メリークリスマス

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梗 概

メリークリスマス

ある地震の翌朝、明治神宮の清正井の水底に空洞ができていた。調査隊が潜ると向こう側に並行世界があることが判明した。日本政府は並行世界の日本を第二日本と呼び、秘密裏に調査をした結果、第二日本の社会には贈与の概念がなく、経済はおろか、親が子にミルクを与えるのも貸付として将来の介護費用にあてるなど、教育、福祉も交換・貸借の原則で成立していることが分かった。日本政府は第二日本を外交的支配下に置くべく経済を破壊することを決定し、スパイ(ギブオールズ)を送り込んだ。任務は贈与の概念を浸透させること。物をあげることやクリスマスなどの文化を根付かせることだった。

数年後、第二日本は不況に陥った。ストリートチルドレンが生まれ、贈与中毒を発症する者もおり、贈与禁止法案が制定されようとしていた。さらなる破壊活動を行うべく、警視庁公安部第二日本課の雄一郎はボランティアの任務を負い、妻・美奈子と息子・翔太(7歳)に別れを告げ、同僚の隆と第二日本へと向かった。

雄一郎はハチ公前でゴミ拾いを始める。
「何してるんですか?」と話しかけてくる男がいる。隆だ。
「ゴミ拾いです。これは社会への贈り物なんです」
「すばらしい」と隆は手伝う。
すると興味を持った人たちが次々と輪に加わる。こうしてボランティアを根付かせるのだ。

ある日雄一郎はモヤイ像前で物売りをしている少年を見つめ呆然としている。
〈翔太…まさかストリートチルドレンなのか…〉
雄一郎は販売を終えた翔太の後を追って解体途中のまま廃墟となった桜ヶ丘エリアに入った。雑居ビルの一室に複数の少年がいる。翔太に話を聞くと「父は数年前に出ていき顔も覚えていない、母は三ヶ月前に亡くなった」という。その夜から毎日雄一郎は少年たちに食事の差し入れを繰り返した。
三ヶ月後、雄一郎がパンを持っていくと翔太に瓦礫を投げつけられ腕に噛みつかれた。
〈これは贈与中毒ではないのか…〉
雄一郎は暴れる翔太をロープで縛った。症状が治まるまでこうするしかない…。

クリスマス二日前。ギブオールズのメンバーから伝令が入った。日本で南海トラフ大地震が発生し、大量の国家予算を割かなくてはならず作戦は中止、ギブオールズは引き上げることになり、並行世界の入り口は二日後に閉じられるという。

その夜、雄一郎は雑居ビルでおとなしくなった翔太のそばに座っている。
「おじさん、サンタさんて本当にいるの?」
「ああ、いるよ。何をお願いしたい?」
「お母さんがほしい」
雄一郎は無言で翔太を抱きしめた。

クリスマス当日。雄一郎はモヤイ像前で物売りをしている翔太の前に立つ。
「メリークリスマス。さっきサンタさんに会ったんだ。そしたら『君が翔太くんのお母さんになりなさい。翔太くんのプレゼントは君だ』っていうんだ」
「みんなはどうするの?」
「みんなも一緒だよ」
雄一郎は翔太をまっすぐ見つめる。日本にいる妻と息子に〈いつか必ず帰るよ〉と心に誓いながら。

文字数:1200

内容に関するアピール

ヒーローと聞いてパッと頭に浮かんだのが、危険を冒しながらプレゼントを配るサンタクロースの姿でした。“サンタクロースが弾圧されている”もしくは“サンタクロースがテロリストだったら”というのが最初の着想でした。「サンタクロースがプレゼントを配ることが反社会的行為、もしくはテロ行為である世界ってどんなだろう?」その問いから今の世界とは異なる価値観を持つ並行世界を舞台にスパイが贈与で破壊活動をするという設定が出来上がりました。

ところで僕はヘルニアと坐骨神経痛で、腰と右足が痛くて座ることもままならず、痛み止めをたくさん飲んでおり、毎日「痛い」「痛くない」「やっと痛くない」「まだ痛くない」「おっ痛くない」「そろそろ痛い」「まいった」と四苦八苦しているのですが、もし並行世界の僕がいるのなら「腰には気をつけろよ」とくれぐれも忠告したいですネ。逆に僕は贈与中毒にはなってみたいもんですがネ。などと。

 

文字数:395

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ダブル・クリスマス

《1》
 4時23分。東京湾を震源地とするマグニチュード7.1の地震が起きた。都内各地は最大震度6の比較的大規模の地震となったが、怪我人が十名ほど病院に運ばれた程度で、死者が出ることも津波の心配もなかったことから、当日のニュースは粛々と「余震に気をつけてください」と、必要以上の危機感を煽るようなものではなかった。
 その日の朝、明治神宮の宮司である村上はいつものように5時に起床する予定だったが、突然の地震で飛び起きた。ガタガタ震える寝室の窓に、しずまれしずまれ、と焦りながら心で唱えたおかげか、しばらくすると何事もなかったかのように寝室は静寂を取り戻した。胸をなでおろした村上は三十分ほど眠りを損した気持ちになったが、カーテンの隙間から夏の夜明けの青白い光が差しこんでいるのを見て、このまま起床することにした。顔を洗い、髪の毛を整え、軽い食事をすませると、日課として毎朝行なっている神宮域内の散歩を始めた。

 参道の玉砂利の音を独り占めできるのは村上の特権だ。自分ひとりだけの乾いた足音を気持ちよく耳のまわりで遊ばせながら、悠々とした気分で御苑に入り、水を一口飲もうと清正の井に近づいていくと、異変に気付いた。水を張った甕が粉々に砕け、底に敷き詰めていた小石が抜け落ち、水面が渦を巻いているのだ。村上は自分の目を疑い、しばらく凝視していたが、やはり渦を巻いている。覗きこむと、水底にぽっかりと暗い穴が空いている。加藤清正公が掘ったというこの井戸は、そもそもこんなに大きな穴が空いているわけではない。それに湧き水が渦を巻くなんて聞いたことがない。パワースポットとして名高いこの井戸になんてことが起きてしまったのだ。どう考えても地震の影響に違いない。甕も壊れているし、渦も巻いている。今日はこの御苑を立ち入り禁止にしよう。そう決めた宮本は9時頃になると、知り合いの東大教授である地質学者の浜田に電話をして、調査してもらうことに決めた。

 その日の午後、調査に訪れた浜田は甕の欠片を丁寧に取り除き、渦を巻く井戸に水中ゴーグルをはめて顔を沈め、水の中を見た。しかし空洞の奥底は暗くて見えない。どのようなメカニズムで渦を巻いているのだろう。どうしたら人が入れるくらいの大きな穴が垂直に空くのだろう。巨人が拳でひと突きして穿ったのではないか、と冗談でも言いたくなる。
「人工的ではないのが不思議です。井戸の下だけこんなまっすぐ大きな穴が空いているなんて。もしかしたら底に何か大きな洞窟があるのかもしれないですし、どこかにつながっている可能性もあります。ダイバーを呼んで中を調べさせましょう」
 翌日、浜田は三名のダイバーを清正の井に呼び寄せた。簡単な概要を三名に説明したが、詳しいことはわからないから君たちの力にかかっている、とハッパをかけ、浜田は早速一人目のダイバーを潜らせた。

 十五分後、渦の中心から頭を上げたダイバーはフルフェイスマスクを外して大きく息を吐くと、目をパチクリさせておかしなことを言った。
「体がビリビリしました」
「はあ?」
 浜田は顔をしかめた。
「そのあと気を失いました」
「何を言ってるんだ?」
「すみません…意識が戻って水面を目指して上がると、泉に出たんです。泉はここと同じような森の中にあって…」
 ダイバーは急に自信なさげに言葉を濁らせた。
「ちょっと冷静になって、もう一度説明してくれ」
「はい。5分くらい潜っていくと渦が強くなったんです。すると急に体がビリビリし始めて、マズいぞって思ったら気を失ってしまいました。おそらくものすごい速さでまっすぐ流されていったのではないかと。気がつくと渦の流れが弱くなっていて、体が上を向いていました。見上げると水面が明るく輝いていて、まっすぐ上がっていくと小さな泉に顔を出しました。辺りを見渡すと森が広がっていました…」
 浜田はため息をついた。こいつは無能に違いない。なんてヤツをダイバーに選んでしまったんだ。
「どうやって帰ってきたんだ?」
「実は帰って来れるかどうか怖かったんですが、もう一度潜ると同じように渦に巻きこまれて、体がビリビリして、気を失って、気がつくと渦が弱まっていて、また体が上を向いていて…そのまま上がっていくとここに顔を出したんです」
「正気か、君は?」
 浜田は苛立ちを隠せなかった。
「何が起きているのかよくわからない。君も行ってみてくれ」
 浜田はもう一人のダイバーに指示を出し、井戸を潜らせた。
 十八分後に戻ってきたダイバーは、
「向こう側には泉があります。渦が強くなって、体がビリビリして、気を失って、気がつけばそこに…」
 狐につままれたような顔で言った。
「まっすぐ潜ってかね?」
「まっすぐ、ただひたすらまっすぐ潜りました」
 浜田は髪の毛をかきむしった。
 意味がわからない。意味がわからないことなど、学問を始めてからめったに出会うことはなかった。ダイバーの発言をどう理論づけていいのかわからないし、イメージすることすらできない。
「君も行ってみてくれ」
 浜田は最後の一人を潜らせた。
 十五分後…
「この奥は地上につながっています。森の泉に出ました」
「井戸の様子はどんなだった?」
「ゴツゴツした岩肌が続いていて、水中は渦が強くて、体がビリビリして、気をうしなっ…」
「わかったわかった! もういい!」
 浜田はダイバーの言葉を途中で遮った。
 何を言っているのだこいつらは。こいつら全員バカなのか、それとも地球がバカになったのか? 何をどう理解すればいいというのだ。
「今日は終わりだ!」
 浜田はこれ以上調査を繰り返しても仕方がないことがわかった。この三名の意味不明の証言からなにを引き出し、どのように推測すればいいかさっぱり見当がつかない。地質学の範疇を超えている。
 浜田はわずかばかり思案すると、他の教授連中に相談してみることにした。
「ひとまず、ここは立ち入り禁止を続けてください」
 浜田はじっと後ろで立ち続けていた宮本にそう告げて、その日は引き上げた。
 数学教授、理論物理学教授、天文学教授、宇宙学教授、海洋学教授…、誰に相談していいかわからないが、片っぱしから訊いてみよう。
「渦を巻いているのは私の頭の中だ、まったく。とんでもない案件を引き当てってしまったよ」
 浜田は深いため息をつくと、森の蝉の大合唱が頭に響いてきて、頭が割れそうになった。

《2》
 三年後。7月の中旬だというのに十日連続で猛暑日が続いていた。
 警視庁公安部第二日本課の会議室に呼び出された橘雄一郎は、額の汗をハンカチでぬぐいながらドアを開けると、誰もいない部屋で天井からゴーゴーと音をたてるクーラーの風が直接あたる席を選び、腰かけた。
〈俺一人だけか。何の用件だろう〉
 会議室には課長の竹田が待っていた。
「よく来てくれた。まずはこれを読んでくれ」
 竹田が雄一郎の前に書類を差し出した。
「君の知っている内容も多いと思うが、初めて知ることもあるだろう」
 雄一郎は書類を手にし、
〈書類を読ませるのに紙を使うなんて、俺の職場は遅れてるなあ〉
 雄一郎は相変わらず古いやり方を変えようとしない官庁の仕事に辟易としながら書類に目を通した。

【第二日本における活動概要と今後の対策】
1〈第二日本発見の経緯〉
 2032年8月3日早朝。東京湾の地下3.1kmを震源としたマグニチュード7.1の地震の影響で、明治神宮の御苑にある清正の井の水底に原因不明の空洞ができ、水面が渦を巻いていた。地質学者をはじめとする東大学者チームが調査した結果、穴の向こうに並行世界とおぼしき日本を発見した。報告を受けた日本政府は調査の続きを政府主導で行うことを決め、警視庁公安部が偵察活動を担うこととなった。
 日本政府は並行世界にある日本を〈第二日本〉と呼ぶことにし、同年10月、公安部に第二日本課が新設され、第二日本の本格的な調査、および偵察が開始された。最初の偵察でわかったことは、明治神宮の森が単なる広大な森となっており、明治神宮は存在しておらず、森には人の立ち入りがないということである。

〈第二日本の社会構造〉
 第二日本には神社や寺、教会の類は一切ない。つまり神がいない。また、社会には贈与の概念がない。すべての生活行為が売買と貸借を原則とした経済活動に集約されている。一般的な商業はもちろんのこと、教育・福祉に関しても同じである。子どもを育てる際、赤ん坊にお乳を飲ますのも、おもちゃを与えるのも、学校へ通うための費用もすべて子どもへの貸与として記録・管理され、その分の金額が老後の年金および介護費用に充てられる。それが愛の証として考えられており、その循環は完全に機能している。人に物を贈る行為、プレゼントの習慣はなく、父の日、母の日、バレンタイン、クリスマスなどの記念日もない。それは贈与を排除した社会を構築しているということではなく、贈与そのものを知らないのである。

