贄とオロチと

印刷

梗 概

贄とオロチと

 「贄」の少女が「オロチ」に食い殺される。
 だがオロチに食われたはずの少女が、何事もなかったかのようにこの世に蘇る。少女の名前はカザシといい「不死」である。そして蘇ったカザシを迎えるもう一人の少女、タツミ。
 
 カザシは不死であるがゆえに生まれ故郷の住民から忌み嫌われ、両親が亡くなると里を離れ孤独な旅を続けてきた。放浪の果てにカザシはある洞窟に辿り着き、タツミという少女に出会う。
 タツミは語る。この国には蛇や猿など異なる姿をした八体のオロチが存在し、生きた人間を贄として捧げる必要がある。贄を捧げない場合はオロチの怒りに触れ、その地域は滅ぼされてしまう。この洞窟はオロチの「巣」であり、ここにいたオロチは千年前に退治されてしまったが今また蘇りつつあるという。
 カザシは不死である自らがオロチの贄となることでこの国を救うことを決意する。
 
 カザシに付き従うタツミはカザシを「食らう」――タツミは「人」の姿をしたオロチなのだ。
 タツミはカザシと出会った際にカザシを食らっていた。だが不死のため蘇るカザシを「食い切る」ことはできない。そのためタツミは永遠にカザシしか食べられぬ体となった。千年もの間贄を食らわなかったタツミは贄を食らい続ける必要があるため、カザシに同行することにしたのだ。
 それは一度カザシを食らった他のオロチも同様であり、カザシは永遠にオロチに食われ続ける運命を背負うこととなった。
 だがこの国は広い。カザシが全てのオロチの贄となることは不可能である。「救う命を選別している」というタツミの言葉にカザシは反論できない。
 
 そんな中「いつものように」カザシがオロチに食われる寸前に、突然少年が現れオロチを剣で斬り殺した。少年はナギと名乗り、全てのオロチを殺しこの国を救おうとしていることを告げる。
 戻ってきたカザシをタツミは食らおうとしない。「オロチを殺した者の臭いがする」と。千年前に自らの体を貫いた剣、その臭いがナギに触れたカザシに染み付いていた。タツミの体はカザシを受け付けなくなった。だが他の者を食らうこともできない。
 贄を食えなくなった自分が他の者を襲うかもしれない、そう考えたタツミはカザシに自分の側にいてほしいと懇願する。タツミはいつしかカザシの思いに同調していた。二人は逃避行を始める。
 ナギは次々とオロチを殺していく。ナギはオロチの居場所が分かる。ナギは必ずタツミを見つけ出し、殺す。
 衰えたタツミは二人が出会った洞窟を最期の場所に決めた。暗闇の中タツミはカザシに思いを伝える。今のカザシには自分の姿が見えず不安なはずだが、それはカザシを食らった後に一人残される自分が常に抱いていた感情、そのものであろうと。
 タツミは自らが殺される様を見られぬよう、ナギに追い付かれる間際にカザシを強引に食い殺した。
 蘇ったカザシが見たものはナギ一人だけ。タツミの姿はどこにも見えない。

文字数:1200

内容に関するアピール

 この作品における「強く正しいヒーロー」が誰を想定しているかというと、「人間の敵であるオロチを殺す」ナギです。
 オロチであるタツミはどれだけ行動や思考が人間に近くても、「人間を殺す」という一点だけで「人間社会にあってはならない」存在です。カザシの行動はオロチとの「共存」を図っているようにも見えますが、いずれは破綻する運命にあります。
 この物語は現実における「病気の撲滅に挑む化学者」と同じ構造だと言えます。病原体の「意思」がどうであろうと、人間の命を脅かす限り化学者はそれを「排除」する必要があります。
 ナギも化学者も強く正しいヒーローです、人間にとっては。この物語はヒーローに殺される側の視点から書かれているにすぎません。
 
 ――というのは建前で、いま流行りの「百合SF」を書きたかっただけというのが本音です。
 オロチは「宇宙生物」という裏設定があるので、これはSFです。嘘です、いま考えました。

文字数:400

印刷

贄とオロチと

 一切の光が差し込まぬ、墨で塗り潰したかのような空間。そこに松明という筆をもって、ちりちりと煌めく炎で僅かばかりの色を描いていく。闇が光に置き換わり、ここが山に穿つ洞穴の内側であることが分かる。
 松明を片手に洞穴に進み入る者が一人。松明の炎が照らす者は、このような面妖な場には似付かわしくない、少女である。
 少女が見つめるのは、粉々に破壊された駕篭。
「『オロチ』に壊されるというのに、何故このような無意味なものをこしらえるというのか……」
 少女は松明を高く掲げる。炎は惨劇の痕跡を照らす。ありとあらゆる「体液」がこびり付いた地面と壁。天井にも飛び散っている。どれだけの「贄」がオロチに食われたのであろうか、古の贄たちの証が、生々しく残り続けている。
 そんな中、少女は「音」を聞く。壁から垂れ落ちる、血――オロチに食われた贄の、成れの果て。ぽたりぽたりと、静寂を埋め合わせていく。
 少女は垂れ落ちる血を、その掌で受け止める。炎を通して見ると、血は黒く見える。洞穴の暗闇とさほど変わりはない。
 再び音が聞こえてくる。血溜まりから、「形」が這い出てくる。血溜まりの深さは足の甲ほどの高さしかないはずだ。だが這い出たそれの高さは、血溜まりの深さを優に超えていた。
 血溜まりの縁に「指」がかかる。指は縁を掴み、自らの「体」を持ち上げていく。そして中央から「髪」が見えてきた。血で重くなった髪。そして次に見えるのは、「顔」――先ほどオロチに食われたはずの、「乙女」の顔。
 乙女は池から上がるかのように、血溜まりから地面に這い上がった。乙女は裸であった。裸だからこそ今の乙女の状況が分かる。乙女は何一つ傷付いていない。オロチになど食われず、まるで今この瞬間に産声を上げたかのような、無垢の姿。
「ただいま!」
 血塗れの乙女が叫ぶ。
「さっきのオロチ、『蛇』の姿をしてたんだよ! すっごく大きくて、目が赤く光ってて、気付いたら私、駕篭ごと壁に叩き付けられちゃった。
 ――そのときにからよく分からないんだけど、やっぱり私、丸呑みにされたのかな? 蛇のオロチだから、きっとそうなんだよね!」 
「御託はいい、カザシ」
 カザシという名の乙女を出迎えた少女が、持参してきたボロ布を差し出した。
「ひとまずこれで体を拭け。『オロチの巣』を出て西に行けば川が流れている。そこで血を洗い流せ。着物を着るのはそれからだ」
「タツミちゃん、ありがとう!」
 タツミと呼ばれる少女に、カザシは礼を言う。
「……いい加減にわらわを子供扱いするな」
「だってどこからどう見ても子供じゃない、タツミちゃんは」
「妾の助けを借りているこの状況で、そんなことを言える立場なのか?」
「それはそうなんだけど……」
 カザシがはにかむ。
「とりあえず、これでこの村はしばらくは大丈夫なんだよね」
 松明の炎を頼りに体中の血を拭きながら、カザシはタツミに問いかける。
「あぁ、蛇のオロチにカザシという贄を捧げた。これで当面はこの村も無事だろう――当面は、な」
 血を拭き取りながら、カザシは真剣な表情でタツミを見つめている。
「だが覚えておけ。この道を選んだのはカザシ、お主自身だ。本来オロチは『別』の贄を求める存在。お主のような『不死』の贄を食らうことなど想定しておらぬ。
 お主が不死であり贄となってもこの世に蘇るがゆえに、オロチは贄を完全に己のものとすることができぬのだ。オロチの有り様を歪めたのは、カザシだ。それを忘れるな」
 タツミは洞穴の入口に向かって歩き出す。
「ちょっと待ってよ!」
 カザシが慌ててタツミに追い付き、タツミの腕を掴む。
「な、何をする?」
 カザシの穏やかな表情に、タツミがたじろぐ。だがカザシはタツミのそんな動揺を見て見ぬ振りをする。
「……でもタツミちゃんは、そんな私の我儘わがままに付き合ってくれたんでしょ? ありがとう――」
「そ、そのような理由ではなく……えぇい、妾の腕を掴むな、さっさと離せ!」
「嫌だよ、離すつもりなんてないからね!」
 カザシがタツミの腕を強引に振り回す。
「……小娘め」
「私より子に、そんなこと言われたくないなぁ」
 タツミが顔をしかめる。そんなタツミを尻目に、カザシはタツミにもたれかかる。
 
