に、私の家に奴らが来たのさ」
 男は噴き出した汗をハンカチで拭った。いや、目に浮かんだ涙を拭いたのかもしれない。
「踏み込まれたらあっさりシモンたちは連れ去られ、私もつかまったんだ。おおかた、商店組合の誰かが密告したんだろう。でもあの時代のことだから、責めちゃいけないね。私はひどく殴られた。その時の傷は頭に残ってるし、転んだ拍子に時計が傷ついてしまったよ。結婚祝いで妻にもらったもので純銀製なんだ。蓋に私の家の紋章、二つの鍵の両側に星が彫られていた」
 彼はそういうとため息をつき、ミハウを見やった。
「でも、別の選択をとればよかったとも思えないんだ。周囲から人間らしい温かみが消えていった時、私たちは人間らしくいられた気がする。そう思うのは傲慢なんだろうか。君はどうだ?」
 ミハウは当初、自分のことを話す気などなかったが、その場には何か、言い逃れなどできない雰囲気が流れていた。
 リサはメモを取り出して、何やら書きつけている。
「時として、自分の信じていることをやると、地位が危なくなることはありますね」
 男は真剣な顔で頷いた。
「僕は大学の講師をやっていて、所属しているのは史学科です。この国の歴史は蹂躙の歴史であり、今も続いているという話をしました。1939年、我々のポーランドはドイツとソビエトの2国に分割され、国自体が消滅してしまった。知識層は殺害され、教育は破壊され、ポーランド国民は差別された。今は形ばかり復活しましたが、国境は他人が決めたものでしかない。そんな事実を話したところ、大学側から注意が入り、私は大教室をつかえる授業ができなくなりました」
 ミハウは続けた。今まで黙っていた分、話が止まらない。
「何もかもあっという間でしたね。任期付きの教員の仕事は更新されなくなり、研究室も来月には明け渡さなければならない。命じられるのは無意味な事務作業ばかり。私の後任はソビエトの党権委員会の息のかかった神父で、研究に関しては何の実績もない人間です」
 リサが大きくため息をついた。
「今まで築いてきたものが、この数か月であっという間に手の間からすり抜けていくようだった。だからといって自分のやったことが間違っているとも思わないし、後悔もしていない」
 ミハウは息をついた。男は流れる汗を拭くのも忘れ、頷きながら聞き入っている。
「僕を陥れた人間は大体予想がついているけれど、彼らを責める気にもならない。多分彼らも、更に上の組織が怖いのでしょう。面倒な火種は消すということでしょうね。ナチスドイツがこの国に踏み込んだ時、批判精神を封じ込めるために大学を閉鎖した、あの忌まわしい歴史から何も学んでいない。たかだか30年くらい前の話なのに」
 そう、反省や後悔はなかった。ミハウの性格からして、今回のような災厄は、遅かれ早かれ身に降りかかってきたことだろう。
「……我々は似た者同士ということなんだろう。今日は話ができてよかった。他にも話したい者がいるはずだから、是非話しかけてみてくれたまえ」
 男が差し出してきた手を握り返すと、ミハウはぞっとした。相手の手は冷たくて弾力がなく、まるで生気が感じられなかったからだ。
 顔を見ると表情はなく、視線はどこにも定まっていないように見えた。
 視界が真っ暗になり、一瞬意識が遠のいた。ふいに肩に痛みを感じた。見ればリサがミハウの肩を掴んでおり、指輪の鋭利な先端部分は服の上からでも痛みを感じさせる。
「ちょっと、大丈夫?」
 こちらを覗き込んでくるリサの顔と、靄に曇ったプラットホームが見えた。
 気づくと二人でベンチに座り込んでいる。時計を見やると、そろそろ始発の列車が来る頃だ。その日に起きた異様な出来事を検証する前に、ミハウは線路に散らばった本をなんとかしようと、駅員を呼ぶために立ち上がった。
 ホームは朝靄に包まれており、明け方の空は白々と光っている。
 ミハウはこれが現実なのだという確信が持てなかったが、リサがふかした煙草の煙を吸って、やっと地に足がついた心地がした。朝の光が差し込んできたが、空を見上げると夜の闇の余韻が残っていた。
 