〈日本政府の第二日本への方針〉
 第二日本を日本の経済成長のために有効活用できないかと考えた日本政府は、第二日本を外交的支配下に収める計画を立てた。計画の骨子は、まず第二日本の経済を破壊すること。次に、経済が破壊された第二日本に外交団が乗りこみ、日本に有利な通商条約を結ぶこと。そうして第二日本の経済の実権を握ることがロードマップとして敷かれている。
 第二日本の経済を破壊するために最も有効な手段は贈与の概念を第二日本の社会に植え付けることである。日本政府から指令を受けた我々第二日本課は三十名のスパイを選抜した。スパイは第二日本に生活者として浸透し、日常生活の中で物をあげることやプレゼントを繰り返し、父の日、母の日、バレンタイン、クリスマスなどの文化を作り上げる。
 スパイは第二日本に贈与の概念を浸透させることで、第二日本人の経済活動を破壊し、生活を混乱に陥れることを任務としている。その作戦名を〈ミッション・ギブオール〉、そのメンバーを〈ギブオールズ〉と呼んでいる。
 我々はそのミッションに三年かけてある程度成功した。完全に根付いたとは言えないが、国民の多くが違和感なくその文化を受け入れている。第二日本は贈与の概念が流入したことにより、経済の循環が崩れ、大きな不況に陥っている。それまで存在しなかったホームレスやストリートチルドレンも生まれ、中には贈与中毒という症状を発症する者もいる。これはプレゼントに慣れていない人たちが、物をあげること、もらうことで起こる脳の障害である。こうした状況への対抗策として、第二日本政府は半年前に贈与を法律で禁止しようと、贈与禁止法法案を国会に提出した。しかし多くの国民はその法案に反対しており、現在、ギブオールズの一部のメンバーは贈与禁止法の反対デモ活動を主導している。

クーラーの強風ですっかり汗のひいた雄一郎は、書類から目をあげた。
「ええ、すべて知っている内容ですね。で、私はなんで呼ばれたんです?」
「ギブオールズに選ばれたんだよ」
「私が?」
「ああ」
 雄一郎もそういうことだろうと思っていたが、はっきりと聞くまでは認めたくなかった。
「君の任務はボランティアだ。街のゴミ拾いを行い、奉仕活動が社会への贈与だということを根付かせてほしいんだ。第二日本の詳しい状況は向こうにいるメンバーとの最初のミーティングで聞いてほしいのだが、第二日本の経済はほぼ破綻しかけているようだ。そこでボランティア活動が破壊活動の第二波として大きなインパクトを与えうるものだと我々は信じているんだ。ま、時間はかかるだろうがね」
「どれくらい行けばいいんです?」
「三年、と言いたいところだが一年にしておこう。君には家族もいることだからね」
 雄一郎は、ありがとうございます、とは言えなかった。本当は行きたくないのだ。ギブオールズは単身者が主で、配偶者や子どものいる者は二、三割しかいない。それを多いと取るか少ないと取るかは人それぞれだが、雄一郎はできればこの日本でこれまで通り、ギブオールズたちが持ち帰ってきた偵察内容の分析・検証・レポーティング業務を続けていたかった。
「君は今までの業務で第二日本を熟知しているだろう。その知識が向こうでの活動におおいに役立つんだよ。我々としては君が適役だと思っている。それに今回潜りこむのは君ひとりじゃない。太田隆も一緒だ」
「隆もですか」
 隆は第二日本課にいる唯一の同期だった。
「いつからですか?」
「これからダイビングの訓練を4ヶ月ほどの間受けてもらう。出発は12月を予定しているから、それまで家族との時間を大切にしてくれ」
「ありがとうございます」
 建前ではあるが、雄一郎は初めて感謝の意を告げた。
「潜入に関する詳細は、追ってまた連絡するよ」
 そう言って竹田は机の上の書類をサッと取り上げ、そそくさと会議室を出て行った。
 雄一郎は会議室のドアが閉まる音を聞くと、虚脱したかのうように途端に姿勢を崩した。椅子からずり落ちそうなほど浅く腰かけ、死んだ魚のような目で天井を見上げ、しばらくなにも考えられずにクーラーの風の音をぼうっと聞いていた。

《3》
 12月3日。渋谷区の閑静な住宅街に七年前に購入した2LDKのマンションのリビングで、雄一郎はすき焼きをたらふくを腹に入れて、三本目の缶ビールを開けていた。
 明日の夜11時、雄一郎は第二日本に潜入する。明朝警視庁に出勤すればそのまま帰宅することはない。今夜が家族で過ごす最後の夜だった。
「コスタリカって暑いんでしょ?」
 妻の美奈子はテーブルの片付けをしながら雄一郎に声をかけた。
「みたいだね。ハンカチじゃなくタオルがいりそうだ」
「あなたに務まるかしら、暑い国。この夏ですらまいってるのに」
 美奈子は任務のことを知らない。第二日本が存在していること自体トップシークレットであり、公安部第二日本課も公にされていない。そのため第二日本課に所属していることも家族に秘密にしなければならず、雄一郎は海外ネットワーク課という珍妙な課に所属していることになっていた。今回の任務はコスタリカの治安向上を目的とした警察組織の構築支援という名目だった。
 雄一郎は美奈子に秘密にしていることに少しばかりの罪悪感に苛まれると、急に眉間がむずむずし、目頭も目尻も瞼も額もしわくちゃになるほど目をギュッと閉じた。
「あなた、その癖、コスタリカの人たちにもバカにされるんじゃないの?」
 美奈子がくすくす笑った。
 雄一郎にはなぜだか子どもの頃からときどき眉間がむず痒くなり、目をクシャッと閉じる癖があるのだ。
「大丈夫だよ。コスタリカの太陽はきっと日本よりも眩しいから、みんな目を細めてるだろ」
 雄一郎も低く笑った。
「ねえ、翔太。明日からお父さんお仕事でいなくなっちゃうのよ? ちゃんとお話ししなさい」
 美奈子はNintendo DS FireBirdという最新ゲーム機に夢中になっている翔太の手をこづいた。
「こっちを向けよ、翔太」
 雄一郎も優しく諭した。
「翔太、さみしいんでしょ?」
 美奈子は意地悪そうな表情で翔太を覗きこんだ。
 すると翔太はふてくされた声で、
「そんなことないよ」
 と返事をしてゲームをテーブルに置いた。
「どれくらいいなくなるの?」
 ぶっきらぼうだが、翔太の声には不安そうな響きがこもっている。
「一年。ごめんな長いこと会えなくて」
「じゃあ、来年のクリスマスには帰ってこれるんだね」
「そうだな、今年はママと二人で過ごしてもらうことになるけど、来年は一緒にいられるよ」
 雄一郎が答えると、翔太は途端に元気がなくなった。まだ7歳の翔太には一年という年月がどれくらい長いのか正確に実感できないでいたが、今年のクリスマスから来年のクリスマスまでが長いということはなんとなくイメージできた。そしてそれが1年の重みだということをぼんやりと感じていた。
「それまでママを頼んだぞ。わがまま言っちゃダメだぞ」
 雄一郎が微笑みかけると、翔太は、
「わかってるよ、うるさいな」
 と乱暴に言い放ち、最近ハマっているアニメ『のら猫帝王ジェット』に出てくる人気の猫魔導師の真似をしてわざとらしく体をくねくねと動かした。自身の寂しさをどうにかして茶化したいのだ。
「ほらあ、そんなことしちゃダメでしょ、バカばっかりやって」
 美奈子が言うと、
「ビビビビビビー」
と猫魔導師が杖を振る時の声を真似して、再びNintendo DS FireBirdを手に取りゲームを始めた。
 雄一郎は美奈子と顔を見合わせた。お互い、優しい眼差しをたたえている。二人は見つめあったまま温かい気持ちになった。
〈俺はこの幸せからいなくなるのか。この仕事で本当によかったのかな。美奈子は翔太の前で寂しそうなそぶりを見せることはない。しっかりママの顔をしている。頼りになるよ。すまないがこの子を頼む〉
 ビールグラスの霜を親指でこすりながら心の中で呟くと、
「美奈子、ありがとうな」
 残ったビールを一口であおり、腹から大きなため息を吐いた。そのため息にはやるせなさやどうしようもなさ、切なさが目一杯込められていたが、同時にわずかばかりの決意が滲んでいることに雄一郎自身も気づいていなかった。

《4》
 豊かな生態系を誇る森なのに、真冬の夜には動物の気配すら感じられない。静まりかえった明治神宮の暗い森の中、渦を巻く清正の井の水面に白い三日月がいびつな形で揺れている。その弱々しくも不穏な光を囲むように、寒さに震えた三人の男が立っている。ウェットスーツを着こみ、圧縮空気タンクを背負った雄一郎と隆、それにスーツの上にダウンジャケットを着こんだ竹田だ。
 寒さに耐えられないのか、何度も腕時計を確認してはポケットに手をしまっている竹田は、予定の時間が来るとすぐさま、
「23時になった。よろしく頼む」
 と歯をカタカタ鳴らせて言って、ポケットに手を突っこんだ。
「了解」
 寒さか武者震いか、雄一郎は一度身震いすると、フルフェイスマスクを装着し、着替えを詰めた防水バッグを腰にセットし、背中から井戸に体を沈めた。
 冬の井戸水の冷たさは体が凍ってしまいそうだ。岩肌に手を添えながら下へと潜っていくと穴は次第に大きさを増していった。足をゆっくりと振ってさらに潜っていく。額につけたライトが空洞の地肌を白く照らしている。渦の力は弱く、潜ることに抵抗は感じない。しかしそれでも照明の光が届かない真っ暗な奥底に多少の不安を感じていると、皮膚にチリチリと微弱な電気が走る感覚を覚えた。事前の情報でこうしたことが起きることを知っている雄一郎は、
〈ハイパー銭湯の水風呂と電気風呂を足したようなもんだな〉
 と、冷静にその皮膚感覚を味わった。
 さらに沈潜していくと渦の力が増していき、雄一郎はキックにゆっくりとだが力をこめた。全身の皮膚に伝わる電気がどんどん強くなり、筋肉までもが微細に震えだす。しかしまだ大丈夫だ。雄一郎はその感覚を確かめながら潜っていく。電気の強さがさらに増し、痛みを感じるまでなると、雄一郎は歯を食いしばった。痛い。そして2、3回キックをしたところで、突如雷に打たれたように強力な電気が体じゅうを駆け巡り、意識を失った。

意識が戻ると、体が上を向いていることに気がついた。しかも渦は弱まり、下方に向かっている。
〈俺はどこに向かってるんだろう。もしかしたら清正の井に戻るのか?〉
 体にまとわりつく電気が徐々に微弱になっていくのを感じながら、雄一郎は頭上へと泳いでいった。
 数分後、水面から頭を出した。フルフェイスマスクを外し、水の中から這い出て辺りを見回すと、暗闇の中でも鬱蒼とした森が広がっているのがわかる。立ち上がって振り返ると、そこには泉がある。清正の井よりも一回り大きいくらいで、水面は渦を巻いている。見渡しても隆も竹田もいない。神宮の森に似ているが、やはり違うようだ。これが第二日本ということらしい。徐々に実感を深めていると泉の水面が崩れ、隆が顔を出した。雄一郎は隆に手を貸して、泉から引きあげた。
「ようこそ、第二日本へ」
 雄一郎はフルフェイスマスクを外した隆に笑いかけた。

「こっちの冬も寒いな」
 隆が体を震わせながらウェットスーツを脱いでいる。
 雄一郎も腰につけていたバッグから衣服を取り出し、
「俺たちは夢を見ているのかもしれないな。みんなで同じ夢を。ここにすでに潜入しているメンバーたちも全員、共通の夢の中にいるのかもしれない」
そう言いながら黒いセーターを着こみ、圧縮してあったダウンジャケットをバサバサと振り、空気を含ませて元の形に戻した。
 体がビリビリして意識が遠のいた。あそこで何が起きたのだろう。そしてここはいったいどこなんだろう。東大の教授連中も仮説を提唱するばかりで、この世界の存在を証明してくれはしない。しかしそもそも理論的な証明などなんの意味もない。この足で立っている大地がある。清正の井がない森がある。それだけが真実だ。第二日本に俺たちはいるのだ。
 ダウンジャケットを着こんだ二人は、高感度で赤外線を視認できる軍用ナイトビジョンコンタクトレンズをつけた。視界がビビッドな緑のグラデーションで浮かび上がり、二人は林立する木々の中をゆっくりと歩き始める。パリパリと枯葉を踏む足音の遠くから、なにかの野生動物の甲高い鳴き声が聞こえてきた。
〈よそ者がこの森に紛れこんでいるのがバレたかな。まずはこの森を出ることだ〉
 雄一郎はワイズウォッチ『サイバーパンク』を三度タップした。瞬時にコンパスアプリが起動して、赤外線コンタクトレンズの膜にARのコンパス針が方位を示した。
「あっちだ」
 雄一郎は隆に行くべき方向を指し示した。
 闇深い森の中、二人は頬を突き刺す冷たさだけを感じながら、足元を確かめるように歩いていった。