 
 カザシが不死となった理由は定かではない。カザシが人魚の肉を食らったのか、あるいは前世の業が招いたものであるのか。様々な理由が考えられるものの、カザシの生まれ育った里は海など見えぬ山の奥深くであり、人魚の肉を食らったとは考えにくい。ましてや、カザシの前世など確かめようもない。
 「理由の分からぬもの」を前にして、人は二通りの反応を迫られる。一つは、神聖なるものとして崇拝する。そしてもう一つは、不浄なるものとして忌み嫌う。カザシは後者として扱われた。そもそもカザシの故郷は容易には他者を寄せ付けぬ場所にあり、そうした要因からか里の住民は自分たちと「異なる」ものを排除しようとする傾向にあった。
 カザシはわらべたちに殺された。木の枝で目を刺され、片手では持てぬほどの石で頭を潰された。だがカザシは蘇る。目に開いた穴が塞がり、漏れ出た脳髄もいつの間にか頭の中に収まっており、むくりとその場に立ち上がるのである。
 「死体が残る」からカザシは蘇る。そう判断した者たちは、カザシを火にくべた。硬直し黒化したカザシは人としての姿を保っていたため、火が収まった後に里の者たちはカザシの死体を磨り潰した。長い時間をかけてカザシは黒い粉となり、里の者たちは数回に分けて粉を山の奥に撒いて捨てた。
 だが里の者たちが山から村に戻ると、裸のカザシが自ら焼かれた場所に立ちすくんでいるのを目にした。里の者たちはカザシを抱きかかえ山まで戻り、そこで再び殺した。里に戻ると、またカザシがそこにいた。
 カザシはどんな手段を用いても、この世からは消えない。そして必ずしも「自らが殺された場所」で蘇るわけではない。カザシは不死であり、死んでも「自らが望む場所」で蘇る。
 カザシは「愛」に飢えていた。カザシは必ず両親の下に帰ろうとした。だが生みの親が我が子を慈しむとは限らない。両親にもカザシが不死である理由は分からぬ。ただ言えることは、両親もまたカザシを忌み嫌っているということであった。
 両親がどれだけカザシを邪険に扱おうとも、カザシは両親にまとわりつく。カザシに食事は与えられない。一月も経てばカザシは飢えて死ぬが、カザシは飢える前の姿で蘇る。納屋に閉じ込め適度に食事を与え死なせぬようにしようとも、カザシが食事を拒めばいとも容易く死ぬ。そして納屋の外で蘇る。
 そもそもカザシが殺されるのは「忌み嫌われている」からなのだが、カザシにはそうした感情を理解できない。自らが異なるであることは自覚しているが、何故異なるを受けるのかまでは理解できない。
 そんなカザシも、両親が亡くなると何かが変わってしまったことに気付いた。両親が亡くなった理由を、カザシは知らされなかった。葬儀に出ることすら許されなかった。だが両親が住んでいた家に戻っても、両親が眠る墓を訪ねても、カザシは両親に会うことができない。カザシは「死」の本当の意味を知らなかった。が、幾度となく両親のいた場所を訪れそして村の者に殺されることを繰り返すことで、カザシにも「死」の意味するところが分かるようになってきた。死なないのは己一人だけ。他の者は死ぬ。死ねば二度とその者には会えぬ。両親には二度と会えぬ。
 カザシは村を去った。当て所もなくさ迷い続けた。山を下り、川で溺れ、蘇り、町を歩き、戦に巻き込まれ矢が刺さり、蘇り、山を上り、雪に埋もれ凍え死に、蘇る。
 どれだけの時間が過ぎただろうか。カザシは不死ではあっても「不老」ではない。村を出たときには幼子だったカザシも、身なりさえ整えれば「乙女」と形容される歳に成長していたことは事実である。だがカザシは自らの年齢など知らない。年齢の概念を理解できない。
 カザシには学が無かった。誰一人として彼女に知恵を授けず、この世のことわりを知らぬまま、カザシはこの世を彷徨し続けていた。
 
