ゲームマスタ

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梗 概

ゲームマスタ

 墨谷ミレイは東京で大学を出たまま就職せずにフリーターとして暮らしていた。あるとき空が割れ、ゲームマスターを自称する禿頭の男が天に映写される。曰くこの世界はゲーム内世界であってプレイヤーがこの世界から脱出することを期待する。
 つまりは脱出ゲームであった。プレイヤーにとっての問題はこの脱出ゲームがいつ始まったのかということだった。自分たちは現実を生きる人間なのか、それとも生まれた瞬間から意志を持ったNPCなのか。
 その問いに対する答えを見つけるためにミレイは脱出ゲームの攻略に乗り出す。大学時代の友人と連携し、ゲームマスターによってプレイヤーに一丁ずつ支給された非殺傷拳銃で標的であるNPC(一般的な人間型であるが解像度が粗いように見えるためすぐにわかる)を撃ち、無事に攻略を果たす。
 目を醒ますと、いつも通りのアパート、バイト先があった。帰ってきたと確信して喜ぶ。だが、また空が割れた。禿頭のゲームマスター。
 また友人と連携を取り、攻略し――。
 何回かその手順を繰り返したが、友人の一人が「この世界がゲーム内世界だったとしても、現実と何も違わないのだから脱出する必要はない」と言い、攻略から降りることを宣言する。徐々にほかの友人たちも同調し、ミレイだけが攻略をつづける。

 そんな折、ショットと名乗る少女がミレイの前に現れる。ショットはこの脱出ゲームという永久機関そのものからの脱出を目指していると言い、その点でミレイと目的が一致していた。二人はチームを組み、脱出ゲームからの脱出を目指す。だが今までどおりの方法では意味がない。ではどうするか。
 ショットが提案したのは、この脱出ゲームの、玉ねぎ状になっている(であろう)ゲーム世界の外を目指すのではなく、内側――つまり玉ねぎの中心を目指すことだった。そこがこの脱出ゲームの始まりの地点なのだと。その方法もショットが明かした。手元の非殺傷火器で自身を撃つことによって、本来脱出するはずだった世界とは逆方向へ移動することができると。
 自身が知らないことを饒舌に話すショットに対して疑いの気持ちを抱きながらミレイはそれを実行した。
 目醒めると、そこはいつも通りの街の風景ではなく、玉座のような椅子が一つだけある小さな部屋だった。玉座の前に人が倒れていた。禿頭のゲームマスターだった。ミレイが横を見るとショットが銃を構えていた。ゲームマスターを撃ったのだ。言葉を失うミレイの横を通り過ぎて、ショットは玉座へ座った。ショットはその瞬間、脱出ゲームのゲームマスターになった。ミレイは反射的に銃を構えた。
 撃つ?
 ショットはミレイに微笑みながら問いかけた。
 撃ってもいいよ。そうしたら、今度はあなたがゲームマスターになるだけ。
 ミレイは引金を引いた。

文字数:1144

内容に関するアピール

 正義を志向するキャラクタを考えていくと、どうしても正義ではなくモラルの方向に転がっていくことを今回の梗概を通して実感しました。それはおそらくわたしが作るキャラクタが内的なものになりがちだからかもしれませんが、それ以上に、絶対的な正義を描くことが個人的に難しいのでは、と考えたからです。モラルであれば、そのキャラクタ個人のものとして絶対化できるだろうとも考え、その結果としてミレイはショットに従い、最後に騙されていたことに気づいて銃を向けます。それがミレイのモラルなのです。

 どうしても脱出できないものが世の中にあると思います。それは脱出しようともがけばもがくほどズブズブに沈んでいく性質を持っていて、別のアプローチをとらなければなりません。ではどのようなアプローチをとるのかでその人のモラルが判断できます。その場に留まり続けることも一つの手法です。ですがミレイは永久機関のような脱出ゲームを管理する側に回ることで己のモラルに殉じます。それは目を逸らさないということになります。ゲームマスターとは全てを見ることを余儀なくされる(目を逸らすことを禁じられた)立場でもあるからです。

文字数:489

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ゲームマスタ

    1

 そのとき、わたしは大学時代の友人三人と朝まで居酒屋でお酒を飲んで、帰路に着いているところだった。
 身体の気怠さを明瞭りと自覚していながら、頭はどこか居酒屋の高揚が残っていた。少し暑かった。蝉が鳴きだす時間帯でもある。昼頃には摂氏三十度を超えるだろうことを思って、うんざりしながら天を仰いだときに、わたしは例のものを見ることになった。
 空が、割れた。
 まず、達人の剣筋のように清廉された筋が一本生まれ、そこを起点に枝を伸ばすように亀裂が広がった。わたしは、まるで異世界の怪物か何かが産み落とされるための門みたいだと思った。友人たちとそういう話をしていたのだ。酒の席の他愛もない作り話として。でも、そうではなかった。現れたのは巨大な禿頭の男の顔だった。
 わたしは自分の目を疑った。朝帰りの小径で幻覚を見ることがあるのだろうか。だけど、禿頭の男は実在感があった。それもただの実在感ではなかった。わたしの周囲にある木やアパートや、林檎や犬など、この世界のすべてを凌駕する実在感だった。わたしは、わたし自身を決定的に否定された気分になった。
 ――その予感は正しかった。
 だが、一方で男は、どこか戸惑っているように見えた。芝居初心者がはじめての稽古に参加したみたいな雰囲気があった。小さく見えるのだ。しかしそれとは対照的に男の顔はどんどん膨張していく。最後には空一面が男の顔で埋め尽くされた。この世のすべてを一望するように目を大きく見開いた。
 男は口をだらしなく開き、何かを言おうとした。だが一旦その言葉を飲みこみ、目を逸らした。だがすぐに辺りを睥睨するように視線を戻し、一つ間を置いて、
「わたしはゲームマスタ」と名乗った。
 男の声に空気が震えた気がした。滑らかに回る口から発せられる声は、強権的な王のそれだった。
「わたしはゲームマスタ。あなたたちはこのゲームのプレイヤだ」