 二人は中央駅に電話した。そして不機嫌そうな顔をしてやってきた駅員に、昨夜、午前零時に臨時列車が出ていないかを確認した。早番でまだ頭がぼんやりしていると思しき駅員は、ミハウが線路に落とした本をうんざりした様子でかき集めながら答えた。
「臨時列車? そんなものは出てないですね」
「本当に?」
「間違いありません。そもそもこの駅で夜に列車が走るようになったのはここ最近のことだ。午前零時なんて、そんな夜中の列車、あり得ませんよ」
 かき集めた本とトランクをミハウに渡しながら、駅員は言った。
 ミハウとリサは顔を見合わせた。駅員の言っていることは至極まともだ。これで乗客は一人しかおらず、朝になったら列車は消えて自分たちは元の駅に戻っていたなどと言ったら、狂人扱いされるのがおちだ。
 ミハウは駅員に礼を言い、リサを伴って歩きだした。目についた古びた大衆食堂でコーヒーを頼む。この国のコーヒーの多くはトルコ式で、コーヒー豆をそのまま湯に入れるが、この食堂のコーヒーは異様に豆が多かった。二人は大量のカフェインを摂取しながら話し合った。
「結局、何もわからないということがわかっただけだな」
 こんなに苦いだけで旨味が全くないコーヒーは初めてだと実感しながら、ミハウがつぶやいた。
「とりあえず、正規の列車ではないということはわかったじゃない。私、また電車を待ってみるわ」
 リサが言うと、ミハウはあきれて言った。
「今日も夜中までいるのか? 君も物好きだな」
「物好きといえばそうかもね。何なのかわからないままなのは嫌だし。それに、ちょっと面白いじゃない」
「呆れたね。怖くないのかい」
「全く怖くないと言えば嘘になるわ。この国のユダヤ教徒は、真夜中には悪霊が出現して、そいつらが人にとりついて狂気を引き起こすって信じてるみたいだし。わざわざ『時に関する法律』っていう法が施行されている20世紀に」
「じゃあ僕たちは、悪霊に取りつかれて狂った夢を見てたのか」
「そうかもしれないわね。二人しかいないけど、集団催眠現象だったら、それはそれで興味深いわ。あ、乗ってたおじさんも含めれば、三人になるわね」
「あの人の話も、面白かったからな」
 ミハウは思い出して言った。
 それにしても、自分はなぜ、見ず知らずの他人にあんなことを話してしまったのだろう。しかしあの場には、自分の話をしなければならないような雰囲気があった。
「そうよ。それにあのおじさんが別れ際に言ってた発言、思い出した?」
「他の人とも話をしてくれ、みたいな趣旨だったな」
「そうね。正確には、『他にも話したい者がいるはずだから、是非話しかけてみてくれたまえ』よ」
「……よく覚えてるな」
「メモを取ってたのよ。あのおじさん、まるで私のことが見えてないみたいだったし」
 リサは胸ポケットから、手のひらに収まりそうな小さなメモパッドと、銀色に光るボールペンを差し出して見せた。紙面には暗号のような文字が縦横無尽に走っており、恐らく本人にしか分かるはずもなさそうだった。
「君は授業でもちゃんとノートを取ってるもんな。見かけによらず」
「メモ魔なのは新聞学科だから。人を見かけで判断していたら、今後損をするわよ」
「新聞学科はまだ、ヤノシュ教授みたいないい先生がいるからな。しっかり勉強しろよ」
「今日はたいした授業はないし、取りあえず帰って寝るわ。それより夜、よろしくね。私たち、また話しかけなくちゃいけないみたいだし」
 ミハウに言い返す暇も与えないうちに、リサはおいしくないコーヒーの料金を置いて店から去っていった。後には彼女がミハウからせしめた煙草の煙が残っているだけだった。
 
 仮眠を取ってその日の授業をこなしたミハウは、研究室で仮眠を取り、約束の時間には駅のプラットホームに立っていた。リサは先に来てベンチに座り、今回は自分の煙草をふかしながら本を読んでいた。全体的に黒っぽい服装なので、遠目に煙草の火がなければ闇に紛れて見過ごしてしまうところだった。黒いTシャツに黒いジャケット、色あせたグレーのパンツに黒のエンジニアブーツといういでたちで、Tシャツには「神は死んだ」と書いてある。
「ツァラトゥストラが好きなのかい?」
 ミハウが尋ねると、彼女は煙草の火をブーツでもみ消しながら言った。
「本は面白いと思う。音楽もまあまあ好きかな」
「読書家だな。音楽って……ワーグナーだっけ?」
 リサは眉をひそめた。
「ワーグナーだったら、好きになんかなっていない。シュトラウスよ。まあ、ワーグナーもシュトラウスも、ファーストネームがリヒャルトだけど」
 ニーチェ好きの大学院生か、とミハウは思い、『ツァラトゥストラはかく語りき』の概要を思い出そうとしたがすぐにやめた。今の自分にルサンチマンがないと言い切る自信はない。
「暗いところで本を読んでいると、目が悪くなるぞ」
「大丈夫よ。心配ばっかりしていると、早く歳とるわよ」
「僕はもう、おじさんだ」
「否定はしないわ」
 そんな軽口を叩いているうちに午前零時になり、列車は再びやってきた。昨日は列車が来たことに驚いて気にもしていなかったものの、外観からして普段利用しているものとは明らかに異なっていることに気づいた。いつも使っている列車もおんぼろだが、この列車はそれに輪をかけて古い。重厚な走行音や警笛なども、列車が放つ荘重な雰囲気を強めている。
 ミハウとリサが乗り込むと、内装は変わらず上品な設えで、乗客は前回と同じく先頭車両に一人だけ乗っていた。今回は女性のようで、肩までとどく髪に、薄いベールがかかった小さな帽子をかぶっている。ミハウが正面に座ってよいか尋ねるとどうぞと言い、隣のボックスにはリサが腰かける。帽子の女性はリサを気に掛ける様子はなかった。
「この列車は静かですね」
 ミハウが話しかけると、女性は少し間を開けて言った。
「本当に。静かすぎるくらいで、話もできないわ」
「よかったら、僕に話していただけますか」
 ミハウが昨日の男が最後に残したセリフを思い出しながら言うと、女性はわずかに頷いて話し始めた。
「確かあれは、社長のお嬢さんに召喚状が届いたのがきっかけだったわ。私は事務員だったけれど、そもそも夫が亡くなって生活に困っていた私に仕事をくれたのは社長だったから、私は社長とそのご家族のためだったらなんでもやりたいと思っていた。だからビルの裏側のフロアーを隠れ家にして、生活なさるのを手伝ったのよ」
 顔を上げた瞬間、ベールの奥の意志が強そうな瞳が見えた。
「事務所で働く人の中には、事情を知らない人もいたわ。彼らにはわからないように気を配りながら、食料や日用品の買出しなどをして支援した。ばれたのは多分、事務所の誰かが密告したんだと思うけれど、新参者はそもそも社長のことを知らないはずだから、古くから働いていた誰かだと思うとぞっとする」
 ミハウが横目で見ると、リサが俯いてせっせとメモを取っていた。
「あのご家族はどうなったのかしら。自分のことを心配するべきなのかもしれないけれど、私は夫も息子も亡くした。夫がくれた指輪も奪われてしまった。薔薇の形の蓋がついていて、中に息子の遺髪を入れていたのに。もう失うものもない。せめて社長のお嬢さんだけでも助かっていてほしい」
 女性は小さくため息をついた。ベールが少し震えているように見えた。
 そしてミハウに向かって言った。
「あなたは何かを失ったことはある?」
 ミハウは昨日、列車の男に打ち明けた趣旨の話をした。大学で事実を告げたら職を失いそうであること。そしてそのことに対して憤りはあるが、後悔はしていないこと。一通り話を終えると女性は頷き、手を差し出しながら言った。
「あなたの言っていること、よくわかる気がするわ。今日はお話ができてよかった。他にも話したい方がいるはずだから、話しかけてくださるかしら」
 細くて骨ばった彼女の手はひんやりと冷たく、秋から冬に切り替わる季節の風を思わせた。ミハウの意識が遠のき、今話をしている人が誰だったのか、何の話だったのかが曖昧になる。気づけばリサに肩をつつかれ、プラットホームの冷たいベンチに腰かけていた。
「お疲れさま」
 リサが煙草をふかしながら言った。今日は彼女も自分の銘柄を持参している。
「疲れたよ。君はメモ取れた?」
「ばっちりよ」
 彼女はメモを見せてくれた。紙面はびっしりと覆われていたが、ミハウには判別できそうになかった。彼が紙面を凝視していると、彼女は言った。
「私の字が読み取れないことは、私がよくわかっているわ。先生でも読み取れるように清書しておくから、大丈夫よ」
 
