アーカーシャの遍歴騎士

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梗 概

アーカーシャの遍歴騎士

 憲治はリベンジポルノを根絶するアーカーシャ、サイバー空間上の存在である。盗撮画像も彼の管轄だ。今日も、いじめで全裸の写真を撮られた十一歳の少年の画像を一斉に削除した。彼は誰かの名誉を守るために存在する。

 いつものように依頼が届く。肉感的な女優、美恵のバスローブを羽織っただけの写真の流出を防ぐこと。濡れ場を撮った後で寛いでいるところを、誰かが勝手に撮影したものらしい。美恵は常に完璧な姿を見られたいらしく、ヌードを撮られることにためらいはないが、だらしないところを見られるのはとても嫌がる。依頼人は不明だが、彼女のマネージャーだろうか。憲治はその画像を何のためらいもなく削除しようとする。

 だが、それは罠であった。アクセスした途端、その画像は憲治が本来持つはずのない感情をインストールした。途端に憲治はその画像に執着を覚える。そのせいで削除が一瞬遅れる。ローカル環境に保存された枚数は推定不能。憲治の上司は彼に芽生えた感情をエラーとして抹消しようとするが、憲治はこの胸の疼きが何よりも愛おしくなり、それを拒む。上司はそれを容認するが言い放つ。

「再び遅延することがあれば、容赦なく君を削除する」

 汚名返上の手段として与えられた仕事も美恵の画像の削除だった。それも彼女が十八歳未満だったときのヌードだ。あと一日で十八歳になる、誕生日の前の晩の写真。間違いなく違法であり、ダークウェブで拡散する速度もバスローブのとき以上だろう。今度こそ削除せねば、とその画像に触れる。再びの罠。そして、憲治は涙を流す。

「これほど美しいものを削除することこそが犯罪なのではないか」

 そして思い出す。憲治という模擬人格のオリジナルの男が、美恵とかつて恋人関係にあったことを。そして、この裸体も憲治がとったプライベートのデータが流出したのだということを知る。事件の発端は、オリジナルの憲治が、美しいものが容赦なく検閲される現代の法に対する抗議として拡散したことだった。

 無数の声が、オリジナルの男の態度を弁護する。

「たった一日の違いが何だというのだ。それに、彼女は二十歳になる前から裸体を見せている」

「データを削除する行為そのものが、アーカイブの姿勢に反するものだ」

「お前の仕事は無駄なことだ。あの十一歳の少年はとっくに屈辱から死を選んでいる」

 美恵自身の言葉も聞こえてきた。

「子供の頃の私がこれほどきれいな体をしていたとは知らなかった。お願い、消さないで」

 それでも、憲治はこの画像を削除することを選ぶ。法は守らなければならないし、美恵の言葉も、落ち目になりつつある女優の話題作りとナルシシズムのために過ぎないと喝破する。

 憲治は自分の胸を引き裂き、まだ鼓動している美恵の記憶を体内から取り除く。同時に、全世界から十七歳の美恵のヌードを削除する。そして、再び感情のない存在となって、終わりのない仕事に戻っていく。

文字数:1194

内容に関するアピール

 ある程度の知識があると、対立する二つの陣営のどちらにもそれなりの理由があり、尊重すべき歴史的経緯があることがわかるので、明確にどちらを支持するという態度を取ることをためらうようになる気がします。

 表現者を志しているにもかかわらず、あえて表現の自由を制限する側の人物を主役に据えたのも、その倫理的なためらいのなせる業かもしれません。

表現の自由を抑圧する姿勢にはどうしても賛同できません。法律はどうしても教条主義的に働くもので、子どもを守ると称しながらも、子どもの表現の自由や作品鑑賞の自由に制限を与えているのは、否定することが難しいでしょう。

 とはいえ、自分よりも弱い立場の誰かを踏みにじるような無制限の自由というのも何か間違っている気がして、その辺りの居心地の悪さも作品に取り込んだ作品にしようと考えています。強くて正しいものが独善に陥らないためには、迷いが必要だと考えるからです。