《5》
 森の終わりまで来ると、代々木体育館らしきものが道路の向こう側に見えて、二人は目薬をさした。二度、三度まばたきをするとコンタクトレンズが溶けていき、途端に色彩が蘇ってくる。オレンジ色の街灯の明かり、灰色のアスファルト、白いガードレール、遠くのビル群、その陰影。雄一郎は街の入り口にたどり着いたことにささやかながら安堵した。このまま道なりに歩いていけば公園があり、大きなケヤキ並木通りがある。その並木通りの右手に代々木野外音楽堂があり、NHKがある。交差点に突き当たれば公園通りが始まり、坂を下れば渋谷駅がある。自分のよく知っている東京だ。なのに雄一郎は安堵の中に、不思議な違和感を感じていた。よく知っている街なのに、自分が異国に迷いこんだかのような気持ちがするのだ。地図すら描けるほど見慣れているのに実は初めて足を踏みいれる街。雄一郎の胸に好奇心がふつふつと湧いてきた。
「行こうか」
 遠い目をしていた隆が気持ちを切り替えるように言った。
 隆も雄一郎の隣でしばらくこの森の終わりから見える夜の景色を眺めていた。新たな未知が始まるこの瞬間を目に焼き付けておきたかったのかもしれない。
 二人は道なりに歩き、公園に入ると街灯の薄明かりに巨大な墓石のように浮かび上がる代々木野外音楽堂の手前で立ち止まった。ステージに向かっていくつも並んでいるベンチの一番外側に男が三人、体を丸めて座っている。
〈寒い中、待たせたな〉
 二人は男たちに近づいていった。
「メリークリスマス」
 雄一郎が話しかけると、男たちはいっせいに二人を振り返った。
「メリークリスマス」
 男たちが口々に言葉を返して立ち上がった。
 メリークリスマス、それがギブオールズの合言葉だった。

二人はギブオールズのメンバーと向かい合ってベンチに腰かけた。
「俺たちはボランティアを行うために来ました」
 隆が話の口火を切った。
「ああ、聞いているよ」
 三人のうち真ん中に座った、茶色いダッフルコートから太くて短い首を出した髭面の男がそっけない声で返した。公安部第二日本課には日本と第二日本を行き来する伝令専門のギブオールズがいる。だから五人はここで落ち合う約束ができたのだ。
「長話をしてもなんだ。用件だけ話そう」
 男は神経質そうな目で二人を交互に一瞥した。
「俺たちは主にハチ公前と国会前で贈与禁止法反対デモを行なっているメンバーだ。他にも、俺たちが知っているだけで十数人のギブオールズがこちらで活動をしている。しかし実際には数百人規模で東京を中心に活動している。3年前の活動開始当初から、企業で働いたりバイトしたりして、一般社会に浸透している古株たちがたくさんいる。そいつらはこちらでできた友人や同僚などに物をあげたり、記念日にプレゼントを贈るなど、活動の核となる贈与を中心に手がけている。そうした彼らの草の根運動が基盤にあって俺たちの活動がある」
 それから男は目を尖らせて、
「今後俺たちが会うことはほぼないと思っていい。それぞれ別々の活動をするのだ。しかしなにかのタイミングで緊急の伝令を報せることもある。ギブオールズ全員の顔は《サイバーパンク》に入っているから正確な人数も顔もアプリで確認すればわかるだろうが、事前に全員の顔と名前を覚えるのは無理だろう。それに今の俺たちのように変装していることもあるから、会っただけじゃ区別がつかない。そうした場合は《メリークリスマス》が合言葉になる。クリスマスシーズンならまだしも、そうじゃない時にメリークリスマスなどと間違っても言うことはないからな」
 そこで男は一度言葉を切った。
「しかし、しかしだ。ここからが重要だ。この国は3年前から突然、贈与が始まった。俺たちがスパイをしているように、この国でも内密に調査が始まっていることは十分考えられる。まだその事実は掴めていないが、公安やなにかの組織が動いている可能性がないとは言えない。もし万が一、俺たちの誰かがこの国の人間に捕まって尋問されたとき、拷問されることも想定できる。そこでそいつが口を割らないとはかぎらない。そいつが相手方に俺たちのミッションを吐いてしまったら…《メリークリスマス》の合言葉は罠として使われてしまうだろう。だからもし《メリークリスマス》の合言葉がバレた時のために、もう一つの合言葉を作っておきたい。もし知らない誰かから『メリークリスマス』と声をかけられて怪しく思ったときは『サンタさんは今頃どこにいるんでしょうねえ?』と聞き返すんだ。するとギブオールズなら必ず『井上さんちじゃないですか?』と冗談めかして言う。そういう取り決めをしておきたい」
「井上さんち?」
 雄一郎は聞き返した。
「井上さんちとは井戸の上のことを意味している。つまり清正の井がある向こう側の世界のことだ」
「はっはっは。子どものナゾナゾみたいでいいですね。だけど、もし捕まった者が二つ目の合言葉まで口を割ってしまったらどうするんですか?」
「それは俺たちの活動の終わりを意味する。日本政府にも実害が及ぶ可能性が出てくるだろう。くれぐれもそれだけは肝に命じておいてくれ」

男たちは自分たちの話を事務的に伝え終えると、すぐに帰っていった。二人は、三人の名前を聞く間もなく、自分たちの名前を名乗ることもできなかった。
「あいつらドライすぎないか?」
 雄一郎が不満げに首を傾げると、
「すでに仕事をしているんだ。着いたばかりの俺たちとは気の持ちようも違うだろう」
 隆は雄一郎に向かって眉根をクイッとあげた。
 ケヤキ並木通りの街灯の明かりが遠目からうっすらと音楽堂の半円形のステージを浮かび上がらせている。もう数十年間も変わらない古びた外観が、暗がりの中で前時代の建築遺産のように沈黙している。
〈こんな時間に来たことなかったけど、日本の音楽堂となにひとつ変わらないな〉
 雄一郎はしみじみと思った。
 二人はベンチから立ち上がり、並木通りに足を進めた。NHK前の交差点まで来ると、
「じゃあな」
 雄一郎が隆に告げた。
「おう、また」
 隆はポケットに手を突っこんだまま返事をした。
 隆はNHK沿いの坂を下っていき、雄一郎は信号が青になると公園通りを歩いていった。
 それは特別な場所の特別な挨拶ではなく、日本でしていたいつもの別れだった。
〈渋谷の街でもブラついて帰るか〉
 雄一郎はダウンジャケットに顎を沈め、なんでもない街の様子を確かめながら歩いていった。

《6》
 翌朝8時。ファイヤー通り近くの高層マンションの一室で雄一郎は目を覚ました。あらかじめ用意してあった1LDKの部屋はリビングが10畳あり、一人暮らしには十分だった。壁に貼りつけてある48型スキンテレビ『トラペア』や、好きに折りたためる厚さ0.5mmの最新型パソコン『オリガミ』、それに冷蔵庫や電子レンジといった生活に必要な家電も完備してあり、おそらく渋谷のファニチャーショップで買ったらしいテーブルや椅子、ソファなどの家具類はファッション雑誌に出てきそうなアメリカンビンテージで揃えてあり、雄一郎は思わず苦笑してしまいそうになった。ギブオールズは予算はそこそこ与えられているはずだから、渋谷で買う方が楽だったのだろう。
 雄一郎はシャワーを浴びて髪の毛を乾かし、クローゼットから厚手の白いセーターとゆったりめの紺色のスーツを着こむと、リビングの壁に据えつけられた全身鏡の前で髪の毛を整えた。日本にいるときはツーブロックでサイドを刈りこみ、耳にかかるくらいの前髪を七三分けにしてうしろに撫でつけるスタイリングをしていたが、第二日本に来る数ヶ月前からサイドの毛を伸ばし、髪の毛全体にゆるいパーマをかけていた。
〈新しい俺の始まりだな〉
 今日からは髪の毛をおろし、真ん中で分けるのだ。ムースで髪の毛を軽く揉みこみ、無造作なウェーブを作ると、雄一郎はまんざらでもない表情を浮かべた。そしてテーブルの椅子に座り、小さな緑色のカプセルを二つピルケースから取り出し、水で飲みこんだ。それは《声帯変換カプセル》という声を変える薬だ。数時間で効き目が出はじめ、声紋も変化するため、人物を特定されることはない。日本で犯罪捜査用に開発された薬だが、スパイ活動にも転用されている。さらに別のピルケースから、今度は小指の爪ほどの大きさの錠剤を水で流しこんだ。《エイジングサプリ》。それは主に皮膚と毛髪を短期的に老化させる効力を持っている。三日前から飲み始めている雄一郎は、しげしげと鏡の中の顔を眺めまわした。
〈そろそろ効きはじめてきたかな〉
 目尻に小じわが数本できている。顔の皮膚も心なしか張りがなくなっているような気がする。それは昨日の潜入の疲労と寝不足のせいなのか、薬の効果なのか判別できなかったが、徐々に変化しかけている自分の容貌に気が引き締まる思いがした。
〈準備は万端だな〉
 額のわきの髪のつけ根にわずかばかりの白髪を見つけた。エイジングサプリは飲み始めの三、四日間は変化が少ないが、五日目あたりからグッと効き始める。雄一郎はソファーにかけていたトレンチコートをはおり、ポケットにサングラスを突っ込んで、玄関で小さく足踏みした。真新しいローファーの履き心地も悪くない。
 ドアを開けると、冷たい風が体当たりしてくるかのように一挙に吹き込んできた。
〈ふうっ、今日は一段と寒いな〉
 外からドアの鍵をしめたとき、思わず笑みが溢れた。
〈バカやろう、俺は昨日の天気を知らないじゃないか〉
 もしこっちが向こうと同じように冬晴れだったのなら、今の感想は間違っていない。しかしそれは確かめようもないことだ。雄一郎はエレベーターに乗り、マンションを出るとサングラスをかけ、渋谷の街へと繰り出した。

今日明日は渋谷の街を観察し、第二日本を知ることに終始する。それは隆も同じだった。ここが並行世界である以上、こちらの世界にも橘雄一郎は存在するはずだ。ヘアスタイルとエイジングサプリの多少の効果で自分の印象はずいぶん変わったとはいえ、自分を知っている人間と出会わないともかぎらない。そのときのために念のためサングラスをかけている。もし橘雄一郎だと思われて話しかけられても、声が違うので別人だと説明できるだろう。
〈まずは朝ごはんでも食べようか〉
 雄一郎はセンター街の入り口にある老舗のカフェ、スターバックスに入った。日本と同じく、ここは朝7時から営業をしている。サンドイッチをショーケースから取り、店員にホットコーヒーを注文すると、レジ脇のモニターに向かって数度まばたきをした。《まばたきペイ》。これも日本と一緒だ。これは眼球の虹彩を認識することでIDを特定し、支払いをするもので、実はまばたきをする必要はないのだが、システムを導入する際に「親しみやすいやすいネーミングにしよう」と大手IT企業が推進したことから、《まばたきペイ》という名で定着した。正確には《虹彩認証支払いシステム》である。
 雄一郎はこちらの世界では『進藤豊』という名でIDを作ってある。ギブオールズが手はずを整えてくれていたのだ。日本にいる時に、第二日本での自分のプロフィールは完全に頭に入れていた。
《進藤誠。38歳。元ITサービス会社代表。34歳の時に独立してモバイル動画配信サービスのベンチャー企業を立ち上げたが4年で立ち行かなくなった。今はフリーのWebディレクターとしての肩書きを持っているが実質無職。なにか仕事を探そうとしながらボランティア活動をしている。当時の会社の従業員はすべてギブオールズのメンバーが占めており、当時のことを証言する必要があれば彼らに連絡をすること》
 前職の経歴だけではない、進藤豊が生まれてから今までの歴史は詳細に作りこんであった。それは第二日本課のインテリジェンスを結集した人物構築であり、たやすくボロを出すことはない。
 雄一郎は二階のカウンターに席をとり、ホットコーヒーとサンドイッチを交互に口に運びながら、スクランブル交差点を行き交う人たちを眺めている。
数年前から日本でも爆発的に流行っている超軽量型セグウェイ《イージーセグ》をこちらの世界の人たちもつけている。アウトドアサンダルのようにベルクロのストラップがついていて靴に巻きつけることができるそれは、カバンに入れて持ち運べる重さにまで軽くなったことから、たくさん人が通勤の際に利用するようになったのだ。
〈すごい光景だ。ところてんをもみくちゃにしているみたいだ〉
 イージーセグは雄一郎もよく知っていたが、スクランブル交差点で見るのは初めてだった。いくつもの方向からいっせいに人々が滑らかなスピードで集合し、離散していく。その様子は絡まり合う毛糸のようなのに、つるんとしたウナギのように進んでいく。イージーセグには衝突防止AIが搭載されているから、ぶつかることはないのだ。何かのパフォーマンスアートを眺めたような満足感を得て、雄一郎はスターバックスを出た。