 
 季節すら分からぬ。雪は降ってはいないが、だからといって今が冬ではないという保証すらどこにもない。ここがどこなのか、故郷の東なのか西なのか南なのか北なのかすら分からない。そもそもカザシには方角という概念がない。
 それでもここに辿り着いたということだけは、紛れもない事実である。
 岩肌を穿つ、穴である。入口の高さはカザシよりも低い。そこに入ろうなど、まず誰も思わぬであろう。だがおりしも雨足が強まり、大粒の雨が周囲を叩き付けていた。
 カザシは濡れるのを嫌がった。かつて雨に濡れたことにより高熱を発して死んだことがあった。苦しみは感じない。だが、体が動かせなくなることをカザシは嫌がった。カザシは死ぬことよりも、生きることを選んだ。
 カザシが屈み込み、穴の中に入る。狭いのは入口だけであった。実際の穴には、広がりがあった。
 吸い込まれるような、それでいて人を拒む、空虚。
 日の光が空虚の先を照らそうとしている。だが日の光は空を覆う雲によって弱まっている。先は、おぼろげにしか見えない。
 カザシは穴の先を見ることを諦めた。そして入口の方に向き直り、外の世界を漠然と眺めていた。雨を見て、雨を聞く。雨に対して思うことなど、カザシには無い。雨に対して感傷的になることなど、カザシには無い。カザシはそうした感情を持ち合わせていない。カザシは考えない。難しいことも、簡単なことも。考えなければ、時間は過ぎていく。そのうちに雨も止むだろう――そして、一体どこに行けばいいのか。それすらも、考えることはしなかった。
「お主、何をしておる?」
 カザシは突然何者かに声を掛けられた。カザシが振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。カザシより先に、この場で雨が止むのを待っていたのだろうか。
 年齢はとお前後か、その少女はカザシが見下ろすほどの背丈しかない。だが着物はどうだ。カザシはこれまで多くの町を回ったが、目の前の少女のような着物を着た者は見たことがなかった。カザシは芸を解さぬが、それでもなお「豪奢」であると感じざるを得なかった。僅かに差し込む日の光から、赤に照り輝く布地に何かが編まれていることが分かる。だがカザシはそれが何であるのか分からなかった。カザシはそれが「竜」という存在であることを知らなかった。
 では何故このような着物を着た少女が、このような人の気配のしない、薄暗い場所に――そうカザシが思う間に、少女はつかつかとカザシの下に近付いてきた。
 カザシは思わず声を掛けた。
「誰?」
 薄暗闇の中にいる少女が、目を細める。
「お主が勝手に妾の下に来たのであろう。まずはお主が己のことを言うのが先決だ。お主こそ誰だ、早く名乗れ」
「私はカザシ。あなたは?」
「……それだけか?」
「……何で?」
 カザシには常識というものが無い。カザシは単に「名乗れ」と言われたから自分の名前を名乗っただけにすぎない。カザシにそれ以上のことは期待できない。
「……まぁいいだろう。カザシ、か。妾の名はタツミだ。お主が己の名しか名乗らぬのなら、妾もそれだけでいいだろう。して、何故お主は『オロチの巣』に迷い込んだのだ? このような呪われた場所に来て一体何の用がある?」
「オロチ……って何?」
 タツミが一瞬眉を潜める。
「お主、オロチを知らぬのか? 一体どこから来たのだ?」
「どこって言われても……私、知らない」
「知らないとはどういうことだ?」
「親が死んでから、一人で旅をしてたの。ずっとずっと歩いてたから、ここがどこかも分からないし、里への帰り方も分からない」
女子おなご一人でか? 正気かお主?」
「でもタツミちゃんだって一人じゃない? 女の子一人じゃ危ないよ?」
「タツミ……、だと……?」
 タツミが呆気に取られた顔を見せる。
「……お主と話していると、調子が狂う。まぁ、何も知らぬお主にオロチのことについて説明してやろう。
 端的に言う。この国の各地には、八体のオロチが存在している。八体のオロチはそれぞれ姿が異なっておる。例えば蛇や猿といった、お主もよく知っておるであろう姿だ。
 そしてオロチは『巣』と呼ばれる穴の中で、年に一度一人の贄を食らう。贄を食らわなければ、オロチは怒りに震えて人を襲い、殺し尽くす。それだけはどのオロチも同じだ」
 タツミは淡々と説明を続ける。
「――正確には、八体、だな。妾とお主がいるここも、オロチの巣だ。
 ここにいたオロチは、千年前に剣で貫かれた。だがオロチは致命傷こそ負ったものの、死んだのは剣を持った者の方だった。傷付いたオロチは長きに渡り傷を癒やしながら、再び贄を食らうそのときを待っているのだ――」
 タツミの顔がカザシの眼前に迫る。タツミの目に、蔑みの感情が見え隠れしている。
「して、ここまで言えば妾が何を意図しておるかくらい、お主にも分かるであろう? ここのオロチはもうすぐ蘇る。いや、既に蘇っておる! 何も知らずにここに辿り着いた、眼前の贄を食らわんとして――」
 タツミが舌をなめずり、蠱惑的な笑みを浮かべる。
 ――だが、カザシには物事の真意が分からぬ。
「そうなんだ、タツミちゃんもここにいるオロチの『贄』なんだね!」
「……ん?」
 思わぬ回答に戸惑うタツミ。が、それを尻目にカザシがまくし立てる。
「それでこんなに綺麗な着物を着て、たった一人で――でも大丈夫だよ、私が贄っていうのになるよ! だから安心して!」
「お主、ちょっと待て、何を言っておるのか自分でも分かっておるのか?」
 狼狽するタツミ。だがカザシにはタツミが見えていない。タツミの手を握り、妄想とも言える感情を吐露し続ける。
「それにね、他の所では今もずっとオロチっていうのがいるんでしょ? 色んな人を食べちゃってるんでしょ? そんなの駄目だよ、私、駄目だと思う!
 ……決めた、これまで何もできなくていつも馬鹿にされてきた私だけど、やっと分かった――私、オロチの贄になる! オロチの贄になって、皆を救うんだ!」
「……馬鹿か、馬鹿なのか、お主? 妾の言うことを聞いておったのか? オロチは八体いるのだぞ、一体だけではないのだぞ! どのようにして八体のオロチに食われるというのだ?」
「……え? 全部のオロチに食べられるつもりだけど……?」
 狂っている。タツミはそう感じた。そして「狂人」であるカザシが、穴の奥に向かって叫ぶ。
「オロチさん、もう起きてるんでしょう? 早くこっちに来て、この私を食べなさいよ!」
 理解の及ばぬカザシの蛮行に、タツミは一瞬頭を抱えた。だが、すぐに目的を思い出す。カザシは穴の奥を見つめている。タツミを見てはいない。タツミに気付いてはいない。
 タツミはカザシの肩に静かに手を掛けた――。 
 