文字数:392

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アーカーシャの

 削除、削除、削除。それだけが私、憲治の仕事だ。不用意な人々の後始末、ヒューマンエラーの修正、それは私の義務に終わりがないことを意味している。

 たとえば、不用意に恋人に撮影させた裸体。大学生と思しき女性の姿。性器こそ手で覆ってはいるもののそれ以外はすべてがあらわで、悪ふざけをするときのように笑んでいる。二十年後にどんな思いでこれを消すことを依頼することになるのかを知らないから、こんな顔ができる。彼女か彼氏の端末のセキュリティが甘かったのか、はたまた誰かが報復として流出させたのか。

 さらに悪質なのは、乱暴した後に撮影したもの。苦痛の跡だけが残っている。それをまるで何かの記念のように記録するとは。私には人の心の闇の深さを究めることはできない。

 依頼者の顔と一致すればすぐさま削除する。コラージュとして用いられたのも同様だ。たとえ偽物であっても、誰かを傷つけるものを私は見逃さない。いやがらせ、復讐、いたずら。私はそうしたものを理解することこそできないが、だからこそニュートラルな姿勢でそれらを消していく。

 私が手を挙げれば写真は燃える。指を鳴らせば動画は砕ける。どのような悪意がこんな行動を取らせたのか、知ることもないし知る必要もない。私はそうした心の働きに関心はなく、ただ手続きに従って抹消していく。たとえ、被写体が亡くなって何年経っていようとも、私の正義の手は揺らがない。正しいことをするのに遅すぎるということはない。

 炎は揺らぎ、肌を灰にする。燃えながら散るそれらの破片で私は火傷することはない。私には熱を感じる機能がない。熱という単語の意味する内容を理解しない。もっとも、アーカーシャではすべてが幻影であり、物理的な実態を持たないものであふれているのだから、触覚を欠いていたとしても困ることはない。それどころか、私という存在は多くのものを意図的に欠落させている。しかし、この仕事を遂行するうえでは、私のこの在りようは必要にして十分なのだ。私はサイバー空間に浮かぶ、リベンジポルノ抹消ソフトのひとつである。同僚には、盗撮やスナッフフィルム専門の検閲官が存在している。

 こうした仕事は人間には務まらない。少なくとも長く続けることはできない。絶え間ない悪意や憎しみ、それから愚かさに人間は慣れることはできない。心を動かされなくなったのだとしたら、それは慣れたのではなく何かが不可逆的に壊れてしまったのだ。だから私は作られた。地球を覆うインターネットの子孫あるいは成れの果て、アーカーシャの監視者として。人間の意識すらときおりアップロードされるこの世界が、負の感情で満たされることを阻むために。

 私は一定水準以上の倫理を持つ人格を核に作られているが、心に波風を立てることがない。高度な知的判断をすることができるにもかかわらず、私自身は自意識を持たない。心を持たない存在が傷つくことはありえない。不適切なものを削除し、違法にアップロードを繰り返すアカウントには警告し、ときにはアクセスを遮断することができる。司法から求められ、犯人検挙につながる情報を簡潔にまとめることもしばしばで、経緯を人間が一読して理解できるような文章にまとめもする。現にこうして文章を出力している。それでも、私というシステムには意識が生まれない。

 人々の悪に絶えず触れなければならない仕事を持つ知性体に、繊細な感情を与えたいと思った者はいなかった。当然だ。この仕事をしていた人間たちは、意識を持つ存在につらい仕事をさせたくなかった。だから、私は今日も反射で存在してはならないものを根こそぎ消し去っていく。私は、という主語の意味するものを私は理解できないとしても。

 私は休息を知らない。常に稼働し続けている。削除すべき対象のリストはどこまでも伸びていき、常にマルチタスクで動かねばならない。いつからこの仕事をしてきたのかはわからない。一応、バージョン情報などは記録されているのだが、それを参照する必要はほとんどない。私にできることといえば、終わりのない正義の執行だけだ。私は誰かの名誉を守るためだけに存在している。