 以来、二人は夜中付近に待ち合わせて、午前零時の列車を待つようになった。その時期、ミハウは授業のコマ数自体が減っていたことが幸いし、午前中に眠って午後から行動するというパターンが可能だった。リサも授業以外にレストランでのアルバイトがあったが、真夜中や早朝に仕事をすることはなかったため、夜中に駅に集合しても生活に差し支えはなかった。
 問題は季節の変化だった。始めた頃は秋の終わりだったからまだ良かったが、冬に入るとホームで待っている時間が寒くてたまらない。リサは一時、ウォッカを持ち込んでいたが、そうすると明け方ベンチに戻っている時、凍死するかと思うくらいに体が冷え切っていたため、やめることにした。
 リサのメモは増えた。彼女は記憶に残っているうちに毎回清書し、レポート用紙に書き込んだが、後でミハウの記憶と食い違うこともあった。リサのアパートはひどく狭かったので、ミハウのアパートでリサの書きなぐったメモを模造紙に時系列順に貼りつけ、検証しながら清書していった。
 リサは優秀な調査員だった。その日の天気、列車の状況、客の様子、話したことのすべてを事細かにメモしており、清書する。乗客の話だけではなく、ミハウの気づかなかったような乗客の特徴、話の仕方なども観察していた。
「君は優秀だな」
 細かい資料を整理しているリサを見て、ミハウは言った。
「見かけによらず、かしらね。でもこの案件は、単純に面白いからやってるのよ」
「興味本位か」
「そうね。先生は俯瞰しがちで、細かい点はあんまり見ない傾向があるから、そこは私がやろうと思ってる」
 必要なメモをより分けながら、リサが言う。
「君は細かく見たいのかい?」
「私は緻密かつ公正でいたいと思ってる」
 リサのレポートの枚数は徐々にふくれ上がっていった。リサは資料をミハウのトランクに納め、時系列順に取り出せるようにしていた。
 秋も終わり、冬も本番に入った頃、年末の会議でミハウの次年度の雇用が延長されないことが正式に決定した。うすうす分かっていたこととはいえショックだった。列車の時間が終わり、プラットホームのベンチに戻り、いつものように大衆食堂のまずいコーヒーを飲んでいた時、ミハウはリサに、来年の秋には失業する旨伝えた。
「ひどい話ね」
 リサは憤った。
「先生の授業は生徒の間では人気があるのに。講義室もいつも満杯で、立って聞いてる人もいるもの。必修の授業なのにガラガラで、出席すら取っていない授業だってあるのに」
「まったくね」
 ミハウは自嘲気につぶやいた。
「少なくとも僕は、授業は全力でやっているつもりさ」
「先生のやっていることは、生徒には届いているわよ」
「君が言ってくれているんだから、きっとその通りなんだろう」
「そうよ。これは確信を持って言えるわ」
 リサは慰めてくれたが、浮かない気持ちは消えないままだった。しかし落ち込んでばかりもいられない。自分に向きそうな仕事を探しつつ、ミハウは研究成果を上げるために論文を書いていた。国の失業率は上がり続けており、大学のポストはおろか高校の先生の職も空きがあるわけではなかった。大学院の恩師に相談したところ、ミハウの思いや憤りに共感し、できるだけのことはする、と約束してくれた。
 しかしミハウはむしろ、恩師に迷惑をかけるわけにはいかないと思った。自分を庇って職を用意してくれたら、恩師の敵が増えてしまう。良くしてくれた人に対して、仇で返すことはできない。ミハウは実感した、こうして世の中は厚顔な人間にとって都合がよく回っていくのだと。
 