それから雄一郎は渋谷の街をくまなく歩いてまわった。道玄坂、百軒店、宮益坂、明治通り、公園通り、それらのあらゆる小道と脇道。そして昼はチーズハンバーグ定食を食べ、途中でコーヒーを飲み、夜は3Dホログラムの赤提灯がぶらさがった安居酒屋で焼き鳥と最近発売されたばかりのYEBISUの新銘柄JUNKでほろ酔いになった。翌日はタクシーに乗って新宿や恵比寿、代官山などにも足を伸ばした。電車で山手線を一周し、バスに乗って六本木や白金などでも降りてみた。すべてが自分の知っている東京とほとんど変わりがない。
 しかし四つ、決定的に異なる点があった。それは事前のレポートで知っていることだったが、実際に体感してみると目を見張るものがあった。昨日、日本でいう渋谷警察署裏の金王神社の場所に行くと、そこに神社はなく、小さな森があるだけだった。他にも神社のあるべき場所、お寺のあるべき場所に行ってみてもそこはただの森か雑木林しかない。そして教会が入っているべきビルを当たってみても教会はなく、企業の名前がエントランスのプレートに刻まれていた。こちらの世界には宗教がないのだ。
 もうひとつは2020年春にオープンした商業施設併設型の新宮下公園の屋上がホームレス村と化していること。多目的コートやスケートボードパークがすべてホームレスの寝床と化している。1990年代は日本でもホームレスのメッカとして有名だったが、公園にフットサル場ができる前に行政によって駆逐された。それから日本では宮下公園にホームレスはいなくなったらしいのだが、ここでは行政が目をつぶるかたちで再びホームレスが占拠している。
 三つ目はあちこちの路上でホームレスが座りこみ、物売りをしていること。時計や靴下、眼鏡、イヤホン、コップ、ペン、タオル、売れそうな物はなんでも売っている。盗んだ品もあれば、拾った品、なけなしの所持品を並べている者もいる。雄一郎はこの二日間で何人もの物売りに話しかけ、事情を聞き、いくつか安いものを買ったりした。彼らのほとんどは人に物やお金をあげることに喜びを感じるあまり半ば躁状態に陥り、財産をすり減らし、生活を破綻させた者たちだった。彼らの半分は後悔しており、半分は誇りに感じていた。
 そして四つ目は、今まさに雄一郎が立っているハチ公前広場のデモだ。昨日も今日も午後になれば贈与禁止法反対のデモが行われていた。拡声器と太鼓と横断幕とのぼりとプラカードと数百人の人々が「贈与禁止法をやめろー!」「贈与禁止法はんたーい!」とシュプレヒコールをあげている。ハチ公像には悲しいかな『贈与禁止法を許さない!』と書かれたタスキがかけられ、近くを通り過ぎる子どもたちはデモ参加者からプロモーション用の風船をもらって喜んでいる。雄一郎は思いのほかデモが盛大に膨れあがっていることに感心していた。この中の何人かがギブオールズであり、なにかの団体のリーダーを務めてる者もいるだろう。しかし彼らは決してデモを過激化させて捕まるようなことはない。すべてのギブオールズは架空の人物に成り代わっているが、あらゆるリスクを想定して行動を選択していく。代々木野外音楽堂で会った三人もここににいるはずだが、これだけの人数がいれば探し出すことは不可能だし、以前と違う変装をしていたら見分けもつかないだろう。それに話しかけるつもりもない。余計な接触は避けるべきなのだ。
 雄一郎は真冬にも関わらず、蒸せかえる群衆の熱気ですこし汗ばんでいた。十数個の風船の紐を握ったひとりの女性が雄一郎の近くにいる女の子を見つけて、ひとつ差し出した。女の子は手を繋いだお母さんの顔をためらいがちに見てから、風船の紐を握ると、反対の手をお母さんから離し、ポケットからなにかのカードを取り出した。雄一郎はチラッとそのカードを覗き見た。
「これね、『ときめきプンプン』のキャンディーにおまけでついてきた『みのりちゃん』のカードなの。これでいい?」
 女性は女の子の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「お返しはいらないのよ。これはプレゼント。あなたにあげるの。あげるってわかる? 売ったり、買ったり、交換したりするんじゃないの。私はこれをあなたに渡した。あなた、嬉しいでしょ? それだけでいいの。それを『もらう』っていうのよ」
 女の子は目をパチクリさせている。
「ママ、いいの?」
 女の子は母親の手を強く握り直した。
「しょうがないわね。今日だけよ」
 母親は女の子の頭を撫でて微笑んだ。
「でも、あんまりもらうと癖になるからね」
「うんわかった! もうもらわないよ、ちゃんとお返しするから。ママありがと!」
「ママにじゃないでしょ、お姉さんに、ありがとうって言いなさい」
「お姉さん、ありがとう」
 女の子はそう言うと、頭上で風船を弾ませて母親と手を繋いで人ごみに消えていった。
 雄一郎はデモ参加者のふりをして女性に話しかけた。
「あの子、喜んでましたね」
「そう、こうやってプレゼントの文化を次の世代にも根付かせていきたいんです」
「僕たちの世代で終わりにしてはいけない」
「でも時には『余計なこと教えないで』って一緒にいる親に怒られることもあるんです」
「そういう保守的な考え方の人たちはいつまで経っても変わりませんよ。でもそういう親のもとで育っても、どんな考え方を持つかはその子次第ですから。そのためにもやっぱり、どんな社会を作り上げるかっていうのが大事ですよ」
「そのためのこの活動ですもんね」
 女性は不意に雄一郎に励まされて目を輝かせた。
 雄一郎は深く頷くと女性のもとを離れ、人の群れに押し合いへし合いされながら、のんびりとした一般人の視線で明敏に観察してまわった。

《7》
 家に帰ると、テレビやインターネットのニュース番組を見て情報を仕入れることに専心した。最近、与党が贈与禁止法法案を国会に提出し、野党の反対を押しきる形で強引に採決を進めようとしていることが大きな話題になっていて、どのニュース番組にも頻繁に与党の政治家が登場し、どれほど贈与が危険であるかを声高に主張し、贈与禁止法の正しさを説いていた。
 雄一郎は風呂上がりにテレビをつけると、ある討論番組でギョロ目の官房長官が氷を張ったような面貌で話し始めたところだった。
「贈与は怠惰を生み、勤勉を損ないます。人は売買や貸借などの交換経済の原則で生活を行うから働くのであり、生きがいをそこに見出すべきなのです。贈与はすでに我々の経済を壊しています。失業率は20%を超え、税金納入総額も8%落ちました。贈与が流行りだしてからホームレスやストリートチルドレンも生まれたじゃないですか。いいんですかこのままで? はっきり言って異常ですよ。これは危機的状況なんです。贈与禁止法というのは人々の生活を守るためにあるんです。決して自由を規制するものではありません。私たちは国民を守る義務があるんです」
 間髪入れず脳科学者が熱弁をふるう。
「贈与は行為として麻薬なのです。人が物を贈るとき、気分が高揚するんですよ。それは本来あるべき理性を抑制し、高揚感を持続させようと、またはもう一度獲得しようとして、再び贈り物をしてしまう。精神疾患としての躁状態に陥ってしまうのです。それに物を贈られた人間は強烈な喜びを感じます。その者の脳の中では大量に興奮物質が分泌するんです。その興奮物質は脳の中で新しいニューロンを刺激する、つまり新しい伝達経路ができるんですよ。それはどういうことか言うと、興奮や快楽で覚えた伝達経路が一度できてしまうと、脳が再びそのニューロンを刺激しようと求めだすということです。脳が意思とは関係なしに物をもらうことを欲するんです。一度手を出すと断つことは難しい。これははっきりと中毒症状だと断言できます。贈与は、物を贈る側にも、もらう側にも、脳に甚大な影響を与えるのです」
 しかし新進気鋭の経済学者がすかさず切り返した。
「経済の観点から言わせてもらえばですね、贈与を含む経済を推し進めることの方が現状の交換経済を維持するよりもよっぽど好景気を呼びこみますよ。今の状況は過渡期なんです。これまでの交換経済を修復したところでGDP成長率も上がりませんし、失業率も下がりません。新しい経済システムを構築することが最善の解決策です。贈与を推進することで、今までよりも物の売り買いを促進させることは十分可能ですし、爆発的な経済成長が期待されますよ」
 その発言に憤慨した官房長官がギョロ目を剥いて声を荒げた。
「われわれは売買と貸借を原則とすることで経済はおろか文化も構築してきたんですよ。物を贈るというのは短期的にはメリットがあるように見えるかもしれない。けれど長期的に見たら確実にデメリットしかないんですよ。貸したものが返ってこないわけですから。金銭が相互に交通してきたものが、一方通行になるわけです。これがプラスなわけがない。近視眼的な利益で世の中を煽ってはいけませんよ、それをポピュリズムというんです!」
 スイッチが入った官房長官は止まらない。
「それに、それにですよ! われわれ日本人は古来より、親が子どもを育てる費用を貸付とみなし、将来その子どもが親を介護する費用を返済とみなしてきたわけです。それがイコールの関係、等価交換で結ばれていたんです。それが家族の絆を育んできたし、友人やコミュニティの繋がりも売買、貸借関係があるから信頼関係が成立してきたわけです。われわれ日本人はそうやって交換経済を繊細に遂行することで相互扶助の精神を育んできたわけじゃないですか。もはやわれわれの文化的アイデンティティーと言っても過言ではない。それを今、突然プレゼントが流行ったから、クリスマスが流行ったから、売買や貸借の文化が古いだの、交換経済が役立たずだのといって、今までの文化を壊して新しいことを受け入れようだなんて日本文化に対する冒涜だ! 私たちが大切にすべきは、交換経済の尊さをもう一度見つめ直すことですよ!」
 官能長官がそこまでまくしたてたところで司会の女性が割って入った。
 総勢12名の登壇者が舌戦を展開し、議論はくんずほぐれつ平行線をたどり、政府の看板を背負った官房長官は国民に理解を強く求め、贈与禁止法法案を押し通す姿勢を崩さなかった。

《8》
 翌朝9時。雄一郎はセンター街の入り口で初めてのゴミ拾いを開始した。左手に麻の使い捨てゴミ袋を、右手には先の長いトングを持っている。煙草の吸殻や割れたアルコール瓶、くしゃくしゃのレシート、グミ、ミントタブレットのケース、食い散らかされたパンやおにぎり、天津甘栗の紙袋、サングラスのレンズ、いろんなものが落ちている。丁寧にひとつずつ拾い上げる雄一郎の手には防寒グローブがはめられているが、ずっと拾っているとグローブ自体が冷えてしまい、指先は冷たくなってくる。十分、十五分、ひとりで黙々と拾っていても五メートルも進まない。いつもはたくさんの人が往来しているからわからなかったが、こうしてゴミを拾っているとセンター街の道幅も広く感じた。
 雄一郎が腰を伸ばし、一息ついて周りを見渡すと、通勤途中の人たちがチラチラとこちらを気にしながら通り過ぎていく。普通は作業服を着た大量の清掃員が週に一度、一斉に清掃をするのだ。雄一郎の姿は日常の光景にちょっとした違和感を醸し出していた。
 再び雄一郎が腰を曲げ、トングを地面に伸ばしたところで、ひとりの男が話しかけてきた。
「なにをしてるんですか?」
「ゴミ拾いですよ」
「お仕事ご苦労様です」
 短いくせっ毛を後ろに撫でつけた男がおだやかな声で言った。
「いえいえ、これは仕事ではありません。ボランティアですよ」
「ボランティア? それはなんですか?」
 男は初めて聞く単語に大げさに目をむいた。
〈こいつ、芝居がうまいのかヘタなのか〉
 雄一郎は心の中でほくそ笑んだ。
 目の前にいる男は雄一郎がよく知っている男、隆だ。変装した隆が手はずどおりにボランティア活動の始まりの劇を共に作り上げてくれている。
「社会奉仕ですよ。いつもお世話になっているこの社会への感謝の証に、この街をきれいにしているんです。街をきれいにするということは社会へのプレゼントなんですよ」
 雄一郎は台本どおりの台詞を悠然と語った。
「それは素晴らしい。私にも手伝わせてください」
「ありがとうございます。でもこれから仕事じゃないんですか?」
「ええ、そうなんですが、職場にはいつも定時の三十分前に行くんです。すこしだけ時間に余裕がありますから」
「嬉しいですね。一人より二人、ぜひ一緒にやりましょう」
そうして二人が普段より大きめの声を出して演じてみせると、気もそぞろに立ち止まって見ていた数人の中から、ニットキャップをかぶった小太りの男が、
「私も一緒にいいですか?」
 と照れくさそうに話しかけてきた。
「こんなこと初めてですよ。ボランティアって言いましたか? 面白いですね、その考え方。社会へのプレゼントか、そんなこと考えもしなかった」
 それから二十分のうちに、ゴミ拾いをする人間が五人まで増え、入り口から十メートルほどのゴミをきれいに拾い上げた。それから一人増え、二人増え、仕事の時間だからと一人減り、二人減り、また一人増え、二人増えを繰り返し、朝九時から十一時までの間で一番多い時には十五人、延べ五十五人の人たちが参加してくれ、午前中のゴミ拾いが終わった。仕事をしている人も多い中、これだけ手伝ってくれたというのは最初としては成功といっていいだろう。
「これからもまたやるので、また手伝ってください。それにここだけじゃなくて、みんなも自分がやりたい場所で自主的にやってくれると嬉しいです」
 雄一郎はゴミ拾いから離れる人に必ずそう告げた。こうしてボランティアの草の根運動を広げていくのだ。根気のいる仕事だが、これがゆくゆくは第二日本の社会に変化をもたらす一因になるはずだ。清掃などの活動はもちろんだが、日本で言うところの福祉団体やNPO団体がやっているようなことはすべてこちらでは経済活動で循環している。子どもの教育も老人介護もすべてが上手に経済システムの中に組みこまれているのだ。そこにボランティアの概念が入りこめば、必ずや経済は破綻をきたすだろう。
〈今日の仕事はこれで終わりだ。家にいったん帰って昼飯でも食いにいくか〉
 雄一郎はいっぱいになったゴミ袋とトングを片手に、労働の充実感がたっぷりこもったため息を吐いた。しかしそこには、同時にこれから続くこの地道な仕事に対する徒労感もこっそり隠れていた。