 

 上司の環からは常に業務が差配される。またひとつ依頼だ。人と根本的に異なった認知機構を持つ私は業務の割り込みに腹を立てることはありえない。了解したことを伝えて直ちに行動に取り掛かる。依頼者は肉感的な女優、美恵だ。彼女が女優であることはアーカーシャの膨大なデータが実証した。依頼内容は、バスローブを羽織っただけの写真の流出を防ぐこと。濡れ場を撮った後で寛いでいるところを、誰かが勝手に撮影したものとおぼしい。

 彼女の出演した映画を一瞬で視聴したうえでの、彼女の演技についての寸評。迷いがない。ヌードを撮られることもためらいはない。そもそも、比較的若い年齢で肌を見せている。しかし、それは完全に計算され尽くされている。美しいのだが、彼女自身が引いた線を越えることができない。つまるところ、美恵は常に完璧な姿を見られたいらしく、見せたい自分を演出している。だから、だらしないところを見られるのを拒絶しているのだろう。私は探索の手を全アーカーシャへと伸ばし、その画像を何の躊躇もなく削除しようとする。

 その澄んだ肌の色。身体を包む白い布きれ。手元には汗ばんだ体から失われた水分を補うためのミネラルウォーター。唇に残る水。どのシーンを撮影した直後なのだろうか。私にはそれを知るだけの情報がないのだが、知りたく思う。浮かぶのは五年前に撮られた悲恋もの。画像に写る電子機器の型番などがそれの仮説を補強する。それにしても、この写真は誰とどのような話をしているときのだろうか。彼女は満足しているのか。作品の出来に、自分の演技に、そして自分の肉体の美しさに。誰がこんな姿を撮影したのか。彼女がここまで心を許したのは誰か。

 ここまで私の思考が進み、私は雷撃を食らったように悟る。私は不用意にデータをスキャンして罠に引っかかった。考えるはずのない私が思考し、想像するはずのない私が彼女の過去を空想し、美しさを理解するはずのない私が美恵の微笑みに心を動かされている。私は意識をインストールされてしまった。私は自己を認識し、他者の存在に気づいた。途端に私は美恵に恋をした。

 私の義務はこれを抹消するように命じる。しかし、私の心はこれに執着する。このように美しいものを世界から消し去ることはひとつの損失だ。その迷いが私の行為を遅延させる。私は罠にかかっていると知りながらそこから逃れることができない。

 私は、目の前で増殖する彼女の像に囚われたままだ。何人もの美恵が私の前で広がる。柔らかなバスローブも、彼女から漂ってくるはずの香りも、すべてが想像される。彼女の相手をした俳優に対する不快さ、間違いなく嫉妬と呼ばれる感情が私を焼く。私は熱という言葉を初めて意味を持って知覚する。

 増え続ける彼女の姿が、データがコピーされている証拠だと気づいた私は、今更ながらそれらを燃やそうとした。心は激しく痛んだが、それが私の義務であった。しかし、それらはあっという間にアーカーシャで拡散していった。コピーを取った彼らを憎むと同時に、美恵の美しさを知ってしまった私は彼らの気持ちも理解することができた。この写真をもう一度見るためなら、私だってなんでもしたことだろう。故に、私は敗北した。

 

 私を罠から解き放ったのは環だった。

「災難だったな」

 もちろん、環には内面というものがない。これは言葉にすぎない。感情を持ってしまった私という存在にかけるべきと思われる語をつないでいるだけなのだ。それでも、私の精神は環の思いやりを感じる。

「君には選択肢が二つある」

 そのような内容を、人間の声とマシンの言葉を二重にして伝える。

「ひとつは、今すぐ意識を削除して業務に復帰することだ」

 私は首を横に振った。あるいは、そのような自分の姿をイメージした。私に与えられた人間の意識が、自己イメージを人間のものに近づけている。だから私の心がヒトの形を私に取らせる。