 凍てついた空気が肌に突き刺さるような寒い日、ミハウは午前零時付近に駅でリサと落ち合った。
「もうこの調査も、すっかり習慣化しているな」
 とミハウが言うとリサは、
「そうね。いつまで続くのかな」
 とつぶやいた。そして吐く息も煙草の煙も白く、自分が蒸気機関車になったみたいだと笑うリサを眺めながら、ミハウは不思議な感慨を覚えていた。最初は感じの悪い生徒でしかなかったのに、今はすっかり打ち解けている。
 それに、この謎めいた調査に関して、よく付き合ってくれていると思う。リサもミハウと同じく興味本位でしかないのだろうが、あれだけ綿密な資料を取っていれば、一つの研究成果になるだろう。
 もっとも、列車の正体が掴めない以上は結論も出せないのだが。
「ねえ、音がするわ。でも……」
 眉を曇らせるリサに、ミハウは尋ねた。
「何だい?」
「聞いて。いつもと逆方向のような気がする」
 耳を澄ますと、確かにいつもとは別の方向から聞こえてくるような気がする。
 煙が立ち込め、黄色いサーチライトで視界を奪われた。気づけば列車は目の前にあった。 ミハウとリサはいつものように乗り込み、先頭車両にいると思しき乗客を探した。
 乗客はグレーのシャツとグレーのパンツを身に着け、くたびれた印象だ。ミハウは挨拶をして、向かいの席に座り、相手の方を見た。
 男性だった。つばのついた帽子を目深に被り、ほとんど顔が見えない。話す時も俯いたままでいる辺り、極度の人嫌いか、よほど顔を見られたくない事情でもあるのだろうか。
「……私の話を聞いてくれるのは、君か」
 相手は言った。風邪でもひいているのか、喉の調子が悪いのか。声はひどくしゃがれ、聞き取るのに苦労する。
「ええ。話をしていただけますか?」
 ミハウが促すと、男は少しだけ頷いた、ようだった。
 身動きした拍子に、シャツの袖や首元から皮膚が見えた。握りつぶした果実の色のように赤黒く腫れている。事故でなければ拷問の後だろうか。とっさの判断で、ミハウはなるべく相手の顔を見ないようにした。
「どこから始めたものか……」
 更に俯いて足元だけを視界に入れた男は、呟くように言った。
「あの時代、この路線の列車は、被害者たちを乗せた後、空になって戻ってきた。何の痕跡も残さずに消えなければならなかった人々を降ろした後で」
 なんのことを言っているのか。ミハウが黙っていると、男は続ける。
「被害者たちの命をなんとかしてとどめようとした人々がいる。彼らも消し去された。その事実の痕跡を残すために、この列車は走っている」
 男の謎めいた言葉のかずかずは、意味は分からないまでも、なぜかミハウの胸を打った。
 リサは懸命にメモを取っている。ふいに彼女は顔を上げ、男の方を見た。
「質問してもいいかしら」
 ミハウは驚いた。リサが乗客に話しかけるなど、初めてのことだったからだ。
「なんなりと」
「……あなたも、『とどめようとしていた人々』の一員なの?」
 男は首を縦にも横にも降らず、ただ答えた。
「その通りだし、そうじゃないともいえる。私はとどめもしたし、逆のこともやってしまった」
「逆のこと?」
「消し去る手助けをしてしまったんだ、消極的な意味で。恨みを買って襲われたんだが、その時、ポケットに入れていたロケットペンダントも壊れてしまったよ。あれは妻の母の形見だったんだ。縁取りは銀、中央にはエナメル細工でカモミールの花が描かれていて、ロケットの中には家族の写真が入っていた」
 男はリサの方に向き直り、顔を上げた。リサは珍しく動揺の表情を浮かべた。
 男は再び深く俯き、彼女は沈黙した。ミハウは静けさに耐え切れず、声を発した。
「他にありますか?」
「いや、ない」
 そういうと男は俯いたままでミハウに手を差し出した。手の冷たさが腕を伝い、体幹に広がり、つま先から頭のてっぺんまで凍りつきそうになる。体温を奪われた代わりに、何か重たいものを注ぎ込まれたような感じがして、思わず声を出しそうになったところ、強く腕を引っ張られて我に返った。
「大丈夫?」
 心配そうなリサの顔。しかし彼女の顔以外のものはほとんど見えない。
 ミハウは周りを見渡した。靄に囲まれているようだ。
「……ここは?」
「わからないけど、いつものプラットホームじゃないことはわかる」
 細長い人影に取り囲まれている気がする。しかし動く生き物の気配は感じられない。下手に歩き回ると、何か恐ろしいものに遭遇するような張り詰めた気配を感じた。二人は本能的に身を寄せ合って固まり、息をひそめた。
 どのくらいそうしていただろう。次第に霧は晴れ、周囲が見えるようになってきた。
 二人を囲んでいたものは木だった。ざらついた黒い木々は同じ方向にぐにゃりと曲がっており、まるで空から巨人が木を握り潰そうとしたようだ。湾曲した木肌は人の皮膚にも似ており、腰を曲げた老人たちにも見え、圧迫感を与える。
 ミハウは周囲を見渡した。目の前にぼろぼろだが道らしきものが見える。リサの手を取って歩き始めると、道は次第に広くなり、急に目の前が開けた。
 四方に杭が打たれ、鉄条網に囲まれた建物が見える。煉瓦を積み上げてつくられており、牛舎のように見えるが、物音はせず周囲は荒廃しているので、既に生き物はいないようだ。
 ミハウが建物に向かって呼びかけたが返事はない。
「ちょっと見てくるよ。君は待っていてくれ」
 ミハウが言うと、リサはあきれたように答えた。
「何言ってるの。ここまで来て、待ってろはないでしょう。私も行くわよ」
 どんなに危なくてもリサは来るだろう。ミハウは腹をくくり、二人で鉄条網の壊れた箇所をくぐって中に入り、扉を開けた。
 中は人家ではなく、何かの施設のようだった。独房が並んでいるように見えたが、毛布や衣服の端切れやその他のぼろが残っているだけで、誰もいない。荒廃した空間を尻目に二人は建物の中央部の、設備らしきものが残っている箇所へ行った。そこは机や椅子があり、さきほどの独房とは違う機能を果たしているようだった。ミハウはリサが、部屋の中のガラスケースに見入っている様子が目に入った。
「何が見つかったんだい」
 ミハウの声に気づかないほど、リサは熱心に見ている。
 それは時計だった。銀色で蓋が開いており、文字盤のガラスにひびが入っているのが見て取れる。蓋の裏側は二つの鍵の両側に星が彫られていた。二人は顔を見合わせた。
 