 
「――それにしても欲の無い奴だのう。確かにあの村は豊かであるとは言えぬが、貧しいとも言えぬ。と呼べるものを貰えただろうに」
「だから『桃』を貰ったんだよ?」
 二人は既に村から離れている――蛇のオロチの贄となった村。村はもう見えない。二人についてくる者もいない。この世は二人を中心に動いている。
「桃など日持ちせぬ。それほどの桃をお主一人で食い切れるのか?」
「だからタツミちゃんも食べたら――」
「食えぬと言っておるだろう!」
 突然の大声に驚いたカザシは、桃を一つ落としてしまう。幸い桃は草むらに落ちた。潰れてはいない。
「全く……」
 カザシが桃を拾い上げる。そして、しげしげと眺める。
「……」
 無言で、タツミが桃をしゃくりと噛んだ。途端に、咽せ込む。
 タツミはほんの僅かだけ食いちぎった桃を、カザシが手にしている袋に入れ直した。
「不味い。とてもではないが、食えたものではない」
 タツミは口をぬぐう。
「ただお主の舌を否定する気は無い。だが、何故そこまで頑なに桃にこだわる?」
「だって、美味しいから」
「それ以外に理由は無いのか?」
「ずっと前に桃を食べたことがあるの。木にってたから、食べてみたの。凄く美味しかった。でもその後で男の人に捕まっちゃった。その人、とても怒ってた。だから私、棒で殴られた。何度も殴られて、私は死んじゃったの。
 ――それでね、さっきの村で桃が生ってたから、桃が欲しいなって、桃が食べたいなって思ったの。オロチの贄になって皆を助けたら、桃を貰おうってずっと思ってたの」
 タツミは困惑した。カザシは「善悪」の区別に乏しい。カザシはオロチの贄となって人を助けると宣言した。だがカザシ自身はそれまで人に助けられたことが無いばかりか、人の道を踏み外していたではないか。
 タツミはその矛盾の理由を考えようとした。が、途中で諦めた。カザシは。そもそも死の概念も曖昧模糊としており、人の命が大切なものであるということは理解しているが、己の命を「桃」と同程度にしか感じていないという、歪んだ価値観しか持ち合わせていない。
 タツミは溜息を吐く。
「何故このような輩と行動を共にせねばならぬのだ――」
 独り言を呟いたつもりだったが、全てカザシの耳に届いていた。
「あー、またそんなこと言ってる! 悪口を言うのは駄目なんだよ!」
「妾は『人』ではない、『人のオロチ』だ! 人の常識とやらに構う必要などどこにもない!」
 タツミの剣幕に、カザシは怯える。
「タツミちゃん……」
 だがカザシは桃を抱えたまま、タツミに肉薄する。
「……怒ってるの? お腹が空いてるから機嫌が悪いんだよね? じゃあ、お腹一杯になろうよ。元気になろうよ、ね?」
 タツミはカザシの純真な眼差しに耐えられず、顔を背けた。
「そう何度もお主を食えるか! 第一お主の着物が、血で汚れる」
「血で汚れるのは慣れてるよ?」
「馬鹿か、血で汚れた着物を羽織ったまま人の通う道をのこのこと歩けるか、この餓鬼が!」
「餓鬼じゃないもん、私、子供じゃないもん!」
「そういうところが餓鬼だと言っておるのだ!」
 タツミの肩が打ち震える。
「くそ……何故妾はこんな餓鬼をのか……」
「それも運命だよ!」
 カザシが大声を張り上げた。
「タツミちゃん、私に出会えて本当に良かったよね! いつでも私のこと、食べ放題なんだよ!」
「黙れ! 妾も好き好んでお主ばかりを食らっているわけではないのだぞ……。
 ――ええい分かった、そんなに食われて欲しければ、妾についてこい!」
 カザシは犬のように従順にタツミに従った。二人は人の歩く道から外れ、林の中に辿り着く。獣道すらなく、二人の足が茂みを薙ぎ倒していく。
「桃を置け。着物を脱げ。脱いだ着物は木の枝にでもかけろ」
 カザシはタツミの言うことに従い、桃を置き、着物をはだけた。カザシは不死だが、その肉体が不死という言葉に見合うほどのものであるとは到底言えない。痩せ細り、胸の膨らみはなく、肉と呼べるものは僅かにしか付いていない。「若さ」だけが贄としてのカザシの特徴であり、これまでも、そしてこれからも「乙女」という言葉でしか形容できないような存在であった。
 そんなカザシをタツミは「贄」としか捉えていない。そのはずだった。
 眼前のカザシの肉を食らいながら、カザシのはらわたの一部を口から垂らしながら、タツミはカザシに問いかける。
「オロチは、贄を食らう必要がある。食い終えれば、一年はその力を保つことができる。ただ妾は千年もの間贄を食らわなかった。ゆえに贄を食らい続ける必要がある。
 ――だがカザシは不死だ。不死の存在は何度でも蘇るがゆえに、妾はお主を。妾は永遠に、お主という贄を体となった。お主以外を贄として受け付けることが、どう足掻あがこうともできなくなってしまったのだ……」
 カザシはまだ生きている。
「そうだよ、良かったよね、もう他の人を食べなくても済むんだから……」
「ふざけるな! お主の……お主のせいで妾は……!」
 カザシがゆっくりと両腕を持ち上げた。そして自らを食らうタツミを、抱きしめる。
「……美味しい……?」
 タツミはカザシの胃を取り出し、一飲みにする。だが途中で咽せ、胃を吐き出す。消化しきれていない桃が、オロチの唾液に塗れ毒々しく輝く。
「……桃は不味い。が、カザシは美味い」
「……そう……でも、そんな私のことを『美味しい』って言ってくれて、嬉しいよ……」
「そんなことはどうでもいい……どうでもいいのだ。妾は……腹が減って――」
 カザシが笑みを浮かべる。カザシの命が尽きかけている。何百何千と死を繰り返したカザシは、何百何千と最期の表情を浮かべ続ける。
「ほら……やっぱり……お腹が空いていたんだよね……」
「だ、黙れ!」
 タツミはカザシから腸を引きずり出す。肋骨も外す。臓腑も骨も、何の区別もなく口に入れ、咀嚼し、胃に注ぎ込む。
「……何も知らず、何も考えず、眼前のことにしか興味を示さず、オロチの贄となり、ただ桃を頬張ればそれだけでいいという――浅薄で、馬鹿で、無能で、生きる意味の無い、死ぬ意味のある――カザシ、そんなお主の側に妾はおらねばならぬのだぞ……!」
 既に事切れているカザシに向かって、タツミが一人叫び続ける。
 
 
「カザシは怒っておるのか?」
 空と山肌が白という同一の色に包まれている。ちらつく雪は、カザシの肌に触れてもしばらくは溶ける気配が無い。カザシの肌もまた、雪と同一の色である。
「答えろ」
「……嫌」
 震えるカザシの声。
「見捨てるなんて、できない」
「できるできぬの問題ではない。の問題だ」
「でも……」
「自らの理解を超えた状況に陥ると、思考を放棄しようとするのがお主の悪い癖だ。いい加減にしろ」
 カザシは振り返る。木々の切れ目から、村が見える。オロチに呪われ、贄を捧げ、生き長らえる村。山腹からだと村の者は小さな蟻のようにしか見えない。そしてその蟻が、蟻地獄たるオロチの巣に吸い込まれている。
「間に合わぬのだ」
 タツミは腕組みをしながらカザシに告げる。
「贄を欲する時期は、確かにそれぞれのオロチによって異なる。だが、それがということはどうしても起こりえることだ。
 カザシは全てのオロチの贄となることはできぬ。この国は広いからの、お主のような貧弱な足腰では、全てのオロチの巣を訪れることなど無理だ」
「無理じゃないもん!」
 カザシの顔が赤く染まる。カザシがここまで感情を露わにすることは稀である。
「頑張ったら、私行けるよ! 間に合うはずだよ! 私、皆の代わりに贄になるって、決めたんだ。それをタツミちゃんが『無理だ』って言ってるだけなんだ! おかしいよ、そんなの!」
 カザシが村の方角に振り返り、走り出そうとする――が、タツミが即座にカザシの肩を掴み、強引に引き寄せる。
「ちょっとタツミちゃん、何するの――」
「何がおかしいのだ?」
 タツミがカザシの左耳を食む。
「カザシは強情だ。こうでもして止めぬと、妾を無視してあの村のオロチに食われに行くのだろう?」
 左耳を食いちぎる。タツミが、カザシの耳の歯触りを堪能する。
「カザシはオロチに食われるしか能の無い存在にすぎぬ。うぬぼれるな。お主に力など無い」
「でも――」
「仮にお主があの村のオロチの贄になることができたとしよう」
 カザシの耳の穴から、血が流れ落ちる。タツミはそれを舐める。
「妾がお主しか食えぬようになったように――他のオロチも一度カザシを食らったら、ようになる。
 なるほど、確かに今あのオロチに食われれば、村の者に感謝されよう。だが次の贄の時期にはどうなる? 先日お主を食らったオロチとあそこの巣にいるオロチは、贄を食らう時期が近い。
 次に何が起こるかは、妾にも分からぬ。例えば今よりも雪が積もっているかもしれぬ。それだけでオロチの巣への到着が数日は遅れる。オロチはお主を待たぬ。オロチはお主以外の贄を食らえぬ。ゆえにオロチは村を滅ぼす。お主が守りたかった者が、皆死ぬ」
 耳の穴に向かって、カザシが囁く。
「だが今回妾がお主を止めたことにより、あの村は一人を贄に出すだけで済んだ。皆まで死なぬ。次に死ぬのは一人だけ、その次もまた一人。お主が贄にならぬことで、あの村は救われたのだ」
 タツミは今度はカザシの右耳に口を這わせる。
「教えてやろう、カザシのしようとしていることはにすぎぬ。己を知らぬとは、何と罪深きことよ」
 右耳を食む。
「お主は妾がおらぬと何もできんのだ。妾がおらぬと、道を踏み外す。おとなしく、妾の言う通りにしておけばよい――」
 カザシが両手を強く握りしめた。
「でも、タツミちゃんだってもう私しか食べることができないんでしょ? 私の言う通りにしないといけないのは、タツミちゃんだって同じだよ」
 タツミは何も言わずに右耳を食べ続ける。カザシは痛みを感じない。右耳がなくなっても聴覚自体がなくならない限り、カザシは自らの意思をタツミに伝え続ける。
「そうか。それもそうではあるな。だが妾はお主以外を食えぬことなど、一切気にしておらぬ。美味だ。お主の五臓六腑はおろか、髪から爪まで全て美味だ。千年も前に食らった贄の味など、とうに忘れた。他のものでお主の味を例えることが、もう妾にはできぬ」
 そう言った側からタツミはカザシの髪を一本一本慈しむように引き抜き、口に流し入れる。
「妾はお主がおらぬとどうしようもならぬ。お主がおらぬと生きてはいけぬ。お主と出会っていなかったら、妾は誰もおらぬあの穴の中で永遠に来ぬ贄を待つばかりだったのだ」
 タツミがカザシの両目を覗き込んだ。タツミは己の指をカザシの目蓋に当て、強引に目を見開かせた。
「妾の顔が見えるか? よく見えるな。そう、お主はずっと妾を見ておればよい。そして妾も、永遠にお主だけを見続けることにしよう」
「タツミちゃん……」
 そしてタツミは、カザシの両目をくり抜いた。
「さあ、あの村で一人の贄がオロチに食い殺されることなど、見なかったことにしろ。忘れろ。一度妾に食われ、死んで、蘇れば、妾の言ったことも腑に落ちるはずだ」
 血の涙を流しながら、カザシは何かをタツミに訴えようとした。だがタツミの強欲がカザシを文字通り飲み込んでいったため、訴えは霧散した。
 