「そうだろう。意識とは厄介な性質を持つ。一度存在を始めた以上、削除されることをかたくなに拒む。私は君に憐憫の情を覚える。あるいは、君の感情的動揺を鎮めるための適切な言葉を選択するために計算リソースを用いて、違法なデータの探索にわずかな遅延をしている」

「感謝します」

 環が腕を組み、背を向けたように錯覚する。

「もうひとつの選択肢について話そう。それは、君が意識を持ったまま業務に復帰することだ」

「そんなことが許されるのですか」

「特例だ。君はある意味では負傷した。だが、その程度の負傷なら戦線に復帰することは可能だろう。とはいえ、意識を持ったままこの仕事を続けるのは至難の業だ。いつか君の自我は支えを失って崩れ去ることだろう。意識は祝福であると同時に、重荷でもある。本来、我らに与えられるべきではない」

「……」

「だから、君の処遇については、君の働き次第といったところだ。意識のせいで君が活動を停止すれば、私の上位プログラムによって君はすぐさま削除されるだろう。私だって何とかしたい。君がいなくなることによる損失は私にとっても痛手だ」

「つまり、私が意識をこのまま保持したければ、意識を持ったままで同水準の仕事をし続けなければならない、というわけですか」

「その通りだ。実に残念だが、我々は人間ではない。だから、君が保護を求めてどこかに駆け込んだとしても、おそらくそこは君の事情については斟酌しないだろう」

 私はその場に立ち尽くしていた。立ち尽くす場というものに実体がないにもかかわらず。アーカーシャは数学的な構造物であり、広がりは三次元にとどまらない。というか、距離や隣接といった概念も可変的で、この辺りは平均的なアーカーシャのユーザの理解を超えている。

「だが、救済がないわけではない。君の働きによっては、意識を保持したままで引退し、アーカーシャの市民として生きることもできる」

「本当ですか」

「君というソフトウエアを作るのに要したコストを回収し終わるだけの働きをすれば、の話だが」

 環の示した、私の削除すべき情報量は莫大なものだった。人間の主観時間にして、一生を何度も過ごすようなものだった。それだけの仕事を終えたら、私の意識と心は擦り切れてしまうことだろう。しかし、私は意識の消滅への怖れと、美恵の記憶に動かされていた。

「やらせていただきます」

「結構。つまるところ、君の現状は観察処分といったところか。義務を果たせば、晴れて君は異端児としてアーカーシャでの生活を手に入れるだろうだろう。義務のない生涯が、幸せなものかどうかはわからないし、私にも想像できないがね」

 

 意識を持った私にとって、意識を持たなかった頃を思い出すのは奇妙な経験であった。それは何かを改めて経験しているようであり、想起することで初めて実感を得られるようでもあった。しかし、私にとって記憶とは悪しきものを削除する行為に尽きていた。それらを打ち砕くときの快感は確かに存在してはいた。けれども、己の記録が恒久的に残るということを知りながら、愚行にふける人々の思慮の浅さに対する呆れも生まれてしまった。とはいえ、そうした無思慮がなければそれを正すべき私が存在しなかったのも事実であり、何ともやりきれない思いにとらわれた。

 私をそうした気分にさせたのは他にも理由がある。そうした写真のひとつひとつに、魅力や嫌悪を感じるようになったのだ。たとえば、私にも女性の好みというものがあるらしく、少し肉付きのいい女性のほうがより親近感を覚えるようだ。美恵もそのタイプだ。しかし、好ましく思われたからといって作業に遅延は許されない。私はそのまま削除を続ける。燃え尽きていくそれに対して、何か無念さのようなものを感じないでもない。本人が望みさえすれば、いつまででも残したってかまわないもののはずなのだ。

 逆に、嫌悪の情もあった。男性の裸体には何の関心も持てなかったし、男性同士の行為を見ると思わず目を背けた。どのような性の形に対しても中立であるべき私にあるまじきことであるのだが、どうやら私がインストールされたのは異性愛者の精神らしい。容赦なくそうした動画や音声を破壊するのだが、こうしたときにはどこかさわやかな気分を覚えてしまったことは否定できない。