 二人はその建物から出、周囲がすっかり明るくなるのを待って人家を探した。幸い川の音が聞こえたのでそちらに向かい、水源に沿って歩いたところ、村が見えた。最初に遭遇した人の良さそうな老婆に道に迷った旨を伝えると、冷たい井戸水を提供してくれた上、新鮮な牛乳とチーズ、テーブルビートの赤いスープ、小さな固いパンの朝食を与えてくれた。
 老婆に現在地を聞いた二人は驚いた。そこはドイツとの国境に近い地域だった。昔は近くに市街地があったが、戦争で街がまるごと焼けてしまい、生き残ったわずかな人々が小さな村をつくって住んでいるのだという。森は街から人が消えてからは人手が入っていないとのことだ。二人は目にした建物について尋ねると、老婆は怪訝な顔をして、下流の方は行ったことがないけれど、そんなものは知らないし聞いたことがない、と言った。
 ミハウは礼を言い、リサと共に駅まで歩き、列車を乗り継いでミハウの家に戻った。
 列車内でリサは尋ねた。
「あの牛舎みたいな建物は何だったのかしら」
「わからない。でも街が焼けた以上、記録も残っていないだろうな」
 リサはため息をつくと、ミハウをじっと見た。
「ねえ、先生って、左右の目が違うのね」
「ああ。子供の頃にボールが目に当たって、左目の瞳孔の動きが悪いんだ。明るいところに行ったり、近くのものを見たりしないと分からないだろうけど」
 ミハウがそういうと、リサは頷いた。
「先生の目ってガラスみたいな青灰色だから、いったん気づくと見てしまうわ」
「ガラス? そうかもな。母はいろんな血が混ざっているんだけど、彼女を見ていると、歳をとると瞳が透き通ってくる家系なんだと思う。いっそ、君みたいに黒い瞳だったら、左右の違いもわからないんだろうけれど」
 列車が到着すると、ミハウはその日の授業を休講にし、二人でミハウのアパートへ行った。熱いコーヒーを淹れて一息つき、膨大なメモを見返していく。リサは最後の客のメモをレポートに書き起こし、資料の最後に追加した。そして彼女はレポートの一番最初のページに丸をつけると、レポートの束を持ってミハウを促した。
「さあ、行きましょう。今こそ謎を解く時よ」
 ミハウも強く頷いた。コンパスや懐中電灯、カメラとフィルム、手袋やビニール袋、携帯用の食料と水などのありったけの装備をリュックサックに詰め込み、二人は先ほどとは逆のルートで列車を乗り継ぎ、木々が不気味に曲がりくねっている森に行き着いた。そして建物の中に入って時計のある場所へ行くとリサはレポートを読み上げ、真夜中の列車の最初の乗客が持っていた時計の特徴と一致することを確認したのだった。
 二人は列車で出会った乗客の伝えた品々を探し当てていった。息子の遺髪が入っていると思しき指輪、肖像画が入ったポケットサイズの金のフォトフレーム、小さなダイヤモンドが埋め込まれた万年筆。それらはほとんどガラスケースに陳列されていたが、ときおり壁に掛けられていたり、戸棚の上に置いてあったりした。リサがほとんどにチェックを入れたレポートを見て首をひねっているのを見て、ミハウは尋ねた。
「何か見つからないのかい?」
「最後の人が言っていたロケットペンダントがないの。家族写真が入っているという」
 二人は探したが、見つからなかった。たまにそれらしきものがあったかと思うと、彫り込まれた模様が違っていたり、材質が違ったりした。
「これじゃないか?」
 ミハウがリサを呼ぶと、リサはため息をついた。
「よく見てよ、それはエーデルワイス。花びらが尖っている。あと、それは真ん中が陶器でしょう。私たちが探してるのはエナメル細工で、描かれているのはカモミールよ」
「カモミールってどんな花だい?」
「花びらが白くて真ん中が黄色で、まるっこい花」
「よく知ってるな」
「エーデルワイスはオーストリアとスイスの国花で、カモミールはロシアの国花よ」
「ポーランドの国花ってなんだろう」
「パンジー」
「……パンセ、悩める花か。我々に相応しいな」
 ミハウが自嘲気に呟くと、リサは曖昧な笑みを浮かべた。
 最後の男が伝えたロケットペンダントは結局見つけ出せないまま、二人は建物から去ることにした。最後に見た部屋では、この施設にいたと思しき人々の衣服が無造作に積まれていた。着用者を失った服は、まるで生前の人々が残した抜け殻のように見えた。
 

 ミハウは史学科の大学教員で信頼できる仲間に今回の発見のことを伝えた。仲間はことの重大さをすぐに理解し、調査チームが出来上がった。それとは別の動きとしてミハウは、大学構内で新聞やテレビ、雑誌などのメディアとつながりがある人物を探すことにした。彼はリサの指導教官、ベロニカ・ヤノシュは信頼できると判断し、早急に話をした。ミハウが第二次世界大戦時の収容所らしきものを見つけたという話をすると、ベロニカは信じられないという表情を浮かべていたが、ミハウが具体的な場所や写真、リサが作成した膨大なレポートを示すと、ことの次第の重要性が伝わったようだった。
「これは重大な発見だわ」
 打ちのばした銅のような色味の瞳を鋭く輝かせながら、ベロニカは言った。
「発表の方法を考えなくては。確証を得てから新聞に取り上げられるといいでしょうね」
 この一連の流れに、リサは顔を出さなかった。ミハウがリサに、君の功績でもあるから共同発表にしようと言ったところ、リサは首を振って言った。
「私は今、目立ちたくない」
 彼女ははっきりと宣言した。
「先生が表ざたにしてくれたら、私はそれでいい」
 それ以降、リサは何度言っても考えを変えなかったので、ミハウはあきらめることにした。
 調査の結果、ミハウの推測が確証通りとなった。調査結果は国で二番目に部数が高く、影響力のある新聞に取り上げられた。ナチスの知られざる強制収容所、ユダヤ人をかくまった勇気あるポーランド人たちが秘密裡に連れ去られ、虐殺された施設が見つかったというこのニュースはショッキングであると共に、ポーランド人にとっては精神的な支えとなるエピソードとなった。
 この収容所で殺害された人々は、何の痕跡も残さずに消え去らなければならなかった人々、すなわちヴォイド(空虚)となった人々を地上に遺そうとしたということで「ヴォイドの痕跡」と呼ばれ、後にその「ヴォイドの痕跡」という言葉自体、この発見を示すようになったのだった。
 ミハウは時の人となった。史学科の教員が自国の誇るべき歴史を発見したということで、さまざまなメディアに取り上げられた。ミハウが反体制的な発言をしたことは忘れ去られ、大学を追われる予定は帳消しになり、雇用は保たれた。ポーランドの国民を統制しているソビエトにとっても、ナチスドイツの蛮行が発見されるのは、不満をそらすという意味でも都合が良かったのだ。
 ミハウはさまざまな会議や会合、パーティーに呼ばれ、招待客にはソビエトの委員会の要人も含まれていた。ミハウは最初、権力者とは違和感を持って接していたが、ソビエトからポーランドに派遣されている人々は、実際に会ってみると一見人当たりがよく、信頼できるような印象を与える人々だった。彼らは話題の人となったミハウに対し、丁寧で感じよく接してきた。ミハウは次第に彼らと打ち解けるようになり、ポーランドの完全な独立を胸に秘めながら、ソビエト側の人々とも波風を立てずにやっていく術を覚えていった。
 そんな彼に対し、周囲はどのように思っていたのかと言えば、見える形で態度を変える人間はほとんどいなかった。そもそもこの国の歴史は、ミハウの言う通り蹂躙の歴史であったし、支配する側が変わったとしても、意識の上で変わることはなかったのだ。
 一方で、ミハウはヤノシュ教授やリサと話すことはほとんどなくなった。それは相手が無視してきたということではなく、ミハウ自身の気が引けたからだった。リサはキャンパスで見かけることもあり、時折彼女は何かを言おうとしてきたが、思い直したように立ち去るのだった。ミハウはそのうちに、リサが院を満期退学し、左派系の新聞社に就職したということを風の噂で知った。
 数年後、ミハウは教授職に就くことになった。大学側が主催したパーティーにて、彼は見知らぬ女性とぶつかり、服にウォッカがかかった。ミハウのシルクのシャツと彼の瞳によく合うブルーグレーのネクタイをウォッカびたしにした女性、アリシア・パブロワは明るい金色の髪にバイカル湖のような深い青色の瞳が映える美しい女性で、ロシア系の血をひく両親を持ち、柔らかな口調と優雅な物腰が魅力的だった。ミハウはアリシアと大学以外の場所でも会うようになり、ソビエト側の委員会の要人に何人も知り合いがいるアリシアの両親にも気に入られ、二人の仲は順調に進んでいった。
 