 あのときから、世界は変わった。あるいは、わたしが変わった、というべきかもしれない。どっちにしろ決定的な変化に遭遇したことには変わりがない。世界もわたしも崩壊してしまったと言っていい。ゲームマスタを名乗る男が話した内容は、まさにわたし自身を壊すものだった。男は、わたしをゲームの中の虚構のものだと言った。いや、正しくはそうではない。男はわたしの住む世界が虚構だと言ったのだ。だがわたしが感じたのはやはり、わたし自身が虚構存在であるということだった。
 男は続けた。現実に戻ってこい、と。この虚構世界から脱出しろ、と。
 特定のNPCキャラクタを手もとの銃で撃つこと。
 それが、このゲームから脱出する方法。
 男がそう言ったとき、わたしは右手に違和感が覚えた。見てみると、禿頭のゲームマスタと同じような実在感を放つ銃が握られている。ゴツゴツとした、人の話を聞きそうもないデザインだ。思いやりとか優しさみたいなものがすべて除菌されたような感じ。男は続ける。
「その銃は特定のNPCキャラクタをのみ対象にするものだ」
 そう言い終えると、空から男の顔は消えて、見かけだけの夏の朝が戻った。
 わたしは少しだけ考えて、一先ず家に帰ることにした。考えることがあまりに多かったし、そもそも考える必要のあることなのかという判断もできなかった。考える必要があるのだとすれば、まず先にすべきなのは、寝ることだ。わたしは一人暮らしをしている六畳の部屋に戻って寝床についた。夜中に一人起きてしまった子供が目を固く瞑るみたいにして、わたしは眠った。どうか全部幻であって欲しいと祈りながら。

    2

 枕もとに置いた携帯端末の音で目が覚めた。アラームの音ではなく、さっきまで一緒に飲んでいた友人の一人、ヨシトからの電話だった。時計をみると、正午を回るところだった。
「ミレイ? き……いや、見たか?」
 何のことかはすぐにわかった。夢じゃなかったってことを再確認した。だが、いくらか冷静になっている。
「見たよ」
「ニュースも?」
「いや、そっちはまだ」
「見て」
 わたしはわかった、と言いながら左手で衣服の下にあったリモコンでテレビの電源を入れた。緊急ニュースと称してキャスタがパニックにならないように呼びかけていた。だが、キャスタ自身の声が怯えのために細かく震えていて、むしろ逆効果じゃないかと思った。
『落ち着いてください』
 そういうキャスタの手には銃が握られていて、カタカタ揺れている。やたらめったら撃ちまくるんじゃないかと思ったくらいの動揺だった。
 だが、このキャスタの振る舞いそのものがわたしには嘘くさく見えた。まるで出来の悪いフィクションのキャラクタのように作為的に感じてしまう。
 当たり前のことだ。この世界が虚構なら、この世界の中のものはすべてが虚構だ。ゲームマスタはわたしたちをプレイヤだと言ったけど、わたしたちからすればステージの上のキャラクタだろう。
 信じられなくなった世界を信じるように促すキャスタの言葉を、わたしはどう受け止めるべきか、判断に迷った。キャスタが、そのように振る舞うためのNPCなのではないかという疑念さえ浮かぶ。
「どう思う?」
 ヨシトが言った。ニュースのことか、あの現象のことを指しているのか、わからない。
「どっち?」
「何が?」訝しそうにヨシトが言う。
「ニュースのこと?」
 ああ、とヨシトは納得するように呟いた。相変わらず勘がいい。
「いや……いや、まあ、両方だな。実際に見た?」
「見たよ」
「そっか、俺も見た。でもシロタさんとケイは寝ていて、見てなかったって」
 さっきまで飲んでいた面子の名前だった。
 ニュースでは、視聴者が撮ったという、空が割れて男の顔が現れる映像が映し出された。こうして見てみると、作り物めいていて、納得がいかない心持ちにもなる。まただ、とヨシトが言った。訊くと、この映像は先程から繰り返し流れているのだという。
「シロタさんもケイも、映像だけじゃ、信じられないってさ。けど……ミレイ、おまえ銃を持ってるか?」
 わたしは、眠ってしまうまえにテーブルの上に置いたものに目を向けた。
 銃は、当然顔でそこにあった。
 寝ていない頭だったから最初はわからなかったが、いまはもう少し銃に対する違和感が理解できた。要は、異様に鮮明なのだ。まるでそこだけ解像度が高いように、銃の周囲だけ明瞭りしていて、いやでも目についてしまう。それが、存在感の強さの理由だろう。
「あるよ」わたしはヨシトに言う。
「俺も持ってる。二人も持ってるって。だからぎりぎり信じられる、と」
「ああ、なるほど」
 手もとのこの銃だけが、この世界が虚構世界であるという非常識な話を証明しているのだ。
「で、どうする?」ヨシトが訊く。「この脱出ゲームに乗るか、乗らないか。どっちだ?」
「わたしに訊くの? シロタさんたちは?」
 ヨシトは少し黙った。どう言えばいいか、判断に迷っているみたいだった。
「二人は乗ると。でも、実際に見てないからか、かなりの部分、消極的だ」
 実のところ、わたしの答えはもう決まっていた。ヨシトの電話で目が覚めて、視界に入っていないのにその存在感だけで忘れさせてくれない銃があった。これは緩やかな諦念だ。第一、もうわたしはわたし自身を信じることが難しくなってしまっている。この不安定な形を、わたしはどうにかして安定させなくてはいけなかった。
「乗るよ」わたしは言った。
「そうか」ヨシトは深く息を吐いた。緊張で張りつめた糸が弛んだのがわかった。「おまえが、乗らなかったらどうしようかと思った。助かった」