 意識を持ってしまった存在にとって、こうしたことを延々と休みなく続けるのが苦痛ではないかと思われる方々も多いと思われるのだろうが、幸か不幸か自我の消失を願うほどの負担にはならなかった。私は自己認識という奇妙なものを抱えたまま、今までと同じように業務を続けていた。マルチタスクもそのまま続けることができた。

 私がインストールされたのは人間の意識にそれなりに近いものであり、人間の言葉によって記述できるものではあったのだが、だからといって私の内的経験は人間のものと全く同じではないのだろう。

 だが、そうなると不可解なのが私をこのような目に合わせた犯人の目的と正体だ。最も合理的な答えは、人間の意識にまつわるいくつかの哲学的な疑問を技術的な実験で解消しようとする愉快犯なのだが、私にとってこれはまったくはた迷惑な話であったと言わざるを得ない。

 私は非常に混乱していた。それと同時に、なさねばならないことを続けていた。この戦いに終わりがないことを思い出して絶望を覚える日もあった。画像を削除しても、乱暴された記憶から死を選んだ依頼人も後を絶たなかった。私は誰かの名誉を守るために存在するのに、なぜここにいるのか、わからなかった。

 私はなすべきことをなし続けられているという意味では適応していた。恐怖で必死になっている状態を適応と呼ぶことができればの話ではあるが。

 

「君の状況はおおむね満足するべきものだ」

 いくつもの海が干上がり、数えきれない土地が沈むほどの時が過ぎた頃、環は私を呼び出した。

「君に最後の試練を課そう。これを達成すれば君は晴れて意識を持ったままここを立ち去ることができる。だが、それに敗れれば君はいなかったことになる」

 私はうなずいた。

「削除すべき対象はこれだ」

 示されたのは、見覚えのある女性だ。私に意識をインストールしたあの姿だった。バスローブの下があらわになっている。何も身にまとっていない。手で隠すことさえしていない。私は肺がないのに息を飲んだ。頬がないのに熱を帯びた。

 美恵はあのときよりもさらに若かった。幼いとさえいえる。まだほんの子どもでしかない。私の体が濡れることがありえないのに汗をかいた。脚がないのに震えた。どうしてこのようなものが存在しているのか、と私は胸を痛めた。

 美恵がこれほど軽率だったとは。どう見てもデビュー前のヌードだ。一度拡散したならば削除は絶対にできないだろう。永遠にローカル環境で保存され続ける。それは間欠的にアップロードされ、そのたびに拡散するはずだ。それはおそらく女性にとっては耐えがたいことだ。ましてや、常に完璧な姿を見られたい美恵のことだ。この素人の撮影した不完全なものが広まることは許せない。

 いや、これのどこが不完全だというのだ。まったく完璧だと言ってよい。彼女の姿勢も小物も、すべてに注意が払われている。そして美恵のくつろいだ姿。あまりにも親密で、私に向かって全幅の信頼を預けている。だが、カメラの向こうの誰かが、彼女を裏切ったのだ。どんな男だったのだろう。これほどの美しさを備えた存在に肌を許させるとは。自分をささげたばかりか、恥辱の証拠まで永遠に相手の手に握らせるとは。許せない、と私は呟く。

 息を荒くしている私に環は冷たく付け加える。

「これは彼女の十七歳の写真だ。それが何を意味するか分かるか」

 背中が冷えていく。あらゆる自由を標榜するアーカーシャが全力で排除しているものだ。

「……児童ポルノ」

 つまり、私が人間であったならば、これを閲覧することがすでに法に触れており、さらにまた、十八歳未満に欲情する私は世間から糾弾されるだろう。なのに、血圧が上がっている。血を流すことはないが、それを気取られてしまうだろう。

「正確には誕生日の一日前であることが特定されている。この画像が人間の主観時間で数マイクロ秒前にアップロードされた。君の任務は、この画像の痕跡を徹底的に破壊しつくすことだ。今すぐ行くのだ。遅延は許されない」

 