 夏も終盤に入りはじめたある日、ミハウはリサに呼び出された。聞けば彼女は新聞社を辞め、フリーランスになったのだという。ミハウは手始めに仕事かコネの紹介が欲しいのかと思い、祝いを兼ねて気の利いたものを出すレストランを予約しようとしたが、リサが待ち合わせの場所として指定したのは、二人がよく一緒に過ごしたまずいコーヒーの大衆食堂だった。 
 ミハウが赴くと、リサは既に来店していた。細い煙草をくゆらしている。白い煙の奥に薄いグレーのコーヒーカップと、黒いどろどろの水面が見える。
「やあ……久しぶりだね」
 ミハウが言うと、リサは煙草を吸いながら顔を向けた。
 アイメイクは相変わらず濃いが、ごつごつしたアクセサリーはしておらず、カジュアルな黒いジャケットとパンツを身に着けていた。ボブの髪はアシンメトリーにカットしており、自由業の人間かアーティストのように見える。
「お久しぶりね、先生。忙しいところ、申し訳ないわ」
「君こそ忙しいんじゃないか。活躍していると聞いた」
「ヤノシュ教授に?」
 ミハウは少し口ごもった。
「いや、教授は……もう教授じゃなくなったんだ」
 リサは少し沈黙して、気が重そうに口を開いた。
「あの大学も、まともな人は大分減ってしまったのね」
「そうだな。まともなのは僕くらいのものかもしれない」
 ミハウが軽口をたたくと、リサはやっと笑顔を見せた。
「そういうところは変わってなくて、安心した」
「君もね。ところで今日はどうしたんだい? 世間話だけでも、僕は嬉しいけど」
 リサはコーヒーを口にして言った。
「世間話……ふつうは天気の話とか、家族の話とかかしらね」
「そういえば、そんな話、君としたことがないな」
「私の父は、ワルシャワの蜂起に参加したわ」
「そうなのか、僕の父もだよ」
 ミハウの父はワルシャワ蜂起の闘士だった。1944年のナチスドイツの占領下のワルシャワで起きた武装蜂起に参加し、レジスタンスの一員として戦ったのだ。あの戦いでは頼りにしていたソビエト軍は参加せず、蜂起は失敗、ワルシャワは壊滅状態になった。
 ミハウの父は勇敢に戦って降伏後も生き残ったが、たびたび命を狙われたため、妻と赤ん坊だったミハウを郊外に移し、自分は別の場所に逃亡した。その後も時折母に手紙をよこし、パルチザンとして活動していると報告してきたが、やがて手紙は途絶えた。
 リサは煙草についた口紅の赤黒い色を確かめるように灰皿を見つめた後、おもむろに口をひらいた。
「多分、先生が言っているのとは違う」
「?」
「先生のお父さんが参加したのは、ドイツに攻められ、ソビエトに邪魔されたワルシャワ蜂起でしょう。私の父が参加したのは、ドイツに攻められ、世界から見殺しにされたワルシャワ・ゲットー蜂起のことよ」
 ミハウの背筋を緊張が走る。
 第二次大戦時にドイツ軍に集められたユダヤ人はゲットーに隔離され、絶滅収容所に移送された。ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちは戦うことを決意し、ナチスに対して武装蜂起を起こした。ドイツ軍に包囲されたワルシャワ・ゲットーのユダヤ人たちはまともな武器も持たず、劣悪な環境で、かつ退路はなかった。目の前には死しかない、その状況で彼らは1ヵ月近くも戦い抜いたのだ、恐らく自らの人間性と尊厳のために。
 リサは、あの虐殺の被害者の娘なのか?
「あの蜂起で、よく……」
「生き残れたわよね。数は少ない生存者のうちの一人だったってことね。父のことはよく覚えてないけど、記念日だか何かの日に『あの日、私は最後のユダヤ人だと思った』って言ってたのは、妙に覚えてるのよね」
「今ではどうなさっているんだい?」
「私が子どもの頃にいなくなったわ。確か五歳くらいだったと思う」
「……」
「置き去りにされた人間にとっては、いなくなった人間は死者と同じ。昔はそう思っていたわ。だけどあの午前零時の列車に乗って思ったの、私は父を覚えている権利があるし、父は忘れられる権利がないわ。だったら調べてみようって」
「足取りを追ったのか。新聞社に入ったのは、人脈をつくるため?」
「不純な動機だけど、それが全くないとは言い切れない」
「何かわかったのか?」
「海外組の記者で、フリーになった人がいるの。その人から先日、父がイスラエルに移住しているらしいって聞いた」
「君が五歳の時だったら、建国されて数年後だな」
「呼ばれたらしいわ。父も生き残ってしまって、罪の意識にさいなまれたんでしょうね。向こうに行けば、最後まで抵抗した英雄として生きていける」
「……君と、君の母さんを置いてか」
「そう。母は苦労して私を育ててくれた。私が父に対してどう思うかといえば、正直、分からない。昔は恨む気持ちもあったわ。でも、仲間を失って独りぼっちになったら、苦労して手に入れた祖国で安心して暮らしたいというのも分かるのよね」
「君の母さんは、どう思ったんだろう」
「母は看護師で、病院で父と出会ったのよ。傷ついている父を癒せればと思ったみたい。だけど母には荷が勝ちすぎたんでしょうね」
 ミハウはリサの表情を伺った。静かな目だった。
 自分の置かれた客観的に把握しており、怒りや情がないまぜになった自分の感情をよく管理しているようだった。
「他の国にいるかもしれないとは思っていたわ。私、『ヴォイドの痕跡』の発見者の一人ってことにならずに済んでよかったと思ってる」
「父親に発見されるのがいやなのかい?」
「それもあるわ。あとこの件は、見ようによっては、ホロコーストの被害者を庇った勇気ある人の痕跡を発見したのが、ワルシャワ・ゲットー蜂起の勇者の娘だってことになるでしょう。そんな目立ち方したくないわ」
 ミハウはリサの身上が新聞に書きたてられているところを想像した。まだ学生の身分だったし、これからジャーナリストになりたいと志望している時に、自分の実力とは関係ない名誉のラベルを貼られるのは嫌だろう。
「あと、母は父のその後を知らないはずだから、私たちを捨てた人が別の場所で英雄扱いされていると知ったら、傷つくような気がする」
「……君のお父さんは、イスラエルでは、平和に暮らしているんだろうか」
「表向きには。幸せになれるとも思えないけどね。肉親とかつての恋人と仲間を殺され、全てを失ったんだから。もしも加害者が全員処刑されたとしても、父が安らぎを得ることはない気がする」
「そうだな。イスラエルで家庭を持ったとしても、同じことを繰り返すだろう」
 ミハウが言うと、リサはつぶやいた。
「逆境にあっても、負の連鎖を断ち切る力がある人が多分、強い人なんでしょうね」
「……」
 ミハウが言葉を選んでいると、リサは新しい煙草を買いに席を離れた。ほどなく戻ってくると、何かをテーブルに乗せた。
「今日はこれを渡しに来たの」
 見ればトランクだった。調査の資料やメモをそこに詰め込んでいる。ミハウがいったん断ろうとすると、リサが言った。
「私が持っていると都合が悪いのよ。私はジャーナリストの仕事をもらい始めたんだけど、最近、同業の人が、家に入られた形跡があるってよく言ってる」
「スパイに侵入されたと?」
 二人は更に声を潜めた。
「恐らくね。私の家にも入られるかもしれない。その時に、これがあったら困るのよ。先生が全て調べたことになっているんだから」
 確かにメモはリサの筆跡だ。「ヴォイドの痕跡」を掘り起こす作業はミハウ一人で行われたことになっている以上、リサの家で発見されるのはまずい。
 ミハウが頷くと、リサは立ち上がって手を差し出してきた。ミハウは一瞬迷ったが、彼女の白い手を握った。細く柔らかい手はほのかな温かみがあり、ミハウは少しほっとした。
 去り際に彼女は振り返り、ミハウの目を見つめて言った。
「ねえ先生、ヤノシュ教授がいなくなる前、彼女に警告したの?」
 ミハウが答えられずにいると、リサは返事を待たずに去っていった。後にはトランクが残されている。ミハウはそのトランクが、最初に午前零時の列車に乗った時に落としたトランクであることを改めて思い起こした。
 本を詰めていた昔よりもずっと軽いトランクを手に提げてミハウが店を出ると、サイレンが鳴り響き、人々が静止した。8月1日のこの日はワルシャワ蜂起の日で、「W」と呼ばれる17時ちょうどの時刻、1分間動きを止めて黙祷を捧げることになっている。ミハウも歩みを止めて目を閉じ、かつて戦った父のことを思った。逆光で黒く塗りつぶされた彼のシルエットからは細く長い影が伸び、影に影が貼りついているように見えた。
 