    3

 ヨシトの呼びかけで、わたしとヨシト、シロタさん、ケイの四人で集まろうということになった。唯一部屋が複数あるシロタさんが場所を提供すると言い、わたしはそこへ向かうために外にでた。
 外は考えていたよりもずっと静かだった。おそらく、誰もが口を開くのが怖いのだとわたしは考えた。想定できないものが目の前に現れたとき、何を話すことができるのかわからない状態で、何も話さないという選択を取ることに間違いはないとも素朴に思う。
 朝に予想したとおり気温は高く、すぐに汗が滲んだが、それさえプログラムされたものなんじゃないかと思える。
 十五分ほど歩いて、シロタさんの家に着いた。インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。するりと、魚が清流を泳ぐみたいに、シロタさんの吸う煙草の匂いが流れてくる。
「久しぶり」シロタさんがジョークを言って笑った。「もう二人とも着いてるよ」
 おじゃましますと小さく言ってから、中に入って靴を脱いだ。わたしやヨシトたちとは違い、シロタさんの家は玄関から廊下が部屋へと伸びている。その部屋からケイがひょこっ笑顔を出した。遅れてヨシトも出てくる。ヨシトの笑顔だけ、少し硬いような気がした。
 ヨシトは四人の中では一番繊細だ。大学時代から周りに気を遣って、その場の空気を調整しようとしていた。わたしは部屋に入る間際に肩を軽く叩いてやった。お互いの緊張が交流したように、手のひらに熱が残った。
「それで」全員が椅子に座って向かい合うと、シロタさんが口を開いた。「どこから話そうか。まずここにいる全員がゲームに乗るという話でいいんだよね」
 わたしを含めた三人が頷いた。
「俺は直接見てないけど……脱出の条件はシンプルなんだろ」とシロタさんが続け、
「NPCキャラを――」ヨシトが後を継いだ。「銃で撃つこと」
 たしかにシンプルな話ではある。だけど簡単かと訊かれれば、そうではないだろうと思った。
「じゃあ、まず、NPCを見つけるところからだね」とシロタさん。
「それなんだけど……」黙ってタブレットを弄っていたケイが口を開いた。「ネットの書きこみでへんな人がうろついているって話がちょこちょこ上がってるんだよね、ほら」
 わたし達に向かってタブレットの画面を向けて、人が映った写真を指差す。
「……普通の写真に見えるけど?」シロタさんが言う。
「いや、これ。画質が変ですよ」ヨシトが言った。
 わたしもすぐに違和感に気がついた。映っている人物の輪郭はぼやけ、風景の中で揺らいでいる。
「端末で撮ったんだったら、これくらい普通なんじゃないの?」
 と言うシロタさんにわたしは、
「いや、それにしても変ですって。ほら、この生垣とかは鮮明じゃないですか」
「そうそう」ケイは頷いて、画面をフリックする。別の写真が表示されるが、そこに映る人物もどこかぼやけている。「ミレイとヨシトも言うとおり、これとかほら、これもだけど、こういう人の写真がどんどんアップされてるの」
 シロタさんはポケットから煙草を取り出して、火をつけた。吸い先がゆっくり赤くなって、口から煙が上った。
「うーん、じゃあ、この人たちがNPCだって言いたいわけだ」
 ケイがこくんと頷く。
「ちょっと強引じゃない?」
「わたしとシロタさんがこのゲームのことを信じたのって、この銃が――」ケイがテーブルの上に置かれた銃を指差す。「あまりに解像度が高いからじゃないですか。なら、対象もその法則に則っている可能性が高いんだと思います」
「この人たちを撃てば、ゲームクリア?」
「これを人だと考えるなら、ビデオゲームのキャラクタを人間だと捉えることになりますけどね」
 ケイはそう言って笑うと、シロタさんも、それもそうだなと頷く。だが、わたしには笑えなかった。その話をするならば、わたしたちが人間ではない可能性を考えなくてはいけなくなる。ヨシトの顔を見ると、こちらに気づいて苦い顔をした。彼も、わたしと同じように考えたのだろう。
「お……」とケイの端末を覗きこんでいたシロタさんが声を上げた。「みんな、これ」
 そう言うと、画面をタップした。ノイズに近い音声が流れる。画面を見ると、動画だとわかる。手ブレが酷いが先ほどの人間を映したものだとわかる。
 動画で見ると、画像よりも明らかに不自然さが増している。質の悪いコラージュ画像みたいだった。
 低解像度の男は、視線を宙に彷徨わせてただ歩いている。目的があって行動しているようには見えない。戸惑っているふうでもなくて、そこにいるだけという感じが強い。見た目も若くもなく、かといって歳を取っているようにも見えない。歪なバランスの上にいるって感じ。
 と、そこで画面外から銃を持った男が現れた。おい、という声が画面外から上がる。男の息は上がっていて、これから何をしようとしているのかは明らかだった。男が銃を持ち上げる。銃口は真っ直ぐに低解像度の男に向いている。弾けるような音がして、その後一瞬の間があった。低解像度の男が体を震わせる。映像では見えなかったが、銃弾が当たったのだ。解像度がどんどん下がり、ポリゴンのように粗くなって、崩れた。男は消えた。
 わたしは息を呑んだが、すぐに視線は銃を放った男の方に向いた。
 男も自分自身の体をまじまじと見つめている。早く自分の体になんらかの変化が起きないかと期待しているのだろう。周りの人間もそうだった。手ブレによって見づらかったカメラが、いくらかましになっていた。ヨシトも、ケイも、シロタさんも、わたしも唾の飲むのも躊躇われるぐらいに体を固めて続きを見ていた。そしてそれは起こった。
 男の体が揺れた。いや長時間露光で撮影した人混みの写真のように、男の体が重なり続けた。周囲の人間が叫ぶが、男は自身の体の中に取り込まれていく。やがて軽い発光を残してその場から蒸発した。映像はそこで終わった。