それから二週間かけて、雄一郎は毎日センター街でゴミ拾いをした。隆も毎朝出勤途中に手伝ってくれた。雄一郎と隆は、芝居上では毎朝顔を合わせる気の合う仲間として徐々に気さくな間柄になっていった。そして本当に手伝ってくれる一般の人たちとも同じように親交を深め、常に二十名くらいの人数でゴミ拾いをするようになった。一日の延べ人数でいうと百名前後にまで増え、ある程度の規模のサークル活動のようになってきた。そしてあるときネットニュースの記者がやって来て「これはなんの団体か、どんな活動か、ボランティアとはなにか、あなたはどんな人物か」などの取材を受け、翌日のネットニュースの記事になった。それから一気に認知度が向上し、ゴミ拾いを目的に集まってくれる人も増え、活動場所もセンター街だけでなく、ハチ公前広場やモヤイ像前、道玄坂、宮益坂などへと広がっていった。渋谷のゴミ拾いは雄一郎が主導しなくても各所で小さいながらも自律的に動いていくようになっていた。

12月も後半にさしかかかり、クリスマスまであと数日だというのに、渋谷の街にそれらしきイルミネーションや装飾はひとつも見当たらない。まもなく贈与禁止法が制定されるかもしれないということで、商業施設なども表立ってクリスマスプレゼントのセールスプロモーションはしていないようだった。しかし、その反動とも言えるのかもしれないが、ハチ公前広場では贈与禁止法反対デモ参加者たちの多くがもみの木の枝を掲げ「クリスマスを潰すなー!」と声をあげていた。参加者の数は三、四百人にまで拡大し、ハチ公前広場周辺には機動隊のバスが数台停車しており、盾を持った百人前後の機動隊員が広場のデモを静かに取り囲んでいた。
 雄一郎はデモの現場にいるとどうしても血が騒いでしまい、ここで活動しているギブオールズを羨ましく感じた。
〈デモに比べたらゴミ拾いの仕事は地味なもんだ〉
 自嘲気味に胸でつぶやいたが、
〈そうだ、明日の朝はここで木の枝の残骸を拾うことにしよう〉
 新しい仕事を見つけて心が小躍りした。

三日後、12月23日の夕刻。国会で贈与禁止法が正式に採択された。しかも翌日からその運用が開始されるという異例中の異例の法案だった。
〈クリスマスのタイミングに持ってきたか〉
 スキンテレビで深夜のニュースを見ている雄一郎は顎に手を当て、眉根を寄せた。
〈明日はボランティアもやめた方がいいな〉
 今までゴミ拾いをやっていてハチ公前交番の警官が職務質問をしに来たこともないし、機動隊に囲まれたこともない。しかし、明日からは状況が違う。今日までと同じように行動しては逮捕される可能性がないとは言えない。
 ソファーに深く沈みこみ、しばらく思案していると、
〈ゴミ拾いは社会へのプレゼントではない。ただの趣味だ〉
 パッと浮かんだふざけたアイデアが気に入った。
 その手があった。数日間状況を見たあと、もしゴミ拾いをしている者が逮捕されないようであればその言い訳をしよう。警察に説明を求められたらそう言い張ればいいのだ。ただ、それで通用すればの話だが…と、雄一郎はテレビに向かって腕を組み、とにかく当分の間、ゴミ拾いはやめて事態を静観することにした。

《9》
 贈与禁止法制定のニュースは世論を萎縮させるどころかクリスマスイブのデモ参加者を過去最大に伸ばし、主催者発表で六百人にまで拡大した。しかし決して過激な行動にでるわけではない。機動隊に石を投げるでも、卵をぶつけるでもなく、肩を組みタックルするわけでもない。ただ機動隊に囲まれた中でシュプレヒコールをあげ、連帯を強める。健康的と言えば健康的、しかししたたかと言えばしたたかである。政府にデモを潰す理由を与えることなくアピールを続けているのだ。メディアも多数押しかけ、カメラを回してはデモの様子を報道していた。
 贈与禁止法は、違反した者に最大三年の禁固刑を課していたが、初犯だと罰金三千円が最低ラインで最高が十万円くらいだろうというのが、デモに参加する複数の弁護士の統一見解だった。
 こうしてこれ以降、第二日本国民は表立って人にプレゼントをすることをしなくなったが、贈る者と贈られる者がお互い贈与を肯定する者同士であれば、信頼関係のもと隠れて行なっていた。クリスマスには、通りで「メリークリスマス」とお互いの心を温め合い、人に見られない場所でプレゼントを交換しあった。正月には年賀状もお年玉も大手を振って行う者はおらず、人々はただ「あけましておめでとうございます」と挨拶しあい、自宅でおせちやお雑煮を食べて過ごした。しかし多くの者が信頼できる者同士で年賀状を送り合い、自分の子どもにお年玉をあげていた。二月のバレンタインデーも、イベントデーの気配は皆無だった。しかし案の定、贈与肯定派の男性にこっそりチョコレートを贈る女性は多かったようだ。五月の母の日、六月の父の日にいたってはそれまで贈与に懐疑的だった人たちまでプレゼントを贈るケースも増えたという。
 さいわいゴミ拾いを続けることができた雄一郎は、ことあるごとに街を観察し、デモやゴミ拾いの参加者からそうした情報収集をしていた。そしてニュース番組では、ときどき運悪く摘発される人たちをトップニュースで報じていた。罰金刑という罪の重さ以上に話題自体の方がセンセーショナルだったのだ。

贈与禁止法制定から半年もすれば、贈与は駐車禁止と同じくらいの罪として認識され、〈贈り物、こっそりやれば大丈夫〉が国民に定着した。隠れている以上正確な統計は取りようもないが、あるテレビ番組のアンケートで「プレゼントをしたことがある」には1000人中672人がイエス。「二度以上プレゼントをしたことがある」には1000人中343人がイエスと回答した。また「ボランティアをしたことがある」には1000人中152人がイエスだった。あるとき贈与禁止法が形骸化してしまっていることに危惧した野党の議員から「密告制度を作ってはどうか」という意見が出た。それはプレゼントを持ってる人を見つけたら報奨金がもらえるというものだ。つまりプレゼントを贈った人がもらった人を密告することも可能なのだ。「これで検挙率はぐんとあがるに違いない」と息巻いたが、国民の怒りを買い、たちまち発言を撤回した。

雄一郎の関心ごとといえば、クリスマスを待つだけだった。季節は十月の半ばにさしかかったあたりなのに、何日も太陽は分厚い雲にさえぎられ、朝の空気は冷たさをぐっと増していた。センター街の奥、ABCマートのシャッターの前でゴミ拾いをしている雄一郎は、表情には出さないものの退屈していた。この十ヶ月ほどでボランティアをゴミ拾いから拡散するという自分の役割はほぼ終わったようなもので、次のステップは次のミッションを与えられた者がやるのだ。それに渋谷区が委託していた清掃業者がいくつも契約を切られ、すでに三社が倒産したという話を耳にした。自分の行動で直接他人の人生が暗転してしまっている事実を知ると正直心が痛む。自分にも妻や子どもがいる。清掃員の中にも妻や子どもがいる者もいただろう。もし自分だったらこんな不条理は受け入れられないに違いない。
 その心の動きはこれまでの雄一郎にはないものだった。第二日本での活動はこれまで罪悪感とはほとんど無縁だった。なぜなら仕事がボランティアだったからだ。日本で生まれ育った雄一郎にとってボランティアを行うことになんら良心の呵責はない。しかしボランティアによって会社が潰れ、失業者が生まれるというのは、頭では理解していながらも現実問題として表面化すると不思議と気持ちが暗くなってしまった。
〈日本がこちらの経済を立て直すのだから、それまでの辛抱だ〉
辛抱という言葉を、見たこともない失業者に向けて言ったつもりだったが、自分に対する慰めでもあった。もう少し辛抱したら、ウニを抱いたようなこの胸の痛みから解放されるだろう。
 11時になり、オープンした周辺の店舗の邪魔にならない場所で二十人前後の参加者が集めたゴミをまとめ、ゴミ拾いのメンバーは解散した。これからいつものように部屋に帰り、ゴミを仕分け、マンションのゴミ集積所に出す。そして再び街に繰り出し、昼ご飯を食べ、偵察という名の散策に出かける。それでも一度はハチ公前広場のデモの様子に変化がないかを見に行くことだけは欠かさない。
 しかし夜になればガード下のアダルトグッズショップ脇の小径に並んだいつもの3Dホログラム赤提灯の店に入り、YEBISUのJUNKで一杯やるのだった。
〈美奈子と翔太はなにしてるかな〉
 背中が赤茶けた壁に触れてしまいそうな狭いカウンターに頬杖をし、焼き鳥を焼く煙に目をしばたたかせながらジョッキの泡を眺めていると、思い出すのはやはり二人のことだった。コスタリカにいれば、普通スキンテレビで会話くらいはできるはずだ。しかし、守秘義務も兼ねて連絡は一切取ることはできないのだと、しぶしぶ美奈子を説得してきたのだ。
〈あと二ヶ月…〉
 長いその月日の先にクリスマスがある。
〈翔太になにをあげようか〉
 中身がまだ決まっていないのに、枕元のプレゼント見つけて喜ぶ息子の顔を想像して、雄一郎の顔は優しくゆるんだ。

《10》
 苦味の強いB級ビールの力を借りて、温かい気持ちになった雄一郎が店を出たのは深夜二時を過ぎた頃だった。
〈今夜はちょっと飲み過ぎたかな〉
 ファイヤー通りにはすでに人気がなかった。
 いつもなら消防署の角を曲がって坂をあがり、何事もなくマンションへとたどり着く。今夜もいつもと同じように角を曲がり、しかしいつもよりも気分よく、鼻歌から口笛に変えようとしたその時、それは起きた。
「そのまま歩け」
 突然後ろから男の低い声がして、背中に硬いものを押しつけられた。
 瞬間的に雄一郎は拳銃だと悟った。
〈クソッ、油断した〉
 雄一郎は心の中で舌打ちをした。
〈コートの内側から拳銃を構え、俺にくっついてるな〉
 雄一郎は自身に対する怒りと後悔に打ち震えながら、背中に密着している男の様子をそう察知した。
〈声に聞き覚えがある〉
「振り向くな」
 男の声は鋭い。
「分かってる」
 雄一郎は背中に当たる金属らしき物質に全神経を集中させた。
「どこに行けばいい」
「お前の部屋だ」
 たったその一言に、自分が以前からつけられていたこと、そしてスパイだということがバレていることを理解した。
 じっとりと額に冷や汗を滲ませながら、雄一郎は坂をあがった。
 マンションの前まで来ると、
「ヘタなマネはするなよ」
 男が念を押し、背中から硬い感触がなくなった。
 マンションのエントランスは明るいため、住人の誰かが見ていると密着した二人の姿は怪しまれる。男はコートの内側に右手を隠し、つかず離れず雄一郎の後ろを歩いた。
「階段で上がるんだ」
 エレベーターの脇を通り過ぎ、重い非常用階段のドアをあけ、建物の外階段をあがっていく。カツンカツンと男の革靴の音が後ろからついてくる。雄一郎は決して後ろを振り向かない。振り向いたら撃たれるかもしれない。今は男の言いなりになるしかない。
 12階まで上がり、再び非常用階段のドアを開け、マンションの中に入った。1203号室のドアを開け、玄関脇で明かりをつけ、靴を脱ぎ、リビングにたどり着いた。そのひとつひとつの動作の前後に、男がなにか注文をつけてこないか注意深く耳をそばだて、なにか武器になるようなものはないか手近なところに目を走らせたが、これだけきれいに背後を取られてしまっては、形勢を逆転しようがなかった。いつ殺されてもしょうがない、そんな緊迫感に雄一郎は包まれていた。
 雄一郎がリビングの真ん中に立つと、
「まだ振り向くな。これを手にはめろ」
 手錠が足元に放り投げられた。
 雄一郎に選択肢はない。黙って手錠を拾い上げ、自分の手首に、左、右と順番ずつに手錠をかけた。
「座ってからこっちを向け」
 雄一郎は膝を曲げ、正座をして、後ろに向き直った。
〈お前は…〉
 雄一郎は男の顔を睨みつけた。
 拳銃を構えているその男は、スクランブル交差点で一番最初にゴミ拾いを手伝ってくれたニットキャップの小太りの男だった。
〈でもそれが答えじゃない〉
 この小太りの男が何者なのか。ゴミ拾いにずっと参加してきたこと、そして今自分を監禁していること。雄一郎は自分の置かれた状況に焦りを感じるよりも、この男の正体をはじき出すために、超高速で頭を巡らせた。
 十秒、二十秒、三十秒…雄一郎と男の視線がぶつかりあったまま、しばらくのあいだ沈黙が流れた。男はあいかわらず銃口を雄一郎に向け、口をきつく結んでいる。まるで自分が何者かを雄一郎が答えるのを待っているかのようだ。
「そうか…」
 雄一郎はさめざめとため息を吐いた。
 それは間違っても安堵のため息などではない。しかし、そこには危機的状況からは決して生まれえない、昔の友人に再会したときのような、否応ない人間への憧憬がかすかに込められていた。
「俺か」
 雄一郎は男を睨みつけながら、自身の愚かさを呪った。