 リサとの再会から数か月後、ミハウはアリシアと結婚した。大学教授になったミハウはアリシアの親族である政局の委員会の後ろ盾もあり、大学でも一目置かれるようになっていた。忘れっぽい世間は、ミハウを「ヴォイドの痕跡」の発見者というよりも、政局と強固なつながりのある教授ということで認識し、ミハウは権力者とより深くつき合うようになった。
 彼が出世していく間、国の自由は退行していった。国立科学アカデミーが発展し、ポーランド発の宇宙研究センターが設立される一方で、言論は制約され、ジャーナリストたちは弾圧された。そうした中、ミハウはリサのことを思い出すこともあったが、調べてみると、彼女は弾圧をくぐり抜けながら政局の矛盾を指摘し、自由を希求する記事を書いているようだった。ミハウはときおり胸の奥が痛むこともあったが、子供じみた郷愁だと打ち消した。家に帰れば美しくおとなしいアリシアが疲れたミハウを迎え、心地よい沈黙で彼を肯定してくれた。アリシアは何一つ不自由なく守られて育ってきた人間特有の優しさと親切さを持っており、ミハウは彼女から安らぎとゆとりを与えられ、家では悩まずにいられるのだった。
 やがて国は戒厳令を出し、ジャーナリストは徹底的な沈黙を強いられ、逆らうものは殺害された。ミハウはリサを庇うために連絡を取ろうとしたが、彼女はすでに海外へ発った後だった。それにリサは、ミハウが手を差し伸べたところで従ったとも思えなかった。なぜならすでにミハウは、はたから見れば弾圧する側の立場になっていたからだ。
 大学では日々誰かが放逐され、解雇され、打ち捨てられた。ある日研究室から自分のネームプレートがなくなり、名簿から抹消され、存在した痕跡は時と共に消え去った。ベロニカ・ヤノシュのように目立った言動がなくても、噂が流れ、単純に後ろ盾がなかっただけで排除の対象になった。密告の後、どこかに連れ去られ、行方知れずになったものもいた。ミハウはその様子を見ながら、なすすべもなかった。
 ある日、アリシアの母の容体が優れなくなり、アリシアは実家に帰っていった。彼女の母は倒れてそのまま意識が戻らず、帰らぬ人になった。要人の妻だったアリシアの母の葬儀には広く人が集まり、アリシアとミハウは対応に追われた。数日後、落ち着いた頃にアリシアは母の遺品を持ち帰ってきた。その中に入っていたものを見てミハウは驚愕した。それはロケットペンダントで、銀に縁どられ、中央にはエナメル細工で丸く花弁がたくさんある花が描かれていたのだ。
「きれいでしょう。父がソビエトにいた頃に母のために買ったそうよ。向こうのエナメル細工で、フィニフチっていうらしいわ」
 食い入るように眺めているミハウを見て、アリシアは言った。
「……これ、何の意匠だろう?」
 ミハウが尋ねると、アリシアは答えた。
「きれいな模様よね、それはロシアの国花、カモミールよ」
 震える手でミハウがペンダントを開けると、中にはミハウとアリシア、それにアリシアの父と母が写っていた。アリシアは涙の滲んだ瞳でそれを見ると、しみじみと言った。
「私たちの家族写真だわ。とても大事にしてくれていたのね」
 中に家族写真が入ったロケットペンダント。ミハウはその日は一日中気もそぞろだった。アリシアが眠った後、ミハウは仕事部屋へ行き、「ヴォイドの痕跡」の資料をひっぱりだした。リサから預かったトランクをあさり、最後の資料に行き着いた。するとメモとレポートの後ろに、黒い封筒に入った手紙がクリップで留めてあった。紙の感じから、他の資料より新しいように見える。ミハウは震える手で封筒を開けた。見覚えがあるリサの筆跡だった。
 