 
 二人は旅を続ける。国は広い。少女の脚では、一年に八体どころか五体のオロチの下にしか訪れることができない。しかもそのうちの一体はタツミである。
 カザシはオロチに食われ続けた。蛇のオロチに飲み込まれ、猿のオロチに頭をかち割られ、百足のオロチに肉体を締め付けられ、蜘蛛のオロチに全身を糸で巻かれる。いずれの経緯を辿ろうともカザシはやがてオロチの胃の中に消え、オロチが姿を消した後に血溜まりの中から這い上がってくる。
 カザシはタツミに向かって「ただいま」と言う。タツミは何も返さない。だがタツミはカザシの帰ってくるよすがであり、タツミもまたカザシを頼る外ないのであった。
 二人は互いを離れられない。カザシが四体のオロチとタツミの贄となることを繰り返して、どれほど経過したのだろうか。
「会ったときよりカザシは歳を取った。食える量もそれだけ増えた」
 そう呟いたタツミが、カザシの二の腕をさする。カザシの歳はいくつであろう、背が伸び、胸も膨らみ、肉付きも良くなったが、それでも頭は昔のままであった。
 一方タツミは以前と変わらぬ小さき姿を保っている。本来オロチは贄をことで成長を遂げる。タツミはカザシをにすぎない。それは永遠に終わることのない行為であり、これ以上タツミが成熟することはない。不死のカザシを胃に納め、己自身も限りなく不死に近い存在として、未熟なままこの世に留まり続ける。
 二人が出会った頃は、背丈は頭一つ分の違いしかなかったはずだ。だが短くもあれば長くもある年月を経ることによって、カザシとタツミの差は頭二つ分となった。
「タツミ、こっちにおいで」
 カザシがタツミの着物の襟を強引に掴み取り、胸元に引き寄せる。
「お腹、空いたでしょ」
 カザシの腕程度、タツミの力ならばいとも容易く引き剥がせるはずである。だがタツミは言われるがままに、カザシに吸い寄せられ、まるで赤子のようにカザシの胸元にむしゃぶりつき、食いちぎる。
 タツミは「味」でカザシを理解していた。人の感情は味に表れる。機嫌の良いときは美味い。悪いときは不味い。そうした単純な論理ではあるが、旅を続けていくにつれカザシの味が落ちていくことがタツミには気掛かりであった。
 何もかもが歪みきっている。カザシは食われることでしか己の生き方を肯定することができない。カザシはオロチに贄として食われる者を救おうとしていたはずだ。確かにその通りである。だが現実には全ての者を救うことはできない。カザシの代わりに残りの三体のオロチに食われ続ける、顔も知らぬ贄たち。
「美味しい……?」
 カザシは以前よりも笑うようになった。だが渇いた、空虚で、無意味な笑いである。笑えばいい。何が起きても笑い続ければ、馬鹿であり続ければ、どうとでもなるのだ。幸いカザシは殺されることで全てを終わらせることができる。笑えば笑うほど、早く死ぬことができる。何も考えずに死ぬことができる。
 タツミは思う。カザシは倒錯している、と。手段が目的と化している。そもそもカザシはその手段を選ばざるを得ない状況にある。それは不死以外に何も力を持たないという、一種の悲劇が生み出したものでもある。
「何、どうしたの……?」
 優しい声。「母」のような声だ。だがカザシは母から愛情を受けたことはない。それはカザシが概念として、願望として、想像として捉えている声。
「……変わったな、カザシは変わってしまった」
「……そう、かな……? でも……タツミちゃんは……ずっと……変わらなくて――」
 やがてカザシは動かなくなった。カザシの顔を覗き込むタツミ。カザシの顔は「慈愛」の表情を浮かべている――違う、「諦観」だ。カザシに知恵は無い。知恵が無いからこそ、強引にでも悟る必要があったのだろう。
 では己はどうか? 悟っているのか? 贄の輪廻――ここから解脱したいのか? それとも、この永劫の流転に身を委ねたいのか――?
 ――逡巡した後に、タツミはカザシの顔を食い破った。カザシを頭の先から足の先まで全て食らい尽くすのがタツミの常ではあるのだが、カザシの顔を食らう度に、タツミはしこりのようなものを己の胸の内に感じるのであった。
 