ニットキャップの下で、分厚いまぶたに隠れてしまいそうな細い目は狡猾な狐のようだ。
「ずいぶん老けこんだじゃないか、お前」
 男は拳銃をさげ、重く冷たい声で話し始めた。
「お前だとわかったときは目を疑ったよ。最初はゴミ拾いなんておかしなことを始めたお前の経歴と素行を調査しようとしただけだった。しかし何度も会っているうちに胸騒ぎがしたんだ。なにかがおかしい。なにかが…いったいなんだ…? その謎がずっと解けないままだった」
 男はぼってり太った頬を怒りで震わせた。
「あるとき確信したんだ。お前が目をクシャッと潰す、その癖でな。眉間がかゆいんだろう、なあ雄一郎。今でもかゆいんじゃないのか?」
 雄一郎は胸を拳で殴られるような痛みを感じた。
〈なんてバカだったんだ〉
 悔しさがまるで鳥肌のように全身を襲うとおもわず眉間がムズムズしたが、眉根に力をこめて我慢した。
「耐えているのか? もうバレているんだからやればいいじゃないか」
 男は鼻で嗤った。
「お前はいったい誰なんだ? なんで俺がもう一人いるんだ? 説明してもらおうか。まだ夜は長いんだ」
 男は雄一郎の正面にソファーを引きずり持ってきて、ドスッと重量級の柔道家のような腰を下ろした。

当然ながら雄一郎は、こんな状況でも自由意志を与えられている間はなにも話すつもりはなかった。話してはいけないのだ。この先なにが待ち構えているかはわからないが、この身の耐えうるかぎり、理性の続くかぎり、口を割ってはいけない。それが鉄の掟だ。
 時計が表示されているスキンテレビは背中にあり、サイバーパンクはスリープモードに入っていて画面が消えている。雄一郎は黙ったまま過ぎていく時間が三十分なのか一時間なのか知ることもできないまま、ジリジリと正座した足が痺れていった。
「分かった。なにも話さないというんだな」
 その様子を見て男が静かに口を開いた。
「だからといって爪を剥いだり、耳を削いだりするつもりはない。それは俺の流儀じゃない。別にお前のゴミ拾いが法律に違反しているわけじゃないのは百も承知だ。だけど、お前がやっていることはテロと同じなんだよ。ボランティアなんて考えをどこから持ってきた?」
「お前は何者だ」
 雄一郎は男の質問を無視して問いかけた。
 すると男は、
「似た者同士だろう」
 にべもなく答えた。
「お前が俺であるかぎり。俺が知っているよりも現実は複雑だということを、お前が教えてくれているんだ」

それからまた重苦しい沈黙が長く続いた。
 雄一郎は正座の痺れが痛みに変わり、痛みが消えてホッとしたかと思うとまた痺れて痛むのを、繰り返し繰り返し味わった。
「そろそろ朝が来たようだ」
 男が言うと、カーテンの隙間から薄明かりが差しこんでいることに雄一郎は気づいた。まったく意識がいっていなかったが、そういえば雀の鳴き声も聞こえてくる。
〈窓の外はのんきだな〉
 朝まで耐えきった雄一郎は疲労の中で、生まれたばかりの新しい一日になにが待っているのかまったく想像できなかった。
「もう少ししたらいいところに連れて行ってやろう」
 そう言うと男は雄一郎よりもひと回り太い足を組み直した。
〈いいところ? まったく不穏だよ〉
 雄一郎はふてくされたような表情を浮かべた。
〈それにしても上手に変装したもんだ。死ぬ前に一度ノウハウを教えてもらいたいもんだ〉
 目の前にいるもう一人の自分の太った体や顔、そのひとつひとつの細部に、敏感な目を走らせ観察すると、
〈第二日本の俺か…〉
 まったくの別人に化けたもう一人の自分を心の中で第二雄一郎と呼ぶことにした。
〈こいつからしてみれば俺が第二雄一郎かもしれないけどな〉

《11》
 カーテンの隙間から漏れる朝日の光に夜明けのためらいが消えてからずいぶん経つ。第二雄一郎はコートのポケットからなにかを取り出した。
「これを飲め。マハリウィルスカプセルだ」
 雄一郎はピリッと頭痛が走るように目を細めた。
〈この世界にもあるのか〉
 カプセルのことを知っているのだ。
 数年前にアマゾンの奥地である村の住人がひとり残らず変死を遂げるというショッキングな出来事があった。いずれの村人も内臓から出血し、目、耳、口、鼻からも大量に血を流して死んでいたのだ。村ではミチュンガというその周辺にしか生息しないハリネズミによく似た希少動物を創造神と崇めていたのだが、森林開発の影響を受け、狩りをする動物が激減し、都市文化に触れたことのある若者が禁忌であるミチュンガを食べることにした。森でミチュンガを捕まえ、村に戻ってナイフで腹をさばき、手を血で染め、温かい内臓を取り出したときに、ミチュンガを宿主にしていたマハリウィルスがその若者に感染した。血のついた手で目や鼻などの粘膜を触ったのかもしれない。その夜、若者が急に苦しみ出し、吐血し、突然死した。続いてその遺体に触れた家族が感染し、またその家族の看病や遺体を埋葬した者が次々と感染し、現代医療の知識が乏しい村はパンデミックに見舞われた。数日後、その村を訪れたアマゾン専門のツアーコーディネーターの男が惨状を目の当たりにした。村人たちがそこかしこで黒い血にまみれて死んでいるのだ。恐れおののきながら村をそぞろ歩き、一軒の家を覗くと、寝たきりの老婆がひとり生き残っていた。老婆に話を聞くと、村人たちは村の禁忌を犯した呪いで死んだのだという。老婆はミチュンガの肉を口にすることを断固として拒み、ミチュンガの血に濡れた者に決して体を触らせなかったという。他に生存者はいないかと男が村をくまなく捜索したが、確認できたのは血まみれで倒れている村人たちの間を、屠殺を免れた数匹のミチュンガがテクテクかわいらしく歩き回っている姿だけだった。
 マハリウィルスとはそのミチュンガの血液から抽出・開発された軍用のウィルスカプセルで、決定的な殺傷能力を持っている。

第二雄一郎はソファーから腰をあげ、カプセルを雄一郎の口元に持っていった。雄一郎は必死に顔を背けた。しかし無理やり顔を固定され、顎を強く握られ、口を開けられた。カプセルが口の中に入りこむと、舌の上でマハリウィルスカプセルは強烈な甘みとともに溶けていった。
「解毒剤を飲まなければ、二十四時間後には死ぬだろう。十六時間ぐらいは普通に生活できるが、残りの八時間は悶え苦しむことになる。解毒剤は俺が持っている。これから手錠を外してやろう。外に出るんだ。ちなみに俺もこれからカプセルを飲む。意味がわかるな? 解毒剤を飲まなければ俺も二十四時間後に死ぬ。俺を襲っても無駄ということだ。たとえお前に拷問されようともたった十六時間の辛抱だ、薬のありかを吐くことはない」
 第二雄一郎は、左手首の時計の竜頭を右に左に何度か回転させ、プッシュすると、雄一郎の手錠のロックがカチッと外れた。
 両方の手首を交互にさすりながら雄一郎は、
「椅子に座っていいか」
 と尋ねた。
「いいだろう」
 第二雄一郎が許可すると、雄一郎は手で膝を支えながら立ち上がり、痛む足を引きずり椅子に腰かけた。8時30分…久しぶりに雄一郎はサイバーパンクで時間を確認した。
「まずはゴミ拾いに出かけよう。今日だけやらなかったらお前の同志も怪しむだろう。その前に朝食でも食べようか。お前がいつも食べているものを俺にもご馳走してくれよ」

こんがり焼いたトーストにあんずジャムをたっぷり塗ってほおばった二人は、センター街の入り口でいつものように九時から十一時までゴミ拾いを行った。雄一郎はいつものように隆と会ったが、第二雄一郎が近くにいたため自分の状況を報せることはできなかった。
 ゴミ拾いを終えて部屋に戻ってきた雄一郎はシャワーを浴びることを許してもらい、その間第二雄一郎はじっとソファで待っていた。
「では行こう。ここからが本題だ」
 二人は第二雄一郎が近くに停めていたAIカー『ボンド』に乗りこんだ。第二雄一郎はハンドルのない運転席のタッチパネルで行き先をセットし、予定走行時間を確認した。
「三十分ほどで着くよ」
「わかった」
 助手席の雄一郎は行き先を尋ねない。すでに自分でこの状況を好転させることを諦めていた。マハリカプセルを飲まされたためにこの場から逃げることもできず、薬を奪い取れる可能性も低い。それに第二雄一郎に殺意は感じられなかった。雄一郎は第二雄一郎のエスコートに黙って従うことにした。
 11時45分。第二雄一郎がタッチパネルのスタートアイコンをタッチし、車は無音で走り出した。

車は井の頭通りをまっすぐ快調に進んでいった。
 吉祥寺まで来ると、駅前の信号を左に曲がり、大きな建物の地下駐車場に滑りこんでいった。
「ここは武蔵野公会堂か?」
「昔はな」
「今は違うのか」
「ああ、最近、趣を変えたんだ」
 ボンドはだだっ広い駐車場の一角に自動駐車した。
 第二雄一郎はタッチパネルを操作して車をスリープモードに入れて、
「降りろ」
 と雄一郎を促した。
 二人が車を降りると、第二雄一郎はドアノブに人差し指を数秒あて、指紋施錠した。
「行こうか」
 第二雄一郎は雄一郎を振り向きもせずエレベーターへと向かうと、雄一郎は鼻でため息をつき、後ろをついていった。