    4

 わたしたちの行動は早かったと思う。少なくとも、わたしの体感ではすぐだった。映像を見終わったわたしたちは、その映像の精査もそこそこにシロタさんの家を飛び出した。右手には銃があった。対象NPCを見つける必要があった。それに、ほかのひとたちとの早い者勝ちのレースでもある。無抵抗のNPCを撃ち抜くのに技術はいらず、どのように現れるのかは分からなかったが、現れた端から順にほかの人によって狙われているであろうことは間違いがなかった。
「あの撃った男の人が、本当にこのゲームをクリアできたのかは、わからないでしょう」
 ケイが何気なく言った言葉は一旦、棚上げにすることで意見が一致した。その可能性は当然あったが、それよりもまず対象NPCの数が有限かもしれないという不安が先に立った。わたしたちは、考えるよりも先に動いた者が勝つルールだと理解することにした。
 シロタさんの提案で、日時の確認だけはしておくことにした。二〇二二年八月三日。
「脱出が成功したとして、その先が何年の何月何日なのか、それがこの世界とどれくらい一致しているのか、対象NPCを探すまえに共有した方がいいと思う」
 そうしてわたしたちは街中を走りまわって、対象NPCを探した。もっとスマートな方法があったと思うが、何より気持ちだけが先に走っていた。爽快感なんて微塵もなく、何より焦りが背中を押した。対象NPCの数の不安と、それ以上に信じられなくなった世界から脱け出したいという感情が強かった。
 まあ、最初はこんなものだよ。
 対象NPCを探して走るわたしの背後で、誰かの声が聞こえた気がした。

 目を覚ましたわたしは、辺りを見回した。そこは見慣れた自室だった。記憶が混乱していて、何が起きたのかを思い出すために眉間を親指と人差し指で押さえる。割れた空と禿頭の男、銃、対象NPC……、頭の中で映像が次々に切り替わる。銃を撃ったときの反動が急に思い出されて、わたしは思わず肩をさする。微かな痛みがまだそこにいた。
 わたしたち四人は、ある一体の対象NPCを撃ったのだ。同時に、同じ対象だ。脱出後のことを考えると、そうする必要があると思った。一応の保険だけど、何となく正しいように思えた。ゲームならば、ルールがある。直接言及されていなかったとしても、ルールはルールだ。隠されているのなら、それを明かすのもゲームの一環ということになる。だから、一応の保険。
 ようやく、ゲームから脱出できたのではないかと思い至った。慌てて端末の時計を確認する。二〇二二年八月四日。朝だった。
 端末には三人からの留守電が入っていた。どれも笑い声が混じっている。わたしは三人に連絡を入れて、それからバイトのことを思い出した。今日はシフトが入っていたはずだった。店長に電話を入れると、入ってるよ、と言う。
「ですよね」
「何? もしかして、今日来れない?」少し心配そうな声が帰ってきた。
「いえ、出れます。少し寝すぎたみたいで、ちょっと頭が回ってないんで」
「ああ」笑う声がした。「そういうこと」
「最近なんか、変なことってありましたっけ?」
 少し悩んで、思い切ってそう訊いてみた。
「IHのガラスが割れた」
「本当ですか?」思わず吹きだしてしまった。保険をかけておいて良かったとも思う。「あれって割れるんですね」
「昨日の夜に割れたみたいなんだけど、ラストに残ってた二人とも知らないって言うからさ、不思議だよ」
「それは変な話ですね」わたしは笑いを噛み殺して言う。
「修理の人が来るのに数日かかるって……。あ、だから、隙間に水とか入らないように気をつけて使って」
「わかりました、では」
「はいはーい」
 電話を切ると、一気に肩の力が抜けた。なんとなく、帰ってきたんだという気分になったのだ。手のひらを見て、それから視線を滑らせて腕、肘、肩と回っていく。自分の体に実在感があるのをしっかりと確認した。深いため息が出て、ようやくベッドから出て、立ち上がった。そのまま洗面所で顔を洗って、冷蔵庫を開ける。麦茶を取り出そうと思って手を伸ばしたところで、コーヒーを淹れようと思って、コーヒーメーカのコンセントを差した。
 床に座って、ベッドにもたれながら淹れたばかりのコーヒーを飲んだら、少しだけ高揚が落ち着いた。当たり前、そのために淹れたのだから。コーヒーは濃かった。それもまた、当たり前のことだった。
 そうしているうちに、またうとうとしてしまった。時計を見ると、十五時。そろそろバイト先に行く時間だった。身支度をして、家を出る。電車の中で読む本を選ぶのに少しだけ悩んで、慌てて家を出る。少しだけ暑さがましになっていた。バイト先のうどん屋に着いて、バックヤードで着替えていると店長の叫び声がした。うわあ、間の抜けた声だったから、食材を床に落としてしまったのだと思っていると、遅れて聞き覚えのない嬌声がした。
 わたしは、わたし自身が嫌な予感を感じていることを、何故か一瞬だけ他人事のように感じた。
 次がきたよ。
 声がした気がして、あたりを見渡す。誰もいなかったが、いなくて当然だとも思う。そして、わたしは外へ向かって小走りでバックヤードを出た。
 空には大きな裂け目があって、わたしたちが空だと思っていたものがビニル製の球体であったことを突きつけてきていた。
「わたしはゲームマスタ」
 禿頭の男が言った。