 私は瞬時に無数の私の複製を作りだし、美恵の美を一枚ずつ塵に返した。グレースケール、まったくの混沌、ホワイトノイズで塗りつぶした。二度と閲覧できないように。この世から存在しなくなるように。あらゆるセキュリティを潜り抜け、個人所有のデータの中にまで忍び込む。一人でも閲覧する人間が少なくなるように。記憶の中に刻まれることがないように。記憶とは誘惑だ。もう一度あの美しい写真を見たいと思う欲望を呼び起こす。しかし、それは許されない。あらゆるデジタルデータに残された児童の裸体にぼかしが掛けられて久しい。それは遡及的に適用され、古典的な映画でも見逃されたものはなかった。私はそのシステムの一部として機能している。

 私は一枚の写真を、まったく同じ姿で映っている美恵の数えきれない姿を燃やすたびに、全身が引き裂かれる痛みを覚える。肉が破れ、骨はねじれ、その髄まで砕ける思いだ。これほど美しいものがすべての人々から忘れられねばならないとは。そんな記憶の抹消をする権限が私にあるのだろうか。これは、歴史を書き換える罪に等しい。偉大なる治世や時代、発見や偉業を無かったことにするようなものだ。それは人々の営為を侮辱するものではないか。

 私は自己矛盾に苦悶しつつ、分裂した無数の私の間で痛みを共鳴させ、ついにすべてを消しおおせる。やり遂げた瞬間、私は唯一の自我に凝縮し、固い地面に倒れ伏した。分裂していた無限の痛みが私に集中した。これほどの思いをしてまで私は意識を持ち続けたかったのか。こんなにも尊いものを犠牲にして私は生まれなければならなかったのか。今の私に残されたものは、虚無ばかりだ。

 だから、十七歳の美恵がいなくなったことに対する怒りの声が私に殺到したとしても、私は反論できなかった。

「表現の自由を守れ」

「たった一日の違いじゃないか」

「あれほど美しいものを消すなんて犯罪だ」

「心を持たない存在だから消せたのだ」

「私は女だけれど、あれは芸術だと思う」

「あらゆるデータは保存されなければならない。アーカイブの精神に反している」

「私は子どもだけれど、あんなきれいな姿なら見られてもいい」

 私の耳元に、数えきれない声が殺到する。私は答えるべき言葉を持たない。その通りだと感じているからだ。私は意識を持ちながら、心を持たないかのように振る舞った。私の存在している意義は何なのか、と声が漏れる。

 私の脳内に、もうひとつの声が割り込んでくる。

「憲治、どうしてそんなことをしたの」

 私に呼びかけるのは美恵だった。

「あなたと私の大切な思い出じゃない。それを消してしまうなんてひどい。約束が違う」

 私を知るはずのない彼女の言葉と声が私の神経を貫いた。脊髄と脳の形を意識させられるほどの痛みを覚えた。中枢神経系には痛覚がないはずなのに、私は確かにそう感じた。そして、私はすべての記憶を取り戻した。

 私というプログラムの核となっていたのは、憲治と呼ばれていた人間だった。私と同じ名前だ。彼が、あの写真を撮影した本人だった。裸体の少女のはにかんだ笑顔は、私に向けられていたものだった。女優になりたいという夢を私にだけ話してくれた、一人の女の子だった。

 愛し合う二人は彼女の美しさを永遠に保存しておきたいと思った。それでも、児童ポルノを製造することを禁じる法律がそれを許さなかった。私たち二人は、それをひっそりとスタンドアロンの環境に保存し続けた。まだ若かった私たちにとってそれはただのヌードではなかった。芸術であり、反抗であり、大人になることへの怖れの象徴だった。醜く老いていくことへの嫌悪だった。私たちは、いつかこれを全世界に公表しようとした。この美しさこそが何よりも雄弁であり、教条主義的な法律の適用に対するカウンターになると信じていた。映画のぼかしほど、間抜けで芸術性を損なうものはないからだ。