 
 松明の炎が消え、ほのかな残り香しか感じることのできない黒い静寂に閉ざされているとき、カザシは考える。だがそれは常にオロチの息遣いに乱され、そしてオロチに捕食されることで中断されてしまう。
 そのためカザシは贄として食われる際に感じていることが一体何なのか、自分でも捉えきれていなかった。初めてタツミ以外のオロチに食われようとしていたときにも同じことを感じていたのだろうか。それとも何度も同じことを繰り返していく間に、その考えも変容していったのだろうか。
 何度も繰り返した、儀式。死ぬことのできぬ贄と、食らい終えることのできぬオロチ。
 と同様に、異臭を放つオロチの息吹が駕篭の中にまで染み込んでいく。
 だがそれとは別に、カザシは「光」を感じていた。暗闇がうっすらと「緑」に上塗りされる。
 ――カザシはその光の色を、一度だけ見たことがあった。「蛍」だ。オロチの動きも止まっている。カザシは光に興味が湧いた。オロチに食われるというから抜け出したかったのかもしれない。カザシは駕篭の戸を開けた。そして、見た。
 それは細長い形をしていた。緑の光を「誰か」が手にしている――その者はオロチに、いや、カザシに近付いてくる。
 蛍は「剣」であった。
「助けに来ました」
 「少年」がカザシに声をかける。
「危ないから下がっていてください」
 カザシは言う通りに従い、駕篭から出て少年の後ろに下がる。カザシには何が起こっているのか分からない。カザシは食われる以外の術を知らない。ゆえに不測の事態に陥ると、頭が働かなくなる。
 少年がオロチに歩み寄る。オロチは闖入者の存在に一瞬だけ動きを止めていたが、少年が手にするものが剣であることを認識したのか、直ちに咆哮を上げ少年を威嚇する。
 だが少年は動じない。
「僕の名前はナギ」
 剣の切っ先をオロチに向ける。光が線となり、オロチの体表に緑の影を投げかける。
「オロチを、斬ります――!」
 オロチが頭から突っ込んでくる。ナギは右に展開してオロチの攻撃を誘導し、カザシに被害が及ばないようにする。オロチの口がナギを覆い隠そうとする寸前に、ナギは体を横にし、仰向けになった状態で剣をオロチに突き刺す。オロチは急には止まれず、剣がオロチの胴体に直線上の切れ込みを入れる。血が噴き出る。
 カザシはこれまでオロチの血を見たことがなかった。血を見るのは常に己のものだけであり、タツミの血ですら見たことはない。蛍の光で照らされているため本来の色を正確に図るのは困難ではあるが、人の血の色でないことだけは分かった。こぼれ落ちた血が石を焦がし、砂に変える。ただの血ではない。オロチの血は、それだけで危険であった。
 ナギはオロチの血を巧みにかわし、立ち上がる。オロチは呻き声を上げている。だが胴体を斬られた程度ではオロチは死なない。瞳の色の濃さが変わり、紅の輝きが増す。
 カザシには二つの光しか見えない。人の光、オロチの光。二つの相反する光が、対する光を打ち消さんとしている。
 オロチは大きく、この穴は狭すぎた。蛇の姿をしていながら、蛇のように胴体を獲物に巻き付けるということができない。毒牙をもって贄を掴み取ればいいだけであり、体躯を用いる必要性などどこにも存在しなかったのだ。オロチは存在であり、ことを想定していない。オロチは自らの頭を、直接ナギに向ける外ないのであった。
 それはオロチにとってはあまりにも不利であった。むしろ、一方的な虐殺とも言えた。オロチの発する光のうち、一つが消えた。右目か左目か分からぬが、どちらかが潰された。剣の先端から血が滴り落ちる。だが血は剣に留まることはなく、流水に浸したかのように全て流れ落ち、蛍の淡い光が血の存在を否定した。
 たじろぐオロチ。ナギがその一瞬を見過ごすはずもなかった。ナギはオロチの頭によじ上り、脳天に剣を突き刺した。オロチは声を上げることすらできない。もう一つの瞳の輝きが消え、もたげていた頭が力を失い、地面に叩き付けられる。オロチは贄を食らうことができなかった。オロチは剣に貫かれた。オロチは死んだ。オロチを人が殺した。
 静寂が訪れる。カザシにとっては初めて感じる無音であった。
 だが無音はすぐに破られる。ナギがカザシの方に振り向いた。剣は蛍の松明でもあった。剣は穴を照らし、ナギを照らす。ナギがカザシに近寄る。剣はカザシも照らす。
 オロチをほふった者とは思えぬほど、幼い顔立ちをしていた。外見だけで判断するならば、タツミとカザシの間ほどのであろうか。
「あの、私、カザシって言います」
 名乗らければならない、カザシはそう思い込んだ。カザシは本能的に自らの名前をナギに刻み付けようとした。カザシはその理由を説明できない。
「心配はいりません。この村にオロチはもう二度と現れません」
 ナギはカザシの手を取った。ナギの掌の熱が、カザシの掌に移っていく。それと同時に、光もまた体内に注ぎ込まれていくようにカザシには感じられた。
「さあ、早くここを出ましょう。カザシさんは、もうこんな怖い思いをしなくてもいいんです」
 「怖い思い」など、カザシは感じたこともなかった。カザシが感じていたのは、あくまでも「虚しい思い」だけであった。全てを救えないと知ったとき、カザシは考えることをやめていた。意味を見出すのをやめていた。だがナギが、そこに一つの意味を与えたのかもしれなかった。
「大丈夫。――」
 カザシは一瞬タツミのことを思った。だがナギの掌から溢れ出るものに溺れ、その心地よさに身を任せることしかできなかった。
 
 
「カザシ……誰に会った?」
 険しい顔を浮かべるタツミを前に、カザシは逡巡した。オロチを殺す者と会ってきた――その事実をタツミに伝えるべきではないことなど、カザシにも分かっていた。だがカザシは嘘を貫くのが不得手であった。カザシの表情は真実を覆い隠すのではなく、逆にその裏にある真実を白日の下に晒す役割を果たしていた。
「臭うぞ」
 タツミはカザシの体を嗅ぐ。そして顔を背ける。
「お主の体から、悪臭が漂っておる。そして、オロチの臭いがせぬ」
 タツミは口元を抑えながら、カザシの顎を持ち上げた。
「カザシ、お主は。何故だ?」
「それはね、えっと……」
「偽りの理由すら思い浮かべることができぬのか?」
 タツミはカザシの口に指を突っ込み、舌を掴む。
「お主の舌は飾りか。事実を伝えろ、それが今のお主の成すべきことだ」
 タツミは自らの親指にカザシの唾液をしっとりと含ませる。指をカザシの口から引き抜き、カザシの唾液の染みついた親指を舐めた。タツミは顔をしかめる。
「誰にも会ってないよ、私――」
「見え透いた嘘を吐くな。お主の味で分かる。そして事実を言えぬことくらい、な……」
 タツミは唾を吐き出した。足下に付着した唾が泡立つが、曇天から落ちてきた幾筋の水滴によって即座に洗い流される。
「――オロチを殺した者は、男か?」
「……うん」
 カザシはこれ以上嘘を貫き通すことができなかった。だがタツミは動じない。
「カザシは人だ、例え不死であり、人から迫害されようとも、な。わざわざオロチの肩を持つ必要もあるまい。ただ――」
 タツミの背が僅かに震えていることに、カザシが気付かぬはずもなかった。
「――以前にも言ったであろう。覚えておるな? オロチは贄を食らわねばならぬ。そして贄を食らえねば、オロチは飢えて――」
「滅茶苦茶にしちゃう。色んな人を、たくさん殺しちゃう」
「そうだ。オロチは我儘な輩でな。腹が減っては、己自身を保てぬのだ。
 今の妾はどうだ? 妾はカザシしか食らえぬ。だが、今のお主には『オロチを殺す者の臭い』が染み付いておる。そんなものが食らえると思うか? 妾は先ほどお主の唾を舐めた。不味かった。不味くて不味くて、吐きそうになったわ。妾の胃から、これまでのお主を全て吐き出しそうになったわ!」
 雲の色が白色から灰色に変容し、降り注ぐ雫の数が増していく。雫はカザシとタツミの髪に落ち、髪を濡らし、髪を重くしていく。
「……妾はお主を食らえぬようになった。分かるな? では他の者を食らえというのか? それができぬから、妾はお主に付き従っていたのだ!
 妾は何を食らえばいい? もう何も食らえぬのだ。情けないのう、実に情けないのう! そして死ぬ前に、飢えの苦しみから、妾は必ず己を失うのだ。妾は必ず殺すのだ。食らうのではない、殺すのだ、壊すのだ、潰すのだ!」
 タツミの叫びが、カザシを震わせる。同時にタツミ自身をも震わせる。
「――これ以上は、言わぬでも分かるな? ……妾は、お主以外を――もう、カザシ以外のを――」
 カザシは黙ってタツミの背中に腕を回した。タツミもカザシも、感情を言葉で伝えるのが不得手である。だから、直に、触れる、触れ合う。
 タツミに、カザシの熱が染み込んだ。
「もう……。タツミちゃんは私がいないと、本当に、本当に何もできないんだから――」
 「妾を餓鬼扱いするな」、カザシはその声を聞いたような気がした。耳でなく、心で。
「……オロチを殺す者には、オロチを嗅ぎ分ける力がある。その者は必ず全てのオロチを見つけ出し、殺す。逃げ切ることなど、絶対にできぬ。仮に逃げ切ることができたとしても、それは妾が飢えて死んだときだ。
 ――妾とお主は、いつまでも共にはおれぬ。この関係が、明日急に終わることもありえるのだ。カザシは不死だ。そして妾はオロチだ。妾は永遠にお主を食らい続けるものだと思っていた。その永遠が、たった数年で終わるとはな……」
「そうじゃないよ」
 触れ合う二人の熱が溶け合う。
「永遠っていうのは、終わる終わらないで決まるものなんかじゃないよ。私、そう思ってるから――」
「……」
 雨音が、二人の思いをかき消していく。
 