 パニックの到来だった。再来と言い換えてもわたしの中で意味は変わらないけど、世の中ではそうではなかった。ニュースキャスタは、落ち着いてくださいと繰り返す。誰もが拳銃を片手にうろつく世界の到来だった。
 わたしはというと、自分でも驚くくらいに落ち着いていた。だが、諦念の色は今回の方が深い。一度持ち上げられた心は、もう一度落とすための予備動作でしかなかったのだ。自分の体が気持ちの悪いものに変わってしまったような感覚も、より強い形で帰ってきた。ここが自分の実家であるみたいな不遜さでわたしの体を占領する。先ほどまでコーヒーを飲みながら落ち着いていたのが不思議なくらいだった。
 でも、それでも落ち着いてはいた。きっと諦念の色は濃くなるほどに、人の心を穏やかにしていく効果があるのだろう。何もなければ、何かを失う心配をする必要がないことに似ていた。
 もう一度脱出に挑むべきか、という疑問が首をもたげて、わたしの前にゆっくりと立ちはだかる。それを押さえこむのには、こちらが意地にならなければいけない。少し悩んで、ヨシトに電話をした。
 数コール間を置いて、ヨシトが出た。声がいつもより大きいのが明瞭りとわかる。
「見た、わかってる」
 わたしは、ヨシトが何をわかったのかがわからなかった。
「何が?」
「いまちょうどケイからも電話来たところだった。かなり焦ってたけど」
「どうするって?」わたしは訊く。
「ケイが?」
「そう」
「とりあえず、一度寝てから考えるって」
 わたしは吹きだした。ヨシトの声にも少しだけ笑いが混じったのがわかる。ケイらしいといえばそうだが、それにしても限度があるだろう。頑健とはまた違った強さがある、とシロタさんなら言うだろうが。
「でも、正しい判断かも」ヨシトは空気を変えるために少しだけ声を低くした。「パニクって喚くより、よっぽど良い」
 それには頷いた。前回のわたしとヨシトも、一度寝たからその日のうちに行動ができたのだから。だがわたしたちが一度寝たのは、そうしないと頭が働かなかったからでもある。一方でケイは呑気の感がとても強い。
「そういえば、いま、バイト中だった?」
 ヨシトが話題を変えた。
「そうだけど、もう締めた。お客も来ないだろうって、店長が。だからもう家」
「じゃあ、シロタさんのとこに、また集まるか」
「ケイが起きてからね、ってことは、深夜になるのかな」
「なんだか、わくわくしてきたよ」
 自嘲気味な笑いとともに、ヨシトがそう言った。
「大丈夫」わたしはそう訊く。
「大丈夫だって、いや、どうかな。だがまあ、楽しんだ方がいいかな、っていま急に思ったから」
 本当に面白くなったのか、自暴自棄の一歩手前か。一体、どっちだろうか。
「ヨシトも寝たら? まだ、時間あるでしょ」
 ヨシトが、まあ、そうだな、と言って、電話を切った。余計なお世話だったかもしれない。わたしも楽しみ、とでも言えば良かったかも。そうやってヨシトが安心できるのであれば、そうする方が良いはずだ。でも、それならば、さっきのはやはり強がりだったということになる。
 わたしは、わかるはずのないヨシトの胸中ではなく、半端な時間をどう過ごすか、を考えることにした。
 一先ずは、食事だろうか。賄いを夕食の当てにしていたから、お腹は空いていた。冷凍のパスタソースがあったから、それで済ます。簡単な味だった。何故かそう思ったのだ。単純な味だったわけじゃなく、ただ簡単だな、と思った。多分、そう思うことで食事そのものに意識を向けようとしたのだろう。外を見ることなく、食べたかったのだ、わたしは。
 流しに皿を置いて水につけると、不意に禿頭のゲームマスタの顔が頭に浮かんだ。そういえば、今回のゲームマスタは、最初に比べて動揺の表情がなかった。慣れたのかもしれない。慣れるなんてことがあるのか、わたしにはわからないけれど。もしかしたら初心者だったのかも。不意に、学生時代にヨシトたちとやったテーブルゲームが思い出された。わたしが初めてゲームマスタをしたときは、ゲームにならなかった。全体のバランスを見ることなく、細かいところにばかり茶々を入れて場の雰囲気を悪くしたことがある。ケイなんかは、露骨に眉をひそめていた。あれは悪いことをした。すぐにシロタさんが、苦手な役どころだったな、と笑って変わってくれて、それで持ち直したのだ。
 きっとあのときのわたしは、禿頭のゲームマスタと同じような表情だったのだろう。目の前の出来事に途方にくれた、無力な人間のような。
 そこまで考えて、わたしは首をふって思考を遮る。一度シャワーを浴びて、気持ちをリセットする必要がある。自分が落ち着いているのか、動揺しているのか、わからなくなっている。どうにも奇妙な感覚だ。手で掬った砂が、指の隙間から零れ落ちていく感覚に近い。止める方法がなくて、その場に立ち尽くすしかない。
 服を脱いで、シャワーを浴びた。いつもより熱めのシャワーにして、頭頂部に当てる。息を吸って、吐く。鏡が曇っていくのを見て、安心した。もしここで鏡を見ていたら、わたしはわたしがわからなくなるところだった。それはとても、安定とはいえない。危険な状態だ。
 浴室から出て、服を着た。化粧をどうするか、迷う。結局、化粧水をぞんざいにつけるだけにした。このまま外に出ることはやはり抵抗があったが、鏡を見ることに比べたらまだマシだった。
 シロタさんから、連絡がきて家を出ることにした。静かな夜だ。歩いて、シロタさんの家に着く。インターホンを鳴らす。ドアが開いて、煙草の匂いがする。シロタさんが笑う――。
 まるでデジャヴだと思う。
 でも、そうじゃない。
 そんなわけ、ないじゃない。
 また、少女の声だ。この声は、何だろうか? わたしがおかしくなっていることを親切に教えてくれているのかも。この脱出ゲームに予めプログラムされた、プレイヤの精神状態を教えてくれるキャラクタだ。ウルトラマンのカラータイマみたいなもので、時間がないぞって、わたしに教えてくれているのかもしれない。