二人は一階でエレベーターをおりた。白い壁と白い床、清潔一辺倒の真新しい施設。雄一郎はここが病院であることを理解した。第二雄一郎は受付で入館証を二つもらい、ひとつを雄一郎に手渡した。
『贈与中毒中央病院 関係者入館証 002』
 雄一郎の目に力がこもった。
「ここに連れて来たかったのか」
「そうだ。案内しよう」
 二人は寒々しいほどがらんどうの白い廊下を歩き始めた。
「一階は初診用のフロアだ。10名の医師が各診察室で診察している。ここはいいだろう。二階へ上がろう」
 二階に上がってもフロアには花瓶も観葉植物もなく、壁と床が伸びるきりで居心地が悪かった。普通の病院なら病気予防のパンフレットが置かれていたり、啓蒙ポスターが壁に貼ってあったりするが、ここにはそれも一切ない。雄一郎は病院というよりも研究所に来ているみたいな気がした。
「なんだか殺風景な病院だな」
 雄一郎があたりを眺めまわしながら言うと、
「物があると危険だからな」
 第二雄一郎は間髪入れず答えた。
「どういうことだ?」
「贈与中毒患者は暴れることもあるんだ。『持たず、貸さず、持ちこませず』これがこの病院の三原則だ」
 診察室が並ぶ廊下を抜けると、窓が床から天井まで一面分厚いガラスが張られた大きな部屋がある。第二雄一郎はそこで立ち止まった。
「二階は贈与中毒患者の中でも、物を贈ることに歯止めが効かなくなった〈贈呈中毒患者〉のフロアだ」
 部屋の中には数十人の男女が車座になって座っていて、椅子もテーブルもなく、食べ物も飲み物もない。
「贈呈中毒患者は物を贈ることに強烈な高揚感を覚えてしまった者たちだ。自分の財産を投げ出してでもプレゼントしようとする。拾ってでも、盗んででも物を贈ってしまう。物を贈ることが強迫観念にまでなってしまう症状だ。しかし彼らは比較的快癒に向かう者が多い。なぜならば中毒症状に苦しみを感じている自覚があり、多くの場合は自分の生活が破壊されたことにもいくらか危機を感じていて、治りたいという意思を持っている。そうじゃない場合は、まず物を贈ることが善であるという洗脳を解くことから始めなければならない」
「この人たちはなにをしているんだ」
「リハビリだよ。一人一人が自分のおこなってきた贈与がどんなものだったかを人前で告白し、みんなから感想をもらうことで自分を客観視でき、物を贈りたいという焦燥感に冷静に対処できるようにするんだ」
 雄一郎は、なにかに耐えるように目をきつく閉じた。
 第二雄一郎にある種の苛立ちを感じていたのだ。
〈こいつは俺を改心させようとしているのか。俺には俺のミッションがある。情で動いているわけではないんだ〉
「三階に行こう」
 第二雄一郎は階段の方に顎をしゃくった。
「三階は物をもらうことで中毒を発症した〈頂戴中毒患者〉のフロアだ」
 雄一郎は、今までとはまったく違うどこか冷たい雰囲気を感じた。
 遠くから人間の声とは思えない叫び声や怒り狂った巨鳥のような金切り声が聞こえてくる。
「ここは二階と違い、すべてが個室だ。五十室ほどある」
 二人はずらっと並んだ個室の前をゆっくりと歩いていった。それぞれのドアにはフライパンくらいの大きさの鉄の格子窓がついていて、窓はこちら側から開けられるようになっている。雄一郎は近くの『8』と番号がつけられた窓の中を覗きこむと、四十代くらいのひょろっとした男が布団の上であぐらをかき、天井を見つめてブツブツ独り言をつぶやいている。ときどき天井に両手を振り上げ、カッと目を見開いたかと思うと、絶望したように俯いて頭を抱えて、膝を激しく震わせ始めた。
「これは…」
 見てはいけないものを見てしまったかのではないか、と雄一郎は顔を歪ませてた。
「物をもらうことに快感を覚えてしまった頂戴中毒患者は、自分が中毒を発症していることを理解しないまま精神に異常をきたす。幻覚や幻聴にさいなまれ、日常生活を送ることはほぼ不可能だ。ここにいるのは強制入院させられた者たちだ」
 雄一郎は聞きながら、格子窓に反射する明かりを目が眩むほどきつく見つめた。自分がこれまでなにを背負い、なにをしてきたのか。日本での分析業務も、訓練も、ここに来てからの活動も、今、言葉にならない歯ぎしりへと変わっていく。
「歩こう」
 第二雄一郎は冷徹な表情を変えなかった。しかしその言葉には沈痛な響きが滲んでいた。
 雄一郎は続いて『10』の窓を覗いた。
 老齢の女性が中腰で立ち、まるでメタルバンドのライブでヘッドバンギングしているかのように白髪を振り乱して頭を振っている。分厚いガラス越しに「さむいさむいさむいさむい!」と連呼してしているのが聞こえる。ときどき顔がチラッと見えたが、口元からはよだれを垂らしていた。
 雄一郎は無言で歩みを進め、『12』の窓を見る。
 水泳でもやっていたかのような引き締まった体をした若い男が、向かいの壁で逆立ちをしている。腕立て伏せのように何度も肘を曲げて、顔を真っ赤に染めあげ、床に頭を何度も勢いよくぶつけては「きぃぃぃぃ!」「きぃぃぃぃ!」と猿のような鳴き声をあげて笑っている。
 『14』の窓を覗く。
「出てこい! お前! そこからずっと俺のことを監視しているのを知っているんだぞ!」
 いきなり怒鳴り声をあげられて、雄一郎はドキッとした。
 室内には顔を怒張させた肌の浅黒いがこっちを睨みつけて立っている。しかしよく見ると、視線はこちらを向いているが、その焦点は自分を捉えているのではない。そのもっと手前、男の眼前に立つ幻の誰かに対して怒り狂っているのだ。
「こんなところに抜け穴を作って俺が見抜けないとでも思っているのか! おい!」
 と虚空に腕を振っている。幻の誰かを殴りたくて仕方がないようだ。
 そしてその怒声は徐々に怯えの色が混じり始めた。
「くそっ、くそっ、ばかやろう! やめろ、やめろ! こわい! こわいよう! たすけて、たすけてようぅぅ!」
 男は膝から崩れ落ち、顔に爪を立ててかきむしり、喉をひくつかせて泣きじゃくった。
 雄一郎はたまらず床に視線を落とした。
「まだ先は長いぞ」
「もういいよ」
「次は『16』番だ」
「もういい。もう十分だ」
 雄一郎は下を向いたまま呟いた。
 第二雄一郎はその声色の真意を調べるように、雄一郎をじいっと見つめた。
「わかった。では最後にもうひとつだけ。『24』を見にいこう。これで最後だ」
 うつむいた雄一郎は首を横に振りながらも、第二雄一郎が自分に課した挑戦に最後まで付き合わなければならないと感じていた。

雄一郎は、虚しいままの眼差しを『24』番の窓の中に差し向けた。
 その瞬間、時が止まった。
 虚しさに支配され、茫漠としていたその視線が、絶望的な像を結んだ。
「翔太…」
 瞼を震わせ、呆然と呟いた。
 窓の向こうには、布団の中で体をこちら向きに横たえ、見るからにやせ細り、口をだらしなく開け、よだれを頬にひとすじ垂らし、中空をぼうっと眺めて薄ら笑いを浮かべている、心神喪失した息子の姿があった。
「どういうことだ…」
 雄一郎は窓に向かって、ほとんど声にならないほど小さな声を吐いた。
 窓ガラスに両手をあて、もう一度、
「どういうことだ…」
 今度はもう少しだけ大きな声で、しかし喉を震わせながら。
 すると突然、ふつふつと怒りが湧いてきた。
「どういうことだ!」
 雄一郎は第二雄一郎の胸ぐらを掴んだ。
「お前、翔太になにをした! なんで翔太がこんなところにいるんだ! 翔太がなんでこんなことになってるんだ! お前はなにやってるんだ!」
 第二雄一郎は、顎にまで押し上げてくる雄一郎の両手を握り潰すほどの力をこめて掴み、
「俺が聞きたいよ」
 突如として目に怒りをたぎらせ、殺意に近い迫力のある声で言った。
 第二雄一郎は、抵抗する雄一郎の手を振り払い、
「どうだ、満足か!」
 ずっと押し殺していた感情が一気に爆発した。これまでは冷徹さの鎧をまとわなければ平常心でいることなどできなかった。まるで自分が獰猛なマンモスを閉じこめた永久凍土にでもなったかのように、冷徹さだけを貫き通してきたのだ。それが今初めて、全身が焼け焦げるほどの怒りと憎しみが燃え盛っている。誰に? 目の前のこの男だ!
 第二雄一郎は、雄一郎の頬を思いきり殴った。
 雄一郎は床に倒れこみ、口からつうっと血を流し、第二雄一郎をきつく睨みあげた。
 第二雄一郎は肩を震わしながら、
「これがお前のやっていることだ! 俺がなにをやっているかだって? 幸せに暮らしていただけだよ! 翔太と美奈子と、三人で幸せに暮らしていたんだ! それがどうだ! お年玉だ! バレンタインだ! クリスマスだなんだ! 浮かれた連中が、好き勝手しやがって、翔太をダメにしたんだ! 金だの、オモチャだの、チョコレートだの! 街を歩けば子どもになにかあげたいヤツがうようよいるよ! 翔太はな! 登下校の途中でもいっぱい物をもらったんだ! 誰がこんな危険な世の中にしたんだ? ああ? 答えてみろ、雄一郎! なあ雄一郎!」
 雄一郎の口は愕然と開いたまま、その瞳は第二雄一郎の胸元あたりで苦しげに揺れ動いている。
 怒りに侵された第二雄一郎は、さらに雄一郎に馬乗りになろうと足を踏み出したとき、
「やめてください!」
 遠くから女性看護師が走ってきた。
「こんなところでなにをしているんですか!」
 二人の緊迫した空気をよそにスリッパがパタパタと床を鳴らす音が廊下に滑稽に響きわたる。
 第二雄一郎はその足音を耳にして、沸騰していたはずの怒りが急速に悲しみへと変わっていくのを感じ、泣きそうになった。
 その足元で雄一郎は仰向けになって真っ白いだけの震える天井を見つめていた。

《12》
 病院を追い出された二人は井の頭公園で、池に向かって並ぶベンチに座っている。
「気づけなかった俺も俺だ。俺は仕事で遅くまでいなかったから、翔太が寝静まった頃にしか帰宅しなかった」
 二人は冷静さを取り戻していた。
「美奈子はどうした」
「贈呈中毒で二階に入院しているよ。さっきのリハビリ室にはいなかったみたいだけどな」
「見なくてよかったよ。もし見てたら気が狂いそうだ」
 雄一郎は、池の水面につきそうでつかない、垂れさがった桜の木の枝の先を見ながら言った。
 憐憫。頬の痛みとともに芽生えたその感情が雄一郎の心を解かし始めていた。
「美奈子は二年前に初めて翔太にクリスマスプレゼントをあげた。俺はやめろと言ったんだ。物自体は特別なものじゃない、積み木の知育玩具だよ。だけどプレゼントという行為は、翔太だけでなく美奈子も変えてしまった。あんなに喜ぶ翔太の顔を見ればそうなってしまうのもわかる。もう一度この子を同じように喜ばせてあげたいってな。去年からは誕生日とクリスマスにプレゼントをあげるようになった。でも彼女はそれだけじゃ我慢できなくなったんだ。なんでもない日にも、オモチャや洋服をプレゼントするようになった。俺は『きちんと貸付帳簿をつけろ』と言ったよ。でもダメだった。『貸付じゃダメなの! プレゼントじゃなきゃダメなの!』って怒るんだ。それから彼女は情緒が不安定になって、ことあるごとに俺に怒るようになったんだ」
 雄一郎は返す言葉に詰まった。
 この世界を壊す一員として来ている自分が、慰めの言葉を言う資格があるだろうか。
「なあ、お前は誰なんだ? 教えてくれないか」
 第二雄一郎は、小さく揺れる岸辺の水面を見つめて言った。
 雄一郎は目を閉じた。
〈どうすればいい〉
 その問いかけはギブオールズとしての自分にではなく、裸の良心を持つ自分に向けられていた。
「俺は…」
 と話しかけたのは、第二雄一郎だった。
「俺は、警視庁公安部、治安維持課の秘密捜査チームのメンバーだ。しかしこれだけは言っておく。お前の存在をまだチームの誰にもバラしていない。信じるか信じないかは、お前次第だ」
 夕日が映えてほの赤い水面に映った木の枝が、風で揺れる。そこをひと組の鴨の親子がすうっと泳いでいく。鴨の親子の航路が水面に複雑な波紋をつくり、木の枝がかき消え、また揺らめきながら浮かび上がる。
「俺はこの世界の人間じゃないんだ」
 雄一郎は、滔々と良心のおもむくまま、正確に、緻密に、自身を語り始めた。

黒々とした桜の木々の遠い背後で、夕日が桃色の柔らかい髪の毛をなびかせながら落ちていく。そよ風もひんやりとし、地面に落ちる木々の影が夜の闇に紛れ始めた頃、雄一郎はすべてを話し終えた。
「少し、歩こうか」
 第二雄一郎が提案した。
 二人は池の中央にかかった銀色のアーチ状の橋を渡り、背の高い木々に囲まれた小径をゆっくり歩いた。二人はどちらからも話しかけることなく、堅い土をかかとが擦る音だけが聞こえている。夜闇がこの森をどっぷりと浸しきるには、まだもう少しだけ時間がある。
 ふいに第二雄一郎が立ち止まった。池のほとりに、野球のピッチャーマウンドほどにこんもりと盛りあがった草むらがある。雄一郎は薄闇の中で目を凝らした。そこに、漬物石くらいの大きさの十数匹の小狐の石像がある。駆けているもの、飛び跳ねるもの、体を丸めてスヤスヤ眠っているもの、二匹でじゃれあっているもの、振り返っているもの、いろんな小狐の瞬間瞬間が切り取られ、小さな丘の草原で憩っている。
〈ここは…たしか日本では稲荷神社の焼け跡がある場所だ〉
 雄一郎の住む日本ではその昔、この場所に稲荷神社があったのだが、数十年前に火事で焼失していた。それから立ち入り禁止の縄が張られたままになっていて、今では誰も思い出す人もなければ、焼け跡に手を合わせる人もいない。しかし第二日本では、そこが石の小狐たちの園になっている。
「この森には昔、狐がたくさん住んでいたそうだよ」
 第二雄一郎は小狐たちに優しい眼差しを投げかけている。
「この国の子どもたちもこの狐たちみたいに楽しい時間を過ごしていたんだ」
「すまない」
 雄一郎は悔いるように言った。
「なあ」
 第二雄一郎は薄闇の中、瞳に儚さをたたえ、ポツリと言った。
「人生を交換しないか」
 雄一郎は第二雄一郎の顔を見た。
 その表情は、すでに闇がもたらす陰影ではっきりとは読み取れない。第二雄一郎も雄一郎に顔を向けた。しかしその顔もまた、闇にまぎれていた。二人は風のざわめきの中、しばらく無言のまま立ち尽くした。