 
 猿のオロチが死んだ。百足のオロチが死んだ。蜘蛛のオロチが死んだ。
 オロチが殺されていく。その事実は放浪を続ける二人の耳にも届き、何よりオロチであるタツミにはそれを感じ取る力がある。
 どこに行けばいいのか。二人は山を上る。見下ろす先の村では、ナギがオロチの死骸を掲げている。カザシはそのオロチに食われたことがなかった。カザシはそれが何のオロチであるのか分からなかった。
「あれがナギという者か。若いな」
「こんな遠くからでも見えるの? 凄いね……」
「一度はオロチを殺す者の顔を拝まねばならぬだろう」
「でも……」
 カザシはためらう。何故わざわざナギの下に近付こうとするのか。とうの昔に、そんな余裕などなくなってしまっていたというのに――カザシはその言葉を飲み込む。
「ほう、心配なようだな。妾を握る手が、震えておるぞ?」
 カザシはタツミの手を握り続けていた。タツミはカザシの手を離そうとする――が、それができない。カザシを食らわなくなり、既に半年が経過している。力が弱まっている。オロチが、小娘ごときに力で敵わぬまでに衰えてしまった。
 タツミはこれまでの逃避行を思い返していた。空腹により自我を失うこと数度。今のところは目の前にいるカザシだけで足りていた。食らうためではなく、破壊のための殺戮。殺すのが一人で済むように、二人は人のいない山の中を歩き続けていた。殺されたカザシの皮が木にへばりつき、骨は土に刺さり、臓腑から流れる汁に虫がたかる。カザシだけでは物足らぬタツミは、代わりに木を薙ぎ倒した。タツミが破壊した場所は、禿げ山と化した。
 だがタツミの不安は、予期もせぬ方向に進んでいた。自我を失ったところで、力が入らないのだ。今のタツミには、破壊するだけの力を持ち合わせていない。
 食らわぬと言ったタツミも、背に腹は替えられなかった。カザシを食おうと試みたことがある。だが、臭うのである。少なくともタツミにはそうとしか感じられなかった。オロチを屠る剣の臭い。カザシの体を口に含む度に、剣で体を貫かれた記憶が鮮明に蘇る。
 何故千年前のあのときに自分は死ななかったのか――そんなことを考えていても、一向にらちが明かなかった。あのときタツミを殺そうとした者にはがあった。その僅かな甘えにより、タツミに致命傷を与えるどころか、逆にタツミに返り討ちに遭うという末路を迎えたのだった。
 今オロチを屠り続けているナギは、情けという感情を持ち合わせていない。憤怒。憎悪。ナギという男には首尾一貫とした決意がある。全てのオロチを殺し、人を救う。
 タツミはカザシに連れられ、山を上り続ける。もはや自らの足をまともに動かすことすら難しい。足がもつれる。足首を捻る。倒れる。手を繋いだままのカザシも倒れる。土で汚れる。立ち上がれない。カザシが先に立ち上がる。タツミの動きが散漫になる。虫がタツミに這い寄る。虫を払うだけの力がタツミにはない。代わりにカザシがタツミに這い寄る虫を払う。虫が逃げる。タツミは虫の逃げた方向に目線を向ける。虫に向かって腕を伸ばすことすら覚束ない。今のタツミは、虫けら以下の存在にすぎない。
「タツミちゃん……」
 タツミが起き上がるのを、カザシが待っている。
 タツミは土を握りしめる。握りしめた土には、一枚の落葉が含まれていた。握ると、タツミの衰えた力でも簡単に砕け散った。
 タツミは頭だけをカザシに向けた。
「カザシ、妾と出会った場所を覚えておるな」
「当然だよ、忘れるわけなんてないよ」
 タツミが笑みを浮かべる。
「そうだな、そこは妾が初めてお主を食らった場所――そして、二度とお主から離れられぬ業を背負った場所」
「それに、私がタツミちゃんと一緒にいるって決めた場所」
「ふん、いつまでも妾を餓鬼扱いしおって……。だがすまぬが、今はカザシに無理をしてもらわねばならぬ――妾を、あの場所に連れて行ってはくれぬか……?」
「……うん、分かった」
 カザシはタツミを起こした。そしてタツミの肩に腕をかけ、タツミを引きるようにして山の奥に歩みを進めていった。
 