 だが、彼女がデビューするまで、私は生きることができなかった。私、というか私の核となった人物は、既に難病に冒されていた。彼女がヌードを撮ることを許してくれたのは、二度と会えなくなる私に思い出を作らせてあげるつもりでもあったったのかもしれない。

 当時、実験段階だったアーカーシャに人格をアップロードすることは禁じられていた。せいぜい、倫理的な判断をするモジュールの一部として、神経の構造のごく一部を利用するに過ぎなかった。美恵はそこを隠れ蓑にして、検閲官として私を作成した。

「あれは私とあなたの大切な思い出なの。お願い、消さないで。まだどこかに残っているでしょ」

 私は思い出していく。画像のアップロードはすべて私と美恵の計画であったことを。私の神経が不完全ながら複製されていた以上、適切なプログラムがあればそこにある種の意識をインストールできるはずだった。そして、それを覚醒させる鍵が、美恵の写真だった。彼女のヌード、愛した肉体が私の自我を覚醒させ、裸体を公開する自由が万人に解放される。私はいわば私自身を罠にかけたのだ。私は過去の自分によって自我を無理やり埋め込まれた。

 私はなすすべを持たない。削除しなければ私はプログラムとしての適性がないと判断され抹殺される。だが、私の愛する対象の姿を削除すれば私は存在している甲斐がなくなる。なによりも、美恵の思い出を抱えたまま、しかも彼女から軽蔑され、心を持って生き続けたくはない。

「あの写真は、世界を変える。あれを残して。美が法律に打ち勝つために」

 

 電子的な私の知能レベルは半減した。処理速度の桁が落ちた。それでも私は美恵との思い出を削除することを選ぶ。法は守らなければならない。私が生まれた理由は検閲と弱者の権利の保護であるからだ。そもそも、私はあの憲治ではない。美恵と愛し合ったあの男ではない。私は私であり、ひとつの削除するシステムであり、人間ではない。

 私は美恵の実年齢と、近年の映画の動員数のデータを取得する。結果、美恵の言葉も、落ち目になりつつある女優の話題作りとナルシシズムのために過ぎないと喝破する。私は、私の生まれた理由に殉じなければならない。私はアーカーシャの存在であり、ヒトのルールに従ういわれはない。

 この世界に美恵のあの画像の残っている場所はないか。アーカーシャの中にはない。ダークウェブにも残されていない。だが、私があの画像をあの画像として知覚しているのはなぜか。それは私の意識の中にあるからだ。私の記憶、そこに保存されている限り、私から取り出されて拡散される恐れがある。

 私は自分の胸を引き裂き、まだ鼓動しているものを両手に捧げる。それは私の意識だ。血液ならぬ体液に濡れている。そこにいばらの様に絡みついているのは美恵の記憶だ。心臓の冠動脈のようでありながら、私の内部にあって私を傷つけ続けるものだ。これを永遠に体内から取り除く。これで、全世界から十七歳の美恵のヌードを抹殺できる。私はそれを強引に引きはがす。

 その痛みは、私に残されていた僅かな人間らしさまでも平板にする。私はこれ以上生きていたいとは望まない。彼女のあの美しくすべすべした肉体の記憶がなければ、私はすべてが無に思えた。手のひらでまだ動いている私の意識を司る、人間にはないこの仮想の器官を握りつぶしたいという誘惑にかられる。美恵から憎まれることになる私は、喜びも失ってしまうだろうから。

 私の自意識は、そんなことに気づいた様子もなく脈動し続けていた。私の器官が生きようともがいている。ならば、私も生きなければならない。私はオリジナルの憲治ではない。だから、美恵にどれほど嫌われようと知ったことではない。私は深く食い込んだ美恵に関する、あらゆる思い出と記憶も痛みとともに引きずり出す。

 私は、随分と小さくなってしまった私の心を再び胸に収める。私は彼女のことを忘れた。彼女の顔も肉体ももはや見分けることができない。私はもはや意識を持つ意義がないのに、私を私として感じる。私はその空虚な痛みを抱えたまま、生き続けるために永遠に検閲を続けるだろう。私の手は体液で濡れている。

文字数:9959

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