《13》
 二人が贈与中毒中央病院を訪れてから一ヶ月と少しが経っていた。今年は暖冬になると予報されていた通り、12月上旬の空は太陽の光が乾いた空気をきりりと磨き、比較的過ごしやすい日々が続いていた。
 そんなある日、第二雄一郎は数日間、秘密操作チームの上司である竹田に福岡に出張に行くと連絡し、仲間の前から姿を消していた。そして今日、雄一郎はファイヤー通りのマンションの自室で全身鏡の前に立ち、
〈新しい俺の始まりだ〉
 としげしげと自分の顔を眺めまわして満足げにニヤッと笑った。
 額の生え際にしっかり白髪が生えている。頬を触ると、今までシリコンを入れて膨れていた頬とは違い、すっと手でさすれる。これこそ本物の自分の頬だ。しかもこの疲れた顔。目尻に小じわが刻まれ、張りがなくなった老齢の皮膚。
〈準備は万端だな〉
 数時間前に声帯変換カプセルも飲んだ。そろそろ効き始めてくる頃だろう。
〈これまではこちらの世界の声帯変換カプセルを飲み続けてきたけど、あちらの世界のカプセルはどんなもんかな〉
 雄一郎は、あー、あーと何度か声を出して、これまで聞いていた雄一郎の声に近づいていることを確認した。
 今日からはニットキャップもかぶらなくていい。伸ばしっぱなしだった髪の毛をきれいにカットしパーマをかけた。それをムースで整え、無造作なウェーブを作る。レクチャーを受けた通りの自分になった。雄一郎はまんざらでもない表情を浮かべると、頬を二、三度パンパンと叩き、トレンチコートをはおった。
 玄関でローファーを履くと足がぴったりとはまる。その場で足踏みしてみても靴の甲に走る横皺も同じ位置だ。まるっきり自分の靴じゃないか。
 そうして雄一郎は初めてのゴミ拾いに出かけようとしたとき、突然玄関のインターフォンが鳴った。
〈……誰だ?〉
 瞬間的に緊張感が走った。
 ドアのレンズを覗いてみると、宅急便の配達員が大きなダンボール箱を両腕で抱えて立っている。これまでの浮かれた気分がかき消え、職業的な警戒感が全身を包んだ。
「はい」
 雄一郎はドア越しに返事をした。
「お荷物をお届けにまいりましたー」
 配達員が快活な声で答える。
「なにか届く予定あったかなあ。荷物、なんでしょうか? 」
 とぼけたふりをして配達員に尋ねた。
「メリークリスマス! クリスマスプレゼントです」
 ドアの向こうのその言葉に、雄一郎はギクリとした。
〈知らない顔だ…しかし俺がギブオールズの顔を判別できないことが問題なのではない。もしこの男がギブオールズを捕らえて合言葉を吐かせた秘密調査チームのメンバーだったら…当然変装しているから俺でも見分けつかない。もしそうだったら俺は仲間にやられることになるのか〉
「メリークリスマス」
 雄一郎はレンズをじっと覗きながら答えた。そして、
「サンタさんはいまごろどこにいるんでしょうかねえ」
 と、のんきな声で尋ねた。
「今はちょうど井上さんちじゃないですか、サンタさんも配達忙しそうですよ」
 と配達員はあけすけに笑った。
「いま開けます」
 雄一郎が意を決してドアを開けると、配達員は玄関の内側に荷物を置き、
「こちらお荷物です。ここにサインいいですか?」
 しゃがんで箱のラベルを指さした。
 雄一郎も膝を折り、ラベルに注意深く目を走らせる。
 そこには『内容物 ダイビンググッズ一式』と書かれていてる。
「こちらのお荷物、日付指定になっております。当社、お客様確認を推奨しておりまして、一緒に日付をご確認いただいてよろしいでしょうか? 間違いありませんね?」
 配達員はラベルの上部に小さく記載された日付、『12月15日』をペンで差した。
「ええ、間違いありません。ありがとうございます」
 雄一郎はそう言ってラベルにサインをした。
「ありがとうございまーす!」
 配達員は帽子のつばをつまみ、日に焼けた笑顔を見せて駆け足で去っていった。
 雄一郎はしゃがみこんだまま、
〈ふう、ギブオールズだったか〉
 左手をダンボール箱に乗せ、その中身を想像した。
〈いよいよだな〉
 口元に笑みを浮かべるとコートの下でブルっと武者震いをした。

第二雄一郎は、シリコン製のボディパーツにまだ慣れていなかった。
〈よくもまあ、あいつはこんな暑苦しいものを服の下につけてたもんだ〉
二の腕、胸、腹、尻、太もも、ふくらはぎにそれぞれぼってりしたシリコンパッドを装着して動くとすこし汗ばんだ。頬には口の中からシリコンパッドを張りつけて、膨らませていた。これは数週間馴染ませないと、頬の皮膚が突っ張って見えてしまい、口の中になにかを入れているのがすぐにバレる。今日まで第二雄一郎はマンションにいるときはいつもこのシリコンを頬の内側に装着し、皮膚を伸ばすことに執心していた。

センター街の入り口で、第二雄一郎はニットキャップの内側に指を入れて髪の毛を掻きながら、
「おはようございます。いつもお疲れさまです」
と膨れた頬で挨拶をした。
「ああ、どうもどうも、おはようございます」
 雄一郎がにっこり返してくれた。
〈上出来じゃないか〉
 第二雄一郎は、雄一郎の姿を見てほくそ笑んだ。
 そこで思わず眉間をぎゅっとしたくなったが、キッと強く顔を張り、我慢した。
〈我慢することを俺は学んだんだ〉
「あ、修太郎さーん、おはようございまーす!」
 第二雄一郎は遠くにいる隆にニットキャップをとって深々と頭をさげた。
 隆は短い癖っ毛を掻きながら、
「どうもどうも、おはようございます」
 とほがらかな笑顔を見せてくれた。
〈隆、雄一郎を頼んだぞ〉
 そう心で呟くとニットキャップをかぶり直し、ゴミを拾うために下を向いた。第二雄一郎は卒業式を迎えた学生のように、胸にたまらなく惜別の情が広がった。後ろ髪が引かれるような気がするのに、どこか爽やかで、健やかな気持ちもある。
〈もうすぐ帰還の日か…〉
 第二雄一郎は感傷的な眼差しで冬晴れの空を見上げると、口の中のシリコンを舌の先でペロペロと舐めた。それが第二雄一郎の新しい癖になっていた。

 12月15日、深夜。それまで煌々と輝いていた赤銅色の月が、地引き網のような広い雲に絡めとられ、うっすらと姿を隠した。
 雄一郎は代々木の森に密やかに潜入し、清純な水をたたえる泉の前に立っている。雄一郎が着いて数分後に隆もやって来た。二人はウェットスーツを着込み、圧縮空気タンクを背負った。そのとき背後で枯葉を踏む小さな足音がした。野生の小動物が一匹近くにいるようだ。
〈悪い、悪い、別にお前のシマを邪魔しに来たわけじゃないよ。すぐ出て行くから〉
 雄一郎は姿の見えないこちらの世界の最後の住人に語りかけると、
「1時になった」
 サイバーパンクを嬉しそうに見つめた。
「行こうか」
 隆がゴミ拾いのときとは別人のような意思の強い目をした。
〈こいつ、いい男だな〉
 あいつから聞いていた通りだ、と雄一郎は思いながらフルフェイスマスクを装着した。
「お先に」
 隆が勢いよく泉に体を沈めると、今まで隠れていたはずの赤い月が急に顔を出し、水面でぐしゃぐしゃに潰れた。

月が再び雲の奥に姿を消し、水面に映るものがなくなると、雄一郎はひとりになった。森の闇に浸されて自分の姿が見えなくなると、静寂だけが存在として屹立してくる。
 雄一郎はサイバーパンクで時間を確認した。
〈そろそろだな〉
 泉にそっと足を入れる。水の冷たさはまるで氷に触れるようだ。
〈じゃあな、雄一郎〉
 雄一郎はほの白い夜空を見上げた。
〈わかってるよ、体がビリビリするんだろ?〉
 なぜだか話しかけられたような気がして、すこしばかり緊張が解けた。
 雄一郎は夜空を見上げたまま静かに体を泉に沈めた。水面は自らの沈潜の勢いで縦横無尽に揺れ、その奥にある曇天の夜空も揺れていた。雄一郎はその揺らめきに、一瞬自分が新しい角膜を手に入れたような感覚がした。しかし、すぐさま身をひるがえし、水底へとその姿を消していった。

同じ頃、ガード下脇にある3Dホログラム赤提灯が灯る居酒屋で、第二雄一郎は三杯目のYEBISUのJUNKを空きっ腹に流しこんでいた。
〈ずっと通ってたってのに、一見様かよ〉
 白髪のポニーテールと竹を割ったような性格で、男性客にも女性客にもほとんどのLGBT客にも人気のある老齢の女将は、妙になれれれしくしてくる小太りのお客に話しかけられる度にそっけない返事をしていた。女将は一見の客には冷たいが、通えば通うほど芯の強さと人情味を見せ始める。振り出しに戻ってしまった第二雄一郎はやるせなさに肩を落としていた。
〈いまごろは…〉
 ふと雄一郎のことを頭に浮かべた。
〈あれから俺たちはどれだけ二人きりで夜を明かしただろう。どれほどお互いの人生をこと細かに語り合っただろう。俺は俺のこれまでの人生すべてをお前にやった。お前は俺に、お前のこれまでの人生すべてをくれた〉

「人生を交換しないか」
 あの日の言葉を、そしてその続きを、カウンターに頬杖して思い浮かべていた。
「一生というわけではないんだ。しばらくの間だ。でもしばらくというのがどれくらいになるかはわからない。半年かもしれないし、一年かも二年かもしれない。お前の世界で、俺は贈与中毒を治す手がかりを見つけたい。薬ではなく、人々の力で立ち直る力を。暮らしの中に、手がかりがあると思うんだ」
 第二雄一郎は酒でほんのり温まった瞼を閉じ、遠く耳をすました。
「見つけたら必ず帰ってくる」
 薄暮の中、風が鳴らす木々の葉擦れに乗って、耳に届いたあの言葉。
〈お前の言葉には勇気があった。しかしその声には戸惑いがあった。だから俺は決めたんだ〉
 第二雄一郎は瞼の裏で、夕闇にまぎれた男の顔をもう一度覗きこんだ。
〈翔太にちゃんとクリスマスプレゼントあげてくれよ〉
 JUNKをグイグイっと喉を鳴らして流しこむと、雑な苦味が舌の上や喉の奥で峻烈に弾ける。これがなかなかどうして癖になる。雄一郎は女将にマグロのぶつ切りを注文すると、焼き鳥を焼いている女将は、はいよ、と背中を向けたまま返事をした。雄一郎は女将の背中越しに立ちのぼる香ばしい煙をぼんやりと眺めた。胸に広がったのは病院にいる翔太のことだった。
〈こっちの翔太は俺に任せろ。毎日面会に行くよ。たくさん話すよ。まだ大丈夫だって医者に言われたんだろ? あのときは薬が効いてたから、あんな感じだった。徐々に弱い薬にして、自分の意識を理解させて、中毒症状を克服していく。そのとき大事なのが親の愛情。そう言われたんだろ? なにもあげてはいけない。ただ毎日翔太が愛を実感できる日々を送る、それがなによりの薬だって。完全に回復するかどうかわからないけど、日常生活を送れるようになる、悲観してはいけない。そう医者に言われたんだろ? 任せろ、俺はやるよ〉
〈その前に… まずは美奈子を迎えに行こう。俺はお前の人生をまっとうする、お前が帰ってくるまで。いつかお前が帰ってきたときに家族といられるように。この誓いが俺からのクリスマスプレゼントだ〉
 第二雄一郎はカウンターにまで押し寄せてきた白煙に目をこすった。
〈でも気ををつけろよ。行き帰りに体がビリビリするからな〉
こすった目にじわっと涙が滲むと、無性に笑いがこみあげた。
「JUNK、もう一杯」
 注文してから、手元のジョッキをぐいっとあおった。
〈それにしてもこの体のシリコンパーツにはどうしても違和感が消えない。明日、竹田に変装をチェンジしていいか相談してみようか〉
 思案しながら、ぶよぶよの腹を人差し指でつついた。
〈そうだ、明日は隆をここに連れてこよう。あいつ喜ぶぞ〉
 途端に賀茂茄子みたいな顔を溌剌と輝かせた。
 こちらの世界にも竹田もいれば隆もいるのだ。それが第二雄一郎の気を慰め、軽くしてくれた。
 それから第二雄一郎は贅沢をしてフランス産の日本酒をちびちびちとお代わりし、最後の客になるまでゆっくりと一人の酩酊の時間を愉しんだ。女将に、また来るよ、と外に出て、チェスターコートの襟を立てると、月の見えない夜空を見上げた。
 大きな雲が夜空をマンタのように雄大に泳いでいく。
「美奈子、翔太、ただいま」
 第二雄一郎は雲に一点、淡く沁みた赤い月明りに、にっこり笑いかけた。

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