 
 眼前に広がる闇は、黒としか表現できない。それはカザシにとっても、タツミにとっても見慣れた風景であった。
「暗いよ、タツミちゃん」
 タツミを抱えたカザシが不安を訴える。
「心配するな、妾には暗闇がはっきりと見えておる」
 カザシがタツミと出会ったオロチの巣に立ち入る二人。明かりは灯していない。今は逆にタツミがカザシを導いている。だがその足下は覚束ない。何度も転ぶ。タツミは一人では立ち上がれない。手の感触だけを頼りに、カザシがタツミを立ち上がらせる。
「心配だよ……」
 赤い光が二つ、ぼんやりと浮かび上がっている。カザシが何度も見た、オロチの目――だがその光には、生気が無い。渇望が無い。殺意が無い。力が無い。
「己の心配でもしておれ。人でありながらオロチにくみする者など、ここ千年でお主が初めてだがな……」
「オロチだからじゃないよ」
 カザシは痩せ細ってしまったタツミの腕を、壊れないようにそっと自分の下に引き寄せた。
「タツミちゃんだから、だよ」
 無言。二人の足音だけが、地面、壁、天井に反響し、寂寥感を奏でている。
ことは、分かるか……?」
「……タツミちゃんが言うなら、そうなんだよね、きっと……」
 タツミの歩みが徐々に遅くなっていく。だが当の本人は、その事実に気付いてはいない。
「臭いが強くなっている。オロチを殺す者、ナギの臭いだ。ナギが手にする剣は、オロチに呼応する。それが現世うつしよであっても常世とこよであっても、奴は来る。来なければならぬ。そういう定めなのだ――奴にとっても、妾にとっても」
 タツミの呼吸が乱れてきた。カザシは何度か経験したことがある。喉を貫かれると、息が喉から漏れ出すのだ。そのときの音に、よく似ている。
「タツミちゃん、もう休もう、無理しちゃだめだよ」
「……幾度となく無理を重ねオロチの贄となり、人を救ってきたお主が言えることか? 妾はオロチだ。オロチの妾まで救いたいのか?」
「タツミちゃんは特別で――」
「何が特別だ? 妾も他のオロチと何ら変わりはない。千年振りに贄を食らったというだけで、妾も千年前にはカザシ以外のを食らってきたのだぞ」
 カザシは何も返せない。
「そこで何も反論できぬのが、お主の限界だな。学が無い。いいから学べ。学べばお主は賢くなる。人を食らうことしか知らぬもののことなど、一切合切忘れろ」
「私はタツミちゃんのこと、絶対に忘れないから!」
「ほう、それは殊勝な心掛けだな。だが、心掛けなら誰にだってできるぞ」
 タツミが咳き込んだ。何も見えない中で、微かな臭いがした。血の臭いがした。
「タツミちゃん……」
 カザシが声を震わせる。
「タツミちゃんの顔が見たいよ……。こんなに暗かったら、何も見えないよ――」
「そうか、妾の顔が見たいか。会いたいか。そうかそうか――」
 タツミは歩けなくなった。その場に屈み込み、地面に向かって咳をし続ける。咳の音が反響する。血が滴る音すらも反響するほどに。
「――妾はずっと感じていたぞ。贄としてお主を食らうとき、お主が現世から消えてしまうとき――妾の心にはある感情が浮かび上がっていたのだ。
 それは千年もの間、たった一人でここに待ち続けていたときには感じたことのない感情。胸が痛くなるのだ。心の臓の鼓動が早まるのだ。考えがまとまらなくなるのだ……!」
 タツミはカザシの手を離した。カザシの一瞬の不意を突き、タツミはカザシの手の届かない場所まで這いずる。
 タツミは叫ぶ。
「この暗闇では妾がどこにおるのか、分からぬだろう! 今のカザシは、妾に触れることもできぬ!
 知ってほしいのだ、妾の感じていたものが一体何であるかを――妾がお主を食らう度に、他のオロチがお主を食らう度に、妾は見えぬお主を必死になって探していたのだ!
 妾は一度――いや、何度か叫んだことがある。『カザシ、カザシはどこにおるのか!』と。幸いお主に妾の叫びを聞かれたことはなかった。お主は蘇る。妾に『ただいま』と言う。
 その『ただいま』までの間は、数刻にすぎぬ。お主が蘇らずに、常世から戻らぬことも決してない。分かっておる、そんなことは分かっておるのだ……!
 ……ならば一体何なのだ? カザシがおらぬ、お主の存在を、この目で、耳で、手で、舌で感じられぬ僅かな一時に感じる、この思いは――!」
 カザシはタツミの慟哭を、初めて聞いた。オロチの慟哭を、初めて聞いた。
 そして足音が――近付いてくる。
「タツミちゃん、ナギが――」
 這い寄ってきたタツミが、カザシの足を掴んだ。
「妾はナギとやらに殺されるであろう。そんなことくらい分かっておる。妾は人にとっての悪。そんなものはとうに覚悟はできておる。
 ……だが、妾はオロチだ。誇りがある。むざむざと殺されるわけにはいかぬのだ!」
 タツミがカザシの足を噛んだ。腱を引きちぎる。
「妾はナギを殺さねばならぬ。そのためには、贄が――カザシが必要なのだ……!」
 足の指を、脹脛ふくらはぎを、太股ふとももを、タツミは食い荒らしていく。支えを失ったカザシが倒れる。タツミがカザシにまたがる。タツミが咽せる。
「タツミちゃん、もういいよ、お願いだから!」
 制止しようとしたカザシの右手を、タツミは口に含み、噛みちぎった。
「不味い、カザシは不味い――」
 暖かい何かがカザシの胸に垂れてきた。カザシは食われていない左手でそれを掬い、口に入れた。塩の味がする――涙。
「だが、不思議だな。カザシはあのとき妾が食らった、『桃』の味がするではないか――。そうか、カザシはこんなものを『美味い美味い』と言って、顔をほころばせながら、一心不乱に食らっておったのだな――」
 巣に明かりが灯ってきた。剣の、蛍の、光。
「タツミちゃん――本当は、見られたくないんでしょ、私に……?」
 タツミは黙して食らい続ける。
「――ねぇ、嘘を吐いちゃ駄目なんだよ。私、タツミちゃんとずっと一緒にいるって決めてたんだから! まだ、一緒にいられるよね、そうだよね……? 
 ――ずるいよ、分かってよ、信じてよ、聞いてよ、答えてよ……お願いだから、タツミちゃん、タツミちゃん――」
 足音が大きくなるとともに光も広がっていったが、タツミの姿を目に焼き付ける前に、タツミの答えを耳に刻み込む前に、カザシは現世から姿を消した。
 
 
 光が目に入った。蛍の光、浄化の光。
「もしかして、カザシ……さん?」
 カザシは目を擦る。誰かの姿が目に映る。ナギだ。
「大丈夫ですか? それに血だらけで――うわっ!」
 ナギはカザシから目を背けた。
「き、着物を着てないじゃないですか……こ、困ったなぁ……」
 ナギの当惑がカザシに伝わる。
「えっと……そうだ!」
 カザシの前に一枚の布が投げかけられた。
「これを着物の代わりにしてください!」
 背を向いたまま、ナギはカザシに上擦った声をかけた。
「ありがとう……」
 カザシはナギの言う通りに、布を羽織った。暖かい。の温もりがする。
「も、もう見ても大丈夫ですか?」
 カザシは「はい」とだけ頷いた。カザシに向き直るナギ。ナギは優しく微笑み、カザシの下に駆け寄ろうとする。
 ふとカザシは我に返る。タツミの姿が見えない――そもそもタツミはこの世にいてはならない存在で、その記憶すらもこの世から忘れられてしまったのだろうか。
 カザシはナギの手にする剣を見つめる。光が輝き、直視するのも困難ではあるが――まだ一度も血を吸ったことのないような、そしてこれからも永遠に血を吸うことのないような、オロチを殺すという本来の役目を忘れてしまったかのような、美しい剣。
「それにしても、ここでカザシさんに会えるなんて……。怖くなかったですか、またオロチの贄にされて?」
 カザシは虚ろな表情を保ったまま、顔を動かすこともしない。ナギは返答を待たず、カザシの様子を確かめる。
「……どこも怪我をしていないようですね。これは何の血ですか?」
「これは――」
 カザシは一瞬だけ考えを巡らせた。
「――オロチの血。オロチは弱っていて、死にかけていて――」
 嘘と誠。ナギの表情が和らいでいく。
「確かにオロチの力は弱まっていました。まるで殺されるのを待っているようにしか見えませんでした」
 ナギはカザシの手を取る。タツミがカザシの手を取ったときの感触に、よく似ていた。
「でも僕がこの手で全てのオロチを殺しました。もう人々がオロチの贄になることに怯えなくてもいいんです」
 「私は怯えてなんかいない」――そう口から出掛かった。だがカザシは言えなかった。ナギは無邪気である。オロチを殺したこと以外は、タツミを殺したこと以外は――そんなナギを、カザシが責められるはずもなかった。ナギは人を救ったのだ。カザシを救ったのだ。例えそれが、カザシの意思に反することであったとしても。
 ナギはゆっくりとカザシを立たせた。ナギはカザシの頭一つ分だけ背が高かった。頭二つ分だけ背が低いタツミを見下ろすことに慣れていたカザシには、「見上げる」という行為が新鮮に感じられた。
「オロチのことなんて、早く忘れましょう。怖かった記憶も、楽しい記憶で塗り替えていけばいいんですよ。さぁ、僕と一緒に――」
 カザシはナギの背中を見つめる。誰かを守る、強き者の背中。タツミの背中は、どうであっただろうか。死期を悟る、弱き者となってしまったタツミの背中が、カザシの目に浮かぶ。カザシはそれ以前のタツミ――自分を食らい続けていたときのタツミを思い起こそうとしたが、早くもそれが難しくなっていることに気付いてしまった。
 入口が目に入ってきた。風が顔に当たる。日の光が差し込んでくる。剣の光も、日の光には勝てない。蛍の光がかき消され、二人の体は剣に照らされた緑の色ではなく、本来の色を取り戻す。
 カザシはまだ血が染み付いている自分の指を食んでみた。桃の味などしない。だが思った。これがタツミにとっての桃の味だと言うのならば、自分はもう二度と桃を食らうことはないだろうと――。
 外に出たカザシは、振り返った。光が、あるじを失った巣の奥にまで溶け込んでいた。

文字数:22396

課題提出者一覧