ミハウ先生
 
私は今、「ヴォイドの痕跡」に関連する資料をトランクに詰めているところです。
明日の8月1日、ワルシャワ蜂起の日に先生に会い、トランクごと渡すつもりでいます。それにあたって、二種類の手紙を用意しました。会った時の先生との会話から、どちらの手紙を入れるか選択する予定です。
手紙の一つは「先生がこの資料を見返さなくてすんだ場合」もしくは「単に昔の資料を当たることになった場合」で、その手紙は白い封筒に入れています。
今先生はこの手紙、つまり「先生がこの資料を見返さざるを得なくなった場合」の黒い手紙を手に取っていることになります。

私の推理では、午前零時の列車は時を超える力があった。
あの列車がどうやって生まれたのか、誰が作ったのか、何のために走っているのか、はっきりしたことは分かりません。
だけど先日、宇宙研究センターでは重力制御の実験の最中で、新しい場の理論を打ち立てようとしていると聞きました。
例によって人命を軽視するソビエトの研究者が来て、少ない予算でろくにテストもせずに実験しているそうだから、野良のタイムマシンができてしまったなんてことも、ありえないでもないと思います。
ほかにも一つ。この国で1922年に施行された「時に関する法律」では、「真夜中より前」「真夜中より後」という表現を使って「真夜中」を境界線にしているけれど、その境界線そのものはどこにも所属していないようにも読み取れる。どこにも属さない時間帯に定義できない乗り物が存在するというのは、強引だけどなんとなく納得できる気がします。
 
ともあれ、あの列車の乗客のほとんどは、過去の人間だった。
そしてヴォイドになりそうな人々を救おうとして、ナチスドイツの政権に殺された。
ここまでは、先生もある程度予感していたことだと思います。
そしてここからは、多分、先生が知らないであろうことを書きます。
 
最後の乗客はミハウ・マリノフスキ、つまりあなたです。
あの人は元の容貌が分からないくらい傷を負っていたけれど、あなたと同じ左右が違う透き通った目をしていたわ。
最後の列車は未来から来た。そして未来のあなたは、過去のあなたにロケットペンダントの存在を示した。
 
あなたの未来には、何が待ち受けているのか。
それはあの列車に乗っていた人々の末路から推測することができます。
彼らは収容所で殺害された。あなたもそうなるということなのでしょう。
できることなら、この予測は外れてほしい。
だけどあなたが今、この黒い手紙を手にしているということは、既に身に覚えのあることをしているのではないかと思います。
それでも私は、
 
 このページは、ここで言葉が終わっている。
 ミハウは思い返した。
 ナチスドイツによる「ヴォイドの痕跡」を明確にした自分は、現政権で周囲の人々が職を追われ、あらゆる人間関係から切り離され、全てを失うのを黙って見ていた。自分にはなすすべがないと思っていた。しかし、本当にそうだろうか? 自己保身のために何もしなかっただけではないか? 
 リサは自分の意志を貫いている。自分はどうだ?
 消極的な意味で、現政権によるヴォイドが生まれるのを手助けしたのではないか。
 リサは正しかった。ただその正しさは、今までの自分には届かなかった。
 
 ミハウはページをめくって最後の言葉にたどり着いた。そしてリサの正しさが今この瞬間、力を持ったことを確信した。
 
あなたが裁かれることを、あなたに望んでほしい。

文字数:23619

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