    5

 わたしは銃で対象NPCを撃つ。撃つ。撃ち続ける。撃ちまくる。辺りは真っ暗だ。ヨシトも、ケイも、シロタさんも、誰もいない。対象NPCは入れ替わり現れて、わたしの正面で立ち止まる。撃ってくれるのを待っているように。わたしの胸もとあたりをぼんやりと視線が漂う。
 わたしはだから、銃を構え、引き金を引く。
 対象NPCは安いポリゴンみたいになって、最後には崩壊していなくなる。
 そしてまた、別のNPCが現れる。
 もしかしたらわたしに見えていないだけで、わたしの前には対象NPCが列をなして、自分が撃たれるのを待っているのかもしれない。
 わたしはいつの間にか、目を閉じていた。どうせ目の前にいるのだから、見ないでも当てる。どこか適当な方に弾を放っても、NPCの方が勝手に当たりにくるかもしれない。それくらい単純な動作の繰り返しなのだ。目を閉じても誰も、何も、こまらない。
 もちろん、これは夢だった。
 はずだ。
 はずだった。
 そうでしょう?

 もうわたしは何回、禿頭のゲームマスタの顔を見たか、わからない。
 もうわたしは何回、銃で対象NPCを撃ったのか、わからない。
 もうわたしは何回、自分のベッドで目を覚ましたか、わからない。
 もうわたしは何回、コーヒーを淹れたのか、わからない。

 もうわたしは何回、わたし自身を疑ったか、わからない。

 十月になっていた。
 わたしたちは、脱出ゲームを繰り返していた。自分たちが一体何をしているのか、わからずに、それでも目の前に対象NPCが通ると、わたしたちは銃を構えた。そうして目を閉じて目を開ければ、また空が割れる。繰り返し。マシになったことは秋になって涼しくなったことくらい。
 最初に銃を置いたのは、ケイだった。
「撃っても撃っても、辿りつくのが同じ場所なら、もういいじゃないですか」
 わたしたちの前で、ケイは振り絞るようにそう言った。誰の顔も見ずに、銃を置いた目の前のテーブルをじっと見ていた。
「脱出を諦めなかったら、わたしたちはずっと、このままかもしれないんですよ!」
 ケイはゲームマスタの視線の下で暮らすことで、脱出ゲームそのものからの脱出をすることにした。わたしたちと訣別した。
 それでも、わたしは彼女が自死を選ばなくて良かったとほっとした。そのときにはもう、シロタさんもヨシトもわたしも、この脱出ゲームから逃れるには、死ぬしかないとわかっていたからだ。だが、それはできれば永遠に保留しておきたい選択肢でもある。わたしが、降りなかったのは、一重にこの死への欲望から逃げるためだ。その場に、虚構だと宣言されてしまった世界に、
 取り残されたら、
 留まってしまったら、
 きっと、わたしは逃げられないだろうから。
 降りる勇気がなかっただけだとも言える。ケイがいち早く降りることができたのは、彼女の強さだと言っていい。絶望と一緒に生きていくことを引き受けたのだから。わたしには取れない選択肢だ。
 シロタさんが降りたのは、そのすぐ後だった。ケイを置いて、その世界から脱出したわたしとヨシト、シロタさんはその先の世界で、その世界のケイと出会った。そのケイは脱出ゲームのことなんか、何一つ知らなくて、空を割って現れた禿頭の男には新鮮な驚きを示した。
 それは、かつてわたしたちが考えた「保険」が正しかったことを意味していたけれど、シロタさんにとっては、どうでも良い話だった。彼はそれがショックだと言って、降りることにした。
 それからしばらくは、わたしとヨシトでゲームを続けた。だが結局、ヨシトも降りた。のだと思う。ベッドで目覚めたわたしは、いつものようにヨシトに電話をしたが、出なかった。暫く試していたら、突然「使われていない電話番号です」とアナウンスされた。わたしは、わかった、と呟いて、端末を置いた。

    6

 わたしは、一人になっても対象NPCを撃ち続けた。止まらないために。
 なんでわたしは止まれないのだろうとも考えた。でも、それくらいしか考えられないから、止まれないのだろう。
 わたしはベッドから目を覚ましたままの姿勢で天井を見ていた。いまは悪くない気分だった。頭はまだ半分くらい夢の世界にいることがわかった。ぼうっとしていて、思考が言葉のステージには来ていない。ずっとこのままでいいと思うが、限界が来ることは分かっていた。暗いあの感情がわたしの背中を触るまえに動かなくてはいけなかった。
 インターホンが鳴った。珍しいことだったから、少しだけ驚いた。通販でなにかを買った憶えもないし、大家さんだろうと予想しながらドアを開けた。だが立っていたのは少女だった。
 それも、異様な少女だ。禿頭のゲームマスタや、銃のように圧倒されるような実在感が溢れていた。
 少女は余裕のある微笑みを顔に浮かべて、おはよう、と言った。
「入ってもいい?」
 少女は右手に銃を持っていた。わたしは彼女越しに外を見た。
 少女の背後のドアの枠から、割れた空とゲームマスタが見えた。わたしの手にも銃が現れた。
「あなた、何回目?」少女はわたしの脇のスペースをすり抜けて、部屋に入った。「思っていたよりも、綺麗にしてるのね」
 わたしは先攻を彼女にとられてしまったせいで、何を言えばいいのかわからなくなっていた。だが、なんとか持ち直す。
「あなた、誰?」
 少女は少しだけ間を取った。あくまでわたしのターンだと、主張するつもりらしかった。
「あなたこそ、誰なの」
「墨谷ミレイ」
 少女はにっこりと、こんどは目を細めて笑った。満足のいく答えを生徒から引き出した教師のような笑顔だった。どこにも圧迫するところなんてないのに、やけにプレッシャが強い。
「わたしは、そうね、ショットって呼んで」そう言って、腕を体のまえで軽く広げる。「ゲームにはIDネームが必要でしょ」
 本名を教えるつもりがないのだろう。だから、先にわたしに名乗らせたのだ。わたしは笑ってしまうのを我慢しながら、少女を眺めた。この場の支配者のように振る舞う姿は、玉座に座らされた子どものように滑稽だ。だが、笑ったらきっと彼女はそこを突いてくるだろう。だから、わたしは顔の筋肉をなんとかコントロールする。
 ショットは半袖の、ちょっと装飾過多に見えるワンピースを着ていた。白の女王。右手に握られた銃が随分ゴツく見える。きっと片手では撃てないだろう。
「さっきも聞いたけど」ショットはそう前置いて、わたしの手のひらの銃をちらりと見た。「あなたは何回めのチャレンジの最中なの?」
「脱出ゲームのこと?」
「ええ」それ以外になにがあるのかというように、ショットは微笑んだ。
「さあ」わたしは言う。「数えてない」
「そっか」ショットが頷いた。「考えるの、やめたんだ」
 失礼な少女だと思ったけど、その指摘は全く正しいから、わたしは何も言わなかった。表情を崩すこともしなかった。動揺した顔をして、彼女を喜ばせたくない。
「けど、これはそうなったら負けのゲームだよ」ショットが言う。「わかるでしょ。このゲームは永遠に決断を保留にしていたら、絶対に終わらないゲーム。終わらせるには、プレイヤは何らかの選択をしなきゃ」
「この世界で暮らせってこと?」
 それか、どこかから飛び降りるかだ。
 けれど、ショットは首をふった。露骨につまらなそうな表情を浮かべる。いらいらしているようにも見えた。
「あなたがそうしたい、っていうなら、そうすればいいけど」ショットがするりと腕を伸ばす。「そうじゃなくて、もっと根本的な解決が必要なんじゃない?」

 ショットは、つまり、わたしを誘いに来ていた。
 彼女はどこに座ろうか、と部屋を見渡して結局、わたしのベッドに決めた。バレエダンサみたいに滑らかに座るから、わたしは何か文句を言うタイミングを逃す。紅茶を要求されて、湯を沸かすためにコンロに火をつける始末だ。
「撃って撃って撃ちまくって、何か、変わった?」彼女は腕をふる。その動作は、わたしの目を惹きつける。「一緒に、このゲームからちゃんと脱出しようよ」
「……できるの?」
 そう口にしてから、わたしはしまったと思った。安易に何かを言うべきではなかったんじゃないか。
 ショットはにっこりと笑う。
「できるよ。その方法があって、実行する手段はもうある。だから、できる」
 あなたはどうする? とショットは試しているような目でわたしを見る。実際に、試しているのだ。
「その、方法って?」
「あなたにはこのゲームがどういうふうに見えてる?」
「どういうこと?」
「この――」ショットは銃を持った右手を頭の上で旋回させて、「世界の構造だよ」
 わたしはよく意味がわからなかったから、ショットから視線を外してやった。気のないふりだ。この話はここでおしまい、そういうサインを入れると、案の定ショットが踏みこんできた。
「玉ねぎとか年輪とか、そういうものを思い浮かべて」バウムクーヘンでもいいけど、とショットが言い添えた。「この世界はああいった重層構造になっている。どの層にも暮らしがあって、墨谷ミレイがいて、ゲームマスタが空を割る。脱出しようと対象とされるNPCを撃っても起こるのは別の層に移動するだけ」
「各層に、それぞれのわたしって? 並行世界とかそういう……」
 ショットがベッドから立ち上がり、わたしに顔を寄せる。
「そうじゃなくて、どの層にいるあなたもあなた自身なんだよ。あなたが複数いるわけじゃない。だから、移動しているっていうのは喩え――」
 正しくない喩えをされても困る、とわたしは思った。こっちは何もわからない状態なのに、いたずらに情報だけを増やされても処理できないだけで全くあてにならない。
「――とにかく、あなたが脱出できないのは、同じ玉ねぎの中で藻掻いているだけだから。考え方を変えなくちゃ」
 彼女がそう言ったタイミングで、湯が沸いた。ティーカップにインスタントの紙パックを垂らして湯を注いでからショットに渡すと、左手だけで受け取った。右手の銃は離そうとしない。
「……銃を置いたら?」
「気になる?」いたずらっぽく彼女が笑う。「別にあなたに向けたりしないわよ」そう言って、カップの中身の匂いを嗅ぐ。
 沈黙のターンだ。
 ショットは何かを知っているらしい、ということは認めるべきだとわたしは思う。それが何なのかが問題だった。ついていこうか、という方に秤が傾いているような感覚があった。
「脱出を諦めなかったら、わたしたちはずっと、このままかもしれないんですよ!」
 ケイの言葉が思い出された。
 たしかに、ずっとこのままだ。層の間を野良犬みたいにぐるぐる回るだけ。
「どんな方法なの?」
 わたしは、まだ匂いを嗅いでいる少女に向かって言った。ショットの視線がカップからゆっくりわたしに向いて笑う。けれど、すぐに真顔になった。
「その銃で、自分自身を撃つ」
「そうすると、どうなる?」
「玉ねぎの中からはじき出される」
「なぜ?」理屈がわたしにはわからなかった。だがショットは、
「それがルールだから」と言った。
「それがルール。このゲームのね」
 わたしは自分の分のカップからティーバッグを引き揚げて、流しに放った。べちゃ、と音がする。
「銃はわたしたちには効果がないんじゃなかった?」
「違う違う。大事なのは銃じゃなくて、自分で自分を撃つことなんだよ」
 ショットはそう言うと、カップをテーブルに置く。その代わりにわたしの銃を取る。
「はい」
 銃がわたしを待っているような気がした。わたしは手を伸ばす。自分の心が落ち着いているのがわかる。どうしてだろう? でも、悪くはない。
「あなたは、あなた自身を撃たなくちゃいけないんだよ」
 わたしは銃を手に取った。
 自分を撃つことでクリアできる脱出ゲーム。
 そんな簡単なことでクリアできるのか疑問だ。
 いや、簡単なことじゃないのかもしれない。
 少なくとも、言葉で見るほどは簡単じゃないと思った。
 わたしはゆっくりと銃を握って、この数ヶ月ですっかり慣れ親しんだ感触を確かめた。自分の右のこめかみに銃口を当てた。ゴチ、と音がした。
 ショットを見ると、頷きながら笑って、彼女もまた自分自身のこめかみに銃を突きつけていた。
 わたしは引金を引いた。実弾が入っているわけじゃないから、衝撃はしないはずだった。でも、とても強い力で頭が踏みつぶされるような衝撃がした。視界が回った。意識が途切れそうになる、その直前にショットのことを考えた。どうして、彼女はわたしのことを知っていたのか。どうして、わたしに話をしにきたのか。
 それは本来、最初にする話だったはずだ。でも、それをしなかったのはなぜだろう。
 何か答えを自分で出そうとした。でもそれには少しだけ時間が足りなかった。わたしは意識を失った。

 目を覚ますと、辺りは鉄臭かった。大学の教室を思い出す匂いだった。けれど、目を開けたらその連想は吹き飛んだ。
 ――血だまりがあった。
 男が一人倒れていた。よく知っている男――ゲームマスタ。
 血はゲームマスタから流れていた。白い床をひっくり返すように、流れる血の量は増えていく。ゲームマスタの背後には主を失った椅子があった。
 ここはどこなのか、立ち上がって周りを見て判断できる材料を探すが、大したことはわからない。
 白い部屋だ。大きな椅子が一つ、それで中身は全て。人が五人も入ればいっぱいになる、わたしの部屋より二回りくらい大きいだけだった。ショットが言ったとおり、いままでの繰り返しとは違う何かが、起きていることだけは確かだった。なにせ、ゲームマスタがいる。
「ここはゲームマスタの部屋だよ」
 わたしの背後で声がした。振り返ると、ドアを背にショットがいた。だけど、持っている銃は先ほどとは別のものだった。両手で持っていて、重そうだった。
 ゲームマスタの男の喉からは乾いた音が漏れていた。ひゅーひゅー。寒い音だった。声はない。見開いた目も、どこも見ていなかった。
「もう、死ぬね」ショットが呟くように言った。撃ったのは自分だと言うように、手もとの銃を揺らす。「ゲームマスタ交代の時間だよ」
 そう言って、ショットは椅子に向かって歩きだした。途中で倒れているゲームマスタの男を避ける。男はもう完全に死んでいた。椅子に座って、城下を睥睨する女王の目で、わたしを見た。
「いまから、わたしがゲームマスタだよ」
 そう言ってから手もとの銃を、わたしに投げて寄越した。
「あなたには、二つの選択肢が残されている。一つは、また一人のプレイヤとしてゲームの中に戻ること。もう一つは――」
 わたしは受け取った銃を眺める。さっきまで持っていたものと比べて、はるかに重い。本物のように見える。
「もう一つは、その銃でわたしを撃って、あなたがゲームマスタになること。その銃は、そうだね、唯一ゲームマスタを殺すことができるレア・アイテムって言ったところかな」
「なんでわたしを連れてきたの?」
「来たのは、あなただよ」
「そういうことをいってるんじゃない」声が少し上摺る。
「このゲームから脱出したかったんでしょ? それでわたしを撃てば、終わりだよ」
「あなたはプレイヤじゃない」
「それを指摘するのはもう、手遅れだ。ずっとずっと遅い」
「わたしは……、わたしこそ、ゲームのNPCなんじゃないの?」
 わたしの声はどんどん音量を増していっていたけれど、ショットの声は変わらずに落ち着いていた。まるで本当に女王のような落ち着きだった。
「それを私に訊くのは、間違っていると思うな。それはあなた自身の問題でしょ」
「わたしを、ここへ連れてきたのはあなたじゃない」
 堂々巡りだ、これは。なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
「そうやって、自分が何者とか、目の前の人物が何者とか、そういう考える時間はとっくに過ぎてるんだよ。気づいてないかもしれないけどさ。あなたはその時間を思考停止にしか使わなかったんだ。それをいまさら、何を考えてるの? 考える必要なんてないのに。ただ、選ぶだけ、それだけだよ、あなたがいまできるのは。戻りたい? それとも、わたしを撃って、あなたがここに座る?」

 わたしは銃を構えることにした。
 結局、わたしは最後までわからないものだらけのまま、終わることにした。
 わたしが何者なのか。ショットが何者なのか。
 わたしにはわからないことだった。
 でも、ヒントはある。わたしはそれに賭けることにした。それで、銃を構えた。
 元ゲームマスタの男の死体はいつの間にか、消えていた。それがヒントだ。わたしの知る限り、人間の死体は消えない。ゆっくり腐ったりしつつ、だんだんと空気中に溶けていくものだ。勝手に消えるのは、そう、ゲームの中だけ。わたしが行動を起こすのに、必要なのはその情報だけだと思う。
 わたしは引金に指をかけた。
 ショットが驚いた顔をしたのは、銃口が向いているのが自分じゃないからだろう。
 銃口はしっかりと、わたしのこめかみに当たっていた。たぶん、さっきとは比べものにならない衝撃がわたしの頭を叩くだろう。血が出るようだし、とても痛いかもしれない。さっきの禿頭の男は、とても苦しそうだった。
 でも、それでもだ。
 わたしはわたしを撃たなくてはいけないのだと、言ったのは、わたしの前に座る少女だ。その姿は、わたしの幼少期に似ている。だから、突然家にきた、名も名乗らない少女の話を聞いてやろうと思ったのだ。
 だから、わたしはわたしを撃つことにしたのだった。

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